遥か先に視る想い
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小説家になろう。でも同作品掲載中です。
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プロローグ
こんな風に必死で家から駅までの道を駆け抜けたのは、何年ぶりだろうか。予想以上に息苦しく重くなる身体に舌打ちをする。年だな、と弾む息に交えて呟いた。幼い頃はもっと速く走れた。だが、こんな状況下で全力疾走するなど考えもしなかっただろう、と自らを嘲笑う。そんな些細な思い出ですら、老いを感じさせる1つのピースでしかなかった。
振り返り、ため息をつく。当たりに知った顔は無い。荒い息をつく初老の私を怪訝な顔で見つめる人しかいない。かなり遠くまで来たようだ。少しくらい休んでも大丈夫だろう。
コンクリートの壁の中。息を殺すように密かに佇む寂れた公園。どこか自分と重なる気がして、私は足を踏み入れた。風でブランコが揺れている。腰かけるとギィギィと喚きながらも、規則正しく動き出した。
「ひかる!見てごらんよ」
そう言って指差された方向へと目を向ける。地平線を漂う白い雲。それを朱に近い橙に染める太陽。
今日はこんなにも良い天気だったのか。
久しぶりに身体中を包む生暖かい空気のせいか。はたまた眩しすぎる太陽のせいか。頭が少し鈍くなっているらしい。私は、服の臭いのせいかも、と誰にともなく呟いた。お風呂に入れば良かったと言う何とも安直な考えが頭を過る。そんな暇も余裕も先程までの私にはなかったと言うのに。
出来る事なら全て忘れてしまいたかった。すると彼女が笑いながら「忘れてしまえば良いじゃない」と言う。私はそんな楽天家な彼女の事を愛していた。だけど今回ばかりは彼女の笑顔も通用しないらしい。いつもの様に笑って相槌を打つなどできなかった。忘れることなど到底出来ないのだ。してはいけないのだ。
「出来るわよ」再度彼女が言う。「忘れてしまえば良いじゃない」
頭に少しの痛みを感じて私は小さく声をあげた。そんなこと気にも止めず、彼女は呟き続ける。
スベテ、ワスレテ、シマエバ、イイ。
耳の側で小さく別れの言葉が聞こえた。否。実際には頭の中で私がそう呟いたのかもしれない。
頭が熱くなる。耳鳴りがする。身体が震える。座っていることすらできなくて、ブランコから崩れ落ちた。地面から立ち上る冷気で私の身体がどんどんと冷えていった。目を開けるとぼやけた視界の中で歩き回る靴が見えた。ピンクの熊の靴と黒いエナメルのヒモ靴。泥で薄汚いスニーカーもあった。
''鬼ごっこは終わり?''そう聞こうにも口は開くが言葉がでない。
薄れ行く意識の中、彼女の笑い声を聞いた気がした。
第1章 第1節
身体中を駆け巡るような騒音と振動で目が覚める。また夢を見ていたようだ。夕暮れの街中を走り回っては力尽き、倒れる夢。走っているのが自分なのか誰なのか。はっきりとは判らないが、やけにリアルだと言うことだけは判る。雨上がりのアスファルトの匂い。寂れた公園の土と埃の入り交じったような空気。そして、彼女の声。
一体あれが誰なのか。
もうこの夢を見て1年程になるが、何の進展もなく、何度も何度もあの街のあの道を走り回るのだ。あの街を探して行けば、全ての真実が判るのかもしれない。そうは思うが、きっと行くことはないだろう。否。2度と行くことは叶わないのだ。この封鎖された空間の中では、後戻りこそが罪と枷になる。
夢中で走り回ったせいか重い身体を持ち上げ、頭上のボタンを押す。空気を押し出すような音と共に、頭上の窓が開いた。その隙間から身を乗り出すようにして外に出る。身体中を冷たく心地よい空気が包む。もう何年もこのベッドを使っているが、安心して寝られたことは1度もない。いつか窒息してしまうのではないか、という疑念が浮かんでは消える。あんな夢を見るのも、このベッドのせいかもしれないな、とヒカルは誰にともなく呟いた。
辺りは暗闇に包まれている。時計を見ると午前10時を少し過ぎたところだった。約15分の寝坊だ。地上では許される範囲内だったかもしれない。しかし彼女が置かれている現状では、1分1秒が命取りとなる。ヒカルは身体にぴったりと張り付くように作られたボディースーツに身を包み、廊下へと出た。
第2節
単段式宇宙輸送機、通称 SSTO・JOURNEY。
それがこの船の名前である。正確には覚えていないが、1世紀程前から『人類の宇宙空間への進出』を掲げて造られた宇宙船だ。完成までにあったことを語れば1日は使えるのではないか、というくらいの歴史があるらしいが割愛しようと思う。過去に捕らわれている暇はないのだ。
今から4年前。我々の住む星以外の生命体が存続可能な星を発見したという報告を受け、全人類に先駆けて宇宙空間へと飛び出したのだった。乗船できたのは限られた人間のみ。それでも数100万の人間を乗せて、船は飛行している。4カ月前までは行われていた地球との更新も今では途絶えてしまった。この船の中では4年の月日も、地球上では10年になる。未だ目的地に辿り着けない船に愛想を尽かしたのか。はたまた人類が滅亡してしまったのか。定かではないし、知る由もない。
彼女にとっての唯一の問題と言えば、宇宙空間での長い月日を共有できない許嫁の存在だった。彼は今、冷凍人間として船尾室に眠っている。そこには他の人間も眠っているわけだが、いつ何が起こるかわからない。万が一、このままどこにも辿り着けず、推進剤が残り僅かになったら。
彼女も仲間達も、船尾室の切り離しを選ぶだろう。
それはあってはならないことだ。けれど同時に、最終手段としては存在する最善の選択肢であった。
別れの挨拶をしなかったことが唯一の思い残しだな、と呟いた。
第3節
そうこうするうちに、第1会議室である『セントリーズ』の前へと彼女は辿り着いていた。ドアの前で一呼吸つき、右手にある顔認識システムへと笑いかける。
『……ニシオカヒカル……入室……許可シマス』
もっとうまく作り笑いが出来るようにならなければ。モニターに写っている自分の顔を見てそんなことを思い『OPEN』のボタンを押した。
静かに扉が開き、内部の喧騒が溢れ出す。今日も朝から元気な奴等だ。ヒカルは先程よりも上手く作り笑いを浮かべつつ、室内へと足を踏み入れた。
「よう、姫様。随分と悠長なお目覚めだな」
アキラが皮肉たっぷりに笑いかけてくる。お前も笑顔の練習をした方がいいな、という本音を飲み込み「すまん」とだけ言った。
「ヒカルちゃん、遅いよー。みんな待ってたんだよ!」
良いニュースがあるんだって、と言いながら走り寄ってきたのは、まだ20歳になりたてのチハルだ。彼女は10歳という幼さで船への搭乗権を得た。兄のアキラとは違って生粋の秀才である。飛び級に飛び級を重ね、片手には六法全書を抱える彼女。最近の興味は『ギャル』らしい。フランスに住んでいた彼女からすると、日本の文化は興味深いのだとか。アキラいわく「チハルはヒカルの糞」なのだとか。日本の文化を知るためにヒカルにくっついているチハルの姿を「金魚の糞みたいだ」と常日頃言っている。そんなアキラも日本のマニアだ。妹には及ばぬが天才肌で、中学卒業後単身で日本に渡来し、18歳の若さでプログラマーとしての確固たる地位を築き上げた。今ではこの船内全てのプログラムは彼の手中にある。
「ヒカル嬢が寝坊とは珍しい。何かあったのかね」
そう問いかけてきたのは、この船で最高の重鎮、パトリック。彼は元合衆国大統領兼このJOURNEYプロジェクトの最高責任者だ。自ら船に乗ることを宣言したときは「国民を捨てるのか」と賛否両論あったが、今となれば国1番の英雄である。4カ月前まで彼の中継は神の声として崇められていた。人間とは単純である。そして、同様にヒカルも彼を尊敬し慕っている。彼女もまた、単純な人間の1人にすぎなかった。
「特に理由はないが少し眠れなくてな……。悪い夢も見てしまったよ」
ヒカルは薄笑いを浮かべ「アイリーンはまた眠っているんだね」と彼の横で熟睡する少女に目を向けた。
「さっきまで起きてたのよ。でも、また眠ってしまったの」
後ろから話しかけられヒカルは驚いて振り返った。
「アンリ!いつからそこに?」
「だいたい45秒前からかしら?貴女が『悪い夢を見た』と言っていた辺りからよ」
挨拶のハグをしながらアンリが言う。彼女はヒカルと同じ歳だ。若干23歳で乗船したエリート看護師だ。主に医療分野におけるサポートは船に欠かせないものだった。
「他人の気配に気づけないようじゃ危ないぜ。俺が守ってやんよ」
そう言って肩へと手を伸ばして来たのはミキトだ。彼は警察官として勤務経験があり、人一倍正義感が強い。そして人一倍、好色漢なのだ。「泣かせた女は数知れず。守った女も数知れず」が彼の口癖だ。
ヒカルは「自分の身は自分で守る」と言ってから、悲しそうな顔をする彼に「……でもいざとなったら、頼りにしているよ」と声をかけた。
「そうやって甘やかすのはいけないことだぞ、ヒカル」
「そうよ?調子にのって自滅しちゃうわ」
ヨシキとロイがミキトを小突きながら言った。
ヨシキは生粋のお坊っちゃまだ。「お前も甘やかされただろう」という言葉を飲み込む。父親が外務大臣で親の七光りで乗船したといっても過言ではない。その父親は船尾室で息子の活躍を夢に見ながら眠りについていることだろう。実際は1日中ゲームばかりしているが。もちろん、そのゲームはアキラ製作である。
反対にロイはイタリアの田舎にある小さな料理店に産まれ、今ではミラノ随一の料理人である。今じゃ彼の店を知らない観光客はいない筈である。まさに、鳶が鷹を産む、という言葉にぴったりな人物かもしれない。そんな彼も今ではピンクのフリルエプロンに身を包む、みんなのお母さんだ。
「そう言えば、ハルとミヤビは?」
「彼女達はシャワーだよ。最近の女の子はお風呂しか楽しみがないのかい?」
雑誌を見ながらルークが呟く。その声はギリギリヒカルに届くくらいの小ささだ。これがかの有名な態度も声も大きいが何故か憎めないサッカー選手、ルーク・キャベリンだと言われても、簡単には頷けまい。
「女の子は自分を磨きあげることに労力を使うことを厭わないんだよ、僕みたいにね。……ヒカルもその跳ねてる髪を直して少し女の子らしくしたら可愛いのにね」
そう言ってユウキが髪を触ってくる。悪寒に襲われ、側にいたレオの背後に隠れようとしゃがんだ。
「ヒカル、ユウキ、嫌い。だから、レオ、ユウキ、嫌い」
ぼそぼそとレオが呟く。両腕で抱えたライオンのぬいぐるみが苦しそうに宙を仰いでいる。怒っている証拠だ。無表情な彼の感情を読み取るには、ぬいぐるみを見るのが1番だった。この船で産まれ育った彼は外の世界を知らない。感情の欠落は仕方のないことなのかもしれないが、それでもヒカルは少し悲しかった。
「レオ、怒っちゃダメよ。ユウキにも優しく」
キャシーがレオを抱き上げ「ね?ヒカル」と囁いた。
パトリックの正妻である彼女は、彼と同じくらい人望が厚い。ヒカルもまた、そんな彼女を母親の様に慕っていた。
第4節
「ハルとミヤビが帰ってきたら、皆に大事な話がある」
不意にパトリックが告げた。その顔は険しく、声は聞いたことがないほど低く震えていた。どうやら、チハルが喜んでいたほど、良いニュースではないらしい。
「……良いニュースなんでしょ?」
案の定、チハルが恐る恐る言う。彼女も空気が読めない子供ではない。あえて希望を持とうと努力しての質問だったのだろう。まだ大人になりたてなのによく気の回る子だ、と母親の様にヒカルは思った。
「もちろん、良いニュースもある。特にアンリにとってね」
突然自分の名前を呼ばれて、アンリの顔が跳ね上がった。どことなく血色の悪い彼女の顔を見て不安感が増す。
「お星、見つけた、でしょ?」
レオがにこにこと父親へと尋ねた。彼は俯き首を横に振り、少年に「ごめんよ」とだけ言った。周りも深く項垂れている。
ミキトだけが前を見据えていた。空を睨み付け、眼光を研ぎ澄ますように。それは刀のように鋭かった。その視線の先にはアンリがいた。俯いてはいるものの、その顔は険しい。彼も彼女もパトリックが何を言おうとしているのか少なからず知っているようだった。
リン・シャオのことが頭を過る。
それは今から2年前の出来事だった。
第5節
リンはSSTO・JOURNEYにおいて、初めての死者だった。原因不明の高熱に侵され助けることができぬまま、宇宙の藻屑となって消えた。皮肉なことに、彼女はこの船の唯一の医者だった。そして、彼女の肢体が宙に浮かんでいた、あの瞬間。彼女はまだ生きていた。
最期の我が儘くらい聞いてくれてもいいだろう?
笑いかけながら皆に問う。視線は家族の写真の貼り付けられた宇宙服へと向いていた。1枚1枚剥がしては眺め、また張り付ける。そんな作業をまる1日していた。
それはいつもより明るい日だった。いつもより太陽に近づいていたのかもしれない。とにかく、そんな風に妙に明るい日だった。
リンが少し散歩をしたい、と言い出した。おぼつかない足取りを支えるためにヒカルとアンリで両肩を抱いた。リンは部屋の前で止まると、少し待っているようにと言って中へと消えていった。ガサゴソと何かを探すような音が止むと、間もなくして彼女が出てくる。
「これを」
両手に1つずつ包みを持っていた。
右手の包みをヒカルに渡し「中継で使うように」と言った。左手の包みはアンリに渡し、そして囁いた。
「明日を耐え抜くために必要なものだけ残して、あらゆる過去を放棄しなさい……私のことも、ね」
ウィリアム・オスラーの受け売りよ、そう言って彼女は今まで見たことがないほどの柔和な笑顔を見せた。そしてそれが医学を共にした師から弟子への最期の言葉になる。
彼女はまだ1度も使われたことのない宇宙服に身を包み、お先に失礼、と言ってキャビネットの中へと進む。ドアがしまる直前、彼女がなにか叫んだ。その口は5度動き、そしてつぐまれた。「さようなら」「ありがとう」「あいしてる」なんと呟いたか聞き取れなかったが、アンリには判ったらしい。深く頷いて部屋を後にする。それを見送ってから、空気の抜けるような轟音と共にリンの身体が宇宙に舞った。くるくると前転するように投げ出された肢体。
窓に駆け寄り彼女の姿を探す。やけに明るい漆黒の広い空に不釣り合いな白い小さな塊。気づかぬうちに頬が濡れていたことを覚えている。
次の日の朝見たアンリの瞳が赤く腫れ上がっていたことも。
第6節
2人が帰って来て一段落し、パトリックが話し出したのはヒカルの予想に付かず離れずな事だった。1つはリン・シャオの話。そしてもう1つがチャールズ・べリオンの話だった。
「2人の話をする前に、まずは昔話でも1つ、どうかね?」
そう言って話し出したのは、彼の若かれし頃の話だった。
パトリック・ジョーンズが生まれたのは合衆国の外れにある田舎町だった。地図の上に名前があるのかすら危ぶまれるような辺境の地。そんな中で彼は育ってきた。そしてチャールズもまた、その中の1人だった。
子供の少ないその町で、パトリックとチャールズは親友であり好敵手であり、そして家族だった。何時間という時間を共に過ごし、何十年という月日を共に築き上げてきた。そして、そんな2人の夢は『ニューヨークへ行くこと』だった。
チャールズは町の中でも数少ない金貸し屋の息子だった。高い利息を付け金を貸し、儲ける。そのやり口は批判を多く買ったが、生きていくためには仕方のないことだった。
反対にパトリックは貧乏な農家の生まれだった。学校に行く金すらなかった彼は実は8歳まで文字が書けなかったのだ。だが、商売根性だろうか。計算だけは誰よりも早かった。3桁の掛け算までは空で答えられたし、それ以上も算盤を使ってしまえば朝飯前だった。そして彼は特に口がうまかった。どんな商品でさえも、彼の手にかかればたちまち売り切れてしまう。
そんな彼らがニューヨークの地に降り立ち、ましてやパトリックが大統領、チャールズが財務大臣になるなど、誰が考え付いただろう?実際、本人達もそんなこと思っても見なかった。
パトリックが「大統領選挙に出ようと思う」と言った夜、チャールズは「まさか」と一言だけ返した。そしてパトリックの目を見つめ「わかったよ」と答えた。町の住人は、皆、パトリックの出馬を応援した。そして次第に合衆国中の住人が彼の言葉の虜になった。出馬を表明していた元大臣達でさえ、彼に王座を譲った。
それから、もう10年あまりの月日が経とうとしている。長い大統領任務の最後にパトリックとチャールズは大仕事に挑んだ。
SSTO・JOURNEYへの搭乗だ。
発表当時、合衆国は荒れた。「国民を捨てる極悪非道な大統領」、「保身のために生きる田舎者」という言葉が飛び交っていた。だが「生命を懸けて全人類に告ぐ。私は希望だ」という言葉に反論を言う者はいなくなった。
そして彼らはSSTO・JOURNEYに乗り、2度と戻ることはないであろう地球に別れを告げる。いつか、2人で帰る、という叶う筈のない願いを込めながら。
そして。
「そして、あの日。リン・シャオが命の灯火を消した」
あの日からだ、とパトリックは呟いた。
チャールズとリンは両想いであった。何1つ邪魔はなく、穏便に2人の日々は過ぎていった。なのに。
リンを失ったチャールズはまるで人形のようだった。生きるために食事をし、排泄をし、睡眠をとる。それ以外のことは何もしようとはしなかった。
段々と骨っぽくなるチャールズを見るのが彼には耐えられなかった。
「暫し、休暇をとると良い」
それが最期の会話になった。
部屋から溢れる異臭に気づき、ドアを無理矢理にあける。
排泄物が所々に染み付き、その上に重ねて血の池ができていた。そしてその真ん中に大の字に なるようにしてチャールズが横たわっていた。身体中の血液や水分が抜けきった干物のようだったのを覚えている。
アンリが「ご臨終です」と言ったときの放心状態のパトリックを、ヒカルは今までに見たことがなかった。そしてこれからもないだろう。
第7節
室内はまるで誰もいないかのように静かだった。
時折誰かの鼻を啜る音が響くだけ。誰も何も言わなかった。否。言えなかったのかもしれない。今のパトリックの顔を見て一体、なんと声をかければいいのだろう。何が正解なのか、ヒカルにも船員達の誰にも判らなかった。
「……と、まあ。昔話はやめにしてだな」
パトリックが2つの包みを取り出した。
「アンリ、ヒカル。この包みを覚えているか?」
それは確かに記憶の片隅にある。
「リンから渡されたものよ」
アンリが表情1つ変えぬまま呟く。それがむしろ彼女が涙を堪えているような印象を与える。
パトリックが「そう。その通りだ」と言いながら、包みを開いた。中にあったのは古いビデオテープと紐で括られた冊子の束。それぞれ『マオへ』『アンリへ』と書かれている。
「このビデオテープは以前流したから皆も知っているだろう」
机の上に置きながら彼は言う。
それは、リンが船上から消えてから2日後の出来事だった。
第8節
その日、地球上では晴れているのに雨が降っていた。所謂『狐の嫁入り』というやつだ。人々はSSTO・JOURNEYからの中継を待ちつつ、きっとこれは良いニュースの前触れに違いない、と心を踊らせていた。
そして始まった中継。
写し出されたパトリックの蒼白な顔に、民衆は一抹の不安を覚える。
「諸君。今日は大切なニュースがある」
そう告げる声はいつもにも増して力が溢れており、少なくとも悪い知らせの様には思えなかった。
「1本のビデオがある。……まずは、それを観て頂きたい」
砂嵐に溢れる画面。民衆は思い思いの格好で映像が流れるのも心待ちにした。ある者はビールを片手に。ある者は小説を読みながら。また、ある者は電車に揺られ転た寝をしながら。
「ハーイ、皆さん。お元気?リン・シャオよ」
笑顔で画面に登場する女性。しかしその顔は少し前までの彼女の顔とは違い、痩せ細り衰えていた。
「今日は皆さんに報告があるの。……私ね、今、自分のこの身を懸けて、ある実験をしてるのよ」
そう語りだした彼女の話は想像を絶するものだった。
「アメーバ性髄膜炎って知ってるかしら?致死率97%とも言われる病気よ。悪性のアメーバが嗅覚器官から脳に移動して炎症を起こしてしまう病気。
私は今、それに感染しているの。……何が原因かは判らないわ。ここにはアメーバは住めない筈だし、そもそも温泉のような彼らの生息地が無いものね。だけども、どうしてだか成ってしまったの。
今、発症してから、たぶん1週間くらいだわ。どうやら宇宙では生き永らえられるみたい。だけどね、見ての通り、こんな姿になってしまった。……醜いでしょう?ぼろぼろで、まるで日本の昔話の……なんだったかしら……ああ、羅生門。羅生門に出てくる、お婆さんみたい。
そこでね、皆さんには後からの報告になってしまうけれど……私は宇宙へと旅立つわ。
この研究を続けられないのはとても悔しい。だけど、自分でできることも少なくなってきてしまっているのが現状なの。……乗組員の皆にも迷惑をかけてしまっているわ。
……だけど、安心して。私の研究はここで幕を閉じたりしない。
この何日かでわかったことがあるの。それを私の親愛なる助手であり弟子であり相棒である、アンリに託したわ。彼女がこれから先、きっとこの病の解決方法を見つけてくれる筈」
そこまで一思いに喋ると、リンは項垂れた。沈黙が世界を包む。
いつの間にか民衆は皆、身を乗り出して彼女の話に聞き入っていた。
「……許してね」
彼女は絞り出すように、そう呟き、画面越しに笑いかける。
「ここに1つの言葉を残すわ。よく聞きなさい。
魂はいつか消えてしまうもの。その使い方は誰にも決められない。例え、自分の命でもね。全ては手中にあるのよ、偉大なる存在の。
……だけど、諦めてはいけない。奪い返しなさい。その、偉大なる存在から」
そして「私はできなかったけれど」と自嘲気味に笑い、彼女のビデオメッセージは終わった。
世界中が静寂に包まれた。うっすらと聞こえるのは、誰かのすすり泣きと祈りの声だった。
「以上が本日の中継内容だ」
パトリックの声が響き渡る。中継画面が切れる。
誰も何も言えなかった。
第9節
後に『リンの涙が降り注いだ日』と呼ばれた日を思い出し、ヒカルは目を伏せた。あの時のアンリの憔悴しきった顔を彼女は一生忘れないだろう。常に笑顔でリンとの研究の日々を語り、楽しそうに笑っていた彼女の面影は、今は感じることができない。やっと2年が経ち、笑顔を取り戻したというのに。パトリックは何故、今それを思い出させたのだろうか。
「ヒカル」
不意に名前を呼ばれて顔をあげる。目の前にはミキトが立っていた。
「パトリックを責めないで欲しい……今それを思い出すことは、仕方のないことだったんだ」
ヒカルは「わけがわからない」と呟いた。
「皆もそう思ってるでしょ?」
アンリが口を開く。
「だけどね、師匠が……リンが残した冊子の解読がやっと終わったのよ」
その言葉に場の空気が変わった。
「本当なの?!」
ハルがミヤビの手を強く握りながら言う。ミヤビが顔をしかめていた。
「本当だよ、ハルくん」
パトリックが言う。そして冊子を開いた。白紙を埋め尽くすように並べられた漢字の数々と奇妙な数式。
リンは船内唯一の中国人だった。中国語を堪能に理解できる人間は1人も船内にはいない。だから、中継が途絶えた後の解読が進まなかったのだ。
「リンによると、やはり感染源はわからないらしい。だが、空気感染も何もないことが判った。そして彼女の体内から接種されたアメーバが、船内では生きてはいけないことも」
淡々とパトリックは続ける。
「そして、誰かが彼女にアメーバを接種させた可能性があることもだ」
第10節
「……パトリック、何を言っているの?」
キャシーが鋭い目で夫を見た。彼女に抱かれたレオはぬいぐるみをきつく抱き締めている。いつも父親にべったりのアイリーンですら、彼の側から後ずさった。
「キャシー、本当のことなんだ」
そう言う彼の顔は、何とも言えない表情だった。不安と疲労と哀愁が入り交じったような顔。その表情を見れば誰も「嘘ついちゃって!パトリックたら」なんてからかうこともできなかった。
「その可能性が高いってことだよ」
ミキトは「自ずから命を絶った可能性も、少なからずはあるけどね」と言う。そんな彼をアンリが鬼のような形相で睨み付けた。
「……ミキトくん。わたしの師匠を汚す気か?」
ドスの効いた低い声に、ハルとミヤビが震えた。
「でも、あれだろ?リンは研究してたんだろ?そのアメーバ」
ヨシキがロイに語りかけるように聞いた。ロイも頷く。
「研究のために自分でアメーバを体内に入れたって事だと思ってたわ、私」
「……そんな筈ない!」
ロイの発言にアンリが勢いよく答えた。テーブルにぶつかり、グラスが倒れる。それがルークが読んでいた雑誌にかかる。
弾かれるようにルークが立ち上がった。驚いて皆、そっちを見る。
「話し合いを続けてくれ。……だけど、もう少し回りを見てくれよ、アンリ、パトリック」
その一言で2人は我に返ったように目を見開いた。
「……レオ、アイリーン。すまないね、チハルもだ。幼いのにこんな話をいきなり聞かせてしまった」
「……ごめんね、みんな。食って掛かったように話してしまった」
ヒカルはアンリの肩を抱き「しかたないさ」と告げる。
「……そこでみんなに提案がある」
パトリックが呟いた。視線が彼に集まる。
「わたしは誰も疑いたくないんだ」
皆が相づちを打つように頷く。ミキトだけは先程と同じように、遥か先を見つめていた。
「忘れよう、このことは。2人の死んだ理由も」
空気が詰まったような気がした。息ができなかった。あまりの衝撃によるものかもしれない。彼の無責任な言葉を聞いたのは初めてだった。
「……ふざけないで」
そう言ってアンリが外への扉を開いた。
「パトリック、ふざけないでよ」
そう言い残して立ち去ったアンリをヒカルは走って追いかけた。
第2章 第0節
真っ暗な部屋の中、私は立ち尽くしていた。異臭が鼻をさす。鉄のような、生ゴミのような、そんな臭い。
「ついに……ついにやったわね!ヒカル!」
そんな風に彼女が嬉しそうに言った。何が嬉しいのかわからない。こんな臭いの中、機嫌良さげにいられる彼女が不思議でなからなかった。訝しげに彼女を見ようとするが、暗がりのせいでなにも見えなかった。とりあえずこんな空間にいたら気が変になりそうで、外に出るための道を探す。空間をまさぐっていると、指先が何かぬるっとしたものに触れた。叫びながらあてもなく走る。襖が閉じられていることに気づき思い切り開け、振り返った。、
そして絶句する。
指先に触れたのは壁に張り付いた肉片だった。部屋の中には2つの……恐らく、2人の人間だったものが無惨にも投げ捨てられていた。恐る恐る近づく。
その髪には母親に誕生日にあげた髪飾りがついていた。
声にならない叫びをあげ私は走った。走って走って走ると、あの公園についていた。
そこにはパトリックがいて「忘れよう」と言った。
第1節
誰かに叩き起こされてヒカルは目が覚めた。時計を見ると午前3時を過ぎたばかり。既に開けられた天井部分から顔を出すと、アイリーンが蒼白な顔で立ち尽くしていた。その横には泣きじゃくるレオを抱き上げたアンリ。嫌な予感がした。
「……ヒカル、一緒に来て」
彼女の言葉に急いで着替える。ピタリと張り付くようなボディースーツ越しに冷え込んだ寒さがヒカルを包んだ。身震いが止まらない。これは寒さのせいか。嫌な予感のせいか。それとも、夢のせいだろうか。
誰もいない廊下を4人で走る。途中、誰にも会わなかった。この時間なら当たり前か、と自己解決する。
パトリックの部屋に近づくにつれ、あの臭いがしてきた。さっき夢で嗅いだばかりの臭いだ。そういえば夢なのにやけにリアルな臭いだったな、と関係のないことを考えて気を紛らわす。なぜ、パトリックの部屋からあの臭いがするのか。ヒカルは考えることを拒絶した。
「……アイリーン、レオを頼んだわよ」
パトリックの部屋の1つ手前、『セントリーズ』へと2人をいれるアンリ。アイリーンはいやいやと首を振り彼女に抱きついた。レオまでもがぬいぐるみではなくアンリを抱き締めていた。
「アンリ。わたし独りで行こう」
そう言って3人を中へと促す。アンリは「でも……」と言ったが、2人の顔を見て「そうね、お願いする」と答えた。
『セントリーズ』の扉が閉まったことを確認し、パトリックの部屋まで歩く。段々ときつくなる鉄の臭い。2年前、チャールズの部屋で嗅いだのと同じ臭いがした。
「……ヒカルも来たのか」
そう声をかけられ後ろを振り返る。そこにはミキトが悲壮感溢れる顔で立っていた。そして彼は彼女に「太陽が消えたよ」と言った。
第2節
その一言で彼女は悟る。この臭いの原因がパトリックでないことを。そしてそれが誰なのかということも。
猛烈な吐き気に襲われ、彼女は崩れ落ちた。
なぜ、彼女が死ななければならなかったのか。
「キャシーが死んだんだ」
畳み掛けるようにミキトが言う。わかってる、わかってるよ、だから現実を突きつけないでくれ。ヒカルは胃の中から溢れだすものを堪えながら、涙目で彼を、宙を扇いだ。
「……悲しむ君は美しいよ、ヒカル」
そう囁きながら、ミキトがヒカルを抱き締める。
「こんな美しい人に悲しんでもらえる彼女は幸せ者だ」
ヒカルを笑わせようと冗談のつもりで言っていたのかもしれない。だが、彼の声は震えていて。それが更に彼女の悲しみを煽った。
「キャシーに……別れを言わなければ」
おもむろに彼女は立ち上がる。しかし、身体が言うことを聞かない。崩れ落ちそうになる膝に力を込め、ミキトに寄り掛かるようにして部屋の扉を開けた。10センチ程開いて扉が止まる。その隙間から、放心状態のパトリックの姿が見えた。その手には血にまみれた白く細い手が握られていた。薬指にはキャシーの愛称でもあったイエローサファイアが煌めいていた。
「パトリック」
ヒカルの呼び掛けにパトリックの肩が跳ね上がった。
「……ヒカルか」
こちらを見て安堵の表情を浮かべる。
「誰かが私を殺しに来たのかと思ったよ」
その瞳からは生きる気力が失われていた。「いっそ、殺してほしいさ」そう呟いてまた妻の亡骸に視線を戻す。
「パトリック……」
「見てくれ、ヒカル、ミキト。これがイエローサファイアを薬指につけ『合衆国の太陽の宝石』とまで呼ばれた女の最期だ」
惨めだ、と彼は呟いた。そんな彼にヒカルはなにも言えなかった。
「パト」
ミキトが彼の肩に手を置き「泣いてちゃ報われない。……アイリーンとレオが待ってる」と告げる。その言葉に彼は弾かれたように立ち上がり「そうだ。2人のところへ行かねば」と部屋を早足に出た。ちょうど部屋を出てきたアイリーンとレオが父親の姿を見て泣き出した。その声は母親を失った悲しみがどれ程大きいのかを物語っていて。パトリックは2人を抱き締め「パパがいる」とだけ言った。
そして3人の泣き声は船中に響き渡り、他の船員達に少し早い夜明けを迎えさせる。
第3節
『セントリーズ』は異様な静けさに包まれていた。
あのお喋り者のロイでさえも沈黙を貫いている。部屋にはハルとミヤビの啜り泣く声だけが聞こえていた。アイリーンとレオは『クリスティ』で寝ている。その部屋はパトリックの部屋からは遠い。異臭も不安も無いから安心しなさい、とパトリックは言っていたけれど。2人だけで残してきて大丈夫だったのだろうか、とヒカルは思った。
「アンリ……君なのか?」
パトリックが唐突に言う。
「私がリンの事を忘れようなんて言ったからなのか?」
「……何を言ってるのかわからないわ、パトリック」
「君なんだろう?妻を殺すことで私の中に傷を残したかったんだろう?」
「違うよ、パトリック」
ヒカルが口を挟んだ。
「昨日、私は彼女と一緒に部屋を出た。そしてそのまま船尾室の方まで行き、話をしていたんだ」
「……殺人者を庇うのか」
「パト、そんな言いがかりはよせよ」
ミキトが間に入った。パトリックが黙る。チャールズが消えてから彼にとってミキトが一番の理解者だったからだ。警察官だったミキトとは幅広い知識を持っていて、傷心していたパトリックの心を和ませたのも彼だった。
「すまない……私は、もう、皆の事が信じられない」
しばらく『クリスティ』で家族3人穏やかな休暇を取らせてくれ、と言って部屋を出ようとする。しかし不意に立ち止まり、全員の顔を見渡した。そしてアンリを凝視して言う。
「忘れようなんて言った私が馬鹿だった。この事は忘れるものか」
扉が閉まる。部屋をまた静寂が包んだ。
第4節
息が詰まるような感じがした。13分にも及ぶ沈黙にヒカルは正直、苛立ちが募っていた。皆視線では訴えるが何も言わない。なぜ、思ってることがあるのに言わないんだ、そう思っていた。そう思いつつもそれを言わない彼女もまた、彼女の中での苛立ちの対象だった。
多くの視線はアンリに向けられている。それは責めるような視線だったり同情する視線だったり、はたまた軽蔑するような視線だった。
「……やめてくれませんか」
アンリが口火を切った。その目の鋭さが沈黙を切り裂いた。
「私の事を疑いたいならそう思えばいいし、言いたいことなあるなら言えば良い。……黙ってたって何にもならないじゃない。あなたたちもう、子供じゃないのよ?見つめるだけでわかってもらえると思ったら大間違い」
そう捲し立て、彼女はため息をつく。そして、にっこりと笑った。
「あー。すっきりした。皆も思ってること言えば?」
この空気に似合わない彼女の笑顔のせいだろう。皆口々に喋りだす。
「人が3人も死ぬなんて……」と、ハル。
「もう。誰を信じたら……」と、ミヤビ。
「私はね、パトリックが……」と、ロイ。
「それは違う。そもそも……」と、ヨシキ。
「アイリーンとレオは大丈夫……」と、チハル。
「独りでいるのが一番……」と、ユウキ。
「…………」と、ルーク。
「グレープで行動すりゃいいんじゃないの?」
アキラが今更、思い付いたように言う。ヒカルはさっきからずっとそれを小声で主張してただろ、と心の中で言いながら「それが良いな」と言った。
皆その意見には賛成らしい。わらわらと自分が信頼できる仲間と集まり始めた。アンリはぽつりと独りでたっている。ヒカルは彼女に声をかけようと歩み寄った。
「アンリ先生!」
だがしかし、先に声をかけたのはハルだった。
「私、先生のこと、信頼してる!だから一緒に来てよ」
アンリが戸惑ったように彼女を見た。
「……だけど」
「それに!ミヤビが倒れたりしたときに、アンリ先生いないと駄目でしょ!」
ミヤビが勝手に人を病人にするな、と呟き「よろしくお願いします」とだけ言った。
そのやり取りにヒカルは溜め息をつく。信じていたのは私だけじゃなかったんだな、と安堵した。そして自分の周りを取り囲む3人に目を移す。
アキラはつまらなさそうにそっぽを向いている。
「……チハルがさ、ヒカルが良いって」
反対にチハルはキラキラとした目でヒカルを見ていた。
「ヒカルちゃんが守ってくれるよね!」
そんな仮面ライダーやウルトラマンを見るような目で私を見つめないで欲しかった。「私は騎士でもなんでもないんだよ」と呟く。
「ま、ヒカルが守れなかったら、俺が守ってやるさ」
自信ありげに胸を叩いて見せるミキト。「あんたは違うの!」とチハルに叩かれていた。
部屋の中を見渡す。
ロイ、ヨシキ、ルーク、ユウキ。
アンリ、ハル、ミヤビ。
そして、アキラ、チハル、ミキト、ヒカル。
3つのグループができていた。意外な組み合わせもできるもんだな、とヒカルは思う。とりあえずはアンリが安全そうなところにいられて良かった、と思った。
遥か先に視る想い
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