声なき死の降る町
長い間雪が降っている。一向に止む気配はない。
無機質な灰色のビルに囲まれた町の一画を、私は当て所なく歩いている。
周囲には私と同じように、放心したまま歩いている人々の足音が静かに、しかし確かに響いていた。
雪は降っている。降り続けている。
防寒着を身にまとってはいるものの、寒さはあまり感じない。
寒さは息を白く染めるが、私の体は感覚が欠如してしまったように何の反応も示さない。
高層ビルを始め、町には「生」の気配がなく、雪に音を吸い取られたような静寂だけが辺りに散らばっていた。
私はもう死んでいるんだろうか、と上手く機能しない頭でぼんやりと考えた。
まるで安定剤を服用した後のような気怠い靄が頭と体を埋め尽くしている。
足を動かすこと以外に、声を出すことはおろか誰かに駆け寄ろうという気も起きない。
町の中心部である高層ビルの森を抜けると、辺りは僅かに開けて広い公園に出た。
人工的に整理されたような木々の並木がまばらにある中央は円の形に深い窪みになっており、下へ降りれるよう階段がぐるりと取り囲んでいる。
中心の噴水が見えないほど、辺り一帯は灰色の繭で埋め尽くされていた。
これが死の姿なのか、と私は大した感慨も感傷もなくそれらを注視する。
市街地から集まった人々の歩みは此処で終焉を迎え、やがて彼らは此処に踞り一つの繭となる。
記憶も感情も持たず、何の痛みもなく、此処で静かに死んでいく。
風に舞い上がる繭の欠片は粉雪となって町へ降り注ぐ。
皆此処へ「終わらせ」に来ている。
最後には粉になり、舞い上がり、姿形は跡形もなく消える。
私は防寒着のポケットへ手を入れた。
かさ、と乾いた感触に、それを掴んで手のひらに握ってみる。
手のひらを開くと小さな紙切れがあった。
くしゃくしゃに丸められたそれを、宝物にでも触るような繊細な手つきでそっと開いた。
「晩ご飯は冷蔵庫です。」
と一言だけ書かれている。
僅かに崩してある、綺麗とも美しいとも言えない流れるような筆跡の文字から性別は判別出来なかった。
これを誰が書いて、なぜ私が持っているのかも分からない。
まるで覚えていなかった。
続けてポケットを探ってみたが、メモ以外の所持品はないようだ。
出て来たとしても、恐らくこのメモのように、まつわる記憶の全ては消えてしまっているだろう。
だからなのか、恐怖も悲しみも怒りさえも沸き上がっては来ないのだった。
ただ胸の中には荒涼とした空き地、あるいは空洞が広がり、それを埋めていたはずの感情や記憶はどこか遠くへ失われたようだった。
しかしそれらを取り戻したとして、今更新しいものになれやしないという失望だけが確かに広がっている。
市街地では、雪の中を歩く人々以外何の気配もなかったが、ウインドウ越しに設置されたテレビ、街頭の大型モニターなどはことごとくが動いており、汚染エリアのニュースと死者数を延々と、無機質に流し続けていた。
こうすればいい、という選択に突き動かされている訳ではないようだった。
皆一様に、テレビの映像のように無機質に、同じ所へ向かっているだけだ。
私は何故か、知らず知らずの内に公園から引き返していた。
自分でもどうしてそうしているか分からなかった。
白く塗りつぶされた死の町で、当て所無く再び歩き出す。引き返した私に気付く人はおろか、視線を投げる人も、誰一人としていなかった。
公園についてから、まるでそうなることが決められていたかのようにその場所へ踞り目を閉じる。
私もそうするはずだった。
その目的だけに従って、突き動かされ、この場所へ辿り着いた。
それなのに私は引き返している。
道路には主を失った自動車が放置され、無数の人々の足跡も降り積もる雪に全て塗り消されてしまいそうだ。
歩いていると、恐らくハイブランドの店舗が並ぶ通りだったろう場所へ辿り着いた。
一店舗、はめ殺しの窓が割られ、代わりに錆びた鉄格子へと変わっている店を見つけた。
近付いてみると、その中には何人かの女性の姿が確認出来た。
全員がバレリーナのように、オーガンジーかジョーゼットのような透ける素材のチュチュを纏っている。裾は長く、くるぶしまで届くような生地は緩やかに襞を打っていた。
細く長い足はシルクのような光沢のあるニーハイソックスを履いている。
上半身は裸で、頭には一本の髪の毛も生えていない。
口と目は不自然に縫い合わされ、項垂れるか踞るかしているそのバレリーナの中、一人だけ下げた両腕を僅かに浮かせてバレエのポーズで立っている女性がいた。
いつの間にか握ったままでいたメモをポケットにしまう。
気付かなかったが、私の薬指には指輪が嵌っていた。
女性たちの薬指は全て切り落とされ、既婚者かどうかも分からない。
彼女たちも恐らく私と同じように記憶は失っているのだろうと推察がついた。
今から繭に籠り永遠の眠りにつく者にとって、彼女たちが結婚していようといまいとどうでもいいことではないかと思いはした。
事実、私以外で視線を投げている人の姿はない。
何処からか現れて、同じ方向へ向かって行く人々がちらほらと路上を通り過ぎて行くだけだ。
彼女たちだけが何故こういう「終わり」を選んだのかは知らない。
私たちは壊れてしまったのだろうか。
自分たちで進んで破滅へ向かって行く。
生きる理由も死ぬ理由も知らないまま、同じ終焉へと歩みを揃えて進んで行く。
それに疑問を投げる者も、抗う者もいない。
恐ろしい程静かに、同じ気持ちで終わっていく。
疑わず、かと言って何かを信じている訳でもない。
抗わず、かと言って受け入れている訳でもなく。
皆、失望と諦念の中で終わっていく。
この終わりが何かも知らないまま、自分を培っていた記憶さえ失って、悲しみも怒りも全ての感情を手放したまま、静かに息を止める。
人々は集う。
同じ場所へ集い続ける。
雪はしんしんと降り続けている。
止むことはない。
死の降る町で、私も一人、個人を特定するものを全て失ったまま潰えていく。
私は歩くのをやめた。
終わることは間違いない。
しかし、終わるまでこのバレリーナを見ていたい。
沸き上がる感情が何なのか、忘れてしまった。それでも、黙ったままこうして見ていよう。
動かずに歩みを止めて死んでいく。
瞳だけは開いたまま、縫い合わされた彼女の瞳や唇を見ていよう。
雪は止まない。
声なき死の降る町