背徳の蜜 第7話
ブルーグラス
家に帰るとリビングの時計は
十二時を少し回っていた。
夫はすでに寝室で眠っている。
顔を合わせずに済んだことにほっとして
私はソファにどさりと倒れこんだ。
テーブルの上には
無造作に折りたたまれた新聞と私宛の郵便物。
テレビの横の水槽でブルーグラスが
大きな尾ひれをひらひらと靡かせ泳いでいる。
何も変わらぬ、いつもと同じ光景。
青いドレスをまとったようなその姿を
私はぼんやりと眺めていた。
どれくらいそうしていただろう。
暖房を入れない夜のリビングの
しんと冷えた空気に体の熱は奪われ
寒さと手先の冷たさに気づいて
ようやく我に返った。
彼との余韻を引き剥がすように
のろのろと体を起こし
食洗機の食器を片付け洗濯物をたたむ。
日常に戻れば彼に抱かれていた時間は
蜃気楼のように遠くで揺れ現実味が無い。
それでもいくつかの情景が
フラッシュバックのように蘇る。
彼の背中越しに見た、きらめく夜景。
帰り際に交わしたくちづけの
彼の肩越しに見た、乱れたベッド。
そのシーツのしわは行為の激しさを物語り
私を責めているようだった。
私は冷えきった体を温めようと
バスルームへ向かう。
鏡に映った裸の私も昨日と何も変わりはなく
ほんの少し前まで彼の目に晒され
悶え上気していたのが嘘のようだ。
自分の体を指でそっとなぞってみる。
彼のくちづけを受けた肌。
彼が口にふくんだ部分。
その感触を思い出しながらゆっくりやさしく。
ただそれだけで
彼を感じていた体の記憶が蘇り
肌はざわめき体の奥が疼きだす。
何度も差し込まれ繰り返し突かれたその場所は
じんと痺れるような鈍い痛みが残り
彼が確かにそこにいたことを教えてくれる。
私は彼に愛されたこの体が愛しくて
両手できつく抱きしめた。
体中についている彼の唾液。
シャワーで流してしまったなら
彼の気配が消えてしまう。
彼の気配がなくなれば
彼と過ごした夜も
何処かへ消えてしまうような気がした。
だから私は、しばらく自分の体を抱えたまま
バスルームでうずくまっていた。
翌朝、あの出来事は夢だと思えば
自分でも驚くほど平然と
夫と接することができた。
あの日のことを思うと
今でも体の芯が熱くなる。
私は握りしめたていたガルヴァニーナブルーを
ひといきで飲み干した。
手のひらには、蒼い夜に浮かぶ白い三日月。
それを見て私はふと思う。
あの夜、月は出ていただろうか……
あれから何度も彼に抱かれた。
次の約束はしなかったし
彼は気まぐれで私を抱いたのだと思っていた。
一度きりの夜。
そう思うことで期待は持たず
心のバランスをとっていた。
けれど彼は思い出したように店に現れては
ホテルの名前とルームナンバーを告げ
私を誘った。
ベッドの上で彼は
私の経験など嘲笑うかのように
私を包み込む腕で私を壊し
私の知らない私を掻きまわす指で取り出した。
抱かれるたびに体は拓かれ
感覚は熟していった。
彼に抱かれる悦びに浸るためなら
簡単に嘘がつけた。
快楽という名の糸が
幾重にも繭に巻きついていく。
背徳の蜜 第7話