都会の迷宮
オシャレというものにまったく興味のない坂上にとって、たまに妻に付き合わされるデパートほど退屈な場所はなかった。化粧品から始まり、婦人服、雑貨、輸入小物、宝飾品と各売場を付いて回っているうちに、だんだん頭がボーっとしてきて、自分がどこにいるのかさえわからなくなってしまうのだ。
「なあ、ちょっと書籍売場を覗いてきてもいいかな」
「あら、だめよ。あなた、今日は携帯を忘れてきてるじゃない。迷子になられちゃ困るわ」
「うーん、じゃあ待ち合わせしよう。一階の入口に噴水があっただろ。あそこに一時間後でどうだ」
「仕方ないわね。でも、このデパートは建物が四つあって複雑に繋がってるから、店員さんにちゃんと道順を聞くのよ」
「大丈夫だよ」
(まったく、子供じゃあるまいし、案内板を見りゃわかるさ)
そう思ったものの、実際に案内板を見て、あまりの複雑さに驚いた。建物が四つある上に、各館の連絡通路が飛び飛びの階にしかなく、しかも、エレベーターが下層階用、中層階用、上層階用、レストラン階直行などに分かれているのだ。これでは、恥を忍んで誰かに聞くしかない。
坂上は、ちょうど近くを通りかかった若い女性店員に声をかけた。
「すまないけど、書籍売場へはどう行ったらいいか、教えてくれないか」
聞かれた店員は「少々お待ちください」と言って、内ポケットから手帳を出した。
「今お客様のいらっしゃる北館から、書籍売場のある南館へは、直接の連絡通路がございません。まず、この北館の中層階用エレベーターで3フロア上がっていただき、そこから連絡通路を通って東館に行っていただいて、上層階用エレベーターでさらに5フロア上がっていただきましたら、動く歩道で西館のレストラン階に出ますので、そこから直行エレベーターで10フロア下がっていただき、連絡通路で南館へ渡っていただいて、下層階用エレベーターで2フロア上がっていただきますと、そこが書籍売場でございます」
「な、何だって。もう一遍言ってくれ」
親切にもう一度繰り返してくれたが、とても覚えきれない。
「もし、途中で迷われた際には、案内板でご確認いただくか、スタッフにお尋ねください」
「ああ、そうするよ」
坂上は教えられた道順を頭の中で繰り返しながら、エレベーターで上がったり下がったり、通路を行ったり来たりしたが、途中で階数を間違えてしまい、しかも、それを自己流に訂正しようと違うルートを通ったりしたため、書籍売場とはまったく違う場所に出てしまった。
そこは薄暗い、人気のない売場で、おかしなことに一人の店員もいなかった。
坂上は急に不安になり、売場の中をあちこち探し回ると、白髪の老人の姿が見えた。
「あの、すみません。ちょっと道に迷ったんですが、書籍売場へはどう行けばいいのか、ご存知でしょうか?」
老人はひどく疲れた様子で、虚ろな目をしていた。
「ええと、聞こえますか」
男はやっと坂上の方を向いた。
「あんたも、カミさんと別行動をとったのか」
(なんだ、この人も迷子か。だが、まあ、仲間がいる方が多少は心強いな)
「そうなんですよ。よかったら、いっしょに店員を探しませんか」
すると、何故か老人は力なく首を振った。
「わたしは、もう何年も探しているよ」
「ええっ、そんなバカな。この場所でどうやって何年も生活したと言うんですか」
老人は何かを思い出そうとしているようだったが、あきらめたようにため息をついた。
「あんたもあちこち歩いたり、上がったり下がったりしただろう。わたしにも理屈はよくわからないが、そのせいで普通の時間や空間の外に出てしまったらしいのだ。ここでは時の流れが変なんだよ」
(ちょっとおかしな人らしいぞ。下手に逆らって暴れられたりしても困るな)
「大丈夫ですよ。店員を見つけたら、あなたのことも頼んでおきますからね」
そう言い捨てると、坂上は記憶を頼りに元来た道を引き返した。時々立ち止まって思い出しながら、上がったり下がったり、行ったり来たりしてみた。だが、途中、店員はおろかお客にも誰一人出会わない。坂上は必死で人を探したが、あの老人にさえ二度と会わなかった。老人が言っていたように、ここでは本当に時の流れが普通ではないらしく、空腹にもならず、眠くもならず、坂上はひたすらさまよい続けた。
それからどれくらいの月日が流れたのか、もはやわからないまま、坂上は惰性でふらふら歩き続けていたのだが、ある時、ふと、誰かの声が聞こえてきた。
「あの、すみません。ちょっと道に迷ったんですが、書籍売場へはどう行けばいいのか、ご存知でしょうか?」
(おわり)
都会の迷宮