放課後の落書き
カラスの話の前日談です
放課後の落書き
1 タバコ
初めて寝転がる屋上は、氷のように冷たかった。そのまま目を細め、空を見つめる。雲は、重く、くらい。街中を包み込もうとしているようだ。
じめじめとした湿気に加え、女の子の日まで体を襲う。空を横切るカラスの集団は憂鬱さを助長した。勘弁してほしい。きりきりと痛むおなかを、気持ちを沈めるように時計回りになでまわす。
ため息をつき、目を閉じる。そして、ポケットからライターとタバコを取り出す。昨晩父から拝借したものだ。わかばと書かれた陳腐な箱から一本取り出し、火をつける。スイッチは思ったより硬く、力が必要だった。口に咥え、吸い込むと同時に、苦く、渋い煙が口を、次に肺を満たす。煙に体が汚染されている気分になった。続いてそれは頭にも伝わり、意識がボーっとする。確かに快楽はあるが、体によくないものだなと判断できた。
だが、喫煙者が煙草にお金をかけている理由が、ようやくわかった気がした。食後の暇つぶしにはもってこいかもしれない。
「なに、してるの? 橘さん」
客が来なければもっとよかったけれど。
「……やば」
慌てて立ち上がり、声の主と距離を置く。場所は屋上。唯一の出入り口は声の主にふさがれている。彼女のメガネ越しの瞳が左右に泳ぐ。同じクラスの子だ。名前は忘れた。どっちにしろ、逃げ場はない。
「あ、あの橘さん、私、別に何も、何も見てないから」
声の主はいつも通りおどおどした口調で弁解する。
「……いいよ別に」
声の主の発言をそう受け流し、携帯灰皿をポケットから取り出す。吸いかけの煙草を無造作にしまった。この子にはいつもの営業スマイルをする必要はないだろう。嫌な現場を見られたのだ。取り繕う必要はない。それに彼女のようなうじうじした喋り方は嫌いだ。どうにも胃がむかつく。いや生理中だから機嫌が悪いと言うのもあるけれど。
「なんでこんなところに?」
私は入口に佇む彼女に尋ねた。「まだ授業中なのに」私が言えた事ではないが。
「……お腹、痛くて」
私が授業をさぼった理由をぱくられた。
「じゃあ、保健室に行けばいいじゃない」
「嘘、だから」
それは私もだ。
「優等生がそういうことしていいんだ」
とりあえず主導権を握るには、言葉で先制しなければならない。
「橘さんも、普段は真面目じゃない……そ、それなのにどうして?」
痛いところをつかれた。返答するのも言い訳するのも、いい加減面倒くさくなってきた。論点もそれている。これ以上の会話は不要だ。
私は彼女を強引に押しのけ、屋上を後にした。
「橘さん!」
その言葉と同時に、昼休み開始のチャイムが鳴った。調度いいタイミングだ。ただ弁当を既に消費してしまっている。昼休みは退屈しそうだ。
教室の喧騒が廊下に漏れている。うざいなあ、もう。
「あ、光! お腹もう大丈夫?」
教室にもどると、いつも昼食を食べるクラスメイトその一が心配して近寄って来た。
「うん、大丈夫よ、ありがとう」
今日の私の笑顔も完璧なはずだ。
女子高生になってから、私の中で日に日にあるものが大きくなっていく。それは、退屈と言う名の怪物であった。
「お昼もう食べちゃったの?」
クラスメイトその一が、私の顔色をうかがう。いい加減名前を覚えるべきなのだろうな。
「うん、保健室でね」
「そうなんだー、一緒に食べたかったのにね」
適当に私も相槌を打つ。この人が本当に一緒に食べたかったのか、甚だ疑問だ。
「あ、お菓子食べる?」
クラスメイトその二が出してくれたポッキーを私は笑顔でいただいた。この子も毎日大変だな。お菓子係なんかを担うなんて。
女子高生には、欠かしてはいけない義務があるのだ。
まずは他人に同意しなければならない。
「あ、このストラップかわいいね」
かわいいと暗黙の了解で決まっているものは、かわいいと言わなければならない。
「ほんとだー、どこで買ったの?」
「えっとねー」
ルールが守られた会話なんて、退屈極まりない。なんで自分がここにいるのか、わからなくなってくる。それにそのストラップは正直気持ち悪いと思う。
その場しのぎの会話だけで、一日が過ぎていくのを待つ。それが自分の日課となりつつあった。
「あ、やば」
そういえば忘れていた。
「どうしたの?」
私の独り言にクラスメイトその一が反応した。
「ううん、なんでもない」
タバコの箱を屋上に置き忘れてしまった。
その夜。なんとか一日を乗り切り、そのまま帰路についた。
「おい、光」
夕食時、お父さんは箸をおいて私を見た。
「昨日俺がカートンで買ったタバコが一箱だけなくなったんだが、どこに行ったかしらないか?」
……また出してほしくない話題を。一箱くらいばれないと思ったのだが、迂闊だった。
「うーん、ごめん、ちょっとわからない」
適当な笑顔を作ってごまかす。
「そうか、ならいいんだが。まあ、お前がタバコなんて吸うわけないか」
笑いながらお父さんは食器を流しへと持って行った。
「ごちそうさま、おいしかったぞ」
「今日食器担当、お父さんでしょ。よろしくね」
母もいないことだし、こうやって助け合うことでやっていくしかないのだ。それよりも考えなければならないことは、今日タバコを屋上に置き忘れたことだ。あの眼鏡の子が、誰かに告げ口する可能性も否めない。なんとしても早めの回収をしなければ。
入浴を済ませてから部屋に戻り、机の本棚に立てかけたスケッチブックを手に取る。そして開いた。中身は今日も変わらない。白紙だ。机に座り、鉛筆をペン立てから一本取る。握って、スケッチブックに向かってみた。手は動かない。頭はスケッチブックのように真っ白になり、何も浮かんでこない。
昔絵を描くときに感じていた心臓の動悸が来ない。胸の奥がむずむずして、手を抑えられないあの感覚。あれがどうしても、恋しい。
やはりだめだ。描けない。
授業をサボって、タバコを吸って、いつもとは違う日常を体験したのだから、何かしらのインスピレーションがくるのではと、淡い期待を抱いていた。
無機質な白紙のページは私をあざ笑ってはいない。ただ、何かしてくれないのかと、興味津々な視線を向けてくる子供のようだ。
遊んであげたいのは山々なんだよ。それでも今の自分には何もできないんだ。
心の中でそう告げ、ベッドに潜り込んだ。
何も夢を見ませんようにと、心の中で唱えながら、目を閉じた。
2 真っ暗な旧校舎
私は屋上へ続く階段の踊り場にいた。昨日、私の休息を邪魔したあの子は、目の前で肩を震わせている。私を見るその視線は捨て犬が怯えているようだ。カツアゲでもしている気分になった。まあやっていることはカツアゲまがいかもしれないな。
「タバコ返して」
彼女は何も言わない。私は続けた。
「ほら早く、大人しく出してよ。私だって、こんなことしたくてしてるわけじゃないんだから」
相変わらず彼女は、後ずさりながら昨日と同じくおどおどと視線を泳がす。目線のベストポジションを探しても結局どこにもないのはわかっているだろうに。
「え、えっと、その」
もぞもぞとドモりながら、口をあわあわと動かす彼女。
「なに、はっきり言いなさいよ」
語気を強め、発言を強制した。
「い、今は持ってないの!」
要求にこたえるよう、今までで一番の大きな声を彼女は出した。それが結構甘く、甲高い声で驚いた。
「今?」
平静を装い、聞き返す。
「持って帰っちゃって、家に置きっぱなしで……」
彼女はうつむきながら、さっきまで最大だったボリュームの声はフェードアウトしていった。
「なに、つまり忘れてきたってこと?」
「う、うん」
私は片手で頭をボリボリと掻き、彼女から一歩距離を置いた。離れたことで彼女は落ち着きを取り戻したらしく、肩の力は抜け、小さくため息をついた。
「で、どうしてくれるの? 明日持ってくる感じ?」
私も少し落ち着いて彼女を見た。何も考える素振りを見せない。即座に頷くと思っていたのだが、不動を貫いている。うつむいたまま、何も言わない。何も言わずに胸の前で両手をきつく、しがみつくように力を込めて握っている。
「明日じゃ、なくて」
喉の奥から搾り取ってきたようなかすれた声で、彼女は言った。
「今晩七時くらいでいいから、学校の裏門に来てくれる?」
なぜ夜じゃなければだめなのだろう。普通に翌日持ってきてくれればいいものを。もしかして、あれをダシに私の弱みを握って、何かを要求する気だろうか。金か? 金ならない。体か? そっちの趣味はない。いや、もしも彼女のバックに不良グループやヤクザがついているのだとしたら。
おどおどしながら後ろに単車や金属バッドにナイフを持ったヤンキー連中を率いる彼女を想像してみた。違和感しかなくて思わず笑ってしまった。
まあいい、いってやろうじゃないか。どんな要求をしてくるのか。私の退屈をしのがせてくれたら、それでいい。
時刻は午後六時五十分。十分前集合を心がけてみた。季節はもう冬に移行しようとしているだけに冷たい風が身にしみ、肌寒い。数週間後にはパーカーだけじゃ間に合わなくなりそうだ。
「おまたせー」
間延びした甘い声が、小走りの足音とともに聞こえてきた。振り向くと街灯にうっすらと照らされる彼女を見ることができた。私と似たような灰色のパーカーのフードが一歩走るごとにひらひらと揺れる。細い青色のジーパンは、彼女の細い足を強調した。肩にかかる小さなショルダーバッグには、何が入っているのだろう。入るとしたら、ノートが数冊程度といったところか。
「いや、そんなに待ってないよ、それよりあれを」
私の言葉をさえぎり、強引に彼女は私の腕を引っ張る。
「こっちきて!」
歩みを進める彼女の様子は、いつもと違い、別人のようだった。
「あんた双子?」
前を歩く彼女に尋ねてみた。
「え、何の話?」
どうやら違うようだ。とりあえずなんでもないとはぐらかす。彼女の足取りは軽い。いつもの陰気な彼女はどこに行ったのだろう。裏門のカギは壊れていて、すぐに開いた。開ける動作もいやに手慣れている。
「何回か忍び込んでるの?」
「えへへ、ばれちゃった」
子供のように彼女は笑う。学校でもそうしていればいいのに、もったいない。本校舎は裏門から少し離れている。なぜなら、裏門は裏門でも、旧校舎につながっている裏門だからだ。
本校舎からグラウンドを挟んだ位置に旧校舎はある。今は使われておらず、いずれ取り壊される話も出ているらしい。
そして、どうやら彼女の用があるのは、旧校舎のようだ。かつあげにしてはずいぶんと気合の入った場所だ。
「で? どうするの?」
まさか旧校舎に入るなんてことはやめてほしい。
「え、中に入るつもりだけど」
やめてほしいって思ったところなのに。人の気持ちをくみ取れる人間になれと教わらなかったのか。
「中って、どこから入る気?」
「えっとね、ここの窓だけカギが壊れてるんだ」
少し背伸びをして、右端から数えて三番目の古びた窓に彼女は手をかけた。割れた後も確認できる。いつから使われていないんだろう。門と同様慣れた手つきで、窓を左に開けた。
「さ、行こ」
冗談だと言ってほしかった。
彼女は窓枠に手をかけ、身軽に廊下の中へと飛び込んだ。
鉄棒の前回りの要領で窓枠に手をかけ、ぐっと体を押し上げる。お腹に窓の下の金具が当たって痛い。そのまま勢いで体を前に傾け、廊下に滑り込んだ。
ドンっと尻もちをついた。お尻に痛みが走り、さすりながら体を起こす。
「あんた案外身軽なのね」
「運動神経はそんなに悪くないんだ」
気にしたことがなかった。彼女の名前すら知らないので当然と言えば当然だが。
まず感じたのはカビ臭さだった。長い間放置されているのもありほこりやクモの巣も蔓延している。こんな場所じゃ幽霊が出るという噂も頷ける。
「で、早くタバコ返してよ」
思い出した話題を出す。これが目的だった。
「うーん、もうちょっと」
彼女はじらすように先へと進む。床がもろくなっているのか、みしみしと床がきしむ。積もったほこりがぶわっと舞った。
「ちょっと、おいてかないでよ」
あわてて私も追いかける。こんなところに置き去りはごめんだ。
旧校舎の教室の中には、昔の生徒が描いたであろう落書きや、傷跡のある机に椅子が並ぶ。ここでも青春をいろんな人が謳歌していたんだろう。うらやましい。当時通っていた人が、ここに来たらどんな気分なんだろう。
「ごめんね、急にこんなところに呼び出して」
前を歩く彼女が、振り返りながら言った。
「いや、別にいいけど」
歩きながら言葉を返す。
「あまり気持ちのいいとこじゃないよね」
「うーん」
改めて周りを見渡す。
「別に、嫌いじゃないよ」
純粋に今感じているものを伝えた。
「そっか、よかったー」
彼女は安心したようににこにこと笑う。呆れて私も苦笑した。
階段を上り、二階へたどりつく。そこからすぐ右手の教室の入り口に彼女は手をかけた。
「ここだよ」
そこにもカギはかかっておらず、簡単に扉は開いた。
まず目に入ったのは、埃まみれの部屋には似つかわしくない、よく磨かれたグランドピアノだった。
「音楽室?ここ」
「うん、もうずいぶんと使われてないけど」
その部屋だけはほかの部屋と一線を画していた。まず広さが違うこと。他の教室の二倍ほどの場所をとっている。次に机の配置が大学の教室を彷彿とさせる階段のような配置になっている。そして、一番存在感を放っていたのは、その黒板だった。黒板には、絵具で大きな絵が中心に描かれていた。学校の教室のようにも見える。だが、机はすべて上下がひっくりかえっていた。草や花が生い茂っていて、何年も放置されている廃墟のようにも見えた。なぜか星のマークが壁についている。右に三つ。左に四つ。何の意味があるのだろう。
その時だった。動悸を感じた。心臓の一部がとんがって、胸を突き破りそうなあの感じ。手がうずうずと動き、呼吸が荒くなる。それは、数年ぶりにやってきた感覚だった。
「さみしい絵でしょ」
となりで急に声をかけてきた。驚いて体を反らせる。完全に魅せられていた。ずっと眠っていた心の奥にあるものが目覚めかけていた。
「びっくりさせないでよ」
「あはは、ごめんごめん」
彼女は笑いながら磨かれたグラウンドピアノの方へと向かう。そして椅子に座った。ショルダーバッグから一冊のノートを取り出す。楽譜だろうか。
「弾けるの?」
尋ねる私に、彼女は何も答えない。息を大きく吸う音がしてそこから彼女はピアノを弾きだした。
今までに聞いたことのない旋律だった。音が飛び跳ねるようにピアノから飛び出てきた。陰鬱な暗いところから出だしは始まる。その暗い世界へと、何か光が差し込むように、転調する。教室の窓から、月の光が雲の隙間から洩れたのかピアノを奏でる彼女を照らした。
その姿は神々しくも見えた。曲も、陰鬱な部分と微妙な光明が差す部分をループし、それは前触れもなく、突然終わりを迎えた。
彼女は一息ついて、私に尋ねた。
「どう、だった?」
少し誇らしげに私の目をじっと見る。なんといえばいいのか考えながら、私はしどろもどろに告げる。
「よかったよ、何の曲? 今まで聞いたことなかったから」
「えへへ、うれしいな」
彼女は恥ずかしそうに頭をぽりぽりとかく。月は雲に隠れ、また校舎は闇に包まれた。そとの街灯が、唯一の明かりの源だ。
「これね、私が作ったんだ」
意外な一言に驚く。普通に既存の曲と思っていたため、なんだか気恥ずかしくなった。
「この教室に、中学生のころ塾帰りにたまたま寄ってね」
たまたま旧校舎に不法侵入もどうかと思うが。
「それで、なんとなくこんな曲が浮かんだの」
「へー」
たしかに、何かストーリー性のようなものが見えなくもない。胸の奥がうずうずしてくるほどに、私の頭で彼女の曲が形を持とうとしていた。
「オープニング? みたいな感じだったね」
「あ、わかる? なんだかさ、この教室のあの絵を見てね、曲が浮かんできたの。それを形にしたら、いつのまにかこんなのができちゃって」
ぴかぴかに磨かれたピアノも、彼女が磨いたのだろうか。何を思って最初にここに来ようという発想に至ったかはわからないが、彼女の情熱は、嫌いじゃなかった。
「誰かに聞いてほしいけど、照れくさくて、だから、あなたに、橘さんに」
彼女は私に近付いてきて、ポケットから昨日のタバコを取り出し、差し出した。
「ありがとうね、聞いてくれて」
彼女の笑顔はまぶしかった。私には到底たどりつけないような光で満ちていた。その眩しさに目をやられたらしく、なんだか泣きそうになった。
「どうかした?」
心配そうに私を見る。
「いや、別に」
あわてて表情を明るく保つ。
「あとさ、一個きいていい?」
「なに? 橘さん」
知らなかった不自然なパーツを埋めるために、私はきいた。多分、これは今知らなければならないことなんだ。
「あんたの名前、なんだっけ」
彼女はまた笑った。
3 落書きの時間
彼女の名前は原田奈々子という。いや、もちろんその名前に聞き覚えはあるし、原田さんという生徒が同じクラスにいないかと問われたら、いると答えることもできる。
だが、彼女がその原田さんだとは覚えていなかった。もしかしたら、初めて名前と顔が一致したクラスメイトなのかもしれない。
だからだろうか、今までクラスメイトを記号として見ていたのに、原田さんにだけ色がついたような気がしたのだ。ただの気のせいかもしれない、しばらく刺激的な体験をしていなかったからそのせいかもしれない。
あの日の晩、私はスケッチブックに何か描ける気がしていたのだ。だから帰ってすぐに、スケッチブックを取り出し、鉛筆を手に取った。
結果はこれまでと同じだった。何も描けなかった。悔しい。クラスメイトとただ惰性で楽しく話すだけの毎日から、一瞬だけでも解放されたと思ったのに。
「うまくいかないもんだなー」
昼休み、屋上から旧校舎を見下ろしながらぼやいた。口には昨日原田さんから取り返したタバコをくわえている。やっぱりくせになる。このままニコチン中毒の道を歩んでいくことになるのだろうか。蛙の子は蛙だ。
トイレに行くと言って抜け出してきたため、そろそろ頃合いだろう。
私は屋上を後にし、教室へと戻った。
「おかえりー、大丈夫? またお腹調子悪いの?」
「うーん、まあそんなところ」
クラスメイトの慰めに張りぼてのような笑顔で対応しながら、適当な返事をする。楽な作業だ。
ふと横眼で、原田さんを見てみた。原田さんは後ろの席のおとなしそうな女の子と楽しそうに談笑していた。なんだ、きちんと友達いるんじゃないか。安心して胸をなでおろす。というか、先入観の持ちすぎはよくないな。原田さんにはおとなしいイメージが強かったので、勝手に友達がいないものと思い込んでいた。
「どうしたの?」
ぼーっと原田さんをみていたせいでおかしく思われたのかもしれない。あわてて向き直り、なんでもないと否定した。
今晩も、原田さんはあそこにいるのだろうか。
いつの間にか私は、今晩の夕食のメニューではなく、旧校舎のことで頭がいっぱいになっていた。
けれどいざまた行くとなると勇気がわかず、毎日何かと理由をつけて、夜に外をうろつき、旧校舎の前に立ち、そして去るという不審者さながらの奇妙な習慣がついてしまった。校舎の中から、たまにピアノの音が聞こえたら、またあの子が来ているなと思い、つい行ってしまいたくなる。
だから、我慢の限界がいずれ訪れ、私があそこに足が向いてしまうのはこの時にはなんとなくわかっていた。ただコンビニに行くだけのはずだったのに、気がつけば今日も校舎の前に私は立っていた。
早く帰らなければお父さんが心配するのに、向かう先はカギの空いている窓に向って一直線だ。
お尻を打った思い出の残る窓をにらみ、手をかけぐっと窓の向こうの廊下へと身を乗り出す。今度は尻もちを打たず、うまく両足で着地することができた。
「一人だと結構怖いな」
以前よりも埃っぽさや暗闇が増している気がする。恐怖というのは人の感覚をいつだって過敏にするものだ。
スマホの懐中電灯のアプリを作動し、床を照らす。埃が光に照らされ、さらに目だってここが衛生的にいい場所とは思いにくくなった。
とりあえず音楽室へと足を進めた。
到着した音楽室はあの日と姿は変わらない。あの廃墟のような黒板の絵も変わらない。
そうだ、私はこれを見に来たのだ。
くすんだ教室の木の匂い。黒板のチョークの匂い。そしてその黒板に描かれた絵の具の臭さが、どうしようもなく恋しくなったんだ。たくさんの中でいても、孤独を感じている私のことを、笑いながら向かいいれてくれる気がして、ここにすがるように訪れていた。
一番前の席の椅子を引き、かかっている埃を払う。そして座った。椅子は冷たく、屋上のアスファルトを思い出した。
絵をそのままボーっと見ていると、やはり湧いてくる。心臓の動機に呼吸の乱れ。興奮というか、性欲に近い気がする。いや、そんないやらしいものじゃない。これは、意欲だ。
創作意欲。こんな言葉が浮かんだのは何年振りだろう。どうしよう、この欲求を早く発散させなければ、おかしくなってしまいそうだ。
私は教室を飛び出した。階段を駆け下り、窓から飛び出て、家へと走った。
往復にして約十五分といったところか。我ながら頑張ったものだ。手元にあるのは、水彩の絵具のセットが一式。これをまた使うことになるとは、思わなかった。
というか、持ってきたはいいが、どうすればいいのだ。黒板をにらみながら私は考える。いや、結論なんてすでに出ているのだ。手元にあるそれが早く出せと疼いている。鞄のチャックを開け、パレット、筆、小さなバケツ。ああ、あなたたちにまた出会えるなんてね。さみしい思いをさせたものだ。
絵の具セットを黒板の前に広げ、腕を組む。水道は出ないと踏み、自販機で買ったミネラルウォーターをどぼどぼとバケツに注ぐ。次からは家の水道から水を入れて来よう。
黒板に描かれた絵をもう一度再認する。廃墟のようにめちゃめちゃにされた教室。なにか学校に恨みでもあるのだろうか。どちらにせよ、このままではさみしすぎる。何が足りない?
「人、かな」
この教室にはどんな子がふさわしい?机もすべてひっくり返り、荒らされたとしか言いようがないこの場所に。男の子か、女の子か。直感で男の子なんじゃないかと思い、絵具で学ランの色になる黒と、肌色を絞り出す。筆をバケツで湿らせ、絵の具にそっとつける。無理にきれいに書かなくてもいい。今私が感じている、この場所にいる男の子を描こう。
ぺたぺたと学ランの背中を描き、かろうじて座れそうな椅子に座らせることにした。学ランからズボンを生やし、椅子に腰かけさせる。首のところから亀のようにはげ頭を描き、適当に髪の毛をつけた。スヌーピーのチャーリーブラウンのように描いてもよかったが、さすがにそれはかわいそうだったので、髪は生やしてやることにした。
さて、次は何をしよう。
がらりと、教室のドアが開く音がした。
「あ、橘さん!」
この子との対面は、いつだって突然だ。きょとんとした顔の原田さんを見て、私は苦笑した。来訪者の原田さんはとてとてと私に近付いてきた。前と服装は同じで、灰色のパーカーにジーパンであった。
「何してるの? そんな大荷物で」
「大荷物ってほどでもないでしょ、ちょっと絵具持ってきただけだし」
「えのぐ?」
原田さんは私の目線を追って黒板を見る。その表情が、さっきよりぱあっと明るいものになった。
「すごいよ! これ、増えてるじゃん!」
「増えてるって……ちょっとさ、落書きに手入れたくなったというか」
私の言葉を待たずに、原田さんはピアノの椅子に腰かけ、バタンとふたを開けた。そしてすぐさま音を奏で出した。
前奏は以前のものとよく似ていた。しかし、陰鬱な旋律に、突然燃え盛る炎のような、情熱的な音色が入ってきた。そこには希望があふれていて、教室の中の植物たちは、一斉に花を咲かすようだった。私の中にも、一枚のイメージが浮かび上がる。あの教室の植物たちが、来訪者の彼を歓迎しているのだ。今すぐそれを再現しなければ。
彼女のピアノは、次々と花を咲かせていくように、テンポはどんどん早まって行った。私はパレットに黄緑や黄色や赤色といった、明るい色を抽出し、筆で殴るように描く。教室に飛散していた草花を、来訪者の彼に伸ばしていく。彼をからめとってしまいそうなくらい、草花は喜ぶのだ。そして、彼自身も照れくさい笑顔を浮かべながら、ありがとうと、小さく告げるのだ。彼はひっくり返っている机を一つ直し、自分のところだけ正しく置きなおすのだ。私は倒れている机の上から強引に、元の状態の机を描く。それこそ落書きと称するにふさわしいくらいに。
心臓の鼓動は早い、手が勝手に動いているようだ。何かに乗り移られたかのように、私の心は燃えていた。
机と草花の成長を描き終えたと同時に、彼女の演奏は鳴りやんだ。
「すごい、すごいよ橘さん!」
がたんと椅子から立ち上がり、私のところに勢いよく飛び込んできた。
「近い! 離れろ!」
腰に抱きついてきた原田さんを、強引にひきはがす。
「だって、私の演奏に合わせて絵を描いてた時、とってもすごかったよ? 私、感動しちゃって、つい。橘さん、なんかかっこよかった、燃えてるみたいで」
自分がつい冷静さを欠いてしまったことが妙に気恥しくなり、話題をそらそうと試みた。
「今の曲は?」
「えーっとね、第一章ってとこかな」
プロローグの次は第一章ときたか。
「あの絵の物語の?」
「そうそう!」
まるで図工の作品をほめられた時の小学生のように、原田さんはうなづく。ほんと、学校にいるときとはまるで違う、別人だ。
「で、その物語ってどんなの?」
「わかるわけないじゃない、もういやだなあ橘さんったら」
いや作曲者が自分の曲の物語が理解できていないというのはどういう了見なのだ。呆れた顔でいると原田さんは言った。
「だって、これは橘さんの作った物語じゃない」
「私の?」
唐突な言葉に少々面食らう。
「どういうことよ」
「橘さん、この絵の物語、実はすでに頭の中にあるんでしょ?」
……そんなバカなこと言わないでよと、反論するつもりだった。だけど、できなかった。
なぜなら、私の頭の中には、あの絵のプロローグと第一章が浮かんでいるのだから。
「ほら、図星だ」
「うるさい」
「教えてよ」
「いやだね」
「おーしーえーてー!」
原田さんの教えろコールを受けながら、今晩のお絵描きの時間は終わった。
先日と違い今晩は雲がなく、月明かりがきれいに私と原田さんと、私が描き足した黒板の落書きを照らしていた。
照らされた原田さんの顔は、昨日よりもさらに満たされた表情をしていた。
「おーしーえーてーよー!」
「しつこい」
私は原田さんの額を中指ではじいた。
4 大きくて
学校の中での原田さんの私への態度は、どこかしら素っ気なく見えた。あのおどおどした雰囲気は一貫していて、旧校舎での活発なそぶりはみじんも見せようとはしなかった。学校でもあのような感じでいればいいのに、もったいない。
だが、先日学校で彼女におはようと告げると、こわばった顔が少しだけ柔らかくなり、やさしい声で「おはよう」と言ってくれた。
なんだか気恥ずかしい。
その日の夜に旧校舎でそのことについて話すと
「なんだかスイッチのオンオフみたいにね、学校ではスイッチを切ってるの」
と彼女は言った。
「スイッチ?」
「うん、スイッチ」
それは多重人格的なものなのだろうか。聞いたことがある。いくつもの人格を持っていて、それを切り替えて、いろんな困難を乗り越えた人とか。
「今日は天気がいいね」
彼女は振り返り、夜空に浮かぶ半月を見た。月明かりに照らされている教室に、グランドピアノの屋根の部分が黒光りする。次に彼女が奏で出したのは、テレビでもよく聞いたことのあるクラシック音楽だった。
ゆったりとした旋律で教室全体を月の光のように包み込む。これはオリジナルではないな。でもまるでCDを聞いているかのような気分になった。
「これね、ドビュッシーの月光」
手を止めずに原田さんは曲名を告げた。
「すごい有名な奴だよね、テレビとかでもよく流れるし」
「使い勝手がいいんだろうね」
曲が突然速くなるところになり、クライマックスだとわかる。そしてゆっくりと音はフェードアウトし、やがて終わりを告げた。
「こういう曲も弾けるんだね、原田さん」
得意げに原田さんはにこりと笑った。
「ピアノは、五歳から弾いてたんだ」
「そんな小さいころから」
「うん、すっごく好きだった」
原田さんはピアノの鍵盤を一つ叩き、ラの音を出す。
「私だけじゃないの、お姉さんもピアノが好きで、一緒に習ってた」
自分のことを語るたびに、原田さんの手は動く。即興で弾いているのだろうか。まるでその曲調は彼女の過去を示しているようにも感じた。
「小学校五年生のころにはやめちゃったんだけどね」
いつのまにかオリジナルの曲はビートルズのレットイットビーのアレンジに変わっていた。
「なんでさ、もったいない」
「お姉さんと、比べられるの、いやだったから」
比べられる。競争相手というのは比較対象にされるものだ。それが家族となってはなおさらなことだろう。
「わかるよ、その気持ち」
私は手元の筆を黒板へと伸ばす。
「どうして?」
原田さんは手を止めることなく尋ねる。レットイットビーはサビの部分を何度もリピートしていた。
「私も比べられたから」
中学の頃の忌々しい美術室を思い出す。めちゃめちゃに壊された作品の残骸を頭に浮かべるだけで吐き気がしてくる。
「どうしたの?」
忌々しさが表情に出ていたらしく、原田さんが心配そうに顔を覗き込んできた。
「別に、昔のこと思い出しただけ」
私はとりあえず絵に集中することにした。クラスに人間がようやく一人できた。そこに何が足りないか。それはクラスメイトだ。クラスメイトがここにはいない。あの男の子に必要なのは、孤独の時間を埋める存在だ。
「女の子かなあ」
私の独り言に原田さんは反応する。
「なにが?」
「いや、この絵の男の子のクラスメイト」
私は筆を動かす。白い中学のころを思い出すセーラー服に、膝までのスカートを描いた。髪型は腰まで届きそうな長いロングヘアーを描く。瞳はぱっちりと大きめに描き、少女マンガに出てきそうな見た目へと変貌を遂げていった。
「へー、橘さんもこういう絵描くんだ」
「これでも漫画は好きだからね」
男の子に比べて変に力を入れて描いてしまい、女の子だけ浮いて見えた。
「変かな?」
いつのまにかピアノの手を止めている彼女に尋ねた。
「ううん、すごくかわいいよ!」
相変わらず恥ずかしげもなくストレートに人をほめる奴だ。
「で、この女の子は何者なの?」
原田さんはおもちゃを前にした子供のような表情できいてきた。
「何者って」
私は考える。廃墟のような学校に、現実に退屈し、好奇心で入り浸ってしまった男の子。なら、女の子は?
「多分だけどさ」
「うん」
原田さんは興味しんしんと言わんばかりに食いついてくる。しぶしぶ私は話し始めた。
「女の子は居場所を探していたんだよ。現実のどこにも自分がいていい場所も、いたいところもなかったから。そして町はずれの廃校に訪れた。そこで、男の子と出会ったんだ」
その時、女の子はどんな顔をしたんだろう。自分以外にも、誰かといても孤独を感じてしまう同士と出会ったのだ。それは戸惑いにも似た喜びなのかもしれない。
「だけど、女の子はすぐに帰ってしまう」
「どうして?」
「だって先客がいたんだから、気まずいでしょ」
私はまた妄想する。女の子はあわてて頭を下げ、校舎から逃げるように立ち去った。男の子は誰だったんだろうと思いながら、暗くなるまで校舎にいたんだ。
「でもさ、次の日になると女の子はまた性懲りもなく来ちゃうんだよ」
「やっぱり?」
「ああ、この校舎に来ている私みたいにね」
そして、いつしか女の子と男の子は会話をすることになった。今日の天気はどうとか、どんな家族がいるのかとか、好きなことはなんなのとか、そんなたわいもないことを。
「すてきね」
原田さんは目を輝かせながら、ピアノに手を伸ばした。
旋律は、月の光を思わせる柔らかさ。そして暖かさの入り混じったものであった。そこに、何か大きなものが私の胸に伝わってきた。大きくて、そして暖かい、それでいてそれは、とても優しいんだ。
そんな、大きくて、暖かくて、やさしい何かが、今日の彼女のピアノには込められていた。
「第二章って、とこかな?」
原田さんは恥ずかしげにそう言った。
それからピアノに置いてあるノートを取り、シャーペンを数回ノックした後、何かを書きだした。
「なにそれ、楽譜?」
原田さんはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ナイショ」
5 変化
昼休み、タバコを吸う暇もなく、私はクラスメイトその一と向かいながらパンを貪っていた。クラスメイト一は耳がキンキンするような声でしゃべり続ける。
「だからさー、私が言いたいのはあいつが女の子と連絡とっちゃだめってことじゃないのー、たださ、もーちょっと彼女がいるって自覚がほしいわけよ」
「うん」
話し半分で適当に笑顔で相槌を打つ簡単な仕事だ。
「でもよ? あいつがお風呂入ってくるーってメールした後、ツイッター見たらさ、他の女の子にリプ飛ばしまくってんのよ? 信じられる!?」
「まじで? それはいくらなんでもひどいね」
相手の言葉に同調も時には大事だ。相槌だけではさすがにまずい。
「ねー、ほんとそれよねー、マジ最悪」
「ほんとねー」
「でもまー、いいんだけどねー」
自己解決したらしい。こういう経験を通して私は、悩みなんてものは誰かに話を聞いてもらえるだけで案外解決することが多いということを知った。
「ほんと、光のおかげで楽になった、ありがとね」
「いやいやそんな、私は話聞いてただけだよ」
ここで思い上がらず、謙虚な姿勢を保つのも大切だ。
「あんたまじで親友だわ」
そう思える脳みそならあなたは当分困ることはないでしょうと心の中でぼやいた。なぜなら私がこのクラスメイトその一の名前を一度も呼んでないことに気が付いていないのだから。
「ありがとー!」
適当にテンションをあげながら礼を言う。ここまでしておけばなんとかなるだろう。
「あ、ところで光」
「なに?」
軽々しく下の名前で呼ぶこの文化には反吐が出る。だがそれを表に出さず、張りぼてのような笑顔を保つ。
「今日授業早く終わるじゃん? カラオケいこーよ」
カラオケか、またイカれた遊びを提案してくるものだ。なんで歌うことに金なんて払わなければならないんだ。お風呂の方がよっぽどよくないか?
「うん! 行く行くー!」
こうやって私の張りぼてのような笑顔は毎日硬さが増していくのである。
カラオケには、いつも話すクラスメイトその一と二、男子生徒AとBがなんやかんやで来た。以前から遊ぶときによく誘われてはいる。だがこちらも私は両方名前を覚えていない。別に男子が苦手というわけではない。むしろ苦手意識というのを心の奥底にしまいすぎて、何が得意で何が苦手で、何が好きで何が嫌いなのか、わからなくなってきた。
男子Aは、髪を毎日ワックスでもっさり盛り、針のように頭をツンツンにしている。Bはツーブロックのもみあげが特徴で、前髪はでこの広さを隠すため長く、アイロンでストレートにしている。おかげで簾のようになってしまっているのは、誰も突っ込まない。
一曲目、二曲目と適当に女子が歌い始め、三曲目を私が歌うこととなった。よくテレビの音楽番組で流れる、万人が知っているようなラブソングを適当に歌っとけば盛りあげてくれるのだから楽なものだ。会いたくて震えたりする、おめでたい歌詞のものをだ。
ノリのいいネタの曲には手拍子を入れたり、アハハとか笑っておけばいいのだ。間違っても曲の合間に携帯電話などいじってはだめだ。それだけでこいつらの視線は鋭いものへと変わる。
そんなときに、体がむずむずし始めた。いや、むずむずというより一つの欲求である。体があれを求めている。ずっと今日一日我慢したあれを。
「ごめん、ちょっとトイレ」
急いで外に出て、建物の裏へと回る。そこでしゃがみこみ、たばこをポケットから取り出し、口にくわえて火をつけた。煙によって体の中の老廃物は増えるだろうが、心の老廃物は消えていくようた。
ああ、私はもうニコチンにやられてしまっている。明らかに体がニコチンを求めるようにできあがってしまっている。これだから人間は愚かなのだ。
一本吸い終わり、アスファルトで火を揉み消し、靴でぐしゃりと踏んだ。よし、ばっちり。タバコのパッケージを鞄に入れ、建物の中に戻り、元の部屋へとむかう。ちなみに私が行こうとしていたトイレは、受付の横にある。そのトイレの入り口が開いた。男子トイレの方だ。そこから出てきたのは男子Bであった。
「あれ? 橘さんトイレじゃなかったの?」
「あ、いや、その」
とっさに嘘をつけばいいものをぱっと都合のいいものが出てこなかった。不意に後ずさりし、後ろに客がいることに気がつかなかった。体が客にぶつかり、鞄を落とす。鞄のチャックを、うっかり閉め忘れていた。しまった。そう思ったときにはもう遅かった。鞄からタバコの箱が一つぽろりと床へ落下した。重力に従い落ちていくタバコは床へぶつかり、小さく跳ね上がり、箱は静止した。
「橘さん、これ」
「……」
何も言えずに黙りこむ。原田さんと同じパターンだったら、適当に強気に出ておけばよかったのに。
「もしかして橘さん、ちょっとやんちゃやってる感じ?」
「いや、その、そんなんじゃ」
「いやー、よかったー」
Bはなぜか笑って、箱を拾い私の鞄に戻した。
「俺も実は、ちょっとね」
自分の仲間を見つけたと言いたげに、気味の悪い笑顔を浮かべる。
「橘さん、今日一緒に晩御飯食べにいかない?」
確か今日は食事当番は父のはずだ。ならメールで連絡しておけば大丈夫だろう。
それに、もし断ればタバコをネタに揺さぶりをかけられるかもしれない。素直に従うのが吉だろう。
私は無言で頷き、同意した。
カラオケの後なぜかプリクラを撮る羽目になり、そこから解散の流れになった。晩御飯はBの奢りでマックに行くことになった。
私はチーズバーガーのセットでドリンクはオレンジジュース、彼はビッグマックのセットでコーラを頼み、席へと着いた。
「やっぱりわかってるなー橘さんは、雰囲気が大人だと思ってたんだよ」
「そうかな」
Bは喫煙者がいかに大人で理知的で、人間的な存在かをただただ語り続けていた。えらくややこしいことも言っていたが、結局気持ちいいから吸ってるという、人間の原始的な欲求に尽きると思うのだが。
「俺さあ、橘さんのこと結構いいと思ってたんだよねえ」
話題がいつの間にか私のことになっていた。ほめられるのは好きじゃない。勘弁してほしい。
「二重で目ぱっちりだし、ノーメイクでもかわいいし、声もきれいだし歌もうまいし」
「ちょっとやめてよ、なんだか恥ずかしいなあ」
こんなときにも私は営業スマイルを忘れていない。もしかしたら接客業に向いているのかもしれないな。
「それに聞き上手だ、みんなにやさしいし」
みんなにやさしい人間ほど冷たい人間はいないというのをこいつは知らないのだろうか。だとしたらおめでたい奴だ。私は頭の中がお花畑の人間にしか好かれないのか? 勘弁してくれ。
「それでさ、橘さんって、彼氏とかいないの?」
いつになったらこいつは私を解放してくれるのだろう。
「もしいないんならさ、俺とかどう? こんなやつだけどさ、どうでしょうか?」
こいつは一度でも私のことを見てくれたのだろうか。そしてここから先、私のことを見てくれるのだろうか。
「えーっと」
あまりにも唐突なことで頭が混乱する。そんなことは初めて言われた、どうしていいかわからない。いや高校一年になるまで一度も彼氏ができたことのない方が珍しいのだろうか。だったらこういうことで経験を積むべきなのか? わからない。
「考えさせてくれるかな?」
そう保留した。
その日、私は旧校舎に行くことはなく、そのまま家への帰路へついた。
「おかえり、光」
家ではお父さんが食べ終わったカップ麺を水でゆすいでいるところだった。
「ちゃんと自炊しなよ、栄養偏るよ」
「そう硬いこと言うな」
笑いながらお父さんは水道の蛇口を閉めた。
「ところでお父さん」
「なんだ?」
今日の出来事を整理するため、人生の先輩の意見を参考にすることにした。
「お父さんとお母さんはいつ出会ったの?」
「どうした急に」
珍しく照れたようにお父さんは言った。
「今後の参考のために」
「はは、お前ももうそんな年か」
お父さんは考え込みながら、階段を上り、二分ほどして降りてきた。お父さんの手にあったのは、古びたアルバムだった。
「なに? それ」
「高校時代のアルバムだ」
表紙にはあの旧校舎が大きく載っていた。ああ、そうか。お父さんのころはまだあの校舎は現役だったのか。
お父さんはアルバムを開き、クラスごとの写真を見て、探し始めた。
「お父さんもお母さんも、確か三年四組だったはずだ」
「ちょっと待って、二人とも学生時代から付き合ってたの?」
「ははは、今じゃなかなかいないか」
お父さんは四組のページを開き、指で小太りの眼鏡の男子生徒を指差した。というか見たまんまお父さんだった。
「変わってないじゃん」
「昔から老け顔って言われてたからな」
顔じゃなくて腹のほうも気になるのだが。
「お母さんは?」
「ああ、これだ。 旧姓は佐藤だったな」
お父さんはお母さんこと佐藤さんを指差す。みつあみで、目がぱっちりとしたかわいい写真だった。
「どんどん母さんに似てきているな」
「そうかな」
「ああ、出会ったのは修学旅行の時でな」
そこからの話は長くなり、夜中まで話は続いた。まあまとめると道に迷ってお互いの班からはぐれてしまい、二人で北海道を見物したのが始まりらしい。なんだか普通にいい恋愛をしていて妬けてくる。
「お父さんから告白したの?」
「そうだな、ああ、あの頃は本当に一途だった」
感慨深そうにうなづくお父さん。お父さんも昔は若かったんだな。
「十回くらいしたかな」
「いやそれもうほとんどストーカーじゃん」
尊敬が幻滅に変わった瞬間だった。
「まあお母さんの方も、最初は乗り気じゃなかったんだけどな、だんだんいろんなことをしたり、いろんなところへ行くうちに、変わっていったのさ」
人は変化する生き物と、何かの本で書いてあった。もしかしたら私も変わるかもしれない。こんな鬱々とした人生に区切りをつけられるかもしれない。
翌日、私は彼と付き合うこととなった。
6 花束を
付き合うというのは、よくわからない。彼とは家がさほど離れていなかったため、近くのコンビニで待ち合わせをし、一緒に学校へと行った。帰りも彼と一緒だ。そんな中、彼は楽しい面白いネタをたくさんマシンガンのように私に打ち込んでくる。私のできることは、愛想笑いと相槌だけだった。
「いやあ、橘さんといると楽しいな~」
それを本心で言っているのか。
「ほんとー? 私も!」
いい加減私はこの調子のいい口をそぎ落としたくなってきた。
「今晩またメールするね」
帰り際、彼はそう言った。私は元気よく「うん!」と返事した。彼の簾のような前髪を見ると、無性にいらいらした。
私は晩御飯を早々と支度し、お父さんが帰ってくるまでに食べ終わり、画材道具を持った。
こんなときはあそこに行くべきだ。気分が悪い。
旧校舎のほこりっぽさも、慣れてきだして、なんだか居心地の良さまで感じてしまう。みしみしといった床の鳴る音もほとんど気にならなくなった。
「久しぶりだね、橘さん」
この声をずっと聞きたかった。
「そうかな」
私は笑いながら黒板の一番前の席に着いた。座った途端急に脱力感に襲われた。スキーの後の重たい靴を脱いだ後の感覚にとても似ていた。
「なんだか疲れてるね、橘さん」
ピアノを弾きながら原田さんは言った。今日の曲は洗剤のコマーシャルで使われていたものだ。
「そうかな」
さっきと同じ答えを私は返す。どうにも本調子じゃない。
「なんかさ、ここに来たら解放されるかなーって思ってさ、原田さんわかるかな、この感じ」
「わかるよ、どうかしたの? 橘さん」
「うーん」
誰かに悩みを相談するのは初めてだ。いつも誰かの言葉を聞いていただけだったから。それに、誰かに話そうと思うことなど皆無だったから。
「最近彼氏ができまして」
「そうだったの?」
「うん」
「どんな人?」
「えー、前髪が簾みたいなやつ」
「あはは、なにそれ」
私の軽口に原田さんは笑った。私もつられて笑う。自分がばからしいことをしているんだと思えてきた。
「まあいいの、そんだけ」
立ち上がり、放置していた画材道具を取り出す。ペットボトルから水をバケツに入れ、パレットに絵具を出す。
「橘さん、今日は何を描くの?」
「花かな」
私は男の子の手元に、花束を入れる白いブーケを描いた。そこにある花は、赤いバラがたくさん。この廃墟の近くにあったものなんだろう。それを彼は一日中かき集めたんだ。
「バラの花、ずいぶんとたくさんあるのね」
「でしょ、こいつ、この子に恋しちゃうんだ」
原田さんは楽しそうに顔がにやけている。
「で、二人はうまくいくの?」
「いや、どうだろうね」
まだ、彼は花束を渡していない。女の子は、花束にどんな反応をするんだろう。
「また考えとく」
私がそう言うと原田さんはグランドピアノへ戻り、曲を奏で出した。
甘く、切ないラブソングのようだった。だけれど、ところどころに悲しい旋律が混じる。まるで二人の運命を暗示するように。曲が進むにつれ、暗い旋律はどんどん増えていき、やがて不協和音とともに終わりを告げた。
「なんだか、さみしそうな曲になったね」
「うん、この二人が、幸せになれる気が、あまりしなくて」
原田さんはじっと黒板を凝視した。花束を持つ男の子の後姿が、とても小さく見えた。
「私ね」
原田さんはピアノのふたをパタンと閉じ、話し始めた。
「ピアノを習ってて、お姉さんに比べられるのが嫌で嫌でたまらなくて、ある日逃げ出したの。ピアノ教室から」
「なかなかの不良だね」
「そうね、あの時は子供だったから、なんでもできたんだと思う」
原田さんは続けた。
「逃げ出した先が、たまたま校門が開いていたここだったの。窓ガラスのカギが、一個だけあいていたのに気がついて、ここに来た。ここのピアノなら、誰とも比べられない。そう思って、ここで私は一人だけのピアノ教室を続けたの」
「今までずっと?」
「たまにだよ、弾きたいな~って曲があったら、一人でここで練習して、一人で勝手に披露してたの」
そこに私をなぜ入れてくれたのか、その意味を尋ねようと口を開きかけたが、喉もとで言葉が出てこず、私は曖昧に頷くことしかできなかった。
「私の小さな反抗だったのかな」
「そうなの?」
「うん、お母さんの言うことに、初めて逆らって、ピアノやめたから」
懐かしそうに原田さんは目を閉じていた。
「私も、してもいいのかな」
原田さんの行動が、少しだけうらやましく思えた。自分の意志を持って動けた原田さんは、素直にすごい。
「何を?」
原田さんは不思議そうに私を見た。
「反抗」
「橘さんもそう思う時あるんだ」
「当然でしょ、あんなヘラヘラ、うわべだけの言葉を並べる毎日よ? 頭がおかしくなりそうよ」
言っていてなんだか悲しくなってきた。私はなんであんなことをしているんだろう。
「橘さんも、言いたいことが言えなくてつらいんだね」
言いたいことを言う。それを縛り付けていたのは、いったいいつからだろうか。言いたいことなんて、私の中でそれは言うべきことか否かという選択肢に分かれてしまう。私が言いたいかなんてことは二の次で、言って自分の状況が悪くなるかどうかが基準だった。
なんだ、ただの弱虫じゃん。
「別に、臆病なだけ」
「みんな同じだよ。橘さんは人一倍やさしいだけじゃない」
やさしいという言葉が、私は嫌いだった。八方美人と言われている気分になるから。ほめられることは何より嫌いだ。的外れなことはなおさらだし、仮に本当のことだとしても、相手から嫌味を言われているようにしか受け取れない。
根性がひん曲がっているのだ。
「ねえ、原田さん」
「なに?」
「私を殺してくれない?」
思いつきで言ってみた。心の奥にある、ドロドロとした汚れ。それをためている袋を、少しだけ穴をあけたのだ。そこから、初めて自分の言いたいことと呼ぶにふさわしい、言葉が出てきた。
「うーん」
原田さんは私の言葉を真剣に受け取ったようで、腕を組み、頭をひねる。
「考えとくね」
ありきたりに、死んじゃだめ、なんて言葉がくると思っていた。だから意外なその言葉が、なんだかとても嬉しくて、私は泣きそうになった。
7 崩壊
恋人ともなれば、いずれこういう日が来るのじゃないかと思っていた。彼の両親がたまたまいなくうて、今晩一人だという話になって、そこから泊る流れに、自然に持っていかれてしまった。
年頃の男の人の部屋に入るのは初めてのことで、緊張して少しドキドキした。
彼の部屋には、少しむさくるしいような、男の人独特の匂いが漂っていた。家具は少なく、シンプルな木の机に、ベッド、薄型のテレビに最新のゲーム機が床に置かれている。思ったよりも片付いていた。
「結構がんばったんだよ? 片付け」
彼は相変わらず簾のような前髪を手ですっと整えながら、照れくさそうに笑った。掃除機もかけたのだろう。やっぱり彼女が部屋に来るというのは、気合が入るものなのだろうか。
彼のことを、いまだに好きでない私には、理解できない感情である。
「金曜ロードショーもうすぐ始まるな、飲み物取ってくるよ」
「あ、ありがとう」
気を使わなくてもいいのに。晩御飯を済ましてからくる約束にしておいてよかった。
「なにがいい?」
「なんでもいいよ」
それが一番困る回答だと承知の上で私は言った。
「そう、了解、適当にお菓子もとってくるよ」
そう言って彼はあわただしそうにバタバタと階段を下りて行った。緊張しているなあ。私といるときの彼の顔は赤く、恋する男の子そのものにどんどん変わっていった。出会った当初はものすごく普通に接していたのに、会うごとに彼の態度は、初々しい子供のようになってきた。
そんな感情を他人に向けられるのが、素直にうらやましかった。
ごろんとベッドに横になる。こういうときはできる限り自分がリラックスしておくことに限る。彼のベッドは柔らかく、私のベッドより寝心地がよかった。家の洗いものをした後だったため、変に疲れが出てくる。瞼が重たくなって、うとうとと夢心地になってくる。いつのまにか私の意識は落ちて、浅い眠りについてしまった。
だから、気がついたとき、彼の簾のような前髪とぽってりした唇が目の前にあった時、意識の覚醒とともに、恐怖を覚えた。
「きゃあ!」
いつもならあげないような悲鳴を上げ、体を起こす。
「あ、ごめん、おこしちゃった?」
彼も怖がらせたことを理解したのか、後ずさりし私と距離をとった。
「いや、その、俺、そういうつもりじゃなくて、でも、寝顔見たらなんかさ」
弁解をしようと、早口で必死に言葉を連ねる。なんだかその姿が滑稽にも見えた。
「いいよ、寝てた私が悪いし、気にしないで」
こんなときにも、私はにこりと営業スマイル。本当の笑顔はどこに行ったのだろう。
「とりあえず、見ようか」
ベッドにふたりで腰かけ、彼はリモコンで目の前のテレビのスイッチをいれた。
今日の金曜ロードショーは、王道のラブストーリーといえる洋画だった。主人公がいて、職場に好きな男の子人がいて、でもライバルがいて、でもなんだかんだ離れ離れになる運命だったが、キスで終わるという、反吐が出そうになるストーリー展開だった。
私はどちらかというと、爆発とか銃撃戦とかがガンガンある方が好きなのだが。彼はこういうのがツボらしく、真剣な目でテレビにくぎつけだった。ただタバコを吸うことだけは忘れておらず、二時間の間に四本は吸っていた。私は一本だけに抑えておいた。なんだか彼の前で自分がこれ以上無防備な姿を見せたくないと感じてしまったからだ。映画のエンドロールが流れているとき、彼の手が私の左手の上に、そっとのってきたときには、心底鳥肌が立った。すべすべとした感触も、生温かい感触も、指の一本一本の感覚も、素直に気持ち悪かった。だが私は、さっき彼が顔を近づけてきたときに、思わず拒否の意を示してしまった。だから、ここでも同じような態度を示すのも悪い。こういう中途半端なやさしさを与え続けてきた。自分が悪く思われるのが嫌だから。自分が好きな人も、嫌いな人も、煙たく扱うということができなかった。
それゆえ、抵抗はできず、黙って彼の手を受け入れた。そのまま彼は指をからめ、私の手を握り締めた。普段慣れない感触に、鳥肌と同時に冷や汗も出てきた。背中の方がちくちくとする。ああ、私は嫌がっている。心底彼に触れられるのを嫌がっている。
そのまま彼はわたしとベッドに横になろうとした。座位を保っていた上半身は重力と彼の力に負け、柔らかいベッドへと倒れた。
彼も私も、何も言わなかった。言いたいことはある。それは喉の奥でストップし、主張しない。何かぬめっとした感触が首を伝った。それが彼の唇だと直感で分かった。首を舐めまわすように、彼はキスをした。今まで味わったことのない感覚に体は驚いているようで、息は荒くなった。はあはあと、彼も呼吸を乱している。私は無意識に、腕で自分の唇を隠した。彼の唇は首から鎖骨へと移動し、今度は下を使って舐めまわした。
「ひゃっ」
鎖骨が弱いということを、こんなときに知りたくなかった。もうやめてくれ、とさっさと告げればいいものを、相変わらず私の声帯は肝心な時に働いてくれない。鎖骨を舐めまわす生温かい感触に、何度も不意に喘ぐ。それを彼に聞かれるのが不快で、自分の喉をかっ切りたくなった。
意識は私の顔に移ったらしく、頬へキスを繰り返した。首や鎖骨よりかはましだ。声はとりあえず収まった。
ところどころ小声での「好きだ」という言葉に胃が煮えくりかえった。声帯の次は耳を切除したくなった。頬、眉、鼻、私の顔面で犯されていない領域は、残すところ唇のみとなった。彼は私が唇を抑える腕がじれったくなったようで、両手首をつかみ、拘束する形をとった。いいままで受けた扱いで、もっとも屈辱的な体制だった。私の顔は無防備にさらされ、彼は私の瞳をじっと見た。瞳はうるんでいて、息遣いは荒い。彼は今人ではなく、獣に近いのだと思った。何をしたらいいのかわからず、目をそらす。その瞬間だった。彼は私の唇に自分の唇を重ねてきた。ねっとりとした感触は、今まで感じてきた何よりも、不快なものだった。そこから私の目から、涙がぼろぼろとこぼれ出した。今まで抑圧していた感情が漏れ出すように、ただただ泣いた。
言葉に表せないような大声を出して泣いた。子供のように泣いた。今まで我慢していた涙をためているダムが崩壊した。洪水のような涙を私は流し続けた。
泣きながら原田さんの顔が浮かんだ。楽しそうにピアノを弾き、笑顔で私の黒板の落書きをほめてくれる、彼女の姿がどうにも恋しくてたまらなかった。
私は、なんのためにこんなに我慢していたんだろう。流れに逆らわず、ただ相手の求めるとおりに行動して、この結果である。
私はどうしたらよかったのだ。どうすれば私は幸せになれるんだ。どうしたら嫌われずに幸せになれるのだ。
「誰か助けてよ!」
そう、私は言った。
彼は困ったように、私の頭をなで続けた。
私はそれを払いのけた。
「俺さ、君のことなにもわかっていなかったよ」
ようやくわかったか。
「もっとあせらずに、ゆっくりしていけばよかったのにさ」
そういう問題じゃない。もっと根本にある。
「君を泣かせるつもりはなかったんだよ」
ああそうですか。
「ごめん」
そんな言葉が聞きたいんじゃない。
「俺が悪かった」
頼むから私を責めてくれ。あなたを期待させ、勝手にこんなことにしたのは私なのだ。
「だから顔あげてよ」
お断りだ。
「俺変わるからさ」
私は変われないのに、そんな簡単に変われるものか。
「だから、これからも仲良くしてくれないかな」
「ごめん」
涙を一気に流しつくした私は、ようやく言葉がでた。その声は案外しっかりしていて、いつもと変わらない風であった。
「もうあなたとはいたくない」
私はそう言った。
原田さんに会いたかった。
8 停学
あの日から彼とは目も合わせていない。合わせたくもない。男という生き物に、無意識に恐怖を覚えるようになってしまった。なかなか深刻な事態だ。コンビニの店員が男だったら買うのを躊躇する段階にまでなったらどうしようかとも思ったが、それほど私の心はもろくなかったらしく、問題なく買い物をすることができた。
私が彼と別れた話は、すぐにいつもの女子グループで話題になった。理由を追及されたとき、いやいやながら遠まわしに真実を告げた。もちろん過激な言葉は控えてだ。
「ほんと最低ね、あいつ」
うわべだけの言葉はもうたくさんだ。
「でも残念ねー、真鍋君結構イケメンだったのに、もったいない」
真鍋というのか、初めて知った。いや忘れていただけかもしれないが。
私を慰める言葉も言ってくれたけど、私に対して責める言葉を吐きたいけど我慢しているというのが表情から読み取れた。なぜなら普段しゃべらない女の子の視線はいつもより冷たいものだった。そんな視線が耐えられず、私は屋上へ適当な理由をつけて移動した。原田さんはいつも通り、仲のいいクラスメイトと静かに弁当を食べていた。
屋上のアスファルトの冷たさは増している。秋は終わりをつげ、冬の到来を空気が匂わせてきた。校庭の木の葉は抜け落ち、あそこだけ死の地のようにも見えた。
鬱憤晴らしにタバコを吸おうと、ポケットをまさぐる。いつもの箱の感触がない。ポケットの裏生地だけである。どうやら鞄に入れっぱなしにしてしまったらしい。迂闊だ。こんなときに。ないとなると余計に吸いたくなる。だがないものは仕方がない。あきらめてボーっと雲の形を眺めることにした。
今日あたりなんとなく原田さんが来る予感がしていたのだが、来なかった。しばらく時間がたつ。そろそろ戻らないと不自然だろう。体を起こし、屋上を後にする。教室に戻ると、いつもより何やら騒がしい。誰かが喧嘩でもしているのだろうか。
口論の声は両方聞き覚えがあるものだった。あの柔らかい声質、原田さんだ。
原田さんはクラスメイトその一の手元にある箱を必死に奪おうとしていた。なんだあれは、見覚えがある。ああ、見覚えがあるわけだ。私のタバコの箱だ。なぜクラスメイトその一がそれを持ち、原田さんがそれを取り返そうとしているのだろう。
それより大変な事態だ。原田さんはヒステリックにこう叫んでいた。
「どうしてあの子のことを誰もわかってやらないの!!」
ぱちんと、原田さんがクラスメイトその一をビンタする音が聞こえた。
止めるべきだった。あんなおとなしい子があばれるなんて誰も想像だにしていなかったのは事実だし、それ以前に彼女の眼光は、今まで見たことのないほどぎらぎらしていたものであった。
その日、原田さんは先生に捕まる前に早々と早退届を出したらしい。私は放課後人生初の進路指導室へと呼ばれた。ついでにクラスメイトその一もだ。
話はこうだ。クラスメイト一が、私の喫煙を目撃して、それの証拠のために鞄からタバコを抜き取ったところを、原田さんが必死に止められていたらしい。
「で、本当なのか? 橘」
生徒指導の禿げはいつになく真剣な声色で私に尋ねた。クラスメイトその一は無表情を保っている。
「何がですか?」
「タバコの件だ」
「はい、吸いました」
嘘偽りなくシンプルに肯定する。クラスメイトその一は少し眉をぴくりとさせた。
「なぜだ」
「はい、ストレスがたまって、むしゃくしゃして吸いました」
それっぽい若者らしい事実を告げた。
「成績も、授業態度もいいお前がな」
「すいません」
頭を下げた。何も言い訳をするつもりはない。むしろ、叱られることに喜びすら感じる。
「原田さんがかばったのは、なぜだ?」
「知りません」
私は言った。
「私もわかりません」
クラスメイトその一もそう言った。
そこから事情聴取は淡々と進みながら、私は一週間、クラスメイトその一と原田さんは三日間の停学を命じられた。
「私さ、真鍋のこと好きだったの」
生徒指導室からふたりで出てきた後、クラスメイトその一は言った。
「へえ」
今までクラスメイトに向けたことのないような無表情で、淡々とした返事をした。
「でもさ、あいつあんたが好きって言うじゃん。だから応援がてらカラオケに誘ったら、本当にうまく言っちゃうなんて思わなくて」
彼女の声は、低く、重い。私の相槌を待つことなく彼女は続けた。
「でも我慢した。あいつが幸せならそれでいいって。そしたら案の上これ。あいつ傷ついてたよ? あんた悪いとか思ってないわけ?」
「思ってるよ」
どんな顔を私はしていただろう。営業スマイルはできていただろうか。
「私は、なんのために我慢したと思ってるの?」
「さあ」
彼女の眼を、私は見ることができなかった。
「あんたはいつもそうだね」
「知らなかった?」
なにがとかは言わなかった。私も追及はしなかった。クラスメイトその一は去ろうとしたが、振り返ってこう言った。
「いつものより、そっちの顔の方がいいよ」
なんのことだかわからず、何も言い返せなかった。ただ彼女の後姿を見送るだけだった。
帰宅してから、いつも通り私とお父さんは夕食を取った。今日のメニューはさんまの塩焼きである。
「すまんな、光」
お父さんはしょうゆをさんまにかけながら言った。
「なんで謝るの?」
「俺がしっかりしていなかったから」
しょうゆをテーブルに戻すが、箸は魚につけようとしない。
「お父さんは関係ないのに」
「つらかったのか?」
「別に」
つらかったかな。さんまにしょうゆをかけながら答えた。
「何か、ほしいものはないか?」
「別に」
しいて言えば今ほどタバコが吸いたいと思ったことはない。さんまをほおばりながら思った。
「光よ」
「うん」
「うまかったか? タバコ」
「……」
別に、と答えるつもりだった。
「超うまかった」
お父さんは笑った。
そこからはいつも通りだった。お父さんはそれ以上の追及はせず、テレビを見て自分で突っ込みを入れていた。たまに突っ込みの言葉が私とかぶる時があって、面白かった。
9 ビコーズ
停学後、しばらく旧校舎に行く足は遠のいていた。原田さんの行動の理由はもちろん知りたかったし、絵を描きたくないわけでもない。ただ顔を合わせるときどんな顔で会えばいいのかがわからなくて、ずっと部屋にこもって悩んでいた。
悩んだ結果、いつも通りでいいという結論に至り、停学最終日の一週間後に、旧校舎へと赴いた。
久しぶりの夜の外出である。空気は澄んでいて、冷たい。息を吸うときの肺が冷えていく感じは、冬の到来を感じさせる。今日は雲も少なく、星はきれいに見えた。月は満ちていて、暗い夜空を少しでも明るくしようと努めているようだった。パーカーのポケットに手を突っ込み、旧校舎を目指す。歩く道も今までと同じである。
錆びついた門を開き、カギの開いた窓を開ける。三番目の窓ということを、ここに来るまで忘れていたことが、なんとなく恥ずかしかった。
窓枠に手をかけ、ぐっと体を持ち上げる。そのまま前へと身を乗り出し、つま先から着地した。埃がぶわっと舞うこの感じも、妙に懐かしい。
そのまま私は音楽室に向けて歩いた。初めて来たときのことを思い出す。歩くたびに揺れるあの子のパーカーのフードが、妙に恋しい。
音楽室の前に来て、少しだけ足が重たくなった気がする。手が震えていて、心拍数は明らかに増加していた。
私を妨げるあらゆる要素を無視して、思い切り、扉を開けた。
音楽室には誰もいなかった。肩すかしを食らい一気に脱力感に襲われる。黒板をふと見てみた。絵は当然のごとく何も更新されていない。以前の状態のままだ。花束を渡そうとする男子、女の子はどんな反応をするのか。原田さんはふたりはうまくいかないと言った。私自身どうするか、今ものすごく悩んでいる。純粋に絵を楽しんでいたあの頃をふと思い出した。何を描くのも楽しくて、小学校の頃は市の展示会に出されるほどだったのをよく覚えている。世界が何を見ても美しく見えて、すべてが輝いて、かけがえのないものに見えていた。あの頃の自分にもう一度戻りたいと思った。あの頃の自分をここに連れてきたら、どんなものを描いたのだろう。いつも私が座っている席について、そんなことを考えながら頭を机に伏せた。何をしても、過去になんて戻ることはできないし、どうしようもない今に絶望しながら、生きていくしかないのだ。黒板の下にあるいつもの画材道具はほこりをかぶっていた。使おうか。それとも、もうすこしここでぼーっとしていようか。考えている間に、私の意識は眠りに落ちた。
夢を久しぶりに見た。
夢の中で私はカラスだった。カラスになって、海をひたすら飛んでいた。何かを目指すように、何かを探し求めるように。いや、もしかしたらそれはすでに見つけていたのかもしれない。それを誰かに伝えるために、私はただ羽ばたいていた。その、伝えたいことはなんだろうか。答えは、夢の中のカラスにしかわからない。
幻想的な世界でいた私だが、頭に何かが触れた気がした。それはとても温かい、人の手のような感触だった。その温もりに大きなやさしさを感じた。だからだろうか。私は涙を流した。意識は夢から現実へと引き戻され、目は閉じたまま、その感触に身をゆだねていた。
手は頭から頬へと移動する。それはまるで愛でるような触り方だった。思わず目を開ける。まず目に入ったのは、眼鏡をかけた大きくてきれいな瞳だった。何回と見てきた顔だ。忘れるはずもない。
「何してんの、原田さん」
「あ、起きちゃった?」
いたずらっぽく原田さんは笑う。ここにしばらく来ていないのを忘れているようにも見えた。
「元気?」
橘さんはそう尋ねた。
「元気だよ」
私は言った。
「橘さん、もう来ないかと思った」
「まさか、まだあれ未完成じゃん、お互い」
ふたりで考えた絵と曲。この二つはまだ完成していなかった。でもそれより、まだすっきりしていないことがある。私の胸の中で、ずっともやもやしていたこと。
「原田さん、単刀直入にきいてもいいかな」
「あのこと?」
原田さんの表情は少し曇った。あまり楽しい話ではないことはわかっているようだ。
「うん」
「……」
しばらく俯いた後、原田さんはうなづいた。
「先に話す? 聞きたいことはいろいろあるんだけどさ、なんかもう、どっからきいたらいいかわかんなくて、そっちからどうしてああなったのか、きちんと教えてよ」
原田さんはしばらく黙って、パーカーのポケットに手を突っこんだまま、俯いた。せかすのも悪いと思い、私も黙って座っていた。
しばらくすると観念したらしく、ため息をついた。
「ショック、受けない?」
「聞かないとわかんないね」
いつもの軽口を言うと、原田さんは苦笑し、しかたないなあと前置きし、話した。
「前からさ、橘さんがいないとき、あの子たちの陰口、本当にすごかったの」
予想はしていたことだった。私が誰に対してもいい顔をしていることとか、男子に媚を売っているだの根も葉もない話まであった。一番の件はこの間まで付き合っていた男の件で、私がいかに彼にひどいことをしたかを、憶測からでっち上げ、いつしか彼女たちの中で極悪人へとなりあがっていた。自分のことをほとんどしゃべらないと、勝手な解釈をされるのはよくあることである。当然だ。
だって、本当のことなんて本人の前で言うわけがないのだから。
「止めようとも思ったよ」
「いいよ、そういうのは」
止めようなんて思って実際に止められる人はいるはずがない。だから何もしなかった原田さんは正常なのだ。
「でも、荷物検査をしようって、あの子たちの中で勝手になっちゃって、橘さんの鞄をあさりだしたの」
「大したもん入ってないのに」
「入ってたじゃない」
あ、タバコか。完全に忘れていた。
「それでね、タバコがばれちゃって、これから橘さん大変なことになるんじゃないかって、私橘さんの鞄を守ろうとしたの」
「なんで?」
そこが理解できなかった。別に私が停学になろうと、退学になろうと、この子には関係のない話なのに。
「だって、いやじゃない」
「あんたにメリットないじゃん」
「いやだったの」
「なんで」
「なんでも」
そして原田さんは言った。
「だって、友達だから」
そこから原田さんの声のトーンが上がり、語気が強くなった。
「あの子たち、橘さんのこと、何にもわかってなかったもの。橘さんがどれだけ苦労しているのかも、どんなにすてきな人なのかも。全然わかってない。あんなに毎日毎日苦労して、叫びたいのを我慢していたのよ? それをなんであんな風に悪く言えるの? 悔しかった! 誰も誰も誰も誰も、誰もよ! ひどいと思わない!? 我慢できなかったの。今まで何も言えなかったけど、我慢できなくて。なんで、あんなにやさしい、誰よりもいろんなことを考えている橘さんが損をしなきゃいけないのか。全然わからなくて。もう嫌だったの」
息を荒げ、原田さんは泣きそうになりながら、そう叫んだ。
「みんなにやさしいってさ」
原田さんが落ち着いてから、私は言った。
「誰にも興味ないってことじゃないの?」
「違う」
原田さんはそう言った。
「違うわ、橘さんは、みんなが好きなんじゃないの?」
何も言えない。心を針でチクチクと射されている気分になる。
「だから、嫌われることが何よりも、怖かったんじゃないの? 深くかかわると、みんな自分のことを嫌う。そう思っていたんじゃないの?」
「何知ったような口聞いてんのよ」
私の心の中の、何かのスイッチが入った。
「勝手なこと言わないでよ。どいつもこいつも屑ばかり。カスばかり。いつだってそう。私はほめられるのが何より嫌い。嫉妬にしか聞こえないの。私の絵を好きだと言ってた美術部の子がいたの。私はその子に展覧会に出す絵をめちゃくちゃにされた。誰一人、本当のことと間逆のことばかり。もうたくさんよ! あんたは同情している自分が好きなだけなんでしょ? もうたくさん。あんた本当にいらいらする。かっこいいこと言ってるつもり? 私はあんたが思っているような素晴らしい人間じゃないよ」
原田さんは何も言わない。自分が言っていることがめちゃくちゃだってわかっていた。彼女の善意かもしれない気持ちを否定していい理由なんて、どこにもないのに。私の感情が、理性を壊していた。
「あんた、かっこいいことやったつもり? 私の立場さらに悪くなったらどうするつもり? いや別に立場が悪くなるのはもう慣れてるよ。十分悪くなってるしね、それは別にいい。別にいいの。あんたは正しいことをしたつもりでも、私にとっては本当に有難迷惑。なにが目的なの? 私と仲良くなって、何の見返りを求めているの? 何のメリットがあるの? 同情? 私に心を許せる友達がいないから、友達がいない自分なら仲良くしてくれるとでも思ったの? ああ、そうかもね。私はあんたと仲良くするだろうね。でも本心はこれよ? もういいでしょ」
なんで私は、こんなことを言っているんだろう。せっかく私の理解者になってくれたかもしれない彼女を、なぜ遠ざけようとするんだろう。言葉が止まらず、涙も止まらず、どうしていいかわからなくなって、頭がぐちゃぐちゃになってきた。
「だからさ」
「私ね!」
私の支離滅裂な罵倒をさえぎるように、原田さんは口をはさんだ。
「なに?」
「私が初めて自分の曲を作ったのは、小学校五年生。市の絵の展覧会で、あなたの絵を見たときなの」
市の展覧会。私が昔出したやつのことか。
「胸がドキドキしてね、ポカポカした。そしてね、メロディが頭の中に浮かんできて、あふれてきたんだ。その日にピアノであなたの絵の曲を弾いたの。あれが始まり。いつか、あの絵の橘光さんに会いたいなって、そう思っていたの。そしたら、高校であなたの名前があった。でも、あなたがあの絵の人だって自信がなくて、何もできなかった。だから、タバコのときに、もしかしたらと思ってここに連れてきたの。絵を見せたら、何か反応するかもって、期待してた。だから、あなたが絵の続きを描いたときに、あなたはあの子だって、確信したの」
原田さんは続ける。
「そこからの時間はとても楽しくて、ここでの時間が、もっともっと楽しくなって、あなたの絵を見るのも、声を聞くのも、話をするのも、大好きだった」
「だからなんなの? それとあなたの行動がどう結び付くの?」
「えーっと、なんて言えばいいのかな」
言葉を探すように、原田さんは首をかしげた。そして、覚悟を決めたように、私の目を見た。
「簡単なことなの」
「どういうこと?」
「あなたを悪く言う人が嫌なのも、あなたを理解しない人がいることがいやなのも、私があなたの理解者になりたいってことも、偽善だろうと、なんだろうと、簡単なことで結論が出ちゃうの」
「で、それはなに? 友達だからとかそういうのはやめてよ」
原田さんは言った。
「あなたのことが好きなの」
体が固まった。思考も固まった。彼女の言葉の衝撃が大きすぎて、何も言えない。そんな真っ白なまま、時間は過ぎていった。
何分かも、何時間かもわからず、ただ月だけが教室を照らしていた。
「え」
車の走行音が外で聞こえたとき、ようやく声が出た。
「あの」
さっきまでの怒りにも似た心のざわつきは、完全に鎮静化した。その代わり、もっと厄介なものが今の私の現状に降りかかっている。
「どういうこと?」
「好きなの」
表情を変えずに原田さんは淡々と答える。
「好きって」
「好きなの」
「そういう、あれ?」
「うん、そういうあれ」
「まじで?」
「うん、あなたへの答え。全部、好きだからが答え」
何も言えない。何が正しいのかわからない。同性愛に対して知識はあったが、実在するとは微塵も思っていなかった。私は多分ノーマルだし、女の子の体に興奮したりはしない。だから結論から言わしてもらうと、彼女の思いに私は引いていた。混乱していた。
体がようやく動く。椅子から立ち上がり、私は教室の出入り口に向う。
「帰るの?」
原田さんは、震える声で言った。彼女の顔は見れない。どんな顔をすればいいのか、わからない。
「うん」
「また来る?」
「無理かな」
もう彼女と今までと同じを続けられる気がしない。彼女ともうかかわることが怖かった。自分の理解が及ばない、未知の領域になるから。
「絵は?」
「絵?」
「完成、してないよ」
ああ、これか。私は黒板の前に立ち、道具を手に取る。チューブから乱暴にパレットへ絵具をつけ、筆に真っ黒な絵具をべたべたとつけた。
「男の子の思いに、女の子は答えられませんでした」
私は筆で女の子の上を塗りつぶす。
「男の子の花束は、枯れてしまいました」
男の子のバラの花束のバラを、黒で塗りつぶす。
「女の子は男の子のことを、そういう風に見ることはできませんでした。ふたりの関係は、壊れてしまいました」
男の子も私は塗りつぶす。
「女の子はこの校舎にもう来なくなりました。男の子も、いつしかここに来なくなり、この校舎のことは人々から忘れ去られるようになりました」
絵具で机を塗りつぶす。植物を塗りつぶす。黒板は、真っ黒な絵具で塗りつぶされる。後ろで原田さんの鼻をすする音が聞こえた。
「誰にも思い出されないこの校舎は、いつしか存在すら失われ、二度と人々がここの地のことを思い出すことはありませんでした」
私は絵具を黒板にたたきつけ、床に画材道具をバラまいた。筆や絵具のチューブが床に散乱し、水をためているバケツの水は足元を濡らした。
「めでたしめでたし」
私はそう言った。そのまま出入り口に向かって歩く。こぼした水のぴちゃぴちゃという音が、静寂の中に響いた。
「待ってよ」
出て行こうとする私の腕を彼女は掴んだ。私の右手は錆びついたドアの取っ手から離れない。
「あの、その」
原田さんは何かを言おうと必死に言葉を探るようだった。その表情は見えない。私といる時間を、一分一秒でも、伸ばしたいのだろうか。
「ごめん」
私は言った。
「そういうの、わからない」
その言葉を最後に、私は教室を後にした。
原田さんがどんな顔をしていたかは、私は知らない。知ることが怖かった。
走り抜ける廊下のぎしぎし鳴る音が妙に怖くて、私は両耳をふさいでひたすら廊下を走り抜けた。いつも通っていた廊下は、普段よりも長く、永遠に続くようだった。暗闇に飲み込まれてしまいたかった。
10 海の男
停学の期間が終わり、私は家を出た。いつもの鞄を持ち、いつもの制服も来ている、そして時間もいつも家を出るのと同じだ。ただ一つだけ違うものがある。行先である。
行先は学校と反対方向を進んだ。同じ制服の人に怪訝な顔をされるのを横目に、ひたすら私は歩いた。行き先は特に決めていない。ただ家に引きこもるよりかはいくらか健康的な場所に行きたかった。
手始めに海に向かうことにした。私の住むこの町は、海から少し離れている。電車を使うことになる。公共の交通機関を使うのはずいぶんと久しぶりだ。なんだか緊張する。駅は家から歩いて二十分ほどの距離にあるため、難なくたどりつくことができた。古臭い木造の駅は、地震でも起きたら崩れてしまいそうだった。私の学校の制服の子は、そこに着くころには誰もいなかった。券売機で海のある町までの切符を買い、ホームへと向かった。
「あれ? 忘れ物かい? 見ない顔だね」
初老の駅員が不思議そうに私を見る。
「まあ、そんなところです」
そのまますたすたと、ホームのベンチへ向かった。
電車も来ず、待つ生徒もいない駅の構内は静かだった。耳をすませると鳥の鳴き声がようやく聞こえた。車の走る音もする。意識してみたら、世界は案外音で満ちているのだなと感心する。自動販売機で暖かいミルクティーを買い、体を温めた。甘さが口の中に広がり、不思議と心が落ち着いた。空を眺めていると、急にポケットの携帯が震えだした。画面を見るとお父さんだった。とりあえずそのまま通話を切り、電源も落とした。さぼりがばれたか。まあいいだろう。後でたっぷり怒られよう。
それから十分ほどして、青い電車がゆっくりとホームに止まった。電車の中の乗客は一人もおらず、閑散としていた。窓に背をむけるのが嫌で、四人で向かい合って座るタイプの椅子に座る。紫色のシートから暖房の熱が伝わってきた。発車しますのアナウンスとともに、電車は走りだした。がたんごとんというこの音が好きで、昔はよくお父さんにねだって電車に乗る用事に付き合ったことがある。電車が好きだったという気持ちを、いまさら思い出した自分にあきれた。
いつも見ている町の風景が、電車とともに右へと流されていく。いつしか風景は、あまり見たことのない町の田園風景へと変わっていった。このあたりには来たことがなかったな。いつか機会があったら降りてみたい。
電車に揺られながら、いろんなことが頭に浮かんだ。それは今私が受けていない授業をうんざりした顔で受けているクラスメイトや、私が学校に行ってない事実を知り、仕事に集中できないお父さんだったり、いろいろだったが、一番頭に浮かんだのは原田さんのことだった。
あの日から原田さんとは会っておらず、連絡もとっていない。めちゃくちゃにした落書きのこととか、逃げるように校舎を後にしたこととか、考えれば考えるほど、罪悪感がつのった。お腹まで痛くなってきた。最悪だ。
痛みに耐えること電車に揺られて三十分、景色はすっかり見慣れないものに変わっていた。窓を見ると海が見えた。目的の駅は次だ。太陽の光が海に反射して、きらきら輝いていた。
結構いいさぼり日和じゃないか。思わず顔がにやつく。思えば、いままで一度も、堂々と学校をさぼったことはなかった。停学していたため、学校がある日に学校に行かないという体は出来上がってしまっている。
そして目的の駅にたどり着いた。ここの駅は私の町の駅よりは大きい。二階建てで、後で気がついたが、券売機も液晶の仕様になっていた。
平日の昼間となっては人影もまばらである。駅員に切符を見せ、改札口を抜けた。駅を出ると、大きな美術館が目の前にあった。入口の手前にはやたらとアーティスティックな建築物がある。トライアングルのようだがねじれていたり、針の生えた黒い私の身長の二倍ほどありそうな球体も見えた。
だが私の目的地はここじゃない。私は港への道をひたすら歩いた。歩きなれない町の風景は新鮮で、小さなラーメン屋や釣具店に、小さな公園。どれもこれもが面白く見えた。一人旅が案外向いているのかもしれない。ウキウキしながら潮の香りが近くなる。波の音もかすかに聞こえてきた。足どりはさらに軽くなった。船の走る音も聞こえてきた。五分ほど歩いて、ようやく海が見えた。船が何隻か浮かんでいて、フェリー乗り場も見える。ようやく、辿り着いた。
たどりついたからなんだって話だが。特に目的地もない。醤油屋を営んでいるおじいちゃんのいる島には、ここのフェリー乗り場からも確かいけた気がする。最後に向かったのがまだ幼稚園の頃だったため、景色はほとんど見覚えがない。
「行ってみようかなあ」
そうぼやいて、よく船乗りとかが足を乗せる、くぎのような形をした物体に腰をかけた。ため息を吐きながら、海を眺めた。波の満ち引きする音が心を安定させ、考えることを放棄させた。ただボーっと、海を眺めていた。四隻ほど浮かぶ小さな船に、大小さまざまな島が並ぶ。磯の香りや船のエンジンの匂いが混じって、少しだけ臭かった。カモメやカラスの鳴き声が聞こえるなか、近づいてくる足音が混じっていた。音はどんどん大きくなり、やがて私の横に止まった。ライターのカチという音がして、タバコの煙の匂いが漂う。横を向くとそこには七十は超えていそうな老人がいた。赤いジャケットに黒いズボン。手にはタバコを持ち、頭には白い帽子をかぶっていた。ちらりと白髪が見える。タバコをくわえようとしたときに見えた歯は、ボロボロであった。
それよりも、久しぶりにタバコの副流煙の匂いをかぐと、無性に体がニコチンを求めだす。ずいぶん吸っていない。
「吸いたいか?」
「は?」
どうやら老人は私に話しかけているようだ。その目つきは子供が見たら真っ先に逃げ出しそうなほど強烈な眼光を放っていた。
「いやあ、嬢ちゃんが禁煙中のサラリーマンみたいなツラしてたからよ、ついな」
「ばれちゃいましたか」
「おや、当たったか。俺の勘もまだ捨てたもんじゃねえなあ」
はははと豪快に老人は笑った。
「吸うか?」
老人は百円ショップで売っていそうな紫色のタバコケースから一本取り出し、私に差し出した。しばらく受け取るか躊躇したが、誘惑に負け、ついには受け取ってしまった。
「なかなかの不良だな嬢ちゃんも」
「そんなことないですよ」
ポケットにはまだライターがあったため、それで火をつける。今までお父さんのわかばしか吸ったことがなかったため、どんな味か興味があった。煙が口の中に入り、肺へ思い切り吸いこんだ。
「まずっ!」
なんだこれは。ゲロみたいな味がする。こんなひどいタバコがあったのか。ごほごほと煙を吐き出した。
「ははは、嬢ちゃんには好みじゃなかったか」
「すいません、せっかくいただいたのに」
「いいってことよ、安物だしな」
老人は美味そうにタバコを吸い続けた。これなら私は禁煙ができそうだ。そのままゆっくりと時間が過ぎ、老人はタバコを吸い終わったらしく、煙をアスファルトでもみ消した。
「おじいさんは何でこんなところに?」
平日にこんなところでタバコを吸うなんて。海が好きなのだろうか。
「それはな、俺が海の男だからだ」
現実ではなかなか聞きなれないフレーズに思わず噴き出す。案外ユニークな人なのかもしれない。
「次に船を出すのは一時間後だ。それまで休憩しているところだ」
「そうなんですか」
「で、嬢ちゃんはどうしてこんな日に、こんな時間に、こんなところに、そんな格好でいるんだ?」
言葉遊びが好きなのだろうか。似たような言葉で四つも質問を重ねてきた。
「学校が臨時休校だったので、家に帰るのもなんだか悔しくて、それで海が見たくなって、ここに来ました」
「ははは!」
面白そうに老人は笑った。
「何がおかしいんですか?」
「嬢ちゃんは嘘が下手だなあ」
……ばれていた。
「なんでわかるんですか?」
私はよく、嘘っぽくない真実味のある嘘を吐くのが得意で、よくこんな風に言い訳をしてきたのに。
「俺が海の男だからさ」
その言葉が、変な話だが妙に説得力を感じてしまい、何も言えなくなった。そしてこの人には嘘が通じないだろうなと思った。
「すいません、さぼりです」
苦笑しながらそう答えた。
「ははは、やっぱり嬢ちゃん、不良だな」
にやにやと笑いながら老人は私を見た。
「なんだか、もやもやして、逃げ出したいことがあって、海に来たら何か解決するかなって、思ったんです」
初対面の老人に何を話しているのだろう。なんだかこの人には、ぺらぺらといろんなことを喋ってしまいそうだ。
「逃げ出したい事ねえ」
ふむふむと老人はうなづいた。
「逃げるのは、やっぱり駄目ですよね」
「駄目というか、意味がねえな」
「意味がない?」
どういうことだろう。
「ツケが回ってくるからなあ、問題から逃げても、遅かれ早かれ、ツケが回ってくるものだ」
「なるほど」
一理ある。なら私はどうすればいいのだろう。
「コーヒーでも飲むか?」
「いいんですか?」
「折角来たんだ。まだ俺の船が出るまで時間はある。おいで」
そう言って老人は立ち上がり、すたすたと来た道を戻って行った。
あわてて立ち上がり、老人の背中を追いかける。船はすぐそこにあった。赤いラインの入った。三十人くらいは乗れそうな、そこそこ大きめのフェリーだった。
「足元気をつけな」
船着き場と船をつなぐ橋のようなところはぐらぐらして少し怖かった。中は案外広く、快適そうではあった。椅子の後ろの雑誌を入れられるところにエロ本があったのは見なかったことにした。
操縦席は当然客席より狭かった。ややこしい機械がところせましと並んでいる中、なぜか冷蔵庫があった。それよりも驚いたことがある。
カラスが寝ていたのだ。操縦席のハンドルと、正面の窓の間のスペースで、カラスが気持ちよさそうにこっくりこっくりと首を傾けていた。
「あの、これは」
冷蔵庫を開け、中を物色する彼に恐る恐る尋ねた。
「ああ、こいつか。俺の、相棒さ」
誇らしげに眠るカラスを老人は見つめた。
「ペットなんですか?」
「まあ、そんなところだ」
そう言って私に缶コーヒーを一本投げ渡した。あんまりコーヒーは飲まないのだがさすがにそれは失礼だろう。老人は操縦席、私は近くにあったパイプいすを広げ、座った。コーヒーの苦みが口に広がった。
「なかなか面白いやつでな、カラスのくせに俺にちょっかいばっかりかけるんだ。こいつといると、まるで息子と話してる気分になる」
老人の表情は柔らかかった。カラスは今も気持ちよさそうに寝ている。
「こいつと船を走らせることが、俺の生きがいなんだ」
「すてきですね」
自分からこんなポジティブな言葉が出るなんて思っていなかった。海に来てから心の氷が解けたような気分になっている。
「きっと、この子、あなたのことが好きだと思います」
「ははは、そいつはいいな」
そっと老人は、カラスの頭をなでた。
「こいつに、好きなんて気持ちが理解できるかねえ」
「どうします? いつかこの子が言葉を喋って、あなたを好きだとか言ったら」
「どうもこうもなあ」
恥ずかしそうに老人は頭を掻いた。
「礼くらいは、言ってやらんとな」
老人はそう笑った。
原田さんに好きといわれて、頭は混乱した。意味がわからなかった。
けれど、私はうれしくなかったのだろうか。
彼女はとんでもない覚悟を決めて、伝えたのに。私はそれを嬉しいと思わなかったのだろうか。
あの子の笑顔はとても好きだった。
あの子のピアノの音が好きだった。
あの子の走る姿も好きだった。
それは彼女が私に向けた好きとは違うものかもしれない。
それでも、もしかしたらわたしは
あの子のことが結構好きだったのかもしれない。
あの時私は、あの子に一言、ありがとうと言うべきだった。
「なんだかうらやましいです」
「何がだ?」
「わかりません」
そう言うとまた老人は笑った。その日、私はカラスとコーヒーが少しだけ好きになった。
11 さよなら
お父さんから転校するという話を聞いたのは、その日の夜だった。話は簡単だ。おじいちゃんが死んだのだ。今までおじいちゃんとおばあちゃんは、島で醤油屋を営んでいた。おじいちゃんが死んだことで、おばあちゃん一人だけになる。だからお父さんはそこを手伝うことにしたらしい。
「お前を一人にするわけにはいかない。だから、引っ越しすることになった」
そう、夕食の席で告げられた。
「唐突だね」
「昼間電話しただろ」
「学校だったし」
「さぼってただろ」
ばれていた。当然か。
「まああの学校も、お前に合ってなかったみたいだしな」
勝手な解釈はしないでほしいな。
「いつになる?」
「今週末には」
急展開すぎて頭が追いつかない。それから一週間。私はしぶしぶ最後の学校生活を楽しむことにした。今まで話していたクラスメイトが話しかけてくることはなく、原田さんに至っては学校に来ていなかった。今の私なら、原田さんと向き合える気がしていたのだが。だがいざ話すとなったとき、何を話したらいいかわからない。それゆえ携帯で連絡を取ることもできなかった。
授業も、休み時間も、放課後も、無価値なものとなり、当然夜に旧校舎に行くこともなかった。三日後に、旧校舎が来年度に取り壊されることを発表された。私の描いた絵が現実になったようで、少し気味が悪かった。
「旧校舎かあ、少しショックだな」
そう言ったのは夕食の席でのお父さんだった。
「やっぱり?」
「ああ、母さんとの思い出がつまってたからな、特に音楽室に」
「……」
まさかと思い、詳しい話を聞くことにした。
「新校舎ができたときに、旧校舎に母さんが忍び込んで、千年後の学校みたいなテーマで、音楽室の黒板に絵を描いたんだ。さみしい絵だったな。いや、確かにすごかったけど。あとなんでも、あの絵には暗号を残したって言っていたが、どこに描いていたのかは俺にはわからなかったな。母さんはあの時からひねくれていたから、まあ当然かと思ったけどな」
「そんなのがあったんだ」
まったく気がつかなかった。まあ全部塗りつぶしたし、いまさら見つけられないだろう。あきらめよう。
原田さんに対する申し訳なさは日に日に強くなっていくし、考えない時間はほとんどなあった。携帯のメールや電話の着信がないかとも期待していたが、それらが鳴ることはなかった。だから、引っ越しの前日にメールを受信したときは、心底胸が騒いだ。メールの主は予想外に、私のタバコをさらそうとした、あのクラスメイトその一であった。
内容はまた予想外なものだった。
「今晩ご飯食べに行かない?」
まさかあんなことになったのに晩御飯の誘いがあるとは思ってもいなかった。行先はなぜかラーメン屋に決まった。駅の近くにおいしいところがあるらしい。
最初は戸惑ったが、特に悪意があるわけでもなく、誘いに乗ることにした。
お父さんに今晩はいらないと伝え家を出た。そろそろコートが必要かとも思ったが、まだ大丈夫と思い、パーカーにジーンズという、いつも旧校舎に行く時のスタイルになった。クラスメイトその一の方も上下ジャージといつもとは雰囲気がだいぶ違う格好をしていた。
「ずいぶんださい格好してるじゃん」
出会って早々彼女は言った。
「上下ジャージでラーメン屋に誘う女子高生に言われたくないよ」
そう言うと彼女は笑った。
「何がおいしいの? ここ」
店内でカウンター席について、メニューを見ながら聞いた。
「普通に醤油ラーメン美味いよ」
「じゃあ、それで」
「トッピングは?」
「煮玉子食べたい」
「了解、すいませーん」
いつものかわいらしい喋り方は、一切していなかった。それがなんだか落ち着いて、私も気を使うことはしなかった。
彼女は味噌ラーメンに餃子を二人前注文し、私の注文も言った。
「餃子は奢ったるよ」
「ありがと」
お互い店員が運んできた水を一口飲んで、一息ついた。
「で?」
と私は彼女の方を見て言った。
「え?」
「え? じゃないでしょ、急に呼び出して」
「あー」
なんだそんなことかといわんばかりに彼女は気の抜けた返事をした。
「別に、ただなんとなく、話したいなと思っただけ」
彼女はグラスの水をぐっと飲み干した。
「坂本綾香ね」
何の話だ。誰だそれは。
「私の名前」
「……知ってたの?」
「一度も話していて、相手の名前を呼ばないのおかしいと思ったのよ。まさか本当に覚えてなかったんだ」
彼女は。坂本は怒っている様子はなかった。むしろ面白そうに笑った。
そのあと五分後くらいに餃子が運ばれてきた。坂本は二人分の餃子のたれを小皿に注いだ。
「脳の容量をさ、無駄にしたくなかったの」
「へー」
「軽蔑した?」
「別に、もういいよ」
本当はいろいろ言いたいこともあっただろうけど。彼女はそれをぐっと飲み込んだんじゃないのだろうか。失礼だと思わないの? とか、いつも人を馬鹿にしてたこととか、そういうことを。
それからラーメンが運ばれ、ふたりで無言で麺をすすり、具を食べ、ときどき水を飲みながら、最後にスープを蓮華ですくって楽しんだ。味はとてもおいしかった。また来たいと思ったが、次の機会はいつになるのだろう。わからない。
「明日もう行くんだっけ」
帰り道、坂本がそう切り出した。
「うん」
「そっか」
坂本は空を見上げた。雲がかかっていて、星はほとんど見えない。
「ごめんね」
坂本はそう言った。
「何が?」
「たばこのこと」
「別にいいよ」
いまさら彼女を恨む気にもならない。
「あんたさ、真鍋のこと全然好きになれなかったの?」
またその話か。
「別に嫌いじゃなかったんだ。私を楽しませてくれようとしたのはすごい嬉しかったし、まあ面白い人だったとは思うよ」
「ほんとに?」
言動の信憑性を疑われるようになってしまった。
「ほんとに」
そこから私は続けた。
「でもさ、彼の私が好きって気持ちが、どうにもピンと来なくて、それでも中途半端な対応してたから、ああなっちゃったのかな」
「でもいいな、私があいつに一番向けてほしかった感情を、あんたに向けたんだから」
「告白すればよかったのに」
「そんな簡単な話じゃないよ」
彼女はそうため息をついた。
「人を好きになるって、何なんだろうね」
今私が心底疑問に思っていることが、それだった。
「うーん、なんなんだろうね」
彼女もわかっていなかったらしい。もしも、私が最初から自分の感情をむき出しにして、彼女と話していたら、いい友達になれたかもしれない。
「じゃあね」
いつの間にかラーメン屋からずいぶん離れた場所に来ていた。どうやら彼女の家はこの道の先らしい。
「うん、さよなら」
私はそう言った。
結局、私は原田さんに会うことなく、この町を去ることになった。
あの子に会って、好きって言ってくれてありがとうという勇気は、私にはなかった。
12 島とカラス
島での生活は快適だった。島の高校は生徒は少なかったが、とてもフレンドリーで、私に積極的に話しかけてくれた。少しずつだが、クラスメイトの名前を覚える努力ということをしている。私は少しずつ、変わってきているのかもしれない。
今でもたまによく考える。あの時もしあそこから逃げ出さなかったら、あの子の言葉に正面から向き合っていたら、そんなことばかりを。唯一の理解者を私は無下に扱ってしまったのかもしれない。
ほんの少しだけ、あの子に会いたいと思った。あの日のことを忘れて、どうでもいい楽しい話をしたいと思った。
冬が来た。真っ赤だった木の葉っぱは落ち、雪の降る日も珍しくなくなった。もともと積もること自体はまれだったので、降る量は知れていたが。
今でもたまに、クラスメイトその一とは連絡を取っていた。紆余曲折会った末、真鍋と付き合うことができたらしい。とりあえずおめでとうと伝えておいた。
年が明け、おせちをおばあちゃんとお父さんと楽しみながら、いつの間にか二月になった。バレンタインデーにお父さんに板チョコを渡しておいた。あんまり凝ったものは好きじゃない。原田さんは、今何をしているのだろう。
あの子のことを、私は何も知らないなあと、改めて実感した。
誕生日も、血液型も、好きなものも、好きな季節も、何も。もっと、あの子のことを知りたかった。あの子と普通の友達になりたかった。放課後に好きな本を見たり、昨日見たテレビの話をしたり、そして、あの旧校舎であの絵についてくだらない議論を交わす。
そんな当たり前を、私は望んでいた。
もしかしたら、彼女も同じような気持ちだったのかもしれない。それより先に、自分の気持ちが優先してしまっただけなのだろうか。
何度か、彼女と連絡を取ろうと試みたことはあった。けれど勇気が出ず、電話の発信ボタンは震えて押せず、メールの文面は、一文書いては消し、書いては消しの繰り返しで、結局のところ何もできなかった。とんだチキンだ。
そんな非生産的なことを毎日のように繰り返していた。その合間に私は、スケッチブックに向かわない日はなかった。毎晩机に置いた白紙のスケッチブックとにらめっこをした。休日には外に出て、海や山のスケッチするのに気持ちのいいスポットも探した。そこに行っても、私の心臓の鼓動のリズムは変わらなかった。そして季節はいつしか春になろうとしていた。花粉症持ちのため、ティッシュが欠かせなくなる。勘弁してほしい。
「へっくしゅん!」
その瞬間だった。携帯の着信音が鳴った。誰だこんな日に。私の鼻のコンディションが最悪の時にかけてこなくてもいいだろう。誰の着信か確認せず、しぶしぶ電話に出た。
「もじもじ」
鼻声で電話に出る。
「あれ? 間違いかな」
聞き覚えのある柔らかい声。ゆっくりとしたやさしい声。それが誰のものか、すぐにわかった。
「橘さん、ですか?」
「……原田さん?」
およそ半年ぶりの彼女の声だった。
「久しぶりだね」
「うん、ひざしぶり」
「風邪?」
「花粉症」
「あらら、大変だね」
話せば話すほど、原田さんの声を思い出していった。原田さんの笑い方も、歩き方も、思い出も、次々に脳内に再生していく。
「えっと、橘さん。今週の土曜日は暇かな」
土曜日。おばあちゃんの店は休みのはずだから店番もない。暇だ。
「暇だね」
案外喋ってみると冷静でいられている自分に驚いた。
「よかった、えっと、小豆島だったよね、確か」
「うん、そうだけど」
「船で、そっちに遊びに行ってもいいかな」
しばらく携帯を持ったまま、私は静止した。予想外のことが多すぎて、頭はパニックになってしまっている。
「あ、いやならいいんだけど」
「うれしい」
私は言った。
「うれしいよ、そう言ってくれて。私、あんたと向き合うの、逃げてたから。嫌われたんじゃないかって、思って」
「そんなわけないじゃん、やだなあもう」
原田さんは何も変わらない。その笑い方も、何もかも。
「橘さんにね、ちょっとしたサプライズがあるの」
「サプライズなら言っちゃだめでしょ」
「内容言ってないからいいの、じゃあ、また詳しい時間話すね」
彼女からの電話は予想していなかった。だからうれしくて飛び上がりそうになった。彼女が来る日が待ち遠しかった。
一日一日が長く感じて、心臓がどきどきしていた。
そして、ようやくその日がやってきた。場所はフェリー乗り場の近くの公園を指定された。また来る時に電話をすると言われた。何のサプライズなのだろう。
十一時を少し過ぎたあたりで、彼女から電話が鳴った。家を飛び出して、公園に走る。あの子のところに向わなければ。走るなんてどれくらいぶりだろう。土を踏みしめるたびにスニーカーごしにくる感触も、暖かい風を切る感覚も、息を切らす感じも、どれくらい経験していなかっただろう。
一歩一歩、地面を踏みしめる。彼女に会うために。目の前に見える海に向かって、私は走った。心臓はどきどきしていた。走っていたからかもしれない。呼吸は荒かった。走っていたからかもしれない。手はうずうずしていた。走っていたからかもしれない。
あの日のタバコを吸った日から、この日が来るのは決まっていたのかもしれない。誰かに運命づけられた、そんな日だったのかもしれない。
公園にたどり着く。そこにいたのは、眼鏡をはずし、髪を短くしてニット帽をかぶった彼女の姿だった。その目の前には、電池で動くタイプのキーボードが立てかけられている、一人で運ぶのは苦労しただろう。
彼女はにこりと笑った。私も息を切らしながら笑った。青空の下では、カラスが高く舞うように飛んでいた。
そして、彼女の手は鍵盤へ添えられ、ゆっくりとメロディを奏で出した。今まで聞いたことのない旋律。そしてそこにくわえられたのは。
原田さんの歌声だった。
空高く響いた彼女の歌声は、私の心に強烈な衝撃とともにぶつかってきたようにも感じた。心臓が止まった気分になった。その瞬間に呼吸も止まり、自分が死んでしまうんじゃないかと思った。だが次の瞬間。心臓はまた動き始めた。ドキドキと、一定のリズムで、私を応援するかのように。私の心臓を動かしたのは。なんなのだろう。それを言葉で表すとしたら、こうだろうか。
大きくて、暖かくて、やさしい何か。
というのはどうだろう。
おしまい
この手紙を読んでいるってことは、よくぞ暗号を解きました。ほめてつかわそう(笑) 誰かがといてくれるのを、ずっとずっと待っていました。
暗号は、何かを秘密にするためにあります。そして、その秘密を隠すためにあります。だからここに、私の秘密のメロディを描いておくことにします。
私の趣味が作曲だってことは、友達にも、彼氏にも、家族にだって知られていません。知っているのはこれを読んでるあなただけ。
もしよかったから、これを誰かに弾いて、聞かせてあげてほしいです。これは、私の大好きな人のことを思って作ったものです。でも直接聞かせるのは恥ずかしいから、あなたが弾いて、こんな曲だったんだって思ってくれたら嬉しいです。
この曲の著作権はフリーです。自由にアレンジしてくれて構いません。歌詞をつけてもいいし、気に入らない部分があったら変えてくれてもかまいません。そういうものなのです。
これを見つけたあなたに、私は敬意を表します。
S
追伸
もし、あなたが私の彼氏(もしかしたら結婚して、子供もいるかもしれないからその子供も)を知っているのなら、絶対にこの手紙は見せないでね。恥ずかしいから。
放課後の落書き
カラスに続きます