横顔

遺影の母は、優しい微笑をたたえて、焼香に訪れた人達を見つめていた。僕は、それをお棺に近い、親族席から見上げていた。
 僧侶の読経の声は低く、深みがあった。奇妙な節をつけているせいで、歌っているようにも聞こえる。僕は普段は聞くことのない僧侶の歌に耳を傾けつつ、祭壇の遺影の母を見つめ、焼香をする弔問客を見つめ、その弔問客が僕や僕と並んで腰かけている親族に一礼するとお辞儀を返した。
 十二月の寒い葬儀だった。父が急性心不全でこの世を去って五年、今度は母が同じ病気で倒れた。僕の結婚が決まり、婚約者を連れて母を訪ねた直後のことだった。病院へ担ぎ込まれた母は、僕が到着するのを待たず息を引き取った。
 威圧的な父に支配され、ひとり息子の僕を育てることだけが生きがいのような母だったが、そんな母にひとつだけ秘密があったことを僕は知っている。それを知って、僕は母の人生の一端を見ることができた。もちろん、その一端だけで母のすべてが分かったわけではないし、僕のその後の人生が変わったわけではなかったが、子へ何かを伝え残すことが、親の使命だとしたら、いのちを産み落とす母親がその役目を担わなければ、何の意味があるだろう。
 僕は、ぼんやりとそんなことを考えながら焼香をしている真っ最中の、三十代半ばの脂気のない髪を真ん中で分けている男の弔問客のぎこちない手の動きを見ていた。その弔問客が、肩を震わせながら母の遺影に手を合わせた時、ふと、この人は誰だろうと思った。親戚筋では見たことのない男だった。彼が、母の遺影から僕へ視線を移した時、僕はその人のことを思い出した。
 彼こそ、母のただ一つの秘密だった。



 僕が八歳の時、母が僕を連れて家出をしたことがあった。
 あれは、十一月の半ば、月曜日の朝だった。学校へ行くため、制服を着て、朝食の席についていた僕は、きのう遊びほうけて宿題を終わらせていなかったから、学校へ行くのが憂鬱でたまらず、食欲も落ちていた。僕と同じく朝食をとっていた父と母が、何か話しているのをぼんやりした意識で聞いていたが、いきなり、父が母を平手で殴ったので、僕はびっくりして手に持っていたトーストを落とした。父はそのまま無言で立ち上がると、読みかけの新聞を母の胸のところへ投げつけて、鞄と上着を持って出て行った。母は投げつけられた新聞を丁寧にたたみながらつらそうに俯いていた。その白い頬に、父に叩かれた跡がもみじのように赤い手形となってくっきり浮いていた。僕は哀しくなったが、泣いたりしたら母も泣くだろうと思い、ぐっと我慢して牛乳を飲んだ。父が母を殴るのはこれが初めてではなかった。僕がもっと幼い頃から、口論になると、父は母を殴った。大手の都市銀行の役員を勤める父は、何不自由なく育ったお坊ちゃまで、機嫌が悪かったり、母がちょっとでも逆らったりすると、暴力をふるうのだった。
 僕が、何事もなかったようなふりをして、目玉焼きを食べていると、新聞をたたんだ母がぽつんと、
「……家出しちゃおうか」
 と言ったのだった。僕はフォークを止めて、ぽかんと母を見た。僕に誘いかけているとは、すぐに気づかなかったのだ。
「……家出しちゃおうか」
 母はもう一度、僕を見て言った。僕に何の異存があろうか。僕はすぐに
「うん、いいよ」
 と返事をした。
 母は立ち上がると、朝食の皿を下げ始めた。僕は部屋へ戻り、ランドセルを置いて普段着に着替え、先月の誕生日に買ってもらったリュックサックに、その頃、僕らの間で流行っていたメンコやベーゴマ、全財産である貯金箱、お気に入りの漫画を入れて、また階下へ降りた。母が僕の学校へ電話をして、息子が熱を出したので休ませますと話しているところだった。母が身支度を整える間、僕はいつもは見られないテレビアニメを見て待っていた。母は、夜は冷えるからと僕にマフラーを巻き付け、真冬用のオーバーを着せてくれた。母もベージュのコートを羽織り、小さなボストンバッグを持った。
 母と一緒に玄関を出て、先に立ってガレージへ向かうと、
「車では行かないわよ」
 と母が言った。ガレージには、いつも二台の車が駐車されている。一台は、父が通勤に乗って行ったどこか外国産の高級車で、もう一台は、母の買い物用の国産車だった。
「車じゃないの」
「……あれは、お父さんの車だから置いて行くの。バスで行きましょう」
「どこに行くの?」
 僕がそう訊くと、母はバス停への道を歩きながら、
「そうねえ……歩きながら考えようか」
 と言ってうっすら微笑んだ。いつもの、寂しげで生気のない笑顔だった。それが、母のきめ細かな肌の、整った目鼻立ちの顔に陰を落とし、人生に疲れ切った中年女のように老けさせてしまうのだった。母は、二十四歳で僕を生んだから、あの当時はまだ三十歳だったのだ。人並み以上に豊かな生活を送っているにも関わらず、もう所帯やつれのような影を漂わせていることが、哀しかった。
 僕は歩いていく母の後についていきながら、住み慣れた家を振り返った。資産家の祖父が建てて、父を育て、母を迎えたという、本物の煉瓦を積み上げた、どっしりした大きな家だった。もうここへ帰って来ることはない。母が父に殴られずにすむと思うと、僕は嬉しくなってバス停への道を飛び跳ねるようにして走り、母を急かした。
 歩きながら考えようと言ったくせに、母は最寄りの駅に着くまでひと言もしゃべらず、バスのいちばん後ろの座席に腰を下ろし、窓の外を流れる景色に目をやっていた。僕も窓にへばりついて外の景色を眺めていたが、母がどこへ行くつもりなのか気になって、
「ねえ、どこ行くか、決めた?」
 と訊いてみた。バスが曲がり角にさしかかって大きく揺れた。
「……そうねえ……カズはどこへ行きたい?」
「……分かんない。お母さんが行きたいとこでいいよ」
「そう?」
 母はまたうっすらと笑った。
 駅に着いて、バスから降りる時に母が、
「ね、カズ、〈みちくさ〉に行こうか? あそこでケーキでも食べて、どこ行くか相談しよう」
 と提案した。
「……でも、これから家出するんでしょ? お金使って、大丈夫?」
 僕は、本気でそう思ったのだった。母は声を立てて笑った。母がそんなに明るい笑い声を出すのは初めてだった。
「使っても大丈夫よ。そんなこと、心配しなくていいの」
 と言って、僕の手を引き、駅前の商店街を歩き始めた。〈みちくさ〉とは、その商店街の中にある喫茶店の名前で、僕が、駅の反対方向の幼児教室に通っている頃から、時々、母が連れて来てくれた店だった。文字通り〈みちくさ〉していたわけだ。僕と母だけの時もあったし、同じ幼児教室に通う友達とその母親と数人で行く時もあった。僕はこの店のブラウンシュガーが好きで、紙ナプキンにこっそり包んで持ち帰ったものだった。
 扉を開けると、昔から変わらないカランコロンというベルの音が鳴った。店内は混んでいて、顔見知りのマスターが、太った体にエプロンを巻き付けて忙しそうに立ち働いている。その店はマスターひとりで切り盛りしているらしく、彼以外の店員を見たことがなかった。僕と母を見ると、丸い顔に笑みを浮かべて「いらっしゃい」と言った。ちょうど空いた窓際の席に母と向かい合って腰を下ろすと、
「好きなケーキ食べてもいいわよ」
 と母がメニューを開いた。
「お母さんも、今日は好きなもの食べよう」
 と言いながらメニューに見入っている母の顔は、楽しげで、とても美しいと思った。
 僕が、自分の母親が美しいことに気がついたのは、幼児教室に通うようになった頃だった。そこへ、時間になると迎えにやって来る大勢の母親達を目にするようになって、自分の母親が飛び抜けて美人であることに気づいたのだった。それは、幼児教室の教師も認めていた。
「カズくんのお母さんは、とっても綺麗ね」
 と、僕にため息まじりに言う先生もいたほどだ。
 母は、苺のミルフィーユと紅茶を、僕はコーラとワッフルを注文した。コーラなど、普段はあまり飲ませてもらえないのだが、今日は特別だと母が許してくれた。母の笑顔から、だんだん寂しげなものが消えて、明るくなっていたことで、僕はまた嬉しくなった。
「なんだい、今日は学校、休み?」
 マスターが、僕達の注文したものを運んできて、そう話しかけてきた。
「家出したんだ」
 僕が元気いっぱいに言うと、母は慌てて僕をいさめた。マスターは声を上げて笑い、
「こんな楽しそうな家出少年とか、初めて見るなあ」
 と言って、禿げかけた頭頂部を撫でながら、レジに立った客のところへ行った。
「だめよ、家出したなんて言ったら」
「どうして?」
「家出っていうのは、秘密なのよ。人に言っちゃいけないの」
 母は言いながら、紅茶に砂糖を入れてかき混ぜた。
「ふうん」
「ね、お母さん考えたんだけど、図書館行かない?」
「図書館?」
「うん。お母さん、本が読みたいのよ」
「いいよ。市立図書館? 本借りていい?」
「いいけど……返しに来なきゃいけなくなるわよ」
「あ、そっか。家出したんだもんね」
 僕はコーラを飲んで、ワッフルを食べた。幼稚園に通っている頃から、ここのワッフルが好きだったのだが、コーラと同様、あまり食べさせてはもらえなかったので、僕はますます嬉しくなった。僕を見て、母も笑った。
 〈みちくさ〉を出て、僕と母は市立図書館へ向かった。そこも、幼い頃からしょっちゅう本を借りている、お馴染みの場所だった。
 図書館の古びた建物の中へ入ると、母は、僕に児童図書のコーナーにいるように言って、自分は外国文学の本が陳列されている棚の方へ向かった。
 僕は、おとなしく言われるまま、児童図書のコーナーへ行きかけたが、ふいに、言いようのない不安が募った。母が、僕をここにおいて、どこかへ消えてしまうのではないかと思ったのだった。
 僕は、不安な思いを抱えて、母を追って外国文学の並ぶ棚へ行った。母はいなかった。やはり、と泣きそうになりながら、あちこち探した。母が貸出しコーナーの横に設置されたコンピューターを真剣にいじっている姿を見つけ、思わず後ろから抱きついた。母は小さな悲鳴を上げて振り返り、
「どうしたの」
 と訊いた。僕が何も答えないでいると、
「カズは、もうお兄ちゃんになったんでしょ」
 と微笑み、僕の頭を撫でてくれた。そして、またコンピューターの画面に向き直り、
「これで、この図書館にある本を全部見ることができるんだって。すごいわねぇ……」
 と感心していた。僕は、やっと安心して母から離れ、
「何か探してるの?」
「お母さんが、カズくらいの年に読んだ本なの。もう題名も忘れちゃったんだけど、すごく面白い小説だったのよ。ここにないかなぁって思って……」
「その本、捨てちゃったの?」
 そう訊くと、母はかぶりを振って、
「小学校の図書館で借りて読んだのよ」
 と言った。
「図書館の人に訊いたら?」
「訊いたら、これで探してって言われちゃった」
 母は、それからしばらくコンピューターを慣れない手つきで操作していた。そして僕を振り返り、退屈だろうから、児童図書のところへ行っているようにと言った。だが、さっきの不安を思い出した僕は、母のそばから離れられなかった。それで、
「僕、あそこで本読んでる」
 と言って、「外国文学」と書かれた本棚を指さした。母はちょっと驚いた顔をして、
「カズ、あそこにある本は難しいわよ。読めるの?」
「もう児童図書も飽きちゃったんだもん」
 と僕は嘘をついて、自分で指さした本棚へ行った。そこなら、コンピューターを操作している母の姿を見ることができた。母がどこかへ行こうとしても、すぐ追いかけられると思ったのだった。
 僕は、自分より何倍も背丈のある本棚の前に立ち、目の前にそびえる本の数と、その分厚さに圧倒された。すぐ目の前にあった本を適当に手に取り、ページを繰ってみると、細かい字がびっしりと並んでいて、めまいがしそうだった。その大量の本の中から、比較的、文字も大きく、分厚くもない、すらすらと入っていけそうな小説を見つけて、本棚の脇にある椅子に座ってそれを読み始めた。僕は、母を監視するつもりで本棚の脇の椅子に座ったのだが、そのうち、読み始めた本に夢中になった。僕はさっき、「児童書なんて飽きた」と嘘をついたが、その小説を読んで、自分の言葉があながち嘘でもないことを僕自身が知った。世の中には、面白い本がたくさんあるのだと、はからずも僕を文学の世界へといざなうきっかけになったのだった。
 一時間くらいたった時、本に目を落としていた僕の視界に、見慣れたベージュ色が映った。母が立って、
「だめだわ。題名が思い出せないから、探しようがなかった」
 と残念そうに言った。
「カズ、難しそうな本、読んでるわね。面白い?」
「うん。面白いよ」
 僕は、本に夢中になっていたため、ページから目を離さずにそう答えた。母は、僕をみてくすっと笑うと、後ろの方の棚から一冊抜き出し、僕の隣に腰かけて読み始めた。僕が本から目を上げて母の横顔を見ると、母も僕を見て、うっすら微笑んだ。僕も微笑み返した。図書館の大きな窓からあたたかい陽ざしが差し込んで、母の横顔を美しく照らし出していた。僕は幸せだった。その時には、何と表現したらよいのか分からなかったが、その時僕の中に膨らんだのは、今まで感じたことのない安堵感だった。このまま時間が止まればいいのに、と思いながら、僕は母と並んで、本を読んだ。
 しかし、時間は確実に流れていた。母が、ため息をつきながら本を閉じ、腕時計を見て僕に言った。
「もうお昼ね。カズ、お腹すかない?」
 そう訊かれて、僕は空腹に気がついた。ちょうど本も読み終わっていたので、僕と母はそのまま図書館を出て、商店街を通り抜け、駅ビルのレストラン街へ行った。中華料理屋に入ってラーメンを注文してから、僕は母に、
「ねえ、これからどこ行くの?」
 と訊いた。家出のわりには、バスに乗って駅へやって来ただけだったので、少しもの足りなさを感じていたのだった。母はグラスに入った水を飲んで、
「……そうねえ……」
 と虚ろな目をしてつぶやいた。
「お母さん、朝からそればっかり言ってるよ」
「ラーメン食べながら、考えるわ」
 運ばれてきたラーメンを食べながら、母は本当に思案しているらしく、ひと言もしゃべらなかった。やがてラーメンを食べ終えて、どんぶりが下げられると、
「ねえカズ、海に行こうか?」
 と母が身を乗り出して言った。
「海?」
「うん。海、行こう」
 母は、僕が嫌だと言っても行く、といった決意をしたようにきっぱりとそう言って、店の人を呼んで勘定を頼んだ。



 電車を乗り継いで、ターミナル駅へ行くと、そこから特急電車に乗り換えた。僕はずっと窓にへばりつくようにして、都会のビル群から田園へと変わっていく風景を飽かず眺めつづけた。特急に乗って一時間後、山の間から海が見え隠れし始めた。
「カズ、次で降りるわよ」
 母は、陽光が反射してのっぺりと光っている海面を、まぶしそうに目を細めて見つめながら、またきっぱりと言った。
 その駅は、無人に等しいさびれた駅だった。上がりのホームにも、僕達が降り立った下りのホームにも、ほとんど人がいなかった。改札口で、年老いた駅員がのんびりと欠伸をしていた。
 駅舎の前にささやかな商店街があったが、ほとんどの店に客の姿はなく、風に乗って塩辛い匂いが漂っていた。バス停にもタクシー乗り場にも、一台も車はなく、駅を出た数少ない人達はみな、歩いてどこかへ去って行った。
「……お母さん、ここどこ?」
 僕が少し寂しくなって訊くと、母が、僕の聞いたことのない地名を言い、
「夏には、海水浴に来る人達でいっぱいだそうよ。今は、もう秋だから、人も少ないんだわ」
 確かに、駅舎のところには「ようこそ、××海岸へ」という看板が掲げられていた。干物などを売る土産物屋もあったが、軒並みシャッターをおろし、人気はなかった。
 母は、そうした売店の隅にあるピンクの公衆電話へ歩み寄り、十円玉を落としてどこかへ電話をかけた。
「どこに電話してるの? お父さん?」
 母は答えず、電話に出てきた相手に、自分は「ミツトシ」くんの担任だが、彼が今日、学校で忘れ物をしたので、取りに来るように伝えてほしいと言った。母が何を言っているのか理解できなくて、ぽかんと見上げた。母は受話器をおくと、
「さあ、こっちよ」
 と歩きだした。
「今、どこに電話したの?」
「……お母さんの、お友達よ」
「ミツトシくんて、誰?」
「……お友達の息子さんよ」
 僕は、母の返答に真実でないものを感じながら、後をついていった。駅から十五分も歩いて、僕と母は中学校の前にたどり着いた。学校のジャージを着た生徒達が、整列して広いグラウンドを走っていたり、野球部やテニス部などが、それぞれ活動しているのが見えた。僕達がたどり着くのと時を同じくして、道の向こうから自転車に乗った、坊主頭の少年がやって来た。同じジャージを着ている。校門に立っている僕と母を見て、驚いた顔で自転車を停めた。母は、微笑んで、少年に小さく手を振った。
「……元気?」
 少年は曖昧にうなずいて、僕を見下ろした。目が、母とそっくりだった。
「急に呼び出して、ごめんね」
「……そろそろ来ると思ってたから」
 少年はぶすっとして答え、自転車から下りた。母は、少年にどこかでお茶でも飲もうと誘った。少年はうなずいて、自転車を引いて歩き始めた。母はその後について行き、僕はわけが分からないまま、ふたりを追った。
 少年は、駅とは反対方向の、海の近くにあるパーラーに自転車を停めて中へ入った。少年は母と顔を合わせようとしなかった。窓際の席に座り、少年がスペシャルプリンパフェというのを注文した。僕はスペシャルプリン、という単語につられて、
「僕も、それ」
 と言ってしまった。少年は僕を見て、
「この子が、和人くん?」
 と遠慮気味に母に訊いた。僕は、初対面の少年が僕の名前を知っていることに驚いた。
「この人がミツトシくん?」 
 僕も負けじと母に訊いた。母は笑ってうなずき、
「お母さんのお友達の息子さんて言ったけど、嘘よ。充利は、本当はお母さんの息子……カズのお兄ちゃんよ」
 と言った。僕は、母が冗談を言っているのかと思ったが、少年が苦笑しているのを見て、嘘ではないと分かり、びっくりしてふたりを見比べた。確かに、少年は母と目鼻立ちがそっくりだった。
「お母さんが、お父さんと結婚する、ずーっと前に、充利が生まれたの。だからお父さんも知らないのよ。カズとは、お父さんの違うお兄ちゃんてこと」
 少年はぶすっとして、
「こんな小さな子に言っても分かんねぇよ」
「僕、二年生になったんだよ」
 小さな子と言われて、憮然としてそう言いかえすと、少年は初めて笑顔を見せた。笑顔も、母とそっくりだった。
「僕達、家出してきたんだよ」
 僕がさらにそう言うと、母は僕を諌めた。
「家出?」
 少年は、きょとんとして母を見つめ、
「本当に?」
 と訊いた。母は恥ずかしそうに俯いた。
「何でそんなことしたんだよ?」
「お父さんが、お母さんのこと殴るんだよ」
 僕が代わりに答えた。
「カズ、やめなさい」
 と母が言った。少年はびっくりしたように目を瞠って、
「本当に?」
 と僕に向かって訊いた。僕は力いっぱいうなずいて、
「だから家出してきたんだ。秘密だから、誰にも言っちゃだめだよ」
 と言った。そこへスペシャルプリンパフェが運ばれて来たため、僕はそちらに神経が集中してしまった。母は、僕がスプーンを動かしているのを見ながら、気を取り直すかのように、
「どう? 元気でやってる?」
 と少年に訊いた。その短い言葉に、あらゆる意味を込めていることに気がつくには、僕はまだ子供だった。少年もパフェを食べながら、
「俺も三年前にいっぺん、家出したけど、ひと晩で見つかったよなぁ」
 と言った。
「あの時、こんなことしちゃだめだって叱った人が、子供つれて家出かよ」
 母は、その非難を無視して質問を重ねた。
「池田さんのおじさんとは、うまくいってるの?」
「おじさん、おばさんが入院してっから、毎日お見舞い行ってる」
「おばさん、悪いの?」
「俺には話してくれねぇんだ」
「学校は?」
「まあまあ」
「来年、受験でしょ? 志望校決まった?」
「……まあ、一応」
「充利くん、メンコ持ってる?」
 僕が口を挟むと、少年はスプーンを止めて、
「へぇ、メンコか。懐かしいなぁ。和人くん持ってるの?」
 と言った。母の顔はろくに見ようともせず、ぶっきらぼうな話し方しかしなかったのに、僕に対しては、なぜかきちんと顔を見て話してくれた。その優しそうな顔は、線の細い綺麗な目鼻立ちで、坊主にした頭と釣り合っていなかった。
「うん。坂田くんとか、前川くんとか、いっつも勝負してるんだ。ベーゴマも持ってるよ」
「まだ流行ってるのか。あれも、なかなかコツがいるんだぜ」
「うん。毎日、研究してる」
「そっか。俺も毎日、遊んでたな」
 母は、少年と僕のやりとりを微笑みながら見ていた。
「ねえ、どうして充利くんは、お母さんと一緒に暮らして内の?」
 僕が素朴に訊くと、母は飲んでいたコーヒーでむせた。充利くんは笑って、
「さあ。俺にも分からないよ」
「充利くん、一緒に家出する?」
「……そうしてもいいけど。そしたら、和人くんのお母さんが、いろんな人から叱られるよ」
「……また、お父さんに殴られるの?」
「たぶんね」
「……じゃ、やめる」
「その代り、俺のメンコやるよ」
「本当?」
「うん。家にあるから、取って来てやるよ」
「じゃ、すぐ行こうよ」
「待て。これ食ってからだ」
 母は、僕と充利くんの会話を、さっき海を眺めていた時のような、まぶしいものを見るように目を細めて見つめていた。僕達はパフェをかきこみ、母を急かして店から出た。
 家にいったん帰るという充利くんについて行った。彼は、僕を自転車に乗せて、ゆっくりと引いて歩いてくれた。母は、そんな僕達の後ろから歩いていた。近道だと言って、充利くんは堤防に沿った道を選んだ。海風は強く、僕の首に巻いたマフラーをなびかせ、耳やほっぺたがあっという間に冷たくなった。充利くんも寒そうに首をすくめていた。沖のほうでサーフィンをしている人の姿が見えた。
「和人くんは、泳げる?」
「うん。バタ足で二十五メートル泳げるよ」
「バタ足でか?」
 充利くんは声を上げて笑い、
「海で泳いだこと、ある?」
「まだない」
「お父さんに連れてってもらったらいい」
「……お父さん、いつも忙しいって約束破るんだ」
「へえ、そうかぁ」
「お父さんなんか、嫌いだ。約束破るし。お母さんをいじめるし」
「……でも、和人くんのお母さんがそう望んだことなんだよ」
「充利くん、本当にお母さんの息子?」
「……まわりの大人はそう言うけどなぁ……俺は、生まれた時のことなんか、覚えてないからなぁ……」
 充利くんはそう言って、自転車をぐらぐら揺らした。僕は笑いながらハンドルにしがみついた。充利くんも笑っていた。
 そうしているうちに、堤防沿いに建っている「池田ハイツ」と書かれた古いアパートに着いた。充利くんは自転車を停めて、僕を下ろしてくれてから部屋へ上がるよう勧めてくれた。狭い階段を上がると、潮騒が耳についた。
「入ってもいいの?」
「いいよ。どうせ俺ひとりだから」
 僕は、それが、家の人が留守だからという意味にとったのだが、そうではなかった。
 部屋は六畳の和室と四畳半の台所がついて、和室の、海が見える窓側に万年床があり、勉強机には教科書やノートが積み上げられ、部屋の真ん中にはロープが渡り、洗濯物が吊るされていた。どう見ても、ひとり暮らしの佇まいだった。
「きれいにしてるじゃない」
 母が、和室と台所の境い目に立ち、感心したように部屋を見回した。
「……ここに、ひとりで住んでるの?」
「一階に、池田のおじさんとおばさんが住んでるよ」
「ここは、池田のおじさんのアパートなのよ。電話する時は、下のおじさんのとこにかけて、取り次いでもらうの」
 母が説明を加え、台所の流しに立って、朝食に使ったらしい食器を洗い始めた。充利くんは約束通り、机の引き出しから輪ゴムで束ねたメンコを出して僕に手渡してくれてから、普段着に着替え始めた。
「わあ、すごい! これ、全部もらっていいの」
 僕が目を輝かせて訊くと、
「いいよ。俺もう使わねえからさ」
 と、セーターを頭からかぶりながら言い、襟から顔を出して僕に微笑みかけてくれた。窓の外で犬が吠えた。
「いっけねぇ」
 充利くんが窓を開けた。僕も並んで窓から顔を出して下を見ると、アパートの裏庭の花壇の隣に、ところどころペンキの剥げ落ちた、赤い屋根の犬小屋があり、鎖につながれた茶色い犬が丸い目で充利くんを見上げ、尻尾を振っていた。
「悪ぃ、今行くよ」
 と、充利くんが話しかけると、犬は甘えた声を出した。
「充利くんの犬?」
「いや、おじさんとこの犬でさ。朝と晩、俺が散歩させてるんだ。一回二百円で」
「アルバイトしてるの?」
「他にもいろいろやってるよ」充利くんは窓を閉めながら言った。
「一食百円で、夕飯作ってるし」
「え、ご飯の用意、自分でしてるの?」
「おう。おかず一品につき百円、みそ汁は五十円。池田のおばさんが入院してっから、おじさんの夕飯と、あと隣んち、夫婦で共働きだから、俺が代わりに弁当作って持ってってやるんだ。お惣菜屋よりうまいって、評判いいんだぜ」
 充利くんは、少し得意げに言った。僕は、尊敬のまなざしで充利くんを見上げた。僕は、母の手伝いなど、何ひとつしたことがなかった。
「あいつの散歩行くけど、一緒に来るか?」
「行く」
 僕が即答すると、洗い物を終えて冷蔵庫の中をチェックしていた母が、自分は部屋の掃除でもしているから、ふたりで行ってらっしゃい、と言った。
「ケンシロウ」
 充利くんが「行くぞぉ」と声をかけると、ケンシロウはひと声鳴いて、走り出した。充利くんは「待てよ」と笑いながら一緒に走った。僕も遅れまいと必死に後を追った。
 浜辺に下りると、いつもそうしているらしく、充利くんは紐を解いて、ケンシロウを放してやった。ケンシロウは、冷たいはずの波打ち際を元気よく駆け回り、充利くんが呼ぶと、尻尾を振って戻ってきた。
「和人くんは、小学二年生だっけ?」
「うん。掛け算、できるようになったんだよ」
「そっかぁ……和人くんは、お母さんと暮らせていいなぁ」
 充利くんは、戻ってきたケンシロウを両手で撫でながらそうつぶやいた。
「……でも、お父さんとお母さん、しょっちゅう喧嘩するんだ」
「それで、お母さんが叩かれるの?」
「うん」
「やっぱり、親とかいらないのかもなぁ……」
 充利くんは水平線を見つめて言った。その横顔は、やはり母に似ていた。
「充利くんは、本当に僕のお兄ちゃん?」
「そうらしいよ」
「充利くんも知らないの?」
「和人くんのお母さんがそう言ってるし、池田のおじさんもそう言ってるし……たぶん、そうなんだと思う」
「……ひとりで寂しい?」
「……別に。ケンシロウもいるしな」
 ケンシロウは、しきりに充利くんにじゃれついた。
「俺も、おとななんか嫌いだよ。嘘ばっかだもんな」
「……」
「俺は、嘘をつかないおとなになるぞ」
 充利くんは、ケンシロウの首筋を撫でながら、穏やかだがきっぱりとした口調で言った。その目には、並々ならぬ決意が漲っているように見えて、幼い僕でさえ、充利くんがどれほどつらい目にあってきたのだろうと思ってしまうほどだった。僕はふいに、今朝、父に殴られ、新聞をたたんでいた母を思い出し、我知らず、充利くんから目をそらした。
「……お母さんには、内緒だぞ。俺、志望校決まったなんて言ったけど、あれ嘘なんだ」
「嘘? 充利くん、嘘つかないって言ったじゃないか」
「……今は、しょうがないんだ。嘘のないおとなになるために、俺は、あえて嘘をつくんだ。それに、今まで俺に嘘ばっかり教えてきたのはおとな達なんだから、これでおあいこだよ」
「……そんなの変だよ」
「俺、中学でたら、地元の小料理屋で働くんだ。俺、料理好きだから、店に住み込んで働いて、いつか自分の店もちたいんだ」
「どうして、お母さんに内緒なの?」
「言ったら、お母さんはきっと反対するからさ。池田のおじさんにも、まだ言ってないんだ」
「どうして、僕に教えてくれたの?」
 充利くんはそれに答えず、またケンシロウを放すと立ち上がり、
「大きくなったら、また来いよ。俺が店を持ったら、ご馳走してやるよ」
 と僕を見下ろして笑った。幼かった僕の心に、母とそっくりなその笑顔が、ゆっくり沁みわたった。
「だから、お母さんには内緒だぞ」
「……うん。僕、誰にも言わないよ」
「誰かにしゃべったら、メンコ取り返すからな」
 充利くんは、また笑って、ケンシロウを追いかけて走った。僕も後を追った。海風は冷たかったが、ケンシロウとひとしきり遊んでいると、寒さも感じなくなった。
 日が暮れてきたので部屋に帰ると、母は夕食の用意をして待っていた。
「池田のおじさんの分も作ったから、後で持っていきなさいね」
「……うん」
「何か、不自由してることない?」
「超快適」
「そう?」
「……お母さん、帰ったほうがいいよ」
 充利くんがそう言うと、母は絶句した。
「今さらじいちゃんとこ行っても、入れてくれないと思うよ」
「……」
「……帰ったほうがいいよ」
 充利くんがもう一度そう言うと、母はうなだれて、「そうね」と言った。
 駅まで送る、という充利くんが自転車を引いて、僕達は並んで歩いた。母が言った通り、夜になって急に寒くなった。充利くんも母も、ひと言もしゃべらなかった。駅舎の明かりが見えた時、
「……六時半に、電車くるから」
 と言って、充利くんは自転車にまたがった。
「充利」
 そのまま自転車を漕いで行こうとする充利くんを、母が呼びとめた。
「……体に気をつけるのよ」
 充利くんは黙ってうなずいた。
「受験も頑張って。受かったら、知らせてね」
 充利くんはまた黙ってうなずき、僕に小さく手を振って、自転車を漕いですっかり暗くなった道を走って行った。僕はそんな充利くんの後ろ姿に向かって、大きく手を振った。
「僕、充利くんと、また会いたいなぁ」
 駅舎までの道を、母と手をつないで歩きながら、僕は言った。
「……そう?」
「充利くんも、またおいでって言ってくれたんだ」
 僕はうっかり、充利くんが小料理屋に就職するつもりでいることをしゃべってしまいそうになって、慌てて言葉を呑み込んだ。母が、ぐすっと鼻をすすった。街灯のないところだったので、よく見えなかったが、目が、涙で濡れているようだった。
「ねえ……家に帰る?」
「そうね……充利に言われちゃったもんね」
 帰りの電車の中で、母はひたすら、日が落ちて真っ暗になった海を見ていた。僕も向かいの座席で、窓に頬を押し付けるようにして海を眺めたが、本当は、窓に映る母の横顔をずっと見つめていたのだった。今日のことは誰にも話さないでおこう。僕は母の横顔を見ながら、そう心に誓ったのだった。


 あの時、母が本気で二度と戻らないつもりで僕を連れて家出をしたのか、結局は分からなかった。ただ、父の理不尽な暴力や、我慢の上に成り立つ何不自由ない暮らしに嫌気がさし、衝動で家を出て、何もかもやり直したい、と思ったことは真実だったようだ。何もかもやり直す、その中には、生まれてから一度も一緒に暮らしたことのなかった充利くんと一緒に暮らすことも含まれていた。
 それでも、母は僕を連れて、家の門扉をくぐった。離れて暮らす息子から、あんなに穏やかな口調で諭されたら、母親としては従うほかなかったのだろう。あの日、父は深夜に酔って帰宅し、食事もしなかったので、母の家出は、僕と充利くん以外の誰にも知られずに済んだのだった。



「……僕は、あの日以来、この人には逢っていなかったんです……僕は、親不孝な息子でした」
 充利くんは、火葬場の窯の前の、ささやかな祭壇におかれた母の遺影をそっと撫でながら、そう言ってうなだれた。彼は、目尻に優しい皺ができた以外は、二十年前とちっとも変わっていなかった。
「充利くんは、親孝行な息子です。親不孝なのは、僕のほうです」
 僕は、十年前、大学進学を理由に家を出た。その頃、父は外に愛人を作り、滅多に家には帰らなくなっていた。そんな家に、母をひとり残して出て行くのは、心配でたまらなかったが、母を支えなくてはいけないとう重圧が、肩から抜けていく解放感のほうが大きかった。僕は、母をおいて、あの家から逃げ出したかった。
「……お店、開いたそうですね」
 僕が話題を変えると、充利くんは顔を上げ、僕を見て微笑んだ。
「知ってたの?」
「母が話してました。僕の就職が決まった時より嬉しそうでした」
「……そうか」
 充利くんはそう言って、祭壇から離れ、外へ出て行こうとした。
「充利くん」
 僕が呼びとめると、充利くんは振り返り、
「……僕は、ここにいるべきじゃないからね」
「……お店、行きます。充利くん、僕が大きくなったら、ご馳走するって言ってくれたよね」
 僕が言うと、充利くんはふっと笑った。あの頃とは違う、疲れた笑みだった。
「場所は、地元なんだ」
 と言いながら、喪服の内ポケットから手帳を取り出し、店の住所と電話番号を書きつけて破った。
「……お店の名刺とか、ないんですか」
「うん、予算が厳しいからね」
「……僕、広告代理店にいるんです。こういう店の小冊子とか、よく作ってるんで、よかったら僕、やりますよ。会社に内緒なら、料金とかいらないから……」
 僕が言うと、充利くんは笑いながら、
「……待ってる」
 と言って、窯場を出て行った。遺影の母の向こう、鉄の扉の中からは、かすかに炎の音が漏れていた。

横顔

横顔

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-04-19

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