こばやし、こばなし
新橋はやむ落ちな部分を作者と登場人物が飲みながら語らうという、ちょっとな内容です。
お嫌いな方はお戻り下さい。
西63成華園経由県庁駅前行き・日常と休日
・作品を書くときに決めた、設定のようなものです。
上條聡の日常
職業:大手石油系総合会社、技術営業職。
学歴:某国立大学理工学部卒。
趣味:登山、アウトドア、ドライブ、料理、旅行。
AM6:00起床。
軽く2km程ランニングした後、シャワーを浴びてその間に洗濯機を回す。
朝食は大抵牛乳とミューズリー、フルーツ程度。
スーツに着替えて、日経の電子版をタブレットで読みながらコーヒーを飲む。
前日の株価を見て、近い内に売却する株の目星をつける。
見なりを整えて、香りは控えめに。朝食の片付けをしてコートを着る。
忘れ物はないかもう一度チェック。バス停に並ぶため早目に家を出る。
AM7:27西田口3丁目バス停。
やってくるバスに乗り込む。ずっと無視され続けている意中の彼女に挨拶をして、空いている彼女の隣に座る。前方にいる中年サラリーマンがニヤニヤしながら親指をグッ!と立ててくるのを苦笑で返す。彼女は俯きながらチラチラこちらを伺ってきている。
可愛いなぁ。心が和みながらもちょっとした罪悪感も味わう。
彼女が何故かバスの運転手の背中を熱く見つめ始めたので、内心慌てる。枯れ専なのか?
AM7:42太平洋生命ビル前で下車。
さりげなく運転手の左手薬指をチェック。指輪していた。不倫希望なら止めようと心に誓う。
名残惜しいが下車。オフィスビルに着いてからは、エレベーターは使わず12階まで登る。
IDカードを使ってオフィスに入り、自分のデスクでまずはメールチェック。
タイの支店からの急を要するメールに応えているうちに始業時間。
コーヒーを飲みつつ、ひたすらパソコンに向き合う。
AM9:00社内ミーティング。
県内の新工業団地に進出した大手自動車会社の大工場に、新しい潤滑油を提案するための打ち合わせ。合わせて販路拡大のための道筋を提案する。上司の反応は良好。
AM10:30大手自動車会社の技術部門を訪問する。
新しい潤滑油の提案を行う。注目されていたようで細かいところまで確認され、資料を求められる。昨日作成しておいた資料を出して説明。反応は良い。検討に入るとのこと。
合わせて今の自社製品の不満点など聞き出す。他部門の話になったが、メモしつつ自分の知識を何とか引っ張りだして話を聞き出す。早目に纏めてその部門へ報告する旨心に留めておく。
PM12:00昼食
大手自動車会社の近所の和食屋に同行した後輩と入る。
鯖の味噌煮定食を食べながら、後輩の彼女の愚痴を延々と聞く。
「上條さんは彼女要らないんすか?」と聞かれたので、適当に応える。
後輩はこの辺りの出身なので、県庁に知り合いは居ないか探るが空振り。広報だという彼女と接点を持ちたいが、中々接点がない。工場か、カーディーラーならな、と少し落ち込む。
PM13:30支社へ戻る。
上司に面談の報告。また他部門への不満点も合わせて報告。
これからの交渉についての意見交換をする。
その後本社とスカイプで会議。現場と本社の温度差に心の中でため息をつく。
何とか話を通す。笑顔でゴリ押した感満載。
資料作成、他部門への不満点報告、その他もろもろやってると午後はあっという間に過ぎて行く。
PM19:32早目に退社。
思ったよりもスムーズに終わったので、早目に退社。
バス停から西田口営業所前行きに乗る。後ろの方の座席に彼女発見。帰りまで近づくと嫌われる可能性大だが、目を閉じて動かないでいるのでこっそりとその後ろの座席に座る。寝顔可愛い。攫おうかなこのまま、と劣情が湧き上がるがただの変態犯罪者になるので我慢する。
降りる停留所まで寝顔を堪能。誰かに寝顔を見せたくないので、降りる時に彼女の肩をトントンすると、寝ぼけて慌てふためく彼女が目に入る。可愛い。
PM20:10フィットネス。
早目に帰れたのでジムへ行き3km程走り、筋トレ。夏に剱岳辺りを縦走したいので体力作り。
本当は彼女とキャンプに行きたい。今の現状だと難しいので、なんとかならないかと筋トレしながら戦略を練る。八方塞がり感がある意味仕事より難しい案件。軽くトレーニングをして、そのままシャワーも済ませる。
PM21:00帰宅、夕食。
宅急便で届いていた食材を冷蔵庫にしまい、簡単にパスタとサラダにする。
後片付けをしてから、洗濯機の中にある乾燥済みの服を畳んでチェストに戻す。
簡単にワイパーで床掃除しながら株式情報を集めたり、同業他社の動きをネットで集める。
面白味のない生活だと自虐的になりながら、彼女がここにいたらいいなとため息。
PM23:00就寝。
抱き枕が切実に欲しいと思いながら、明かりを消す。
彼女の顔がちらついて、ティッシュのお世話になる時も有り。虚しくなりながら眠る。
夢に出てきたら多分離さないような気がする自分がいる。明日は声を聞きたいな、と思う。
大石綾乃の日常。
職業:県庁広報広聴課、主事
学歴:地方某国立大学法学部卒
趣味:お菓子作り、手芸、温泉巡り、節約。
特技:書道、そろばん、フラワーアレンジメント。
AM6:20起床。
起きてすぐは動けずぼんやり、洗顔、着替えを済ませてテレビを見ながら最近ハマっているレンジで餅とスライスチーズをチン!してハムと海苔で巻いたものを朝ご飯にする。食べたら食器を洗いつつお弁当箱に冷凍ご飯を解凍したものを入れる。おかずは前の日作成した夕食の残りと、冷凍食品。昼食代を節約。老後困らないための貯金をするため。
着替えてお化粧、準備が出来次第早目に家を出る。今日はストーカーいませんように、と願う。
AM7:24西田口営業所前発車。
前から6番目にも関わらず、4席ある一人掛けは一瞬で埋まり渋々前の横向き席に座る。
後方の2人掛けよりも少し座席が広いので、ストーカーがやってきてもまだましだから。
AM7:27西田口3丁目停留所。
「おはよう」と言われて例のグリーンノートの香りに内心毒づく。下を向きながらも通勤鞄をチラ見でチェック。お高いブランドの象徴的なマークが見えて、平林さんの不倫説が有力視されてくる。独身こんなの持たないから、とやさぐれる。とにかく早くバスよ進め、と無愛想な運転手さんの背中に熱い視線を送る。この先の信号が全て青になるよう念力も送る。
無常にも、信号が黄色でバスはストップ。恨みがましい視線を更に運転手さんに送る。
AM7:42太平洋生命ビル前。
ストーカーが最後に下車。ほっとする。
AM7:44県庁駅前停留所で下車。
徒歩で県庁へ向かう。県庁のエレベーターは節電で6基あるうちの2基が停止中。混み合っているので少し待って5階へ。部署の鍵を貰ってきて開けてポットにお湯を沸かす。
パソコンを立ち上げてメールチェック。今日の仕事の段取り確認。
高橋さんが出勤してきて挨拶してから、3階にある大会議室へ。
本日防災訓練最終日。早朝災害発生の想定で山中さんと平林さんは朝4時半から歩いて出勤。そのまま防災本部センター立ち上げの想定勤務。それのフォローに回る。
AM10:20目と鼻の先の地元ラジオ局へ行く。
県庁広報ラジオ番組の打ち合わせ。行く前に高橋さんがデスクに忘れ物があり、エレベーターが防災訓練で混んでいたこともあって、5階まで全力ダッシュ!ヒール低め靴にすれば良かったと後悔。息も絶え絶え。打ち合わせは昼近くまで続く。
PM12:00部署で昼食。
お弁当を食べつつ、本日の収穫を高橋さんに話す。山中さんと平林さんはまだ防災訓練中。
上玉!話しかけろ!と念押される。ストーカーはごめんだ、と心の中で毒づく。
PM13:00仕事。
パソコンに向き合っていたら、県庁ロビーで配布分の広報誌が大量に届く。
何時もなら平林さんがやってくれるが、いないのでとある場所(機密)に運び込む。結構な肉体労働。やっと自分のデスクへ戻り、パソコンと向き合う。
PM15:30仕事で筆耕。
知事公印を押し間違えた!と、とある部署(機密)のとある賞状(機密)の筆耕を頼まれ拉致される。地域政策部の川嶋さん58歳が一番県庁の中で筆耕が上手な筈なのに!と慌てていたら、川嶋さんは本日年休。2番手にお鉢が回ってきた模様。
プレッシャーに何かを削られながら賞状の筆耕をこなす。
その後、席に戻りもう一度パソコンに向かいあう。
PM19:36退勤して西田口営業所前行きが発車。
肉体労働と精神的に削られたせいか、発車前から意識なし。
グリーンノートの香りの彼に、甘い言葉を囁かれぎゅうぎゅうに抱きしめられている夢を見る。
悪夢は誰かに肩を叩かれて終わった。うなされていたのかな。
寝ぼけて、慌てるが既に誰も居なかった。西田口営業所前に着いてバスを降りる。
PM19:45帰宅。
着替えて夕食作り。回鍋肉と作り置きのひじき煮、小松菜のお浸しで夕食を終える。
茶碗を洗って拭いたら、お弁当用のカップにおかずを詰める。
これをしておけば明日朝は楽チン。
お風呂のお湯を溜めて、古本を読みつつ長湯。出てからは髪を乾かしてベットに入り雑誌を眺める。
PM23:30就寝。
明日はあのストーカーに会いませんように、と神様に願って就寝。寝付きはいいのですぐ寝息。
上條聡の休日
AM7:00 起床。
天気がいい日は5km程ランニング。意味も無く西田口営業所前の停留所辺りを通り過ぎるコースを走る。多分会えないとは思っていてもあわよくば、の気持ちは強い。
彼女が何処に住んでいるのか知りたい。しかし知れば意味も無くその辺りをウロウロしそうで、そうなったら通報される自信は有り。自虐的になりながらマンションまでランニングで戻る。
AM8:05 洗濯・朝食。
着替えて洗濯機に入れ、そのまま洗濯する。ついでにリネンも一緒に洗う。天気がいいので洗濯コースのみにする。前日に炊飯しておいた雑穀米と味噌汁で朝食。鮭でも焼こうかとも思うが、面倒に感じる。茶碗洗いが終わる頃に洗濯機が洗い終わりを知らせ、ベランダで黙々と干す。28歳彼女なし。そろそろ切実に嫁が欲しい。
AM10:35 ボルダリング。
郊外型のアウトドアショップの中にあるボルダリングの施設を車で訪れる。グレードを守って黙々と登る。水を飲んで休憩していると顔見知りの女性2人から声を掛けられ、昼食に誘われるが笑顔でやんわりと断る。彼女なら絶対断らないけれどな、と思いつつまた壁に向き合う。
PM12:30 昼食。
シャワーを浴びた後、近くのハンバーガー専門店で昼食。日本のハンバーガーは美味い。
PM13:30 スーパーで買い物。
郊外にある地元密着のスーパーがなかなか面白いと上司から聞いていた、その店が道沿いにあったので寄る。綺麗な建物で、鮮魚コーナーが豊富で安い。恒三おじさんの贈り物、と題した高級加工魚セットの中身が良さげだったので、実家と姉に送るべくサービスカウンターに声を掛けたら、応対に来た店員さんに固まる。
彼女にそっくりだけれど、少し髪が長くてお腹ははち切れそうなほど大きい女性を見て、頭をフル回転させる。つかぬ事をお伺いしますが県庁にお勤めのご兄弟はいらっしゃいますか、と聞くと、綾乃ねーちゃんの知り合いですかっ、と猛烈な食いつき。顔見知りです。と言葉を濁す。綾乃さんというんだ、名前を知って内心喜んでいると、妹さんから姉押し猛プッシュが始まった。そんなに言わなくても好きですから、と思いつつ妹さんの姉話を楽しむ。
しっかり者ですが何かに夢中になると話も聞かず集中します。という綾乃の話を聞きながら伝票を書く。もう自分の中で綾乃呼び決定。
気を良くしたので、一番高いセットを2つ頼む。クレジットカードを出したら妹さんは、上玉ッと呟いた。ここの姉妹は面白い。
PM15:40 自宅へ戻る。
スーパーで買った食材を冷蔵庫へ入れ、干していたリネン類を取り込む。
洗濯物をたたみながら、先ほどの話を思い返す。
どうにか仲良くなりたい。妹さんから懐柔してもらう手も考えるが、バスで隣に何時も座ってくる奴が妹経由でやって来たら恐ろしさしか感じないだろう、と却下。
せめて挨拶だけでもしてくれたら、話を拡げる自信はある。拒否が身に染みる。
PM18:30 夕食。
旨そうだったマグロの刺身をヅケにして、ビールの缶を開ける。
手応えを感じて無い訳ではない。こちらを可愛らしく伺ってはきている。完全無視なら諦めるが、あんな征服欲を掻き立てる仕草をして、伺って来るなんてわざとか、わざとなのか?
顔はドンピシャ好みで性格も気が強めでイイ。むしろ気が強い娘が自分にだけしゅん、となるところを見たい。モテない訳では無いのだから諦めてしまうのもいいかとも思うが、通勤のバスに乗るとやっぱり綾乃に吸い寄せられる自分がいる。悪酔いしそうなので、一本でビールは止める。
PM20:00 入浴。
どうしてももやもやして、綾乃を思い浮かべているうちに反応してしまい、そのままスッキリさせる。頭の中はお見せ出来ない。想いが叶ったら綾乃を滅茶苦茶にしそうな自分が怖い。
PM23:00 就寝。
今日の収穫は大きかった、と振り返る。名前を反芻しながら眠る。自分がちょっと痛い男だと言う自覚あり。来週は声を聞きたいな、と思う。
大石綾乃の休日
AM8:15ぼんやりと起床。
ストーカーにジリジリ追い詰められる夢を見たが、逃げ切った。寝ぼけた頭で、吉兆じゃない、と喜ぶ。
三十分位ぼんやりして、昨日の残り物で朝ご飯。お一人様鍋を最近買って、昨日楽しんだので残りで雑炊を作る。鍋って野菜も取れて美味しくて最強。魚は実家から貰ってきたのを冷凍していたもの。
今晩も鍋にしよっかな、とウキウキする。
AM10:00部屋の掃除。
ファッション誌が溜まっていたので、紐でくくり、色々な雑紙は一纏め、音楽を聞きながら掃除機をかけて鼻歌を歌う。バスルームをストレス発散とばかりにスポンジでゴッシゴッシこすったら、綺麗になって大満足。狭いアパートなので、あっという間に綺麗になった。仁王立ちしてドヤ顔。誰も見ていないから、いいの。
AM11:45軽く昼食。
近所のパン屋さんで買ってきた食パンを使って、簡単にサンドウィッチ。食後はお出かけ着に着替えて、お化粧をする。
PM12:24西田口営業所前から、バスに乗る。
お客さんが殆ど乗っていない県庁駅前行きへ乗る。ウキウキしながら一番後ろの席へ。ストーカーに会わない日のバスは、とても清々しい。晩秋にしては暖かい日でテンションも上がる。
お客さんは中年のご夫婦と、2人の子ども連れのお母さん、杖を持ったおじいちゃん、そして私。
西田口三丁目でも乗る人はいないし、今日はいい日だ。
PM13:00予約していたヘアサロンへ。
カットとカラーをお願いする。担当は高校の時の同級生。誰それが結婚した、子どもが生まれた、という地元情報の交換。田舎は結婚早い。
失恋した時に涙目でイメチェンしたい、と叫んだら、おっしゃあ、いい女風にしちゃるわ、と腕を振るってくれた。確かにいい女風。それ以来気に入ってその髪型にしている。
上品なお洒落をする担当と、バーゲン情報も共有。お互いのスカートを褒め合い、恋多き彼女の恋バナを冷やかす。今はターミナル駅前にある、百貨店の一階に並んでいる高級ラインの一つにお勤めの、やり手イケメンと恋の駆け引き中。ほえーと聞き入っていたら、綾乃も何かないの?と聞かれるので、ストーカー被害を報告。
綾乃、それは金のマグロだから話しかけられたら返事して捕まえな、と担当は鼻息が荒い。担当よ、お前もか。
ストーカーはごめんだ、と心の中で毒づく。
途中くしゃみが何故か出た。風邪、引いたかな………それとも誰か噂しているとか。まさかね。
PM15:45ヘアサロン周辺のお洒落なお店を冷やかす。
可愛いアイスクリーム屋さんや、有名なセレクトショップ、北欧のインテリアを扱う雑貨屋さんなどがあるエリアで、お店を見て回る。
そんな中で、兄弟経営とはいえサロンを持っている同級生は凄い。結構お客さんは切れ目なくいつも満席、たまに地元テレビのアナウンサーとか、地元球団の選手とかも見かけるけれど、半個室風なのでプライバシーもバッチリ、頑張っているなーと思う。私も仕事頑張らなくちゃ!
PM18:00帰宅、夕食。
今日は白菜と豚バラ鍋。辛子で食べると最高っ。食後、妹から電話が来る。興奮した様子で上玉の背の高い、お姉ちゃんを知ってる男の人が店に来たッ、お姉ちゃん知ってる?と聞かれるが、該当者はなし。ダレダ。
大体恋愛は、もういいわ、職にもついているし、面倒臭い、とつい温度差がある妹へ言うと、小一時間説教を食らう。幸せの形は人それぞれでいいじゃんと言い返すと、お姉ちゃんのは諦めでしょっ、と痛い所を突かれた。
昔からマイペースな姉、しっかり者の妹として有名な姉妹。ちなみに一番上の兄はリーダータイプ、二番目の兄は一つの所にじっとしていられないタイプ、下の弟はコツコツやるのが好きな職人タイプ。
五兄弟は皆、性格は違う。
PM20:30入浴。
妹の話の該当者を色々考えている内に、まさかストーカーじゃ、と背筋が寒くなる。
気のせいでありますように、と神様へ祈る。
PM23:00就寝。
ベットでゴロゴロしながら本を読み、うとうとし始めたので歯磨きをして、寝る。明日もお休み、嬉しいなーストーカーに会わないし。
2人の休日
AM7:00 聡、起床。
隣に眠っている綾乃の瞼にキスをして、ベットから出る。昨晩思い切り舐めてイカせて(以下、朝なので自主規制)綾乃の身体を堪能。綾乃グッタリ、聡スッキリ。コーヒーを淹れて眠ってるお姫さまのために朝食を用意する。メニューは小さなおにぎりとお茶。イチゴも食べるかもな、とウキウキでヘタを取り二等分して練乳を掛ける。ここからはお姫さまが起きるまで洗濯したり、メールチェックしたり忙しい。こまこまとした用件はこの時間に済ませる。
AM8:15 綾乃、起床。
ベットルームから呼ばれるので、ウキウキと向かう。お姫さまはベットの中で動けないけれど生理現象に勝てなくて顔を真っ赤にしながら恥ずかしそうにおねだりしてくるので、お姫さま抱っこで連れて行く。可愛い朝から。もう一度ベットに戻して用意していた朝食をその小さな口に入れる。起きたら自分で食べる!と言った隙に口にイチゴを入れるとむぐむぐ食べている。可愛い。口の端から練乳が溢れ出てムラッ、と来たので有無を言わさずイチゴ味のキスをして口内を弄る。とろり、とした瞳が堪らず朝からもう一回戦目。
終わったら綾乃は眠ってしまったので、腕枕しながらタブレットで株情報でも集める。
たまにサラサラの髪にキスを落とす。幸せを噛みしめる。
AM11:00 綾乃、再度起床。
おはよう、と声を掛けると、聡のバカっ、とおかんむり。可愛い。可愛いのが悪い、と耳元で囁くと途端に顔を真っ赤にした。そういうところも可愛い。思い切り甘やかしてこのベットから出られなくしたい、と思うがそうすると綾乃は絶対弱るのでしない。少しは動けるようになるようにマッサージ。しなくていいっ、と怒られるが無視。あまあまのトロトロにして、心を自分以外に動かないようにするのに忙しい。ぎこちなく起き上がってきたので、服を着せる。自分で着ると言った言葉は無視。
PM12:30 近所のトラットリアで昼食。
抱っこして行く?と聞くと激しく拒否。つまらない。手を繋いでゆっくり近所にある店まで行き、ピッツァとパスタを頼み2人でシェアする。穏やかに話を色々とする。ドルチェを食べる頃には綾乃のご機嫌はよくなった。
PM13:30 家に戻る。
綾乃は集中して編み物を始めた。何を編んでいるの?と聞くと、えへ、と笑いながら内緒、と言う。なんなんだ、気になる。
あまり邪魔すると途端に綾乃は弱るので、少し様子を見る。ネットを見ながらもたまに綾乃を見る。物凄い集中力。脇目も振らない。大きな目がくりくり動いて可愛い。そのうちにぽてぽてスリッパを鳴らしながら寄ってきて、編んでいた濃いグレーの大きなのを背中に合わせている。
もしかして、俺の、と聞くと春先はこっち寒いから、おうちで羽織るのにどうかな、と綾乃は笑った。それは職場で着る。自慢しながら着る。男ばかりの職場だから見せびらかす。決定だ。
PM15:30 スーパーで買い物。
今日の夕飯の買い物に出る。流石スーパーの娘、何事にも妥協はせず旬の鮮度のいい安い物を真剣に選んでいる。大トロでも食べたいと呟くと、くわーっと目を見開いて怒られた。
節約、大好きだもんな。その辺庶民的というかなんというか。時間が無くてネットで食材を頼んでいるが、一ヶ月の総額を教えたら綾乃は卒倒しそうだ。
PM18:30 夕食を作り、食べる。
一緒にキッチンに立って、話をしながら夕飯を作る。メニューは新ジャガのサラダにピーマンともやしのナムル、豚肉の塩麹焼きとご飯、味噌汁。2人で食べると何でも美味い。
いつでもこうやって一緒にいたい。穏やかで幸せな気持ちになる。
PM20:30 入浴。
一緒に入る。後ろから抱きしめているうちにムラムラ来るので、綾乃のいいところを弄ぶ。
声が小さく出るので、もっと鳴かせるべくいい所を触る。段々声は大きく甘くなってきた。
グッタリした所で風呂から上げて、ベットへ抱っこして行く。
何度もイカせて、囁いて、綾乃をトロトロに溶かすのに専念。もう駄目は無視。
2回戦位して、ふと見ると綾乃は眠っていた。もうちょっとしたかった。綾乃は体力なさすぎる!と拗ねながらも、後ろから腕に抱え込み眠る。
西63成華園経由県庁駅前行き 東京
「ただいま」
リビングのドアを開けると、ほのかなフットライトの灯りに胸を撫で下ろした。ダイニングテーブルの椅子に荷物を無造作に置くと、そっと寝室の扉を開ける。開く度に暗闇が薄闇へ変わって、パタパタと軽い音が響く。静かにベットへ近づくと、ピンク色のフリルがついた繋ぎのパジャマを着た友華子が、その大きな瞳をキラキラ輝かせながら、嬉しそうにパタパタと身体を動かした。
隣で眠っている綾乃は、すぐに薄目を開けた。
「お、かえりなさ、い……今、なんじ」
「ただいま。一時半だよ」
「そんなに遅くまで、……ん、お疲れ様、でした」
そんなことはない、綾乃の方が慣れない育児で悪戦苦闘して、日中は一人で頑張っているじゃないか。そう思いながらも、髪を撫でる。友華子と、綾乃と、同時に。
「ゆかちゃん、おきたのー今日も」
「帰ってくるのが分かっていたように、目を覚ましているよね。友華子、寝ていていいんだよ」
そう話しかけると、友華子は両足をすりすりと擦り合わせ始めた。ニコニコしながら、とても嬉しそうに。
「聡のこと、待っているんだもんね、ね、ゆかちゃん」
綾乃が友華子の頬を突く。ふ、ふ、と息を吐きながら友華子は足を擦り合わせ続ける。友華子は最近、俺が帰ってくると途端に目を覚ますらしく、寝室を覗くと必ず起きている。起きている時に会えるのは嬉しいけれど、余り癖になっても困る。
「友華子、おやすみ」
立ち上がり、寝室を出ようとした時、ふ、ふぇっ、と泣き声が後ろからした。そのまま愚図り始めて振り返ると、綾乃はおむつへ手を伸ばしている所だった。
「いいよ、大丈夫、寝る用意、してきて」
「いや、……やるよ」
ベットへ戻ると、愚図っていた友華子はまた両足をすりすりと擦り合わせ始めた。まだ五ヶ月なのに、こんなに意思を持って俺を求めているのだと感じる。戻ると今度は両手をパタパタし始めた。そんな素直な、それでいて純粋な気持ちを向けられて、嬉しいんだ。
「寝た?」
「うん、もう少し」
柔らかな光のルームランプを点けておむつを取り替えて、抱っこして軽くキスをすると、友華子は嬉しそうな声を上げた。その内にお腹が空いてきたようで本格的に泣き出したので、綾乃と交代する。どうしても母親には勝てない。抱っこされて、綾乃の胸に吸い付いて、大きな瞳は閉じられている。バスタオルで頭を拭きながら隣に座ると、綾乃は眠そうな笑顔でこちらを見上げてきた。
「友華子は、聡が好きなんだねぇ」
「最近、余り会えないのにね。朝しか会えない筈なのに、友華子が、会わせてくれているみたいだ」
そっと友華子の頬へ触れた。ふわふわで柔らかで、暖かい。一緒にいると何時もあっという間に眠りに誘われる。残業をして帰ると、頭が冴えて眠れないことが多かったのに、同じベットに綾乃と友華子がいるだけで、心地いい。
「来週から、二週間、出張入った」
「何処?」
「ジャカルタ。……実家に行く?」
「ううん、大丈夫。子育て支援のお楽しみ会もあるし、東京事務所に顔出す予定もあるし、結構予定入っているから東京にいるよ」
そう言うと綾乃はにこ、と笑った。本当は、何処にも出掛けて欲しくない。実家にいれば安心なんだ。出歩いておかしな奴に付けられたり狙われたりしたら、堪らない。でも。
結婚して東京に来た当初誰も知り合いがいなくて、一日中ほぼ誰とも話さず俺とだけの会話をするようになったら、綾乃は声を出さなくなっていった。
会話力はがっくりと落ち、それまで筋道を立てて話をすることが出来ていたのに、話はあちこちに飛び、無意味なことを言いだすのを聞いて、怪訝そうな顔をする度に傷ついたような表情を見せた。本人が一番ショックを受けていたようで、話に詰まる度、ごめん、やっぱり、なんでもないのと話を切り上げてしまった。綾乃の話なら、ちゃんと聞くから言って、と促しても首を横に振るばかりで、綾乃を独り占め出来て喜んでいるようでは駄目なんだと痛感した。
「あ、茉莉さんと明日、お散歩で神社へどんぐり拾いに行こうと思っているの」
「仲、いいね」
「えっ、結構久しぶりに会うんだよー」
「……そうだっけ」
そうだよーと綾乃は笑った。綾乃の心の支えは 今、沢山出来た。本当は俺だけがいい、俺だけが支えになって、俺だけに笑顔を向けて欲しい。でも、綾乃は俺だけを必要としていない。沢山の人と関わって、色々な人と話をして、そうやって誰かにも笑顔を向けて、その人からも返して貰ってこの東京にいる。
「友華子に会えなくて寂しいね、二週間も」
「……それだけ長いと、忘れられるかもね」
「大丈夫、忘れないよ」
何の根拠もない言葉なのに、その一言に嬉しくなる。でも綾乃は持ち上げておいて、落とすのは得意なんだ。何度か堪え切れなくてお仕置きしているけれど、無意識にやるから中々直らない。
「綾乃は?」
「私?」
眠そうな顔をしながら、聞き返された。ああ、通じていないな、これは。そう思ったのに。
「……寂しいって言ったら、出張を止めてくれるの」
困ったような顔をして、それでも笑いながら上目使いで見上げられて、胸にグッと来る。可愛い。
「……いや、無理、だね」
そう言いながらも頭の中は高速回転で誰かをジャカルタへ代わりに行かせられないか、その可能性を探る。自分で行かなければ事態は動かないと分かっているのに、無駄なことをしなければならない程、綾乃の言葉に翻弄された。
「お留守番、ちゃんとします。聡が安心して行って帰って来れるように。ここで待っているから」
「……聞き分けが良すぎるよ、綾乃は」
「おとうさん、お仕事頑張ってくるんだもん、その間、友華子が聡のこと忘れないようにするのが、私の役目」
そう言うと殆ど閉じられてきている目をくっ、と開けて頑張るーと言うと、友華子を傍らに寝かせて俺の片手をその小さな両手で揉みだした。
「いいよ、綾乃も疲れているよね。一人で育児と家事、頑張っているじゃないか」
「んーでも、揉むの……」
こっくりこっくり船を漕いでいるのに、小さな両手は動き続ける。そんなことをされたら、仕事頑張らなければいけない。
「ありがとう、もう、寝よう」
くしゃり、と頭を撫でると、綾乃は眠そうな顔でふうっ、と笑った。そっと両手は離される。友華子を挟んで同じベットで眠る、そのことがとても嬉しい。
俺の大切な、守るべき宝物の二人の顔を、少しだけ眺めた。どちらも本当に可愛い。
「おやすみ」
そう言って灯りを消す。心地いい眠りの気配は、すぐにベットを包み込んだ。
西63成華園経由県庁駅前行き 宵宵
・多分結婚したてくらいの設定。どっかにご飯食べ飲みに行った帰り道。基本馬鹿です。
「もう、だーめ、だめ……」
「駄目、って。綾乃、眠いの?」
「ねむたいの、ねむい。おうちかえるー」
「歩ける?」
「むー、あるけるもん。すぐ、あるけ、うー、あるけなぁいー」
「おいで、抱っこしてあげる」
「やだぁ、だっこっていったら、あかちゃんみたいっていわれちゃうー」
「誰に」
「だれか」
「言わないよ、そんな事。おいで」
「やっ」
「おいで」
「やあっ」
「みゃあみゃあ鳴かないで、おいで」
「ふぎゃー」
「何、それ」
「猫のまねーうふふふふ」
「全く、ほら」
「抱っこ?」
「何時迄も家に辿り着かないからね。おいで」
「おもいよ」
「勝気な美人を見せびらかしながら歩く栄誉を俺に与えてくれませんか、可愛い奥さん」
「抱っこするー」
「よ、っと。 ………ご機嫌だね」
「本当は抱っこ、スキー」
「俺も好きだよ」
「背、おっきくなれた感じがスキー」
「素直だね」
「うふふふふ、聡もスキー」
「……………」
「あれぇ、ここ、薄くなってるぅ、髪」
「これから暑くなるから、短めに梳いて切って貰っただけだよ。薄毛みたいに言うのやめて」
「ウスゲッティだーわーい、ウスゲッティー」
「……………」
「だいじょーぶだよぅ、生えてくるよぅ。明日からわかめたーっぷりのお汁作ってあげるー」
「……………」
「うふふ、私、薄毛でもダイスキー、むぐっ」
(子どもには聞かせられないひわいなおと)
「ウスゲッティって何、どういう意味、そして俺は薄毛ではないと言ったよね。地肌が見えているのは梳いて短いからだよ。それも説明したよね。道の真ん中で薄毛薄毛叫ばれると困るんだけれど。そこのところ分かってやっているのかな」
「……う、う、うあーん。ごめんなさいぃ」
「持ち上げて落とすのやめてくれる?前から言おうと思っていたけれど、綾乃の悪い癖だよ。嬉しくなるような事言ったと思ったら薄毛とか。弄んでいるの?」
「……えっ、えっ、(鼻啜る音)……ごめんなさい」
「家に帰るまで俺の事好きって言い続けたら許してあげる」
「………聡、すき」
「うん」
「好き」
「うん」
「すき」
「うん」
「スキー」
「………もう少し感情込めて」
「聡、大好き」
「俺も大好きだよ」
A long dream・アカリと童貞を拗らせた王子
・ふと思いついて書いた、悪ふざけな一品です。
昔々、あるところに悲しみにくれるお姫様、アカリがおりました。
アカリ姫はふとしたことから呪いが掛かり、ヨミの国へ落ちてしまい、そこを出ることが出来ず、彷徨っていることが分かりました。
そこで、小猿の勇者、ソウと、アカリ姫に密かに想いを寄せる隣国のシンゴ王子、生脚大好きな大魔法使い、オイナリと特攻を得意とする片言の戦士、ユウイチロウが、ヨミの国にいるアカリ姫を救うべく立ち上がりました。
途中でシンゴ王子はキンターマを痛めたり、勇者、ソウは脇コチョコチョ攻撃にあったりと苦難の連続でしたが、何とかアカリ姫を見つけることはできたのです。
が、アカリ姫は、ヨミの国にて悲しみに浸り過ぎたせいで、緑の森の中にある家にて、眠りながらも消えかけていました!
アカリ姫が助かる方法は二つ、アカリ姫がやっぱ、消えるのやーめた!と思うか、四人のうちの誰かがアカリ姫を包み込み暖めるか、だったのですが、どうやら一つ目の方法は使えなさそうです。何しろ消えかけていますからね!
そこで、四人は誰が暖めるかを相談をすることにしました。
「じゃあ、わっちが久々に生脚も堪能しようかねぇ」オイナリは手を上げました。
「なんだよ、俺だってできるぜ。サルだからってなめんなよ!」ソウも手を上げました。
「タブン、タタカッテイルヨリハ、ラクナニンムダ」ユウイチロウまで手を上げました。
「なっ、ちょ、それは僕がやりたいに決まってるだろ!」真っ赤になって右手を高くあげたシンゴ王子は、勢いよく立ち上がります。
すると三人はさっ、と掌を王子へ向けて『どうぞ、どうぞ、ドウゾ』と繰り返し、シンゴ王子へ暖める権利を譲ったのです。
空気の読める三人ですね!
こうしてシンゴ王子は愛しいアカリ姫を暖めることとなり、ヨミの国にある緑の森に建っていた部屋の中で眠っているアカリ姫の元へ向かいました。
一人、部屋に入ったシンゴ王子は、ふわふわのベットに眠る可愛らしくも消えかけのアカリ姫を見て、生唾を飲み込みました。
なにせ、シンゴ王子はハタチの健康な若者。想いを寄せるその人が、上げ膳据え膳状態で目の前にいるのです。そりゃあ、パイのひとつでも揉みたくなるってなものです。
シンゴ王子は煩悩と戦いますが、一緒に横たわり、アカリ姫を腕の中に包み込み、その白い頬に触れるともう我慢は限界、股間はギンギンです。下品ですって?そーですね!
まずは着ていた白いドレスを脱がせ、その柔らかな膨らみにあるぷっくりと愛らしい頂きを口に含むと、眠りながらもアカリ姫は甘い声を上げました。
そうなるとシンゴ王子の頭の中は、ギンギンになったナニを、アカリ姫へお注射することで一杯になります。
シンゴ王子は、遊び人の大魔法使いオイナリのせいで、童貞のくせにその手の知識は頭の中に、パンパンに詰まっています。今こそ、そのムダ知識を実践する時。
シンゴ王子はシュンシュンと沸騰した頭で、アカリ姫の秘密の箇所へ触れると、そこはこんこんと湧き出す泉のように潤っているではありませんか。
柔らかな、それでいて湧き続ける泉へそっと舌を這わせて味わうと、なんとも言えない甘い蜜のような淫らな味に王子は夢中になりました。
アカリ姫は眠りながらも、シンゴ王子を煽るように甘い声を上げ続けます。
その内にアカリ姫はうっすらとその瞳を開けました。途方もなく大きい快感に身体は襲われている真っ最中、アカリ姫は気が付くと大きな悲鳴を上げて、そのまま消えてしまったのです。
その後慌てたシンゴ王子はアカリ姫を追いかけ、後の三人が花咲か爺さんよろしく、サクラの花びらを撒き続け、なんとか誤解も解けた二人は無事にヨミの国から帰りました。
喜んだイケダ国王はアカリ姫を救ってくれたシンゴ王子と結婚させようと、隣国ジンジャー国のババ女王へ親書を出しました。しかし、返ってきた返事には想いもよらぬことが書かれていたのです。
「お呼びでございますか?国王陛下」
「ああ、アカリ姫。ジンジャー国のババ女王から返事があった。しかし、結婚は無理だそうだ。そなたを救ってくれたシンゴ王子が、なんと童貞をこじらせたのだ」
執務室に入ってきたアカリ姫を見るなり、イケダ国王は悲痛そうな面持ちでそう告げました。
アカリ姫は無体なことをされた、とはいえ命がけで自分を救ってくれたシンゴ王子へ恋心を抱いており、父王が提案してきたシンゴ王子との結婚も、その白い頬を薔薇色に染めながら頷いたのです。
なので、無理と知らされ、姫の心は張り裂けそうになりました。
「どっ、童貞って、何ですか。拗らせた、とは」
おやおや、アカリ姫は初心な上に、箱入り娘として育てられたので、どうやら童貞を知らない模様です。
「ああ、童貞は、なあ。その、何と言うか、まあ、病気の一種だよ。アカリ姫」
イケダ国王は可愛い娘へ本当のことを言うのが恥ずかしく、つい回りくどい表現になり、有耶無耶になりました。そして微妙に間違っていますね。
「まあ、ご病気だなんて。陛下、お見舞いへ参ることも出来ないのでしょうか」
「アカリ姫、童貞は拗らせるとやっかいな病気なのだよ。特にそなたが行くと、更にこじれるかもしれん。諦めなさい。他にいいお婿さんを見つけてあげよう」
そう言われて、アカリ姫はわっ、と両手で顔を塞いで泣き出してしまいました。
そんなにシンゴ王子のことを、と胸が熱くなったイケダ国王は、シンゴ王子とは旧知の仲であり、アカリ姫を救うことにも力を貸してくれた大魔法使い、オイナリへ相談することにしたのです。
するとオイナリはアカリ姫と二人きりにして欲しい、と言い、早速二人は向かい合うとこう言いました。
「姫様が王子の為、努力なさることが大切かと思われますねぇ。姫様次第ですよぅ」
アカリ姫はそれを聞いて、ブンブンと頭を縦に振りました。救ってくださったシンゴ王子の為、今度はわたくしが、と決意を新たにしているのを、オイナリはにやにやと見つめます。
「では、ジンジャー国へ行き、部屋へ閉じこもってしまった王子の元へ参りますよぅ。用意はよろしいかぇ?」
「えっ、もうですか?」
「童貞はこじらせ続けると、結婚も子を成すことも出来なくなる恐ろしい事態ですよぅ。早く手を打たないといけませんよぅ」
そうなんだ、と素直なアカリ姫は思いました。しかしそんなに重大な病気である、童貞を知らないとはわたくしはなんと無知なのでしょう。そう恥じたアカリ姫は、大魔法使いオイナリへ聞きました。
「あの、童貞とは何ですか」
「童貞、って姫様、童貞も知らないのですかぇ。ほーん」
オイナリはにやにやし続けて、なかなか教えてくれません。お願いします、教えてくださいとアカリ姫が頭を下げると、にやにやを止めないオイナリは、こう言いました。
「姫様、王子の今の状況が童貞ですよぅ。妄想が止まらなくなり、可愛いアカリ姫様を想う余り部屋に閉じこもったのですねぇ。姫様が救って差し上げてくださいよぅ」
そう言われてアカリ姫は頬を薔薇色に染め、王子もわたくしを想っていてくださるなんて、と嬉しくなりました。
そもそも論としてシンゴ王子が童貞をこじらせたのは、オイナリが事あるごとに童貞の捨て方を懇切丁寧に、しつこーくしつこーく教え込んだせいなのですが、オイナリはそんなことはおくびにもだしません。
それどころか、アカリ姫をシンゴ王子の部屋へ入れて、さっさと童貞を捨てさせる腹です。初心同士でお似合いだよぅ、とその真っ黒な腹の中でどうやるか算段しています。お節介ですね。
「では参りましょう、さあ、手を乗せて」
「えっ、あ、あの、誰にも言わずに行くと、皆が心配します。せめて」
「大丈夫ですよぅ、後で伝えますからねぇ」
そう言うとオイナリはあっという間にアカリ姫の手を取り、一瞬のうちに魔法でジンジャー国の城の一室まで飛んだのです。魔法って便利ですね!
「あ、あの、ここは」
「オイナリ、イキナリアラワレルノハ、ヤメテクレ」
「あれあれ、乳繰り合っている真っ最中だったかぇ?すまないねぇ」
そうオイナリが言った方向には、豪華な一室のソファーの上で三つ編みの若い女の子を膝の上へ載せて、襟をはだけさせてパイを揉んでいる上半身裸の坊主頭の青年がいました。ユウイチロウです。
「きゃあ、す、すすっすすみません」
大したことのない濡れ場を見て、初心なアカリ姫は叫び声を上げました。
「オイナリ、その御子はアカリ姫では?」
三つ編みの女の子はパイを揉まれながらも、何もかもを見通したような瞳で、こちらを見つめています。
「そうですよぅ。ババ女王陛下。シンゴ王子のこじれた童貞をなんとかしようと、一緒に来てもらいましたよぅ」
「そなた、攫ってきたのではないだろうね」
「まあ、それに近いですねぇ。しかし、王子が童貞をこじらせてから早、四ヶ月ですぇ。ここで手を打たねば、王子は一生童貞でしょうよぅ」
その言葉にババ女王はため息をつきました。そしてユウイチロウの手を襟から引っこ抜くと、襟を正し、小机に向かうと手紙をしたためました。
「ユウイチロウ、これをイケダ国王へ渡して来てくれ。」
「イイケド、ソノマエニ、ツヅキヲシテカラガ、イイ」
ババ女王の差し出した蜜蝋で封のされた手紙を、ユウイチロウは受け取り、そのまま腕を引いてババ女王を抱き締めます。
「早く行きなされ、あちらの国ではアカリ姫が居らぬ、と大騒ぎになっているだろう」
「ジャア、カエッテキタラ、タップリカワイガッテアゲル」
ユウイチロウはババ女王と熱い口付けを交わすと、あっという間にその姿を消しました。
「アカリ姫、お見苦しい所をお見せした。我はジンジャー国のババでありまする。よく来てくだされた」
「お初に御目にかかります。イケダ国の第一王女、アカリでございます。無遠慮な訪問を致しました。どうかお許しください」
声を掛けられたアカリ姫は、ババ女王へ一番丁寧な淑女の礼をしました。その優雅な物腰にババ女王は、目を細めました。
「ここでは楽になさってくだされ。大方オイナリに有無も言わされず連れてこられたのであろう。気にしてはおらぬよ」
そう言うと、ババ女王はにっこりと笑いました。
「アカリ姫はシンゴのことを好いてくださっている、とお聞きしたが間違いはないかね」
「は、はい。あの、す、すき、です」
そう言うとアカリ姫は白い頬を真っ赤っかに染め、目を伏せました。
「それなら良い。アカリ姫。シンゴをよろしく頼みまする。オイナリ、そなた手伝ってやりなされ。レイ女官長」
そうババ女王が言うと、続きの間から美しい女性が姿を表し、礼をしました。
「お呼びでしょうか、女王陛下」
「アカリ姫の支度をお願いします。可愛らしい御子ですから、似合うように」
「かしこまりました。アカリ姫様、こちらへどうぞ」
アカリ姫はババ女王へ退出の礼を取ると、女官長に連れられて何故か豪華なバスルームへやって来ました。何故、湯浴みをするのかしら。鈍いアカリ姫は首を傾げます。
「オイナリ様、ここから先はご遠慮ください」
「あれ、ババ女王から手伝うように頼まれているんだよぅ。わっちも一緒に」
「阿呆なの。さっさと出て行かないと、ぎったんぎったんに切り刻んでお揚げと一緒に煮てやるわよ」
アカリ姫の後ろをうっきうきとついて来たオイナリを、レイ女官長は一蹴しました。
「おおこわ、なんだぃ折角の美脚を拝もうと思って居たのにねぇ。つまらないよぅ」
それでもオイナリは出て行こうとしません。眉を上げたレイ女官長は控えていた侍女へ包丁とまな板を持って来るように指示し、やっとオイナリは渋々バスルームを出て行きました。
「アカリ姫様、お待たせしました。ツルツルのピカピカに磨いて差し上げますね」
「えっ、あの、何故湯浴みを?」
「アカリ姫様は、童貞をこじらせたお方を御身ずから救おうとなさっているとか。その準備でございます」
レイ女官長はおや、と思いました。このアカリ姫の様子、救いたいとは思っているものの、まさかナニをするのか分かっていないのでは。その証拠にアカリ姫はこう聞きました。
「あの、童貞って、何ですか」
これにはレイ女官長もびっくりです。今時童貞も知らないとは!そう思いましたが流石、女官長。にっこりと微笑んでこう答えました。
「童貞とは愛の神秘を知らぬ者のことですわ。姫様がこころを込めて自分の気持ちを告げ、そっと優しく抱きつくことで上手くいきます。大丈夫です」
レイ女官長はにっこり笑ってそう言いました。素直なアカリ姫はそうなんだ、と思いました。抱きつくことで呪いのようなものが解けるのかしらん、と想像しています。呑気ですね。
「さあ、それでは準備致しましょう」
そう言ってレイ女官長は、アカリ姫をツルツル、ピカピカに磨きました。これ以上ないくらいにアカリ姫は磨かれてキラキラです。擬音ばかりですみません。
「あ、あのう、これは」
身体を丁寧に拭かれ、そっと差し出されたぴらっぴらの衣装を、アカリ姫は怪訝な目で見つめます。
「アカリ姫様、これをお召しになることで童貞が解放されやすくなるのです。どうか、かのお方のためにも」
そんなことを言われても。レイ女官長がうやうやしく差し出した衣装は、どうみてもぴらっぴらですけっすけ、心許ない代物です。こんなもので童貞は解放されるのか、悩みますが心を寄せるシンゴ王子の為、アカリ姫はこくり、と頷きました。
ぴらっぴらですけっすけのふりっふりなそれを身につけると、アカリ姫はやはり恥ずかしさで頬を染めました。こんなもの着たことはない。よくよく見ると、ふるりんと揺れる膨らみは透けて見えていますし、下の淡い茂みもうっすらとその存在を浮き上がらせています。
「そのお姿は、かの方のみにお見せください。さあこれを上からお召しになってください」
そう言ってレイ女官長は長いガウンを着せてくれ、髪をゆるやかに編み込んでくれました。これで準備はバッチリです。
その頃シンゴ王子の部屋の前では、オイナリが卑猥な煽りを繰り返している真っ最中でした。
「アカリ姫様は王子のため、身体を磨かれてこちらに来る予定ですよぅ。美乳をまた拝むことが出来て王子は幸せ者ですねぇ。その膨らみを揉みしだいてアンアン言わせちゃってくださいよぅ」
がったん、と王子の部屋から何かを落として、その後に王子が呻く、くぐもった声が扉の外からも感じられました。童貞をこじらせている割には素直な反応です。
「オイナリ、僕はアカリ姫に酷いことをしたんだ。これ以上嫌われるようなことはしたくない。だから帰って貰ってくれ」
「えっ、そんな」
扉の向こう側で、可愛らしくも悲愴な声が響き、王子の心臓はどっくん、と跳ね上がります。
「そうかぇ。では、この可愛らしい姫様はわっちが声を上げさせて、喜ばせることにしますぇ」
「やっ、あ、やめて、ください」
オイナリの残忍な声の後、すぐにアカリ姫の艶っぽい声が響き、シンゴ王子はすぐさま扉を開けました。
「オイナリ!何をする気なん……あれ?」
そこには白い大きな羽根をアカリ姫へこしょこしょしている、オイナリの姿がありました。
「どうしたんですかぇ。何を間違えたのですぇ」
ニヤッニヤしながらオイナリが話すと、シンゴ王子は顔を真っ赤にしてまた扉を閉めようとしますが、オイナリはその前にアカリ姫をぽいっ、と部屋の中へ入れてしまいました。そして扉を閉じると、王子が童貞を失うまで開かなくなる錠前をがしゃこん、と掛けてしまいました。
「オイナリ、開けろ!」
「嫌ですよぅ。アカリ姫、頑張って王子を救ってくださいねぇ」
「はっ、はい!」
王子が振り返ると、ガウンの紐をするり、と解いているアカリ姫がいました。頬が真っ赤なアカリ姫はシンゴ王子の痛い位の視線を全身に感じながら、ガウンを脱ぐとそっと畳んで置き、また王子へ向き直ります。
「あ、の、わたくし、シンゴ王子様が童貞をこじらせたと、聞きました。それで、その、わたくしが力になれたら、と」
「姫、ガウンを着てください。婚姻前の姫がこんなことをして、縁談に差し支えては父君が悲しみます」
「そ、んな。わたくし、シンゴ王子様と添い遂げられたら、と夢見ておりました。いけなかったでしょうか」
姫はもじもじと頬をバラ色に染めながら、足を摺り寄せました。その仕草にシンゴ王子の股間は痛いほどに脈打ちます。
「姫、僕はあなたに許されないことをしたのです。そして、今また、姫を抱きたくなっている。貴方と一つになって溶けてしまいたくなってしまう。許されないことをしたのに」
そう言われて姫は固まりました。王子様はまたあの淫らな行為をお望みなのか、と。でも心のなかでは姫もそれを望んでいたのです。姫は決心すると、俯いている王子へ思いっきり抱きつきました。
「シンゴ王子様。すき、です」
「姫」
姫の二つの柔らかな膨らみがシンゴ王子の硬い胸に押し付けられ、王子は思わず姫を抱きしめました。どこもかしこも柔らかくふわふわな姫を抱きしめるだけで、王子はイッてしまいそうです。
「だいすき、です」
姫の可愛らしい声が、王子の耳元へ響きます。ぷっつん、と理性を失った王子はあっという間に姫をベットに乗せ、その柔肌に吸い付き、舐めとり、甘い甘い声を姫に出させて本懐を遂げたのです。
王子は童貞をこじらせ過ぎたせいで、一度では終わらず、一晩中姫を揺さぶりました。明け方、王子が満足して姫を抱きしめた時、姫はくたくたになった頭で思いました。
結局、童貞ってなんだったんだろう、と。
その後姫は直ぐに王子と結婚、三人の子宝に恵まれて、今は四人目を懐妊中です。王子はうっとりと姫のお腹を撫で、幸せを噛み締めたのでした。おーしまい!
A long dream・神様に抵抗する反抗期
・近距離なのに遠距離恋愛な話。
「なんだぇ、そのしょぼくれた顔は」
「しょぼくれて、いません」
すっかり日課になったこの小さなお社へ辿り着くと、妖艶な、それでいて呆れかえった声が頭の上に響く。姿は見えないけれど、その声ははっきりと聞こえるようになった。ひゅん、と煙管を回す音も。
このお稲荷さまのお社の毎日の掃除、供物の取り替えを真吾くんから引き継いでもう、三年が経つ。三年、それは真吾くんが大手の百貨店に就職してからの時間に等しい。
わたしは大学三年生になる年に、文学部から神道学科への転部試験を受けた。それから二年、みっちり目が回りそうなほど授業を受けて、大学卒業と同時に真吾くんの伯父さんが宮司を務めるあの神社へ就職した。
それから一年、沢山の思い出したくない失敗を重ねて、やっと祝詞をつっかえなくてもあげられるようにはなった。神主としてはまだまだ、ひよっこです。
「誤魔化しても駄目だよぅ。お前のことなどお見通しなのだからねぇ。どうせまた真吾に会えないとか、そんな事だろぅ」
「真吾くんが中々顔見せなくて拗ねてるのは、お稲荷さまですよね」
「黙りなさいよぅ!全くこのおなごは生意気になって。遅れてきた反抗期かぇ、頬が膨れているよぅ」
「膨れて、いません」
「そういう所が反抗期だと言うんだよぅ。今度は何だぇ、衆道に尻穴狙われて、熟女に竿狙われて、今度は何に何を狙われているんだぇ、真吾は」
「おっ、お稲荷さまっ、生々しいです」
「他に言いようは無いだろうよぅ」
いわゆる、百貨店の外商と呼ばれる仕事をしている真吾くんは、仕事を真面目に毎日頑張っていると思う。殆どが年配の先輩に混ざって日々都内を歩き回っているから、分かっていたことだけど近所に住んでいても中々会えない。わたしは神社の職員住宅へ大学四年の時に引っ越しして、少しは会える機会も多くなるかな、と思っていた。しかし、宮司に教わって朝や夕方の儀式に参加することになって、時間帯が合わなくなり、まるで遠距離恋愛のようになってしまった。
ここ最近で会ったのは一カ月位前のこと。しかも、いきなり休みの前日の真夜中過ぎ、裏門のセキュリティを開けてわたしの家の呼び鈴を押し、訪ねて来た。あの白いアパートに帰ってシャワーを浴びて布団に入ったのにどうしても眠れなくって、と言い訳しながら何時も通り、ううん、何時もより激しく、した。
「そんなに欲求不満ならば、祝言を挙げてしまいなよぅ」
「でも、真吾くんが神社に戻ってからにしよう、って」
「生でヤッちまいな。子が出来たならば奴も諦めるだろう」
「むっ、無理ですっ、そんな事出来ません」
「全くお前たちときたら、モジモジモジモジ何時迄も飽きないねぇ。で、しょぼくれている原因は何かぇ」
このお方は全てを見通す力を持っていらっしゃる。なにせ神様なのだから。それでも知らんふりして色々な事を聞いてくる。話すことが何より大切なんだと、お前は身に染み込ませなよぅ、と毎日叩き込むように言われて、段々親戚のおばちゃんにしか思えなくなってきた。おばちゃんには、話せないことがある。
「なんだい、親戚のおばちゃんとは失礼だねぇ、この反抗期」
「あっ、頭の中覗かないで下さいっ、分かってますよね、分かっているのに」
「口に出して想いを乗せるのがどれだけ大事か、口を酸っぱくして言い聞かせているだろぅ!この痴れ者が。手間が掛かる子らだよぅ。お前も真吾も大事な所で口をつぐむのだからねぇ」
「だって、もっと話がしたいだなんて、真吾くんが足りないだなんて、忙しいのに言ったら迷惑が掛かりますし、それに」
「まぐわいのみしに来るのが嫌だと、はっきり言ってしまいな!」
「そんな卑猥なこと、言えませんっ」
「それだからお前は痴れ者だと言うんだよぅ。わっちに借りばかり作って、その内身体で返して貰おうかねぇ」
つまりはそれ沢山の子どもを産んで育てて、お稲荷さまが大喜びという図式に他ならない。小さい子は好きな方だけれど、茉莉さんちの年子で三人いて毎日が戦争のような様子を見ていると、できる自信はない。大家さんと花さん、茉莉さんのお父様も加わって、医院の看護師さん達にも抱っこされて、それでも毎日茉莉さんはクタクタになって育児してる。
「人手が無いので、そんなに沢山は産めないです。大体、まだ結婚もしていないのに」
「医者の所と一緒にするのではないよぅ。あっちは医者が中年だから短期間の内に授かったまでさぁ。お前達は若いのだから、十人位は軽いものだろぅ」
「じゅ、十人!子ども育てるのってお金が掛かるんですっ。そんなに無理です」
「全く生きにくい世の中だねぇ。昔はしっかり食わせて外でがっちり遊ばせて、お前が何より大事だと抱き締めてやれば立派な大人になったものだがねぇ。何でも金、金かぇ」
「と、とにかく、結婚して、それからの話ですから。掃除、掃除しに来たんですって、わたし。もう、お使いで買った榊もありますから、掃除して早く帰りますから」
「ああ、退屈なんだよぅ。構っておくれよぅ」
狐なのにお稲荷さまは猫撫で声を出した。毎日人通りの少ないこのお社にいて、お稲荷さまは暇を持て余しているらしい。同情して構って遅くなり、宮司に何度も怒られてやっと最近短時間で切り上げられるようになった。猫撫で声で誘われるけれど、無視して掃除し終わるとお稲荷さまは最後にふふん、と鼻を鳴らして言った。
「我慢するばかりでなく、素直な己の気持ちを相手に伝えてこそ仲も深まるものだぇ。反抗期」
「…………はい」
「あれあれ、素直だねぇ。では次回真吾に会う時分までに、卑猥な下着を用意するといいよぅ。おのこで嫌う者はいないだろぅ」
「そ、それじゃあ、今日はこれで失礼しまーす」
また良からぬ方向へ進みそうになったので、急いで頭を下げた。そして猛ダッシュで逃げた。風に乗って妖艶な笑い声は聞こえてくる。こうやってわたしは、毎日毎日、からかわれているのだった。大切なことも教わりながら。
祖父と花・日曜の昼下がりは、お布団でくっつく
「たけちゃん、お布団に入ってもいい?」
「ぬあ?って、お前、もう入ってるじゃねぇか。ああ、ちべたいっ。足冷えてんなぁ」
「あーあったかーい。天国がここにあったあ」
「仕方がねーな。ほら、ここに足入れろ。暖めておけ」
「たけちゃん、ぬくい」
「おー温まれ。大いに温まれ」
「今、何読んでるの」
「あーそうだな、胃ろうって知ってるか?」
「うん、直接注射で胃に栄養を入れるっていうことだよね」
「まあ、大雑把に言えばそうだ。その状態に陥った患者さんを再び自分の口から食事出来るように働き掛けをしている病院があってな、外苑前の先生がこの間そのシンポジウムに出たから、資料貰って読んでた。中々面白いぞ」
「そうなんだ。自分でご飯が食べられるようになったら、胃ろうしているひとも、周りの人も嬉しいよね」
「実際、寝たきりだった人が起き上がれるようになったり、旅行に行けるようになったらしい。凄いよな」
「たけちゃんは行かなくて良かったの?」
「こないだの日曜はうちが当番だったからな。まあ行けないな」
「そうだった、こうやってくっつけなくて、ほんのちょっとだけ寂しかった」
「そうか、じゃあ、今日は目一杯くっついておけ」
「たけちゃん、大好き」
「あーそうかそうか、分かった分かった」
「世界で一番すき」
「そりゃ、恐れ入谷の鬼子母神だ。あ、鬼子母神今度行かないとな」
「ここからなら、どうやって行くの、小学生の時行った以来かも」
「んーちょっと待ってろ………あー、バスで早稲田出て、荒川線だな。それが近い」
「たけちゃん、忙しいんじゃない?」
「なんだよ、面倒臭いのか。水天宮だって結局行かなかっただろ」
「いいよ、お稲荷様にお願いしてるから」
「狐様でご利益あるか、分からんぞ」
「そんなこと言ったら、たけちゃん長生き出来ないよ」
「妙な予言ヤメロ。俺は百まで生きてやる」
「だから青汁飲み始めたの?」
「まーな。アレ、マジで『まじゅい、もう一杯』だぞ」
「ごめん、言ってる意味がよくわからない」
「真面目にか」
「うん、聞いたことない」
「お前知らねーのか、いやー年の差感じるな……」
「たけちゃんのスマホ、貸して」
「ほれ、エロ動画は見るなよ」
「そんなの入ってるんだ………削除してやる」
「わっ、こんにゃろう、ヤメロ」
「うっそでーす」
「驚かすなよ、ヲイ」
「CMなんだ、まずい、もう一杯」
「そーだ。いかついおっさんが飲んでたな」
「へー面白い」
「そうか、……ってお前、再生すんな!」
『あぁあん、あん、ああっ、あん、あん、あああっ、あん』
「なんで、いいところだったのに」
「恥ずかしいだろう、馬鹿なのか、お前馬鹿なのか」
「いや、たけちゃんが好きな喘ぎ声を日々研究するものとしましては、これを機会に参考にさせて頂きたく存じまして」
「あんなの本当に感じてる訳ねーだろう。演技だ演技」
「そうなの?それなのにたけちゃんは見るの?」
「男は馬鹿だから見え見えの演技でも、ころっと騙されるんだ」
「じゃあ、参考にしてみる」
「ヤメロ、お前はそのままでいい」
「だってあんあん言ってた方が騙されるんでしょ?たけちゃんを惹きつけるのに忙しいから、頑張る」
「これ以上頑張らなくていい。お前が演技したら多分萎える」
「じゃ、やめる」
「まったく油断ならねーな。この娘っこは」
「娘っこじゃないです。嫁っこです」
「はいはい、分かった分かった。お前、どんだけ俺のこと好きなんだよ」
「うちゅういち」
「お前、大きく出たなぁ。宇宙一か」
「うん、うちゅういち」
「たまに、お前がつぶらな瞳のわっふわっふしたわんこに見える時があるぞ、俺は」
「多分ハチ公より忠犬だよ」
「ああ、春が怖いな。お前そんなんで大丈夫なのか」
「大丈夫、愛は減るんじゃなくて、増えるから。無限大にね」
「俺を優先するのだけは、止めろよ」
「大丈夫、それはない(キッパリ)」
「それはそれで複雑だな。足、あったまってきたな、離していいか」
「ヤダっ、幸せを奪わないで下さいっ」
「やっすい幸せだなあ。そんなんでいいのか」
「いいの」
「そうか」
「…………」
「…………」
「…………」
「茉莉?」
「…………」
「寝たのか、ヲイ」
「…………」
「寝たか」
「…………」
「幸せなのか、ああ、寝顔はずっと同じだな、そうか」
「…………」
「そういうのは、いいな」
祖父と花・日曜の昼下がりは、お布団でくっつく2
「たけちゃん、お布団に入っていい?」
「ぬあ?お前ら、何で俺がゴロゴロしてると布団に入って来ようとすんだ。って、もう入ってんじゃねーか。素早過ぎるだろ」
「あー、う、だっ、あーーー」
「陵太も入りたがってるの。わたしも入りたいの。たけちゃんが大好きだから」
「そんなキラキラした目で見るんじゃねぇよ、お前ら」
「しあわせだよねー、ねっ、陵太」
「あぅ」
「あぅ、じゃねえよ。この下ぶくれ坊主。もちょもちょすっぞ」
「ふひゃ、うー、あーぅ」
「何か、陵太だけ、ずるい」
「何がだ。お前息子に嫉妬すんな」
「だって、たけちゃん最近わたしに冷たい………」
「もちょもちょして欲しいのか。ヲイ」
「うん」
「……いや、止めとく。 それから冷たくはないからな。どっちかというとお前の方が俺に冷たいけれどな」
「そ、う?」
「自覚ないのか。まあいい、俺たちゃ息子にメロメロなんだよ、それが原因だ」
「う?」
「成る程、それはそうだね。この下ぶくれちゃん、気持ち良すぎる」
「うぁ?」
「何だこのたぷたぷ、んで、にこにこしやがって」
「ふひゃ、ふひゃっ、うー、あー」
「いっつもにこにこしてー、たけちゃんにそっくりなんだからー」
「ふひゃ、ひゃ」
「いや、茉莉ちゃんにそっくりだろー、いやー、もちょもちょ好きか、ヲイ」
「ううん、みんなたけちゃんにそっくりって言うよ」
「……そういう時は、どっちにも似てないんだよな。俺でもなく、茉莉でもなく、渋谷さんに似てるってまず言われるもんな」
「そう、なんだよね、何なのこの瓜二つ感……」
「茉莉は美妃に似てるんだがなー、うーんそうか、お前は将来政治家だな」
「う?」
「止めて、あんなびっちり護衛が張り付く生活、耐えられない」
「主要大臣級じゃないとSPも付かないらしいぞ。いやー、俺もやだな、お前医者やってみるか」
「あー」
「そうか、やるか。胃に穴開きそうになる商売だが、やるか」
「たけちゃん、胃に穴開きそうなの」
「まあな、人の命預かってるんだからな。町医者はそうでもないが、勤務医の時は大変だった」
「陵太、なりたがるかな」
「まあ、仕立てでも政治家でも医者でも、その他でも陵太がやりたいことやるのが一番だな。楽しみだな、お前何になるんだろうな」
「ふひゃ、ふひゃっ、ふひゃー」
「あ、吐いた、たけちゃん笑わせ過ぎ」
「ありゃ、すまん」
「もー、困ったおとうさんですねー」
「困ってるのは、おかあさんですねー」
「うー」
「ヲイ、スマホ鳴ってるぞ」
「え、まさか、嫌な予感しかしない」
「今週末は外遊に行くって言ってたぞ、だから大丈夫だ」
「ヤダヤダヤダ、出たくない。幸せなお布団でこっぽりタイムが無くなっちゃう」
「何だそのこっぽりは」
「こっぽりはこっぽりだよ。ヤダ、たけちゃんのスマホが鳴りだした」
「はい、はい、…………ちょっと待って下さい」
『陵太、おじいちゃんだよー』
「ちょっと、いつの間にFaceTime覚えたの。父さん」
『可愛い孫の顔を、いつでも見たいからね。教えてくれてありがとう、毅くん』
「あぅ」
「喜んで頂けて嬉しいです。何処にいらっしゃるんですか」
『ジュネーヴだよ。今、こっちは朝の七時だね』
「仕事しに行ってるのに、FaceTimeしてこなくていいから」
『つれないね。おじいちゃんは陵太に逢いたくて、逢いたくて』
「あ?」
『りょうた、ちゃんとおっぱい飲んでるのかい。抱っこして貰っているかい。この間、信ちゃんに陵太の写真見せたら、可愛いっていっていたよ』
「なっ、ちょ、首相に孫馬鹿発揮して写真見せつけちゃ、駄目でしょっ」
『動画だって見せつけているよ。ああ、陵太、にこにこして、可愛いなあ』
「あぅ」
『お土産買って帰るからね。こっちの玩具は質がいいから、陵太も気にいるよ』
「あんまり買いすぎるとじっちゃんがアンパンマンショップに走って行っちゃうから、止めてね」
『………そうだね』
「なんなの、今の間は」
『陵太は、おじいちゃんのお土産沢山欲しいかい』
「あぅ」
「この子、あぅしか言わないから。なんでもあぅ、だから」
『ほうら、沢山欲しいって言っているよ』
「ひとの話、聞きなよっ」
『おや、迎えが来たようだ。それではね、陵太』
「お疲れ様です、頑張って下さい」
「死なない程度に仕事して」
『ありがとう、ではまた』
「……………………」
「……………………」
「どんだけ孫ラブなんだ、渋谷さんは」
「ひとの話、全然聞いてないしね」
「一国の大臣が孫にメロメロ、お前良かったな、って足食ってるのか」
「美味しい?」
「身体、柔らけぇなあ。羨ましいな」
「たけちゃんも柔らかいよね」
「足は喰わねぇぞ」
「たけちゃん、大好きだよー」
「あー」
「あーそりゃ、ありがとさん。っていうかお前ら出てけよ。布団の中狭いんだよ」
「やだ」
「や!」
「……まあ、いいか」
april fool has come・あまいせいかつ
「奈々、明日は何処に行こうか」
すっかり二人のものになった部屋のベットの上で、うつらうつらしていたら、横にいる三谷は私の髪をくるくると回すように触れながら提案してきた。
「明日、んー、ねむい、よー」
「寝てばっかぢゃねぇか。おい、寝るな。そろそろちびすけのもの、必要になるだろ」
「んー、もうすぐ仮住居に引っ越すし、お義姉さんも、茉莉も、お下がりくれる、って言ってたからいい」
「マジか、なんなんだよ、あいつら」
三谷は明らかに機嫌を悪くした。ねむい、とにかく眠いのにご機嫌斜めの三谷を何とかしなければならない。結構な苦行だ。
「お出掛け、したかった?」
「……どっか行きたいとこ、あるか」
「マルエツ」
「スーパーかよっ。何時も行ってるじゃんか、どっかないんか」
くるくるくるくる髪の毛は回された。軽く目を閉じると、ご機嫌斜めな三谷はおい、おいっ、と呼び掛けてくる。構って欲しいんだな、とは思うんだけど、眠い。
「んもう、三谷、抱っこ」
「ああっ、なんだよ。お前面倒臭くなっただろっ、絶対そうだろっ」
「旭、ぎゅーって、してー」
ちいっ、と舌打ちすると、三谷は慣れたように後ろへ回って抱き込んできた。お腹からも合図があって、ふふふと笑うとそっ、とお腹に手を当てられた。
「お、お、蹴ってる、動いてる」
「眠いのに、旭ジュニアが暴れてるー」
「旭ジュニアとか言うな。ちゃんと一人の人間なんだからさ」
「じゃあ、きゅうひ」
「…………俺の名前バラバラにしてんじゃねーよ」
「名前、考えないとねー」
「そうだな。早めに決めないと絶対横槍入るよな。こないだ親父さんが名前決めてるのかい、ってはにかみながら言ってたし。うずうずしてんのよく分かる」
「旭、候補絞ってプレゼンして」
「お前も考えろよ、母親だろっ」
三谷は耳元できゃんきゃんうるさい。でも、それが心地いいんだから私、終わってる。おかしいな、幸せになれる予定なんて無かったのに、幸せ。
「私より旭の方がいい名前見付けてきてくれると思うもん。旭の方が賢いし、よく世間を知ってるし、良識あるから」
「………わかった、考えておくわ」
良かった、持ち上げてみたら満更でない様子に目を閉じる。あったかくて、きもちいい。ホワホワしてて、ここちいい。
三谷は後ろから胸を揉み始めた。もう、眠たいのに応じるような音が、喉の奥から鳴る。肩越しに薄目を開けると、硬くなりきったモノを擦り付けるように尾骶骨に押し付けられた。
期待、しちゃう。眠いのに、彼が欲情していることを示されて、嬉しくて。
「奈々、体調は」
甘い声を流し込まれて微かに頷いた。とろとろっとしたものが流れ出てくる感覚がして、期待、しすぎだと思ってしまう。
三谷は優しいのに容赦ない。必ず何度か飛ばされて、声も出せない位ぐったりさせて、ぐずぐずに蕩けた所へ入り込んでくる。ぎゅうぎゅうに後ろから抱きしめて、熱いモノをゆっくりと挿入て頰と頰を擦り寄せて、時たま柔らかいキスを私に落とす。
声にならない喘ぎばかり私は繰り返す。きもちいい、とかすき、とか言いたくても声を上げられない。その代わり私のナカは収縮を激しくして、三谷に感情を伝える。
器用に胸の尖り切った所を同時に強く摘まれ、果てた。身体は強く震え続けて、抜き差しされるスピードが上がった。びくびくっ、と後ろで絶頂を迎えている感覚を空気を求めながら感じた。
「奈々、寝るな、パジャマ着ろ」
もう、眠りに落ちそうな所でペチペチと二の腕を叩かれた。目を閉じて黙っていたら、奈々、奈々っと呼ばれる。上体を起こされて、コップを握らされた。でも手は震えていて、三谷は大きな手を重ねるようにコップを私の口に付けた。
ごくごくっ、と喉が鳴る。コップを離すとまた横たわらせて、三谷は少し居なくなって、また戻ってくるとパジャマ着ろよ、そんな声がした。
すこぶる面倒くさい。このまま寝たい。寝た振りすると舌打ちの後、何かを探している気配がする。
「着ろって、全く手間かかり過ぎじゃねーか。風邪引いたら困るだろ」
そう言いながら慣れた手つきでパジャマを着せて貰う。下着は汚れたからなのか新しいものを履かされて、至れり尽くせりだなあ、なんてうとうとしながら思った。
「奈々、気持ち良かった?」
再び身体は横たわらせられて、布団を掛けられて、灯りが消えて、もう眠りに落ちる瞬間に不安そうな声で聞かれて薄目を開けた。
ん、と声だけで聞き返す。闇の中から尚も不安そうな声が、した。
「あんまり声、出さねぇからさ、大きな声だしちゃいけないって我慢してんのかな、て思ってさ」
「………あのね、声も、出ないくらい、なんだ、よ。そんなの、初めて」
「初めて」
「うん、気持ち良過ぎて、死にそ」
恥ずかしい位掠れた小さな声で話したのに、凄い力で抱きしめられた。ふえぇ、と声が漏れた。もう寝たいな、そう思ったのに三谷は顔のあちこちについばむようなキスを止めない。少々、ウザい。
「明日、何処にも行かねー、まったりしよう、なー」
ご機嫌だ、良かったなぁ、なんて思いながらどうして、お出掛けを止めたのか、回らない頭で少しだけ考えて、止めた。もう眠い。マルエツだけは一緒に来てくれるといいな、とだけ思って、眠った。
祖父と花×西63成華園経由県庁駅前行き 雲丹とレアチーズケーキ
雲丹とレアチーズケーキ
新宿通りに面したタワーマンションへ初めて足を踏み入れると、十八階の部屋の番号の後、インターフォンを押した。
『はーい、どうぞー』
隣にあった自動ドアは音を立てて開いた。お邪魔しますと言うと、エレベーターは左側だよーと声がしてインターフォンは切れた。
自動ドアをくぐり抜けて、アーティスティックでお洒落なエントランスに足を踏み入れる。うん、外側からちらっと覗いた事はある、でもここまで完璧だと引く。エントランスのカウンターにはにっこりした制服の女性がいて、こんにちは、と言われて慌てて挨拶を返した。あれってもしかして、コンシェルジュとかいうひと?
今朝、陵太と一緒に綾乃さんのお家へお呼ばれしたの、と言ったら、あーあのスキンシップ過多な旦那のとこな。ほーん、ついに茉莉もタワー族と本格的にオツキアイすんのか。出世したな、オイ。とニヤッニヤしながら陵太をあやしていた、たけちゃんに返された。
区が主催する両親学級へお互い夫婦で参加していたけれど、綾乃さんと旦那さんはラブラブで結構人目を引く美男美女のカップルだった。たけちゃんはいつも通り、お腹に重りを付ける妊婦体験にはしゃいで、知り合いの保健師さんが色々説明をしてくれるのをニヤッニヤ眺めて、沐浴は何故か誰よりも手馴れた手つきで完璧にやり遂げた。何度か僻地時代に、天候トラブルで搬送できなかった妊婦さんの赤ちゃんを取り上げたことがあるらしい。そういう所は頼もしい人だ、たけちゃんは。
その後、先にわたしが入院していた産婦人科で、綾乃さんは二日後に出産して再会。そこではお昼ご飯は患者同士の交流のため、お母さんになりたてのひと達でランチルームに集まって食事を取っていた。色々話をするようになって、何となくウマがあって、一ヶ月検診で再会した時にメルアド交換をした。綾乃さんと友華子ちゃんは、お隣の実家へ大荷物を持ってニコニコした旦那さんに送られて、遊びに来たことはある。
綾乃と友華子がお世話になります、と深々と頭を下げてくれた旦那さんにじっちゃんが、いやーご丁寧にどうもどうもと挨拶合戦しているのは、見ていて面白かったけれど、何故か綾乃さんは苦い顔をしていた。
旦那さんが帰った後、いやーご丁寧な旦那さんだなぁ、たけはちったぁ爪の垢煎じて飲ませてもらった方がいいぞ、とじっちゃんが唸ると、いえ、茉莉さんのご主人は心に余裕がある、素敵な方ですよと苦虫を潰した顔をした綾乃さんに返された。
その一言で何かを察したらしいじっちゃんは、茉莉が居ない時でもいい、アンタ何時でも遊びに来いや、と宣言すると、綾乃さんはその大きな目をあっという間にうるうるさせた。
たけちゃんのことを言えない位お節介焼きのじっちゃんは、そうやってご近所さんの拠りどころになったりしている。田舎の伯父を思い出しました、と涙を拭いて笑った綾乃さんにじっちゃんは、アンタ別嬪さんだなぁ、とまた唸った。その言葉に綾乃さんはいきなり顔を真っ赤にして、そんなこと言われたこと、ありませんっ、とアワアワした。成る程、こんなに外見が美人で中身が可愛かったら、それは旦那さんは送ってくるだろう。狙われたらひとたまりもない、と妙に納得した。
「いらっしゃーい、どうぞ、中へどうぞ」
「こんにちは、お邪魔しまーす」
大きな、それでいて高級そうな扉はそっと開いた。なんていうか緑の森のような、いい匂いがする、ここのお家。今日も綾乃さんは女子力高く、ふんわりとしたスカートにストッキングだ。わたしなんて毎日ジーンズだけれど、いや、ほぼ最近まで酷い格好して陵太へ乳を上げていたけれど、アレまずかったかも。たけちゃんは乳出しっ放しでないだけ、ましじゃねぇか、とこともなげだが。
可愛いスリッパを勧められて、何だかこの家、高い家具ばかりだったら、有名デザイナーがトータルコーディネートした部屋だったら、と廊下でドキドキした。息子は抱っこ紐の中で、ぐうぐう寝ている。母さんが緊張しているのに、いい気なものだ。
「さあ、どうぞ、荷物はここに置くのでいいかなぁ」
「あ、はい、ありがとうございます」
意外に扉の向こうはシンプルで、ナチュラルな雰囲気だった。まあ、お洒落ではあるけれど、どっかで見たこの感じ……。
「フランフラン?」
「あっ、そうだよー良く分かったねぇ。結婚した時にアウトレットに行って、足りないものは揃えたんだよ」
アウトレット?足りないもの?何ですって?
「アウトレットとか、行くんですか」
「うん、大好きなの」
うふ、と声が聞こえそうな笑顔で、綾乃さんは笑う。……お嬢様っぽいのに、意外と庶民派だ。
「陵太くん寝ているの。友華子の隣で寝る?」
「いいですか?寝かせてもらっても」
「うん、ベビーベットだけは大きいから、余裕だよ」
部屋の片隅に置かれていた白くて立派なベビーベットの側面を、綾乃さんはそっと開けた。成る程友華子ちゃんはぷしーぷしーと寝息を立てながら、縦のベットに対して横向きに寝ている。寝ていても、色白で栗色のふわふわの髪の毛で薔薇色の唇の友華子ちゃんは、西洋絵画に出てくる天使のようだ。それに比べて、陵太は下膨れで、むちむちで絵本の桃太郎そっくり。絶対、百日写真には桃太郎を着せてやる、と密かに決めている。
「ソファーの方が楽かなあ、それともダイニングテーブル、どっちがいい?」
二人の並んだ寝顔を飽きずに眺めていると、キッチンから色々載せたトレイを持った綾乃さんが現れた。
「あっ、ええ、綾乃さんが楽な方でいいです」
「うーん、じゃあ、ソファーにどうぞー」
そう言うとポテポテとスリッパ音を鳴らして綾乃さんは、ソファーの前にあるコーヒーテーブルにトレイを置いた。そういえば、お土産持ってきたんだった。
「あの、これ、レアチーズケーキです。もしよかったら」
「わあ、そんな、よかったのに、気を使わないで」
「いえ、じっちゃんがさっき見附に用事で行って、別嬪さんとこ持って行けって買ってきたものなので、どうぞ」
「……別嬪さんって、茉莉さんのお祖父様、あの日はお疲れだったんじゃ、ない?私、故郷にいた時には言われたことないよ」
いやいやいや、綾乃さんは別嬪さんだと思う。ほんのり頬を染めて困り顏をして、ポットからティーカップへ紅茶を淹れているその姿は、本当に可愛い。うん女子力、学ばなきゃ。
「じっちゃんは、真実しか喋りませんから」
そう言うと綾乃さんはわたわた慌てて、少しだけ紅茶を零し、布巾で拭きながら明らかに少しだけしゅん、とした。うん、これは旦那さん、メロメロになるだろう。見ていて飽きないもの。
ひとしきり子育ての大変さを共感し合って、意外にも綾乃さんも夜中の授乳で気がついたら出しっ放しで眠っていて、旦那さんに仕舞っておいたから、ね。と言われたらしいことを知り、親近感を覚えたりした。
「結婚式の写真、見ていいですか?」
陵太が暑がってむずがって、抱っこしてあやしながら立っていたら、サイドボードには沢山のお洒落な写真立てがあった。
「どうぞーちょっと恥ずかしいけれど」
授乳中の綾乃さんは、恥ずかしそうに了承する。うん、その女子力の高さ、見習いたい。
仲良さそうに何処かの古い邸宅の中のような、そんな場所で旦那さんと手を繋いでいたり、見つめあったり、後ろ姿だったりと、まるで映画のワンシーンのような写真は、とても素敵だ。緑の木立の中で撮られたものもあって、見入っていると、綾乃さんはこう言った。
「それねぇ、うん、夫が、ノリノリで決めちゃって、ね。嫌だ、って言えなかったんだよね……」
「……ノリノリ、ですか」
「県の文化財の建物群を、映画やフォトのロケーションに使って貰おうっていうプロジェクトがあって、そのPRモデルになって欲しいって上司に言われたの。断ろうと思ったら夫に話が伝わっていてなんだか、トントン拍子に、ね」決まっちゃって、と綾乃さんは目を伏せた。
背の高い旦那さんは羽織袴や、タキシード。小さくて可愛い綾乃さんは色々な打掛やドレスを着て、写っている。これはいいPRモデルを捕まえたと思う。
「いいなぁ、お二人だから出来たんですよね、コレ」
「そんなことない、茉莉さんとご主人が同じ立場なら、きっと茉莉さん達が選ばれていたと思うの」
いやいやいや、たけちゃんとわたしなんて、足元にも及ばないですよ。そう思うけれど、まあいい。
「茉莉さんは結婚する時、お写真撮ったの」
「はい、近所の神社の氏子なんで、そこで式を挙げて、和装はそこで撮って、洋装はホテルの庭園をお借りしました」
「所縁がある場所で、も素敵だねぇ、お写真見てみたいなぁ」
「あ、スマホの写真でよかったら」
「わあ、ありがとう」
取り出したスマホに綾乃さんは覗き込む。確か何枚か、あったはずなんだ。が。
「あ、こんなの、とか」
「わあ、素敵。神前式って雰囲気がいいねぇ。清々しい感じがする」
「綾乃さんは、教会式ですか」
「そうなの、ゲストの交通の便を考えて、ホテルウェディングにしちゃったから、併設のチャペルにあっさり決めちゃったの」
えへ、と綾乃さんは笑った。友華子ちゃんはお膝の上で前抱っこされて、にこにこしている。可愛いなあ。
「あ、これはご家族で写っているの?」
「そうです、……あ」
しまった、そういえばこの時、父も一緒に写っていたんだった。……まあ、いい。知ってる人は知っている事柄だ。でも、なんていうか、ちょっと、沈黙。
「私、お仕事でお会いしたことあるよ、とっても気さくで優しい気遣いをして下さったの、一流の人って誰にでも分かりやすい言葉で、気持ちよく接してくださるんだけれど、まさにそんな感じだったの。ダンディで恰好いいよね」
「いえ、まあ、そうですか?」
「うん、わっ、私が感じた事だけれど、ね」
綾乃さんはこちらに気遣いさせないように話した。なんていうか、演技なら大したものだけれど、この人はいい人だと感じる。普通、こういう事を知った人は、わざととぼけて白状させようとしたり、どういう関係なのかを根ほり葉ほり聞いてくる事が多い。挙句会わせろとか、悪い人になるとお金貸して、とかよくあることだ。わたしにとっては父は、踏み絵みたいな存在。
「父、なんです。この日に初めて会いました」
「そう……良かったねぇ、会えて」
そう言って綾乃さんはふんわり笑った。うん、これはあの旦那さんがメロメロになっているの、分かる。
「綾乃さんって、可愛いですよね、女子力高いし」
「えっ、いきなり何を言い出すんですかー」
ブンブンブンと手は横に振られ、顔は真っ赤で、何故か敬語で、友華子ちゃんは膝でカクカクしている。おかーさん、首のすわりたての娘さんが、ピンチです。
「高くない、高くないよう。気が利かないし、性格悪いし、全然駄目だよ」
いやいやいや、何でそう思うのかは分からないけれど、見習いたいところ一杯だった。まずはスカートから始めてみたらいいだろうか。持っていたかな、スカート。
「おっ、おやつ食べよう、忘れてたけれど、お持たせだけれど、レアチーズケーキ、食べましょう」
わたわたしたまま友華子ちゃんを抱っこした綾乃さんは、キッチンにポテポテ向かって行った。うん、やっぱり、可愛いよ、綾乃さん。
「で、セレブの家は楽しかったのか」
「うん、何ていうか、勉強になった」
全て仕事を終えて二階へ上がってきた、たけちゃんは陵太と一緒にお風呂へ入って、半袖Tシャツとリラコ姿で雲丹丼をがっついている。雲丹はなんと、綾乃さんの伯父さんが雲丹の養殖会社の社長さんで、伯父さんからクール宅急便で届いた物をその場で分けてもらってしまった。
高級品ですし、申し訳ないですから、と言ったら、雲丹はね、もう、一生分食べたの、飽きたの。夫も飽き気味なの。助けると思って貰って、そして感想が聞きたいなぁと次々に袋に柵を入れた綾乃さんに、ハイッと持たされた。じっちゃんとおかあさんの所に雲丹を置いて、大きなビニール袋を持って通りがかった朱里ちゃんにも上げて、残りはたけちゃんとわたしの分。でも、これ、凄すぎる。
「勉強になった、って何だ。お前もセレブになりたいのか、あ?」
「うーんセレブには興味ない。そうじゃなくて、女子力がわたしには足りないな、って思ってね」
「なんだ、そのジョシリョクって」
たけちゃんと向かいあって、掘りごたつのちゃぶ台でご飯を食べて、陵太は傍らのベビー布団に転がっている。ふっ、ふっと息を吐きながら左右に身体をゆらゆらさせて、うん、楽しそうだからいいや。
そんな様子を横目で見つつたけちゃんに、綾乃さんの可愛らしさを力説する。段々たけちゃんは、呆れた目になっていった。
「阿呆なのか、お前、そりゃ基礎が違い過ぎるだろ。あっちは天然物のお嬢様だろ、べそべそ泣いていた茉莉ちゃんが敵う訳ないだろ」
「うーんでも、綾乃さん、意外と庶民派かも」
「庶民派?」
「だっておトイレ借りたら、トイレのドアの内側にすっごい達筆な毛筆で、『節 電』って紙いっぱいに書かれていたんだよね。びっくりして聞いたら、真っ赤になって剥がすの忘れてたーって。良く良く聞いたら、旦那さんが夜、トイレの電気消さなくて一晩中灯りが点いていることを、怒っても治らなかったから、なんだって」
「あー、なんつうか、身につまされるな」
「だよね、たけちゃんも消さないもんね。節約大好きなの、って言っていたからしっかり者だし、可愛いし、綾乃さん、完璧じゃない?」
「いや、俺は茉莉ちゃんでいいわ、完璧とか辛いもんな」
その言葉に、ちょっと、というかかなり、照れる。でもたけちゃんは眉間に皺を寄せながら、言った。
「茉莉、俺、雲丹を欲張り過ぎた……」
「あーうん、分かるかも」
濃厚で美味しすぎる雲丹は、ご飯に載せすぎで欲張った結果苦しくなってきた。見慣れないものだからたけちゃんなんて大喜びで、小丼じゃ、足らん!うどん食う時の奴、出せ!と叫んだのだ。何事も程々がいい、という典型的な展開だ。
「腹が苦しい、あー食い過ぎた」
「えっ、そっち?」
見ると丼の中は綺麗に無くなって、たけちゃんはそのまま後ろへ倒れて横になっている。そして、ちらりと陵太を見た。
「おい陵太、寝返りしてっぞ」
「えっ、嘘っ」
ベビー布団の上で、陵太はうつ伏せになり、頭をカックカクしながらあげようとしていた。
「あー見逃した。初めてだったのに」
「まあ、出来る時なんてそんなもんだ。おう、息子。お前すげーな、やるじゃないか」
たけちゃんは横になりながら、ベビー布団を自分の方へ引き寄せて、そう話しかけた。頭を上げるのを諦めたらしい陵太は、うつ伏せになりながらたけちゃんを見て、にぱっと笑い、たけちゃんも笑う。
いいね、幸せじゃない。でも、頻繁に寝返るようになったら掘り炬燵は閉じないと、陵太が落ちたら困る。息子の成長の早さを驚くのと同時に、油断ならない時期になったのだ、と改めて思った。
祖父と花×西63成華園経由県庁駅前行き たい焼きとシフォンケーキ
たい焼きとシフォンケーキ
「こんにちは、この御宅に御用ですか」
鈴木医院の脇にある小道を入ったら、家の方の表玄関の前で体格の良い、黒スーツのオールバックの男性ににこやかに声を掛けられた。にこやかだけれど、目は笑っていない。見たことある、見たことあるよこの人種!確か要人警護の警察官、いわゆるSPという職業の人。
「はっ、はいっ、あの、奥様と会う約束が、ありますっ」
その途端、ママバックに入れていたスマホが着信を知らせた。友華子はきょとんとした顔をしている。案の定、体格の良い人は警察官だと証明し名乗った。
「申し訳ありませんが、お二人ともお名前を教えて頂けますか」
「はいっ、上條綾乃と、むっ、娘の友華子ですっ」
「はい、今、身分証明になるものはお持ちですか」
「え、と、運転免許で、いいですか」
構いません、そう言われた時、スマホは静かになった。急いでお財布から免許証を取り出し、手帳に何か書き留めているSPさんに渡すと玄関のドアは勢い良く開いた。
「わわっ、ごめんなさい綾乃さん!岡田さん、こちらの方、わたしのお友達ですから」
「申し訳ありませんが、お友達でも確認させて頂いております。よろしいでしょうか、上條さん」
「わーー本当にごめんなさい!綾乃さん」
「大丈夫、びっくりしたけれど、大丈夫だから、ねっ」
繰り返し頭を下げた茉莉さんに、安心してもらえるかは分からないけれど、一応声を掛けてみる。
その後、詳細な職務質問を受けた。その間茉莉さんはやきもきやきもきした様子で側にいてくれて、終わってやっと玄関に入ると凄い勢いで謝られる。
「急に父が今さっきやってきて、連絡する暇がなくってごめんなさい。嫌な思いしましたよね、本当にごめんなさい」
「大丈夫、本当に大丈夫だよ。そんなに謝らないで、ねっ、よくあることだし」
言ってから、いや、無いなぁ、と自分に突っ込みが入った。でもその言葉で茉莉さんは少し落ち着いたようで少し笑うと、どうぞー上がってくださいと促され、靴を脱ぐ。ここのお家は玄関に入るとい草の匂いがする。上がってすぐに階段があって、二階の一部と三階が住居、一階はご主人が経営している医院だ。
「おお、別嬪さん、すまんねぇ、この馬鹿がゾロゾロいかついおっさん連れて歩いてるもんだからよぉ、迷惑掛けたな」
「お義父さん、馬鹿はないでしょう。申し訳ない、私の警護は失礼をしませんでしたか」
は、はいと答えた直後、白衣のご主人がテーブルに突っ伏した。
「いやー腹減った。茉莉、早く昼飯くれー」
「うっ、だーあ!う、う!」
「お、陵太はじっちゃんが好きか、ほれ、じっちゃんに抱っこされるか」
「じっちゃんは私ですよ。お義父さんはひいじっちゃんでしょう、ほら、陵太、おいでおいで」
「茉莉ー腹減った」
「だー!」
「うるさーーーーい!」
掘り炬燵でざわついていた男性陣は、茉莉さんの一蹴でぴたっと静かになる。凄いなぁ、と思っていたら、抱っこしている友華子はふ、ふぇ、とべそをかきはじめた。
「わっ、ごめんね友華子ちゃん、ごめんごめん、じっちゃんはいつ来たの、父さんは急に来るのは止めて、そしてたけちゃんは自分でカレーを盛れ!陵太はそのままで良し!」
だー!と陵太くんだけ良いお返事をした。もう、小気味いい話し方にお腹が痛い。笑っちゃ、いけないのに、おかしくてたまらない。
「おお、別嬪さんは笑っても別嬪さんだなあ、こりゃ、目の保養だ」
茉莉さんのお祖父さまがしみじみ言うと、茉莉さんはうんざりしたように脱力し、ご主人と何故かお父様の渋谷大臣はいそいそとキッチンに向かって行った。
「綾乃さん、本当にすみません、五月蝿くて」
「ううん、こちらこそ、ご主人の休み時間に来てしまってごめんなさい。よくよく考えたら休息時間は遅かったんだよね」
茉莉さんからは、何時でもいらして下さい、とメールを貰った。色々考えて常識的に午後一時位でどうかなと思って訪問したけれど、午前の診察受付終了時間すぐにお医者様は休める訳ではないんだった。
「ああ、たけちゃんのことは居ても嫌じゃ無ければ、気にしないで下さい。わたし、実家もいつも人が来るから誰かいるのが当たり前だし、綾乃さんの都合のいい時間に来て下さるのがいいです。ホラ、この人達なんていつも急に来て急に帰って行くし」
大きな掘りごたつのはしっこで、男性陣を示した茉莉さんとまったり話している。反対側では、男性陣がにぎやかに陵太くんを囲んでわいわいしていた。
まあまあ、ここに座れ、別嬪さんと促され、じっちゃん、こんな濃い人間関係の中に入ったら綾乃さんが疲れるでしょーと茉莉さんは怒ったけれど、うん、実はちょっと入ってみたかった。
何て言うかこういう雰囲気は、実家にそっくりで涙が出そうなほど懐かしいなぁ。毎日友華子とずっと一緒で忙しいけれど、話す声が無い静かな家の中で寂しさを感じていた。聡は帰りが遅くて、帰って来たら話を聞いてはくれるけれど、なんていうか、話のネタが、ない。友華子が笑った、泣いた、ちょっと機嫌悪い、そんなことを毎日聞かされて、それでも聡はうんうん頷いているけれど、あれ、絶対聞いてないと最近思っている。なんとなく分かるんだよう、そういうのは!
「たけちゃん、福神漬け出してないの、そして白衣脱いで食べてね、汚れちゃう」
「あ?別にカレーなんて付かないだろ」
「カレーの染みは目立つの!上だけ脱いで、お願いだから」
「いやーん茉莉ちゃんたら、ダ・イ・タ・ン」
「たけちゃーん、いい加減にしなさい」
「ハイ」
「綾乃さん、ちょっと福神漬け持ってきます、すみません」そう言って、茉莉さんは席を立つ。ご主人は素直に白衣の上だけを脱いだ。
茉莉さんとご主人の息ぴったりの会話は、何時も聞いていて楽しい。一番最初に聞いたのは、初めて出産する人を対象にした両親学級の時で、ご主人が何かと惚けるのを茉莉さんが突っ込む、という阿吽の呼吸がまるで長年連れ添ってきた夫婦のようだった。
聡も私も他の参加した方達も、人形を使ったおむつ替え体験や沐浴体験に手間取って戸惑ったのに、茉莉さんとご主人は手際良くそして慣れていた。凄い、と思っていたら、ご主人は現場経験が豊富なお医者様で、保健師さんから「鈴木先生、どうしてそんなに手慣れているんですか」と突っ込まれ、「実は隠し子が……十人程」と冗談を言いその場を和ませながらも、仕事で経験がある、と言っていた。茉莉さんは近所の保育園に勤務する保育士さんで、今は育休中。子育てには最強の二人で、友華子に対して何事も慌てる私達とは大違いだ。
茉莉さんや、ご主人が陵太くんのお世話をしたり、話しかけたりしているところを見ると、学ぶべきことは多い。ちゃんと目線を合わせて、話し掛けながらおむつ替えをすると、暴れないとか、愚図っていてもいつの間にか笑い声になるあやし方とか、見ているとはっ、と気づくことばかり。密かにお二人のことは、子育ての先輩だと、思っている。
「別嬪さんから貰った雲丹、アレ旨かったなぁ。うちにもお裾分けしてもらったんだわ、アレ、刺身醤油ちびっ、と落としてなぁ、喰ったらほっぺた落っこちたな、ありがとさん」
茉莉さんが席を立つと、すかさず茉莉さんのお祖父様が声を掛けてくれる。
「いえっ、こちらこそレアチーズケーキ、ありがとうございました、雲丹は伯父が養殖業をしていまして、毎年夏に届くんですけれど、ちょっと雲丹は我が家では人気ないんです。茉莉さんならお知り合いに配ってくれるかなぁ、って沢山お持たせしちゃいました」
「いやーあんな旨いのなら、大歓迎だぃ。アレいいやつだろ、身が溶けてなくて黄金色だったもんなぁ」茉莉さんのお祖父様はしみじみ呟く。
「あれだけ立派なのは、中々無いですね。私もご相伴に預かりました。ご馳走さまです」
「あ、ありがとうございます、褒めて下さり恐縮ですっ」
嬉しそうにカレーを食べていた渋谷大臣は、優しい微笑みを浮かべながら頭を下げてくださった。時の大臣が!伯父さんの雲丹を!伯父さんに言いたいけれど、まあ、無理だね。茉莉さんの事も言わなければならなくなってしまうし、何よりこの活気があって楽しそうな雰囲気を壊したくない。
うちに来た日、茉莉さんはお父様のことを話す時に、とても複雑そうな表情をして、仄暗い瞳を少しだけ見せた。何時もは明るくて、ハキハキしていて、でも芯が強いと話していて感じたのに、茉莉さんには暗い影があった。それは聡と同じ色だ。
でも今日ここに来て、さりげなく父さんと渋谷大臣のことを呼んで怒った茉莉さんは、心がとても強い人だと感じる。過去に何かがあって、苦しい思いをしてそれでも今、これからは関わりを持っていきたいと思っているのが伝わった。
「……伯父様にも、大変美味しい雲丹でしたと、宜しくお伝えください」
「えっ、あ、あの、よろしいんですか」
そう私が言うと渋谷大臣はおや、といった表情を浮かべて、話し出した。
「生産者の方にお会いすると、良いものが出来て消費者の方から正当な評価を頂くと励みになって、より頑張る力が湧くと幾度も聞きました。こんな老いぼれの感想で申し訳ないが、濃厚なのに癖がなくとても美味しかったと思いましたよ」
「ありがとう、ございます。伯父も、家族も喜びます」
大臣は、話していいよと間接的に言って下さったのだと、分かった。政治家はほんの一言言葉選びを間違えただけで、非難やバッシングを受けてしまう。大きな権力を動かす一言もあるだろう。
「はい、玄米茶ですよ。熱いから、気をつけてね。どうぞ綾乃さん」
御盆に湯呑みと菓子盆を入れて茉莉さんは戻ってくると、まず私だけに茶托付きの湯呑みを置いた。そして男性陣には大きな湯呑みと小皿を纏めて真ん中辺りに置いて、最後にたい焼きを出した。そして、食べ終わったカレー皿を下げて行った。
「お、わかばのだなぁ。しっかし護衛付けながらおめぇ並んだのかい。いい迷惑だな」
「今日は並ばなくてもすんなり買えましたよ。焼きたてですから、どうぞ召し上がって下さい」
「おめぇが焼いたような口きくな。ほれ、別嬪さんもたい焼き食べな、ここのは旨いぞ」
あっという間に小皿に入れたたい焼きは目の前に置かれる。そう言えば、賑やかな雰囲気にすっかりお土産を渡すの忘れていた。ママバックの隣に置いてあったマイバックからラッピングした包みを取り出すと、友華子はあーと声をあげた。
「ありがとうございます、あの、茉莉さん、これ、もし良かったら」
「シフォンケーキ!綾乃さん、ありがとうございます……もしかして、手作り?」
「そう、今朝、焼いたの」テーブルに置かれた透明なセロファンに包まれているシフォンケーキを、全員が覗きこんだ。なんだか、恥ずかしい。すると茉莉さんのお祖父様は、リボンをあっさりと開けた。
「なんだか、旨そうだなぁ、茉莉、包丁持ってこいや」
「あぁ!もう開けてるっ。じっちゃん、今日は用事ないの」
「んーねぇな」
「包丁だけでいいですか、お義父さん」渋谷大臣は、よっこらしょ、と立ち上がった。フットワーク軽すぎる!
「ちょっ、父さんも永田町に戻って、仕事でしょう」
「シフォンケーキを食べる時間はあるよ。甘いものはイケる口だからね」
「フォーク、あとバニラアイスあったよなーアイス、アイス」
ご主人もいそいそと席を立って行った。あっという間にシフォンケーキは切り分けられ、旨い、旨いとそれぞれの胃袋へ収まって行った。カレーに、たい焼きに、シフォンケーキとアイス。健啖家だなぁと、目を丸くしてすっかり平らげられた、包みの残骸を眺めた。
「本当に今日は騒がしくて、すみません」
ご主人は仕事で階下へ降りていき、お祖父様と渋谷大臣は牽制しあいながらも、仲良く帰って行った。シフォンケーキ、旨かった、ご馳走様と口々に言いながら。
茉莉さんと大人は二人きりになって、まだ皮がパリッとしているたい焼きを食べていたら、茉莉さんは改めて頭を下げた。
「ええっ、いいの、実家を思い出してとっても楽しかったよ。私、兄妹が多くて賑やかな毎日だったから、話を沢山出来て、嬉しかったの。賑やかなのって、本当にいいなぁって思うよ」
そう私が言うと、茉莉さんはほっとした顔をした。静かになった途端、陵太くんも友華子もおっぱいを欲しがって、あっという間に寝てしまった。二人は今、畳の上に敷いたベビー布団に揃って眠っている。ほっと一息つける、数少ない時間だ。
「綾乃さんは、優しいですよね」
「ええっ、なっ、何を言ってるのー茉莉さんいつも褒めてくれるけれど、そんなことないからぁ」
何ていうか、慌てちゃうよ。何時も茉莉さんは優しい声を掛けてくれるけれど、そんな立派な人間じゃあないよ私。頰が熱くなるし、恥ずかしい。
「わざとらしくなかったですか、あの感じ。見逃してくれたんだと思いました」
「う……そ、そう?うーん、でも楽しそうだったよ」
薄々、感じてはいた。あの場にいる人たちが、家族の団欒をやろうと努力していたのは。お祖父様はわざわざやって来て、お父様はきっとご主人の休み時間を目掛けて来た。ご主人は惚けたことを言い、茉莉さんは、わざと怒った。それでも団欒になっていたと、思う。
「ありがとうございます。ああやって一緒にいるうちに、しっくり行くようになったらいいな、って思っているんです」
そうやって茉莉さんは少しだけ願いのような、弱音を吐いた。うん、なんていうか、今、渋谷大臣と茉莉さんが親子なんだなぁって、実感する。相手の様子を良く見ていて、きちんと自分の言葉で想いを話す。そしてひとを惹きつける存在感は圧倒的だ。政治家になくてはならないもの、それを茉莉さんは持ち合わせている。いいのかな、私がお友達になっても。でも、お友達になりたいな。
「お父様、とっても嬉しそうだったよ。こころ許した場所とひとの中で、寛いでいたように感じたの。あ、私が思っただけ、だよ」
そう言うと、茉莉さんはおや、といった表情を浮かべた。うん、その顔もそっくりだ。
「綾乃さんの旦那さんが、綾乃さんにメロメロなの、分かりますね」
「ええっ、メロメロって、メロメロ?そんなことなぁい!」
「じゃあ、ラブラブ」
「らっ、あー……茉莉さん、たまに古いよね、言葉のチョイスが」
「ああ、たけちゃんの使っている言葉が、つい移っちゃうことがありますね。どうしても」
「まっ、茉莉さんだってラブラブじゃない、移っちゃうなんて」
「まあ、綾乃さんと旦那さんには負けます。お二人は甘々のラブラブ、ですよ。ですよね?」
「うっ、そんなこと、あるかも」
「あるんだ!」
いいなあ!と茉莉さんは叫んだ。うう、つい認めてしまった。嘘は言えないよね。その後何故かお互いの付き合い始めるきっかけの話になってしまい、茉莉さんは聡と私が通勤のバスの中で知り合ったという事実に、なんてドラマチック、胸がときめくと目をキラキラさせた。でも逆に茉莉さんの、ご主人へ長いこと片思いしてやっと実った恋の方が私のよりも何倍もロマンチックだよ。交際無しで結婚を決めたご主人の漢らしさといい、茉莉さんの一途さといい、久々に恋話を聞いてときめいたのだった。
「……そんなお話も出来て、今日は本当に楽しかったんだよ。凄く元気を貰って帰ってきた気分なの」
「そっか、それは良かったね。色々濃い話だな」
ご機嫌に拳をしゃぶっている友華子の側でストレッチをしていたら、思ったより早く聡は帰ってきた。久々の八時台の帰宅で起きている友華子に会えて嬉しそうな聡は、スーツのまま抱っこしてキスの嵐を浴びせていた。そのキスに喜んで声を上げる友華子に、いつもはちょっとだけ羨ましさが、ある。でも今日は色々満足して帰ってきたせいか、こころ穏やかに見守ることが出来た。大事だね、お出かけするのって。
聡がご飯を食べて入浴している頃に、友華子はおっぱいを飲んで寝てしまった。最近真夜中二時頃の授乳までぐっすり眠ってくれるから、私も身体が楽になってきた。
久し振りにリビングの明かりを落として、ベビーベットに寝た友華子を見つつ、「今日、どうだった?」と聞いて抱き締めて来た聡に、あった出来事を話した。今日は話すネタが沢山あるから、楽しんでくれるか、と思いきや段々面白くなさそうな顔になっていくのを無視して話し終えると、聡はこう続けた。
「綾乃にいい友達が出来て、良かったよ。今日は生き生きしているしね」
「毎日、友華子の変化のない報告しか出来なかったけれど、今日は少しだけまともな話が出来た気分だよ」えへ、と笑うと聡は途端に顔を曇らせた。腕の力は、少しだけ強まる。
「俺は、友華子の物音にびっくりして泣いた話とか、ずっと拳をしゃぶってて指がふやけた話だって結構楽しみにしているんだけれど、な」
「えっ、そうなの?」それは知らなかったよ!てっきり聞き流しているんだとばっかり、思っていた。
「それで、今日の友華子は?はい、どうぞ」
「えっ、えーと、茉莉さんのお祖父様と、お父様と、ご主人に抱っこされて、ニコニコして………た……」
「ふーん、そうなのか」そう言うと耳を甘噛みされた!これ、絶対面白くないんだ、そうだ、きっとそうだ!
「えっと、少しだけだよ、少しだけ」
「他の男に友華子を抱かせたんだね。それは面白くないな」やっぱり!しかも聞き捨てならないセリフを言ったよ、この人!聡はいきなりぎゅう、と抱き締めてくると、顎を頭に乗せてぐーりぐりし始めた。
「ひーごめんなさぁい。でも、凄く友華子は可愛いって褒めてくれたよぅ」
「当たり前だよ、友華子は世界で一番可愛いんだからね」
「痛いよぅ、もう、もうしないから、ごめんなさい、でも、世界で一番は、友華子、なの」そう私が言うと聡はぴたっと動きを止めた。
「何?焼き餅焼いてるの」
「う……わ、悪いっ」
「うーん、そうだな。ここの肉が取れないって悩んでストレッチを頑張っている綾乃は、世界一可愛いよ」
そう言ってふにふにと聡は脇腹を摘む。うう、友華子を産んでから、体型はなかなか以前に戻らない。いつもゆったりスカートで隠しているけれど、若い茉莉さんがすっきりした体型で、程よく筋肉のついた細い美脚をスキニーで隠さずにいるのを見ると、やっぱりストレッチ、頑張らなきゃと思う。
「もう、止めてよぅ。摘まないで」
くっ、くっと笑う声が頭の上からする。本当に酷い。ちょっと腹立たしくなったので、睨みながら見上げると、優しい口付けが降りてくる。
「世界一可愛い綾乃を、ベットに連れていきたいんだけれど」
「いい、よ」
そのまま抱き上げられて、ベットルームへ連れていかれる。少しの間だけ、聡の腕の中で母から女性に戻って、そうして抱き合うため、ドアは閉じられた。
祖父と花×西63成華園経由県庁駅前行き ショートショート
綾乃、風邪を引くの巻
「うーん、喉、喉が痛い……」
久し振りに家で休める土曜の早朝、綾乃は咳をしながら起き上がった。でも、またベットにぼっふん、と逆戻りする。友華子はバンザイをした体勢でまだスヤスヤ眠っている。風邪だな、絶対そうだ。前、風邪引いた時も咳から始まっていた。
「母親業で疲れが出たんじゃないのかな。今日は俺が友華子と遊びながら家事もするから、綾乃は今日は寝ていて」
「……ごめんね、迷惑掛けて。ありがとう」
「いいんだ、家族じゃないか。助け合っていかなきゃいけないしね」
「……ありがとう。私、早く治す為に、後で病院行ってくるっ」
病院、その言葉に、嫌な予感がする。
「何処の」
「何処、って、茉莉さんのご主人の」
「駄目」
遮ると綾乃は見る見る内に目を見開いて、何言ってるの、この人と顔に書いてある。でも駄目なものは駄目。
「予約診療だし、親切だし、なによりすぐそこだよ。それに」
「駄目。俺が今、女医さん探してみるから。喉を守る為にも、もう喋らないで大人しくしていて」
「違うの、そうじゃなくて女医さんなら」
「いいから、綾乃はベッドにいて」
はじまった、またこれが、そう綾乃の顔に書いてあるけれど、それは無視。
綾乃、鈴木医院へ行くの巻
結局女医さんのいる土曜診療の内科は見つからなかった。都心、使えない。
綾乃の冷たい目線が痛い。「予約、十一時半に取れたよ」と告げてきた声も冷たい。
友華子を抱っこ紐で結び、綾乃のママバックを持って、マンションから出るとマスクをした綾乃の手を取った。
「揉めなかったら、もっと早い時間に予約取れたよねー。ねーゆかちゃーん」
ああ、これは怒っているな。友華子に話し掛ける振りして、俺に言って来ている。
友華子はよく分かっていないようで、お出かけだと思っているのか足をパタパタ。
医院の前に差し掛かると、綾乃の仲良しの鈴木医院の奥さんが何故か待ち構えていた。
「綾乃さん、大丈夫?」
「うーん、風邪っぽい、んだけれど。ごめんね、分かりにくいメールしちゃって」
「季節の変わり目だしね、体調崩れやすいよね。あ、こんにちは、綾乃さんが受診している間、お二階へどうぞー」
「いえ、一緒に病院へ行きます」
そうきっぱり言うと、鈴木医院の奥さんはおや、という顔をした。
「最近風邪が流行してて、わたしたちも下は出入り禁止になっている程なんです。友華子ちゃんも二次感染しては大変ですから、二階にどうぞいらして下さい」
「そうさせて、貰っていて」
そう言うと綾乃は深い咳をした。納得、できない。でも、この奥さん、ニコニコしているけれど、有無を言わせない、といった迫力がある………。そう言えば渋谷大臣の娘、だっけ。道理で。
腹黒、女子に囲まれるの巻
結局二階にお邪魔することになってしまった。友華子が病気になるのは嫌だけれど、綾乃が男の医者の前で胸をはだけるのも嫌だ。ここから近所の産婦人科は基本助産師さんとのお産で、高齢の先生の事は目を瞑った。昨今のお産難民のことを考えると、贅沢など言ってられない。でも、風邪はなんとかなりそうだからこそ、女医を探したかった。
「奥様のことをご心配なのね。綾乃さんのご主人は、優しくて素敵ですねえ」
「……心配、いえ、そんなことは」
にこにこほんわかした、ここの主のお母様に優しく話しかけられて我に返る。いけないな、ついありますが、と言いそうになってしまった。心配は止まないけれど、ひとまず棚上げにする。いつの間にか友華子はずり這いして部屋の隅をかりかりと爪でかくようにしていた。
「友華、おいで、いけないよ」
「ああ、友華子ちゃん、そこ、好きなんですよ。気に入って楽しそうですし、構いませんよー」
急須と湯飲みをお盆の上に乗せてやって来た鈴木医院の奥さんに言われて、正直戸惑う。友華子は熱心に畳の縁を掻いている。そっと近づいて後ろから友華子の身体を、畳の上を滑らせるように引き寄せると、またしゃかしゃかずり這いをして戻って行く。何度か繰り返すと、奥さんとお母様に爆笑された。
ひとつのことに集中すると脇目をふらないこの性質、綾乃にそっくりだ。何時も綾乃の好きなことを見つけて深くはまると、飽きないその性質に助けられている。
奥さんとお母様に受けるので、調子に乗って何度も引き戻していたら、友華子はついに泣き出した。抱き上げると身を捩って抜け出そうとして、渋々降ろすとまたしゃかしゃか戻って行く。
「い、いいですよー友華子ちゃんの、す、好きなように」
奥さんもお母様も大爆笑だ。笑いのツボが似ている二人だ。
腹黒、綾乃を待ちくたびれる、の巻。
来ない。もう一時間は経つ。
友華子もぐずり始めた。
「ゆかちゃん、お腹すいたね。陵太ともぐもぐごっくん、しようね」
断る間も与えられず友華子にと手拭きとエプロンを渡され、直に離乳食がテーブルの上へ用意された。
「こら、手を拭きなさい」
細かく刻まれたとろみのついた青菜をいきなり鷲掴みした友華子を制すると、力強く振りほどかれた。そのままぼろぼろ零しながら小さな口に詰め込んでいく。あわててエプロンをつける。
「陵太も友華子ちゃんのように自分で食べてくれたらいいのにねぇ」
寝起きの孫の口へおっとりとスプーンを運ぶお母様は、もりもり食べている友華子を見てため息を吐く。おっとりとした男の子と気の強い女の子は、性格を入れ替えたら世の中平和になりそうなものだが、そう上手くはいかない。
しかし、遅い。
医者の方が先に帰ってきた、の巻。
「あれ、たけちゃん。綾乃さんは?」
「ぬあ?あーちょっと待て。手洗いしてくんの忘れた」
扉から現れた白衣のご主人は、とぼけた声を出した後に洗面所へ消えていった。浮かした腰をとりあえず落とす。友華子は口の周りにお粥をみっちりくっ付け、もっと寄越せと机をバンバン叩き始めた。
すかさずやって来たお代わりにがっつく友華子。少々恥ずかしい。
「上條さん、嫁さんな、脱水症状らしい。風邪引いて母乳はきっついからな。今、点滴してっから。もうすぐ終わるとは思うがな」
「脱水症状らしい、とは」
「あーうちな、先週もう一人医者が入ったんだわ。嫁さんは和久井先生に診てもらった。時短勤務の医者なんだが、腕はピカイチだぞ」
「聖子先生は大学病院にお勤めになっていらしたんですって。定年で退職されてから気が抜けたと仰っていて、気鬱になりかけたそうですが、ここにいらっしゃって生き生きなさってますよ。穏やかで優しい方なんですよ」
なんだって。
腹黒、大臣に会う、の巻。
呆然としていたら、階下の玄関が賑やかになった。
「ちっと早いんじゃねーか?」
「朝五時に出て行ったんだよ、たけちゃん」
「釣れたのかしらねぇ」
どうやら誰かが釣りに出ていたらしい。間も無く釣り人姿のお三方が居間に現れた。一人は奥さんの祖父、もう一人は最近日経で見たばかりの酒造メーカーの取締役、そして、渋谷大臣だ!
「友華子ちゃん、今日はお父さんと一緒なんだね。初めまして、陵太の祖父です」
「おめぇのようなすっとこどっこいはも一回、東京湾に戻って頭洗い流してこいや。呆けてんのか?おめぇのこたぁ、百も承知だろ、なあ、上條さんよ」
漫才コンビ、なんだろうか。この息ぴったりな様子は。
「初めまして、いつも妻と娘がお世話になっています」
「ああ、友華子ちゃんはお父さんに似ていますね」
にこにこしているのに、半端ない威圧感がする。ぐっと胃の腑を握り絞められたような。これは堪らない。
「気は強いですが、目に入れても痛くない娘です」
さらけ出すように親馬鹿を発揮すると、ふっ、と空気は軽くなった。
「女の子は可愛いですよ。しかも可愛いのはすぐ過ぎ去ってしまうから、今を楽しめる上條さんが羨ましい」
どうやら、名前を覚えてもらえたらしい。背筋に冷や汗が伝う。
腹黒、釣り部に誘われる、の巻。
大量の氷の中に新鮮なアジがツヤツヤしている。つかまり立ちで覗き込んだ友華子は、躊躇いもなく手を突っ込もうとした。
「ゆかっ!」
引き剥がすと友華子は猛烈に暴れ出した。落としそうだ。言うこと聞かない。
「友華子ちゃん、冷たい冷たいだよ、ね」
大きめな氷が大臣の手によって、小さなほっぺたに当てられた。途端に泣き出す。吸い付くように抱きついて来た。可愛い。
わんわん泣いている子どもがいても、この家の人間はのんびりしている。そのうちにシャツをぎゅっと握りしめて、友華子は眠りに落ちた。
祖父さんと奥さんとお母様はキッチンでアジを三枚下ろしにしていて、男どもは昼食の用意を始めた。当たり前のように俺の前にも茶碗とお椀、箸などがセットされる。
「あの、妻の点滴が終わりましたらお暇しますから」
「あ?いいから食ってけ。あんな大量の鯵、さばくのに人数いるからな。雲丹とか百合根とか、あ、あとなんだ、上條さんちからいい食いモン沢山貰ってんだ、食ってけ食ってけ」
どん、と大きな音を立てて美しく盛り付けたアジの刺身の大皿が置かれた。
「釣れて釣れてまあ、参ったなぁ。船宿の親父まで釣り始めてよぅ」
「染兄が一番釣りましたね」
「うー、ナニコレ、おいしー」
確かに旨い。友華子を抱きながらで少々食べにくいが、旨い。
いつの間にか話題は次の釣り予定の擦り合わせになっていた。
「上條さんは釣り、やったことあるかい」
「はい、独身の頃たまに」
「今はやらないのかい」
「父から誘われた時には行きます」
小さな頃、もやもやして感情が爆発しそうになると父はよく釣りに誘ってくれた。自分の趣味も兼ねてだったのだろうが、それに随分と救われた覚えがある、と奥さんの祖父に話す。すると何故か父の職業も聞かれた。
「上條さんも次の釣り部に参加しませんか」
にーっこり笑った渋谷大臣にいきなり誘われた。怖い。でも政界に伝手が沢山出来るのは、これからの夢に有利になる。そう一瞬で考える。
「はい、お仲間に加えて下さい」
「ちぇっ、いいよなー。釣り」
「毅、お前は患者さん放って行けないだろう」
取締役にたしなめられても白衣のご主人はぶーたれている。自分の気持ちに正直な人、なんだろう。
綾乃、腹黒に説教、の巻。
「結局、鈴木医院にかかるのが一番だったよね。ねーゆかちゃーん。予約の時間まで結構きつかったんだよー分かる?」
げほげほ咳をしながら綾乃は文句を言ってきている。友華子は抱っこ紐の中で足をパタパタ。
「素敵な先生も入ったって茉莉さんに聞いていてねー会ったら可愛い先生なんだよーゆかちゃんも診て貰えるよねー」
握った綾乃の手のひらは乾燥している。友華子は両手もパタパタし始めた。
結局、綾乃が点滴を終えて上の階に上がってきたのは、一時間後だった。一家で昼食をご馳走になって、渋谷大臣のマニアックな総理大臣モノマネを見て(結構、上手かった)、三枚下ろしになったアジを土産に持たされ、人口密度の高いあの家を辞した。
「ゆかちゃーん、どうしたらこのお父さん、話聞いてくれると思う?」
「綾乃」
返事は、無い。
「俺が悪かった」
猫っぽい綾乃の目がじっとりと睨んでいる。
「話を最後まで聞かないといけなかった。すまない」
本気で心から謝ると、睨んでいた綾乃の目線は少しだけ緩んだ。
「次やったら、美和子さんお手製のはちみつシロップ、ひと瓶飲ませるんだからぁ」
それは勘弁して欲しい。母親が作る薬草がみっちり入った風邪予防のシロップは、正直子どもの頃から苦手だ。自然と眉間に皺が寄ったのを見て、綾乃は柔らかい笑顔を見せてくれた。
「聡は、変わったよね。前は絶対謝らなかったもの。ああ言えばこういう、ですぐ私は言い込められたのに」
「………そうかな」
「今の方がいい」
ぐっ、と手を握ってくる力は強まった。綾乃の方を向いている友華子はニコニコしている。母親の表情が柔らかいことが嬉しいんだろう。それは、無論、俺も、だった。
新橋へようこそ・綾乃の場合
・キャンプの直後の設定です。
「あのさ、何でおめーは一緒に居るんだ。帰りな」
「何故ですか、綾乃を一人ぼっちには出来ません。東京に慣れていませんし、帰り道は危険ですから」
ニコニコした静かな腹黒は、待ち合わせの新橋の雑居ビル前に、綾乃と一緒になって現れた。
「私、別にいいって、言ったんです……」綾乃は明らかに怒っている。まあそりゃそうだ。保護者同伴で来た奴はいない。しっかたがねぇなあ!
「健人は嫁のこと信頼して、一人で嫁を送り出してて、偉かったなぁ。娘の面倒もよくみるし、何よりちゃんと嫁を信頼してるもんな!」
「そうでしたか、だから?」静かな腹黒は黒いオーラを出し始めた。が、わたしゃ作者だから効かないんだよ、馬鹿め。
「おめーはわたしに逆らえるのか。どうなんだ、おい」綾乃がオロオロし始めて、聡は仕方がなさそうにため息をついた。
「綾乃、あの人は性格悪くて、鬼畜で、すぐ人を貶めるから。気を許しちゃ駄目だよ。分かる?」
「そうかなぁ、ちょっと違うと思うよ」
「駄目だよ、そういうのが足元掬われることになるよ。分かる?」綾乃は、面白くなさそうに聡を上目遣いで見て、聡はまあ静かに微笑んでいるが、アレ内心、綾乃は可愛い、とか身悶えているのがよく分かるってなもんだ。何なんだ、コレ。一種のプレイか!
「わかった……気をつける」渋々呟いた綾乃に、聡はニコニコしながら頭を撫でていた。
「おめぇも大変だな。色々と」
「いいんですけれど、いいんですけれど、たまに面倒くさいんです」そう言うと綾乃は生ビールをぐいーっと飲んだ。たまに、なのか。いつも、の間違いじゃないのか。
「それでもあれ、拙作の中でお婿さんにしたい、ナンバーワンだから」
「え、あ、あれが、ですか?」
「そう、アレが」そう言うと綾乃の大きな目は虚ろになった。
「そう、ですか。お婿さん……聡が」色々あるんだな。溺愛は諸刃の剣だもんな。頑張れよ。合掌。
枝豆を持って来た大将は、今日はいつもと違って、渋い表情だ。腹痛か?
「そういえば、キャンプ二回目はどうだったのさ」
「あ、蛍、蛍みました。私、蛍見たことなくって。ふわふわしてて、凄く綺麗でした!」
「へぇ、いいじゃん。あとは?」
「バームクーヘンも、作ってみました。あれ、結構生地が垂れて、聡は慌ててましたけど。ホットケーキの生地でもちゃんと出来て、美味しかったです」
「バームクーヘンも作ったんかい。あとは?」
「あとは、えーと……あ、星座盤も持っていきました。二人で寝転がって、星空をみたりして」
「へぇ、二回目はのんびり、まったりしたんだねぇ」
「あまり知られていない、テントサイトだったんで、私達しかいなくって。まったり出来ました」
綾乃はそう言うと、嬉しそうに笑った。お前は気は強いけれど、そういう所、素直だよな。
「聡は、アオカンしようとしなかったのかい?」
そうわたしが聞くと、綾乃は顔を見る見る間に赤くして、何故か大将はすっ飛んで来た。
「お客さん……それは、ちょっと」
「何だよ大将、何で邪魔すんのさ」
「す、ストップが、かかります」そう言うと大将はブルブルと震え出した。
「ああ、何だよ、ん、もしかして、まさか、まーさーかー」
嫌な予感しかしない。あの粘着質で、しつっこい男のことだ。あのやろーここにいるな。
「くうぉらあっ、おめぇな、何やってんだっ」
カウンター内の死角で、前屈みになりながら座っている静かな腹黒は、わたしが見つけるとちっ、と舌打ちをした。
「よく見つけましたよね。もういいでしょう。綾乃、帰ろうか」
ニコニコして誤摩化しているが、これはアレだな。ペナルティだな。
「綾乃にお触り、一週間禁止の刑に処す。分かったな」
「出来ません」
ニコニコ、ニコニコしながら、黒いオーラを出しまくっているが、お前は本気で言ってるのか?
「お前を消しても、いいんだぞ」
途端に静かな腹黒は、黒いオーラを引っ込めた。消されるのは嫌か。そうかそうか。
「全く、おめぇはな、粘着質過ぎるぞ。一週間、お触り禁止して少し反省しろや!」
そうわたしが叫ぶと、何故か綾乃はしゅん、となった。
「あのう、私も、そうすると、ちょっと困るっていうか、その、東京を楽しみにしてたんです。だから」
「綾乃」
大きな瞳の視線をあちこち、きょろきょろさせながら、頬を染めてたどたどしく喋る綾乃に、聡は胸を撃ち抜かれたようだ。なんなんだよ、お前たち。リア充ってやつか。
「あー、分かった分かった。じゃ、今んところイエローカード、一枚目にしておいてやる」
「ありがとう、ございます」綾乃はそう言うと、嬉しそうに笑った。その顔に聡はまたずっきゅん、と胸を撃ち抜かれていた。いい、仲良くやってくれ。粘着質と仲良くできるのは、なかなかいないからな。
わたしは、目の前でいちゃつき出したカップルを横目で見つつ、ホッとした表情の大将へ、生のお代わりを頼んだ。
新橋へようこそ・真吾の場合
「よう、純情ボーイ。元気か」
「………あの、純情ボーイは止めて欲しいんですけど」新橋の駅前の古びた雑居ビルの前で純情ボーイと待ち合わせた。真吾は今日もカジュアルな黒のジャケットにカッコつけたパーカーをインしてダメージジーンズにブーツインでまあどこのモデルさんか、という格好だ。
「おめぇ、スカウト凄いだろ」
「あー大学が渋谷なんでよく声は掛けられますけど、まあ、無理なんで全部断ってます」
「原宿なんて行けないな」
「そうっすね。最近は近寄りません」そういうと純情ボーイは、にぱっ、と笑った。
「よっしゃ、行くぞオイ」そう促すと純情ボーイは素直にはい!とついてきた。
「大将ー、二人」
「あいよーいらっしゃーい!」何時もの立ち飲み屋の扉を開けると恰幅のいい大将は相好を崩した。空いているテーブルについて、キョロキョロしている真吾に壁の煤けたメニューを指差す。
「わたしゃビール、純情ボーイは?」
「ウーロンでいいっす」
「おめぇハタチ越えてんだろう、飲めよ」
「このあと依頼が入ってるんで、ヨッパだとまずいんで」渋い顔で真吾は笑った。
「あーおめぇ祓うひとだもんな。じゃ、ま、いいか、大将っ、ビールとウーロン茶!」
あいよ!と大将は叫ぶ。
「んで、最愛の彼女とはどうなのさ」
「えっ、あ………やー、なっ、仲良しっすよ」
「少女漫画雑誌か、もっと何かないんか。大体おめーらよ、やってること甘酸っぱ過ぎだろう!」挙動不審な純情ボーイに畳み掛けると、真吾はもっと顔を赤くした。全く、今時の中学生だってこんな反応はしねぇよ。
「顔はいいのになんでそんなんなんだよ。高校時代だってモテモテだったって健人からきいてっぞ。よくそんなんで生きてこれたな!」
「こっ、こばけんめっ、あいつ何チクったんですか」
「あー、一年の時に三年の女子にトイレの個室に連れ込まれて迫られた、とか。知らねーうちに三股してるってことになってて、更に彼女がいるってことになってた、とか。あとはファンクラブがあった、とか?」
純情ボーイは両手で顔を抑えて唸っている。
「あとなー」
「もーいいでっす!」真っ赤になった純情ボーイの前に大将はうるうるした目でそっとウーロン茶を置いた。
「そんなんなのに、中身は純情ボーイだもんなぁ。おめぇ、健人にどんだけ弱み握られてんだよ。隙あり過ぎだよ。静かな度量の狭い腹黒なんて高校時代隙が無くて、健人ですら尻尾掴めなかったんだぞ。それに比べりゃ、おめぇは隙あり過ぎじゃ」
そうわたしが言うと純情ボーイはぶーたれた。ガキか、ああ、ガキだったな!
「で、どうなのさ、朱里とは」
「………毎日、電話で話してますけど」
「奥手同士は何話すの?」ビールを飲みながら聞くと真吾はしどろもどろになった。真っ赤なしどろもどろは見ていておもしれぇな。
「いや、今日、暖かかった、とか、桜、綺麗だ、とか、創のこととか」
「おめーらなぁ……じーさんとばあさんじゃ ねぇんだからよ……天気と子どもの話って話題ない時にする奴だろう」頭いてぇ 。この奥手カップルのあの話を纏めるのか……で、出来るんかな。 一抹の不安を覚えたわたしであった。
新橋へようこそ・朱里の場合
「よう、朱里。元気かい?」
「こんにちは、お越し下さってありがとうございます」
宮本家の玄関先へ現れた、にこにこした朱里が抱っこしているのは、生まれて六ヶ月の四番目、次男坊の翔平くんだ。
今回は、子育て真っ最中の朱里を新橋へ呼びつけるのは忍びなく、神社の敷地内にある宮本家を訪ねた。朱里に抱っこされた翔平くんはあー、うーと可愛い声を上げている。
「あれ、真吾は?」
狭い居間には、おもちゃだのハンガーラックだの、ベビーチェアだの子供用品があちこちに置かれている。片付いているけれど、子育て世帯へ来た、って感じだな。
「今日は神社で、今は仕事中です。お昼にはご飯食べに帰って来ますけれど」
「そうか、自分の家は職場と地続き、だもんな。毎日旦那の昼飯作らなきゃいけなくて、大変だなあ」
お土産のヒロタのシュークリームを渡しながら言うと、朱里は恐縮した後ちょっと頬を染めて言った。
「で、も、一日で唯一、真吾くんとゆっくり話せる時間なので、それはそれで、いいっていうか、その」
「あー未だにラブラブかい。いいこった。ほーい、翔平くん、おばちゃんのところへおいでー」
よだれたれったれのほわっほわの翔平くんは、抱っこすると赤ちゃん独特の匂いがする。男の子ならではのむっちり感が心地いい。赤ちゃんはマイナスイオンを発していると、マジで思う。
「抱っこ、重くないですか?翔平は四人の中でも一番重くて」
「いやー重くないよ。いいねぇ赤ちゃんは。四兄弟はどうだい、慣れたかい」
「そうですね。嵐のようでしたけれど、最近は少し落ち着いた気がします」
そう言うと朱里はにっこりした。幸せそうで、何よりだ。
「上から小三、小一、幼稚園の年少、ゼロ歳か。子育て長いなー」
「そう、なんです。幼稚園なんてもう七年位通ってます」
「偉いよ、もうこれ以上は無理だってお稲荷には言っといたからね。安心しな」
「たっ、助かります。今はまだいいんです。でも大学とか行くようになったら、もう家計は火の車間違いなしですから」
全くお稲荷の煽りは年々、酷くなる一方だ、と聞いていたけれど、ついに四番目を仕込ませた時には、流石の鬼畜なわたしもお稲荷へ待ったをかけた。
あのクソ狐は、金が必要なら、真吾の仕事運を上げておきますぇ。とかほざいていたが、もう充分だろーがと説教をこいた。人間は金だけじゃ大きくなれないんだっちゅーの。
「真吾はいいお父さんかい?」
「一緒に育てようって思ってくれているのが伝わってくるし、一所懸命だなあ、って何時も思います。お布団で上の三人とはしゃいで、いっつも夜遊んでます。それを翔平がベビーラックからニコニコ見ていて、この間ついに仲間入り出来て、翔平、嬉しそうでした」
「そうかい、ちみも仲間に入ったのかいー」
わたしの髪の毛をぎゅう、と握って、開いてを膝の上で繰り返している翔平くんに話しかけると、にぱっと笑って嬉しくなる。
「そうか、ちゃんと家族に成れているんだね」
「はい、毎日大騒ぎですけれど」
「朱里、幸せかい?」
「はい、とっても」
「それはよかった。本当によかった」
酷い目に遭わせた負い目もあるっちゅーもんだが、幸せなら、それでよいのだよ。
「ただいまーあ、お久しぶりです」仕事着の袴姿で真吾が昼飯に帰ってきたようだ……っていうか、早くないか?まだ十一時だぞ。
「よう、純情青年。もう昼飯か」
「いつまで純情付けるんですか。もう父ちゃんなんですよ」
「あー、一生だな。ずっとおめぇは純情だからな」
「しょーへー、父ちゃんの所へおいで。ほら、おいで」
むっとした真吾は、張り合うように翔平くんへ両腕を広げて差し出した。
何するんだ。人見知りしない、むっちむちのほわほわを手放す訳ないだろう。真吾は翔平くんに両手を出して促し続けているが、座りながら知らんぷりして横を向いた。
「なっ、ちょっ、しょーへー。父ちゃんがいいだろ?」
「早く飯喰っちまえよ、純情青年。翔平くんは抱っこしててやるから」
回り込んできた真吾を避けて反対側を向くと、翔平くんはううーあーと抗議の声を上げた。
「ほらー父ちゃんがいいよなー。な、翔平」
ああ、むちむちのほわほわは真吾に抱っこされていった……しかし、なぁ。
「本当に、そっくり、だなあ。上の三人もそっくりだが、こりゃ、間違えようないな」
「よく、言われます」
昼食を運んできた朱里は、にこにこしながら言った。いい、いいな。なんていうか、嬉しくなる。
穏やかな幸せを確認したわたしは、子沢山夫婦の未だに可愛らしい会話を聞きつつ、むちむちのほわっほわの奪還に向け、策を講じ始めたのだった。
新橋へようこそ・たけちゃんの場合
「先生……相変わらず細マッチョですね」
「ぬあ、まーね。毎日腕立てと腹筋とスクワット診察の合間にやってっから」鈴木先生はジョッキのビールをぐびーっと飲んだ。相変わらず豪快な人だ。
「っていうか、今日はいいんですか、飲んでいて」
「んー今日はさ、近所の在宅医療やってる、連携し始めたとこに頼んできた。お互い休み取って旅行したりするときに融通し合うのさ。何時呼び出しあるかわかんねーから、深酒出来なくってつまらん人生だー医者なんて」先生はがはは、と笑う。
「先生はロリコンですか?」わたしが聞くと先生はビールをぶふぉっ、と吐き出しむせた。
「げっぽ……げっ………おいコラ、ヘボ作者。茉莉は成人してっぞ。俺はロリじゃねぇ」
「自分は光源氏だと思いますか?」
「てんめーいい度胸してんなぁ。なんでそんな虚ろな目で聞いて来るんだ。ああん」
キャラ濃すぎて胸焼けしてる、とか、
その割りにヘタレで動かしにくかった、とか、
どこが枯れオヤジなんだよ、イケイケじゃん、とか、
すんげー医者の仕事の調べ物が多すぎて、半泣きになった、とか、
増税後に壊れたパソコンのせいで、半端なく時間なくて気が狂いそうだった、とか
言いたいことは沢山あるけれど、遥か年上の人には怒鳴れねぇんだよ。察しろや、てめぇ。
「たーいしょー生。あとモツも!」
「あ、俺も同じの、あと冷奴」
「あいよ!」先生は怒っていたことも注文したら忘れたようだ。そんなに単細胞なのによく医者をやってるな。言わないけれど。
「で、光源氏だと思いますか?」
「あー思わねぇよ。大体こんなガサツな光源氏がいるか。俺がそうだったら源氏物語は駄作になって埋れてるや」
「ああー確かに、だから駄作になったんですねー………」
「さりげなく毒吐くなや、ヘボ作者」
「で、何時から茉莉のこと好きだったんですか?」
「ぬお。あーそんなの分からん。何時の間にか、だなあ。一緒にいると落ち着くなとは思ってはいたけどな」
「茉莉が5歳のときに思ったんですか?」
「んなわけねーだろ。最近だっちゅーの」
「パイレーツ、お好きでしたか?」
「ああ、あのパイパイは堪らなかった……って何聞いてんだテメェ!」
「ノリツッコミありがとーございますー」虚ろな目で呟くと、大将はわたしと先生を見比べながら生二つとお盆の中身を置いた。
「おめぇ何か言いたいことあるなら溜めないで言えや」
「いやいや、おっさんに言いたいことなんてそんな、ないっすよ」
「さっきからちょくちょく毒吐くなあ。おっかねーな」
「つーか、先生、ピッチ早すぎじゃないですか。次何飲みます?」
「あーじゃ、ハイボールだな」
「正しいオヤジの姿ですね」
「だから何で毒吐く?」
「たいしょー、ハイボール!」ああっ鬼畜隠して年上と飲むって、意外に大変だネ!そう悟ったわたしだったが、この後久々の飲みにハッスルした先生に、朝の3時まで付き合わされたのだった。医者って体力あるよ。
新橋へようこそ・茉莉の場合
「よう、茉莉。元気か」
「文句言ってもいいですか」
いつもの店に入ると、茉莉はもう既に麦焼酎と焼き枝豆を前に、目が据わっていた。コワイ。
「まあ、ちょっと待て。大将、生とモツ煮!」
毎度っ、と大将は相好を崩した。若いオネーちゃんが店にいるのが嬉しいらしい。大将よ、中身はコワイんだぞこのオネーちゃん。
「そんで、どうしたのさ。なんか不満でもあったか?」
「もうちょっとたけちゃんを格好良く描写、出来なかったんですか。あれは酷すぎます。たけちゃんは本当は格好いいんですよっ」
どふん、と茉莉は安っぽい木のテーブルを拳で叩いた。本当は、っていっちゃってるけれど、まあいい。茉莉の目には、特殊なフィルターが掛かっているんだな。間違いない。
「いや、あれ以上は無理だな。おっさんはどう頑張ったっておっさんだもんよ」
「お下品なことは言わせるし、加齢臭とか、出さなくていいじゃないですか」
「加齢臭は茉莉が言ったんだろ。大体あのおっさんのどこがいいんだよ」
「ええっ、笑った顔もお茶目な所も白衣が人一倍似合っているところも素直じゃないけれど心優しいところも(以下略)」
茉莉が滔々と先生の良いところを語っているのを聞き流していると、大将はニコニコしながら生と酒盗と豆腐ようを持ってきた。おい、わたしが頼んだのはモツ煮だぞ、大将。
横目で大将に合図を送るけれど、全然気づいちゃいねぇ。まあ、いいか。
「あの、聞いていますか。気もそぞろですけれど」
じっとり睨んでいるけれど、聞いてないぞ。勝手にかんぱーいと言うと、茉莉のグラスへジョッキを合わせた。ああ、生は旨い。生きてて良かった。
「とにかく、もう少したけちゃんのこと、かっこ良く書いて下さい」
「いや、いいんだけれどさ、かっこ良く書いたらあいつモテるぞ?一応ひよこのパンツでも都内一等地で黒字出してる開業医だからな。あの、のらりくらりした性格で寄ってくる女子をどん底に落としてかわして来た設定を柔くすると、そんなに暢気にしてられな」
「今のままでいいですっ!」
わたしの言った言葉を必死、といった感じで遮った茉莉は、ググッと身を乗り出して来た。
「だよなーまあ、わたしも全ヒーローの中でどれか選んで結婚しなきゃ殺されるってなったら、鈴木先生を選ぶもんな。アレ一番単細胞だからおだてておきゃいいだろうし」
「はあっ?たけちゃんは絶対あげません。ぜったい!」
「まあまあ、いいぢゃんか。分けてくれても」
「いやぁっ、おだてておけばとかいう人には指一本触れさせませんっ」
「茉莉だっていつもおっさんをおだててるだろー」
そう言うと茉莉は途端にしょぼくれた。いいなあ、おっさんは。こんなに想われていたら、本望だろう。色々と。
「茉莉はおっさんががこの先つるっハゲになっても加齢臭がしてもいいんだろ、愛だな、愛」
「……たけちゃんだったら、どんな姿も受け入れます」
「その愛情に心打たれたわー。よっしゃ、じゃあ某俳優さん張りの描写をしてやるぞぅ!任せておけー」
「だから、今のままでいいですっ!」
必死になった茉莉をからかって楽しんだのだが、それをニコニコ見守っていた大将はついにモツ煮を持っては来なかった。
全く、大将はペナルティだな。次は妙にカッコ良く描写してやる
新橋へようこそ・じっちゃんの場合
「おお、なんだおめぇ、いい店知ってんなぁ。おい、大将、ここのおすすめ教えてくんな」
「はい、牛モツ煮と、やきとり、最近はチャンジャも旨いです」
「ほおーん。そんなら、俺ァ、厚焼き玉子と、牛モツだな。酒は久保田の萬寿、冷やで頼むわ」
ちょっと待てこのジジイ、さりげなく高い酒頼みやがった。ちゃっかりしてると言うべきか、賢いと言うべきか、七十越えのじいさんは本当に侮れない。
「わたしゃ、生。あと生ハム生春巻きで」
あいよっ、と威勢良く大将は返事した。しかし、大将をかっこよく描写してみようかと思うが、ムーミンのようにぽっこりお腹でカッパ禿げの大将をかっこよく描写、ってうん、外見からは無理だ。内面も、まあ優しいが優柔不断とも言える。難しいな、こりゃ。
「えー黄綬褒章も受章したことのある、大家染次郎さん、新橋へようこそです」
「なんでぇ、改まってよう。俺ァ、大したこたぁしてねぇよ。毎日、毎日コツコツ仕立てやっただけだぁ」
「この道五十年の大ベテランが何を仰いますやら。やんごとなき方々にもファンが多いとお聞きしましたよ」
「まあ、近いからなあ。色々と重宝なんだろうよ。目と鼻の先だからなぁ」
「まあ、近いですよねぇ。車で直ぐ、ですもんね」
何か、はご想像にお任せしますが、このじいさんは結構な仕事をこなしている。男仕立てと呼ばれる仕立てが得意で、全身を使い、畳の上でまるで柔軟をしているかのように針を動かす。集中力が要る作業なのに店もやってるんだから恐れ入る。
「へい、久保田の萬寿と、生、牛モツと生春巻きお待ち!厚焼き玉子はもう少し待ってくださいねー」
大将は小気味よい音を鳴らして、目の前に次々と皿やコップを並べていった。箸立てから割り箸を取ってじいさんへ渡すと、おっ、ありがとさんよ、と返される。穏やかに乾杯すると、年輪を重ねたじいさんの人生を探るべく、話を切り出した。
「えーそめじいは、生まれも育ちもあの界隈ですよね」
「あぁ、そうだぁ。俺ァ薬問屋の次男坊だったんだがなぁ、商売しょうべぇはからっきし駄目でよう、小まい頃から近所の大家の親父が、真夏のあっつい時に仕立てやってんのを縁側からいっつも見ててな。そんで、やってみてぇなと思って弟子入りしたぁ」
「えっ、じゃあ、そめじいは養子、ってこと、ですか?」
「あれ、知らなかったのか。昔は良くあったことだぁ。俺んち八人兄妹だしな、一人くらい養子に行っても屁でもねぇ。大家の親父は子どもいなかったしなぁ。大家の親父は高校行けたら行け、って言ってくれてよ。修行しながら夜、高校も行った。あの頃はあの辺ものんびりした田舎でなあ、坂、多いだろ、昔は東京も冬、雪よく降ったんだわ。木っ端拾ってきてその上に乗って滑って遊んでたんだ、今じゃ信じらんねぇだろ」
「あんな都心なのに、田舎ですか」
「今みたいなビルがどんどん建っていったのはオリンピック頃からだな。都電だってあったんだ。新宿から半蔵門まで走ってて便利だったぁ。も一つ信濃町までの路線もあったしな。いやぁ、懐かしいわ」
そう言うとそめじいは萬寿をちびり、と飲んだ。戦中から今まで生きてきたそめじいは、あの辺りの生き証人だ。そういう話を聞くのは好きである。
「で、美子ばっちゃんとは何処で出会ったんですか」
「ばっちゃんとか。見合いだあ、見合い。昔は見合いが主流だぁ。千住で染物屋やってっとこの娘で、おさげが可愛くてな、いっつもにこにこしてて俺ァ、おっこちきれた。大家の親父とお袋もまだ元気だったから、家で気詰まりにならねぇように、結婚してから結構デエトしたわ。新宿で映画観て、高野で茶、飲んだりな。ばっちゃんはいっつもにこにこしてんだ。優しい女だったよ」
そう言うとそめじいはしんみりした。おっこちきれるとはぞっこん惚れてるって意味だ。お見合いで結婚した二人が、まだ低い建物が並ぶ新宿をデエト。想像するだけで素敵だ。
「そんで、美沙ねーちゃんと美妃さんが産まれたんですね。んで、色々あった、と」
「まあなあ、人生なんて上手くいかねぇことばっかだわ。予想外で、濁流みたいなもんだ。だけんども、まあ、今は花ちゃんも居るし、美沙んとこは順調だし、茉莉は気に食わねぇがたけんとこ嫁にも行ったしな。クソ大臣までくっ付いて来やがったが、それなりに幸せだ」
気がついたら厚焼き玉子持って、大将も隣でうんうん頷きながらそめじいの話を聞いていた。
「そうですか、それなりに幸せですか。で、本題に入るんですが、そめじいは美子さんと花さん、どっちがより好きなんですかね」
そう聞くと、そめじいは真剣な目になった。大将は厚焼き玉子を手にオロオロしている。テーブルに置け、大将よ。
「どっちもおんなじ位、好きで大切だぁ。縁あって俺んとこ来てくれたんだからな。長いこと一緒にいたばっちゃんも、これから一緒にいる花ちゃんもな。俺ァ、贅沢者か?」
「いいえ、そめじいはカッコいいです」
そうわたしが言うと、そめじいはキシシシと笑った。若いもんには逆立ちしても言えない、七十過ぎの酸いも甘いも嚙みわけたじいさんだからこそ許される言葉だと思う。
「おっ、玉子待ってたぞい。うんまそうだなあ」
「あっ、へっ、へい!お待ちぃ」
話に集中していた大将が裏声で返事して、そめじいと一緒に笑う。そめじいには是非とも長生きして玄孫を見て欲しい、そんな事をただ思った。
新橋へようこそ・旭の場合
「今晩は、お待たせしました」
猫かぶりの三谷旭は素晴らしく爽やかな笑みを浮かべて、小綺麗にリニューアルした立ち飲み屋へ現れた。テーラーが作るオーダーメイドのスーツって、今時は型紙もバッチリ若者向きのを揃えて、お客を捕まえて離さないように努力してるんだな、とかいいもの着てるとそれだけで男振りが上がるから詐欺だなあ、とか色々思うが、まあいい。
「営業モードヤメロ。マンションなら買わないぞ、買わないぞったら買わないぞ」
「まあまあそう仰らずに」
「うるさいな、奈々んちの辺りに建てている所は、全戸完売したんだろ」
「お陰様で、何戸かは抽選になりました」
「引越しはいつさ」
「二ヶ月後からです。息子も歩き始めたので、前庭で遊べる日が楽しみです」
「ほー、そりゃ良かったねぇ、旭、何飲む」
「同じものを」
「マスター、トカップの赤、ボトルでちょーだい」
マスターはあいよっ、と言いかけてかしこまりましーた、と上品に応えた。その腹は全く上品ではないが、ねぇ。
「ここ、バルになったんですね」
「そ、月光から星空へ引っ越ししたからねぇ。脳内新橋もリニューアルしてみた。北海道産の食材を使ってるバルなのさ」
「へー良いですね、北海道は出張で行ったっきりになってますよ」
「出張多いのかい」
「今の立場になってからは殆ど無いです。ここ何年かは東京を離れていません」
「旅行してないんかい。確か求人には年一回海外旅行って書いてあった様な気がするけど、どうなのよ」
そう突っ込むと、旭はがっくりした顔を見せた。無駄に赤ワインをくるっくる回しているし。
「海外は、子ども達が大きくなってからにしよう、と奈々が言ってます」
「まーさーかー」
「俺たち、相性がいいんですかねぇ………」
そう言って旭は黄昏た。いいんじゃないのか、そりゃ。
「まあまあ、命中率百パーセントにカンパーイ」
「………カンパーイ」
「これ、三元豚の生ハム、ワインに合うから喰いな。あとハードのブルーチーズも旨いぞ。有機ほうれん草のキッシュも今来るからな」
「………ありがとうございます」
「で、奈々のつわりはどうなのさ。またポテト祭りかい」
「あー今回もそうですね。明太ポテトサラダをモリモリ食べてますよ」
「で、嫌がられてるんだな、また」
「沖縄のハブの様になってますから。本当に近寄ったらキシャーって叫びますから」
そう言うと旭は虚ろな表情になった。まあ頑張れ。
「息子は俺よりお義父さんに懐いてますし、奈々はハブ状態ですけど毎日全員に見送られて、帰り着いたら出迎えられて労われているから、外で頑張って働く気になってるんでしょうねー俺。居心地良くて有難いです」
「まあ、マスオさんは色々気を使って、大変そうだもんな」
「お義父さんの人柄が穏やかなので、助けられています」
まあ、そのお義父さんが何故旭に優しいのかは知らぬが仏なのだがね。世のお母さんが成長した息子をうっとりと眺めるアレのようなもの、と小泉父さんご本人が仰っていたのだから、まあ、そうなんだろう。お互い大人だから、家族でもその辺はほじくり出さないという、良いバランスの元にこの家族は成り立っているな。
「今の仮住まいから引っ越したら、その頃には奈々も落ち着くだろうし、親父さんも庭作り再開出来るだろうし、楽しみだね」
「いやー、もう、実家出られて本当に良かったです。天国です」
「今回も育休取るの」
「取ります。社内でも俺が息子ので取るときに何人か巻き込んで育休とるようにしたら、取得率大分上がったんですよね。今回は息子もいますし、取らないとうちの母親が出しゃばってきますから」
「母ちゃん、苛烈だもんな」
「気が強すぎますからね」
某歌劇団出身で元売れない女優のかあちゃんは、ツンデレさんだからまあ、突っ込みがいのある素直な嫁さんのことは好きなんじゃねぇかな。
「きっ、キッシュでごぜぇまーす」
「ごぜえます、って」
「まだ慣れてないんだ。目をつぶってやってくれ」
ふるっふる震えた手で、マスターは白い皿をテーブルに置いた。焼き加減は絶妙だが、時間はかかり過ぎだな。旭は旨い、と言いながらキッシュを食べている。マスターのほっとしたような笑顔を見ながら、立ち飲みやの方が良かったか、と悩んだ。
羽根
羽根
彼女の背中にこれまでに見たこともない異変を見つけたのは、彼が先だった。
白い小さな羽根が腕を動かすための背の硬い盛り上がりの下に、ささやかに生えてきていた。
いつも彼女の身体を隅々まで愛し、触れ、抱き締めていた彼は、信じられない気持ちでうつ伏せに眠る彼女の背を見つめ、その羽根をそっと撫ぜた。
幾日か前から彼女は背中にむずかゆい感覚がする、と彼に困ったように告げてきてはいた。
なんとかしなければ。彼は焦る気持ちで思う。なんとかしなければ。
羽根が生える者はこの世界にそう多くはない。
しかしその大きな羽根で及ぼす影響は甚大だ。
羽根を持つものに接し続けると、押さえつけていた欲望を我慢出来ずに暴走する周りの人間が後を絶たなくなる。
人々は羽根が生えた者を隔離し始めた。楽園という名の施設に。
しかし、この情報化社会で楽園は決して居心地の良いものではなく、むしろ監獄のような処なのだ、ということは誰もが知る公然の秘密となっている。
彼は焦る。心から愛する彼女を監獄へ行かせたくはない。彼は焦る。
石畳が美しい模様の道沿いにその花屋はあった。
可憐な花や華美な花をショウウィンドゥに品良く並べて、大きな両開きの木製のドアを目一杯開き、その前に小さなブーケや可愛らしい寄せ植えが置かれて居る自宅近くのその店に、彼は初めて足を踏み入れた。
いらっしゃいませ。こんにちは。
穏やかな笑顔で沢山の白い薔薇を抱えていた彼女は、入って来たお客に挨拶をする。
明後日、花を作って欲しいのですが。
彼は感情の籠らない声と、表情で彼女に話しかけた。
はい、ありがとうございます贈る先の方はどのような方なのですか。もしよろしければその方のイメージでお作り致します。
一所懸命言葉を選んで話している、と分かる様子と緊張したように笑った彼女に、彼の頬は少しだけ緩んだ。
そうだな、建築家仲間の三十代の男で、彼は最近独り立ちをして事務所を開いたんです。そのお祝いのパーティで彼と彼の奥さんへ贈る花が欲しいのですが。
わかりました。それでしたらこのようなアレンジメントではいかがですか。
彼女が勧めたのは花束のように見える、それでいて花が自立できるアレンジメントだ。
これでしたら、花束としてご夫妻にお渡しして、その後長くお楽しみ頂けると思います。
ああ、ではこれで作ってください。
ありがとうございます。そう言った彼女は彼に花を見せながら、どのようなアレンジメントを予算はどのくらいで作るのかを確認して、注文を纏めた。
明後日、夕方ですね。お待ちしております。おずおずと彼女が差し出す丁寧に折りたたまれた紙片を、彼は微笑で受け取った。
二日後、彼は夕闇の中を洒落た格好で店を訪れた。
前々日には居なかった人の良さそうな中年の店主が注文書を受け取る。
こちらになりますね。如何でしょうか。出てきたアレンジメントは白と黄緑を基調とした、様々な色の花が盛り込まれているのに上品で控えめなものだった。
これは、この人がつくったのですか?
カウンターに置かれた注文書の担当者の欄を彼は指差す。
ええ、今日は早番でもう上がりましたがね。お気に召しませんでしたか。中年の店主は眉をひそめている。
いえ、逆です。とても気に入りました。彼はアレンジメントを受け取ると中年の店主に会釈して店を出た。
パーティで彼が花を夫婦に渡すと、二人は感嘆の声を上げた。嬉しそうに花を見つめる妻と、その様子を目を細めて見守る夫。仲睦まじい様子に彼は暖かい気持ちになり、何故か彼女を思い出した。一所懸命話して、緊張したように笑った彼女を。
それからも彼は事あるごとに彼女の花を色々な相手に贈った。何時でも彼女の花は喜ばれた。いつしか店の前で彼女が仕事をしていると軽く挨拶を交わす間柄になり、そのうちに当たり障りのない会話をするようになった。
彼女は彼の姿を見つけると、その白い頬を薄っすらと薔薇色に染めるようになった。物腰が柔らかく、穏やかな優しい瞳で自分を見つめる彼に、彼女は密かに恋をした。少しでも多く会話を続けたくて、必死に言葉を繰り出す。話が終わって彼が行ってしまうと、ぼっかりとした淋しさを覚え、また仕事を続けた。
ある日、彼は彼女だけがいる時間に店を訪れた。
いらっしゃいませ、あ、こんにちは!
沢山のダリアを抱えた彼女は彼の姿を認めるとぱっ、と明るい笑顔を見せた。
こんにちは、今日は花束を作って欲しいんだ。穏やかな笑顔で彼は彼女に注文をした。
ありがとうございます。贈る先の方はどんな方ですか。教えて下さればその方のイメージでお作りします。
そうだな、笑顔が可愛くて、いつもニコニコしていて。
はい。
一所懸命話してくれて、仕事は丁寧にする人で。
はい。
くるくると良く動いて、誰にでも優しくて。
は、い。
その人に僕は恋をしていて、その想いを告げたいと思っているんだ。
泣き出しそうな顔になっていった彼女は、もう返事をしなかった。
作ってくれるかな。
はい、お任せください!泣き出しそうな気持ちをぐっと堪えて笑顔で彼女は彼に応えた。
彼は珍しく細かく注文をしてきた。ピンクの薔薇を基調として、華やかで優しいそれでいて大きな花束を纏めている中、彼女は彼に聞いた。
あの、これだけ大きいとお値段もかなり。
いくら掛かっても構わないから。その薔薇も入れてくれるかな。彼は白と黄緑が美しいグラデーションの薔薇を指差す。
出来上がった花束は、大きいが丸みがあって素敵なものになった。
どうぞ。重たいので気をつけてくださいね。
ああ、ありがとう。
上手くいくと、いいですね。応援しています。
彼は頷くと店を出て行った。
彼女はその後悲しい気持ちで仕事に向き合った。何度かバケツに足をぶつけ、花バサミを床に不注意で落とし、いつも荒れている手はそんな不注意が続いたせいか、冬でもないのについにひび割れがぱっくりと開いてずきずきと痛んだ。
何も知らない店主に窘められ、頭を下げ続けた彼女は重い気持ちで仕事を終えた。不注意を続けた自分を心の中で責め、しょんぼりと夕焼けに照らされた石畳の道を歩いた。
こんばんは、仕事は終わった?
彼女が顔を上げると、そこには大きな花束を抱えた彼が夕日に照らされて立っていた。
あ、あの、どうしたんですか、告白は。
まさか上手くいかなかったのか。彼女は複雑な気持ちで彼を見つめた。彼の想いが届くように祈りながらもそうなって欲しくはない。そんな複雑な気持ちを彼に悟られまいと、必死で笑顔を作った。
まだ、これからなんだよ。仕事が終わるのを待っていたんだ。
そうなんですか、上手くいくといいですね。じゃ、失礼します。早口で言った彼女は彼に頭を下げるとその傍を通り抜けようとした。しかしその腕は彼にがっしりと掴まれた。
待ってよ。僕が待っていたのは君だよ。
え?
信じられない気持ちで彼女は彼の顔を見た。彼は真剣な顔で彼女を見下ろしている。
どういうことですか、え、何で?腕から手を離された彼女は、彼に向き直って聞いた。
花を捧げて告白したかったけれど、他の花屋で買う気にはなれなくて。でも仕事中に告白するのは駄目だろう?だから待っていたんだ。悪戯っ子のように笑った彼は、尚も彼女にこう聞いた。
何でそんな泣きそうな顔で歩いていたの。もしかして誤解した?
だって、あんなこと言われたら。
あれは全部君のことだよ。全部。いつも笑顔が可愛くて、仕事が丁寧で、一所懸命で、誰にでも優しくて、そんな君が好きだよ。付き合ってくれませんか?
彼は花束を差し出して来た。彼女はそれを涙と共に受け取った。
付き合い始めた二人はいつしか、一緒に暮らすようになった。彼は彼女の固い蕾を少しずつ愛してほぐし、悦びを染み込ませるように触れ、その身体に彼の形を刻みこんだ。彼女は彼の指に触れられる度に綻び、愛らしい声を上げ、彼を歓ばせ続けた。
彼女は彼の腕の中で彼が注文したあのアレンジメントが仕事をし始めて、一人で初めて作り上げたものだった、と教えた。
反応が見たくて、実はこっそり覗いていたの。名前を確かめられた時は心臓が止まるかと。
そんな告白を茶目っ気たっぷりにした彼女を彼は抱き締めた。
彼女と自分の子どもと穏やかな家庭を夢見るようになった彼は、彼女にプロポーズをした。
抱きついてその答えを示した彼女を、彼は思い切り抱きしめ幸せを噛み締めた。
あかぎれだらけだった彼女の手を案じた彼は、彼女に家庭の中で花を愉しむのを提案した。
好きなだけ花を買って、家の中を埋め尽くしてくれて構わない。そうしよう?
彼女は頷く。初秋に彼は自身が設計した新しく広いマンションを購入し、着々と彼女との家庭生活の為の準備をしていった。彼女は花嫁になる為の準備を、毎日彼が帰ってくるのを待ちながら進めていた。婚姻届は次の大安の日に出す予定にしていた。
そんな矢先の出来事だった。
羽根が生えてきている。次の朝そう告げられた彼女は、彼の腕の中で気を失い掛けた。
わたしは、楽園へ行かなければならないのね。
泣きも喚きもせず、虚ろな目で呟いた彼女を彼は力一杯抱きしめた。
行かせない、行かせたくない。ずっとここにいて。ずっとここで隠れていたらいい。
そんなの無理よ。羽根はどんどん大きくなる。羽音もするし、何より羽根であなたを狂わせてしまう。
行かせない、絶対に。駄目だ、あそこがどんなところなのか知っているだろう。
でも。そう言いかけた彼女の唇は激しい口づけに塞がれた。
泣きながら彼に抱かれ続けた彼女は、ベットの上で目を覚ますと彼が居ないことに気がついた。
どうする。どうすればいい。羽根の生えた者を隠し続けた者は、ことごとく逮捕されて実刑を受けている。彼を犯罪者にしたくはなかった。好きなことを仕事にして成功を収め、輝いている彼を彼女は尊敬していた。彼女が居なくなれば、彼は救われる。監獄の中で過ごす生活のことを考えると涙は溢れた。でも迷っている暇はなかった。発覚して七日のうちに役所へ通告すれば幾日かの猶予の後彼女は、楽園(エデン)へ行くこととなる。それでいい。自分に言い聞かせるように決意した彼女は、起き上がり服を着ると急いで荷物を纏めた。ほんの少しの着替えと、洗面道具、そして彼の写真を入れ、鞄を閉じた所でリビングの扉は開いた。
何をしているんだ!
鞄を持って玄関へ走り出した彼女を彼は抱き留めた。
放して、お願いだから!
こうなるんじゃないかと思った。良かった、急いで帰ってきて。
行かせて。あなたを犯罪者にしたくはないの。
駄目だ。行かせない。ああ、抱き潰しておいた筈だったのに。やっぱり足りなかったんだ。
なにを。彼の顔を見ると、仄暗い今までに見たことのない瞳をしていた。
次は間違えない。もう、ここからは出さないよ。
そこから彼女は彼に抱かれ続けた。彼女は細く長い鎖を足首に付けられて、彼は彼女の中に子種を吐き出し続けた。やめて、お願いだから。泣き叫んでも彼はやめない。何かに操られたかのようにうっとりと彼は彼女を抱き続け、彼女は何度も気を失った。少しずつ大きくなる羽根に彼は口づけて、うわ言のように綺麗だ、綺麗だよ。と彼女の名前と共に言い続けた。目が覚めると口に無理矢理何かを押し込まれ、咀嚼するよう促され、身体を清められる以外はずっとベットの上にいた。
彼女は彼の欲望が何であるかを身を持って知った。彼女を抱き続けて閉じ込めて身もこころも彼に縛り付けて離したがらない。狂気とも思える愛を心の奥底に沈めて生きていたのに気がついた。
彼女は仄暗い瞳で自分を抱き続ける彼を嫌いになどなれなかった。むしろこのまま甘美なこの空間に何時までも留まっていたいと思った。しかし、それは長くは続かなかった。
日にちの感覚が無くなりかけた頃、誰かが玄関の扉を叩いているのを微かに聞いた。しばらくして後、幾人もの屈強な黒い服を着てヘルメットと銃を持った男達が窓を突き破り、部屋を踏み荒らして動き回った後、白い防護服を着た人達が彼女の腕を押さえつけて背中を確認して、彼女の腕に注射を打った。
うわ言のように彼を傷つけないで、と叫びつづけた彼女の意識はあっという間に途切れた。
気がつくと彼女は白い小さな扉しかない部屋にいた。目覚めると無機質な喋り方をする白い防護服の男は、淡々と彼女は名前を取り上げられ、六百九十七番という数字で呼ばれることを告げた。
唖然としていると、すぐに検査をすると幾人もの白い防護服を着た人々に身体を押さえつけられた。彼しか触れたことのない箇所を長々と念入りに調べられ、白い防護服の人々の会話から妊娠を疑われていたのだと知った。彼等は質問をしても答えてはくれなかった。それでも彼女は尋ね続けた。彼はどうなったのか、と。教えて欲しい、と。
気の遠くなるような苦しみしかない検査がいつまでも行われ続けた。いつしか彼女は尋ねることをやめていた。誰も何も答えないし、話をしてはくれない。悲しみで胸は張り裂けそうになり、夜は固いベットの上で横向きに寝て、彼を想って泣いた。背中にある羽根をむしり取ってしまいたい衝動に何度も駆られた。しかし、彼女の手は一人にされる時にはいつも拘束されていた。羽根を傷つけないようにと、自ら死を選ばないように、だった。
ある日、彼女は白い小さな扉しかない部屋から出るように促された。白い防護服を着た人達に先導されて、手を拘束されたまま白い廊下を歩かされた。ガラス張りの扉をくぐり抜けて、久しぶりに窓を見た。外は一面の雪景色で、彼女はいつの間にか季節が変わっていたことを知った。
ここが今日から六百九十七番の部屋だ。
小さなベットと机しかない部屋に彼女は通された。部屋のドアには六百九十七と書かれたプレートが下がっていた。部屋には小さいながらも窓があり、一面の雪景色と青い空を見て彼女は激しい喜びを覚えた。
外の景色を部屋から見られるなんて。嬉しくて泣き出してしまいそうだった。
食堂と仲間を紹介する。ついてこい。
白い防護服の男にそう言われて彼女は顔を上げた。
仲間?
そうだ。羽根を持つ仲間とこれから一緒に暮らしてもらう。
彼女は何度も頷いた。
明るい光が高い天井から降り注ぐ食堂には、彼女と同じように羽根を持つ女性達と、持たない女性達が沢山いた。それぞれが様々なことをしていたが、彼女が白い防護服の人達に連れられて入って行くと、皆動きを止めた。どの女性も皆共通して、真白な髪で真白な肌を持ち、瞳はラベンダー色だった。
今日から一緒に過ごしてもらう、六百九十七番だ。
白い防護服の男は、彼女をそう紹介した。女性達は皆一様に彼女を見つめていた。
あの、よろしくお願いします。彼女はそう言って頭を下げた。
六百七十二番。白い防護服の男はいきなり誰かを呼んだ。はい。涼やかで美しい声が響く方を彼女が見ると、背丈は彼女より低い、それでいて同年代と思われる女性が立ち上がって返事をした。
六百九十七番の教育係はお前だ。
分かりました。女性は無表情に返事をした。その返事を聞いて彼女の拘束を解くと白い防護服の人達は引き揚げて行った。
六百七十二番と呼ばれた女性は、彼女の前に来ると長いテーブルにつくよう促した。女性の羽根は大きくて立派だった。背もたれのない椅子に座った六百七十二番の女性は、彼女に一番最初にこう言った。
ここに入るともう一生外の世界には出られないの。ずっとあの人達にわたし達は監視し続けられて行く。番号でしかお互いを呼び合えずね。自分勝手な行動をしたり感情的になって荒れると他のひとにもペナルティという形で迷惑がかかるようになっているの。入って来てまだ何も分からないかもしれないけれど、分からないことはわたしや他の誰でもいいから聞いて?
彼女は頷いた。
あの、外にいる家族や、友達のことは知ることが出来ますか?
女性は首を横に振った。
じゃあ、外の出来事は、一切知ることは出来ないんですか?
いいえ、三日遅れでほとんどが黒く塗り潰された新聞と、少しだけだけれどほとんどのページが切り取られた女性誌は見ることが出来る。本は古くからある物語と、あと小さな子は教科書ね。
そうですか。それでもあの白い部屋に居るよりはましだった。
あの、何故羽根のある人とない人が居るのですか?
羽根は、どうやら生え始めて少しずつ大きくなるにつれて全身の色素が変化して行くのよ。皆、白い肌で白い髪、薄紫色の目をしているでしょう?それが第一段階なの。その第一段階が済むとここに皆やってくるわ。そのあと一年位掛けて羽根は大きくなりつづける。それが第二段階。そして極限まで大きくなるとある日いきなり背中から羽根は分解されたようになくなるの。皆そうよ。羽根が無くなると他の人への影響は無くなるけれど、わたし達はここからは出られないの。
え?
外に出るのには受け入れる側に五百項目以上の制約がかかるのよ。それをクリアー出来て外に出ることが出来たひとは一人もいない。つまり羽根が生えていたものは一生ここからは出られないの。
そうですか。
ここで泣いては駄目よ。感情的になっていいのは自分の部屋だけだから。でもそこも監視されているけれど。
彼女は流れ出した涙を必死に手でこすって我慢した。
その後も女性は色々なことを丁寧に教えてくれた。一日の流れと食事、掃除、洗濯の当番があること、交代制で寝たきりになったかつて羽根が生えていた老婆達の面倒を見ること、いけないことを犯すとあの白い部屋へ入れられてより厳しい検査の実験体にさせられ、他の全員、もちろん寝たきりの老婆たちまで食事を二日間抜かれてしまうこと。
彼女は必死に覚えた。あの部屋で過ごすよりここに居る方がよっぽどましだった。わからないことがあって誰かに尋ねると、誰もが親切に優しく教えてくれた。そして彼女が知っている外での出来事を誰もが聞きたがった。特に羽根を持つものに関連した出来事はしつこい位に聞かれた。しかし羽根を持つものに関するニュースはそんなに多くは報道されず、彼女が知っていることは少なかった。女性達はがっかりした顔を見せるものの、誰も彼女を責めず大人しく引き下がった。誰もが家族や恋人のことを少しでも知りたいのだ、と彼女は思った。それは彼女も一緒だったから。
毎日沢山の新しいことを覚え、夜は彼のことを想って涙を流した。何時だって彼に会いたかったけれど、それは叶わない夢になっていた。毎日一緒に笑って抱き締めて、未来へ向けて何も怖くない幸せだった時間を思い出して自分を慰めた。
季節は少しずつ変わって行き、生活は毎日正確に繰り返され変わらなかった。たまに新しい仲間が増え、たまに誰かが逝くのを見送った。誰も自分のことを語ろうとはしなかった。当たり障りのない、何時も同じ会話を繰り返した。こっそりと六百七十二番の女性に尋ねると、誰もが苦しい想いを抱えて、誰かが言い出すと連鎖反応的に感情的になる。それを避けている、とのことだった。女性達は皆忍耐強く、優しく大人しい人達ばかりだった。それでもたまに誰かが暴れ出し、白い防護服の人達にあっという間に連れて行かれて、食事を抜かれた。中年の女性たちは心得ていて小さな子どもと老婆達にこっそり隠しておいた砂糖の小さな塊を与えていた。ずっと昔から続く、ここで生活をして行くための知恵だった。
たまにあの白い部屋に呼ばれて幾日かを掛けて、すみずみまで身体を調べられた。羽根は大きくなり続けていて重さも相当なものだった。やっと検査を終えて食堂へ帰ると六百七十二番の女性は羽根を失っていた。
ここからの人生が、長いのよ。そうポツリとつぶやいた六百七十二番の女性を彼女はただ黙って見つめた。
窓の外の景色が紅葉に染まりやがて一面の銀世界になる頃、ある朝目覚めると部屋の中は真っ白だった。沢山の羽根が狭い部屋の中でくるくると舞っていて、彼女は重すぎた羽根が背中から失われたことを知った。白い防護服を着た人達がなだれ込んで来ると、部屋の外に出され羽根はあっという間に掃除機のようなもので吸い集められて、舐めるように部屋中探し出されひとつも残されなかった。それまで着ていた背中が大きく開いた服は取り上げられ、普通の服を与えられた。久しぶりにブラジャーを着けた時、大きな何かを失った感覚が彼女を包んだ。ここからの人生、長い。その言葉が身に沁みて判った。
それからも流れ去っていくのは繰り返し変わらない日々だった。たまに誰かがアイスクリームやケーキをみんなで作る計画を立ててそれを心待ちにし、たまに誰かが暴れだして食事が抜かれた。
誰かを迎えて、誰かを見送った。夜は記憶の中にいる彼を抱きしめて眠った。いつからか彼女は彼が今幸せに生きていて欲しいと願うようになった。彼がどうなったか知らないことで、逆にそう思えた。
四度目の春の頃から、異変は起きた。新しい仲間が入ってこない。一年の内、四、五人は入ってきたのにぴたり、と止まってしまった。誰もが不気味さを感じ、荒れる者が増えた。幾人も続いた時には流石に食事の材料は提供された。古くからいる者たちは今まで起こったことがない、と頭を抱えた。
更に秋口から白い防護服の人々に呼ばれると帰ってこなくなる者がぽつり、ぽつりと出てきた。誰もが番号を呼ばれる恐怖におびえた。人体実験の犠牲になったのではという噂が流れ、荒れる者は更に増えた。
ある日、白い防護服の人達は六百七十二番の女性を呼んだ。彼女は教育係だから、と厳しいことを言いながらもいつでも励ましをさりげなくくれていたその人が、無事に戻ってきてくれるようこころから祈った。しかし、待ち続けてもそのひとが帰ってくることはなかった。
五度目の春を迎える頃、白い防護服を着た人達はまた食堂にやってきた。様々なことをしていた女性達はその姿を見て震え上がった。次は誰が呼ばれるのか。誰もが緊張して次の声を待った。
六百九十七番、ついてこい。
はい。読んでいた本を本棚に戻すと彼女は今まで消えた女性たちがしたように、皆に向けて一礼をした。
ガラスの扉をくぐり抜けて、白い廊下の白い部屋を通り過ぎた。彼女はその時点で命が消えるのを覚悟した。検査ならその部屋を使うからだ。痛いことじゃなければいい。それだけをぼんやりと思った。
防護服の人達は廊下を何度も曲がり長いこと歩かせた。そしてまたガラス扉の前まで来ると、そこにはふつうの白衣を着た男女が幾人か待っていた。
六百九十七番です。そう防護服の男は行って彼女をガラス扉の向こうへ促した。
やっぱり人体実験なのか、無表情で彼らを見た。
黒田日菜子さんですね。白衣を着た男が彼女を見ながら聞いた。
は、い?四年振りに呼ばれた名は、彼女の耳に違和感を覚えさせた。
あなたはこれから避妊が確実に行われるための処置を受けた後、ご家族の元へ戻ることになります。ついてきてください。
え、あの、それは、どういうことですか?混乱した頭で聞き返した。
ですから、処置を受けられた後、ご主人が待っておられますのであなたはお帰りになることができます。
ご主人。
はい、黒田凌平さんが待っておられます。
彼女は両手で顔を覆うと、そこで短い間泣くことを許された。
処置は普通の人であれば苦しがるところを彼女はただ淡々とこなした。終えて真新しい服に着替えるよう勧められ、終えると白衣の人々に先導され病院のロビーのような所に出た。他に誰もいないロビーには優しく笑った彼が立っていた。
待たせて、ごめんな。
言葉にならず彼女の頬は涙で濡れて、身体は震えた。
さあ、行こう。彼は彼女の手を取ると白衣の人々に少しだけ会釈をして、建物の外へ出た。正面玄関の目の前に横付けしてあったSUVの後部座席へ彼女を促すと、扉を閉めて自ら運転席へ座ると車を発進させた。
ヒナ、泣きすぎじゃないか?運転をしながら彼が聞く。
だって、だって!
目が溶けてなくなるんじゃない?悪戯っ子のように笑った彼に、彼女は更に涙を流した。
車を十分程走らせたところで彼は小道に入った。車が一台入って行ける位の狭い道を進むと景色は開けてそこには二階建ての家が姿を現した。
ここが、これから暮らす家だよ。
え、あのマンションは。
あそこにはもう住めないんだ。もうずっと前に手放している。あんなこともあったし。何よりあの施設から近い所を指定されているから、ここに建てたんだ。そう言って彼は家の前に車を横に付けると素早く車から降りた。
どうぞ、奥さん。
後部座席を開けて右の手のひらを差し出してきた彼に、彼女は泣き顔で笑った。
高めの天井に木がふんだんに使われたリビングには、沢山の花が飾られていた。大きめのL字に置かれたソファーと小さめの暖炉。窓の外は小さな芝生の庭があって、その向こうにはずっと草原が広がり更にその奥に青い海が春の日差しを受けて淡く煌めいていた。
ヒナ、ごめんな。ずっと待たせた。おいで、一度抱き締めさせて。
両腕を広げた彼の胸に躊躇わず抱きついた。涙は溢れて久しぶりに彼の匂いとすっぽりと包まれる暖かさを感じた。
夢、見ているみたい。どうしよう、夢だったら。
夢じゃないよ。ああ、長かった。やっと、抱きしめることが出来た。そう言うと彼は抱き締める力を強めた。
それから彼は彼女を抱き締めながらソファーに座り、彼女にとっては空白だった日々について話し始めた。この先のことを考えて彼は羽根が生えたのを知った翌日に、急いで婚姻届を提出した。勝手に出してごめんな。そう言う彼に彼女は首を横に振った。夫婦になっていた、そのおかげで彼は迎えに行くことが出来たとホッとしたように話した。
特殊部隊に拘束され捕まった彼は不起訴になったが、会社は追われることになってしまった。マンションを二束三文で売り払い財産の殆どを失った彼は、絶望に苛まれたけれど次々と建築家仲間が手を差し伸べてくれた。彼らは口々に同じことを言った。君は何時も仕事で助けてくれた。そしてあの日、君がくれた花束は我が家に幸せをもたらしてくれた。今度は私たちが君達に手を差し伸べる番なんだ。
花って、花が?
そう、あるひとはこう言った。『別れる道を選ぼうとしていた時に花束を貰って、花を見る妻の笑顔を見ているうちにもう一度やり直そう。そう思ったんだ』
そしてあるひとは、こう言った。『事務所を開設したばかりで、妻と子どもを持つことについて意見が対立してギクシャクしていた。そんな時にあの花がこころを和ませてくれて、穏やかに話し合い子どもを授かることに前向きになれたんだよ』と。
君の花束を相手に贈る度に、誰もが喜びの表情になって幸せそうだった。僕は君にも助けられたよ。窮地に立った時君が助けてくれた。ありがとう。
そう言って彼は優しく彼女に口づけた。
それからの彼は貰った仕事に手を抜かず黙々と働いた。どんな無茶な注文にも黙って耐え、小さい仕事にも文句は言わなかった。華やかだった頃からは考えられないことだったが、淡々とこなしているうちに少しずつ依頼は増えていった。それと並行して彼は同じように羽根が生えた者の家族を探し歩いた。何とか彼女を取り戻せないか、ということを模索するため仕事以外の殆どの時間を費やした。同じような境遇の家族や恋人は少しずつ集まってきた。手分けして調べた所、ただ一人だけあの監獄から家へ戻ったという年老いた男性を見つけることが出来た。資産家の息子だったその人は寝たきりになっていたが、どうやって自宅に戻ったのか話すのを渋った。何度も頭を下げる彼等にラベンダー色の瞳の老人はついに折れた。
羽根は一年程で消える。その後力は失われ本当は家族の元へ帰れるケースばかりなのに、楽園はそれを隠している。ラベンダー色の瞳の老人はそんな事実を教えてくれた。そこからは情報開示を求め、家族たちは地道に羽根を持っていた者の人権を回復することを訴えた。時にマスメディアに出ていき、時に署名を願って、楽園の現状を公開するよう求め、羽根を持たない者達の現状を暴こうとした。色々な所で議論され、ついには国会をも動かした。
彼は先頭に立って静かに訴えた。花の好きな妻と静かに暮らしたいだけなのだ、と。幸せだった日々を引き裂かれ、帰れる筈なのに帰して貰えない悲しみを理解してくれませんか、と。
賛同の言葉と共に批判も受けたが、彼はただ静かに訴え続けた。その時も建築家仲間は彼を助けてくれた。ついには羽根を持たない者を条件付きで家庭へ帰す決まりが出来た。楽園にほど近い所に居住地域を作り、家を自費で建て住むこと。子どもは持たないこと。検査を定期的に受けること。など細かいことも合わせると五十項目程の決まりを守るよう義務付けられた。
もっと早く迎えに行きたかったんだけれど、やりたかったことがあったんだ。
何?
家族にも色々な事情があって、ここいらに家を建てて仕事に行ける人ばかりじゃない。でも羽根が無くなったら自由に家族や恋人に会って住める場所を作りたいと、そう思ってね。もうすぐこの近くに出来上がる予定なんだ。
本当に、本当なの。羽根が無くなったら、楽園を出られる日が来るの?
そう、それで遅くなった。ごめんな。
彼女は彼にぎゅう、と抱きついた。あそこで制約を受けながら暮らし続けるより、ずっとずっといい。穏やかで優しい女性達とまた逢える日が来る。彼女の胸は喜びに満ちた。
凌平さん、ありがとう、本当にありがとう。
ヒナ、愛しているよ。おかえり。
それからも彼は仕事をする傍ら、色々なことを楽園へ求める活動をしつづけた。理不尽なことを無くして彼女と静かに、普通の人々がするような家庭生活を送るために。
こんにちは。彼は大きなアレンジメントの花束を手に、建築家仲間の事務所を訪ねた。
黒田さん、わ、凄いなあ。いいのかい、こんなに素敵な花束を貰っても。
ええ、三人目のご誕生を祝して、僕と妻からです。おめでとうございます。彼が花束を渡すと、ベテランの父親は相好を崩した。
いやぁ、ありがとう。奥さん、体調はどうだい?
あーこう炊飯している匂いが耐えられないらしくて。吐くことも多いですけれどあれって大丈夫なんですか?
大丈夫大丈夫。うちのもそんな感じだったよ。
後、良く、ぐうぐう寝ているんですが。あれって。
そういうつわりもあるらしいな。あんまり心配しすぎるなよ。どうせ黒田さんのことだ、嫁さんを過保護にしているんだろ。つわりが治まったら、どんどん身体を動かすように仕向けた方がいいよ。その方が安産になるから。
………そーですか。
頑張れよ、新米パパになるんだからな。
はい。彼は嬉しそうに笑った。
こばやし、こばなし