レディース・メイト

6月7日 午後15時52分

 まだ夏が始まる前。天気予報ではすっかり梅雨入りしていると宣言していたのに、外を眺めればこの晴天だ。
 眩しい陽光に目をくらませながら、輝くグラウンドを駆ける陸上部の姿を追いかけてみた。
 豆粒のように小さくなった彼ら、途切れとぎれだけど発する声に士気がある。その豆粒になった群集の中にタモツ君は結局見つけることが出来なかったんだけど。
 いい加減日光で目がチカチカしてきたので、今度は影が落ちた教室の中を見回してみた。
 明るい空間からすぐに薄暗い空間に目を移したので辺りが把握しにくい。でもそんな状況でも分かるくらいにオーバーなことをしている人間が私の隣に一人。
 女生徒が泣きじゃくっている。両目どころか顔全てを真っ赤に染めて、他人の目すらはばからないで。その光景に人が少なくなった放課後でも、嫌でも目がつくようで教室に残っているクラスメイトは私達をジロジロと見ていた。
 私は形だけでも慰めている。「大丈夫?」なんて安っぽい言葉を投げかけて。本当は面倒臭いのだけれど、でもそうしないと周りの目が痛く感じるから仕方なく。

 ユカリは本日、午後13時12分にてフられたらしい。正確には相手が浮気をしていて、それがバレるや否やユカリを切り捨てたって感じなんだけど。
 ユカリのお相手は陸上部エース、この南・桜見学園の最終兵器、田端タモツ君だ。成績優秀でスポーツ万能、しかもイケメンだからユカリが恋人だと釣り合わない感じがしていたのは正直な所だ。
 ユカリだって周りと比べれば十分に可愛い。でもタモツ君と釣り合うのはミス・桜見のナツメ先輩だと思っていたけれど、いくら身体面で万能だからって性格がクズじゃ並以下だよね。
 ご本人が泣き崩れている隣で元カレをヒットラー級の悪役に仕立て上げている私はきっとスターリン級の悪役に違いない。
「ミカぁ、私どうしたらいいか分かんないよ」
 そう言って泣きじゃくった顔で私に詰め寄るユカリ。うん、分かったけど顔が近い。涙が溜まった目を思い切り擦ったみたいでマスカラが取れて強制パンダメイクになっているから。
 私としてはあんな人類の敵みたいな男のことはすぐに忘れて新しい恋を見つければっていう意見なんだけど。恋したことないけど。
 それだというのにこの天然バカ女「ユカリっち」は何を思ったのか、「決めた。私はもう恋をしない」という意味不明なことを爆弾のように投げつける。もうお前「ユカリ」じゃなくて「ユーカリ」として生きろよ、それでコアラに食われろよ。
 高校2年生の初夏、梅雨入りすらしていないこの時期にユカリは私こと「ミカ」によく分からない宣言をして幾多の戦いを交え、生還した英雄のように言いたいことだけ言って颯爽と立ち去っていった。マッカーサーか。

 ようやく静かになった教室。人の扱いは疲れると心の中で愚痴って、自分の鞄から取り出した文庫本を読み始めた。あと僅かなページ数しか残っていないそれは、ここで読み切ってしまって図書館に返そうという意思。
 グラウンドから聞こえる笛の音が新緑の匂いに混じって風に乗せられてここまで届いてきた。
 梅雨入りはまだだとしても湿気は残留しているみたいで全身が水分の薄い膜で覆われているみたいで気持ち悪い。

 ページを捲る音が心地よい。紙がこすれる音、インクの匂い、手に伝わる小気味よい重量感。本を読むことが好きな私は今の女子高生にしてみれば珍しい部類なのかもしれない、しかも読むジャンルは日本文学から外国文学まで多岐に渡る。代わりにマンガはあまり読まなくて、だから趣味が合う人なんて滅多にいない。
 周りの皆はオシャレをして、カラオケに行って彼氏を作って、そんなことばかりだから趣味なんてまるで交わらない。
 交わろうと思ったこともないけれど、私は群れるのが好きじゃないし。
 オシャレに無頓着な私は決められた制服を決められた通りに着て、スカートの丈なんて規定よりも数センチ長くしている。一度も染めたことのない黒髪は3つ編みにして2つに束ねているだけ、可愛らしいヘアピンだとかカチューシャはほとんど付けない。
 子どもの頃から本を読んでいた影響か、すっかり目が悪くなって今では分厚い眼鏡をいつも付けていないと全てぼやけて見えてしまう。
 そんなあからさまに文化系な私が、どうしてユカリのようなあか抜けた女子と友達になれたのか。ページを捲る最中にふと頭によぎる。
 特に彼女にとってプラスなことをした覚えはない。そりゃあ、友達というよしみでテスト勉強の手伝いなんかはしたけれど。
 でもそれは彼女との中を深める物ではなくて、結局なんで彼女と仲良くなれたのかは分からないまま闇に葬り去っていた。
 読み終わった文庫本を閉じて、立ち上がる。椅子の足にくっついている4つの硬いゴムが木の床を引きずった。甲高い悲鳴に耳を塞ぎたくなる。
 私が立ち上がると教室に残っていたクラスメイトが私を見る。途端に気まずくなった。
 まるで私が害を為す物みたいに思えてしまって、途端に腹の底から這い上がってくるドス黒い何かに支配されそうになって。
 机に置いてある鞄を拾いあげると、逃げるように教室を出て行った。

6月7日 午後16時20分

 中学生の頃、私はいじめに遭っていた。理由は多分本ばかり読んでいて、友達がいなかったから。
 子どもが他人を傷つけるのに理由なんかいらない、ましてやそこに善悪すら関係ない。そんな文章をどこかの本で読んだことがあるけれど、まさにその通りだ。
 いじめる側が相手を攻撃するはっきりした理由なんてない。「キモい」だとか「ウザい」だとか、とにかくそんなレベル。要はストレス解消の為のサンドバッグが必要なだけ。
 サンドバッグを殴るのに一々善悪を気にする人間はいない。ただ殴る、そのことだけに意味がある。それでサンドバッグは「痛い」なんて訴えることが出来ないから、やっぱり耐えるしかないんだ。
 中学の頃は私の存在を無視されたし、かと思えば私を害虫のように貶され見られていた時もあった。私と関わったら「ビョーキ」が移るって、酷いことも沢山言われた。
 そのクセ私は大人に助けを求めることはしなかった。大人は今の子どもを知らなすぎる、大人は「最近の子どもはナメてる」っていうけど、私達からすれば「最近の大人はナメてる」ようにしか見えない。
 とにかく役立たずな大人の力を借りても場の状況をさらに混乱させるだけだろうから相談はしなかった。自己解決しようと思って、その結果が不登校と引きこもり。
 そんな私を心配してか面白がってか、親は精神科の所へ連れて行きたがったり勝手な推測を立てて重い病気なのじゃないかと疑ったり。
「そんなんじゃないよ、ただ周りがウザいだけ」とは口が裂けても言えなかったんだけど。
 薄暗い部屋の中で、本を読んでいてもいつも気にしてしまっていた。私の視線が他人に迷惑を掛けているんじゃないかって。他人といるだけで、迷惑を掛けているんじゃないかって。
 悩みを打ち明ける友達もいない、かと言って頼れる大人もいない。「孤独」って言葉をここで使うのは間違っているのかもしれないけれど、やっぱり「孤独」だった。
 胸の奥が鋭利なナイフでえぐり取られるみたいで、ズキズキ痛む。痛んでいたんで仕方なくなって、心の奥が黒い何かに蝕まれるみたいで凄く心地悪い。
 軽いノイローゼみたいになっていた。世界に私の仲間は誰もいなくて、他は皆敵。もしくは暗い宇宙空間に放り出されたような途方もない不安。

 そんな状態が約半年。自傷行動に至ったことなんて数知れず。左腕は切り傷だらけだ。
 その後何とか単位が足りて町で一番のバカ校の入学が決まり、中学生最後の日に重い足取りで学校に来た。
 教室に入ると生徒の視線が凄く気になる。湧き上がる負の感情を抑えながら申し訳なさそうに自分の席に着くと。
 私の前席に花が置いてあった。花は既にしなびていて、誰も取り替えていないみたい。
 たしかあそこは以前私をいじめていた主犯の女子。彼女の机上に書かれている油性ペンの跡は消えかけているが、悪意の言葉が全面に書き込まれていた。
 言葉にするのも恐ろしい、悪魔の文字。そして机の中にはゴミと鳥の死骸。机から飛び出したゴミの1つに写真があった。写真はいじめていた彼女自身の物。
 ただおかしいのは、その写真が異常を極めていた。全裸になって無理やり犯されている姿、苦痛に歪んだ顔は涙と白い液体でまみれていて、全てが見て取れないほどに。
 意味が分からなかった。私をいじめていた子が、いつの間にかいじめられる側に回っていて、あまつさえ殺されていたなんて。
 いじめっ子がいじめられっ子に回るなんてよくあるパターンだと思う。でもこの場合は、やりすぎだ。
 自業自得、因果応報と言うには難しい。確かにいじめていた女子は許せないと思っていたが、本当に死んでしまえなんて思っていなかったから。
 その時感じた心の重しはきっと「罪悪感」。でも私がその「罪悪感」を感じる必要があったのかどうかは私には分からなかった。
 いじめは終わっても、心の傷は終わらない。私の視線が他人に迷惑をかけるんじゃないかっていう視線恐怖はまだ時々表れてしまう。それこそ、さっきの教室みたいに。
 目立たないような工夫はいくらでも凝らしてきた。もう自分が傷つくのは沢山だから。相手がどうなろうが私の知ったことではない。
 友達は少なくて構わない。とにかく嫌な思いをしなければいい。そう思って臨んだ高校生始業式。
「あなたさっきから一人だよね。私と友達になろうよ」
 盛大に空気の読めない女子高生が私に話しかけてきた。高良ユカリ、またの名を「ユカリっち」、またの名を「ユーカリの葉」。
「え、あ。うん、よろしくお願いします」
 あまりの突然の友情宣言に何も言えずにいた私がいた。でもそれは割と間違いなんかじゃなくて。
 ユカリはいつもの女子とは違い、表面的な付き合いではなかった。表面的っていうのは一言、二言話しただけで終わる上辺だけの友達って意味。
 普通の女子グループをまとめる子なら広く浅くっていう付き合いなんだろうけど、ユカリは潮干狩りの穴のごとく、特定の人物にはとことん深くって感じ。
 相変わらず友達が少ない私だけれど、強い味方も手に入れた。それだけで、なんとなくこの学校に来た意味はあるなって思う。

 図書館の前廊下に着いた。この学校の図書館は、便宜上附属図書館として機能しているみたいで、つまり学校とは別の施設だってこと。
 蔵書量も普通の図書室よりもはるかに多いし、なにより地下に書庫がある時点で違う。
 私は次にどんな本を借りようかと迷いながら、新しく蔵書された本をじっと眺める。最近ではライトノベルという一部では「活字マンガ」と良く分からない評価をされている本がよく販売されているけれど、興味がないので手に取ることはない。
 自分の好みに合いそうな本を探しているだけで時間が経つ。それがたまらなく楽しいのだ。

6月7日 午後17時02分

 手に残る心地よい重さに満足する。ハードカバーのそれを1枚ずつ丁寧に捲っていく。
 静寂に包まれた空間に私の手の動きだけがリズミカルに響いていた。窓から差し込む斜陽はもうすぐ闇が訪れるという合図、でもそんなことも気にせずに本を読み続けていた。
 本を読むことは私にとって娯楽以上の価値がある。自分が知り得ない、到底手の届かない世界に埋没することができるから。
 ある意味自分自身が本の世界に意識を移せる事が好きなのかもしれない。無重力空間に放り出されて、くるくると回っているような平衡感覚が鈍った意識。
 自己陶酔にも似た何か。私はそんな曖昧なものに唯一の快楽を寄せていた。
 やがて閉館のチャイムが鳴ってようやく我に返る。そそくさと本の貸し出しの手続きを済ませると図書館から出た。

 湿った大気と身を貫くくらいに眩い斜陽が合わさって、相変わらず外は気持ち悪い。ガラスに反射する陽光は綺麗な飴色に染め上げられているけれど、中から聞こえる生徒の騒ぎ声で雰囲気ぶち壊し。
 私は左手に握られている本を落とさないように、さらにしっかり握りしめると帰路に向かって歩き始めた。アスファルトに響くローファーの振動が私の骨まで伝わって、なんだか気持ちいい。
 今日はいつもより良いことが多かった気がする。そう自問自答しながら、普段より軽い体を進めていると、後方から声がした。
 聞き慣れた声は2つ。いつもならこの時間帯には聞こえないであろう声は確実に私に向けられた物。
「ミカー! 一緒に帰ろうぜぃ!」
 飛びかかるように高良ユカリが私に抱き付いてくる。お前、コアラのように抱き付く側じゃなくて、コアラに食われる側だろ。
 背中から伝わる衝撃によろめきながらも私はユカリの顔を見た。泣き腫らした痕はあるものの、すっかり元気を取り戻したみたいだ。ひとまず安心。
 ユカリのさらに後ろにいる女子生徒、彼女も私の少ない友達の一人だ。
 ユカリとは似ていない、いやむしろ私に酷似している地味な女子。線の細過ぎる体は病弱であることを暗に示していて、そのため周りには「白骨系女子」などと不名誉な称号をいただいている。
 嘉川アヤ。周りの女子と比べてみると圧倒的に背が高くて、色白で、真っ黒な髪と日傘が特徴的な「ザ・日本女児」である。しかし、おしとやかというよりは内気、内気というよりは根暗。そんなイメージが周りにはあるらしい。
 アヤ曰わく、直射日光に長い間当てられると血圧が下がって気分が悪くなってしまうのだと言う。だから体育の時間は休みがちになり、登下校時にはいつも日傘を携帯している。
 色々と面倒な体質だけど、体育を堂々と休めるっていうのはちょっと羨ましい。
「今日は2人ともどうしたの、部活はなし?」
 ユカリとアヤは帰宅部の私と違って部活に所属している。ユカリは弓道部で、アヤは茶道部。2人はほぼ毎日部活だから、私と帰ることは結構珍しい。
「あ、うん。珍しく部活がなかったからね。そこでユカリちゃんと会ったの」
「アヤは黒い日傘を差しているからすぐに分かったよ。ミカはいつもの図書館帰り?」
 ユカリは私から離れて左手に握られている本をじっと見てきた。彼女は私とは違って本を読むのが好きじゃないから、私が本を持っていると大概難しい顔をする。
 ユカリは小さい文字が沢山連なっていると、読んでいて知恵熱が出るらしい。赤ちゃんか。
 でも、彼女は読書の趣味を否定したりすることはない。それはとても嬉しいことで、だから今でも友達としてやっていけるんだと思う。
 その時、遠くから聞き慣れない声が聞こえた。私が振り返るよりも先にユカリが振り返っていた。
「高良、今帰りか?」
 声の主は、ミス・桜見であり、この学校の生徒会会長の秋庭ナツメ先輩だった。でも何でユカリのことを知っているのだろう。
 ナツメ先輩は容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能、しかも処女という二次元から飛び出してきたような存在だ。流石は生徒会の会長を務めることもあってか、ハキハキとしていて無駄がない。
「はい、今友達と帰っている途中であります!」
 そういうユカリもいつものやる気のない態度とは一変していた。でも「あります」って、軍隊かよ。
「そうか、今日は部活がなかったからな。県大会まであまり日がない、休める内に休んでおけよ」
「はい。休んでおきます!」
 まるでオウムのようにナツメ先輩の言葉を返すだけのユカリは滑稽だ。やべ、普通に笑いそう。
 やがてナツメ先輩はその場から去って行った。彼女の姿が完全に見えなくなると、深いため息を吐いて姿勢を崩すユカリ。
「今のってナツメ先輩だよね、生徒会の。どうしてユカリのことを知っているの?」
 不思議に思った私はユカリに質問してみた。すると面倒臭そうに答える。
「ナツメ先輩って私と同じ弓道部の部員なんだよね、しかも部長。凄く厳しいからこうやっておかないといけないんだよ」
 ああ、なるほど納得。だからユカリのことを知っていたのね。でもユカリと話しているナツメ先輩は、ユカリと話しているというよりも、重要な弓道部員と話しているって感じだった。
 つまり、個人で見ていなかったというか。そこがなんとなく今の私に似ている気がした。好きにはなれないけれど。

 それから私達はだべりながら帰路をのろく歩いて行った。雲間から差し込む斜陽が私達の頬を赤く染める。沈みかけた陽光に比例して、通学路の隣の茂みにはカエルの鳴き声がそこら中に木霊していた。
 高校生活を謳歌するとは程遠いかもしれない、でも中学生の頃と比べたら驚くべき進歩だ。
 今では少しずつ笑うことも出来るようになってきている。これで、将来的には内気な性格が治ればいいとも考える。
「あ、そういえばさ」
 アヤの声に私達は立ち止まる。アヤから話題を提示するなんて珍しくて、不思議に思ってしまった。
「この辺りなんだよね。ほら、この前ニュースでやっていた」
 この場で言うべきかどうか迷っているようだが、「この前のニュース」が記憶に新しい私達にはそれが何なのか分かっていた。
「自殺した人のことね。ホント死ぬ奴って何考えてんのか分かったもんじゃないよねー」
 ユカリの冷たい言葉。自殺を否定しているんじゃなくて、単純に訳が分からないといった感じ。
 でも私には「自殺」の気持ちが何となくだけど、分かる。中学時代にいじめに遭っていたから。
 いじめられるのは勿論つらいことなんだけど、それ以上に「私の味方は誰もいない」っていう不安や惨めさが勝ってしまうんだ。だから、つらいのと、死んだら誰かしら悲しんでくれるだろうっていう下心で腕を切った事がある。そのことは、ユカリ達に話したことはないけれど。
 この辺りで自殺した人だってそんな気持ちだったんじゃないのかなって考えてしまう。年齢も性別も違うし、就職難な今時は死ぬ理由も様々だろうけど。
 ユカリの容赦ない「自殺」の貶しにアヤは困ったように苦笑いを浮かべた。その時、何となくだけど思ってしまった。
 アヤも、自殺をしたことがあるんじゃないかって。

6月7日 午後17時58分

 どの町にも人の死っていうのは蔓延っている。それは事故死とか病死って意味じゃなくて。
 でも私達は大概「死」に気づかない。だって周りの人が死んだわけじゃないから。自分に関係のない人が死んだところで悲しみようがない。
 それを無関心だとか非難する人もいるみたいだけど、じゃあ非難しているあなたはどうなの? って聞いてみたい。大体人ひとりに一々悲しんでいたら私達の方が持たないんじゃないかな。
 今回起きた私の町の自殺報道だって、皆驚いてはいるけれど悲しんでなんかいない。せいぜいお茶の間の話題になって1週間で消えてなくなる。

 自殺した人は20代後半の男の人だったらしい。私がいつも通学する際に通る道のすぐ隣、深い茂みの中で一際大きい木があるのだけれど、そこでネクタイで自分の首を吊って死んでいたらしい。
 死んだ男の人の側には綺麗に折り畳んだ衣服が置いてあって、遺書らしきものはなかったみたい。宙吊りになった男の人は全裸だったみたいで、その……排泄物とかも辺りに飛び散っていた。
 衣服以外に所持品はなかったみたいで、男の人の身元確認が急がれている。ここまでが最近起きた自殺の経緯。
 正直私達みたいな高校生には関係のない話だ。クラスの男子なんか自殺をネタに笑いを取っているくらいだから、その程度だったのだろう。
「……」
 ユカリと別れてアヤと2人きりになったけど、頭の中はそればかり考えていた。
 私は昔、自殺しようとした。その理由は誰かに悲しんでもらいたいと思ったから。結局、死ねなかったんだけど。
 もし、自殺した男の人が以前の私と同じような気持ちだったらどうだったのだろう。
 誰かに悲しんでもらいたくて死んだのに、周りには笑い物にされて、メディアには「良いネタ」と注目されているだけ。挙げ句の果てにはユカリには「意味不明」宣言されたし。
 悲しませるために死んだのに、笑わせるために死んだと思われている。それって本人からしてみたら、どういう気持ちなんだろうか。
「ミカちゃん、なんだか元気ないね。疲れちゃった?」
 不意にアヤが話しかけてきたから少しびっくり。
「ううん、そんなことないよ。ちょっと考え事をしていただけっていうか」
 あたふたと言い訳を述べる。我ながら、何を言いたいのかよく分からない。
「考え事?」
「うん。アヤがさっき自殺のこと言ったじゃない。あれって死んだ人が考えた反応を周りは示さなかったと思うのだけど、死んだ人はどう感じるのかなって」
 何を言っているんだ、私は。死人に口無し、だと言うのに感情なんてあった物ではないだろう。
 適当なことを言って、この話題から離れようとした時にアヤが口を開いた。
「多分ね。その人すっごく悲しいと思う、それで後悔しているんじゃないかな。ミカちゃんが言うように『悲しませるために死んだ』のに、『笑わせるために死んだ』と思われているんだから。でも、それって一番許せないのは『死』を笑い物にしている人達じゃなくて、周りのストレスに堪えられなくて『死』を選んだ自分自身じゃないかって思うの」
 ま、自殺した人が本当に周りに哀れみを持ってもらいたくて死んだのかは分からないんだけどね、とアヤは付け足した。
 その時の彼女の表情はやたらと苦しそうで、笑っているのに笑っていないように見えてしまう。
 心の奥底で引っかかっていた疑問。どうしてユカリとの別れ際に「自殺」の話題を持ち出してきたのか。そしてまるで自殺した男性を擁護するような発言。
 自殺しようとした中途半端な私にも同感できるアヤの発言に、心の中で膨らんでいた疑問は喉元まで迫っていた。
「ねえ、アヤってさ。もしかして自殺しようって思ったことあるの?」
 我慢出来ずに吐き出してしまった。同時に酷く後悔、友達になんてことを言ったのだろう。
 まぶたをきつく閉じてアヤの怒号が飛び交うのを待つ。でもそれはいつまで経っても訪れず、私は恐るおそる目を開けた。
 そこには悲しげに笑っているアヤの姿。いつも思うんだけど、彼女のこういう表情って凄く画になる。美しいというよりも似合ってるに近い。本人には申し訳ないけど。
 やがてアヤは小さく頷いて単語を紡ぐように口を開いた。
「私がずっと小さい頃にね、両親が熱心に教育してくれたの。今では愛されているんだって分かるのだけれど、当時の私は親に都合の良い道具にされているようにしか思えなくて。私は一番愛されるべき人に愛されていないんだって、そう感じてしまったの」
「……それで、自殺を?」
「馬鹿みたいな話だよね。愛されていないから、いらない子どもだから死のうって思った。その時は躊躇なんてなかったし、死ぬことが怖いとも思わなかった。それで、睡眠薬でちょっと、ね」
 アヤは小さく笑って右手で「少量」というポーズを取っているが、本当は昏睡するくらい飲んでしまったのではないのだろうか。
 黄昏色の空にカラスの鳴き声が響く。灰色の雲が山の向こうへと消えて行った。それだというのに湿った大気がどこにも消えないのが腹立たしい。
「薬を沢山飲んで、倒れて、周りの人に迷惑をかけた。薬の副作用のせいで、私には二度と『全快』が訪れなくなってしまったのだけれど、それは私の『罪』だって自覚している。それよりもあの時の自殺で確認出来たことは、両親の愛情」
「私が倒れてから、ずっと心配して看てくれていたみたい。私が起きると泣いて喜んで、心配してくれて、怒ってくれた。皮肉な話だよね、自分の死を天秤にかけることでしか、愛情を確かめられなかったなんて」
 最後、アヤの声のトーンは妙に高くなっていた。どんなに愛情が確認出来たと言っても、自分の体を犠牲にしたっていうことが引っかかっているんじゃないかなって思う。

 色々と考えることはあるけれど、今日はもう遅い。
 また後で、このことはゆっくり考えよう。

6月7日 午後20時56分

 天気予報では今週末から雨が降るって予測している。じめじめした空気にうんざりしているけれど、この予報って本当に正しいのか疑わしい。
 イヤホンスピーカーを外して椅子の背もたれに寄りかかった。背中から伝わる軋む音が、妙に煩わしい。
 イヤホンから漏れる音は、現在世間をお騒がせ中の二股女天気予報士。雌犬のような声を上げているのが癇に障る、女性独特の同族嫌悪だ。「午後20時の恋人」じゃねえよ、お前の本業は枕営業だろうが。
 真っ白い照明が勉強机全体を明るく照らしていた。消しゴムのカスや、机の木目のへこみがはっきりと見て取れる。そして照明スタンドのすぐ側に置かれている鏡に写った私の表情はしかめ面を崩さずにいた。
 頭が痛い。気候のせいか、それともまた目が悪くなったのか。
 私は分厚い眼鏡を机の上に置くと、引き出しから点眼薬を取り出した。1滴、2滴と眼球全体が冷たく潤んでくる。目を瞬かせて、零れた液体はすぐさまティッシュで拭った。
 鏡から覗く裸眼の私の顔はぼやけていてはっきりとは見えないけれど、点した点眼液がまだ残っていて涙の跡みたいになっていた。
「……なんかだるい」
 呟いた独り言は宙へと昇ってすぐに滞った。ため息。
 帰宅時にアヤが「自殺」について話題を振ってきてからなんだか難しく考えすぎてしまっている。私自身も自殺しようとしたことがあるから、どうしても重ねて考えてしまうことがあるのだけれど。
 アヤは親のプレッシャーが辛くて、逆に愛情を感じなくなってしまったと言った。親へのプレッシャーって所がいかにも大人しいアヤらしい。
 私は中学の頃にクラスメイトにいじめられたから登校拒否と自傷行為を繰り返していた。でも今考えても、あの時の私の行動っていうのは、どこか間違っていない気がする。多分我慢して登校を続けていたらリストカットだけじゃ済まなかったと思うから。
「誰もが、色々なことを考えて悩んでいるんだよね」
 悩まない人間なんて、真性の馬鹿を覗けばこの世のほとんどに存在しない。意識的か、無意識的か、それは分からないにしろ、きっと誰しもが悩んでいるんだと思う。
 あんな性格の明るい高良ユカリだって、何かしらきっとある。

 もう一回ため息をつくと、眼鏡をかけ直した。ぼやけた視界が一瞬にしてはっきりする感覚は、いつ見ても爽快だ。
 私は膝元に置かれている本を手のひらで小さく撫でた。今日、図書館で借りてきたハードカバー。
 心理学の本でフロイトの「超自我論」について書いてある。
 人は生まれながらに自我(エゴ)を持っている。そして親は超自我(スーパーエゴ)によって、子どもの自我を潰さんとする。子どもは子どもで、その超自我に対抗するための力・親に甘えを求める力、イドによって親と対峙する。
 現代社会は親の超自我、ないしは子どものイドが強すぎてバランスが上手く保てなくて、子どもの自我が発達していないんだとか。つまり今の子ども達は親の操り人形か、超わがままかのどっちかに二極化されているってこと。
 これがなんだかアヤのケースに当てはまっているみたいに見えた。
 親の言うことにプレッシャーを感じてアヤのイドが育たなくて、結果が「自殺未遂」なんじゃないかって。付け焼き刃の知識だから本当にそうかどうかは分からないけれど。
「ま、どうだっていいけどね」
 そう、別にどうだっていい。過去にアヤが自殺した経験があろうが、私は彼女に対する見方を変えたりはしない。
 私は今の嘉川アヤしか知らないから、昔の彼女なんて興味がない。
 我ながらあっさりとした自己完結に自虐じみた嘲笑いが出てきた。通学路で自殺した男の人も結局他人じゃないか、私がとやかく考える権利はない。
 随分と気持ちに整理が付くと満足出来た。その途端に睡魔が襲ってきて、半ば意識がないままベッドの中に潜り込むのだった。
 完全に意識が途切れる瞬間に、中学生の私が見えた。真っ黒い世界の中で左腕をカッターナイフで抉っている場面、赤い鮮血が飛び散った瞬間に私の意識はぷっつりと途切れてしまった。

6月8日 午前07時18分

 外の木漏れ日が部屋の中まで差し込んできた。雀の鳴き声と木々のざわめきが私の耳に優しい余韻を残す。
 近くで流れている水のせせらぎは踏切の警笛によってかき消されてしまったけれど。
 下の階で流れているテレビのニュースも一緒になって私の耳に飛び込んできた。どうやらニュースの内容は、一昨日起きた環状線でのバス横転事故の物らしい。バスに乗り合わせていた運転手含む乗客全員が死亡、その事故の裏には格安バス会社の競争による激務がどうとか。
 そして次のニュースになるとアナウンサーは声音を高くして格安空港会社についてを報道している。何だか今回のバス事故の原因によって起こったことを本当に理解しているのって問いただしたくなる。
 鈍い頭で考えを巡らせている内に頭がはっきりとしてきた。目が冴えて全身を覆っている布団の熱が、途端に煩わしく感じる。
 ゆっくりと布団を引き剥がして外の空気に触れた。梅雨入り前の初夏の気温は想像以上に冷たく、すっかり冷え切ったフローリングに足の指先を置くと、氷の上に足を置くような感覚がして、思わず引っ込めてしまった。
 外はこんなにいい天気だというのに、私はあまり体調がよくない。さっきから頭痛がして上手く立ち上がることも出来ずにいた。だが、これは生まれつきの低血圧による物だから仕方ない。
 いまだふらつく足取りで朝食を取りに行く。今日も学校があるからのんびりなんてしていられない。

 朝食に注がれたコーヒーは熱い湯気が昇っていた。ほどよく焼かれたトーストにはマーガリンが塗られている。窓辺から差し込む日光を白い皿が反射していることによって、貧相な朝食がリッチに見えるのはなぜなのだろう。
 テーブルの中央には生ハム、それを取り巻くようにレタスが添えられている。ゆで卵が沢山入れられている容器のすぐ隣には食塩が詰まった小瓶が置かれている。
 私の母親はシンクで洗い物に専念しているみたいで、私が起きてきたことに気がついていないみたいだ。私は構わずに自分の席に着くと、用意されているマーガリンのトーストにかぶりついた。
 口の中で広がる香ばしい匂い、パリパリとした食感が口内を支配していく。
 マーガリンの甘い味が溶けて舌に絡みつく。舐めるように堪能すると、すぐに飲み込む。
 左手には泥水のごとく真っ黒いコーヒー。母はブラックコーヒーをこよなく愛しているらしく、そのせいなのか、私にコーヒーを差し出す時はいつもブラックだ。ていうかそもそもコーヒー好きじゃねえし。
 私はまだ眠たげな目でリビングに置かれているテレビを眺めていた。アナウンサーがニュースの内容を読んで、少しだけ感想を述べるだけ。機械的に行われるそれにいい加減飽きあきしていた。
「次のニュースです。先日××県桜見市で発見された、自殺した男性の身元が明らかになりました。男性の名前は桐野実さん、市内の会社員として勤めていて、数週間前から連絡が取れないとのことでご遺族から捜索願いが出されていました」
 桜見市というのは私が今住んでいる市。そこで最近自殺した人っていうのは説明するまでもないだろう。
「また、警察は桐野さんの体に外傷がないことからも自殺なのではないかという方面で捜査を進めていました。桐野さんのご遺族は『本当に残念です。息子には、まだ生きていてほしかった』と後悔の念を露わにしていました」
 桐野実。自殺した経緯については何も伝えられていなかった。おそらく遺書も何も見つからないまま、自殺と断定したのだろう。そちらの方がずっと利口ではある。
 結局、あの人がなんで死んでしまったのかは分からず終い。彼が死んだ意味って本当にあったのだろうかと、まだ考えてしまう。
 私は朝食を済ませると、急いで学校に行く支度をして家を飛び出して行った。

§

 学校ではもうすでに桐野実についての話題で持ちきりになっていた。高校生からしてみれば、こんな刺激的な経験が欲しかったのだろう。
 既に消えかかっていた自殺報道の反応は、また息を吹き返して再燃していた。男子はそのことをネタにウケを狙っている。女子はもっぱら男子のウケ狙いにヒンシュクを上げているが、実は彼女達も興味津々なのだと、女の私は何となく分かる。
「なんかさー、いいエサだよね。桐野実って人」
 ユカリがふらっと現れて声をかけてきた。その声に覇気はない、夜更かしでもしたのだろうか。
「こうなるってことは、多分予測出来なかったんだと思う。遺族には悲しまれても、まさか顔も知らない高校生に笑い物にされるなんて、ね」
 私は昨日読み終えたハードカバーを机の上に置くと、ユカリの顔を見ようと上を向いた。そこには予想通りのしかめ面をしたユカリがいた。
 誰でも冷静に考えてみれば「自殺」なんて話題は盛り上がれる物じゃない、むしろ落ち込む話題だ。それなのに面白おかしく晒し者にしているってことは、やっぱり日々の生活で刺激が欠けていて、それを補いたい顕れなのだろう。
「なんていうかさ……こういうのを見ると、人の喜びって他者の不幸だけでしか手に入れることが出来ないように思えるんだよね」
 ユカリは吐き捨てるように悪態をついた。

6月8日 午前10時36分

 日本史の授業が始まっている教室の中でコソコソ話す声は絶えずにいた。その内容はもっぱら「桐野実」についてだろうが。
 真偽すら分からない噂程度の話題で盛り上がれるくらい、クラスメイトは「自殺」というワードに興味があるのだろう。
 チョークを黒板に叩きつけるように板書している日本史の教師は私達のお喋りにまるで気が付いていないみたいだ。少しは注意してもらいたいものだけど、一々怒られるのも面倒臭いからやっぱりいいや。
 教壇の上に立っている老い先短い爺さんの肺に水が溜まっていそうな声で話している戯言をつまらなそうに聴いている中で、視線を廊下側に向けた。
 高良ユカリもつまらなそうに授業を受けている。その後ろの席には嘉川アヤの姿、対照的に真面目に授業を受けている。
「……」
 今日のユカリはなんだか不機嫌な感じがした。なんていうか「自殺」って言葉に反応しているんじゃなくて、クラスメイトの喋り声に反応しているというか。
 朝からしかめ面を保ったままのユカリは更に眉間にシワを寄せていて、もう少し頑張れば柳葉敏郎になれるんじゃないかってくらい。
 ユカリがあからさまに不機嫌な態度を周りに振りまくことなんて滅多にないことだから、私は正直驚いている。自分自身の問題か、家族の問題かは分からないけれど、あんなに不機嫌だとこちらが嫌でも気になってしまう。
 後ろの席にいるアヤもユカリの不機嫌さには何となく気が付いているみたいで、私に目配せで「どうしたの?」と聞いてきているみたいだ。当然心当たりがない私は、黙って首を横に振るしかないのだが。
 授業が終わったら、ユカリに直接話を聞いてみようか。正直、あまり乗り気じゃないけれど。

 間もなくして授業終了のチャイムが鳴った。ヒソヒソとした声は途端に音量が上がり、大声に教室全体が包まれた。
 生徒の中には欠伸をしたり、大きな伸びをしたり、後ろの席の生徒に振り返って話をしている奴だっている。いかに先ほどの日本史が退屈な授業だったかを如実に表わしている。
 私は自分の席から立ち上がると、ユカリの席に向かって歩き出した。ユカリは自分の机に突っ伏したままで動こうとしない。それを心配そうに見るアヤの姿。
「おはよ、ミカ。さっきの授業マジ退屈」
 ユカリは顔を上げてしかめ面のまま日本史の授業に悪態をついていた。
「あの先生いつも自分の世界に入っちゃってるよね。歴史はロマンだとかよく分からないこと言っているけど、歴史って単なる先人のでっち上げた話を無理矢理信じ込ませているだけだよね」
 私は空いていたユカリの前の席に座って、腕を組みながらユカリの言葉に返答した。
「そーそー。歴史なんかマジつまんないっつーの、てか何あの人。お墓フェチなの?」
 ユカリは苦笑いをしながらさらに歴史を批判し続ける。ちなみに日本史の教師はことあるごとに歴史上の人物の墓について語っているから、お墓フェチじゃないのかとまことしやかに囁かれていたりする。
 ユカリは最近染めたばかりの茶髪をかきあげている。かきあげた髪の間から覗く耳には赤いピアスが付いていていた。校則では茶髪もピアスも禁止なのだけれど、守っている生徒はあまりいない。
「……で、今日は何でそんなに不機嫌なの?」
 これ以上余計な話をしていても本題に入れないと悟った私ははっきりユカリに聞いてみた。アヤはいきなり過ぎたみたいでオロオロとしている。
「ミカちゃん、そんないきなり……」
 そんな心配そうな声を遮るようにユカリは声を張って話し始めた。
「まったくミカには嘘が通用しないよねぇ。ま、嘘をついていたわけじゃないんだけどさ」
 皮肉めいた笑い。目は伏せたままで途切れとぎれに話し始めた。
「姉さんがさ、なんか仕事で上手くいっていないみたいでさ。昨日の晩はいつもお酒なんか飲まないクセに滅茶苦茶飲んでさ。私も付き合ったんだけど」
 ユカリには姉がいる。物凄く美人で、優しい。地球上に存在する聖母マリアだと私は勝手に思っているのだけれど。ユカリの姉、ミユキさんは普段は酒なんて飲まない人だ。その人が酒を飲んでいるなんて、仕事で相当嫌なことがあったのだろう。ユカリが一緒に付き合ったっていうのは少しおかしい気もするけれど。
「ビール何本か空けたらさ、姉さん完全に酔いが回ったみたいでいきなり泣き出しちゃったんだよね。私が動揺しながらも訳を聞いたら、やっぱり嫌なことが重なっちゃったみたいで」
「職場で姉さんは結構周りから目の敵にされているらしいんだ。職場いじめみたいな感じで、しかもミスをしちゃったからそのことで相当責められているみたいで。しかもこの前の社内健康診断ではレントゲンと血圧測定で引っかかって、一昨日は数年間付き合っていた彼氏と別れたとか言っていた」
 色々な問題が一気に降りかかっているといった感じだった。ミユキさんは厄年としか思えない。でも何より思ったのは高良姉妹は破局率が異常過ぎる。
「そんな風に悩みを打ち明けられたら、私だってどう対応していいか分からないじゃない。だから凄く悩んでいる途中」
 ユカリの最後の言葉は消え入りそうなほどに小さくなっていた。
 ユカリはミユキさんのことが本当に好きだ、いつもことあるごとにミユキさんの話題を持ってくるから大好きな姉で尊敬出来る人なのだろう。
 確かにミユキさんは素晴らしい人だ。初対面の時には私にも凄く丁寧に優しくしてくれたし。だから逆にミユキさんが落ち込んでいる姿なんてあまり想像出来ずにいた。
 そんなユカリの姿を見ても、なにも出来ない私達。アヤと顔を見合わせると、ユカリと同じように目を伏せた。

9月12日 午後17時20分

 ユカリの姉、ミユキさんと初めて会ったのは高校1年生の秋だった。
 文化祭も体育祭も終わって一気に学校行事がなくなった時期。帰宅部だった私ですらその行事だらけの時期は忙しく感じて、それから解放された時は本当に暇だったっけ。
 いつもみたいに図書館にも行かずにそのまま家に帰ろうとした時、ユカリに声をかけられた。
「私も家に帰っても暇だし良かったら私の家に遊びに来ない?」
 人生で初めて友達の家に招かれた瞬間だった。あの時は言われた意味が分からなくて、何度も聞き返したっけ。
 ユカリの家は住宅地のど真ん中にある。隣の家ではいつも兄弟喧嘩が絶えないみたいで、昼夜問わず煩いとか愚痴っていた。
 黄色いペンキで外壁を塗りたくった家。今時の家と形容すればいいのだろうか、とにかく当時の私にはそれが凄く新鮮に感じた。
 内装は私の家と同じような物で、特に奇抜な家具などは置いていなかった。ただリビングにカウンターテーブルが置かれていて、それが凄くお洒落だなって感じたことは覚えている。
 そのカウンターテーブルの向こうにいた人に私は唖然とした。綺麗な髪質にこれでもかと言わんばかりのお姉さんオーラ。
 ユカリと同じように明るめの茶髪だけれど、髪の長さは圧倒的だった。
 家の中でもしっかりと化粧をしていて、笑顔を絶やさない。長身から生み出される彫像のような形の良い手。手フェチの私には羨ましい限りだ。
 高良ミユキとの初めての出会いはそれだ。彼女は聖母マリアのような微笑みで私に紅茶を差し出してきた。その紅茶はとても美味しくて、一緒に出された手作りクッキーも満腹になるまで食べていた。
「姉さん、この子がいつも話している学校の友達だよ」
 若干強引にユカリは私の肩を押す。心なしか、その時のユカリは頬を赤く染めていた気がする。
 その時、何となく分かった。ユカリはミユキさんのことが好きで、尊敬もしているんだって。
 ミユキさんは「まあ」と小さく声を上げるとすぐに微笑んで私の手を取って挨拶をしてくれた。
「はじめまして、神谷ミカさん。妹からいつもあなたのことは聞いているわ、とても丁寧な人みたいね」
 そんな丁寧なことをした覚えは一切ないのだが。あ、もしかしたら体育祭の時の校長のギャグを最初から丁寧に説明したことだろうか。
 ミユキさんはいつも微笑みを絶やさないで、私の方がなんだか照れてしまって顔を背けてしまった。

 それからというもの、ミユキさんには何度か相談に乗ってもらうことも多くなっていた。それは中学時代に受けた心の傷によって不安定になったことだったり、勉強の伸び悩みだったり。
 ミユキさんはそれを決して蔑ろにせずに耳を傾けてくれる。こんな他人の私にも優しくしてくれる、それだけで自分に姉が出来たみたいで誇らしく思えた。
 いつだったか、ミユキさんと喫茶店で話をしていた時。彼女はいつもの微笑みとは違った笑顔を私に向けていた。
 辛そうな笑みではない、悲しげな笑みでもない。そんな正体不明な笑いに戸惑う私。それを見て苦笑いを浮かべるミユキさん。
「ミカちゃんは勉強はどう? はかどっている?」
 確かその時は学年末試験の1週間前だったはず。私は声を出さずに深く頷いた。
 それを知ったミユキさんはようやくいつものように微笑んでくれた。
「よかった。勉強は本当に大事だよ、大人になってからありがたみを知るから……って、そんなの聞き飽きているよね」
 自虐ぎみに微笑む。いつもの表情に陰がかかっているようで、違和感が拭いきれずにいた。
 私は思わずミユキさんの様子について尋ねることにしてみた。
「実はね、仕事が大変になってきてあまり眠れていないの。あなたと話をするのが嫌だっていみじゃないのよ、誤解しないでね」
「……そんなに大変なんですか? あの、余計なお世話かもしれないけれど、本当に無理だけはしないでくださいね」
 私の心からの心配に嬉しく思ったのか、ミユキさんは少し声を震わせながら「ありがとう」と言ってくれた。
 それからミユキさんは自分のコーヒーにミルクを流してぐるぐると回るそれを見つめながら話を始めた。
「本音を言うとね、結構辛いんだ。でも皆が私のように辛い思いをしてやってきているのに、私だけが弱音をはいているなんて駄目だよね。特に私なんて社会に出てまだ間もないのだから、ここでギブアップしたら何も出来ないと思うからね」
 強がりで笑っているのが丸見え。痛々しいくらいの笑顔に再び「無理をするな」と言えるくらいの勇気は私にはなかった。
 だから代わりにこんな言葉を紡いだ。
「ミユキさんはお酒とかタバコをやらないけれど、他の大人って結構やっていますよね。それってストレス発散になっていると思うんです。それか、愚痴を誰かに聞いてもらうとか。そういうことをすることが大事なのかなぁって、何となく思うんです」
 遠まわしの言い方だけど、伝えたいことはやっぱり「無理をするな」であって。
 それを聞いたミユキさんは柔らかく笑ってくれた。

 そういえば、あの時以来ミユキさんとは会っていないな。仕事の方が大変だとユカリは言っていたから、今度ミユキさんが暇な時にまた会って話をしたい。

6月8日 午後13時03分

 不機嫌だと思っていたユカリは実は姉のミユキさんのために必死に悩んでいた。姉のためにあそこまで悩める妹を持つことができて、ミユキさんもきっと嬉しいと思う。
 私もミユキさんのことは好きだからなんとかしてあげたいと考えているのだけれど、どうにもミユキさんの状況を打開出来るような案は出てこない。それに私は所詮他人だ、彼女自身にとやかく言う権利はない。
 ため息をついてグラウンドを眺めた。快晴だった朝とは打って変わって、昼の空には鈍色の厚い雲がかかっていて日光を通さずにいる。
 ジメジメとした空気だけが残って余計に気持ち悪い。本当に梅雨が早く明けてほしいと願うばかりである。
 グラウンドには夏の大会を控えてか、陸上部が昼の練習をしていた。昼休みまで費やすほどに部活は本気みたいだ、タモツ君はユカリに対して本気じゃなかったみたいだけれど。
 この南・桜見学園は運動部が非常に盛んで、ほとんどの部が県大会・全国大会に出場するほどにその名を轟かせているらしい。
 だから学校側としても南・桜見学園の名を傷つけない為に生徒達に辛い練習を強制させているのだろう。筋肉学校め。
 窓辺から冷たい風が入り込んできた。ほのかに薫る湿った風の匂い、私はそれを僅かに肺に溜め込むとすぐに吐き出した。
 無意味な行動、でも何となく気分が乗らない今みたいな瞬間にとっては気を紛らす特効薬になったり。
 教室から響き渡る生徒の喧騒が煩わしい。気にしていなかった頭痛も何だか激しさを増している。ていうか最近ずっと頭痛が続いているな。
 教室のお喋りの主な内容はやっぱり「自殺」。桐野実が死んだことについて、理由を知ろうとしているわけでも、今の社会を批判しているわけでもない。ただ騒いでいるだけ。
 まるでシマウマの死骸に群がるハイエナみたいだ。誰もが口に孤を描いて、黄色い声で喚いている。
 自殺をしようとした経験がある私やアヤにしてみれば、かなり居心地が悪い。

 その時、アヤが私の席に向かって歩き出していた。半開きの眼でそれを確認すると、面倒そうに体を起こした。
「ミカちゃん、ここ居心地悪くない?」
 今度はアヤまでしかめ面をしている。ただユカリと違うのは顔面蒼白ってこと。多分周りの「自殺」騒ぎのストレスに耐えられないのだろう。
「分かる。ちょっと教室から出ようか、外の空気をすったら気分が良くなるかも」
 私は苦笑いをして小さく頷くと、いつも通り床を引きずって悲鳴を上げる椅子から立ち上がった。
 教室を出る最中にユカリにも声をかけようかと思ったけれど、やっぱりやめた。ユカリは自分の机に突っ伏したまま動かないし、これ以上声を掛けたらなんとなく怒られそうな感じがするし。
 頭痛と気まずさを拭えないまま、私達は教室から出て行った。

§

 自動販売機に120円を投入して、販売されている飲み物を確認する。
 人気商品はほとんど売り切れていて、残っている物は闇鍋で製作された副産物のような飲み物。
「お汁粉味の炭酸飲料って何よ……」
 半ば冒険心を持ちながら、でも諦めた気持ちでそれのボタンを押してみた。
 自動販売機から「お汁粉サイダー」なる物を取り出して蓋を開ける。炭酸飲料特有の炭酸が外に流れる音が聞こえる。それを引き気味に眺めているアヤはきっと何も間違っていない。
 お汁粉サイダーの缶に口をつけて、中身を流し込んでみた。ドロリとしたお汁粉が舌に触れた途端に炭酸特有の刺激を感じる。
 炭酸飲料って飲むとすっきりするはずなのに、これは飲むと口が爆発しそうな感覚に苛まれてしかも甘ったるい。要するに、
「不味い」
 私は中身を残したまま、即刻「カン・ペットボトル」のダストボックスへとダストシュートすることになったのである。
 それから私とアヤは無言で校舎の外を歩いていた。外の湿気は日に日に増えていく一方で、頭痛が治る見込みは一向に見られない。
「なんていうか、私達のクラスってゲンキンだよね」
 アヤはか細い声で私に同意を求めた。
「ゲンキン、かぁ。うん、確かにそうだね。この前は『財布を盗んだ犯人探し』で凄い盛り上がっていたのに、『自殺』ってきたらすぐにその話題に向かって行って」
 あざ笑うように今までのクラスメイトの行動を思い出してみた。よく考えてみたらロクなことしてないや、アイツら。
「でも結局それって刺激が欲しいだけなんだよね。別に他人の死に盛り上がることは罪じゃないから」
 アヤは吐き捨てるように言うと、私達が座ってくつろげる場所を探していた。でも結局ベンチなどは見つからず、仕方ないから階段の段差に座って話し込むことにした。
 周りに人がいたらこんなことは絶対にしないだろうなって考えながら冷たいコンクリートの段差に座り込む。

 眼鏡を外して、両目の頭辺りを強く抑える。頭痛が酷いと視界が悪くなるのだ。
 真っ黒い三つ編みを撫でて、ため息を1つ。
「ミカちゃんてさ、その眼鏡外すのってクセだよね」
 アヤは小さく笑いながら私のクセを指摘した。でも私はその意味が分からなくて唖然としたまま。
 私が彼女の言っている意味が分からなかったから、彼女は余計に笑うばかり。
「困ったり、難しいことを考えていると眼鏡を外して、目を細めて遠くを見るの。それが何だか可愛らしくて」
 ああ、そういうことか。何を言っているのか分からなかった。
 でも「可愛らしい」なんて言われるのは少し恥ずかしい。
 私達は小さく含み笑いを浮かべながら更に話し込むのだった。

6月8日 午後13時20分

 冷たい風が私とアヤの頬を優しく撫でた。髪は緩くなびいて、何だかシャンプーのCMを実践しているみたい。
 熱を帯びた体は心地良い感覚に包まれる。風だけだったら非常に嬉しいのだが、その後すぐに訪れる湿気にうんざりする。
 階段の段差に座り込んでしばらくの間、会話を続けていた。その会話の内容はファッションの話だとか、恋バナなんてものじゃなくて、やっぱり「自殺」に関すること。
 結局私達だって、クラスメイトと同じように「自殺」というワードで盛り上がりたいだけなのかもしれない。それでも、私達は「自殺」を経験したことがあるから、的外れなことばかり言っているクラスメイトの話の輪には入りたくないのかもしれない。
 曇天の空ということで、今のアヤは傘を差していない。でも個人的には真っ黒い傘を差しているアヤはとても画になるので、見ていたいという気持ちもあったり。

「そう言えばさ、ミカちゃんはどうして、その……自殺しようと思ったの?」
 アヤはためらい気味に私に尋ねてきた。そう言えば「自殺をしようとした」という結論だけを述べて、他のことについては何も言っていなかった気がする。
 やはり過去の心の傷を相手に告げるのは勇気がいる。でもアヤだって「自殺」の経緯を話してくれたんだ、私だけ話さないっていうのも気持ち悪いし。
「いじめ、だったんだ。友達が少ないから、いじめる相手としては私みたいなヤツは丁度良かったんだと思う。私はいじめられていた事実を大人達に話さずに自分で解決しようとした。で、その結果が引きこもりと自傷行為」
「そっか、いじめ……か。大人はいじめを軽く見すぎているよね、口では『一生懸命対策している』みたいなこと言っているけど、結局のところ何にもしてくれないしね」
「いじめを軽く見ているって言うよりも、子どもをナメて見ているって感じがする。『子どものいじめだから、大したことないだろう』みたいな。馬鹿だよね、子どものいじめの方がずっと残酷なのにさ」
「そうだよね、子どもって何が良くて、悪いかなんてまともに判断出来ないだろうから。ええと、それでミカちゃんはどうやって立ち直ったの?」
「立ち直ったって言うか、いつの間にか卒業式になってたの。それで、卒業式の日に教室に来てみたら、私をいじめていた主犯の子が今度はいじめられる側になったみたいで、自殺して死んでいた」
「え……その子が次のいじめの対象になったってこと?」
「うん。自殺したというよりも、自殺させられたって印象を私は持ったな。因果応報って言ったらそれまでだけど、何よりも人が信用出来なくなったよ、人間ってこんなに怖いんだって」
「いじめってさ、裁かれない犯罪だよね。それで麻薬みたいだと思うの。人をいじめたら、次は自分がいじめられる番に回るっていう脅迫観念でまた人をいじめる。終わらずに事態がどんどん悪化していく」
「本当にそう思う。いじめを理解していない偉い人達に味わせてあげたいよ。笑って人を殺す子ども達の恐ろしさ」

 そんなことを昼休みが終わる直前までずっと喋っていた。おそらく第三者が介入したら高確率で鬱になる話題だろう。
 授業5分前の予鈴が鳴ると私とアヤは立ち上がって教室に戻ろうとしていた。
 するとその時、後ろから私を呼ぶ声。あれ? これ昨日もあった気がするんだけど。
「ミカっちじゃん。どうしたの、こんなところで」
 甲高い声。ユカリよりも大きな声は、世界的に有名な某ハツカネズミを嫌でも連想してしまう。
 後ろを振り向くと、やっぱり私が予想した通りの人物が立っていた。赤縁メガネと茶髪を結い上げたパイナップルヘアーとやたらと短いスカートから覗くガーターベルトが特徴的な女子。
 結い上げた髪は額を露わにし、しかも黒と赤のチェック柄の髪留めでしっかり固定している謎の髪型。後頭部に綺麗に咲いているパイナップルの葉先はサラサラとしている。
 自称チャームポイントの棒付き飴と赤いリストバンドは見ているこっちが恥ずかしくなるくらいイタすぎる。
 嶋田ユイ。またの名を「ユイビッチ」。スカートのポケットにはいつもコンドームを入れているとかいないとか。
 その未来人のセンスを持つファッションのせいか、ことある毎に逆ナンを繰り返しているらしい。故に付いた名前が「ビッチ」。
 ユイとはユカリを通じて知り合ったのだけれど、正直彼女とはウマが合わない。性格ってこともあるのだろうけれど、それよりももっと内面的な意味で分かり合えないというか。
 多分彼女の性格はお調子者、それで超ポジティブシンキング。うわ、ますます関わりたくねぇ。
「教室にいたら頭が痛くなってきたから、アヤと一緒に散歩」
 私はなるべく彼女に執着されないように素っ気なく返答した。しかし彼女にはそれが興味深かったのか、目をキラキラさせながら更に質問を続けてくる。
「ミカっちの言った『アヤ』って嘉川さんのことだよね。白骨系女子の」
 ご本人がいる前で堂々と「白骨系女子」なんて言いやがる。お前ユカリ以上に空気が読めないのな。
 私達は苦い表情を浮かべながら、いくら適当に流してもドーベルマンのごとく食い付いてくるユイの態度に半ば諦めていた。
「そうだよ。さっきまで『自殺』について話をしていた。結論なんて出なかったけれどね」
 華の高校生がなぜ自殺に付いて熱く語っているのだろう。一歩間違えれば心中疑惑すらかけられてしまう。
 しかしユイは私の話には興味なさげに、指をくわえながらアヤのことをじっと見ている。話聞けよ。

 ユイはアヤのことをしげしげ見つめると急にニヤケ出して、恍惚な視線を送るとすぐに抱きついた。
 訳が分からないアヤは素っ頓狂な声を上げてすぐに頬を真っ赤に染める。そんなアヤを気にせずにユイはアヤの首筋の匂いを嗅いでいた。
「……何だコイツ」
 余計に頭が痛くなる。嶋田ユイの一番の問題点が早速出てきてしまったのだ。彼女は新しい女の子と合うと必ずスキンシップと称して抱きついてくる。私も初対面の時、それをやられた。
「ミカっちぃ、この子可愛いね。やっぱり周りの評判なんてアテにならないね、凄い美人だし。さっきは『白骨系女子』なんて言っちゃってごめんね」
 訳が分からず頭から湯気を出す勢いで顔を真っ赤にしているアヤ、そして恍惚な表情を一切崩さずに蒸し暑い大気の中1分以上抱きついているユイ、そして頭を抱えて頭痛を抑えている私。
 何だこの滑稽な図?

6月8日 午後16時11分

 放課後になり、私は1人帰路を歩いていた。曇天だった空はいつの間にか晴れていて黄昏色に染められた空に変わっている。まだ気が早いセミの鳴き声が茂みから僅かに聞こえてきた。
 夏服に変えてから数週間が経過しているけれど、やっぱりこの服装は慣れない。腕が露出しているっていうのが不快なのかも。
 夕日に当てられて伸びきった影、他の影と重なり合って更に濃くなったりと様々。
 そういえば、影って世界で唯一の二次元の物体なんだっけ。それを言ったら虹だって二次元な気もするけれど、厳密には違うみたい。
 そんな下らないことをポツポツと。今日は珍しく図書館に寄って本を借りていないから、帰宅後の楽しみがないのだ。だからこんなどうでもいいことを考えてしまう。
 ずっと前を見据えていた顔を下に向けて深いため息。昨日の今頃は良いことが沢山あったと思っていたけれど、今日は違う。全てが上手くいっていない感じ、気分もダルいし。
 学校で話題になっている「自殺」が私の最大のストレス要因だ。しかもユカリの姉、ミユキさんも仕事の方で上手くいっていないみたいだ。
 こういうのはナンだけど、周りの暗い話に影響されて私まで暗くなっている気がする。いや、元々暗いけどさ。

 ビルの間に夕日が隠れた。全面ガラス張りのビルに夕日が反射してとてつもなく眩しい。ああいう対策って採れないのだろうか、運転していたら結構危ないと思うのだけれど。
 活気付いている商店街まで歩いてくると、遠くからドーナッツのいい香りが漂ってきた。甘い物が好きな私には堪らない匂いだ。
 無意識の内にフラリフラリとドーナッツ店に近付いて行く。まるで熱帯夜に電球に群がる虫みたいだ。
 角を曲がったらすぐにドーナッツ店が見える。買い食いはあまりしたくないのだけれど、女子という生物に生まれた時点でそれは抗えない性。
 角を曲がろうとした次の瞬間、私の顔面に衝撃が走る。耐えきれずにそのままコンクリートの上に尻餅を着いてしまった。じんじんと広がる顔面の熱を必死で治そうと手で抑えていると私の前方から、つまり私がぶつかった相手に声をかけられた。
「だ、大丈夫ですか? どこか怪我は……って、あら。ミカちゃん?」
 聞き覚えのある声に私は恐るおそる目を開けた。幸い鼻血は出ていないみたいだ。
 涙目で視界が潤んではっきりと見えないけれど、この人影や柔和な声には覚えがあった。
「ミユキさん、ですか? ごめんなさい、ちゃんと前を見ていなくて」
 最初に感じた物は「驚き」だった。次にユカリが言っていた「仕事が上手くいっていない」という言葉。久しぶりに会えた嬉しさよりも、気まずさが勝ってしまっている。
 立ち上がって、プリーツスカートに付いている土埃を叩くと、小さく頭を下げた。
「いえ、私の方こそ前を見ていなかったから、ごめんなさい。でも本当に久しぶりね! 3、4ヵ月ぶりくらいじゃないかしら」
 ミユキさんは私の左手を取ると嬉しそうに話をしてくれた。まだ痛みが引かない顔面を気にしつつも、ヘラヘラと笑みを浮かべる。
「本当に久しぶりです。私、またミユキさんに会いたいと思っていたんです」
 本当は少し違うけれど、昼休み前くらいまでは本当に会いたいと思っていたが、何もかもがダルく感じる今ではそこまでって感じ。
 でもミユキさんは私の些細な嘘には気付かないで嬉しそうに笑ってくれる。やっぱり仕事で疲れているのか、その笑みには陰りが見える。
 本当はあまり気乗りしないのだけれど、せっかく会ったんだ。どこかで話をしてみたいと思って提案をした。
「今、お時間ありますか? よかったらお話したいのですが」
 時間なら有り余っている。今日は図書館にも寄っていないから、帰宅後に読む本がないのだ。そう考えたら、都合の良い時間潰しにもなるだろう。
「え、ええ。時間ならあるわ。……そうね、たまにはこうやって話をすることも必要よね」
 いつにもましてミユキさんの返答の歯切れが悪い。もしかしたら無理をさせているのかもしれないけれど、今更誘った本人がキャンセルするわけにもいかないだろう。
 私達は近くのドーナッツ店で話をすることに決めた。
 自動ドアを開けたら小綺麗なカウンターにいくつものドーナッツが置かれている。帰宅ラッシュ時らしく、残っているドーナッツは僅かしかなかったのだけれど。
 私とミユキさんはチョコレート味のドーナッツを2つずつ。それを受け取ると、トレイを持って空いている席に向かった。
 2人が陣取るには狭すぎる木製の四角いテーブル。安っぽい造りのそれは、私が足を蹴っただけでも折れてしまいそうだ。
 ミユキさんは終始笑みを絶やさずにいるが、逆にそれが私にとって不安だった。どこか無理をしているんじゃないかって、心配している。杞憂じゃなきゃいいんだけど。
「これ、モロに私自身の話なんですけれど、この前模試があったんです。判定が先週送られてきたんですけど、第1志望がまだC判定で……」
「あんまり心配することはないよ。高校2年生の段階で第1志望がC判定なら、まだまだ成績は伸びるだろうし、特別な理由がない限りは第1志望の学校を変えてレベルを上げた方がいいと思うよ」
「そうですか。英語がやっぱり苦手みたいであんまり成績が良くないんですよね」
「んー、まあ語学はねえ……センスもあるからねぇ」
 そんなことをミユキさんと話し込んでいた。だけれど彼女の曇った笑顔がどうしても気になってしまって。
「ミユキさん。ユカリから聞きました、仕事とか私生活で上手くいっていないって」
 ついつい、聞いてしまった。
 私がどうこう言って解決する問題じゃない。でも言わないとなんだか気持ち悪くて。
 ミユキさんのドーナッツを食す手が止まった。どうやら私の心配は杞憂なんかじゃなくて、本当に無理しているみたい。
「……それってユカリから話を聞いたの? その、他にも何か話していなかった?」
「はい、今日ユカリが悩んでいたみたいでワケを聞いてみたらお姉さんのことだったので。他にはその、健康診断で引っ掛かって彼氏にフラれたとか」
 何か言葉にするともの凄くためらうことばかりだ。もしかしたら黙っておいた方が良かったのかも。
 ミユキさんは左手の平で顔の上半分を覆い隠していた。そのせいで表情が読み取れない。
「あの、前に会った時にもお話したと思いますけれど、無理をしないでください。精神面でも身体面でも疲れきっているっていうことは無理をしているっていう裏返しだし」
「……そうね」
 ミユキさんの声にはなぜか怒気があった。でもその正体が分からなかった私はまだ正論を並べるばかり。
「ユカリから事情を聞いているとミユキさんは大分精神を病んでいると思うんです、だから心が折れてしまう前にカウンセリングを受けておいた方が……」
 懸命ですよ。そう言おうとした瞬間に、その言葉は遮られた。
 喉の奥から引っ張り出した時みたいなもの凄く大きくて低い声音。唖然として口を開けたまま硬直してしまった。

 ミユキさんが握りこぶしを作ってテーブルを思い切り殴った。鈍い音、プラスチックトレイも一緒に砕けて耳を塞ぎたくなった。
「ぁぁぁあああああああ!! 煩い煩い煩い煩い、あなたに私の何が分かるっていうの!? 適当なことを言って慰めているつもりなら、もううんざりよ!」
 少し……いやかなり怒っているみたい。一体どうしたというのだろうか。
「ユカリのやつ……そんなことまであなたに喋っていたの。確かに酔っていたけれど、だからって私の問題をバラすなんて」
 視線を落として、左手で小さい握り拳を作っていた。
 どんどんと私が予想していない悪い方向へと転がっている、全身の血の気が引くような気持ち悪い感覚に包まれた。
「ご、誤解しないでください。ユカリはミユキさんのことを心配して私に打ち明けてくれたんだと思います。私もミユキさんのことが好きだから何とかしてあげたい、でも出来ない」
 自分の気持ちを言葉にしていく度に生気が抜けていくようだった。イバラの中に体を放り投げたみたいな閉塞感。
 弁明のはずなのに、どんどんユカリと私の首をしめているみたいで。
「でも、だからって。私は人の弱い部分を相手に弄ばることが一番嫌いなのをあの子は知っているはずなのに。私が弱音を吐くのが嫌いなのをユカリは知っているはずなのに」
 いつも微笑みを絶やさないミユキさんでも、この時ばかりは両手で頭を抑えてずっと下ばかり見ている。本当に参っているのだろう。
 私はミユキさんを慰める言葉が見つからなかった。というよりもミユキさんの触れてはいけない部分に触れてしまったみたいだ。罪悪感だけが体を支配する。
 慌てて、どうしていいか分からなくて彼女の手を取ろうとした。
 しかし、それは叶わずに。強い力ではたき落とされた。

「……えっ」
 手の甲に帯びる熱が信じられなかった。意味が分からないまま、叩かれた手の甲を見ていると、勢いよく椅子を引く音。
 ミユキさんが乱暴に自分の荷物を持ち上げると、座っている私の肩とミユキさんの荷物がワザとぶつかるようにその場から立ち去って行った。
 どうしようもない感覚が広がる。私はその意味を知るまで立ち上がることが出来ずにいた。

6月8日 午後16時20分

 数分間停止していた思考が再び稼働した時に溢れんばかりに出てきた感情は「罪悪感」だった。
 ミユキさんの気持ちを理解しないで、ただ「無理をするな」ってことを押し付けようとしていた私に途方もない怒りが湧き上がる。こんなガキに心配されたくないって思っただろう、それなのに私は事情を知りもせずに適当に心配ばかりして。
 まだ一口も食していないチョコレート味のドーナッツなど無視して、席から立ち上がると荷物を持って店の外へ飛び出した。
 飴色に輝く商店街、排気ガスの臭いと車のクラクションが滞っている空間をいくら探してもミユキさんは見あたらなかった。
 私は走り出した、見失ったミユキさんを探すために。謝っても許されないかもしれないけれど謝るために。いつも笑みを絶やさない彼女が震えるまで怒らせてしまったんだ。彼女の怒りの原因は何であれ、平然としていられない。
 くすんだ緑色のポプラ並木、反対側には耐震強度の問題で住人の立ち退きが急がれている高層マンションがそびえ立っている。その真横を大型トラックが一台横切る。私をあっという間に追い抜いて煩わしい。
 走る度に揺れる視界。眼鏡まで一緒に揺れるから視界がぼやけたり、しっかりしたりではっきりとしない。ついでに左手にぶら下げている鞄がとてつもなく邪魔くさい。捨ててしまいたい。
 私はまっすぐ駅へと走って行った。おそらくミユキさんは帰宅途中だったと思うし、あんなに激怒していたのに寄り道なんてしているわけがない。
 少し走っただけで脇腹が痛み出した。肺がワイヤーで締め付けられているみたいで苦しい。みっともないくらいに荒い息を吐きながら、次第に走る速度は遅くなっていった。日々の運動不足が祟ったのか、脳にまで酸素が回らずに視界が白んできた。口一杯に広がる酸っぱい唾液、それを見たカラスが嘲笑しているみたいに鳴いていた。
 駅に到着する頃には左足は痙攣を起こしていた。唾を飲み込む暇すらなくなっていて、仕方なしに排水溝に吐いて捨てた。
 もうひと踏ん張り。階段を駆け上がる。
 瞬間に、自動改札を通り抜けるミサキさんの後ろ姿。呼び止めようとしたけれど、喉が押しつぶされたみたいで声が出ない。
 改札口に定期券を示して半ば強引に入り込んだ。ミユキさんは階段を下りた先のホームへと急ぎ足で向かっている。
 途端にホームで電車が発車するベルが鳴り響く。焦り、焦燥、不安。色々な感情がぐちゃぐちゃに混ざって、取り出された一つの感情は嫌われる「恐怖」だった。
 大好きな人に嫌われたくない。ただその一心で走っている、ミユキさんにどう言えば許してもらえるかはまるで分からない。でも走らずにはいられなかった。
 一段飛ばしで階段を下りた。その時見えたミユキさんの姿、階段のすぐ側のドアに入って行った。私も走ってその車両に乗り込もうとした瞬間に扉が閉じてしまった。
 両手をドアのガラスに叩きつけてミユキさんに気付かせる。彼女は私の方を振り返った。
 そしてゆっくりと口を開く。その言葉は私には届かないけれど、口の開け方を見て必死に言語化しようとする。

 重たい鉄の塊が金切り声を上げながら発進した。次第に速度を増していくそれに追いつくために走っていた。
 だが、ホームの縁に敷かれている点字ブロックに足を取られてしまい、情けなくその体をアスファルトの上に倒れこませてしまった。
 転んだ拍子に落とした眼鏡、カラカラと回るプラスチックの音を頼りに手探りで探し当てるとすぐに顔を上げた。
「……っ!」
 だけれど、電車は既にホームを越えて小さくなっていた。
 間に合わなかったというどうしようもない虚無感と、ここまで必死になっていた自分に少し驚く。他人のためにあそこまで本気になったことがなかったからだ。私が好きな人、尊敬出来る人だからこそ、嫌われたり軽蔑されるのが怖かった。
 でもそれも遅い。電車は発車して遠くへ行ってしまったからだ。
 口が滑ったとはいえ、普段は温厚なミユキさんが激怒することに若干の疑問を感じていた。それに過去に私がミユキさんを心配した時は本当に嬉しそうに笑ってくれたのに。
 どうして今回に限ってあんなに怒ってしまったのだろうか。ミユキさんの弱音を私が知ってしまったからだろうか?
 普段から強がっていた人には見えない、それともユカリにだけ打ち明けた悩みを私が知っていたことに怒ったのか。
 それにあの怒り方は少し異常だった。私が知ってはいけないことを知ってしまったような。
「よく、分かんないよ」
 頭の中はぐちゃぐちゃで整理が出来ない状態。おまけにさっき転んだせいで、全身擦り傷だらけで痛みが体中を走っていた。
 私は木のベンチに座り込むと、代わりにミユキさんが最後に言っていた言葉を思い出す。すんでのところで電車に乗り遅れた時、彼女が放った言葉。
 口の動きを正確に思い出してみる。滑らかに動くはずの口が妙に遅れていた気がする。
 最初の言葉はきっと「あなた」。次は一体何だったろうか。

 そんなことを考えていると1つのセリフが出来上がっていた。
 同時に意味が分からなくなった。
『あなたに理解されるほどに、私は底の浅い人間じゃないの』
 底なし沼に突き落とされたような感覚が、全身を支配していた。

6月8日 午後21時01分

 明日は学校が休みだというのに、外を眺めればこの曇天の空だ。しかも雨すら降ってきているし。
「そういえば天気予報で今週末から本格的に梅雨入りするって言っていたかも」
 正直あまり覚えていない。「午後20時の恋人」には耳を傾けない主義なのだ。でも梅雨入りしたのならば、この湿気も納得できる。
 私は左膝にバンソウコウを貼り終えると大きな伸びをして、椅子の背もたれに全体重を預けた。そのまま定まらない眼で天井を見つめる。
 頭の中でモヤがずっと晴れずにいた。今日の夕方、ミユキさんを怒らせてしまい、ほぼ絶交と言えるようなメッセージまでいただいた。
『あなた程度の人間に理解されるほど、私は底の浅い人間じゃないの』
 あれは果たしてどういう意味だったのだろうか。いや、絶交だっていうことは分かっているんだけどさ。
 私の言葉のどこで彼女をあそこまで怒らせてしまったのか、迷宮の中を右手法で歩いているみたいな感覚。
「やっぱりユカリだけに打ち明けた悩みを私が知っていたのがまずかったのかなぁ……」
 力なく落胆した。体中から抜ける力は私が空気の抜けた風船だと暗示しているようで。
 頭の中は混線中だ。桐野実の自殺騒動が私の高校に刺激の熱をぶり返させているし、ユカリの姉のミユキさんが心身ともに参っているし、本日私はミサキさんに嫌われた。
 ストレス過多、頭痛が酷くなってきた。
 眼鏡を外してぼやけた視界で窓の外を見た。真っ黒い世界に光の粒が何重にも重なって見える。
 雨の雫が窓の外を定期的に叩いていて、冷たい音が部屋の中に入り込んでくる。何もする気になれずに、ただ雨の音だけを聴くのが今の私にとって精神安定剤のような役割を果たしている。
「……」
 でもそうやって無心になっている時に限って嫌なことを思い出してしまう。私は中学生の頃、いじめられていた記憶を無意識の内にほじくり返していた。
 もともと話すのが上手じゃなかった私に唯一と言っていい友達が出来た。その子は私と同じように友達が少なくて本ばかり読んでいた。類は友を呼ぶ、とはまさにこのことでたちまち私達は仲良しになったんだっけ。
 その時、中学校全体が荒れていた時期で、暴力行為だとか麻薬騒動だとか教師と生徒の援助交際なんていうのも目立つようになっていた。一番有名だったのはクラスメイトの不良がホームレスの家を燃やして、その人に大火傷を負わせたって事件。
 メディアはその事件に気づかなかったみたいだ。学校側が全力でその事件をもみ消したんだとか。使うべき力の方向性が違うような気もするけれどね。
 そんな荒れに荒れきった時期に私に対してのいじめが起こった。最初は物を盗まれたり、陰口といった些細なことだったのだけれど、段々とエスカレートしていって最終的には存在を抹消された。でも、一番傷ついたのは私の唯一の友達だった子が一緒になって私をいじめだした時。誰も信用出来なくなってしまった。
 今でも思い出せる。信じていた人間が周りと一緒になって真っ赤な弧を描いている姿を。白い歯に血のように染め上げられた真っ赤な舌が飛び出していて、よどんだ眼光が無数に私を突き刺してくる。
 心の底では人間誰しも自己中心的な考えを持っている。自分さえよければ手段を選ばない、そんな感じ。
 私だって例外じゃないはずだ。だからせめて私はその自己中心的な部分を隠さないようにしている。裏表のある人間が途方もなく嫌いだから。
「……って、何を考えているんだ私は?」
 答えの出ない自問自答。どうにも精神が不安定な状態から一向に良くならない。
 とにかく今はミユキさんがブチキレた理由をしっかりと見定めないと。いくら激怒したからといっても理由もなく怒ったわけではない。
 だけれど、私の失言だけであそこまで怒ったとも考えにくい。おそらく色々なストレスが溜まっていて、私の失言が激怒のスイッチを入れてしまったのかもしれない。それならば私はまだミユキさんと仲直り出来るチャンスがあるかもしれない。
「……なんつって」
 いつも自分にとって都合の良いことばかり考えていて飽きあきする。こんな愚昧な考えしか出来ない私になら嫌われても仕方がないのかも。
 自虐、自分自身を嘲笑した。どうしようもなくなった。
 結局、私とミユキさんとの間に出来た溝は永遠に埋められないのかもしれない。
 好きだった、尊敬していた嫌われた。その事実を未だに受け止められずにいる自分がいる。心の隅っこで「まだ解決策がある」と考えている自分が途方もなく煩わしい。
 壊れた物は元に戻らない、人と人の絆は粘土じゃないのだから。

6月9日 午前11時24分

 雨が窓を叩く音によって目を覚ました。部屋全体に滞っている湿気に気付くのにはさらに数秒の時間を労した。
 相変わらず治らない頭痛を左手で支えながら半身を起きあがらせた。昨日から音楽を聴きっぱなしでいつの間にか寝てしまったせいか、携帯音楽機のバッテリーは底が尽きていた。
 ふと、左腕に視線を移してしまった。左腕全体にクモの巣のように張り巡らされている赤い線。
 私が起こした過去の傷はまだ治ることはなく、赤いミミズ腫れとなって左腕を蠢いていた。
「……」
 この腕を見る度に思い出さなくてもいい物が勝手に思い出されてしまう。後悔の念よりも罪の意識の方が勝っている。
 めったに車が通らない私が住んでいる住宅地で車が通った。水しぶきを弾いて私の家の前を一瞬で通り過ぎて行く。
 ふと壁掛け時計を見ると、時刻は11時を示していた。あまり夜更かしをした覚えはなかったのだが、随分と寝過ごしてしまったみたいだ。
「ま、今日は休日だから関係ないのだけれど」
 いい加減、左腕を見るのはやめて寝ぼけ眼でベッドから起き上がった。ほどいた三つ編みは真っ黒いストレートヘアーに変化していて、腰に届くまでの長髪だ。
 私はオシャレに気を付けたことはあまりないけれど、唯一容姿で気を付けていることと言えば髪の毛についてだ。
 別に髪を染めるとか可愛い髪型にするとかではなく、ただ単に髪質を大事にしていきたいというか。そのくらい気にしておかないと周りから何を言われるか分かったものではないから。

 眼鏡をかけずに下の階に降りると、そこには朝の支度を済ませてすっかりくつろいでいる母の姿。
「起きるのが遅いよ。ご飯、片付けちゃったからね」
 母は今流行りの韓流ドラマにモロハマりで、彼女がリモコンを手にしたら大概韓国のイケメン俳優しか画面には映し出されない。
「分かっているよ。お父さんは仕事?」
「そうよー。学生は気楽でいいわよねぇ、少しは大人の苦しみを知るべきよ」
 現在進行形でくつろいでいるあなたが言うな。そんなツッコミをぐっと喉元で抑えながら、私はソファーに折り畳んである朝刊に目を向けた。
 日本の年間の自殺者が3万人を超えて、減る気配が一向に見られないという記事が一面に堂々と載せられていた。
 遠い目で記事をじっと見つめた。心の奥がざわついた気がした。
 また、自殺。どこへ向かっても私の行く手には「自殺」があるみたいで、段々と面倒臭くなってくる。
 若者の自殺が急増している中で、お偉いさんは何の対策も取ろうとしない。それを知って私が怒るのは的外れだろうから、呆れるだけなんだけど。
「変な話よねぇ、若者はこれからの日本を作り上げるべきなのに、若者よりも上の世代の人がそれを壊しているなんて」
 母は私が自殺の記事を読んでいることに気が付いたのか、テーブルに置かれている煎餅をバリバリと食べながら呆れた声で話してきた。
 皮肉、本当に今の政治には何も期待していないのだろう。まあ、間違いじゃないと思うけど。
 途方もない感覚になった。私は以前自殺をしゆうとして、桐野実は自殺をして、今も3万人の自殺者は増え続けている。
 言語化出来ない黒いモヤモヤ。そんなモヤモヤを母親に見られたくなくて、私は自分の部屋へと静かに戻って行った。

 部屋に戻ると、勉強机に置いてある携帯に着信があったことを知った。
 着信履歴を見ると、通話相手はミユキさん。昨日は壮絶な絶交をしてくれたユカリのお姉さん。
 一瞬ドキッとした。それと同時に、一体どうしたのかという疑念が湧き上がってきた。
 そう思いながら更に携帯をいじっていると留守番メモに一件のメモがあることに気が付いた。
 それはミユキさんのもの。私は内心ドキドキしながら留守番メモを聴いてみた。
「ミカちゃん? いきなりごめんなさい、でも話をしたいの。今日の午後は時間はあるかな。あったら連絡ください」
 メモはそこで終了していた。私は訝しげな表情で携帯をしげしげと見た。
 もしかしたらミユキさんが昨日のことで話をしたいのかもしれない。もしそうだとしたら、私は彼女に謝ることが出来るかもしれない。
 そう思うと少しだけ気分が楽になった。陰鬱だった心も少しだけ晴れた気がした。
 壁掛け時計をチラリと見た。時計の針は間もなく12時を指そうとしている。
 ミユキさんは今日の午後に会いたいと言っていた。ならば早めに電話をしなければならないだろう。
 携帯に目を移してミユキさんの電話番号にまで動かした。
 決定ボタンを押して、しばらく続く無機質なコール音。雨の音と重なって何となく不気味に感じた。

「はい、高良です」
「あ、ミユキさんですか? 神谷ミカです」
「え、ミカちゃん? 留守電のメッセージを聞いてくれたの?」
「はい、それで今日の午後の2時に会いませんか? 場所は桜見駅の前の喫茶店で」
「……うん、いいよ。それじゃあ2時に喫茶店だね。あなたに話をしないといけないことがあるから、必ず行くから」
 それだけ伝えるとミユキさんとの通話は終わった。彼女の声音は終始低くて、やっぱり何かあったのだろうとどうしても心配してしまう。
 とにかく、ミユキさんと会う予定は決まった。早く支度をしなければ。

6月9日 午後14時19分

 氷がガラスコップにぶつかる音が心地よい。その音を聞いているだけで全身にまとわりつく湿気がどうでもよくなってくる。
 私は今桜見駅前の喫茶店「トリの巣」に来ている。店のネーミングセンスはまったくもって意味が分からないが、味の方は確かで好んで足を運ぶことが多かったりする。
 適度な量の氷がアイスティーの上に浮いている。私はストローでかき混ぜると、少しアイスティーを飲んだ。
 腕時計を確認してみた。2時19分、ミユキさんと会う約束をしたのは2時だ。
 私は2時丁度に入店したから、約20分間椅子の上で座り続けているということになる。几帳面なミユキさんがこんな遅刻をするなんて、もしかしたらここに向かっている途中で何か問題が起きたのかもしれない。
 不安がぐるぐると私の頭をよぎっていると、入り口から来た女性が一人……ミユキさんだった。
 赤い傘は雨ですっかり濡れていて、心なしか彼女の顔も暗い。
 ミユキさんは私の姿を見つけると足早にこちらに向かって来てくれた。
「ごめんね! 待っちゃったかな?」
 随分と慌てている様子。でも私は愛想笑いで「待っていない」という嘘をついた。
 間もなくしてウエイターが私達のテーブルにやってきて注文を確認してくる。
「私はチーズケーキで。ミユキさんは何か食べたい物とかありますか?」
「えっと、じゃあアップルパイ」
 ウエイターがオーダーの確認をすると、再び厨房へと戻って行った。

「あの、それで私に話したいことって何ですか?」
 ウエイターが去って数分間、ミユキさんが一向に喋ろうとしなかったので、私から口を開いた。
 ミユキさんはびくりと体を震わせると、恐るおそる言葉を発した。
「あの、昨日あなたに言ってしまった酷いこと。謝ろうと思って、あんなに酷いことを言ってしまってごめんなさいって」
 酷いこと……多分電車が出発する時にミユキさんが発したミユキさんの言葉だろう。
『あなた程度に理解されるほど、私は底の浅い人間じゃないの』
 今振り返っても随分と胸にグサリとくる。ミユキさんは実はサディストなんじゃないだろうか。
「本心じゃなかったの。でも、その場の感情であなたを傷付けてしまったことは許される物じゃないわ」
 どんどんとミユキさんは下を向いてしまった。声は小さくなるばかり。これでは私が「怒ってない」と言ってもまともに取り合ってくれなさそうな気すらする。
「顔、上げてください。そうやって本当に申し訳なく思っているのなら、私はミユキさんを許します」
 再び、彼女の肩に手を置いた。今度ははたき落とされない。
「本当に、私を許してくれるの?」
 その姿はまるで贖罪を請う小さな子どもみたいで。
 私は言葉なく首を縦に振ってみせた。

「最近ね、仕事の方も私生活も上手くいかなくて……ってこれはユカリから聞いたか」
 無理に笑っているのか、ミユキさんの頬は随分と引きつって見える。そんな姿を見て、いたたまれない気持ちに陥ってしまう。
 でも、また「無理をするな」っていうのはなるべく言わないつもり。多分今の彼女にそういった言葉を投げかける方が無理な話なのかもしれない。
「ごめんね、大人のクセにあなたに愚痴ばっかり言って」
「いいんです。続けてください。私はミユキさんの話を聞きますから」
 ウエイターがチーズケーキとアップルパイを持ってくると、会計の紙をテーブルの上に置いてその場を離れて行った。
 それを合図にミユキさんは再び口を開く。チーズケーキを食べる手を止めてそっと耳を傾けた。
「社内いじめっていうのかな。そういうのがあってさ……大人がいじめられているなんてみっともない話だと思うけれど。でも、やっぱり人間だからさ。ツラいものはツラいんだよね。おまけにこの前仕事で笑いごとじゃ済まされないミスをして」
 淡々と単語と単語を紡ぐようにミユキさんは話した。やっぱり、色々な嫌なことが重なって精神が不安定な状態なのだろう。
「彼氏にはフられて、健康診断には引っかかるし。本当に……どうしたらいいのかなぁ?」
 天井を仰ぎ見ていた。すっかり疲弊した声で、多分自問自答。
 私はその言葉に黙って耳を傾けることしか出来ない。当事者ではないし、適当なことを言ってまたミユキさんの神経を逆撫でするのも嫌だし。
「あ、ごめんなさい。迷惑だよね、こんな話をされても分かるわけないんだし」
 ミユキさんは我に戻ってすぐに謝罪した。でも私には「分かるわけない」っていう言葉が、やっぱり彼女と私の間に隔たりがあるみたいで釈然とせずにいた。
「……いえ」
 ただそう答えることしか出来ない。そういうことしか出来ない自分がたまらなく嫌いだ。

 結局、ミユキさんの悩みは解決することが出来ないまま、私達は喫茶店を出ることとなった。
 梅雨の午後、雨上がりの外は湿気にまみれていて、灰色の雲間から覗き込んだ太陽によって水たまりは蒸発していた。
 鈍色の水に私の顔がぼやけて映った。その表情は陰鬱としていて、とても高校生の表情だとは思えない。
「ミカちゃん」
 別れ際にミユキさんに声をかけられて、ゆっくりと振り返った。
 その時見たミユキさんの笑顔、痛々しくも必死に笑みを浮かべる彼女に切なく思う。
「なんだか色々と迷惑かけちゃったみたいで。ごめんね」
 その笑みがどうしても辛くて。鉄の足枷を付けられて底なし沼に沈められたみたいな感覚。
 全身の血の気が引いた。彼女の言う「ごめんね」があまりにも悲しくて。
「あ、あの! また会えますよね。またこうやって話ができますよね!」
 このまま終わりにしたくなかったから。声を張り上げて確認、このまま会えないようにしないためにも。

 でも、ミユキさんはなおも痛々しい笑みで微笑むだけだった。

6月9日 午後16時58分

 雨上がりの雲間から斜陽が差し込んでいた。中肉中背の私の影を細長く映し出している。
 鼠色の水たまりに映るもう1つの世界、そこは途方もなく静かな感じがして頭の中が混線中の私にとっては羨ましかったり。
 白いスニーカーがまだ湿っているアスファルトを踏んだ。一体何度目になるかも分からない行為に滑稽さすら覚える。

 ミユキさんに昨日のことを謝ってもらえた。それなのにこの気持ちの沈みようは一体何なのだろう? 一向に浮上することのない気持ち、頭痛が酷くなった気がした。
 私自身ではどう頑張っても解決に導けないことくらい分かっている筈なのに、それを許容しない私がいる。どうしてなのだろう?
 時刻は間もなく5時を指す。日の入りがすっかり長くなった初夏、でも明け方や夕方になると若干肌寒い。
 どこからか聞こえるカエルの鳴き声を無視しながら歩いていると、今度は人間の声によって呼び止められた。
「ミカー! どっか買い物にでも行ってたの?」
 呼び止めた声は高良ユカリ、更にその隣には嶋田ユイまでいる。
 ユカリはいつもの制服とは違い、パンク系な服装で首輪まで着けている。ユイは相変わらず頭にパイナップルを装着させながら、チューインガムをくちゃくちゃと噛んでこちらに向かってきた。
「あ、うん。でも欲しい物がなくて」
 ミユキさんと会ったことを話すべきかどうか迷った挙げ句、結局嘘をつくことにした。これでまた話がこじれたら面倒臭いし。
 手提げの中を見せてみるが、中には財布と本と携帯しかない。それを見たユカリとユイは興味なさげに「ふーん」と答えた。
「でも分かる。買い物ってさ、買うまでが楽しくて買っちゃったら一気に熱が冷めるんだよねー」
 ユイはチューインガムを排水溝に吐き捨てると私とユカリに向けて話し出してきた。
「あー、確かにね。恋愛みたいな感じだよねぇ」
 ユカリはつい最近付いた自分の傷すら気にせずに「恋愛」という言葉を口にしていた。
 そういえば、ミユキさんも彼氏にフられたと言っていた。「恋愛」って口にするだけじゃ軽々しくて、実はもっと重いものなのかも。
「ユカリは何をやっていたの?」
 今度は私がユカリに尋ねてみた。そういえばユカリの休日の過ごし方だとかを聞いたことがなかった気がする。興味ないから聞いていないっていうのもあるんだけど。
「今日はずっとユイと遊んでいたからね。最初は……ゲーセンでプリ撮ってたんだっけ?」
「そうそう。つかあそこのプリクラ、写り悪くない?」
 プリクラから永遠とガールズトークが始まった。私がもっとも苦手とする部類、げっそりとしながら別れの挨拶をしようとすると、ユカリに呼び止められた。

「あのさ、ミカ。昨日お姉ちゃんと会ったの?」
 声のトーンを1つ落としている。途端に血の気が引いた。
 昨日はミユキさんを怒らせてしまった。その原因はユカリだけが知っているミユキさんの弱音を私が知っていて、適当な励ましをしてしまったからなのだろう。
 そのことを知ったミユキさんはユカリに八つ当たりを飛ばしたのかもしれない。
 ここで嘘をついても仕方がない私は渋々口を開いた。
「会ったよ、たまたまだけれどね。ミユキさん、何だか疲れているみたいだった」
 それを聞いた途端にユカリが深いため息。どうやら昨日私達との間で何が起こったのか全て悟ったみたいだ。
「ミカさぁ。その人の助けになりたいって性格は凄く素敵だと思うよ。事実、アイツにフられた時にミカは私を慰めてくれたんだからね。でも、度を過ぎることはやめなよ。本人だけじゃなくて、周りにも迷惑をかけることだってあるんだから」
 それは紛れもない忠告、これ以上ユカリとミユキさんの関係に下手に口を出すなという。
 ユカリは私を「人の助けになりたい性格」だと言ってくれた。でもそれは上辺だけの話で、本当の私は人を助けようなんて思ったことがない。人の力になれば周りからの評価が上がるから。
 ユカリが言っていた「アイツ」……田端タモツの時だってそうだ。周りが見ている中で慰めでもしないと私が悪者みたいに見えるから。
 そう言おうと思ったのに、口がそれを拒んだ。嫌われたくないから、いじめられたくないから。
「うん、分かった。ごめんね」
 代わりに出たのがそんな陳腐な言葉。つくづく自分が嫌になる。

「分かってくれたんならいいよ、また明日学校でね」
 そう言ったユカリの声音は元に戻っていた。途端に心臓の鼓動が高鳴って、息が荒いことに気が付いた。
 冷や汗をかいて、視界がぐるぐると回る。
「なーにシリアスになっちゃってんだよ!」
 背中に衝撃、不意な出来事に恥ずかしい声を上げてしまった。
 ユイが私に抱きついてわき腹をくすぐってきたのだ。まともに息が出来ずに、でも自分の素顔を悟られないチャンスだとも思って、無理矢理元気そうに笑った。

6月9日 午後20時11分

 壁掛け時計の秒針が刻まれる音がはっきりと聞こえる程に、辺りは静まり返っていた。
 充電せずにそのまま放っておいた携帯音楽機はやっぱりバッテリー切れのままで、仕方なく充電をしている。
 私は本棚から昔読んだ本をもう1度読み出している。私は1度本を読んだら、売ってしまうか誰かにあげてしまうかがほとんどだ。だって同じ本を2度も読むことはきっとないから。
 それでもやっぱり気に入った本が出てくる。そうした時は本棚にしまってまた読むつもりなのだ。ほとんど2度目はないのだけれど。
 今私が手にしている本は、ほとんど2度目がない中で唯一何回も読んでいる物、小さい頃に親に買ってもらった絵本。泥棒の話で親に捨てられた子どものために必死になるって話。結局、その泥棒は銃で撃たれて死んじゃうんだけど。
 幼い私はこれを読んだ時に意味が分からなかった。これのどこに面白みがあるのかって。でも歳を重ねる毎になんとなくだけど好きになっていって。
 人のために必死になれることが羨ましかった。私は昔から自分しか考えていないから。
 自己中心的な部分はきっとどうやっても拭い去ることが出来ないのだと分かると、形だけでもいいから人の助けになりたいと考えた。
 私は皆に愛されたいから、嫌われたくないから。八方美人って言えばそれまでなんだけど、その程度では私自身は片付けられないと思っているから。
 でも、それは叶わずに中学生の頃にいじめられて。だから好かれなくてもいいから嫌われないようにって方向転換をした。
 友達に恩を売って、自分が得をして傷つかないように。

 本を閉じた。悶々とした思考の中ではまともに感じ取ることが出来ない。
 ため息をついて、下の階に下りようとした時、勉強机に置いてある携帯のバイブレーションが響いた。
 重たい手つきで携帯を開いて確認すると、そこにはミユキさんからのメール。思わず心臓が跳ねた。
 一体何の用なのだろう。そう思いながらメールの中身を確認すると、短い文が私の眼前に広がった。

『今日は私の話を聞いてくれてありがとう。嬉しかった。さようなら』
 眼圧が上がったみたいになった。視界が水晶玉を覗いているように遠くに行ったり、近くに来たり。
 かきたくもない冷や汗。慌ててミユキさんに電話をかけた。
 ……何回ものコール音。それでも出ない。
 ミユキさんの個人的な問題と、最近話題の「自殺」という言葉がどうしても繋がってしまって。
 ミユキさんが一向に電話に出ないことを知ると今度はユカリの携帯に電話をかけた。
 2、3回目のコール音でユカリの声が聞こえてくる。
「ユカリ? ミユキさんは今どうしているの!」
 冷静になってみれば、私はいきなり友達に向かって何を聞いているのだろうと思う。でもその時はそんな余裕は全くなかったから。
「はぁ? いきなり何よ。……姉さんならさっきお風呂場に行った、私が先にお風呂に入っていたから」
 呆れた声、当然だろう。友達が電話をしてきたと思えば自分の姉のことについて聞いてきたのだから。
 ミユキさんは家にいる。少なくとも私の想像していた桐野実のような姿をミユキさんがしているということはなくなった。
 全身の力が抜けて、その場にへたり込んでしまった。ユカリは訝しげな声を上げて受話器から私の声が発せられるのを待つ。
「……一体どうしたの? 最近のミカ、なんだか変だよ」
「うん、ごめん。ちょっと不安なことばかり考えちゃって」
「悩みごと? それ、差し支えなければ聞かせてくれない?」
 妙に柔らかい言葉に、思わずずっと緊張を張ったままだった糸が急に緩んで。
「……でも」

「私達、友達でしょ?」
 その言葉に、私の心の堤防が決壊した。そしてようやく悟った、私が一番欲しがっていたものって「友達」なんだって。
 声を押し殺して涙を流した。携帯を隔てたユカリに気付かれないように。
「あのね、ずっと不安だったの。私の大切な人が沢山の問題を抱え込んでいて、私の励ましも嫌みにしか聞こえなかったみたい。私はその人が凄く好きだから、苦しんでほしくないって思ったの」
「……うん」
「その人は凄く悩んでいた、悩んで悩んでなやみきって。その時私はこの前の『自殺』のことを思い出してしまったの。もしかしたらその人も同じように自殺してしまうんじゃないかって」
「ミカは『その人』が自殺するんじゃないかって心配だったの?」
 目の前にユカリがいる訳じゃないのに、私は無言で首を縦に振っていた。でもユカリにそれが届いたのか、ゆっくりと話し出してくれる。
「あのねミカ。多分『その人』は凄く強い人だと思うんだ。でも優しすぎて怖がりだから周りのことも気にしてしまう。大丈夫だよ、その人は今も頑張って生きているんだから。道を間違える訳がない」
 ユカリはきっと「その人」が誰なのか、分かっているのだろう。だからこんなにも優しくしてくれる。
 私はその優しさに甘えて泣くことしか出来なくて。
 でもそれはかけがえのない物なんだって思う。

 もう少し泣いておこう。勿論ユカリには気付かれないで。
 そしてまた朝を迎える。その時は、今日の朝よりも楽しい朝を願って。

6月12日 午後13時15分

 今日も外は激しい雨が降り続いている。私は深いため息を1つ落とすと教室の中をぐるりと見回した。
 相変わらず喧騒にまみれる教室、でもその中に高良ユカリの姿は見つからなかった。1つだけ空いた空席が妙に悲しくて。
 昼休み、スピーカーから秋庭ナツメ先輩の声が聞こえてきた。
「2年生の高良ユカリさん、至急弓道部の部室まで来てください」
 一体何の用なのだろうと、関係のない私まで気になってしまう放送。
 嘉川アヤが心配そうにこちらを見つめてきた。多分アヤも不審に思っているのだろう、今まで皆勤賞だったユカリがいきなり3日も学校を休むなど。
 私だって信じられない、でも目の前に起こっていることは紛れもない現実で。
 いてもたってもいられずに、私はアヤの元へ歩いて行った。そしてユカリの席に座り、アヤの席の方向に振り返る。
「ユカリちゃん、最近学校を休んでいるよね。どうしちゃったんだろう」
 心配そうに天井に張り付いてある蛍光灯を眺めている。私もどこに焦点を合わせればいいのか分からなくなって、目を伏せることしか出来ずにいた。
「ユカリはインフルエンザにかかった時だって、皆に隠し通して登校していたっていうのに」
 今考えれば全くもって迷惑な話だ。しかもそのインフルエンザを他の生徒にウツしやがったし。で、本人は翌日元気に登校。超めんどくせぇ。
 そんなユカリが3日も学校を休むなんて私達にとっては異常を極めている。
「……お見舞いとか、行ってみる?」
 何気ない私の意見。これならば詮索しに来たということがあまりバレずにユカリの様子を見に行くことが出来る。
 だけれど、私の提案にアヤは苦い顔を浮かべながら首を横に振った。
「まだユカリちゃんが病気になっているって決まった訳じゃないし、それにもしかしたら家族の問題なのかもしれない。それなのに部外者の私達が首を突っ込むなんて駄目だよ」
 アヤの言葉はもっともだ。もしかしたらユカリはもっと重大なことで学校を休んでいるかもしれない。
 でも私は「部外者」という言葉にどうしても引っかかってしまった。私達「友達」は、ユカリからしたら「部外者」なのだろうか。
 週末の夜、ユカリが言ってくれた言葉が蘇る。
『私達、友達でしょ?』
 友達って何なのだろう。喜びとか悲しみを共有出来る存在の筈なのに、個人の問題には介入を許されないって、随分と矛盾している。
 それって結局、真の意味での喜びとか悲しみを共有出来ないじゃないか。

「ミカちゃん、聞いてる? ……とにかく、まだ何も分からない状態なんだから、変な予測を立てて考えるのはやめよう」
 そう言ってアヤはこの話を切り上げた。多分アヤだってユカリのことが心配な筈だ。でも変な詮索をするのはユカリにとって迷惑になるかもしれない、そう考えてのことだったのだろう。
 私は釈然としない表情のままユカリの席から立ち上がると、教室の外へと向かって行った。

 図書館へ行こうとすると、必ず職員室前の廊下を通らなければいけない。そこで走るなどしてみたら、風紀委員顧問の増田が竹刀を持って職員室から飛び出してくる。
 そして廊下の真ん中で猪木スクワットを50回やらされるんだとか。でもなんで猪木スクワットなの? 増田のこだわり?
 そんなよく分からない噂があるせいで生徒達はこの変の廊下で走るどころか物音を立てないように歩いている。勿論私も例外ではない。
 抜き足、差し足、忍び足とはよく言ったもので、その姿を第三者が見ていたら途方もなく滑稽な図に見えるのだろう。
 雨の勢いが益々強くなっていて、窓に叩きつける雨も次第に強まっていた。屋根を貫通する轟音、そう言えば近々台風が接近するって「午後20時の恋人」が言っていた気がする。
 そうしてもう少しで職員室前の廊下を通り過ぎようとした時に、窓の外で一瞬の閃光が走った。
 間髪入れずに当たりに響く爆音。心臓が潰れるかと思った。
 まるで体が麻痺したみたいに、動きが取れない。脳の奥が痺れているような、不思議な感覚。
 雨の音など気にならずにその場に立ち尽くしていると、職員室の中から私の教室の担任の声が聞こえた。
「ユカリさんのお姉さんが……もう3日も前に?」
 ブツブツと途切れる担任の声。しかし何だろう、この不安は。
「しかし、自殺なんて……いえ、決してそういう意味ではなく」
 心臓の鼓動が停止した気がした。全ての時間が凍り付いて、動かなくなった気がした。
「……え?」
 理解するまでに沢山の時間が必要になった。それは10秒かも1分かもしれない。でもそれが理解した途端に、自分の全身の骨が引き抜かれた気がした。
 ぐにゃぐにゃになった私の体は支える物がないまま、地面に倒れ込む。下半身の力も一気に抜けて、途端に「漏らした」。
 過呼吸。息を吐くことしか出来ずに吸うことが叶わない。
 眼球をむき出しにして、思考は停止して、廊下で倒れ込んだ音に気が付いたのか、担任が扉を開けてこちらに寄って来た。
「おい、どうしたんだ? 神谷しっかりしろ!」
 呼吸が出来なくなった私。沢山の穴から液体を垂れ流していた。
 抱き起こされた私の体は死人のように重くなっていて、しかもスカートには「漏らした」痕すら残っている。廊下に残る黄色い水たまりが何よりの証拠となっている。
 私は担任のされるがままに職員室の中へと運ばれて行った。
 頭の中で導き出された答え。ぐるぐると回り続けていて気持ちが悪い。

 ……ミユキさんが、自殺をした。

6月12日 午後15時01分

 夢を見ていた。どうにも形容しづらい夢。
 ふわふわと定まらない輪郭の中で脳髄に直接声が届くというか。
 心地良くも悪くもない空間で、2本の足で立つことすらままならずに。仕方がないから半ば泳ぐような格好で辺りを進んだ。
 空気をかき分けて、闇をかき分けて。たどり着いた先は一面に広がる青空。
 断崖絶壁、少しでも動けば落ちてしまいそうなくらいに、私に迫っていた。
 その時、弱々しい力で背中を押される。だけれどその弱々しい力でも十分なくらい、私は体の重心を失って崖から落ちていた。
 落ちながら、重力に逆らうように背を向けて、落ちた崖を見つめると。
 そこには高良ミユキの姿が確かにあった。

§

 全身から気持ち悪い汗を流して、私はベッドから跳ね起きていた。
 荒い呼吸、喉の奥が渇いて舌と張り付いて痛い。今にも爆発しそうな心臓の鼓動は必死に全身に血液を巡らせている証拠だ。
 すっかり水分を失っているのか、呼吸音が随分と異常で、苦しみが増すばかり。動こうと思っても、体が麻痺したみたいで自由に動けずにいた。
「ここは、保健室?」
 腰が痛くなるくらいに硬いベッドと重たく分厚い布団には見覚えがあった。勿論、私の家のベッドではない。
 私が寝ているベッドを覆い隠すように真っ白いカーテンによって遮られている。でもここからでも分かるくらいに雨は降り続いている。
 全身を確認した。上半身の部分だけはいつもと同じ夏服で、下半身はなぜか体育で使用するエメラルドグリーンのジャージが履かされていた。
 今まで履いていた筈のプリーツスカートは消失していて、状況が飲み込めるまで本気で「どこかの変態に盗られたのではないか?」と考えてしまった。

 段々と脳の動きがしっかりとしてくると、自分がどうして保健室にいるのか、なぜジャージを着ているのかがはっきりと分かってきた。
 それと同時に、一気に顔色が青ざめる。血の気が引いて顔全体が涼しく感じた。
 私が倒れる前、職員室前の廊下で偶然聞いてしまった担任の会話。
 その言葉が正しく、なおかつ私の想像通りだとするならば、おそらくミユキさんが自殺をした。
 ユカリが3日間も学校を休んでいるのはそのせいなのだろうと考えると、辻褄が合ってしまう。
 だけれど、私はそんなことは信じたくないし、否定したい。真実を聞くことがたまらなく怖い。
「な、何で。ミユキさん……」
 3日前と言ったら私の携帯にミユキさんがメールを送った日だった。良く意味が分からないメール、でもその時の不安は杞憂なんかじゃなかった。
 私とユカリは、ミユキさんを強い人だと勝手に思い込んでいたけれど、そんなことはなかったんだ。私達は大好きな人の一番近くにいたのに、その変化を感じ取ることが出来なかった。
 這い上がる罪悪感。自身が黒い液体にまみれて溶けていくみたいで。罪の意識しか存在しなかった。
 止められた自殺、なのに私はそれを止められなかった。ミユキさんに、1人じゃないって教えることが出来なかった。
 両手で顔を覆って、崩れた。涙は溢れずに、途方もない贖罪の念だけが。
「こんなの、私がミユキさんを……」
 殺したようなものじゃないか。

 事実を否定したかった。だから気が付いた時には私は立ち上がり、保健室の扉に手をかけていた。
 私のプリーツスカートと下着がハンガーに吊されている。でも今はそんな物は気にならなくて。
 職員室へ行って、担任から事実を聞こう。そうだ、まだミユキさんが自殺したなんて断定出来るわけがないじゃないか。
 きっと何かの聞き間違いだったんだ、そうだそうに違いない。そうやって自分に言い聞かせるしか自我を保つことが出来なくて。
 私は覚束ない足取りで、職員室へと向かうのだった。

6月12日 午後15時23分

 職員室帰りの廊下。相変わらず覚束ない足取りで私は自分の教室を目指していた。
 元々白い顔は一気に血の気が引いたことにより、完全に青ざめていて視界さえ定まらない。
 左胸の鼓動が煩い。その振動が全身の骨を伝って脳に響き渡る。鼓動が鳴り響く度に頭を揺らされている気持ち悪い感覚。
 思考は完全に停止、ただ肉の塊となって動くのがやっと。眼鏡の奥の瞳に宿っていたはずの光は、すっかり消え失せていた。

 先ほど職員室に行ってミユキさんが自殺した真偽を確かめに行った。いや、正確にはユカリが3日以上も休んでいる理由を確かめに行ったのだが。
 もしユカリが休んでいる理由が「家庭の事情」ならば、ミユキさんの自殺がさらに濃くなるはずだから。
 でも私の想像していた答えとは少し違っていて。
 担任は苦虫を噛んだような表情を浮かべて「プライバシーの問題だ」だけで足蹴にされる。でもその表情からおおよその事態は理解出来て。
 ああ、本当にミユキさん。自殺しちゃったんだなって、頭の中が再び真っ白になった。
 体調面での欠席ならば何も問題がなかった。でも「プライバシー」ということは、ユカリの身の回りで何かが起こってしまったということ。
 ユカリの最近の悩みは私の悩みとほぼ同義。もしその悩みで悩んでいるとするならば。
「ミカちゃん? 今までどうしていたの!」
 アヤの声で我に返った。私は今教室前の廊下で腹痛で悩んでいる生徒のごとく体を屈折させていた。
 今まで抱えてきた「不安」という風船が破裂した感じ。途方もない恐怖と、虚無感が私を支配していた。
 雰囲気が暗い私は、より一層暗くなりながら、半ば倒れるようにアヤの体に寄りかかった。
 突然のことで体が反応出来なかったのか、アヤの虚弱な体は1歩後ろにふらつきながら、それでも私の体を支えてくれた。
「……ミカちゃん?」
 いつもの私と違うことを悟ったのか、声を震わせながら尋ねてきた。でも今の私にはまともに答えられる力は残っていなくて。
「ごめん、しばらくこうさせて」
 目頭から溢れる熱い液体を必死で隠していた。誰かに泣く姿を見られたくない。見られたら私が弱い人間だって分かってしまうから。
 思考は止まったはずなのに、「自殺」という単語が螺旋状にねじ曲がって私の頭の中にぐるぐると残留していた。それが一回転するたびに頭痛が訪れて、頭が割れそうな感覚に悲鳴を上げたくなる。
 どうしたらいいんだろう。過ぎ去ってしまった過ちを修正出来ないだろうかと未だに考えている私がいる。

「あれ、ミカっちとアヤヤ。どったの?」
 傷心中どころか、ボロ雑巾のごとく疲弊した私に水を差すように訪れた人物。嶋田ユイだった。
 相変わらず赤縁眼鏡とパイナップルヘアーとガーターベルトを身につけているふざけた格好。何も考えていなさそうな態度で、やっぱり何も考えていない質問を投げかけてきた。
「あ、ユイちゃん。これは」
 アヤの言葉に動揺が見える。これ以上アヤの胸を借りて隠れて泣くのは、彼女に迷惑をかけてしまう。
「……」
 どうしてミユキさんは自殺をしたのか。疑問と不安、恐怖の入り混じった感情に嘔吐感を催した。
 だけれどそれ以上に、私は泣いている姿を誰かに見られたくなかった。
 私が泣いたところで何かが解決するわけじゃないし、状況を悪くする一方だと知っていたから。それは中学時代のいじめの教訓。
 私だって何も最初からいじめに黙って耐え続けていたわけじゃない。大人には報告しなかったものの、僅かながら抵抗はした。でもその度に強い圧力で私を支配しようとして。
 圧力に耐えきれずに泣けば泣くだけ、いじめはエスカレートしていったから。遂には泣くことをやめて不登校になったんだっけ。
 今の学校ではいじめはないにしても、人前で泣くという行動が中学時代の古傷が痛んでしまって、泣くに泣けずにいる。

「別に、何でもない」
 ミユキさんが死んだと悟られたくなかった。特にアヤはミユキさんと僅かながら接点があるから。だから嘘をついた。
 流した涙はたった少しで、それは私が他人に自分の弱さを見せることを拒否した証明にもなる。
 両目が赤くなっているところを見られたくなかったから、俯いて早足で教室に入った。2人はこんな私を見てどんな表情を浮かべただろうか。
 教室には絶え間ない喧騒。クラスメイトの姉が死んだって、彼らには関わりのないことだ。それに彼らはミユキさんが死んだことすら知らない。
 当たり前のことなのに、今の私にはそれがどうしても許容出来なくて。
 奥歯に思い切り力を加えた。でもどんなに思い切っても唇すら噛み切ろうと思わない私の安っぽい意志がますます気に入らなくて、自分の鞄を取り上げると早々に教室から出て行った。

 周りにも、私にも、様々なものに腹が立っていた。
 一体何が原因でここまで変わった。ここまで事態が悪化した。八つ当たりじみた私の問いを永遠に続けるばかり。

6月12日 午後20時57分

 携帯ラジオから流れる情報。軽快な音楽とともに訪れるのは、あの雌犬のような声だった。
「台風5号は現在沖縄付近に接近している模様です。この台風10号は数時間後には沖縄県を通過して翌日には四国に上陸して、本州へと訪れる模様です。また、今回の台風は最大風速25メートルという非常に強い……」
 イヤフォンを外した。私はどうにもこの「午後20時の恋人」が好きじゃない。野球選手とテレビマネージャーとの2股をかけているという大胆さが特に気に入らない。
 眼鏡を外してこめかみを抑えてみた。最近の頭痛の原因は連日の雨も関係しているのかもしれないが、大部分はストレスだろう。
「……なんだかなぁ」
 何も考えられずにいた。真っ白いモヤが私の頭にかかって視界が晴れない感じ。
 その原因ははっきりと分かっている。ミユキさんの自殺だ。彼女の死が、私の頭を滅茶苦茶に混線させている。
 どうしてミユキさんは自殺をしたのか、私はどうして彼女の死を止められなかったのか。そればかりが頭の中で巡っている。
 ミユキさんは最期の日に私に話をしてくれた。その前の日に私に酷いことを言った謝罪と、現在の彼女の状況。
 私はその時に何か行動を起こすべきだったのだ。ただ話を聞くだけじゃ救えないことだって存在する。
 そして昨日の夜に、ミユキさんからのメールが届いた。
『今日は私の話を聞いてくれてありがとう。さようなら』
 どう考えてもミユキさんらしくない。私はその時ようやく行動を起こしたのだけれど、結局間に合わなくて。
 今でも、ミユキさんがいなくなったということが信じられずにいた。信じられずに電話をかけたら、必ず出てくれるんじゃないかって。
 携帯の画面をじっと見つめた。ディスプレイに表示される「高良ミユキ」の名前。私に優しく接してくれた名前。この世に存在しなくなった名前。
「……どうしてなのよ」
 冷たい空間に、ポツリと呟いた。涙は出ずとも、胸がとても苦しくなる。

 ユカリはミユキさんを私以上に尊敬していた。だから彼女を亡くした悲しみというのはきっと測り知れないだろう。
 ユカリが3日も学校に来ていない理由は多分それだと考えているから。
 このことはいずれ周囲に知れ渡る。一体どこから情報が漏洩してしまうのかは分からないけれど。
 仮にミユキさんの自殺が広まったら、私のクラスはどんな反応をするだろうか。一緒に悲しんでミユキさんの死を悼むか? まさか、高校生にそんな高等な技能があるとは思えない。
 桐野実がいい例だ。彼はクラスメイトにとっては「知らない人」で、それが何をしようがクラスメイトにとっては対岸の火事でしかない。
 きっとミユキさんも桐野実の延長線となるのだろう。ようやく治まりつつあった自殺騒動がまたぶり返して。
 それを恐れて「ネタ」として扱われたくないからユカリは学校に姿を見せない。それなら嫌でも納得が出来てしまう。
 おぼろげな目つきで携帯を操作して、高良ユカリの電話番号にまで到着していた。
 決定ボタンを押すだけで彼女と話が出来る。そうすれば疲労困憊した彼女の声音が聞こえるだろう。
 そうしたら私はどうする?
「最近学校に来ていないけれど、何かあったの?」なんて無責任なことを聞くのだろうか。
 それを考えたらどうにも出来ない気持ちになって。でもこのままでは何も進まないというもどかしさもつきまとう。

 だから、つい無意識に。通話のボタンを押してしまった。
 無表情、無思考、空っぽの心で。一体何と言えばいいかなんて今の私には想像が付かない。でもその一歩は踏み出してしまって。
 まだ大人になりきれていないのに、成人式を迎えてしまった人の気持ちってこんな感じなのかなって、何となく分かってしまった。
 その呼び出し音が恐ろしかった。恐怖が確実に迫っているみたいで、私の鼓動はどんどん大きくなっていく。
 その時、突然電話が繋がった。あまりに突然のことで心臓が停止するんじゃないかってくらい。
 でも、私が想像していたものとは、この通話はかけ離れていた。
『ただいま、留守にしております。ご用のある場合は、ピーッという発信音の後に、メッセージをお伝えください』
 発信音。でも私は何も伝えることが出来ない。
 無知を装っても、事実を知って同情しても、結局ユカリを傷つけてしまうと悟ったからだ。
 冷静になって考えてみれば当然なことだろう。最愛の姉が死んで、電話に出られるような精神状態じゃないはずだ。マナーモードで無視を決め込む方が賢明だ。
 私は通話を切断して、携帯を床に落とした。プラスチックの安っぽい音がカラカラと部屋中に反響する。

 頭を抱えた。頭痛っていうのもあるのだけれど、八方塞がりの状況を打開出来ないから。
 まるで喉の奥にクモの巣が張り巡らされているようで、私はくぐもったうめき声しか出せずにうずくまった。
 家の外の窓はガタガタと揺れ、台風が到来するという予告をはっきりと告げていた。

6月13日 午前07時13分

 その日の朝はやっぱり大雨だった。台風が私が住んでいる県に直撃しているみたいで、いつも韓流ドラマばかり観ている母が珍しく天気予報を観ていた。
 頭痛が響く状態でリビングのテレビを一緒になって眺める。
「大雨洪水に暴風、波浪警報だってさ。良かったじゃん、今日は学校休みだよ」
 母がつまらなそうに私にとっての朗報を伝える。悶々としている今の私にとってはいつも以上に嬉しい知らせだった。
 今日は多くの人と関わりたくないから。多分頭痛が酷くなるだけ。
 気休めくらいにしかならないかもしれないけれど、1日休んで疲れを取りたい。

 重たい足取りでキッチンまで進むと、そこには朝食が既に用意されていて、昨日からあまり食べていなかった私にとっては食欲をそそる物だった。
 白米と生卵、それから味海苔にキュウリの漬け物。実に手抜き、でも空腹の私には涎が出てくる。
 自分の席に着いて生卵をご飯に落としてかき混ぜる。黄色い液体が白く一色だったものを変貌させていく。艶やかに輝き、独特の匂いを漂わせる。
 そういえば、生卵を食べるのって日本人だけなんだとか。考えてみれば、これほど変な食べ方も中々ないしね。
 母は天気予報を眺めながら、相変わらず誰にふっかけているか分からない悪態をついていた。
「どうせこの台風、右にそれるんでしょ。それで北海道まで行かないのよ」
 何だ右って、東って言え。ていうか何で北海道にまで行かないことをそんなに恨んでいるの? 道民に恨みでもあるの?

§

 自分の部屋に戻ると、携帯の着信ランプが点滅していることに気付いた。
 普段は私に電話をかけてくることなんて滅多にないのに、最近になって多くなった気がする。
 でも今の私はとても受け答えが出来る状況なんかじゃなくって。
 不安と面倒臭さが入り混じった気持ちで携帯を開いてみると、着信が3件も。
 急用だろうか? そう考えながら詳細を見ると通話してきた相手はアヤだった。
 どうしたというのだろう。募る気持ちを抑えながらアヤの携帯に電話を掛ける。そういえば、アヤはもうスマートフォンに変えたとか言っていたっけ。
 間もなくして、電話が繋がった。私は「あっ」という声を上げてアヤが応答してくれるのを待った。
「ミカちゃん?」
「う、うん。なんか、電話掛けてくれたみたいだから」
「朝早くにごめんね。でもちょっと聞いてもらいたいことがあって」
 聞いてもらいたいこと? 一体何だろう。
 アヤはしばらく黙り、そして意を決すると小さく息を吸って話しはじめた。
「ミカちゃんさ、昨日すごく機嫌が悪そうだったけれど、それってユカリちゃんのことと関係がある?」
 不意を突かれた感じ。でもどこかで覚悟をしていた。多分アヤは全てを理解して私に電話を掛けてきたのだろう。
「……うん」
 嘘をつく道理はない。私は素直に肯定を促した。
「ユカリちゃんのお姉さんのこと。学校で聞いちゃってさ」
「担任から聞いたの?」
「ううん。他の生徒がそのことを話していたから。ミカちゃんが不機嫌だった原因がそれにあるのかなって」
 ああ、それじゃあミユキさんが自殺したっていうことは、もう知れ渡ってしまったんだ。
 ユカリが休んでいた意味を考えてみた。ミユキさんが死んだショックというのも勿論あるのだろうけれど、ミユキさんの死が「ネタ」として扱われるのを見たくなかったから。
 時間が解決してくれる問題じゃない。むしろ時間が真実を明かしてしまう。
「そっか。じゃあ、クラスメイトはもうそのことを」
「知っているんだと思う」
 高い所から地面に思い切り叩きつけられた感覚。肺胞が死滅して、まともに呼吸が出来ない。
 血の気が一気に引いて、視界がグルグルと回った。
 ユカリは多分そのことを知らないのだろうけれど、知ってしまったらどう思うのだろう。敬愛する姉の死をよく知りもしない同年代に貶される。
 行動を起こす前に最悪の状況が生み出されてしまった。いや、そもそも私はその「行動」を起こそうと思っていたのだろうか。
「……分からない」
 ついつい漏れてしまった自問自答。アヤと電話していることをすっかり忘れてずっと考えを巡らせていた。
「えっ?」
「ああ、ごめんこっちの話。それで、アヤはどうしようと思っているの?」
 自分が解決出来ない問題は他人に押し付ける。最低も極めると憎悪になりそうだ。
 案の定、アヤは困ったようにうなり声を上げて「どうしようもできない」と答えるだけ。

「ねぇアヤ。人が死んで、そのことを深く考えてみたことってある?」
 アヤに尋ねてはいるけれど、それはほとんど自問に近かった。
「えっと、その」
「人が死んで、ずっとずっと悩んで、それでも解決策なんか何も思い付かなくて。時間が判断を下してしまう、この場合はミユキさんの死が晒し上げられてしまうという判断」
「……うん」
「私はね、正直今でも他人の『死』について真面目に考えていないと思うんだ。当然だよね、自分の命すら粗末にしようとした奴が、他人の命について考えるだなんておこがましいもの」
「他人の死に目を背けているっていうのかな。そんな私自身が途方もなく嫌で。誰かに嫌われたくないから、他人の死について真面目ぶっている振りをするなんて、本当に最低」

「ミカちゃん、どうしたの?」
 アヤが不安そうに尋ねてきた。大丈夫、泣いてなんかいない。
 そう言おうと思ったのに、喉の奥が焼けるように痛んで。目頭から溢れるものを必死にこらえることが手一杯だった。

6月13日 午後16時33分

 アヤとの電話を切ってそのままベッドに潜り込んで眠ってしまっていた。
 気が付いた時には台風は通り過ぎていて、外はすっかり晴れ渡っていて、オレンジ色の夕焼け空が辺りを暖かく照らしていた。雨雲1つない、水たまりも輝くオレンジ色。
 しばらく眠ったおかげか、頭痛は大分引いていた。でも心に残る悶々とした気持ちは相変わらず残ったままで。

「結局、私って何がしたいのだろう?」
 解決出来ない問題を1人で解決しようとしている。それでミユキさんの自殺から目を反らしているみたいで。
 まともに彼女の死を直視出来ない私がいる。まだ、どこかで生きているんじゃないかって甘い考え。
 私は一体どうしたらいい? ユカリやミユキさんとは友人なのに、個人間の問題になると友人はたちまち部外者になる。
「友達って、一体何?」
 果たして自分にとって都合のいい人材として片付けてしまって良いのだろうか。
 テレビアニメでは「友情」ってもっと崇高な物に描かれているのに。実際はこのザマだ。
 必要な時に助けてくれない、結局信じられるのは己1人だけ。
「わっけ分かんない」
 高良ミユキの自殺。漏洩した自殺の事実。その自殺を直視しようとしない私。そして高良ユカリに心配すらかけられない「友人」。
 大切な人を失って、虚無感が全身を支配した状態でさらに追い討ちをかけられたのだ。まともに考えを巡らせるというのが無理な話かもしれないが。

 ベッドから起き上がった。本当は期末テストが控えているのだから、今の内にテスト勉強をしておかないといけないんだけれど。
 私はクローゼットから外出用の服を取り出すと、それに着替えた。流石に寝間着のままで外に出るというのは気が引けるから。
 着替えて、外に出る。特に目的なんてない。ただ、この沈んだ気持ちを少しでも改善できるならと思ったから。
「どっか行くの?」
 何も知らない母が呑気な声で私に尋ねてくる。
「散歩」
 短い返答で、しっかりと靴紐を結ぶと玄関の扉を開けて外に一歩出た。
 外は予想通り蒸し暑くて、しかも強い日差しに余計に汗がにじみ出てくる。
 右腕で目の辺りに影を作りながら周りを見回した。一面赤みがかったオレンジ色で染め上げられていて、まるで血をぶちまけたかのようだ。
 アスファルトから伝わる水たまりが蒸発する感覚を我慢しながら、歩き出す。黒いアスファルトに白いスニーカーがペタペタと歩き出している。
 桐野実の自殺と高良ミユキの自殺の時の私の態度の違いといったら。
 桐野実も高良ミユキも同じ命を持っていたというのに、この違いは一体何なのだろうか。
 ……その人物とどれだけ感情を共有したかによって命の価値って変わるんじゃないかって思う。私はミユキさんと友人関係でいたから、彼女の死は酷く辛い。
 でも桐野実とは感情の共有どころか、接点すらないのだから悲しみようがない。
 多分人間ってそういうものなのだと思う。自分に関わりがなければどうでも良いと感じてしまう。
 あまりにも都合が良い。なんか色々と嫌になってしまう。

 しばらく歩き続けていると、駅前の喫茶店へと辿り着いていた。「ハトの巣」、ふざけた名前の喫茶店がミユキさんとの最期の会話だったと思うと何とも言えない。
「……あれ?」
 最期に話してくれた彼女の言葉を思い出せない私がいた。どういう内容だったかというのは大まかに思い出せるのだけれど、細かい部分になると全く思い出せない。
 あまりにも当たり前の日常に浸っていて腑抜けた結果だろうか。当たり前の日常が次もやってくるだろうとタカをくくっていた私だった。
 また明日も明後日もミユキさんは生きていて、いつでも話が出来ると思っていて。でもその「当たり前」は二度と来なかったわけで。
 俯いたままで店の前で立ち尽くしてしまった。どうして彼女の最期の言葉すら思い出せない? そんな不甲斐ない自分が途方もなく嫌いで。

「ミカっち、何やってんの?」
 その時、「ハトの巣」の扉から私を覗き込んでいる姿が見えた。嶋田ユイが若干引き気味で尋ねてくる。
 突然の質問に不意を突かれて思わず辺りを見回してしまった。それが滑稽だったのか、ユイは腹を抱えて爆笑。笑いすぎだ。
「そんな所に立っていないでさ、とりあえず中入りなよ。奢ったりはしないけど」
 ユイは手招きをして私を「ハトの巣」に誘うとすぐに中に引っ込んでしまった。ていうかユイはこの辺りに住んでいなかったはずじゃなかったか?

 空調が効きすぎて少し肌寒さを感じた。でも店内にいる客は全員涼しい顔をしているから、多分慣れてくるのだろう。
「ミカっち、ここだよ!」
 手を上げて大声で自分の居場所を教えてくれた。私はそれに従って近づく。
 ユイは相変わらずパイナップルヘアーと赤縁のメガネを掛けて終始イタズラっぽい笑顔を浮かべている。ユイの座っている席の隣には彼女の物と思われる赤いバッグが置かれていた。
「珍しいね、ユイがここにいるだなんて」
 私は席に着くとメニュー表を眺めて注文する物を決め始めた。と言っても注文するものは大方限られているのだけれど。
 その声に反応したのか、ユイが顔を曇らせながら指をせわしなく組み始めた。
「うん、実はさ。ユカリんのことが心配になって、ちょっと様子を見にきたっていうか」
 はたと動きを止めた。「ユカリんのこと」とはつまり、ミユキさんの自殺についてだろう。昨日からミユキさんの自殺は学校中に広まっているはずだから、ユイが知っているのも当然のこと。
「ユカリんの家に行ってみたんだ。だけれどアイツインターホンにも出なくて。事情を知っているから、出られないのは無理だって何となく分かっていたんだけど。でもやっぱり、じっとしてなんかいられないじゃん」

 ユイはユカリの家に行って、何が出来たというのだろうか。批判とかじゃなくて、本気で気になっているだけ。そんなことは絶対に言わないけれど。
 ユイのそばに置かれているグラスの氷が溶けて、カランという音が響いた。
 無言を貫き通す私達、周りの雑音が妙に響いていた。
「アタシはさ、ユカリんのお姉さんのことを知らないんだ。だからその……悲しむってことは出来ないんだけど、でもユカリの心配は出来るっていうか」
 辿々しい言葉、でも伝えたいことは実にはっきりとしていて。中途半端な私とは大違いで羨ましかった。
 ユイは行動を起こした。それは手遅れかもしれないけれど、何も行動を起こさない私に比べたらずっと立派だ。

「アタシは大切な人とか死んだことがないわけよ。ほら、好きな人とかコロコロ変わるから。でも仮に自分にとって大切な人が死んだって考えてみたら……何も考えられなくなっちゃった」
 ユイは遠い目で窓の外の景色をじっと見ていた。
「そこまで考えてあげられるユイはやっぱり凄いよ。人の気持ちを自分に当てはめて考えているんだもの。それが仮に曲解だったとしても、少なくとも考えたって行動は事実なわけでしょ。見ず知らずの人に対してそんなに思えるなんて立派」
 ユイを見直していた。いつもおちゃらけていて、何も考えていないヤツだと思っていたけれど、他人のために本気になれる。
 でもユイは苦笑いをしながら首を横に振った。
「ちげーよ。そんな大したヤツじゃないって、アタシは。ユカリんとは友達だから、アイツが悩んでいる姿を見たくないっていうか。そもそも、アタシはこんなシリアスな話好きじゃないし」
 それでも、しっかりと他人を考えてあげられるユイが羨ましくて。
 逆に悩んでばかりで何も行動に起こせない自分が情けなく思った。

「ねぇ、ミカっち。私達ってユカリんに何をしてあげられるのかなぁ?」
 それはまるで今日の朝、私がアヤに尋ねたことと同じで。
 私は何も答えることが出来なかった。

6月14日 午前04時58分

 晴れ渡った空、明け方の淡い藍色に染められた大気を見初めながら。
 太陽が完全に昇る前に私の両目は開かれていた。いや、実のところ昨日からずっと眠れずにいたのだ。
 昨日の朝にたっぷり眠ってしまったのが原因なのかもしれないが、もっと奥深く、根幹に潜む原因はやっぱり高良ユカリのことだった。
 これから彼女は一体どうするのだろうとか、彼女がミユキさんの後を追わないだろうかとか、当事者じゃないにも関わらず、ずっと考え続けていた。
 でもその考え続けていた行為はユカリのためじゃないと思う。私自身がストレスに押しつぶされないために、人の「死」から目を反らすには格好の理由だったから。
「本当にクズよね。私って」
 他人のためではなく、自分のために犠牲を払う。今ほど「利己」という言葉が憎らしいと思ったことはなかった。

 ベッドから起き上がって肺一杯に空気を取り込んだ。途端に昨日の記憶も一緒に蘇ってきた。
 嘉川アヤに「ユカリをどうしたいのか?」と聞いて彼女を困らせたら、今度は嶋田ユイ「ユカリをどうしたいのか?」と聞かれて困ってしまった。
 様々な出来事が私の小さい脳みその中で渦巻いていて、まともに整理することもままならずにいた。
 重たい手つきで学校の夏服をクローゼットから取り出すと、素早く着替えた。だけれど、髪を結ぶのを忘れたままで下の階へと降りて行った。
 リビングはやっぱりしんとしていて、梅雨のジメジメした時期だと言うのに、凍りついたような空気が漂っていた。一呼吸でもすれば肺の奥まで凍てついてしまいそうな。
 なるべく足音を殺して玄関まで進んで行く。今は明け方の5時になったばかり、むやみに両親を起こすのは気が引けたからだ。
 靴を履いて、施錠を解いて玄関の扉を開いた。湿気と朝焼けが重なり合って蒸発した水分が視界いっぱいに広がった。
 家の2階から見た時はあまり感じなかったが、薄いモヤが辺りにかかっていて、視界が随分と狭まっていた。
 普段の私ならきっと迷惑がることだろう。しかし今の私にとってはまるで自身の心情を象徴しているみたいで、何だか安心出来てしまう。
 薄いモヤが漂う私の町。覚束ない足取りは相変わらずで、幽霊のように学校に行くまでの道のりを彷徨した。

§

 学校へと到着し、教室の扉の前に着いた。静寂が漂う空間、細長い回廊に心臓の鼓動が1つ轟いた。
 疲弊した精神でも、身体の方は健全で。よく分からないバランス感覚に体の持ち主がどうかしてしまいそうだった。
 何も考えられない頭で、ボロボロに擦り切れた心でここに来る意味って果たしてあるのだろうか? そういうことを考えていたら、中学生の頃の記憶が脳裏を横切った。
 そういえば、あの頃も今みたいな精神状態だった気がする。何も考えられないで、何も感じないで、他人の悪意が含まれた笑いを一点に吸収して。
 心を風船と例えて、他者から受ける言葉を風船に送る空気だとするなら、私の心は既にはちきれそうだった。もっとも、その送られる空気っていうのは喜びだとか嬉しさとは程遠いものなんだけど。
 痛みにも似た何か。教室の中の喧騒が堪らなく恐ろしくて、厚さ1センチ程度の扉が猛獣の檻の入り口にしか見えなくて。

 今の状況も過去の事柄と似ている。たった1枚の扉を隔てた向こう側の空間が、数億枚分の扉があるように思えて。
 たった1歩が、踏み出せずにいる。
 うなだれて、肩を落として、ここに来た意味すら見失って。
「ミカちゃん? 教室の扉の鍵、掛かったままだっけ?」
 声がした。嘉川アヤの声、細長い回廊に彼女のか細い声が響き渡った。
 私は驚いて彼女の声がした方を見る。するとやっぱりそこには嘉川アヤがいて、小走りでこちらまで駆け寄って来た。
「アヤ、何でこんな早い時間に?」
 時刻はまだ6時を回ったばかりだ。普段なら8時30分辺りに来る筈の彼女が今ここにいることが不思議でならなかった。
「私、今日は日直なの。まあ、早い時間に目が覚めちゃったっていうのもあるのだけれどね。待っていて、今開けるから」
 走り寄って来たアヤの髪から漂うシャンプーの香りに酔いしれていた。気を緩めるだけで、寝不足で倒れてしまいそうだったから、我慢して立っていたけれど。
「開いたよ。中に入って」
 アヤの声に従って、私は自分の荷物を持って教室の中へと入って行った。いつもなら喧騒が漂う賑やかなこの場所も、木の匂いと静寂が支配しているだけで他には何もない。

 私は自分の席に着いた。左端の窓側の列。そこからは結構色々な物が見渡せて、私はその場所に満足している。
 高良ユカリの席と嘉川アヤの席は前後で隣同士だからすぐに見つけることが出来る。アヤは自分の席に荷物を置くと、日直の日誌を開いて内容を書き出していた。
「昨日のことなんだけどさ」
 私は小さい声で話したつもりだったのだけれど、辺りが静かだったせいか、予想以上に声が大きく響いてアヤの元まで届いて行った。
 途端にアヤは書き込んでいた日誌から目を離して私の方に向き直った。
「昨日は、その……意地悪なことを聞いちゃってごめん」
 電話で尋ねた「ユカリをどうしたいの?」って言葉。
「そんなに気にしていないよ。それよりも私はミカちゃんの方が心配かも」
 アヤはまったく怒った素振りを見せずに小さく笑ってくれた。それどころか、私の心配までしてくれる。
「ミカちゃんはユカリちゃんが高校で出来た初めての友達があなただってこと知っていた? ユカリちゃん、そういうことを言うのが恥ずかしいと思っているから、本人の前では話をしたりしないんだよね」
「うん、初めて聞いた」
「ユカリちゃんって実はミカちゃんのこと凄く好きなんだよ。恥ずかしいから言わないだけだろうけれど、部活帰りの時はいつもあなたの話をする」
 どれもこれも初めて聞く話ばかりだった。ユカリにとって敬愛に値する人はミユキさんだけだと思っていたから。
「ユカリちゃんの話を聞くとね、ミカちゃんがどれだけ良い人なのかっていうのが分かるんだ。いつも私のために一緒になって本気で考えてくれるって、ユカリちゃん言ってた」
「ち、違う! 私は全然良いヤツなんかじゃなくて、むしろ悪いヤツで! 自分が傷つきたくないから他人の為になることをして、自分が得しようと考えて!」
 アヤのあまりにも的外れな回答に、私はついつい全てを否定してしまった。それと同時に自分の本心までさらけ出してしまったことを酷く後悔。
「だとしてもだよ。人と人の関係って結局ギブアンドテイクだから。見返りのない人付き合いって存在しないと思う。ミカちゃんがそういう風に思っていたとしても、他人のためにとことん考えられる人って素敵だと思うんだ」
 どこか悲しい表情のままでアヤは笑った。こんな私を知ってしまってもいつもと変わらず接するアヤに疑問を抱いてしまった。
「……どうしてそんなことが言えるのよ?」

「ミカちゃんは、『優しさ』ってなんだと思う?」
「優しさ? 思いやりってこと?」
「思いやりか。私はね、優しさって『偽善』だって思っているんだ。例えば食糧難で飢餓者が沢山出ている国に募金をしたとして、それは本当に飢えで苦しんでいる人を助けるためだけに募金したのかな?」
「どういうこと?」
「つまりさ、募金したという事実を誰かに評価されたくて募金した人が多いってこと。人と人との関係はギブアンドテイクなんだよ、それなのに募金なんて自分に全く見返りがないじゃない、大体の人は見返りを飢餓者に求めるんじゃなくて、自分の近くの人に求めるんだと思う。募金という行為を誰かに誉めてもらいたくて」
「……」
「でも、ミカちゃんの場合は自分のやっている行動が『偽善』だと十分に分かっているにも関わらずそれをやるよね。普通の人ならそこまで分かっているならわざわざやらないんじゃないのかな」
「ミカちゃんはユカリちゃんのために必死に考えている。それはミカちゃん自身のためかもしれないけれど、結果はユカリちゃんのためにもなるんだよ。でも根を詰めすぎて自分を責めてしまうのは良くないから」
 一通り話終わったアヤの顔には再び笑みが戻っていた。
 彼女は私が他人の為に必死に考えることが出来る人だと言ったけれど、彼女だってこの話を導き出す為にずっと考えていた筈だ。
 思わず笑いがこみ上げてしまった。

「類は友を呼ぶって言うかさ、似たもの同士だよね」

6月14日 午前08時18分

 私がユカリのことについてとやかく考えても、物事は何も解決には導かないだろう。もしかしたら、それはむしろユカリにとって迷惑なことなのかもしれない。
 だけれど嘉川アヤはそんな私の性格を肯定してくれた。私が他者の「死」から目を反らすために他人の傷心に偽善をチラつかせていることでさえ。
「優しさは『偽善』、か」
 偽善と知りながらも他者に同情する私をアヤは「普通は出来ない」と評価した。でもアヤだって、私という他人のために必死に考えてくれているのだから「普通は出来ない」ことだと思っている。
 ちょっとだけ親近感が湧いた。アヤは以前睡眠薬を過剰に摂取して自殺しようとした。その自殺未遂が私と重なっていてなんだか似た者同士って感じがする。

 すっかり賑わいを取り戻した教室で、私は誰にも聞こえないくらいの小さな声で呟いてみた。
 人と人の関係は所詮「ギブアンドテイク」。その人にどれだけ投資したかによって人の価値は変わってくる。見返りを求める、だから『偽善』を支払う。
 私たちの関係が「ギブアンドテイク」だと言うのならば、私とミユキさんの関係もきっとそれだったに違いない。彼女は私に「優しさ」を投資した、私は彼女に「信頼」を投資した。
 そこに価値が生まれたから。だから彼女の「死」に悲しむことが出来る。桐野実とはそういった関係がないから、悲しむことが出来ない。
 人の関係は考えるだけではこんなにも単純で、でも実行に移すと深い。
「ユカリん今日も学校来ていないよね。これで4日目、か」
 別のクラスであるはずの嶋田ユイがなぜか突っ伏したままの私に話しかけてきた。もうそろそろホームルーム始まるけど、教室に戻らなくていいの?
 ユイもユカリが今どういう状況かを知っている手前、声のトーンはいつもより低めだ。彼女は不安そうな表情で欠席しているユカリの席を見つめている。
「ユカリ自身もさ、きっとどうして良いか分からなくなっているんだと思う。学校に来ても、陰でミユキさんのことを言われるだけだから」
 今、私の学年ではユカリの姉、ミユキさんの自殺で話題沸騰中だ。話題に飢えている高校生、しかも「自殺」なんてワードは彼らにとっておあつらえ向きだろう。
「まさかウチのクラスで自殺が起きるなんてねー」
「クラスメイトの姉、だろ。何聞いているんだよ?」
「どんな理由があったかは知らないけどさ、馬鹿なことするよねぇ」
「自分の周りに悲しむ人がいるって分かっていなかったんだろうね」
「自殺を考えるやつって頭がおかしいんじゃない?」
 少し意識を集中すれば聞こえてくる。あまりにも的外れな生徒の刺激の見せ合いの場。
いや、どちらかといえば情報の見せ合いだろうか。「私はあなた以上にこの自殺について物知りである。だから私は偉い」みたいな。
 他人の死を平然と口走る。彼らにとってミユキさんの死は自分とは関係のないものと考えているのだから当然なのかもしれないが。でも、だからといってクラスメイトの身内が死んだというのに、この騒ぎっぷりは少し異常だと感じてしまった。
 まるで中学生の頃の私をいじめていた子が自殺した時の教室の態度と変わりがない。人の死を一種のイベントとしてしか認識していないような。そんな感じ。
「まったく、こいつら何考えているんだろうね。クラスメイトの身内が死んだっていうのに、まったく配慮がないなんて」
 ユイは眉間にしわを寄せてあからさまに不機嫌な態度を取りながら教室中を見回していた。私やアヤやユイは、ユカリの友達だから。こんなことを言われていていい気分になるはずがない。
 まるでこれは陰口だ。高良ユカリがいない場所で彼女が嫌がる話題で盛り上がっている。あまつさえそれを笑いのネタにしている。
 でも私がそれを咎めることはきっとできないのだろう。なぜなら私たちだって桐野実の時にあれだけ騒いでいたのだから。ここで声を大にしてミユキさんのことで怒るのは簡単だが、それ以降は矛盾が生まれてしまうし、何よりもこの上なく浮いてしまう。
「私たちも人のことは言えないけれどさ、やっぱりこういうのってムカつくよね」
 私も伏し目がちで、小さく毒を吐いた。

 ユカリは果たしてこれからどうするのだろう。敬愛していた姉を失って、その事実が周りに知れ渡ってしまって、まるで陰口のようなことすら言われている。
 彼女がこの教室を見たら果たしてどう思うだろうか? 絶望、ううん。そんな生ぬるいものは持たないと思う。多分、何も感じなくなってしまう。中学生の時の私のように。
 どうかしたいのに、どうにもできない。堂々巡りの考えの中で頭の容量がそろそろ限界を迎えていてパンク寸前。
 何も考えたくないと思っても、何かしら考えてしまう。そんな自分に嫌気が差して再び机に突っ伏そうと思ったら、クラスメイトから声をかけられた。何よ、今はあんた達の話なんて聞きたくないのに。
「神谷さん、3年の秋庭先輩が呼んでいるよ」
 その名前にかすかに覚えがあった。秋庭ナツメ、生徒会会長でありユカリと同じ弓道部の部長でもある人物。
 一体何の用だろうか。でも同時に正体不明の不安もにじみ出てきた。教室の扉から覗く秋庭先輩の顔が、なんとなく怒っているように見えていた。

6月14日 午前08時35分

 その日は曇天の空が辺りをひしめきあっていた。色々な絵の具を溶いて意味の分からない色を生産した、みたいな。
 例年通りでもまだ梅雨は明けないのだろうか。それとも、今年は梅雨の到来が遅かったから明けるのはもっと遅いのだろうか。
 スコールのような雨が降りしきった時もあれば、台風が到来して学校が休みにもなった。だけれど、私は総じて梅雨が嫌いだ。
 窓に映る鈍色の空を見て、そんなことをふと思った。増し続ける頭痛にいら立ちがさらに募っている。どうして最近の私はこんなにもついていないのだろうか。
 目の前には秋庭ナツメ先輩がいた。どういうわけか彼女の眉間にはしわが寄っていて、綺麗な顔立ちだからそれが余計に怖く見えてしまう。
「君が神谷ミカだよな。高良から色々と話を聞いている、何でも相談ができる相手だとな」
 くすんだ壁に体をもたれかけていたナツメ先輩は、私の方に向き直ると凄味のある声音で威圧してきた。
「……あの、それで私に何の用でしょうか?」
 彼女の威圧が私には耐えられなくて、用件だけ聞いてその場からすぐに立ち去りたかった。
 秋庭ナツメは不敵な笑みを浮かべながら私に1歩ゆっくりと近寄ってくる。それに比例して私は1歩後ずさった。
「まあそんなに急ぐな。私が高良と同じ弓道部の部員だということは知っているよな、実はアイツは今年の夏の県大会にレギュラーとして参加することに決まっていたんだ。ところが何やら姉が自殺したという噂が出回って以来、部活で高良を見かけていないんだ」
「そりゃあ、まあ。ショックでしょうからね」
 一体この人は何が言いたいのだろう。遠まわしに何かを聞きたいようだが、いまいち分からない。
 秋庭先輩は人を小ばかにしたような表情で私を見下すとさらに話を続けた。
「だろうな、噂が本当ならな」
 彼女の言葉にピクリと、反応してしまった。なんとなくだけど分かった気がする。それと同時にこの秋庭ナツメがとんでもなくゲスな人間に見えてしまった。
 彼女の遠まわしな言い方が妙に煩わしく思えてきてしまって、ついつい反抗的な態度で話してしまった。
「さっきからなんなんですか、その言い方。言いたいことがあるのならはっきりと言えばいいじゃないですか」
 そう言った途端に、秋庭先輩の目つきが変わった。急にウザったいものを蹴散らすかのような目。さっきの見下した感じはそのままなんだけれど。
「はっきり言って私は高良の姉が死んでいようがいまいが関係ない。ただ、アイツがそれを理由に大会を辞退なんてしたら私が困るのだ」
「……は? 何を言っているんですか」
「聞いた通りだ。高良にどんな理由があれ、私は勝ちたい」
「……つまり、このままだと大会で負けてしまうからユカリを無理矢理でもここに連れてこいってことですか?」
「話が分かるじゃないか。その通りだ」
 こんな奴が生徒会の会長だったなんて驚きだ。ていうかそもそも私は生徒会の内情なんて把握していないのだけれど。
 自己中心的、それでいて目的は実に明快。ますます腹が立つ女だ。第1印象の時からこの女とはウマが合わないとおもっていたのだけれど、まさかここまでなんてね。

 曇天の空に雨粒が1つ落ちるのが見えた。視界の端っこだというのに、どうしてそんな細かいところまで見えてしまうのか。それよりも目の前の秋庭ナツメを何とかしろと自分自身を叱咤する。
 1時間目のチャイムが廊下に鳴り響いた。遠くでクラスメイトが教室に戻り始めていた。私たちの姿には気が付いていないのか、だべりながらのろい動きで行っている。
「申し訳ありませんが、私はユカリを連れてくることができません」
 秋庭ナツメの威圧的な視線に震えながら私ははっきりと答えた。最近、私はどうにも貧乏くじばかり引いている気がする。
「なぜだ? 私の言うことが聞けないというのか」
「聞けません。……先輩は大切な人を亡くした経験ってありますか」
 その言葉に秋庭ナツメは一瞬停止して、露骨に面倒くさそうな顔を浮かべた。この顔を見たとき、どうしてこんな人間が生徒会会長になれたのか不思議で仕方なかった。
「ないよ。それがなんだと言うんだ? 今の話には関係がないだろう」
 どす黒い感情が胸の奥でどんどん膨らんでいく、でもそれは今までの気持ち悪い感覚だけではなく、怒りも孕んでいる。
「ありますよ、ユカリはもっとも敬愛していた姉を失いました。理由も定かでないまま彼女は自殺をしてしまったんです。実の姉を失ってユカリはまともな精神状態ではないでしょう。それなのにあなたは『大会に勝つため』というふざけた理由のためにユカリの傷をさらに広げようとしている」
 言葉にするだけなら簡単だ。でも実情はもっと複雑で、きっと今の私だって十分に理解できていないはずだ。
「……だから何だという。帰宅部のお前には分からないだろうな、大会に出て勝つことは大事なことだよ。いちいち個人の感情にとらわれているわけには」
 秋庭ナツメがそこまで言ったときに、私の中で何かが切れた音がした。途端に何も考えられなくなり、頭の天辺がかぁっと熱くなった。ユカリのことをないがしろにされたことと、ミユキさんの死を侮辱されたことが何よりも許せなかった。
「人の命と自分の欲を天秤にかけんじゃねえっ! ふざけたことヌかすと、そのぺらぺら喋る舌を引っこ抜くぞクソがぁ!」
 いままで内にため込んでいた感情を、ここぞとばかりにぶちまけた。本当はいままでのうっ憤とかも発散してやりたいところだったのだけれど。
 いままでとは違う私の見幕に驚いたのか、さすがの秋庭ナツメも顔を引いて黙りこくってしまった。だけれど、数秒もするとその顔に青筋を浮かべて、急に私の夏服の襟首を掴んできた。
「このっ、クソガキが。黙っていれば偉そうなことを言いやがって、ナメるなよ……」
 殴られる。そう察知して瞼をきつく閉じた瞬間、目の前で水がはじける音がした。
 瞬間、ユイが秋庭ナツメに向かってバケツで汲んできた水をぶっかけていた。しかも床を拭いた後の雑巾を絞った汚水だし。ていうかちょっと私にかかっているんだけれど。

「あ、すいませぇーん。掃除していたらかかっちゃいましたぁー」
 全然悪びれもなく、棒読みで平謝りを繰り返すユイ。しかも空になったバケツを秋庭ナツメの頭に向けて投げた。
「貴様っ! 掃除などと適当なことを言うな、いきなり何をする!」
 さすがに動揺が隠せないのか、さっきよりも声の覇気がない。ていうかこれ結構ウケるな。
「えー、そうじですよぉー。アタシ、頭悪いから罰として先生に掃除をしろって言われたんですぅー」
 超バカっぽい声でユイは吾知らぬ態度を貫いている。うわっ、これマジでムカつく。
「行こーよミカっちぃ。授業始まっちゃうぜぇー」
「待て! このままで済むと思っているのか、私は許していないぞ。お前もだ、神谷ミカ! 高良を連れてくるまで執着するからな!」
 秋庭ナツメは私たちに指をさすと声を張り合あげて言った。でも、汚水を被ったせいか小物臭が半端ない。
 するといままで馬鹿を演じていたユイが秋庭ナツメの方を振り返った。その時の顔はいつもの彼女ではない。不動明王像のような鬼気迫る何かを感じる、これが最近のギャルか。
「てめぇさっきからピーピーうぜぇよ。そんなに喚きてぇならツイッターで呟いてろボケ。『このままで済む』って? 上等だ、てめぇオレのダチを貶しといてこのままで済むと思ってんなよタコ」

6月14日 午前08時52分

「見た、あの馬鹿の顔? マジ笑える!」
 秋庭ナツメから走って逃げてきた私とユイは教室に向かうことなく、階段の踊り場で息を切らして彼女の先ほどの行動を笑っていた。笑っていたのは主にユイの方なのだけど。
「ていうか、教室に戻らなくていいの? もう授業始まっているよ」
 相変わらず息を切らしたまま、秋庭ナツメとともに被った汚水で濡れた制服を絞る。後で臭いが残らなければいいけれど。
 しかしユイはこちらを振り返ると、さっきまでの敵意剥き出し表情とは一変してイタズラっぽい笑顔を浮かべていた。
「今更授業なんてやってられねーよ! どうせセンコーのつまらない話を聞くだけなんだから、バックレようぜ」
 バックレる、要するに授業をさぼるということだ。高校に入ってから授業をさぼったことがない私にとって、ユイの言葉は常軌を逸していた。
「な、何言っているのよ? そんなことがバレたら、怒られるだけじゃすまないのよ」
「あー、はいはい。真面目ちゃんだってたまには規則を破った方がいいぜ? それにミカっち、今日はイメチェンしているじゃん」
 そう言って、私の髪形を指摘してきた。そういえば今日は髪を三つ編みに結んでいない。でもそれは気が回っていなかっただけでイメチェンってわけじゃない。
 そう言い返そうと思っていてもユイはすでに私の腕を取って階下に降りようとしている。踊り場に映る窓の外の景色は相変わらず曇天のままで、もうどうでもよくなってきた私は傘を持ってきていないので雨が降ってきたらどうして帰ろうか、と考えている。

 そのまま否応なしに昇降口まで引っ張って来られた私。すでにユイは下駄箱から自分の靴を取り出して履き替えていた。私と目を合わせると、相変わらずイタズラっぽい笑顔を浮かべていた。うわっ、このパイナップル妙にイラッとする。
「今日はミカっちがいるからねぇ。あんまりハードなことはしないよ」
「何よ、『ハード』って?」
「そりゃもちろん逆ナンからのホテル直行とか、エンコーとか」
 さすがビッチ。考えることが私とは右斜め上に飛んでる。ていうか、さらっとポケットから避妊具を出すな。

§

 軽快な音が響き渡っていた。額から吹き出る汗を雑に拭っている私がいた。再び呼吸を整えて、猛スピードでせまりくるそれにリズムを合わせて、体の芯を地面に根付かせるようにして。
「思い切り……振るっ!」
 再び巻き起こった軽快な音、この響きがなんとなくクセになりそうだ。後から両腕に伝わる痺れも心地よい。
 眼前に映る白球が大きなアーチを描いて、ペンキで塗り固められた観客席に向かって飛んでいく。数秒後に勇ましいファンファーレが私を迎えてくれた。
「3球連続でホームランって、すご……。フォームは滅茶苦茶だけれど」
 フェンスの向こう側で傍観しているユイが私のバッティングで唖然としていた。どうやらホームランって結構すごいらしい。
「ミカっちは昔スポーツとかやっていたの? とても初めてには見えないんだけれど」
「別にやっていないよ。私は昔から『本の虫』って呼ばれていたから……ねっ!」
 次に飛んできた白球をさらに強い力で打ち返した。観客席の方へまた飛んでいく。これで4球連続のホームラン。それにしても、バッティングセンターって初めて行くけれど、結構楽しいじゃない。

 しばらくの時間をバッティングセンターで過ごし、久しぶりにいい汗をかくと私たちは涼風が薫る夕方の空へ出ていた。
 ユイが手渡してくれたオレンジジュースの缶。私はお礼を言ってそれを受け取ると、すぐさまに喉を潤した。しかしユイの手に握られているのは、いつしか私が地雷を踏みに行った「お汁粉サイダー」だ、それどこが美味いの?
「どうよ、こうやって学校をさぼるのも悪くないでしょ?」
「うん、まぁ気晴らしにはなったかな」
 興味がないような素振りをしてみた。本当は楽しかったのだけれど、その表情を悟られてからかわれるのがなんとなく嫌だったからだ。
 でもユイには私の本当の心境がバレていたのか、ニヤニヤと笑っていたと思うと、急に抱き着いてきた。
「もうっ、ミカっちは可愛いなあっ! もっと素直になれよ!」
「ちょっと、暑い……ってかどこ触ってんのよ! くすぐった、アハハ!」
 脇やら腰やらをくすぐられる。くすぐりに耐性があるわけじゃないからユイの行為に抵抗ができずに思わず笑ってしまった。
 夕焼け空に私の高い笑い声とユイのイタズラっぽい笑い声が2つだけ響いていた。真っ赤に染まった世界、スピード規制の看板が夕日を吸収して赤い色を放っている。
 梅雨とは思えないほどに静かに涼まった午後5時。吹き抜ける追い風が道端の雑草を優しく撫でていた。
 こうやって何でもない日常が、わずかでも残っていたことが嬉しかった。様々なことが一度に起こった今年の梅雨、崩壊したと思ってばかりだった日常、いやすでに日常は崩壊していて残った破片が今のやりとりなんじゃないかって。
 それでも、いままでみたいに友達の声を聞けて、馬鹿な話で笑うことができて、相手の悩みに耳を傾ける、そんな日常が残っていたのが何となく嬉しい。
 そうやっていつまでも、こんな日常が続いてほしいって、たった1週間ほどで何度願ったことか。
 その時だった。何気ない日常を噛みしめて酔いしれていた。だけれど突風とともにその酔いは覚めて。
「あれ、ユカリん?」
 交差点の向こう側に、顔に影を落としたままの高良ユカリが亡霊のように立ち尽くしていた。

6月14日 午後17時13分

 その日の夕刻はまるで血を浴びたかのように真っ赤に染めあがっていた。道路脇に立ち並ぶポプラ並木も、花壇に咲き並ぶ紫陽花も、皆みんな。
 さっきまでの涼風は一体どこへ消えたのだろう。湿気を帯びた蒸し暑い大気、死に絶えた空気の淀みが世界を支配していた。
 アスファルトに反射する「赤」。地の果てから呼び出されたような景観、音すら食い殺された交差点。夕焼けの赤に負けないばかりに、信号機の赤色も目立って見えた。
 焼け焦げた灰色の雲、見た目の悪い赤い空を見てなんとなく予測する。これから、とんでもなく悪いことが起きるのではないのか、と。
 私とユイの前方10メートル先には見覚えのある姿が見えていた。白と黒の規則正しい横断歩道の向こう側に、たった1人でポツンと。
 久々に見る高良ユカリは私の想像を越えるほどに豹変を施していた。赤い世界でも分かるくらいの青ざめた顔、染めたばかりの茶髪は夕焼けに照らされてさらに色濃くなっていた。普段は身なりに気を付けているユカリ、それは今は亡き姉のミユキさんの真似だったのだと今になって分かる。
 顔全体にかかった暗い影、その中の表情はおよそ読み取れなくて、でも影の中で気持ち悪く光る淀んだ2つの眼光だけは確かに見えていた。
「……ユカリ、だよね?」
 今までにない彼女の姿を私は信じることができなかった。だからユイに聞いた、答えは明瞭なのにも関わらずだ。
「ユカリん、何でこんな所に」
 さっきまでの元気だったユイとは打って変わって、か細く頼りない声だけが私の左側から聞こえてきた。
 どうして、何で。そんなことばかり考えていたら遠くから大型トラックの音。音が大分大きいことから、おそらくここに向かっていてこの交差点を横切るのだろう。
 するとその時だった。信号機は相変わらず赤色のままだというのに、前方にたたずんでいた高良ユカリが覚束ない足取りで横断歩道の1歩を踏み出したのだ。
 初めに思ったことは意味が分からなかった。大型トラックが今にも横断歩道を横切ろうとしている、信号はいまだに赤色だというのにどうしてそこを渡ろうとしているのか。そしてようやくユカリの行動の意味を理解した。瞬間に脳髄は思考を停止、私は反射的に横断歩道に向かって走り出していた。
「ミカっち、危ない!」
 ユイが叫んで私の腕を取ろうとした。だけれどそれにはわずかに及ばず、私は彼女の射程範囲外に飛び出していたのだった。私はといえば何も考えていない、ただこのままだと目の前の友人が轢き殺されてしまうから、それを防ぐために必死になっていた。
 走り出し、大股で地を踏む1歩がやけに時間が掛かっているように感じた。もっと早く動けよ、そうじゃないとユカリが助けられないだろ。
 間髪入れずに左から聞こえる耳をつんざくクラクション、あまりの音の大きさに耳小骨が砕けた錯覚に陥りバランス感覚を失った。よろめき、2本の足で立つことすらままならない、ましてや今の私の状態は全速力で走っている。まるでつまずくように前かがみになっていた。
 1メートルも距離がないユカリと私。でも私は前かがみに転ぶ寸前になっていて自由な動きが取れない。こうなったら、と前かがみに転んだ状態から両腕を大きく前に広げてユカリを思い切り突き飛ばした。どうやらユカリはトラックが通過する範囲外まで突き飛ばされたようでおそらく轢き殺されることはなくなっただろう。
 だけれど3メートルも距離のない私とトラック、ブレーキをかけたようだけれど減速する傾向は見られないし。血の気が引くと同時に諦めの念も生まれてきた。
 ああ、私はここで死ぬんだなって。

 目をつぶって、壮絶な痛みが全身を走ることに恐怖した。それとも痛みを感じる間もなく無残な死骸が転がることになるのだろうか。
 だが私の予想に反して、いつまでたっても死は訪れない。いやもしかしたらもうすでに死んでいるのかもしれない。でも目を開けると現実の真っ赤な交差点が広がっている。
 トラックの運転手がガチギレの表情で私に迫ってくる。うわ、マジで怖い。
「てめぇ、轢き殺されたいのか! さっさとそこどきやがれ、時間に間に合わなくなるだろうが!」
 私は怒られたことよりも、まだ自分が生きていることに若干の不思議さを感じながら横断歩道を渡った。
 大型トラックは過ぎ去り、再び不気味な静けさが訪れた。それとともにユイが反対側の歩道から走ってやってくる。
「何考えているんだよお前ら、死ぬつもりだったのか!?」
 あ、やばいこれガチのユイだ。秋庭ナツメの時とあんまり変わってない。
 私はすぐさまユイに謝ろうとした。その時、今までずっと沈黙を通してきたユカリが小さな声でボソボソとつぶやいていた。
「……お姉ちゃん、どこに行ったの、もう夕飯だよ。帰ってきてよ、私のことで何か怒っているの? ねえ、お姉ちゃん。……どこ、どこにいるの?」
 聞こえた言葉はあまりにも哀れで。一体どうしたらよいのだろうか。今のユカリに私たちの姿はきっと見えていない、見えているのは姉の姿をした幻なのだろう。
 今までの私たちはあまりに軽率だった。自分たちの尺度でしか高良ユカリを測っていなかったんだ。「彼女は今は傷ついている、でも時間が経てばそれもなんとかなるだろう」と心のどこかで期待を寄せていた。でも現実はかけ離れていて。
 私とユイは何も言えなくなった。彼女を励ます言葉も、ましてや彼女を怒る言葉も見つからない。今起こっている出来事が、出口のない袋小路だとようやく理解していた。

6月14日 午後17時59分

 私とユイ、ユカリは駅前の喫茶店で無言のまま席に着いていた。いつもは騒がしいと思う喧噪が今はありがたかった。私たち3者の間に漂う並々ならぬ気まずさが少しでも紛れるからだ。
 ユカリは先ほど会った時から小さな声でミユキさんのことを呟いている。「お姉ちゃん、どこにいるの?」その言葉があまりにも痛々しくて耳を塞ぎたくなってしまった。一方でユイは若干イラついた態度で貧乏ゆすりをして自分が注文した品を待ちわびている。そして私はユカリにかける言葉が見当たらずにずっとうつむいていた。
 天井にぶら下がっているプロペラがのろくカラカラと回っていた。暖かい光が店全体を薄暗く照らし出している、普段ならこの景色を見ても何も思わないだろう。
「お待たせいたしました。コーヒーとチョコレートケーキでございます」
 間もなくしてウエイトレスが運んできた品はユイが注文していたもの。ユイは鋭い目つきをそのままにしてウエイトレスをにらみつける。
「遅いっすよ」
 八つ当たりにもほどがある。でもそんなことを言う勇気は私にはなくて、ウエイトレスがひたすら謝る姿をただ見つめるばかりだ。

 そしてまたしても店の出入り口から1人の客が入ってくる。先ほどユイの八つ当たりを受けたウエイトレスが小走りでパタパタと出入り口まで向かっていった。そしてお決まりの「1名様ですか?」っていうセリフ。
 だけれど客の方の声には聞き覚えがあった。はっとして私は出入り口の方を見つめる。するとそこには長い黒髪を携えた和人形のような姿をした女子高生、嘉川アヤの姿があった。
 やっと来たかっていう待ちわびた念と、ほっとした安堵の念が入り混じっていた。ようやくこれで全員がそろって話ができるからだ。
「ミカちゃん、ユイちゃん。ごめんね、待ったかな?」
「悪いねアヤ、私たちが学校をさぼったのに私たちの荷物まで持ってきてもらっちゃって」
「いいよ。ところで、ユカリちゃんのことについてで集まったんだよね」
 アヤは恐るおそる私たちの席を覗き込んだ。そこには彼女の予想に反した高良ユカリの姿。虚を突かれたようにアヤは唖然とした表情で一言も言葉を発さずに空いていた席に着いた。

 しばらく沈黙が続いた。しかしその沈黙を破ったのはユイの一言だった。
「ユカリんさぁ、家に帰ってないんだってな。昨日からずっと町をぶらぶらしていたってわけ?」
 あからさまに機嫌の悪い声で、ユカリを威圧している。ユイはユカリのこんな姿を見たくないのだろう。事情は知っているが、こんなに変わり果てた高良ユカリを高良ユカリだと認識したくないのだと思う。
「違う、家出じゃない。お姉ちゃんをさがしているの……」
 でも土気色な顔色のユカリはもっぱらまともな反応を返してくれなくて。小さな声はユイに向けられたものではなくて独り言だった。
「ユカリ、ミユキさんはもう……いないんだよ」
 我慢ができなくなって私が言葉を紡いだ。その言葉を紡ぐことがどれだけ重たいことなのかも深く考えずに。それでもやっぱりユカリは首を横に振って否定した、まるで幼稚園児だ。
「違う、お姉ちゃんは私の前からいなくなったりしない。私が困っているときにお姉ちゃんがいつも助けてくれた。今はお姉ちゃんが困っているから、私が助ける番なんだ」
 気が付いた。ユカリの瞳から涙があふれていた。眉をひそめて、震える声で。抑圧しきれない握りこぶしは小刻みに震えていた。
「ミカちゃん、もうやめよう。こんなの、ツラすぎるよ」
 アヤまで辛そうな声で、ユカリの両肩をそっと抱くと自分の体に寄せた。ユカリはそのことに抵抗しないで、まるで子どものように大きな声で泣き出した。
 私たちは周りの客の視線すら気にならなくなった。ただ目の前にいる気丈にふるまっていた少女の泣き崩れる姿があまりにも気の毒で。どうしようもない事態をただ深く掘り下げているだけ、なんの意味も生産性もない行為にうんざりする。
「お姉ちゃんを探さないと、お姉ちゃんを」
 それでもユカリはひたすらにそのことに執着する。実の姉の死から目を背けることが、今の彼女にとって唯一の精神安定剤なのだろう。でもそれは幻想でしかなくて、いずれはいやでも目が覚める。そうなったときにショックは軽い方がいいに決まっている、ならば早い段階で真実を理解してもらわないと。

「実はね、ミユキさんが亡くなる日に私宛のメールが届いたの。これなんだけれど」
 そういって私は携帯を開いてミユキさんからの最期のメールをユカリに見せた。
『今日は私の話を聞いてくれてありがとう。嬉しかった。さようなら』
「このメールをもらう数時間前にね、私はミユキさんと会って話をしたの。その時はミユキさんが、その……死ぬなんて思っても見なかったから」
 淡々と、説明口調になってしまう自分が情けない。どうして他人の死に介入できないのだろうか、自分の性格を呪った。
 ユカリは私の携帯を手に取って文面を眺めていた。先ほどの涙の痕がまだくっきりと残っている。彼女は一体どれだけの絶望や悲しみを抱えてきたのだろうか。こんな小さな体で、折れそうな細い腕で、いったいどれだけの大きな死を。
 やっぱり私には何も言えない、彼女を励ます言葉はどう頑張っても思いつかなかった。私にはこうやって事実を淡々と話すことしかきっとできないのだろう。
「ミカは、お姉ちゃんと会ったの? どうして?」
 ぼそっと呟いたユカリ、その言葉を聞き取るのも正直言って一苦労だ。
「その日の朝にね、ミユキさんから電話があったの。実はその前の日にミユキさんを傷つけてしまって、そのことを謝るためにもミユキさんからの電話は都合がよかった」
 はっきりと思い出せる。『あなたに理解されるほど、私は底の浅い人間じゃないの』って言葉。あれは結局、どうして言ったのかは分からないけれど。

「……どうして?」
 しかし、ユカリの言葉は私が予想していたそれとは大きく違っていて。
「えっ?」
「どうしてミカはお姉ちゃんと会ったのに、お姉ちゃんを止めてくれなかったの? ミカは私よりもお姉ちゃんの近くにいたってことだよね? なのに、どうしてお姉ちゃんを止めてくれなかったの?」
 ユカリの声には怒気があった。わなわなと震える口調、さっきの口調とはどこか違っていた。私を含む周りが「意味が分からない」といった表情を浮かべて困惑する。確かに、ユカリの言葉は意味が分からなかった。
「あんた何を言って……」
 ユイが質問しようとした瞬間、その声はユカリのさらに大きな声で遮られた。さっきの泣き声とは豹変してこの怒り様。でも私はこの展開に何となく記憶がある。
 ミユキさんを怒らせたときと同じだ。
「ミカはお姉ちゃんを助けられたのに、どうして助けてくれなかったの!? お姉ちゃんがあの時どういった状況なのかは教えていたよね! なのにどうして……どうしてたすけてくれなかったのよぉ!」
「ユカリ、それはね……」
 弁明なんて無駄だって私が一番よく分かっているはずなのに、でも嫌われたくないという一心でひたすら保身に走った。
「何で何で何で何で!? 何でお姉ちゃんが死ななくちゃいけないの、どうして助けてくれなかったの?」
「……」

「お姉ちゃんの代わりに、あんたが死んじゃえばよかったんだ!」
「……っ!」
 その言葉に、すべてが裏切られた気がした。もう何も考えたくなかった。高良ユカリも、高良ミユキも、嘉川アヤも、嶋田ユイも。
 もう、どうでもいい。

 瞬間に、何かがはじける音。ユイがユカリの頬を思い切りはたいていた。
「てめぇいい加減にしろよ。ミカがどういう気持ちでてめぇに話をしたのか考えて言ってんのか!? ウジウジするのもそりゃ仕方ないさ、だけどさ! こんなにてめぇのために悩んでいる奴に向かって『死ねばいい』だと? ふざけんじゃねえぞ!」
 ユイがテーブルを蹴り飛ばした、テーブルの上に置いてあったものが宙を舞って地面に鋭い音を残しながら落下してい行く。それでもユイは止まらずにユカリの襟首を掴んで上下にゆすっていた。
「やめなよ! ユカリちゃんが泣いている!」
 アヤがユイの腕を掴んで必死に止めようとするが、非力になアヤにはまったくの無意味だった。
「るせぇっ! こいつの根性を叩き直さねえといけないんだ!」
 アヤを弾き飛ばす。アヤが向かい側の空席に激突して安っぽいテーブルが簡単に折れて、アヤはそれを巻き込んで地面に這いつくばった。でも、私はそれを見ていることしかしなくて。
 もう、どうでもよかった。これからユカリがどうなろうが、アヤが泣き叫ぼうが。私には何も関係ない。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん……助け」
 ユカリは涙で顔をぐしゃぐしゃにゆがめて、それでも存在しない姉に助けを懇願していた。
「こいつ……まだ言いやがるのか!? どこまで人間腐っているんだ!」
 鈍い音、骨にまで響く音が店中に広まった。周りの客は喚いていて、店のスタッフはユイの行動を羽交い絞めで動きを止め始めていた。
「ちくしょう! はなせ、こいつをぶん殴らなきゃ気が済まねえんだ!」

 壊れた友情、ばらばらになった私たち、死んだ関係はもとに戻らない。
 私たちの行動は見事に学校側に通達されて、私たちは1週間の停学処分を受けることになったのだった。

6月21日 午前08時00分

 あの日から私は1人になった。それは精神的に1人って意味、いや元々最初から1人だったのかもしれないのだけれど。
 喫茶店でのケンカ、私たち4人は停学処分を受けて1週間自宅に軟禁されるハメになってしまっていた。きっとこれは誰もが望んだわけではない必然の結果。
 高良ユカリに、友達に「死ね」と言われた。冗談じゃなく、彼女の本心からの言葉は氷柱で喉を串刺しにされた気分だ。痛いし、苦しいし、冷たいし、憎い。
 中学生の頃はクラスメイトにいじめられて他人を信用することができなくなった。高校生になって初めて声をかけてくれた子が高良ユカリ。私は彼女によって中学時代の傷をなくせるのだと信じていた。実際に少しずつだけれど人と話せるようになったし、笑えるようにもなってきた。私は1人じゃないんだって強く信じることができるようになっていた。
 だけれどそれはやっぱり幻想で、何ていうか人間ってやっぱり1人なのだと思う。信じられるのは我が身だけ、頼れるのは自分自身。友達っていう曖昧な存在によって「孤独」の肉体に「嘘」っていう鎧をまとわせただけで、本当に情けなくなる。
 もう誰も信じない、誰にも私を晒さない。それだけで私は傷ついてしまうから。高良ユカリには助けられた部分もあるけれど、傷つけられた部分だって多い。それらを天秤に掛けて測ってみたら、おそらく傷つけられた部分の方が勝ってしまうのだと思う。
 あなたに救われる「私」と殺される「私」がいる。
「……学校、行かないと」
 今日でようやく停学の期間が終わる。これ以上学校を休むことは成績に関わってしまうだろう。どんなに気が重くても行かなければならない。
 大きなため息を吐いた。一緒に私の魂まで吐き出せればいいって何度も思っていた。
 どうせ学校に行ったって誰とも話すわけでもない、数時間だけ沢山の人間が収納されている教室で授業を受けて帰るだけ。そんな簡単なことなのに、ひどく億劫に思えてしまう。
 すべての関係が終わった私に残った感情は、怠惰だけだった。

§

 1週間ぶりの学校、相変わらず何も変わっていなくて、でも唯一変わっている点としてはミユキさんの自殺がネタ切れになったということだろう。だからクラスメイトはもう誰も自殺についての話なんかしていない。それが当たり前だと思うのだけれど、なんとなくいら立ちも覚える。
 私は釈然としない態度で自分の席を探してそこに座ろうとする。
「……え?」
 同時に思考が停止した。だってそこにはおよそ私の席とは思えない様子に豹変していたからだ。この数週間で意味の分からない体験は何度もしてきたが、これほどの衝撃はいまだになかった。だってそれはまるで中学生の頃の再現。
『ションベンメガネのクソビッチは死にましたー』
 光沢を放つ木の机の表面に、真っ黒い油性ペンで確かにそう書かれていた。机の中に詰め込まれた生ごみは異臭を放っていて嘔吐感が催されてしまう。
 途端に、私は周りの視線が急に気になってしまった。まるで私の目が周りに害を与えているんじゃないかと思ってしまう。途端に、私は周りの存在が急に気になってしまった。まるで私の存在が周りに害を与えているんじゃないかと思ってしまう。そして途端に、私は心臓をえぐり取られた気分に陥った。
 ぴたりと止んだ喧騒、誰もが白い目をして私を見ている気がした。一体どうして? 何か私が悪いことをしたとでもいうのだろうか?
 また私が貧乏くじを引く、この場合は「視線」という貧乏くじを。何で私が、何でだよ。
 視界がぐるぐるとまわりだして急に狭まった。耳鳴りがうるさい。それにこの吐き気に私はもう耐えられそうになかった。
 急いで教室を飛び出した。もうこの学校に私の居場所はないのだと理解しながら。走る、喉の奥までもうすでに胃液が逆流し始めている。
 狭く細長い廊下、窓に映る景色はやはり鈍色の分厚い雲だけだった。じめじめとした大気に体中が拒絶反応を起こして、筋肉が痙攣を始める過呼吸になりだし、こうなってしまえば動くことすらままならない。
 一体、私がいなかった1週間で何が起こったのだろうか。どうして私がこんな目に遭わなければならないのだろうか。
 助けを求めたくても、私に仲間は存在しない。声を上げて泣き叫んでも、その叫びは誰にも届かない。世界のすべてが私の敵、そんな感覚に陥っていた。

 ようやくたどり着いた女子トイレ。私は荒い息を切らしながら個室へと駆け込んだ。すでに口はすっかり麻痺していて涎が出ることを止められずにいる。全身に走る電流に必死で耐えながら、私は倒れるように個室の中に入っていった。
「う、げぇぇえおおおぉぉぁぁ」
 今朝食べてきたものがすべて便器の中に吸い込まれていく。白米に卵焼き、それにキャベツの千切りまで。胃液で若干溶けてはいるが、まだ原型をとどめたものも沢山残っていた。
 吐瀉物が水の張った便器の中に落ちていって、汚らしい水の音が聞こえてくる。跳ね返る生暖かい水温が私の頬にかかり、気持ちが悪い。
「何で……どうしてよ」
 口からは胃液を、鼻からは鼻水を、目からは涙を流しながら誰も答えてくれることのない問いを発した。
 どうして今になっていじめられるのか、意味が分からなかった。私はミユキさんの死と高良ユカリについてしか最近は関わっていなかったはずな……え?
「ユカリにしか関わっていない……?」
 1週間前のことを思い出す、1時間目が始まる前の朝に私はある人物と出会っていた。その人物は高良ユカリが連日休んでいることに疑問を抱いていて、私に「高良ユカリを連れてこい」と言った人物。
 その人物は結局嶋田ユイによって撃退されてしまったのだけれど、彼女が最後に言ったことを私は少しだけ思い出した。
『このままですむと思うなよ』
 考えにくいけれど、でもやっぱりそれしか考えられない。
「秋庭ナツメ……?」
 あの異常な執着心、そして目的のためなら何でもしようとする考えならば、やりかねないかもしれない。高良ユカリが一向に学校に姿を見せないから、一番の友人である私にむりやりでもユカリが来るように言わせようとしているのならば……。
 私をいじめの対象にさせて、音をあげるまでなぶって、ユカリに「学校に来い」と言わせるための行動だとしたならば、このいきなり始まったいじめだって辻褄があってしまう。
 その時だった、個室の外側から数人の女子の声。黄色い声を巻き上げて。
「エンコー女のビッチさん。そんなところに隠れているんじゃねーよっと!」
 頭上から、水。間髪入れずに全身が水によってずぶ濡れになってしまった。しかもこの水、臭いし。
「授業バックレたときにさー、あんた繁華街に行ってオヤジ捕まえてエンコーしていたんだって? どうでしたか、セックスしまくってやりマンになった気分はさぁ!」
 今度は生ごみ。漂う異臭にまたしても嘔吐感がぶり返してくる。
 彼女らが私に特別な恨みを持っているわけではない、ただ誤情報では私が第3者から見たら「絶対悪」だとはっきりしているから、良いストレス発散の材料として私をいじめているのだろう。中学生のときと何も変わらない。
 何度事実を否定してもそれが彼女らにとっての真実となっている。悲しくもどこか妥協している私がいた。

 個室の扉を思い切り蹴られた。響き渡る轟音に必死に耐えている自分があまりにも情けなくて。
 敬愛していた人は死に、友人には裏切られ、赤の他人には暴力を振るわれている。
 死にたいと思った。いや死んでしまおうとすら。
 望んでも手に入らなかった日常、嫌でも顔を覗かせる非日常。一体私ってなんなのだろう、何のために今ここに存在しているのだろう。
 自問自答なんて虚しく、ただただ目の前の行為に身を丸めてうずくまっているだけ。

6月21日 午前11時59分

 曇天の空に雨の束が降り注いでから一体どれだけの時間が過ぎたのだろうか。そんな寒々しい空の下で傘も差さずに私はとぼとぼと帰路を歩いていた。
 時刻は昼の正午をちょうど過ぎた程度。当たり前だけれどこの時間帯は本来授業に参加しているべきなのだ。にも関わらず私は自宅まで帰ろうとしていた。
 つまり無断欠席、停学を食らった直後に起こした不祥事。今度はどんな罰を与えられるのだろうか。
「どうでもいいけどさ」
 私の周りには何もなくなった。私を守ってくれる人や、助けてくれる人、励ましてくれる人も皆いなくなってしまった。おまけに今の私はクラスメイトに虐げられている。例えるのなら、守備力0の城に籠城したのだけれど、周りは敵に囲まれていて兵糧攻めを受けている感じ。
 こんなでは孤軍奮闘にもなりえない、ただ弱者が無駄にもがいて周りから攻撃を受けないように必死に媚を売っているだけ。
 馬鹿らしい。私はこんなことをするためにここに来ているんじゃない。周りからの虐げに耐えられない、少しのことで中学時代の出来事がフラッシュバックしてしまう。
 こみ上げる嘔吐を抑えることが出来なかった。これから毎日私の身の回りであんなことが起こると想像するだけでぞっとしてしまう。
「この前は桐野実の自殺で、次はミユキさんの自殺、そして今度は自分自身の心配とは……我ながら忙しい生活だよな」
 嘲笑。今の私にはそれくらいしかできないから。道化を演じる技能もなければ、孤独を耐えきる精神力もない。
 そんな中途半端な自分がいつも嫌いだ。もし「自分」という他人がいたのならば、容赦なく殴り倒しているところだろう。小さな握りこぶしに力を入れてみても、タカが知れているけれど。
「どうしてこんなことになっちゃったんだろう?」
 本当に疑問に思う、悲劇のヒロインを気取るつもりはないけれど、この仕打ちはあまりにも残酷だと思う。神様がいるのかいないのか……いたら神様ってすごい性格の悪いヤツなんだと思う。なんでそんなヤツが崇められているのか甚だ疑問。
 降りしきる雨粒、それを気にも留めずに私は歩みを進めていた。すべての音が雨によって食い殺されていて、聞こえるのは水分をたっぷりと含んだスニーカーの足音と自分の心臓の鼓動だけ。
 足の裏に伝わる気持ち悪い感触、家に帰ったら足にぴったりと張り付いた靴下を脱ぐのが大変なのだろうな。

 そんなことを考えながら。難しいことを考えないようにするために余計なことを考えていた。そのとき、ポケットから伝わる振動に無理矢理でも現実に引き戻されていた。
 携帯には着信が一件、電話の通話者は嘉川アヤからだった。今更何の用なのだろう? そう思いながらしぶしぶ電話に出てみた。
「ミカちゃん、今どこにいるの? 急に教室からいなくなっちゃって、カバンまでなくなっているのだもの」
 アヤは果たして1週間前の出来事をどう思っているのだろう。狂乱したユイに投げ飛ばされて、額を大きく切ってしまったらしい。今日見たアヤの姿は額に包帯をぐるぐる巻いていた。あんなことをされて、まだ「ユイちゃんは悪くない」などと言えるのだろうか?
「別に、あんなところ……もう行っても意味がないって判断しただけだから」
 何もかもどうでもよかった。どうでもよかったついでにアヤを困らせてみよう。
「アヤ、私ね。あの学校を辞めようと思うんだ」
「な、何で!? 急に始まったいじめが原因?」
「それもあるけれど、ちょっと人との付き合いに疲れたっていうかさぁ……なんかもう、どうでもよくなっちゃったんだよね」
 理由なんてもとからなかった。どうでもいい原因にはどうでもいい理由しか付きまとわない。だから受け答えだってどうでもいい。
 てっきりアヤは怒り狂うのかと思った。「人付き合いに疲れた」と言ったことに今回のユカリの件のせいだと分からせるためだったから。それは言い換えれば絶縁宣言なのだから、怒らない方がおかしい。
 だけれどアヤは怒り狂うことなく受話器の向こう側でしゃくり声をあげて泣いていたのだ。
「なんでよ。私たち、友達でしょう? 友達なのに、私ってミカちゃんにとって疲れる存在なの?」
「……」
 なにも言えなくなった。同時に自分はどうしようもないことをしてしまったのだと理解した。こんな愚か者のために涙を流してくれるアヤはあまりにも慈悲深くて。それでも謝罪の言葉が出ない自分が情けなかった。
「……私、ユカリちゃんに学校に来るように言うよ。聞いたんだ、何でミカちゃんがいじめられるようになったのか」
 それは秋庭ナツメが原因。私がいつまでたってもユカリを学校に来させないから、こうやって無理矢理なことをして私の口からユカリに学校に来いと言わせるための行動。
 だかれど、それだけは何としてもさせたくなかった。すべてがどうでもよくなった今では関係のないことなのに、なぜだかそのことに関しては妥協ができなかったというか。
 ここでユカリに「学校に来い」ということは簡単だ、だけれどそれは本当にユカリのためになるのだろうか。答えは、否。むしろユカリの心の傷をさらに広げるだけだろう。
 それだけはなんとしてもさせたくない、意固地と言えば聞こえが悪いが、それだけ譲れない私が確かに存在している。
「だ、ダメ! そんなことはしないで」
「どうして? このままじゃミカちゃんがどんどんひどい目に遭っちゃうんだよ!?」
 違う、仮にユカリが学校に来たとしても、私のいじめが収束するとは思えない。どんどんひどい目に遭うのが当たり前なのだ、アヤはそこを理解していない。
 でもこのままではいずれはアヤがユカリに学校に来いと言ってしまうかもしれない。なんとしても、それだけは……。
「……はっ! さ、さっきから聞いていれば何様よ。気安く友達気取ってんじゃないわよ」
 アヤが本当に私を助けるためにユカリに学校が来るように言うのならば、私がアヤに嫌われればいい。適当な暴言を吐いて、絶交してしまえばユカリを呼ぶ必要はなくなる。いちいち考えている時間はもうない、やらなくては。
「な、何を言って……」
「うるせえよ、少し下手にでてみればいい気になりやがって。あんたなんて最初から友達じゃねえんだよ、白骨系女子が」
「……」
「薬中になりかけて自殺しようとしたヤツが語っちゃってるんじゃねえよ、それともこうやって偽善を振りまいて点数稼ぎってわけ……あっ」
 気が付いたときには通話は切れていた。それがどういう意味なのかはどんな馬鹿にだってわかる。
 壊れた絆は元に戻すことが出来ない。これほどみじめな気分になったことはない。
 いくら罪を償おうとしても、もう遅い。それでもどうしても呟いてしまう。
「……ごめん」
 雨の音に咀嚼されて、その言葉は誰にも届かない。

6月22日 午前04時13分

 夜も大分更けてきた。イヤホンから流れる好きなアーティストの声を聞き流して、虚ろな瞳で窓の外を眺めている。
 窓に叩き付ける雨水、外は豪雨でおまけに雷まで轟いている。天気予報ではまた新しい台風が接近しているのだとか、これでは明日の学校も休校になるかも分からない。
「なんて……どうでもいいんだけれどさ」
 退廃した日常は今私の目の前に映っているものそのものだった。世界の滅亡っていうと、草木は枯れ果てて、空気は腐り、水は汚れきっているってイメージだけれど、実際は違った。何も変わらない、でも確実に何かが違う日常が視覚化できない状態で眼前に広がるのだ。退廃した私の日常とは、すなわち個人の世界の崩壊だから。
 人が死んで、友情が壊れて、他人に虐げられて、それでも当たり前のように時間は動いている。こういうのを見せられると、自分を中心に世界が回っているわけじゃないってつくづく感じさせられる。
 今日の昼間、厳密には昨日の昼間だけれど、アヤに絶交宣言を告げてきた。我ながら何て馬鹿なことをしたのだろうって今更後悔している。慌てていて、色んなことに手いっぱいだったから、まともな考えが浮かばなかったのも事実だけれど。
 アヤは私を助けるためにユカリを学校に登校させようとした。だけれど、もうそれだけじゃすべては解決しないんだよ。解決するにはあまりにも遅すぎた、もう何も元には戻せない。
 涙はあふれなかった。1週間前のユカリに言われたことばがあまりにもショックだったのか、泣くこともできずにいる。本当は涙を流せば少しはすっきりするのかもしれないけれど、泣けなくなった精神に募る感情は悲しみばかり。
 どうしてこんなになってしまったのだろうか。きっと誰も悪くないのだろうけれど、妥協できずにいる。2週間前の私は、こんなに疲弊していなかったはずなのにどうしてこんなにも変わり果ててしまったのだろう。
 今では好きだったアーティストの曲も、ただの雑音にしか聴こえない。「無意味な言葉を綴って、何満足しちゃってるの?」って言ってやりたい。
 その時、部屋を一瞬だけまばゆい光が通り抜けて行った。瞬間に何回も点滅して、すると間髪入れずに轟音が鳴り響く。近くに雷が落ちたんじゃないかな、このあたりに避雷針は少ないから。
 壁掛け時計の時を刻む音が、雨の音にかき消されながらも僅かに響いていた。私は携帯音楽機の電源を切ると、目を閉じてそれらの自然音にそっと耳を傾けてみた。
 雨の音、雷の音、時計の秒針の音、布がこすれる音、私の呼吸する音。いろいろな音が混ざり合って、なんだか心地よくなってきた。気分が落ち着ける。

「……ユカリはどうしているのだろう、まだミユキさんのことを探して町の中を徘徊しているのだろうか」
 1週間が経過した今でも鮮明に思い出せる。私の前であんなに疲れ果てて泣き叫んでいたユカリを見たのはあれが初めてだ。いつもは気丈にふるまって、どちらかというと皆の悩みを聞いてあげたりしていた彼女が、決壊した。
 心の支柱となっていた姉が死んで、自分でどうしたらいいのか分からないのかもしれない。
 焼付いたユカリの声、「お姉ちゃんどこへ行ったの?」って声がいくらかき消そうと努力しても消えずに頭の中に残っている。
「私は、どうしたらいいのだろう。友達って一体何なのだろう」
 ここ最近、独り言をつぶやく回数が増えてきている気がする。それだけ心が困窮してきている証拠だろうか。
「何しているんだか」
 本当に、何をしているのだろう?

 暗闇の中で小さな淡い光が灯った。青色の光、それは携帯の着信が届いたことを知らせるメッセージだ。携帯をサイレントモードにして、バイブレーションで震えさせないように設定した。もうあまり液晶画面を覗きたくなかったからだ。
 でも見えてしまったものは仕方がない。重い足取りで携帯を取り、画面を確認すると、1通のメールが届いていた。一体誰だろうか、嘉川アヤか、嶋田ユイか。
 でも送信者の名前は私が予想していた者とはどれも違っていて、なんと高良ユカリからだったのだ。しばらく何のやりとりもしていなかったというのに、急になんだろう?
 でもその瞬間に、以前の記憶が蘇ってくる。高良ミユキとのやりとりだった。
 彼女が自殺する日に私のもとに1通のメールが届いていた。私はそれを仲直りのためのメールだと勘違いしていた。
 デジャヴっていうのだろうか。そんな気がした。
 おそるおそるメールの内容を確認すると、わずかな文字で私に会いたいとの文章。
『会いたい。今日の14時に桜見駅に来て』
 果たしてユカリと会って私は何を言うことができるのだろうか。あんなケンカをしてしまった手前、もう会うことはないと思っていたのに。
 だけれど私も断る理由はどこにもない。ユカリに会いに行こう、行ってこれを最後にしようじゃないか。

 雨音が鳴りやむ気配は、見られなかった。

6月22日 午後14時19分

 大空に鐘の音が鳴り響いた気がした。カンカンカンって、桜見町にはそんな鐘の知らせなんてないのだから絶対に気のせいなのだけれど。
「今日も雨、か」
 案の定、学校が休みになった。台風はまだ少し遠くなのだけれど、多分すぐにこっちに来ると予想しての学校側の配慮だ。そんな配慮をしてもらわなくても今日は学校を休もうって思っていたから別にいいのだけれど。
 湿気を帯びた空気に触れて、私の長い前髪がいびつにうねる。それがすごく嫌で、子どもの頃から無理に力いっぱい引っ張ってまっすぐにさせようとしていた。でも、どんなに力を入れて引っ張ってもうねりは直らなくて。
 ため息。頭痛を抱えて黄色い雨ガッパを着込んでいた。外は6月とは思えないくらいに気温が低くて、息を吐けば白くなって空に昇っていく。本当に初夏なのだろうか?
 環境の異変を嘆くよりも、今の私には目の前に広がる問題に嘆くべきである。いや、私はその問題に目を背けているのだからもう関係ないか。
 高良ユカリからメールが来た。内容は本日の午後2時に桜見駅の前に来いとのこと。ずいぶんと唐突な申しつけだが、それを断る理由はない。
 だから私はこの寒空の下で約束の場所に向かっている。一体どんな用事なのかと考えながら。

 バスターミナルは降りしきる雨によってかすんで見えるが、円形にぐるりと回ってその中を大型バスやタクシーが行き来している。大きな柱に囲まれて、その上には歩道橋が設けられている。ちょっと進めばすぐに駅の構内に入ることも出来る。
 こんな土砂降りの中でも外出する人はいるみたいで、真っ黒い傘を差しながら吾知らぬ顔でそそくさと他人との擦れ違いを何回も起こしている。
 少し遠くで水たまりの上を車のタイヤが滑走する音、それとともに訪れる静寂が何となく心地よかった。
 でも、目を閉じれば嫌でも思い出されてしまう過去の出来事、中学生の頃のいじめやら、今の自殺問題など。はたしてこれから私はどうなってしまうのだろうか。
「ミカ、久しぶりだね」
 ひどく低い声音にぎょっとした。まるで幽霊にでもささやかれているような気分だ。私は後方の声のした方角に振り返ると、そこには高良ユカリの姿があった。急に声をかけてくるのも彼女らしくないが、それよりも異常を極めていたのはその姿だ。
 いきなり現れて後ろから声をかけてきたユカリは雨具も身に着けずに土砂降りの空の下で歩いてきたみたいだ。もちろん体中びしょ濡れになっている。暗い緑色のシャツは濡れて透けてしまっていて、レギンスはぴったりと肌にくっついているようだった。
「ちょ、何て恰好で来ているのよ! とにかく建物の中に入ろう」
 そうしてユカリの手を引いて歩きだそうとしたとき、拒絶された。いや、正確にはユカリが石のように固まっていて微動だにしなかったのだ。
「いいの、このままで。お姉ちゃんはもっと寒かったと思うから」
 ユカリの「お姉ちゃん」という言葉でまたしても私は何も言うことができなくなってしまった。どうやらユカリは姉のミユキさんの死をようやく理解したらしい。そして何も考えることができないといったところだろうか。
「ユカリ……あのさ」
 キツイこととか、悲しいことが消えないのなら、少しでもいいからそれを私に分けて。そう言おうとしたら、また遮られた。
「今日ミカをここに呼んだのは、お願いがあったからなの。でも、ここではそのお願いが言えないから、付いて来てくれる?」
 彼女の物静かだけれど、どこか威圧感を醸し出した口調に私は何も言えずにただ頷いて付いて行くだけだった。

§

 バスターミナルからしばらく歩いた、20分くらいだろうか。人気はなく、鬱蒼とした茂みだけが辺りに広がっている。おまけにぼろぼろに朽ち果てたコンクリートの建物が余計に雰囲気を出している。
 いわゆる廃墟だ。たしか10年くらい前、ここは旅行に訪れる観光客のためのホテルだったはず。それが最近の経営難で立ち退いてしまって、建物だけが取り壊されずに残っている。だけれど、何でユカリはこんなところに私を連れてきたのだろうか?
「ここってね、廃墟っていう位置づけになっているのだけれど、それを活用する人って割と多いんだよ。外観と違って、中は意外としっかりしているから。アダルトビデオの撮影場所としても使われているみたいだし、ラブホテルに行くお金がないカップルがここをよく利用しているみたいなの」
 一体どこからそんな情報を手に入れてきたのか、ユカリは淡々と喋っていた。私はユカリに何も語りかけずにそっと耳を傾けるだけ。
 錆びついて朽ち果てた黒い門を開ける。鈍い悲鳴を上げながらゆっくりと私たちを入口へと誘った。
 止む気配のない雨に草木は当てられて、そこら中に苔むした臭いが漂っている。雨のしぶきがあまりにも強いのか、地面の低い位置には白いしぶきが永遠に飛び散っていて私たちの足元をびしょびしょに濡らしていた。
「ミカ、こっちだよ」
 光の失せた瞳で、すっかり冷たくなった白い腕を差し出してユカリは私を連れて行く。1歩進むごとに増加する不安をユカリに悟られないようにと必死になりながら私は付いて行った。
 コンクリートと金属がこすれる音が建物中に広がった。思わず耳をふさぎたくなるような嫌な音すら、今の私には特に障害とは思えない。
 闇が辺り一帯にはびこっている。当たり前だけれど電気は通っていないし、懐中電灯だって持っているわけではない。私たちは暗闇のなかを手探りで歩き始めたのだ。
「待ってユカリ、ここは何だか歩きにくい」
「このあたりは腐敗が進んでいるからね。床に転がっている木材の破片に足を取られないようにして歩いて」
 そんなことを言っても、地形をまったく把握していない私にとってそれは至難の業だ。足を上げるたびに砂と埃が舞って、咳き込んでしまう。

 暗い階段を上ると少しだけ光が差しているのか、薄暗い空間が広がっている。そして、複数ある部屋のドアはすべて壊されていて中が丸見えだ。
 その中の一角、他の部屋よりも大きい空間のそこだけはきれいに清掃されていて、ほとんど埃が落ちていない。
「ティッシュとか、避妊具を除いては……ね」
 部屋の中心には真っ赤なベッドが置かれていた。シルク生地なのか、薄暗がりの中でもなまめかしい光沢を放っている。そのベッドは天井付きの高価なものみたいで、赤いベッドのふちに太い4本の木の柱が取り付けられていて、天井が設けられている。
 中世の王族のベッドみたいだ。いわゆるダブルベッドというヤツで天井から伸びている赤いカーテンもこれまた高価そうな生地である。
「本当に、撮影場所として使われているんだ」
 半ば感心していた。だってそういうのって普通はスタジオを借りてやるものだって思ったから。そうじゃないと衛生的に悪いだろうし。
「普通はスタジオを使うらしいのだけれど、お金があまりない事務所とかでは使われていなくて保存状態もいい場所を無断で使っているんだとか。それでどこかの学生があやかって使っているから……ほら、この状態」
 ユカリは使用済みのコンドームを親指と人差し指で拾い上げて私に見せつけてきた。ていうかそんな汚いもの見せないでよ。
 じゃあ、この部屋に入った時から充満していた生ごみみたいな嫌な臭いって。
「全部、精液の臭い?」
 声なくして、ユカリは頷いた。それ最悪だな、男ってこんな臭いものをよく人に出そうって考えるよな。
 世の中の男をいい加減に駆逐したいと考えていると、ユカリは赤いベッドに座ってそのまま横たわってしまった。そういえば、ユカリは私にお願いがあると言って連れて来たのだけれど、一体何なのだろうか。
「ねえ、さっきユカリが言っていた『お願い』ってここでしかできないことなのかな? 正直、私はここにあまり長い時間いたくないからさ、できれば早く済ませたいのだけれど」
 ……返事はない。ユカリはただ両腕を空に掲げているだけだった。
「ミカはお姉ちゃんが死んだってことを知ったのはいつなの?」
 唐突に、でもその声音には感情がこもっていた。いつだっただろうか、たしかユカリが急に学校を3日も休んだ時だった。
「6月12日のお昼休みの時だった。職員室から聞こえてきた担任の声を聞いて知った」
「……お姉ちゃんね、6月9日に死んだんだ。自殺だった。私たち家族がその自殺を知ったのは明け方の5時くらいだけれど」
「あの時、ミカが私に電話をかけてくれたよね。『ミユキさんはどうしている?』って。あの時は意味が分からなかった、どうしてミカがお姉ちゃんのことで必死になっているのかが」
「ミユキさんを救えなかったのは確かに私だよ。ユカリのせいじゃないよ、私がもっとしっかりとしていれば」
「別に誰かのせいだとか言って責めるつもりじゃないから気にしないで。それに1週間前の喫茶店の時はごめんね、許してくれなくてもいい……ただ、あの言葉は本心じゃなかったってことだけは信じて」
 私はゆっくりと頷いた。それを見たユカリは小さく微笑む。
「お姉ちゃんね、お風呂場で手首を切って死んでいた。浴槽の近くには剃刀があって、それで切ったんだと思う。手首を切ったまま浴槽に浸かっていて、明け方に見に来たときに身体は真っ白に冷え切っていたのに、湯船だけは真っ赤に染まっていて」
 いつの間にか、ユカリの声は震えていた。よく見ると涙も流している。どうしてユカリが私をここに呼んだのかが分かった気がした。ユカリは弱い自分を誰にも見られたくなかったのだ。でも実際は悲しみのあまりに押しつぶされそうで、だから私に話をしたいと思ったのではないのだろうか。
 信頼されている。その心が誇らしくもあり、後ろめたくもあった。私は友達なんてどうでもいいと思っていたから。
「お姉ちゃんはね、すごく頑張っていたんだよ。あんまり要領がいい人ではなかったかもしれないけれど、それでも一生懸命だった。私はそんなお姉ちゃんが大好きだった。頑張ってがんばって、決して弱音を吐かないで人のために何かできないかっていつも考えていて、それがあんな結末なんて……そんなの、あんまりだよ」
 泣きじゃくるユカリにかける言葉はなかった。だから私はせめてもと思ってユカリの肩を抱いてその冷えた身体と心を温めようとしている。抱きしめて、「辛かったよね」とか「私が一緒にいてあげる」とかそういう気持ちも込めながら。

「昨日さ、アヤから電話があったんだ。ミカにはすごく迷惑をかけちゃったみたいで。ごめんね」
「ううん。いいよ、ユカリのためならいじめだって耐える」
 今だけは彼女にだけなら優しくなれる。自分のこととか他人のことは度外視で、単純に他人を好きになれる。
 でも、そう言ってしまったことが間違いだったのか、それともユカリにはもう決意があったのか。
 鈴の音が聞こえた気がした。

「あのね、私の一生のお願いを聞いてくれないかな? ミカにしか頼めないことなんだけれど」
「いいよ、何でも言って」
 断るべきだった。私はそんなに人間が出来上がっていないのって。
「私ね、やっぱり今までの人生でお姉ちゃんがすべてだった。私の前にはいつもお姉ちゃんがいて、こう言うと変かもしれないけれどお姉ちゃんに恋していた。お姉ちゃんは私の心の支えだった。そのお姉ちゃんが死んで、私は途方もなくなった」
「……うん」
「このままこれからもまともに生活できる自信がないんだ、もうお姉ちゃん以上の人は絶対に現れないって確信が持てる」
 だったら、私がこれからずっとそばにいてあげるよ。そう言おうとした。

 だが、それは叶わなくて。

 もう、私には生きる意味を見いだせない。だから……
「殺して」

 外の雨音が一気に聞こえなくなった。もちろん外は土砂降りのままだけれど、私の耳がそれを受け付けなかった。
「……え?」
 何を言っているのか分からない。姉がいなくなって心の支えがなくなった、そこまでは理解できる。
 でも、殺してって……。
「無理だって考えているんでしょう? ミカにはきっと理解できないよ、1人っ子なんだもの。世界で最も好きな人が死んだ悲しみをあなたはきっと理解できない。他人に媚びへつらって生きてきたような人に。私にとってお姉ちゃんは単なる心の支えじゃない、私にとってすべてだった。そのすべてを失ってしまった今、私には生きる意味を見いだせない」
 つらい言葉だった。周りのすべてに隠し通せていたと思っていた本心は親友の前では見透かされていたのだった。それで理解をすることができない、か。
「で、出来るわけないでしょう! 私に人殺しをさせろっていうの!?」
 それは当然の反応だろう。当然に人を殺す、ましてや友達を殺すなんて真似は普通の人間にはできない。

「だからこそだよ、あなたを私の一番の友達だって信じてのお願い。一番の友達なら分かるよね、私が今どれだけ絶望しているかを」
「分からないよ! あなたが今、何を考えているのか私には全然分からない!」

「……ミカは死んでしまいたいって考えたことない? 私は今までそういうのがあんまりなかった。落ち込んだときでも、悲しいときでも『死にたい』って願ったことはなかったんだ。もしかしたら満たされていたからかもしれない、お姉ちゃんという私にとってのすべてがそこに確かに存在していたから」
「私は……中学生の頃に『死にたい』って思っていた。いじめに遭ったから、こんな自分を好いてくれる人はいないんだって錯覚した」
「それと同じだよ、私には誰1人として私を好いてくれる人がいない」
「同じじゃない! 私はあなたのことが好きだよ、好きだから殺したくないの……」
「……嘘だよ、八方美人にふるまってきたミカに好きな人なんていない。自分にとって都合のいい駒くらいにしか考えていないのでしょう?」
 図星だった。いつも口先だけで相手を丸め込んで、自分の都合のいいように物事を解釈したりすすめたりする。それがいつもの私だ。
「それは……」
 図星だったから、何も言えなくなってしまった。なんとも情けない、こんな自分が途方もなく許せない。
「ほら、やっぱり私の言ったことが正しいんじゃない。……だからさ、もう遠慮なんていらないんだよ。自分にとって都合のいい駒が『友達』だとしたら、私はあなたにとって一番都合のいい駒じゃない」
 私は絶望しきっているから、何も期待を見出すことが出来ないから。ユカリの瞳は確かにそう物語っていた。

「だから」
 殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して。

「う、うわぁ……」
 それはもはや催眠術だった。彼女の瞳を見続けていたら、頭は拒絶しているというのに体が勝手に反応してしまっている。
 何度も体に「やめろ」と命令しても動きをとめることはなくて。ついには私の両手がユカリの白くて細い首に回ってしまった。
 温かい、動いている、血の巡りが皮膚の下から確かに感じ取れる、そこには命がある。今から私がそれを、奪ってしまう。

 世界が赤く染まった。血に染まった赤、泣きはらしたような赤、痛みにも似た赤。辺り一面が赤に染まって、聞こえる音は私のひどい耳鳴りだけ。
 ベッドで横になっているユカリはすがすがしい顔で目を閉じていた。今からすべてが終わる、そういった顔で。
 両腕に力が入った。私の爪がユカリのきれいな首筋に刺さって赤い線が伸びていく。何度も何度も、体重をかけて。彼女の鼓動を止めようとしている私がいる。

 様々な記憶が流れ込んできた。ユカリとの会話の数々。耳鳴りだけだった音にそれらが重なり合って聞こえてくる。
 自殺した人のことね。ホント死ぬ奴って何考えてんのか分かったもんじゃないよねー。
 なんかさー、いいエサだよね。桐野実って人。
 なんていうかさ……こういうのを見ると、人の喜びって他者の不幸だけでしか手に入れることが出来ないように思えるんだよね。
 職場で姉さんは結構周りから目の敵にされているらしいんだ。職場いじめみたいな感じで、しかもミスをしちゃったから、そのことで相当責められているみたいで。しかもこの前の社内健康診断ではレントゲンと血圧測定で引っかかって、一昨日は数年間付き合っていた彼氏と別れたとか言っていた。
 ミカさぁ。その人の助けになりたいって性格は凄く素敵だと思うよ。事実、アイツにフられた時にミカは私を慰めてくれたんだからね。でも、度を過ぎることはやめなよ。本人だけじゃなくて、周りにも迷惑をかけることだってあるんだから。
 私達、友達でしょ?
 あのねミカ。多分『その人』は凄く強い人だと思うんだ。でも優しすぎて怖がりだから周りのことも気にしてしまう。
 大丈夫だよ、その人は今も頑張って生きているんだから。道を間違える訳がない。
 ……お姉ちゃん、どこに行ったの、もう夕飯だよ? 帰ってきてよ、私のことでなにか怒っているの? ねえ、お姉ちゃん。……どこ? どこにいるの?
 違う、お姉ちゃんは私の前からいなくなったりしない。私が困っているときにお姉ちゃんがいつも助けてくれた。今はお姉ちゃんが困っているから、私が助ける番なんだ。
 お姉ちゃんを探さないと、お姉ちゃんを。
 お姉ちゃんの代わりに、あんたが死んじゃえばよかったんだ!



 何かが切れる、音がした。
 気が付いた時には私の両目からは大粒の涙があふれていた。首を絞めたはずの両手には力がこもっておらず、弱々しく震えながらユカリの首から離れていった。
 ユカリは死んだ瞳のまま、生気のこもっていない表情のまま私を見上げていた。たしかに息はしている。脈動もしている。でも確実にユカリの中の何かが死んだ。
「うっ、うっ……うう」
 声を殺して泣いた。他人に泣く姿を見られたくない私が、一番の友達の前で泣きじゃくっていた。
 いつの間にか耳鳴りも、過去のユカリの声も消え失せて雨の音しか聞こえなくなっていた。

「……なんで、あんたが泣いているのよ」
「だって、だって」

「……バカ」

 私たちの最果てに残ったものは、たった1つの「虚」だけだった。

レディース・メイト

※参考文献

・河合隼雄 著 『大人になることのむずかしさ[新装版]子どもと教育』 1996年 岩波書店 第1刷発行
・デュルケーム 著 宮島喬 訳 『自殺論』 1985年 中央公論新社 第1刷発行

レディース・メイト

あなたの言葉に、救われる「私」と殺される「私」がいる。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-04-08

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  1. 6月7日 午後15時52分
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