突き抜けるようなあの青い空の街で王女は黄昏る(1)
高台にある城のサダックという男
「お母様……やはり私は結婚をしなくてはならないのでしょうか?」
少女がとても小さな頃に母親に投げかけた素朴で深い言葉。
その問いかけは母親の優しい言葉で一刻は
安らぎを覚え安心に包まれる。
でもそれは、一刻だけの安らぎ。
少女は時が経つにつれ、身体が成長していくにつれて、
幾重にも重なっていく、
……心の休まらない、女性を自覚していく事への悲しきかな不安。
大人に近づくにつれ迷走を日増しに繰り返す日常。
――とある国のお城の部屋。真っ白い壁に天井にはきらびやかな
シャンデリアが飾られています。窓からは暖かい
日差しが差し込む中、その部屋の中央にはキングサイズの
大きなベッドが日の光で輝いています。四方の柱から
一際目立つピンク色のラメが施された薄い布が、
そのベッドを柔らかく包んでいます。その布越しにぽつんと一人、
少女とも大人ともいえない女性が水差しを持ち心投げに言いました。
「この水差しも最近使ってなかったな」
女性は水差しを持ち窓際に歩き出すと女性の垂れ下がった
地面を擦るほどの長いスカートが、窓から入り込む夏の
生暖かい風によって波打ちます。
女性は絹地の布を纏い、襟首はこの国で高貴な者しかつける事の
許されない赤色の刺繍で縁どられています。
女性は窓際で枯れた花に水をやります。
「だめね、もう枯れてしまったものに水をやっても……」
水差しから出た水は、花壇の渇ききった土に吸い込まれていきます。
女性は水差しを無造作に部屋の中に投げやると窓の下を見下ろしました。
眼下には多くの家並みと活気ある人の声がこだましています。
窓の外に少女のような身軽さで身を乗り出した女性に一際強い風が吹きすさみます。
女性の長い赤毛の髪がはたはたと揺れました。
「んん~、ほんと、良い風だわ!」
昼下がりの礼式から解放され、女性は宮廷内の自室で、
一人少女の身心を堪能しているようでした。
しかし、そのあどけなさが残る態度とは裏腹に、
どこか教養を感じさせる気品のある目を持っていました。
少し赤みがかった透き通った目。女性はこの国の王女でした。
……風に身を任せていたその王女が少し窓から離れた時。
そこに何か鳥のわさわさと羽ばたくような仰々しい音。
王女は耳を澄ませると、それとは対照的に静かな男性の
声がかすかに混じって聞こえます。
王女は驚きその場にかがみました。
ベランダには何かが降り立った音がします。
「王女……様? ……これは……失礼しました……」
王女は怯えながら目を開けるとそこには、大きな白い鳥にまたがった
見たことのある顔。そう、城の兵器開発部門、幹部に位置する
サダックというあの男でした。
しかしその外見はいつもの肌の青白さはなく
健康的な褐色に色付いていました。
王女はいつものサダックと違う健康的な肌になんとなく
凝視してしまいます。
その目線に気づいたサダックは、
「……あ、私だとわかりますか?王女様。ちょっと野外で鳥の
世話をしていたら、いつのまにかこんな肌にね」
王女は視線を悟られて何か気恥ずかしくなりました。
鳥がばたつきます。サダックの体が揺れます。
「おっとっと、……物々しくてすいません」
サダックはさっそうと鳥から飛び降りました。
「お怪我などしていませんよね……。王女様」
サダックはしゃがんでいる王女に手を差し伸べます。
王女はその手を取り立ち上がりました。
なぜここにサダックがいるのか疑問はありましたが、
対峙して、ありがとう、と言うつもりで顔を見上げると
サダックの銀色の長い髪先が、王女の目に入りそうな
距離で揺れています。
その奥には筋の通った形のいい鼻と漆黒の瞳。
今まで男性とこんな近い距離で向き合うことがなかった王女は、
胸が高鳴り動揺しました。
しかしその動揺は、こんなに近い距離で男性と対峙したのが
初めてというだけではないようです。
「よかった……怪我はないようですね……では私は用事がありますので」
王女は「なぜここに?」と聞きました。
「国王にこの鳥の件で用事がありまして……」
「そう……」
「それでは……」
サダックはまた鳥にまたがり、鳥はベランダから裏庭の
国王の寝室があるほうに羽ばたいていきました。
王女はドキドキしながらも、しばらく呆然と窓のほうを見ていました。
……それから一刻の時が過ぎた頃には、王女はサダックのことなど
忘れていました。その時には大好きな本を読み、いつも通りの時を過ごしていました。
そこに低くて品格のある声が聞こえました。
「ミレーユ、お前は花を育てたいと言っていたのに、
ひと月もしないうちに枯らしてしまったのか」
そこに立っていたのはブロンドの内にカールした髪に威厳ある顔立ち、
金色の王冠、中肉中背の金銀の装飾で彩られたマントをはおった男性でした。
その男性は枯れた花を見つめています。
「お父様」
ミレーユはしまったという顔をして慌ててスカートを手で整えました。
その男性はゆっくり王女に近づきます。そう、男性は
この国の当主エリック国王です。
「勝手に部屋に入ってこられたら困りますわ……」
「王妃を見習って花を育てたいと言うからわざわざ南の
ダヴィの国から取り寄せさせたというのに」国王は眉間にしわを寄せ
床に落ちていた水差しを手に取りミレーユを一瞥したのち、窓から城下町を眺めました。
このカーフィの国の王都を統べるロィーウ城。
その城の王妃は今この国にはいません。
ある事情があって自分の国へ帰ってしまったのです。
巷の噂では王妃は今から30年程前に西の森の化け物に、
この国の兵士が喰い殺されたという町民たちの噂を信じて故郷の国へ帰ったという話です。
「あの生き物が原因で王妃が故郷の国へ帰ってから何年になるかなあ……」
王のエリックはその噂を信じているような口ぶりです。
……しかし王女のミレーユはと言うと、それが原因ではないだろうと
最近になって思い始めていました。
「お母様が故郷へ帰ってしまったのはあの『猫叉』が原因ではないのじゃないかしら?
お父様の素行が理由だと思うわ」
ミレーユは自室に無断に入ってきた父親にいささか憤怒するようにいい放ちました。
「どういうことだ?」
「お父様は欲しいものがあると力ずくで手に入れようとするでしょ?」
ミレーユは両手を後ろに回し、目をつぶり、カールした
まつ毛をより立たせ、ゆったりとした歩調で歩きだしました。
それを国王はいぶかしげに見ています。
するとミレーユは、ダヴィの枯れた花の前で靴のかかとを揃え
トンと音をたて立ち止まりました。
そう、ミレーユは知っていたのです。この枯れた花だって、
ダヴィの国から来ていたアスター家お抱えの花売りから無理やり
高額で買い取ったということを。
「私は知っているのよ」ミレーユは澄ました目で国王を見つめます。
国王はたじろきながら「それはお前のことを思って……」とぼそりと言いました。
ミレーユはこの父親のその傲慢さが嫌いでした。それに――
「もうその花も永久に手に入らんと言うのに……」と国王は静かな声で言いました。
「え?」
国王は躊躇しながらも「ダヴィの国には、ある事情があって攻め入る事にしたんだよ」と続けて言いました。
「なぜそんなことになったの?」
「それはだな……」国王はベランダのダヴィの枯れた花をふいに見つめると、煮え切らないような表情になりました。
すると国王の顔が次第に赤みを帯びそわそわし始め
「お前は詳しい事は知らんでいい」といらだちを見せながら
ミレーユの疑問を遮りました。
「なぜ……?」
ミレーユはいらだっている様子の国王を横目で見ながら
出て行った母親のことを思いました。
《ああ……お母様。やはり、お父様の気質は直ってはいなかった。
お母様がこの国を出て行ったのも、このお父様のすぐに争いに手を染める
熱い血を判っていたからですよね?お母様はそのお父様の気質に
愛想を尽かしてこの国を後にしたのですよね?》と
ミレーユが生まれて15年の間に戦争が起こったことなどありませんでしたが、
それ以前には国の領土を広げようといくつもの戦をしてきていることを噂に聞いていました。
母はミレーユが小さい頃この国を出て行く際に言っていました。力やお金がすべてではないと。
母は植物や芸術を愛する気品に満ちた性格でした。ミレーユは母の趣味がわからなかったけれど、
その気品に満ちた性格をなんとなく好んでいました。母が出て行く際も母についていこうとしましたが、
傍若無人な父の性格を知り、幼いながらもこの国を守り、国の行く末を見届けたいという思いがあり踏みとどまりました。
――それが本当に国を守る気高き気持ちからなのか、ただの興味本位だったのかは今ではミレーユ自身もわかりませんが――
それにそんな父親が時折見せるもの悲しい表情も気になっていたのです。
「あの国は小国だ、戦の結果は見えているだろう。ミレーユ、
すまんな、お前はその花を育てて絵を描きたいと言っていたものな
……ふふ、まあ、自分で枯らしてしまった訳ではあるがな……」
国王は手に持った水差しを指でもてあそび、一言「花はおしい事をしたな」
と言い、悲しげな顔をしました。その表情はまるで
戦争のことよりも花のことを気にしているようでした。
ミレーユはその国王の表情を見て思いました。こんな城、
今すぐにでも出て行きたいと。一時でもいい、外の空気を吸いたいと。
そんな時、はたと思います。外に出ればあのサダックに会って
男のカラクリの子供を造る相談をすることもできるのにと。ミレーユは言いました。
「お父様! 私は外に出て絵を描きたい! 花だけじゃなくって、
街の風景や人波、街のおかしくって楽しい芸を見せてくれる
大道芸人だって描きたいわ!」ミレーユは眉間にしわを寄せ
細い眉をいっぱいにゆねらせ必死に言います。
「ミレーユ! 王女が街に出るなどいかん! 王女は城にて
その振る舞いを問われる! 街に出ていたことなどばれれば
町民たちに面子が立たん!」
国王は怒りを抑えながら言いました。
ミレーユは少しベランダの枯れたダヴィの花を見た後こう言いました。
「お父様がいけないんじゃないかしら? お父様がダヴィの国と
争う事なんてしなかったら私はダヴィの花売りの花で満足していたというのに。
それとも何かしら? お父様自ら戦火で焼け果てたダヴィの荒野から、
ダヴィの花を持ち帰ってきてくれるとでもいうのかしら?」王女は
上品さを保ちつつ勝気さを見せながら言いました。
「ううむ……」国王は頭をもたげ悩んでいます。
王女は国王に芸術を習うため、どうか街に出て絵筆を振るう事を
お許しくださいと申し出ました。
「仕方ない……私が原因でもある訳だしな……だが……」
国王は一週間に一度、城から出る事を許してくれました。
しかし条件として街では変装をする事と護衛兵を一人付けるといった
条件を言いつけられました。ミレーユ王女は内心してやったりと思いました。
こうしてミレーユは、サダックに会う口実を作る事が出来たのです。
そう、先ほど鳥に乗って現れた男はこの城の軍事の中核を担いし男。
そしてカラクリ鳥といった生物を産み出した……生命を操る男
という噂も城内ではささやかれていました。
突き抜けるようなあの青い空の街で王女は黄昏る(1)