風の坂道
八月最後の木曜日、哉はそのパン屋の前を通りかかった。
三日前に出産を終えた妻を見舞いに行く途中の、空まで続くのかと思えるほどに長い石段を、汗だくになって昇っている最中、高台の住宅地にぽつんと建つその店を見つけたのである。周囲は似たような造りの二階家が軒を連ねていて、その店は明らかにまわりにそぐわない異なる雰囲気を醸し出していたが、焼き立てのパンの香ばしい匂いと、小さいがいかにも愛情を注いで造られたと思われるつつましい佇まいに惹かれ、哉は歩を停めた。
もし、妻の出産という人生の一大事がなかったら、そんなパン屋のことなど気にもせず進んでいただろう。自分と同い年の二十歳で、複雑な事情を抱えたまま赤ん坊を生んだ妻のことをふと思った。哉は、妻と生まれたばかりの赤ん坊に逢うことを半ば恐れて、今日も駅からバスもタクシーも使わず、残暑の厳しい午後の陽光の中を、山道と見紛うほど長い石段を昇っているのである。
哉は、そのパン屋の中へ、吸い込まれるようにふらふらと入った。香ばしい匂いは強くなり、哉の鼻先をくすぐった。店内は、カウンターの中のショーケースにパンがすべておさまっていて、ガラス窓もショーケースも丁寧に磨かれ、カウンターの中に若い女がひとりいて、愛想よく、主婦と思しき買い物客の相手をしていた。
居心地のいい店内にあって、哉の心は次第に虚ろになっていった。パン屋には後ろめたい思い出があり、それは恵まれたとはいえない彼の少年の頃に繋がっているのだった。
「何かお探しですか?」
若い女の店員に声をかけられ、はっと我に返ると、店内にいる客は哉ひとりになっていた。哉は何のために店に入ってしまったのだろうと慌てながら、ショーケースのパンを見回した。さまざまな形のパンが、美味しそうに焼きあがって整然と並んでいた。女店員は、哉がどのパンを買おうか思案していると思い込んだようで、にこやかな顔で注文を待っている。
パンの香ばしい匂い、明るい店内、自分の手を握って放さない小さな白い手……。哉は、突然、記憶が映画のフィルムが回るように脳裏に甦ったことに戸惑いつつ、イギリスパンを半斤買って、また外へ出た。少しの間、店の名前のロゴが印刷された紙袋にぼんやり目を落とした。
妻の毬絵が爆弾発言をしたのは、今からちょうど三か月前のことで、仕事を終えた哉が、それまでもう何冊揃えたか分からない育児書や胎教の本などをまた買い込み、勇んで帰宅した夜だった。妻というのは建前で、実際には結婚しないまま一緒に暮らし始めて一年とたたないうちに妊娠した毬絵は、語学の権威である有名な私立の女子大に通っていたが、今は休学し、出産に備えていた。育児が一段落したら復学するつもりだというので、哉が、大学はすっぱりやめて育児に専念してはどうかと仄めかすと、いつになく強く反発し、自分は手に職をつけて一生働きたい、そのために勉強するのだと訴えた。哉はその時から、何か不審なものを感じていたのだが、深く追及せずこの日まできてしまったのだった。
帰宅した哉を出迎えた毬絵は、落ち着きなく立ったり座ったりを繰り返したのち、何かを吹っ切ったように、
「お腹の子は、哉の子どもじゃないの」
と言ったのである。
哉の背中で、突然シャッターが下ろされた。驚いて振り返ると、たった今パンを買ったばかりの店が、もう店じまいをしていた。女店員が、半分だけシャッターを下ろし、また店内へ入った。まだ午後三時を回ったばかりなのに、もう店を閉めるのかとびっくりして、シャッターのまだ下りきっていない隙間からそっと覗き見ると、さっきの若い女店員が、レジの前で何やら忙しそうに作業していた。哉は気を取り直して、再び石段を昇り始めた。目指す病院は、すぐ目の前だった。
そこは、想像していた以上に大きくて近代的な病院だった。中庭には綺麗に整備された芝生や、子どものための遊戯道具もあり、ところどころに大きな木が植えられ、その下にベンチがしつらえられて、腰かけて談笑している人たちの姿が見えた。哉は、少しためらった後、大きなロビーに入り、外来と書かれた受付へ行って、不愛想な受付係に名前を言い、病室を訊ねた。産婦人科へ行って聞いてほしいという不親切な返答をもらい、エレベーターの場所を聞いた。病院は外来でやって来て診察の順番を待つ人々で混み合い、受付もかなり忙しそうであった。
哉は、教えられるままにエレベーターを探した。やっと見つけて、それに乗り込もうとした時、ふいに毬絵に打ち明けられた夜の惨めさや憤りが甦って足がすくんだ。エレベーターに乗るのをやめて、哉はまた病院の外へ出た。残暑の厳しい日だったから、中庭を散策する人は少なかったが、木陰におかれたベンチはほとんど人が座っていた。哉は、毬絵の顔を見る前に、少し休憩し、気持ちを落ち着けておきたかったから、どこか空いているベンチはないものかと辺りを見回した。どこかで見たような顔を見つけ、あれっと思い、そっと窺うと、さっきのパン屋にいた女店員だった。哉がパンを買って店を出たのが三時で、今は三時半を回ったばかりだったから、あの女は、自分が立ち去ってからすぐ店のシャッターを全部下ろし、売上げを計算し、後片付けを済ませてあの石段を昇ってやって来たのだ。
哉は、ちょうど目の前のベンチが空いたので、そこに腰を下ろし、女の様子を見るともなしに窺った。女は、店に立っていた時とは打って変わって何やら思いつめた表情でベンチに座り、病棟を見上げていた。そこは病室の窓が一面に並んでいて、哉は、女が誰からの見舞いにやって来たのに、どうしても病室に入れない事情があるのだろうかと推測し、すぐそんな自分を笑った。どうしても病室に入れないのは、自分のほうではないかと思ったのだった。だが、いつまでもここに座り込んでいるわけにもいかない。
そう思いながら、哉はベンチから立ち上がれないまま、またパン屋の女のほうを見た。女は、哉より二、三歳ほど年上に見えた。パン屋のカウンターに立っている時には分からなかったが、鼻筋も通って、色の白い上品な横顔だった。肩より少し長い光沢のある黒髪を無造作に下ろし、手には何も持たず、哉が着ているようなTシャツとジーンズを身に着けていたが、彼女が着るとカジュアルでも清楚な、それでいて野暮ったくない垢抜けた雰囲気があった。哉は、その女のどこか切羽詰まった端正な横顔をどこかで見たような気がした。誰か知り合いと似ているのだろうかと思い、横顔に見入った。視線を感じたらしく、女がこちらを振り返ったので、慌てて視線をそらせた。そのそらせた視線の先に、また見知った顔を見つけた。今度こそ本当の知人だった。
「なんだ、小川か?」
「……前田さん」
哉は立ち上がり、パジャマ姿で中庭を歩いていた、中年の男に近寄った。
今年の春から、哉が勤め始めた洋食屋で厨房を仕切っているシェフで、十日前に盲腸で急きょ入院していた。店のオーナー夫妻はよく見舞っているようだったが。哉はお見舞金を他のスタッフと共同で包んだだけで、見舞ったことはなかった。
「俺の見舞いに来てくれたのか? ひとり?」
「前田さん、ここに入院してるんですか」
「おう。うちから一番近いんだ、ここ」
前田は目尻に皺をよせ、朗らかに笑った。盲腸で倒れた時、あと少しで腸が破裂するところだったと、哉は見舞いに行ったオーナーから聞かされた。前田は仕事場では遠慮なく新人達を怒鳴りつける、厳しい職人気質な男だが、こうして病院の中庭で、よく肥えた大柄な体にパジャマという姿で逢うと、前田がひとまわりほど小さく、弱々しいただの病人に見えた。
ふたりは、哉が座っていたベンチに腰を下ろした。例のパン屋の女は、周囲の様子にはまったく関心がないといった素振りで、黒目がちな大きな目を建物へ向けたままだった。
「具合はもういいんですか?」
「ああ。大したことねえよ」
「でも、破裂するところだったって」
「……坂本さんだな」
坂本さんというのは、オーナーの名前である。
「はい。奥さんも心配してました」
前田は軽く舌打ちして、あのおしゃべりが、とひとりごちた。
「お客さんも寂しがってますよ。名物シェフがいなくなってつまんないって」
「ふん」
前田はつまらなそうに鼻を鳴らし、哉のほうを向いたが、ふいに哉の肩先へ視線を泳がせ、あれっとつぶやいた。
「……また来てやがる」
哉はどきりとしながら振り向いた。前田は、例のパン屋の女を見ていた。そして、哉の手元にある紙袋に目をやって、
「そのパン……」
「あ、はい……ここに来る途中で……あ、前田さん、一緒に食べませんか」
「ばかたれ。俺は今、食えなくて気が立ってんだ。んなもん、見せるな」
「あ、そっか……すいません」
それより、と前田は急に声をひそめて、
「あの女、パン屋にいただろ?」
「あ、はい……前田さん、どうしてパン屋のこと知ってるんですか」
「うちの女房が教えてくれたんだよ。あの女、毎日ここ通ってんだぜ」
「毎日?」
「俺は十日前にここに運ばれてきたけど、同じ部屋で、もう二年くらい入院してるじいさんがいるんだけど、そいつが教えてくれたんだ。今年のはじめくらいから毎日来てるんだって」
「今年のはじめから?」
その哉の声が大きかったらしく、女がちらっと哉と前田のほうを見た。ふたりは慌てて視線をそらせたが、女は気を悪くしたようで、立ち上がり、ふたりには一瞥もくれず立ち去った。前田は、女の姿が見えなくなると哉の頭をかるくはたいた。
「ばかやろう、聞こえちまったじゃねえか」
「……すいません」
「あの女、病院の中庭までは来るのに、建物の中には絶対入らねえんだと。じいさんも気味悪がってるよ」
「……へえ……」
「パンは美味いって評判いいらしいけどな」
「うちの店で使いますか」
「……それいいかも。坂本さんにそのパン食わせるか」
前田はおかしくてしょうがないといった調子で笑い、急に顔をしかめて片腹を押さえた。
「あっ、前田さん、大丈夫ですか」
「うるせえ。大したことねえよ」
「無理しないでくださいよ」
「女房みたいな口をきくな」
「……あの女、明日も来るんでしょうか」
「知らねえよ。来るだろ。毎日来てるんだから。気になるのか?新婚のくせに」
「そんなんじゃないすよ」
「あの女、結構美人だからな。隣のベッドにいる若いやつが、自分のいとこに似てるとかいって、あれが来るの楽しみにしてるみたいだけど」
哉は目を瞠って前田を見つめた。前田は丸い顔を不審げにしかめて、
「何だよ、どうかしたのか?」
「あ、いえ……何でもないです」
それから十分ばかり世間話をして、前田は病室へ戻っていった。哉が送っていくと言うと、前田は笑って断り、ひとりで歩いて行った。
前田が建物の中をへえ入るのを見送った哉は、そのまま手に持っているパンの紙袋に目を落とした。パン屋の女が誰に似ているのか、さっきの前田の言葉で思い出し、茫然としていた。顔立ちや年齢は異なるものの、あの女は六年前に離ればなれになった、自分のたったひとりの妹に似ていたのである。
哉の両親は、中学二年生の冬に離婚を決め、とりあえず、母親が身の回りの物を持って出て行った。それから三日ほどたった、ささくれだった冷たい風の吹く日、哉は、七つ下の妹の早智子の手を引いて、親戚の、子どものいない夫婦の家へ向かった。早智子がその夫婦の養女になることが決まり、家まで送って行く役目を押し付けられたのである。早智子は、諍いばかりしている両親に怯え、父にも母にもなつかず、兄の後ろにぴったりくっついて離れない子だった。病弱なたちで、同い年の子ども達より体も小さく、透き通るような白い肌の、なかなか整った目鼻立ちをしている妹を、哉はかわいい反面、鬱陶しく思ってもいた。それでも、両親の身勝手な都合で養女に出される妹が、やはり可哀想でならなかった。両親には、それぞれにつきあっている恋人がいて、新しい人生を歩むのに、病弱で可愛げのない娘など邪魔なだけだと言わんばかりに親権を放棄したのである。
早智子は、はじめこそ、大好きな兄と一緒に、手をつないで歩いていることが楽しくてしょうがないといった感じではしゃいでいたが、嫌な役目を押し付けられて不機嫌になっている兄の様子に不安を抱いて、しきりに、どこへ行くのかと訊ね始めた。
「……ねえ、お兄ちゃん?」
「……」
「……どこ行くの?」
まだ十四歳だった哉は、まだ七歳の幼い妹に何と言ってやればよいか迷った。父からは、本当のことを言えとも、また言うなとも言われていない。父はいつもの素気なさで、早智子を連れて行けとしか言わなかった。
「……お母さんのとこ?」
「……」
「……お母さんのとこ、行きたくない」
「……家に帰りたいか?」
「……帰りたくない」
「じゃ、どこ行きたい?」
哉がそう聞き返すと、早智子は返答に困ったように黙り込み、しょんぼりと歩き続けた。
「正直に言っていいんだぞ。家にも帰りたくないんだろ?」
早智子はうなだれたまま、小さくうなずいた。お下げにした後頭部の、髪の分け目からちらっと見えるか細いうなじが、早智子の不安や寂しさを訴えているように見えた。
「……もう、家に帰らなくていいんだよ」
哉はうなだれている早智子を見ているうちに不機嫌さが和らぎ、つとめて明るい声を出して、幼い妹の憂鬱を晴らしてやろうとした。
「ほら、田中のおじさんとおばさん、覚えてるか? あのおじさんの家に行くんだぞ。早智子、あそこのおじさんとおばさん、好きだろ?」
早智子はうなだれたまま、
「……お兄ちゃんも一緒?」
と訊いた。
「……兄ちゃんも一緒だよ」
「お兄ちゃんと、一緒に帰れる?」
「……一緒だよ。一緒に帰ろうな」
哉はついそう言ってしまった。早智子は疑わしそうに、大きな黒目がちの瞳を潤ませて哉を見上げた。哉はそんな幼い妹から顔をそらせ、さっさと歩いた。両親への憎悪が湧き上がり、爆発しそうなほどに膨れ上がった。
「……お兄ちゃん」
ふいに早智子が立ち止り、指さした先に、一軒のパン屋があった。
「何だよ、腹へったのか?」
早智子は小さくうなずいた。哉は、ジャンパーやズボンのポケットを探った。父から手渡された、帰りの電車賃しかなかった。これを使えば、妹が食べたいというパンを買ってやれるが、自分が帰る時、最寄り駅までの切符が買えなくなってしまう。哉の家から親戚夫婦の家はかなり離れていて、今日も電車を乗り継いで一時間かけてやって来たのである。田中夫妻に頼めば、電車賃くらい借してくれるかもしれないが、なぜかそれだけは避けたい気持ちが強かった。
「……早智子、何たべたい?」
「……メロンパン」
「よし。いいか、兄ちゃんが買ってきてやるから、ここで待ってろ」
「あたしも行く」
「だめだよ。すぐ戻るから、ここで待ってろよ」
早智子は不安そうな顔で、パン屋へ走っていく兄を見送った。店に入る前、哉は安心させるように、早智子を振り返り、笑って手を振ってやった。
そこはありきたりなパン屋で、店内の造りも、置いてあるパンの種類も、取り立てて変わったところはなかった。だが、近所の奥さん連中と思われる女達で、意外と混み合っていた。店員はひとりだけ、レジのところに立っていた。哉は何気ない素振りでメロンパンを探した。幸い、というべきか、早智子の欲しがったメロンパンは、出入り口に一番近い棚に陳列されていた。哉はまわりをそっと窺った。皆、自分の目当てのパンをトレイに載せることに集中していた。哉は、そっと棚に近づき、メロンパンを一つだけ手掴みでジャンパーの懐に押し込んで、急いで店を出た。全速力で早智子が立っているところに戻ると、妹の手をつかんでまた全速力で走った。とにかく走り、角を曲がって、パン屋から完全に離れたと思ったところでやっと立ち止った。体が弱く、滅多に走ったりしない早智子は咳き込むほどに息を切らせていた。
「大丈夫か? ほら、メロンパンだぞ」
哉はそう言って、ジャンパーの中からパンを出した。とにかく落とさないようにつかみ、店から一刻も早く離れようと走ったので、せっかくのメロンパンはだいぶ潰れていた。哉は潰れていない部分を千切って、早智子の手に握らせた。早智子は息切れでむせながら、ひと口だけ食べた。
「早く食べろよ。時間ないぞ」
早智子は兄に急かされ、ぜえぜえ言いながら、もうひと口食べた。哉からもっと食べろと促されてパンを口に入れていくうち、呼吸も整い、メロンパンにかぶりついた。喉が渇いたのか途中で激しくむせたが、パンそのものは美味しかったようで少しだけ笑顔になった。哉は、やっと笑顔を取り戻した妹を見て嬉しくなり、妹の手からパンをひと口分だけもぎ取って自分でも食べた。それは、平凡な店構えからみれば意外なほど甘さも控えめで美味しいメロンパンだった。道端で、立ったままパンを食べている兄妹を、何人かの通行人がちらっと見た。哉は落ち着かなくなり、早智子が食べ終わるのを待たず、
「行こう。田中のおじさんとおばさんが待ってる」
と言って、また早智子の手を引いて歩き始めた。早智子はおとなしくついてきた。哉の胸には、生まれて初めて盗みを働いた嫌悪感と、パン屋への罪悪感も渦巻いていたが、早智子の手前、そんなことはおくびにも出さず、ひたすら目的の家へ歩き続けた。やっと早智子の新しい父母となる田中夫妻の家に着き、人の好さそうな中年の女が嬉しそうに出迎えてくれた時、やはり帰りの電車賃を無心することにならなくてよかったと、安堵の思いが広がったのだった。
田中夫妻は哉と早智子を快くもてなしてくれた。以前から、華奢で目鼻立ちの整った綺麗な顔をした早智子を気に入っていて、この日のために買い揃えておいたというおもちゃや絵本をだして遊んでくれた。哉も加わって遊び、早智子が疲れて眠ってしまったのを見届けて、そっと田中家を出た。夫妻は、駅まで送るという自分達の申し出を断った哉に何度も頭を下げて、早智子のことは心配いらない、必ず大切に育てるからと言った。哉は田中家の小さな門扉を出ると、また全速力で駅までの道を走った。あのパン屋の前は通らないように避けた。
家に帰り着くと、父親から一緒に暮らすことを持ち掛けられたが、それを拒み、父方の祖父母の家に身を寄せた。そして高校を卒業し、毬絵と暮らし始めるまでを過ごした。
田中夫妻は、言葉に違わず早智子を大切にしたが、もともと体の弱かった早智子は、養女になって二年後、腎臓を病み、わずか九歳でこの世を去った。
哉は、買ったばかりのパンを手に、とぼとぼと石段を下った。妹のことを思い出したせいで、毬絵に逢う気力がすっかり萎えてしまった。あのパン屋の前を通ったが、シャッターはすべて下ろされ、人気も感じなかった。
自分を慕ってくれた妹。両親に愛されず、いつもひとりで寂しがっていた妹。兄が万引きしたとは知らず、メロンパンを嬉しそうに頬張っていた妹。早智子は、あの日、目覚めて兄がいないと知り、田中家の子どもになったのだと知った時、どう思っただろう。きっと兄を憎んだに違いない。自分はたったひとりの妹をだまして、よそへやってしまったのだ。
哉の中で、早智子への罪の意識は深く根を下ろし、消えることがなかった。毬絵からお腹の子のことを聞いた夜、哉はひと晩アパートに帰らず、夜更けの町をさまよい歩いた。怒りで内臓がすべて焼き尽くされ、毬絵に手を上げそうになったものの、辛うじて抑えられたのは、妹のことを思い出したからだった。あの日、妹をだまし、パン屋から万引きをした、その罰が下ったのだ、と。
翌日、哉は店に電話をし、無理を言って特別に休みをもらい、再び石段を昇っていた。ゆうべ、毬絵から電話があり、逢いたくないだろうが、一度だけでも病院へ顔を出してほしいと懇願されたのだった。毬絵は、哉が一度も病院へ来ないつもりでいると思っているようだった。生まれた赤ん坊のことや、今後のふたりのことを、ちゃんと話し合わなくてはならなかった。そして、哉は、あのパン屋の女が今日もやって来るかどうかも見たかったのである。
例のパン屋の前まで来て、少しためらった後、思い切って店内へ入った。客は誰もいなくて、女は振り向いていらっしゃいませと言いかけてちょっと口ごもった。哉を覚えているようだった。
「……あ、えと、すいません……このイギリスパンいっこ……」
哉も口ごもりながら言った。昨日、帰ってから食べたパンが本当に美味しかったので、今日も買おうと思ったのだった。女は、はいと小さく返事をして、イギリスパンを包み始めた。哉はその横顔をそっと見つめた。あの思いつめたような潤んだ目は、パン屋へ走っていく自分を見送っていた早智子のそれとそっくりだったのだ。今日も病院へ行くのかと訊こうかと思ったが、結局それ以上は何も言えず、紙袋を受け取り、料金を払って外へ出た。
ベンチはうまい具合に空きが多く、哉は適当な場所に腰を下ろして、女が来るのを待った。そして、妹と似た女と話したところで、現状はまったく変わらないのだと思った。妹をだまして親戚へ養女にやったことも、パン屋から万引きをしたことも、毬絵が生んだ赤ん坊のことも……哉はどうしたらいいか分からなかった。
哉の横を、すっと誰かが通り過ぎた。あのパン屋の女がやって来て、昨日と同じベンチに座った。哉が座っている位置から、女の痩せた背中を見ることができた。女は、やはり病棟を見つめていた。その背中から、女の切羽詰まった様子を垣間見ることができた。自分は、今、どんな風に見えるだろう。あの女の背中と比べて、ずいぶん間抜けな顔をしていることだろう。
自分も家族には恵まれなかったが、毬絵もまた、両親が離婚していたな、とふいに思い出した。毬絵の両親は、彼女が高校一年の頃に離婚している。専業主婦で働いた経験のない毬絵の母親は親権を得られず、毬絵は父親のもとに残された。父親はすぐ再婚した。それによって、毬絵が継母から虐められるとか、肩身の狭い思いをすることはなかったそうだが、毬絵と継母はいつも遠慮しあって、窮屈な毎日を送っていたと毬絵が話していた。実母とはしょっちゅう連絡を取り合っていて、今度の出産でも、実母が付き添い、世話をしてくれている。
自分も毬絵も、実の両親、それも愛し合う夫婦のもとで、その愛情に包まれて育てられなかった。だから惹かれ合ったのかもしれない。ふたりは、一緒に暮らす際、親はなかったものと思い、ふたりきりで力を合わせて生きていこうと話し合ったのだった。
毬絵のしたことは、明らかに哉への裏切り行為だが、かといって頭ごなしに責め立てるのも、どこか間違っている気がする。哉はふいに、建物の窓のひとつを見つめているあの女に、胸の内をすべてぶちまけてしまいたい衝動に駆られた。だからといってどうなるものでもないが、なぜか幼い妹と同じ瞳で、病院に通い続けているという名前も知らない女に、自分の心境を分かってほしいと思ったのである。毬絵の子どものことは、誰にも話していなかった。
石段のほうから、心地よい風が吹いて、哉の汗まみれの背中を撫でた。女が風に髪をなびかせて立ち上がった。哉もつられて腰を浮かしかけて、はっと建物を見上げた。
同じように並んでいる病室の窓のひとつから、五、六歳くらいの少女が顔を覗かせていた。いかにも病人らしい蒼白い顔に、目だけが大きく、しかも喜びに輝かせて、ベンチから立ち上がった女を見下ろしている。顔の輪郭や目鼻立ちが女とそっくりだった。少女が肩のところで手を振ると、女も同じように肩のところで手を振り返した。後ろ姿しか見えなかったが、手の振り方やTシャツのよれた具合で、顔はあの少女と同じくらい輝いた笑顔であることが分かった。
やがて少女はカーテンの陰に隠れて見えなくなった。女はいっときその場に佇んで、余韻に浸っているように見えたが、やがて踵を返し、病院に背を向けて歩き始めた。哉のすぐ横を通り過ぎた時、女の唇にはまだ微笑が残っていた。
風が石段のほうから吹いてきた。日差しは強いが、もう秋がきたことを感じさせる心地よい冷たさを含んだ風だった。
哉は、しばらく立ち尽くし、女が去っていくのを見守った。
あの女と少女がどんな関係なのか、なぜ病室に入れない事情があるのに、あんなにも喜びを露わにして手を振り合っているのか、哉には知る由もなかったが、にも関わらず、あの光景を見たことが、哉の背中を押してくれたのだった。自分は、あんな風に窓越しに手を振り合うだけの関係で終わりたくない。
やがて哉は建物の入り口へ向かって歩き始めた。毬絵と逢ったら、買ったばかりのパンを食べようと思った。
風の坂道