歪-ひずみ-
第一章「歪んだ人たち」
1
人ひとりが住むには広すぎる家のローンは払い終わっていた。そしてこの家には一人で使うには豪華すぎる家具が置かれていた。しかし、庭に干してある洗濯物はただ一人分であった。
泉は大きなテーブルに、四人分の食事を配置すると、その内の一つの椅子に腰掛けて、食事を始めた。まずい。料理は下手な方ではなかったが、あの日から食事がまずくなっていた。いや、あの日以前からすでにまずかった気もする。それに加えて、最近はずっと昔からこうして一人で暮らしてきたかのような気さえしてきた。泉はゆっくりゆっくりと食べ物を口に運んだ。こうしていれば、誰かしら今日だの昨日だのにあった話を楽しそうに始めてくれるような気がしたからだ。ただ、いくら待ってもそんな時は訪れなかった。
泉はようやく朝食を済ませると、四人分の食器を片付け始めた。
休日は病院へ行く。習慣づいた事だ。泉は「精神病院」と書かれた看板を見る度に、誰かにポンプでも押されたかの如く、溜息が止まらなくなるのだった。
受付の看護師は無機質なロボットを思わせた。不自然なほどの白い肌、一本調子な話し方、化粧の薄さ、真っ黒でさらさらのロングヘアー、どれをとっても見た目は若そうなのに、今時の女性とはかけ離れていて、機械的だ。そんな彼女の観察をするのが、病院へ来た時の泉の暇つぶしであった。どこかにぜんまいでもあるのではないか、マイクやスピーカーがあるのではないか。そんなくだらない事を考えている間に、件の彼女から呼ばれる声がした。結局今回も彼女のからくりを暴けずに立ち上がる。
「唐繰」
と書かれた名札をしている看護師は、少しだけ唇を横に伸ばした。微笑んだつもりなのだろう。
病室に入ると、これまた奇妙な光景が目に入る。いつものようににこにこと笑っている医者が座っていて、そのデスクにはいつも同じジュースが置かれていた。確かこのジュースは売れ行きに伸び悩んでいて、製造中止になったはずだったが。そんなどうでもいい事をいちいち観察する泉であったが、やがて医者とデスクを挟んで向かいの椅子に座った。その医者の名は向井と言う。まだ若いはずだが、皺の目立つ男だ。それがいつも微笑んでいるせいでできた皺なのか、泉たちのような面倒な患者を毎日相手にしているからできた皺なのか、泉には分からなかった。もし後者だったらと考えるだけで、実は内心穏やかではない。
さて、このカウンセリングには、一時間で六千円かかる。いや、正確には五十分で六千円だ。始めは、何故ただおしゃべりをするだけで樋口一葉一人と野口英世一人、あるいは野口英世六人も差し出さなければならないのかと訝ったものだが、現在の状態で落ち着いて考えてみると、そんな少人数でよいのかと思えてくるから不思議だ。これも、あの暇つぶしにはちょうどいい唐繰や、優しい言葉で泉を慰めて、時には厳しい叱咤激励をしてくれる向井の陰謀なのだろうか。いつか福沢諭吉の出番を来るのではないだろうか。しかし、それでも払ってしまうだろうな、と思う自分と、当分ここには来れまいと思う自分が、泉の中には存在するのだった。
「調子はどうですか?」
開口一番これだ。「いい天気ですね」だの「生憎の雨ですね」だの、そんな前置きは一切なく、これだ。それがこの優しいようで事務的な向井の読めないところだった。
「相変わらずです」
「相変わらずです」
自分の発した言葉と同じそれがタイミング良く重なったことにより、泉は思わず頭痛を覚悟した。しかしいつまで経ってもそれはやってこない。ふと前を見ると、向井がどこか楽しそうに笑いかけている。
「いつも言うから今日も言うかな、と思って」
屈託のない笑顔の向井を見ていると、何故だかこちらも優しい気持ちになってくる。泉はつられて笑い、言った。彼もまた、言った。
「言っちゃいましたね」
「言っちゃいましたね」
彼女の生活は相変わらずだった。いつものように誰もいない家から学校に行き、学校ではある一人を除いた皆に無視をされている。その理由は忘れてしまった。考えてみれば、元から知らなかったような気もする。そして学校帰りは商店街などでアルバイトの口を探し、成功したり、失敗したりする。お次は夕飯の買い物へ繰り出す。しかし、そこで出会った知り合いの――顔見知りと言った方が正しいかもしれない――主婦と鉢合わせても会話をするでもない。そこからまた誰もいない家に帰る。それが、彼女の相変わらずであった。
そこで向井が新たにアドバイスなり意見なりをくれれば、泉の思うところは前述の前者、「福沢諭吉を差し出してでも来るだろう」、になるのだが、向井はいつも通りの事を言って、いつも通りの薬を処方しただけだったので、泉の思いは結局前述の後者になった。
会計の為に呼ばれるまで、少し時間があったので、泉は自販機でコーヒーを買い、それを飲みながら今回は唐繰ではなく、他の患者を観察してみる事にした。中には子連れの女性なんかもいて、どちらが患者なのか見当がつかない。それほど、母親は過度に元気がなく無口で、子供は過度に元気で、何を話しているのかが分からない。更に恋人に付き添ってもらう女性もいた。丸々と太っていて、その服はロリータと呼ばれるものだった。彼女の着るピンクのリボンのあしらわれた白い服は、膨張色の為か余計に肥えて見えた。
会計を済ませて病院を出ると、時計台が夕方の三時を指していた。夏だけに日が肌を刺激し、暑かった。泉はそのままの足で夕飯の買い物に行く事にした。太陽から目を逸らすため下を向いて歩いていると、誰かとぶつかった。
「すみません」
そう言った相手の声は心地よかった。泉は空を仰いでその声の主を見たが、逆光で顔ははっきり見えなかった。
「こちらこそすみません」
そう言うと、泉はその場を去った。
2
生活はできそうだった。先ほど坂上という男から電話が来た。来月からでも来て欲しいという事だ。何事も資格や免許は取っておくものだな、と思う。
敬吾はベッドルームに向かい、「夕飯はどうする」と聞こうとしたが、そこには誰もいなかった。「あぁ、そういえばあの女は帰ったのだったな」と思い出す。ならば、と思い敬吾は夕飯の買い物をしようと商店街の方まで出てみる事にした。とは言っても、夕飯なんかは二の次で、本当の目的は今晩一緒に過ごす女を見つける為だ。時計によると、三時になるところだった。この時間なら、暇を持て余した女がいる。
敬吾はそこら辺に置いてあった洋服に着替え、家のドアを開けた。
外は太陽が激しく存在を主張しており、暑い。敬吾は黒の開襟シャツの袖を捲ると、その太陽に少しだけ抵抗した。「うむ、想像通りだ」と、商店街を見回しながら心の中で呟く。そこには、カフェで一人つまらなそうに本を読む女や、噴水の近くで友人らしき人物と電話をしている女子高生なんかがいた。
ところで、敬吾は中学生までは背の低い方だった。しかし、高校に入ってから急激に伸び始め、今も微妙ながら成長は止まっていないらしい。なので、敬吾は自分の目線の下にあるものに気を配るのが苦手だった。
「すみません」
その時もそうだった。いつものように詫びる。だが、その日は少し違った。下を見て、相手がどんな人間なのかを確認したのだ。いつもなら大して相手の姿を見ずにとりあえず謝るのだが、今日は違った。それが何故だかは分からない。だが、一つだけ言えるのは、これが全ての始まりだった……という事だ。この表現は月並みにも程があるが、それ以外に言いようがなかった。
では、話を戻そう。
敬吾の目に、ぶつかった人間の顔が映った。向こうは眩しそうに目を細めてこちらを見ようとしている。それは高校生くらいの少女で、敬吾が今まで見た女の中でも特に綺麗な女だ。そして何より惹かれたのが、その少女の目だった。その少女は意図的にか無意識にか「助けて」という寂しそうな、必死な、切なるものを訴えかけてくるような目をしていた。
「今晩はこの女で決まりだな。更に俺の願いを叶えてくれるかもしれない」そう思いもう一度話しかけようと思ったが、少女はまた顔を伏せて「こちらこそすみません」と早口に言うと、逃げるようにして敬吾の下から離れた。
敬吾は半ば興醒めしたようで、ぼんやり町を歩いていた。
「ママー、パパー」
敬吾の後ろから、そんな声が聞こえた。振り向くと、ちょうど五歳ほどの少女が、前を歩いている両親の元へ走っていくところだ。敬吾はそれをぼんやり眺めていた。始め聞こえなかった会話も、親子が歩いてくるにつれはっきりと聞こえるようになってくる。
「ねぇねぇ、パンダさんいる?」
「きっといるわよ」
「パンダさん見れるといいな」
「うん!」
どうやら、動物園に行く予定を立てているらしかった。
そういえば……と彼は何とはなしに思い出す。
昔、父親が動物園に連れて行ってやると言い出した事があった。
はっきり言って敬吾の父親はいい父親とは言えなかった。寧ろ、真反対であった。酒は毎日浴びるほど飲むし、息もヤニ臭い。ギャンブルが好きで、気分屋で、母親や敬吾への暴力も絶えなかった。特に敬吾は母親以上に冷たく当たられ、そもそも母親への暴力は、敬吾を庇ったうえでされる事であったのだ。
そんな父親にそんな事を言われた敬吾は、「明日辺り本当に槍が降るのではないか」と真剣に思うほど驚いた。今まで家族で出かけた事などなかったし、父親とは外食すらした覚えがない。それは敬吾が小学五年生の頃の話で、その時ほど嬉しかった事はなかったし、期待をしないはずもなかった。その日の夜、小便に起きた敬吾は、まだリビングの電気がついているのと、母親たちの話し声がしたのとで、吸い寄せられるようにそちらに向かった。見ると、母親が父親のお猪口に酒を注いでいるところだった。
「でも、本当に嬉しいですよ。あなたが敬吾を動物園に誘うなんて」
心なしか母親の表情は明るい。すると、やかましいともとれる大笑いが聞こえた。
「馬鹿かお前は。あんなの嘘に決まってるだろう」
敬吾と母親の表情が一気に変わった。その変わった表情は全く違うものであったが。母親は父親のお猪口をひったくり、怒鳴った。
「あの子がどれだけ喜んでいたと思うんですか!楽しみにして……私に作るお弁当のおかずまで頼んできたんですよ!」
「本当か?」
父親の表情が真顔になった。一瞬敬吾はまた期待してしまった。「罪悪感」を覚えたのだろうか、と。ところが、次の瞬間今度は手を叩く音まで加わった笑い声が響いた。
「そいつは傑作だ!」
「どうして笑えるんです?あなた父親でしょう!」
「ああ、父親だ。出すもん出してできたんだからな。でも俺はあいつの悲しむ顔が好きなんだよ。近頃あいつ殴っても泣きやしないからな……」
「信じられない。あなたの子供になる子が可哀想だわ」
「……ほう」
「なんです?」
「まだ子供を作る気があるのかい」
父親が、母親の方に腕をまわした。母親は「そういう意味じゃ……」と自分の失言を悔いて、父親の腕を払いのけた。
「いいじゃねぇか、もう一人作ろうぜ。ほら、服脱ぎな」
そんな光景を目の当たりにした敬吾は、小便に起きた事も忘れ、なるべく早く、なるべく音を立てないように自分の部屋に戻った。
母親は、いつでも敬吾の味方をしてくれた。代わりに殴られてくれたし、父親が飲み会などで帰りが遅くなる日は、こっそり近くのファミリーレストランに連れて行ってくれたりした。成績のいい彼の事を心から褒めてくれた。そんな母親を敬吾が好きになれないのは、嫌だ嫌だと言うのも最初だけで、結局は父親からのセックスの誘いに応える、つまり女としての肉欲に負けるという事を知っていたからである。また、結局敬吾に兄弟がいないという事は、毎回避妊具を付けていたという事で、それは、はじめから子供を作る気などなかったという事だ。
そんな事を思い出したのと、ついさっきの彼女の瞳が忘れられないのとで、上の空になっていた敬吾は、苦手なはずのコーラを買い、飲んだ。だが、やはり嫌いなものは嫌いで、一口飲むと、捨てた。
「ママ、あのお姉ちゃん泣いてるよー」
先ほどと同じ声がしたのでまた振り向くと、親子は電気屋のショーウィンドウに置かれているテレビを見ていたらしく、まだ敬吾の傍にいた。敬吾は、少女が指差した方を見た。確かに、時計台のところで号泣している女がいる。周りの視線に気が付かないのか、よもや気にしている場合でもないのか、声をあげて泣いていた。少しだけ視線をずらすと、ジーンズにチェーンをジャラジャラとつけた細身の男が彼女を多少気にしながら、駅の方へ歩いていくのが見えた。あれが号泣の原因だとすると、敬吾にとってかなり都合のいい状況である。
「しかし、子供並みだな」
小さな子供のように泣く女を見て、敬吾が漏らした。しかし隣で女を見ている少年の呆れたような冷めた目を見ると、すぐに思い直した。子供以下だ。
敬吾はよし、と一人気合を入れると、手を擦り合わせて女の方に近付いて行った。
「大丈夫?」
まずはそう切り出す。女はこちらをちらりと見たが、またすぐに泣いた。一瞬見た限りでは、結構な美人だった。泣き過ぎで目が腫れてはいるが、それを差し引いてもまぁまぁいい女ではある。
「わ、私……あの人がいなくなっ……たら、孤独になっちゃう……」
嗚咽を漏らしながら、彼女は言う。敬吾はにやりと笑うのを禁じ得なかった。敬吾にとって孤独とは、最も好きで、最も嫌いな言葉だ。
「俺が傍にいてあげる」
女は伏せていた目を上げた。マスカラやアイラインが落ちて、黒い涙になっていたが、敬吾はなんとか気にしないで――いや、気にはしているのだが――彼女の顔を覗き込み、もう一度、先ほどよりはっきり、一語一語に力を込めて言った。
「俺が、君の、傍に、いて、あげる」
女の涙が止まる。
3
鴻池は、無意識に中途半端に伸びた無精ひげを手で撫でた。その片手には一枚の写真があって、それを何も考えず眺めているようだった。
「お、なんすか、その写真」
後ろからそう言いながら写真を覗き込んでくる気配を感じたので、鴻池は咄嗟に手の甲でその声の主の額を殴った。彼は「いってー」と言いながら、隣のデスクに腰掛けた。東京警察渋谷署刑事課はいつも忙しく、今日も今日とて周りは大賑わいである。やれあの事件の資料を出せだの、あの容疑者の素性を洗えだの、刑事ドラマで聞くような会話が繰り広げられている。鴻池の担当の事件もあり、それは誘拐された少女を無事に保護する、と言ったものだった。そのおかげで、今持っている写真を探し出す事にしたのだった。後輩の小林は、今度は隣から、その写真を覗き込んだ。
「うわ、可愛い子」
それが社交辞令ではなく、本音で出た言葉だという事は、すぐに分かった。それに気をよくした鴻池は、小林に写真を渡した。小林は食い入るようにその写真を見つめる。やがて少し複雑そうな顔をした。それを察した鴻池は、言った。
「十年後の姿も可愛いぞ」
そう言ったのには理由があった。まぁ、理由に足らないただの雑談の一環だったのだが。それは、幼い頃可愛かった美少女や美少年は、年が経つにつれ、段々「美」ではなくなっていく、というものだった。小林は写真を返しながら笑った。
「もしかして鴻池さんってロリコン?」
小林がそう言ったのを後悔したのは、頭にもう一発拳を叩きつけられてからだった。
「これは俺の姪だよ」
「へぇ、その子の事好きなんですね」
「好きじゃねぇよ」
「え?」
「愛してるんだ」
「……はぁ」
「軽蔑するか?」
「まさか!」
いまいち言葉の内容、奥に秘めたその意思を理解できていないような小林に、鴻池はペットにでも向けるような優しい笑みで視線をやった。
その日の夜、鴻池はビールをあおりながらアルバムを見ていた。そこに載っている被写体はすべて同じ人物で、それがまさに昼間の少女である。しかし、分厚いアルバムには、写真は半分ほどしか入っていない。とても幼い頃の彼女の写真、そして、それから十年経った彼女の写真。その間の写真も、その後の写真も、一切無い。鴻池は十年後の写真から一枚を抜き出すと、そっと口づけた。
「もう少し……もう少しだからな」
その翌日から誘拐された被害者の家に張り込み、それから五日が過ぎた。交代で眠る時間はあっても、それはあまりに短く、更に寝つきの悪い鴻池にとっては、ひと時の安らぎの時間ではなかった。それから翌日の六日目、用意した金を取りに来た犯人を捕まえる事に成功した。少女は精神的に衰弱しているが、体は無事だ。鴻池はその少女に、ある人物を重ね見た。そして彼は捕まえた犯人を思い切り蹴り上げた。
「お前みたいのがいるから、子供が歪んでいくんだよ!」
髪の毛を引っ張り揺さぶり続けると、はじめ余裕の顔をしていた犯人の表情に恐怖の色が浮かんできた。それでも鴻池は叱責の言葉を吐きながら、犯人を殴り、蹴るを繰り返す。ようやく小林が落ち着け、彼は我を取り戻した。
それから特に急ぎの担当事件もなかった鴻池は、ほとんど刑事課に姿を現さなかった。朝出勤しては出掛けていき、夜遅くになって帰ってくる。それでも誰も咎めないのは、鴻池が刑事課の中で敬遠されているからだった。鴻池の乱暴さは、課内でも有名で、畏怖の念を抱く同僚や後輩も少なくない。
今、何らかのキャンペーンで、JRでの西日本への行き来がとても安い。それがまるで自分に、西日本へ行ってみろと背中を押しているような、鴻池はそんな気がしていた。
番号案内でもだめだった。昔の家にも行ってみたが、いなかった。人ひとりいる気配すらなかった。近所に聞き込みをしてみても、夜中の間に引っ越したらしく、ある日突然いなくなったのだ、と言う。まるで夜逃げではないか、鴻池はそう思った。そして、何故そうなるかに至った理由を考えた。何より、彼女の無事を確認したい。
4
電話を切った後、煙草に火をつけた。
「坂上先生、職員室は禁煙ですよ」
入ったばかりの新任教師が言った。
「あぁ、すいません。ついついね」
坂上はそう言うと、ベランダに向かった。喫煙者の教師は皆ここで煙草を吸う。そこは校庭から丸見えの位置にあるため、時たま生徒が話しかけに来る。多感期の少年らに煙草を吸っているところを見せ付けるのは、些か悪影響のような気もする。それでなくても今は未成年の喫煙者が増えているのに、彼らを下手に刺激しない方がよいのではないか、と思う。しかし、それでも喫煙をやめないのは、彼もまた未成年から煙草を吸っていた口だからだ。
煙草を吸いながら、坂上は先ほどの電話の相手の事を考えた。高崎敬吾、それが彼の名であった。教育委員会の試験を突破したにも関わらず、まだ一度も教師として働いた事のない男だった。聞いた限りでは、やる気も特に感じられず、生気のない声であった。しかし、何故か彼は我が校に来る事になったのだった。理事長から電話をしておいてくれと頼まれた坂上は、どうして彼が選ばれたのか、不思議で仕方がなかった。
その後、吸い終わった煙草を灰皿に押し付けながら、坂上は他の人物の事を考えた。それは、彼が受け持っている生徒の事だった。彼女はいつも一人か、あるいはたった一人の親友であるらしい人物と一緒にいる。その理由がいつも分からない。彼女は教師の間からはかなり評判がいい。つまり、だからこそクラスメイトにとっては鼻持ちならないのかもしれない。だが、彼女は自分の成績の良さや、その器量の良さを鼻にかけたりしない。そういった事が出来ない子だという事も知っていた。よって、余計に今の状況が気に掛かるのだ。
先ほども述べた通り、高校生は多感期の絶頂と言ってもいい。だからこそ、いじめという問題も起こり得るのだ。坂上は一教師として、それだけは絶対に避けたい問題である。
いじめは、教師の力量を試される。今までの教師人生の中で、いじめが起きた事は幾度となくあったが、どれも解決できた。しかし、今回はいつもと違う、もっと根の深いところに原因があるように思えた。
夏休みと言っても、教師にはやるべき事が多々あるのが悲しい現実である。自分の受け持つ部活の練習や試合。坂上は野球部を担当していた。更に休み明けのテストの作成など、教師というものはなかなかどうして安月給の割にする事が多くあった。
今も野球部が大声を張り上げて練習をしている。試合が近いのだ。この高校の野球部は成績がよく、頻繁に表彰されたりもしていたし、甲子園にまで出場した事もある。坂上は子供の頃から野球ばかりやっていたので、見事担任に大抜擢されたわけだ。しかし、練習にはあまり参加せず、冷房の効いた職員室の窓から眺めている事の方が多かった。
夕方五時近く、ようやく部活の練習が終わった。生徒が一斉に坂上のところへやってくる。
「先生、練習終わりました!」
「おう、お疲れさん。今日はもう帰ってゆっくり休め。ストレッチも忘れるなよ」
「はい!」
生徒達は帽子を脱いで頭を下げると、「あー、あちぃ」などと気怠い声を出しながら去っていった。そんな中、気になる会話を、坂上は耳にした。
「ほら、坂上先生のクラスのさー、例の子いるじゃん?あいつさー、四組の工藤ともヤッたらしいぜ。羨ましいよな」
「マジで?俺もヤリてー」
一年生である野球部の補欠部員二人が、その年頃であれば当たり前の欲求を口に出し、笑っている。
それを眺めていた坂上は、またしても彼女を思った。
5
彼女は友人と買い物に来ていた。夏休みは海に行く約束をしていたので、その水着を買いに来たのだった。
「ねー、これは?」
「ちょっと派手過ぎない?」
「やっぱりー?」
友人は次から次へと水着を試着しては、彼女にお披露目している。一方彼女はすでにお気に入りの一着を決めていたので、ただそれに付き合うだけとなった。
水着に着替えながら、友人が言った。
「あいつ最近大人しくしてるよねー」
「あぁ、でも四組の工藤君としたらしいよ」
友人が試着室のカーテンから顔だけを出し、眉をしかめた。
「マジで?私工藤君狙ってたんだけど」
「工藤君って人気あるからね。狙ってる子が多いのを知っててしたんじゃない?」
「は?あいついっぺん殴らなきゃ分からないんじゃない?最低すぎる。淫乱女」
アダルトビデオや官能小説などでよく用いられる「淫乱」という言葉は、高校生が口にするには些か下品過ぎた。
ようやく水着が決まった友人と彼女は、昼食を食べる為にファーストフード店に向かった。食事の最中も、話題は「淫乱女」の話である。フライドポテトを数本口に入れて咀嚼しながら、友人は言った。
「成績良くて、運動できて、可愛くて、スタイルよくて……だからって男漁るとか本当に最低だよね」
彼女もチーズバーガーにかぶりつき、頷いた。
「私、中学からあいつと一緒だけど、告白してきた男みんなと付き合ってたからね」
「有り得ない!お前は女王様かっつーの」
彼女は、友人の顔が嫌悪によって歪んでいくのを心から喜び、愉快に思った。
「でも、男も男だよね。そんな女とヤリたいと思う?病気持ってそうじゃない?」
「あぁ。あいつ何回か性病にかかってる」
「うわー!つくづく最悪。なんであんなのが生きてるんだろ。死ねばいいのに」
その言葉に、愉快だった彼女の気持ちが一気に不愉快へと変わった。でたらめを言って奴を嫌ってくれるのは大いに結構。しかし、奴が死んだら、元も子もない。
「死なれたらつまらないじゃん」
「あは、それもそっか」
二人はもう最後のジュースにとりかかっていた。また、友人が言う。
「でも、あんたには感服するよ。よくあいつと一緒にいられるね。私なら吐きそう」
吐く真似をしながら言う友人を見て、よくもまぁこうまで嫌われたものだな、と彼女こそ感服した。
「まぁ、我慢してれば色々な話聞けるし、あいつと一緒だとさー、結構いい男からナンパされるんだよね」
「あ、それは羨ましい。私も友達のフリしようかな」
「だめ」
それは不自然なほどの即答であったが、彼女は笑っていた。始めは驚いた風であった友人も、間もなく笑った。
何が「友達」だ。奴の事何も知らない癖に。
彼女はそう思いながら、ただ、笑っていた。
6
「行ってきます」
家に潜む微生物や虫などを除けばペットすら飼っていない無人の家に向かって、泉は言った。やがて返事が来ない事を理解すると、くるりとスカートを翻して家を後にした。これももう習慣で、もし返事が返ってくるものなら、泉はどんなものでも差し出すだろう。
家を出ると、近所に住む中年女性が箒とちりとりを持って立っていた。その姿は、ごみを集めているというよりも、何か面白い、自分の興味深い話を収集しているようにも見える。女性は泉を見るなり、にっこり笑った。
「おはよう、泉ちゃん。行ってらっしゃい」
「行ってきます!」
今度の「行ってきます」は、先ほどよりもずっと元気のいいものだった。
泉が今の高校を選んだ理由は、まず、家に近いから。そして、制服が可愛いから。次に教師に「公立ならここに行け」と言われたから。そして何より、
「おはよー、泉!」
「海ちゃん、おはよう!」
彼女、橋本海と同じ学校に行きたかったからだ。だが、先に同じ高校に行きたがったのは海の方からだった。泉はもう一つレベルが上の公立校をはじめは勧められていたのだが、海の成績ではそこには行けない。だが、海はどうしても泉と同じ高校に行きたいと言って聞かなかった。泉自身も、そこまでいい学校に行くつもりはなかったし、新しく友人を作るのも面倒だったので海と同じ学校に行く事にしたのだ。泉たちの中学校から件の高校へ行くのは、泉と海だけだったので、海がいてくれて本当に心強かったのである。
泉と海が仲良くなったのは、中学校に入って間もない時だった。最初海は、器量がよく、誰にでもちやほやされる泉をあまり好いてはいなかった。
一方泉は人見知りな性格で、クラスになじむのに時間がかかっていた。そのせいもあってか、たまに授業をサボったりもした。その時屋上で、二人はまともに会話をしたのである。
海が屋上でぼんやりと空を眺めていると、出入り口の扉が開いた。海が振り返ると、そこには少々驚いたような表情の泉が立っていたというわけだ。
「へー、小佐野さんもサボったりするんだ」
「うん。でも、残念なような、嬉しいような」
「え?」
「私のお気に入りの場所に他人が入ってくるのは残念だけど、その人が橋本さんでよかったなって」
海は面食らった。泉は自然と海の隣に腰掛ける。
校庭の様子がよく見える。今は三年生がサッカーをしているところだった。しばらく沈黙のままだったが、果たしてそれを破ったのは泉だった。
「私ね、羨ましかったんだ。橋本さんが」
「私が?どうして?」
「だって、いつも元気だし、友達もいっぱいいるし、言いたい事はっきり言えるし、なんかかっこいいなって」
予想外の発言だった。海は顔が熱を持つのを感じ、すぐさま顔を背けた。
「お、小佐野さんだって、人気者じゃん。可愛いし、頭もいいし……」
「そんなものは役に立たないんだよ」
海は泉を見た。泉は遠くを見ている。その視線の先の空に何を映しているかは、分からない。
「私思うんだ。大事なのは応用なんだなって」
「応用?」
「うん。いくら勉強ができたって、その実力を普段の生活に応用できなければ意味がない。いくら可愛くたって、その可愛さを性格に応用できなければ意味がない。そんな私に比べて、橋本さんは応用が出来てるんだよ」
「そうかなぁ……」
「と、言っても私はそんなに頭もよくないし、可愛くないよ」
泉は少し居心地悪そうに苦笑しながら、頬を掻く。
それから二人は何かとこうして屋上で会う関係になった。海の口添えのおかげで、泉には友人もできた。海のおかげで、泉は学校が楽しくなったのだ。
二人は教室に入った。クラスメイト達は海にだけ挨拶をする。泉はいないものとみなされる。そういうのは、泉はもう慣れていた。
二人が教室に入ってすぐに、朝のチャイムが鳴った。二人は席につくと、顔を見合わせて微笑んだ。
チャイムから間もなく、担任の坂上が入ってきた。ところが、いつもなら足で器用にドアを閉めるのに、今日はそれをしなかったので、生徒達は不思議がった。だが、その理由は坂上の後ろについてきた。
「みんなおはよう。突然だが、副担任の根岸先生が産休のため、新しい副担任の先生を連れてきた。高崎先生だ」
「初めまして、高崎敬吾です。根岸先生に代わって、現代国語を担当します。どうぞよろしく」
教室のあちらこちらから、拍手と黄色い声が沸いた。確かに女子が騒ぐのも分かる。敬吾はそれだけのルックスを持ち合わせていたし、大人特有の落ち着きや、ミステリアスな雰囲気も漂わせていた。
泉は、その男から目を離せなかった。それは、彼に淡い影のようなものを感じたからだ。それは決して霊的なものではなく、だ。そしてそれ以前に、この心地よい声をどこかで聞いたような気がするからだ。
そういう理由から、敬吾も泉があの時ぶつかった少女だと分かり、二人は見つめあっていた。
「ねぇ、敬吾さん、行っちゃうの?」
腕に纏わりついてくる女を、心底うざったそうに、敬吾は振り払った。昨日時計台の下で号泣しているところを拾った女だ。この女は敬吾に言わせればハズレ。それも大ハズレである。泣き過ぎて腫れていたが、引けば美人だと思わせた目は、実は小さくて、腫れのやつが引き過ぎたような気もする。そして声が妙に甲高くて、イライラした。
そんな女を拾ってしまった自分の目利き力の無さに嘆息を禁じ得なかったが、女は自分に向けられたものだと勘違いし――まぁ、あらかた間違ってはいないが――ベッドから立ち上がった。布団が落ち、白い乳房が揺れる。スタイルは、まぁいい。女は乳房を隠す事もせず、敬吾に指を突きつけた。
「何よ!傍にいてくれるって言ったのはあんたじゃない!」
確かにその通りではあるが、敬吾は無視して煙草に火をつけた。
「聞いてるの!」
「……お前さぁ、家族も友達もいるんだろ?」
「当たり前じゃん」
カチンと来たが、敬吾はそのイライラを煙草の煙に託して吹き出した。
「じゃあ、孤独でも何でもないじゃないか」
「私さぁ、親と超仲悪くて、彼氏くらいにしか愚痴れなかったんだよねー。友達はなんだかんだで仕事忙しいから会えないし。あ、私はフリーターなんだけど。だから、その彼氏に捨てられてかなり精神的に参ったっていうか」
「どのくらい仲が悪いんだ?」
「うんとー、なんか、うざいくらいに心配してくるんだよね。門限とかあるし、就職しろとか言ってくるし」
敬吾はもううんざりしていた。聞くんじゃなかった、と後悔する。そして、いつも傍らにあるそれに手をかけた。
それを使う羽目になったのは、最後の女の一言だった。
「だからね、私、孤独なの」
言った瞬間、彼女は頬に微かな痛みを感じた。触れてみると、赤い液体が指についている。思わず横を見ると、壁に紫の柄のナイフが突き立っていた。前を見れば、敬吾が怒りを押し殺したような複雑な顔で女を睨んでいた。
孤独とは、敬吾の最も好きな言葉で、最も嫌いな言葉である。
女が身支度も適当に急いで家から出て行った後、静寂を取り戻した敬吾は、おろしたてのYシャツに袖を通し、やがて自分も家を出た。
昼休み、教室は大変賑やかであった。泉は、その元凶を眺めていた。
「高崎先生、彼女いるの?」
「血液型は?」
「誕生日は?」
「いつまでいるの?」
こんな具合に、女生徒達が敬吾を取り巻いて質問攻めにしているところであったのだ。泉は苦笑を浮かべながら、隣の海を見た。
「すごい人気だね、高崎先生」
もう一度前を見ると、敬吾が教室から出ていくところだ。泉は海と敬吾を交互に見た。海の視線は明らかに敬吾を追っていた。泉が話しかけても何の反応もないほど真剣に。教室から姿を消す最後の最後まで、海は彼を見つめていた。
ある事を察した泉は急に居心地が悪くなるのを感じ、海に気付かれないように――とはいえ、既に気付かれていなかったのだが――教室を飛び出した。
敬吾は屋上にいた。「喫煙禁止!」とでかでかと書かれたポスターの貼られたフェンスの前で、煙草を吸っていた。そして、これから害になるであろう煙の行方と青い空を仰ぎ見ていた。
「やかましいな」
さっきの女生徒達の話だ。女の黄色い声は、ベッドの中以外で聞くものではないな、と実感した。
そこで、屋上の扉が開く音がしたので、敬吾は急いで煙草の火を消した。壁の陰に隠れて見てみると、彼はつい「あ」と声を漏らしてしまう。
それはそこに立つ少女の横顔の美しさや、なびく髪のしなやかさや艶やかさ、どこを見ているか分からない切なげな目のせいではなく、その少女が今敬吾にとって、一番会いたい人物だったからだ。
泉は風に流れる髪を手でおさえて、その声がした方を見た。
「誰かいるの?」
隠れる必要も意味もないので、敬吾は降参、と言わんばかりに両手を上げながら泉の前に現れた。泉は少し驚いたような表情で彼を迎えた。そして、悪戯っぽい笑顔を浮かべて、人差し指を立てた。
「先生、ここは立ち入り禁止ですよ?」
「説得力の欠片もないな」
泉の人差し指に自分の人差し指を重ねながら、敬吾が笑った。泉も笑う。
それからしばらくは何も話さず、ただ不自然なほどに抜けるような真っ青な空を見つめていた。
泉は、空が青いのは海の色が反射しているからだ、と昔思っていた。だがそれだと「なぜ海は青いのか」と聞かれると困る。お互いの色を反射し合っているのではないか、そんな事も考えたが、泉は事実を知って大変落ち込んだ。
空気中の分子は自由に運動していて、これに光が当たると、色々な方向に光が放射される。これを散乱といい、空気においては、波長が短いほど散乱しやすいため、青色の波長がより多く目に入ってくるので青く見えるわけだ。
つまらない、と彼女はがっかりした。
「ここに避難していたんですね」
果たして泉はそう呟いた。それは確認というよりは、自分自身で勝手にそう納得しているようだった。敬吾はまぁ、と鼻を掻く。
「ごめんなさい。うちのクラスって、特に女子がうるさいから」
それは達観しているというよりは傍観に近く、私はその輪に入っていないのだから特別なのよ、と自負しているというよりは、私はその輪に入れない存在なのだと自嘲しているように思えた。
不思議な事に、泉は自嘲する割にその事を大して気にしていないようであった。慣れている、そう感じられたのだ。
「失礼なんだけど」
「小佐野泉」
「え?」
何かの暗号だろうか、と敬吾は眉間に皺を寄せた。泉はフェンスから手を離し、くるりと敬吾の方を向いた。
「君の名前は?って聞きたかったんじゃないんですか?」
「よく分かったな」
「小佐野泉。全然失礼じゃないですよ。まだ来たばっかりだもん。顔と名前を覚えてない方が普通ですって」
「ありがとう」
小佐野泉、小佐野泉。それこそ何かの呪文や暗号のように敬吾は繰り返し心の中で呟き、脳に刻み込んだ。
「うん。あ、ところで、私たち一度会ってません?」
病院帰りのあの日の事を思い出して泉は尋ねてみた。敬吾も「会ったな」と、頷く。そして、二人してあの日ぶつかった事を詫びた。
「あの日、何してたんですか?」
「商店街まで夕飯の買い物でもしようかと思ってな。小佐野は?」
「あ、私もです」
二人とも、あそこにいた真の理由は話さなかった。
「泉、どこにいたの?」
どこに行っても休み時間の廊下というのは騒がしいものである。そんな中、教室の前で待っていた海が蓮を捕まえた。
「ごめんごめん。課題出しに行ってたよ」
なぜか海には、「敬吾と会っていた」、という事は話せなかった。
7
敬吾がこの学校にやって来てから一週間が経とうとしていたが、彼の人気は衰えるどころか、益々上昇していった。ルックスはもちろん、そのクールな性格も生徒達にとってはたまらない魅力であった。誰にもなびかない、そんな彼を私なら落とせる、そう考える生徒も少なくなかった。
「モテモテですね、高崎先生」
一応国語教諭の敬吾としては、「モテモテ」という怪しい日本語には好感が持てなかった。隣のデスクの坂上がおいしそうにラーメンをすすっている。敬吾も、自分の頼んだ炒飯に蓮華を入れた。
確かに、我ながら謙遜しても生徒から人気がないとは言えない。若くて可愛い女にああまでちやほやされるというのは、気持ちのいいものではあったが、教師という立場上なかなか手が出せないというのがもどかしいところであった。いつもなら、あそこまで言い寄られて拒否する事などないからだ。
だがしかし、この学校には敬吾の求める女はいないように思えた。そこで、敬吾は泉の存在を思い出した。
「あの、小佐野の事ですけど」
「小佐野?小佐野泉?」
坂上はチャーシューを箸で掴みながら、敬吾を見た。その顔は「ついにその名前がこの男からも出たか」と言っている。
「彼女、家族構成はどうなっているんですか?」
今度は「なんだ」という不満の色が窺えた。嘘はつけないタイプだな、と思う。そして、なんと問えばご満足頂けたのだろうか、と考える。
「確か、ご両親とお兄さんが一人いますよ」
敬吾は、時計台の下で拾った女に家族や友人がいた事より遥かに落胆した。話にはまだ続きがあった。坂上はチャーシューを三口ほど噛み、飲み込んだ。
「でもね、私未だに彼女の家族を見た事がないんですよ。もう彼女の担任をして三年目になりますけどね。ただの一度もですよ」
敬吾はその話に食いついた。詳しく聞くと、入学式はもちろん、保護者会や進路の相談を行う三者面談にすら姿を現さなかったという。入学式と一口で言っても、何百人の親が来る中で、顔も知らない彼女の親を見つける方が難しいと思うが、坂上は入学式も数に入れていた。敬吾はそこになにか引っ掛かるものを覚えたが、敢えて口には出さなかった。それにしても、三者面談にすら来ないとはただ事ではないように思える。娘の進路や成績を知りたがるのが親というものではないのだろうか。過度な放任主義なのか。ともかく、敬吾はそこに大変興味を持った。
「で、私がなんて尋ねると思ったんですか?」
んー、と坂上が脂汗をハンカチで拭った。覆うものが極端に少ない頭を光らせ、適当に剃ってきたと思われるひげを蓄える彼はいつもしかめっ面で、それが不思議とよく似合っていた。
「いやね、彼女の交友関係とか」
確かに、それは納得できた。彼女の友人は何故かあの橋本海しかいない。入学当時は、どこへ行くにも彼女の周りにはいつも人がいたらしい。しかしいつの間にかその人達は葡萄のように房から離れていき、ついには一粒――海の事であるが――しか残らなくなったという。
ここ職員室にデスクを構えていればその話はいつでも聞ける。それほど教師達はそれに疑念を抱いているのだ。私情を一切省いても、蓮はいい生徒だ。校則違反もしないし、いつも明るく、成績もいい。見た目も十分なほどなのに、それを全くと言っていいくらいに意識していない。だからはじめは友人も多かったのだろう。他の教師は知らないが、坂上は極稀に彼女のいかがわいい噂を聞く事があった。ただ、彼の知る限り彼女は、そんな事はしないだろうと、どこか心で決めつけているところがある。それが現状の原因なのかもしれなかったが、坂上にはそれを確かめる事もできなかった。その噂が本当であって欲しくないという気持ちがあるからかもしれない。
この一週間、敬吾は昼休みになると毎日決まって屋上に行った。まるで自分だけの秘密基地ができたかのような気分だった。
人間も他の動物と変わらなくて、自分の縄張りを荒らされると不愉快になる。自分の場所には他人はいれたくないものだ。しかし今の彼は、その縄張りにある人物がいない方が不愉快になるだろう。
「や、先生」
泉が顔の高さまで手を上げて、微笑んだ。敬吾は一瞬安心したような顔を見せると、すぐに彼女の隣に行ってフェンスに寄り掛かった。そして、煙草を取り出す。一度泉がここは禁煙だと言った事があったが、それでも吸うので、もう何も言わなくなった。
二人は特になにを話すでもなく、毎日形の違う雲の行方を眺めているだけだった。それでも楽しかった。
約束をしていなくてもこうして二人は昼休みの度に会ってたまに他愛もない話をした。
敬吾も思うところがあり、泉に尋ねてみた。
「小佐野は、橋本としか話をしないんだな」
泉はそれを聞くと、困ったように頬を掻いた。その仕草は、敬吾が困ったときに鼻を掻くそれに似ている。
「んー……私、多分人付き合いが苦手なんですよ」
「そうか?そうは見えないけどな」
人付き合いの苦手な人間がこうも毎日赤の他人と話をするとは思えなかった。泉は微笑みながら首を横に振ると、太陽に目を向け、眩しそうに細めた。
「海ちゃんはそんな私といつも一緒にいてくれるから。特別なんです」
「特別」という言葉を、敬吾は噛みしめるように繰り返した。その対象が海である事に、多少の寂しさと、若干の羨望を感じて。そんな敬吾を、泉は小首を傾げながら見上げ、また、微笑んだ。いつもだ。いつも彼女はその笑みに暗い影を含ませる。どこか物憂げな、寂しそうな笑み。それは泣き顔にも似ていた。
今日も今日とて敬吾は屋上に来た。そこにはいつも通りの先客がいて、その先客は振り向くと、ピースをくれた。敬吾がその頭をくしゃくしゃと撫でてやると、気持ちよさそうに表情を緩めた。まるで猫のようだな、と思う。
フェンス越しに校庭を見つめながら、敬吾は二本目の煙草に火をつけた。今日は体力測定の日らしく、体育教諭がグラウンドに白いラインを引いたりと、大わらわだった。
「ところで、小佐野は家族仲はいいのか?」
「はい」
それは間髪を一切入れぬ即答で、瞳にはくっきりと敬吾を映していた。それが却って怪しい。まるで、誰に聞かれてもそう答えられるように、と練習をしていたかのような。敬吾は落ち込むに落ち込みきれないまま、それ以上は何も聞けなかった。
そして二人は気付かなかった。自分達を入り口から眺めている、いや、睨んでいる人間がいる事を。
放課後、泉は海の帰り支度が終わるのを、机に座りながら待っていた。他の生徒はとっくに帰っていて、教室にいるのは泉と海と、授業の最後にホームルームを終わらせてしまった敬吾の三人だけだ。敬吾は黒板消しでチョークの跡を消している。
「ねぇねぇ、私の家今日誰もいないんだ。泊まりに来ない?」
「いいの?」
「うん。両親が旅行行っちゃってね。私一人残してだよ?酷くない?」
泉はあはは、と苦笑を漏らすと、海の両親を思い出していた。いつも元気いっぱいで、かなりアクティヴな人達だったと記憶している。泉も何度か海外旅行の土産を貰った事がある。海は「これで十二ヶ国制覇だって言ってた」と言う。泉は海の両親がどこかの異国で「制覇!」と書かれた白旗を掲げている姿を想像した。
「うちんとこの両親はいつまでも新婚気分が抜けないんだよね。朝と夜のキスは当たり前だもん。四十五歳手前のおっさんおばさんが何やってるんだって感じだよ」
またしても泉は苦笑でしか返せなかった。どんな家が普通なのか、海の親は異常なのか、それすら分からないのだ。
「泉のところは?」
「へ?」
「だーかーらー、泉のところの両親。仲良いの?」
敬吾は二人の会話を一語一句聞き逃さないように、まだ黒板の前にいた。拭き過ぎで黒板が更に汚れた気がするが、よもやそんな事を気にしている場合ではなかった。
「うん。私のところも海ちゃんの家と同じ感じ、かな」
「お互い苦労するよねぇ」
支度も終え、二人は敬吾に別れの挨拶をして、教室から一歩足を出した。そこで、校内アナウンスが流れた。
「えー、あー、三年二組小佐野泉。あー、うー、まだ残っていたら至急職員室に来るように」
話す言葉を考えていなかったのか、多数の人間に聞かれるのが恥ずかしかったのか、やけにどもった声でそうスピーカーから坂上の呼び出しが伝えられた。あまりのタイミングの良さに、三人はつい笑ってしまう。
泉が職員室に向かうため廊下を走っていく後姿をしばらく見つめていた海は溜息をついて、携帯電話をいじり始めた。そこには決して居心地がいいとは言えないような空気が漂っていた。そこで、敬吾はゴホンと軽く咳払いをすると、やっと黒板消しを置き、教壇を降りた。
「なぁ、橋本」
「はい?」
携帯電話から目を離さないまま、海がぶっきらぼうに返事をした。メールでもしていて、それを邪魔されて腹が立ったのかは分からないが、露骨にうざったそうな顔をしている。
「あー、橋本は小佐野の家族に会った事はあるのか?」
「……ありませんけど?」
「あぁ、いや、坂上先生が見た事がないと話していたから、橋本もないのかと思ったんだ」
特に聞かれていないのに、海の心なしか敵意剥き出しの目を見ると、そう説明した。
「ないです」
「そうか……そうか」
敬吾の顔が綻んだのを見て、海は訝った。やがて満足そうに鼻歌をたしなみながら、敬吾は海の肩をぽんぽんと叩き、出て行った。緊張がほぐれ、ふっと息を吐くと、「少し冷たく当たり過ぎたか」と海は小さく反省する。
「これ、親御さんに渡しておいてくれ」
そう言って坂上が泉に渡したのは、白い封筒だった。泉はその中身を分かっているらしく、暗い表情を見せた。坂上もそれを察しているようで、こう問うた。
「なぁ、一度親御さんと話せないか?色々聞きたい事もあるし」
泉は困ったように笑い、どちらともつかぬ返答をし、どちらにも首を振らなかった。それを見て、坂上はまた嘆息を吐く。やがて話す事がないと分かると、泉は会釈し、坂上に背を向けた。
「さようなら」
「あぁ、さようなら」
今しがた職員室に入ってきた敬吾ともう一度別れの挨拶をすると、泉は彼にも背を向けた。
「彼女、どうかしたんですか?」
「高崎先生。いやね、彼女もう三ヶ月も授業料を払ってないんですよ」
二人は、他の教師につかまって話している泉を見つめた。泉はまたあの寂しそうな笑顔を教師に向けている。しかし、きっと彼は彼女の笑顔の影に気付いていないんだろうな、と敬吾は内心ほくそ笑んだ。坂上は、気付いているのかいないのか、だが険しい瞳で彼女を見つめている。
「そんなに家計が苦しいんですか?」
「さぁねー。でも、あんなに両親が働きづめで、授業料が払えないなんて事は有り得ないような気がするんですよね」
確かに、三者面談にも来れないほど休みなしで働いていて授業料も払えないというのは、本末転倒ではないか、と思う。もう一度泉を見ると、話し終えたらしく、礼をして職員室から出ていくところであった。そんな彼女の後姿を見ながら、敬吾はにやりと唇の端を釣り上げた。
泉と海はコンビニで買ったアイスクリームを食べながら、帰路を歩いていた。今日の授業の話や、人気のない嫌味な教師の不満をたらたらと話していた。話す事がなくなると、海がぽつりと敬吾の名前を呟いた。
「高崎先生がどうかした?」
海は、泉が坂上に呼ばれて職員室に向かっている間にした敬吾との会話を話した。泉は複雑そうに頬を掻いた。
「どうして私の家族の事なんか」
泉はなにか妙な胸騒ぎを感じていた。以前にも敬吾は自分に家族の事を聞いた事があった。敬吾が何故泉の家族関係にこだわるのか、皆目見当もつかなかったが、泉は自分の中の漠然とした不安に気付かないフリはできなかった。
それに気を取られていたからか、泉は海が立ち止まっている事に気が付かなかった。ふと後ろを見た瞬間、時間が止まったような気がした。
「泉の事好きだったりして」
海のその表情を、泉は以前に見た事があった。あれは確か、泉がクラスの男子にからかわれ、いじめられている時だった。海は泉を守る為に、今の表情をして、男子を追っ払った事があったのだ。今その剣幕を泉に向けているという事は、海は泉の前にいる「誰か」、また海の後ろにいる「誰か」を守っているという事なのだろうか。
海の殺気に泉は怖くなり、目を逸らした。そして、その対象であろう男の顔を思い浮かべた。
「まさか」
やっと振り絞って出てきた言葉に、海は思い出したようにまた穏やかな顔に戻った。
「そうだよね」
どことなく気まずい雰囲気は、ここで終わった。分かれ道にさしかかったのである。泉は、海の家に訪ねる時間を告げると、右へ進んだ。海は頷き、左へ進んだ。
それから五分もしないうちに、男は右へ進んだ。
「それより高崎先生、今夜一杯やりませんか……あれ?」
「高崎先生ならさっき急いで帰りましたよ」
坂上は不服そうに口をへの字に曲げた。
歪-ひずみ-