Bar Raincheck
やめときゃいいのに。
8.Somethin' Else for Ryo.
マイルス・デイビスが気持ちよくトランペットを吹き始めたとき、店のドアが開き、冷たい風が
一気に店内を吹き抜ける。
頬と鼻を赤くした女性が紙袋をぶら下げて入ってくる。
「お一人様ですか?」
「はい。」
「コートお預かりします。」
近づいて、厚手のコートを受け取ったときにあの時の客だと気がついた。
一週間くらい前に店に来た、彼氏に浮気された客。
—君さあ、ああいう雰囲気の子好きでしょ?
平に言われた言葉を思い出した。心の中でチッと舌打ちをする。
彼女はカウンターに静かに腰掛ける。3つ右に離れた席に座っているのは平では無く、いつも来てくれる
昔からの常連の客の菱田さんだ。
「1杯目は何にしましょう?」
「えっと、じゃあ、ホットバタードラム・・・ですっけ?あったかいやつ。」
「かしこまりました。前のと同じやつですね。」
そこで少し彼女はキョトンとした顔になった。
「あ、はい。お願いします。」
笑顔の応酬。
ホットバタードラムとおつまみを出し終わったあたりで菱田さんが腰を上げる。
昔からの客で、もう50歳くらいだろうか。多分カウンターに女性と2人で座っているのが気まずいのだろうな、
と考えた。
「了くん、今日はそろそろ帰るよ。」
「菱田さん、早いですね。」
「たまには早く帰らないとな。家族サービスっていう仕事が待ってるよ。」
ははは、と笑い合う。
「羨ましいですよ。」
「了くんもそろそろ結婚しないと、親父さんも天国から心配してるぞ。」
会計を済ませながらそんなことを言う。
「親父も他人の事言える立場じゃないから、大丈夫です。」
「ははは、いやあきっと心配してるよ。いざとなったらうちの会社の子、紹介するからね。」
「はは、ありがとうございます。」
ドアを開けると想像通りの冷たい空気に包まれる。店の入り口は半地下になっているから、上の通りに出ると
もっと寒そうだ。
「じゃあ、又来るよ。」
「はい、ありがとうございます。」
そう言って菱田さんはコートのポケットに手を入れて階段を上がって行く。
帰る家がある。帰るべき家がある。待っていてくれる人がいる。きっとそれは幸せなことなのだろう。
店に戻ると、グラスを半分程空けた彼女が口を開く。
「あの、今日平さんってお休みですか?」
—でた。
つい癖でそう思ってしまう。この店で今まで何回いや、何十回その台詞を聞いてきたか。
「ええ。というより、オーナーなのでいつもいる訳では無いんです。」
菱田さんが座っていた席のガラスをカウンター内に引き下げる。横で彼女が「そうなんだ。」と
小さく呟く声が聞こえた。
心の中でため息をつく。苦手だ。やっぱり平に関わるとロクなことが無い。
今まで平を目当ての女性客が何人この店に来た事か。中にはストーカー気質の女もいた。
うちの店を巻き込むなよ、オーナーだろ。という言葉の意味を平は理解できないらしい。何年も。
「あの。」
ハッと我に返る。彼女は紙袋を俺に差し出す。
「これ、お二人にプレゼントです。」
to be continued..
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