毒を喰らわば
暗い話です。
「毒を喰らわば皿まで」と言うことわざを知って、こんな使い方なんて、と考えて書きました。
オチもなく、ただただ憂鬱な話です。
読む人は、期待しないで下さい。
某日のこと。首都は発達した寒冷前線の影響で、集中的な豪雨に見舞われていた。
気温は低く、唸るような風と雨が私を容赦なく叩いていたきがする。
そんな日も私は彼を待っていた。彼から呼び出しがあったから。
「午後9時に、駅前で会おう」
たったそれだけ。絵文字も、スタンプも何もない。
それでも私は嬉しかった。彼からの久しぶりのメール。
すぐに返信した。絵文字もふんだんに使った。もちろん最後にスタンプも。
彼は既読を付けるだけ。でもいいの。彼は読んでくれたんだから。
それからずっと私は浮かれていた。仕事もろくに手につかず、たくさんミスをした。
浮かれてそわそわしながら時間がたつのを待った。
秒針の音がやけに耳に残っている。
チク、タク、チク、タク……チク、タク、チク、タク……
秒針が進めば進むほど鼓動は高くなっていった。
それと裏腹に、募る不安。「もしかしたら彼は来ないのかもしれない……」そんな考えが頭をよぎる。
いろんな意味で生きた心地のしないまま、1日を過ごした。
約束の9時。この雨のせいで電車が遅れるらしい。
幸い、道路は封鎖などがなかったため、タクシーを使った。メーターが弾み一万近くはたいた。
約束の9時はまだ早い。それでも私は雨に打たれながら待った。
規則的なリズムが腕時計から聞こえてくる。
チク、タク、チク、タク……チク、タク、チク、タク……
早まる鼓動、募る不安。早く私を楽にして。
気付けば時刻は約束の9時。彼はぴったりの時間で現れた。
私は言葉が出なかった。彼が来てくれたんだ。それだけで満足だった。
彼は私を連れて、静かなカフェに入った。
彼の様子がおかしい。
何も喋らないし、どこかそわそわしている。周りをギラついた目で確認している。
なにか見えないものを威圧しているような、それでいて、怯えているような目つきだった。
たれ目の店員が注文を聞きに来る。私はコーヒーを、彼はココアを頼んだ。
昔から彼は苦いものが嫌いだった。
「どうせなにか食べるなら、美味しくて甘いものがいい」
そう言って彼はいつもココアを飲んでいた。
今思えばあの頃は幸せだった。まだ付き合い始めたばかりの話だった。
私から告白したんだったなぁ。一目惚れで、勢いに任せて。
彼の反応、可愛かったなぁ。一気に顔が赤くなって、目を泳がせながらも私のことをしっかりと見つめながら返事をしてくれた。
それからは毎日が楽しくて仕方なかった。明るくて優しい、少しおっちょこちょいな彼が愛おしくて、いつまでもそばにいたいと思った。
でも、楽しい時間は長くは続かなかった。
彼は少しずつ暗くなっていった。明るい笑顔も、ちょっとしたドジも、何もかもなくなっていった。
昔はあれほど止まらなかった通知が、今では1ヶ月に片手で数えられるほどだけ。
私自身、彼の異変には気づいていた。でも、気づかない振りをしていた。
気づいたら、私達の関係は終わってしまうのだと思った。
私は自分に言い聞かせた。「彼は彼だ。私のそばにいるのは紛れもなく私が愛した彼なのだ」。
気づけば、彼からの連絡は途切れていた。私は不安に陥った。何もかも手がつかなかった。ただただ彼に会いたかった。
長い夜を一人で過ごした。枕を何度も涙で濡らした。
けれども、その涙は彼に届くことなく、無慈悲に枕に吸い込まれていった。
私の中の水分を全て出し切ったら、彼に会えるのかも。それなら私はいくらでも泣こう。
長く離れて、少しずつ落ち着いてきた。周りの物が見えてきた。
けれども彼のことは忘れられなかった。いつか必ずもう一度会う。
そう心に決めて1日、1日を過ごした。
そして今、彼は私の前に居る。
変わり果てた姿だが、間違えなく彼だった。
嬉しかった。とにかく嬉しかった。
なんて思い出に浸っていると、注文したコーヒーとココアがテーブルに運ばれてきた。
コーヒーの匂いと、ココアの匂いが混ざって、不思議な気持ちになった。
彼がゆっくり、口を開いた。
「すまない、お金を貸してくれないか」
察した。私は全てを理解した。つもりになった。
彼の挙動不審な態度。ココアのカップを持ち上げた時に覗いた腕の異様な腫れ方。
私達が関わってはいけない何かと、彼は関わっているのだと感じた。
「少しだけでいいんだ、すぐに返す」
彼は話し続けた。
私はこの場を立ち去りたかった。怒鳴る気力ももう失せていた。
手にとったコーヒーカップを起き、コーヒー代をテーブルに置いて立ち上がった。
彼の視線が私を追いかける。告白を返してくれたときと同じように。でも、それとは全く違う。あの時の彼と今の彼は違う。
まっすぐ前を見据えて出口を目指す。
ズン、ズン、ズン……
自分の足音が頭に響く。蘇る彼のとの記憶。でも、これはあそこに座っている彼ではない。
そう思っていても、足取りは重かった。彼に会えたんだ。このままでいいのか、彼は私を頼ってくれたんだ。
そんな両極端な考えが頭をよぎった。
不意に、あのたれ目の店員が話しかけてきた。
「お客様、まだコーヒーが残っております」
……?何を言っているんだ?この店員は。
私は今から立ち去るんだ。彼と、彼との思い出と、彼との思い出にすがっていた自分と。
私は店員を見据えた。こいつ、虫も殺せないような顔をしながら以外にものをいうじゃない。
店員は口を開く
「コーヒー、もったいないですね」
……ふふっ。なんだこいつ。何がいいたいんだ。
私はテーブルの上のコーヒーをみた。ほのかに湯気がたっている。
ソーサーの上に丁寧に鎮座するカップ。その中を揺れる黒い液体。
そうだ、友達が言ったんだ。
「毒を喰らわば、皿まで」
ふふっ。なんでこのタイミングで思い出しちゃうかなぁ。私はあのコーヒーに手を付けた。彼にも一度関わってしまった。
もう、何もかも始まっていたんだ。飲み込んでしまった液体を元に戻すことができないよう、私も、彼と関わって戻れなくなったんだ。
このまま皿もいただいてやろう。どうせ戻れないなら、どこまで行ったって結果は同じだ。
私は彼を見据えて、ゆっくりと席に戻る。
カップを持ち上げる。
黒い液体が揺れる。まるで私の心のように。
私は、それを制するように全てを飲み干す。
液体が流れていく。私の体の中を。
カップをゆっくりとソーサーの上に置く。自分でも驚くほど鮮やかにできた。
彼を見上げる。相変わらず、彼は昔の彼とは別人であった。
でも、しょうがないのだ。私は彼を食べたのだから。
毒を喰らわば、彼の全てを。
さあ、長い長いディナーの始まりだ。
毒を喰らわば
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
私自身、心が晴れないようなものかだりを書いてしまったと思っています。
でも、やっぱりこういう話もあると思います。
全てハッピーエンドとはなかなか難しいモノです。
いつか、我が身を忘れてひたすら彼に溺れる恋をしてみたいものですね。