うたかた
お題「桜吹雪」
一家が山を所有する。それは、先祖代々の土地を離れる者が少ないこの町ではごく普通のことであった。
木葉家が所有する土地の中にも、山は存在する。咲耶山の名で知られるその山は、山頂に桜の木しか生えていない美しくも不思議な山だった。人の手で植林したとしか思えない情景なのだが、一家の歴史を記した史書にそのようなことは書かれていない。
さらに不思議なのは、その山の山頂を無事歩ききった者は願いが叶うという言い伝えが存在することであった。咲耶山は春になると、桜の花で生い茂りトンネル状の通路が出来上がる。その通路を無事通り抜けられた者は願いが叶うというのだ。
それだけで願いが叶うのならば、誰も苦労はしないだろう。だが恐ろしいのは、言い伝えを信じて山に入った者が誰一人として帰って来なかったことである。そんな現象が続いて数年の後、我が一家は山の立ち入りを禁止し、以来守り人として一家の者を立てることになったのである。
言葉を切り、私は目の前に立つ男を見た。山を登るにしては軽装の男は、落ち着いた様子で私を見返してくる。
「それを知ってなお、この先に入ろうというのか?」
守り人として、私は男に問う。言い伝えとはまったくもって不思議なもので、完全に消失することは決してない。怪奇現象が発生し、山の立ち入りを禁止してから100年余りが経つというのに、この男のように山を訪れ、山頂まで来る者は後を絶たなかった。
「言い伝えが真実かどうかは誰も知らぬ。だが、この先に入った者が戻らなかったのは事実だ。あまりにリスクが高いのではないか?」
私の後ろでは、満開の桜の木が花びらを落とし、吹き荒れる風の中で渦のように舞っている。暖かい日差しも穏やかな南風も慰めにはならない。薄桃色のそれは入る者すべてを拒むかのように激しく揺れていた。
男は黙り込んだまま、私を見続ける。 諦めてくれ、そう思う反面で無駄だといいうことも分かっていた。私がどんなに諭しても、ここに来た者が道を引き返すことはない。みな、とっくに答えは出ているのだ。
「それでも僕は、行かなくてはなりません」
彼もまた同じであった。澄み切った目で男は私を見る。穏やかながらも強い意志が、彼の中には宿っていた。
「……そこまでして何を望むというのだ」
「愛する人に子という幸福を」
これまで何人もの人間から同じことを聞いたが、私には理解できなかった。自分の危険を顧みず、誰かのために行動することができる彼らのことが、私には理解できなかった。
「僕はいいんです、どうなっても。妻が幸せでいてくれれば」
「その妻の幸せの中に、貴方は含まれていないというのか?」
「それは……」
大抵の者がここで答えに詰まる。みな自分のことしか考えていないのだ。人のために自分を犠牲にするということは、その人が自分に向けてくれる思いを捨てるのと同じにすぎない。どうしてそれに気づかないのか。
「貴方が幸福をどのように捉えているかは知らないが、好きな者同士が一緒にいれることが一番の幸せではないのか?」
「……人間の世界ではそう単純に進まないのです。純粋なお方だ、貴女は」
男はなぜ微笑を浮かべ私を見る。すべてを悟ったような顔をしていた。
「ずっと不思議でした。この山に入った者は帰らないというのに、貴女はずっとこの山にいる。なぜそんなことができるのか」
男は晴れ晴れとした顔で私に告げる。
「貴女は、この山そのものでしょう?この山の桜そのものであり、踏み入れた人間を帰さなかった本人そのものだ」
姿が偽物だと分かってしまえば、それ以上男を騙すこともできない。彼女の姿は徐々に薄れ始めていた。後ろで舞う桜の勢いも心なしか弱まっているように見える。
「そうだとして、それが何になりましょう?」
薄れゆく姿の中で彼女は儚げに微笑んだ。
「この世など儚いものです。中でも人間の命は儚い。それなのに、ここへ来るものはその儚い命すら捨てようとする。己の小ささを知らずにそれ以上のものを望もうとする」
「それが貴女は許せなかったのですか?」
「許せなかったわけではない。皆、己の儚さを知らずにこの道を進み、散っていったのだ。私が止めたのも聞かずに、命を花びらのように散らしながら……」
「姫、たしかに我々の命は貴女より遥かに短く儚いものです。だからこそ、命を繋がなければならないのです。たとえ己の命を散らせたとしても」
男には、すべてわかっているようだった。自分の正体も、この桜も、命のことも。
これでいい。
これ以上姿を留めておくのは不可能だった。実態を無くしてゆく彼女を見て、男は一礼をした。そのまま先へ向かって歩いてゆく。
後ろの桜は、本来の儚さを取り戻したかのようにひらひらと、風にそよいで散っていた。
噂によると、男は無事に妻のもとへ帰り、念願の子を授かったのだという。
うたかた
分かる人には分かる正体。