レゼイロ 1部

おもろいで。

読むのめんどくさなったらまた明日でもええで。



『不意にレゼイロ、奇しくも』










レイの話



0

 何かを隠す嘘よりも、それを悟らせる嘘の方がよっぽど難しい。
 人生で学んだ教訓なんて、そんなちっぽけでどうでもいい事だった。










レイイチの話



1

 パソコンの画面から発される光だけ。部屋の中で動くのはそれだけ。
 無言で、不動で。画面を睨み続け、その24分間を心に焼き付ける。最終回らしく、キャラクターは最後の強敵を玉砕し、全員が一つになって生命の尊さや仲間がいる事の重要さ、そして何よりも     そんな世界が少なくとも仮想に存在する事を報せてくれる。
 感動が彼の体を包む。その大きく肥満した体は鳥肌に覆われ、皮脂で無理やり撫で付けた前髪を一房ばかり視界に落とさせ、涙腺を極端に刺激し、そして     
 そして、彼がその場にいない事を悲しませる。
 大きく息を吸う。そして吐く。
 やがて画面の中ではハッピーエンド、つまりは大団円が展開される。それに深く共感し、恍惚し、迎合する。
 エンドロール。エンディングテーマ。放送されている二期のものではなく、彼が好きな一期のエンディングテーマでその番組は締めくくられる。スタッフロールを見る事はせず、前髪を整えて目元を拭う。酔いしれる。
 彼を包むのは感動だ。それ以外では無いと断言できる。
 ふと何かに使えそうなアイデアを思いつく。それを傍らに置いてある単語帳に書き込んでいき、また定位置に戻した。使われる事の無い妄想が溜まっていく。
 再生ソフトを終了し、見慣れたデスクトップに戻した。部屋の明かりをつけ、軽く伸びをする。椅子から立って凝り固まった体をほぐす。
 体を支配していた快感は薄れていき、やっと現実の自分に戻りつつあるその最中、不意に置きっ放しにしてあった鏡に自分の姿を見た。
 酷い。
 これはあまりにも醜い。
 肥満、不潔、ひきこもり。まさかのトリプルHを達成した奇跡の体現。そこに弱者や社会最先端などの災厄を思いつく限り継ぎ足したモノ。底辺の権化。全ての元凶がそこにある気がした。
昔、自分が超能力者だったと思っていた時期が彼にはあった。自分がどんな人間にも嫌われるという特殊能力を秘めたMPLSなんだと。そう思っていた時期がある。
あながちそれは間違いでもなかったかもしれない。
今年の春からもう学校に行くのはやめてしまった。高校生になったからといって何が変わるわけでもない。彼の学力では彼をいじめていた人間を大きく引き離す事もできなかったし、同じ高校に行くくらいならもういっそ行かない方がいい。向こうだってむかつく奴が来なくてせいせいしていると思う。
メガネ、ハゲ、汚い、生理的に無理、近づかないで、なんで生きてるの、学校来んな、見たく無い、デブ、気持ち悪い、オタク、見るな、しゃべるな、消えろよ、もう嫌、意味分かんない、帰れよ、死ね。
死ね。
頭の中を蠢く数々の罵詈雑言。聞きたくなかった見たくなかった人間の本性。馴れ合いと連れ合い、舐め合いと騙し合い。弾かれたものへの糾弾、罵倒、暴力に疎外。
死ね、と言われて気付いた。
今まで自分が言われてきた愛慕の全てに、意味なんか無かったってこと。それが嘘なんだって事。
愛してくれた祖母は、無口だった祖父は、育ててくれた父は、教えてくれた母は、お年玉をくれた叔父は、可愛がってくれた叔母は、旅行に着いていった従兄弟は。
みんながみんな本音を隠していたんだ。こいつは異端だって思っていたんだ。
やがて思考のループに立ちくらみ、ベッドと呼ぶのもおこがましい糞汚れた布団に彼はその身を預けた。スプリングが軋み、その音でまた「このデブが」と罵られている気分になる。慌てて飛び起きて、毛や埃やゴミが散乱する床に寝そべる。
近づかなければ分からないのに。目を細めれば視界には汚れしかない。自分はこの汚れにも劣るゴミクズ以下のゲロカス野郎だ。
卑下する事で守るほどのプライドも無い。貶める事で守られる自我も無い。自分は生まれる時代を間違った。作り出す事も出来やしない、ただ与えられているだけの、ただ生きているだけ、死んでいないだけ。
頭を支配するどす黒い感情。
そんなのはもうたくさんだ!
自分だって生きている!
自分は人間なんだって自分だけでも信じてやりたい!
時間は深夜の二時。心霊が跋扈する時間だ。小腹が空いた彼は仮初の一大決心をしてコンビニに行く覚悟を決める。自問自答。覚悟は出来てるか。俺は出来てる。
彼は立ち上がってディスプレイの電源だけを落とした。蛍光灯は付けたまま、戸棚に置いてあった(というのも適当ではない。それは投げ捨てられたという)ウルトラマンの小銭入れを掴む。
部屋のドアを少し開けると、熱気が漂ってきた。夏だった事を思い出した。エアコンで24時間管理されている部屋の中から出るのは、もう一週間ぶりになる。トイレ代わりのペットボトルを交換した以来だ。
ましてや外に、コンビニになんて行くのはそれこそ大イベントだ。
そろりと音を立てず、マスターせざるを得なかった消音歩法で廊下を進む。彼の部屋は二階の奥にあった。目の前には夫婦の寝室     もちろん彼の両親の部屋だ     があり、隣には年単位で口をきいていない妹の部屋がある。両親はもう寝ている時間だし、問題はこの妹だ。
今年で中学三年生になった彼の妹。時たま深夜に大声で電話をする声が聞こえるので、彼は警戒した。万が一にでも感付かれて、姿を見られるわけにはいかない。
 そうやって任務をこなしていく内に、彼は自分が戦場に迷い込んだ特殊兵士であるという錯覚を起こす。その感覚に浸りつつ、独り言を呟いて階段を降り、玄関に向かう。
 玄関こそ最難関である。錠が開く音、ノブを廻す音、スライドした時に擦れる音、その全てが一撃必殺の可能性を秘めている。
 慎重に段階を踏む。ゆっくりと、念入りに、万全に万全を規して。
 外に一歩を踏み出す。慌ててドアを閉めないようこれもゆっくり。先にある門扉も音を立てず、静かに開けて。
 やっと彼は家の外に出る事が出来た。心臓の音が五月蝿い。胃が痛い。粘液を戻しそうになるのを堪えて、家から徒歩数分のコンビニに向かう。その道程も人と顔を合わせさないように顔を下げて、道路の闇に溶け込むように意識する。自分を同化。存在を抹消させるように。
 とはいえ、深夜二時の住宅街に彼が恐れる程、人影はない。実際、コンビニに着くまでに出会ったのは飲み会帰りであろうサラリーマンの二人組と、やたら首をかくかくさせながら歩くステテコ姿の老人だけだった。
 その一帯だけが明々としている。外から見る分には客がいない。今しか無い。彼は意を決して突入した。
 自動ドアが彼を導く。あまりの明るさに目が眩む。
「いらっしゃーせ」
 バックルームから出てきた店員が声をかけた。気だるそうな店員が仕方なしにレジの前に立つ。茶髪にピアス、制服の下から柄シャツがはみ出た深夜のコンビニ店員に、彼は緊張する。
 そうだ、コンビニっていうことは店員と関わらなければいけないんだ。
 怖くなって、何も買わずにすぐ踵を返した。後ろから店員の舌打ちが聞こえた。気にせずに早歩きで離れようとする。
 それはもはや駆け足に近かった。強迫観念が彼を押し、その場からの逃走を命令する。
 そして彼は知らなかった。
 部屋にいるだけでは気にもしなかった危険が、外にはある。
「……あ     」
 コンビニ前の道路に、ちょうど配送のトラックが来ていた。その前に飛び出した彼は、のん気にそのトラックがここのコンビニ系列じゃないからこんなにもスピードを出しているんだな、と感慨も無く思った。
 ブレーキの音が鳴り響く。しかし、その音を彼の耳はもう認識していない。
 奇妙な世界だった。無音で時間の感覚が失われているような、そんな有り得ない状況が彼を包んでいる。
 トラックは急ブレーキをかけるもそれがいけなかった。タイヤは空走距離内で直線上にいた少年を巻き込み、制動距離でそれを轢きながら擦り潰し、停止地点ではもはやオブジェとしか言い様の無い物体を作り出した。
 コンビニから携帯電話を片手に茶髪の店員が飛び出してくる。携帯に備え付けられたカメラでそれを撮影しながら、笑い転げる。もう一人、トラックの運転手は運転席で呆然としていた。
 降りてタイヤの下を見て、吐き気や忌避感や憐憫よりもまず、これから自分がどうなってしまうんだろうかと感じた。会社の処置、自分の人生、慰謝料や刑務所。
 震える手でとりあえず110番を押した。呼び出し音の中で、救急車の方がこの少年を心配したようで裁判の時に優遇されるのではないか、と打算が浮かぶが、その前に向こうから冷静に問いかけが飛んできた。
「はいこちら九隅(くすみ)110センターです。どうしましたか?」
「あの、そ……あー、あの、ちょっと、事故が、あれで、あ。     人、ひ、人が死んで」
 幸運なのはその少年が一命を取り留めたこと。
 不運なのはその少年が一命を取り留めたこと。





イチノ話



0

彼が最初に見たのは黒。それはすぐに白に変わる。
ただ白い世界が見えた。やがて時間をかけてそれらは形を成し、それぞれの本来の姿がおぼろげながら現われる。だが決して明瞭ではない。
見えにくい。
こんなに自分の視界はぼやけていたか? そう問うて合点する。眼鏡をかけていないからだ。彼はいつものように枕元に置いてある眼鏡に手を伸ばす。しかしあるはずの物がそこにない。そればかりか手は壁らしきものにぶつかるだけで、先には何も無い。それに探る手がぎこちない。動かしにくいのだ。
ここはどこだ。自分の部屋ではない。
ならばどういうことだろうか。
いや、そもそも自分はなぜ、寝ているのか。
あ、そうだ。事故だ。手は、動く。が、動かしにくい。これって後遺症って奴か?
足も、動かしにくい。
ちょっとシャレにならない状況なんじゃないか? 動かないなんてことはないが。
いや、ちょっと寝過ぎて、体がだるいだけか? どっちにしろ動きにくいことに変わりは無い。不自由は換金できる。イエス様だってそう言ってる。
「あ、あ」
しゃがれている。喉は渇いていないのに、どうしてだろう。寝起きよりも、タチが悪い。これじゃあまるでドードーだ。
「あー、あ、うん、あー」
しばらくすると声は元通りになった。視界は相変わらずぼやけてはいるものの、明朗さを取り戻しつつある。明朗? 明朗っていうのはどういう事だ。眼科の視力検査機で最低を叩き出したこの目が、見えるだって?
彼を包む空間は白い。ベッドも、天井も床も壁も、来ている服も。
どうやら病院らしい。自分は車に轢かれて気絶し、ここに搬入されて今まで寝ていた、と。そういえば着ているのはよく映像で見る患者衣だし、見回せば狭くない部屋なのに物が少ない。
病室には点滴と戸棚、そして彼の寝ているベッドと括り付けられているナースコールしか見当たらなかった。
一つ、二つ、咳払い。近くのナースコールを手に取り、押す。感触だけだが、それはしっかりとしたナースコール     のはずだ。彼はそれを祖母の入院時に見た事があった。
短い時間が過ぎた。
 やがて足音が聞こえる。一つ、二つ、     一人分の足音がこちらに近づいてくる。
「     」
 入ってきたのは若い看護婦だった。彼女は頭の後ろをかきながら、さも不真面目そうに音のしないスライドドアを開ける。
 そして。
 そして患者の顔を見る。
「……あ、あぁ!」
 驚愕が彼女の顔を包み、すぐさま病室を出て行く。残された病人はただただ唖然とするばかりで立場がなかった。
 なぜ、彼女は出て行ったのか。
 どうして、彼女は驚いたのか。
 頭の中をぐるぐる地球のように疑問が回る。考えても仕方の無い事だと割り切ることもできず、彼はとりあえず立ち上がる。その頃にはもう視界ははっきりとしていた。体の動きにくさはまだ残っているが、動けないほどじゃない。
 リノリウムの床に足をつけ、点滴台を動かしながらとりあえずカーテンを開ける。
 そのとき、初めて自分が個室にいれられていることに気付く。
(ボクの家はそんなに金持ちってわけじゃなかったと思うんだけど)
 しばらく理由を模索して、保険や慰謝料なんていう単語が彼の脳裏に浮かんできた。事実、ここにこうして自分はいる。どこかからお金が出て、自分はそのおかげでこうして個室にいるのだと。
窓の向こうは晴れていた。晴天、それもとびっきりの良い天気だ。彼は少し気分を良くして、今の自分を見下ろした。
患者衣は白寄りの水色で、それがさらに空をイメージさせ、わけもなく気分を高揚させる。
窓を開ける。
「     さぶっ!」
部屋の温度とのあまりの違いに、体は反射して窓を閉めた。
またしても疑問が浮かぶ。
事故を起こしたのは初夏だったはずだ。いや、もう真夏にさしかかっていたかもしれない。
なのにこの寒さは。
その疑問を解決する間もなく、思考は病室の外の騒音に奪われた。四、五人の足音と何かを話す声が聞こえてくる。やがてドアが開き、顔を見せたのは、『いかにもベテラン』の表現が似合う中年の医者だった。その周りに看護士が数人。
「目を、覚ましたんだね」
 久しぶりに家族以外に話しかけられて、パニックになりかけていたが、その通りだったので頷く。
「どこか、痛いところはないかい?」
 これにも続けて首肯する。
「それは何よりだ。あー……落ち着いて聞いてほしい」
 医者は重く、宣言する。

「キミが入院してから     一年と半年が、経っている」

 今度こそ彼の頭はそのキャパシティをパンクさせ、とりあえずもう一度、眠ろうとベッドに戻り、かけ布団をかけた。夢を夢のままでおいておくなんて、彼には出来なかった。ごくたまにある、夢の中でこれが夢だと醒める感覚とまったく同じだった。
 もし夢ならば、彼は目覚める事ができたであろう。そしてまた、自分の世界を確立する事すらできず、生きていく道を歩んだだろう。
 しかし、夢は現実だった。夢ではないが、夢だったのだ。



 目を覚ましたのはまた黒い世界だった。寝惚けた状態で天井を見ると、電球が自動的に作動する。センサー式の蛍光灯が設置されている病室だなんて、なんとも豪奢な話だ。
 身を起こす。多少の不便はあるものの     体の動きに違和感はあるものの、起きる事が出来る。動く事も出来る。点滴を抜かないように寝返りをし、少し彼は考えた。
 今の状況は、本当らしい。自分はあの事故から一年半の間、ここでこうやって寝ていたのだろう、壮大なドッキリの可能性もあったが、自分がそんなものを仕掛けられる事の方が、可能性が低い。
 とすると、今は高校二年生の冬。何月かまでは知らないが、とにかく高校二年生になってしまっているのだ。
「あのアニメ、どうなったかな」
 一年半も時間が経てば当然、放送は終わっているだろう。最終回だけ見逃してる半端な幕切れは、レンタルショップにでも行って解消する事に決める。
 それよりも不安が彼を襲う。学校は退学になったかもしれない。自分は今、どういった状態で、これからどうすればいいんだろう。だろうや、かもしれないの推測は消えていく。
 眠気はもう無い。いやにはっきりした頭で、彼は自分の感じていた違和感を確かめたいと思った。
 それは昼に起きてすぐに頭をもたげた違和感だ。しかし、ここにはそれを確認する為の道具が無かったし、それよりも状況に押されて考える暇なんて無かった。それが軽やかな重責として押しかかってくる。
 ちらりと窓の外に目をやると、もう外は暗くなっていた。街の情景が見渡せるが、明かりはほとんどない。深夜、と言って差し支えない時間だった。
 点滴台を転がして彼は部屋を出た。音のしないスライドドアに逡巡する事もなく廊下に出て、左右を見る。病室の表示が並んでいて、右向こうにいくつかの部屋を経てナースステーションの明かりが光るが、左方は闇に包まれていて数m先の視認しか出来ない。
 目的の場所は左斜めにあった。男子トイレとなっている扉を開ける。すぐにセンサーが動きを察知して明かりを灯した。
 そして彼はドアを開けてすぐ、目の前にある鏡で自分の姿を見た。

やはり。

 あれだけ厚かった胸板や太腿の肉はごっそりと削げ、腕は三周りも細くなった痩せ型よりも貧弱な姿がそこにあった。
 髪は伸びているが、長髪ほどではない。きっと定期的に切られていたのだろう。病室にずっといた事を表す肌の白さが眩しい。
「あ……」
 身長はそれほど変わってはいない。     いや、少し伸びたか。奥二重で腫れぼったかった瞼ははっきり大きいと言い切れるほど瞳を開いている。頬の肉であるのかどうか分からなかった鼻も自己主張し、顎と首の境目もはっきりとしている。
 違和感の正体。それは筋肉が落ちて動きにくかったのではなく、余分ではない脂肪まで落ちて自分の体ではないような馴染まなさを覚えていたからであった。
 彼はそんな自分の姿を見て、
「……っく、く、は」
 喝采した。


「ケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタ!」

 叫び声を不審に感じてやって来るだろう人も気にせずに、彼は生まれて初めて心の底から笑った。笑い声とも言えない汚い音が、爆発的な感情を込めて放たれる。
 この姿ならば!
 この境涯ならば!
 この運命ならば普通を生きる事ができる!
「ケタケタケタケタケタケタ!」
 不摂生がたたっただけで直す気も無く、ただ成すがままに流れていた自分を。全て体型や人のせいにして逃げていた自分を。状況に流されて孤立した自分を。生きていない死んでいくだけの自分を。自分が自分である事を放棄する事ができる。
 自分から動き出さなかった。ずっと待っていた待望が今、ここにある!
 なんという僥倖。なんという幸運。神は自分を見捨ててはいなかった。
 神は死んでなどいなかったのだ。
 こうしてただ待つだけで何も行動しなかった自分に、こんなに幸運な状況を与えてくれている。これが神の仕業でなくてなんなのだ。いったい、なんだと言うのだ。
 久しぶりの刺激に、喉が悲鳴を上げる。吐血する勢いで彼は咳き込んだ。それに思考を奪われていて他事が頭に入らない間に、トイレに駆けつけた看護士が彼を取り押さえる。
 抵抗を止めておとなしく自室に戻る。看護士達は落ち着いた様子から医師に判断を仰がず、鎮静剤を打つ事をしなかった。
 レゼイロな物語の始まりはそこだった。
 事の顛末の始まりが、起点の終わりがそこにあった。





イチゼロノ話



1

 ボクは一人で歩き出した。
 温かく新鮮な空気が、今まで続いた無言で冷淡な空を消し去っていく季節。
 九隅第九高校は県内でも珍しく、面接とそれに伴う生徒の個人裁量が入学時に重きを置かれる高校である。『自律自立』を校風に掲げ、百年間もの間、枝が九十九本から増えも減りもしない九十九桜(つくもざくら)を名物にしており、自由で独創性に満ちたこの高校を受験する人数は、過去最高にのぼった。
 と、入学式しおりに書いてある。
 あの事故から既に     半年が過ぎようとしている。
 そんな中、卸したての学生服に身を包んでボクは体育館     いやここは講堂というのだったか     に座っている。安いパイプ椅子が鳴らすギィギィという音が少し、耳についた。
 地獄の日々からの解放だった。そしてそれが報われるかどうかの実地本番の開始。
 病院で目覚めてからというものの、まず記憶喪失を演じなければいけなかった。今までの自分を払拭して消し去るにはそれが適当に思えたし、何よりボク自身が今までの自分から変わったのだという事を自覚したかったからである。
 あとは勉強に勉強を積み重ね、そこそこ偏差値を上げた。そして見事、こうして進学校である九隅第九高校の編入試験に合格した。
 思えば、今までの自分は怠惰に怠惰を重ねていたと思う。欲求に正直過ぎるあまり過食し、動きたくないが故に運動をしなかった。外が怖いから出なかったし、会話をするのが億劫だった。会話をしないから内面を分かってなんかもらえなかったし、分かってもらえたところで何も生み出さない本性に人は嫌悪を示しただろう。
 そういう自分からはもう、離脱だ。
 狂わせたのは自分だった。いつの間にか負いきれないほどに育った必然が、ボクを押し潰しただけだ。
 そんな重圧から何のデメリットも無く抜け出せたのである。これが転機と言わずして何と言うのだろうか。運命が自分だけに与えてくれた最大で最後のチャンスじゃないか。
「皆さんの入学をまず、歓迎したいと思います」
 壇上の校長が始まりの挨拶をしている。以前の自分ならどう思っただろう。何も思わなかったか、早く終わってほしいと願ったか。
 今はそうではない。
 今の自分は、そうではないのだ。
 しおりに目を落とす。今年の編入生は自分しかいないので、一年生の列から離れて一人だけ、座っている。
 目立ってはいないだろうか、いや、この程度の注目は計算に入っている。突出した注目ではなく、それなりに可能性のある異質だ。まだ問題無い。
 いずれ少しの時がそれを解決してくれる。
 あとはこの後に控えるクラスメイトとの出会いを乗り切れば、今日の予想される大まかなイベントは終了だろう。シュミレートは既に済んでいる。
 普通。
 それだけだ。
 存在し得ない平均と普通の象徴。
 いかに普通を装うか。周りに馴染んで、浮世離れせず静かに生きる。自分の本心を表に出さず、均一を目指して生活を全うする。
 少し整髪剤をつけた前髪を触り、何も考えずに指で遊ぶ。変ではないだろうか、いや、あれだけ家で確認しただろう。安心しろ、落ち着け。
 これからの事が分かるほど、自分は万能じゃない。人生に想定外は付き物だし、なんらかのアクシデントでまた道を外れる事も充分に有り得るだろう。
 だが、外的要因を考えると尽きが無い。身構えるだけ身構えても、しょうがないものはしょうがないのである。
“次は     学年主任からのお話です”
 嫌というほど垣間見た人間の本性を、ボクは知っている。人間なんてものは所詮、自分の事しか考えていないという事にすら無意識なほど、自分中心で動いているものだ。
 それに自覚的であるだけ、まだボクは善良と言えるし、それを利用しようと考えるだけ、まだ他人より先に進んでいると言える。
 やがてそうやって意味の無い思考に沈んでいると、肩に手が置かれた。
「祝園(ほうその)くん、もうすぐ入学式も終わるから、それが終わればついてきなさい」
 顔を見れば、無精髭の目立つ中年の教師。彼が担任だと今朝方の職員室で紹介されていた。
「はい、よろしくお願いします」
 すらすらと言葉を返し、頭だけで会釈をする。それに満足したのか、彼は視線をまた壇上に向けた。校長が〆の挨拶に入っている。
 人と関わるというのがこんなに簡単だとは思わなかった。人間に溶け込むのがこんなに心地良いとは思わなかった。
 劣等感の塊だった自分に言ってやりたいものだ。



 2-Bの教室の前まで来ると、喧騒を感じる。
 二年生になれば学校にも慣れているだろうし、クラスが変わったとはいえ、一年生で知った顔も並んでいる事がその理由か。
 彼や彼女はそうして見知った知り合いを『友達』と称して上辺だけの付き合いを重ねていく。
「ここで待っててくれ。呼んだら入ってきてくれればいい」
「はい、分かりました」
 教室に入っていく教師を見送り、扉が閉まった。それを確認して窓枠に体重を預ける。
 嘆息を一つ。廊下には誰もいない     ホームルームが始まるからだ     ので、安心して気を抜ける。
「静かに!」
 中から教師の声が聞こえてくる。やや小さくなったざわめきと、着席する時の椅子が床を滑る摩擦音。他のクラスもほぼ同じ、静かでいて『これから』を含む高鳴りに包まれていく。
 静かである故に廊下までは漏れていない。
 これでやっと仮初の一人、休息地点の訪れ。
 さて、どうしようか。
 まずは第一印象をいかに薄くするかがポイントであるとボクは睨んでいる。転入生というインパクトはそれなりに強いが、払拭されるのにそれほどの時間は必要としないだろう。
 空気のように、さも当然のように振舞えば、大丈夫。
 自分を鼓舞し、まだ拭いきれない緊張感を隠す。思っていたより、あの引きこもっていた期間は自分を弱くしていたらしい。
 苛立ちついでに窓の外を見る。この学校は、エの字型の校舎を二つ横に並べたような形になっている。ボクは四角く区切られた中庭を見下ろす三階に今、立っていた。一階は職員室や保健室、進路相談室のような特別教室があり、そこから二階は三年生、三階は二年生、四階は一年生と上がっていく。
 マンモス校ほどではないが、それなりに大きな高校である。確かしおりによると、全校生徒数は延べ二千人超。一学年あたり、七百人くらいの計算になる。
 クラス毎に約五十人で分けられているので、総クラス数は十四クラスか。それだけの人数がこの学校には存在する。
 そんな校舎に囲まれた中庭には、名物らしい九十九桜が満開になっていた。
 見下ろしながら他愛無く呟いた。
「桜を見ても、別に何も思う事なんかない」
 思う事なんて無いボクはしかし、急に投げかけられた他意に、

「ほんと?」

「     っ!!」
 心臓が、止まるかと思った。
「ほんと?」
 声は自分の後ろから聞こえてくる。振り向けば、一人の女生徒が立っていた。
「い、いや」
「あんな綺麗な桜を見て何も思わないなんて     」
 女生徒はボクと桜を交互に見る。背は低く、短いながらも綺麗なストレートヘアをボブにした髪は、黒染めしたのかと疑わせるほどに黒い。
 名札の安全ピンが光を反射して目に入った。水色をシンボルカラーとした名札、という事はボクと同じ二年生、そしてクラスはまさに目の前の、Bクラス。

「     普通じゃない」

 腰から下の感覚がすっぽりと抜け落ちたように、無い。
 名前は鴫野唯一、シギノ ユイと読むんだろうか、この同級生の女の子は。
「あ、その」
「ま、いいや。ところで君、誰? 見た事無い顔だけど」
「ボク     はあの、転入してきて」
 鴫野は驚いて、
「あぁ! 君が!」
 と、合点がいった様子だった。恐らく何かしらの説明や噂などで、転入生が来る事を知っていたのだろう。
 とにかく、話題を逸らさないといけない。いきなりファーストコンタクトでしくじるなんて、どうにもついてない。アスファルトに顔から突っ込んだ気分だ。
 でもまだ挽回できる。
「き、君は? 遅刻?」
「なー、初日から遅刻なんてあれなんだけど、まだ冬休み in my headなんだわ」
 自分の頭を抱えてぐるぐる回りだす鴫野を見て、ボクはこいつがけっこう変わっている奴だと分類する。天然なのか、狙っているのかまでは分からないが。
 ……狙っているに決まってる。自分を可愛く見せようとしている。期待なんてしない。
「あ、先に入った方がいいよ。ボクはまだ、待ってろって言われてて     」
「ん? なら一緒に入ろっか。ちょこっと面白そうじゃんね」
 言うなり鴫野は教室の扉に手をかけ、一気に開け放った。目を見開いた教師の顔がまず映り込み、それからクラスメイトがこちらを凝視する様がある。黒板にはボクの名前がもう書かれていて、まさにベストなタイミングだった。
 やがて囃し立てる声が響く。照れたように頭をかく鴫野だったが、教師に名簿で頭を殴られて、
「おい鴫野! 初日からお前は何でそう     」
「すいません! 廊下に立ってます!」
「いいから早く座れ!」
 その一連の流れに静かな笑いが起きた。
 だが、ボクはそれに少し違和感を感じる。何だか空気の層がそこにあるような、良くない何かを含んだ空気の層が。気にしすぎだろうか?
 そのまま済し崩しにボクの紹介が行われる事となり、ボクは教壇に立たされて自己紹介を開始した。
「祝園くんは病気で一年休学していたから二年編入って事になってるが、みんな仲良くするように」
「祝園啓(ひらく)です、よろしくお願いします」
 もともと笑いをとる事なんて考えて無い。当たり障り無い社交辞令と定型文でどうにかやり過ごす。心音が大きかったさっきよりも、まだ落ち着いた。
 反応は無い。まぁ、そうだろうと思ったが。
「質問は、まぁ、全員の自己紹介してる時にでもするか。じゃあ出席番号一番の愛(あい)から前出てこい」
 その間にボクは指定された席に向かった。真ん中二列の窓寄り後ろから二番目。これが一年、ボクの机になる。
 クラスメイトの自己紹介が進んでいき、やがて自分の番が回ってきた。
「先ほども紹介されましたが、祝園啓です。歳はみなさんの一つ上なんですが、気軽に接してください」
 質問を待つ。やがてちらほらと手が上がり、口々にみんなが質問を投げた。
「何処の学校に行ってたの?」「趣味は?」「何処に住んでいるの?」「好きな音楽は?」「病気はもう大丈夫なの?」「この学校どう思う?」「どのクラブに入るの?」「好きな女の子のタイプは?」「何歳で射精した?」「好きなご飯のおかずは?」「好きな動物」「旅行に行くならどこ?」「好きな女の子のタイプは?」「何歳で射精した?」「山科(やましな)、エロにしつこいぞ」「いいじゃんかよ」
 その他諸々の質問をこなしていく。上がる手がもう無くなった時には五分が過ぎており、一人あたりの持ち時間をオーバーしていた。
 席に戻ってまた次から始まる自己紹介を眺めた。色んな人間がいる。前と同じクラスだった人間に茶化されるもの、何を言ってるのか聞こえないもの、自分がいかにすごいかを主張するものや、これからみんなよろしくだなんて上辺だけの交友を強要するもの、中にはお前らと自分は違うだなんて教室を出て行くものもいた。
 ボクはいかにも初日で固くなってる風を装っているので、あまり感情は出さない。少しにやけたフリをする程度だ。これくらいが恐らく、ちょうどいいだろう。
 そうこうしている内に授業終了のチャイムが鳴った。音に紛れながら担任教師が連絡事項を矢継ぎ早に伝えていく。メモを取るほどでもなかったので頭に留めて、帰る準備を始める人の群れを見つめる。
 彼らは本当に、生きていると言えるんだろうか。
 見下して、その中に自分もいた過去を消す。
「配布された教科書は一度、全部家に持って帰れよー」
 クラス中からの非難を受けながら教師は退室して行った。残された生徒は、口々に文句を言いながらも鞄に教科書を詰めていく。
 ボクは入学式に出席していたのでまだ教科書を貰っていなかった。一人だけ薄い学生鞄に筆箱やルーズリーフをしまっていく。
 そうこうしていると、帰り際にクラスメイトの男子生徒達がボクを囲む。
「祝園くん、もう少し喋っていい?」
 話しかけられても答える事なんて出来やしないのに。心の中だけで嘲笑に似た謝罪を繰り返す。君らが期待している事をしてあげているんだけど、それは嘘にしかならない。それは、果てしなく愚かで歪んでいて、そして果てしなく     優しいはずだ。
 聞かれるのはとりとめもない事。さっきの質問の延長線上だ。物珍しいから話しかけているだけで、ボクにも彼達にも得るものなんて無いんだけれど、こういう普通の会話をそつ無くこなす事が、ボクのこれから生きていく上で最も大事なんだろう。
 そういえば、あの彼女は何をしているだろうか。
「へー、病気って大変なんだね、大丈夫だった?」
「うん、大丈夫だよ、もう。     ところでさ、鴫野さんってどういう人?」
 これくらいの話題転換なら不自然じゃないだろうだろう。ああいうキャラクター性のある人物を見れば、知りたくなるのが普通の心理だろうから。これは自分の本音とも少なからず合致するわけだし。
 答えようとしてくれた男子生徒が一度、教室を見回す。だが、鴫野さんとやらはもう帰ってしまった後のようだった。姿は見つからない。
「鴫野? あぁ、あいつ? あいつはまぁ、なんだろ、変な奴だよ」
「だろうね。面白い人だね」
 違和感を感じた事さえ忘れて、口だけで無防備に繰り返す。
 その時、ボクは油断していた。スムーズに自分をクラスに溶け込ませたという自負もあったし、これまでの半年が報われた過信もしていたから。

「面白い? まぁ、そうかもね」

      一言で、ボクは現実に引き戻される。
 そこには明らかな嫌悪が含まれていた。侮蔑や阻害を含んだ、憐憫ともとれる思考感情。道端に誰かの足跡が残ってた犬の糞を見つけた時のような、その視線。
 それは。
 それはボクが見ていた目。
 それはボクを見ていた目。
「そ、そうだね」
 汗が噴き出すのを抑えきれない。後頭部がぴりぴり痺れだして、嫌な記憶が掘り起こされる。それをボクは止める事ができない。鼻の奥にツンと痛みが走る。手の親指が内側に収束する。息をしにくい。頭に靄がかかる。
 気分が、悪い。
「     じゃあ、ボクは、これで」
「あぁ、うん。また明日」
 吐き気を抑えて、見送ってくれる男子生徒に手を振る。意識したわけでもないのに足が前へ前へと進んでいき、歩く速度が上がっていく。
 少しばかりホームルーム終了から時間が過ぎているようで、帰ってしまったのか廊下に人は少ない。好都合だ。ともかく、どこか、人のいないところへ。どこか、一人になれるところへ。
     非常階段、そうだ非常階段なら誰もいないはず。そこに行きさえすれば     、
 人にぶつからないように、足早に去る。見えてきたのは校舎の外に備え付けられた金属の階段。錆びて赤くなった手摺りを握って一心不乱に登る。
 四階到達、しかし足は止まらない。
 もう一階分を登る。そこはやはり、屋上に繋がっていた。水色の空には雲が無い。貯水塔の裏まで行って息を静める。荒く、熱い息が食道を焼く。
 ずりずりと壁を背に落ちていく。しばらくここで休んでいこうと決めた。
 トラウマのぶり返し。ストレスによる心身の殴打。自分が二人いる事への禁忌感に、嘘を吐き続けると決めた覚悟の揺らぎ。
 一日目からこれじゃあどう頑張ったって生きていけそうにない。
 それも嘘を吐き続ければ慣れるのだろうか。
「あーしんど」

「大丈夫か!?」

 まただ。この声。
「そこにいるのは転入生じゃないかジャカルタ百人一首。どしたい、病気でもぶり返したかい?」
 鴫野は貯水塔の上にいた。青空を背に寝転びながらこっちを覗き込んでいる。逆光で表情は見えないが、本気で心配している風でもなさそうだ。
「大丈夫だよ」
「だろうね。馬鹿の考え休むに似たりっていうしね」
 その諺は今、まったく関係無いがな。
「よくここを見つけたな! ここはこのわたしの秘密基地だぞ!」
 秘密も何も、非常階段を登れば来れるじゃないか。どこまで頭が幼稚に出来てるんだよ。
 吹き出しそうになって、堪えた。吹き出しそうに? 自分は今、この鴫野という女の子を面白いと感じたのか? まさか、それはない。鴫野だって人間だ。自分本位で動く、他と同じ、ボクの敵だ。
 ボクの中のメーターは0からプラスにはもう行かないんだよ。マイナスになるだけなんだから。
「悪かったね。息が落ち着いたら帰るよ」
「そうしておくんなまし。わたしはこれから昼寝すっかんね」
 その言葉を最後に、鴫野は寝息を立てはじめた。本当に昼寝していただけらしい。
 プラスに傾きかけたメーターは、マイナスを無理矢理に掛け合わせたせいで振り切ってしまった。こうまでして世界はボクに何をしたいんだろうか。もうそれは分からない。
 沸々と沸いてくる怒りにも似た思考回路。自分の事で言明できないのは情けないが、ボクはこの鴫野という人間について、あまりいい感情は抱いていないらしい。
 いや、それは戯だ。
 ボクは信じてしまいそうになったからだ。もしアニメやマンガの世界に住んでいるような人格を持った、本物の善人がいたならば。そう考えてしまったからだ。
 それがこの鴫野だったとして。そんな鴫野の前に存在したボクの価値は。与えられたチャンスを絶対のものだとして捉え、乗っかってしまった自分の意義は。
 ゼロなんてもんじゃない。レイなんてもんじゃない。
 ……もうやめよう。自分を虐めても何もいい事なんか無い。せめて自分だけでも本当の自分を褒めてやろう。
 自分を知ってるのは自分だけなんだから、正確に自分を判断できるのも自分だけなんだから。
 さよならも言わずに立ち去る。深くは関わらないように。相手を個人ではなく他人という集団で捕らえる。そうしなければ、生きていけない。
 帰る道すがら、町並みを観察する。
 学校が大きいのも、ここらはあまり栄えているわけでもないからだ。都心には電車で三十分ほどかかるし、住宅街と言えるほど居住区があるわけでもない。大手の支社や、場所が商業的に重要ではない会社の事務所、あとは自然を残したと体の良い言い訳をする為の樹木。
 駅までは徒歩で移動する。それほど時間もかからない。
 コンビニやファーストフードチェーン、本屋や娯楽施設。駅に近づけば次第にその数は多くなり、街と言っても語弊が無い程に成長する。
 自動販売機を見つけた。ラインナップとしては不満だが、仕方ない。スコールかネクターで迷って、結局はセーフガードで落ち着いた。
 商店街が見えてきた。九隅駅商店街と大きな文字が書かれた門を頭に、そこから数百mの店が立ち並ぶ。何の気は無しに入って、三軒目の熱帯魚屋さんを覗く。
 見るのは魚ではなく、申し訳程度に置いてある爬虫類や両生類だ。
「いらっしゃいませ」
 歩きながら店を回る。生き物は好きだ。人間以外の生き物は、言葉を喋れないから。好きなだけこちらを押し付ける事だってできる。
 そして最後には殺すという最終手段まである。まさに至れり尽くせりな鑑賞動物達よ。感傷動物? そこまで詩人じゃない。
 店を出て、駅に向かう。駅内のコンビニの前まで来て、買い物をしているクラスメイト数人に発見されてしまった。
「あ、祝園くん」
「祝園くんだ」
「帰るの?」
 相槌を打ちながら話を進めていく。いくらか会話を重ねると、流れがボクの登場の話題になった。
「そういや、鴫野。あいつ遅刻してきたな」
「まぁなー、祝園くん、何かされなかった?」
「狙ってやってんだよ、キャラ作り」
 特に何もされた憶えは無いから正直にされていないと答えた。彼らはいたくそれに安心したようで、胸を撫で下ろしている。ボクに顔を近づけ、声を潜めて、
「あんま鴫野と関わらん方がいいよ」
「どうして?」
「あいつ、空気読めないんだよ。それになんか気持ち悪いしさ。気に入らない事あったらすぐキレるし、人の迷惑とか気にしないし」
「だよな。だいぶ前もさ、落ちた消しゴム拾ってやったらいらないとか言われてさ」
「そういやほら、あの学校の自動販売機壊したのさ、鴫野らしいよ」
「マジか。やっぱやべーな、あいつ」
 ふむ。なるほど。
 鴫野が教室に入った時のあの反応は、そういう下地があったからなのか。
 これはいよいよ鴫野とは関わらない方が良さそうだ。わざわざ自分から嫌われ者についていくほど、マゾヒストじゃない。彼女とは距離をとって、ボクはボクでこういう普通な奴らと接すればいいだろう。
 そこから鴫野の悪口大会が始まる。聞いていてもしょうがないので、手短に別れを切り出して定期を改札に通した。階段を上がってホームに出る。
 かれこれ学校を出てからもう一時間近く経っている。早く帰らなければいけないわけでもないが、少しのんびりし過ぎたかもしれない。
 吹き抜ける風はまだまだ冷たい。真冬ほどではないが、ほのかな温かさを孕んだ風が、学制服の裾を揺らしていく。ボクはベルトの位置を正して電車を待った。
 鈍行しか停車しない駅なので、二本の快速電車を見送った。電光掲示板を見つめていると、ふとした空白に体がホームを降りて、線路に立つイメージが浮かぶ。戯れた妄想だ。と、目当ての普通ダイヤが来た。
電車に乗って、乗換駅まで三駅。
鴫野の事が頭から離れない。
そのループを押し込めて、明日から始まる通常授業について脳を巡らせる。ついていけないなんて事は無いと思うが、平均点にできるだけ近づける為に気を抜けない。
昼前で乗客の少ない電車の中は、ほどよく暖かく、座席の下から吹きだす温風がふくらはぎに当たって肌が少しかゆい。さて、ポケットにあるさっき買ったメーテルリンクでも読んで時間を潰そうか。
感触だけでポケットを探る。
     視線を感じた。
きょろきょろと辺りを見回す。
「     ?」
ボクの座っている車両の端の座席から、ちょうど正中線で反対の座席にいた大学生風の青年と目が合う。車両一つ分の距離が開いているものの、ばっちりと確かに目が合った。
視線をずらすようにして、すぐに目を逸らす。
気を取り直して文庫本をポケットから出そうとした。
 寸暇を置いて、手が止まる。

「     おい!!」

 突然の怒声。十数人の乗客が一斉に顔を動かす。
 もちろん、ボクも顔を上げた。人の目線の辿る。すると、先ほどの大学生が座席から立ち上がって     
「お前よぉ! 今、馬鹿にしただろ!? なぁ、馬鹿にしただろ!!」
 声は裏返って正確には聞き取れないが、彼は怒っているようだ。だが、何に?
「就職できねぇのがそんなに悪いのかよ、なぁ!!」
 我鳴り立てながらこっちに向かってくる。
 視線は     ボクだ。ボクの方を向いている!
「どいつもこいつもムカつくなぁ!! クソクソクソクソクソクソクソ、イラつく!!」
 何が起きたのか。いったい、何が悪かったのか。
 自問しても答えは出ない。
 固結した空間は、それでも発車した。
 一歩、また一歩と大学生はこちらに近づいてくる     !



2

「死ねって言いたいのかよ、なぁ!? こっちだってこんなに頑張ってんのによぉ!!」
「は、いや」
 これはまずい。面倒な事になっている。
 大学生は途中にいる人を押しのけながらこっちへ歩いてくる。彼の鬱憤を晴らすためなのか、それともただ目が合った事に起因があったのか。
 サラリーマンや他の青年が間に割って入ってくれるが、ことごとく突き飛ばされ、役には立たない。
 とうとう目の前までやってきた大学生が、ボクの胸倉を掴んで強引に立ち上がらせた。血走った目と涎の滲んで白い滓がこびりついた口角が迫る。
 咄嗟の事にどうしていいか分からない。完全に頭がパニックになっている。
「お前みたいなガキに馬鹿にされるほどまだ落ちちゃいねぇよ!」
「別に、馬鹿になんか     」
「うるせぇよ!」
 乱暴に座席に突き返され、反動で肺の空気が抜ける。息が吸い込めなくなってさらに混乱していく。他の乗客が腕や体を抑えているにも関わらず、大学生の目にはボクしか映っていない。
 騒ぎが大きくなって、両隣の車両からも野次馬がやってきた。止めようとする人もいたけど、大部分は離れた場所からこっちを見るだけ。
 中には喧嘩を助長させようとする人間までいる。
 これだ。
 これが、人間。
「おい、お前、やめろ!」
「落ち着け!」
 暴れる人。抑える人。見る人。笑う人。見ない人。
 人。
「離せ! 殺すぞ!」
 安全な位置から、弱者を見る事を好む生き物。自分にさえ被害が及ばなければそれでいい、自分よりも不幸な者を見ると相対的に幸せを感じる、そういう汚い本性。
 嫌という程、見てきた。ボクをイジめる人間と、それを取り巻く人間。三日月を三つ並べて貼り付けた能面みたいな顔面の顔面。
 そうやってボクは沈んでいく。危機的状況で、一人だけ心が沈んでいく。
 ボクもまた、その一員であるから。
「てめぇ何を黙ってんだよ! 何か言ってみろ!」
 何も言えやしない。いや、何を言っても無駄だ。
 どうせ何も聞きやしないし、どうせ何も聞かせられやしない。今のボクは無力だ。何を答えたところで行き着く先は同じで、そこには絶望しか無い。
 断絶された教科書通りの人と、頭の先から足まで人間との交差。
 感覚が死んでいく。
 者が、物に見える。
「そうやって見下しやがって、いつでもいつでもお前らはそうやって安全だよな! 苦労も知らないんだよな! 本気で殺し     」
 目を閉じる事も、歯を食いしばる事もしない。振り上げられた拳を、空ろに見ている。景色に幾重ものフィルターがかかっているようだ。耳元で大量の空気が圧縮されて音を通さないようだ。
明るいのか暗いのかすらも分からないその視覚と。
無音なのか轟音なのかすらも分からないその聴覚の中で。

 やけに彼女だけはしっかりと感じた。

「お兄さん」
 何時の間にか大学生の後ろにいた鴫野は、大学生の二の腕のあたりを優しくノックした。そしてそちらを見たその顔に     、

「うっせー!」

 と、学生鞄を力任せに打ちつけたのだ。
 教科書やら何やらで嵩増しされた結構な重量の物体が、かなりの速度で衝突する。あまりの衝撃にもんどりうった大学生は、ボクの真向かいの座席に吹っ飛んだ。周りで彼を拘束していた二、三人もまとめて倒れ込む。
 角がひしゃげた鞄を背負い直して、鴫野は大学生に指を突きつける。
「うるせー!」
 もう一度、同じ言葉を投げた。
 くるっと振り返ってボクを見る。
「お、祝園くんじゃーん。危ないとこだったね、ちょっち」
「あ     」
 どうした事だろう。
 振り向いたその笑顔に。
 ボクは何もできなかった。
「お、車掌さん社長さん佐藤さんは砂糖三杯。めんどっちーし、わたしは降りるよ」
 ちょうど次の駅に停車した電車から、鴫野は颯爽と降りていった。残されたのはぽかんとした乗客と、開いた口が閉まらないボク。
 車掌らしき人物がやって来て、大学生をどこかへ連れて行った。しかし乗客はまた騒ぎ始めた大学生にはもう目もくれず、それぞれの位置に戻っていく。
 ボクは、何も出来なかった。
 やっと助けられた事に判断が追いついたのは、降りるはずの駅を二つも過ぎてからだった。
 混濁しながら聞き覚えの無い駅で降りても、戻る電車に乗る気がしない。人のいないホームのベンチに座って、買ったセーフガードを飲んだ。しばらくそうしていた。
 例えそこがラッシュ時で、大群の有象無象が跋扈していたとしても、ボクは気にもせずに同じ行動をとっただろう。まばたきが少なくなった表情で、だらりと力を抜いたまま、動かない。
 ふと思い出した好きな歌のように、消そうとも思っても消えないその単語。
 鴫野。
 彼女は、どういった人物なんだろう。
 彼女は、どうしてボクを助けたんだろう。
 彼女は、どうやってあそこまで生きる事ができるようになったんだろう。
 疑問は尽きず、次から次へとまるで湯立った水のごとく湧いてくる。一つ一つを捕らえようとする前に消えては現われ、考えを追いつかせようにも届かない。
 鴫野。
 ボクはどうすればいいのだろうか。
 その疑問にはすぐに答えが出たようだ。





ゼレイロノ話。

0

 見てきた事、聞いてきた事、嗅いだ事と味わった事に触れた事。
 感じてきた全ての要素を強引にぶち込んで、まさに蟲毒のように作り上げられた人格というものは、過去にこそなりすれ未来にはならない。過去を構成しているのは自分であり、そしてその過去が構成しているのもまた、自分であるからだ。
 時間は不可逆性だとか、線ではなく面で考える構造だとかは、どこそこのスーパーで鶏肉が安いというくらいの吹聴でしかなく、達観したところで巡り合ってくるものは事実ばかり。
 自分の不幸を知らない幸福に沈んでいく生物が一つ     。
 この世に現在が無いなんて、そんなのとっくに分かってる。けれどどうしたって未来に行き着くのならば、過去に意味なんてものはないんじゃないだろうか。
 もし、過去が無かったとするならば。
 それは善良で無垢で、この世でもっとも残酷な生き物がひとつ、出来上がるだけ。
 そうしない為に過去を取り込んで未来を待つのが生きるって事なのか。運命を組み替えるのも紡ぎ上げるのも二の次で、切り開いていくなんてのも夢のまた夢。
 ただ漫然と『待つ』。
 自分で作り出したと錯覚するだけの未来なんていらない。現実主義に傾倒するなら、さらに過去なんていうオカルトも、自分さえも殺してしまうしかない。
 関係するのを恐れるあまり抹消してしまった自分自身という概念が、形而下で暴れ狂う妄想をただ創造するのが、未来を迎える覚悟に他ならない。来てしまったものは遺憾千万。丁重に受け流すしかない。
 逆に言うならばそれぞれが物体化した世界において、未来現在過去の相対性は、見るも無残な泥仕合を繰り広げる篭球試合のような点数を表す野球を凌ぐ紳士の対決だ。雨の中、走り回ってやっと手にした絶対的な価値あるものが、『現在』が無いばかりに無為に天昇する。
 月と太陽に似ている。ロマンを味わうなんて、それこそ反響だ。
 昨日に帰納するだなんて駄洒落も、言葉遊びにすら及ばない未来を見ないなんていうのも、その全てに現在が顕在するなんてのもまやかし。嘘の塊。
 『汚い』や『影』を正しいと認識してしまうのも不健康ではないが、どうせなら万物に侵食されない超常的な『純粋』を愛していたい。
 そんな風にボクは過ごしたい。
ニゼロノ話



1

 春休み明けの学校なんて、学校であって学校じゃないものだ。
 何処かで見た風景を見てもいないのにデジャビュに晒して、九十九桜を横目に校舎の扉を開け放つ。外よりはまだ暖かい。
 時間はまだ朝の七時。寒風吹きすさぶ中庭から見上げて、空を嗜む。今日も腹に溜まる青空で、向上した気分のまま階段を上る。二階、三階。     まだ止まらない。
 四階。ここは一年生の教室が並ぶフロアだ。しかし目的はそんなところには無い。校舎内階段を上がってすぐ右に曲がると一年N組の教室。そこからまっすぐにアルファベットを逆に進む。やがてA組の教室の辿り着き、そこから外の非常階段への扉をくぐってさらに上へ。
 屋上に出ても青空は近くも遠くもない。距離が開きすぎていて、ちょっとやそっとじゃ遠近感に狂いも生じない。遅く、長い雲を見ながらボクは、給水塔に近づく。
「鴫野」
 案の定、鴫野はそこにいた。
「昨日はありがとう」
 もそもそ動く音が聞こえるが、姿は見えず。構わず持って来ていた紙袋を差し出す。中身は昨日、帰りに買っておいた有名店のケーキ詰め合わせ。
「好きかどうかわかんないけど、お礼として」
 正直な気持ちだ。借りを作ると喘息の発作が起こるわけではないが、そのままというのも居心地が悪い。この程度で精神衛生が得られるならば幸いだ。
 それからゆっくり数分。差し出した手が疲労して下がり始めてやっと、動きがあった。こちらから見れない給水塔の向こう側にある梯子を降りる音。
 欠伸を噛み殺して、鴫野は制服に付いた細かい埃や錆を落としていた。
「昨日は何があったかな」
「助けて     あー、まぁ結果、助けてもらったから。細かい事は置いといて……朝飯食った?」
「まだ」
「じゃあ朝からケーキと洒落込もう」
 それも予想していた事なので、これも来るまでに買っておいたホットコーヒーとホットミルクティーを地面に置く。目を動かして、屋上の隅に転がっていた段ボールを持ってきて敷き、そこにケーキの紙箱を載せる。
 よたよたと本当に眠たそうに鴫野が座る。わざわざ地べたに。
「いただきます」
「まだ朝の七時だぞ。いつから学校で寝てたんだ」
「うーん、昨日の夜か……夕方。憶えてないや。モンブランって汚いよね、見た目。やっぱガトーショコラ一択」
 迷わず紅茶とガトーショコラを手に取ってもそもそ食べはじめる。ボクは不遇なモンブランを食べ始めた。
 しばらくそうしているのも何なので、鴫野の観察を始めた。見ていて捉えたのは、鴫野は食べるのが遅いという事。そしてケーキを食べるのにフォークを使わない事。
「これ、全部くれるの?」
「え。あぁ、うん」
 言葉に連れ戻されて、今は機械ではなく人と話しているんだと再確認する。それにしても見れば見る程、不思議だ。食べるのは遅いのに、全体を食べ切るのは速い。どういう事なんだろう。
 早くも二つ目     今度はレアチーズケーキ     を手にとってフィルムをめくる。と、何故かハッと驚いた顔でケーキを口から離す。
「どうしたの?」
「あー、寝惚けてた。どういう事? なんで祝園くんがわたしにケーキをくれるの?」
 どうやらさっきまでは夢の中だったらしい。一つ平らげといてなんという言い草だ。
「昨日、電車でさ、結果的に助けてもらったから」
「そのお礼? 律儀だね。助けたって何かあったっけなぁ」
 昨日の事は憶えてないらしい。少し考えて、思い出せなかったのかまたレアチーズケーキをぱくつき始める。
 これを機にじっくり観察を開始する。顔は、化粧気の無いさっぱりした面持ちだ。特別に可愛いわけでも綺麗なわけでもない。いや、平均よりは少し上ってところか。目立って秀麗なわけでもないが、パーツのバランスが良い。線が細い印象を受けるのは白い肌と短い手足からだろうか。
 レアチーズの次は迷った後にラムレーズンパウンド。
「鴫野さ」
「なにさ」
 消えない疑問をぶつけてみたくなった。そうする事で何かが解決するような気もしたけど、どうしてもその一言目が思いつかなくて、
「いや、やっぱいいや」
 こっちから断ってしまった。
「ふん、変な人だね。というより、朝からケーキはいらないや」
「おいおい三つも食べといて」
「今日はもうご飯、いらないや。わたし、背が小さいから、太ると嫌だもん」
 そんな普通の感性が、貴重に感じる。
 どうして鴫野にこうまでして執着するんだろう。浅く広くの八方理論で生きていくつもりだったのに、どうして嫌われ者に付き纏うのだろう。
 答えは単純明快。
 そっちの方が得そうだからだ。
「じゃあこの残った三つはここに隠しておいて、また食べればいい。この季節なら腐らないと思うし」
「常温で長時間放置したケーキを食べさせようなんて、嫌な人ね。姑みたい」
 人間関係は損得勘定で動く。それはもう歴然と判明した事実であって、学んだ事柄である。得だと思う人間にしか、人間は絡んでいかない。自分が何かしら得る為に、人間は関わり合いを持つ。
 それは雑談で得る笑いや、具体的な知識、イジメによる快感、もしくはカツアゲする事によって得る金銭。
 何かがそこに存在するのだ。そしてギブアンドテイクのテの字も存在しない、そんな鴫野には誰も関係を持とうとしない。当然だ。
 そんな鴫野と仲良くしている人間はどう捉えられるだろうか。
 もしボクが入学当初から手の付けられない不良だったとして、学校の嫌われ者だったとしたら、嫌われ者同士で仲良くなる、何も益の無いグループが出来上がるのだろう。
 が、ここにいるのはボクだ。
「眠い」
「食べてすぐ寝ると牛になるぞ」
 ぐずぐずとその場に倒れこむ鴫野。
 転入生というポジションはデメリットこそあるものの、その分のメリットが大きい。好印象でもなく悪印象でもなく、ただ『転入生』というカテゴライズがそこにある。孤立無援。ボクからすれば四面楚歌なわけだが。
「化粧も崩れるぞ」
「化粧しない。肌はもともと綺麗だから。そういや君も肌はきれいだね。病気のせい? どんな病気だったの?」
 病気。学校にはそういう事になっている。どう答えようにもそれは根本から嘘なので、否定もできない。
「病気のことは君に関係ないだろ」
 焦ったボクの答えはどうしようもなく、ついつっけんどんな言い方になってしまった。無言で重い空気が流れる。
 どうしたものか。敵とみなしてはいるものの、敵対を億度してはいないのに。失策だ。
「そだね」
 短く鴫野はそう答えた。それっきり、寝息ともため息ともつかぬ息を繰り返す。動こうにも音を立てる事すら躊躇われる。
 ここは折れた方がいいだろうか。
「ごめん。思い出したくないだけで」
「いや、いいさね。あ、ケーキご馳走様」
 これでとにかく空気を引き戻す事には成功したわけだ。まだ引きずってはいるけれど、さっきほどじゃない。適当に誤魔化せば、どうにかなるだろう。
 いや、言い訳だ。正当化だ。沸いてくる疑問に気付きたくないだけ。
 ボクはどうしてこうまでして鴫野と関係を持とうとする。気にしないって決めたのに。言い難い感情が心から、泡のように。
「鴫野、聞きたいんだけど」
「どーぞ」
「鴫野はどうしてあんなに、なんていうか、昨日みたいに」
 言葉が出てこない。さっきと同じ、堂々巡り。頭の中で概念だけが回って、それが確固とした形で出てこない。感覚を言い表すだけのボキャブラリーが無い。そもそもこの世にそんなものが存在するのか。
 どう言えば、伝わるんだろう。
「昨日? 電車の? あーうるさかったからね。ただそれだけ」
「じゃなくて、どうしてああいう事が出来るの?」
「だってうるさいし」
 単純明快。そこには後先とか反撃とか倫理や諦観や憎悪も嫌悪も無く、ただそれだけ。
 ここでボクは鴫野という人格について、見誤っていた。世界にいる自分以外の人間はもっと単純なのだ。その中でも輪をかけて鴫野が単純なだけ。いらない考えを起こして行動できない、そんな自分と同じだと勝手に思い込んでいただけ。
 鴫野はうるさかったのだ。だから静かにした。
 なるほど。そんな性格なら嫌われても当然だ。
 そして、鴫野はそんな状況に耐えうる精神を持っていて、それ故に状況から抜け出す努力なんて無意味に等しいのだろう。自然体と言えば聞こえはいいが、こと現実においてそれは害悪だ。
 いや。
 最悪の象徴。
 もしかすると誠に勝手ながら、ボクは鴫野を助けたいと思っているのかもしれない。一人。ボクはそれを覚悟してきているから、辛いはずの無個性を耐えていける。鴫野はそれを堪えてるようには見えない。恐らく、気付いていないのだ。
 だから気付かせてあげたい。その結果、良い状況になるか悪い状況になるかは別として。
 ボクは切り出した。
「鴫野って友達いるの?」
「いないかな、いや、何人かいるよ。すんげー面白いの」
 そして世界には少数派ながらもそういう人間に追随する者がいる。『感応した』とでも言おうか。受動的に堕するが末に自己保身すら失った人間と、もしくは切磋琢磨から迎合和解まで共にする人間と。
 一種のカリスマなんだろう。そういう人間には量より質の人間がついてくる。
「紹介してあげるよ。君も、今は一人ぼっちってやつなわけでしょ」
「それは     」
 悩む。その提案を受け入れれば確実に、今のフラットな状態から『鴫野の友達』というシフトダウンを成すだろう。量をとるか、それとも質をとるか。
 ここは転入生のメリットを使わせてもらおう。
 無知と、博愛。底を見られなければバレない嘘を吐こう。
「     ありがたいかな」
「おー。じゃあ今日は授業があるし、放課後にでも遊ぼうぜ」
 それっきり、鴫野は眠り込んでしまった。本当に眠かったようだ。その場で地面の誘惑に負けてしまった。仕方ないので段ボール紙をいくつか被せて非常階段を降りる。
 かつかつと金属を鳴らす足音は、あの病院を思い出させる。
 心に留めておくほどの感傷でもなかったので、数秒後には思い描く事もなく、ボクはもう一度、学校を出た。



2

 放課後まで鴫野は教室に姿を見せなかった。心配にもなる。
 朝からもう八時間。時間は三時半を少し過ぎている。しばらく教室で待っていたが、来る様子は無かったのでこちらから出向く事にした。恐らく、まだ屋上にいるだろう。
 初日の授業なのでそれほど何か進むわけでもないが、それにしても丸一日をサボタージュぶっこくなんて、これからのボクには出来そうもない。
 クラスには溶け込めそうだ。まだ気を遣ってもらえる身分にいる。付かず離れずどっちにも行かない、迷っている風にでも見えているんだろうか。
 屋上。珍しく(といってもボク自身、僅かしか来ていないが)先客がいた。フェンスに手をかけて下界を見下ろしている。
 尻まで覆う長い黒髪が屋上の風になびいて、その体を打ち付けている。下界を見下ろす神様のようでもあるし、世間に絶望した愚者のようでもある。後姿を見る分には服装は優等生。
 近付けば背が高いのが分かる。男子平均のボクと同じくらいだから、女性なら高い部類に入るだろう。
「よぅ」
 呼びかけられて声の正体が分かると、自分がどうしてここに来たのかを思い出す。
「鴫野。まさかずっと寝てたのか?」
 給水塔から頭だけ出して鴫野はあくびを一つ。
「やりたい事が多すぎて何もしたくないから」
「授業に出ない言い訳にしてはやけにモラトリアムだな」
「学校の授業じゃ教えてくれない大事な部分でもあるからね」
「知ってるか? 授業じゃそこで習えない事が習えるぞ」
 軽口を交わしていると、フェンスの女の子がこちらに目を向けた。おしゃれな流行の眼鏡ではなく、品のある細い銀縁のそれの奥には、やけに悲しげな瞳がある。異質感があったが、すぐにそれは眼鏡が伊達のせいだと感づいた。
「あ、こいつが祝園くんね」
 あろう事か鴫野の言葉はこの女の子が自分の友達である事を示していた。芯の無さそうな、吹けば消えてしまいそうな、フェンスの女の子。
 悲しげなのは垂れ目のせいだろうか。それとも本当に下界に絶望したか。
「ど、どうも」
 とにかく挨拶はしなければいけないだろう。
「こんにちは」
 と、向こうも眼鏡を外して頭を下げる。名札が見えた。シンボルカラーは黄緑色。上級生だ。
 愛想笑いも無く、女生徒が歩いてくる。足取りはしっかりとしてこそないものの、生まれたてのトムソンガゼルほど弱くもない。いわゆる、普通。
 驚いた。鴫野にこんなに普通の友達がいただなんて。
「御陵(みささぎ)です。御陵こより」
「祝園啓です」
 そこから続ける会話も無く、無言が支配した。空間の密度が上がって、意味も無く汗が噴き出して心臓やら部活の声が耳に響く。
 助け舟を求めて鴫野の方を眼球だけ動かして見たが、この状況下で奴はぐっすりと寝ていた。どうしようもないので、ボクは給水塔の下にある隙間から、紙箱を取り出す。
「あの、ケーキ、お好きですか?」
 蓋を開ける。
 が、何も無い。
 こいつ、結局は全部食ったんじゃねぇか。
「す、すいません! もう無くなってました!」
 慌てて謝罪する。みっともない。いかに冷静を取り繕おうと心の底にある危機対応能力に成長が無い。
 どうすればいい。頭で考えても答えを見つける前に思考がストップしてしまう。白い眩い光が脳内で爆発して何を考えているのを見失う。
 そんなボクを見かねたのか、御陵さんとやらは     、
「ごめんなさい」
 謝り、     いや土下座しはじめた。
「何、してるんです?」
「いや、私のせいであなたがそこまで気にする必要は無いんです。いないものとして、空気なんです、私」
 言いながらも、決して平らではない地面に頭を打ち付け続ける。
駆け寄って体を起こすが、それを振り切ってまた土下座。
「気にしないでください放っておいてください見ないでください気付かないでください感応しないでください拒否しないでください聞かないでください考えないでください頭の中に浮かんだ私という記憶の一片たりともを消してくださいいないものとして扱ってください私はここにいません私なんかはいません私というものがここにある事はありません」
はっきりと耳に残る呪詛を吐き出して、ボクの制止も振り切り土下座を続ける。鈍い、嫌な音で自分の記憶もフラッシュバックしそうになったが、それをどうにかして堪える。
いくらなんでも様子がおかしい。
「鴫野!」
呼びかけても返事は無い。
やがて頭突きの数が三桁に上ろうとした頃、ようやく給水塔から降りた鴫野が傍まで来た。そしてまだ「感応しないでください知覚しないでください敵対してないでください賞賛しないでください同情しないでください悲哀しないでください憤怒しないでください虚無しないでください喜悦しないでください」と繰り返す御陵さんの脇腹を、力の限り蹴り上げた。
今度こそボクの頭ではもう理解できなかった。
鴫野の矮躯とはいえ、助走をつけたサッカーボールキックは、土下座する御陵さんの肋骨の下、鳩尾のあたりを的確にヒットして、ごろごろと二回転半して上空を見上げさせた。
うずくまって「ケヒッ」と息すらままならない御陵さんに、
「よりちゃん、この人は何もしないよ」
 鴫野はそう言い放った。
 あんまりだ。自分が今しがたやった事が分かってないんだろうか。場所が場所なら国際戦争だぞ。軍法会議ものだ。
「みさ、さぎさん?」
 恐る々るタイル三つ分を縮める。自分の蹴ったところを撫でる鴫野の背中から、御陵さんを覗き込んで、ボクは嚥下を鳴らした。
「ケヒッケヒ」
 笑っている。
 涙を流して、空気すらまともに循環させる事のできないその身体を折り曲げて、御陵さんは笑っている。血走って瞳孔すら開いた目で、吐瀉物とも涎とも判断できない粘液を口から溢れ出させて。
 い、異常だ。何が起こってる。
「大丈夫、なのか?」
「平気平気。だいたいいっつもこんなんだから」
「いつも、って……。いつもこんな事してんのかよ!」
 と、口走った瞬間。しまった、と思った。
 ボクは何を言った? 一瞬でも義憤にかられるなんて。何を常識ぶっているんだ。いつだって異端なくせに。
 御陵さんは喜んでいるようには見えない事もないが、助けを求めてはいない事は確かだ。そして、さっきはじめて会ったボクは、残念ながらテレパシーじゃない。
 やっと頭が働く。
 あれは御陵さんの処世術なのだ。
 ボクは世界を完全に隔離して、自分を隠し通して捨て去ると決めた人間。
 鴫野はそもそも世界に気付いてすらいない人間。
 この御陵さんは、世界に自分を感応させないように生きているんだ。思い返せば、あれだけ自分の存在を感応しないで欲しいと願ったその言葉の中に死ぬ殺してくれという類の言葉が無い。
 それは生きたいと、受け取っていいんだろうか。
 そうやって生きる事を、覚悟したんだろうか。
「よりちゃん、さっき言ったでしょ。祝園くんはちゃんと接してくれるよ」
「ケヒ……ほ、んと?」
「ほんと。ね?」
 ボクは首肯した。
「その、なんだかとっても遅れた挨拶なんですけど」
 同類項。同属嫌悪も発生しない、空前絶後のカテゴライズ。
 この子も普通じゃない。
「よろしく、お願いします」
 頭をもう一度、下げた。



3

「ゆいちゃんゆいちゃん」
 御陵さんは苦痛から解放されると、その本性を現した。
 幼児退行なのか、要事に対抗してるのか、御陵さんは見た目とは違って非常に幼かった。とても一つ上の学年、もとい同い年とは思えない言動と行動。
 鴫野の傍から離れようとしない。三人が同じ場にいるのに、これじゃあ三者面談だ。
「よりちゃん、ちょっとは祝園くんと話してみんさい」
 話そうとしてもまだこちらをしっかりとは見てくれない。目を合わせるのが恐いのか、いつも伏せ目がちで遠慮深い。
 その分、鴫野にべったりなんだろう。対人関係の絶対値が1とするならば、そのほとんどを鴫野に依存していると見える。あんまり手放しで褒められる事じゃないが、まぁ、何にせよ鴫野にじゃれてる間は幸せそうだ。
「祝園くんもよりちゃんに敬語なんて使わなくていいのに」
「そうもいかないだろ。上級生だ」
「けれど同い年でしょ? なら心配ないさね」
 そうは簡単に言うが、会ってすぐの上級生、しかもあんな場面を見せられた後じゃそんなすぐに気分を転換できるはずもない。おいおい、移行していく事でその場は収まった。
「ゆいちゃん、それそれ」
 鴫野の手にあるメッコールを欲しがる御陵さん。ボクのカツゲンに興味は無いらしい。
 それからは他愛の無い話が続いた。扇風機のリズム風は必要か? とか、プールに飛び込んだ時にゴーグルが外れるのを防止するストッパーは必要だろう? とか、鏡餅の中の小さな餅はありかなしか? など。どれをとっても何かがあるわけでもない。いわゆる世間話。
 まさかこんなに普通の生活がここに存在するだなんて。
 普通ではない人間がする普通の会話。
 未曾有の境地に自分は立っているんじゃないか。
「御陵さんは、三年生なんですよね。もう大学どこいくとか、決めてますか?」
「いや、まだなのです。その、うち、あんまりお金が無いから」
 やがて御陵さんもボクと敬語ながら話してくれるようにはなった。鴫野がしきりに頷いていて嫌な気分だが、こうなってしまえばもう三人という壁も無い。
 そう。
 浮かれていた。
 楽しかったんだ。
「祝園くんは、どうするです?」
「ボクは大学にはいかないですよ。ただでさえ一年のブランクがあるんだから、早く働きたいですね」
「ブランク?」
「あーそうそう。ゆりちゃん、祝園くんはね。病気で一年ほど休学してたんさ」
 病気。
 あの交通事故の事はもう思い出したくない。痛くもなければ恐くもない。記憶として残ってるのは事故にあったというその一点だけ。
 自分が記憶喪失だという非日常の体現なボクは、家庭でも学校でも、今までの自分を隠し通して、そして捨て去らなければいけないと思っていた。
 けれどそれに意味なんて無い。
 ここに過去のボクを知っている人間はいないんだから。
「そう。大変なのです」
 だからこそ、この学校に来た自分を形成するこの数日間は、今までの人生でもっとも楽しかった。自分を自分として、そしてボクがボクでいられる。
 でもそれはボクじゃない。
 本当の自分は、そんな『楽しさ』を味わう資格なんて無い。
 嘘偽りの隔壁で現世を解脱し、心の中で嘲笑を繰り返す。自分がこの世界で自分しか愛せないのを知ってしまっている。
「御陵さん、ゴミがついてますよ」
 だから何をされても傷付かない。
 床を転げまわってた時にくっついたんだろうか、御陵さんの頭頂には細かい埃と砂利が付着していた。
 それを落としてあげようと不用意に手を伸ばす。

 その手が、撥ね退けられた。

 あまりの速さに自分の手を見失ってしまう。所在を掴む前に、原因を探った。
 跳ね除けたのも手だ。それは鴫野の手。腕、肩、首と上っていき、表情が分かる。視点の定まらないボクでもその表情が意味する感情を認識した。
 怒っている。
「鴫野?」
「何も説明しないうちにどうしてそういう事ができるのか、わたしにはさっぱり分かんない」
 睨むなんてもんじゃない。射殺す程に凶悪な視線。
 だってボクの好きなアニメの主人公は、そうしていた。そこから恋が始まる事だってあったし、インターネットで頭を撫でられるのが好きな女の子も多いって書いてあったんだ。
 だからほんの軽い気持ちで、下心に身を任せた。
「見てみな。祝園くん」
 激情と困惑の最中、ボクの前にいたはずの御陵さんがいない。いや、いる。鴫野の後ろ、自分より小さい鴫野の背中にくっついて、震えている。
 笑っていない。
 しかし現象は繰り返す。
「うあ゛」
 込み上げた胃液とメッコールの混合液を、昼に食べたであろう未消化物を、御陵さんは吐き出していた。飛び散る飛沫を避けもせず、溢れ出る中身を抑えようともしない。
 鴫野の足とスカート、背中を汚した御陵さんが、言葉と液体を同時に口から発する。人間は、どうしてその二つを同じ場所から出す構造になっているんだろうか。聞こえない。言葉にすらなっていない。
 聞き取れるのはほんの一言。
 死にたくない。
 立ち往生だ。ボクに出来る事が何一つとしてそこに無い。ただ見ている事しかない。御陵さんが苦しむのを、鴫野の服が汚れていくのを。
「自分のした事を、見てみな」
 言われずとも目が離せない。
 責任の所在を探した。自分なのか、それとも御陵さんなのか。そもそもそんなものがその場にあるのか。疑問に疑問、応答に応答、重ねても生まれるものなんて。
 体の中を空にしてようやく、御陵さんがはっきりと言葉を喋る。同じ。同じ言葉だ。
「ごめんね、祝園くん、ごめんね」
「よりちゃんが謝んないでいいよ」
 その後に続くだろう言葉。御陵さんが悪くなければ、じゃあいったい誰が悪いっていうんだ。明言しなくても感じ取れる糾弾。身を刺す針のような雰囲気。
 だって。でも。だから。そもそも。むしろ。いや。
 浮かんでくる自己保身にどんな回答を続けようとも、決定的に守ってなんてくれない。
「ごめんな、さい」
「謝ってどうするの?」
 作文が得意だったのに。小学生の時だって大人が望む事がだいたい掴めた。悪戯した時だって、どうすれば一番叱られないかが分かったのに。
 今、自分がどうすればいいのかが分からない。
 鴫野はボクにもう一言も続けず、御陵さんを背負って屋上から降りていった。
 まさか帰るわけにもいかず、座っていても落ち着かない事が分かっているから、ボクは考えた。いろいろと考えたんだ。けれど何も、何も考えてない。
 すぐに戻ってきたのは鴫野一人。さっきほど怒ってないようだった。
「祝園くんには期待してたんだけどな」
 そう言ったっきり、給水塔に登って降りてこない。
 期待? こんなボクに何を期待するっていうんだ。人の影を歩いて、自分を一つとして見せないそんな上っ面な人間に何を求めてるんだ。
 もしかすると、鴫野は気付いてるのかもしれない。
 自分に、自分が置かれた世界の状況に。
 ボクが浅慮なせいで、行き届かなかったせいで見えなかっただけで、鴫野は本当は自分の境遇に気付いているのかもしれない。
 だとしたらボクは。
 ボクは道化にも劣る。
 だったらやる事は一つだ。
 足の裏に力を込めて、地面を強く蹴る。体が軋んだようだが、もうそんな事は気にしない。大事の前にそんな瑣末は放っておいていい。くそ、どうして自分の足はこんなに遅いのだ。どうして人間は風より軽やかに、光より速く走れないのだ。
 一人の時間と現状を鑑みて、御陵さんは保健室に運ばれたのが妥当だ。脇目も振らず、ほとんど落ちるようにして一階を目指す。
 非常扉を開けて校舎の中を走る。教師が驚いた顔で道を空ける。今時、廊下を走ったくらいでは止められて怒られる事なんてない。それが幸いしてアクシデントも無く、生徒相談室の隣にある保健室にたどりつく。
 全力疾走で上がった息を整えるなんて時間も惜しい。ノックもおざなりに扉を開け放った。
「御陵さん!」
 白を基調にしたテンプレート、コピーアンドペーストな保健室。目の前の机には教諭がいない。留守にしているんだろうか。そんな瑣末はどうでもいい。
 左右に合計四つあるベッドで、右手前のカーテンだけが閉められている。それがすっと横にスライドした。
「祝園くん」
 御陵さんは予想通り、そこに立っていた。少しやつれてはいるようだが、もう体調に異変は無いらしい。汚れた制服は学年別に色分けされた体操服に変えられており、黄緑が眩い。
 咄嗟に一言目は出なかった。
「ごめんね、祝園くん」
 謝る御陵さん。その謝罪を止めてくれる鴫野がいない。とめどなく溢れる御陵さん本来の意識と卑屈の奔流に、渦巻いた空間が溺れていく。
 きっと何も悪い事なんてなかったんだ。
 誰が悪いとか、タイミングだとか運だとか、何かが悪いわけじゃない。だから謝っても意味なんてないし、許しを得る事もない。鴫野はそう言いたかったんだと思う。いや、そんなの言い訳だ。
 ボクが、そう思うから。
「謝らないで、ほしいです」
 息を吸う。
「御陵さんは、どうしてあんなに……」
「言いたくない。それは卑怯なの」
 一刀両断にされて二の句は告げない。
「あなたは、祝園くんは、私にちゃんと接してくれないの?」
「それは! ……それは、ない、です」
 言葉がボクの心の迷いを受けて濁っていく。表面に施された無表情が崩れていく。
 彼女はカーテンを握り締めて、またその影に隠れるように、
「ゆいちゃんは知ってるよ。自分がどういう人間なのか、それを知ってるの」
「ボクだって、それくらい知ってる。自分がどんな人間なのかなんて」
 知っている。
 知っているだけ。
「知ってるだけじゃ、何もできないよ」
「それも、知ってるんです。感応しなくちゃいけないのも、分かってる」
 分かっているだけ。
「だったらもう帰って欲しい」
 涙が声に混じっていた。

「キミは、そこで終わりだよ」

 終わりの合図としてカーテンを閉め、御陵さんがそう言った。明確な拒絶の意思表示。
 今までボクがやっていた“静”ではなく、はっきりとした“動”の拒絶。そこに隔たりなんてものが見えないのに、存在はしている不思議。
 まただ。
 ボクは何にも成長なんかしていない。
 変わっていない。見る方向を移動しただけで、本質には一つとして変化なんてないじゃないか。
「……」
 自分が立っている場所が違うだけで、物事はまったく別の一面を見せる。精神的にしろ能動的にしろ受動的にしろ、そこにもう本来の真実なんてどこにもない。
 鴫野はボクに期待していると言った。
 どうしてこんなボクに期待なんてものをしたんだろう。
 どうすればこの心を期待させるものに見せる事ができたんだろう。
 人間は公式や定義じゃ動かない。



4

 小説なんか嗜んでいると思う事がある。アニメなぞを見ていると思う事がある。漫画なんてものを読んでいると思う事がある。音楽とかを聴いていると思う事がある。絵画らへんを眺めていると思う事がある。
 結局、これは感応なんかじゃない。これは自分自身との対話であって、どこのどんな奴がこの作品を作ったとしても、その作者なんかじゃなくて、関係者でも考え方でも思想でも哲学でもなくて、それこそこの媒体なんかでもない。
 これは自分との対話だ。
 自分の中にある何かに照らし合わせて、それを想像力や妄想で補い、取り繕い、装飾して作り上げる。完成品は人それぞれによって違うものになるから、結局はそこに真実は無い。
会話をするって聴覚とか相手の表情で終わりを決める。だから食い気味でかぶせていくのも、意図的に無視するのも自由だ。けれど何かを受け取るっていうのは違う。作り手と受け手じゃ、関係(コミュニケーション)は成り立っていない。文字を目で聞く、もどかしいジレンマがある。
 受け取る人間までもがそれを完成させる部品なんだとしたら、この世界に独立なんてものが存在するわけがない。
 でも人間は一人で生きられる。
 本当にそうなのか?
「だってそれ、生きてないじゃん」
 鴫野の声が聞こえた。
 屋上に意識を戻したボクが、何気なく鴫野に発した「どうして御陵さんはボクに終わりだと言ったんだろう」に対する答えだった。
「知ってるだけ分かってるだけで何か出来るんなら、世界中のみんなが幸せさね」
 韜晦した鴫野の笑みは、いつもの薄笑いなのか快笑なのか判別できないそれだった。
「なんだか生きるってさ、『やりたくない事』をどうやって知らずに過ごす事だとかさ、そんな世界になってきてる印象があるんだよねー」
 続けて手を大仰に広げる。
「メリットデメリットっつーの? なんかデメリットを得ずにメリットばかり得ようとするって感じ。なんかね、気持ち悪い」
「だから」
「ん?」
「だからボクに期待したのか?」
 デメリットを受け続けてきた人間だって分かったから、それならメリットを欲しがるだろうとか、それともそれを知っているからこそ御陵さんに感応できると思ったんだろうか。
 期待っていうのは酷い言葉だ。
 それこそメリットだけ得ようとして本来無いはずのデメリットを勝手に作り出す悪循環。
「ちょっと違うけどね、大元はそんな感じかな」
「いくらなんでも勝手すぎるよ。ボクは何かを生み出すなんてタイプじゃない」
「え」
 さも心外そうな顔を見せ、本当に分からなさそうに、心底不思議な顔で鴫野が問い返す。

「じゃあ何の為に生きてるの?」

      。
 答えが出ない。
「何かしたくて生きてるわけじゃないの? え、じゃあどうして生きてるの?」
 あ。
 これ必殺の言葉だ。
「鴫野はどうしてなんだよ。どうして生きてんだよ」
「決まってるじゃない。わたしは楽しい思いをするためさ」
「そりゃあ漠然としすぎてる。それこそ何だっていいじゃないか」
「最初から大事で難解じゃなきゃ駄目なんて言ってないさね。君が勝手に重く考えてるだけだよ」
 返す刀に二度切られ。

「そんな簡単な事すら満足に言えないんでしょ?」

 あえなく殉死。
「少なくとも今の祝園くんにそれは言えないでしょ。それにわたしは楽しいっていう事がどれだけ残酷かを知ってるもの。だから気付いてないフリしてるだけ」
 ボクはどうして生きているんだろうか。これからどうやって生きていくんだろうか。
 本当の自分を隠して、普通を推し進め、悦に入って他人を見下すだけで、それが何を生み出していたんだろうか。そもそもそれが生きているんだろうか。考える葦だなんて、そんなの人間じゃない。
「よりちゃんはね」
 給水塔から飛び降りて、鴫野はスカートにこびりついている乾燥した吐瀉物と埃と錆びを、いつもの要領で払いのける。
「誰にも見られなかった。感応されなかった。初めは親。兄弟姉妹親戚他人なんかもそうだし、友達知り合いクラスメイト人間生き物、とにかく自分がいない事になってたんだよ」
 まるで。
「イジめられもしないからイジめない。褒められもしないから貶さない。話しかけられないから話せない。いるのかいないのかも自分で分からなくなって、本当に自分が透明人間だなんて思ってたんだって」
 名簿に名前が載らなかった事もあったって言ってた、と鴫野が笑う。
「だからよりちゃんを初めて見たわたしは、この屋上に来てよりちゃんを見つけた祝園くんに期待したんだよ」
 まるで御陵さんはボクの夢のようだった。
 罵詈雑言を積み重ねて作られていた昔のボクが望んでいた姿の具現化。
「それでも生きたかったよりちゃんがやったのはね、自殺未遂」
「自殺?」
「そうそう手首じゃなくて飛び降りの方ね」
「飛び降りって……」
「三回くらいかな。最初の一回目はみんなよりちゃんを見てくれた。みんなが自殺した人間だって、そうやって騒いでくれた。だから二回目も何の躊躇いが無かった」
 淡々とした口調。
「二回目までは軽症ですんだんだけどねー。で、最後の三回目で、頭から落ちちゃったんだ。本当に死にかけて、何ヶ月も入院して、けど、誰も見舞いになんて来なかった」
 わたしもいなかったしねー。
「だからもう死ぬフリは止めたんだって。だからよりちゃんは生きる事にしたの。でもただ生きてるだけじゃ、意味なんて無い。けど自分を見てくれる人だっていない。本当に死ぬしかないって時に、わたしがよりちゃんを見つけたんだよ」
「だから頭触るの、嫌がったのか」
「そこ以外なら何しても喜ぶのにね、不思議」
 だってそれは自分を見てくれているという事だから。自分に感応して、自分という存在が相手の中に住む事を許可されたから。
 死んでも自分が生きていたと証明したい、そういうパラドックスを彼女は抱えていただけなんだ。何の事はない、彼女も一人では生きられなかっただけだ。
「ボクとは違う」
「そりゃそうだよ。この世界に自分がもう一人いたら、その人としか付き合えなくなっちゃう」
 やっと、御陵さんが見えてきた。
 勘違いしていた鴫野の本質にも薄々ながら感付きはじめてる。
「ボクのやり方じゃ、誰も認めない」
「やるだけやれば? 絶叫マシン乗る前から危ないっていうより、乗ってから楽しかったかどうか決めた方がいいじゃんね」
「鴫野、お前は御陵さんに感応するだけでよかった。自分の人生を賭してまで得たかったものを御陵さんに与えたんだから。でも二番煎じになるボクは彼女に何も……」
「それこそ考えすぎだと思うけどね。わたしだって祝園くんに期待していたのははっきりしてなくて、ちょっとよりちゃんがもう少しなんとかなるかなってだけだし」
 鴫野もボクと同じだ。
 人に期待する分、その落胆を知っている。自分よりも、自分が望む行動を人がしない事を知っている。だから気付かないフリをして、自分を守った。
 ボクが御陵さんに出来る事なんていくつもない。
 その中に正解があるのかすらも分からないから、ボクは我武者羅に全てを試すか、もしくはいつか来る正解の享受までを漫然と過ごすしかないのか。
「でもね、ほんとは少しびっくりしてる」
「何が? 御陵さんに見限られた事が?」
「それ含めてね」
 どういう事だろう。
「よりちゃんが誰かにそんな事言うなんて初めてだもの。自分を感応こそしてないものの、知覚してくれた人間に対してそんな事言うなんて」
 不思議とその疑問をボクは解消させる返答を持っている。
「それは、たぶんボクだからだと思うよ」
「どういう事?」
「ボクは人の持つ欠点って奴を持ちすぎてるんだよ。生きる才能はあるけど、生きるのを邪魔する才能が多過ぎてまともに人の目すら見れない」
 普通を気取るボクを、御陵さんが見抜いたとしたら。
 自分より恵まれた状況にあるボクが、そんな稚拙な小事に感けて大切な事を疎かにしている事を看破してしまっていたとすると。
 ボクが嫌われるのは分かりきってる。
「なぁ、鴫野」
「なにさ」
「お前の友達ってあと何人いるんだ」
 下唇に指を当てて、夕方の赤い空を見上げた鴫野が笑う。
「あと二人」
 二人分の地獄を考えて辟易した。同時にそれがどう自分と感応するかを想像して吐き気がする。
 おざなりにさよならを言って非常階段を降りて、もう誰の気配も無くなった二年生の教室前廊下を歩く。廊下に設置された生徒用ロッカーの一つに腰掛け、吸った事も無い煙草を求めていた。
 後味が悪い人工甘味料よりも苦々しい。
 そのまま少し眠ろうと目を閉じた。
 自分が人から愛されるなんて信じない。だから最後にはきっと金色の世界が待ってる。










イロレゼの話

0

 濡れた花弁から出る樹液に蝕まれた丘陵が、樹海を掻き分け染み出る湧き水のように映る。
 ふとした思い付きに無理矢理を詰め込んで、同意の無い空虚な世界に理を信じる。斜になる頃合を策略計らっては挫折し、崇高な意思表示は無為に帰す。かといって妙義に堕するかと注釈された完全なる不完全が、証明される前にその意識を消していく。
 二つの山脈が押し上げるのは拾遺か、はたまた迎合か。考える間も無く腐れ落ちて、そこに何も無かったかのように別々の道を歩く。
 会えば傷を付け合う事もあったけどもう許せない。君がどうかは関係が無い。街でもしも出会っても手を振るだけで擦れ違う。あれほど必要だったのに『×××』の一人になる。
 切磋琢磨や難攻不落などと戯けた境遇に身を窶し、忌避を霏々するが紅蓮の地獄。三寒四温は繰り返さず、七寒で一巻から一貫の終わり。
 菊が咲き、また閉じては艶やかな象徴として回転する。包摂する危機を抑えきれない。しなやかでいて優美な花魁のよう。簪を抜き突貫したその先に、毒を注入しようといきり立つ。
 眺望するだけで満足できるならば。羞恥するだけで感じ取れるならば。
 所望すれども一寸先は闇。海路は東から西へ、北を南を頭にも出さず、衆知した結果を無残にも散らしていく。無価値な感動に飽和した老獪を気取る似非非人。
 記憶を離愁すればするほど、人間としてその尊厳を、矜持を切り取られていく。斬首に等しき愚考。辿り着けば峠を越えて裃に衣替え。拓く縦一文字に何を見たのか、もう憶えているだけ。
 史実が確かならばもう少し踏ん張り所を弁えたものの。
 忌日が夢想ならばもう少し段取りを懐に慮ったものの。
 放出が時に実を結べば、一喜一憂の右往左往。そこにあるのは記号か、はたまた内実か。それを判断できる人間は器に足らず。判断できない人間は轡を噛む。
 遠避けて確保した屍が藪を突き、出でるのは鬼か蛇か。般若にするか食らうか喰らわれるか。無視を携え、墓を参って知らぬ存ぜぬの一点張り。仁の道は人。
 限りなく終わりない。近づいては遠のいていく相対性理論を如実に体験し、切り詰めた滑稽極まる氷魚の行く先が、幸福である夢を願う。
 そこは何処か。
 昇らない太陽に甘んじているだけの、そのボクの背中をボクが見た。
サンゼロの話



1

 二人目を紹介されたのはそれから一週間が過ぎた、春とは思えない暖かさに参っていた放課後だった。
 場所はもはや定位置と化している屋上。クラスメイトの証言で判明したのだが、ここは鴫野の一派が巣食う魔界として有名らしい。鍵もかかっていない絶好のデートスポットに人が来ないのはそういうわけだった。
 と、二人目である。
 あからさまにこっちを睨む三つ編み女子生徒がそうらしい。
「あの」
「あァ!?」
 少し考えてボクは、
「いィ」
 と、返した。
 格好だけ見るとまともだ。その長く、太い三つ編みを垂らしているのが目立つが、制服に改造を施してもいないし、特有の気配も無い。気配というなら後ろから御陵さんと鴫野がわくわくしながら視線を送っているのを感じる。冷や汗を隠し切れないので、暑さのせいにした。袖で額を撫でると、生地の硬さにひりひりした痛みが残る。
 この友人で、目を引くのはその眼光だ。
 まるで鷹。いや虎。見た事は無いが恐竜にすら匹敵する。
 有神田(うかんだ)光月(みつき)とはそういう生徒なのかもしれない。その考えを先読んだのか、鴫野が「生徒会長だよ」と忠告をしてくれた。これが生徒会長ならこの学校はもうそろそろ廃校だ。
 それよりも気になるのは有神田さんの脇に控える眼鏡の男子生徒だ。むしろこっちの方が生徒会長のようなきっちりとした格好で、同じくこっちを睨んでいる。
「これで二人?」
「いんにゃ。きっしーはだみつきの下僕だかんね」
 げぼくとな。
「私市(きさいち)です。よろしくお願いします」
「あ、これはご丁寧に」
 握手まで差し伸べられたので反射的に手を伸ばしたが、こちらの手が届く前に引っ込められる。よくよく見れば差し出した手も左手だ。
 これはやけに好戦的なコンビだな。ボクとはまったくベクトルが違う。
 でもからっとしている。蛇蝎の如き、嫌な湿気を感じさせない。気持ちのいい、こう言うのもなんだが天ぷらのようなカラッっとさがある。
「有神田、さん」
「……ッチ」
「祝園、です。この前、転校してきたんですけど」
「敬語はやめなぁ。タメだ」
「あ、はい、うん。え、タメ?」
 水色の名札を摘む。そこには2年A組の文字。この九隅第九高校ではアルファベットEまでが理系クラスで構成されている。よってこの有神田さんも理系に属するのだろう。ついで私市くんとやらの名札を見たが、当然ながらA組である。
 特待生、と揶揄される事もあるA組。理系でも成績上位が集められた、進学専門のいわばエリートコースである。
「祝園くん、祝園くん」
「なんですか、御陵さん」
 嬉々とした顔で御陵さんも名札を摘んでいる。
 A組。
「……すごいですね」
 いやに疲れる絡みをしてくるようになったな、この人。鴫野といいコンビだが、つい一週間前のVTRをここで上映してやろうかしら。
 ともすれ、今はこの有神田さんだ。
「有神田さんは生徒会長なんですね、二年の初めから生徒会長って異例じゃないですか?」
「いんや、あたしは留年組だからよ、ほんとは三年生」
 一人で色々持ってるなぁ。
「きっしーも留年組なんだよ。二人で仲良く留年したんだよね」
「あぁ、生徒会長が忙しかったからな。学業疎かで示しがつかんから、いっそのこと留年してやろうと思った。じゃけ、正確には二年の半ばからの生徒会長だ」
 御陵さんとは違うタイプだが、会話の糸口の見付からなさは同じだ。こっちからどう接していけばいいのか分からない。また安易に踏み込んで溝を作るのはごめんだ。
 見放されたくない。見捨てられたくない。それは違う。
 見くびられたくないという負けず嫌いな性格が、そこで主張する。
 根底には確固とした自分がある。それは汚泥のように心に絡みつき、動きを阻害して醒めさせる。お前には結局、誰もいないんだよ。お前は一人なんだよ、と囁きかけてくる。
 人との間合いの取り方が分からない。入学前の自分が考えていた、他人との距離をとって生活するなんていう牙城は、進撃に崩された。そもそも自分にまだ人と関係する事を億劫としないだけの暖かみがあったから。
「鴫野、お前にゃあ悪いが、この話は無しだ」
「ん? だみつきは祝園くんが嫌い?」
 急に出てきた自分の名前に驚く。
 さっきまで射抜いていた瞳が、不意に緩む。哀れみ? 慈悲? いや、これはボクもよく知っている。けれど今、この状況にそぐわない色。
「あたしは自分から何かしない奴は嫌いだよ」
 言うなりこちらに背を向ける。私市くんはポケットから取り出した手帳に何かを書き込みつつ、その後を追って歩き出す。非常階段を乱暴に降りる音が鳴り、やがてそれが止む頃にはまたやらかしたのかと後悔が襲ってきた。
 鴫野に何かを言われる前に追いかける。階段から見下ろせば、校舎に入る扉が閉まった。
 急ぎ足で歩を進めると、
「てめぇよぉ」
 と、低い声が聞こえた。
「そんな事しろって俺が言ったのか? 俺が言った事、理解してなかったのか?」
 有神田さんの声じゃない。放課後から少し時間が経った今、校舎に人影も無い。じゃあ誰だ? 声は扉の向こうから聞こえる。息を潜めて粉を吹く金属の冷たさを我慢して耳を当てる。
「……ごめんなさい」
「ごめんごめんって謝るならやれよ。どうして? やるって言ったよな? じゃあどうして約束破れんの?」
 謝る方は女の声。
 その疑問の答えは鈍重な音によって遮られる。何か重くて柔らかいものに衝撃が加わる音。次いで倒れこむ音に、追撃がこだまする。
「謝るなら誰にでも出来るだろーが」
 竦んで動けないボクを置いて、校舎内の状況は更に激化していく。声は呻きに変わり、最後にはその声も聞こえなくなる。攻撃の音が止んで、それっきりもう何も聞こえなくなった。
 自分の頭の中に自分が無くなってしまっていて、無音に急かされ立ち直る。いつの間にか開きっぱなしになっていた瞼を閉じて、扉から耳を離す。
 恐れ。身体の芯を揺さぶる悪寒。
 面倒に巻き込まれたくないだとか、自分が介入する方が解決が遅れるとか、そういう建前は純粋じゃない。ただただ危険に近寄りたくない本能的回避。
 屋上までの道を憶えていない。脇目も振らず、何も考えずに自分の足がそこに戻っていた。
「どうだった?」
 鴫野に聞かれても答えられやしない。
「あ、いや、見付からなくて……。また明日、自分から会ってみるよ」
 はっきりとそう告げて給水塔の傍に置いてあった鞄を持ち上げる。帰るという意思表示なのだが、それを無視して御陵さんの猛追及が始まる。
「祝園くんはだみつきの事、どう思う?」
「いや、まだ何も……。そうですね、御陵さんよりは分かりやすいですね」
「酷い事、言うね」
 嘘だ。
 御陵さんが本当の赤ん坊に見えるくらい、あの二人の関係はシビアで難解だ。もしあの争っていた二人が有神田さんと私市くんならば、何がそこで起こっていたのか。
 現象としての行動はどうでもいい。問題は精神の部分、どうしてそうなったのか。どういう流れで、それはどこから始まっていたのか。
 期待に沿えるように頑張るつもりだ。
 けれど経験値が絶対的に足りないボクには、これにはこれ、それにはそれという具体的な反射的解答を持ち合わせていない。
「鴫野、ちょっと聞きたいんだけどいいかな」
「なんさ」
「あの二人、いつから一緒なの?」
「よりちゃん、いつから?」
「入学式にはもう一緒にいたけどなぁ。その前になるともう分かんないや」
 礼を言って屋上を出る。情報としては不足だが、元よりあの二人の間にある『何か』を見つけるのに、他人からの情報は当てにしていない。意味の無い問いに、孤独に安心しただけだ。
 正門を出て駅に向かい、発射時刻に合わせてホームに到着する。環状電車の次はローカル線に乗り換えて数駅。そこがボクの自宅最寄り駅となっている。中途半端に発展した田舎の風景を、これからは毎日歩きながら眺めなくてはいけない。
 事故療養の為、と親を説得して引っ越してもらったのは正解だった。この辺りは駅周辺にしか娯楽やコンビニ、居酒屋などが無い。少し外れればのどかな住宅街に早変わり。平日の夕方には買い物に行く主婦がいくつか。あとは道路で遊ぶ子供、野良猫くらいだ。
 知り合いもいない。誰もボクを知ってる人間なんていない。近所のおばさん方には挨拶くらいするが、深く名前を知っているわけでもない。ここにはボクを知ってる人間がボクしかいない。
 歩くこと十五分。家は新築の一軒家だ。三階建てで車庫付きの目立つ家。実際、越してきた時には評判になったらしい。
 そのお金の出所を知らずして騒ぐ大人達に、侮蔑と冷笑に似た諦念を覚えた。
 鍵などはかかっていないので、玄関をそのまま開ける。靴から妹が帰宅している事を知る。
「ただいま」
 一階には客室と風呂、トイレがあるだけなので二階のリビングへ。二階はまるごと部屋になっていて、キッチンと大中二つのリビングが繋がっている。面積の半分を占めるテーブルが置かれた大きいリビングの方には、椅子に座った人物がいた。
 妹の美海(みう)がこちらを感じ取って「おかえり」と答えた。電話の途中だったらしく、「いや兄ちゃんが帰ってきてさ」と二つに結んだ髪を指でくるくる回しながら通話に戻った。
 事故前にはこんな当たり前の会話も無かった。顔を見合わせれば舌打ちをされ、萎縮するこちらを尻目に自分の部屋に戻る。そんな関係が長年、続いた。
 三階にいた母親も「おかえり」と声だけで返事をする。もう一度ただいま、と返して階段を上がる。
「あら、早いのね。いつももう少し遅いのに」
「今日は父さんが帰ってくるからさ、だから早めに帰ってご飯の支度でも手伝おうと思って」
「まぁ。それじゃあもう少ししたらね」
 路傍の石を見るようだった目が、今は自慢の息子を褒めている。
 まるで家族のようだった。
 母親も、父親も、妹も。みんな、今やボクが前のようにならない事を心から信じている。いい子になって得をしたと思っているかもしれないし、あの事故で家庭内に活気が戻った事も事実だった。
 見舞いにも来ず、ボクの保険が手に入ると喜んでいた人間とは思えないほど、母親はボクにかまってくれるようになった。仕事の都合で二日に一度しか帰らない父親はもうすぐ一緒に酒が飲めると顔を赤らめていた。ボクをストレス発散のぬいぐるみだと思っていたくせに。
 まるで家族のようだった。
 ボク一人が知っているだけ。過去のボクが作り出した本物よりも、嘘偽りに塗り固められた架空の方が、彼らは幸せなのだった。
 それでいいと思う。幾年と与えてきた不幸を巻き返してあげるのも、悪い気分じゃない。
 けれど彼らは騙されているだけだ。ボクと同じ、運良くデメリットを全て失った。慰謝料や保険などの莫大な収入だけならまだしも、死んでいるのと変わらなかった性質の悪い長男がいい子になったのだから。
 嘘は汚い。正直とは比較にならないほど不誠実で、存在してはならない。でも、嘘を吐かない人間を、ボクは人間だと思えない。
 だから人間なんて信用できない。
 自分の部屋に入り、音がしないように改造した鍵をかける。
 カーペットに埃の一つも落ちていない。掃除してくれているから。
 だからボクは部屋の壁と箪笥の間にある本棚を取り外し、ぽっかり空いた薄汚れた隙間に体を捻じ込ませて、椅子で蓋をする。体育座りで顔を膝にうずめて最後に毛布をかぶる。
 ボクしか知らないボクを守る為に、ボクしか出来ない行為を繰り返す。
「自己犠牲なんかじゃない」
 呟く声は誰も知らない。
 うとうとしてきたので目を閉じる。闇が包んだ。わざと洗わず押し入れに詰め込んである毛布から発される臭いだけが、ボクを落ち着かせている。
 ふと鴫野に会いたいだなんて思ってしまった。
 彼女ならボクを、本当のボクを見てくれるだろうか。馬鹿馬鹿しいとぶん殴ってくれるんだろうか。
 どうにかしてくれ、どうにかなっちゃいそうなんだ。
 涙が零れる。いや違う。それはこの暖かい中に毛布をかぶったせいで流れ出た汗だった。
 まどろみよりも浅い眠りを繰り返し、母親が食卓の準備を始める音で意識を覚醒させる。部屋着に着替えて階下に出向けば、母親が手伝いをしない妹に小言を押し付けていた。
 約束通りに料理を手伝って完成させ、父親が帰ってきたのを迎えて四人の晩餐が始まる。豪華な料理が並んでいる。早速、ビールを片手に父親はそれらをつまみ始めた。
「啓、学校はどうだ? 楽しいか?」
 楽しいわけない。
「楽しいよ、ひとつ年上だけど誰も気にしなくて」
 気にしなくてもいい。
「そうかそうか。ほら、お前ももう高校生なら飲め」
「あなた、高校生はまだお酒、飲めないんですよ」
「はは、そうだったな」
「お父さん、わたしにちょうだいよ!」
「美海! あなたも何を言ってるの!」
 仮初に形作られた活気の絶えない家族。それが全て、ボクの嘘によって作られている。やっぱり嘘は偉大なんだ。嘘を吐くだけで、こんなに幸せが訪れる。
 笑う門に福なんて来ない。そこには何かしらの嘘があるから、幸せはそれを餌に寄ってくる。
「美海、お前の彼氏はどうしたんだ。たしか、悟くんだとか」
「仲良しだよー。悟くん、かわいいから」
「今度、つれてきなさい。挨拶もしたい事だしな」
「やだ、お父さん恐いー」
 幸せはやっぱり幸せなんだ。嘘っていう悪いものを食べて、代わりに幸福という代えがたいものを残していく。
 でもボクを連れ去っていく。代替に甘んじた自分が憎い。聖人ではない事を実感して、その原因を幸せに求める。悪循環を蒸留した濃厚な粘土質の底無し沼。
 生まれた日の歌をもう一度、世界を揺らすような大きな声で伝えるのは、並大抵じゃできない。
「ごちそうさま」
「もういいのか? あんまり食べてないぞ」
 食器を流し台に持っていってリビングの戸を開けたまま呼び止められた声に答える。。
「そう? たくさん食べたつもりなんだけど」
「若い内に食べないと大きくならないぞ」
 笑って誤魔化して、もう暗くなった階段の電気をつけずに登る。それを合図に自分がどんどん真顔になっていくのが分かる。
 部屋に戻って毛布を被り、隙間に埋まって持ち込んだポータブルDVDプレイヤーを起動させ、再生する。
 家族の幸せの代償に失ったパソコンでもっとも使用頻度の高い事柄。
 アニメ。嘘だけで作られている真実の世界。裏や表も無い、自分だけに与えられた幸せの極地。
「人間は面倒なんだよ」
 画面に話しかけても返事は無い。けれど、一方通行の愛情に似た憎悪が、尊敬を騙った嫉妬が、羨望を模した蔑落があった。何よりも自分本位な会話。キャッチボールを地球の裏側でやるが如き愚行。
「こんなに汚い本当のボクを愛してなんかもらえない」
 だから愛されようだなんて思わない。感応してもらうなんて以っての他だ。
 楽しい事と正しい事が違う自分なんかに、幸せを求める権利なんて無い。苦痛を義務に存在だけを許されている。
 足の親指の爪間にこびりついた垢の臭いが好きだ。踝の角皮を刮ぐのも好きだし、固まりかけた瘡蓋を剥がして口の中で転がすのも好き。怪我の治療のせいで無くなってしまったが、臍のごまも好きだった。虫がいれば一本一本足を外して蠢く姿を見たいと思うし、自分が傷つく事を絶対的に避ける癖に他人ならば愉悦だとすら感じる。だから迷惑なんてかけないように今の自分を演じているだけ。
 脂が混じってそれぞれが結合した頭皮のフケを、指で伸ばして広げる。鼻の頭にそれを塗りたくって安堵しながら、鼻の下を伸ばして息を吸う。口の中の薄い皮膚を歯で噛み切って感触を楽しみ、唇の逆向けた部分を形が無くなるまで咀嚼する。画面の中の女の子の指を見て、自分のそれと見比べる。あまりに汚い手だ。生々しくて見てられない。仮想の女の子はニキビを潰して出た膿を弄ぶ事なんてしないし、自分の髪の毛を食べたりもしない。
 倒錯した精神で蒸れた下着内に手を入れると、じっとりした摩擦係数の高い皮膚が手に吸い付く。嗚咽を繰り返しながら自分を慰める夢の時間は、無防備な事を知っている。
 手に付いた粘液を見つめ、嘆息する。自分がどれだけ矮小で馬鹿らしいかを再確認する。どんなに高みに行ったって、この喪失感だけは拭えない。まともな思考能力が一気に戻ってきて、残るのは自己嫌悪と脳内補完。
 ウェットティッシュを探そうとして、勉強机の上に置きっぱなしになっていた携帯電話が不在着信を点滅させている事を知った。
 着信履歴に残された発信者名は“鴫野”。
 留守番電話を聞いてボクは部屋着のまま上着だけをひったくって部屋を飛び出した。



2

“よりちゃんとだみつきちゃんがめんどっちー事になったから今から来れる?”
 めんどっちー事とは何かなんて野暮な質問はせず、ボクは謎の使命感に突き動かされて学校の屋上にいた。数時間前とはまったく違う情景に多少の動揺を覚えるも、すぐに取り直す。
 屋上には既に鴫野と御陵さん、有神田さんがいた。
 だがその三人を見ても状況は分からない。
「おい、鴫野」
「なんだよバザールでゴザール」
「状況を説明してくれ」
 暗くて何も見えないかと思いきや、屋上に設置された心許ない電灯が意外な効力を発揮して目視に困る事は無かった。そのせいかもしれないが、余計に事態が混乱して脳に入ってくる。
 まず御陵さんだ。縄張り争いの最中に連れてこられた猫のように髪を逆立てて血管が浮いた目を剥いている。威嚇しながら息を荒げ、クラウチングスタートのポーズでずっと一点を見つめている。
 そして見つめる先には有神田さんが正座していた。顔中を腫れ上がらせていて、ボクから見て左、片方の瞼が青黒く着色されている。恐らく見えていない右目を含めて、両目が宙を泳いでいた。制服もボロボロで裂けたスカートから太ももが露出しているが、今はそんなところどうでもいい。
「よりちゃんがね、だみつきにブチギレた」
「なんでまた」
「そこらへんは当人に聞いてちょ。わたしも家の部屋にいたかんね」
 大よそ予測がつかない。あんなにおとなしい、もしくは無垢な御陵さんが怒るなんて。それも尋常じゃない。
 近寄ろうにもどちらから話を聞くか一瞬、迷った。加害者であろう御陵さんは冷静じゃないのが見て取れるし、被害者であろう有神田さんは夕方に嫌われたばかりだ。
「鴫野」
 右にいた鴫野の肩に手を置こうとすると、鴫野が無言で睨んだ。気圧されたので、手を下ろして懇願の目線を送る。
 応えは。
「自分で聞け」
 ふぅ、仕方ないか。
息を吸う。気合を入れなおしてまずは御陵さんを落ち着かせようと声をかけた。
「御陵さん」
「シャァ!」
「ひぃ」
 ダメだ。まともじゃない。目が完全に狩人になってる。殺気を纏って誰彼構わず夕方の語源ってなもんだ。どうした混乱してんのかボク。
 そもそもどうしてボクが仲介なんてしなければいけないんだ。こういうのはもっと冷静で二人を良く知る人物が適任なんじゃないのか。拗れるのも巻き込まれるのも御免だぞ。
「そういえば私市くんは? 適任だと思うんだけど」
「さぁ? まだ家じゃない? わたしもきっしーから聞いたからさ」
 鴫野の話では、私市くんは有神田さんに何かがあればすぐに連絡が来るように手配しているらしい。どこまでも有能な補佐で感心したが、それなら未然に防いでほしかった。
 そうなるといよいよ有神田さんに何とか話をしなければいけない。当事者で、ボクが嫌われているという難問に目を瞑れば会話は出来そうだ。
「その、有神田さん」
「……」
 無言。肯定も拒否も無い。
「どうしてこうなったんですか?」
「……それは     」
 その重い口が開かれようとしたその時。

「喋んなぁッ!」

 怒号が空気を切り裂いてボクの動きを、そして有神田さんの口を止める。発したのは紛れも無く御陵さんであり、あまりの迫力に身動きが取れない。
 立ち上がって有神田さんを見下ろす彼女の目が、狼に似ている。瞳孔が細くなった昼間の猫のようでもある。
「     お前が、喋んな!」
 咆哮恫喝畏怖萎縮。念が込められた轟音にたじろぐ。
 どうしたんだ。いったい、この二人に何があった。
「よりちゃん」
 そんな御陵さんを鴫野が後ろから抱きしめた。背の低い鴫野は、御陵さんの背中の真ん中あたりに顔を埋めて優しく囁く。
「分かってるよ、分かってる。よりちゃんの言いたい事は分かる」
 分かる、と。鴫野はそう言った。
 ボクは反射的に声を出しそうになってやっと飲み込む。
「     ゆいちゃぁん」
「泣かない」
 涙声の御陵さんが崩れ落ちる。緊張の糸をプツリと切ったように、腰から力が抜けていく。へなへなと地面にぶつかりそうだった身体を、鴫野が支えながらゆっくりと座らせた。泣くなと言われてすぐに出かけた涙が止まるわけもなく、鴫野の胸に顔を隠して静かに泣く。
 ボクは動けないフリをしていた。
 叫びたかった。この世に他人を分かる人間なんていない。正答率十割で固定された嘘発見器が無い限り、どうしてもそこに空白と疑念が付きまとって離れない。
 なのに鴫野の『分かる』には説得力があった。だから御陵さんは鴫野に心を開いているし、ボクの堅固な心に入り込めたりもしたんだろう。
 抱き合う二人に、言葉を中断された有神田さんが言い放つ。
「あたしが悪かったよ、御陵」
 素直に自分の非を認める。何も理解していないボクには解決したのかそれとも中途なのかすらも分からない。
「だみつきちゃん、もう大丈夫?」
 鴫野が聞く。
「あぁ」
 答える有神田さん。
 置いてけぼりなボクだけが眼球だけをぐるぐるさせて必死についていこうともがき続けた。
「よりちゃんも、大丈夫?」
 今度は御陵さんだ。
「うん、うん」
 たった三人で行われた解決劇に出る幕も無いボクは、カーテンコールフリーズを願い出るしかない。そもそもボクを呼び出した意味は? 何も出来ないって事はとうに分かっているはずなのに。またしても期待したんだろうか。それとも当て馬にでもしようとしたか。
 そんな独白はどこ吹く風で、二人と一人を見ていると、第三者が屋上に到着した。
「おいそこ。こんな夜に学校で何やってんだ」
 すわ警備員か日直の教師か。身を固めたボクと対照に、鴫野は嬉しそうにその人物に笑いかけた。
「わおん先生じゃん。どしたーの」
「どうしたもこうしたも無いっつーの。鴫野、学校には夜入るな。居座るな」
 めんどくさそうに顔をしかめるわおん先生とやらは、まだボクが見た事の無い教師だった。禁煙パイポを咥えた白衣の佳人、とでも評そうか。野暮ったい雰囲気ではあるが、意思の強そうな瞳。
 ボクが苦手な瞳。
 鴫野が立ち上がって珍入者のもとまで走り寄る。
「それとその名前で呼ぶな。何回言ったら分かるんだ、お前は」
「つってもわおん先生はわおん先生じゃんね。あ、そうそう紹介すんね。あっこでぼさっと突っ立って居場所無さそうなの」
「新顔だな」
「そうそう。祝園くんっつーの。ほら転入生」
 それで合点がいったとばかりに手を打つ。
「あー、お前が。それならおざなりにはできねーな。どうもこれからよろしく。鴫野の友達だ」
 まさかの番狂わせ。その教師は生徒と友達だと名乗った。それもどこか誇らしげに。
「数学? 数学だっけ、わおん先生。たぶん数学の先生だったと思うんだけどなー」
「数学は片手間だよ。本職は物理と科学だ。教鞭は化学だけど。理系ならお目にかかる事もあんだろーよ。だいたいは化学準備室とかにいっから」
 いきなり大量の情報が入ってきて頭が働かないが、この人は鴫野の友達という事らしいというのは分かった。この話の噛み合わなさがそれを証明してる。
「あの」
「なんだ祝園少年」
「失礼ですが名前とかを先に教えてもらえると」
 すると鴫野が会話に割って入った。
「わおん先生は墨染(すみぞめ)ってんの。下はうる     」
 と、その鴫野の頭を容赦無く重いチョップが襲った。
「下の名前は言うなっつーの。これも何回言ってんだ」
「いいじゃんよー」
 じゃれる二人は置いといて、視線を後ろに戻す。どうやら本当に諍いは収まったようで、御陵さんと有神田さんは互いに頭を下げていた。ボクが安心する筋合いでも無いが、ひとまず終戦は滞りないようだ。
 で、目下の事件はシフトチェンジしてこの墨染先生になるわけだが、ボクとしてはあまり教師に良い印象は無い。体面や世間体や保身を考えるだけでボクに何の救いの手も差し伸べなかった愚鈍な大人の象徴。
 彼らの悪は、それを隠すからだ。それも生きる上での障害なのだからしょうがないのは分かる。けれど、子供はそれを見ている。理解している人間だっている。
 だから教師は嫌いだ。現実をまざまざと見せ付けられる二番目に近い大人。
「お、その顔はどうも教師に楯突くタイプだね」
 墨染先生はそう言って距離を縮めた。足音が聞こえないのは、磨り減ったサンダルのせいだ。よく履き込まれていて靴底もほとんど無い。雰囲気にもマッチしていてボクはどことなく親近感を覚える。
 顔前まで来ると、コーヒーの強烈な臭気が鼻をついた。好奇心旺盛な眼差しはらんらんと輝いて、いかにも適当に後ろで結んだ赤茶けた色のソバージュが靡く。
「嫌いじゃないねぇ、嫌いじゃないけどさぁ」
「なん、ですか。そんな事、ないです」
「いいやぁ、見れば分かるよ。それとも何かい? 教師どころか人も信用してないってか?」
 それなら先生にゃあ解決できないね。
「ま、いずれ分かるだろうからさ、人に何言われたってその性根じゃ何も効かないよ。分かるまでしばらく待ちな」
 ずけずけと。彼女はボクの心の中に土足で入ってきて。
 ぬけぬけと、彼女はボクの心の中を土足で踏み荒らし。
 上る血の気も失せたまま、墨染先生が顔を離す。その後ろで鴫野が落ち着かなさそうにこっちを様子見してるから、そっちまでは今の会話が聞こえてないらしい。
 図星なんかじゃない。ただ闇雲に反抗するほど、ボクは不真面目じゃないってだけだ。
「あ、いつもの馬鹿共にあいつがいねーな。鴫野、目付きの悪いクソメガネ」
「きっしー? ならまだ家だともーよ。しばらくしてから行くって言ってた」
「ならちょうどいいや。あいつに連絡してもう来んなっつっとけ。運良かったな、他の先生なら反省文ものなんだからよ」
 まだぶーたれてる鴫野は、それでも携帯電話を取り出して私市くんに電話しはじめた。しかし出ないらしく、
「来るまで許可してよーぅ」
 駄々をこねる。
「あー?」
 難色を示す墨染先生だったが、条件付きでもう一時間の滞在許可をしてくれた。
 それは屋上に残る人数が二人である事。他の人間は校内から立ち去る事。そして物音を立てず、一時間は静かにしておく事。そして帰る前に墨染先生のいる化学準備室に帰りの挨拶をしにくる事。
 残る人間の一人は有神田さんで文句無しだった。問題はあとの一人である。
 御陵さんを置いていってまた何かあれば面倒だし、残るは鴫野とボク。丁重に、しかし頑固に辞退を申し出たが、肝心の有神田さんからの願いでボクが残る事になった。考えてみれば御陵さんのアフターフォローが出来るのもまた、鴫野のみなのだから。
 だが不思議だ。あんなにボクを嫌悪したはずなのに、どうしてボクを推薦したんだろうか。
 数分して、屋上にはボクと有神田さんの二人が取り残される事になった。
「その、有神田さん」
 昼間は暖かかったが、その反動で夜になるほど気温は下がっていった。そして有神田さんは穴だらけ裂けまくりのかなりスルーな制服事情だったので、ボクが羽織ってきたダウンジャケットを手渡すところから会話を試みようとボクは声をかける。
「寒くないですか?」
「……」
 無視ですよ。
 仕方なくいつでも着られるようにと脱いだジャケットを有神田さんの脇に置いて、ボクは有神田さんの前に段ボール敷いた。その上に座る。
「おい、祝園」
 有神田さんがやっと口を開いたのは、鴫野から「駅前のミスドにいるよ、ミスリルメイルドラゴン」という謎の電話を受け取った後だった。
 何が飛び出すのかと若干の心構えをしたが、出てきたのは、
「お前が着ろ。あたしは寒くない」
 という控え目な不承知だった。拍子抜けしたものの、この機会を逃してなるものかと追撃をかける。
「いえ、いいです。有神田さんが着てください。そういえば、今日の喧嘩の原因はなんだったんですか?」
 正直、返事してくれるとは思ってなかったが、意外にも有神田さんは「優しいな」と微笑んでボクのジャケットを羽織ってくれた。
「ん、なんか変に臭いけど暖かいな」
「余計ですよ、それは」
「どっかで嗅いだ事がある気がする。街路樹とかで……、銀杏の匂いかな?」
 あの事故からこっち、一日たりとも風呂は欠かしてないはずなんだけど。そういえば昨今の女性はなんであんないい匂いがするんだろう。それに比べればかすかにも程がある洗剤の匂いしかしないボクの服は、違和感があるのかもしれない。
 着込んだ有神田さんを見ていると、やがてぽつりぽつりと先輩は語り始めた。
「祝園、夕方は失礼な事を言ったと思ってる」
「いえ、そこまで気にしてませんよ」
 慣れてますから、とは言わなかった。
「出来れば、驚かずに効いてほしい。あたしは弱い。腕っぷしとか勝負とかじゃなくて、本当の意味で、あたしはすごく弱い」
 独白に、言葉を挟めない。
「自分じゃ何も出来やしない。一人じゃ何も。いつも私市が助けてくれたり、鴫野が見守ってくれたり、御陵が励ましてくれたり、墨染先生が押してくれるだけで、あたしには何も無いんだ」
「それは     」
「違う、と言うのは分かる。そういう風に見られないように見せてるからな。でもお前も鴫野と関わるなら、教えてもいい。あたしは一番、弱い」
 それは間違いだ。
 一番、弱い枠は満員。決定的に確保されてる。
「叱ってもらえないと不安だ。褒められると寒気がする。認められれば虫唾が走るし、感応されれば冷や汗が出る。どうしようもない、ただのそこらにいる奴と何も変わらない」
「でも有神田さんはボクからすればすごく強いですよ」
 周りを敵に回す胆力があるだけ、何もしないボクよりも遥かに。
「祝園、喧嘩の原因はあたしが出しゃばったからだよ。御陵に、あろう事か、このあたしが、何もできないこのあたしが、忠告なんてものをしたからだ」
 声すら消えそうな夜の屋上で、有神田さんは顔を手で覆う。
「なぁ、お前もそう思うだろ? 自分より下の、足元にすら見えない小さい小さいゴミが、自分に向かって忠告してくれば、お前も良い気分じゃないだろ?」
 答えられない。
「御陵が怒るのは、分かる。すごい、分かる。言ってしまった後だから後悔しか出来ないけど、まだ後悔が出来る自分がいる。それだけ、今日の揉め事の根本はそこだけだよ」
 問いかける。誰に? 自分にだ。
 確かに有神田さんの言う通り、もし有神田さんがみんなより遥かに下の立場で、今日の夕方のように私市くんに殴られ蹴られて過ごしている状況に甘んじているならば、そうなってもおかしくない。
 けれど、違う。
 まだたったのいくらかしか過ごしてないけど、鴫野と御陵さんはそんな人じゃない。
「有神田さん、違います。有神田さんが何を言ったのかなんて、そこは問題じゃないっていうのは分かります。けれど、鴫野や御陵さんがそんな人じゃない」
「……」
「少なくともボクはそう思いますよ」
「……何が」
「だって鴫野も御陵さんも、やっぱり善い人だからです」
「……」
「確信が持てない、本当かどうかなんて誰にも分からないのに、そういう事を言うのはすっごく悪い     」

 偉そうに能書きを垂れて。
 自分の説法に、ふと自分が殴られる。

 あ、そうか。
「     だからだ」
「……?」
「だから鴫野はあんなに怒ったし、御陵さんは自分を見失ったんだ」
 あの日、鴫野がボクに失望したのは、御陵さんに見限られたのは、全てが全てそこが元凶だったんだ。ボクが何も知らず、何も分からないままに、それでも人と感応なんてしようとしたから。
 『感応』は、そんな生半可なものじゃない。
 それこそ人生至上の罪だ。
 知らないは罪でも無い。無知は凶じゃない。
 でも知らないで、分からないで行動して人と感応するのは。
 絶対的な悪だ。
「有神田さん」
「……なんだ」
「その、こんな事、言われるとすっごく変に思うかもしれないですけど」
「だからなんだ」
 やっとボクは『感応』しよう。
 感謝と、そして自分にしか分からない、自分だけの世界で。
「あの、ありがとうございます」
「……はぁ?」
「有神田さんは何もできないなんてもんじゃない。すごい人です。本当にすごい人だ」
 自分でも意識せずに立ち上がっていた。物音を立てるなという条件も忘れて、声高々に宣言する。
「     だってボクに『生きる』っていう事がどんなに難しいかを教えてくれたんですよ!」
 なんだこの胸の熱さは。未だかつてない軒昂は。
 理解に理解を重ねたつもりだった。自分だけで自分だけの世界を作り上げたつもりだった。
 けれど違う。そんなのは誰からも嫌われないヒーローなんかじゃない。
「だから、ありがとうございます。それしか、ボクには言えないんですよ」
 感極まって有神田さんの肩を掴んでしまい、慌てて離れる。もしこれが、と考えると何も出来なくなる。生きるっていうのは、何もかもが怖くて出来なくなる事。そしてそこから何が出来るかを見つける事。
「す、すいません。でもよかった」
 また立ち上がって、空を見上げる。
「これが『生きる』ってことなん     」

「どいてもらえません?」

 有頂天なボクを、軽く押しのける存在がそこに現れた。
「あ     ?」
 よろけて危うい平衡のボクを尻目に、その人物はつかつかと有神田さんに近付いて、正座していた彼女の顔面を真横から蹴飛ばす。
 頭が破裂したかと思った。でも彼女はすぐに正座のまま前を見据え、鼻血を垂らしながらも目の光を揺らがせない。
「で、何。何何何。なんなのいったい。よっくもまぁここまで面倒起こせるな」
 二度、三度。上等そうな靴底が、有神田さんの顔に蹴り込まれる。その度に膝に置いた指が跳ね上がり、痛みと衝撃を物語っていた。
 私市くんは、息も上げずに、夕方に見せた涼しい表情のまま蹴りを放ち続ける。
「勘弁してほしいの。ほんと、これほんとね。いつまで俺がお前をお守りしなくちゃなんないの?」
「ごめ、ん、な、さい」
「だーかーら。謝るなら誰でもできるでしょ? 再発しないように後悔して反省すんのが人間だって」
 やっと攻撃が収まった頃には、有神田さんの顔は泥と血と足跡で埋め尽くされていた。御陵さんが加えただろう傷は上書きされ、掻き消されていく。
 恐怖よりも速い電撃のような感情が、身体を突き抜ける。
「何……、何して、してん、んだよぉ!」
 腰を曲げてこちらを下から睨む顔を、怖いとも恐いとも思わず、ただそのまま睨み返す。
「何って、何と言いますか。躾? いや教育、ですかね」
「そうじゃねぇよ!」
 悪びれる風も無い。もうまともに何も見えない、ブレた真っ赤な火が弾ける。
 殴りかかっていた。
 自分の拳を見て、それをやっと確認する。スピードに乗った自分の身体が、もう戻りはしない。殴りぬけようと決めた精神が、もう戻りはしない。
 目の前なのか遠いのかも分からない目標に向かって、人生で初めて殴る拳が一直線に飛んでいく。
「     祝園ォ!」
 その前に躍り出たのは長い足。
 まっすぐに伸びた有神田さんのハイキックが顔の前で止まって、そのふくらはぎの部分に鼻っつらを強かに打ちつける。跳ね返って尻餅をつくが、凹んだと錯覚するほどに痛い鼻梁を触って前を見直す。
 蹴り上げられた直線に近い綺麗な足が、そのままの状態で。遅れて太もものスカートが重力に負ける。どうやってあの座った状態からボクより早く動けたのかは分からないが、現況としての行動がここにある。
「う、有神田さん」
 ゆっくりと足が下りる。その向こうには面白くも無さそうに眼鏡の位置を戻す無表情がある。
「どう、して」
「お前、さっき自分で言ってたろ。何も分からずに、知らずに行動するのは、『感応』するのは悪だって」
 口の中まで腫れているんだろう、喋りにくそうに、それでも言葉が出てくる。
「それとおんなじ。私市は、周りから見れば悪だが、『感応』し合ったあたしへは正しい」
 分からなかった。
 どういう事なんだ、これは。
「守ろうとした事は、感謝する。でもそのいわゆる正しいとされる事が、誰にとって正しいのかを考えてほしい」
 それからはもうほとんど憶えていない。
 三人とも無言のままで化学準備室まで行って帰宅を報告し、校門から出たところでボクと二人は逆方向を向く。別れ際に友好の印だろうか、有神田さんが電話番号を書いた紙をボクに渡した。
 しばらく、動かなかった。立ち止まっていた。
 そうしていても仕方ないと駅に向かう歩に行き着いて、そこからはただ繰り返した。右足を前に出して体重をかけて、左足を地面から離して前に出す。その爪先をずっと見ていると、最寄の駅まではすぐだった。
 指定されていたドーナツ店に入るとすぐに甲高い二人の声が聞こえた。
 席に案内されて業務用のお手拭をしつこく何枚も渡される。鴫野にミルクティーをストローで鼻に噴射されたり、御陵さんにやたらとモチモチするドーナツを口に詰め込まれたりしていたが、自分が何をしているのかがよく掴めない。夢中夢のような感覚で、足が地面を踏んでない気すらする。
 暖かい店内のはずなのにやけに寒気がすると思ったら、ダウンジャケットを返してもらっていなかった。そんなどうでもいい事ばかりがリフレインしていく。
 その中でやっと掴んだ藁を、ボクは手放したくなくて。
 震える唇とはっきりしない頭で、ボクは御陵さんにこう言った。
「御陵さん、ごめんなさい」
 何が、とも何を、とも聞かずに御陵さんは笑った。その笑顔がいつもの赤子のような微笑ではなく、突き抜けた天使のように見えたのは、ロマンチシズムに彩られたボクの思い違いだろうか。
 時計を気にするまでもなく、そろそろ遅いからと鴫野が促して店を出た。鴫野は歩き、御陵さんはバスらしい。ボクだけが電車で、人の少なくなった環状線と鈍行を乗り継いで家まで帰ってくる。
「啓、こんな時間まで何してたの? あんまり心配させないで」
 母親がそう叱り、いいじゃないかと父親が止める。妹がそれを見て笑いながらメールを打って、ボクは謝るフリをして自分の部屋へ帰る。
 出た時のまま、部屋の隅の隙間と乱暴に椅子にかけられた毛布が、暗い部屋でボクを待っていた。抵抗する素振りもせずに、吸い込まれていく。
 床に残って乾燥してしまった体液も気にせず、潜り込んだ暗闇。息を吸う度に香るミルクティーと埃の中で、ボクは目を閉じた。
 そう言えば御陵さんは許してくれたかな。
 気になって眠れそうにないな。
 疑念と想像を滾らせながら     ボクは胃液を噛み殺し、落ちていった。






ロゼイレの話

0

 時として人を襲う暴風雨。それを頑固一徹でもなく、全てを万全に乗り切れる生物がいる。
 どこの世界においてそんな生物が存在しえるのか。それを突き詰めていくと、不思議な国へ迷い込んだアリス以外の全てが感じた異相感を我が身を以って尊ぶ事になる。自分が立っている場所が少しズレた地軸であり、現実はコンプレッサーやミュートではなくディレイとリバーブの混合現象だと理解できる。
 さもありなん、この世に幾千億と兆が少しの時間が生まれ、無限連綿なる愛と友情と努力の物語。いずれそれらが一つになって自分としてここに立っているという事。人類がみな兄弟ではなく、一つの生き物としての集合体であると誤認の誤審。
 危機一髪、そこから抜け出ていたとしても後の祭り。やがて訪れるであろう本祭を待たずして割腹した道から外れる事も余所見をする事も許されず、自分勝手に走り回ろうものなら賽の鬼がよいこらと重い腰を尻軽にして襲ってくる。周囲にはもはや助けもおらず、頼れるのは見下ろす足元から伸びる唯一だけ。
 感じない程に鈍感であれば。こんな思いもせずに人生をそれなりで謳歌し、自分さえ見つけられない程に無欲ならば。人を押しのけてまでやりたい事をせずに済み、幸せと不幸に明確な区別をつけられない程に不断だったならば。どうして生きていくかも迷わなかったのに。
 気付いてしまった不幸と幸せ。気付かなかった幸せと不幸。
 そのどちらがいいかなんていうのは極論でしか話せないし、筆舌に尽くそうにもニュアンスで物語ってしまう分類になってしまう。
 知った人間は知らない人間には戻れない。知らない人間は知った人間に這い上がれない。
 感性にまで口を出す流儀は良好なまでに善良な一個人を冒涜する間も無く腐り落ちて、見て見ぬ様まで見様見真似で言語道断な腐敗堕落に臥す。
 天邪鬼に見ざる言わざる着飾るのを聞かざる子音を詰め込んで、母体と分母を因数分解して虚数空間に放り込む意味の無い羅列。
 腐りきった何かに裁きを。大岡なんかでは物足りない。どうせなら僧の中で行われるダモクレスの剣を葬儀屋の前で開催する。まさにオッカムの剃刀だ。
 ともすれば発見すらされない意識の根底に潜む仮想と現実と思い込みと勘違い。それらを秘に中て瑞を薫り、草花と自分以外の全てに後悔と反省を。
 さよならユニバース。間違ったまま、ボクは行く。
ヨンゼロの話



1

 いつものように屋上でだべっていると、口に咥えたチュッパチャップスを飛行機の操縦バーに見立てて遊んでいた鴫野が突然、こんな事を言い出した。
「祝園くん、飯食いにいこーよ」
 甘ったるいイチゴミルクの匂いを撒き散らしながら、小柄な身体を精一杯に大きく見せてそんな提案をした同級生に、ボクは満更でもなく了解の返事をした。
 そういえばこうしてぐだぐだとしている内にもう夕方近く。生憎、あの日から有神田さんと私市くんは屋上に来なかったので余計なトラブルと齟齬を背負い込まずに済んだが、いつまでもこのままというわけにもいかないな。
 それは置いておこう。今は鴫野とご飯を食べに行くという話だ。
「あー、鴫野。悪いがこの前のドーナツとか、そういうオシャレなところは嫌なんだ」
「ふーん」
 どうでもよさそうに教科書の入っていない鞄を給水塔の上に放り投げながら鴫野が相槌を打つ。
「なんか恥ずかしくなるんだよ。だからそういうところ以外がいいんだけど」
 危なげに歩く鴫野を見て、口に咥えたプラスチックの管が喉に刺さる妄想を浮かべる。心配になったのでよく切れる鋏で切ってあげた。これで飴玉と同じ。
「ちょっち。これじゃあチュッパチャップスの意味ねーじゃん」
「いいんだよ。こんにゃくすら危ない世の中なんだから」
 ぶーたれてもしょうがない。そのまま放置するとストレスに繋がるからな。
 珍しく、今日は御陵さんがいない。放課後まで残ってA組は補習だそうで、進学ゾーンに巻き込まれて愛しい先輩はカリカリと炭を消費しているわけだ。
「ま、これから行くのはオシャレなんぞミリ単位な定食屋だかんさ」
「そうか? なら安心だ」
 親に夜御飯を遠慮するメールを打ち、鞄を持ち上げるのと鴫野が下から顔を覗き込んでくるのはほぼ同時だった。
「……なんだよ」
 丸い目をさらにくりくりとさせて、棒の無くなった飴をころころさせている。
「……おい」
「いんにゃー。祝園くん、なんか気にしてる事、あんでしょ」
「無いよ」
「いーや、あるね。アルカポネ」
「無いって」
「アルカトラズレディオスター」
「お、乗ってんな。無いってば」
「無いなら無いでナイジェリア。映画の作製数世界二位」
 そこまで深く聞く気も無かったのか、手ぶらで非常階段まで向かっていく後姿を見送って息を一つ。
 実は、ある。
 話は今日の昼休みに遡る。
 相も変わらずサボり続ける鴫野を心配しつつ、四時限目の授業が終わろうとした時の事。
「祝園、祝園啓はちょっと職員室へ」
 担任教師でもある社会科教師に呼び出され、空腹のまま連行される。着いたのは職員室。もう冬服だと汗ばむほどの陽気なのに、まだ全力でガスストーブを焚き続ける根性は賞賛に値するが、何せボクは空腹だ。早く学食なり購買なりに行きたい。
「何ですか」
 話を早く終わらせたい一心で会話を切り出す。片付いていない机の上に授業資料を乱暴に叩きつけ、担任は言いにくそうに、
「祝園、お前……、最近だな、やたらと鴫野と仲が良いんだってな」
「そうでもないです」
「そうか? ならいいんだが」
 この手の話はもうミニに蛸だ。いや、耳にタコである。クラスにいる人間だかロボットだか分からない生き物も、口を揃えてそれを口にする。痛い進言を繰り返されるボクの身にもなってほしい。
 曰く、鴫野に騙されて何か悪い事をさせられてるんじゃないか。
 曰く、近寄ると変な目で見られるからやめといた方がいいよ。
 曰く、転校生の隙に付け入るなんてまったく卑怯な奴だよ。
 他にも異口同意に様々な方向性をもってボクの心配をしてくれるありがたい能無しについて、そろそろ具体的な返しが必要な時期だ。
 ボクは君達とも鴫野ともうまくやっていくつもりだ。けれど、そんな強硬な態度で反感を買うのも馬鹿らしい。今まで通り、そちらはそちらで。こちらはこちらで。ボクはどちらにもいる。それでいいはずなのに。
「付き合うな、とは言わん。だが程度を弁えてくれ。もしくは人を選べ」
 どうしてだろう。
 どうして鴫野の魅力に気付かないんだろう。
 あれだけ感応に長けた人物もいないのに。
「そう、ですね。気をつけてみます」
「君はまだ転校生だから知らないだろうけど、鴫野は普通じゃない。怪我をしたくなければ深く関わるな」
 礼をして外に出ると、ちょうど食堂に向かうクラスの男子数人と出会う。彼らもどうして呼び出されたかの理由を聞いた後、溜息と教師への同意を表すのだった。
 それからまた数時間が去り、いつものように鴫野は教室に現れず、帰りの用意をして屋上へ向かう。その道すがら、考えていた。
 鴫野唯一とは、確かに普通ではない。
 あれほどまでに自分を、そして他人を見据えている人間に会った事が無い。迷惑や責任も何処吹く風で、それでもきっちりと自分の分別を弁えて行動する。
 彼女が必要無いならそれでいい。煙たがるのも勝手だ。でもそれは本当に幸せなんだろうか。彼らは知らないだけなのだ。
 鴫野にとって彼らはいないのと同じなんだから。
 自分の人生に何の影響も残していかない、ゴミ箱の底の髪の毛よりも小さい小さい存在。
 だから彼らの事を鴫野は口にした事も無い。ボクだってそうだ。殊更に彼らを話題にする事が無い。それは話題にすらならない程度の影響しか、与えてこないから。
 だから感応したボクに対して鴫野は答えた。
 言わば鴫野に選ばれたのだ。
 そんな選民意識を持ちながら、少し自分の意気が興奮するのを自覚し、屋上に出た。だが、そんな下らない陶酔なんて微塵も残させない鴫野の「今日はリアル人生ゲームしようぜ」攻撃に屈す。
そして数時間が過ぎてボク達は校門を出た。部活動者の帰る時間でもなく、一般生徒が学校に残っている時間でもない中途半端な夕焼けの道には、ボクと鴫野しか学生がいなかった。
      はっ、とした。
 これはデートと言わないか。
「し、しぎし、しぎしぎししぎ」
「うーん? まぁ四、五分ってとこ」
 あぁ。この世が思っただけで相手に伝わるのなら、本当に善良な人間だけが幸せになれるのに。
 歯がゆい気持ちを抑えて、それでも誇りを捨てずに車道側を歩く。赤茶色と白色の煉瓦が市松模様に組み込まれた歩道の隣は、ガードレールも無くすぐに二車線の道路だ。広いわけではない歩道に横並びするのは気が進まないが、今は男の意地を優先させてもらおう。
「祝園くん、後ろ。チャリ」
「え、あ。す、すいません」
 並んで歩くなよ、と小声で文句を言って通り過ぎる中年サラリーマンの背中が近い内に、鴫野は目的地で足を止めた。
 見れば見るほどにボロい定食屋の前。道路と面しているはずなのに駐車場と脇道が無い故に売れてないらしい。手書きされたメニューを見ていると『カギフライ定食』や『うな重(七味付き)』なんていう期待を削いでくれる文字が並ぶ。
「ここ」
「あ、うん」
 割れたガラスをガムテープで補修している扉を開ける。昔懐かしいガラガラ音と、濃厚な鰹出汁の香りがボクを歓迎した。
 いらっしゃいもない店内では、おばちゃんが面白くもなさそうにテレビを眺めている。
「座敷、よろしく」
「あいよ」
 いかにも酒に焼けた声で返事を返したパーマで割烹着のおばさんを横に、奥まで歩く。二畳ほどの座敷席が二つ並んでいて、片方にはステテコ姿のおじいさんが顔を赤くして寝ていた。
 靴を脱いで足を下ろす。ボクの感覚が正常なら、この畳は腐っている。靴下を通して水気が入ってきそうだ。
「親子丼。大盛り二つ。味濃いめで」
「あいよ」
 鴫野が目で確認してくるが、ボクがメニューを選ぶ前におばさんが返事をしてしまった。ここはしょうがない。勝手を知ってる鴫野に任せよう。卵アレルギーでもないし。
 待ってる間、やけに光っている机に二重三重と布巾をかけて、セルフサービスの水を飲む。
「ここ、すんげーうまいの」
「これでまずかったら詐欺だと思う」
 先に運ばれてきた御新香をぽりぽりつまみながら、鼓動の消えた心臓で冷静に頭を働かせる。どうして鴫野が突然、ボクを御飯に誘うのか。その理由を。
 最初はただ単にお腹が空いて、たまたまそこにいたボクを誘ったのかと考えたが、違う。いつもの鴫野と違って、何処か、静かだ。
 そういえば、二人っていうのが始業式の翌日以来か。
「鴫野、どうしたんだよ。急に御飯だなんて」
 座布団の位置を直し、鴫野を見る。目線に揺れる髪の毛の奥から、彼女はボクを見返す。
「話があってさ、あんまり人がいないとこで」
 浮かれ気分だ。自覚して更に顔を赤くしていく。愛の告白とか、結婚の申し出とかそんなチャチなもんじゃ断じて無い。もっと崇高なものの片鱗を味わった。
 今か今かと一声目を待つが、言いにくそうにとんとん指で机を叩く鴫野に、助け船ではないが、こちらから話かけてみる。
「今日は静かだ。鴫野じゃないみたい」
 カウンター席の方から包丁で材料を切る音が聞こえる。何を話しているかまでは聞き取れないテレビと、煮立ったつゆが立てる匂い。
 御新香が残り少なくなって、ようやく鴫野は口を開いた。
「その、さ。祝園くんは、なんていうか。好きな人、いるんかい?」
 来た。
 これぞ正に。
「いや、いない。いない、かな。うん、いないと思う」
「ならさ、いいんだけど」
 おいおいおいおい。これはひょっとして本当にそうなるんじゃないか。
「いや、ごめん。ついでの用事に逃げちゃった。今のは忘れてちょ。本題に入るよ」
 ……?
「だみつきの話なんだけど」
「だみ……有神田さん?」
「そ。ちょっとだみつきから色々と話を聞いてると、やっぱり祝園くんと何かあったんでがしょ? きっしーが何も話さないのはいつもの事なんだけど、だみつきがあんなにやりにくそうなのは初めて見るかんさ」
 大して本気で待っていたわけではないが、急に聞かれたくない問題を掘り起こされて言葉に詰まる。何かが出ようとするが、どれもが正しくない思い込みを抱えていて、他の適当を探る。
 有神田さんとボクとの間に何があったか。それはこの前の事に違いないし、あれからどう有神田さんと鴫野が絡んだかは分からないが、それでも何かを相談したようだ。鴫野の友達関係者は、その全てがあんまり人と馴染めないタイプである。その全ての中心にいる鴫野に相談が持ちかけられるのは当然の結果だ。
 ボクはといえば。
 柄にも無く。
「祝園くんとだみつき、といえばこの前のよりちゃんとの喧嘩、かな。その後の事?」
「あ、……あぁ。そうだと、思う」
 人間がまた恐くなった、あの邂逅。人と関係するっていう事がどれだけの邪悪で、それを乗り越えていける人間と罪悪感に浸らずにすむ人間を脅威に感じた、あの出来事。
 思い出す今もまだ迷っている。自分の正しいと思っていた正義が、自分が楽しいと思っていた楽観が、根底から覆されてそのまま放置されている。
「だみつきはね、すんごい強いの」
「うん、知ってる」
「きっしーがいるからってのもあるけど、だみつはね、自分だけじゃ何も出来ないって事を確信してる。だから他人に依存する。そしてそれがダメだってのも知ってんの」
 その様子じゃ、やっぱり私市くんが有神田さんに対して行っていた仕打ちも認識しているんだろう。それもボクなんか比ではないくらい正確に、内面や本質までを鑑みて。
「一人で生きてても意味無いって知ってんだわ。だから死ぬのが恐くない。死んだらね、祝園くん。全部おしまいなの」
 おしまい。
「それはね、これからあるかもしれない楽しさとかそういうのを犠牲にして、直面してる今の悲しさとかを持っていってくれんの。だみつきは一人で生きてても意味なんてないって思ってるから、人の為に死ねるんだよ」
 ボクだって自殺を考えた事はいくらでもある。
事故前の自分は生きているとは到底、言えなかった。そして鴫野に出会うまで生きているつもりでいた。
「有神田さんは、強かったよ。ボクをもう一回、殺すくらいには強かったんだ」
 生きているっていうのは死んでないって事じゃない。そこに意味を求めるから区別しなくちゃならなくなる。『ひとり』で生きていこうと決めた決意に揺らぎが生じて、生きようとする事の方が楽しく思えてくる。
 だからボクは鴫野といるのかもしれない。
「だから恐いんだ。鴫野、お前や御陵さんや、有神田さんや私市くんといるのがボクは恐い。生きている人を見ているのが、辛い」
 生きる。そこに意味を求めてしまった人間が幸せかどうかなんてボクは分からない。けれど、自分がいて相手がいて、どうしても憐憫や同情が溢れてくるのが止められない。
「聡過ぎるんだ。どうしてそこまで気付いちゃったんだよ」
 御陵さんは感応してもらえなかったから生きようとした。有神田さんは感応できないから死ねる。そんな有神田さんに感応したから傍にいる私市くん。
 鴫野は?
 鴫野はどうして。
「わたしは分かんないさ。ただ人より楽しくなる才能があったんじゃないかな。楽しく楽しくしてたらいつの間にかどうでもいー人はいなくなってて、よりちゃんとかだみつきとかきっしーみたいな人がいっぱいいた」
 あとわおん先生もね、と鴫野は付け足した。
「とにかく、祝園くんとだみつきに何かあったんさね。それでいいよ。祝園くんがこれからどうすんのか、だみつきがどうすんのかは見ながら考える。わたしが口出すこっちゃないかんね」
 話はこれでお終いとばかりに手を打ちつけ、満面の笑みで一本締めした鴫野。タイミング良く親子丼が運ばれてきた。やけに大きいお盆を持って登場したおばさんは、相変わらず何も言わずに届けたらすぐにテレビの所まで戻っていく。
 丼の蓋を外すと色んな要素が自己主張を始めた。
半熟の卵の輝き。添えられた三つ葉の香り。立った米の煌びやかさ。大きい鶏肉に味の染み込んでそうなタマネギ。汁物が味噌汁じゃなくて粕汁なところにこだわりを感じる。
 ボクと鴫野はもう何も話さずに御飯を食べだした。
 鴫野には悪いが、味は普通だった。



2

 鴫野は食べるのがやっぱり速かった。
 お箸で運ぶ量はボクより少ないし、スピードも速くはないんだけど、どうしてだかボクが三分の二ほど食べた時には既に完食してチュッパチャップスを舐めていた。
 しかし見た目よりも重いな、この親子丼は。かなり胃に強烈なブローをかましてくる。やっつけるのはもうしばらく時間がかかりそうだ。
「あ、忘れてた」
 鴫野が言い出す。
「何が」
「ごめん、わおん先生と用事あるんだった。先に帰るべや」
 慌てながら来た時と同じく手ぶらのまま店を出ていく。何も考えずに見ていて、ようやくボクが置いてけぼりにされたんだと分かった時には、もう残すところ一口になった親子丼をかきこむ頃だった。
 しかし、どうしようか。先に帰られた事については別段、問題じゃないんだが、こんな所に一人というのはあまり居心地のいいもんじゃない。
 とっとと帰ろうと靴を履いて伝票を持っていく。
「千百二十円」
「え(゛)」
 あの女郎。
 まさか奢らせようと思って連れてきたんじゃないだろうな。
 渋々ながら支払いを済ませ、扉を開けて歩道に出る。すっかり夕陽になった街並みを見回して、鴫野の利子について考えを巡らせる。
 缶コーヒーでも買おうかな。エメラルドマウンテン。
 暖かいか冷たいかで少し迷って、しばらく飲んでいなかったゲータレードをチョイスした。広い飲み口のキャップを回し外して、後ろに人が並んでいるのを察する。
 そしてその人物が自分の見知った人だという事も。
「御陵さんじゃないですか」
 あちらはボクだと分かっていたようで、驚く事も無く手を振ってみせた。右手の小指が真っ黒なので、かなりこってりと勉強していたのだろう。目下にクマがあるのも頷ける。
「祝園くん、これから時間ある?」
「えぇ、大丈夫ですよ」
「じゃあ御飯食べに行かない?」
 む。これは困った。
 でも御陵さんのこの楽しそうな顔を曇らせるのはとてもじゃないが出来そうにない。ましてやさっき鴫野と食ってました、なんて言ったらいらぬ嫉妬すら買いかねない。
「いい、ですよ。どこにしますか?」
「じゃあね! じゃあ、おすすめのお店、行こ?」
 嫌な予感が走る。しばらく歩いて、「近くだから!」と急かす可愛い先輩を茶化す真似もせずに、ボクは再びあの定食屋の前まで来ていた。
 案の定、おばさんは無愛想なままこちらも見ずに画面に首ったけで、御陵さんの「奥の座敷で!」の声にも「あいよ」以外の反応はせずに湯飲みを傾けていた。ステテコのおじいさんはまだ寝ていたので、腐った畳の上に座る。
「おばさん! 親子丼の大盛り、味濃いめで!」
「あいよ」
 分かりきっていたデジャビュ。卵アレルギーではないボクに拒否権などは無く、あるがままを受け入れる。さっきからどうにか腹を減らそうと腹筋に力を入れたりしていたんだが、雀の涙程も変わらない。
「ここね、美味しいんだよ? 祝園くん、親子丼でいい?」
「……はい」
 決まりきっていた手順のように運ばれてきた御新香をつまんで、御陵さんが取ってきてくれた水を飲む。
 眠気なのか失神なのか判別できないが、既に身体が意識を手放し始めている。またあの量を胃袋に詰め込まなくてはいけないのか。
 注文を終えた御陵さんは、堰を切るよりも凄まじく怒涛の勢いで話しはじめた。
 自分の事、ボクの事。鴫野の事。学校での勉強の事や、中学校時代の事。色んな話をしながら身振り手振りで大仰に騙りかけてくる。
 話を聞きながら、ボクは一つの疑問を抱かずにはいられなかった。
 どうして御陵さんはこんなにボクに感応してこようとするんだろうか。
 もちろん、嫌ではない。さすがは鴫野の関係者と言うべきか、心の間合いの取り方が上手い。こちらが退屈しないように話題を振ってくれるし、合いの手のタイミングが非常に気持ちいい。かと思えば唐突に流れをぶった切って驚かせてくれる。とどのつまり、やっぱり御陵さんは面白い人なのだ。
 その天真爛漫さに陰りは見えず。この前の激昂した素振りも成りを潜めている。
 良くも悪くも子供なんだろう。
「でね、ゆいちゃんは私の膝の裏が特に好きなんだって。私ね、だったら私の膝の裏でポエム詠んでって言ったらね、すごいの。いきなり『我輩はレオである。ムファサは関係無い』って言い出して     あ、来た」
 腰を折られても気にせず、箸を割る。嗅ぎ慣れた匂いが運ばれてきたのでまた満腹感がせり上がってきたが、なんとか五臓六腑に力を入れて耐える。
 さしものボクでも大盛り味濃いめの親子丼二つはきつい。残しても嫌な気分はされないだろうか、などと懸念していると、御陵さんは口元を手で隠して食べ始めた。
「やっぱり美味しい。ね、ね」
 生返事を放り出してやっつけにかかる。まずはお前だ鶏肉め、てかてかと光りやがって。食欲刺激するんじゃないよ。
 なかなか箸が進まず、ボクは救世主とばかりに御陵さんに目を向けた。
「どうしたの? 口に合わなかった?」
「いえ、美味しいですよ。御陵さんが黙っちゃったから」
「御飯食べながら喋れないよ。米粒いっぱい飛んでっちゃうもの。お行儀、悪いでしょ」
 おぉ、まさかこの赤子先輩にこんな常識的な意識があろうとは。
「御陵さん、良い人ですね」
 何気なく褒めたつもりだったが、やたらと喜んでくれた。ばしばしと肩を叩かれて非常に痛い。こんなに喜んでもらえるならもっと普段から褒めておけばよかった。
 その時だった。
 テーブルからはみ出ていたお盆に手をついてしまった御陵さんが、お盆ごと食器を引っくり返してしまったのだ。豪気に飛び散る親子丼と、響き渡る乾いた音の中で、ボクは真っ先に店のおばさんを見てしまった。
 落としたのはそっちだからね、お金は払ってもらうよ、とでも言い出しそうな、いかにもごうつくな表情だった。御陵さんの過失が全てなのだが、料理は九割方残っていた。代金を払わずに、許してもらえるよう事を運べないだろうか。そうすれば御陵さんに頼れる人間だと評価を上げてもらえないだろうか。打算的な考えが閃く。
 しかし御陵さんはそんなボクを露知らず、落としてしまった丼からじっと視線を背けない。
「あーあ……、御陵さん。何やってるんですか」
 いかにも普通そうに、こんな事は大した事じゃないんだよ、とでもいう風に、ボクが布巾で制服に飛んでしまった御飯粒を取ってあげようとした。
 でも御陵さんはその手を掻い潜って、裸足のまま床に下り、
「ごめんなさいっ!」
 土下座した。
「作ってもらった御飯をこのようにしてしまったお詫びが出来そうにありません!」
 謝っている相手は店のおばさんだった。カウンターの中にいるおばさんに、見えもしないなんて考えもせず、御陵さんの謝罪は続く。
 ボクが見た土下座ではない。ボクを知る前の御陵さんの、消失の土下座ではない。誠心誠意の出来うる最上の礼儀だったから。
 おばさんは店の奥に消えていき、すぐにビニールの袋を持ってこちらに来た。まだ熱いだろうに、素手で落ちた料理を拾って袋に入れていく。すぐに御陵さんも「ごめんなさい」を繰り返しながら手伝う。
 最後に布巾で拭きなおし、地面にはもはや痕跡は無くなってしまった。
「本当にごめんなさい!」
 頭を下げる。それしか出来ないから。
「いいよ。新しいの、作ってやるから。代金は今のバイト料から天引きしとくよ」
 仏頂面しか表情を持っていないはずのおばさんが見せた笑顔に、ボクは笑い返せさえしなかった。
 同時に自分がいかに浅ましく、滑稽で、汚いかを自覚してしまった。綺麗で陽のあたるような世界に、たった一つだけある漆黒を     感応してしまった。
「あの、御陵さん。良かったらボクの分を、食べてください。実は、さっき、食べてきちゃってて」
 善良が救われるわけではないなんてのは知っている。それも知っているだけだった。自分の前に本当の善良があって、自分がどれだけ至らないかを悟ってしまった時に、ボクは解脱よりも自滅を選んでしまった。
 涙も出ない。悲しいわけでも寂しいわけでもないから。でもこの胸にある感情は涙でしか表せそうにない。
 どうしてだろう。どこで外れてしまったんだろう。
 いじめにあった時か? 嘘で世界が作られてるのを感じた時か? トラックで轢き潰された時か? 病院で目覚めた時か? 全てを欺くなんて浸っていた時か? それとも、生まれてしまった時からか?
 有神田さんは人の為に死ねるから強い。鴫野がそう言った。
 御陵さんは人に感応させてしまう。自分を、自分の負を。
「御陵さんは恐いんだ」
 善良同士ならそれは強く繋がる黄金の絆になる。けれど、ボクみたいな泥の塊にとって、それはどんな拷問よりも残酷な処刑だ。
 だから憧れてしまう。突き抜けた『綺麗』に圧倒されて、感動してしまう。
 心の機微に名前をつけるなんて寒い茶番はしたくない。素晴らしい景色の前で、有無も言わせず自分の小ささを認識させられる絶対的な強制力。
 自由なはずの、自分の意識下で起こる爆発を     無視できない。
 何回もお礼をしながらボクの親子丼を平らげた御陵さんは、最後にもう一度だけおばさんに頭を下げて店を出た。暗くなりはじめている空を見上げて二人並んで駅まで歩く。
「ごめんね、今度は食べた! って言ってくれていいからね」
「いや、こちらこそすいません。気を遣ったのが裏目に出るなんて」
 思ってもいない建前を並べるな。最初から打算で動いていたのに。それが露見した途端、純情を気取るな。
 放射される好意をどす黒く煮詰まったフィルターを通して受け取る。自分への戒めだ。そうでもしないと、まともに御陵さんの顔が見れない。
 自分が恥ずかしい。
「あ、祝園くん。今、何時? 携帯の電源無くなっちゃった」
「今ですか? 今は……あ、携帯、無い」
 ポケットにも上着の内ポケットにも無い。念の為に鞄も探したが、見付からない。
 記憶を辿っていくと、机の中に入れてそのままにしていたのを思い出した。
「先、帰っててください。ボクは一回、学校に戻ります」
「じゃあ私もついていくよ」
「いいですよ。もう空も暗いですし、早く家に帰ってください」
 本当はもう一緒にいるのが嫌なんだろう? 自分の惨めさが浮き彫りになるから。早く一人になって、自分だけの世界に戻りたいんだろう?
 内からの声に打ちひしがれながら、どうにか御陵さんを説得して先に帰らせる。本音を隠して一人になろうとして、それで何とかなるだなんて希望に似た絶望にはまっていく。
 一人になって。
 ボクは救われたか?
 善良がいなくなって歯止めがきかなくなったボクの素材が持つ憎悪が、溢れ出て止められない。不可識の原理で起こった出来事全てが責め立ててくる。償いをさせるわけでもなく、陥れようとするわけでもなく、ただそこにあって、ボクを問い詰める。
 糾弾する声に耳を傾けずとも、それは染み渡る毛細現象にも似た席巻を始める。外からの声なら耳を塞げる。見たくないなら目を背けられる。
 けれど自分の中に初めからあるそれに対して、対抗する手段なんて無い。
 御陵が嫌いになっただろ。あんな人間がいるはずがない。どうせ今頃、路地裏で毒づいてるよ。お前がいなくなって清々してるさ。陰で何を言われてるか分かったもんじゃない。自分が愛されてるだなんて勘違いしてるんじゃないか? 一人だよ、一人。人間は一人なんだ。信じたい人がいたからって信じるに足るかどうかを判別する方法が無いよな。よしんば信じられたところで、信じてもらえるはずなんかないんだから。あんまり楽観的に考えんなって。自分を見ろよ。お前を客観視しろよ。上辺だけでへらへら媚びへつらう奴を馬鹿にしてるのか? お前もその中の誰かだよ。たくさんの中の、どこにいるかも分からない誰か。それがお前。なんにもできないし、なんにも生み出せない。出来るって勘違いして迷惑かけるだけだよ。ほら、自分は自分にこれだけ優しい。なのにどうして嫌うのか分かんない。美しいだろ? 綺麗だろ? 自分だけは自分の事を全部、知ってる。信じるか信じないかの判断はすぐ出来るよ。甘えんなよ。縋るなよ。感応するなよ。損するのはお前だし、適当に誤魔化して生きていけばそれなりに幸せになれるって。ノーリスクローリターンって奴だよ。大人になれよ。鴫野だって有神田だって私市だって墨染だってお前を単なる珍しいおもちゃくらいにしか思ってないから。期待すんな。異端は異端らしく、隅っこの日陰でこそこそ自己満足と相互理解に苦しむのがお似合いなんだ。出てくるな、そこから。自滅するのが関の山だって。自分の価値を決めるのは自分だけど、人から見たお前に価値なんか無いよ。むしろ何かされると面倒臭いだけ、マイナスだ。引きこもるのも止した方がいい。そのまま死んでいくのもお薦めしない。養ってもらってるわけだろ? 迷惑、かけてんじゃん。罪悪感を無視しても耐えても、事実だけは変わんないんだから。そうそうそうそう。生きるってそういう事。何もできないの。死ぬ事も出来ないし。止まる事だって許しちゃくれない。生まれてこなきゃよかったね。それが一番なのにね。
 


お前、生きるのに向いてないよ。
 
 くらくらする。決して満腹感だけじゃない。身体の肉が溶け出して地面に吸い込まれていって、養分にもならずに腐り果てていく錯覚。ここが現実なのか夢なのかを判別する方法が見付からない。
 朦朧としながらでも、それでもボクの足は学校に向かう。道の途中に何があったかすら憶えていない。何かを見た記憶はあるが、何を見たのかを憶えていない。そのくせ、落ちていた空き缶の銘柄は鮮明に焼き付いている。
 当然、校門は閉まっていた。最終下校時刻をとうに過ぎてるんだから当たり前だ。インターフォンを押して宿直室に駐留している教師に連絡をとる。
「はい、こちら九隅第九高校宿直室です」
「あの、2年B組の祝園です。大事な物を教室に忘れてしまって」
 用件を伝えると、電話向こうの女性の口調が急に崩れた。
「あー? 祝園って、あの祝園くんかい?」
「え、あ、はい。たぶん、その祝園ですけど……」
「墨染だよ、墨染。ちょっと待ってな」
 墨染先生らしいなげやりな置き言葉だ。話が早く進みそうで少し、気が楽になる。これで厳しい先生なら入れてくれない事態だって想定できた。鴫野が用事あるって言っていたが、学校とは限らないし。
 待っていると、あの屋上での初対面とまったく同じ服装で墨染先生が現れた。変わっているのは青縁のバイクゴーグルに似た眼鏡をかけている所くらいだ。
「まったくよ。鴫野といい、お前といい……。学校はお前ん家じゃねーの。友達ん家でもねーの」
 ぶつぶつ愚痴を漏らしながらも、大きい門の端に作られている個人用の扉を開いてくれる。
「はい、それは重々承知してます。すいません」
「お、なんか鴫野のあれにしては随分と素直だな」
 褒められたのか馬鹿にされたのか分からない。
返事をしないでいると、鍵がたくさんぶら下がったキーホルダーを掲げながら目で中に入れと合図がきた。身を小さくしながら本日二度目の登校。
 先を歩く後姿を見ながら、ボクも進みだした。道すがら何を話すべきなのかを考えていると、先に墨染先生が禁煙パイポをポケットに入れて振り向く。
「祝園くん、短い間に何だか顔つきが変わったな」
「そうですか? あんまり自覚はないですけど」
「あぁ。なんかつまらない顔になったな、なんつうのか」
 ボクはどれほど酷い顔をしているんだろう。元々がそこまで上等な造りではないのだから、墨染先生が勝手に美化していたのかもしれない。人の顔なんてすぐに忘れそうな人だし。
「つまらない、なんて。前からそうですよ」
 そう、一言でボクを表すならつまらないで片付いてしまうんだろう。自分にすら勝てない没個性な人間が、あの自己顕現を一人に詰め込まれるだけ詰め込まれたオリジナリティ溢れる集団にいるのがそもそもおかしいのだ。
 鴫野との馴れ初めも、どこか押し付けがあったかもしれない。ボクが打算を押し付けたのか、それとも鴫野が好奇心を押し付けたのかは判別できないが。
「祝園くんさ、戦時だけレディファーストになるタイプだね」
「レ……? レディー、なんですか?」
「だから、戦時中だけレディファーストになるタイプっぽいね」
 意味を解釈するが、掴めない。さっき言われた通り、素直に聞いてみる。
「それはいったいどういう意味なんですか?」
 だぁかぁらぁ、と墨染先生は頭をかいた。癖なんだろうか。
「車に爆弾とか、地雷とか食べ物に毒とか。そういう危険があるかもしれん状況だけ、相手に先行かせて安全を確保する、っていうか。そういう感じ」
 やだやだ、お粗末だね。
 怒る事さえ許されない断定的な毀損。君って福耳なんだね、くらいの軽さで横行した悪口。そう感じたから指摘してみた程度の暴言。
「いいんじゃない? そういう人がいても」
「でも、別にボクは     」
「違うと言いたい。そうかもね。あんまり良い人間じゃないからな。でもそう見えるし、現にほら。戦時中じゃないけど、後ろを歩いてる」
 それは関係あるのか? 目上の人だから一歩引くっていう、それだけで屑扱いされるのか?
 ボクは前に歩き出た。何かがおかしい。けれどまた心の中がざわついて、ようやく寝かしつけた怪獣が起きてしまいそうだったので、他の些事にかまけていられないだけ。
 そう、ボクは冷静なんだ。冗談の一つも笑えない礼儀知らずに呆れられるなんて、自分の志向じゃない。
「ときに祝園。お前はあん中の誰かが好きなのか?」
 訊く口調ではない。からかって楽しんでやろうって発言だ。
「いないですよ、そんなの」
「嘘吐け。高校生だろ? 思春期なんだろ? だったら一人くらいはいんだろ」
「高校生が全員、恋してなきゃならないなんて悪夢ですよ。それに」
 それに、お前を愛してくれる人なんて、この世に存在しないんだから。
「     それに、先生こそどうなんてすか。もういい年そうだし」
「失礼な。まだ四捨五入で二十だ」
 軽口の応酬をしている内に教室へとやってきた。未だに南京錠で施錠されたロックを開け、月明かりだけが照らす、昼間とは違う教室に入る。
 電気をつけずとも場所くらいは分かるので、机の中をごそごそ手で探る。いらないプリントや、持って帰る必要の無い資料集の間に、目的の物はあった。
「ありました。面倒かけてすいません」
 何気無く、メールでも着ているかしらとサブ画面のクイックスタートボタンを押す。
 メール:2件。
「おい、早く出ろよ」
「は、はい」
 誰からだろう。メールも電話もボクにとっては珍しいものなので、不思議と気分の高揚を抑えきれない。連絡が来るっていうのは、ボクが必要とされているから。
「……?」
 何かが聞こえた気がした。
「どうした」
「いや、なんか     聞こえません?」
 廊下の非常灯の光量では見通せない、奥の闇を通じて聞こえてくる。反響していて場所までは掴めないが、はっきりと耳に入ってくる。     歌、いや唄か?
「ちょっと見てきます」
「あ、おい」
 制止を無かったものとして、音の源を探す。教室に面する廊下の半ばにある階段まできて、上階からの音だというのが分かった。後ろから追いかけてくる先生に捕まらないよう、コンクリートむき出しの石段を上がる。
 四階まで来ても音は遠い。さらに上か、と見回す。しかし、四階は最上階だ。これより上には。
「屋、上か?」
「待て、祝園!」
 さすがに馬耳東風も決め込めないか。
 肩で息をする墨染先生が、途中の踊り場で手摺にもたれかかっている。普段から運動せずにこもりっきりだからですよ、と心の中だけで自嘲気味なおせっかいをしておいた。待つのもやぶさかではないが、どうせなら夜の学校に響く怪奇! 唄の正体の方が興味をそそられる。
 かといって無視して置いていくのも気が引ける。しばらく待って、四階までの階段を上がり終えた先生に、
「大丈夫ですか? すいません、走ったりして」
「せ、せっかく、開けてやった、ってのに。恩、知らずめ」
 また評価が下がってしまったようだ。悲しみブルー。
「でも気になっちゃって。たぶん、屋上だと思うんですけど……誰かな」
 唄は女性のはずだ。屋上に出入りする中で、考えられるのはあの三人。イレギュラーで本物の幽霊かドジな学校生徒ってとこだろう。
 呼吸が整うまで立ち止まっていたが、先生も先を促す。この時間帯だ。学校に生徒がいるのは監督上、良くない。使命感か責任感か、宿直というのも辛そうだ。これからはボクも鴫野の学校宿泊について制止の立場をとろうかな。
 屋上へ行くには非常階段しか手段が無い。一年のクラスを横切って、当然ながら閉まっている非常扉をマスターキーで開錠する。
「やっぱり。屋上だ」
 扉を開けた。注意しなければ聞き取れない程だった微かなメロディーは、大きく力強く柔軟にはっきりと風に乗ってやってきた。いつもより心持ち早く、屋上への入り口を駆け上がる。
 大きい青空ワンルームな構造ゆえ、上がり切った正面から一帯が見渡せる。
 目的の人物は屋上の中心、ご丁寧にもタイルの数からしてもど真ん中に立っていた。

「し、ぎの?」

 こんなに優しく、ふわりとした唄を生み出せるなんて。歌詞が無いのに語りかけてくる饒舌で重厚な感情。影響を与えるのではなく、叩きつけるように人の中に入り込み、それでいて守るような、いや、違う。奮い立たせるような激情を内包している。
鴫野らしくない、か細く美しい鼻歌の旋律だった。
「ん、祝園くんじゃん。わおん先生も」
 目を開け、そっと確認する。そこでやっとボクはここが現実だと再認識した。今まで、宙にふわふわ漂っていた気分だった。非現実の権化、方向感覚を狂わせる、拙い歌声。
「何してんの、そんな慌てて」
「何、って。なんか、唄が聞こえるから」
 そうじゃない。
 魅了されたんだ。あまりの狂気が一巡して、艶やかな光に変わる。闇に紛れて咲いている花より美しい。両手で棘を隠した枯れた香りの甘い罠。見抜いていたのに止められない。何回、傷ついて眩暈を起こしたって、連なっていたいと感じさせる。
 不安定なのかすら覚らせない。ここが何処だかを忘れさせる、人を暴走させる麻薬。
 でも褒め称える台詞は決して口に出したりしない。
「唄? 唄って何さ。まぁ、いいけど」
「いいわけねーだろ。お前、またこっそり忍び込んだな。何処から毎回毎回よ」
 拳骨を落とされてはうはうしている鴫野は、いつもの鴫野だ。さっきまでの仮想ホログラム顔負けな存在感の奇妙さはない。
 言い方は悪いが、あれは、     死人だった。
「さっきの唄ってなんていうんだ?」
 確かめたくて、問う。
「さっき? 鼻歌? あれね、デイジーフィッツジェラルド」
「洋楽?」
「知んない。そうそう、メール」
 指差されて、自分のポケットから携帯電話を取り出す。確かにメールが二通、ボクに届いていたようだが。
 開いて、受信フォルダを選択する。てっきり母や妹かと思っていたが、名前欄には登録されてないアドレスが表示されていた。なんだ、これ。x/y? 数式か? 暗号か?
「それ、わたしの」
 メールを開封する。たった二行の、絵文字も何も無い簡素な文章が並んでいる。
「これ……!」
「ここにいるって事は、選んだんでしょ。どっち選んだかは知りたいけど、邪推すんのもあれだかんね。で、どっち選んだんさ。よりちゃん、可愛いかんさ」
 一通目は鴫野と定食屋で分かれてすぐの時刻。

『よりちゃんがきみに言いたい事があるんだって。そのまま待つ事!』

 二通目は、ちょうどその十分後。

『学校にいるから、結果を報告しにきてくれると嬉しーぞ』

 残酷にも、時は問題を解決してなんてくれなかった。むしろ加速させ、事態をより重くしただけ。焦燥と戸惑いが、壊れたガイガーのように身体を支配する。
「どしたん」
「ボク、学校に、その、携帯     、忘れて」
 震える声で答えた。
 途端、走り出した鴫野がボクの横を通り抜け、階段を降りていった。あまりのスピードに墨染先生もそのまま見送り、屋上には二人が残された。
 心臓が飛び出るなんて嘘だ。本当は心臓が止まるんだ。けれど無音でさっきまでの肌寒さを吹き飛ばし、自分がどうすればいいかを導き出す暇も与えない。
 御陵さんと別れてまだそんなに時間は経ってない。今なら間に合うかもしれない。
「墨染先生、ありがとうございました! 帰ります!」
 自分の持てる全力を使って、初めて御陵さんと会った時よりも速く、階段を降りる。今度は保健室なんかにはいない。この広い世界の、広い地域のどこかにいるんだ。
 御陵さんはボクに会いに来てくれたんだ。
 恐らく鴫野の墨染先生との用事は嘘。あれは御陵さんにボクの場所を伝えるのと同時に、邪魔者はさっさと去ろうとしたからだ。偶然にも出会えたのは奇跡としか言い様がないけど、御陵さんの事だから、定食屋にいないボクと会ってしまって混乱したんだ。出鼻をくじかれた。修正を試みたけどそれが裏目に出た。
 それで言い出せなくなってしまった。
 やっとだったんだろう。
 御陵さんは感応されなかった。何時までも今までだって。だからいつも受動だった。相手を見て、相手からの行動を待っているだけだった。
 けれど違う。
 御陵さんは自分から感応しようとしたんだ。
 やっと、自分から何かをしようとしたんだ。
 自意識過剰に拍車をかけるだけかけて、鴫野に電話する。しかし相手は出ない。
 学校を飛び出て、左右を見回す。一瞬、迷ったが、定食屋がある左の道を選択する。とりあえず、定食屋を拠点に据えて、そこから範囲を広げるしかない。
 御陵さんが行きそうなところに見当がつかない。バス停か、それともどこかで休んでいるか。それとも鴫野と合流してこちらに向かっているか。
 走り出した足を、とてつもない思考の閉塞が止めてしまった。
 自分を卑下して番号を登録していないのが仇となった。今、パイプは鴫野としか繋がっていない。その一本が途切れたなら、もう打つ手なんか     
 
いや、ちょっと待て。

 ボクはポケットを調べて、紙を取り出した。くしゃくしゃになってしまっているが、字は読める。
 そこに書かれた電話番号を焦点の定まらない水晶体で映し、プッシュする。
『     はい、もしもし』
 数コールで相手が出た。
「有神田さん!」
『……? 祝園か?』
 頼みの綱はもうこれしかない。
「すいません、大至急で御陵さんの電話番号を教えてください!」
『わ、分かった。ちょっと待て、すぐにかけなおす』
 一端、通話が切れる。そのままの姿勢で待っていると、すぐに有神田さんからのコールが入った。画面も見ずに決定を押し込む。
『待たせた。言うぞ     』
 言われた数字を暗記し、礼もおざなりに通話を終了する。急いで憶えた数字を打ち、耳に当てて願いを込める。どうにか出てくれ。いつもの幼い声で、ボクに答えてほしい。
 通話ボタンを押す。
 まさにその瞬間だった。

「     !?」

 携帯電話ごと頭を挟み込まれ、驚きに息を呑むのも忘れた。
 そっと添えられた手に、後ろを向けない。
 分かるのは、背後から聞こえるヴァイブレーションの音と、息遣い。火照った耳に冷たい、細いたおやかな指先。弛緩する間も無く訪れた、緊張と脅迫の波。

「だーれだ」

 回せない顔を、前に倒す。
「     本当に、ごめんなさい」
 束縛から放たれても頭は上げない。誰もいない前方に、下げたまま。
 許されないかもしれない。鴫野が走り去った。それは鴫野がボクを感応しなくなったっていう事だから。そもそも無いものとして扱った、結果だ。それだけ酸鼻を極める意味が、そこにある。
 けれど出来るのはこれしかない。
 自分が劣っているんじゃない。自分が不向きなんじゃない。そういうスタンスにいるのが心地よくて、達観したフリをして漂って。誰からも後ろ指指されない事こそ、誰からも嫌われる事だなんて韜晦して。
 結局、やってるのは昔と変わらないじゃないか。
「謝るなんて、やめてよ」
 風前の灯が、最後に大きく瞬く。
「悪くないよ。祝園くんは悪くない」
 窘める口調はいつかの時と同じ、幼げで、底抜けに明るい。感応した一人を、二人にする究極の平和で、攻撃で、防御で、保険で。
「祝園くんは、どうしてそんなに……」
「言いたくはないんです。ボクは自分がどれだけ汚いかを知ってる」
 状況に対応できないわけじゃない。自分を見失ったわけでもない。
「御陵さんの、話って」
「ぅ……。うぅ」
 冷静さを装うのすら難しくなる。人間はいざという時の想定をして備える事なんてできやしないんだから。
 ボクはまだ上がったままだった御陵さんの手を握り締めて、今度こそ振り向いた。
「ボクは知ってる。自分がどういう人間なのか、それを知っています」
「私だって知ってるよ。祝園くんの事、知ってる。どんな人間なのか」
 知っているだけじゃない。
 それは感応のゴーサインだから。
「祝園くん」
 呼びかけただけ。
 夜の帳が世界をあまねく眩ませた。でもそこだけ、ボクと御陵さんの間のわずかな空間だけは、触らせやしない。誰にだって邪魔させやしない。
「だったら応えて欲しい」
 笑顔が声に混じっていた。

「キミが、好きだよ」

 圧倒的なタイミングで。
 衝動でもなく計画でもなく策謀でもなく。
 予め決まっていた予定調和のように。
「私に感応させてください」
 きっぱりと行われた。慈母より遥かに尊い笑顔で、御陵さんは怯えている。ボクには分かる。分かっているだけじゃない。そこから何を感応するかを把握している。
 少しとはいえ、繋がった。ドラマのように息の合ったダイアログじゃない。テレパシーじゃなくて良かったんだ。どこか遠くにいても伝わるのなら、人間に固体なんて必要無い。コンビニで安く売られている赤い糸を手繰り寄せ、もう離れない二人を見下ろす。

 あ。
 駄目だ。
 ちらついた顔を押し退ける事が出来ない。

「ごめんなさい」

 感応が断ち切られた。止まっていた時間が動き出して、ようやく通話しっぱなしにしていた携帯電話の電源を、電源を。
      切る。
 同時にそれは。
 御陵さんとの感応を断ち切る事になっていたとしても。
「……そっか」
 ヴァイブレーションの音が消える。
 二人の感応が消える。
「今、誰の顔がある?」
 分かっているのに、あえて訊かずにはいられない。そういう風に見てとれた。しかしそれを告げるのは、独りよがりの感応よりも遥かに邪悪で、嘘よりもっと汚い正義で、冗談にも劣る礼儀だ。
「分かってるんだけどね」
 照れ笑いで誤魔化した御陵さんの手が、足が、肩が揺れている。小刻みに前へ後ろへと。
 ボクは涙なんか流さない。楽しいわけじゃないのに、哀しいわけじゃないのに、自分が感じる感応が無い。雲を追う方がよっぽど生産性がある。
「初めて、感応したんだけどなぁ」
 勝敗なんか無い。ボクを苦しめていた壁は、思ってたよりずっと脆かった。飛び越えるとか、脇道を探すとか、そんな難しく考えないでも良かった。
 壁は、押せば崩れるのだ。
「じゃあね、祝園くん」
 彼女は翻って校門を向いた。後ろ手に持った学生鞄が一つ、打ち付けた音を立てる。
「ばいばい」
 決別。そのままボクが出てきた個人扉をくぐって学内へ入っていく。
 ボクも歩き出した。何処に。家にだ。
 もうかける言葉なんか無いし、感応も必要無い。過去が事実を作るのならば、事実は過去を思い出させるのだ。だからボクは明日をどうにかして今にしなくちゃいけない。
 いい加減、悪びれるのも疲れたろ。すかしてクール気取るのも飽きたんじゃないのか?
 分かっているだけ、知っているだけの自分をボクはそこで捨てた。もう心の声は責めてこない。
 襲ってきた酷い眠気も打破して、駅に向かう。
 待っていて欲しい。
 ボクだって覚悟くらい、決められる。
 ごめんさよならだ。









    の話

0

 空白。










ぼくはかけら。
イツゼロの話



1

 翌朝。食事を済ませて自室に帰り、持ち物の確認をし終えて制服のボタンを閉めていた時だった。
「啓、あんた今日、休みだって」
「……? 祝日だったっけ?」
「なんかあんたの学校の子、昨日の夜に飛び降り自殺しちゃったらしいのよ」
 三年の子、と最後に付け足し、いやぁねぇ、と去っていった。
 ボクは学校に行く強制力を失ったが、原動力まで道連れにされていない。
 鞄は持たずに家を出る。
 火蓋はもう、昨夜に切って落とされているんだ。



2

 ピカレスクになりたいわけじゃない。観客気取りで見ている人間が大事に持っているそれは、黄金なんかじゃないって知ってしまった     ただのモブだ。
 嫌味なくらい空が青い。雲も無いから太陽を遮る盾も無い。注ぐ一辺倒なひたむきさに、自分の正しさを揺らがせたり決心を鈍らされる。日陰から出てきた裏切り者を押し戻そうと白い正義がやってくる。
 この世でもっとも凶悪で強い兵器は『自覚』だ。根本から存在価値を揺るがし、今まで絶対だと信じていたものを徒労に化す。
 判断基準を無くした人間相手に手間をかけるまでもなく、そちらに引きずりこむ。そうして世界の正義は人を洗脳して支配してきた。ボクのように気付いてしまった魂にも、同様の処置を行って塊へと仕立て上げるだろう。必死に抵抗しても無意味だ。その抵抗までもが無駄に変わる。自分を無くして、未来の自分の為に過去の自分を消そうと現在の自分で奔走する。
 それでもまだボクの足は学校に向かっている。正すも何もそこに善悪が無い。
 あるのは誰も知覚していない欲求だけ。
 学校に到着すると、予想よりも多い数のパトカーが停まっており、門の前には数人の警官が何かを話しながら黄色いテープを張り巡らせていた。素直に近づくのも馬鹿らしいので、裏門にまわる。
 裏は錠がかかっているだけで警官はおらず、容易く侵入する事ができた。見付かれば大目玉、もしくは停学くらいは覚悟しなければいけないだろうが、そこらの言い訳はどうとでもきくし、正直なところ退学になってしまっても後悔なんてしないだろう。
 今の自分にとって何が一番大事で、何をしなければいけないかをボクはやっと手に入れたのだ。それが勘違いだったとしても構わない。パラドックスな『自覚』がやってくる前に覚悟した。それが全てだ。
 校舎の扉も閉まっていたので非常階段を上る。一階から四階までは疲れるもののスムーズに進んだが、そこから屋上への階段の前で声が聞こえた。
 内容までは聞き取れないが警官らしい。恐らく、そこから飛び降りたんだろう。遺書か何かが残っていると思ったのかもしれないし、殺人の可能性を疑うなら証拠が残っていないかを調べているのかもしれない。推測の域を出ない問答は終わりにして、顔だけ出して伺う。
 コーションの文字がおどる向こうに警官は三人。もうほとんど調べた後なのか、捜査に使った道具を片付け始めている。当たり前だ。正真正銘の自殺に、犯罪が関与する余地なんて一つもない。
 彼らが整理を終えるまでの数分を息を潜めて待つ。やがて一人、二人と立ち上がってこちらに向かってくるので、階段と非常扉の間に身を隠す。目の前を談笑しながら通過していく青い制服を見送って、充分に時間を空けた後にボクは階段を上った。
 テープをくぐる。吹く風は冷たい。また冬がぶり返したようだ。
「鴫野!」
 呼びかける。音量をぎりぎりまで抑え、そこにいるだろう彼女に問いかける。
「いるんだろ、鴫野!」
 地面に置かれた番号札を蹴飛ばさないよう慎重に歩きながら探し回る。下では教師と警官が調査しているだろうから外側まで行けないが、そもそも屋上にそこまで遮蔽物は無い。隠れているんじゃなくて、寝ていて気付かないか、それとも聞こえていても無視しているかだ。
 ここに来ると色んな情景が頭を過ぎた。自分がここにいて、どれだけの経験をしたのかを明哭している。
 鴫野に見つかって、そいつが嫌われ者だって知って、でもそれはどうでもいい人間の被害妄想なんだと分かった。御陵さんは可笑しくなるほど子供だったし、鴫野との掛け合いには随分と和んだなぁ。おっと有神田さんの事だって忘れちゃいない。好意を害悪として認定させてくれた貴重な会合だった。私市くんという悪にしか見えない善も付随してボクを悩ませてくれたし、あの口の悪い運動不足な教師と邂逅したのもここだった。
 ボクの学校は、ここだ。
 授業じゃ教えてもらえない大切な事を教えてくれた教室。
「鴫野、頼むよ」
 他の人間は知らない。それが幸せか不幸かはボクに判断できないけど、今のボクが知らないボクに対して思うのは、明確に断言できる。
 それなりの人生が駄目だなんて口が裂けても言えない。
 けれど、この位置に立つボクには、それなりの人間の言葉なんて届きはしない。
 感応してくれない人間なんて、ボクにとっちゃいないのと同じだ。
「鴫野……」
 鴫野は給水塔の上に大の字で寝転がっていた。目を開けたまま、空を睨んで口の中で何かを咀嚼している。傍らに開封されたガルボの小袋があるので、それだろう。
 制服の上から男物らしき黒いスキーウェアを羽織っていて、膝下まで隠れるそれは、ところどころ破けていて汚れている。他にもドグラ・マグラやナボコフといった著書が乱雑に置かれていて、どこかで出くわした空き缶がいくつか散乱するそこは、なんというか。言い難いが、鴫野らしい。
 適当にスペースを開けて、口だけしか動いていない鴫野の横に寝転がる。理由なんて無い、ただ鴫野と同じ風景の中にいたいと感じた。
 前髪を除けると、もう空しか見えない。端から端まで見渡す限り一面に広がった色の見えない、昨夜とは違う感応すらさせない絶対で広大な終わりの無い領域。
 そういえば給水塔に登ったのはこれが初めてだ。
 鴫野はいつもこんな景色を見ていたんだ。
「鴫野、ボクは感応したよ」
 ぴくり、と鴫野の肩が揺れた。
「御陵さんと感応した。でも、選べなかった」
 自分の意思で選ばないを選んでしまった。
 ゆっくり、鴫野が身を起こす。スキーウェアが衣擦れの音を立てた。もう飲み込んでしまったガルボを惜しむ事もせず、無表情を微笑みに変える。
「そ」
 それだけだった。ボクが感応した事実が、ボクが選ばなかった真実が、どういう恣意で彼女に理解されたかは分からない。鴫野は返事にも満たない笑いを浮かべただけだ。
 ボクも起き上がる。さっきまであんなに広かった空がシフトしていき、町の風景が下から入り込んだ。見下ろせたのは、ここが丘の上に建っている普通よりも大きい校舎だったのと、この街がそれほど発展していなかったからだ。
 街は綺麗だ。歩いているだけなら感じなかっただろう。こうして見下ろして、感情と時間とおあつらえ向きな局面があれば、集合が感動を与える。
 少し、昔を思い出す。アニメや漫画なんかで泣くなんて気持ち悪いと蔑まれて、ボクが唯一の反抗を見せた事。
 感動に上下なんかない。嘘で作られた感動と、現実で出会った感動がどちらがより優れているかなんて、決められてたまるものか。『理解不能』を妄想の方程式に組み込んで、相手に感応しようともせずに決定する。そんな人間としての常識とされる邪悪に、ボクはそのとき既に嫌悪していたのかもしれない。
 もちろんはっきりとその意思を伝えられたわけもなく、喉までいかずにごにゃごにゃと戻ってしまった憤怒を飲み込んで、さらに孤立は激化しただけだった。
 記憶に顔を少し歪ませて、でも鴫野の笑顔を見てまたほころばせる。
「感応、したんだ」
「うん。御陵さんは、残念そうだったけど」
 鴫野が笑っているのは、ボクが感応したからじゃない。
 御陵さんが感応したからだ。
 それすらも出来ずに死ぬまで生きる人生を捨てる覚悟をして、そしてその結果がどうなろうと自分から感応したからだ。
「幸せだったら、いいんだよ。よりちゃんが幸せだったって、わたしには分かる」
 それもこれも感応した鴫野にしか言えない。
 他人じゃない。もはや鴫野の周りは、一つの思想なんだ。考える間も無く相手の気持ちを念頭に入れ、動く前にどうすればいいかが分かってしまう。
 だから鴫野はすごいんだ。
 あれだけの違うベクトルを持つ人間の中で、中心にいるカリスマ。
「どこにも行けないから、どこかに行っちゃったんだろうね。よりちゃん、不器用だから」
「     鴫野」
 途中で声を捻じ込ませ、ボクはまだ微笑んだままの鴫野に向き直った。立ち上がって不安定な給水塔の、脆い床を踏みしめ、
「まだ……まだお前に謝りたいと思ってるボクは、御陵さんにも感応できてないって事なんだな」
 ぽつぽつ、足元に落ちる涙を止められない。
 惜しい人がいなくなってしまった。もっとたくさんたくさん笑いたかったし、馬鹿にして反応を楽しみたかった。有神田さんとの喧嘩も万事解消したわけじゃないだろうし、御飯だって一緒に食べ終えてない。
 寂しいんだ。いなくなるって、そういう事だ。そしてそう考えてしまうボクは、まだ御陵さんに感応しきれていなかった。
 どれだけの感応を鴫野は張り詰めさせているんだろう。昨夜の数十分でさえ、ボクをここまで変えさせたのに。
「ボクは御陵さんとも感応しきれなかったって、そういう事なんだな」
 そんなボクを、鴫野はいつかのように抱きしめてはくれなかった。
 ボクと鴫野の時間。ぼくらはここにいて、ぼくらがここにある。緩やかな時間が流れてるこの空間で、冬の気配が消えても残る寒さを憂えてこっちまで負の連鎖。素直さの意味は心のずっとずっと奥の方へ消えていき、素晴らしい日々を弱さと不安の中で知った。だからこそさよならは言わない。
「昨日の夜ね、よりちゃんは笑ってたよ」
 今の鴫野と同じように?
「だめだたー、って。泣いてなかったよ。でも最初じゃなくて、最後だったから。ただそれだけなんだけど」
 祝園くんには分かってもらえないかな。
 鴫野の最後の呟きは消え入る。尻すぼみに小さくなった。彼女にとっては御陵さんがいなくなった消失よりも、ボクが感応できなかった後悔の方が悲しいのだ。
「飛び降りる時ってね、地面に着くまで空飛べるんだな、だって。それが最後。止めるなんて出来やしないよ。だって分かっちゃってるもん。よりちゃんは希望だとか、これから先だとか、そんなちっちゃい覚悟、してないんだ」
 自分の範囲でしか何も出来ないボクは、今までの自身ですら何も出来ないボクに比べて、格段に前を歩いていた。自分の領域以外を不用意に干渉していたボクを、はっきり悪だと蔑んでいた。
「笑ってたかんさ。さよならも言えないのがわたしとよりちゃんの最後。わたしは何でも分かるけど、だから何にも出来なかったの。しなかった、かな」
 どうにかするのは鴫野じゃない。けれど、どうにもできないのはボクだ。
 結局、ぼくらの時間はすぐに終わった。給水塔の上なんかに立ったせいで下に集まる教師に発見され、ボクと鴫野は良識ある大人達に学校から追い出される。しっかりと怒ってくれはしたが、心の底で自殺が響いているからそれも簡単に終わってしまう。涙がばれなかっただけでも幸運か。
 叱られたいわけじゃない。押し上げて欲しかった。
 二人で裏門から伸びる下り坂を何も交わさず、並んで歩いていた。ボクには考える時間がまだ必要だったし、落ち着くまでもう少しかかりそうだ。
 やらなければいけない義務があった。果たせそうにない、また現れた壁がボクの行く手を防ぐ。命をかけて壊さねばならない壁だ。
 電子音が鳴った。隣で鴫野が携帯電話をスキーウェアの下に手を入れて取り出す。今の気分を意に介しそうな昨日の美しい旋律とは違い、けたたましく明るいハウスエレクトロニック音楽だった。ボクにはそれがなんだか厳しい激励のように聞こえる。
 しばらく相槌を打っていた鴫野だったが、急にその顔に苦痛が滲んだ。

     あの鴫野が苦痛を感じるだって? 

隣の家に爆弾が落ちたって平然と笑い転げるような奴が? 驚愕に包まれたボクは黙ったままの鴫野に、
「どうした?」
 と、馬鹿みたいに訊いてしまった。
「どうしたんだよ、その顔」
 まるで、御陵さんだ。感応されなかった御陵さんが乗り移って、それでもまだ感応されずに永久の彷徨いを余儀なくされたような。
 想定外の事態に狼狽を隠せないボクが次に見たのは、崩れ落ちる鴫野だった。地面にへたり込んで、少し開いたままの口、乾いた唇が裂けて血が出ているのにそれでも表情をわななかせる鴫野だ。
「ど、どうしたんだよ!」
 応えない。その手から携帯電話をひったくって画面を見る。通話相手は私市くんだった。まだ回線は繋がっており、向こうから冷静に呼びかける声が漏れている。
「すいません、祝園です! どうしたんですか!?」
 何を告げたのか、何を知らせたのか。
 苦痛の福音が知らない人間を、知る人間へと変える。
『祝園くん? あぁ、良かった。祝園くん、そこで鴫野をおさえてくれませんか』
 口調自体は沈着だが、気配は風雲急を告げていた。焦りがこっちにまで伝わってきて、何もされていないのに身体の表面がちくちく総毛立っている
『早く、すぐにでも鴫野を柱にでも繋ぐか何かして動けないようにしてください』
 言われるままに、当惑しながら動かない鴫野の腕を組む形で絡ませる。どういう事だ? 鴫野は走り出す様子なんかない。いや、様子はおかしいが、突発的に行動する気配なんか     
 その疑念は、次の報告で確信に変わった、

『有神田が襲われて、意識不明です』

 転瞬で鴫野の腕と繋がっていたボクごと、弾き飛んだ。足が浮くほどの速さで前に引っ張られ、慣性に忠実な携帯電話が地面に落ちて鋭い破壊音が響く。
 こういう事、かァ     !!
「しぎ、の! 落ち着け、落ち着け!!」
 全力で踏ん張るも、ここは坂道だ。重力が鴫野に味方して、少しづつ引っ張られる。
 御陵さんは笑って見送ったのに、どうして有神田さんの凶報にここまで激動するんだ。女の子の力なんてもんじゃない。現に今もボクの学生服が悲鳴を上げている。
 右手の腱が延びきりそうなほど我武者羅に前へ目指す鴫野の肩を、ボクはもう一本の手で引き戻した。それで辛うじてバランスを崩した鴫野を仰向けに寝かせられた。このチャンスを逃すまい、と足も使って体ごと組み敷く。
「鴫野!」
 形相が変わっていない。まばたきもしない。そうであっても鴫野は前へ前へと、その小さい肢体からは想像できないほどの力で身を起こそうとする。
 こっちは目に入ってない。ボクを感応よりも前に見てすらいない。
「鴫野、鴫野!」
 もがきもがいて引っ掻かれ、赤い色が見え隠れする。何か無いか見回す視野に、さっき落とした携帯電話が映った。神の救いか、壊れておらず私市くんの名前を表示したままだ。
 手を伸ばすとぎりぎりで届いた。ノイズが混じった音景に叫ぶ。
「私市くん! 鴫野が暴れてっ! 止められないんです!」
『今、そっちに向かっています。あと二分、いや一分半耐えてください』
 やっと通話は途切れる。私市くんも全力で走っている。もう後少し、鴫野を。
「もうすぐ私市くんが来るから、来るから!」
 制止にならないとしても呼びかけるしかない。路上だなんて気にもせず、女子生徒を襲っているなんて濡れ衣に逡巡もせず、ボクは行かせまいと力を込める。
 次第に鴫野の抵抗が弱くなっていく。疲労の為か、ばたつく足も最初ほどは暴れない。
「鴫野……」
 目尻に涙が浮かぶ。さっきのボクと同じなのに、その中身の違いが重さを具現化していた。感応しているからこそ笑った鴫野が、感応しているからこそ泣いたのだ。
 子供に見えた。
 でも御陵さんのように無垢じゃない。生まれてから地獄を出た事の無い、壊滅した厭世の鬼子。

「     どうして!?」

 喚き、問う。
 どうにかしてほしいのはボクだけじゃない。救いを求められた鴫野ですら、時に運命を憎む。自分じゃどうしようもない情動を、何かにぶつける。
 私市くんが来るまで、ボクは頷き続けた。
 それ以外に、何も出来なかった。
 歯痒いなんてもんじゃない。あったのは己の不備を嘆く呪詛めいた自問自答だけ。
 世界はそんなボクらを置いて、移り気に廻りだしている。



3

 私市くんが来て     すすり泣く鴫野を抱え上げて、呼び出したタクシーに乗せたのはもう二時間も前だ。三十分ほどで駆けつけた病院の集中治療室の前で、ボクらは待合椅子に腰かけたまま無言でいる。
 鴫野は病院に着くなりすぐに病室を看護士から聞きだして、ミサイルを思わせる速さで階段を上がり、手術室の前まで走っていく。ボクらが追いつく頃には手術中のランプが赤々と点灯する扉の前で、壁に頭を打ちつけ続けていた。
 それから一時間後、手術は終わったものの意識を取り戻さない有神田さんは、集中治療室に移された。そこでボクは「今夜が山」の本旨を知った。
 柔らかい質感が逆にボクを不安にさせるソファの上、私市くんは手を前で組んだまま微動だにしない。一言も喋らないし、行動を起こす事もない。
 鴫野は対照的に、十数分に一度は発作的な暴動を見せた。集中治療室のガラス窓に張りついて叫んでみたり、ソファの下に潜って背中で持ち上げてみたり、通り過ぎる看護士に殴りかかってみたり。錯乱を如実に体言している。
 ボクは鴫野を止めたり、有神田さんの呼吸器にできる結露で、生命の確認を馬鹿の一つ覚えに反復していた。心電図が波を表示するっていうのは、まだ生きているっていう証明だなんて当たり前の現象を自分に納得させる。
 有神田さんの両親はまだ来ていない。連絡すらつかないという。
 今日の早朝、有神田さんはいつものように自宅で就寝していたらしい。共働きの上、ほとんど家に帰らない両親は当然ながらその日も家にいなかった。
 寝ていた有神田さんは階下からの物音に目を覚まして降りていき、そしてそこで空き巣に出会ってしまった。混乱して逆上した空き巣は、キッチンにあった包丁で有神田さんを刺す強盗にジョブチェンジし、あえなく彼女は数十回の攻撃を受けた。
 以上が警察から聞かされた事情聴取内でのおおまかなまとめだ。せっかく勢揃いしてくれた友人にも話を聞いておこうという警察の時間潰しに付き合う代わりに、ボクは情報を得た。
 未だにどういうシステムかは知らないが、有神田さんの異常を私市くんが感知して病院へ連絡。応急措置や救命行動を続け、病院への搬送まで延命させた。そのおかげで失血死を免れ、手術を受け得る段階まで持っていけたのだ。
 あとは祈るしかなかった。
 警官が最後に残した「今日は高校生がよく死ぬな」という、ただの小さな苛立ちに成り果てた大切な人格を繰り返しながら。
「鴫野、こらえろ」
 自分の指の爪を剥がそうとやっきになる鴫野を止める。しばらくして収まったのを確認し、ボクはまた無言の瞑想に戻った。
 私市くんを見る。顔からは何も窺い知れないが、見られた事に気付かれたのだろう、私市くんがこちらを向いた。
「祝園くんはどうして死ぬのが辛いか、分かります?」
 投げかけられた内憂外患。
「死ぬのは辛いんですよ、俺。けっこうこれでも」
 少し微笑んだようにも受け取れる顔つきのまま、組んでいた手の左右を入れ替えた。
 まだ有神田さんは死んではいない。けれど、これからその最悪な予想を迎えなければいけないと仮定するなら、それほど残酷な質問はない。ボクにとっても、私市くんにとっても。
「死ぬって、恐いじゃないですか。ボクは死ぬのが恐いです。だって自分がいなくなった世界の事なんて想像もつかないし、それよりも何より、もう何も出来なくなるだなんて」
 本当の意味で他人と感応できなくなるだなんて。
 事故にあう前の自分は死ぬのなんて恐くなかった。自分がいなくても世界は変わらないと達観しつつ分かりきった答えだとして受け止めていた。むしろいない方がいいとさえ、考えていた。
 今のボクにはとてもできない。死ぬのは恐い。
 無意識に出た本音に、私市君は冷笑を返した。
「祝園くんはだから感応しきれないんでしょうね」
「え?」
 突然の見限り。
 唖然とするボクを見る私市くんの眼は、有神田さんを見る時よりも冷たい。
「それは結局のところ、自分の事なんですよ。だから君は人と関わり合うなんて出来ない。出来るはずない。なぜなら自分の事しか考えてないからです」
「ちょ、ちょっと     」
「何か? 間違ってはないと思いますよ。自分が恐怖を受ける、自分の想像がままならない、自分で何も出来なくなる」
 確かに。
 確かにそうだけれど。
「人が死ぬってね、完全無欠に無謬な、納得できない事なんですよ。人にとって、それは自分の中にある根本的な柱を無視して横切っていく。まぁ、納得できればそれは『死んだ』っていう過去になってしまいますから」
 鴫野が横で低く唸った。
「君みたいに生きる意味を見つけてすらいない人間には関係無い話なんですけどね。俺とか有神田とか、鴫野みたいに、自分がどうやって生きるのかを、自分と感応してしまった人間にとって、意味の無い死は耐えられない」
 言うだけ言い切って、彼はまた手の左右を元に戻して集中治療室に向き直る。これで話はお終い、もうこれ以上の会話をしないと示唆した。
 ボクが自分にすら感応していないって?
 そんな馬鹿で失礼な事があるか。自分にしか感応できないって知ってるからこそ、ボクは自分だけで生きようとしたのに。鴫野に会うまではそうやって生きてきたのに。
 鴫野に会うまで。
「鴫野さ、鴫野」

 それってつまり。

「御陵さんと有神田さんの違いは、そこにあったのか?」
 結局は最後の最後で。
「『死んだ』と『死ぬ』の違いって、そういう事なのか?」
 ボクはボクに感応しきれていなかったって事なのか。
 なら私市くんの結論は真理だ。的を射るどころか最初から的なんて無かった。
 ボクはボクにすら感応していないのに、人と感応しようとしていただけ。
 自分が掴んだ『邪悪』に、自分がどっぷりはまっていた。自分は今まで邪悪なものを善良だとして自分を貶め、あまつさえそれを絶対として人との感応に使おうとしていた。そもそも根底が正反対に軋んでいたのに。
 有神田さんが私市くんに暴行されていた時に感じた違和感。自分の善が人の悪だと、スタート地点から後ろに逆走していた『自覚』。
有神田さんは言った。
誰にとって正しいのかを考えてほしい、と。
 世間の常識だとか、模範だとか、規定だとか、テンプレートだとか、定石だとか。そういうものじゃなくて、人と感応するっていうのは、自分とその人との間に何があって、そして何を働きかけられるかを見定める事。
 嘘だろ。それはもはや超能力だ。
「ちょっと、外の空気を吸ってきます」
 ソファを立ち、ちょうどその階で止まっていたエレベーターに乗り込んだ。一階まで一度も邪魔されずに帰着し、ロビーを通って表へ出る。外はまだ太陽が燦々と照っていて、今日も春らしくない暖かさになりそうだった。
 今まで自覚していなかったけど、ボクは太陽アレルギーなのかもしれない。
 太陽を見上げて、止まりそうにない涙を拭いた。



4

 病院の目の前にある駅から電車に乗って数分。下車して歩いて十数分。ボクはやけに眠い頭を揺すって、自分の通っている九隅第九高校の正門前にいた。
 もうパトカーは無い。立ち入り禁止の札は出ているけれど、教師の姿も見えない。再度、裏門からの侵入を試みて、危なげなく成功。朝と同じく非常階段を     非常階段を、昇ろうとした。
 登ろうとしたけれど。
 足が上がらない。
 最初の一歩も踏み出せない。
「どうしたんだよ……」
 それは襲ってきた『自覚』。
 無為に帰す最悪の最終兵器の攻撃だ。
「どうして動かねぇんだよ!」
 前へ前への命令は、頭の中だけで身体にまで下りていかない。片隅で行くなと自分が囁いている。行っても意味なんてないんだと。もう、そこで出来る事なんてたかが我田引水にも満たない曖昧な贖罪だと。
 どうにか一歩を奮い立たせる。階段に足をかけ、またそこで止まる。歯軋りをしても、身震いをしても、そこから先へはどうしても行けない。御陵さんが覚悟を決めた場所まで登りつめるなんて出来やしない。ビバーグすら許されない、アドバイスも受け入れられやしない。
「くそ、くそ」
 悔しさが身を貫いていく。後になっての無念は嫌いだ。取り返しがつかないからこその美徳だが、それはどうにもならないからこそ、それしか出来ないってだけ。反省なら次に生かせるだろうけど、自分一人で完結する世界に人を動かせる力は無い。
 そういや鴫野はそういうのが上手かったんだろうなぁ。自分の世界を人に浸透させて、それなのに相手の世界を自分に迎合できる。そういった唯一無二の非凡な、唯々させる心酔性。ボクに真似できない所業。
 ふと、鴫野を頼ってしまった。
 背中に応援がほしい。そのままでいいよって認めてほしい。一緒に行こうって誘ってほしい。わたしがいるからって付き添ってほしい。君が必要だよって感応してほしい。
 けれど鴫野は死んでもそんな驕らせる言葉を言わないだろう。
 隔靴掻痒のボクを見て、鼻で笑う事すらせずに。ただただそこに人間が一人いるんだな、以上の感情を持ちやしない。
 だから鴫野に嫌われたくない。見捨てられたくない。人間が持ちうる最高の防御だ。『自覚』が兵器ならば、『感応』は要塞なんだ。
 感応すらさせてもらえなかったボクに、少しの希望を見せて緊縛する。さながらそれは繭だ。一生、繭のままでいるか、それとも幼虫のまま土の中にいるか。カフカを思い出して少し頭痛を強くした。
「もう鴫野に会えない。ボクは鴫野に嫌われてしまった」
 嫌ってすらもらえていないかもしれないというのに。
 まだそんなところで甘えているのか。
「こうなるならもっと早く     」

「青春は手遅れになった辺りが食べ頃なんだよ」

 声を聞く。
「少年、そんなとこでうだうだと耳っちいなぁ。やっぱり祝園くんは会議中だけスターリングラードになるタイプだ」
 大人びた、静かな中音域の声に似合わない乱暴な口調。墨染先生はいつもの白衣で、ポケットに手を突っ込んだ姿勢のまま、校舎の壁に背をもたれさせていた。
「さっきから見てれば、何か面白い事でもしてくれるのかという期待をことごとく打ち砕いてくれるね。そこで白鳥の湖でも踊ってくれれば笑ってあげんのに」
「先生、先生にはもう、関係無いですから」
 そんなお調子事に乗れるほど、今のボクに余裕は無い。持ち上がる情緒、業腹を抱えて足を階段から下ろす。
「あら、下ろしちゃうのかい。せっかく一段だけでも登れてんのに」
 初めて面白いとでも言わんばかりに眼を開く。拍子に、掛けた眼鏡の奥から爛々とした瞳を介して、好奇の傾注が流れてくる。
 いよいよボクの我慢にも頂点がある。面白がられる、それ自体には別に何も感じない。しかし、この状況で、人の不幸を喜ぶなんて、そんなのボクからすれば単に神経を逆撫でしているだけだ。
 鴫野はどんなにこっちが不幸でも、それをひっくるめて幸せにしてくれる。
「むかついてんね。やっぱ人ごと信用できない手合いかい」
「さっきから人の事を悪し様に謗ってますけど、ボクはもう鴫野との感応に終りを見てます。ですから、墨染先生とも私市くんとも有神田さんとも、関係は白紙になります」
 もう無視しよう。接すれば接するだけ、磨り減っていくだけなんだ。
 先生は禁煙パイポを取り出して、すぐにそれを引っ込めて本物の煙草を取り出した。
「あー、そうなのかい。別にいいけど。少なくとも先生はいなくなんよ」
「え?」
「大人には色々あってね。監督責任だとか管理能力だとか、そういう捌け口をどっかに作らんといけんのよ。御陵に免じて黙って従うけどさ、墨染先生は先生じゃなくなっちゃうわけだ、これが」
 金属のライターを逆側のポケットから取り出して、蓋を開けては閉めるを繰り返す。
「準備室に篭れるから宿直なんてかったるいもんを引き受けてたけど、まーしゃあないね。元からそこまで教師に興味なんて無かったし。鴫野に会えただけでも収穫として、大学の研究室にでも戻るよ」
「それって、つまりクビって事ですか?」
「歯に衣着せないならそうなるね。この首一つでこの学校の体面が保てるならそれでよしでしょ。身に余る光栄だね」
 カチリカチリ、手の中で弄んでいたライターを今度は回し始める。器用に指を一周して戻ってくるそれを、墨染先生はまた送り出していく。
 隙間も無く。
「あ、御陵のせいじゃないけどね。そもそもあんたらを見逃してたツケが来ただけ。いつクビになってもいいように算段はつけてあったし、飛ばされる腹つもりもしてたし。意味のある退場、英霊ここに眠るってやつ」
 カチン。
 ライターは掌に納まって、動かなくなってしまった。
「その会議が終わったから外に出てみれば、まーうじうじと下らん迷走してる蛆虫みたいなのを見つけたんで、眺めてたんだけど」
 流した眼を送り、一瞥される。
 急に居心地が悪くなった気がした。墨染先生の進退を聞かされて誤認した、理由の無い優越感からじゃない。先生の目の中に、鴫野と同じ光を見たからだ。
「ボクね、要するに鴫野の友達にはなれなかったんですよ。あっちはそうしてくれようとしてたかもしれないですけど、ボクがそれをどっかで拒んでた。自分一人っていう慰めを垣間見て、一人で生きるのが正しいって」
 狂ってしまった歯車を戻す作業を、放棄してしまった。
「鴫野の事、最初はすごい嫌いだったんです。自分勝手で、大人気なくて。信じられやしなかった」
 信用に足る命題を提示もしなかった。影を知って、それが正しいと高慢になっていた。
「先生は、どうすればいいと思いますか?」
 こんな素直なファズは、無い。

「どうすれば、鴫野に感応できますか?」

 心奥で弾け飛んだ願望は、凄まじく単純なものだった。こんな簡単な問題に、どこでつまづいたんだろう。あまりに簡単過ぎて疑ってしまい、遠回りして苦労しなきゃそれが正解だって分からなかった。
 ボクのこの数週間を箇条書きにすれば、大学ノートの半分も埋まらずに終わるんだろう。それだけの空白をボクは無駄にしていた。楽をして手に入るものに価値なんてないんだって、決め付けてかかってた。
「鴫野は知ってた。最初っから簡単な道に行けばいいって」
 鴫野は世界に気付いてなかったわけでもない。無視していたわけでもない。
 鴫野は一番、良い近道がすぐに分かるだけだ。
「祝園くんは自分で解いた答えを人に確認しないと満足できないのかい?」
 今度こそ、墨染先生はライターで火を付けた。
「お膳立ては上の人がやってくれるから、後は適当に外国でも行って博士号でもとろうかね」
 深く息と共に煙を吸って、吐き出す。
 紫の煙で周辺はおぼろげになってしまった。上だか下だか分からない。鴫野はボクに呪文をかけていったのかもしれないし、突き放してマシンガンを撃ちこんだのかもしれない。
 ボクの生きるって、鴫野の前では何の価値も無い。生きるっていう手段を、目的と勘違いしてしまった。最低限のラインを最高だと思って、何かをする以上の行動を自分から起こさなかった。それが鴫野とボクの間にある決して埋まらなかった溝。ボクが渡る前に向こうへ渡ってしまった鴫野を、こっち側の安全な場所から見下してただけ。
 自分から死地に飛び入って危険を買う無謀さが生きるって事じゃない。自分が何をして、何を残せるかが生きたって事なんだ。
 今更ながらにそんな単純な回答に行き着くなんて。いや、気付いてはいたけど無視してたんだ。そんなの、子供のわがままと同じだって。人に迷惑をかけるだけで、自分だけが達成した高揚だって。それなのに人から馬鹿にされて、ただただストレスが溜まるだけだって。
 自分の内側から自分を持ち出さないと。恥ずかしくて滑稽で、人に迷惑をかけて見下されて、それでもとりあえずはそれをしなきゃ自分が自分でいる意味なんて、無い。
「そうやって真理に辿り着いた気になっているのも構わないけど、それを知ってんのは今んとこ、ここにいる二人だけなんだわ」
 先生の目はもうボクを見ていない。
前へ、その方向には大きくて赤い十字架が聳え立っている。
「で、何をすんの。で、何が出来たの。そこで終わっちゃそれこそ意味なんて無いよ、祝園くん。人様にかけた迷惑は後でいくらでも賠償なり無視できるけど、君が本当に迷惑をかけたいのはそこらへんの『人間みたい』なんじゃないでしょ」
「ボクは、まだ迷ってます。今がそういう状況じゃないって知ってる」
「だからって先送りにしてても問題が解決するわけじゃないよ。なら面倒は一気に片付けた方が楽だと思うけどね」
 半分も吸っていない煙草を、墨染先生は携帯灰皿に突っ込んだ。真新しいパッケージと中の銀色が黒くなっていく。外側から二回、三回と握りつぶして、執着しない笑みを浮かべた。
「煙草、吸っちゃった。いいか、祝園くん。煙草を吸う罪っていうのはけっこう重いんだ。即刻、退場もんくらい」
 そうしてまた、ボクの人生劇場から一人の人間が上座にはけていった。

「あたしはもう行かなくちゃ。さようならだ」

 裏門を目指し、しっかりとした足取りで。
 サンダルが足の裏を叩く乾いた音を、その時ボクは一度だけ聞いた。他の人なら聞き鳴れた雑音なのに、墨染先生のそれはひどく寂しい。でもそれほど悲しくはない。これが感応したって、そういうんだろうか。
 ボクは頭を下げていた。感謝が理由でもあったし、別離を送る為でもあった。これくらいは、してもいい。でもそれ以上、声をかけたりだとか追いかけたりだとかはしちゃいけない。それが感応、それが相手を思って自分の成す状況を弁える事。
 やっとここまでやってきた。真意が伝わってきさえしなかった鴫野の振る舞いが、もうボクにとっては当然で普通な日常になっていた。
 やがて頭を上げて、携帯電話をゆっくりと開いた。もうそろそろだと確信があった。別れを告げた最期を潤色する閉幕が、もうそろそろボクにやってくる。
 託宣は整った。鳴動した端末からの入電を、ボクは受け入れる。
「はい、はい。……そうですか、はい。今は学校です。そっちにはもう戻りません。はい。あ、鴫野は? そう、そうですか。伝言を     伝言を、頼んでいいですか? ありがとうございます。なら伝えてください」
 臭いと嘆く心の抑制を跳ね返し、もしどうせたらればを突っぱねて、ここぞという具合を見極めもせず、率直に自分の中身だけを取り出して。

「明日、屋上で待ってるから」

 ボクは勝負をしよう。決着をそこで決めよう。
 決戦は日曜日じゃないけれど、どうせ学校には誰も入れやしない。よしんば入ったところでボクと鴫野の感応にはついていけないだろうし、そもそも屋上になんて来やしない。
 絶好だ。根が不謹慎でできているボクをもって、ボクは鴫野との関係を昇華する。
 意気揚々とボクは非常階段を上った。あれだけ重かった足取りが羽のように軽い。疲労も講釈も必要ない。上へ、上へと後は登るだけ。
 不意に頬を刺した冷たい刺激に、足を止めた。触れると瞬く間に解けてしまったそれは、水滴となって指を滴り落ちる。
 満天の水色の中、点々と自己主張する四月に降る雪。
 もっと近くで見たくて、もっと誰よりも早く出会いたくて、一気に速めた足を踏み出す。踊り場、非常扉、三年、二年、一年教室の窓。遮るものなんて何も無い屋上への出口と入り口。右手にある給水塔の梯子を引っつかんで、自分の身体を持ち上げる。
 見上げた空は、朝と変わりない空。けれど風が無く、流されない雪は綺麗に直下を描く。春の暖かい陽気の中で降り注ぐのに、嫌悪感も無い謙虚でいて雄弁な雪は、まさしく偶像の中で感じた偽りの無い存在。嘘で塗り固められた世界に入り込んだ欺瞞の無い真実。
 雪が消えるまで、ボクは空を仰ぎ続けた。首の骨や筋肉が悲鳴を上げて、少し笑った。
 今日はこのままここにいよう。明日が来るまでここでいよう。
 自分以外に無い、自分だけの有様を見届ける為に。



5

 一秒はこんなに長いのに、一日はこんなにも短い。
 人生なんてどうでもいいけど、覚悟はたぶんとても大切だ。
 ボーイズビーアンビシャス。
 ぼくは今日に満足できたんだろうか。
 あれから地平線に沈んでいく太陽を見て物思いに耽ったり、入れ替わりで右方から訪れた月に感慨を覚えたり、夜の時間になれば星を数えて自分の星座を作ったりもした。そういった人に知られたくない、自分だけの純粋な部分を愛でていた。自慰と同じ、肉体か精神のどちらかに特化した快感を貪った。
 朝になるまで考えた。これからの事、これまでの事。そのどちらもがボクに何かを語りかけてくる。時に迎え入れ、時に反旗を翻し、時に聞こうとしなかった。でも一つだけ、空洞を通る一本の意思だけは貫かれていた。
 さっぱりした気分だ。
 あんなに憎かったのに、どんどん世界はボクにとってえもいわれぬものになっていく。愛が全てだなんて吐き気を催す明言を、今なら理解できる。
 自分の中で、自分の愛するものだけを愛す。それが自分の世界を埋め尽くしたならば、その中だけで満喫する。それこそ、愛が全て。格言に楯突きたい年頃のボクにとって、こんな歪曲理論の展開はもうお手のものだ。模範解答の出来栄えに慢心する。
 眼前の風光明媚。
 夕方とはまた違った朝の色。左に沈んでいく夜の帳と、右から昇ってくる黎明のさえずり。ネオンライトは見る見る内に消えていき、気の早い店や民家に明かりが灯る。
 透き通った匂い。昨日に降った雪が溶け込んだ、湿気を含む冷たい夜明けの空気を胸いっぱいに吸い込んだ。長い長い時間を中身も無く、快感に埋もれて過ごした今日を、ボクは忘れないだろう。
 急ぎ過ぎたままぐるぐる同じ所を廻っていたボクとは違う。ゆっくりとマイペースに真っ直ぐ目的地に向かっている実感があった。
 こうしてボクは『明日』を『今』にする事が出来た。
 その『今』を始める汽笛が轟く。

「祝園くん」

 やっと来たか。ボクはずっとここで半日ほど待ってたっていうのに。いや、もしかしたらあの出会った四月から待たせていたのかもしれない。
 追憶を重ねて顧みる。鴫野は昨日と変わらない、薄汚れた黒いスキーウェアに身を包んで立っていた。まさか鴫野の到着を給水塔の上から迎えることになるだなんて。こうして見ると、いつもと違うその姿は、脳内に熱を帯びさせる。
 鴫野は傷だらけだった。額にはぐるりと頭を一周する包帯が巻かれていて、手も絆創膏とテーピングでボロボロだ。それでも眼光は一切の衰えを感じさせず、ボクを見抜いている。
 感応できなかったボクの内面を探るように、深く深くボクに潜ってくる。
「やぁ、鴫野」
 鴫野が浮かべていた笑みの意味。それは自分の中の世界だけで完結している上に、御陵さんや有神田さん、私市くんや墨染先生の世界にもリンクしていたからだ。統合されつつも個体としての尊厳を残した集団、組織に属しているばかりか、自分がそこのリーダーだという自覚があったから。
 ボクを襲った無慈悲な自覚ではない、人を導く聖なる自覚が。
 そしてボクはそれにやっと逢着して、同じ笑みを浮かべている。
 まだ感応を維持していないまでも、その到達点に向かっている自分の前に躍り出た。
 鴫野の中で、昨日はもう過去になったんだろうか。ボクの昨日はまだ続いている。だから笑って鴫野に挨拶をする。それに応えて、鴫野の口角もいつもより吊り上り、唇が緩んだ。
「なんだよ、祝園くん。こんな朝から呼び出して」
「朝早くに来たのはお前だろ」
「そうだけどさ。呼ばれたとなっちゃ、ハックショイてなもんで」
「まぁ、いいんだけど。予想できてたから」
 いつもと違う状況で。
 いつもと違う二人で。
 いつもと同じ冗談を。
 いつもと同じように。
「で、何さ」
 正直なんてすぐに狂い果て消え、生きてる意味も無くなって死んでいく。「何がしたいの?」なんて何もした事ないくせに、ボクを見てよく言えたもんだね。太陽に憧れるフリはもう止めたんだ。
 鴫野に憧れるフリは。
 終わりにする。
「……昨日さ、色々あって。それで色々な事が一気にボクを殺していったんだけど、こうやって生き返れた」
「じゃあネオ祝園くんだ。新生ってやつ。そう言われると後光が差してて神々しいね」
 苦笑して給水塔を下りる。鴫野なりの冗談をそっくりそのまま笑える余裕を、思ったより遠くまで来た自分自身を、興がる。何もかも全て、好きな色に塗れた。それは幻想かもしれないけど、ずっと胸の奥を騒がせている。
「これでちゃんとボクが見えるか?」
 相対したボクと鴫野。お世辞にも美しい夢には似合わない二人だけど、この瞬間においてボクらはボクらの世界を共有している。
 回想する悪戯も、これで終わりだ。
 一つずつ、慎重に。
 爆弾を解体するように。
「鴫野さ、ずっと聞いてみたい事があったんだ」
 なにさ、とあの時のように反問される。
 ボクは出なかった言葉をようやく述懐できた。
「どうして鴫野はそんなにかっこいいんだ?」
 電車の事件も、御陵さんを守るのも、有神田さんを強くしたのも、私市くんを発起させたのも、墨染先生を加速させたのも。
 鴫野はいつだって輝いていた。
 虚構で作られた創造物に登場するどんなヒロインよりも、鴫野は憧れさせた。
「かっこいい、かなぁ。わたしは別にかっこつけてないけど」
 知ってる。鴫野は誇張したりしない。お菓子を食べ過ぎて太るのを気にするけれど、大勢の人間に疎まれるのに懸念なんて感じないんだ。
 ボクとは違う。
 垣根をまた一つ、突破する。
「鴫野と出会えてよかったと思うよ。ボクは色んな事を発見できた。夢が夢じゃないって、人間が生きるってどういうものなのかを理解できた」
 顔から火が出そうな恥ずかしい台詞だけど、禁止なんかさせない。
「大袈裟だね。なんだか今日の祝園くんは祝園くんじゃないみたい」
「昨日までの、と言ってほしいな。さっきもあれしたけど、今日のボクはネオだから」
 反吐が出る純愛も、決して嘘なんかじゃなかった。当然、世の中には色んな汚い恋愛があって、それがどれだけボクを不幸にしたかは筆舌に代えがたい。けれど、そんなに影があるならば、どこかに光があったって別にいいじゃないか。
 何度も繰り返した失敗とか大きく食い違った考えとか、ボクらの基準はいつも不確かだ。酷い目にあってきた人生の先輩を軽んじるつもりなんてないけど、夢だけ見て生きているボクを邪魔する権利は彼らに無い。どうやったって勝ち誇らせやしない。
「じゃあそのネオ祝園くんはわたしに何か用があんのかい?」
 何もかもそれなりで。
「そうそう。すんごい簡単で、なんていうかな。すんごい簡単なのに、すんごい難しくて」
 割り切ってしまえるほど、ボクはまだ大人になんかなれない。
「でも劇的に変えてしまう、そういう用事」
 前置きはいい。すぐにでもこの胸の内を曝け出したい。世間話で盛り上げるのなんて、ボクらには今更過ぎる。
「祝園くん、その前にちょっとだけ、いい?」
「ん、いいよ」
 なんだろうか。
 ポップでメロディアスな音楽が、急に変拍子になるテンポの改変。
「昨日、色々あったかんさ、わたしも色々と思うところがあるわけ。ほら、わたしこれでも女の子だから」
 女の子って便利な言葉だね、と鴫野ははにかんだ。同意を含めて頷き返し、話の先を促す。
「やっぱりショックだった。知ってる人がいなくなるって、残酷なんだよ。自分自身はどうにもなっちゃいないのに、わたしは人間だから」
 人間って不便な生物だね、と鴫野は哀歓した。同意も首肯もせず、瞳をうろうろさせる。
「残ったのはきっしーと祝園くんだけ。わおん先生もいなくなっちゃったし、わたし達三人だけ」
「墨染先生の事、聞いたのか?」
「昨日の夕方ね。病院に来たから。わおん先生はモナコに行くんだって。もう帰ってこれないかもしれないって」
 遠く離れていってしまう。自分が普通だと思っていた事が、非日常になる経過。
「一緒に行くか、って言われた。でも、わおん先生は返事する前にもういなくなってた。わたしも答えようなんてしなかった」
 鴫野は鴫野で、ボクが変わるのとは違う方向に変わっていたのだろう。それはこうやって会ってはっきりと確認できた。弱くなったともとれるし、乗り越えたともとれる。どちらなのかはまだ、感応していないボクには分からない。
「これからどうしようってきっしーと話したんだ。きっしーは言ってた。自分はだみつきより強くなるつもりだって。それ聞いて、わたしもやっぱり強くならないと、って思った。もっとしっかりしないとって     」

「ボクが!」

 弁を遮り、ボクは声を張り上げた。
「ボクが     鴫野を支えるよ」
 感応に、一歩を踏み出す。
「三人だけ、じゃない。ボクが、いるんだよ」
 その先の世界は、まだ見た事もない世界。鴫野の街の地図に無い景色で、ボクの為に花を咲かせようと錯綜する。
 そんな詩的で素敵な御伽噺じゃない。もっと下劣で分かりやすい感性で言い伝えられる、普遍で変哲の無い噂。あるのかどうかはボクが身をもって体験している。
「そう、だね。祝園くんがいるもん」
 目の端に涙が浮かんで、それを指で払いのける。包帯に染み込んで、そこだけ半透明な環形を作り出した。
 喪失は補填で補える。だったらボクは忘れ去るくらいに大きい存在として、鴫野に与え続けるしかない。ボクはもう充分に与えてもらった。恩返しをするのは、当たり前だ。
「祝園くんはすんげーね。ちょっと救われたよ」
 そしてボクは。
 ボクは打ち明けた。
「やっぱり鴫野はかっこいいんだよ」
 かっこよくて素敵で、輝いていて煌々しい。誰よりも正直で、誰よりも素直。間違っても間違えないで、正しいけど正しくない。楽しい生き方をしているのが似合っている。傲岸不遜で温厚篤実。徹頭徹尾に竜頭蛇尾だけど、最後はやっぱり鴫野は鴫野になってしまう。
 鴫野に関わると、どれだけ惨めになるかを実感する。それを乗り越えたところに人間の向上があって、頂点で折り返して初めて、鴫野にもう一度、会える。
 ボクは普通と離別しよう。これから、鴫野の隣で多くの障害を潜り抜けていこう。
「鴫野さ、頼みたいんだけど」
 口達者じゃないボクに言える事なんてそんなに無い。
「なにさ」
 酸いも甘いも噛み分けすらしてないボクに出来る事なんてそんなに無い。
「頼むっていうか、なんていうか     」
 だから一言だけ、ボクが感応するのはそれだけ。
 ボクは鴫野が。

「鴫野がさ、好きだよ」

 明滅する混沌の螺旋を、やっと賛美できた。終わりの無いこれからを始めるんだって、もう何も恐くなんてない。
 内臓が今になって位置を変えて動いているようだ。吐きそうなのに拒否できない。喉まで来た苦い味を、強引に飲み込んだ。
 鴫野は。
 鴫野はどんな顔をしてるんだろう。
「わたしが?」
「そ、鴫野が」
 きょとんとしていた。
 感動の最頂点にいるっていうのに。こんな浮かれ放題なボクを差し置いてどうしてそんなに。まぁ、それが鴫野なのかもしれない。
 真剣な表情から一転、ボクは白い歯をこぼした。つられて鴫野も微笑んだ。
「そうなんだ。祝園くんはわたしが好きなのか」
「そうなんだ。ボクは鴫野が好きになっちゃったんだよ」
 やっとだ。
 ボクはやっとこうしてここにいる。
 御陵さん。有神田さん。私市くんに墨染先生と。
 鴫野のお陰で。
「鴫野に会えてよかったんだ」
 三思巡らせて、ここに帰ってきた。一ヶ月前では想像すらしていなかった幸せと不幸のハイブリッド。停止したままだったボクは動き出してしまった。
 停止したままの方が楽だったかもしれない。前のように閉鎖した一人のままで生きていくっていうのも悪くなかったかもしれない。
 でも燻り続けていた心の懸念がとめどなく溢れて、ボクを進ませたんだ。
 決してそれは間違いなんかじゃない。
「御陵さんを選ばなかった理由。それが」
 嫌われる超能力を自認した昔を蹴飛ばして、坂を走り下りよう。踏み切りで電車が来たって轢かれやしない。面白がって写真を撮る奴に文句を言おう。
 地球が爆弾になったって、特異点はここにある。
「有神田さんに教えられたんだ。それを」
 ボクはここにいてもいい。その理由を探し出した結果。
「私市くんが持ち上げてくれたんだ。そんで」
 自分を信じさせてくれる。
「墨染先生が飾ってくれた。だから」
 まだ子供だから、一緒に行こう。
 二人で夢の中の夢が、何よりも絢爛だって証明しよう。
「鴫野、感応してほしい」
 掃き溜めの鶴なんか目じゃない。皆がみんな、見たくないものを見てしまった現実を受け入れるんだったら、ボクは記憶として残そう。
 ボクは天邪鬼だから。
 世界で一番、善良なつもり。
「     鴫野」
 戯れた諧謔を飛ばそうか。それとも目でも見詰め合おうか。
 二人の世界に何もいらない。誰も入ってこれやしない。邪魔なんかさせやしないし、出来やしないんだ。ボクは主人公としての使命を全うし、そして鴫野はそれに応えてくれるだけでいい。
 何万回も何億回も何兆回も、それすら数え切れないくらいに繰り返された場面を、今は二人で演じている。大舞台に立った二人がここにいる。
 世界を廻らせてきた間違い。
 世界を救ってきた過ち。
 ここにあるのはそれだ。
 
 ここにあるのは愛そのものだ。

 現実なんか知るものか。未来なんて意味も無い。過去にこだわらないで、『今』を生きよう。それだけでいい。
 鴫野。
 鴫野。
 彼女は立ち尽くしたまま、ポケットに手を入れたまま、ボクを見つめ返している。笑っているようにも泣いているようにも怒っているようにも見えるその様。
 一度開いた口が閉じ、何かを言わんとして言葉を噤む。
 虹色に光る。心臓が痛くない。もう誰にも勝ち誇らせやしない。
「祝園くん」
 そうやってボクは乖離したはずの世界に引き戻された。
「そ」
 淡白に。

「でもね、わたし嘘吐きが嫌いなの」

 簡単に物語は崩壊した。
「祝園くんはわたしを好きなんだ。でも好きと好かれるはどこまでいっても平行線だよ」
 当たり前じゃん。
 勘違いしちゃったんだね。
「すんごく哀れだよ。池の鯉みたい」
 あれだけ鮮やかで色彩豊かだった世界が。
 真っ白になる。
「結局、最後まで祝園くんは嘘吐いちゃったんだね。今の自分にも、昔の自分にも。感化されて、一人だけで突っ走って、どこか遠い向こうの方で叫んじゃって」
 見当違いも併発して。
「もう一回、こういうのはきっちりしといた方がいいから言うね」
 鴫野。
 鴫野。

「     わたしは嘘吐きが大嫌い」

 どうしよう。
 何にも出てこない。
 止まってしまった。
なんだかひどく。
なんだかとても。
眠い。
眠いなぁ。



ゼロの話



0

「あ、また来てくれたんだ」
 ボクはスライドしたドアの向こうに見知った顔が並んでいたので、手にしていたメーテルリンクの文庫本を足の上に置いた。が、ちょっと邪魔だったのでテレビ台の方に置きなおす。
「やっほー」
 鴫野さんは手に持った有名店のケーキ詰め合わせを顔の前に持ってきた。雪崩れるように後ろの四人も病室に入ってくる。またみんなで来たのか。この前も看護婦さんに怒られたばっかなのに。
 どうやらこの五人はボクの友達だという。数日前に目を覚ましたボクを、親の次に駆けつけてくれた程の仲だったので、かなり深い親交があったんだろう。
「ボクはまだ食べられないから、みんなで食べなよ。ちょっと先生のところに行ってくるから、静かに待ってて」
 やっと外れた点滴台を押しのけて、ベッドから地面に降りる。しばらく眠ったままだったと聞かされているから、足元が少々おぼつかない。まぁ、これもリハビリの内だ。
 松葉杖を頼りに、すり足のように歩いて医師室に向かう。すっかり顔馴染みな看護婦さんに挨拶をしながら、中途半端に伸びた髪を切らないとなぁ、と何とはなしに考える。
 幸いにも外に出ていた担当医師に出会い、部屋までサポートされながら共に向かった。ボクの病室より幾分か上等なドアを開けてもらう。室内から鼻を刺激する消毒薬の匂いが染みた。
 相対して。
「祝園くん、体調はどうだ?」
「いえ、特には。ケーキが食べられないくらいですかね」
 今日は現状と原因の説明だという。
 机に並べられた数枚のモノクロ写真は、ボクの頭の中を映し出したものだ。といってもその時のボクは意識を取り戻していなかったので記憶には無いが。
 しかしこうして自分の頭の中を見るというのも奇妙なものだ。
「こことここに影があるでしょう。あとここと。祝園くんは憶えてないだろうけど、君は今から三年前に自動車に轢かれているんだよ」
 それは聞かされている。
「その時には見付からなかったんだね。小さかった傷が広がって、血が溜まっちゃってる。それで大きくなっていって、それがここ、この大脳辺縁系を     あぁ、睡眠を司ってる部分ね     を圧迫しちゃってる。それが破裂したのが主な病因、原因かな」
「はぁ」
 生返事しかできない。前のボクはあまり保健に強くなかったようだ。
「その事故の時も君は記憶を無くしてるようだね。失血性だったらしいから今回とは関係無いけれど、これからも     もしかするとその危険はあるよ」
 嫌だなぁ。
 今、病室にいる友達を忘れるなんて。
 まだ二回か三回しか話していないけれど、ボクには分かる。彼達は本当に生きるっていうのに真っ直ぐで、素直だ。ボクが目覚めてたった数日でここまで元気なのも、それが要因として大きい。
「危険があるといっても僅かだけどね。それと、この血腫を取り除く手術は完璧に成功だから、後遺症は無いよ。安心してくれていい。これもこの天才執刀医のお陰だね」
 腕を叩く医者に、苦笑を返す。
「感謝してますよ。その腕で自分のジョークセンスも手術してください」
「はは、言うね。そっちの方はまだまだ修行が足りないよ」
 短く談笑して、人を待たせているからとその場を辞する。付き添おうかと言われたのを断って、あまりしっかりと踏み留まってくれない足を叱咤する。
どうにか病室まで辿りついた。中から何やら騒ぎが聞こえる。
 それと同時に看護婦さんの高い声。
「もう、あなた達は!」
「すいませーん」
 慌てて扉に手をかけて横にどけると、ボクのベッドの上に立っていた五人が怒られていた。どうせ跳ね回って遊んでいたんだろう。すんごくふかふかだからな、あのベッド。
 ボクにまで飛び火した看護婦さんのヒステリックをかわし、みんなが下りたベッドに寝転がる。この個室だけ特別に常備された五つのパイプ椅子を持ち出して、各々が座った。
「また怒られちった」
 グループのリーダー格である鴫野さんが頭をかいた。こうやって子供っぽく振舞うのがとても似合う女の子だ。
 それからしばらく、ボクはさらに友好を取り戻そうとひたすら話をした。自分がどういう人間だったかを聞くのは     何か申し訳無い気がして聞けなかった。けれどあちらから何も言わないという事は、大体のところ今と同じ感じだったんだろう。
 記憶を無くす前の自分も自然体で正直な馬鹿だったんだろうなぁ。
「君も屋上からバンジーしてさ」
「そんな事してたのか、ボクは」
「嘘だよ。すぐ騙されちゃうからなぁ」
 くそ。悔しいのでいつか寝起きどっきりでもしかけてやろう。
「まったく、祝園はいつもそうだよな」
 五人の内の一人、山科備後(びんご)くんが鴫野さんに同調した。彼は仲間内でのムードメイカーの能力を遺憾無く発揮して、いつでも笑いを運んでくる。
「なぁ、愛もそう思うだろ」
「い、い、いや、ぼぼぼくはそんそんそんな」
 このあがり性の坊ちゃんは愛上雄(うえお)くん。前髪で隠した目線の上からでも、極度の緊張が伺える。背の低い、おっとりした女の子みたいな男の子だ。
 備後くんと愛くん、そして鴫野さんはボクと同じクラスだという。さぞかし楽しいクラスなんだろうな。
 そして最後の一人は年が上らしく、つまりボクと同い年。とてもそうには見えないほど落ち着いている。物静かなのにみんなを引っ張っていくような不思議な魅力の人だった。
「きっしーはそういや卒業はどうなのさ」
「それが難しいんですよ。もう一年、留年しそうなんです」
 こんな面白い友人がいて、幸せだったと思う。惜しい記憶を無くしてしまったんだろうなぁ。
 そんな中で一人、鴫野さんだけは他と違って見えた。
「鴫野さん、ちょっと聞いていい?」
 なんだか輝いているというか、煌々しいというか。はっきり言うと、ボクは彼女と話す度に胸が呼応する。一目惚れかと思ったが、身体が慣れた痛みのようにそれを受け入れた。
 期待と希望を綯い混ぜて、ちょっと冗談に聞こえるように。

「あなたはもしかしてボクの恋人なのかな?」

 一瞬、時間が止まった。
 なんかマズい事でも聞いたのか?
「ぶふっ」
 我慢できなかった笑いを、そこにいる皆が吐き出した。
「ぶははははは!」
 何が可笑しいのか分からないので、ぽかんと口を開けて唖然とするしかない。
「そんなわけねぇって!」
「そそそ、そうそうでですよ、ふふ」
 かなり的外れな質問だったらしい。
 鴫野さんはそんな中、誰よりも人一倍笑い転げていた。椅子から落ちそうな勢いで抱腹絶倒している。なんて失礼な。傷付くぞ。
「はは、ごめんごめん。あんまり変な事、聞くからさ」
 と、右にいた私市さんの耳を引っ張る。
「これ。これがわたしの彼氏」
「ども。十五人目です」
 無表情でピースサインをした私市さんに一転、照れた仕草で鴫野さんは反論した。
「そんないってない! まだ三人目!」
 その波乱に、また笑いが沸いた。備後くんは「鴫野は尻が軽いな!」と発言して顔面にチョップを食らい、愛くんは「き、き、私市ささん、ひひどいです!」と嗜めた。
 緊張からの緩和で、ボクも頬を緩める。なんだ、ただの勘違いか。まぁ鴫野さんは可愛いからなぁ。ころころしてて犬みたいっていうか、猫みたいっていうか。
 それにこんながりがりに痩せ細った牛蒡よりも、健康的でしなやかそうな私市さんの方が似合ってる。これならもっと愛嬌のある肥満の方が良かったなぁ。
「あ、そうだ」
 まだ騒乱が収まらない渦中で、鴫野さんは思いついたように顔を上げる。
「せっかくだからあだ名を付けよう!」
 それに皆も賛成の意を唱えた。
 あだ名を付けるのか。そういえば鴫野さんはみんなをそれぞれあだ名で呼んでるもんな。前のボクにはどんなのがついてたんだろう。
 ボクにはそれが、過去を思い出させないように新しいあだ名をつけようとしてくれいる心遣いに思えた。もちろん、ボクはそれに乗っかって余計な事なんで聞き返さない。
「そうだなぁ。祝園、祝園だから、んー」
 楽しかっただろうなぁ。幸せだっただろうなぁ。
「決めた! 君は今日からそのひー!」
 いや、くよくよ悩んでも仕方ない。これからはこれから、これまではこれまで。割り切って、前よりも素晴らしい世界を作っていけばいいじゃないか。
 彼らから奪ってしまった前のボクよりも、もっと楽しい今のボクを与えよう。
 それしか出来ないんだから。
「そのひー。そのひーって良い名前さね!」
「そうかぁ? まんまじゃんか、やっぱ鴫野は頭悪いんだって」
「んだよ、しにゃーまだって幼児向け漫画の主人公みたいな名前じゃんか」
 そうやって明日を生きていけばいい。なんだか上手くいえないな。関係、じゃないし。供給もなんか他人行儀だな。なんだろう、感応とでも言おうか。
 あぁ、ボクは。
      ボクは幸せだ。
 記憶を失ったっていうのに、こんなに頼れて面白い友人が毎日来てくれる。多少は迷惑だけど、それはご愛嬌だ。
 そのひー。悪くないじゃないか。
 面会時間のぎりぎりまで、ボク達は笑い合った。もうすぐみんなは高校を卒業するらしいけれど、ボクはまた二年生からやり直す事になりそうで、そこが少し憂鬱だけど。
 でもま、放課後なり休日なり幾らでも遊べるさ。
 陽も傾いて、看護婦さんが二回目の時間切れを告げた辺り。みんなは名残惜しげに帰る準備をし始める。ボクは明日までまた暇な時間を過ごさなければいけない。
 帰り際、鴫野さんは振り返ってボクにこう言った。
「君にはわたしなんかよりもっと良い人がいるって」
 またその話を蒸し返すのか。恥ずかしいからやめてくれ。
「ごめんね。変な事、聞いて」
 いいって事よ、と鴫野さんはスカートをはためかせた。

「間違ってもわたしに惚れちゃ駄目だよ」

 こうしてボクの一日は過ぎていく。怪我が治ったらどこかこじんまりした定食屋で、大盛りの親子丼でも食べたいな。一人でもいいし、誰かを誘ってもいい。
 ずっと続けばいい、幸せな日々。
 ボクは自分の幸福を、いるかもしれない神に感謝した。
 ありがとうございます。
 これから自分だけの物語を始めます。
 今はまだ、ゼロの地点。レイにやっと立ったばかりですから。
 夢のような現実を生きます。


終わり

レゼイロ 1部

面白いと思ったら考え直した方がいいですよ。つまんないと思ったら人間ぶるのやめた方がいいですよ。

レゼイロ 1部

いくら概要面白そうでも内容そうでもないやついっぱいあるで。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-04-11

Public Domain
自由に複製、改変・翻案、配布することが出来ます。

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