白バラの夜

もう少しで40を迎える。
否が応でも体のあらゆる不調を知り、油を注していないロボットのように関節は固まり私の自由を奪っていった。
若い頃スポーツで走り回った自由な四肢としなやかな筋力はその力を失い、時折思い立ったように体を使えばあちこちが軋んで、次の日には動かないなんてこともあった。
小さな広告代理店に営業として勤めて、もう16年程が経とうとしている。
学生時代に培った体力と根性は営業をする際の基盤となった。
大多数のサラリーマンと同じように、家に帰った後の楽しみは一本の缶ビールとテレビを観てぼんやり過ごす時間、それに尽きる。
いつもならば疲れた体を引きずりながらも満員電車に飲み込まれつつ、喜び勇んで解放感と共に帰宅するのだが、今日は違っていた。
足が重いのは心が重いからだ。
数日前、口にするのも憚られるような些細な事柄で私は妻と口論になった。
と言ってもお互いに働いて帰ってきたばかりでもあったからか、何十分も感情に任せて言葉を言い放つだけの情熱(相手を論破する絶対的な自己保守が情熱と言えるかは甚だ疑問ではあるが)もエネルギーもなく不完全燃焼して焦げた嫌な匂いだけが後に残った。
昔は共にベッドに入り、どちらからともなく寄り添えば手を繋いでキスになり…とまぁベタで使い古された恋人たちの手段を選ぶことも恥ずかしくはなかったのだが、もう何年も妻とそういう夜の営みはしていない。
嫌いになった訳でもお互いが不能になった訳でもない。
長い年月に晒された私の体は重力に負け、若い頃の張りや活力、そして男性的な魅力のようなものが決定的に失われている気がした。
それは妻も同じ思いでないかと私は感じている。
失われる筋力、垂れ下がる皮膚、刻まれていく皺。
頭髪は大分前から白いものが混じるようになっていた。
そんな中で私は妻の前で裸になるのが躊躇われたし、妻に触れるのも何だか気が進まなかった。
時折自分でも驚く程の情熱やリビドーがこの体を焼こうとしているのが分かったが、誰でも経験あるだろう、そういう時に限って「タイミング」は合わないのだった。
妻とは昨晩から一言も口を利いていない。
先に帰宅するのは大体彼女であったから、家では既に夕食が出来ているに違いない。
一体何を話したら良いのだろう。過ごした時間が長ければ長い程、分かっているはずの相手のことが一瞬にして分からなくなってしまう時がある。
満員電車を降りた後、真っ直ぐ帰宅するのが躊躇われて帰路を行ったり来たりうろうろしていると、目の端でキラリと何かが光ったのが見えた。
「………?」
足を止めた。
それは小さな花屋だった。光ったのは花屋を覆うようなガラスの窓で、まるで小さなドームのような建物だった。
並ぶビルとビルの間、少し奥まった場所にひっそりと橙の灯火が揺れている。
店の軒先にあるランタンを模した電灯だった。風に揺れる炎を再現した電子的な炎がガラスの筒の中で揺らめきながら光を放っている。
普段ならば花屋など通り過ぎることが大半だったが、家に帰るのが億劫なこともあってか足は花屋のドアを潜った。
ドアベルが控えめに鳴る。
「いらっしゃいませ。」
白いバラに霧吹きで水やりをしている若い男性の店員がお決まりの挨拶を投げてきた。その男性以外店に他の人影はない。ひょっとすると店主かもしれないとぼんやり思い至った。
入った瞬間、一目見ておかしな花屋だと思った。
店を埋め尽くすのは白、白、白。全て白い花が溢れんばかりにディスプレイされ、他の色は全く見当たらない程白い花に埋もれていた。
「何かお探しですか。」
白い花の洪水に驚いた私が辺りをきょろきょろと見回していると、やけに淡白な(それこそ愛想のないと言った方がいっその事良いような)声が男性店員から響いてきた。
抑揚に乏しい割に、不思議と冷たさは感じない穏やかな声だ。
「この店はなぜ白い花ばかり置いてあるのかな?」
気になったことを率直に聞くと、店主はぱちくりぱちくりと目を瞬かせて私を見てきた。
そしてさも当然のようにこう答える。
「私は白バラが好きだからです。」
店に入った時から感じているこの濃密な香りはバラのものだったのか、と店主の言葉で合点がいった。
「勿論百合やラナンキュラスなど他の花もございますが、…白一色と決めております。」
外看板には「Blanc casse(ブランカッセ)」と書かれていた。ブランとは確かフランス語で白という意味だったはずだ。
職業上、クライアントが耳慣れない外国の色名を放つ時もあり、そうでなくとも色に関しては勉強もしているからか、日常では使うことのない様々な色の名前も多少詳しいつもりでいる。
「白一色…、それでは商売にならないでしょう。」
尋ねる私の訝しげな声に店主はうっすらと唇を持ち上げたように見えた。
「いいえ。私のこの白バラでなければ駄目だと仰って下さる方がおりますので。」
おかしな花屋におかしな店主だ。より多くの顧客のニーズに応える方が店も大きくでき利益も上げられるだろうに、店主は自らのこだわりに信念を持って自ら客層をしぼっている。
私が長年勤める代理店ではそうはいかない。
与えられた仕事を自分の好みだけでこなしては意味がないのだ。クライアントのニーズを読み取り、指定されたターゲットに最も沿うような形で依頼を仕上げなくてはならない。
眼前の店主とは相対的だ。交わることのないお互いのスタンス。
ぶらりと店内を見回してから店を出ようとして、ふと、以前妻が白いマーガレットを飾っていたのを思い出した。
純白のマーガレットは可憐で美しく、食卓の中央に華やかさを添えたが、その美しさを主張しすぎず彩った。
店から出て行こうとする足を止めて踵を返し、店主へ振り返る。
「なあ君。女性の謝罪に花は古いか?」
尋ねる声に彼は目をぱちくりぱちくりとした後、首を緩く左右に振って私の疑問を否定した。
「ご覧の通り、私の白バラは美しい。美しいものが嫌いな女性はあまり居ないでしょうから。」
答える声に私は十分納得して、店主の好きに包んでもらうことにした。
花束にされたのは、繊細なフリルのような花弁が渦を巻く白バラが何本か。他の花は入っていない。
「白バラの花言葉はいくつかありますが、私はこれが好きです。『私はあなたにふさわしい』。――――良い夜を。」
手渡された花と共に、店主は私へ思いがけない言葉を送ってくる。声に愛想こそはないものの、なるほど、これは悪くない。
この店が愛される理由が少しだけ分かった気がする。
「ありがとう。」
会釈と共に店を出てから目に止まった小さな酒屋で、シャンパンを一本買った。歩く度に徐々に近付く我が家を感じながら、妻へ何と切り出すかを考える。
ドアを開けると柔らかな明かりに包まれ、漂うのは妻が作った夕飯の匂い。玄関まで出迎えに来た妻は目を合わせずに「お帰りなさい」と言うだろう。
そんな彼女に贈るのはどんな言葉が良いのか、まだ開かないドアの前で考え込む。
「私が悪かった…、うーん…、一緒に飲もう…、うううむ…。」
野暮ったい台詞に我ながら情けなくなってきた頃、シンプルで良いじゃないかと妙な開き直りでドアノブを見つめた。
言いたいことは今も昔も変わらず、一つしかない。
言う度に少しずつ光を重ね、ビロードのように滑らかになっていった彼女への愛の言葉。
シンプルなワンフレーズ。
私は一つ大きな深呼吸をしてから、鈍い光を放つノブを握って回した。

白バラの夜

白バラの夜

四十路を前に妻と仲違いした男は、ビルの隙間に見慣れない花屋を見つける。そこは、白い花ばかりを置いている奇妙な花屋だった。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-04-07

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