誰も苦しまない晩餐
表通りからずいぶんはずれた小汚い道を私は歩いていた。野良犬や野良猫が我が物顔にゴミ捨て場をあさり、古い油とドブのような臭いがそこら中に漂っていた。特別用がなかったら絶対に近づきたくないところだ。
私は知り合いに紹介された場所の地図を頼りに下水道の配管のように入り組んだ細い路地を曲がっていく。しかし、こんな小汚い路地にも政府のマークが入った『動物食禁止』の看板は立っている。もっとも看板の塗装は剥げて、あちこち錆が浮かんでいるし、ここらのような貧民区じゃあ密かに動物が食べられているという話だ。
もっとも私にそんな度胸はない。40年前に法律が施行されて以来、おおっぴらに肉を食うことは禁止されているのだ。なんでもどっかの運動家が人間と同じように動物の苦しみも配慮されるべきだといって、それがついに実を結んだのが今の肉食禁止法だという話だ。もっとも10年以上前に学校で習った話なのでうろ覚えな知識だが。
そんなことを考えているうちにぽつぽつと雨が降ってきた。ついてない。ここらの家じゃあ軒といったって雨をしのげるほどじゃない。私はいささか小走りに道を急いだ。
まったくどこなんだ。地図もいい加減なら道も分かりにくい。多分そろそろのはずだが。たしか緑の旗の下がっている家だと言っていた。もっともそれがあるのは特定の日だけらしいが。
辺りを見回してみるがそれらしき家はない。もっと先なのだろうか。
歩をいくらか進めたとき、脇の道の先に緑色がひらめいた気がした。そちらに向かって駆けていくと、思ったとおりに緑の小さな旗が下がった家があった。私は教えられたとおりに3回ドアをノックし、それからまた1拍間をおいて4回ノックした。ドアの向こうから声がした。
「落栗の」
続けて私が言う。
「座を定むるや窪溜まり」
ドアが開き、浅黒い細面の男がぬっと顔を出す。彼は私しかいないことをすばやく確認すると、「早く入れ」とだけ言って顔を引っ込めた。
なかに入ると、酒場風の狭い屋内にいくつかの小さな食卓と椅子があり、各々がそこで何かを食べている。先の男に案内されるまま奥の席に行くときに彼らが何を食べているかを横目に見た。肉だった。教科書でしか見たことがないような立派なステーキだった。
私は驚きながらもかろうじて声に出さぬようにして席に着いた。メニューが渡される。そこには簡潔に「肩」「腕」「胸」「背」「腹」「腿」「脚」といった部位だけが記されていた。
私は知り合いの言葉を思い出す。
「動物を殺したり苦しめることなく、ただ肉を食わせてくれる店があるんだ。君、そういうの好きだろう?」
何かアングラな物を感じて来てしまったものの、本当にあれは動物の肉ではないのか。だったら何の肉なのだろう。大豆からの合成蛋白質にしては妙に暗いなかでも分かるくらい生々しかった。
騙されたのか? 動物の肉を食えば懲役刑もありえる。かといってドアは屈強そうな男が立っているし、さっきから初めにいた浅黒い男が、横で無言の圧力を放っている。
「腕をお願いします」
ええいままよ、毒食わば皿までだ。私は意をけっして頼むことにした。しかし心のなかでは良心の呵責がにじみ出ていた。当たり前だ。何の肉であるにしろ動物が犠牲になるのだ。牛か、豚か、鶏かはたまた兎か。そうだ、私たちは教育ある世代なのだ。平気で動物を屠殺して食べていた祖父母たちの世代とは違う。
横にいた男はメニューを受け取ると、カウンターの奥に消えて行った。それから入れ替わりに白衣の医師のような格好をした男が現われた。食事をするところには不釣合いな格好をしたその男は、片手に鞄を携えて私の席に向かって来た。
「心配しなくいい。ここに来た人間はみんな君みたいにおびえる。罪悪感のせいでね。けれども君が食べるのは誰かじゃなく、君自身だ」
訝しがる私に向かって、白衣の男は安心させるように語り、手早く私の左腕をとって麻酔をかけた。
「君、右ききかね」
「はい、そうですが」
私が答えてる間にも急速に左手の感覚はなくなった。白衣の男は麻酔が効いたことを確認すると、おもむろにメスで私の左腕を切り裂いた。私はわけが分からず逃げようとしたが、いつの間にか周りを囲んでいた屈強な男たちに食卓に押さえつけられた。
「怯えることはない。君の腕の肉を100gばかりもらうだけだ。ほらもう剥ぎ取れた。綺麗なものだろう」
白衣の男は私の腕から剥ぎ取った肉を銀色のトレイに置く。そして奥から出てきた浅黒い男がそれを持って、また奥に消えて行った。
私があまりの事態に唖然としていると、白衣の男は止血を終え、薬を塗り始めた。
「安心したまえ、私はれっきとした医者だ。この薬はグッピーやメキシコサラマンダーの再生能力を応用したものでね、君の腕の組織を1ヶ月もあれば元通りに治してくれる」
そう言って医師は薬を塗った上から包帯を巻いた。周りを見ると、食卓について肉を食っている客たちは一様に腕や脚、どこかしらに包帯を巻いていた。
医師はその場でカルテを書き、「疑われたらこれを見せればいい」と言って、また別の客のところに向かっていった。
しばらくして、焼き色のついた肉が皿にのってやって来た。香ばしいにんにく風味のソースが私の食欲をかきたてた。
「どうぞお召し上がりください」
シェフはひとことだけ言うとまた奥の厨房に帰って行った。
私はおそるおそる、上品にアスパラガスを食べるときみたいに、ナイフとフォークで肉を切り裂いて口に運んだ。
噛み応えのある弾力と旨みが口いっぱいに広がり、合成蛋白質の「肉」とは違う、ほんものの味が私を幸福に導いた。誰も苦しめることなく、こんなに美味しいものが食べられるなんて、私はよい時代に生まれたものだと思った。他の客たちを見てみるとみな一様にうれしそうな顔で食事をしている。もう何度も来ている連中もいることだろう。私は自分がその一員になる予感を感じつつ、肉の一切れを噛み締めた。
すべてを完食した後、私は麻酔が切れ始めて痛む左腕をさすりながら、もと来た小汚い路地を歩いて行った。道は泥でぬかるんでいたが、雨はやんでいた。
誰も苦しまない晩餐