六畳半コスモ
1
その日の朝は毎日の恒例である鳥のさえずりをさしおいて、蝉がけたたましく鳴いていた。朔一の顎先にも雫状の汗が滲んでいる。それを適当に拭いながら部活用のスポーツバッグを地面に下ろした。いつもの数倍、重量感のある音がする。
「ここか……」
深々と嘆息して改めて顔を上げた。『成田荘』と記された古びた木の表札が朔一の目に映る。流麗な筆運びは朔一の祖父のものだ、それを認めると自然に安堵が広がった。
今日から朔一はここに住む。というのも、管理人であった祖父の喜一が体調を崩し春先に入院、退院するまでの期限付きでこの『成田荘』の管理を頼まれたからだ。ここは朔一の目指す大学から程近い。受験勉強の山場となる今夏を過ごすにはもってこいの場所で、朔一は二つ返事で承諾した。空き部屋はある。気に入れば大学合格後も住んで良いというのが魅力的であった。
「しかし六畳半じゃな」
苦笑を漏らしながら座り込んでスポーツバッグを開けた。喜一から預かった牢屋番のような鍵の束を取りだしてそのひとつを玄関に挿した。立て付けの悪い引き戸は、彼を主と認めたかのようにすんなり開く。静かに引いたつもりだったががらがらと朔一の登場を知らしめる粗末な音が響いた。これが玄関に在る限りこっそり帰宅、あるいは外出なんてことは不可能そうだ。
「こんにちはーっ」
誰に向けたわけでもない腹からの声で挨拶する。
「はーい、はいはーい」
反応はすぐにあった。二階から足音が響く。
「あら、どちら様ー?」
口元から泡を吹かせた女が下りてきた。無論蟹ではない。歯磨きの最中だったらしい、キャミソール一枚に短パンのラフな出で立ちだった。正直、青少年の朔一としては目のやり場に困る。
「成田喜一の孫で朔一です。今日からお世話になります」
「ああ~、キイチのっ。今日からだったっけ~。私は二〇三号の神田モエよ、よろしく」
ピンク色の歯ブラシを口に突っ込んだまま器用に笑顔をつくる。と、一階奥に向かって体を反転させた。
「チャンポーン! 新しい管理人さんっ、キイチのお孫さん!」
(ちゃんぽん……)
おそらく愛称なのだろうが何ともお粗末な気分になる。反応を待ったが奥の部屋からは何のリアクションも返ってこない。
「ったく世話が焼ける…っ」
口の中で呟きながらモエが一〇三号室まで出向く。朔一も何となくそれに倣ってあがりこんだ。
「チャンポン! 挨拶!」
「うるさいなっ、聞こえてるよ!」
不躾にドアが押し開かれ、黒フレームの眼鏡を掛けた背の高い男が顔を出した。
「ど、どうも。朔一です」
「ああ……訊いてるよ、受験生なんだってね。僕はチャン・リーホン、弁護士になるため勉強している」
(ちゃんぽん……)
「チャン・リーホンだ」
朔一は口に出してはいない、が胸中を読まれたのかチャンが名前を強調する。こういうときは愛想笑いで誤魔化すしかない。
「チャンポン頭だけはいいから勉強教えてもらうといいわよ」
「失敬だなっ。だいたいモエさん、なんて恰好でうろうろしてるんだよみっともない。歯ブラシ挿したままで朔一くんにも失礼だろ」
「悪かったわね、私は今から仕事よ。あ、そうそう朔ちゃん、私ここで働いてるからチャンポンにいじめられたら逃げてくんのよ。そのときは友だち連れてきてね」
「モエさんっ」
この軽装のどこに隠し持っていたのか不明だがモエが朔一に名刺を握らせた。桜色のそれには『クラブ・ブルーム』の所在地と代表電話番号が大きく記載されていた。なるほどモエには夜の仕事特有の華やかさと安堵感がある。妙に納得しながら無造作に裏返すと、下方には彼女のものと思われる携帯番号が印字されていた。
「それ、私のケイタイ入り特別名刺だから。滅多にあげないのよ~、寂しいときはいつでもかけてらっしゃい」
「じゃ何か緊急なときは、かけます」
「男が寂しいときは十分緊急事態よ」
朔一が笑顔でかわすとモエは更にその上をいく殊勝な笑みで軽く肩を竦めた。チャンがしびれを切らして咳払いをする。
「僕はもう勉強に戻るけど朔一くんはどうする?」
「あ、俺も。荷物整理が済んだらすぐ勉強始めます」
「じゃあ他の住人、っていっても後二人なんだけど、帰ってきたら挨拶するようメールしておくよ」
「どうもっ。じゃ俺はひとまず一〇一にいるんで、何かあったら呼んでください。モエさんもチャンポンさんもよろしく!」
「チャッ! チャンだよ、朔一くん!」
「よろしく~朔ちゃん」
チャンが必死に訂正するのを見て朔一はいたずらっ子のように歯を見せて笑うと、そのまま管理人室である一〇一号室へ消えた。後には不服そうなチャンと笑いをかみしめるモエだけが残る。と、一拍置いてモエが声を顰めた。
「……あのこと、キイチは朔ちゃんに話してあるのよね?」
チャンも一拍置いてモエを横目に見やる。しかしすぐに興味がなさそうに背を向けた。
「さあ。あの様子だとどうだろう。どちらにしたってわざわざ僕らの方から言うことではないさ」
「そんなもんかしら」
モエが独りごちたときには既にチャンの部屋の扉は閉められていた。くわえたままだった歯ブラシを噛み締めてモエは惜しげもなく顰め面を晒した。
この成田荘は喜一が還暦を迎えた年に気まぐれで建てた。木造二階建て六畳半一間が計八室、風呂、トイレ、台所が共用の今時珍しい、いや絶滅寸前のタイプの下宿だ。下宿人は案の定常にまばらであった。自信を持って住み難いと言えるこの物件に、喜一は管理人兼一〇一号室の住人として移り住んだ。そうしてもう、十年が経つ。
「思ったより広く使えるなー。持つべき者は多趣味のじいちゃん、かっ」
朔一は部屋に入ってすぐ、スポーツバッグを放り出して景気づけに大きく伸びをした。何も物がない六畳半は想像していたよりもずっと広い。窓は表玄関と同じ方向にひとつ、それから裏庭に向けてひとつあり日当たりと風通しも抜群に良かった。何もない畳の上に大の字に寝ころんで天井を見る。
(少し片づいたらまた見舞いに行くかな……)
薄ぼんやりと祖父、喜一のことを考えた。成田喜一と言えばその名を知らない者はいないほど有名な宇宙飛行士だ。無論高齢となった今では「だった」と言う方が正しいのだが、引退した後も講演活動やテレビ出演などが相次いだせいか本人は七十を越えた今でも現役宇宙の住人気分である。
(あのじいちゃんも老いには勝てないってことか)
当たり前のことを改めて思い直した。朔一にとって、祖父は永遠のヒーローであった。浮気がばれて祖母に往復ビンタを食らっても、久しぶりのテレビ出演がぎっくり腰でキャンセルになり一日中号泣して家族を困らせても、そんなどうしようもなさを打ち消すほど喜一の世界は広く、大きく、光り輝いていた。彼自身が、宇宙そのものである気さえしていた。その祖父が倒れたと聞かされたときは、朔一も自分の耳を疑った。
横になっていたせいで急激に睡魔が襲ってきた。思えば朔一が自分で持ってきた荷物はこの部活用のバッグに詰め込んだ参考書と筆記用具、数日分の着替えくらいで残りは明日届くように宅急便で送ってあるのだ、つまり整理する荷物など今の時点ではほとんどない。すぐに勉強を開始するには好都合であったが、脳内に英単語のいくつかを思い浮かべた時点でそれは極上の子守歌に早変わり、朔一はあっさり睡魔に敗北した。
2
意識の隅のほうで、誰かの「いってきます」や「いってらっしゃい」が繰り返された気がした。母親か、とも思ったがそれにしては若い声だった。自分の家に居るにも関わらず家族以外の男女が挨拶を交わす状況にとてつもない違和感を覚え、朔一は一気に現実に吸い寄せられた。
「ただいまー!」
とどめとばかりにかん高い声が大きく響く。知らない声だった。飛び起きると心臓が早鐘を打っていた。
「チャンポーン、モエさんはー?」
「仕事に行ったよ。イスズ最近帰ってくるの遅いんじゃない?」
「いろいろあるんだよー。はい、これお土産」
ドアはきっちり閉めてあるが廊下の声は筒抜けだ。チャンと、モエとは別の女の声が響いている。
「結構声が響くんだな……」
朔一は開口一番を欠伸に費やして後ろ手に頭を掻きながらドアノブを回した。
「イスズ……っ、何度も言ってるだろ、僕はバナナは大嫌いなんだよっ。そいつは朔一くんにでもあげてくれ!」
「サクイチくん?」
ドアを開けた瞬間、新しい声の主と目が合った。少女漫画の主人公のような大きな瞳で見つめられると条件反射で頬が紅潮する。寝癖もついていない髪を何度か無意味に整えた。
「ど、どうも。朔一です」
「サクイチ――その名前、どこかで聞いたことがある……」
「そりゃそうだろう、キイチのお孫さんだよ。言われてたろ、今日から管理人としてうちに来るって。もう忘れてたのか?」
チャンが半眼で自らの呆れ返りっぷりをアピールする。鼻をつまんでいるせいで随所が猛烈な鼻濁音だ。目の前でたわわに揺れるバナナから放たれる、バナナ故のバナナ臭から身を守っているつもりらしいが効果があるかは疑わしい。
「そうだった……忘れてた。ごめんなさいサクイチくん、これお詫びです」
伏し目がちになると長いまつげがより目立つ。彼女が両手で恭しく献上してきたバナナを、朔一はどうすることもできず受け取った。この際何故彼女がバナナ一房を丸ごと所持しているのか問いたいところだったが、流れとして今更のような気もして飲み込む。
「ところで何でバナナなんだよ」
(チャンポン、空気を読めよ)
嫌悪感たっぷりに、徐々に距離をとっていくチャン。朔一が飲み込んだ疑問を事も無げに口にする。バナナごとチャンポンの嫌悪の対象に成り下がった"イス"は、さすがに心外そうに口を尖らせた。
「お絵かき教室でテーマにしたのっ! もうっ、そんなに嫌そうな顔しなくたっていいでしょ」
「おえかき教室?」
今度は朔一も素直に疑問を口にする。そう言えばチャンとバナナのせいで、いやバナナに非はないからして概ねチャンのせいで互いに自己紹介ができていないことに気付く。
「そう、私週に一回子どもたちに絵を教えてるんだー。勿論自分で絵も描くよ、そっちがメインなんだけどごはん食べられないからいろいろバイトしてるの。あ、申し遅れました! わたくしイスズです! 二〇四号室をお借りしておりますっ!」
屈託無く喋って笑っていたかと思えば、最後は敬礼と共に名を名乗るイスズ。日本フリークの外国人のような妙な丁寧さと彼女のマイペースに乗せられて、朔一も思わず声をあげて笑った。
「朔一です。一応じいちゃんが良くなるまでの代理だから、なんか困ったこととかあったら言って」
「了解! 朔一!」
「朔一くん、僕はさっそくそのバナナ臭に困っているよ。頼むから早くそいつを連れて部屋にひきこもってくれ」
「……チャンポン、バナナがかわいそうだろ。なんてこと言うんだ」
「そうだよチャンポンー、バナナの気持ちにもなってよ」
「ならないよ! 馬鹿馬鹿しいっ。もう部屋に戻るからなっ」
鼻声で捨て台詞を吐いてチャンは自室、一〇三号に敗走した。結局は朔一ではなくチャンが自室にこもる道を選ぶ。廊下にはバナナの甘い香りが漂っているから当分は自主的に引きこもるだろう、少しだけチャンに同情していた矢先。
「今帰った」
「おー、コウゾウさんおかえりー」
「あ、ども。おかえりなさい」
玄関の引き戸が開く。筋肉質の男が入口をくぐるようにして中に入ってきた。昭和の頑固親父のような帰宅の挨拶に朔一は一瞬身を強ばらせた。イスズのときと同様、今回も相手と目が合った瞬間から望んでいない見つめ合いの開始だ。しかし思いの外すぐに終了する。
「キイチの孫……?」
「――です。朔一といいます。しばらくお世話になります」
「よろしく。一〇四の吉乃本晃三だ」
柔らかく笑う人だ――コウゾウが微笑をこぼすなり胸中で安堵の溜息をもらした。凝視されていた数秒間は実のところ"殺されはしないけど捕って食われるかもしれない"と真面目に考えていた。
「とりあえずバナナいかがですか」
ついでにバナナもお裾分け、しようと房に手を掛けたところで朔一が動きを止める。コウゾウは、これでもかというほど眉間に皺を寄せて今度はバナナを睨み付けていた。
「見事だ。頂こう」
また口の端からふっと吐息を漏らして柔らかく微笑まれる。イスズとはジャンルが違うがこの男もかなりのマイペースらしい、などと分析しながら見事なバナナをいくつか手渡した。
「俺は朝早くに出たり夜遅くに帰ってきたりするから迷惑をかけるかもしれん。受験生だったな」
「コウゾウさんは警備会社と運送会社にお勤めしてるんだよ」
「俺は全然平気ですよ、夜は結構遅くまで起きてるし一回寝たらちょっとはそっとじゃ起きないんでっ」
「そうか」
「あんまり頼りにならない管理人ですけどよろしくお願いします」
コウゾウはバナナを掲げて返事代わりにすると、のそのそと朔一の部屋の斜め向かいのドアを開けた。
計八室の成田荘の住人は少し癖のあるこの男女四名で構成される。そしてこの日新たに管理人代理として成田朔一――青春ど真ん中十八歳、受験生――が加わった。それは一見してどこにでもあるはじまりの風景だった。この日の問題点を強いて挙げるなら全てがスムーズ過ぎたというところだろう、が多少なりとも新しい環境に対する緊張感で冷静さを欠いた朔一にそのようなひねくれた解釈をしている余裕はなかった。更に言えばもともと朔一はさほど冷静なタイプでもない。
成田荘の秘密は朔一が入居してから一週間、長かったのか短かったのか、とにかく一週間という期間で暴かれることとなった。
3
「暑~い! 蝉うるさ~い! べたべたする~!」
モエが帰宅するなり「ただいま」代わりに文句を垂れる。確かに彼女が玄関の引き戸を開けて閉める少しの間、蝉の鳴き声が極端に大きく響いた。八月の真昼の、お馴染みの騒音だ。
「おかえりー」
朔一はノートに計算式を書きながら廊下に聞こえるように少しだけ声量を上げた。管理人室、朔一のいる一〇一号室は玄関と廊下の音が望まざるとも全て筒抜けだ。誰かが帰ってくるときは勉強中でも必ず声をかけた。
「朔ちゃーん、コーラ飲まない、コーラ」
「今はいいー」
机の端に置いた腕時計に一瞬視線を移す。後二分で現在解いている大問を終えないと「確率」の問題で時間オーバーしてしまう、得意なはずの図形問題で手間取るとどうしても焦燥が生じた。「確率」はつくづく文系のための問題だ、などと脳裡によぎる。
廊下では朔一の生返事にモエがこれみよがしに舌打ちを漏らしていた。
「淹れてもらおうと思ったのに。間が悪かったか」
仕方無しに廊下を進んでキッチンへ向かう。先客の気配があった。
「あら? 何よイスズ、今日休み?」
「あららら? モエさんは今帰り?」
朔一に代わる給仕を発見しモエが薄ら笑いを浮かべる。イスズは暑さとは別の理由で一筋の汗を流していた。言われる前にモエの分のグラスにもコーラを注ぐ。
「モエさん駄目だよ。朔、勉強中なんだから」
「はあ? このあっつい中勉強? おえ。考えただけで吐き気がするぅ。チャンポンは?」
ダイニングの椅子に座り新種の軟体動物のようにそのままテーブルにへばりつく。期待を裏切ってテーブルは生ぬるかった。
「だから勉強中」
「なにそれー! つまんなーい! イスズは? 暇?」
「私は今から制作」
ふてくされてふぐ口を作るモエの顔面前に、なみなみ注いだコーラのグラスを置いた。それに手を伸ばす余力もないのかモエは死んだ魚の目のまま、炭酸の気泡が弾けるのを眺めている。
「もういい。冷房全開でふて寝する……!」
最後の力を振り絞ってコーラをもぎ取るとそのまま一気飲み、仕上げにげっぷをお見舞いして満足したらしい肩を怒らせてモエは自室に戻る。イスズはその背中を苦笑いで見送った。
「閉めきってると地獄なのよねぇ。あーもう、やだやだ!」
モエの独り言が徐々に白熱してくる。鍵が開くと景気づけとばかりにドアを開け放した。熱気と湿気に立ちくらみさえ覚える。成田荘は夏は暑く、冬は寒い。修行するならこれ以上ない物件だが生憎住人の中には誰も修行僧はいない。
疲労が一気に畳みかけてきた。蛇行しながら室内に入り、床に放り投げたままの冷房のリモコンを拾い上げる。そのとき悲劇は起こった。いや、隠れていた悲劇の大元が躍り出てきたと言った方が的確だ。
ブゥゥン――耳元を大型バイクらしき轟音が横切っていった。しかしモエは知っている。その音が、そのような生易しいものでないことを瞬時に悟っていた。視界の端に確かな黒い影を確認する。それは宙を自由に飛び地に足をつけば高速で移動、身を隠す能力は忍者をも凌ぎ外界からのあらゆる攻撃に対して抜群の耐久性を誇ると言われる地球上最強にして最悪の生物、彼らは成田荘の先住民でもあった。
非常ベルはないからして、自分自身が全力で非常事態を知らせるしかない。モエは持てる全ての力を振り絞って深呼吸した。
「でぇたぁぁぁぁぁ!」
人力非常ベルはけたたましく鳴り、成田荘全体を駆けめぐった。同じ二階で筆を握っていたイスズへ、階段を隔てて一階で勉強していた朔一、チャンへ――。とりわけチャンの部屋は真下だ、モエの絶叫以前に振動で天井から埃が降った。
「な、なんだあ……?」
制限時間を思わず忘れて朔一も天井を見上げる。呆気にとられている間にチャンが凄まじい勢いで廊下を突き進んでいく音がする。どう考えても面倒くさい事態が発生する、もしくは既に発生していることを思い朔一が深々と溜息をついた。
「いぃぃやあぁぁぁ! こっち来たらこいつをお見舞いするわよ!」
二〇三号室は戦場と化していた。モエは殺虫剤と台所洗剤を右手と左手にそれぞれ構えて殺気満々で入口に立っている。標的が悠々自適に散歩するのを追いそこらじゅうに有毒ガスを噴射した。死闘を繰り広げる中、新手が背後から登場する。
「モエさん!」
「そこかぁ!」
プシュー! ――モエの渾身の一撃(と言っても単に力一杯スプレーのコックを引いただけだが)は見事に第二の敵の顔面にクリーンヒットした。チャンの眼鏡が殺虫剤の油分で光り輝く。無論チャンはむせ返りながら力無く座り込んだ。
「……なんだチャンポンか。紛らわしいわね! 私の背後に立つんじゃないわよ!」
「何が紛らわしいだ! 常識的に考えてまず謝るだろう!」
眼鏡では完全防御はできなかったらしい、チャンは殉死した眼鏡を外して両目から溢れる涙を拭う。モエはまた顔を背けて舌打ちを漏らした。
「ごめんなさいねぇチャンポン、うっかりゴキブリと混同しちゃって。立ち直ったら、やれるわね?」
「はあ?」
モエがチャンに無理矢理握らせたのはくたびれたスリッパだった。唯一奴等に対抗できる強力武器だが、誰しも自分の手は汚したくない。背後では未だ飛行音がこだましていた。
「さあっ。おゆきなさい!」
「あんたって人はっ……! 僕を何だと思ってるんだ!」
「もちろん勇敢な戦士よ」
「バカは休み休み言ってくれ! だいたいゴキブリごときで何で大暴れするんだ、理解に苦しむよ!」
どこそこの血管がはち切れそうなほどのチャンの力説に一旦は平常心を取り戻したモエも再燃、額に特大の青筋を浮かべてチャンの胸ぐらを鷲掴みにした。
おそらく、後から考えればこのときが"スイッチ"だったのだろう。
「あんたからの理解なんか不要! しのごの言ってないで男ならやりなさいよ!」
「困ったらすぐ暴力か? 見た目は女性でも中身は別物だね!」
「何よ、やる気?」
「あーいいさいいさ、やってやるよっ」
モエが、チャンポンが、我を忘れて罵り合うこと一分弱。ドアを盾代わりに恐る恐る廊下に顔を出すイスズ、状況を一瞥して目眩を覚える。それは廊下に充満した殺虫スプレーのせいかもしれなかったかがもはやどちらでも良かった。
「二人とも! 鏡っ、鏡見てよもうっ。興奮しすぎだよ」
「うるさ~い! 私は怒っても美しいわよ!」
「そういうことじゃなくて……っ」
イスズが恐れていた事態は既に発生した後だった。一階でドアを乱暴に閉める音がする。コウゾウはまだ仕事から帰宅していない、つまりこの時点で一階に残っているのは朔一だけだ。案の定階段の下の方で腕組みして苛立ちを顕わにしている。イスズの顔が一気に青ざめた。
「さ、朔っ」
「なんでこう次から次へと連鎖反応でうるさくなるんだよ……」
疲労感たっぷりに嘆息しながら階段を上がる。イスズは成り行きを見守ることにしたらしい、ドア越しに愛想笑いを浮かべて朔一を迎えた。
「モエさん、チャンポンうるさすぎ! 喧嘩するなら冷房使用禁止に……す、る……」
朔一の管理人らしい威勢の良い説教は、見事なまでに尻窄みとなり語尾はどこかへ消えた。
廊下の突き当たりに目を奪われる。そこは二〇四号室、モエの部屋のはずだが開け放たれたドアの前でもみ合っている物体には見覚えがない。生まれてからの十八年間という歴史を全て辿ってもさっぱり見覚えがない。
「朔ちゃん、ちょうど良かった! ゴキブリよ、ゴキブリ! 退治して~管理人さ~ん」
「朔一くん、ちょうど良かった! ゴキブリなんかどうでもいいからこの女を退治してくれないか!」
モエの部屋の前で取っ組み合いをしている「モノ」たちが自分の名前を親しげに呼ぶ。更に何かしらの退治依頼をしている。朔一は目を凝らしたが理解や判断をするには視覚だけではあまりに情報が少なすぎた。そのくせチャンとモエの声だけはしっかりと認識し、混乱だけが残る。
しばらく凝視した。片方は、体全体が金属でコーティングされているかのように無駄に艶やかで、小雨程度ならはじき返しそうな程光沢がある。全長は裕に二メートルあり手足が身長に対して異常に長くバランスが悪く見えた。
結論、こいつは人間じゃない――ひとつ証明問題を終えたところですぐ横にいる取っ組み合い劣性の方に思考を移した。しかしこちらに関しては考察に時間を要しなかった。というより不要だった。
結論、こいつは絶対に人間じゃない! ――視界に入れた直後に思い切り目を逸らした。メタリック体の半分ほどの大きさしか無いそれの皮膚(らしきもの)は全身深緑色だ。
(いや……、もう大きさとかの問題じゃないなこれ)
自分で自分に冷静につっこむ。余裕があるようだが朔一は眼前に広がる地獄絵図、百歩譲って異次元空間に気分が悪くなっていた。カップ販売のプリンをひっくり返したような体に棒状の目がおまけのように上方にくっついている。ありとあらゆる擬態語で表現するなら、ねばねばのぐちゃぐちゃのぬとぬとの生物がそこにいた。
「夢か」
最終的な結論としてシンプルだが実に納得のいく単語を持ち出すと、朔一は何事もなかったかのように踵を返した。
「ちょっと朔ちゃーん」
「朔一くん! まさか放っておくのか、この状況を!」
当たり前だと胸中で叫んだ。手を出せばこの悪夢が現実になることは本能で何となく分かる。既に現実の一歩手前まで不法侵入されているのだ、受験を前に明らかに面倒くさそうなパラレルワールドに足を踏み入れたくなどなかった。
と、よりまともな現実へ引き戻してくれそうな人物がようやく帰宅する。玄関の引き戸が開けられコウゾウと目があった。
「騒がしいな、またモエとチャンか」
日常茶飯事だと言わんばかりの諦めの嘆息をしてコウゾウは自室へ向かう。それを「奴ら」は阻止するためにわざわざ階段近くまでもみ合いながら移動してきた。朔一が背後の気配に声なき悲鳴を上げる。
「コウゾウさんゴキブリよ、ゴキブリ! 今始末しないと今夜あたり下に行くわよ! コウゾウさんの部屋に!」
「……ごきぶり……?」
モエの声でヒステリックに喋るメタリックな物体、に引きずられて小汚い嗚咽を漏らしている緑色の軟体、二体が階段付近までやってくると朔一は身の危険を察知して壁際にへばりついた。 コウゾウは目を見開いていた。それもそのはず、モエとチャンが揃って理解不能な物体に変化しているのだから当然の反応だ。などと仲間意識を覚えていたのは朔一ただひとりだった。
「ゴキブリだと……?」
今度ははっきりと呟く。その静かな、しかし確かな変貌に朔一の背筋に高速で悪寒が走った。
「どこだ!!」
ただただ眠そうだったコウゾウの穏やかな目が途端に開眼、わき目もふらず階段を二段飛ばしで駆け上がると二〇四号室の前で急ブレーキをかけた。唆したモエはしてやったりと笑みをこぼす。
「中か!」
「中でーっす」
つい先刻まで青春を謳歌していたゴキブリはこのとき既に命の危険を察していたのか意気込むコウゾウの足元を横切り全力逃亡を図った。騒動の元々の原因が廊下に躍り出てきたのを目にしてモエを筆頭にまたもや小パニックを起こす。しかしそれはコウゾウによってすぐに朔一ひとりの大パニックに変えられる。
「調子に乗るなあぁぁぁ!!」
始終健気にNGサインを送っていたイスズ、その努力がこの時点で決定的に水の泡と化した。コウゾウだったもの、は尻から生えた二メートルほどの尾を軽快に一振りしターゲットを壁に叩きつけた。それが文字通り一撃必殺となり敵はあっさり死滅、コウゾウは満足そうに逞しい尾をまた一振りした。それはさながら強く美しい竜のよう――とは百歩譲っても思えない。
「大トカゲ……」
朔一は十八歳の少年らしく見たまま思ったままをそのまま口に出した。その瞬間、敵殲滅に喜色満面でハイタッチしていたモエが、コウゾウが、そして冷静さを取り戻しつつあったチャンが凍り付く。イスズはただ項垂れていた。
「えーと、朔ちゃん。これはねぇ、えっとー。……チャンポンほら、ちゃんと説明しなさいよ」
全身メタリック加工の生物が愛想笑いを浮かべる。
「これはだね、朔一くん。その。まあ何というか、世の中は大変広く出会う人も十人十色というか。ですよね、コウゾウさん」
その横でワカメ饅頭とでも表現するしかない色合いの軟体が、しどろもどろ弁解を始める。二足歩行の大トカゲは申し訳なさそうに頭を下げた。
「すまん、取り乱した」
「いや、コウゾウさんそこじゃなくて……」
「あ、でもごめんね~朔ちゃん、勉強中だったんでしょ? もうあの極悪生物もやっつけたことだし大人しくするから~」
「モエさん、それはまず僕に言ってほしい言葉だな! まったく騒々しいことこの上ないよ」
目を点にして放心する朔一をよそに、下手物共が談笑を始める。彼らにとっての大問題と、朔一が目の当たりにしている大大大問題はどうやらベクトルの方向が完全に違うらしい。しかも彼らの方は既に解決している。爽やかな空気が漂う中、朔一の半径一メートルあまりだけが唐草模様に彩られていた。
「な……」
目の前の光景は夢か幻か、この際現実でなければどちらでも大歓迎だったが連中は揃いも揃って迷いもなく朔一の名前を連呼している。微かな希望にしがみつくのをやめると、急激に混乱が頭の中を支配した。
「なんじゃこりゃあぁぁぁ!!」
朔一は十八歳の少年らしく素直に、率直に、思いの丈を大絶叫した。成田荘に本日何度目かの奇声が響き渡った。
4
「じいちゃん!」
「おーう、朔! 元気じゃったかー?」
病室の扉を思い切り開けた。中に居た数人の看護士が顰め面で口元に人差し指を当てる。喜一はベッドの中で上半身だけを起こして悪戯っぽく笑っていた。
朔一は成田荘を飛び出し、そのまま全速力で喜一の入院する病院へ走ってきた。狐につままれたどころの話ではない、今の朔一の心境は言うなれば狐に卍固め食らわされている状態だ。興奮さめやらぬ様子で、息を切らしたまま喜一に駆け寄った。
「おーう! じゃないっ。説明してくれよ、何なんだあそこ! 何なんだよあの連中!」
喜一は年甲斐もなくふぐ口を作ると、話し相手にしていた看護士たちに手を振って人払いをした。祖父と孫だけが取り残されその二人が沈黙を作ると、病室はあまりにも静かだった。朔一の呼吸の音と、喜一がおもむろに注いだ煎茶をすする音だけがやけに響き渡る。
「何って、宇宙人じゃけど」
喜一は悪びれもせず当然のように言ってのけた。朔一がリアクションをとらないせいで、また完全たる静寂が辺りを包む。
「は?」
結局わざわざ考えた末に、咄嗟にしそうな応答を返した。
「だから、宇宙人」
喜一も負けじと何でもない風を貫く。朔一としてはまさかあの一連の騒動が、このような一単語で片づいてしまうなどとは思ってもみなかった。
宇宙人――実に馴染み深い言葉だ。宇宙にお住まいの全ての方々を指すならば地球人も大義では宇宙人扱いだ。成田荘の住人たちは正しくは"地球外生命体"というやつではないのか。などと細かいことを気に留めている場合ではなかった。
「なんでその宇宙人さんたちがじいちゃんの下宿に凝り固まっちゃってんだよ……!」
「宇宙人専用なんじゃから当然じゃろー?」
「そういうことじゃなくて」
「こいつは最後の土産のつもりだったんだがなぁ」
喜一はまた子どものように歯を見せて笑った。それが朔一の目には、心なしか少し寂しげに映った。
「宇宙にはいろんなものがあるぞ、朔」
喜一がこのはじまりで話を始めると長い。還暦を過ぎたあたりから新しいネタも無くなったのか以前聞いた話をすることも多くなった。ブラックホールだらけの空間を華麗にすり抜けた武勇伝、地球にはない植物、地球にはいない虫の話、朔一が子どものころから親しみのあるそれらの話の中に、"宇宙人"は一度も登場しなかった。
「いろんな星に、いろんな文化といろんな住人が生きている。わしらは幾度もの飛行でそういうたくさんの宇宙人と友人になった。地球上で彼らの存在を公表しないという約束のもとで、我々と彼らは互いに文化や言葉を学び合った。そういう中で地球、とりわけ日本に興味を持った異星人がいてな、まあそれが彼らの星の住人というわけじゃ」
朔一の中の違和感は簡単には拭い去れない。何せ喜一が宇宙を飛び回っていた頃は、地球にはない小さな葉ひとつ見つけただけで英雄のように扱われた時代だ。実際喜一はそれらを当時のクルーたちと共に発見し、一躍時の人となった。ちやほやされることが生き甲斐の喜一が、引退してから今まで世紀の大発見を黙っていたなんて――
「地球人は排他の文化を持つ種族じゃからな」
朔一の胸中を見透かしたように喜一が補足を始めた。
「人間は、"目に見える姿"でそのものを判断する。更に,多くの者は自分と異なるモノを倦厭する。……朔、お前は多くの者のひとりか?」
心臓が、一度大きく脈打つのを感じた。
「じいちゃん……なんかとてつもなく感動的なこと言って誤魔化そうとしてない……?」
「朔こそわしの知らない間にひねくれおったな……!」
「いや普通だろ! ……あ~、もういいよ。これ以上じいちゃんと話してたら上手く言いくるめられそうだ」
溜息をついて踵を返す。喜一はまたふぐ口をつくってそれを見送っていたが、朔一がドアの前まで来ると思い出したように顔を上げた。
「なあ、朔よ」
語りかけるように呼び止めると、朔一も一旦立ち止まって顔だけ病室内に振り返った。喜一が自らの薄い胸板――左胸――に拳を押し当てる。
「判断は『ここ』でしろよ。それでもってあいつらが嫌な連中だったら、そのときはまたじいちゃんに言ってこい」
「はいはい、『ここ』ね。何でもいいから次こういうことがあるときはちゃんと言っといてくれよな」
朔一は苦笑混じりに拳をつくり同じジェスチャーを返した。来たときとは打って代わって穏やかな気持ちで病室を跡にする。
結局上手く言いくるめられたのかもな――思い出してまた苦笑い、喜一の言葉のいくつかが朔一の脳裡でぐるぐると規則正しく回っていた。
成田荘の玄関の前で、朔一は無意識に一度大きく深呼吸した。無駄にやかましく住人の帰宅を告げてしまう引き戸をいかにして黙らせるか、考えてみたが良案も浮かばない。結局何の工夫もなくそろそろと控えめに扉を引くしかなかった。飛び出してきたときにはこれでもかというほど騒がしかった廊下が今は静まり返っている。朔一は静寂を破らぬよう第一声を慌てて飲み込んだ。
足音と息を殺し細心の注意を払いながら廊下を進む。と、微かに話し声が聞こえた。声は一○四号室、コウゾウの部屋からで耳をそばだてると会話の内容までしっかりと聞きとることができた。どこまでも壁が薄いところはもはや成田荘の長所だ。
「確かに一番最初に原型に戻ったのは私だけどー」
「分かってるよっ。全員に責任があるさ」
モエの気怠そうな声と、チャンの面倒そうな声が壁越しに聞こえる。どうやらコウゾウの部屋に全員集まっているらしい、朔一はそのまま壁にもたれて様子を伺うことにした。
「だいたい隠していたこと自体が間違いなんだ、きちんと説明さえしておけばこんなことにはならなかったと僕は思うけどね」
チャンの溜息混じりの台詞に、廊下に突っ立ったまま朔一が無言で頷く。
「喜一が言っていただろう。我々の存在自体が地球では認知されていないんだ、説明すれば丸く収まっていたというわけでもない」
「でもちょっとあのバレ方はクレイジーよねぇ~」
コウゾウとモエ、ゴキブリ騒ぎでとりわけ取り乱していた二人が何故か一番マイペースを保っている。チャンの苛立ちが目に浮かぶようで朔一は思わず苦笑をこぼした。
「もう見られちゃったものは仕方がないよ……。これからどうするかを考えよ?」
疲労感がにじみ出たイスズの声。そう言えば、と思い朔一はドアに付けられている磨りガラスから少しだけ顔を覗かせた。イスズの"原型"とやらは目にしていない。単なる興味本位を阻止するようにガラスはしっかり中の様子を遮断していた。あっさり諦めて再び定位置に戻る。そもそも今も全員があの姿のままとは思えなかった。
「とにかく。曲がりなりにも今の管理人は朔一くんなんだ。彼がノーと言ってしまえば僕ら全員一気にホームレスなんだぞ、あの驚きっぷりを考えれば十分に考えられる事態だ」
「そいつは困るな」
「あたしも困る……」
「お願いするしかないわねー。つまりはあれでしょ? 朔ちゃんの前では原型に戻らなければいいんじゃないの?」
モエの提案に何人かの唸り声が重なり合っていく。
「それってお風呂上がりとかも駄目かなあ」
「俺は保証できん。また『奴』が出れば条件反射で戻る可能性の方が高い……っ」
「コウゾウさんゴキブリ大嫌いだもんねぇ……」
「つまり無理なんだよ! 息が詰まる! 元に戻るなって、それ人間で言うところの自分の家でおならするなってのと同じだよ」
チャンの妙に説得力のある例えが炸裂したところで、モエの堪忍袋の緒(耐久力ゼロ)がまたしてもあっさりちぎれ去った。
「何よだらしないわね。全員つまみ出されたいの?」
「じゃーあ、モエさんは実行できるっていうのか? できなけりゃ即出ていくんだなっ?」
モエのいつもの売り言葉を、チャンは何故か毎回全力で買い占める。再び開戦された低レベルな罵り合いに、朔一は脱力して廊下の隅に座り込んだ。諫めようとしないイスズとコウゾウはおそらく朔一と似たような心境にあるのだろう。それでも朔一の堪忍袋(最近急激に劣化した)が切れる間際には、イスズの仲裁が入った。
「とりあえず努力義務ってことで置いておこう? 今日みたいに全員が突然原型になって大暴れなんてことそうそうしないでしょ」
「それもそうね。要は心構えの問題よ」
(それをモエさんが言うのか……)
ドアを隔てた向こうで今度はチャンと同調、無論互いに認識はしていないが。
様子伺いに真剣になって、朔一はドアを開けるタイミングを完全に逃していた。実のところ玄関を開けた瞬間に全員何でもなかったように振る舞っている気がしていたから、この即席作戦会議は意外だったのである。
「ねえ、じゃあこういうのはどうかな。朔の大学受験を私たちで徹底サポートするの。私たちのいいところをちゃんと朔にアピールできると思わない?」
話が少しだけ正しい方向に傾いた気がした。もう少しだけ、このまま聞き耳をたてることにする。
「いいわね、それ。チャンポンあんた頭いいんだから無償でカテキョしなさいよ」
「……確かに僕は頭がいいが、自分の勉強だってある。だいたいモエさんたちはどうサポートするんだ」
チャンのもっともらしい疑問に誰も即答できずにいる。これでは彼の独り損で、それに対する呆れから特大の嘆息が放たれた。確かにわざとらしくはあるが、溜息の音でさえ成田荘の貧弱な壁は遮断してくれないらしい。朔一は含み笑いをこぼしてようやくドアノブに手を掛けた。
「そうね……千羽鶴を折るとか」
「そんな非科学的なっ」
考えた末の苦し紛れすぎるモエの回答、磨りガラスを覗き込むとチャンらしき影が惜しげもなく肩を竦めていた。その隣で人一倍大きな影が律儀に挙手をした。
「俺は……鶴は折れん……!」
思い詰めた顔で実にくだらない報告をされて今度はチャンの堪忍袋の緒(使い捨てタイプ)が極限状態となる。聞いている限りでは三分に一回の割合で彼らには一触即発状態が訪れるようだ、再び大乱闘を起こされる前にと、朔一は勢い良くノックをしてそのままドアを開けた。
唖然とする下宿人たち、跋の悪そうな朔一、互いがほんの数秒だけ無言で見つめ合った。
「朔っ。おかえり」
「や、やっだー朔ちゃん! びっくりしたぁ。あ、びっくりしたのはそっちか、ごめんなさいねー」
「モエさん元凶なんだからきちんと謝れよ! 朔一くん昼間の状況にはいろいろと理由があってだね……」
「朔一、驚かせてすまなかった」
思い思いに狼狽える連中の言い訳を遮ってコウゾウが深々と頭を垂れた。紳士、というより彼はどうも武士の臭いがする。士気に当てられたか、真っ先に言い訳を口走ろうとしていたチャンも一旦口をつぐんで咳払いで誤魔化した。
「いや、ほんと申し訳なかったと思う。何も説明してなかったしさぞびっくりしたと思うよ。僕もみんなも反省していたところだ」
朔一は苦笑いで応えた。思いの外リラックスしている朔一に皆ほっとしたのかそれぞれに顔を見合わせる。
「聞いたよ、じいちゃんから。……たった今だけどね」
「朔、あのっ。それなんだけどね? みんなやっぱりここくらいしか気を許して住めるところってないし、なるべく原型には戻らないように頑張るから追い出さないで欲しいの! お願いします!」
他者を押しのけて先頭に立つイスズ。そのまま両手の平を合わせて懇願、というよりも実質拝んできた。
「宜しく頼む」
武士もどきがまた深々と敬礼するのを真似て、始終ふてぶてしかった残りの二人も頭を下げた。神でも仏でもないただの成田荘管理人代理が、下宿人全員に拝み倒される状況ははっきり言って昼間の下手物フェスティバルより数倍異様な光景である。
堪えてきた笑いが一気に唾液と共に吹き出した。心外そうに目を丸くしたのはすぐ目の前にいたイスズだ。
「いや……っ、ごめんあまりにもアホらしくてつい……」
「朔……私たちには死活問題なんだよ」
イスズの懇願の瞳が非難の色に変わる。
「誰もつまみ出したりしないよ、俺はただのじいちゃんの代理で王様じゃないんだからさ。……慣れるまでお互い不都合なところもあるだろうけど、ま、協力して頑張ろう」
非難から希望へ、イスズの瞳はころころと表情を変える。朔一のはにかんだ笑みがその瞳の奥に映し出されていた。
「さっすが朔ちゃん! そうよ、みんなで協力すれば成田荘は無敵の最強、こわいもんなし! さ、一件落着したところで解散しましょ。朔ちゃん、チャンポンはお勉強お勉強っ」
モエはひとりで一本締めをすると清々しい顔つきで二階へ上がっていった。成田荘の目指す方向性が多少ずれている気がしないでもなかったが、彼女の言うとおりようやく訪れた大団円をぶち壊す理由にはならない。朔一の鼻腔から、何度目かになる長い長い嘆息が漏れた。
こうして朔一は知りたくもなかった成田荘の秘密と真実を知った。祖父に言いくるめられ、下宿人たちに更にうまく踊らされたことなど本人は知る由もなく、朔一はあっさりこの特異な現実を受け入れてしまった。そして改めて始まる日本人ではない、ましてや地球人ですらない彼らとの共同生活に朔一は何の準備もなく踏み込んでしまうのだった。
5
「どうせこもってばっかりなんだろ? たまには顔出せよ、思いっきり空振りしてストレス解消しろって」
携帯電話の向こう側で笑い声が響く。朔一は一瞬だけ電話の本体を耳から遠ざけた。机の上にはシャープペンシルと解答用紙が放置されている。先刻かかってきた部活仲間からの電話をとってしまったがために勉強は中断を余儀なくされた。しかしそう迷惑というわけでもない。電話が鳴る前から朔一の集中力は枯渇していたし、そうでなければそもそも応答しなかった。
うちわで気怠く顔面を扇ぎながらついに畳の上に体を投げ出す。
「気が向いたらなー……。今の俺にこの炎天下の中バットを振り回すマゾ思考はない」
「追い出し会で『引退したくありません』つって号泣したのはどこのどいつだ?」
「誰だ、その気色悪い奴っ」
言うまでもなく朔一本人だ。野球部の三年生は例年夏の大会を最後に引退する。大学受験を控えた者もそうでない者も同様だ。甲子園予選二回戦で例年敗退する弱小部ではあったが、朔一にとって部活は青春そのものだった。
「お前はいいよなー……、空振りしに行く余裕があって……」
「うわっ、腐るなよー。余裕じゃなくて気分転換だって。来る気になったら声かけろよ、俺もつきあう」
「気が向けばな」
気付けば同じ台詞を二度言っていた。あれだけ毎日走り回っていたグラウンドも、少し離れれてしまうと眩しくて現実離れした世界に思える。兎にも角にも今の朔一にとっての現実は、無造作に転がったままのシャープペンシルと白紙に近い解答用紙が象徴だ。そして――
「チャンポーン! 米がないんだけど!」
けたたましく響くかん高いモエの声。静寂とは無縁のウルトラグローバルなこの環境が、もう一つの確固たる現実だ。台所からの絶叫らしいがモエの場合どこに居ても同じくらいの声量で朔一の耳に届く。
「チャンポォン! 米!」
もはや麺類なのか穀類なのか判別不明だが、成田荘内に限ってはこの名詞の連発で会話は成立する。意味は「米がきれたから近くのスーパーまでチャンに買ってきてもらいたい」である。
「無視してんじゃないわよ! 米がなくてもいいっての?」
声が更に大きくなった。地団駄がこの頼りない木造建築を揺るがす前に、朔一が跳ね起きて廊下に出た。
「モエさん、俺が行くよ。米だけ?」
「わお、朔ちゃん気が利く~。牛乳も買っといてくれるとモエ嬉しい~」
廊下の突き当たりで喜びのくねくねダンスを踊るモエ。暑さで頭がおかしくなったのかと思ったが、少し考えて元々成田荘にまともな人間がいなかったことを思い出すと納得して二三度頷いた。
「行ってらっしゃ~い」
そのままその妙なくねくねダンスに見送られて朔一は内側から玄関の戸を引いた。今頃二○三号室でチャンが万歳三唱をしているような気がして想像だけで腹が立つ。と、勢い良く踏み出した足元を何かがのんびり横切っていくのが視界に映った。
(げ。まさかまたアレか?)
冷や汗をかきながら高速で振り返る。相変わらずのんびり廊下を行進しているのがゴキブリでないことにまず安堵した。刹那、ベタだとは思いながらもその物体を二度見してしまう。野球の硬式ボールより少し小さいくらいの大きさのクラゲが、マイクロファイバーのマットのような足をちょこまかと動かして懸命に廊下を這っている。
(いやいや! クラゲにしちゃ形がしっかりしすぎだろ)
言うなれば"スライム"だ。でなければ陸上をのろまに進む新種のクラゲということで片づけるしかないが、何の躊躇もなく階段の方へ進むところを見ると同居している宇宙人の内の一人だと考えるのが妥当だろう。
「イスズ……?」
クラゲの歩行が止まる。どうやら正解を言ってしまったらしい、手だか足だか分からないが歩行に使用していた触手のようなものを高々と掲げてこちらに振り向いた。
「あ、ただいま。ごめーん、ぼーとしてたー」
やたらに小さい声が足元で響くが、イスズの声であることに間違いはなさそうだ。そのまま何事もなかったかのように階段へ向かおうとするのを朔一が慌てて制した。
「イスズ、まさかそれで帰ってきたの? どこから……」
「え?」
よそ見をしたせいで階段の一段目――今のイスズにとってはちょっとした壁のようのものだ――にぶち当たる。鈍い痛みと引き替えに当人もようやく自分の外見を認識したようだった。
「おわー! なんでー! 服と鞄~!」
我に返るなり即座に人型になろうとするイスズ、本人が狼狽えている通り今戻れば全裸に相違ない。
「イスズたんま! それはちょっとさすがに!」
まずい反面嬉し過ぎる、という本音は省略しておきながら全く目を逸らす気がないあたりが自分でも悲しい。しかし抜群のタイミングで視界は突如真っ暗になり、再び開けたときにはイスズは既に二階の自室に駆け上がっていた。
「朔ちゃんも男の子なのねー」
背後からモエのにやつき顔が登場するや否や事の次第はすぐに判明した。わざわざ目隠しするために後ろから抱きついてくれたようだ、究極のありがた迷惑に朔一も素直に口をへの字にひん曲げた。
「よくイスズだって分かったわね」
「ここに住んでて分からない方がどうかしてるでしょ……にしても何で原型? いくら何でも気付かないで帰って来るってぼんやりにも程があるんじゃ……」
二○四号室のドアが勢い良く開き、そして閉められる。服を着終えたイスズが凄まじい勢いで階段を駆け下りてきた。彼女にもうぼんやりの要素はどこにもない。モエに抱きつかれたままただただ唖然とする朔一と目が合うと、切羽詰まった表情で足踏みした。
「鞄と服探して来るっ。あんまり覚えてないけどたぶん道路の端っことかに落としてきてるんだよ~最低~」
イスズは朔一の応答も待たず、紅潮する顔を手のひらで覆いながら猛スピードで玄関を飛び出していった。開け放された入り口からは紫外線のきつい西日が容赦なく差し込む。
「ははあ~王子となんかあったな、ありゃ」
「王子?」
モエの意味深な言いぐさに乗せられてつい聞き返してしまった。朔一の間髪入れずの切り返しにモエは喜色満面だ。
「聞きたい?」
「はあ、まあ」
「イスズの想い人よ。お絵かき教室の父兄かなんからしいんだけど、最近かなり熱あげちゃってるみたいね。」
「……それって地球人?」
「当たり前でしょ。隣近所でそうそう異星人にうようよされちゃたまったもんじゃないわよ」
隣近所を異星人で固められた朔一としてはそっくりそのまま同じ台詞をモエに返してやりたいところだったが話が面倒な方向へ向かいそうだったので胸中に留めておくことにした。なんだかんだ思いをめぐらせながらモエの束縛をほどくと、気持ちだけ急いで靴紐を結んだ。
「俺もイスズの鞄探してくるよ、なんか危なっかしいし」
「米さえ買ってきてくれれば私は何でもいいわ」
「牛乳もでしょ」
モエは引き戸の隙間から差す紫外線を一瞬浴びるとすぐさま踵を返した。なるほどモエを撃退したいときは玄関を開け放てばいいらしい、などとくだらない発見に感動し朔一もイスズの跡を追った。
6
夕方になると焼けこげるような暑さは和らぐものの、反比例して太陽光線は昼間に増して赤い輝きを放っていた。真横にいびつな形で伸びた自らの影を連れて、朔一は小走りで駅方面へ向かった。ジャージ姿で無心に走るとどうも今から部活が始まるような錯覚に陥るが、鼓膜をくすぐるのは豆腐屋のラッパやどこかの家の風鈴の揺れる音で、やけくそ気味の号令や金属バットの爽快な打撃音なんかは無論聞こえてこない。現実を知らしめるようにどこかの家の開けっ放しの窓から、親父の軽快なくしゃみが聞こえた。
「イスズ」
走り込みは開始三分も経たずして終わる。密集した住宅を抜けて土手に抜けると沈む寸前の太陽が最後の悪あがきとばかりに全力で下界を照らしていた。
割と傾斜のきつい土手の中腹で、雑草に取り囲まれたイスズが宝探しに熱中している。と言っても探しているのは自分の鞄と着ていた洋服なのだが。
「この辺?」
朔一も雑草の中に分け入る。
「朔っ。ごめんね」
「いやいいけど……わざわざ雑草の中を突き進んで帰ってきたの……?」
「途中からやけに足元が悪いなあって思ってたから間違いないと思うんだけど」
イスズにとっては確固たる根拠らしいので一応逆らわずにおくが、一心不乱に雑草をかき分ける彼女を横目に朔一は時折顔を上げて道の方にも視線を向けた。
「鞄、大事なもの入れてた?」
走っていたときの方が涼しかった気がする。額から頬を伝って汗が流れた。
「お財布くらい。でもいろんな意味でまずいと思うんだよね、ああいうのが一式道端に落ちてるって……あ! あった」
案外労せずして見つけることができて安堵したのも束の間、雑草の上に脱ぎ捨てられた状態のワンピースを見て朔一は青ざめた。加えて、偶然なのかきちんと両足揃えられたままのミュールと籠性の鞄が放置されているのが視界に入る。確かにこのセットを何も知らない道行く人が発見すれば在らぬ方向に解釈される、そうならなかったことに今度こそ真剣に安堵の溜息を漏らした。そそくさとワンピース(とおそらくそれに巻き込まれてある下着)をかき集めるイスズに並んで、朔一は籠バッグとミュールを拾い上げた。照れ笑いで誤魔化そうとする彼女を見ると説教する気が途端に萎えた。
「〝王子様〟と何かあったのかって、モエさんが心配してたよ」
イスズのビー玉のように丸い瞳が更に丸くなる。照れ笑いがすぐに赤面に変わった。
「モエさんのお喋り……」
「俺に協力できることがあれば手伝おうか。て言っても知らない奴じゃ――」
「ほんと!?」
ジャージの裾を思い切り掴まれて朔一は咄嗟に後ずさってしまった。予想だにしないリアクションである。ここは「ありがとう、気持ちだけ」だとか言って軽く流される場面のはずだったが、イスズの瞳には朔一の適当な社交辞令が希望の光にでも見えてしまったのだろう。宇宙人相手に軽口を叩いた自分を胸中で高速でなじり倒した。
「朔が協力してくれるなら百人力だよ! 同じ地球人だし、男の子だし、確か同い年だしっ。そうと決まったら見せなきゃだね。来て! こっち!」
高校男児(地球人に限る)というとてつもなく広域な条件を満たしただけでこうもはしゃがれると不安だけが渦巻く。そんなことを言えば自転車を押して制服の彼女とイチャイチャ下校しているそこのあいつも、気怠そうに参考書を読みながら毛むくじゃらの犬の散歩をしているそこのあいつだって条件を満たす。などという弁解はエンジンに火のついたイスズにはもはや受け入れてもらえそうになかった。宇宙に住むクラゲ星人はどうやら見かけに寄らずかなりゴーイングマイウェイらしい。
朔一は期待に胸を膨らませたイスズに引きずられて駅に程近いコンビニエンスストアに辿り着いた。ガラス張りの店内にはそれらしき高校生を含め数人の客が商品を物色してうろうろしている。
「この時間はだいたいいつも立ち読みしてるの。ほら、あそこっ」
どこかの会社の営業車の陰に身を隠しつつ、イスズが雑誌コーナーを指さした。確かにブレザーを着崩した高校生が体を外側に向けて雑誌に読みふけっている。
(宇宙にもストーカー紛いがいるんだな……)
相手の行動パターンを把握している時点で結構なハイレベルだなんてことは、口が裂けても言えない。すっかり恋する乙女の瞳になったイスズを横目にそのストーカーレベルを心配していたせいで、朔一は次なる驚愕の事態に気付くのが半テンポ遅れた。しかしそのおかげか、新たに生じた完全に面倒くさい事態を自ら招くことだけは避けられた。
世間は、いや宇宙は狭い……――乙女漫画風に輝くイスズの視線の先を今一度、無駄だと思いながらも確認した。雑誌コーナーで気怠そうに突っ立っている高校生、紛れもなく朔一の学校の制服だ。濃紺の、どこにでもあるようなデザインのブレザーだが胸ポケットに刺繍されてある校章は思わず目を反らしたくなるほどド派手だ。それだけならまだしも、男子学生が自分の隣に無造作に置いてあるスポーツバックにも見覚えがある。見覚えというより、成田荘の一○一号室に放り投げてあるものと全く同じだ。こいつも"南鷹高校野球部"と側面一杯に記載されており、無駄に自己主張が激しい。
もう一度だけ、既に粉々に砕け散った期待を抱いてもう一度だけターゲットの顔を見直した。そして改めて愕然とする。朔一は目頭を押さえてアスファルトに視線を落とした。
「まさか……哲かよ……」
「知り合いっ?」
今すぐ知り合いから一抜けたい気分である。朔一の携帯電話の着信履歴、最後の名前は立原哲。現在ガラス張りの壁の向こうでにやにや頁をめくっている男の名前だ。確かに同じ地球人で同じ男子で同じ高校に通い同じ部活に所属していた同じクラスの朔一は仲人にこれ以上ない人材である。
詳細を確かめようと朔一の体を揺さぶるイスズ、暫く成すがままに揺さぶられる朔一、虚ろに店内に視線を移した瞬間に目が覚めた。哲の姿がない。
「朔……何やってんだ、お前」
すぐさま声が真上から降ってきた。驚愕のあまり声なき悲鳴をあげてイスズともども尻餅をつく。次々と宜しくない方向へ事態が猛スピードで展開していくせいで、今日覚えた英単語のいくつかがお空の彼方に消えていくのが分かった。
「お前こそ! 部活に顔だしてコンビニで立ち読みなんて余裕ぶっこきすぎだろっ」
「コンビニの駐車場でかくれんぼしてる方がよっぽど余裕に見えるぞ」
「これはだなぁ……」
確かにどこをどう見てもかくれんぼか、良くてスパイごっこにしか見えない。言い訳をすればするほど空しい気がして途中で諦めた。
「あれ? イスズ先生?」
「は?」
哲に旋毛を見下ろされているのが嫌で立ち上がった瞬間、後ろにいたイスズがお目見えしてしまった。今日の朔一の判断と行動は一から十までとことん裏目に出るようだ。
「あ、そうか。おえかき教室の父兄」
「良く知ってんな、妹が通ってんだ。っていうか知り合いなのか、二人。まさか彼女――」
朔一とイスズが揃って高速でかぶりを振る。あまりの全力否定に軽いノリで訊いた哲も苦笑いをこぼした。かくれんぼ疑惑はこの際放っておいても構わないがこちらの誤解は解いておかねばならない。
「ほらこの間話したろ。じいちゃんの下宿に一緒に住んでんだよ」
「へー! いいな、朔。イスズ先生みたいな美人と一つ屋根の下かっ」
悪びれた様子もなく爽やかに笑う野球少年に、朔一は思い切り苦虫を潰してそれをわざと顔に出した。これ以上哲に空気読まずな発言をされてはたまらない。頼むからとっとと消えてくれ、などと親友にテレパシーで切に語りかけた。――無論そのような非現実的能力は頭の先から爪先まで生粋の地球人である朔一にあるはずもない、従って哲も全くとっとと消えてくれる気配を見せない。
「今度また子ども展覧会があるでしょ、俺もまた見に行きますよ。イスズ先生の絵も楽しみだしっ」
「う、うん。みんな頑張って描いてるから是非……」
イスズがようやく口に出した言葉は何とも歯切れが悪く、明るさがどこかぎこちなかった。懸命に笑顔を作ろうとしているが無意識に俯いてしまっているから意味がない。そんなイスズとは反対に哲はスポーツマン特有のやたらにフレッシュな笑顔を炸裂させ、いちいち爽やかに手を振りながら去っていった。朔一の予想よりは早い退散で胸を撫で下ろす。
問題は全く片づいてなどいない。朔一も一応爽やかぶって哲に手を振っていたが、背中で今にも消え入りそうな声で名前を呼ばれると無視もできない。
「イ、イスズ……哲はあの通りちょっと鈍いっていうか頭の風通しが良すぎるっていうか、や、まあ頭はいいのはいいんだけど……」
「朔……」
「……はい」
これ以上何を補足しても逆効果ということだけは分かる。涙声でジャージの裾を掴まれると素直に返事をするしか得策が思い浮かばなかった。
「お願いします……っ」
素直に返事を――してしまったら泥沼だ。大して所持していない冷静さを絞り出してぎりぎりのところで踏みとどまった。とりあえずまた、爽やか全開の笑顔でその場を取り繕ったが朔一がやるとどうも胡散臭さが否めない。
(だって哲だろ? 哲はなぁ……)
イスズの哀願を真正面から受け止めることは不可能で、朔一は徐々に視線を逸らしながら気むずかしい顔を作った。腕組みのまま唸り声をあげて帰路に就く。後方で何度か頼りなく朔一の名を呼ぶ声が聞こえた。
7
成田荘の一○一号室の窓から見える外の世界はモノクロで、激しい雨音が他の全ての効果音をかき消していた。時計は夕刻を指していたが豆腐屋のラッパも風鈴の鈴の音も、どこかの親父の気持ちのいいくしゃみも今日は聞こえてこない。
あれからまた一週間、朔一にとっては望まざるとも慌ただしい一週間が過ぎた。週末には学年全体で受ける全国模試が早朝から二日間に渡って行われ、その後には今期三度目となる進路相談だとか個人面談だとか、受験に合わせた個人カリキュラムの組み直しだとか新学期からのラストスパートに向けた準備に追われていた。部活には勿論顔を出していない。
不意に見た自分の手の甲が、ノートと同じくらい白いことに違和感を覚える。去年の今頃は全身焼いた秋刀魚のようで、大根下ろしを添えたら絵になるだろう真っ黒さだった。
「台風でも近づいてんのかなー……」
大型でも上陸しようものなら成田荘は吹き飛びかねない、窓の向こうで世界が下へ下へと押し流されていくのを眺めて朔一は一度身震いした。それから集中しようとカーテンを閉じた。
閉ざされた空間の中で音楽プレーヤーのリモコンを手にとって再生ボタンを押す。流れてくるのはポップスでもロックでもなく粘っこい女の声で早口に放たれる「英語」という呪文だ。女は好き勝手にだらだらと話をした後、唐突に語尾を上げて朔一に質問を投げかけてくる。彼女の名前がスーザンだということはやたらに連呼されるため判明していたが、どうやらかなり自己中心的な女のようだ。「もっとゆっくり喋って下さい」と言ったところで受け入れてもくれない。朔一は女の弾丸トークに粛々と筆談で応えるしかなかった。窓が時折激しく震える。誰かがノックしているようで不気味だ。
コンコンッ――朔一は顔を上げて室内を見回した。スーザンはそんな朔一もお構いなしに意気揚々とジョンと見た映画の話を続けている。
コンコンコンッ――気のせいではない。確信して朔一は腰を上げた。スーザンのことはこの際ジョンに任せることにした。
「さ、朔一くん……」
今にも消え入りそうな頼りない声が微かに窓を震わせる。朔一は思い切って一気にカーテンを開けた。その浅はかな行動が自身の恐怖を増長させたことは言うまでもない。
「ぎゃーーーー!」
「わぁぁぁぁぉぁぁ!」
朔一がその姿を目にした瞬間腹の底から悲鳴を上げたせいで、窓の外に突っ立っていた深緑色の軟体生物も共鳴して大絶叫をあげた。ずぶ濡れのプリン体が大口を開けている、その光景がより一層不気味で正体が分かっていながらも朔一は暫く叫ぶのをやめることができなかった。
「朔一くん、ぼ……僕だよ! チャンだ!」
そんなことは叫び始めた段階で承知している、窓に体を押し当てて自己アピールしてくるチャンから思い切り距離を取った。
「窓にへばりつくな! 何なんだよ、何でまた原型でそんなとこに突っ立ってる!」
朔一も涙目だが、チャンはそれを通り越して大粒の涙をはらはらと流している。雨と一体化してそれらは勢い良く地面に落ちていった。
「実は玄関の鍵をどこかへ落としてしまったようで……探し回ったんだがこの雨だろう? み、見つからないし寒いし悲しいしで人型を保つ体力が無くなってしまったんだ……」
「頼むからそういうときは真っ先に電話してくれっ」
ジェスチャーで玄関口に回るよう指示を出し朔一もぐったりして廊下に出る。心臓がまだ早鐘を打っていた。成田荘の玄関は一応常時施錠してある。下宿人たちは各一本この玄関の鍵を持っておりいつもは各自で開錠して帰宅してくるというわけだ。内側からは二枚の引き戸の真ん中にあるコックをひねるだけで簡単に開く。
「助かったよ……」
全身を引きずり力無く靴脱ぎ場に入るチャン、さすがに哀れで今回も説教する気が失せてしまった。イスズとは違い鞄や着衣はしっかり小脇に抱えているところがチャンらしい。
「ちゃんと風呂入って寝ろよ?」
「そうするよ。勉強の邪魔しちゃったみたいだな、ごめん」
「いや、別にいいけど……」
人型で言うところの肩らしき位置にショルダーバックがぶら下がってはいるが今にもずり落ちそうだ、その瀬戸際のところでかろうじて留まっている。抱え直す素振りも見せずチャンはそのままバッグを引きずりながら自室に向かった。
「なんか、大丈夫か? チャンポン」
朔一の心配は杞憂に終わらなかった。雨は小降りになり、スーザンとジョンの会話はロバートという新キャラを迎え更に白熱、ロバートは自身の趣味について切々と語っている様子だが朔一が理解できたのはロバートが無駄に多趣味だということくらいだった。スーザンも厄介な男を連れてきてくれたのものだ。
「ごほっ。げぼっ」
そしてこの成田荘にも、厄介極まりない輩がいる。本来なら全員ひっくるめて厄介者カテゴリにぶちこみたいところだが、今日に限ってはこの男限定だ。
排水溝が詰まったような薄汚い効果音に気分を害し、朔一は廊下に顔だけ出した。チャンらしき男が蛇行しながら玄関へ向かっているところだった。らしき、というのは見た目ではチャンの要素が黒眼鏡だけしか確認できないからだ。人型ではあるが、今の季節に相応しくない撥水性のスポーツウェアの上にレインコートを着込んで、マフラーかとつっこみたくなるほど タオルをグルグルと首に巻いている。この不審者を外に出すわけにはいかないだろう。
「げっふげふげふ!」
極めつけにこの濁りきった咳だ。心配の領域を飛び越えて朔一の中には苛立ちが芽生え始めていた。
「チャンポン、どこ行くつもりだ? 確実にお巡りさんに捕まるぞ」
「失敬だな……! 鍵を探しに行くんだよ、放っておいてくれ」
「却下」
このままここを通した場合、長く見積もっても三十分経たずして交番か病院に呼び出しをくらうに決まっている。宇宙人も風邪菌にはかかるらしいなどと頭の隅の方で感心しながら、朔一は無情にチャンの体を押し返した。
「離してくれ! 僕は行かなければならないんだ!」
「……チャンポン、俺をわけのわからない三文芝居に巻き込まないでくれ」
わけがわからないのは日常だけで十分だ、というのは胸中に留めておく。
「明日、合鍵作ればいいだろ」
「駄目だ遅いっ。こうしてのんびりしてる間もどこかに流されていってるかもしれないじゃないか。あれには家族からもらったお守りがついてるんだよ!」
マフラー代わりのタオルに邪魔されてチャンの熱弁の大半はこもり声となった。それでも間近にいれば十分聞こえる。朔一の額についに青筋が浮き出た。
「だから! そういうことは早く言えよ!」
朔一は地団駄を踏みながら自室に戻った。数秒も経たない内に再び廊下に出てくるが、そのときには手には懐中電灯、上着はオフホワイトのレインジャケットという出で立ちだった。機敏な行動とは裏腹にご機嫌はすっかり斜めだ。騒いだせいで階段の上段からイスズがひょっこり顔を出す。
「朔どうしたの? て、わっ! チャンポン何その恰好」
「朔一くん……」
人型にも関わらず悲鳴を上げられているチャンだったが今の彼には大した問題でもないようだった。全身で不審者をアピールしたまま廊下の真ん中に呆然と突っ立っている。
「どういうやつ! 特徴は? 落としたのはどの辺だよ」
「探してくれるのか」
唯一チャンの名残を保っていた黒縁眼鏡が涙で真っ白に曇ってしまった。状況が飲み込めずイスズは階段でひたすら首を傾げている。
チャンは震える声を振り絞った。
「学業成就と、交通安全と、家内安全がひとつになったナイスなタイプだ。手のひらくらいの大きさで色は深緑」
(絶対ご利益ないよな……それ)
神のご利益にはあやかれないかもしれないが、チャンの家族の念みたいなものは入っているはずだ。比較的大きく稀にみる三位一体守りなら案外簡単に見つかるかもしれない。朔一は頷いてすぐさまスニーカーの紐を結び始めた。
「朔一くん!」
「チャンポンは部屋で待機! 外に出てきたらそのまま追い出すからな」
チャンは垂れ始めた鼻水を巻き付けたタオルの下で思い切りすすると力強く頷いた。颯爽と飛び出す朔一に続いてイスズが、ペンライト片手に黄色いレインコートを羽織って出てくる。
「二人で探した方がきっと早いよ。チャンポンの大事なものでしょ」
「サンキュー、助かる」
朔一が自分のことのように礼を言うのが可笑しくてイスズは思わず含み笑いをこぼした。当の朔一はそれに構っている余裕がない。本格的に夜の帳が下りる前に何とか見つけだしたいところだ。
8
チャンは駅前の塾で講師のアルバイトをしている。そこからはいつも真っ直ぐに帰ってくるから帰宅ルートは明瞭だ。どこかの誰かのようにふらふら雑草地帯に分け入ったりしないあたりは大変助かる。
「あーもう世話が焼ける~」
電柱柱の陰をひとつひとつ照らしていくだけでも結構時間がかかるものだ。小降りになったとはいえ雨は依然として道路を濡らし、小さなものを流し出していく。
「手のひらサイズって結構でかいぞ。そんなもん落とすってどういう状況だよ」
「鞄から別のものを取りだしたときに一緒に落ちちゃったとか」
独り言のつもりだったが派手に呟いたせいかイスズが適当な応答をくれた。案外良い線かもしれない。
「例えば?」
「財布とか」
「あるなあ、それ。他は?」
「なんだろ。あ、ケイタイとか」
「あるな! それ」
言われてすぐ朔一が携帯電話を耳に当てた。勿論電話をかけた先はチャンだ。
「はい……」
瀕死の声で応答、それでも二コール目で電話に出たということは連絡を心待ちにしていた表れだろう。
「チャン、帰ってくる途中で電話とかしなかったか。メールとか、何でもいいけど」
名乗りもせずに不躾に質問を並べた。というのも朔一の携帯電話は防水ではない、通話時間はできるだけ短縮したかった。
「でんわ……。あ、したよ。塾からかかってきて留守電になる直前だったから慌ててとって」
「それどのあたり?」
「駅出て本屋とコンビニを通り過ぎた先に団地があるだろ、だいたいあの――」
朔一は必要な情報を得るとすぐさま通話をシャットアウトした。病人にはむごい仕打ちだが致し方ない。イスズは一部始終を半眼で見守っていたが朔一の合図があると目的の場所へ走った。大雑把だった捜索が、コンビニの灯りが見えてくる頃には再び入念になる。
「側溝に落ちたりはしてないよな……」
「落ちてないことにしよう」
ありがちな悲劇をつい口にしたがイスズがやたら断定的にその可能性を放り投げる。実は朔一の脳裡には他にも、既に誰かに拾われただとか犬がくわえて持っていっただとかのネガティブ要素が渦巻いていたのだがそれらはイスズに倣って全てないものとすることにした。彼女にばれないようにレインジャケットのフードの中で少しだけ笑いをこぼす。
しかしありがちな悲劇は、実にタイミング良く別の角度からやってきた。イスズのポジティブ思考も朔一の根性も、彼らの登場によりそれはもう見事に木っ端微塵となる。
「何やってんだ朔、とイスズ先生?」
これこそ今すぐなかっことにできないものかと瞬時に脳裡をよぎったが後の祭りだ。雨音に混ざって聞こえた哲の声にちらりと視線を傾ける。足が四本、視界に映った。
(最悪だ……)
哲が地球人であることは保証できるから、残りの二本の足は別の人間のものだ。白いスニーカーに黒のハイソックス、少し短くした濃紺のプリーツスカートはやはり南鷹高校の制服で、それを着ているということは九十九パーセント女子生徒だ。一パーセントはいろんな可能性のため残しておくこととする。しかしその一パーセントは朔一がすがった数字に過ぎず、本当は哲の声が聞こえた時点で何となくこの光景を予想していた。哲は夕方五時を越えると必ず、遠藤摩耶を家まで送って帰る。
「知り合い?」
そう哲に問いかける遠藤摩耶と朔一は、同じ高校の同じ部活の同じクラスに所属しているから十中八句呆然と立ちつくすイスズに向けられた言葉であろう。
「妹のお絵かき教室の先生、こいつは朔一」
「それは知ってるっ」
前にも聞いた決まり文句のようなイスズの紹介、その後にふざけて付け足された朔一の紹介を受けて摩耶が顔を背けて笑った。朔一は背後にイスズの気配を感じながら振り返ることができずにいる。
「なんか変なところに遭遇するよな? 誰か家出でもしたのか」
懐中電灯にレインジャケットという最強装備で浮かない顔を晒していれば確かに傍目には家出人捜索隊だ。浮かない顔は哲と摩耶のコンビが原因でもあったが勿論口には出さなかった。
「お守りが家出しちゃったんだよ」
「はあ?」
「俺のじゃないんだけど、家族からもらったお守り、この辺で落としたっていうから探してんの。帰りがてら見なかったか? 手のひらサイズの一度で三度美味しいナイスなお守り」
「いや、そんな妙なのは落ちてなかったけど……大事なものじゃんか。俺も手伝うよ、何色?」
「……深緑」
手伝うと言ったのは哲だが、当然のように摩耶も頷いている。友人たちの優しさは心底有り難かったが今この場では素直に喜べる状況にない。朔一はようやく少しだけイスズの方に振り返った。どう説明しようか悩んでいたがその必要はなさそうだ、イスズは全て悟ったように朔一の友人たち向けて笑顔を作っていた。
朔一はこの瞬間にやり場のない後悔の念にかられた。イスズの笑顔は、作られていた。成田荘での彼女の屈託のない笑顔を見慣れていた朔一にとって、その笑顔はイスズの切なさの象徴のように映った。イスズは哲と摩耶にお辞儀をすると黙々と捜索にかかる。その後ろ姿にかける言葉も見つけられず、朔一も黙って道路に視線を走らせるしかなかった。
「落としてそんなに時間は経ってないんだろー?」
「二時間は経ってないはずだけどな」
気持ちを切り替える。今は何よりチャンのお守りを見つけることが先決だ。朔一自身が上の空では、知り合いのものでもない遺失物を真剣に探す哲と摩耶に失礼だ。各々が暗がりの道路へ、電柱の陰へ、駐車された車の下へ目を凝らす。
「手のひらサイズって結構大きくない? あったら分かると思……ああ!!」
摩耶が、先刻朔一が言ったのと同じ疑問を口にしていた途中で奇声をあげた。彼女が目を凝らしている先はありがちな悲劇の代表格、側溝の下である。ありがちなことはやはりありがちでしかないのだ。
「これ、だよね? 明らかに」
「間違いないなぁ」
朔一が懐中電灯で改めて照らし出すと、深緑色の物体が側溝の上に張ってある鉄網に頼りなくぶらさがっているのが見える。雨に濡れて緑色は更に深く濃くなっていた。なるほどその大きさ故、下まで落ちずに済んだらしいがどちらにしろ鉄網を外さなければ取り出せないのだから無駄な悪あがきとしか言いようがなかった。
「運があるやらないのやら」
レインジャケットの袖を下に着ているジャージごとまくり上げる。哲も同じように腕まくりをして特に示し合わせたわけでもないが二人で鉄網を持ち上げた。救助された深緑色のお守りには大々的に「学業成就・交通安全・家内安全」と刺繍されてある。どうやら手作りのようだった。哲がお守りを目にするなり笑いを吹き出す。
「なんだこの欲張り守りっ。すげぇよこれ作った人、確かにこれ一個で三度美味しいな」
「効果も三分の一だと俺は思うけどね」
"家内安全"ひとつとってもかなり効力は疑わしいものだ、それともこれのおかげで成田荘の騒動があの程度で済んでいるということなのだろうか。何にせよ今回のミッションは無事終了、である。
「悪かったな変なことにつき合わせて。でも助かったよ」
「何のこれしきっ。朔こそ世のため人のためもいいけどそろそろ自分のために動けよ?」
「そこが朔のいいところなんでしょ」
顔も知らない友人の知人のために、雨に濡れて探し物をしてくれた彼らにそっくりそのまま返してやりたかったが、誰かのためにもうひとつ何かできるとしたら残念ながらそれは、一秒でも早くこの場を終結させることに相違ない。
「風邪引くなよー」
「朔とイスズ先生もなー」
雨が夕方よりもやや激しくなった。黙ったままのイスズを呼んでみたが、彼女は返事をしない。雨音は二人の声量よりも大きく、その雫がアスファルトに叩きつけられては弾けてより一層重厚な音階を奏でていた。
「帰ろっか」
イスズがそれだけを声を大にして言った。
玄関の引き戸を引くなりちゃんちゃんこ姿のチャンが廊下を這い蹲って出迎えてきた。ちょっとしたホラーのようでもありちょっとしたコントのようでもある。
「どうだった!?」
「ほら、これだろ?」
チャンのすがる瞳の前に印籠のようにかざしてみせると、眼鏡のフレームに溜まっていた涙のダムがまたしても決壊。チャンはようやくほっとしたのか泣きながらむせかえった。
「朔一くん、イスズ……! このご恩は一生忘れないよ!」
「是非そうしてくれ。もう疲れた。もう寝る」
「おやすみなさいませ!」
涙と鼻水で顔面を真っ赤にしてチャンが敬礼する。朔一は気持ちのいい疲労感を連れて一○一のドアを引いた。ひとつ気がかりだったのはイスズが玄関を過ぎた後も笑顔を作り続けていたことだ。
無言で階段を上る彼女の背中を、朔一もまた無言で見守るしかなかった。
六畳半コスモ