嘘
私達の間に嘘はなかった
「いとさん、私は必ず帰ってきます。生きて帰ってきます。」
けたたましく雷が鳴り響いている。
まるでおおきな岩をかち割るような爆音とは裏腹に、雨音は安らぎのように静かだった。
艶やかに葉を濡らす雨が、向かい合い、手を握り締め合う男女を優しく打ち付ける。男の声は酷く震えており、弱々しく、雷の音にかき消されてしまう程小さなものだったが、その言葉の裏にはどこか、燃えるような意思を秘めている。
頬を濡らすのは雨か、それとも涙か。
声が震えているのは、雨で体が冷えているからなのか、泣いているからなのか。
それは両者とも分からぬまま。
「弥三郎さん、ああ、弥三郎さん。」
震えた声を出しながら、男に縋り付くように手を握り締める女。
恐らく二人共泣いているのだろう。だが、ふたりの間では最早そんなこと気に止める余裕はとっくの昔に置き去りにされていた。雨の騒音も、大地を焼き尽くそうとするような稲妻の音も、二人を取り巻く感情の間では、道端に転がる小石、いやそれ以下にしか過ぎないのだ。
「死んではなりません、決して、こんな醜い時代に殺されてはならないのです。」
罪を背負う言葉になる事を承知で、女は大声で叫ぶようにして泣き付く。
こんな雨の中、二人の存在を気に止める者もまた、この二人のようにいない。例え禁忌の言葉を叫ぼうとも、暴言を吐こうとも、何かを訴えようとも、それを耳にする者は誰もいないのだから、二人が何かを叫ぶとしたら今この時しか無いのでであろう。
「弥三郎さん、私は構いません。いいのです。私の元へ帰ってこいとは、私は言いません。ただ、貴方が生きてさえ居てくれれば私は構わないのです」
「いとさん!」
「何も言わないで。分かっています、私は愚かです。けれど貴方を愛しているのは変わらないわ。」
まるで取り乱すように咽び叫ぶ女の肩を、男は抱き寄せた。
雨で冷えた体に密着した二人が、雨が降っていたと気づくのはこの時だ。
たった今自覚したそれに、小さく身震いをする。
「いとさん、いとさん」
手探りで何かを探し求めるように、男は女の名を必死に呼んだ。
その声は情けない程に酷く震えている。消え入りそうなその声に、女は応えるようにして咽び泣く。
「いいのです、貴方が生きていてくれれば私は構わないのです。その時貴方の傍に他の女がいても構わないのです。私の元に来なくてもいい、むしろ、生きるためなら私の事等忘れていいの。」
「いとさん、それは私も同じことです。貴方は生きていなければなりません、死んではなりません。」
「ああ、弥三郎さん。愛しています。ごめんなさい。私は嘘を言いました。」
「私もです、私も貴方に初めて嘘を吐いた。」
大きな雷音が鳴り響いた。
それはまるで張り詰めた糸を、鋏でぷつりと切ってしまうかのように。
そしてそれは、合図の様に抱き合う二人を引き離す。
「戻ってきて欲しい!私のところへ、他の女と笑い合う貴方なんていらない!」
「私も、私もです。私だけをひたすらに待っていて欲しい。そうではない貴方ならば、死んでしまえばいい!」
体を離した二人は、静かに見つめ合いそう言った。
雨か、涙か、どちらか分からない液体でひどく濡れた二人の頬は青白い。
寒さに震える体すら気にも止める余裕等勿論、存在する意味すら、この瞬間は持たななかった。
「…最後の我侭です。」
「はい」
「また、私のところへ戻ってきて、また私の傍で、私の我儘を聞いてください。」
「はい」
「愛しています」
「私もです」
互の震える唇が音を発さなくなったのを見届けると、名残惜しそうな瞳をただ揺らし背を向け合う。
そして初めて、己の凍えてしまうかのような体温の低さに気づき、どうしようもなく泣きそうになった。
互を求め合っていなければ、互いを呼び合っていなければ、こんなにも己は冷たく、小鹿のように震えることしかできない。
自分が情けなく泣き喚いていることも、自分が体を震わせていることも、背を向けなければ気づけないだなんて。
「私は貴方がいないと息すらできないのです」
雨音にかき消された声は、互の耳に届くことはなかった。
嘘