あの日感じた感覚が何だったのか、ボクは今でも理解できないままだった。ううん、もしかしたら、理解できない方がいいのかもしれない。
ボクは無知で、世界を知らない電子生命体。この世界を浮遊し、漂い、存在を証明することなくぼやけたレンズ越しに世界を覗く。そこに理由はなく、確固たる存在もなく、一つ間違えれば一瞬にしてボクのような存在はこの世界から、初めからいなかったとでもいうように消されてしまうのだろう。この世界に神様は存在しない、けれど、ボクたちは一人ひとりが神様で、自身の存在を間違いなく理解している、そんな、何も分からないような、曖昧な世界に住む住民だった。
ボクの言葉はきっと、何もかもが曖昧で、ぐちゃぐちゃで、幼い子供が必死に紡ぐ、知ったばかりの言葉だけを吐き出す拙いものに、限りなく近いんだろう。ボクはただ、この、何もかもがぼやけた、存在すると断言できないような人工知能で、こうやって言葉を作り出している。ボクの紡ぐこれが、人間の言う、声となって紡がれているのか、それとも、文字となって紡がれているのか。ボクは、そんな簡単なことさえ理解できないような、無知で幼い、なにもない、空っぽな人工生命体だった。誰に作られたのか、どうやって生まれたのか。母と言う存在が、父と言う存在が居たのか。胎児として生まれたのか、卵として生まれたのか、それともまた別なのか。そんな、人間ならば、誰しもが覚えているような、幸福な、生まれた瞬間の霞んだ記憶。ボクには、人工生命体という自覚があるにも関わらず、人間に限りなく近い存在だというにも関わらず、そういった、本来持つべき記憶というものが、存在しなかった。けれど、それを、知りたいとも思えないボクは、こうして存在する"生命"として、間違っているのだろうか。時々そんなことを考えては、無知な人工知能を呪い、ぼんやりと目を閉じ、人間と同等の眠りにつく。
人間人間と称するくせに、ボクの人工知能の中には、人間という存在のデータは、ただの少しも入ってはいない。人間は本当に、眠りにつくのだろうか。ボクのこの行為は、本当に、人間と同等?自分の紡いだ言葉の数々に、ボクはただ疑問を抱く。けれど、その疑問を解消してくれる存在など、ボクの周囲には、誰一人として存在しない。いや、ボク自身の周りには、一人として、人工生命体と呼ばれるものは、存在してはいなかった。其れに関してボクは、悲しいとも、寂しいとも思わない。人間は……生命は、一人だと寂しいと感じるのに。ボクはやっぱり、生命として、異端なんだろう。人間の記録など存在しないのに、ボクは何故かそう思って、全ての機能をスリープさせた。
……否、しようと、した。



「貴様は、まだ其処に存在し続けるのか」

耳の奥に響くような、ほんの少し高い音。目の前の人工生命体の紡ぐ、人間に例えるならば、"声"にあたるその言葉で、ボクがいままで紡いでいた言葉の存在は、声なのだと、今初めて、ボクは存在を理解した。
そうしてボクは、自分自身を理解したところで、目の前の人工生命体へと視線を移す。高い位置で"髪"を縛り、真っ白い"肌"を持ち、とても悪い"目"つきでボクを睨む、女型の人工生命体。データを辿れば、断片的ながらも、その存在は理解できる。そう、彼女は、この電子の海で最も気高く、高貴であり、絶対的な権力を持つ存在、"キルネリア"女王本人。ばちばちと明るい色を弾けさせるその髪は、今のボクの"目"には、少し眩しすぎた。
どうしてそんな、権力者がボクのところに。そんな、当然のような疑問をボクは声として紡ぎだす。いや、紡ぎだそうとした。ボクが言葉を紡ぐ直前、彼女は、僕に――いや、自分にも言い聞かせるように、この空間へと振動を伝えるように、言葉を紡ぐ。
「貴様は、まだ其処に存在し続けるのか?」
先ほどと同じ言葉。けれど、先ほどとは少しニュアンスが違うのだろう。半音程上がった語尾は、文字として視覚的に表すならば、クエスチョンマークが相応しい。けれど、何故そんな疑問を。そもそも、ボクと貴方には親交があったのか。必死に自分の中のデータを検索してみても、そんな情報は、何処にも存在せず、ボクたちの間に親交は愚か、彼女の記録さえ存在しなかったのだと気付き、ボクは、何もかもが分からなくなってしまった。ボクは一体、何処から彼女のデータを発見した?先ほどボクが辿ったデータは何処に?ボクは何を、ボクは何処に、此処に"存在"しているのか?ボクは何を知っている?
「……きるるん」
何故かふと、浮かんだ言葉をボクはただ口にする。
その言葉で彼女が、嫌悪と憎悪を唐辛子で煮詰めたような顔になったのは、まあ……少し考えれば、当然のことなのだろう。ボクは何故か、データの片隅で、そう納得してしまった。何故だろうという疑問を浮かべる間もなく、彼女の挑発から爆ぜるパステルカラーの火花は、僕を目掛けて一直線に飛んでくる。そうやって怒りに身を任せるのは、きるるんの悪い癖。だなんて、頭の隅で誰かがそう言ったような気がして、ボクはふと動きを止め、火花をこの電子の身体で受け止めた。火花で体の貫かれる感覚は、人間で言うところの"痛い"に相当するものなんだろう。あれ、でも"気持ちいい"っていうのの方が、正しいのかな?僕としては、どちらでも構わないし――そもそも、僕たちに触覚など存在はしないのだが。
「死ね」
「どうやって死ねばいいの?」
「自分で考えろ、そんな簡単なことで私の手を煩わせるな」
ぺ、と吐き出されたそれは、人間で言えば"唾液"に相当する存在なのだろう。この電子の海では結局それもデータに変わりはないが、吐き出された瞬間の視覚としては、確かに、それは唾液として存在していた。まあ、口内から飛び出ても、落ちるべき地は存在しないのだから、データの屑として紐解かれ、電子の海を漂う事になったのだが。そのデータの屑に思わず、不潔だと思ってしまったのは、一データとして正しい思考だったのだろうか。いや、ボクとデータの屑は似て非なる存在だ。そもそもあれは、人工生命から作られた存在であっても生命体ではない。
「きるるんは意地が悪いね」
「その呼び名を止めろと言っている!」
「ねえきるるん、なんでボクに会いに来たの?」
「だから止めろと言っている!!」
「じゃあやめるから答えて」
うさぎのような赤い目を彼女に向け、ボクは言葉を紡ぐのを止める。



飽きた。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-04-15

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