帝国再興記(仮)
0.船が落ちた日、私は泣いた
それはあと2分で日付が変わろうとしていた時だった。
低く重たい轟音が、寝台の上で寝息を立てていたオウカを下から貫いた。質量をもった何かが当たったような、音と表現するよりは衝撃波に近い感触だった。
左右に揺さぶられるサイドテーブルからガラス瓶がすべり落ち、中の水が宙に舞った。小さな備え付けのクローゼットの扉が開いて振り回され、壁に何度もたたきつけられている。
耳に残り続ける音と、寝起きに付きまとう判断力の欠如のために、オウカはまだ夢の中にいるのかと思った。小さな船室は嵐の海に浮かぶ小船のように左右に揺れていて、ベッドから床に降りることも難しい。
1分にも2分にも思えた10秒間に満たない揺れが収まったとき、船室は大きく傾いていた。
床を勢いよく転がってきたガラス瓶が、オウカのつま先に当たって止まった。
じんとした痛みと、部屋の外から聞こえるサイレンの音が、これは現実だと告げていた。オウカはようやく、この艦に重大なアクシデントが起こったことを察した。
自分の顔ほどしかない小さな船窓に顔を寄せる。窓から、夜空にうかぶ星座が真正面に見えた。船が傾いているために、窓は天を向いているようだった。
オウカは壁伝いに歩いて、クローゼットまでたどり着くと、床に放り出された外套を拾った。扉に備え付けられた姿見に、高純度の銀を思わせる髪と紅玉の瞳をした少女の姿が写る。オウカは初等学校を卒業したばかりの帝国人の子供ほどの背丈だった。150cmほどだろうか。ゆったりとした寝衣の上からでも、贅肉がまったくない華奢な体であることがすぐにわかる。華奢な首の上には小さく細いあごがあって、すっと透けるような白い肌が赤い目を際立たせていた。
可憐な、儚げな少女だった。二重の大きな瞳と、小さくまとまった鼻と、すこし下がった眉尻が、見るものの庇護欲を駆り立てるような雰囲気を付け加えている。
ゆるゆると波打つ背中まである銀髪を、耳の下あたりで一まとめにすると、オウカはその整った顔立ちには似合わない、すそのすれた安物の外套を羽織った。
「お怪我はありませんか!」
声と同時に部屋の扉を壊さんばかりに開けたのは、手に白いサーベルを持った帝国人の女性だ。オウカと同じく銀髪と赤い瞳を持っていたが、オウカとくらべればその色合いの彩度は低く見えた。いつも厳しく見える薄い顔が、今はさらに険しくなっていて、今年で30歳という年齢より彼女を年上に見せていた。180cmのすらっとした体だが、サーベルをつかって、オウカがいる船室の鍵を強引にこじ開けたことを思うと、服の下には高い密度の筋肉が存在しているようだ。
「カサネ!」
オウカと同じ粗末な外套をひるがえらせて、カサネと呼ばれた女性が駆け寄ってくる。顔にはオウカが無事だったことへの安堵があったが、落ち着きなく周囲を見渡す瞳は焦りに揺れていた。
「な、何があったの!?」
「わかりません……。ですが、船体の後部で爆発があったようです」
この状況で爆発と聞いて、次に墜落という単語が浮かんでくるのは自然なことだった。
「どうしたらいい?」
カサネの袖をつかみ、オウカは怯えた瞳で彼女を見上げた。
「案ずることはありません。フラーテルとソロルが最下甲板の倉庫にいます」
初耳だった。あの兄妹と、別れの挨拶を交わしたのは昨日のことだ。
斜めになった艦の壁をつたいながら、二人は狭い階段を下った。手を引かれて昇りきると、艦橋への入り口がすぐ隣にあった。初老の帝国人らしき男が立っている。
帝国空軍の紋章が入った軍帽をかぶり、白い手袋に白い詰襟の軍装だった。胸には古びた勲章がいくつかと、少佐であることを示す階級章がある。
「状況は『想定ハの2』です。予定通りでよろしいですかな」
サイレンに負けじと張り上げられた声は、酷くしゃがれていて、彼がこれまで長年にわたって幾つもの戦場を渡り歩いていたことをうかがわせた。
うなずいてみせたカサネは、艦長へと目配せで何かを伝えたようだった。
「お願いします、艦長」
「了解。この私と同じく老いたこの駆逐艦に、大役を与えてくださったことを感謝しております」
最敬礼が二人へと向けられた。いつも冷静な表情のカサネだが、瞳は感情を隠せていない。彼女の唯一の、弱点ともいえない弱点だ。
いま、その瞳にあったのは動揺のようだった。
「知っておられたのですね」
「……長く生きていると、よからぬ勘ばかり鋭くなるものです。さ、いそぎなさい」
艦橋へ入った初老の艦長は、重厚な防火扉を内側から静かに閉めた。最後に見えた、どこか寂しげな横顔に、穏やかな決意のようなものを感じる。考えないようにしていたことが、現実になろうとしている気配があった。
「艦長は? この艦に残っている兵士たちは?」
どうやって逃げる? その言葉は出てこなかった。なぜなら、逃げ場など『兄妹』を除けばどこにもないからだ。
「艦長いうものは、最後まで船にのこらなければならないのです」
その言葉の意味を咀嚼して飲み込んだとき、オウカはこの艦が予想以上に悪い状況にいることを悟った。
オウカの足が止まり、カサネが振り返る。
「足を止めてはいけません。この艦はまだ持ちます。この損傷なら着陸することもできるでしょう」
そうカサネが喋り終わると同時に、左から閃光が走ったようにオウカには見えた。次の瞬間、二人が歩いている通路の10mほど先の左側面がぐにゃりと歪んだ。高い強度を誇るはずの帝国の鋼材は、あっけなく限界を迎え、中央に亀裂が走った。その直後、爆風があたりを満たし、小さきものも大きなものも、吹き飛ばさんと暴れまわった。
カサネが身をひるがえしてオウカに覆いかぶさっていた。体が一瞬、中に浮いたようにオウカは感じた。
破壊が過ぎ去って何秒経っただろうか。
カサネの外套から顔をだしたオウカは、わき腹をむしりとられたような損傷を受けた艦の姿を目にした。錆びた鋲でかろうじて柱にしがみついていた何枚かの装甲が、外界から吹き込んだ風にあおられて虚空へと消えた。通路の先が、まるごとなくなっていた。
体中の先端という先端に、切りつけられるような痛みが走る。極寒の風が船内へと流れ込んでいた。
「カサネ……! おきて……!」
名前を呼び、体を揺する。小さなうめきが聞こえた気がした。
「問題ありません」
言葉とは裏腹に震える腕をついて、カサネは起き上がった。
「ご心配なく。そうやわにはできていません」
「私は大丈夫。カサネが守ってくれたから。本当に大丈夫なの?」
「ええ、急ぎましょう」
進んでいた通路の先にあった階段はあきらめるしかなかった。右舷側の階段を目指す。艦体が傾いているために、坂のように傾斜してしまった通路を進むうちに、オウカはいままで体験したことのない激しい息切れに襲われた。
どんなにぜいぜいと空気を吸い込んでも、胸が苦しい。それでも前に進もうとすると、意識がすっと溶けそうになってしまう。カサネに手を引かれて、階段を降りる。
倉庫にたどり着いたようだ。あたりを見回してそう理解したとき、なにもない床の上で足がもつれ、オウカはそのまま倒れそうになってしまった。さきほどから体がおかしい。頭がぼおっとしている上に、どうしようもなく体が重い。自分が酷く愚鈍な人間になった気がした。
「あと少しです。しっかり!」
カサネに抱きかかえられるように、倉庫の奥へと進む。気がつけば風は後ろから吹いている。倉庫の奥にある搬入口が開いていて、船内の空気が、気圧差のせいでそこから漏れ出ているようだった。
もう見ることはないと思っていた二匹の竜の姿に、オウカは思わず声を上げた。
「フラーテル! ソロル!」
軍艦の倉庫が狭く見えるほど、フラーテルは大きい。頭部の触覚の先から尾まで4mほどあって、体の幅も2mはある。ずんぐりむっくりとしたダンゴ虫のような小山になった体の全てが、虹色の体毛に密に覆われていた。その絹のようにしなやかで美しい毛は、部位によっては1mもの長さがあった。体毛の下には分厚い外骨格と、四本の短い足があるのだが、毛に隠れてまったく見えていない。頭にはシダの葉のようなくし状の触角が、2本飛び出ている。
一見すると虹色のモップをふせて置いたようにも見える可愛い姿だが、その毛の下に、人の身長ほどもあるするどい1対の鎌と、退化した視力を失った2対の瞳があることをオウカは良く知っていた。
そのフラーテルの影に隠れるようにして、妹のソロルの姿もある。形はまったく兄と同じだったが、一回り小型だ。世にも珍しい同系同種の竜だった。
鋼鉄の床を硬質なつま先でカツカツと鳴らしながら、人懐こい性格のソロルが近づいてくる。肩で息をしているオウカを心配するように、触覚で頭にそっと触れた。
フラーテルは外骨格をこすり合わせて音を鳴らしている。騒がしい艦内の状況に苛立っているようだった。
「発艦の準備を!」
オウカがソロルの胴に登ろうとしたとき、艦が大きく右舷に傾いた。急激な右旋回が、艦内の重力を下から左へと変える。踏ん張り、とどまろうとするも、パンプスの平らなかかとが平らな鉄床の上ですべり、あっ、と思ったときにはすでに体は宙に投げ出されていた。
ゴッ。そんな鈍い音が背中から響いて、視界がくるんと回った。倉庫の搬出口を囲んでいた転落防止の柵が、激しく動く視界をかすめた。手を伸ばすが、宙をむなしくつかむだけだった。
黄色と黒の、危険色の柵がどんどん小さくなっていく。
そうか、あそこから落ちたんだ――。
感覚が麻痺していて、恐怖はなかった。ゆるやかに回転しながら、加速度的に闇の中を墜ちていく。
空で輝く月は満月のひとつ手前らしく、にごった黒煙を上げる艦にも、こうこうとした青白い光を投げかけていた。宙に浮かぶ手負いの老いた駆逐艦『真朱<まそお>』の他には、月と星しかない。かなた下で、広大な高原が岩肌や石をむき出しに、荒れはてた姿を見せている。切り立つ中央山脈が艦の後方に見えていた。もうすでに、艦は世界最高峰の横を通り過ぎていた。それはすなわち、帝国の領土に入ったことを意味している。
あと少しだったのに。目を瞑る。
「――! ――!」
ごうごうと耳のなかで渦巻く風に誰かの声が混じった。オウカが目を開いてみると、さかさまになったカサネの姿がすぐ目の前にあった。
「オウカ様っ!!」
垂直落下し続けているフラーテルの背中に、カサネは奇跡的なバランスで立っていた。編み上げ太くしたフラーテルの体毛を命綱のように腰に巻きつけ、両手をオウカへと伸ばしている。その指先が、オウカの外套に触れた。驚いたことに、カサネは目を潤ませていた。こんな顔をみたのはいつ振りだろう。そんな場違いなことを考えている間に、オウカは彼女の胸の中に収まっていた。
フラーテルの編み上げられた体毛を、カサネが手綱のようにつかんで引いた。
「翔べ!」
背中を覆う外骨格が、持ち上がるようにかすかに膨らむ。胴から浮き上がった外骨格の下から、折りたたまれていた薄い膜のような羽が二対飛び出す。蜂に似た羽音が立った瞬間には、羽は視認できない速さで上下に動いていた。同時に、体から失われていた重力が急速に戻ってくる。
急降下から水平飛行へと滑らかに曲線を描いて、フラーテルは真朱の真横に並んだ。装甲のいたるところに錆が浮いた前世代の駆逐艦は、うなだれるように艦首をさげ、ゆるやかに高度を下げていた。このまま着陸すればもう二度と空を飛べないほどの損傷をうけるだろう。けれど、十分に減速はできている。艦長たちは助かりそうだ。
そうオウカが安堵したとき、背後から、赤い流れ星のような無数の線が走った。その正体に思い当たったとき、すでにあるものは真朱の薄い装甲を貫き、あるものは甲板の見張り台を削り、またあるものはフラーテルのすぐ隣を走りぬけていた。
――曵光弾!!
爆音と共に真朱からさらにひとつ黒煙があがった。何かに引火したらしい。淡い期待は一転して絶望へと変わっていた。
顔にかかった髪を払い、オウカは射線をたどって背後を見た。いた。月に照らされた艦影が見える。その艦体には一切の装飾がなく、艦名はおろか所属国すらわからなかったが、ただひとつわかるのは、帝国で竣工されたばかりの新鋭駆逐艦にとてもよく似ている、ということだ。
「どうして帝国の艦が!?」
今はもはや戦時中ではないし、かりに戦時中だとしても、自国の民間船となった駆逐艦に発砲する理由などない。あるとすれば、それはただひとつ、艦まるごとでも消したい何かがあるからに決まっていた。
「……護民官の言っていたことは本当でした」
カサネが悔しそうに低いトーンでつぶやいた。
――戦争をしたいやつらは、あんたたちの国にもいるのさ。
教国の英雄が残した言葉を、オウカは思い出した。
新鋭艦が速いということもあるが、逃げる真朱も度重なる攻撃を受けて速力を失っていた。ずっと後方にいたはずの無名の駆逐艦は、見る間に合間をつめてくる。せめて反撃できればとオウカは思うのだが、真朱は一度、民間に払い下げられた艦である。本来、艦砲があるべきところには何もなかった。全ての武装は失しなわれている。
「カサネ! 真朱を助けようよ!」
「無謀です! 貴方の命はあの艦より重たいことをお忘れですか!?」
オウカは首を左右に振るカサネから、フラーテルの右下へと視線を落とした。足元に彼女がいた。彼女もまた、オウカがなにをしようとしているかを悟ったようだった。ぴたりとそこから動かない。
「ソロル! お願い!」
それだけでソロルはオウカの思いを汲み取った。カサネの腕の中から飛び出たオウカは、空へと向けて駆けた。フラーテルの下から飛び上がってきたソロルに飛び乗る。そのまま勢いよくフラーテルから離れてゆく。
「オ、オウカ様! なりません!」
カサネの言葉はすでに遠い。オウカはソロルの体毛を腰に巻きつけ固定すると、背中に刺していた折り畳み式の儀仗を引き抜き、一振りして2mほどの最大長まで伸ばした。全体が赤く塗られた杖はありふれた素材を使用した量産品であったが、体の一部として扱えるほどに使い慣れていた。
大気中に散らばるエーテルを杖の先端へと集める。エーテルとはすなわちこの世界に偏在するエネルギーの位相のひとつだと考えられている。ゆえに熱量や電子、運動力へと容易に換わる性質を持つ。
周囲の大気から杖の先端へと集まったエーテルは、ひとつの白光となって夜空に星のごとく輝いた。エーテル操作はエネルギーの変換ロスがないために、至近距離であっても電球のように熱をもったりはしない。冷たい光を頭上にかざして、オウカは迫りくる駆逐艦へと立ち向かっていった。
名もなき新鋭艦はそう大きくはなく、駆逐艦のようだった。全長は100m足らず、全幅は10mほどだろうか。現代の主流である前面総硝子張りの艦橋が、艦の先端に見えた。10mm機銃が艦底に2丁と最上甲板に2丁の計4丁、50口径12cm連装砲が艦の左舷右舷に1基ずつの4門、ごく標準的な兵装ではあったが、装甲内部に艦砲を収納できる新機軸の構造を採用しているようだった。突出部分を極力減らし、空気抵抗を抑えた流線型の形状は、次世代という言葉を強く惹起させた。
その無名艦は、煌々と輝く竜の姿に気がつかないはずもなく、すぐさまに機銃を向けてきた。600m先の小型の竜にそうそう銃弾があたるはずがないと、そう頭ではわかっている。それでも、無数に飛来する曳光弾の音を聞いてしまうと、恐怖に身がすくんだ。ずっと遠くを過ぎ去った弾丸が、まるで頬をかすめたように感じてしまう。
弾丸の軌道から逃れるために、急旋回を繰り返すソロルの背中で、オウカは背後の真朱へ一瞬だけ顔を向けた。まだすぐ近くに真朱はあった。もし自分がこの場から逃げ出せば、真朱とその乗組員たちの命はない。
大丈夫、私はできる。
震える手で儀仗を前に出し、オウカはエーテルを集め始めた。エーテルは無限に存在するが、消費された量がもとの飽和量まで回復するには時間を要する。敵艦の装甲を打ち抜くほどとなると、多量の大気から相当量を集める必要があった。
オウカはエーテルを操作し密度を高めることにおいて、圧倒的な天賦の才があった。しかし、集めることにおいては凡で、大きな蛇口のついた樽にすこしずつ水を貯めるような不均衡さがあった。
これではだめだ。もっと広い空間からたくさん集めなければ。
ソロルが応えて、進路を垂直方向へと変えた。杖に蓄積したエーテルが、杖からあふれんばかりになったとき、唐突にオウカの腕に激痛が走った。おもわず儀仗を落としそうになるほどの痛みに、収束していたエーテルが一瞬にして大気に拡散してしまった。
切れ味の鈍い刃物でひかれるように、腕の関節が痛んでいた。腕をつかんでうずくまりそうになったオウカは、そこで腕の皮膚がどす黒い紫へと変わっていることに気づいた。
「オウカ様! もうやめてください。このままでは命に差し障ります」
顔は蒼白で、いつも紅を帯びていた唇は、紫と青の中間色に変色している。呼吸も脈も、破裂しそうなほどに間隔が短くなっていた。追いかけてきたカサネに諭されるまで、興奮状態にあったオウカは限界に達していることに気づいていなかった。
「減圧症です! 今すぐ高度を――」
危機に迫っていることを自覚したとたん、体に起こった異常と恐怖を抑え付けていた興奮が、波が引くように去る。すると、真朱の艦内でも感じた意識の薄れが、避けようがないほどに迫っていた。
かくっとオウカの頭が上下に揺れた。正気を失った友をのせて、竜はまだ真直ぐ上昇し続けていた。カサネが手を伸ばし、オウカの体をソロルから引き剥がそうしたとき、フラーテルの背後10mほどの地点で白い花火があがった。
高圧蒸気の爆発と共に、弾殻が球状に飛び散る。爆風が少し送れて届いたとき、無数の破片をまともにうけたフラーテルが、ゆらりと揺れる。強度の乏しい薄い羽に小さな穴がいくつも空き、腹部の体毛からは緑の体液が滴っていた。無名艦が、単純な等直線運動を続けるオウカの進路を予測して放った榴弾だった。
オウカの乗るソロルへとカサネが飛び移ったその数秒後、フラーテルは大きく体勢を崩し、そのまま激しいきりもみ回転をおこして真下へと墜落していった。
墜ちてゆく友の姿に、溶岩を流し込まれたようにカサネの頭の後ろが一気に熱くなった。血管が拡がってどくどくと脈打っている。あの艦を墜とそう。フラーテルと同じ目にあわせてやる。
湧き出した怒りは冷静さを失わせ、ソロルを新鋭艦へとまっすぐ突き進まさせた。激情にかられるオウカの前に、大きな影が割り込んできた。浮き上がってきたその艦は、ソロルの進路を塞ぐように目の前に来る。
「真朱が、なんで……」
制止させようと背中から抱きすくめてきたカサネとともに、オウカは呆然としたまま目の前の艦を見た。もう安全圏へと退避したものと思い込んでいた老いた駆逐艦は、なぜか敵艦へめがけて高度を上げつつ、さらに加速していた。
カサネの両手が、オウカの肩をぎゅっと締め付けた。
「貴方があの敵艦に立ち向かったからです」
「……え?」
装甲と黒煙を撒き散らしながら、真朱は無名艦へと着実に進む。その狂気じみた真朱の行動を恐れるように、敵艦は主砲を撃った。しかし、その砲弾はさきほどオウカに放たれた榴弾のままであった。貫通力のない榴弾は装甲に対して意味をなさない。予想外の真朱の行動が、無名艦の人為的ミスを誘ったようだった。
「あの艦長は、自分の艦があるかぎりオウカ様は退避しないと思ったのでしょう」
真朱のはがれた装甲の合間から、白い蒸気が噴出していた。真朱の下層甲板にある罐室<ボイラー室>からだ。何人もの兵が、手にした炭をボイラーへとくべている。降り注ぐ赤い曳光弾のひとつがそこ飛び込んで、小規模な爆発が巻き起こった。間違いなく、何人かは死んだだろう。しかし、それでも残りの兵たちは立ち上がり、満身創痍の艦をなんとしてでも前進させるべく、すぐに作業を再開させた。
オウカの頭の中は真っ白になっていた。いままでの現実離れした状況に麻痺していて、簡単なことも忘れていた。たやすく人間は死ぬものなのだ。たとえそれが自分の周りにいる人々であっても。
もう見たくなかった。しかし、それは許されなかった。目をそらしては、さらに真朱の想いを裏切るように思えた。眼下で、2つの艦がゆっくりと、しかし着実に距離をつめていた。すぐそばに、名もなき艦の艦橋が見えた。何人もの兵が、衝突を回避しようと動きまわっている。彼らもまた、オウカと同じ帝国の住民で、本来ならば志を同じにする仲間である。
敵艦は面舵を切ったようだ。すこしずつ軌道が右へとそれる。それを予見していたのだろう、捕らえようと真朱も舵を切っていた。その全てがかかった読みは、残酷なことに外れたようだった。2つの艦は鼻先をわずかにこすり合わせただけで、やがてすれ違った。
装甲から飛び出した主砲が旋回し、至近距離にある真朱に向く。50口径12cm連装砲が、白い蒸気を噴出した。
今度は榴弾ではなかった。対艦用の硬芯徹甲弾だ。装甲に突き刺さると、柔らかな表面の金属を残して飛び出した弾芯が、真朱を横に通り抜けた。
真朱の胴体から、破片まじりの黒煙とともに業火が噴出した。金属がきしむような小さな音が次第に大きくなり、金きり音へと変化し、そしてすぐに圧壊の重い悲鳴に変わった。艦に浮力を与えていた鯨骨<キール>が二つに折れ、その中身である青く燐光を放つ骨髄液が天へと向かってこぼれだしていた。
二つに分かれた真赤は浮力を失って、最初はゆっくりと、しかし加速しながら墜ちる。幾人もの兵が、割れた断面から投げ出されて闇に消えた。
その地獄のような光景をあとに、ソロルは背をむけて先へと飛んだ。その背中にしがみついたオウカの声が嗚咽に変わったころ、後方の大地から轟音が響いてきた。
1-1.私はいかにして玉座に座ったか
帝国領アカツチ州は帝国で最大の面積をもつ州で、国のほぼ中央に位置している。そのさらに中央に、州の面積の半分を占める大砂漠がある。内陸にあるために、海から雨雲が流れ着くこともなく、年間を通じて雨はほとんど降らない。昼は摂氏40度近くまで気温が上がり、砂地のために作物も育たない不毛地帯であった。
だがこの砂漠には、大都市として名高い州都スナミがある。それは莫大な地下資源が、この地下に眠っているからだった。資源があるところには企業が集まり、企業があるところに人は集まる。そして人が集まるところには街ができる。炭鉱の町として始まった州都スナミは、いまや帝国でも3番目の都市にまで発展していた。
そのスナミの中央市街地から東に150kmの地点に、今は放棄された旧市街地があった。
一匹の竜がその中の廃墟のひとつに、静かに降り立った。背中から、背の高い女性が降りてくる。女性の手をかりて、小柄な銀髪の少女も屋上に足をつけた。ソロルの背中をなでてねぎらったオウカは、皮膚の表面が割れそうなほどに乾いた風を浴びながら、顔にかかっていた銀髪を耳の後ろにかけた。
彼女が立っている廃墟は、かつてはこの町で最大の百貨店だった。三階建てで、15mほどの高さがある。その屋上から周囲を見渡すと、辺り一帯の建築物は折れ、崩れ、ことごとくがれきの山と化して風に晒されていた。
「たった十年で、ここまで荒れるものなの?」
そう声をかけた先には、周囲を警戒するカサネの姿があった。頭には炭素繊維を部分的に使用し軽量化された鉄帽をかぶっていて、防弾防刃の戦闘服の上に、硬質陶器の胸当てを付けていた。肩からベルトで下げた一抱えある四角い銃を右脇に抱えるようにして構えている。
「いえ、そうではありません。壊したのです」
「こんな内陸まで教国が……!?」
「いえ、教国が破壊したわけでは。終戦間際、教国はこの街から西に400kmの地点にまで迫っていました。拠点として利用されることをおそれ、帝国はこの街を破壊、破棄したのです」
カサネの目が細くなっている。おそらく風や砂のせいではないだろう。
周囲の砂漠から風で流された砂は、旧市街地の中心にまで迫っている。帝国にとって失敗の苦い記憶である旧市街地は、いまや十年の歳月の前に砂に埋もれようとしていた。
「そろそろです。オウカ様、準備を」
色素がほとんどない目には痛いほどの群青の空と砂のコントラストの風景を、感慨深く眺めていたオウカは、カサネに声をかけられて儀仗を手にとった。ソロルの体毛のから鉄帽をひっぱりだし、頭にかぶる。最小サイズを選らんだのが、それでもオウカには少し大きい。あご紐をきつく締めた。
心臓がすこしずつ高鳴り始めていた。
「一ヶ月前に、沈んでいった真朱の艦長の顔が、墜ちていった兵士たちの姿を、思い出しているの?」
ふいに隣から声があった。顔を見なくてもオウカにはわかる。アキリだ。いつものようにすぐそばにいる。
「すこしだけ。でも大丈夫。私は足を止めるわけにはいかないもの」
「そう。無理しないでねオウカ。あなたは本当はとても弱い女の子だから」
屋上の床にはめ込まれていた鉄板が、かたりと動いたのはそのときだった。反射的な動きでカサネが銃を向けると、鉄板の下から、ノックの音が三回聞こえた。カサネは銃を下ろして、鉄板に手をかけた。
下の階に繋がる階段から出てきたのは、一見すると熊かと見紛うような大男だった。帝国人は総じて背が高い人種であるが、それでも彼は飛びぬけて高い。2mと15cmはあった。縦にだけでなく、横にも幅があって、戦闘服に包まれた腕は丸太のようだった。短く刈り込んだ短髪は鉄帽を貫きそうな剛毛で、同じような髪質の髭がもみ上げと繋がっている。大きな顔とがっしりとした顎に似合わず、目はつぶらで優しげだ。野性味のない、絵本に出てくる熊のような男の名は、シラドといった。
「す、すべて制圧しました。こちらに損害はでていません、はい」
ほっと胸をなでおろす。シラドの報告では、百貨店内の一階から二階までに彼の姿はなく、代わりに三階の角部屋に下へと通じる階段を発見したということだった。
オウカに百貨店の設計図を広げてみせるカサネが、その階段があるという地点を指差す。図上ではその階段のある位置には柱があるはずだった。
「この百貨店は、緊急時には軍の拠点として利用することを考えて設計されています。隠し階段があってもおかしくはありません」
頷きあったオウカたちは、シラドを先頭にして階段を降りた。薄暗い室内には電灯がなく、窓から差し込む光も宙に浮くほこりを浮かび上がらせるだけで奥まではとどいていない。
「お、お気をつけください、はい。そう暗くないので、目が慣れれば大丈夫かと思います」
シラドの言う通り、意外と早く闇に順応できた。薄暗い中でも、帝国の百貨店がオウカの知っている教国の百貨店とは大きく雰囲気が異なっていることはすぐにわかった。広い空間にはスチールの棚が整然と並んでいて、空間を仕切る壁がほとんどない。教国の百貨店のように個人の店が集まって一個の大型店になっているのではなく、大きなひとつの企業が百貨店全体を運営していたようだ。
商品棚には何もなかったが、十年前の日付が入ったチラシが当時のままにあちこちに忘れさられていた。この階では、主に貴金属などの装身具を売っていたようである。東亜商社との会社名がチラシには記されている。一度気がついてみれば、棚や床に転がっていた何かの値札にも同じ会社名があった。この会社がこの店を経営していたのだろう。
「こちらです」
三階の奥に、小さな詰め所のような部屋があった。元は従業員が使用していたと思われる部屋は電灯がともっていて、床も他の場所と比べて明らかに綺麗だった。簡素な机とパイプ椅子があり、定期的に人の手が加わっている雰囲気がある。
部屋のあちこちを調べていた兵士たちがオウカに気づいて敬礼した。その1人が、オウカの前へと歩み出た。さすがに緊張しているようで、顔がこわばっている。
「レッカ・アサノヒナです。光栄です、えっと、なんとお呼びしたらいいのか……。わたし、こういうの苦手なんです」
「オウカです。その、礼儀とか、私はきにしないので。よろしくお願いします」
レッカは先に突入していた隊の隊長で、その喜怒哀楽の激しさと、誰にたいしてでも遠慮のない奔放さから、一部の兵たちから『火花のような』と形容されることもあった。帝国人の女性にしては背が低く、平均から10cmは低い170cmほどだろうか。帝国人の中でもまれに見かける赤い髪に、他の者たちより明るい茶の瞳をしていた。顔は丸く、チークもしていないはずの頬は何故かいつも桃色で血色が良い。みつ編みにしている後ろ髪とあいまって、幼い雰囲気である。今年で24歳になるはずだが、よく未成年に間違えられていた。
階級は中尉で、士官学校を卒業してからすぐに昇進した有能な士官だ。
レッカはこほんと咳払いして、
「この金庫の裏が階段になってるの。私が先に行くから、オウカたちは必ず2m以上後ろを歩いてね」
腰に刺していたサーベルを引き抜き、レッカは部屋の角に金庫を開いた。帝国人の子供ほどしかないオウカなら楽に入れる大きな金庫だ。
「後からついてくるように」
そう兵たちに告げて、金庫に入ったレッカは内側から扉を閉めようとして、なにかに気がついたようにオウカへと顔を向けた。
「あ、それから。オウカも私には友達みたいに話してくれたらいいから。レッカでいいよ」
そんなことをいわれたのは初めてだった。オウカが戸惑っていると、レッカは金庫の扉を閉めてしまった。
「この金庫は、閉めると内側の扉が、あ、空くようになっているようです、はい」
シラドの話を聞いて、この金庫に隠された仕組みをよくも発見できたものだとオウカは驚いた。
今、オウカの指揮下にあるこの分隊は、今の帝国軍に対して思うところのあるものたちを、カサネが秘密裏に軍から引き抜いたものだった。みなそれぞれ個性的だが、有能さにおいては文句の付けようがない兵士たちだ。
金庫からくぐもった声でオウカを呼ぶ声があった。オウカが金庫に入って扉をしめると、半分閉めたところで横の扉が上にスライドしてレッカの顔が見えた。終点が遠く小さく見えるほど長い階段は、意外なことに電灯がついていて、奥まで見通せるほど明るい。
カサネが金庫をとおって出てくるのを待って、レッカが先頭をきって階段を降りようとしたとき、下から声が響いてきた。
「その物騒なものはしまってくれないか。俺は丸腰でね」
声と共に、だらしなく髪を伸ばした無精ひげの男が階段の突き当たりから顔を出した。両手を頭の後ろで組んでいて、降伏の姿勢だった。
生粋の帝国人といわれればこういう姿なのではないか。モリヤはそんな外見の男だった。背が高く筋肉質で、帝国人らしい茶色の髪と、こげ茶の瞳があった。骨格が大きく、頑健そうなことこの上ない。一見すると整った顔立ちだが、切れ長の目と薄い唇が、どこか冷淡な印象を見るものに与えている。事前に知った情報では29歳のはずだが、それよりも上に見えた。
「レッカさん、武器を下ろしてください」
指示を受けたレッカはちらりとオウカへと視線をおくって、肩を冗談っぽくすくめて見せた。
「その命令は聞けませんオウカ様。私は貴方の身の回りをまもる義務がありますゆえ」
そう物々しく言われて、オウカはレッカの意図がやっとわかった。
「そ、そのレッ……カ。武器をしまって」
「うん。私としても、あの人には武器を向けたくないし」
素直に武器を下ろしたレッカに、おや、という顔をしたモリヤだが、
「話のわかるお客さんでよかったよ。立ち話もあれだ、こっちに来てくれ」
そう言うと無防備に背中をむけて、奥へと消えていった。その後を慎重にレッカが追っていった。
「大丈夫、危険はなさそう」
拍子抜けしたような顔でふたたびレッカが階段の下に現れたのは、ほんの十秒後ほどだった。
階段は地下まで続いているようで、モリヤの隠れ家には窓がまったくなかった。広さは10m四方ほどだろうか。本来は陸軍の作戦本部になるべくして整備された名残だろう、壁にはこの一帯の地図があり、陸軍の旗が飾られていた。
古びてほつれたシーツがかかった粗末なベッドと、ダンボール箱に山済みにされた乾いたパンと豆の缶詰や干し肉、床にころがった酒瓶の他は、生活に必要なものは何もなかった。
あとはみな本である。この百貨店の本を全部かき集めてきたのではないかといった様相だ。歴史書から大衆小説、数学や医術にいたるまで、ジャンルも媒体もばらばらな本が壁一面の書架に置かれている。
「すごい量。こんなところにどうして……」
書架に近寄ってみる。本にはいくつも付箋が貼られていた。開いてみると、ページの端にはびっしりと文字が書き込まれていた。
「この百貨店の隣に倉庫がある。そこに山ほどあるんだ。もとはこの百貨店で売っていたものらしいが、陸軍に徴収されたときに倉庫移された。燃やせば燃料になると思ってのことだろう」
書架をざっと見渡すと、驚いたことに並んだ本の半分ほどが、いまオウカの手の中にある本と同じように付箋にまみれていた。
「ぜ、全部、読んだのですか?」
「まぁな。もうやることのない人生だ。暇つぶしに頭の中でゲームをしていたのさ。この本はその資料ってわけだ」
ベッドに転がったモリヤは、ぽんぽんと隣を叩いた。となりに座れということらしい。顔を赤くしたオウカがおずおずと隣に座ると、カサネのまぶたがピクリと動いた。
「そ、その、ゲームって?」
にやりと笑って、
「遠慮するな、横になれ。このベッドは見てくれこそ古いが、もとはこの百貨店にあった一流品だ」
「ありがたくそうさせていただきます」
モリヤのとなりに転がったのはカサネだった。ベッドが波打ち、モリヤもオウカも投げ出されそうになるほどに跳ねた。
「あ、あんたには言ってないんだが……」
「そうですか。確かに一流品のようです」
批難の視線を鼻が触れ合うほどの距離で向けられたカサネは、戦艦の装甲もかくやという鉄面皮でその眼差しをうけとめている。しばし見つめあったふたりだが、さきに視線をそらしたのはモリヤだった。
「……わ、わかった悪かった。ちょっとからかっただけだ」
頭をごしごしとこすりながら、モリヤが上半身を起こす。
「それで、俺になんのようだ。そっとしておいてほしいのだが」
本題を尋ねられ、オウカは背筋を伸ばしてベッドに座りなおした。
「お願いがあってきました」
ちらりと横に目を向けるモリヤだが、視線はオウカの目に合っていない。
「なんの?」
「私に力を貸してほしいのです。この帝国が直面している困難をなんとかするために」
「あ? なにいってるんだお前。困難ってなんだ」
いぶかしげな視線に、オウカは少しひるんだが、勇気を持って声を大きくした。
「『星を掴むモリヤ』に尋ねます」
かすかにモリヤが視線を動かした。
「あなたは今、この帝国に起きている困難のことを知っていますか?」
「……ああ、知っている。新聞に載っている程度にはな。食料問題、国力の低下、国民の政治への無関心、阿呆な政治家ども、軍部の暴走、休戦中の教国との不仲、華国と甦国の台頭、干渉を強める神国……。ざっとこれぐらいか。それに、俺の欲求不満という大きな問題も、だれもいないこの捨てられた街じゃ困難だ」
オウカは赤い顔で咳払いし、
「わ、私は、困難を解消したい。でもどうすればいいのかはわかりません。モリヤさんの力を借りたいのです」
鉄帽を脱いで、オウカは頭を下げた。波打った銀髪がゆれる。
「お前……、背の高いのもそうだが、もしかして華族か」
帝国人の髪は総じて赤茶から赤だが、有史以前にこの大陸に流れ着いた帝国人の祖先は、輝くような銀髪と紅玉のような瞳を持っていたと伝えられている。華族はその血を濃く受け継ぐために、総じて銀髪に赤い目を持つ。
「一昔前ならともかく今の華族に、政治家に国民主権という幻を見せられ、巨大資本に金で洗脳された多くの平民たちをどうにかする力も求心力もありはしないだろうが。俺が力をかしたところで、だ」
「できはしないと思いますか?」
「ああ。無理だ。断言してもいい。話がおわったなら、出て行ってくれ」
ここで話は終わりとばかりに、モリヤは顔を書架へと向けた。
「……モリヤさん。お願いです。私にはたくさん足りないものがある、でもそれを私自身が得るまで世界は待ってくれないのです、ですから」
さらに言葉を続けようとするオウカをさえぎって、カサネがモリヤの前に出た。腰に抱えるように持っている銃の先が、怪しく光る。
「力ずくでも連れて行きます。その良く回る舌さえあればいいのですから、腕や足が一本吹き飛んだところで問題はないでしょう」
モリヤはめんどくさそうに頭を掻いてベッドに転がった。
「外には華族様のお仲間がまだいるようだが、ずいぶん遅いな」
レッカが丸い目をさらに丸くして、階段の上を覗き込んだ。
「あの金庫は、あんたたちが三人通った時点で鍵をかけさせてもらった。内側から開けるにはとある工夫がいるんだが、それを聞かなくてもいいのか。俺を殺せば、三人仲良く干物になるぞ?」
「そんなもの、壁に穴を――」
「おっと。話は最後まで聞いてくれ。この部屋は陸軍の拠点として作られた。空爆も想定している。壁のコンクリを少し削れば、分厚い鉄が見えるだろう」
オウカが本当なの、と視線を送ると、カサネは小さく頷いた。
「レッカもカサネも、武器をしまって」
二人を制すると、オウカは書架の前に進んだ。その中のひとつに手を当てて、モリヤへと振り向く。
「モリヤさん、さっきゲームって言ってました。私、そのゲームが何かわかりました。この棚にあるものは、全部、食べ物に関することです。農学、酪農、畜産、食品加工、気象学、水産学、生物学」
そして隣の書架にまた手を当てて、
「この棚は……政治でしょうか。経済学、心理学、数学、歴史、論理学……」
さらに隣へ。
「これは軍事です。戦術、戦略、地理学、工学、力学、医学、科学、竜学、操学<エーテル操作>……」
くるりと回ったオウカはモリヤに全身を向けた。
「モリヤさんはこの部屋で、ずっと、この国の問題を解決するというゲームをしていたんじゃないでしょうか」
モリヤは憮然とした顔だったが、ここで初めてオウカと視線を合わせた。
「だとしても、だ。俺はそのゲームを攻略できなかった。この十年間、ずっと考えていたが、その結論はかわらなかった。無理だ。足りないものがある」
「それは……?」
モリヤは胸に手を当てる。幾つもの傷が刻まれた大きな手だった。
「精神的な動きだ。帝国は疲れているんだ、もう目の前のことにしか関心を持てないほどにな。この言いようのない倦怠感のようなものをどうにかするには、英雄がいる。主導者だ……。象徴になるような」
「もしそれが皇帝ならどうですか」
「はっ。皇帝なら、まぁ、すくなくとも爺婆どもはついてくるだろうな。でも皇帝はもう死んだ。その唯一の跡継ぎだって、教国で生贄……」
はっとしたように、モリヤは目を見開いた。じっとオウカの目を、覗き込むように見ている。オウカはその目の中に、なぜかどろりとしたあまりよくない……形容しがたいものを感じた。
「……お前、まさか」
だがそれは一瞬のことで、今はその顔にも瞳にも、驚きだけが満ちている。
オウカは強く頷いた。
「この国の全ての問題……、貧しさや、争いや、不条理さ、そんな全ての困難を」
オウカの震える小さな肩の上に、カサネが手を置いた。レッカもまた、オウカの言葉を促すように大きくうなずいた。
すっと息を吸い込んで、オウカは最後まで言葉を発した。
「私は皇帝の血を継ぐものとして、打ち倒すつもりです」
1−2
軽巡洋艦『宵星』は古い艦である。前大戦の中期に最新鋭艦として建造された『明星』型の三番艦だ。全長は約120m、全幅は約12m。今の新鋭艦とくらべれば見劣りは否めないが、前面総硝子張りの艦橋や、武装の交換を容易にする統一規格の設計など、今の軍艦の礎となった傑作艦であった。
控えめなノックが2回、狭い部屋に響いた。
まだ重いまぶたをこすりながら、モリヤが士官室の扉を開けると、ぱっと花が咲くようなオウカの笑顔が斜め下にあった。
「おはようございます。どうですか、良く寝れましたか?」
モリヤはあくびをかみ殺しながら返事を返した。
「おはよう。ああ。さすがに一週間たてば慣れる。なんだかんだで良く寝れてるよ。それで、どうした?」
「どうしたって……。もう朝の10時前です。この前、今日の10時にしようって言ったのはモリヤさんです……」
そんな馬鹿なと室内の時計をみると、確かにあと10分で10時になろうとしているところだった。
「わ、悪い。今すぐ準備する」
といっても、特にすることはない。モリヤは部屋の隣にあった士官用の洗面所で身支度を簡単にすませると、よれたシャツと陸軍の払い下げ品であるカーゴパンツといういでたちで、待っていたオウカの前に立った。
「待たせたな。……ん? どうした?」
オウカはいつも下がっている眉をさらに下げている。
「だ、大事な会議です。その格好では……」
「いや、だが、他に持ってないぞ?」
少し考えた後、オウカはぽんと手を打った。
「先に参謀室に行きましょう。服もあったと思います」
「わかった。こっちだな」
先導しようとするオウカを置いて、モリヤは先に足を進めた。
すると、モリヤの胸に懐かしいものがこみ上げてきた。水燃炭のかすかな臭いに水蒸気の湿っぽさが混じり、どことなく鉄臭さと機械油の匂いが漂う、そんな空気が艦内に満ちていた。
「どうしたんですか。モリヤさん」
早足で隣に追いついたオウカが、ぱっちりとした赤い瞳で見上げてくる。
「ちょっと、な。俺はこの艦の姉妹艦に乗ったことがあるんだ。まだ完全には慣れてないみたいで、時々、昔のことを思い出す」
「そうなんですね。さっきからどんどん前に進んでいくから、この艦のことを知っているんだなって思っていました」
「ああ、十年前だから、細かいことは覚えていないがな。参謀室は艦橋の手前だったな」
古い艦には違いないが、船内の設備と内装は一新されていた。近代化改修を受けたばかりのようだ。十年前の姉妹艦にはなかった電算室の扉を横目に見つつ、モリヤは通路を進む。
階段を昇り、中甲板へと入る。この先の艦の先端に当たる部分には艦橋があり、その手前に艦長の執務室と、会議室があった。その向かいに通路を挟んで参謀室がある。オウカが参謀室の扉を開けると、モリヤは久しぶりに自分の部屋に帰ってきたような感慨深さを覚えた。
「内装の交換に時間が掛ってしまって……。気に入っていただけるとうれしいです」
置いてあるものも年季の入ったウォルナット材<くるみの木>の執務机と、省スペースの細いベッド、書架と書類棚がある程度だったが、それで部屋は一杯になっている。広さは12㎡ほどで、安ホテルの一室といったところである。狭い部屋だったが、絨毯や壁紙は新品のようで、ホコリ一つない。
ここがしばらくの間、少なくともオウカが帝都の宮殿の玉座につくまでは、モリヤの部屋となる予定だ。
「俺には十分すぎる部屋だ。着替えはどこにある?」
「そこのベッドの下が衣装棚になってます。では着替えたら、会議室に」
オウカが出て行くと、モリヤは言われたとおりに服を取り出したが、その服はあまり見覚えのないものだった。銀色の飾緒がついた参謀衣が目に入る。銀の五つボタンがついた詰襟は真っ白で、袖には金色の線がはいっている。これは空軍でも陸軍でもなく、近衛軍の軍服であった。
モリヤはその物々しい服に少し抵抗を覚えたが、それしか服がないことを知ると、仕方なく袖を通した。二種軍衣<夏服>であるらしく、麻で出来ているために思ったよりも涼しい。袖の階級章は、金線一本に桜ひとつだった。見慣れない近衛軍の袖章は少佐をあらわしていた。
空軍から退役したとき、モリヤは中尉だった。二階級昇進したことになる。いちどに二つ昇進できるのは、戦況を大きく変えるような活躍があったか、もしくは名誉の戦死をとげたときぐらいのものである。
「一度死んだ身にはふさわしいか」
モリヤは独り言を漏らして、部屋を後にした。
会議室はさすがに参謀室よりかは広かったが、所詮は軽巡洋艦の一室であり、そう広いものではなかった。チーク材の机と、椅子が6脚、あとは壁に掛った黒板程度の質素な部屋には、すでに何人かの姿があった。
その全ての視線がモリヤに注がれていた。みな、前大戦での英雄、『星を掴む』モリヤがどんな人物なのか、見定めてやろうとしているようだ。そんな大層なものじゃないのだが。そう思いつつ、モリヤは軽く会釈した。
「こっち」
すぐ入り口に座っていたレッカが隣の椅子を引く。
レッカはなぜか空軍兵士の二種軍服である白に青線のセーラー服を身に付けていた。ちぐはぐなことに袖章は近衛軍の少尉をあらわし、世にも珍しい士官兵士といった姿だった。
「なんでまたそんな服なんだお前」
小声で尋ねる。
「私はこういうの苦手なの。貴方が会議にでてくれっていうから、それでも来てあげたんでしょ。これは『私は一兵のつもりでいるので、意見とか求めないでください』っていう意思表示」
「おいおい。お前24だろ? その赤毛のお下げ姿じゃ、高等学校の女学生みたいだぞ」
かしこまった場は苦手らしく、視線をあちこちにさまよわせ落ち着きがない。
「それはどうも。貴方は似合ってるね。何か悪巧みしてそうな感じ。うんうん」
「それはどうも」
適当に返事を返して、モリヤは室内をぐるっと見渡した。会議室には、モリヤも含めて四人、集まっていた。
モリヤの真正面に座っていたのは、モリヤよりいくぶん若い帝国人の男だ。軍や政府の関係者ではないようで、糊の利いた白シャツに、スラックス、革靴といった装いだった。一見すると、会社勤めの一般人という印象である。清潔感のある短髪を左右に分けており、顔はこんがりと日焼けしていた。口元にはほくろがひとつあり、優男風の柔らかい整った顔に、一抹の胡散臭さを足していた。
男はモリヤやレッカに視線を向け、手元の手帳になにかを書き込むという動作を繰り返している。
その隣、レッカの前に座っていたのはにこにことした笑みをたたえた老軍人だった。モリヤはその男に、こころの中で「ゆで卵」というあだ名を付けようかと思ったほどに、見事に禿げている。深い皺がいくつも刻まれた顔は、たるんだ皮のせいで目を開いているのか閉じているのかわからない。老人はモリヤと同じく、近衛軍の白い士官服を着用していた。胸には銃を交差させた意匠の、一種射撃徴章が光っていた。銃の名手であるらしい。とてもそうは見えないなと意外に思いながら、彼の袖章を見る。金の線が三本に、桜が二つ。中将だ。
モリヤが思わず顔を固くしたと同時に、会議室の扉が開き、通路からオウカが入ってきた。
ゆるく編んだ銀髪を後頭部でまとめ上げた、活動的な髪型に、近衛軍の白い士官服を身に付けている。その立場を思えば簡素すぎるほどに装飾の少ない姿である。驚いたことに、袖章は少尉だった。
老少将が敬礼をする。モリヤもそれにならった。
「え、ええと。皆様、集まっていただいてありがとうございます……」
歯切れが悪い会議の始まりだった。オウカは下げていた頭を起こし、助けをもとめるように、モリヤに目線を向けた。まぁ最初はこんなものだろう。モリヤはオウカに変わって、席を立った。黒板の前に立って、一礼する。
「進行を勤めさせてもらうモリヤ・トオミドリだ。陛下に今回の作戦会議を開くよう、助言させていただいたのも俺だ。言葉遣いがなってないと気にする人もいるかもしれないが、そんなことより大事なことは他にあると思うので、これで進めさせてもらう」
モリヤは全体を見渡し、壁際で直立不動の体勢をとっていたカサネに焦点を当てた。彼女もまた近衛軍の士官服を身に付けていた。階級は大尉である。
「じゃあ、まずは円滑にすすめるために自己紹介を」
視線を向けられていたカサネが頷いた。
「カサネ・リンドウと申します。近衛軍にて憲兵科の副隊長の任を受けております。要人警護を主な任務としていましたが、先の大戦時の終結と共にオウカ様と教国にわたっておりました。ご鞭撻のほどを」
口にはしなかったが、彼女は華族である。華族とは帝国人の中でも古き血を引く人々のことであり、皇帝を頂点とした統治者である。もっとも、先の大戦の終りと共に、この帝国の実質的な最高指導者は各州の代表が行う最高評議会に変わっているために、今の華族は多少政治に影響力のある集団、程度になっていた。
オウカと教国にわたっていたのは、おそらく護衛と側近をかねてのことだろう。
「次は……レッカ」
げっ、とでも言いたげな顔になったレッカが、しぶしぶといった様子で腰を上げた。
「えー……。レッカ・イナトウア。帝国空軍の戦艦『織姫』で白兵科に所属していました。あんまり難しいことはわからないですけど、腕には自身があります。この艦にいる兵ともども、よろしくお願いします。……いい?」
「結構だ」
そういわれて、レッカはほっとした顔で席に戻った。オウカから事前にモリヤが聞いた話では、この『宵星』は、レッカ率いる小隊が空軍から丸ごと強奪してきたものであるらしい。小隊は50人ほどの規模であるので、その人数で軽巡洋艦を制圧したのだとすれば、そうとうなものである。
モリヤに視線を向けられた民間人風の男が勢い良く立ち上がった。物怖じしないようすで、この状況を楽しんでいるかのように、軽佻浮薄さがにじんだ笑顔が、ほくろのある口元に浮かんでいる。
「帝都新聞社で記者をしているシナミ・エミナオシです。いやぁ、この歴史的瞬間に立ち会えて、感激です!」
息を巻くイナミに、モリヤは内心で、意外と扱いやすそうなやつだな、と呟いた。
「では、中将」
のそり、と緩慢な動きで老中将が立ち上がった。モリヤが慌てて声をかける。
「中将。そのままで結構です」
「あー……。年寄りなのでそうさせてもらおうかとも思うが、そうもならないときもあるだろう。いまがそうだとおもわないかね英雄殿」
咳払いひとつ。耳を澄まさないと聞こえないほどの小声で、ひどく冗長な喋り方だった。
「……タスク・ヒビヤキ。近衛軍の参謀をしていたが、それは十年まえのことで、いまではただの爺だ。……陛下がお立ちになったと聞いて、再度、銃を手にとってみようかと思った」
近衛軍とは、皇帝が司令官として直接の指揮をとる独立した軍隊である。その参謀ならば、近衛軍で二番目の地位にあったということになる。
モリヤは70を超えるであろうタスクに頭を下げる、黒板へと体を向けた。
「英雄殿の自己紹介は?」
背中に飛んできたのは、レッカの軽口だった。ため息をついて、モリヤは振り返った。
「前の大戦で、よくわからん内に英雄なんて呼ばれるようになったが、俺は自分が英雄だなんて思ったことは一度もない。状況が俺をそうさせただけだ。今回、オウカに手を貸すことにしたのは、後悔があるからだ。その後悔をなんとかしたいから、俺はここにいる。以上だ」
モリヤは黒板に文章を三つほど並べた。
「まず、目的から。――単刀直入に言う。オウカが皇帝としてこの国の実権を握る。それが今回の作戦の目標だ」
視線が集まっていることに気づいたオウカは、顔を赤くしてうつむいてしまった。これで大丈夫か、とモリヤは心配になりつつも、続ける。
「十年前であったら、オウカが即位式を行えばそれで皇帝として全権限を持つことができた。しかし、十年前の終戦の際に教国と締結した『カザフチタチ協定』により、皇帝の地位は最高権力者ではなく、帝国の象徴となった。これはあくまで精神的な主導者であるとを示し、今の皇帝に権力はない」
「あの……カザフチタチ協定って何ですか?」
そう質問をはさんできたのは、あろうことか当事者のオウカだった。モリヤはここ一週間で、この気弱な少女が、何も帝国のことについて知らないことを嫌というほど知った。戦後すぐに教国に渡ったオウカは、帝国の教育を受けていないのだから無理もない話しであるが……。
「お前……。それはまた後だ。とりあえず、話を進めるぞ。したがって、オウカが皇帝に即位するだけではだめだ。名実共に最高権力者としてこの帝国に君臨するには、現在の帝国で最高の意思決定機関である最高評議会をなんとかしなければならない。方法は二つある。ひとつは、暴力による解決方法」
「……私たちで、最高評議会をのっとる?」
目を輝かせたのはレッカだった。
「それが一番手っ取り早い……ように見えるが、それもなかなか。中将、どうでしょうか」
老兵は目をしょぼしょぼとさせて、頷き返した。
「評議会がある宮殿には近衛軍宮廷守備隊が大隊規模で駐屯している……。そこの元気なお嬢さん、あんた、大隊を相手に勝てるかね。こちらは攻める側、相手は守る側……。戦力差は二十倍以上ある」
モリヤが黒板に、敵軍兵力500から1000と書くと、
「それは無理かなぁ……はは」
レッカは苦笑いして、口を閉じた。
「もし仮に最高評議会を抑えれたとしても、オウカの存在を国民に周知し、支持を得られるようにならなければクーデターは成功しない。それまでに近衛軍や、帝都周辺を守備する空軍の第一艦隊に襲撃されれば終わりだ」
しんとした会議室で、メモを取っていた若き新聞記者が手を挙げた。
「……その、さっきから思っていたんですが。近衛軍はもともと皇帝陛下の私軍だったわけですよねぇ……? 陛下が声をかければ、味方につくのではないでしょうか」
「そ、そのっ。……駄目でした。タスクさんしか……」
申し分けそうな顔をしたオウカの頭に、タスクは手を置いて、ぐりぐりとなでた。
「俺が声をかけて動きそうな部隊は……あれと、これとで……このくらいになるが、とても足りる人数とはいえないね」
枯れ木のような指が2本立った。モリヤは黒板に自軍兵力250名、と書いた。
「いまの近衛軍は、一部を除いて評議会の支配下にある。オウカが帝国へ密かに入国した際に、襲撃した駆逐艦も近衛軍のものだ」
タスクが頷く。オウカが教国を抜け出した際に乗艦した『真朱』は、タスクが伝手で入手したものであり、艦長もまたタスクのかつての部下であった。
「近衛軍の中に、陛下を亡き者にしようという一派があるとは思いもせなんだ……。俺の求心力ももう過去のもの、空軍の試作艦が近衛軍の手に渡っていると情報を得たときにはもう手遅れだった。あの男にも、陛下にも悪いことをした」
赤い目をさらに赤くしていたオウカに、記者魂たくましいシナミが追い討ちをかけるように言う。
「帝国に密かに入国って……陛下は、教国からこっそり抜け出してきたのですか!? カザフチタチ協定のために、陛下は教国へ親善大使として、いえ、失礼を承知でいいますっ。『人質』として留学さてれていたのでしょう? 脱走が教国に露見したら……」
モリヤはため息をついて、
「まぁ、第七次二国大戦だな」
帝国再興記(仮)