レゼイロ 2部

続きものでもなんでもないのがミソ。

2部言うても完全に無関係。

   レゼイロ



0

 悲喜交々の白代を越えて。
 その日は、今里(いまざと)君子(きみこ)にとってとても大切な記念日となった。

「母さん」
 いまだ少し反抗期の名残が感じられる息子に呼びかけられたのは     彼女が夕食の準備に取り掛かろうと台所に入り、同室にあるリビングテーブルの先に置かれたテレビ主電源を入れた時だった。
 窓の外はまだ明るい。六時を少し過ぎたというのに、九月の空はまだ暮れない夕陽が支配しているようだった。空調に任せた室内の気温は変わらず、少し埃の臭いを伴って部屋に充満している。
 君子は不思議に思った。普段、息子から自分に話しかけてくる事など滅多に無いからだ。言葉をかけても生返事を返すばかりで会話をしようとしない彼。母親ながら心配をしていたものだけれども、ようやく息子にも大人の兆しが表れたか、と親目で感心を覚える。
「どうしたの、真(まこと)」
 さては小遣いの無心にでも来たのだろうか。微笑みを顔に浮かべないように、答える。自分もまだ、彼に対してしこりを抱えている。まだまだ自分だって子供だ。頭の中だけで苦笑した。
 反面、息子の顔はすっきりとしていた。満面の笑み、とまではいかないものの、ここ数年は見られなかった彼独特の笑い方を沸かせている。息子は昔から笑うと左の八重歯がちらりと顔を覗かせるのだ。
「母さん、なんというか     今までごめん」
「なに、なに。あんた何かいらない事でもしたの?」
 母親の心配をよそに、彼は一層その笑い方を強めた。
「違う。何もしていないよ。ちょっと一つ、決意したから、なんだけど」
 その笑みに照れた要素が少しだけ混ざり、君子を安心させる。全貌の見えない息子の話だったが、悪い話というわけでもなさそうだ。彼女でもできたか、それとも口煩く小言を出していた進学先でも決まったのか。
 もう高校二年生の夏が終わる。息子もそんな歳になったのだから。
「どうしたのよ。なによ、きもちわるい」
 茶々を入れて、自分もその雰囲気に飲まれないように、傍に置いておいた野菜をまな板に乗せる。青々としたオクラの頭をそろえて、ヘタを切り落とそうと包丁に力を入れた。
 夕方の明るいニュース番組が、小さい音量で景気の悪化を伝えている。
 目線を逸らした君子の耳に、息子の声が飛び込んできた。

「ボク、この秋に死ぬんだ」

 二つ目の頭を、半分まで包丁が入った。そこで     止まった。
「な、なに? どういう     え?」
 明朗に、はっきりと聞こえたその言葉。
 顔を上げた君子に、彼女の愛する息子はさっきまでと何も変わらない、彼独特の笑い方のまま、もう一度その言葉を口にした。

「ボク、もうすぐ死ぬって言ったんだ」

 包丁は、動かない。
 夕方六時からのニュース番組が、小さい音量で夏の終わりを伝えている。







レイイチ



1

 夏の終わり、とは。
 儚くも何か物事の節目として捉えるべきものであり、決して共有された終わりなどではない。終わりは同時に始まりを含有しているだなんて絵空事も、とうに響かなくなって久しい。真実を真実として受け入れる事に、飽食の時代が追いついてしまっていた。
 夏の終わり、とは。
 すなわち終わりは、ただの終わりであって、いたずらに矜持を二番煎じにするべきではない。
「今里くん、久しぶりだね」
 吹き消した蝋燭にも似た喪失感。あるべきものがそこに無く、またはあったものを無くしてしまった浮遊感。乖離性にも似た無重力の空間で、悩むべくものとして付随されたいくつかの案件を構成する。
「あ、え、そうだっけ? ま、しばらくぶり」
 今ここに自分以外の何かが置き換わる感覚。問題はそこまでの危機的状況を以てしても、未だ自分の意味について妥協しない傲岸不遜である。自分に似合う場所がここではない気がして、ジャメビュでもデジャビュでもない第三の知覚を味わう。
 教室の入り口から吹き込んでくる熱風が、中に滞留していた涼気を掻き乱す。誰かが口々に文句を言いながら扉を開けては閉め、着席し、ある程度の準備の後に椅子を引く。手段を省略して、机の上を乱暴に鞄で叩き付ける者も少なくない。
机の冷たさに心を奪われて、しばしの休息。
 まだ残暑、いやもはや残暑だなんていうおためごかしは不要である。まだ夏だ。続く夏と書いて     戯れに脳味噌を使う児戯でさえ、カロリーを消費して熱を持つ。急冷却ファンを頭の傍にでも置いておきたい願望を、ほぼ全ての生徒が滲ませていた。
「だって、なんか夏休みからこっち、学校に顔を出さなかったでしょう?」
「あー……、そうだね。そういえば」
「もう一週間だよ。私、心配したんだ」
「ありがとう……って言えばいいかな」
 そんな感謝は必要無い。
 冗談を笑顔で誤魔化して、本心を隠す女生徒が今里の肩を叩いた。一瞬よりも遥かに短い時間で触れ合った個体としての境界は、望んでも望んでもただの『一瞬』にしかならなかった。
 喜先(きさき)明日香(えすか)の一時的な夢が潰える。
「今里くんが来ないなんて珍しいね。無遅刻無欠席じゃなかたっけ?」
 確認なんて取る必要が無い。彼の事なら、知ってる。知っている。
「そういえば、あー、そうだね」
 ずっと見てきた。彼に出会わなかった十五年を呪う人生を伴った新しい出会いが、今も彼女を高揚させている。体温が教室の外気温よりも高くなっている自覚。アルコールなんてお神酒でしか摂取していないのに訪れる震え。眩暈、動悸、情緒不安定。悲しくないのに涙が出る不思議。生き物が生きる上で必要の無い筈の感情。
 自分が究極の謎の中にいる命題を、喜先は心地良く思っていた。
「惜しいね。休み長かったしね」
 夏休み終了前日に通った美容室で、店員が呆れるほど完璧なまでに処理してもらった髪型と、エステに通って作り上げた肌と体型。それを一番初めの一番綺麗な状態で見てもらえなかった不安も     すぐに消えた。気付かれない事に、少し憤りも感じるけれども。
「まぁ、またよろしく! 後半戦だしね」
 喜先明日香はそんな     どこにでもいると暫定するには語弊のある     恋する少女であった。
 真っ白で綺麗なキャンパスは、最初の筆を下す事にも逡巡してしまうほどに澄み切っていて、この世界のありとあらゆる汚悪から彼女を無知のままにしておきたいと思わせる雰囲気を纏う。
 その純真は、キャンパス台が粉々に砕け散る結末で幕を閉じた。

「あ、もうすぐ死ぬから後半戦は無いんだよ」

 空白。
 五感と思考が、黒く染まってしまった精神の渦に飲みこまれる。
「     え?」
 自分は今、どんな表情をしているんだろう? まだ微笑んでいる、あぁ、まだ微笑んでいる。さっきと同じ、まったく同じ空間なのに、同じ二人と同じ時間なのに。
「涼しくなったら……かな。死ぬんだ。だからあと少ししかいられないんだけど、それまでよろしくね」
 彼は笑うと八重歯が左だけ、出るんだ。そんなのを目ざとく知っているのも私だけ。周りの人は彼を、何処にでもいる、喋るのが得意なわけでもない、人一倍面白くもつまらなくもない、恰好良くもない、そんな人間だと思っている。
 私だけ。彼を素晴らしくて、どこにもいない人だって知っているのは私だけ。
 なのにどうして。
 彼が分からない。

「とにかくさ、あんまり時間が無くって」

      ……。
「……あ」
「忙しいのは嫌なんだけどね」
 触れている時間なら、涼しくなるまではとても長い時間なのに。
 どうしてだろう。
 とても     短い。



2

 決まって不変な日常を享受する怠慢を、人は安定や平和と呼ばない。
 毎日毎日、毎時毎時、毎瞬毎瞬が少しづつ、感づかれないような変化を繰り返している。それを一つ一つ模索していく事に疲れてしまい     慣れてしまい、誤差として認識している。
 かといって激変が『日常』であるわけでもなく、停止が停滞を生むわけでもない。
「お? お前やっと来たのか」
 そして時間も例外ではなく、進む駆動を止めない。よって目で得る情報として、時計は十二時を少し、四時限目の授業終了から数分を過ぎていた。
「母宮(ははみや)、また昼前に来たのか。お前も相変わらずだよ」
「一週間もブッチした奴には言われたくねーわ。どしたのよ。どーでもいいけど」
 肩に担いでいた学校非公認の鞄を下し、教科書が入っていない内情が見て取れる薄さのメインポケットから凍らせたお茶を取り出す。結露除けにタオルが巻きつけられたそれを、幾度か振る。熱気の中といえどまだ完全には溶けておらず、軽い攪拌音と固い衝撃音とがスムーズにかつ、グルーヴィにセッションした。
 蓋を開けて僅かに染み出した甘露を喉に流し込む。教室に入る前にも飲んでいたらしく、僅かしか無い液体に、彼は苛立ちの様子を見せた。
「さて、飯食おうぜ。俺、腹減ったよ」
「お前を見てると飯を食いに学校に来てるんじゃないかと思うよ」
 今里は弁当を取り出し、保冷バッグのジッパーをスライドさせる。どうやら母宮の到着を待っていたらしく、それは習慣とも捉れる自然さを感じさせる。
「それ何回言うんだ。こっちは頑張って起きて頑張って歩いて頑張って登校するってのによ」
 相対する母宮はビニールの袋を取り出し、ただサイズで選んだかのようなパンを三つ、彼の好きなねぎ味噌のおにぎりを二つ、そして柔らかくなったカップアイスを一つ、机の上に広げた。
 包装を豪快に破り、いかにも甘そうな砂糖化粧が施された丸いパンの端っこを齧る。
「お、お?」
「なんだよ」
 母宮の驚きを、今里が聞き返す。
「お前の弁当ってそんな色味無かったっけ」
 蓋が外された今里の弁当箱には、確かに彩が少なかった。アルミホイルで区切られたご飯にはふりかけも海苔も梅干しもなく、おかずは冷凍ものの唐揚げが四つに余ったスペースを席巻するマヨネーズ。撹拌されて和え物のようになった鶏の死体を、今里と母宮が覗き込む。
「なんかまずそー」
「……まぁ、色々あってね」
 気にせず二つ目のパンに手を伸ばす母宮。食べる順番も決めておらず、次に選んだのはソバ飯パンだった。
 口の中で咀嚼する物質が少なくなる度に会話を交わす。数分後には内容も憶えていないような他愛無い雑談。少ない情報と、目も当てられない生産性を内包した時間。
 本人だけが気にしている茶色い猫っ毛を適当にかき上げ、母宮が三つ目のパンを食べ終える。
 ふと心配が彼を襲った。
 目の前の友人にはどこか危なっかしい空気を感じる。話しているのに話していない。聞いているのに聞いていない。考えているようで     考えていない。
 それは生きているようで生きていないのと同じだ。
 まったく、俺以外にこいつと喋る奴もいねーしなぁ。人からはよく喋りかけられる癖して一緒に飯食う奴もいないしよ。
 決して迫害されているわけでも阻害されているわけでもない。蹂躙されてもいないのに。
 彼は関係を向上させる努力を放棄しているようにしか見えない。
 にも関わらず、関係の発生には非常に意欲的である。
「お前、それうまいの?」
「まぁ、唐揚げにマヨネーズだしね。まずくはない」
「なんだかコンビニのパンよりも健康に悪そうだな」
 浮かべた微笑み。愛嬌なんて高校生の男には無くてもいい要素なのに、左だけ垣間見える八重歯にはそれ相応の特徴がある。
 友人は押せば引く筈の労力を厭わない。構成力と持続力が無い。それはとても、危なっかしい。虚ろである。
 自分が離れていけば。そう考えると母宮は無性に苛々してしまう。彼の友人は、今里だけではない。けれど、今里の友人は、恐らく自分だけだ。
 この感情は間違っても優越感ではない。しかし、勘違いの自己犠牲に匹敵するくらいには有情な手助けであるはずだ。
 それでも、彼はいなくなった自分を責めもしない。着いてもこないだろう。ただ二人が一人と一人になるだけ。何も無かった状態に戻るだけ。
「なぁ、今里。あっついなぁ」
 アイスはもうジュースになってしまっている。
「涼しくなったらさ、どっか遊びに行くか」
 確かにそこにあったのに。溶けて無くなってしまった。

「あぁ、それは無理だよ。ボクいなくなるもん」

 最後の唐揚げを、バランス良くご飯と一緒に口へ投入した。
「あ?」
「涼しくなったら死んじゃうからさ、ちょっとさすがに遊びにはいけないね」
 手際良く弁当箱を片付けていく。膨らんでしまった蛇の腹の中よりは察しやすい。けれど、それは同じく裏切りにも結び付く。
 望もうが望むまいが、中にはもう何も無いのだから。
「何言ってんの。そうそう人間が簡単に死ぬか」
 ビニールの袋に、ゴミをまとめていく。対峙する心象が似通う。
「それが死ぬわけ。だからまぁまぁ用があるなら早い内に」
 くしゃり、と握り潰した。
 どうやっても中身はもう、見つからない。



3

 選択に取捨が付き物であるように、独白と意識は切っても切れない仲である。はたして客観視点を考慮したわけではない行動に、他人が介入する間隙は無い。そしてそれは無意識によって成し遂げられるほど酔狂な造形ではなく、一通りの動作をもって行われる『独白』には、自分と周囲とを隔離するだけの理由が必要になる。
 例えそれが認められないとしても。
「図書貸し出しカードの整理はもう終わってるから、今里くんは新図書の分別をしてもらえるかな?」
「はい、分かりました」
 自分自身に嘘を吐ける、嘘吐きとしての出発点を既に通り越して久しい。始まりは泥棒などではなく、突発的に迫る予測不可能な未来なのである。
「まったく、今里くんが当番だったのに……一週間も来ないから」
 呟くセリフも、愚痴ではない。謝罪を暗に求める会話の糸口であり、対象がそこにいなければいけない絶対的な制約をもって完成する。
「すいません、皆本(みなもと)先輩には迷惑をかけました」
「あたしだけじゃない、先生も、ほかの図書委員も、みんなあなたの仕事を代わってやってくれたのよ? 夏休み明けが忙しいのは、去年に分かってるでしょう?」
 それでなくとも今年は一年生が少ないのに。眼鏡の位置を直しながら、付け足す情報を忘れない。思考して、吟味して、選択を終わらせてからやっと自分は人間と接する。それはとても醜い。
 もしも人間に免許が必要なら、自分は仮免許すらも取れやしないのだろう。実技も筆記も、点数で合否を決める試験が、須らく彼女に不可認定を下す。
「それと今里くん、何度も言ってるけど、ハードカバーは分けてね」
 自分に比べて、この後輩のなんと人間的な事か。慌てて積み上げた本の中から、挟み込まれているいくつかのハードカバーを抜き出そうとして、タワーを崩す。打算も狙いもそこにはない。指摘され、戸惑って、無意識で行動して、失敗する。その一連の流れに、嫉妬を隠せない。
 もしも自分なら。もしも自分なら、まずきちんと本を整理してしまうだろう。万が一、分類に失敗してしまっても、注意された事には何も思わず、ゆっくりと本を分割して取り出すだろう。
 とても真似できない。決して許される人間像ではない。
「す、すいません!」
 あたしがどれだけあなたを憎く思っているか、あなたは知らないでしょう? 無関心を気取ろうにもこうやって分担している当番において、迷惑を被るのはこちらだ。不始末は誰かが負わねばならない。不文律すら、あなたには必要無いの?
 なんと憎らしい。なんと     妬ましい。
「せっかくの新書が埃だらけだわ」
「あぁ……あぁ……」
 そして最後には自分がやる事になる。床に落ちた本を、皆本が胸に抱えていく。僅かに五尺から足りない小さい体に、重い本を重ねていく。
 彼女は取捨する。非力を装って楽をしようだとか、他人に守ってもらおうだとか、そういう策は嫌いだった。よって行動に矛盾が無い。
「もういい、もういいから、あなたはラベルを貼っていって」
 指示して、自分は本の分類を始める。それと同時に、進めていた夏季休暇中の貸し出し数増幅申請書の返却完了カードを纏め上げていく。年々減ってはいるが、それでも量としては多い。
 どうして彼は何も考えずに幸せなのだろう。自分は、気にかかる事が多すぎて取捨しなければいけないというのに。
 去年の夏休み明けもそうだった。自分と今里は学年が一つ下がる点以外で同じだった。順序良く、要領良く仕事を減らしていく皆本と、仕事を増やしていく今里。去年も最後にはほぼ皆本の成果として委員を終えたはずだった。
 ちっとも成長していない。何も何処も変わっていない。
「……」
「な、なんです? また何かミスしました?」
 手を止めて彼を見つめる。
 恐らく日常生活ではそこまで不都合が無いんだろう。彼女の同級生大半と同じ、日々を何も考えずに楽しく過ごした方が幸せになれるという、名前の無い宗教に取り込まれた人種なのだ。個人や、自分なんていう固定概念と先入観に縛られて、没個性から抜け出せない哀れな羊。
 出来る事なら、あたしは太宰になりたい。偏屈で気まぐれで不幸で、それなのに尊敬を向けられる存在として、自分を肯定したい。
 まさに人間失格だ。
 文学少女にも成り切れやしない自分の、他愛無い妄想。幻想が襲って、止めどなく溢れる自分の不幸を抑え込む。失敗したのは自分で、それを知っているのも世界で自分だけ。だから責任は自分にしかなく、どうしようもない怒りと悲しみは、発散される先を知らない。
 許される終末が無い。
 小難しい本ばかり読んだからだ。物事を深く視野に入れ、理由を必要としてしまう苦痛を作り出してしまったのは、他でもない自分なんだから。
 無知は優などではない。無知こそが、幸せの最終であり、全知こそが未来への懸け橋である。
「三冊前から番号ずれてるのよ」
「え!? 本当ですか!?」
 どうして嘘を吐かなければいけないのだろうか。疑うべきは自分自身であるはずなのに。ミスを繰り返す自分よりも先に、見つけ出して助言した相手を疑心するなんて。
 おこがましい。なんと汚らしい。
 自分の恐ろしさを何も分かっていないのね、あなたは。何処までも、何処ででもそうやって周りにいる無個性に馴染んでいくんだわ。そして一握りの『人間』であるはずのあたし達を、みずぼらしくさせる。
「秋休み前にはもっと忙しくなるのよ? もっとてきぱき動いて」
 ほらそうやって笑う。
 繰り返される繋がりに疑問を持つ。半透明であるから美しい、と誤解させる流布を断ち切る空洞。曖昧なものを曖昧なままにしておく窮屈。
 皆本の憂いは消えない。目地に入り込んだ黴は薬品で落とせても、心を覆う錆を磨くコンパウンドは存在しない。
 得てして不幸はゴールなのである。終着してしまっていて、そこから先にはもう何処へも行けない。
 はずなのに。

「あぁ! 死んじゃったらまた迷惑かけちゃいますね」

 頭をかいて笑う。
「死ぬ? あなたが?」
 それは皆本の記憶の中ではおよそ初めてだと断定できる、咄嗟の一言だった。一年半もの間、彼と図書委員をしているからこそ知っている、彼の笑顔。左八重歯が顔を見せて、何の屈託も無い、心配の無い瞬間に見せる、彼の持つ中では最も喜楽が発現した表情。
「涼しくなる頃には死んじゃうんで、次の図書委員も決めておかなきゃいけないですね。大丈夫です。ボクよりもっと仕事ができる奴を探しておきます」
 違う。そうじゃない。
「何を言ってるの? 分からないわ」
 広がっていく思念の海に飲みこまれる頭芯を引き戻す。強く、強く引きずり込まれる。
 突きつけられた逆境に取る術が無い。鬱蒼とした手段の畑から、どれを選んでいいか分からない。選べないから     取捨できない。
「えっと、私事なんですけど、この秋には死ぬんです、ボク」
 分からない。
「死ぬって、え、何が言いたいの?」
 どうしてあなたはそんなに笑顔なの? どうしてあなたはそんなに幸せそうなの?

 どうしてあなたは生きているの?

「そのままですよ。ボクはこの秋には死にます。皆本先輩としては、嬉しいかもしれないですね。ボクはちょこっとだけ寂しいです」
 そうじゃない。
 否定は生まれては消えていく思念にはなるものの、言葉として伝えられない。口笛よりも簡単な合図、禁じられた絶叫。
 崩れ去る本と、散らばっていく図書カード。風に負けて幾枚が机の下へと舞い、滑り込んでいく。あまりに軽い紙の証明が、紛失されていく。
 確固とした形の無い約束。中身の無い現実。
 それなのに、受け止めらないほどに重い。
 自分の場所を彼女は失った。



4

 困難に立ち向かう。努力は頑張れば必ず実る。夢を諦めてはいけない。自分を信じて。
 過去から今へ、今日から     恐らく明日も。連綿と重なる華美に装飾された具体性の欠片も無い概念。
 真実。
 それは事実だ。
「兄ちゃん、死ぬって本当か?」
 秘めた感情こそあるものの、抑揚の無い、フラットな心象イコライジングの声。
 内実を何も知らない人間からすれば同い歳の友人同士に見える二人の少年が、夕焼けの丁字路で向かい合っていた。何処まで逃げても追ってくる太陽は、まるで誰かの悪事を白日の下に晒し、後悔と懺悔の報いを味わわせようと躍起になっているようだ。
 あながち間違いではない。一つしか違わない年齢、それも四月生まれと二月生まれなので、実質的な差は二か月。たった二か月が分けた学年という括り。
「……事実(ことみ)」
「答えろよ。学校で聞いたんだ。兄ちゃんがもうすぐ     秋くらいには死んじまうって」
 羽束師(はづかし)事実と今里真の家は空き地を挟んで隣合わせであり、少年時代を共に過ごしたいわば兄弟に近い関係である     と言えれば、どれだけ両者が納得しただろう。
 友人、兄弟、先輩後輩     その全てが正解で、その全てが間違いである。
 希望と虚無。
 端的に言い表すならば、二つの影はそう呼ばれる。
「そういえば母宮が騒いだからなぁ。お前にはきちんと言おうと思ったんだけど」
 一気に沸点に達した事実の体が素早く動き、今里の胸倉を掴み上げる。足が持ち上がるほど力の込められた動作に、しかし表情を変えない。
「誤魔化すなよ! 聞いてねぇよ、そんなの!」
 握り締められている学生服の襟元から、一つボタンが落ちた。反響する雑音の波形が集中を招き、縁取った『いつもの』を蝕む。
 怒りで顔を赤らめ     さながらそれは夕日のように     なおも力を加える事実を、宥めるでも諌めるわけでもなく、今里の口から息が漏れる。
「お前には、分からないよ」
「はァ!? こっちこそ分かんねぇよ! どうしておれに言ってねぇんだよ!」
 唾が銃弾になり、怒号が光流の呼応になり、言葉が無為に響く。残響だけを残し、烏の鳴き声に吸い込まれ、また静寂。遠くで風鈴の調べ、五時を知らせるノイズ混じりの放送、続いてベルが高らかに赤い空を渡る。
「夏休みもずっと連絡取れねぇし、家に行っても出てこねぇしでおかしいと思ってたんだよ! 兄ちゃん、なんで死ぬんだよ、教えろよ!」
 問い掛けはすぐ懇願に堕ちた。涙が濁らせ、持ち上げていた腕が下がっていく。為されるがまま、今里の目が映す景色を、事実は知りたくはなかった。
 理由を求めていたはずなのに、それを知るのは怖い。
 これまで、ずっと信じてきた自分の信念が、根底から掘り返されるかもしれない。
「事実、悪いと思ってるよ。実のとこ、お前に教えるのは嫌だったんだ」
 悉く、自分の希望を自分の手で掴んできた羽束師事実には、沈まない夕陽にも勝る真実だけが付随した。困難を乗り越える成長に意味を求めた。掴んだ夢が素晴らしいと自慢できた。叶わない願いなんて無いと断言できた。
 ただひたすらに、少年漫画の嘘を真実に塗り替えていった。
「お前は、たぶん、怒ると思ったから」
「怒る? 怒ってなんかない。怒ってない」
「嘘だ。喜先さんも、母宮も、皆本先輩も、どうしてそんなに怒ってるんだよ。しょうがないだろ。死ぬ人間に、いなくなってしまう人間に、どうしてそんなに熱くなるんだ」
 目を見開き、事実が拳を振り上げる。
 ふと脳裏に今里の顔が浮かんだ。
 目の前にあるはずの顔が、今まで浮かべてきたものを。
 幼稚園で遊んだ遊具につまずく顔、集団下校を五年も付き添ってくれた最後の日の顔、中学校も一緒だと知って喜んでくれた顔、勉強もせず学校にも行かずに遊びほうけていた自分を叱った顔、同じ高校に入ると宣言した事実を励ましてくれた顔。
 澄み切った群青色をした流線形のメロディ。頭を支配する疑問符に、自分が遭遇した今までとは比べ物にならないレベルの困難。
 それらが、事実の拳を止める。
「兄ちゃん……」
 今正に殴り抜けようとする姿勢のまま静止した拳を、空虚な眼で今里は見つめる。
「もう知ってるんだろう? ボクが死ぬ理由」
 びくり、と。事実の心臓が跳ねる。
 暑さのせいだけではない汗が噴き出る。
 頬を垂れ、重力に任せて地面へ向かう。一滴の汗が、事実の夏服を環形に染めた。
 一つ、一つ。
 一滴、一滴。
「今日はもういっぱいいっぱいだよ。殴られるのも、いっぱいいっぱい」
「     だからって!」
 汗は、涙へと遷移して、溢れ出る。

「だからって自殺していいわけねぇだろうがぁ!」

 遂に、静寂が打ち破られる。
 激しく肉を撃つ短い轟音。堪らず今里が体を二歩、三歩下がらせる。殴られた部分が、熱い。まるで太陽に触れたみたいに。決して会い見えるはずのない平行する両端が、合致してしまったのを、無理矢理に捻じ曲げて主張した反作用。
「痛いよ」
 想いが、重い。
「でも事実、聞いてほしい。ボクは決して不幸なんかじゃない。それどころかとても幸せなんだ。気だるげに一日中寝ていてもいい休日のまどろみみたいに、ひしひしと感じるんだよ」
 睨みつけていた事実は、大好きな友人が、兄弟が、先輩が     笑うのを直視してしまった。ずっと一緒に遊んできた自分だからこそ、分かる。左の八重歯を見せる彼の笑顔が、本当に幸せな時にしか見せないものだと。
 悔しさに、歯を噛みしめる。
「事実、ありがとう」
 お礼なんていらない。ただ何時までも馬鹿みたいに遊んでいられたら、それでいいのに。
 直情の狭間に、事実がふらつきためつすがめつ迷い込んでしまった砂上の楼閣は、どれだけの美辞麗句を並べても、嘘にしか成り得ない絶対的な強固堅牢さを誇っていた。地面から直接、形の無い想念が生えている奇妙な幻覚が、万華鏡よりも三半規管を揺さぶる。
「どうして死ぬんだよ、幸せなんだろ? 兄ちゃん、幸せだって言ったじゃないか」
 捻り出される反撃。
 今里は苦笑して答えた。

「事実には、分からないよ」

 突き放されたようにも、宥められたようにも捉えられる今里の答えに、事実は立ち尽くしてしまう他に無かった。
 家路に戻る今里の背中を追えない。
 太陽へ向かう今里の背中を、事実は負えない。



5

 流転する時代が置いていく片割れの思想。
 主流文化と沿主文化の螺旋。
 叶った夢と叶えられなかった夢。
 同じものが違うものへと別れる一方通行侵入五叉路。
 田畑の畦道を歩く白いワンピースの少女。トラクターの音。橋の下。パンの耳。煙草。馬鹿そうな柴犬。目を細める猫。夏。風鈴。西瓜。音を立てて罅割れる氷。薄くなった麦茶に注ぎ足される暖かい玄米茶。日差し。刺す紫外線。川原。石の下の沢蟹。岸から釣るブラックバス。服に張り付いて離れない種子。泥だらけの菓子パン包装ビニール。退色したファンタグレープの缶。アスファルトとの継ぎ目が曖昧な駐車場。鳴く蝉。群がる大紫。温い枇杷。扇風機の正面。親戚の家。夏。縁側。蒸す雲。涼しくならない豪雨。迫り来る台風。外に出た危機感。慣れた日常。宿題。褒められていたあの頃。まだ自分の汗が綺麗だった頃の記憶。そうめん。戻した干しシイタケと干しエビの入ったつゆ出汁。わさび。卵黄。一人で見た映画。人と見た映画。遊び狂った部屋。ただ歩いた道。向かった先。水色。遊園地。クーラーが吐く涼風。夜ってだけで楽しい。パソコンから放たれる放射熱。冷たい机。薫る畳。跳ねのけた布団。汗を吸ったシャツ。張り付いて離れない紙。泣いた。白い夏。酷く匂う川。水位が下がった池。放置された車。割られたフロントガラス。そのままにされたビデオテープ。赤い髪。焼けた肌。翠の自転車。楽園。カブトムシ。住居不法侵入。ジムノベティ。黒いギター。歩く。走る。自転車に乗る。バイクを転がす。車を出す。電車を利用する。飛行機で運んでもらう。タクシーを呼ぶ。バスの匂い。熱いマンホール。意味の無い空想。中身の無い妄想。叶わ無い幻想。追い付け無い夢想。似合わ無い夜想。受け入れてもらえ無い仮想。
 無い。
 わたしにも君にもあなたにもボクにも無い。
「何も無い」
 廻るが早く、見えないのなら。
 あなたもそうでしょう?
 だってそんなに傷ついて。
 だってそんなに嘘ついて。
 なんて、無意味。










ゼロニレ



1

 学校にまだ彼の姿が無い。
 教室でそれを確認した母宮月助(つきすけ)の向かった先は、一つ上の階で同じくこちらに向かって歩いていた事実の元だった。
 無言で挨拶を終わらせた二人は、昨日の夜に話し合った計画を実行に移す最後通告を下した。もう止められやしない。動き出した計画はただ練りに練られた道筋に沿って進んでいくだけだ。
 歩く。歩く歩く。
 リノリウムと呼ぶに相応しい廊下を足音も気にせずに闊歩する。並んで歩くのを非常識だと捉える余裕があるなら、そもそもこんな計画を立案して再考して推敲なんてしない。全てが杞憂ならばと願うだけの蜘蛛の糸だけしか残されていないのだ。
 通り過ぎていく生徒が口々に二人の顔を見てざわめく。当然の処遇。昨日の僅か数十分の間に、多くの生徒が今里の行動を知ってしまっている。知っている人間は知らない人間には戻れない。よって共有するだけの話題がそこに生まれる。あとは揶揄し囁き嘲笑う。よくある冗談と本気の区別がついていない。母宮が眉間に皺を寄せて群衆の間を縫う     否、裂く。
 羽束師事実の眼光も負けずに光る。周囲にこそ飛ばしていないが、質量があるのではないかと不安にまでさせる覚悟を、全身から発している。
「羽束師」
「なんですか」
「俺のやろうとしてる事って、間違ってんかな」
 問う。答えはすぐに韜晦へと変わる。
「母宮さんだけがみんなと違う方向を向いてるってんなら、そりゃあ、他の全員が間違ってんですよ」
 確認事項。揺らぎを自信へと変える。膨れ上がった自分への欺瞞や疑心が、生じる度に変換されていく。原動力や、行動力や、やる気と呼ばれるものがそれだった。
「だな」
 ぎらぎらときらきらの違いを分かっている人間は、雲霞ほど多くは無い。許された結末に、程遠い絶望を与えられる運命に     刃向うほど愚かではないつもりであった。
 二人が望むわけがない。
 頭でどれだけ理解をしようにも、そこにあるのは分かりきった喪失を補う愚行を許せない。
失いたくないのなら、ただ抗うだけの我儘を。
「いた」
 母宮の視線の先には、二人が共通して『大切』を認識する一つの宝物があった。目の前を通り過ぎていく上辺だけの覚悟じゃない。あくまでそれは二人の決意の証拠以外ではならないのだ。
 それはひどく幸せそうに見えた。二人をさらにざわめかせる表情。
 歩いているだけのなのに。同時刻に登校する生徒の輪に入り込み、指を差されて嘲笑され、馬鹿にされて、忘れ去られていく。
 不遇なまでに危機。耐え切れない悪意。
 それでも彼は八重歯を見せ、目を細めるのだ。
「今里」
 彼は笑みを浮かべたまま、顔を向けて、次に体を止めた。
「おはよう。珍しいね、君らが二人でいるなんて。中学の時みたいだ」
「今里。ちょっと来い」
 今里は彼らの誘いを予想していたかのように、自然と進行方向を変えた。場所すら口にしていないのに、計ったように。
 頷いた母宮と羽束師も、虚を突かれた。誘った側が誘われた側に着いていく不自然。しかもそれが意図していたはずの場所へと向かう不思議。
 人気の少ないところへ。誰からも傷付けられない、誰にも影響しない秘密へ。
「そうそう、昨日さ、掃除してたらさ、すっごく面白い漫画見つけたんだよ。君か事実にあげようと思うんだけど、じゃんけんでもして決めてほしいな」
「は?」
「いやだから、漫画。せっかく買って、面白かったんだけど、どうせ捨てられちゃうか売られちゃうから、それだったら誰かにあげていこうと思って」
 どうして。
 そう変わらない口調で、いつもの今里がいるだけなのに。
「今里、お前さ」
 彼の話していることが分からない。
「もう一回だけ、最後にもう一回だけ確認させてくれ」
 足を止める。目的の校舎裏へと辿りつく。裏手が小さい山の始まりになっているここは、人目に隠れて何かを行うにはうってつけだ。
 まだ日が低いというのに、うだるにもうだれない暑さ。湿気を伴った日本独特の熱気が充満している。濃縮された緑の匂いが三人を包んで離さない。
「お前、本当に死ぬのか?」
「うん。死ぬよ。けっこうボクって計画通り進められなかったり、多分とか、恐らくとか、そういうのばっかりなんだけど、死ぬのは絶対に決まってるんだよ」
 晴れやかだった。状況が違えば映画のワンシーンにも当てはまりそうなくらいに、明るくて爽やかな笑顔だった。
 心が締め付けられるなんてもんじゃない。自然と息が荒くなるのを二人は止められない。
「やっぱりそうみたいだな」
 対して迎え撃つ母宮の表情は固い。じっとりと暑さのせいではない汗をかいている。夏服の下に着込んでいる黒いシャツすら透けてしまうほどに。
「お前には呆れたよ。馬鹿だ。馬鹿のやる事だ。死ぬなんて、お前それがどういう事か分かってんのか」
「分からないと出来ない事だよ。それにボクは馬鹿じゃない。中途半端に賢いから、そうなっちゃっただけだ」
「いいや馬鹿だ。イカれてる。そんなに簡単に死ねるって言える人間が賢いわけがねぇ」
 毒吐く母宮の言葉を受け止めていた今里の顔が歪む。
「簡単? 母宮、お前今、簡単にって言ったか?」
「そうだろうよ。そんなにこやかに言える言葉じゃねぇんだよ!」
「いいや、言える。だってボクにとって死ぬっていうのは幸せの一歩目なんだから」
 それに。
「それに簡単なんて、そんなわけないよ。ボクだって知らない前までは怖くて言えなかっただろうけど、今は違う」
 いっそ何も出来ないくらいに、誰にも気付かせないくらいに、一人で死んでくれていれば。
 いっそ何も知らないくらいに、誰でも気付かないくらいに馬鹿だったならば。
「事実も聞いていてほしい。ボクが簡単に死ぬだなんて言ってないって事。それに、ボクはみんなに心配されるような事をしようだなんてしていないって事」
「兄ちゃん……」
 今里は知ってしまった。故に怖くなんてない。
「車が怖いって子供の時に思っていても、大人になったら平気で運転できるっていうのと同じだよ。死ぬのが怖いと思っている人も、いずれ分かる」
「分からねぇよ!」
 事実の激を母宮が制する。そして二人が睨み続ける今里が次に放った言動は、より二人を困惑させる。
「だってみんな死ぬんだもの。それすら楽しめないなんて」
 目を細めてこちらへ流す。見下しているようにも、同情しているようにも捉えられる、腸捻転して煮えくりかえった内臓が惑乱する視線。
 溜息すらもったいないと、今里の瞳が濁る。

「なんて無意味な不幸」

 走り出した爪先を、横で発射された質量の大きい弾丸を、母宮は抑えられない。全体重をかけた拳を、昨日の夕方よりも想いの籠った羽束師を、踏みしめた土を蹴り上げて向かっていく物語の主役を、母宮が止められるわけもない。
 自覚して、見逃した。動けば止められ得る、なんてものじゃない。そもそも間に合うかどうかも分からない数瞬の内に、母宮が出した結論だった。
「この     」
 そして驚いたのは羽束師事実だった。
 いまだ奇妙な笑みを張り付けて立っている兄に等しき人物の顔。それがまったく他人のものに見えたからだ。目標を見つめた脳が、勝手に人違いを想起してブレーキをかける。
「え、     あ?」
 知っている人物じゃない。さっきまで話していて、今もしっかりと見れば顔も同じで、背格好も良く知っていて、ポケットから飛び出している携帯のストラップも、羽束師が前にプレゼントした可愛いステゴサウルスと同じだ。
 なのに、その表情。
「おい、おいおい!」
「事実、母宮。ボクはすごくうれしいんだ」
 二人から目を離して、空を見る。葉に遮られた水色が、白い光に飲み込まれている。
「こんなボクに、そうやって心配してくれる人がいるっていうのは、本当に幸せなんだ。うれしいんだ。涙が出そうだ。これは本当」
 誤魔化すように目をかく。
「でもね、聞いてほしい。ボクは決して逃げてるんじゃない。進んでいるんだ。終わりじゃない。始まりなんだよ。君らにとっちゃ、馬鹿で有り得ないって、そう言うんだろうけれど、それは違うんだ」
 息を呑むしかない静寂の中で繰り広げられた場違いな雰囲気を持つ解答。
「もう戻れないんだ。生きるっていうのは、時間が過ぎるって事だ。タイムマシーン搭載したデロリアンか、風呂敷を被るか、アンドロイドをショートさせるか。そうでもしない限り時間は戻っちゃくれない。戻っちゃくれないと     間違いを正せない」
 快晴が憎らしいほど三人に突き刺さる。じんわりと肌を蝕む湿気が邪魔で、拭いたいけれど振り払えない。表し様がない屈辱。
 周りの世界が虐待をしかけているようだ、と母宮は眉を寄せた。
「間違えたんかよ。お前、どっかで間違えたってのか?」
「その通り。母宮の言うとおりだ。ボクは間違っちゃったし、でもそれを取り戻すには時間が戻らない。足りない時間ならまだ手は打てるけど、そもそも無いもんだし」
「だからってリセットボタンを押すのはただ逃げてるだけだ。間違えた人間は、間違えた人間として生きるしかない。責任を全うしたと自覚するまで、生きるしかない」
「はは、そう言うと思った。事実もそうだもんね。ずっと自分を信じて、届かない目標に手を伸ばして、努力して掴み取って、母宮だって自分の生きる道が確かにあって、それが正しいと信じてる。でもね、ボクは自分を真面目だと思ってたけど、そうじゃないみたいなんだ。粘着面同士で張り付いちゃったテープを再利用するくらいなら、ボクは捨ててしまう」
 あまりに明け透けに自分の人生を再利用できないゴミと決め付けた今里が、平行線をひた走る会話に終止符を打たんとする。
「なんだろ、申し訳ないって気持ちは確かにあって、それがいわゆる『ふつう』とは真反対で、受け入れてもらえないっていうのは分かってるんだ。でもだからってそれに負けやしない。ボクは笑える内に死んでしまいたい」
 優しくなる前に死んでしまいたい。
「今里     」
「もうすぐ授業が始まるよ。ちょっと用事があるから、先に行くね」
 木陰から出て、今里は日差しを見上げて「暑いというよりもはや熱いよね」とコメントを残した。何も変わらない。ここにあった時間は、彼を何も変えやしなかった。
 痛感が身を貫く。まるで茹でた鶏肉のように、繊維に沿って自分の体が裂かれていく。
 フィジカルをメンタルで補う本来の生命機関から追い出された気分を味わう。
「お前、どう思うよ」
「兄ちゃんを止めます。今の兄ちゃんは多分、どうかしちゃってるだけなんです。そんな大それた事を考えられる人じゃないんです」
 帰ってきた確かな情念。しかし母宮はまったく違う印象を保持している。
「今里が間違ってる。それは分かる。けれど、俺らに止める権利なんてあんのかな」
「何言ってんですか! 母宮さんまでおかしくなんないでくださいよ!」
「いや、なんつーか……。誰がどうに見てもあいつは逃げてるんだけどよ、それをあいつ自身が『進んでる』って思うんなら、俺らが『止める』なんて、そんな権利があんのかな」
「そ……、でも」
 沈黙。
 およそもっとも夏に似つかわしくない流動反転。
 でも、それなら兄ちゃんを失うおれはどうなるんだよ。
「行こう。授業が始まる」
 校舎まで二人は歩き、入り口で別れた。建物に入ってすぐ、階段があるからだ。二年生である母宮は三階、一年生である事実は四階である。だがアルファベットで分けられたクラスの内、J組から数えた方が近いクラスは、直線に建立された構造上、必然的に校舎の南側になる。
 I組である事実だけが、入り口付近に設置された踊り場を経由する階段を上る。
 B組である母宮は中央にある折れ曲がらない階段を上る。
「じゃ……また、後で」
「おう」
 別に三階まで一緒に上っても良かった。そこまで大した距離ではない。わざわざ省略しなければいけないほど、時間が無いわけでもない。
 ちらほら遅刻を焦る生徒が忙しく歩く。少し賑やかになった階段付近で、二人の間だけ別離の道程が敷かれる。
 事実は自然と自分の口をついて出た言葉を後悔する。母宮に悪い感情を与えなかっただろうか。気を悪くしていないだろうか。
 一人になりたいわけではないのに、一人を選んでしまわざるをえない。
 職員室や保健室が並ぶ一階廊下に消えていく後姿を目線で追う。
 考えても仕方がない。事実は自分の教室へと段を上がっていく。
 一方、中央階段の前まで来て母宮が取った行動は、いつもの彼と似ていて非なるものだった。
 彼は学校生活に特別な必要性を感じてはいない。出席をして授業を受けて、赤点を取らないように勉強して、良い進学先や就職先を見つける。そういう大前提を頭の奥底で理解はしているが、それは眠気やだるさに勝てるほど強くはない。有限な時間を、理解はしていない。しようともしていないからだけれども。
 なので遅刻の多い問題児である彼だったのだが、今日は違う。
 学校にいる。もう一分もかからず自分の教室だ。
 ここまで来て授業に出なかった事は、彼の記憶の中でも無い。おおよそ登校する為に自分のベッドを降りる頃には、倦怠感を撃退する覚悟をしているからだ。
 階段を上らず、そのまま通り過ぎる。すると北側にある校舎出入り口へと到着する。南出入り口よりこじんまりとしたガラス戸を開き、また外へと出たのだった。
 校舎の中では遮られていた陽光が身を刺す。冬になれば動かなくても汗をかく太陽が懐かしいと思い、夏にある今は寒さなんて服を着込めば問題無いと風を懐かしく思う。
 南出口の前は体育館になっており、一時限目から体育である不幸な少年少女が口々に不満を漏らしていた。出て左、更衣室の方へ向かう。
 そのまま通り過ぎ、食堂へ。おざなりに設置された自動販売機に硬貨を投入して冷えた炭酸飲料を購入した。
 体育館の裏側は、わずかな隙間を残して人通りの無い道路と区切られている。茶色のフェンスの持つ無意味な強迫観念を、今だけは強く感じる。
 自問自答を繰り返す。
 果たして今里はどこでどう間違ってしまったんだろうか。俺達のやろうとしている事は間違っているんじゃないだろうか。死ぬと言われれば面倒になって見捨てるほどに俺は今里と仲良くなかったんだろうか。この先に何十年と続く人生で彼と別れない確証があるだろうか。高校を出れば就職や進学にうつつを抜かし、懐古を楽しむ余裕も無くなってしまうんじゃないだろうか。
 内から出た言葉に、夏には相応しくない寒気を覚える。
 数十年。
 それは今まで生きてきた時間のいったい何倍だろう。
 これから先、俺はどうして生きていくんだろう。
「いっその事、楽しい間に死んでしまうのも」
 今里は逃げているわけじゃない。進んでいると断言できるまで自分を追い込んでいる。しかし、それはあくまで『死ぬ』という現象を大袈裟に捉えすぎているだけではないのだろうか。実際にはそこまで自分の人生なんかに意味は無くて、奇しくも今里の言ったようになんて無意味な苦悩だと称するに眠気ほどの逆風は無いのではないだろうか。
 なぜ、生きているんだろう。
 俺はどうして生きようとするんだろうか。
「くっそ、あいつ……俺は嫌いなんだよ、こういうの」
 緑色の缶に封入された透明な炭酸飲料を流し込む。嫌な思考、面倒な感傷、見たくない未来、対面する時間という拷問、それらを一気に流し込もうとして     無駄な努力を悟る。
 校舎の壁をずり落ちる。吹き付けられた塗装面が、不規則な摩擦を以て制服とシャツをかき乱す。
 足元の影。湿った土の匂い。地面から生えている草にいくら程の価値があるんだ。歩いている蟻にどれほど影響を受けるっていうんだ。他人からすれば俺もこれくらいの価値でしかなくて、何なら喋って意思疎通できる分、より鬱陶しい存在なんじゃないのか。
「母宮くん」
 声が降ってくる。真昼間に棺から放り出された吸血鬼よりも陰惨な眼光を、そちらに向ける。
 立っていたのは同じクラスの女子生徒だ。顔くらいは知っているし、話した事もあるはずの彼女。だが母宮の知っている彼女は学校を病欠する事はあっても授業をサボタージュするような生徒ではなかったし、何よりも泣いているのかどうかすら判断できないほど情けない笑顔を浮かべる人間でもなかった。
「喜先。お前、何してんの」
 喜先明日香が立っていた。もはや全生徒の六割が特徴的な蒼い襟カバーを外している中で、未だに上から下まで服装規定に反さない生徒は少数派になっている。
 ふくらはぎを隠している白いハイソックスが眩しい。鈍く光る銀色のワンポイントは彼女の最大限のオシャレなんだろうか。見上げているのも失礼か、と母宮は立ち上がろうとした。
「いいの、座ってて。ちょっと私もいい?」
「それはいいけども、お前ってそういう事しなかったくないっけか? 優等生のくせに」
「いいよ、もうそんなの」
 こういうのってやっちゃうと意外に怖くもないね、と喜先がいつもよりも弱々しい笑みを浮かべる。
 はて。母宮を覆っていた疑問に新たな問題が追加される。
 喜先明日香。確かに授業が始まりそうな     いや、もはやチャイムは先ほど鳴っている     時間帯に教室の外をうろついている人間じゃないはずだ。真面目でそつなくて、目立ちもせず騒ぎもせず。よく笑う印象があるものの面白い話芸や冗談を持つタイプではない。
 どうしてここに。
「注意でもしに来たのか? 俺は戻らんぞ。ちょっと今日は考える事が多すぎる」
「あら、私も実はそう。しかも母宮くんがすっごくそれに関係してるんだ」
 流石に母宮の奇異の目が光る。
「はぁ、男の子と話すのって緊張するね。心臓うるさいし、変な汗かいちゃう」
「なに、なになに。お前どうしたのよ」
「うん、ちょっと。さっき、あー、たまたま廊下歩いていたら母宮くんを見付けて、それで話がしたいと思ってついてきたんだけど」
 母宮の研ぎ澄まされた視覚が胸ポケットのハンカチで止まった。濡れている、ということはトイレにでも行ってたんだろうと当たりをつける。それで五分前には教科書と筆箱を用意しはじめるこいつが俺の姿を見付けられたんだろう、と。
 勿論、それを指摘するほどデリカシーが無い母宮ではない。それよりも、この喜先が自分について考えなくてはいけないと言い、わざわざ真面目人間が授業をブッチしてまでここにいる。
 これは勘違いくらい、許されてもいいんじゃないか。
 今里だけでも面倒なのに、ちょっと、あー、めんどくせぇ。
「喜先、すまんけど今さ、俺、けっこう大変なわけ。お前の気持ちは嬉しいけど先手を打って断っとくしよろしく」
「? 何が?」
 きょとんとされても。こっちこそ反応に困ってしまう。
「いやだから、お前が持ってる淡い感情は無駄になるからちょこっと待っててって話」
「え!?」
 突然、発された大声に母宮の方が驚いてしまう。思わず身を避け、喜先と反対側の地面に空いていた右手をつく。零しそうになった炭酸飲料を気にかける前に、喜先は体ごと乗り出して母宮に肉薄した。
「それどういう意味!?」
「え、いや、え?」
「待ってたら今里くん死んじゃうじゃない! それなのに待っててって!? 信じられない!」
「はぁ? お前、なんで今里の名前が出てくるんよ。あれ、ちょっと待て」
 興奮して鼻息を荒くする喜先を押し戻す。閑話休題と缶を傾け、落ち着きと冷静を念じる。
「今里? お前、今そう言った?」
「     言……ってない! 言ってない!」
 今度は喜先が動揺する。熱気した顔の前で手を振り回し、付着していた土をまき散らす。それが理解できないほどに飽和した彼女の脳内は、更に混沌とした混乱を生み出す。
「言ったろ! お前、今里って絶対に言った!」
「言ってない! 今里くんなんて言ってないし、母宮くんがそう言うの聞いて、それで言っただけで、しかもそれは母宮くんの勘違いで! ていうか別に言うくらい、いいでしょ!」
「良いとか悪いとかじゃないだろ! お前、知っててその名前出したろ!」
「出してない! だから、勘違い! あー、もぉ! なんか分かんない!」
 白熱した舌戦の末、振り回していた喜先の手がぐん、と前面に伸び、中腰になっていた母宮を突き放す。あっさりとアンバランスなまま倒れていく母宮の顔面に     彼の持っていた缶が降り注ぐ。
 八割方残っていた質量の衝撃と、眼に沁みる強炭酸の刺激に、母宮は割と大きな悲鳴を上げた。



2

 皆本幾絵(いくえ)がどうしていつも苛ついているかを、彼女のクラスの人間も、親も、兄も、図書委員も司書も知らない。
 その理由は彼女以外の誰も知らない。そしてその理由は彼女ですら取捨できない門外不出の汚泥だ。積り重なってヘドロとなるばかりで、清掃業者も善意のボランティアも存在しない。
 彼女が苛ついている理由は、彼女以外には分からない。
 ただ、その苛つきを一瞬とはいえ消してしまった後輩の顔が、めくるめく思考の渦に浮かんでは消える。一度、浮かんでしまえばもはや消すこともできずに漂ってしまう。
 朝から体育館で創作ダンスの授業が入っている事も、ほんの少しだけ彼女の思考を乱れさせてはいるけども。
「はい、はい、文句ばっかり言ってないで立つ!」
 もうすぐ定年を迎えるであろう女性教師の手拍子と掛け声が鳴る。てきぱきとした口調と、糊のきいたワインレッドのジャージを皆本は見つめていた。
 男子生徒の授業は柔道であり、今ここには女子生徒しかいない。外面の見目麗しさを団栗よりも競い合う有象無象が持つ自己規律の崩壊すら感じさせるだらけ具合だ。
 言われずともチャイムの音を合図に立ち上がっていた皆本が列を形成する他の生徒に紛れる。どうせ成長するのだから、と少し大きめに買わされた体操服が、予想とは裏腹なまま育たなかった肌との間に空気を孕んで更に暑苦しい。
「まず準備運動して、それからボックスステップね、はい、1、2、3!」
 無意識でも体は周りと同じ行動を取る。一番前に並んでいる皆本は、教師にもっとも目につけられやすい位置にいた。
 もう二年半も繰り返した準備体操だ。今更、手本が必要なものじゃない。
 脇腹の筋肉を伸ばしていても、明像がストロボのように点滅する。ちらりと見せた八重歯と、笑顔。細められた目と揺れる前髪。
 どうして気にかかっているんだろう。少なくとも恋や愛情なんていう洒落た気持ちじゃない。照れ隠しや自己弁護ではなく断言できる。
 あたしは今里が嫌い。苦労しているあたしが報われないのも癪に障るし、仕事を増やすだけで一向に成長しない彼に吐き気すら憶える。どうして『死んでいない』彼よりも、『生きている』あたしの方が幸せじゃないんだろうか。
 これは嫉妬だ。分かっている。常日頃から他人に抱く自分のエゴイズムに、彼がたまたまぴたり、とはまってしまったのだ。彼女の考える『幸せ』の虚像がどれだけ醜いかを、彼は知りもしないのだ。それなのにあの笑顔を浮かべられるほど、自分のしようとしている行動が真実だと信じている。
 なんて滑稽で哀れなんでしょう。
 それも分かっている。本当に哀れで滑稽なのは自分自身だという事。
「皆本さん、どうしたの? 具合でも悪いの?」
「いえ、少しぼぉっとしていただけです。すいません」
 周りを見てみる。ここにいるのは今里以下の人間ばかりだ。
 人間が全員、何かに悩んだり困ったりしているなんて嘘っぱちだ。それは生きている人間が寂しさの言い訳に作り上げた建前だ。上っ面だけ取り繕って武器に見せかけているだけで、ただの張りぼてにしか過ぎない。
 ローリスクローリターン。賭けに出る事もなく、平穏や安定を自分に強いてばかり。それは負けるのが怖いからじゃない。
 どれだけの危険を支払っても得たいという夢が無いからだ。
 今里は進んだ。
 皆本の眼鏡に貼り付いているような代わり映えしない景色に、ふと生じた誤植のよう。
 彼が成そうとしている夢はいったいどういう風景なんだろう。皆本はそれを知りたい。自分の憂鬱を無視できるくらいに、その欲望が止まらない。
「先生、やっぱり気分悪くなってきました。ちょっと保健室に行ってきます」
 返事が聞こえる前に部屋を出ていく。いつもより多少強めに奇異の視線を感じる。構うものか。振り切るまでもなく扉で遮断する。
 授業中の廊下は静かだ。いくつかある部屋の中から声は聞こえるのに、世界で自分だけになってしまったかのような錯覚。
 打ちっぱなしのモルタル床をゴム底体操靴が摩擦し、渇いた悲鳴が宙を舞う。体育館の出入口で上履きを履き替え、靴箱に置いてあったローファで外に出る。
 湿気の多い室内よりはまだ快適な暑さが身を焼いた。吹き抜ける風が背中を押しているようで、どうせならこのまま何処かへ行ってしまいたいと皆本を唆す。
 胸にいっぱい、空気を吸い込んだ。この熱気を取り込んで、自分が気球になって飛んで行ってしまいそうなくらい、皆本の精神が高揚を始める。
 が、妄想白河夜船の離陸は、世辞にも上品と言い難い叫び声で打ち上げを失敗してしまった。
「……?」
 男の声だ。しかもかなり近い。普段なら気にもとめない好奇心を、皆本は捨てきれなかった。影から覗くだけ、と自分に言い訳を作り出しながら接近していく。
 音源はあっさりと見つかった。それは食堂前の自販機を過ぎて、角を曲がったすぐそこにあった。
 顔だけ出した皆本の視線が、恐らく叫び声の主であろう男子生徒の眼球と交差する。
「あ、え……」
 その間に挟まれたもう一人の人物も同時に認識した。
「母宮くん、大丈夫?」
「いや、けっこうマジ。痛いしべっとべと。     ……んで、心配かけてすんませんっていうのも何なんだけど、あんたもサボり?」
 状況を一瞬で把握した母宮が、学校と外界を分断しているコーナーから生えていた皆本に手を挙げる。
 対して無表情のまま侮蔑を向けている皆本は、その場を足早に去ろうとした。繰り返される諸行無常が、敷き詰められた繊維のごとく錯綜している。
 ようやく喜先も後ろを振り返った。その顔に見覚えがあって、頭を軽く下げる。
「皆本先輩、どうしたんですか?」
 図書館でよく見る先輩だった。受付でひたすら静かに本を読み、事務的に作業をこなす冷静な委員長キャラのイメージがある、図書委員。皆本も喜先を憶えていたらしく、校舎側に向いていた爪先を止める。
「あなた、確か……喜先さん? 夏季休暇貸し出し数増幅申請書を一番最初に持ってきた」
「そうです! うちの図書館ってすっごいいっぱい本があるから     じゃなくて、今はちょっとそういうんじゃなくて」
 急に慌て出した後輩に、疑問を隠さない。
「その、母宮くんとは何でも無くて、でもすっごい大事な話をしていて、それで、あ、母宮くん、ごめんね」
「謝るのがおせぇ。もう、どうすんのよ。乾いてもべとべとすんだろうし、あー、グレープフルーツ臭ぇ」
「だからごめんってば。元はと言えば母宮くんが変な事言うから」
 軽く口論が始まってしまい、嘆息して皆本は顔までも爪先の方向に合わせ     、

「でもも何もお前が今里って言ったのは確かだろーが!」

 体が命令通りに動かなくなる。シナプスが全く逆の電波を流してしまう。
「言ってないってば! それに別にいいでしょ、名前くらい!」
「いやいや、時と場合だろ! 絶対におかしいだろ、このタイミングで!」
「うるさい! 不良!」
「んだこのヒス持ち!」
 泥仕合になった辺りで未だに瞳孔が揺れている皆本の声が降る。声までも震えているようだが、幸いにも悟られずに口論は終結された。
「今里くん? 今里くんって言った?」
「え、言った。こいつが言ったんだよ、えーと、皆本サンだっけ」
 またもゴングが打たれるところを、強引に会話を滑り込ませて止める。
「今里くんって、あの今里真くんで合ってる? 彼の事について話していたって事? それはつまり、昨日の話でいいわけね?」
 怒涛の質問に母宮ですら少し言葉に詰まる。立っていた皆本は喜先を挟んで膝を曲げた。ハーフパンツの擦れる音と、急に年上の生徒が入ってきた戸惑いに、二人は敵意すら忘れて押し黙る。
 彼は不意に目が行ってしまった上級生の太腿から、気付かれないよう出来るだけ迅速に視野範囲を外す。
「そういえばあなたは今里くんと同じクラスだったわね。喜先さん、そして君は母宮くん。なるほど、つまりあなた達が授業にも出ずにこんなところで話していたのは、彼の事」
「あ、あぁ。あいつが自殺するって、急にそんな事を言い出すもんだから」
 今里の名前が出て、さすがに意気を落とす。
「昨日、あー、まだ昨日の事なんか。昨日、今里が急に自殺するって言い出して。涼しくなってから、とかなんとか。それでどうにかしてそれを止めてやろうと思ったんだけど、でも止めてやるっていうのは本当にあいつにとって『良い事』なんだろうか、『正しい行い』なんだろうかってすっごく疑問で、すんません。なんかそんな感じで」
 母宮の言葉にまたも喜先が噛みつく。
「はァ!? 止めないつもりだって言うの!?」
「だから、迷ってるっつってんだろ!」
「なるほど、母宮くんの言う事が間違ってるわけでもない」
 また熾烈な戦いを烈火に下そうとした展開を、一掃する。皆本は完全に位置を固定しており、膝を地面に突いて(それについて喜先はとても痛そうだとの感想を隠した)両手をその上に置いていた。
「皆本先輩まで     !」
「喜先さん、『止める』のは何も良い意味じゃない。もし彼が進んでいるのだとしたら、それを『止める』っていうのは邪魔にこそなれ、救いにはならない」
「そういう事。今日の朝さ、あいつと喋ったんだ。羽束師っていう、あいつの弟みたいな奴と一緒に。あいつは自分が『進んでいる』ってはっきりと言ってた」
 もしそれがどれだけ計画性の無い逃走に見えたとしても。彼自身が闘争だと、当送だと言うならば。
「俺らにはあいつを止める権利なんか無い。知らずに毒きのこを食べようとしてる奴からそれを奪うのは救命だ。けど、知ってて練炭焼く奴はどうやったって諭せやしない」
「でもだからって、そこでやめちゃったら結局、今里くんは死んじゃうだけじゃない!」
「でもあいつ自身が、死ぬっていうのを進んでいると言い切った。俺らの意見はそこに関係無いし、否定すんのも馬鹿らしい。しかもタチの悪い事にあいつはそこそこ賢いからな。それが周りの奴にどう思われてんのかっていうのも分かってる」
 賢い、の言葉に皆本が少しだけ肩を揺らした。母宮にすら感知が不可能な微動だったが、本人だけはそれを自覚している。
 彼はそこそこ賢かったなんてものじゃない。
 彼は何も考えていなかったわけじゃない。
「だから無理だ。百八十度の変更は、あいつの人生観を根こそぎにするって事だ。そんなの、一介の友人でしかない俺らには無理なんだよ」
「でも……!」
「でもでもってストライキでも起こすつもりかよ、喜先。さっきからお前はでもしかしだけ。あいつと直接、喋ってみれば分かる。王手飛車取りなんて目じゃない。盤上が詰んでる先にはもう投了しかないんだよ」
 さすがに喜先も口を噤んでしまった。会話が途切れてしまい、何か超常的な存在が通り過ぎた静寂が入り込む。蝉の鳴く声と、学校の周囲を走る車のざわめきだけが、環境音としてのサウンドスケープを作り出している。
 あたかも俯瞰で切り取った画面から色を抜いてしまった風に。
「母宮くん」
 口火を切ったのは皆本だ。
「夏休みの前の今里くんって、どういう子だったの? あたしは図書館での彼しか知らない。おっちょこちょいで、ドジで間抜けな後輩の彼しか」
 何も考えていないのに幸せそうで、生きている人間を無意識に傷付けられる残虐な、とは付け加えない。
 考え込む二人を見比べる。
「どうって……、別に。取り立てて何があるってわけじゃ……」
「ない……わよね」
「無い? 無いっていうの?」
「いや、何も無いかって聞かれるとなんか有るんだよ。そうじゃないと友達なんてやってられないし。けど、特別何かが有ったかと聞かれると、答えられない」
 反応に、皆本はただ驚きを隠せない。
「喜先さんも? 同じクラスだったんでしょう?」
「えぇ、はい。でも、今里くんって目立つ人じゃなかったんです。面白い事を言うわけでもないし、調子が良い騒がしい人でもない。なんていうのか、ただそこにいるっていうか」
 ただそこにいる。そこに喜先は自分の恋心を刺激されたのだった。頭の中だけで過去の自分を、今里と出会った自分を思い出す。
「だから、本当。母宮くんが言う通り、です。はい」
「だったらどうしてあなた達は今里くんの自殺を止めようだなんて思うの? 別にいてもいなくてもいいような人って事でしょう? だったら馬鹿にこそすれ本気で救おうだなんて」
 いよいよ訳が掴めなくなってくる。話の本筋がそこには確固として鎮座しているのに、触れられないもどかしさが皆本を困惑させる。
 取捨しようにも、手元に一つも牌を持っていない。
「いや、だから、皆本サン。俺はあいつの友達だし、喜先も……ま、なんかしら理由があって今里を止めたいのは本当。でもそれはあいつが特別だからじゃない。何処にでもいる、普通の奴なんだ」
 けどこの胸を殴打する危機感が。
 脳みそを揺さぶる咆哮は。
「放っておけない、だけ。あいつはそういう危なっかしさがある」
 それは羽束師ほどではないが付き合いの長い母宮の発する、言外の心意ある答えだった。
「とにかく、俺はあいつが割と好きだし、いなくなっちまうのは寂しい。羽束師はもっと強く、家族がいなくなるくらいに焦ってる。今んとこはそんだけ」
 真実、それだけなのだろうか。皆本が察せない心の奥底には別の感情があるんではないだろうか。一見、友達思いのこの少年の、正義の裏側を探ってしまいそうになるこの性は、皆本自身の持つ業なのだろうか。
 答えあぐねるそんな彼女の背中をドロップキックで押し出したのは、もう一人の後輩だった。
「だったら皆本先輩、私と先輩と母宮くんで、『今里くんの自殺を止め隊』を結成しましょう!」
 先ほどの閑静とは質の違う静けさが場を包んだ。
「喜先よぉ、お前     」
「さっき言ってた羽束師くんも入れてさ! だってみんな、とりあえずは今里くんを止めたいわけでしょ? だったら早い話、みんなで止めればいいじゃん」
 なんて合理的で生産的な申し出なんでしょう。そう喜先の輝く目がはっきりと語っている。
「ね? ねっ?」
 左右を交互に伺う彼女に、母宮と皆本が顔を見合わせるしかなかった。
「まぁ……」
「ねぇ……」
 それぞれの思惑は別として、確かにここにいるメンバーは今里の自殺に否定的なのは明白だ。
 断る理由が見つからず、首肯するしかない。
「良かった! だったらさっそく、その羽束師くんも呼んで集まりましょう!」
 早く早く、と携帯電話を急かされながら、母宮は喜先の印象を改めなければと自分に命じた。
 真面目なんかじゃない。こいつは馬鹿だ。



3

 赤い夕焼け。ただそれだけの情景に、どれだけ心を動かされれば気が済むんだろうか。
 今里の足取りは軽い。帰路にしたって、普段と何も変わらない。変わらないものなど有りはしないのに、変わらないと判断してしまう自分自身の傲慢さにすら、今の彼には大切な思い出なのだ。
 この思い出は墓まで持っていく、なんという冗談を思いついて、それを明日にでも母宮や羽束師にぶつけてやろう、と微笑みを抑えきれない。
 積乱雲が見える。山の麓にある学校から歩いて帰る場合、必ず下の景色が見える場所を通るようにしていた今里は、傾斜の強いこの道が好きだった。
 さすがに登校路の候補に含まれてはいないが(登校にはもっと緩やかで影になる道を選んでいる)、帰りはなるたけ、この道を選んでいる。
 ここに住んでいる人、もしくは今里も通う市立九隅(くすみ)第三高等学校の生徒はこの坂を『キツネ坂』と称している。なぜ、そんな名称になったかの経緯は知る由も無いが、案外こういうものは咄嗟に出たか、調べるのも面倒なほど深いかのどちらかなので、あまり気にはしていない。
 そのキツネ坂の始まり。短いトンネルを抜けた場所に今里は立っていた。
 急に開けて景色を堪能できるこの場所が、今里は好きだった。特に美しいものを愛でる趣味を持たない、そこまで主張の強くない好みの問題ではあるけども、彼はそこそここの景色が好きなのである。
「暑いなぁ」
 夕方の六時。まだ夏が続いているこの季節に、陽はまだ沈まない。地平線まではさすがに見えなくとも、一望できる景色は広い。その全てが赤く染まっていて、なんだかとてもロマンチックな場面を描き出しているようだ。
 時間帯的にも車はそれほど多くない。市街地ではなく市外地であるこの道をわざわざ通る人間も少ない。極め付けに事故多発地帯でもあるので、近隣の、それこそ通らなければいけない目的がある人間しか、ここにはいない。
 だから今里はここが好きだ。
 忘れ去られたと表現してもいい自販機で何を買おうか迷い、茶や水をわざわざ買うほど金銭的にも精神的にも余裕の無い彼は、紅い炭酸入りの缶飲料を選択した。幸いにも壊れていない自販機は小銭だけを飲み込んで品物を吐き出さないほど無慈悲ではなかったらしく、正常に、当たり前にジュースを落とした。
 それを取り出して縁石に座る。
 楽しい。
 今里は呟こうとして、止めた。
 独り言をこんな道端で披露するほど、自分の羞恥心は衰えてはいないつもりだったから。
「暑い」
 それでも持っている缶から頂く冷たさと、体を蝕む熱気の比較は、彼の口を飛び出した。
 プルタブを勢い良く押し込む。爽快な音を響かせて、嗅ぎ慣れた匂いを振りまいた。口に流し込むと、強い刺激が口腔を痛めつける。
 額を学生服の袖で拭うと、冬服よりも柔らかいカッターシャツとはいえ固い生地がひりひりと皮膚を傷付ける。苦笑もせずに額のもう半分を、逆の袖で通り過ぎる。
 以前の自分ならばこんな景色に感動できただろうか。文句にすらならない愚考に身をやつし、ただ毎日を過ごしていただけではないだろうか。
 感動。
 その感情は彼が知らなかった衝動だ。映画を見て泣く事もあれば、偶然の救命劇に人間の素晴らしさを抱く事もあった。しかし、何でもない自分の周りの世界が、どうしてこう素晴らしいものだったかを突きつけられたりはしなかったはずだ。
 だって生きていなかった。
 ただ死んでいないだけのボクでしかなかった。
「やっぱり」
 声を聴いて、すぐに誰かを悟った。
「ここにいた」
 人物は今里の横の縁石を臀部で地面と挟んだ。スカートに皺がつかないよう、丁寧に折り曲げて、その少女は今里と同じ景色を見ている。
「すごく綺麗なんだ。そう思えるのが、ボクはすごく嬉しい」
 答えは無い。けれど、今里はそれが満足らしく、次の台詞を発する。
「ありがとう。何度言っても、言い足りない。君には本当に感謝してるんだ」
 視線は前に向いたまま。一瞬でも多く、この感動を受け取りたい。世界から享受できるものが全て、今の彼には新鮮で、掛け替えの無い宝だった。
「祐(ゆう)、ボクを救ってくれてありがとう」
「どういたしまして」
 炭酸飲料よりも冷たい声は、薄く笑う少女から飛び出して、夏の画面を切り裂いた。まるでそこだけ違う温度の空気が流れているように、超然とした煌びやかさを醸している。
 二人はそれから十分ほど、そこで座っていた。何も話さず、今里の傾ける缶の中で惑乱する液体だけが、時間の動きを表現している。
 飲み干して、自販機の横に備え付けられたゴミ箱にそれを破棄する。収集されない缶の山に、ぐっ、と彼は押し込んだ。
「帰るよ。まだ父さんも母さんも     怒ってるけど」
 どうせ家に着いたってご飯も用意されていないし、姿を見かけられれば説教しかされないとしても。
 彼にとって家はそこにしかないのだから。
「また、祐」
 別れの唄に合わせて、遠ざかる足音。坂を下っていく今里の背中はすぐに見えなくなり、少女の声を聴くのは微生物と道路の白線だけだ。
 と、精錬な姿勢で正されていた彼女の腕が、不躾に頬を支えた。開かれた脚の上で、愉快そうな顔貌を鷲掴みにしている。
「まだ足りない」
 口角の上がった残酷な笑顔。好戦的にも愉快犯的にも取れる、下卑た嘲笑だ。僅かに顎が空を向き、白い歯を剥き出しにした本意の塊。
 シニカルでニヒルでラジカルな顔。
「今里真。まだまだ救えてないねぇ。あーあ、もっと精進したい。自分の力の無さに腹が立つなぁ」
 地団駄なんて表現は生温い。マントルを踏み砕かんばかりに靴裏をアスファルトに叩き付ける。相貌は真逆と変わり、悲しさと怒りを綯交ぜにした負の攻撃性へと推移している。
 やがて一通りの自噴が終わって、祐はまた静けさを取り戻した。
 風が、彼女の揃えた前髪を攫う。腰に届く後髪を靡かせる。
 確かに救えてはいない今里の、彼の褒めていたこの風景は素晴らしいものだったから。
 暫く飽きるまで眺めていよう、と彼女は思った。








サンレゼ



1

 陳腐に聞こえる事を覚悟して     羽束師事実は特別な人間だ。
 彼と同じ中学の人間は彼を不良だと揶揄し、違う中学だった人間は彼を優秀だと評価する。教師陣からは次期生徒会長を期待されているし、スポーツ関係から引く手数多ならまだしも文化クラブからの勧誘も今だ止まる事が無い。
 羽束師事実が特別な人間である現状には訳がある。
 彼は勝利中毒者だ。同時に努力依存症でもある。夢は必ず叶う、と真顔で信じていて、その上で他人にも強要できる精神を持ち合わせている。
 さらに結果を伴わない努力を無駄、と一蹴する。途中で妥協点を見つける事を良しとしない。
「おれは一番になりたい。なりたいと思うから、なれるまでやるだけ」
 一言で表すなら頑張り屋である。しかし、その頑張りは時として天才を更に飛躍させ、異常さを生む。
 高校入学時から試験は満点以外を許さない。運動は全国一位以外を譲りたくない。もちろん空を飛ぶだとか水の上を走るだとか     不可能な現象を除いて、ではあるが。
 自分の向かう道で、自分とは違う人間が前を塞いでいるのが気に食わない。
 鏡を裏側から見る景色に近い歪つさが、彼の周囲には振りまかれている。乱反射の錯覚が彼に関わる人間を惑わせ、失望させる。
 努力すれば夢は叶う。
 それを現実にしてしまう存在に、人々は畏怖する。そして迫害を重ね、やがては無視へと行き着く。自分の惨めさをこれでもかと自覚し、ただ死なないだけの動物へと成り下がる。
 今里真を除き、彼が出会ってきた人間らしき生物は須らくそう表現できた。
 やがて兄の周りに集まる人間が、羽束師を『人間』として扱う才能を持っていると分かった。
「類は友を呼ぶ、とか。母宮さん、おれはその言葉をちょっと信じそうになってる」
 時間は夕方、高校入学と同時にクラブ活動と一切の縁を切った羽束師を待っていたのは、三人の『人間』だった。
 校門の前で固まっている彼らを見て、最初は別々の待ち合わせをしているんじゃないか、と疑念を抱かせる違和感が濃かった羽束師だが、母宮の一声により自分の周囲に集まってくる他の二人の素性を知って納得した。
 あぁ、やっぱり。兄ちゃんの周りには『人間』がいる。
「だからよ、羽束師も今里がいなくなんのは嫌なわけだ」
「そうですね。おれは兄ちゃんが好きだから、いなくなるのは嫌です」
 夕陽が燦々と照らす帰り道、取り合えず学校から最も距離の近い母宮の家へと四人は進んでいた。羽束師としては自分の家とは正反対の方向へと向かうわけで、あまり気乗りはしない。
 まずは自己紹介をしてほしい、と羽束師は願い出た。
「喜先。喜先明日香。母宮くんと今里くんは同じクラスで、私が今里くんの自殺を止め隊のリーダーだよ」
 羽束師の第一印象としては、日本語のあまり得意では無い先輩なのかなというものだった。一方、もう一人の理知的な女生徒は、
「皆本幾絵です。図書委員をしていて……別に今里くんが死のうが何しようがいいんだけど、ちょっと気になる事があるからここにいる」
 と顔も合わせずに述べた。
 果たして最も後輩である自分が主導権を握るべきなのか、それとも先頭を歩いている母宮に任せるべきなのか、判断を保留として羽束師はアスファルトを踏みしめている。
 なんとも     まとまりの無い集団である。
「で……、その『今里くんの自殺を止め隊』     っていうのは、そのままの意味でいいんですかね」
「そうだよ! 羽束師くんも今里くんがいなくなるのは嫌だって言ったしね!」
 だからといってその訳の分からない集団に組み込まれるのは、いささか彼の中の何かが引っかかるところではある。
 和気藹々にも取れる態度に、羽束師としては喝を入れて怒りたい所なのだが、母宮の放った一言がそれを食い止めている。
「今里をどうにかできんのはこいつらくらいだしな」
 何気なく、会話の合間に挟んだその一言。羽束師を『人間』として扱わない有象無象の世界で、真っ直ぐ彼自身と接してくれている人間。
 浮かれているように見えるのは、もしかして無理にそう気張っているからではないのか。
「そこ。その角んとこ」
 閑静な住宅街と言えば聞こえはいいが、都市開発の煽りを食って放置されたままの郊外地域である。学校から徒歩二十分、母宮の自宅は五叉路を北に入り、二つ目の通りの角に建っていた。目の前は、不自然に出来た空き地が月極駐車場になっている。
 宅地開発の建売住居が並んでいる一角は、そこだけ綺麗に整備されていて、却って目立っていた。
「親は仕事だし、妹は部活で遅いから     まぁ、ゆっくりしてけ。そこ、トイレの横が俺の部屋な。飲み物持ってくる」
 何度か訪問した事のある羽束師は勝手知ったるとまでは行かないまでも、玄関を開けてすぐ右手にある部屋の扉を開けた。
「うわ。そういや私、男の子の部屋って初めて。ねぇねぇ皆本先輩、やっちゃダメな事とかあるのかなぁ」
「さぁ。あたしもほぼ初めてだから」
 鍵のかかっていない部屋の扉を開けると、閉め切られていた部屋の熱気が、湿気を伴って三人を襲った。羽束師がまず引き違い窓を開け、空気の入れ替えを行った。八畳ほどの部屋はそれなりに片付いており、中央に置かれたガラス机を三人は囲んで座る。
 ベッドを背もたれにしていた喜先が、興味深げに部屋を見回す。
「なんか、案外ふつーかも」
「何を期待してんだか知らないが、俺はふつーだ」
 扉が開き、盆に麦茶の杯を四つ乗せた母宮が反論する。氷が揺れ、からんと瑞々しい音を立てて涼しさを誘った。外気を取り込んだとはいえ、まだ嫌悪感を滞留させている室内に少し眉を細める。
 そろそろ部屋にクーラーの導入を検討しなければいけないかもな。
「で、ここに集まったっつーのも色々あるわけなんだけど、喜先。取り合えず今里がどうにもダサいっぽい事しよーとしてんのを止めたいわけだ」
 テーブルの上にゆっくりと盆を下ろす。各々が手に取り、コースターも置かずに天板ガラスの表面を濡らした。
 話題が深刻になり、密度を伴って進行する。麦茶からではない冷たさが背中を駆け、首筋に垂れた汗がやけに暖かく感じられた。
「でも俺は迷ってる。確かに今里が自殺すんのは嫌だし、間違ってるとも思う。でもあいつ自身がそれを『進んでる』っていうんなら、俺らに止める権利なんつーもんがあんのか? それってただのわがままだろ」
「でも、間違ってると思う母宮くんを『止める』事だって、今里くんのわがままじゃない。今里くんは分かってない。周りが見えてない。ちょっと熱くなってるだけなのよ」
「だからってどっちもがわがまま通してたらかち合うだろ。なぁ、羽束師」
「いや、おれは母宮さんの言ってるのも分かります。現に兄ちゃんだって自分がおかしいって言ってた。でもおれは兄ちゃんがいなくなんのは嫌だ。それでいいと思うんです。もしこれが知らない人間ならおれだって勝手にしろって思います。でも、兄ちゃんだ」
 手の中のコップを見つめ、羽束師の声が確かな決意を持って発せられた。
 兄ちゃんがいなくなんのは、嫌だ。喜先さんが言う通り、兄ちゃんは熱くなってるだけだ。おれらが見えてない。
「おれらに心配されてる自分の価値が分かってない。心配する人間が一人でもいる限り、止めようとしてくれる奴が一人でもいる限り、自殺なんかしちゃいけない」
 言い切った羽束師に、それまで口を噤んでいた皆本が、
「話、ちっとも進まない」
 ぼそっと一言、一石を投じた。
「みんな、本当に自分がしようとしている意味、分かってる?」
 厳しい叱責。他の三人が感じている焦慮は、皆本も同じだ。ただ彼女の場合、そのベクトルが自分に向いているというだけで。
 彼女の分析はある程度、終わっている。この三人の関係、今里の自殺に対するスタンス、そしてそれぞれに共通している感情。
 取捨する段階に入った皆本の解答は早かった。
「あなた達は自分の事ばっかり。母宮くんだけはまだ今里くんの事を考えてるけど、喜先さんと羽束師くんは自分の事ばっか。しかもそれが悪いと思ってない。自己中心的で浅はかな子供の考えだわ」
「ちょッ     !」
「それは、」
「違う? あたしにはそうとしか聞こえない。もちろん、我を通すのは悪い事じゃないし、抑えられない、理解できない部分で今里くんを止めたいのは分かる。でも、そうじゃない。このままじゃ話なんか進まないし、今里くんがそれこそあっさり自殺するまで何も変わらない」
 どうしてあたしはこんなに説教臭い台詞を吐いているんだろう。たかだか一つ年上なだけの立場を利用して、後輩に熱くなるだなんて。
「『止める』なんてもっての他。あたしは『知りたい』。どうして今里くんがそんなことを言ったのか。どうして彼がそこまで死にたいのか」
 滝のように流れ落ちる言葉の海の中を、取捨選択すらできない速さで駆け上がっていく鮭のような疑問が皆本を包む。こんなにも自分が喋れただなんて。こんなにも自分が熱くなれただなんて。
「彼が前向きに死ぬんなら、止めたいとも思わない。でも、何も知らないままで結果だけを知らされるなんて」
 納得できやしない。
 あ、そうか。
 あたしは彼と同じように、でも中身のまったく違う形で     

「死にたくなる」

 死にたかったんだ。悩んでいた自分よりも、何も考えていないと思っていた後輩に先を越されるのが嫌だったんだ。だから知りたいと思って、続きたいと思う。
「結局、傍観するしかない。見守るだなんて綺麗な言葉で飾ってるけど、それは何もしないのと同じ」
「皆本さん、ちょっと言い過ぎじゃねぇかな。こいつらだって何も自分のわがままばっかで今里を止めたいわけじゃねぇと思うよ」
 睨む母宮が皆本を制する。その眼光に射抜かれたがごとく、濁流は止まった。
 それが最後まで話をさせた結果の制止だとは分かっている。
「……そうね、ごめんなさい。あたしも自分の事ばっかりなのは分かってる。でも、考えて欲しい。自分のわがままを押し通そうっていう事が、どれだけ辛いかって」
「そりゃあ今里にとっても同じだな。あいつと同じとこまで行かないと、理解すらできない。しかも上とか先とかじゃねぇんだから、マジ八方塞り」
 立ち上がり、勉強机の椅子に彼は腰掛けた。背もたれを抱き、だらしなく体重を預ける。軋んだスプリングの立てた閑話休題の音色が、顔を伏せていた二人への叱責を断ち切る。
「こん中であんただけ、今里とおんなじとこにいるみてーだな。でもあいつの考えてる事って、そもそもなんつーか、似合わねーんだよ。あいつはなんつーか、そういうんじゃないの」
 喜先が応える。
「確かに、今里くんはそういう人じゃない。ただそこにいて、でもなんだか周りを見てて、何も無いのに笑ってて、気付けるところには気付ける。そういう人」
 非難された衝撃もあってか、涙と共に堰は切られた。
「私なんかとは違う。ちゃんと見てて、ちゃんと考えてて、ちゃんと気付けてた人なの! 私と違って、ちゃんと生きなきゃいけない、こんな分かれ方じゃ、私は嫌!」
「おい、落ち着け。喜先、お前はまた     」
「落ち着けないわよ! 皆本先輩の事も、母宮くんの事も、羽束師くんの事だって今里くんは知ってる! 気付いている! でも無視してる!」
 その黙殺は喜先にとってとても耐えられる拷問ではなかった。彼を見ていた自分と、彼が見ていた自分とが釣り合っていない。取捨選択の、捨てられる部分でしかない。
 自分の事よりも大事なものがあり、何の打算も無くその為に動ける。彼に感じていたそういうヒロイック性が、今の彼には微塵も感じない。
「私だって、今里くんにとって大事じゃないって知ってる。気付いてる。でも、そうじゃない。私が知ってる今里くんはそうじゃない」
「似合わないっていうなら、兄ちゃんがおかしいのはおれにだって分かりますよ」
「羽束師、お前も火に油注ぐな」
「母宮さんも分かってるでしょ。兄ちゃんが兄ちゃんじゃなくなった事くらい。あれは、兄ちゃんじゃなかった」
 今朝、今里を殴ろうと振りかぶった瞬間を思い出す。まるで別人のような笑顔。この世の全てを見下ろすのも飽きてるような、まったく別次元の違和感。
「これでも子供の時から兄ちゃんを見てるんです。兄ちゃんは確かに普通じゃない。何も知りたくない人間には普通に見えるけれども、おれや、兄ちゃんを見ている人間には分かる」
 真意が的確に言い含められた発言だった。深みにはまり、抜け出せなくなっていた思考が解きほぐされる。絡まりあった渦の回廊を、無我夢中で破壊していく。
「あたしが今里くんを見たのは昨日からだからね。それに関しては何も言えない。あたしも彼が普通だと思ってた。いくらでもいる人間のフリした奴の中の一人。でも、違った」
「その前の兄ちゃんを知ってる人からすれば、更に気味が悪いんですよ」
 今まさに感じている重厚な壁を拭い去るかのように、羽束師は額に浮いた薄い汗を払った。
「まるで何かに操られてるような……、誰かが乗り移ってるような、そんな感じがするんです」
 今朝、自分が見た表情はいったい誰のものだったのか。兄が浮かべるはずのない表情。知っている人物が違った人物へと変貌する瞬間。歪つに絵がかれた子供の似顔絵のように、見る方向が違えば異常に映る作品を喚起させる。
 また無言が落ちた。蝉が放つ断末魔の求婚だけが轟き、風鈴の美しい調べさえも打ち消してしまいそうな奔流に包まれている。
 切り出したのは母宮だった。
「とまぁ、ここにいる奴らは全員、どっか違う方に向いているわけだ。まぁそりゃあそうだ。俺ら他人だしよ」
 応える声は無い。
「もちろん俺と今里も違う人。だからあいつの考えてん事も分かんねーし、あいつの言う『進む』が俺にとっちゃ『逃げる』に見える」
 人の見る世界はそれぞれに違う、という逸話を母宮は思い出していた。
 自分の見ている青色は他人の見ている赤色かもしれない。しかし、それを確認する事が出来ない以上、比較する事が出来ない以上、否定も肯定もできない。
 まさに八方塞り。言い得て妙とはこの事であった。
「とにかく夏が終わるまではあいつは死なないらしいし、チャンスはある。第一回はこれで終了ってことで。いいかな、先輩も」
「あたしは、別に。喜先さんと羽束師くんは?」
「おれも、このままじゃあ堂々巡りだ」
 顔を伏せて静かに、喜先も首肯した。
「よし。これで今日はお終い!」
 そのままだらだらと惰性で遊びが始まるわけでもなく、四人はそれぞれ言葉も発しないままに母宮の家を後にした。家の中よりも直接的な熱を感じる夏へと、三人は帰っていく。
 一人、母宮を除いて。
 見送った三人の閉めた扉を見つめていた母宮は、下に向け     相貌を消す。
 彼は待っていた。
「やっぱりな」
 ドアノブが金切り声を立て、ゆっくりと時計に続く。秒針も分針も持たないそれが、まるで目覚ましベルのように彼を起こした。
 開き、隙間からまず光が入った。続いて寒暖差が生む風が外へと飛び出し、軋みの無いドアがスムーズに外出していく。

「喜先」

 別れた友人の名前を呼び、再び現れた無気力な女生徒を揺さぶる。
「お前だけ、まだ本音言ってないもんな」
 びくり、と。肩が震える。同期された思念が大理石タイルの玄関口で鳴動し、吹き消された静寂を惜しむ間も無く埋め尽くす。
 それは『始まり』によく似ていた。
「母宮くん」
 隠している心奥の森丘から静かな囀りを、母宮は聞き逃さんと微笑む。
「私、今里くんが好き」
 うん、と母宮は頷いただけ。
「私は、今里くんが好きなんだ」
 また相槌を送る。
 喪失を感じた焦りが木霊する。
小さい少女は涙と共に崩れ落ちた。



2

 母宮宅を離れ、始めの交差点で三人はそれぞれ別の道を歩んでいった。
 後ろを振り返らせようと髪を引く魔の手に打ち勝ち、道連れを囁く声を祓い、皆本の足が力強くアスファルトへ何度も突き立てられる。
 果たしてこれは『進んで』いるのだろうか。
 自分自身はこれを『進んで』いると分かっている。しかし、何も知らない他人が見ると、これは『帰って』いるともとれるし、『向かって』いるようにも見えるだろう。
 見方を変えれば、当然そのものが持つ意味も変わってくる。
 全てを知らずに他人と関係しようとするなんて、あたしはごめんだ。
 自分の勘違いで余計な恥をかく道化になんてなりたくない。
 だから彼女は自分が『進んで』いる事を識っている。
「暑い……」
 夏も終わるというのに。
 交差点を過ぎ、大通りとも言えない二車線道路に沿う歩道を踏み鳴らす。やがてドレスや礼装の貸衣装屋の看板が見える。その角を左へ。
 それなりに車の多いはずの通りから、それなりに広いはずの通りへ。どうしてだか車の数は激減し、知りたくも無い理由を模索する暇潰しへと変わる。
 待っている車両もいない信号を平然と無視し、反対の歩道へ。
 黄色いエクスクラメーションマークで事故多発地帯を警告する標識を掻い潜り、赤い紅い空を背景に見上げた先は、心臓を破られそうなほど急な上り坂が存在していた。
 彼女はここへ初めてやって来る。
 いつか、普通だったはずの後輩が言っていた事を思い出していた。
 先輩、ボクはいつも帰り道にあるすんごい坂が好きなんですよ。
 あまりにつまらない世間話だったので、皆本は本の整理や貸し出しカードの判子を押しながら血圧を高めたものだった。
 海馬に潜り込んだそれ、引きずり上げた記憶を     捨てたはずのゴミ箱から拾った答えを、デフラグにフォーマットを重ねた失ったはずの情報を、彼女は一人で噛み締めた。
 坂の麓には忘れ去られたような自販機があった。その隣には営業しているのかどうかすら分からない、立ち寄るにもそれなりの覚悟が必要な屋台がある。そこだけは極彩色な『かき氷』の旗が眩しい。
 あまりの暑さに炭酸系統の飲み物を購入しようとしたが、ボタンを押す寸前にカロリーを気にして緑茶を選択する。
 重い、鈍い音。ペットボトルに封入された濁る液体を、皆本は飲み込んだ。後味の苦さが少しだけ、暑さを遠ざける。
 これからこの坂を上らなければいけない。
 ふとそんな使命感に突き動かされた。
 それは山があれば踏み込もうとする、目的と手段が合致した衝動ではない。この坂を、この時間に歩くとするならば。そこにいるであろう人物に会えるかもしれない。あくまで坂を上るのは過程なのだ。
 どうせなら涼しげな樹に囲まれた公園とかにしてくれればいいのに。
 後ろの道路を古びた軽自動車が一台、通り過ぎた。太陽を反射する水色の車体に連られ、大きく湾曲した坂の一歩を、やっと踏み出す。
 会わなければいけなかったから。
 そして彼の真意を聞きだして、自分の至るべき行動を取捨しなければいけなかったから。
 登り始めると、坂は意外な程に急ではなかった。足に疲労を感じるわけでもなく、かといって易々と次を繰り出せるわけでもなく。見た目ほどではないというだけで、それは実際にそこに存在する坂だから。
 この坂を『登って』いるのか。それとも『逃げて』いるのか。
 自問自答をすぐに終わらせられる必殺の解答を隠し持って、それに気付かないふりを続ける。繰り返し、繰り返し、直らない病気のように。子供だってもう少し物分りいいだろう。
 やがて首筋を流れる雫を感じた頃、皆本の視界に人影が入り込んだ。
 その人物は座っている。道路と歩道を隔別するコンクリートとモルタルのブロックに腰掛けていた。皆本がお茶を買った自販機よりも更に古そうな箱の前で。
 彼の飲んでいるのが有名な炭酸飲料である事は色で分かる。相手はまだこちらに寸分も意識を割いていないが、彼女の脳内では嵐が吹いていた。
 その嵐の中、静かに立ち尽くす自分を見ながら。
「今里くん」
 声を発する。
「……あれ、皆本先輩、ですか?」
 変わらない。去年と、今年と、先週と。
 何も変わらない、ただそこにいるだけ。制服と私服の違いはあれど、苛つきを持たせる程度の迷惑くらいしかかけない、人畜無害そうな、自分が不幸になる事に敏感で、幸せになるのを拒絶して、ただ今を生きているだけ、死んでいないだけのような、そんな目線と。
 変わっていないはずなのに。
「久しぶり、……ってほどでもないか」
「え? あ、はい。たぶん、はい」
 驚いているのだろう。言葉が上手く出てこないようだった。
「皆本先輩ってこっちの道、通りましたっけ? あ、なんか用事あるんですか?」
 用事なら今、始まったところだ。
「あなたに会いに、来たのよ。あんまり良い意味じゃなく」
「はぁ……は? ボクに? えっと」
「いいわ、座ってて」
 距離を詰め、はっきりと相手の顔を確認する。他の三人が言ったように、彼が変わっているとはどうしても思えなかった。惚けた表情も、すぐに圧迫される許容量も、何も。
「その、はい」
「何の返事? 今里くん、何も無いのに返事だけするの、すごく疲れる」
「は、はい。すいません」
 だから。
 もういい。
「母宮くんと、あと喜先さん。羽束師くんとも喋ったわ」
「へぇ。それは、なんというか。変な奴らだったでしょう?      あれ? 喜先さん?」
「そう、喜先さんも。なんだかとてもあなたの自殺を止めたいそうよ」
 会話の端として挟んだ言葉に、今里はやけに意外そうな手応えを感じたようだ。
 照りつけていた陽はやがて西に折れ、影を伸ばして地表を染める。夜とバトンタッチするのを拒んでいるかのように、いつになっても激しく燃えている。
「ははは、そうなんですか。やっぱり母宮も事実もいい奴だなぁ。喜先さんまでボクの心配してくれるなんて」
「……あたしは止めない。けれど、知りたい。どうしてあなたは自殺なんてしようと思ったの? どうして急に変わってしまったの?」
 今里の呼吸音が蝉の歌に掻き消される。
「皆本先輩って、自分が間違ってしまったって思ったこと、あります?」
 切り出された言葉に少女は顰めた顔を浮かべる。
「質問に質問で返されるのは嫌いなんだけど」
「すいません。でも、それが答えなんです。間違えてしまったから、それを正せないから死ぬ。もちろん自分の性格とか容姿とか、将来とか夢とか、そういうのもほんのちょっとだけありますけどね」
 冗談めかしく指でその配分を表した。
「小学校の時ね、何でだか知らないけどイジめられていた事があります。学校に行ったら、それまで普通に話していた奴らが一斉に無視して、ボクの机に落書きとかして。持ち物隠されたり捨てられたり」
「その時も死んじゃいたいと思った?」
「思いました。でも、死ねなかった。自分が間違ってるとは思えなかったから。疑問だけがあって、辛いのは物理的なものだったから」
 乗り越えられたのはその為だ。そもそも理由なんて無かったのかもしれない。ただそこにいただけ、気弱そうな奴がクラスにいたから。それだけだったかもしれない。
「中学に入ったらあたかも無かったかのように、すっぱりと」
 始まりに理由が無いから終わりにも理由が無い。飽きたのかもしれないし、行動の無意味さに気付いたのかもしれない。同じように、それまでと同じように。
「でも今回は違う。高校生って、大人からすれば子供で、考えがやっぱり足りなくて、知らない事も多くて、ボクらの考えなんて笑い飛ばすか気にしないかくらいにしか扱われてないんですけど、自分の事だけはよく分かってます」
「その価値観だって、大人になれば変わるはずだわ。知らない事を知って、行きたい所に行って、自分の考えが真逆になる事だってある」
 こんな寂れた街なんか飛び出して。

「今里くんが自分を間違ったって思った、それすらも覆すほどの可能性が未来にはある」

 根底から、全てが裏返る危険性が、時間にはある。
「それでもあなたは今の自分が間違ったって、そんな理由で死ねるの?」
 期待していた愛の無い病は、皆本の願望でしかなかったのか。
 今里が顔を上げた。逆行になっていて見えない皆本を見つめ、

「だったら今のボクが死んでるのと同じじゃないですか」

 笑っていた。泣いているみたいに。
 赤い缶をあおる。飲み干した言い表せない多くの意味を、自分の心に落とし込んだ。黒い液体と共に、黒い自分を。
「テストの問題を間違ったとか、待ち合わせの時間を勘違いしてたとか、そういうのじゃないんです。もっと、根本的な、自分に関する部分で、ボクは間違ってしまったわけです」
 二の句が継げない皆本を畳んでいく。
「皆本先輩もそうでしょう? 自分がこの時代とか、場所とか。そういうのにそぐわないって。そう思ってる。自分が似合わないって」
 莫大な時間に殺されないように生きていくだけ。
 膨大な希望に押し潰されないように、逃げていくだけ。
「心にこびりついた『もしかして』っていうのを全部、捨てたんです。それで、もう一回、頭を空っぽにしてみた」
 今里が立ち上がる。飲み干したアルミを握って凹ませ、容積を少なくしてからゴミ箱へ慎重に押し込む。
「ボクは生きていくのに向いてないって。生きなきゃいけない時代じゃない今に、向いてない」
「そんなの、本当に逃げているだけよ」
「いえ、これは進んでいるんです。死ぬのは終わりじゃない。まだ途中なんです。そこで終われない。終わるのはボクだけど、ボクが死んだだけじゃみんなは終わらない」
 自分がそこまで大きな存在だなんてお世辞にも言いたくない。
「だからボクは死んでもいい。死ぬのは許されてる手段の一つでしかないんです。何も知らない振りをまた続けるか、一念発起で世界を変えるか。それか今の自分を最後だと思うか。死ぬのが終わりだと思ってる人からすれば、ボクは異常なんでしょうけど、それが方法でしかないボクからすれば、自殺は生きる節目です」
 ポケットから携帯電話を取り出し、サブ画面で時間を確認する。明るすぎて見難かったのか、掌で光を遮っていた。
「ボクはもうそろそろ行きます。晩御飯の時間に間に合わなくなっちゃう。そうそう、やっと晩御飯を作ってもらえるようになったんです。しかもボクの好きなメニューが毎日。良くないですか?」
 うきうきとしたその場面だけ、彼は普通に見えた。
「最後に一つ。いい?」
「はい、なんでしょう」
「どうして涼しくなったら、なの?」
 問いかけに、今里は今日一番の笑顔を見せた。
「だって、暑いとお葬式とか三回忌とか、そういうのに来る人がかわいそうじゃないですか」
 どうせ自分で死ぬなら。
 死んだ後の迷惑も考えないと。
 それでは。
 失礼します。
 頭を少し下げ、彼は立ち去ってしまった。
 自転車に乗っているわけでも、走って行くわけでもない彼の背中に、今なら追いつける。ほんのちょっと足を速めれば、彼の肩に手を伸ばせる。
 しかし、皆本には出来なかった。
 彼女の震える足では、とても追いつけそうになかったから。
 ペットボトルの結露が、一滴二滴。アスファルトに敵うわけもない水打ちを放つ。
 夜にはまだまだ時間がかかりそうだった。



3

 夜ってだけで楽しい、と昔は思っていた。
 自分が夜行性の生物だから、陽の光に当てられて見なくてもいい自分の嫌な部分を見せ付けられるから。
 でもそれが違うと気付いたのはいつの事だったろう。
 ふとした瞬間に思い立ったのかもしれないし、熟考を重ねて吟味した解答だったのかもしれない。もしかすると世界の真実に一歩近づいた、と確信を形に出来たのかもしれない。
 でもその行き着いた先がもたらした結果は散々なものだった。
 自分は夜行性だなんて綺麗な、儚い生物じゃない。日陰でしか生きられない、それに誇りすら持てない有象無象の一つだなんて。
 気付かなければよかった。
 知らないまま過ごしていたかった。
 何も分からないまま、『それなり』の魔法から抜け出せないまま、ボトムを感じる事の無い幸福と、トップが見えない不幸を抱えて死んでしまえればよかったのに。
「祐がボクに教えてくれたのって、もしかして不幸な事かもしれない」
 それが本心では無い事も分かる。分かっているからこそ愛知(あいのう)祐はただ微笑みだけで応えた。
 今日のメニューはカツ丼だった。揚げたてのカツを御飯に乗せ、卵を半熟にした出汁をかけた一品。カツを綴じていない、衣の食感を楽しめるこの今里家のカツ丼が、真は好きだった。
 そこに三つ葉を散らせ、汁物には粕汁がついてきた。胡瓜の糠漬けに茄子の浅漬けも添えられていて、豪華な食事だったと思う。
 景観鑑賞から帰宅し、腹がいっぱいになるまで詰め込み、部屋で少し休んでから彼はまた家を出た。夜の帳が顔を隠す。あたかもそれはいつも無意識に彼がとっている防壁のようだった。
 街灯の間隔が広い住宅地を通り、少し広め(といっても中央線も無い道だが)の県道に出る。道なりに西へ数分、さらに北へ数分進むと、深夜でも光々と煌く幻覚のようなコンビニエンスストアが鎮座していた。
 田舎である利点として駐車場だけがひどく広く、店舗面積の三倍はある空間に車は止まっていない。
「君ってすごく残酷だよ」
 店舗の裏手が山になっており、そのちょうど光の当たらない場所に少女は立っていた。
 時間は既に十時にさしかかろうとしているのに、その姿はまだ不自然にも制服を纏っている。青い     水色の襟カバーだけがぼぉっと宙に浮く人影は、遠くから見ると不吉な狼煙にも受け取れた。
 業務用廃棄物入れとして使われているイナバ物置と店舗の間、監視カメラの死角と電灯の照射範囲の外に、彼女は立っている。
 ボクと同じ日陰の生き物である彼女は。
「祐が教えてくれたのはすごく不幸だって事。そしてそれがいわゆる幸せだって事」
「買い被りすぎ、かな。あなたはそれに自分で気付いたし、わたしがした事なんてほんの少し、指先でほんの少しドアを押してあげるのを手伝っただけ」
「それで充分だったんだ。ボクにとって最初の一歩っていうのは自分ではもう進めないくらいに行き詰まってた。君がボクの中で自由に動き回るみたいにさ、必要なのは最初の一つ目だったんだ」
 祐の表情に変わりはない。顔に張り付いてる薄い、相手の警戒心を根刮ぎ奪っていく幽かな笑み。口から漏れる言葉は天使の囁きに似た綺麗で澄んだ声。
「気付けない人はいつまで経ってもそこにいる。だってそこも幸せなんだもの。わざわざギャンブルなんてする必要があるのは、幸せに満たされないひねくれ者ばっかり」
 祐は指先で地面を、正確には今里の足元を示す。
「大事なのは根本を疑うくらいにまで自分が嫌いな事。そしてそれ以上に自分が好きになってしまう事」
「分かってる。分かってるよ」
「自分の事を知ってるのは世界であなただけなんだから。見えない所で何をしているか分からないから情報を欲しがるし、相手を手に入れたいから暴力がある。それが自分にも存在するから欲が出るし、相手に強制するから     」
「     自由がある。でしょ? 何回も聞いたよ。大丈夫、分かってるよ」
 うんざり、ではない。それこそ真理であるかのごとく二人が目を合わせる。今里が少し照れ臭くなって先に目線を外した。
 捻た理論である自覚も同時にある。いわゆる常識だとか、道徳だとか倫理だとか。そういう小難しい社会通念がそれを間違っていると判断する。
 けれど彼らは社会じゃない。
 あくまで個人の高校生だ。
「そ。自分だけ見て。お願いだから、自分だけでもしっかりと見てみて。それから嫌いか好きかは自分で決めればいいんだから。あなたはどうやら好きになっちゃったみたいだけど」
「考えてみれば当たり前の事だったじゃんか。それこそ祐が言ってくれなきゃ、だけど」
 今里は思い出す。小学生の時、クラスで戦争のビデオを見せられた授業の時だ。
 担任の先生が戦争の過ちや悲劇を語り、ビデオの感想を尋ねた。すると一人の男子生徒が「もっとやり返せばよかったのに」と答えたのだ。その瞬間の教室の空気。
 今里は羨望の目を彼に送ったのを憶えている。賢しい子供だった今里は、彼の発言がこの場にそぐわないものだと知っていたし、思ってはいないものの確かに期待された答えを返そうとしていたからだ。
 彼は違った。
 彼はそんなものより、自分の方向を選んだ。
「そこが一歩目だった。ボクの家族はボクの事を特別扱いしてくれた。長男だったし、勉強が出来たから」
 なんと彼の生きている事だろう。
「でも外へ出れば同じ。普通に埋もれて何も意味の無い、ただの人に成り下がる。そこいら中に溢れかえった『特別』な子供の中で、ボクは目立つ事なんて何一つ無かった」
 語り出した彼の肩を、祐がしっかりと抱いた。
「どうしようもなくさぁ、怖かったんだ。このまま何十年って生きていくのが。死んでいないだけなのが。君に会うまで、日常が拷問だったんだ」
 震え始めた首筋に、彼女の変わらない声が降りる。
「でも君は『特別』になれたよ。だってわたしに会えたんだもの」
 ついに微動は号泣に変わり、声を抑えられなくなって外へと飛び出していく。
 星ほどの数の気持ちを綯い交ぜて、夜空の下の明かりを取り巻いた。
「やっぱ別れ話かな」
「あんま覗かん方がいいんじゃないですか?」
 水を差す店員の声に今里は涙を拭いた。こっそりと振り向きがちに顔を向けると、店舗の壁、ゴミ箱の少しはみ出た蓋の上に顔が二つ、並んでいた。
「やば。ばれた」
「ほら、だから」
 今里は微笑んだ。涙の跡が頬に残る顔で、微笑んで見せた。
「大丈夫です。すいません」
 会釈をぎこちなく繰り返し、店員はまた光の中へ帰っていった。口々に愚痴を漏らし、日陰に少しでも関与してしまった自分を誤魔化す。
 これが現実だ。
 光にいる人間が幸せなように、不幸に関わってしまった自分を隠す。君子危うきに近寄らず。わざわざ居もしないだろう虎子を取りに穴へ入り込むほど自分が愚かでない事を知っている。
「祐、ごめん。ボク、帰るよ。今日は父さんが映画を借りてきてくれたんだ。ボクの好きな映画でさ、見た事ある? バックトゥザフューチャー」
「あるよ。すごく面白い」
 体を離し、また彼女は真っ向から花を咲かせる。
「それに今日は家族みんなで映画見ながらピザを食べるんだ。ちょっとくらいならお酒も飲ましてもらえるかもしれないし、すっごく楽しみだ」
「ご飯食べたのに? 太るよ」
 今度は今里も目を反らさず答える。
「ボクの見た目なんかより楽しい方が大事だよ!」
 手を振って家路につく彼の背中を、祐がじっと見つめる。今里の背中が見えなくなって少しして、彼女も歩き出した。
 コンビニ裏手の山の方角。細い生活道路が暗闇へと吸い込まれていく道にローファの不似合いな乾いた響きがこだまする。
 それは軽く続く。アスファルトの剥がれた道路のへこみも気にせずに、ただ彼女は楽しそうに歩くのだ。
 誰も見ていない、誰もいない夜の道。
 いっそこれが現実であればいいのに、だなどと。
 不謹慎にも彼女はそう思ってしまった。



4

「ちょっとは落ち着いたかよ」
 もう外は暗い。他の家では夕餉もとうに過ぎ去って団欒のひと時が訪れているに違いないはずの時間に、母宮はテーブルの上に積み上げられたちり紙の処理に困っていた。
 ぐずり続けて一言も発さない喜先を取り合えず居間に上げ、離れるわけにもいかず数時間が経過していた。つくづく自分の世話焼きな性格に悪態を吐き、ようやくティッシュを抜き取る音が止んだのを見計らい、彼は声をかける。
 妹や母親が帰宅して助けてくれないかとも思ったが、どうやら今日はどちらも家に縁が無い。
「まぁ、分かってたしいいんだけどよ。お前があいつの事     」
「ふぇぇ」
「すまん、分かった。もう言わねぇよ」
 いい加減お腹も減った。明らかに自分よりエネルギーを使い続けている級友を前にして、やっぱり女は別腹なんだなぁとどうでもいい発見に嫌気がさす。
 また泣き始めたら離れられなくなる。その危機感だけで母宮が、
「飯でも作るわ。お前、食えない物ある?」
 と問う。
「御飯、いらない」
「やかましい。人の飯も考えず泣きまくりやがって。晩飯くらい付き合え。どうせ明日休みなんだしよ。ゆっくりしてけ」
 小さい声でキヌサヤ、とだけ返ってきたのを頭に入れ、居間に隣接している台所へと向かう。流し台と胸までしかないカウンターを間に挟んで、上座に座っている喜先の背中を見下ろす。
 こいつも色々と抱え込みそうなタイプだもんなぁ。
「パスタにするわ。米なんか炊いてねぇし。……あー、卵切れてら」
 材料を探す前に大き目の鍋で水を火にかけ、もう一つのコンロにフライパンを用意する。
 オリーブオイルとニンニクとトウガラシの香りが漂い始め、ベーコンの脂が弾ける。小麦を含んだ(母宮が意外にもこだわっているデュラムセモリナだ)湯気が部屋の温度を上げる。
 換気扇に吸い込まれていく空気が少し風を起こし、汗も持って行ってくれる。
「ほれ、出来たぞ」
 皿には少し大目のパスタが盛られていた。アスパラやパプリカが色味を強く主張している。さすがの喜先も食欲を刺激され、腹の音を奏でた。
「箸? フォーク?」
「フォーク……。母宮くん、パスタ、箸で食べるの?」
「俺はカレーとコーンポタージュ以外は箸で食うんだよ。もちろんケーキもな」
 客用のコップに麦茶と氷を投入し、居間の半分を占領するテーブルの上に置く。
「いただき、ます」
「おぅ、召し上がれ」
 虫のオーケストラと食器が作り出すハーモニー以外に音は無く、二人は無言で皿の上にある麺を口に運んだ。
「どうだ? 辛かったりしないか?」
「大丈夫。美味しい」
 まるで初めて家に来た恋人にも取れる応対に、母宮が苦笑した。
 実際には共通の友人を自殺から救い出す為に集まったはずなのに。
 見た目がどうであれ中身がそれに伴っていないというのはひどく新鮮に彼の感覚を可笑しくさせた。
「ごちそうさま」
「お、案外と食うの速いのな。俺と食い終わるのあんま変わんないじゃん」
「私の倍くらい量あったくせに。それにそんな事、女の子に言わないで。傷つく」
 お皿くらいは洗おうと明日香が流しに食器を持っていく。
「あー、置いとけ置いとけ。どうせ気になって後でもう一回洗っちまう羽目になる」
「なによ。お皿くらい洗えるのに」
「たとえ全自動食器洗い機にかけたって、プロの中華料理屋の後だって同じだよ。なんか自分でやらないと気が済まないの」
 自らの分の食器を手に母宮も台所へと向かう。リビングとダイニングはシステムキッチン一枚隔てて繋がっており、胸から上の喜先が食器に水をかける音が聞こえる。
 重ねれば裏を洗うのが面倒だ。腕と手のひらの上で危なげない均衡を保ったままシンクの横手まで母宮が接近し     、
 いつもは有り得ない、落ちそうになった皿を     皿を、反射的に迎えようと母宮の体が動く。
「あ     」
 同時に喜先も更に手を伸ばす。
 果たして食器は落下を免れた。
 男女の急接近という代償を支払って。
「……おい」
 胸に抱きかかえるような姿勢になったまま離れようとしない喜先に、母宮が痺れを切らして声を荒らげた。さっきまで友人を好きだと濁流の如く曝け出していたくせに。
 だが答えは無い。陶器という絶縁体を挟んで、触れるか触れないかの肉体境界線上を、無言と思惑の界面活性剤が撫で回す。
「     ごめんね」
「分かったから離れろ。皿が落ちる」
「そうじゃなくて     なんか、こういうのを今里くんとしたかったんだな、って」
 滔々と、溢れ出る情念は     無音のリビングに音を立てない。
「これからすりゃあいい。お前の事、真面目ぶって特に何も無い奴だと思ってたけど、こうやって少しでも喋りゃあ面白い奴だって分かった。あいつだって気に入るだろうよ」
「……     」
「愛の力って奴だよ。運命の次の次に壮大なテーマ。昔っから奇跡は愛が起こすもんだって相場が決まってんだから」
 冗談めかした言い訳さえ凍え上がりそうな場面において、喜先は笑い返したともとれるような声音で発した。
「猫はガムなんか食べないって、知ってる?」
「は?」
「猫はガムなんか食べない。この音葉の意味、分かる?」
 触れ合いそうなフィジカルの問題を一旦、横にどけて。
 頭の片隅で母宮は言葉を反芻する。視線が自然と左上に移動し、見てはいるものの認識はしていない視界の中で、回答を模索する。
「知らない……な。分からない。そりゃあ猫はガムなんて食べないだろ」
 喜先はその力強さの無い、中空に浮かんだまま相手に答えを委ねる幻想に満足したのか、数歩後ろに下がって母宮の目を見た。
 母宮ですらぞくり、と背筋に這い上がるものを感じるような眼で。
「もしかした食べるかもしれない。猫なんだから食べないだろう。猫なんだから     」
「は、     はぁ?」
「でも別にどっちでもいい、自分は猫じゃないんだから」
 真夜中に出会った街の探索者のように、喜先の瞳孔は縦に裂かれていた。
「母宮くん、多分、今里くんなら分かるんだよ。これが今里くんの見ていた世界なんだ」
「何が。お前     なんか……どうした?」
「私、分かった。今里くんの見てるのもの。これ、これを見てたんだ」
 もう焦点は母宮に無い。まるで瞳で瞳の中を見ようとしているかの如く、喜先の虹彩は揺れていた。
 何かに縋りたくて手を戦慄かせるのに     助けを求めて涙を流しながら笑っているのに、そこに何も無いから仕方なく震えている。
「やっと、分かった」
 皿を置くのも忘れ、母宮は目の前にいたはずの友人を直視する。
「喜先     」

「私なんかじゃ止められない」

 それは決断でもあり     見つけたくない秘密だった。
 一気に全身の筋肉が活動を止め、自律していた神経以外の意思が介入する隙間に入り込んだバグに侵される。喜先の膝がフロアと打痕し、重く鈍い音を立てる。
「母宮くんでも、羽束師くんでも     皆本先輩でも」
 さながら彫刻。生きていると錯覚するくらいに精巧な、     ただの彫刻。

「誰も今里くんと進めない」

 押し返していた波が反発して、それまで以上の轟音となって世界を支配した。誰も永遠には生きられない。でも永遠に死んでいる人間が後を絶たない。
 虫の背景音は、やがて来る終わりの為の前奏曲に似ている。




レヨイン



1

 それはまだ、彼の汗が綺麗だった頃の話だ。
 車と競争して勝利しようとしていた子供を道で見つけ、何を含む事も無くただの疑問として問いかけてみた日の話。
「車になんて勝てないよ」
 自分と一つか二つしか違わないのに、そんな常識が分からないなんて。
「車は、速いんだよ」
 しかし、その子供はにこりともせず、かといってムキになって怒ったりもせず、フラットな心象イコライジングの声で、
「やってみなきゃ分かんないじゃないか」
 そう、答えたのだ。



2

 羽束師事実が家の門の前で嘆息する頃には、高校生が道を歩いていると群青の合法不審者に声をかけられる時間になっていた。
 明かりの無い玄関アプローチでブロンズドアについた無機質な二つの鍵を解錠し、質量よりも重苦しい扉を引く。
 玄関に体を完全に入れると、設置していたセンサーで廊下に明かりが灯った。母親が目に優しいと父親を説得した橙色の発光ダイオードは、妹も気に入っていた色だ。
 巾木から枠材までシックなダークオークに染められた廊下。白いクロスが少しだけ茶色く見えるので、事実は橙よりも白にしてほしかった。
 でも言えない。
「ただいま」
 声を出す。普通の、ごく普通の挨拶。
 一方通行なだけの、普通の挨拶。
 階段を上がらずに廊下奥の和室へ。祖父母がまだ存命していた時は二人の寝室となっていたが、今は事実が一人で使っている。
 二階からは談笑が微かに漏れている。どうせ夏休み明けでまだ息が荒い妹に、父あたりが軽口混じりの説教をし、母が次女をあやしながら同調でもしているのだろう。
 鞄を畳の上に置き、長押にかけられた二つの遺影に一礼する。
 祖父はたいへん物静かだったが、厳しい人だった。
 死ぬまで軍人、と口癖にしていて、過去の栄光に未だに固執していた。初孫の事実にも笑顔を見せた事など無く、ただひたすらに一番というものの素晴らしさを説いていた。
 だからちょっとした反発心で、斜めに構えていた。
 車には勝てないだなんて     本気で思っていた。
「にいちゃん」
 事実は思い出す。
 羽束師事実は思い出す。



 まるで不確実の具現だ。
 事実が皆本、母宮、喜先と別れて数分後。
 帰路にある公園のベンチで、羽束師事実は座っていた。昼の太陽が焼いたオイルステインの木材は、陽も傾きかけているというのにまだそこだけ真昼間の主張を繰り返している。
 誰もいない。子供の忘れた三輪車を見つけ、それに腰掛けなおす。それほど強くもない風に揺れるブランコを見ていたら     何故だか悲しくなった。
 事実は考えたくない時にここへ来る。何も考えないようにする為に、あえて誰にも会わずに済むこの公園を選ぶ。
 もし誰かといたならば。
 もしその誰かに自分が涙なんて見せたなら。
 きっとそれらはわざとだと言うだろうから。
 張り詰めた意思も、いつも釣り上げられている目尻も、今はだらしなく弛緩している。いつもは静かに燃える青い炎を連想させる横顔も、まるで帰る場所を失った子猫を彷彿とさせた。
 何も考えないなんて事を生き物     ましてや人間が出来るわけがない。何も考えたくないと心で念じていても、脳は勝手に景色から時間や景観を把握する。目を結んでも音が周囲を把握し居場所を決める。耳を塞いだって、鼻をつまんだって、口を閉じたって状況は変わらない。何一つとして何もしないだなんて、そんな夢物語を紡ぐわがままをまだ、生き物は許されていない。
 だがしかし、平時にブレーカーが落ちる寸前まで動いている回路を少し弱める事は可能だ。事実が見て、聞いて、嗅いで、触れて     味わっている人生という不可思議な現象を、少し弱める事は可能だ。
 特に最近は考える問題が多くて困る。根本は面倒を嫌う事実にしてみれば至極当然。考えなくても済むならば考えたくはない。
「……」
 一点を見つめてはいるが、何も映ってはいない。意識の外にある瞬間を人間は憶えていられない。
 彼は天才ではない。
「おれは、普通だ」
 正確には     
「おれが普通なはずなんだ」
 ひどく暑い夕陽の中で、雰囲気に酔うわけでもなく呟く。
 公園には当然人の気配がある。
 入口は二つあり、植木に阻まれた道路に面する自転車防入柵に阻まれた箇所。そしてもう一つは金属フェンスの継ぎ目に。
 彼女はそのどちらでもない。
 ジャングルジムの中にいた。
「……     」
「羽束師、事実     くんだったっけ」
 制服を着ている。青い     水色の襟カバーが夕陽の朱に映えて、一枚の絵画を思わせる様相を掻き立てていた。
「あれ、違った?」
「そうだけど     誰?」
 その彼女は事も無げに、もう体格的には狭い鉄の棒の間に腕を組みながら屹立する。まるで絶対防御を誇るイージスにも負けない強度を、その錆びてペンキも剥がれている網に託すように。
「初めまして。愛知、愛知祐」
「愛知? はぁ」
「君はわたしと初めてだろうけど、わたしは本当の意味では初めてじゃない。君の事は君の友達であって兄でもある     いや、君の中で唯一といってもいいくらいの『人間』である今里真から聞いている」
 事実の手に無意識の力が加わり、膝に悲鳴を上げさせる。
「兄ちゃんの     『友達』?」
「それは正確じゃあない。でもま、当たらずとも遠からずかな」
 そう言うと愛知は手近な棒に手をかけ、ゆっくりと這い出ようと体を持ち上げた。しばし不気味な笑みを浮かべたまま、狭い空間で動き回る。
「……」
 やがて動きが止まり、
「助けてくれない?」
 仕方なく事実はベンチを後にし、嘆息を隠そうともせずジャングルジムに近付いた。腹のあたりだけで体重を支えていたからか、息の上がった愛知の手を掴んで外界への生還に手助けをする。
 やがて久々の砂地へと足を下ろした愛知は、制服に引っ掛かった塗料の破片を軽く払い落とし、悪戦苦闘の終焉を告げる。
「ありがとう。初めて尽くしで悪い。ジャングルジムって初めてで、こんなに抜けるのに苦労するなんて思わなかったから」
「いや、いいけど。で、兄ちゃんの友達がどうしてここに?」
 いや、どうしておれに?
「ちょっと君らに救いをあげようと思っただけ。そう頑なに警戒するなんてショック」
「救い? それは兄ちゃんの、あれに関する     」
 途中で事実の眼前に愛知の人差し指の内側が入り込んだ。
「君、本当に賢いんだね」
「……?」
「あれ。まだ確定できない人間に対して言葉を、主軸をぶらして会話の中で確証を得る。コミュニケーションっていうものをちゃんと武器として利用できている。ひどく正しい、ひどく残酷な攻撃」
 言葉は続く。
「相手に失礼のないように、警戒され返さないように。会話の間で自分の持ってる情報と相手の情報を照らし合わせて自分の立ち位置を決める。わたしがどんな人物で、それに対してどういう人物で接すればいいのかを、誰にも気付かれずに出来る」
「それは     」
「そう、それが当たり前! そんな当たり前の事も出来ない自分以外が憎くて悔しくて仕方がない! 何も考えずにいられる人間と呼ばれる周囲が気に食わない!」
 捲し立てられた事実に、事実は見失う。
「君はどちらかと言うとあの先輩に近い位置にいる。でもあっちより遥かに今里真に近い。生活も、時間も、密度も、築き上げてきた関係として、君は近い」
「先輩って、皆本っていう」
「あぁ、ごめん。忘れてくれ。そんなに大事じゃないんだ、そこは。大事なのは君が持つ関係。今里真と羽束師事実の関係。わたしの危惧はそこにある」
 事実は聞いた事も無い鍔鳴りを耳にする。

「君は正義のヒーローだ。それは間違いない」

 言葉を     息を、嚥下させられる。
「わたしは、いや、全ての死んでいないだけの人間は君が怖い。どうしたって辿り着けない遥の向こうで君が鎮座しているんだ。そしてもし、もしもそこに辿りつけたのなら     君に言われるはずだと思い込んでいる! そう、それは『悪は滅びるべきだ』って!」
 愛知の人差し指がゆっくりと下がり、事実の喉元を経て胸へ。腹を登って臍を過ぎ、そして戻ってきて     心臓を刺す。
「この世に最もいらない人種。それが正義のヒーローだ」
 突きつけられた刃先は止まらない。
「いればいいのにと望まれているのに、実際にいれば悪として断罪される。世界平和を本当に望んでいるのは保険屋だけで充分なのに、一点の曇りもない最強にして最悪の武器が、君の持つ『正義』という信念だ」
「おれは     」
「言い訳は見苦しいよ。誇るといい。わたしを困らせるのは後にも先にも君くらい。珍しい。滑稽でもあるが、君は無くてはならない存在でもあるが、それ故に存在を許されない」
 世界のマナーを守れても、ルールと相容れない。
「本当は分かっているんだろう? こんな世界に自分が似合わないって。似合うべきはずの自分が似合わない状況がおかしいって。もっと分かりやすく、もっと綺麗に言い換えよう。君は     !」
「や     やめろ!」
 正義の行う土壇場での懇願はすぐに打ち破られた。

「幸せになるべき人間が、そうならない世界を壊したいんだ」

 絶命に等しい宣告。薄く、それでいて確実に刻まれていた事実の傷跡に、白刃は確実に突き刺さった。
 化膿しても見ないふりを続けていた傷跡に、泥を塗られた。
「正義と悪は紙一重。それは真理だよ。実行力の無い身分なだけで、君はどちらにでもなる資格がある。世界を変える手段が無くても目的がある」
 突き刺さっていた指は優しく胸板に添えられ、慈しむのに似た愛撫を繰り返す。
「君は現れてしまったわたしの、もう一つの可能性。正義か悪かを判断されていないだけで、自分でも決めかねているだけで、君の持つ価値は変わらない」
 並び立てられる。攻め込まれる。取り囲まれる。
「本当の正義が、本当の悪になると君は知ってしまったんだね」
 優しく愛でられていた愛知の右手が突如として変貌し、食らいつく。
 息を感じるほど近く、耳元で嘯かれる。

「邪魔すんなよ。お前もわたしと同じだ」

 すぅっと。
 気配が離れていく。
「……待てよ」
 待ってほしくなんかない。これはただ自分のプライドを守る為に口にした、パフォーマンスとしての制止。
 地面に這いつくばり、許しを乞い、頭を下げて、地面とキスをする。
 数刹那前の願望ではない。これまで築き上げた事実でもない。
 圧倒的にそこに滞在する事象としての真実。
「待ってくれよ」
 制止は願望に引き継ぎ、事実を介して真実へと変貌を遂げる。そしてそれは救済へと進化し、断罪を同時に引き起こす。
 正義なんて必要ではない。もしも正義を望んでいるのであれば、そこには悪がいる。その悪とは、他ならぬ正義を望んでいた自分自身なのだから。
 一歩前を走る、その背中は自分に似ているんだ。
「あいのう、ゆう」
「気安く呼ばないでほしい。虫唾が走る。自己嫌悪、同属嫌悪、同族嫌悪、道徳嫌悪。ま、好きに誤魔化しなさい。それが通らない事は、それが罷らない事実はあなたが一番分かっている」
 倒れ伏し、土下座に近い形を取る事実の後頭部に愛知の髪が垂れ下がる。柳よりも枝垂れた、何もいない賽の河原に佇む二匹の泥鰌。
「物語に登場する当たり前すら許されない自分自身を以て悪とするならば、差し詰め君は正義の味方。それでいいんじゃない?」
 一匹は死のうとも地上に這い出、
「おれは正義なんかじゃない。普通のはずの、ただの『人間』だ」
 一匹はより住みやすく泥を綺麗にしようとした。
「だったらおれは正義なんかじゃない。正義じゃなくたっていい。おれや、母宮さんや、喜先さんや皆本先輩や、それと     兄ちゃんが幸せであればいい」
 残酷に差別し、選別し、抜き取った一部の人間だけが理想であればいい。
 幸せになるべき人間だけが幸せであればいい。
「愛知、愛知祐。お前は完全なる悪だ。でもそれはおれとどこも違わない」
 事実は燃える。青く、冷淡で、しかしそれでいて赤い炎よりも熱く。
「おれがお前と同じ、お前の可能性の一つだったとするなら、俺とお前が違う部分はただ一つ」
 地面を踏みしめ、対峙する。悠久より長く、初発より短い。眼と眼、顔と顔。双方同じ場所に、同じ土俵に上がる。
「ハーメルンよろしく個人を救うか、それとも個人以外を救うか     それだけだ」
「ご明察」
 愛知が自らのうなじに両手を入れ、枝毛の無いロングの後髪に風を入れる。広がった髪は獅子の鬣を思わせる威嚇力を持って、事実に反する。
「君の道は遠く、険しい。わたしの道は見えず、厳しい。ほらやっぱり。あなたはわたしを困らせる。どういうつもりか知らないけど、今里真に絡むのはもうやめて、すっきり世界でも救ってなさいな」
「断る。救った世界を見せたい人間がいない正義なんて、それこそ     悪と一緒だ」
 違いない。
 その時、本当に愛知は心の底から笑ったのだろう。
 不謹慎にも事実はその笑顔を可愛いと思った。綺麗だと、爛漫にして天真だと、そう感じてしまった。



3

「事実に会ったんだって?」
「まぁ、うん」
「そりゃあ良かった。あいつすごいんだよ。ボクは車に勝つのを諦めたのに、あいつは勝つまでやったんだ。自慢なんだ。あいつがボクを好きでいてくれる事は、ボクの自慢なんだ」
 土曜日の昼過ぎ、太陽は傾きを始めたが気温は留まる事を知らないロケットのようにぐんぐんと、どうどうと、上がっていく。
 今里が座る縁石ももちろん熱い。アスファルトの反射熱も加味し、湿気がまとわりついて、日本の夏という素晴らしい文化の反対側だけが光る。
「あいつさ、昔、小学生の時かな。学校で一番喧嘩が強い奴にいじめられて、毎日殴られて、でも悔しいからって色んな拳法とか学んでさ、三年生の時にはもう誰よりも強かったんだよ」
「へぇ」
「そんでさ、そのまま中学校に入ったら負けん気も強くなってさ、ちょっとグレちゃって、喧嘩とかすごいして、そん時に母宮に会って、んで色々あってさ」
「うん」
「あの時はボクも苦労したよ。何でも一番じゃないと気が済まない奴だからさ。一番目立つって言って金髪にしてピンク色のジャージでピアス穴に懐中電灯ぶら下げて学校来たりしてさ」
「はは」
「挙句の果てには一番学校で勉強出来るようになって、訳も無く学校に住んだりとかして、将棋部に馬鹿にされたら将棋の大会にマスク被って乱入して優勝しちゃったり」
「はは」
「しかもそん時かぶってたマスクがミルマスカラスでさ、参っちゃうよなぁ」
 今里の顔は明るい。心底、羽束師事実を愛している情念が伝わってくる。
「母宮にだけは喧嘩勝てなかったのに、卒業間近には引き分けまで持っていっててさ、母宮も母宮で暴走族     ほら、知らないかな。中学の時に国際会館のある公園のゴミ掃除してた暴走族。それ、母宮がやらせてたんだよ。あいつもあいつで変なやつだからさぁ」
 対する愛知の顔は浮かない。口先だけで返答し、愛想を笑い、合いの手を入れる。
「母宮も妹には頭が上がらないし、そういうもんなのかなぁ。そういえば祐って兄弟、姉妹いるの?」
「一人っ子。というか、……まぁ、うん。一人っ子」
「そっかぁ。ボクと一緒だ。家の中に同世代の人間がいるってどんな感じなんだろうなぁ。毎日友達と話すのが楽しいように、毎日が楽しいのかなぁ」
 日差しはじりじりと二人を焼く。今日も今里は狐坂の上で眼下に広がる景色を見る。そこに現れた愛知と話し、帰りたくなれば帰り、会いたい人間がいれば会いに行く。
 まさに自由。通すべき、通しても良い欲求で全てを満たす。
「君は     」
「ん? なに?」
 話の寸間に入り込み、愛知が言葉を発する。
 生まれた日の歌をもう一度、世界を揺らすような大きな声で。

「もう死にたくは、ないんじゃないかな?」

 問いかけに、今里は目線を持っていたジュースに落とした。
「そうかもしれない。今までだって、間違った人生なりに楽しい事はいっぱいあった。多分、憶えていない事だっていっぱいある」
 自分を取り巻く環境が、人間が、いっぱいいる。
「だからってボクだけが幸せになるなんて、おこがましいと思うし、わがままだとも思うよ。でもそれは違うって祐が教えてくれた。誰かの幸せを考える前に自分の幸せを考えなきゃいけないって。幸せの意味を、到達点を、過程を、何がどうなっているのかを考えなきゃいけないって」
 とつとつ、と言葉は続く。
「自分の幸せすら分析できない人間に他人の幸せなんか分かるはずがない。幸せになりたいっていうのは、人間の目的だ。生きるのはあくまで手段で、それが目的に入れ替わってる奴の方がおかしいんだって」
「わたしは、何もしていないよ」
「何もなんて事はないよ。いるだけで何かをしているんだ。世界の全てが一定にして変わらないのと同じ。何が起こっても結局は何も起こっていないのと一緒。でもそれはもっとマクロの視点で考えるべき問題だ。大事な人が死んだって、その人物を知らない人からすれば人が一人死んだってだけの数字でしか、情報でしかないんだから」
 意思は共有なんてされないんだから。
「まったく、こんな簡単で大事な事になんで気付かなかったんだろ。ほんのちょっと、視点を変えるだけなんだけど、変える事すら出来なかったんだから」
 愛知が自分の持っている紙パックのコーヒー牛乳のストローを一度、噛んだ。
「祐、ありがとう」
「出来ない、っていうのは、わたしはおかしいとは思わないよ」
 グロスがストローにつかないように、唇の内側だけで愛知は甘い、甘い飲料を流し込む。
「やらないのは別にいい。怖いのは、死んだ方がマシなのは、出来ない事にすら到達していない奴でしょ。やれば出来る、はやってないのと同じだけど出来ないのとは違う。やれば出来る人間は出来る。でもやった事も出来る事も無い人間が世の中、増えすぎただけだよ」
「それが一番、始末に負えないよね。出来るのにやらない人間と、やるけど出来ない人間はすごくタチが悪いけど、やらないし出来ない奴が多いから」
 アスファルトの上をアリが一匹、歩いている。今里はアリがもし、こちらを見て何かを考えていたならば、と妄想に思考を割き始めた。

「プライドすら無い生き物が多くなっちゃったから」

 日差しは本当に強い。じっとしているだけで肌の表面が色素を増していくのが分かるくらい、陽光は二人に降り注いでいた。
 だからまだ死ねない。まさかこんな時期に自分の葬式を手間取らせるなんて、そんな不誠実で面倒をかける迷惑を今里はしたくなかった。
「喜先、さんだっけ。君の同級生の」
「うん、え、うん。喜先さん? 喜先さんがどうかした?」
「あの娘はそろそろ気付くんじゃないかな。伸び代がすごかったし、ベクトルが一番君に沿っていたと思う」
「そうかなぁ。真面目なんだよ、喜先さん。ボクなんてほら、不真面目だし。根が不謹慎でできてる」
「それはどっちかっていうと母宮くんの方だと思うけどね。まぁ、あの女の子には見えていてもおかしくないよ。でもどうだろ。見ちゃったら一緒にこっち来るかも。それは、ねぇ?」
「どうかした? 祐」
「いや、それは面倒だなって。君が死ぬのは君にだけ許された道だし。あの娘はもっと生きなければいけないし、母宮くんは止まらないと。羽束師くんは笑わせないとダメ。あの先輩は……うん、あの先輩は君とはまったく逆。自分以外を殺さないといけない」
「物騒だなぁ。祐はいつも物騒だ」
「別に自分から外に出す必要は無いよ。自分の中だけで終わらせて、自分一人でまずはやんないと。周りはそれから。行動に移すかどうかを決めるのは周りだし」
 車が一台、目の前を通り過ぎる。ランドクルーザー型のどっしりした通過音と共に、窓を開け放っていた運転席の男がこちらを見て薄ら笑いを浮かべている。
 どう見えるか。この二人を値踏みする。
「別にさ、物騒でも大袈裟でもないよ。これを大きい問題だと取り上げる方がおかしい」
 愛知が口火を切る。
「当たり前の事を当たり前に。不必要で面倒な回り道を近道に。それだけだよ」
「だって祐が言うのはなんでも極論だからなぁ」
「それは認めるけどね。ほら、ツケがたまってる店で一気に大金払うのに似た感覚。ちょっと戻り過ぎたし多めに進んでおく感じ」
「正論ってやつ?」
「それにすら届いてないくらいだけどね。わたしが見る世界と、周りが見るわたしの見る世界とを一致させる。それは補い合って完成するものなんかじゃない。進化? そんな感じ。いい言葉だね。進化って。進んでいくっていうのが特に」
「一つになるって事?」
「違う違う。今里真、一人一人が完成しないともう前には進めないって事。出来ない存在を人間だなんて呼んじゃうのはやめるって事。何か一つでいいし、命をかけて出来るって言える誇りを一つ持つ事」
「ははぁ。分かりやすいね。でも分かってはくれなさそうだ」
「一人になれば焦ると思うけどね。一人だけが突出するから周りに反感を買うんだよ。一人だけが取り残されれば嫌でも区別される」
「出来る人と出来ない人?」
「いや、生きるべきか死ぬべきか」
 そして今里はまた手を叩いて笑うのだ。
「ほら物騒だ」
 愛知は笑わずに返す。
「ありがとう」
 眼下の街は、もうカンティードが燃やし尽くしてしまった街。再建には程遠い、焼け跡の街。
 今里は早く秋にならないかと望む。
 それまでは後夜祭の雰囲気を楽しむしか、ないのだから。



4

 羽束師事実が母宮の家のインターフォンを鳴らすと、女性の中でも更に甲高い声が、小さいスピーカーを音割れさせた。
「事実じゃん! 月助! 月助!」
 しばらく遠く、声が鳴る。もはや家の中から聞こえる声の方が大きいくらいだ。微笑ましくその一連の関係に接し、事実が所在無さげに頬を掻く。
「月助、事実! 事実だって!」
「分かってるよ、分かった! 騒ぐなよ、そんなに」
 今日は休日である。羽束師事実は意外とオシャレするのが好きなので、今日は螺旋状に模様が入っているタイトな七分袖の白いシャツに、メッシュ素材を使った涼しいサルエルパンツを履いていた。外に履いていけるようなシックなサンダルとさっぱりしながらも主張するピンクのトイクロックが今日のワンポイント。
 ポケットに手を突っ込んだまま、炎天下に数分。やがて玄関の扉が開いて、母宮が出てきた。
「すまん、羽束師。入ってくれ」
「ほら事実!」
 母宮は部屋着だろうか、グレーのスウェットを履き、少し着古したオレンジのシャツを着ていた。そして腰に絡まりつく日呼(ようこ)がワンポイント。
「相変わらずですね」
「お前も分かっててやるなよ」
 苦笑する事実。母宮の妹は兄が連れてくる友達が絶対的に『好き』なのである。それは一種のブラザーコンプレックスと言えるくらいに兄を尊敬しているからであり、たまに訪問した際に二人が在宅だと、必ずこのように絡まって迎えられるのである。
「いいじゃないですか。仲良いって」
 まだ腰に組み付いたまま喜ばしい悲鳴を上げ続ける日呼を剥がそうと躍起になる母宮を羨ましく思いながら、玄関アプローチに続く門を開ける。
「月助! 事実!」
「分かってるよ、分かってる! いいから離れろ、暑い!」
 オフだからか、日呼は化粧もおとなしめで全体的にやぽったい。薄手でサイズが大きいパーカーを着ている為に、母宮も力がうまく伝わらずに苦労している。
 やがて諦めて引きずりながら家の中へと入る。リビングに通され、親の不在を告げられる。
 テーブルに二人が向かい合って座ると、日呼は事実の隣で行儀悪く膝を抱えて椅子に乗り、他愛も無い質問を繰り返していた。
 やがて盆に麦茶を四杯揺らして母宮が戻ってくる。
「一つ多くないですか?」
 何気なく事実が指差し、透明なグラスに目をやる。
「多くない、から面倒な話になる」
 母宮が腰かけ、自分の隣に余るはずのコップを置いた。丁寧にコースターをかませる。
 不審がって一口、二口と麦茶を流し込んだ事実だったが、疑問はすぐに解消される。
「ん、ん? 喜先、さん。だっけ」
 リビングの扉を開けて入ってきたのは喜先明日香だった。
「母宮さん、どういうことです?」
「いや、話せば長くなるというか、何と言うか。昨日、あのミーティングのあと、こいつうちに泊まったんだけど、いや、そういうんじゃなくて、まぁ、なんだろうな」
 要領を得ない解答に、さらに疑問を投げかける。
「泊まった? 喜先さんが? 母宮さんの家に?」
「端的に事実を言うならな。でも見ろ」
 母宮の目線につられて事実も喜先の顔に注目した。
 表情を感じ取ろうとして、すぐに異変を察知する。
「……?」
 沈みがち、とでも表現しようか。目線は下を向いたまま、しかしそれでいて何も見ていないかのような、空虚な瞳。恐らくシャワーも浴びていないのだろう、少し脂でまとまった前髪はセットもされずに顔の半分を隠しており、手はバランスを取る不随意行動を止め、まるで音を立てずに座敷を歩く舞妓を思わせる足取りで椅子に向かう。
 やがて移動する、と呼ぶにはおこがましい程の時間をかけて椅子に手をかけ、引く。
 座ってもこちらを見ようともしない。麦茶に手をつける事もなく、弛緩しきった、疲弊しきった面持ちを隠さない。
「これ、どういう……?」
「分からん。晩飯食うまではいつも通りだったんだが、よく分からんうちにこうなった。喋りもしねーし、朝飯も食ってねぇ」
 自作した燻製使った特製のベーコンエッグだったのによ、と母宮が吐き捨てる。
 さすがに服装は昨日とは違う。事実はそれをどこかで見たように思い、すぐに日呼のものだと気付いた。
「事実、あの人、日呼が着替えさせたんだよ! ね、ね」
「う、うん。そうか」
 にんまりと月を思わせる笑顔の日呼に、事実はぎこちなく笑い返す。
 それにしてもこれはおかしい。あれだけ元気に躍動していた少女が、たった一晩で蛻になっている。
「なんか今里の見ていたものは、とか。猫がガムをうんちゃらかんちゃら言ってたけど、さっぱり分かんねぇ」
「兄ちゃんが見ていたもの?」
「そう言ってたな。でも内容聞こうにもこいつがこれだし、つうわけでお前を呼んだわけだ」
「呼ばれても、ですよ。おれは昨日初めてこの人に会ったし、付き合い自体は母宮さんの方が長いでしょ」
 氷が融解し、組み合わさったパズルが一つずれる音を立てる。
「いや、俺もこいつとそんなに仲良かったわけじゃないし。クラスでもあんま目立たねーし、昨日初めてあんな喋るこいつ見たくらいだもんよ」
「そうなんですか? 元気とか、そういうんじゃなく?」
「そうだな。いや、静かってわけでもねーし、笑うし喋るんだけどよ。なんていうか、自分が無えっていうか、自己主張が薄いっていうか……」
 太陽の光は今、燃えるほどにリビングの窓から差し込んでいる。ともすれば平和にすら見えるこの光景で、四人の人間は言葉を歌う。
「へぇ。すごい感情豊かでしたけどね。おれは昨日見て、そう思いました」
 だから気付く。そうあるべくして、そこに辿り着く。
「そりゃあ     」
 母宮の眼が何かを、確かに捉えた。
「     ?」
 訝しむ事実。風も無いはずの室内で、相手にされない日呼の楽しげで不思議な花畑だけが木霊する。
「母宮さん」
「ん、あぁ。そうだな。そういう事だ。昨日、お前は喜先を見た。でも俺の知っている喜先とは違う人間だ」
「はぁ、     はぁ?」
 突如、会話はキャッチボールから牽制球へと変化する。
「厳密に違う人間じゃあない。でも俺とお前の中にいる人間は同一人物じゃない。それは真贋とか印象とか、そういう回りくどいもので、でもすんげー単純なはずで     」
「ちょっと、母宮さん     」
 明らかに様子がおかしい。寒くなんてあるはずないのに、母宮の指先は振動病のように震え、伝染した力量はコップと机を打楽器と昇華させる。
 そして日呼が叫ぶ。
「月助!」
「     日呼ちゃん!?」
 怒声ともとれるほど大きい声量。引き裂かれた静寂。
 日呼の声に三途から引き戻された母宮の焦点が、右往左往と行き戻りを繰り返し、やがて落ち着く。着地点の安否すら気にしないまま。
「は     ハァ、くそ! ハァ、いや、すまん。ちょっと頭が痛いわ」
「どうしたんですか、急に。母宮さん、ちょっと」
 汗すら滴り、動悸も明瞭なほどおかしい。
「事実、これはやばい。猫はガムを食べない     そういう事か」
「だから何が     」

「うるさいッ!」

 発せられたのは喜先の口、喉、腹。
「喜先さん、喜先     」
 一人、着いていけない事実だけが無為に椅子の端を握る。
「喜先、お前が言ってたのはこれか。これなのか?」
 無言で、喜先は母宮に対して首肯した。涙が一雫、二雫、灰色のシャツに円を作り出す。
 抑えきれない感情の爆発を必死に自分の体内だけで押さえ込んでいる風にも見え、その危なっかしさが事実を更に不可思議の奈落へと突き落としていく。
「母宮さんも、喜先さんも、何言ってるのか分からないですよ。おれの頭の上で会話しないでくださいよ!」
「事実、お前には分からないのか? すごい単純な事だ。簡単も簡単だ。正論ってやつだよ。極論でも何でもいいんだ。それは真理で、正しい」
 説明を、垂れ流す。
「だから何も言えないんだよ! 気が狂いそうだ。今里の奴、あいつは中途半端に頭が良いから、訳の分からねぇ理屈こねくり回して、それがこれか。喜先、お前、よくも     」
「母宮くんの思ってる通りだと思うよ。私も同じ。簡潔で、簡単。だから非の打ち所が無くて、でもすごい深く見える」
 深淵を覗くものは、だなどと他愛も無い例文を引っ張り出すまでもなく、そこにあるから。

「事実、あのさ、今里はもうどこにもいないんだ」

 それは最悪の通告だったのか。そして最後でなければいけないかったのか。
「兄ちゃんがどこにもいないって……?」
「そのまんまだよ、そのまんま。正確にはあいつっていうのはあいつの中にしかいない。だからそもそもいなかった。いると思ってただけだ。俺達が、勝手に」
 レジュメのはずが、受け取れない。
「意味が分かりません、兄ちゃんは、だって、いるし     」
「お前の中にな。だけどそれは俺の今里じゃあない。もちろん、こいつでも皆本先輩やらでもない。お前の中にだけいる」
 だから、

「だから猫はガムなんか食べない」

「     ……ッあ」
 そして事実は走り出した。一目散に、逃げるように、母宮の家を飛び出していく。乱暴に、蝶番の悲鳴が聞こえそうなほどドアを開け、サンダルに足を通して我武者羅に。
 残された三人。母宮は笑っている。笑っているのだろうか。僅かに口角が上がってはいるが、それを笑っていると判断する人間が果たしているだろうか。
 喜先は変わらず何も見ていない眼から涙を流す。無着色の、水色の血を流す。
「月助、喜先さん」
 日呼だけが、生きている。
「難しい事は分からないけど、正しいとか、そういうの、分からないけど」
 太陽と月が入れ替わる狭間で、見ている。
「何だかすごい分かるよ。月助がすんごい事決めたって事。喜先さんが逃げなかったって事。分かるよ。だから月助も、事実も、喜先さんも、好きだよ」
 慰めにもならない賞賛は逆に二人を削っていく。がりがりと、じくじくと、見えない心を掘削していく。
 そしてそれよりも二人が思い描いた『答え』が、中身を抉る。
「日呼、お前もすごいな。大体、頭の良い奴は馬鹿に足元掬われるように出来てる。救われる、かな。やっぱ俺とか、あいつみたいに、中途半端な奴はダメだ。変に目端が利くから、こっちが近道なんじゃないかって、そう思っちまう」
 こんなに簡単な事が正解な筈ないって、疑う。
「母宮くんも、もう『止められない』んだ?」
「そう、だなぁ。もしこれが今里の知ってる、今里の見ている事なら、それは止められないなぁ。困った。俺ら、本当に意味なんてあんのかね」
 不遇にも、タイミングが合った。呼応した様々な現象と仮説が、状況と課程が、ぐるぐる螺旋を描いて不時着する。
 何も出来ない。何かが出来るだなんておこがましい事を、恥ずかしくて言えやしない。
 自嘲は自虐と非なるものだ。
 今年の夏はひどく、蝉がうるさい。そっとしておいてほしいのに、寝かせてはくれない。







ゼイツロ


1

 一方で事実の体は空気を掻き分けている。異常なほど、かつて車を追い抜いた時よりも速く、確実に構築された頭の中のルートが、何も知らない頃よりも多くの『正解』を選択する。
 街を行き交う人々。ある者は必死に走る事実を揶揄嘲笑し、ある者は不安げに眺める。多種多様の行動がそこにはある。
 それらを十把一絡げに投げ打って、事実は走る。
 アスファルトを僅かに削り、それと比例して靴底をそこに残していく。スニーカーを履いてくれば良かったなどという後悔は最初の数十mで終わらせていて、あとはただ思考の片隅で、今里のいる場所のリストアップから、どれだけ多くの場所を効率的に回るかを思慮する。
 やがて打算した三つ目の場所で、彼は彼を見つけた。
 まだ夕陽の昇らない坂の上で。
「     事実?」
 息を荒げ、坂を走って上がってきたであろう弟の姿を、今里は驚きと友愛の面持ちで迎える。
「どうしたんだよ、こんな所で。トレーニングか?」
 そして笑うのだ。覗く八重歯を見せて。
「とりあえず、はい」
 手渡された缶飲料。まだ冷たい事を、表面に張り付いた水分が物語っている。
 それを受け取り、一気に流し込む。清涼感は口内から喉までを冷やしたものの、荒ぶる思いまでは飲み込ませてくれなかった。
「おい、おい。全部飲むなよ、あー、まだけっこう入ってたのに」
 事実は紫色のアルミ缶を縁石に置き、口元を拭う。袖が着色された事も意識の範疇に入れず、眼前の今里を睨みつける。
「兄ちゃん」
「何だよ、そんなに喉渇いてるなら下で買ってこれば良かったのに」
 缶を逆さにし、垂れるだけの量になってしまったジュースを惜しげに眺める。
「ボクのも買って来いよ。驕ってあげるから」
「兄ちゃん!」
「何、何。大きい声出すなよ。お前が大きい声出すと怖いんだよ。とりあえず座りな。いつまで経っても世話が焼けるな」
 それは事実が知っているはずの今里真で。
 それはそこにいて。

 そしてそこにはもういない。

「お前はいつだってそうだ。考える前に走るくせに、走り終えるまでには答えを見つけ終わってる」
「兄ちゃんが、兄ちゃんの、なんていうか」
「お、今回は珍しくまとまってないな。まぁいいよ。そう簡単に話せる事じゃないし。でもね、事実。兄ちゃんの時間はもう終わってるけど、お前の時間はまだまだあるんだから、ちょっとは落ち着いて、そんで、まず深呼吸した方がいいよ」
 諭すは賢者に成り下がり、不確定の慰めに似た温かい勘違いを生み出す。
「そんな時間ないのは兄ちゃんが一番分かってるだろ」
「時間? あぁ、ボクの? さすがに事実の深呼吸待ってやるくらいの余裕はあるよ」
 韜晦に継ぐ篭絡。
「事実、まずは落ち着けって。病気や事故じゃないんだし、急を要する最後じゃない。何なら事実の為に一日伸ばしたっていいんだから」
「そうじゃない。兄ちゃんがいなくなるのを決めるのは兄ちゃんじゃない」
 怪訝にいぶかしむ今里を見下ろす。お気に入りのティーシャツも汗で張り付いてしまい、感覚の邪魔にしかならない。
「兄ちゃんがいなくなる     死ぬってのは、おれが決める事だから」
 それは確認にも受け取れた。
「事実……」
「昨日、会ったんだ。愛知って人」
「     ……」
「怒られたよ。すごい怒られた。もう兄ちゃんには近付くなって。わたしに関わるなって」
 公園がフラッシュバックし、罅割れて     あの笑顔が垣間見える。
「やっと分かった。あの人はおれが嫌いなんじゃない。おれが好き過ぎてあぁなっちゃってるだけなんだ。おれだけが好かれちゃったんだ」
「祐が? 事実を? まさか。あいつが人の事好きになるわけないよ。ナルシストの権化だぞ」
「だからだよ。だからおれの事が好きで好きでしょうがないんだ。まるで自分を見ているようだから。あの人にとっておれは     いや、おれじゃないのか」
 言葉を一端落着させ、また拾い上げる。
「あの人の中のおれは、それだけの価値があったんだ。だから、だからおれはここに来れた。自分で気付いて、ここにいる」
 それを止めようとした愛知の思惑を振り払って。

「愛知は、兄ちゃんが嫌いでしょうがないんだ」

 告げられた禁句に今里が二の句を吐けない。気付くよりも前に教えられた情報は、容易く人間を壊し、再構築する。
 それは成長ではない。
 変化だから。
「たぶん、もうすぐここに来る。時間が無い。逃げる時間も、準備する時間も」
「祐は、祐が     」
 それにより生み出される多くの答えも意味を成さない。純度の低い、自分の入り込まない世界に価値は見出せない。
「兄ちゃん。安心しろ。あいつの言う通り、おれは     」
 佇むのは二人     いや、三人。

「正義のヒーローだから」

 振り向く坂下で息を荒げる愛知。膝に両手をつき、こちらを仇敵のように睨みつける。
「愛知、おれはお前とは違う」
 対する事実の目は涼しい。もう汗は引き、どちらかといえば涼しげな表情に、いつもの事実が持つ蒼い炎のような横顔を取り戻している。
「羽束師事実。言わんこっちゃない。やっぱりお前は潰しておくべきだった」
「潰されたからここにいる。昔っからそうだろう。一度、『死』に面した主人公は強くなって戻ってくる」
 古今東西、そう出来ている。
「それは教えちゃいけない、真実だ。今里真はそれに自分で気付くべきだった」
 少女の目が戦慄く。揺れ動き、嘘が白日に晒されそうな子供のように。
「誤算だ、誤算。よくもやってくれたな、馬鹿が」
「褒めてもらえて嬉しいよ。愛知さん、おれもあなたがどうやら好きみたいだ。やっぱり兄ちゃんの周りには人間が溢れている」
 おれを見てくれる人間があふれている。
「本当に、そうなんだな。祐、 祐! ボクはそれのすぐ前には来てたのか!?」
「やめろ! それ以上は駄目だ! 今はまだ考えるな!」
「人間は考えるのを止めない。止める事なんてできやしない。兄ちゃんをそう変えようとしたのは愛知さん、あんただろう」
 と、羽束師がうっすらと笑みを浮かべる。
 救えたはずの人間は、そうして救われたはずの人間に阻まれて。

「愛知さんは詰めが甘いのよ」

 それは酷く冷たい。
「狂った歯車はどけておかなきゃ。腐った蜜柑は選別しなきゃ。存在は許しても     迷惑をかけないように」
 言葉ではなく     事実の背中に突き立てられた果物ナイフ。
「あ、ぐ     」
「皆本先輩!」
 倒れ込む。今里の叫び。呼び掛けには内実するいくつもの感情。
 制止、反省、怒気、反応、惜別、願望。
「今里くん、あたしは愛知さんより物騒だったわ。ごめんなさい」
 抜き取られ、傷口から血液が噴射される。飛び散りこそしないが、刃身の付着から浅くは無い侵入が推測される。
 人間は     動物はどれだけ異物に侵犯されれば死ぬのだろう。
「だ、大丈夫か、事実!」
「大丈夫よ。死にはしないと思う。思うだけだけど。だけだけ。ふふ、ねぇ、愛知さん」
 口元に手を当て、漏れた息。
「やり過ぎ。他に方法あるでしょう、確実なのが」
「だって頭殴ると外しそうだし、力いるし。毒なんか持ってないもの。スタンガン     も微妙じゃない? すぐ復帰できそうで」
「皆本先輩は何をしたか分かってるんですか!? 事実、なんで事実を     」
 返ってきたのはたった一つ、シンプルな答え。

「あら、助けてあげたのに」

 残酷。あまりにも凄惨。
「愛知、愛知がやらせたのか」
「いいえ。わたしはあなたにやったように、この皆本さんの背中を押してあげただけ。ゼロを、イチにしてあげただけ。さすがにこうなっちゃうと責任も感じるけど」
「     ッ、……とりあえず、救急車呼ぶよ。警察? いや、先輩     が、先輩を」
 携帯電話を手に持って、
「どちらでもいいわ。今里くんが決めて。あたしもしたくはなかったけど、やっちゃったのはしょうがないし。二つも下の男の子なのにね」
 冷静に、果物ナイフを皆本はケースに入れ直した。
「とりあえず、救急車     」
 ダイヤルされた緊急回線と今里が話してる間、羽束師は考えていた。
「ごめんなさい。ちょっとの間、君も休んでていいんだよ」
 だから覗き込んだ皆本の手からナイフをひったくり、べたべたと撫でくりまわす。そして、それを抜き、固く握り締めた。
「……いってぇ、くそ。痛過ぎてもうそんなに痛くないのが逆に怖いくらいだ」
「     あなた」
 今度は皆本が目を剥く。
「こんな強硬手段無しでしょう、先輩。昨日会ったばかりで普通刺しますか」
「羽束師くん、やっぱり君は正義の味方なんだね」
 返答は無かった。目を閉じたまま荒く息を繰り返す。
 静かに、愛知はそれを見続けていた。姿勢を正し、戻った心拍も気にせず、敬意を込めて羽束師の頭の傍に座る。
「皆本さんの言うとおり。あなたはやっぱり正義の味方。もっと穏便に君を退場させられれば良かったんだけど……。     ごめんなさい」
 電話を終えた今里が立ち尽くしている。
 いつからだろう。
 自分だけしかいない。



2

「あなたに会う為にあたしは生まれてきたのかもしれない」
「そんな大げさな話じゃない。皆本、皆本幾絵。答えの無い問題に答えを用意するのは、まぁ、裏技かな。それともボーナスステージ?」
 漆黒、なら聞こえはいい。ただの夜。ふと自分に返る、空虚な時間。全てを覆い、全てを奪う。だからこそ自分しかそこにいない危機感を煽る。
 山と山に連なるその街には、ひどくマンションが多い。土地が安いのか、それとも開発が滞り無く進んだのか、はたまた周囲に悟られない何かしらの組織陰謀なのか。
 オカルトを呼ぶオカルト。
 築五年も迎えないマンションは、白亜の壁がまるで人の業を移す掛け軸に姿を変えたようだ。
「一目惚れ、じゃないかしら。ほら、遺伝子と遺伝子の、何かあるじゃない。そういうの。テレビで見たわ」
 深夜になればもう人はいない。不良、と呼ばれる若者はここ数年でついぞ見ぬようになり、夜の帳は彼らから異常性を取り上げた。逆に普通を埋め込み、ぴたっとはまったジェンガを思わせる。
 だから皆本幾絵がこんな時間にコンビニへ行くのも、忌避やタブーを生まない。
 彼女の昔からの癖で、夜になるとチョコを食べたくなるのだ。カカオの少ない、砂糖とミルクで嵩増しした     甘い、甘いチョコを。
「あなたが、今里くんと話したのかしら。彼をあんなにしてしまったのかしら」
「そうとも言えるし、正確にはそうではないと返せる。皆本幾絵、彼はなるべくしてああなった。誰のせいでもお陰でもない。少し急かしただけだよ、わたしは」
 高校三年生にしては小さい身長なので、皆本は人一倍体重を気にする。太っているよりは痩せている方が良い。それは異性へのアピールなのか、自分の理想なのか、深く考えた事はない。
 だからチョコを食べる次の日はきまって御飯を食べない。
 そんな日常を切り取ったその世界に、何が見えるのかは彼女にしか分からない。
 色の無い夢になる日常に意味は無い。何かが起こるのは、いつもの日常に一つのスパイスが混入した結果だ。
 それがハバネロよりも強い劇薬だっただけ。
「あたしに会いに来たんでしょう?」
 一目見れば分かった。異質が異質を呼び、その周囲だけ混沌とした理路を奏でているようだったから。
 夜に映える白の制服。この周囲では見た事の無い水色の襟カバー。闇に溶ける長い髪、そして袋を下げた皆本を見据える赤の混じった黒い眼。
 こうして愛知祐と皆本幾絵は出会った。
 そして彼女は気付いた。
「て、事は羽束師くんの後     か、母宮くんの後か」
「ご明察だね。羽束師事実の後だ。母宮月助と喜先明日香は自分で気付くだろうから今は性急に差す必要は無い」
 やはり制服とは制する服。きっちりとした秩序を感じさせる。
 対して皆本の方はといえば、中学の体操服をインナーにして胸元の名前が隠れるくらいのサマーセーター、下にいたっては草臥れたボーダーナイロン生地のスウェットパンツだ。
 新築のマンションといえど、周囲に明かりは少ない。駐車場を照らす外灯は周辺住民の反対もあって光量を絞られ、ロビーからも離れているここでは顔の認識すら危うい。
 しかしはっきりと皆本には分かった。理屈ではなく感じたのだ。
「やっぱり君は賢い。常に自分を構築し直している。客観に優れ、迎合を嫌う。迫害を恐れ、埋没を疎む。わたしはゼロをイチにする為に存在している。だから本来、あなたに会う必要は無いんだけれど……」
「ここにいるって事は、あたしが必要になったんでしょう?」
「     正解」
 今里真は変わった。ある日、ある時、ある場面。
 羽束師事実が恐れ、母宮月助が危惧し、喜先明日香が疑った今現在の今里真。
「あたしはもう完成してるから、会えないかと思ってた」
「完成しているからこそ今、あなたが必要だ。皆本さん、正義の味方に爆殺されそうなので、わたしと共に進んで欲しい」
 人が人をやめるのに必要なのは時間ではなく、機だ。きっかけというには聊か語弊がある。始まりと言うには厳か過ぎる。変化といえば聞こえは良いが、傷というには癒えはしない。
 その機こそ、皆本が推測している事象そのものこそ、今目の前で佇む一人の少女なのだ。
 揃えられた前髪は楽しくもなさげに揺れる。夜涼みの風がさらりと踊らせる。
「ならあたしもイチにしてくれる? 今のあたしのイチをゼロにして、またイチに」
「……努力しよう。骨が折れるよ、皆本さん。わたしは神じゃないからね。破壊したり創造したりを何回もしてると肩が凝る」
 ふっと消えた。当たり前が当たり前だと思っていた感触。馬鹿にして、嘲笑して、吟味して、批評して。押し付けた価値観が何かを変えると信じていて、でも自分の中にある確固ですら作られた価値観でしかない。育んできた今を今とすら感じられない不遇を呪う事すらせず、自分が自分である事に自信すら持てない、事すら気付かない。
 気付かないのは悪だ。見えないのは罪だ。考えないのは     無だ。
 だから皆本はチョコをかじった。包装を破き、甘い甘い甘露をかじる。
「一ついる?」
 小袋には亀の子型のチョコがいくつか入っている。皆本はそれがお気に入りだった。
「いただこう」
 脳が乾く。いつもいつも、食べても満たされない。飲んでも潤わない。
 チョコだって、昔見た健康番組で体に良いと紹介されていただけだ。どうせなら寝てしまった方が、電源を切ってしまった方が     いくらかいい。
 そんな一つ一つ。自分を構成する部品が組み替えられていく。今も、昨日も、明日も。ずっとそうやってきた。もっと正しいものへ、もっと効率的なものへ。
「他にもあるよ。あたしどっちも好きだから、両方買うの。食べ過ぎよりも、足りない事の方が怖くて、いつも余っちゃうから」
「あ、これわたしも好き。ミントチョコ好きなの?」
 現状は維持できる。変化を嫌う。分からないものを分からないままで扱う事に何の罪悪感も無い。公式を知ってるから計算を飛ばし、いつの間にか憶えてしまった答えだけが受け継がれ、今もそうして作られる。
 継承は結果ではなく、課程で行われるべきなのかどうかも、理解が出来ない。
「好き。あとラムレーズンと、ブラウニー」
「趣味あうね。チョコミントじゃなくてミントチョコだよね。ミントとチョコの黄金率的に」
 間違ってはいない。死んでないだけの状態が罷り通るからこそ生まれたものがある。
 しかしもしそれが間違っていたとするならば、間違いだったという事にもしもなったのなら、形成はゼロになり、そしてその次の瞬間からイチになる。
「やっぱ夏でもチョコにはホットコーヒー」
「しかも無糖の奴ね。ボケちゃうもんね、甘さ」
 深く深く、共通を終えた個々が、浅く浅く     食い込んでいく。
 いつも始まりはどうでもいいままに終わっていき、忘れられたまま過去になる。感応は首尾よく塗られ、一つの繋がりが遠く吼える。
 やがて暮れは光になる。沿流は本流へと様変わりし、今までの物語が無為に帰す。やたらめったら乱立した巨大な権威が、実は張り子のトラだと知る。
 根拠の無い意味。
 彼女達にすら分からない時間。
 ボクですら届きやしない。



3

 救急病院の廊下には羽束師の両親、そして皆本と愛知。もちろん、今里もいた。
 時節の挨拶と他愛無い世間話をし、家族は病室へと入っていく。残された三人の面様はそれぞれに違う。
 晴れやかな仕事を終えた後の皆本。思案する様子の愛知。
 今里は項垂れていた。
 それは自分の為か。それとも弟の為か。
「どうする」
 もう時間は夜。搬送され、手術を終えたのがさっき。かれこれ四時間は経っていた。
 医師の方から怪我の内訳は聞かされていた。内臓腹膜に届かない裂傷。雑菌などの消毒だけ行い、止血     縫合。命に別状無く、明日には帰宅できるとの事。
「何が」
 『自分で自分の背中刺すなんて、奇妙な自傷行為もあったもんだねぇ』
「これから」
 『高校生? 最近の子供は簡単に自殺するフリするから怖いねぇ』
「だから、何が」
 『子供なんだから、恋愛に敏感なのは分かるけど。もっと考えなさい』
「今里真、これからどうするの。もう君は純度の低い。     わたしという現実に羽束師事実という理想を混ぜられた答えしかない」
「……それは事実のせいなのか?」
「いいえ、わたしのせいね。わたしと皆本さんの半々」
 その原因の一端は誇らしく今里に笑いかける。
「羽束師くんには謝る事はないけど、君にはある。今里くん、ごめんなさい。君の大切な家族を傷つけてしまって。それは心の底からそう思う」
 因果応報。自業自得。
「愛知さんにも、謝るわ。性急過ぎた。もうちょっと穏便でも良かったとは思うけど、あの状況じゃ無理だったんだもの」
「分かってる。皆本さんの判断は正しい。今里真の完成にはあの少年は、正義の味方は非常に邪魔だった。甘く見過ぎていたのはわたしの責任」
 あくまで失敗は失敗。ミスはミス。間違いを認める事に二人は何の忌憚も無かった。それこそが彼女達を彼女達たらしめる矜持に思える。
だから間違っていない、正解だと判断した答えに余念も雑念も必要無い。自分の見た未来予想図に他人の声が入る余地が無い。耳を傾け、真摯に聞くフリをするのに精一杯で、動かされるのは唇だけ。
 心は不動。
「皆本先輩は、事実が嫌いだったんですか?」
「あたしが? いやいや、あたしはあの子、大好きよ     個人的には。だって正義の味方って。白馬の王子様みたいで」
 明るく笑う。口元を隠す上品さを垣間見せる笑い方だ。
「でも事、今里くんにとってはあれ。悪の魔王? 親玉?」
「彼に悪いよ、皆本さん。羽束師事実の全面性については今里真が重々、承知してる。わたしが今里真と出会うずっと前から、彼らは一緒なんだから」
 それこそ、と愛知は続ける。
「あなたが自動車に負ける頃からね」
 脳裏に過ぎるは今まで彼に対して割いた記憶。
 いじめられて鼻血を出しながら睨む顔。相手を殴りすぎて怒られる時間。小学校低学年でありながら一人でブランコを漕いでいた夕方。隣に座った時の僅かに笑う安心。家族と折り合いがつかなくて悩む彼と、どうにもならないものをどうにかしようと努力するひたむきな態度。人間関係の中で何かが起これば真っ先に疑われ、否定もしないからどんどん孤立し、レッテルを貼られる背中。県の偉い人に優秀成績で呼ばれた表彰式をサボった根拠。高校からスポーツ特待を受ける為に呼ばれた豪華な食事よりも、自分と食べる一杯二百円のラーメンを選んだ精神。後ろをついてくる足音。前に出て守ってくれる姿。努力を惜しまず、到達に自らを置く枷。
 彼と共にした時間は、今里の中で大きく幅をきかせている。
 何もかも     最初の扉を開けてしまった自分の責任を、纏いながら。
「羽束師事実のゼロをイチにしたのはあなた、今里真でしょう? だからこそどうしても避けたかった。完成した羽束師事実と会えば     あなたはそのままでいられないだろうから」
 筆舌に尽くしがたい数々の構成組織は、今里真の目から涙として溢れる。
「ボクのせいだ。ボクがもっとしっかりしていれば、あいつがあんなにならずにすんだ」
「それはひどく自意識過剰だわ。今里くんがどうだろうとあの子はいずれああなってたし、ならなきゃおかしいもの。愛知さんが忠告? 警告したとこまでは良かったんだけど……。あれかな、母宮くんと喜先さんがいけなかったのかな」
 誰の為の鐘だろうか。鳴らす人間がいない世界で、それはいったい誰が誰の為に鳴らすんだろうか。
 打って響けば問題無い。暖簾も押せるなら問題ない。糠に釘を入れるのも健康を考えれば良いはずだ。だからこそ愛知祐はこうしてここにいる。
 相対する具現者は、いつも誰の前にでもいる。
 幾ばくか経っただろうか。夜の病院にけたたましく足音が響く。
「おい今里! 事実が入院したって!?」
 廊下の奥から声が飛ぶ。そちらに三人が顔を向けると、対する三人もそれぞれを疑問気に見つめあった。
「あれ、えー、皆本さん、だっけ。と、そっちは?」
 薄く、柔らかくも無い病院の椅子に腰掛けた三人。緑色のそれを手で押し、まず立ち上がったのは愛知だった。
「はじめまして、母宮月助に喜先明日香。と、……     ?」
「あぁ、どうも。あ、こいつは俺の妹で日呼っていうんだけど、あんたは? 羽束師の友達? それとも皆本さん?」
 と、愛知はにやりと笑った。
「今里真の、とは聞かないんだね」
 虚をつかれたのはどうしてだか喜先の方だった。
「あなた     !」
 彼女は直感した。その目、その笑み。数日前に自分が対面した他人の顔。
「今里真の事は理解しているから? ここにいる五人以外に彼と共にする人間がいないと思ったから? 彼本人が怪我をしたわけもないのについてくるほどの友人は自分達しかいないと知っているから?」
「ちょ、     ちょっと、待て。あんた何が言いたいんだ」
「無意識に出た質問なら尚更問題ね。本音って事だもの。どうやら母宮月助、あなたはわたしが思ってたよりよっぽど強かで姑息だわ。そして傲慢で利己的。あなたの知っている今里真を本当に理解しているのね」
 足を一つ、打ち鳴らす。

「冗談じゃない!」

 睨む相貌は烈火を伴い、
「どうして今里真を進めたくないの? どうして完成しているのに不完成な人間の足を引っ張るの? あなたと羽束師事実、似ても似つかない完成形の二人だけど、こうまでしてわたしの邪魔をするなんて、とても不快だわ!」
 言い放つ。
 母宮月助『傍観者』。
 羽束師事実『正義の味方』。
 喜先明日香『理解者』。
 皆本幾絵『先導者』。

 愛知祐。

「理解しているならほっといてくれればいいのに!」
 つかつか、と。
 叫び、怒る愛知の前に一人の人間が立つ。
 次の瞬間、響いたのは頬を打つ軽く     重い音。
「……     日呼!」
 母宮日呼が放った平手は、正確に愛知祐の左顔面を弾き、病院の廊下をまた静寂で埋め尽くした。そうであったはずの場所に、強制的に回帰させた。
 その静寂も、生み出した本人によって破られる。

「お前、わるものだろ!」

 戦慄く放った右手。踏ん張った拍子に、履いていた高いヒールが折れた。アンバランスに身体を傾かせる小さな少女は、それでも涙を溜めたまま。
「おい、おいおい。これどういう状況だ? 喜先、分かるか? なんか妹が急にキレた」
「わかんないわよ。でも私も日呼ちゃんに賛成。母宮くん、この人。今里くんを変えたのは、この人だ」
 頬を打たれた時、今里と皆本も立ち上がっていた。
「愛知、大丈夫か? 日呼ちゃん、急にどうしたんだ」
「何、この子。いきなり暴力なんて考えられない。野蛮だわ」
 今里は心の中に浮かんだ「お前が言うな」の言葉を飲み干し、息を荒くする母宮日呼を見つめる。
 口火を切ったのは愛知祐だった。
「……母宮日呼、ね。誤算だわ。まさかここにもいたなんて」
 一同は言葉の意味が分からず、首を傾げる。それらの状況を一切合切無視し、愛知はわざわざ日呼の隣を通り過ぎて病院出口へと向かった。
「ちょっと、愛知さん!? 今里くん、ごめんね。ちょっとついていく!」
「皆本先輩? 待ってください!      ……あぁ、行っちゃった」
 こうして廊下に残された四人。たった一日二日の間を経た出会い。なのにそこにいる人間の内容がそっくりそのまま変わってしまっている。
「日呼……」
「だってあいつわるもんだよ、月助! 絶対そう!」
 ぶかぶかのパーカーを振りしだき、力説する。ショートパンツから伸びた白い足は、部活でも焼けないようにといつも履いている長ズボンのおかげでひどく健康的な色気を感じる。
 折れてしまった靴を両方脱ぎ、手に持つ。そんな日呼を、月助は遠慮がちに頭を撫でた。
「やっぱお前、すげーわ。子供っていうのか、銃弾みたいだな」
「月助、それ褒めてんの?」
 母宮の後ろから喜先も笑う。
「半々、でしょ。褒めてんのと、憧れてんのと」
 和やかな雰囲気には似合わない、笑いに混じる事の出来ない今里に、その光景はひどく明るく映った。
 どうしてだろう。いつからだろう。戻れない日々     もうすぐ終わりだよ、っていう悲しい台詞に酔いもせず、最後の溜息の準備も忘れて、食い入るように。
 でも彼にはもう後が無い。自分が正しいと信じて進む以外に、道が     無い。
「今里、色々聞きたい事もあるけど、とりあえず事実の見舞いしようぜ」
「……うん」
「明日退院できるって事実のおばさんが言ってた。まぁ、今日の昼にも会ってるし、あいつが何をしに出て行って、何をしようとしてたかも大体分かってる。お前が悩む事ぁねぇよ。お前の言うように、あいつもあいつなりに進んでるだけなんだろ」
 スライド扉に手をかけ、開く。中には六つのベッドが並んでおり、健康だけが取り得の田舎らしく、わざわざ入院しているのは羽束師事実一人だった。
「あ、どうもっす。いや、なんかすごい事になってましたけど」
「起きてんなら出て来いや」
「出て行くの、よくない気がして……。おれがいたらもっとこじれるだろうし」
 病衣に包まれてはいるが、元々のスタイルのせいでそこそこオシャレに見えるのは、彼の持つ美徳だろうか。それとも着こなしだろうか。
 掛け布団をどけ、病院スリッパに足を通す。点滴台を持って立ち上がる。
「あぁ、いい。そのままで。何か飲むか? それとも食うか?」
「月助! 事実!」
「見りゃ分かる。そもそも見舞いに来てんだろうが。喜先、ちょっとここ見ててくれ。一階のコンビニで何か買ってくる」
「いいですよ。悪いし。それに入院中にどうなんすかね」
「まぁ……若いし大丈夫だろ。病気とかじゃないんならいいんじゃねぇか」
「月助! 事実だ! ほら、ほら!」
「うるさい! まとわりつくな! なんか適当に買ってくるわ     じゃなくて。今里、喜先連れて買いに行ってくれねぇ?」
 と、自分の財布から千円札を一枚(どうしてだか紙のお金はそれだけしか無いのだ)と、小銭を全て手渡す。
「何それ!? やだやだ、私やだからね!」
「俺と羽束師は何でも飲み食いできるけど、ほれ、喜先さんの好み分からんし。一人だとあれだから今里も行ってこいよ」
「ちょっと待ってくれ、母宮。ボクも事実の見舞いしたい     」
「いいから。ほれ、行った」
 二人は強敵的に押し出され、扉は冷たく閉まっていく。分断された冒険者のパーティー。
 どちらが何を言うでもなく、見詰め合う。仕方なく今里は嘆息し、手渡されたお金を自分の財布に入れる。
「小銭多いなぁ。千五百円くらいかな」
「母宮くんらしいけどね。貧乏なのに、驕りたいタイプ」
「まぁ、かっこつけだからね。返したら怒るし、しょうがない。行こうか、喜先さん」
 連れだって歩き出す。廊下の電気はまるでグリーンマイルのように二人を祝福し、ヴァージンロードよりも確かではない旅を演出する。
 さながら映画のワンシーンで見た事のある場面。内実はどうであれ、その光景自体は綺麗だと評価するに値する。たとえそれが許されていようが、許されていまいが、並んで歩くというのはあくまで具現だ。
 理想の具現。
 進む、の具現。



4

「私の下の名前、知ってる?」
「     ん? 確か、……えすかだっけ」
「そう。明日の香りで『えすか』。普通は『あすか』なんだけど、お父さんとお母さんが出生届出す時に喧嘩してたらしくて」
「喧嘩?」
「エスカレーターとエレベーター、どっちがどっちかって。で、名前の振り仮名に間違えて『えすか』って書いちゃったんだって。迷惑な話だよね」
「はは、おっちょこちょいなんだね。母宮のとこもそうなんだ。月助っていうんだけど、おばさん、月がすごい好きで、名前に入れたんだって。でも月を助けるんだから太陽ってのに三歳くらいの時に気付いたんだって。だからこんなひねくれた息子に育ったって愚痴ってたよ」
 他愛無い雑談は病院の壁に吸い込まれ、何も無く消えていく。雲雀を見に行く約束は、いつも叶わないまま終わっていく。
 真の頭の片隅。浮かぶのは今よりもまだ若い、母の顔。
『真     真っていうのはね、正直って意味。どんな状況だって、正直に生きて欲しいのよ。どれだけ嫌われたって、どれだけ無視されたって、構わない。どんな時も真の思うままに行動してほしいの。残酷かもしれないけど、母さんも、父さんも、いつもあなたの味方だから』
 そういって幼い自分を抱きしめた。
『いつか、自分が正直にいられなくなった時、それを思い出して。名前には、その名前にしかない願いが込められているの。どんな名前も、愛を持ってつけたなら、そこに意味がある。いつか真にもそれが分かるわ』
 ひどく、嫌な思い出としてそれは書き換えられていた。
 場面が描かれるたび、その言葉の意味が胸中を暴れまわる。自分がどれだけの意味を持って生きていくかを、決められた気がした。
 今の自分はどうだ。
 明日の自分は。
「あ、コンビニ閉まってる」
 歩きながら見えた先で、便利な目的地の現状に気付く。
「ほんとだ。コンビニって閉まるんだ。病院だからかな。どうする、喜先さん。確かちょっと歩けばあったと思う。一人で行ってこようと思うんだけど」
 それははたして気遣いだったのだろうか。今里の自問自答が止まらない。ただ人といたくないだけじゃないのか。自分が笑える状況に無いのを棚に上げて、苦しみから逃れるために放った拒絶の言葉じゃないのか。
 攻め立てる自分自身。
 一方、喜先の方は     電気の消えたコンビニの前で立ち止まった。
「ん、どうしたの?」
「     今里くん」
 後ろ手に組まれた手に握られた小さいバックの紐が、食い込むくらいに力を入れる。
 零れんばかりの笑顔で、少女は軽く言い放った。

「君が好き」

 万感の風を受けて、思いは静かに心を破いていく。
 仕組まれたこの道で、仕組まれたように出会ったこのタイミングで、仕組まれた言葉を、仕組んで伝えた。
 でもそれが届く事を彼女は途中で遮る。
「今里くんが好き。それだけで、何も無いんだ。だから、何? って感じ。人を好きになるのに理由もへったくれもないって思ってたけど、違った。好きになったから、が重要なんだ」
「……     喜先さん」
「好きだから一緒にいたい、好きだから伝えたい、好きだから抱き合いたい、好きだから一緒の風景を見たい、好きだからキスしたい、好きだから結婚したい、好きだから知ってほしい」
 尻上がりの、抑揚をつけた口調は、不謹慎にも楽しく聞こえた。
「そうじゃない。好きだから、変えてしまいたい。自分の望むように、好きな人を変えてしまう行為なんだった、そう思った」
 それはひどく冷たい、体温の無い現実論だった。
「ねぇ、今里くん。猫はガムなんか食べないんだよ。それが真実なんだよ。それで終わりなんだ。変わらない。何も変わらない。変わらないあなたが好きなんて、そんなの、努力を諦めた人の事だよ。もしくは最初から完成した人に会ったか」
 静かに今里は聴く。
「でも自分で勝手に組み上がったり、人が勝手に作ったプラモデルなんか私は欲しくない。だから共に進みたい」
 最初から完成したものなんか、欲しくない。
「わがままでしょ。嫌な女でしょ。だから分かった。私は今里くんを好きになんてなっちゃいけない。ううん、人を好きなっちゃいけない。それに気付いて、思った。

      あぁ、間違えちゃった、って。

 どこかで根本的に、違っちゃったって」
「……喜先さんは、汚くも卑怯でもないよ。ボクはそう思う。嬉しい、ってすごく思う」
「ありがと。それは今里くんの気持ちとして大事にいただく事にする。だからこれでおしまいなんだ。私の物語はこれでおしまい」
 そう残して喜先は夜間用出口の扉を開けた。静かな静かな夜だった。明かりも少なく、人もいない。病院の前の狭い道には、何も無い。
「今里くんは今里くんで自分のやりたい事をすればいいと思う。人間はみんなわがままなんだよ。だって神様なんかいない。基準が無いんだから、人間はみんな異常で、みんな普通なんだ」
 その返答は、今里にとってどちらともとれないものだった。
 喜先は自分と一緒にコンビニに行きたいのか、それとも行きたくないのか。
 どっちだっていいんだ。そんなもの、何処かに捨ててしまえば良い。忘れたまま放っておけたらいい。いらない、そんなもの。もう見つからなくなったって、寂しいだけ。平気だ。
 ずしりと重くなった足を、今里は踏み出す。



5

「うぉー! やべー! 羽束師の傷が開いた!」
「痛い! ものすごい痛い!」
 二人が帰ってきた病室はパニックになっていた。どうやら嬉しすぎて日呼がベッドにダイブしたらしい。背中のあたりに血で地図を描いた羽束師事実が、患部を押さえながらのた打ち回っている。
 ベッドの隅では、どうも自分が良くないことをしたと思った日呼がぐずっている。
「事実、死ぬか? 月助、事実が死ぬか!?」
「お前のせいでな! おい、ナースコール押せ! お前ら、どこほっつき歩いてたんだ、早く医者呼んで来い!」
 阿鼻叫喚の地獄絵図。ばたばた走り回る三人に、騒ぎを聞きつけてやって来た看護士のおばさん(暮内(くれない)スエ子、病院に夜勤で入っていた看護士婦長。五十路を手前に結婚への焦りも消えた仕事人間)が怒号を飛ばす。
 すぐに再手術となり、母宮はバツの悪そうに羽束師家へと電話をかけている。喜先はどうしようどうしようと右往左往するだけで特に何もしていない。日呼は本格的に泣きはじめ、今里はそれらを見て笑った。
 もし神様とやらが存在するなら、これが自分へのプレゼントだ。喜先は存在しないと断言したが、少し信じてみてもいい。
 どうやら自分も決着をつける時だ。
 中途半端なまま、節目の無い透明なノイズが流れては消え、ボクだけが佇んでいる。
 病室を抜け出し、先ほどの夜間通用口へ。誰も居ない、さっきまで何も無かった道に彼女はやはりいた。
「……」
「どうした、今里真。浮かない顔だ」
 にやり、と。
 シニカルでニヒルでラジカルな顔。
 変わりに返事をしたのは、虫の声と自販機の立てる作動音だけ。
 まるでサブタイトルの無い映画を見飽きた、そんな気分だった。




ロゼクロ



1

 美女と野獣。現実はそんな二極で語られるほど退化してはいない。
 大多数を占める中途半端な人間が存在し、正義や悪を簡単には決められない。だから迷い、考え、答えを欲してあがくしかない。
 しかし、時に絶対的な真理、基準を持った人間が存在する。自分の価値観が全てにおいて上回る人間が存在する。
 それをわがままととるか、独創的ととるか。何れにせよ現代に馴染もうとすらしない、用意されたギブスに合わせて変わる事を良しとしない。
 それよりも性質が悪いのは、正義に正論で対抗する人間だ。独善的で決定的、しかしそれは正論である以上、間違いではない。だからこそ辿り着いたそこから完成に向かって一直線に走り出す。そしてそれは正しく見えるのだ。ギブスに合わせ過ぎた結果がもたらす最悪のケースとして、周り回った正しさの通常として、それはそこにいる。
 理想と現実の正解は、どこまでいっても交わりはしない。
 人には思考がある。生き方があり、価値観がある。それらを統合しようとする事がまず間違いであるし、そこから何も生まれはしない。
「大丈夫か、ほっぺた」
「ん? あぁ、大丈夫。赤くなっただけ。効いたのはそれよりも     」
 だからといって個人個人の思惑を全て叶えるだけの器量は世界に無い。だからこそどこかで人は我慢をする。迷惑を考え、自分のデメリットを考え、行動を決める。
 それは自分に嘘を吐く事、として無下にできない。何故ならこの世界を構成しているのが他人である限り、自分の立ち位置を見つけるのに努力を要するのは自明だからである。
「夜は冷える。今里真、もし君がまだ死にたいと思うならば     まだ間違いを認めるのならば、それは     」
「それは?」
「君じゃない。君が決めた事じゃない。人が君に介入して作り出した答えだ。もう羽束師事実と接した段階でわたしの負けは決定している。悪は正義に勝てない」
 深夜。公園にある唯一の電灯の下に設置されたベンチで二人は語らう。恋人同士に見えるだろうか。はたまた姉弟に見えるだろうか。
 どれでもない。それは受け取った彼彼女がそれぞれに考える事だ。
 人は他を理解するに至らない。一つではない。
 齟齬が齟齬を呼び、それを掛け合わせて関係を築く。最初から矛盾をはらんだ関係。
「まさか正義の味方が二人もいるなんて……。誤算だったな。皆本さんが言う詰めの甘さが出た。うっかりうっかりで済まないミスだ」
 足をぷらぷらさせ、寂しそうに笑う。
 絶望、ではない。好きだった店のチェリーパイの味が落ちた、くらいの残念だ。
 皆が皆、誤解を作ってくっついては離れる。そのまま平行線を辿り、いつかは破綻する。だからこそ我慢をし、自分の考えを照らし合わせる。それで正しいかどうかの判断を下し、行動に移す。そしてそれによって生じた責任を感じる。
 結果を、感じる。
「どうでもいいよ、もう。君はもう終わった。救えなかった。救えなかったんだ。わたし、君を救えなかった。残念だ」
「そんな事、言うなよ」
「謝れと言うなら謝るよ。体で払えっていうならそうする。何なら今から内臓売って金を作っても良い。君の人生に対する等価交換は、君が決めればいい」
「いい、いいよ。そんなの、どうだっていい。祐は間違ってなんかいない。ボクも、まだ終わってなんかいないんだ。これから、これからだ」
「そのこれからが問題だよ。始点で、大前提で間違えてるんだ。そこからいくら積み上げたって間違いは間違い。もう、無理なんだよ。諦めてくれ、今里真」
 樹上で眠る雀がざわめく。遠くでサイレンが鳴り、クラクションが伴奏を担当している。
 肌にまとわりつく湿気、蚊、熱。払いのけようにも次々と二人を引きずり込んで離さない。
「どうすればいい? 祐、ボクはどうすればいいんだ」
「どうしようもない。どうにかなってしまった後なんだから。遅すぎた。早すぎた。もう放っておいてくれないか。わたしはわたしの人生がある。でも君に対してどう償えばいいか分からない。所詮、身の程知らずのおためごかしだった。わたしは何も出来ないまま、ここで終わり」
 冷たく、突き放す。引いてくれていた手が、急に消えたような不安感。
 残された今里は絶句する。
「負け、なんだよ     今里真。わたしも、君も。人生は一回しかない。失敗は許されないはずなんだ」
 愛知は語る。
 毎日毎日、真綿で首を絞められるようにじわりじわり殺されていっている。手を払いのけてもまた別の手段で何かは自分を殺そうとする。負けたら最後、もう死ぬしかない。自分で決めた事に一度でも背いたなら、それ以後の人生はもう間違いでしかない。
「考えずに、死んでないだけの奴には分からない。君や、そいつらみたいな奴を助けようとしただけなのに」
「祐は間違ってなんか無い。ボクが保障する」
 今里は立ち上がった。携帯電話を取り出し、少ないながらも登録されたアドレスへと一斉にメールを送信する。
「何を?」
 問いかけに     彼は両方の八重歯を出して答えた。
「祐は、ボクを救ってくれたんだ。今度は、ボクが祐を救う。だから間違ったなんて言わないでくれよ。負けなんて認めないでくれよ」
 決意を表した今里の携帯電話が、着信表示のランプをけたたましく輝かせる。
 いつもと変わらないその光が、まるで相手の心情を具現したかのように荒々しく、猛々しく光る。アップテンポなメロディが、邪悪に染まる。
「もしもし、あぁ、うん。そうそう、だから一週間後、来週の土曜日を空けといてよ。なんでってなんでも何も前から言ってることじゃないか。そう、怒るなよ」
「……?」
「早くなっただけ。やっぱ死ぬからには自分が満足するまで、とか、後で残った人達の苦労が、だなんて考えないでさ、すっと誰にも知られず、誰にも迷惑かけずに消えていくのが一番だと思ったんだけど、ほら、ボクは良い人だから」
 まだスピーカーから叫び出る声を強引に電源ボタンでシャットアウトし、見下ろす形となっている愛知の顔へとまた笑いかける。
 少し前までは無敵に見えた。誰にも屈さず、誰にも介さず、誰にも絡め取られず。持っている武器が全て相手へのリーサルウェポンと化していた絶対的な破壊力も成りを潜め、突き崩されなかった牙城は田舎旧家の門扉よりも寂れて見える。糊の利いた襟はしぼみ、水色のスカーフは埃まみれでくたびている。相手を射殺す眼光も、落ちる事の無かった口角も、不敵に佇む御足も、全てが全て、磨り減ってみえる。
 メインディッシュを失ったひどく滑稽なフルコース。
「祐ってそんな可愛い感じだったっけ」
「急に何を訳の分からんことを」
「いや、なんか、失礼かもしれないけど     祐って完成してたんだよ。誰も入る余地がないっていうか。しかも周囲と関係する気も無いし、防御力も攻撃力も最強、みたいな。変える事が出来ないから恋愛感情抜きで付き合えるっていうか」
 三つ子の魂百まで。
「世界には色んな人がいてさ、祐や母宮、事実に日呼ちゃん。喜先さんや皆本先輩みたいに、そういう感じで     振り切っちゃった感じで生きている人がたくさんいるんだなぁって。ボクなんてまだバットも振れないのにいつまでもバッターボックスにしがみついてるみたいでさ、すっごいかっこ悪いなぁ、とか」
 八重歯も隠さずに。
「そんなボクも振っちゃおうって思ったのは、やっぱり祐のお陰なんだよ。だから祐にはいつもかっこよくあってもらいたい」
 惜しそうに、寂しげに笑う。
「祐が背中を押した時に、もうボクの人生は終わったんだよ。この何日か、すごいすごい楽しくて     数え切れないくらい楽しかった。ありがとう、祐」
 本当はもっと一緒にいたい。一緒に遊びたいし、みんなとも仲良くなって、遊園地に行ったりバーベキューをしたり、誰かが結婚したらお祝いしたり飲み会したり。仕事の愚痴とか考え方の違いとか話して笑いながら肩組んで歌って、また起きて遊んで。そういう普通の中でのハイエンドを満喫したかった。
「惜しいと、思う。でも祐がいなきゃ、楽しい事を楽しいと感じる事もできなかった。ましてや自分が楽しむなんて絵空事、出会えると思ってなかった」
 土下座に近い     お辞儀。
「ありがとうしか言えないんだ。一生を、この数日で味わったんだ。辛い辛いって死ぬよりも、楽しい楽しいって死ぬんだ。この世の誰よりも幸せな最後を     見るんだ」
「今里     くん」
「だからお別れだ。ボクは死のう。恐らくこの楽しさはいつまでも続かない。明日かもしれないし、来年かもしれない。死ぬまで続くかもしれないし、もしかしたら今もう楽しくないかもしれない。だから今なんだ。今しか無いってそういう事なんだった」
 少年が少女を見たのはそれが最後。まっすぐ、思い残しの無いように。

「さよならだ」

 直後、今里は走り出した。何処に?      自分の家にだ。
 後姿を見ていた愛知は、何も切り出さずに目線を下げた。膝が見え、地面が見え、何も見えなかった、見ていなかった世界に戻る。
「こちらこそ、ありがとうだ」
 掛け値無しに心の全てをお礼に込めた。
 自分を守り、相手を守り、そして救われて救った。等価交換を自分で体現した。愛知の一歩先を     進んだ。
 空中に浮遊したまま誰にも見てもらえない誰かが、きちんと地に足をついて間違った事を認めない。どれだけ負けても、納得をしない。
 分かって欲しい、信じて欲しい。それによって周りが変わって欲しい、自分だけが楽しくなりたい。その上で皆が楽しければ     それが。
 それこそがハッピーエンドだ。誰に何を言われても構わない、なんて免罪符は必要無い。誰に何も言わせない、誰もが納得する答え。
 誰もが受け止めざるを得ない、答え。

「お疲れ様でした!」

 愛知は言わずに居られなかった。
 人間はテレパシーじゃない。目と目だけで通じ合えない。
 だから話すのだ。言葉にするのだ。伝えるのだ。分かってもらうために、分かりやすくするために。
 以心伝心を期待するほど、彼女はわがままじゃない。



2

 夜は早く、日は昇る。時間は誰とも話さずに     それでも過ぎ、いつの間にか明日が今になってまた昨日になる。
 だから過去も今も明日も大切だって言えるくらいには傲慢でありたい。好きになれない時間を作る事に嫌悪感を覚えたい。無駄な時間を減らすのではなく、無駄な時間ですら自分で選んだのだと覚悟を持って接したい。
 それは極めて理想的だ。間違った人間にはもう歩めない、不屈の精神の道だ。
 諦めた人間の形をしたものが足を引っ張りに来るだろう。現実はそう甘くないって突きつけるだろう。君の鎧を剥ぎ、口先だけを達者にして正論を並び立ててくるだろう。納得を誘発し、間違えを正当化した嘘偽りの道に引きずり込むだろう。
 負けてはいけない。諦めてはいけない。
 いつだって世界には君がいる。少ないけども、間違っているとされるけども、十全を携えてどこかに存在する。
 いつだって時代が移り変わるように、流行が移行するように、世界は変わるようにできている。いまだ戦後から百年も経っていないのだ。その変化を見る限り、それはそう遠くない。
 間違えが許される生活に甘んじている、それが正解だと誤認している世界に風穴を開けるべく、崇高を普通にし、理想を現実にする。
 有るがままならば思い気のままに。
 生まれた日の歌をもう一度、世界を揺らすような大きな声で。
「うぉ、葬式って高いんだな」
「それ家族葬じゃないでしょ。それにボクまだ死んでないし、生前葬って事になるのかな。母宮のおばさんの居酒屋は?」
「あぁ、うちは駄目だろ。それならどっかのコンサートホールみたいなん借り切れよ。うちでやったらあの人泣いちゃってえらい事になるぞ」
「じゃあさ、じゃあさ、学校は?」
「馬鹿か。おい、この馬鹿女にシュールレアリズム教えてやれ」
「兄ちゃんがいいなら学校でいいですけどね。喜先さんに対してちょっと冷たいですよ」
「さすがに学校はなぁ。皆本先輩、何かいい案あります?」
「そうね。結局、お坊さん呼ばないならさっきみたいに居酒屋でもホールでもいいと思うけど、やっぱり最低限のモラルはいるでしょう? だったらどこかの空き地とか道とか」
「おーい、年の功無駄にしてるぞ」
「月助! うちは? うちは?」
「無理に決まってるだろ! それなら今里ん家でいいじゃねぇか!」
「それ、いいね! 今里くんの本まだ貰えてないし、取りに行くついでで!」
「あ、ボクのお葬式ってついてなんだ……」
「じゃなくて! メインはそっちで、ついでがプレゼント!」
「月助ぇ、お腹減った」
「黙ってろ、後で何か作ってやるから。それより本当の葬式だってしなきゃいけないだろ。そんなただのお泊り会と変わんねぇもんより」
「兄ちゃんお金あるの?」
「まぁ、祐が手配してくれてたのは秋だしなぁ。予定早めるっていけるのかなぁ」
「ていうか葬式会場の予約ってなんだよ。よく取れたな」
「おれらのカンパで足りるのかなぁ。でもそういうのってほら、市とかの指定じゃないの?」
「財産分与するほどの財産無いしね。無縁仏にする事も考えたけど、やっぱり母さんも父さんもそういうわけにはいかないみたいで、死ぬなら葬式代は出しなさい! だって」
「私達でバイトするしかないね。今里くん、カンパ元手に株式投資してみたら?」
「それならあたしがやる。趣味でやってるし、勝ってるから」
「おぉ、眼鏡光ってる。悪そうな顔してんなぁ。あんたさ、本当は根が悪人なんじゃねぇか?」
「月助ぇ」
「分かったっつってんだろ! アメあるからとりあえず舐めとけ!」
「もう! 母宮くんうるさい! なんで妹にそんな冷たくするの? 私とか皆本先輩にも! あ、もしかして、あれ? 男の人の方が好きとか、そういう! きゃー!」
「勘違いすんな! 羽束師、今里! ケツ隠すな!」
「月助ぇ!」
「違うっつってんだろ! ノーマルだ!」
「そういうの、嫌いじゃないよ」
「てめぇ先輩なら後輩止めろ。文学シスターズはすぐ傾倒して啓蒙されやがる」
「ははは。お葬式代はじゃあそういう事で。で、今週の日曜は? ボクん家?」
「が、妥当じゃねぇかな。金の件は     悪眼鏡先輩が無理でも全員バイトしてりゃ何とかなるだろ」
「悪いねぇ。いつ死ねばいいかな。葬式直前? それとも死んだ後って保存できるの?」
「いや、でもそんな死体何日も隠すの、良くないでしょ」
「良くない! 良くない! 月助が食べる!」
「食べるか! サイコに仕立てあげんのやめろ! どうしたってお前らは俺を倒錯者にしたいようだが、いたって普通だからな!」
「どうかなぁ」
「どうかしらねぇ」
「なんだか母宮さん、女性陣に人気無いんですね」
「たまらん。そういうのは今里にしろよ、こん中で一番おかしいんだから」
「ちょっと、こっちに矛先向けないでよ。ボクは今、愛を噛み締めてるんだから」

 笑顔は絶えず、明日も今も。
 死ぬまで。
 皆さん、笑っていますか?





終わり

レゼイロ 2部

次はどんな可愛い女の子を書こう。

レゼイロ 2部

バルタン星人がじゃんけんする話。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • SF
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-04-11

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