S・O・S <Soldiers Of Shadow>
1
三十路を過ぎて地方から出てきた俺は過去を消し、この街で要領よくやっていこうと思っていた。だが、たったひと月ほどでその思いも消え失せた。その日暮らしの仲間3人で借りていた6畳一間のかび臭い部屋で見ちゃならないものを見ちまった。1人、目を覚ましたのは昼過ぎだった。昨日の酒に何かが入っていたのかも知れない。カーテンの隙間から差し込む真昼の日差しは薄暗い部屋の一点を照らし出していた。やはり俺は1人で暮らすべきだったのだ。のどが渇く。涙が出る。声が出ない・・・。箱詰めになっていたその頭は栗色の頭頂部をさらしたまま、押入れの破れた襖の前に無造作に放置されていた。俺はこの女を知っている。その日以来、仲間たちは姿を暗ました。なぜこんなことになったのか。仲間たちは俺の素性を知っていたというのか。俺は途方にくれた。
五年前、俺はニューヨークにいた。倉石という男と二人で街の掃除屋をしていた。チンピラを捕まえて依頼人に突き出したり、ストリート・ギャングを痛めつけてだまらせたり、どうにもならない悪党を深い眠りにつかせたり・・・・・。そもそも俺の性根は凶暴なのだ。
かつての俺は紛争地帯を渡り歩いていた。血気盛んと言えばやや聞こえはいいが、10代後半の俺はそれ以上に偏狭な考えの持ち主でもあった。善悪のあいまいな日本を出て、身につけた武術、格闘技の全てと留学中に海外のレンジで熱中した射撃能力のレベルを上げる為という、そんな空恐ろしい若き日の欲求につきしたがって、スイスに入国し傭兵となったのだ。両親はただの留学と思っていた。やがて、息子と音信不通になるとは思ってもみなかったろう。
実戦では日常の社会で封印されているマーシャルアーツの全てが使用可能だった。競技でしか使えなかった銃器もかなりの集中を要する環境下で使用可能となった。歴史的に当たり前のように兵役につく欧州のやつらとは違って、俺には戦闘のプロフェッショナルになりたいという願望があった。上官に怒鳴られて気づくのではなく、進んで自身を磨いていくために敵地に潜入し闘った。正義とは何か、正義とは存在するのか。それを見極めることも目的の一つだった。俺は上層部の汚い意図とは別に、その土地の人々を救うというご都合主義にどっぷりそまり、時には民兵に志願して殺戮を繰り返すこともあった。とどのつまり、自身の勝手な義憤に任せて傭兵稼業を生業としてしまっていたのである。
だが、全ては若き日の妄想。今にしてみれば空しく浅はかな願望だった。一方の正義を貫くことは凄惨な地獄との引き換えで成り立っていた。もう機銃掃射で血の海の中をのたうつ腹の裂けた奴だとか、爆弾をまともに喰らった骸だとか、声を立てさせぬよう不意打ちの接近戦で絶命させた奴の一瞬にして空っぽになる目玉など見たくはなかった。それらは全て遠い過去のものにしたかった。人を平気で殺めるには、極めて静寂なる寂寥感の奥底に永久に沈潜したままでいられるほどの・・・、孤独感など微塵も感じぬまま永久に無機的な世界に沈潜していられるほどの・・・、純然たる狂気が必要だということに気づいてしまったのだ。
正義とは己が規定するしか無く、己の正義が多数と一致したとき、為政者と一致した時のみ、それは大義名分というものにカモフラージュされる。紛争においても、そして戦争においてもどちらが正義だなどというものは無い。歴史の結論など、未来永劫に出ない。公正公平な歴史の確立は不可能だ。照らし合わせるもの・比べられるものなど無いが故、正義など判然としないものなのだ。敢えて、正義をと言うならば自他の命を絶対に犠牲にしないということ。しかし、歴史上、それを完遂しえた為政者などいない。奇麗事の裏で確実にそして理不尽に命は奪われていく。命こそ至上と言うなら、一殺多生も無い、大義名分も無い。
結局、あの頃の俺は何が正しいのかわからなくなっていった。味方の命を守ることのみが至上の正義となり、仲間と自身の命を守るために他の命を奪うことを止むを得ずと考えるようになった。闘いの目的など命のやり取りの中でどうでもよくなる。要は勝てばいい、生き残ればいい。たとえ、自分から仕掛けた争いであってもだ。
それゆえ、転戦する度に新たな部隊に加わるのだが、どの部隊でも俺は優秀なソルジャーとして名を知られていた。だが、そうしていられることが全て狂気の沙汰だとあるときから感じ始めていたんだ。俺はこのまま、狂ったままで進み続けることができるのか、それともこの場から去るべきか・・・。期待されているとは言え、正規の軍人では無いし、傭兵は寄せ集めの部隊だから引き止められることも無い。そう考えるともう続けていられなくなった。
そして、俺はニューヨークへ渡った。悪夢から覚めるために戦場から逃げ出してきたのだ。
ニューヨークにはどんなやつでも受け入れてくれるよそよそしさがあった。何があっても知らん顔でいることもできた。もちろん、全てのニューヨーカーがそうだというわけではないが、たいていのニューヨーカーは苦渋を知り、互いの置かれているシビアな状況を知っている。互いに仏頂面をしていても本当は互いをもとめているということも知っている。やたら、フレンドリーなさびしがり屋もいる。俺たちのように幽鬼のようなクレージーもいる。そんな全てを受け入れてくれる徹底したよそよそしさがあるのだ。
だが、そんな街でも結局、俺は血なまぐささから逃れることの出来ぬまま、倉石という男と組んで街の掃除屋を始めたのだった。ゴミ拾いからトラブルの収集、必要に応じてターゲットの処分。そんな生活が3年ほど続いた。
そんなある日、倉石は部屋を出たまま、帰ってこなかった。まるで今日と同じだ。昨日まで一緒だった奴が消えちまうんだ。やがて、俺に一枚のディスクが送られてきた。からりと晴れた八月の月曜日だった。緯度が高いので暑さの印象はほとんど無かった。デッキで再生した画面には倉石の姿が映っていた。カメラは倉石に気づかれぬように彼を追い続けている。と、その瞬間、閃光とともに倉石は消し飛んでいた。彼はここ数日、部屋に戻ってきていなかった。調査中のターゲットに消されたのか。いや、何かがおかしい。倉石は軍の派兵に反対するデモ隊の傍を通行していた。と、突然、武器庫が爆発したのだ。デモ隊の1人が爆薬を抱いて突っ込んだのだ。だが、俺には見えていた。近づく男を制止せず、デモ隊にもそっぽを向きながら、倉石にのみ銃口を向けている三人の兵士を。国が俺たちを抹殺しようとしているのか。それほど大きなことは何もしていない。だが軍人は確かに倉石に銃口を向けていたのだ。突っ込んでくるデモ隊メンバーの男には目もくれずに。結果、彼らは倉石と共に爆死する。ディスクとほぼ同様の内容はその翌日に報道された。タイムリーなはずのニュースが遅れて報道されたことに違和は感じていた。それでも混乱していた俺はただ呆然として報道の内容とディスクの内容を事実の確認をするように見比べていた。ニュースでは武器庫に突っ込んだ無謀な男の行動に対し、テロ行為に匹敵すると断じていた。倉石は巻き込まれた犠牲者に過ぎなかった。
それから数日後、俺は東洋系の美しい女と出会った。ルームシェアの相方だった倉石が疾走し事件に巻き込まれ遺体が確認された直後だった。てっきり爆発で粉みじんと思っていた倉石だが本人と判別できる状態だった。そんなとき、女は極自然に俺の前に現れたのだ。バーのカウンターで隣り合わせたその女は目玉が空っぽになっている俺に声をかけてきたのだ。「まるで死人ね。」「死人・・・、ようやく俺の番が来るってわけだ・・・。ほっとするよ。」「あなたの番はまだよ。」「どうして。」「あなたは死にたくても死ねない・・・。だってもう死んでいるんだもの。」「酔っ払いに小難しいこといってもさっぱりわかんねぇ。どっちでもいい・・・。」「あなたは今日死んで明日から生まれ変わるの。」「ありがと・・・。君は全能の天使?神?悪魔?」「全部ね。」「言うとおりにするよ。」正直、俺は落ち込んだ気持ちと裏腹に彼女の美しさにときめきを感じていた。友人の死を悼みながらも同時に彼女から生への希望を感じていた。俺は生まれ変わる為に彼女を貪った。全てをリセットできるような気がした。
それから数日間俺たちは一緒に暮らした。彼女はあの夜以来、感情を見せることはなかった。冷静に俺を観察しているような気がした。あの夜は特別だったんだ。あの夜だけは互いに何かを求め合っていたのかも知れない。ただ、それだけの行きずりの女だったのだ。俺はずっとそう思っていた。俺は女と別れた日、そのまま日本に戻ってきた。倉石のようになるのが怖ろしかったのだ。
だが、あの時の女の頭が今、目の前にある。俺はひどく混乱していた。
2
2年前、俺は確かにニューヨークで闇の仕事を請け負っていた。そして疲弊して日本に戻ってきた。田舎町でのゆっくりと流れる時間。山と河の美しさ。俺は自分の中に残る僅かばかりの喜怒哀楽の情を仄かに漂わせながら町の人たちとかかわり暮らしていた。しかし、やがて都会の匂いが懐かしくなり、ふらふらと桃源郷から出てきてしまった。そしたら、この仕打ちだ。俺は彼女への思慕と気味の悪さがないまぜになった感情を抱きながら彼女の眠る箱をじっと見つめていた。外に出る気にはなれない。片膝を抱えたまま時間だけが流れていく。当然だが腹も減らない。戦場ではどんな状況でも飯が食えた。今はそんなタフさは無い。・・・もう無いはずだ。
俺は心の奥底に封じ込めようとしてきた過去から今までの所業とこの状況とのかかわりを一つ一つ照合していった。こうなった原因は一つかもしれないし、複数が複雑に絡んでいるのかも知れない。考えが煮詰まってくるに連れ、俺は疲れ果て迂闊にも眠り込んでしまった。半時ほどが過ぎた。「あぐっ!!」。俺はとっさに体を反転させ、1人きりの部屋で身構えてしまった。判断を要する状況に一応の結論も出さぬうちに休息に入るのは命取りだ!!過去の経験が蘇ってきた。過去の俺が今の俺を戒めている。これでは飯も食えないし、眠ることも出来ない。過去の俺が目を覚ましてきている・・・。俺が飛び起きたのは体勢が崩れたことへの反射的な対応に過ぎなかった。敵はどこにもいない。見られている気配すらない。過去の俺が目を覚まし、そう伝えている。しばらくはまんじりともしない。腹も減らないだろう・・・。箱はどこに置いておくべきか。押入れの中か。いや、それでは彼女が寂しがる・・・。寂しがる?なんてこった!!感情が揺らいでやがる。俺はそれほどまでの思いを彼女にもっちゃいなかった・・・はずだ。とにかくこのままにしておこう。目の前にある方が敵に奪われることも無いだろう。いや、奪いに来れば正体をつかむのに好都合だ。ならば、しまい込んだ方が・・・、違う・・・元の場所にあるからこそ奪いやすい・・・とにかく彼女は俺が守ってやらねば。?・・・・・ふぅ・・・、どうかしてる・・・。一度放置したものをわざわざ奪いに来るはずも無い。問題は彼女をどうするかだ・・・。非情と有情の間で俺は新しい目覚めを迎えようとしていた。
数日が経った。俺はあの日以来、見ることのできなかった彼女の顔が無性に見たくなった。戦場を渡り歩き感情をなくしていた頃の俺なら彼女の顔を始終見つめることなど造作も無いことだったろう。死人の顔などうんざりするほど見ていた。しかし、除隊後の俺は徐々に感情を取り戻してきていた。倉石と掃除屋をしていた頃も無感情にターゲットを葬ったことは無い。その度に痛みは感じていたのだ。
そっと箱に手を伸ばす。そっと髪に手を触れる。労わるように慈しむようにゆっくりと取り出す。
美しい彼女の顔はまるで観音像のように俺に何かを伝えようとしている。
その死に顔はなぜか安堵の表情だった。。もう、おう吐も嗚咽することもなくなっていた。不思議なことに彼女の顔には数日たっても何の変化も見られなかった。何らかの処置がなされているのだろう。首の切り口は相当にシャープだった。まるで豪邸の剥製にでもするようなシェイプだ。これほど鮮やかに切られたのなら痛みも衝撃も感じなかっただろう。
気になるのは頭部に小さな切開痕があることだ。比較的新しい。冷静に彼女の顔を見つめる。こんな陰惨な状況にも変わらず、俺の心はいつしか穏やかで静かなものになっていた。女の頭、傍らにたたずむ俺。互いに静かなままだった。そのとき、俺は直感した。俺は過去に夥しい死を見てきた。
この女は多分、俺の為に死んだ。俺の狂気を復活させる為に死んだ。彼女は俺がもう死んでいると言っていた。そして、新しく生まれ変わると・・・、しかし、俺はその意味もわからず、若き日の狂気を捨て去る為に日本に逃げ帰って来た。一生、罪に問われることの無い罪から逃れ続ける為に・・・。この仕打ちは・・・誰かが俺を利用しようとしているのかも知れない。あるいは、生きることも死ぬことも出来ない幽鬼のような俺の心を助けようとしているのかもしれない。半死人のような俺を今の状況から救おうとしているのかもしれない。しかし、そのために彼女をこんな姿にするというのか・・・・。あの三人はこのまま、俺を犯罪人に仕立て上げるつもりなんだろう。罪に問われぬ俺を裁こうとしているのだ。しかし、ならば、それでいい。俺は裁かれたいと密かに思い続けてきた。誰かが俺の罪を裁いてくれることを臨んできた。彼女は霧のようにまとわり着く悪夢から俺を助け出そうとしてくれているんじゃないのか。あれこれと思案する。闇の中に潜む連中はいっこうに顔を現さない。ニューヨークのあの部屋での出来事から2年が過ぎている。あれ以来、俺は監視されていたのかも知れない。彼女が俺を観察していたように、いや極めて純粋な心で見つめていてくれたように。彼女の遺志を継ぐものたちが彼ら三人だったのかも知れない・・・。とにかく俺を見守ってきた。ある目的の為に・・・・。そうだ!!目的のために監視してきた・・・・。
でなければ、彼女がここにいる意味がわからない。高度な技術を施された姿で、俺に静寂の中の非情さと温かく穏やかな感情を同時に呼び起こしてくれる表情のまま、再び表れたのには目的があるはずだ。
俺はかび臭い部屋を出てスーツを着込み、彼女の頭を包んだタオルをそっとバッグに入れて銀行に向かった。傭兵時代にストックしていた有り金でとりあえず日本を出ることにしたのだ。空港では司法関係者の偽のパスポートを提示する。外国籍の変死体の頭部検死を海外の機関に依頼すると言う名目で渡米すると言う筋書きだ。貨物室の遺体搬送スペースに乗ってもらう彼女とはしばしの別れとなったが、久しぶりにゆっくりとまどろむことができた。
昼間の日本を出て13時間ほどで昼間のニューヨークに着く。降機後、彼女を受け取り、すぐにラフな姿に着替えてバッグをデイパックに変える。彼女の首には何らかの処置が施されている。かなり高度な技術だ。一体誰が何の目的で・・・。俺は以前の部屋のレンタルを依頼し、そこへ彼女を送り届けることにした。つまり、ニューヨークのあの部屋に二人で戻ることにしたのだ。全ては多分、あの部屋から始まっている。日中はエア・トレインと列車を利用するのが早いのだが、部屋についてからは何があるかわからない。今から少しでも休息をとり、不測の事態に備えようとマンハッタンまではバスでの移動を選択した。彼女を膝に乗せて一眠りする。やや西に傾いた日差しが瞼を照らす。やがて、摩天楼が見えてきて、俺は第二の悪夢の地に降り立つ。ためらうことなくイェローキャブに乗り込み、かつての部屋に向かう。不動産屋から鍵を受け取り、古びたアパートメントの前に立つ。不思議なことにポストには未だに俺たち掃除屋への依頼らしきものが投函されていた。特殊な依頼だからポストからあふれるほどにはなっていない。もちろん開封されてもいない。手紙をひとまとめに引き抜いて階段を登りドアを開ける。部屋の中は以前のままだった。突き当りの部屋の窓際に置かれたソファに座り、封を開く。安の状、きわどい依頼内容はそのままだった。しかし、その中に新しい日付で倉石に宛てたような内容が綴られたものがあった。「深
く知れば逃れられぬ世界がある。それでも君は望んでこちらへ来た。」あの時のデモ隊からの手紙なのか。冥福を祈ると言う意味なのか。でも、あいつはデモとは無関係じゃなかったのか・・・。それに、この手紙は誰が読むことを想定したんだ・・・。手紙の主は俺が舞い戻ることを知っていたのか。自分がああなる前になんとかしろということなのか。女の死、数々の新しい依頼、倉石の死。時は俺の混乱を待ってはくれない。いや、俺自身、一刻も早く混乱から抜け出したかった。日本でのあの日以来、俺の中での混乱は途切れることなく続いている。
とにかく、これらの依頼を遂行しよう。掃除人が帰ってきた証に・・・。ことの始まりは多分、この部屋にある。この部屋で計画し遂行してきた数々の仕事にかかわりがあるのだろう。再び、俺は闇の仕事を始めた。手始めに幼女殺しのターゲットをなんなく始末した。腕は衰えていない。ターゲットを探り出し、声をかけ、間違いなく本人だと分かり、その場で頚椎を一撃した。ターゲットの目は唖然としていた。翌日はストリートギャングのボスを廃人にしてやった。悪徳警官の目を潰してやり、弱い者からふんだくった金をハーレムの住民に返してやった。野良猫に名前をつけてやった・・・。彼女はいつも静かにソファの上で待っていてくれた。
それは突然だった。たまっていた依頼の全てをなし終えたとき、目の前に倉石が現れたのだ。ニューヨークの人ごみのはるか向こうに何気なく通り過ぎた人影を俺は見逃さなかった。俺は全力で駆け寄って倉石と思しき男を締め上げた。
「ここじゃ目立つ。俺たちの部屋に行こう。」彼は小声で精一杯に言った。部屋に入るなり、彼はソファに腰を掛けた。
「見つけてくれると思ってたよ。いや、見つけられなかったら失格だった。」
「どういうことだ。」
「彼女の願いだ。彼女は君への招待状、そして彼女を葬ったものたちへの挑戦状だ。」
「ますます、わからねー。お前は俺の敵なのか、味方なのか。」
「兵士はそこにこだわりすぎる。単純。浅識。でも、彼女はお前に期待していた。」
「期待していた?」
「大丈夫。合格だよ。お前は賢い。彼女と一緒に帰ってこられただけでも申し分ない。とても、単独でできることじゃないからな。」
「もっと判りやすく言え!!」普段なら冷静な判断の出来る俺も謎かけの連続のような対話に我慢できず、倉石の首を締め上げていた。
「ぐわっ。まて!!」俺は少し力を緩めた。
「俺がお前に殺されても終わりにはなんねー。第二の俺が現れる。俺たちは善でもあり悪でもあり、またそのどちらでもない。いつもの聡明なお前なら冷静に禅問答を聞き流し、この言葉の意味をいくぶん察することができるはずだ。もちろん、全ては無理だ。おれもそうだった。」
「聞かせてくれ。」俺はソファの斜め前にあるテーブルの所へ行き、倉石の目を疑り深く見つめながらイスに腰をかけた。
倉石は俺に警戒することも無く、べらべらとしゃべりだした。全ては俺を動かす為の芝居、いや彼に言わせれば複数の対象へのメッセージだったのだという。倉石は偽名だ。本名は明かさない。今は倉石なのだという。俺はビデオとニュースにすっかりだまされた。死んだのはこの男とは別人だ。心疾患で余命いくばくもないホームレス、もちろん保険にも未加入でただ死を待つだけだったらしい。倉石と取引をした男はあの女を加工した時のように高度な医療技術によって顔を変えられていたのだ。そして、倉石に指示されるまま、渡された所持品やIDを身につけて現場へ行った。もし男の気が変わって裏切るようなことがあったとしても死にぞこないのホームレスの戯言は誰も信用しない。施術後、多額の金がその男の両親に渡されたと言う。名目は断崖でのダイナマイト埋め込みの危険手当だ。だが、その男の母は既に亡くなり、父は痴呆が進んでる状態であったため、金は介護施設と墓地への献金として処理された。実際の爆発はビデオほどのものではなかったらしい。亡くなったのも倉石と一名のテロリスト。それはあの時、くぎづけになっていた見ていたテレビ報道から知ってはいた。警護の兵士たちはビデオの中で無残な姿になっていたが報道では爆発に巻き込まれた模様とのみ報道されていた。軍施設の被害の度合いは即時に報道されない場合があることを倉石たちは計算済みだったということだ。だが、俺はビデオ映像の中の兵士たちの銃口と爆発の激しさに動転していたのだ。すっかり怖気づいてしまったのだ。国家が何らかの理由で俺たちを抹殺しようとしていると・・・。そして、倉石達の思う壺にすっかりはまり自暴自棄の数日間を過ごすことになった。
亡くなった男の死因は爆発によるショック死だった。俺は爆発の激しさに相反して軽度な遺体損傷の度合いに疑問を抱きながらも死因を聞くことはしていなかった。
「それがお前の第一のマイナス・ポイントだったよ。」倉石は言った。
「マイナス?」
「俺は期待はしていたんだ。お前の経歴と掃除屋の仕事振りをみてな。気づかれたときのシナリオもミストから渡されていた。」
「ミスト?」
倉石は「ミスト」の存在を俺にあっさりと伝えた。
「情報ネットワークの最深部でつながりあった天才達がデザインした組織だ。」
「信用できるのか。」
「任務を遂行すれば分かる。頭だけではわからない。」
「闇雲に信じろと言うのか。」
「強制はしないがミストが必要とする人間ならば極自然に俺たちの側にまわることになるだろう。」
「全てはそのミストとやらの手の平の上ということか。人間社会のどんなこともお見通しってわけだ。」
「全てとは言わないが、ほぼ全てだ。」
倉石はミストのミッションのサンプルとして俺が見せられたビデオディスクの件について話を続けた。
「俺はあの日、基地周辺にはいなかった。ビデオのデモ隊も基地も捏造だ。基地はあれほどに破壊されてなかっただろ。つまり、後のテレビ報道が正しく、事前に詳細を伝えていたビデオディスクの中身は加工されていたということだ。」
「ビデオ通りの事件を後から仕組んで引き起こすなんてことが本当にできるのか!」
倉石は即答した。
「簡単だ。ミストのシナリオどおりに事件を起したまでだよ。」
「俺1人をだます為にか。」
「まさか、ミストは天才集団だ。あの事件はリンクする複数の状況に直接・間接、短期・長期に影響を与える。たとえば、あの若いテロリストは将来大物になると言う予測があった。だから、ミストのアジテーターを使って扇動し間接的に処理した。俺自身もあるターゲットに素性がばれかけていた。だから、死んだことにしてもらった。それがミストのシナリオだ。」
「たとえば・・・・、とうことはそれだけではないということか。」
「もちろんだ。末端の俺の処遇やテロリスト1人を葬る為に、増してやお前1人をテストするために、ミストのシナリオが作られるわけが無い。」
「ミストが世の中を自在に操れると言うのか。」
「可能な限りな。」
「目的は何だ。」
「世界の終焉を少しでも遅らせる為だ。全ての文明はいずれ終わる。有史以前のように生物が抗えぬ自然の思し召しなら受け入れもしようが、人類自身の自殺行為・温暖化のように緩やかな自死への行為で人類が終末を迎えるのをミストは阻止する。目的はシンプルだが完遂は至難の業だ。」
「随分、スケールのでかい話だな。じゃ、掃除屋の件だが、ポストにあった依頼もお前達が仕組んだのか。」
「あれはお前がパスポートを作り始めたと言う情報が届いた時点で俺が再投函した。お前の再テストのためにな。依頼人は大分待たされたことになるが、こんなものはミストの指令を遂行できるかどうかのプレテストに過ぎない。」
「やはり、俺を見張るものがいたのか。あの三人はお前達の仲間か。」
「彼らはNPO法人組織に救済されたホームレスだ。組織内に俺たちの仲間がいて、お前のところに行かせた。彼ら自身はお前同様、単なる同居人としての認識しかない。だが、何も知らぬ彼らを通してお前の情報収集はしていた。彼女を置いたのはミストの侵入スペシャリストだ。」倉石はことの詳細を躊躇することなく話した。
俺はあまりの張り合いの無さに嘆息した。
「じゃあ、お前宛てに見せかけたメッセージも実は俺へのメッセージと言うわけか。」倉石はうなづきながら問いかけてきた。
「どうする?。」
「望んで来たわけじゃない。」
「ならば、我々はミストの指示を待つ。」
「俺を殺すのか。」
「指示があればな。実行するのは俺じゃないと思うが。」
「死ぬことは怖くはない。裁かれるのは本望だ。この部屋ごと吹っ飛ばせよ。」
「こんな建物をふっ飛ばしてもミストの目的への効果は0だ。ミストは一つのアクションで存在を悟られぬままに複数の目標を達成する。お前一人葬るのにそんな危険は冒さない。」
「なら、俺に何をさせたい。」
「もう、わかってるだろ、ミストの任務の遂行だ。各国諜報部も欺きながら、そして、俺たちとは目的の異なる私設の暗躍集団とも対峙しながら任務を遂行していく。しかも、存在は絶対に知られてはならない。」
「対峙する暗躍集団?」
「任務遂行していけば、いずれわかる。今回の任務には絡んできていないようだがな。」
「ミスト・・・霧か。なぜ、フォッグとは言わないんだ。」俺はどうでもいい質問をした。
「彼らの洒落だな。フォッグは濃すぎて存在が目に見えてしまう。ミストは透明度が高い。しかも、しっかりと対象にまとわりつく。ヘイズじゃ弱くて薄すぎるってとこだろ。」
「ナルシストの集団だな。」
「ミストにできないことは無い。ミストの天才集団の能力は各国首脳をサポートする人間達の知力・能力をはるかに凌駕している。しかも、彼らには野心が無い。」
「なぜ、そこまで言える。」
「俺を導いたエージェントが語っていた。俺はその男のいうことを素直に聞き入れ、信じることにした。結果的に様々な危機が回避されるのを目の当たりにしてきた。」
「ところであの女の役目はなんだったんだ?」
「ジェシーは素性がばれそうになった俺の代わりにお前の価値を調べに来たんだよ。」
「ジェシー?」
「いまどき聞かない名だろ。もちろん、コードネームさ。彼女はお前がミストの指令を遂行できるか、真のターゲットの攻略に耐えうるか、それでいて人からは目立たぬ存在であるかを継続調査していた。」
「真のターゲット?」
「俺たちは国の為に動いてはいない。ミストの考える正義のために動いている。」
「正義・・・・。」
「そう、お前が最も信じられないものだ。」
「なぜ、わかる!」俺は真意を突かれてたじろいだ。
「ミストのプロファイラーの分析だ。お前は正義、あるいは戦うことの意味について疑念を深くもっている。」
「俺は正義を信じない・・・。」
「まっ、いいさ。その点はミストも問題にしていない。とにかく俺たちはミストの放つ仄かな光に寄り添う影になる。そして真のターゲットを攻略する。」
「・・・・・。」
「なぜ黙ってる。ミストの依頼を受けてくれるだろ。掃除屋の仕事を平気でこなしてたんだからな。あれは正義のためだろ。」
「違う。掃除の依頼者は計算の無い身近かな連中だ。だが、国だの組織だののトップの連中は狡猾だ。やつらの正義は当てにならねー。それに掃除屋の仕事は正義とかそんなもんじゃねー。身近な人間のわらにもすがる思いをかなえてやっただけだ。」
「甘いな。現実を見ろ。物欲・支配欲に駆られた人間に意図的な死をもたらされている人間たちは絶えない。いや、それでも目に見えているもの達はまだましな方だ。手を差し伸べようとする者がいずれ現れる。俺たちが救わねばならないのは誰も知らない見えない死を強要されている者達だ。闇から闇へ葬られる骸たちだ。しかし、それらを表に晒そうとすれば、さらに見えないところで多くの命が危険に晒されることもある。」
「よくわからねー、どういうことだ。」
「たとえば、半世紀以上前の戦時下での人体実験。発覚を恐れた軍部は残りのサンプルとなる人間を全て処分した。証拠隠滅のために拉致したもの全てを抹殺してしまった。また、ある闇の臓器売買の連中は当局の捜査が絞り込まれてきたことに焦り、貧困層の子ども達を閉じ込めたコンテナをそのまま海上で遺棄してしまった。白日の下に晒せる悪と、その前に片をつけなきゃならねー悪があるってことだ。だからこそ俺たちは秘密裏に指令を遂行する。メディアなどに真実を晒される前に、追い詰められた権力が大量虐殺を遂行したり、新興国が核に手をつけたりする前にな。」
俺は倉石の話を聞き続けた。
「たとえば、名も無い命が平和の美名の下、国家間の取引の闇に封印されてしまう。仲直りしたのだから過去を蒸し返すことは無い。過去の犠牲は無かったことにしようというわけだ。拉致されて、あるいは抑留されて理不尽に消えていった命については不問ということだ。人身や臓器の売買についても同様だ。しかし、闇に葬られたものたちの無念はどうなる。きれいごとのための、平和のための犠牲か。ミストはそれらを遂行するものたちを抹殺する。」
「待ってくれ、、俺はこの先は聞かないことにする。」
「ミストの依頼は受けられないと言うことか。」
「生まれたときから罪悪に染まっている命はない。下衆どもに義憤は感じても命を吹き消すのはもう止めにしたい。」
「お前、これまでのことをなかったことにする気か。ヨーロッパでの転戦。何人殺した。お前はその罪を償いたいと思っていた。だが、誰もお前を裁けない。戦争は必要だからだ。命令に従って殺人を犯した兵士は裁かれることはない。だが、俺たちは違う。カタストロフを早める戦争を容認しない。その引き金となる奴らと実際に手を下したものたちを秘密裏に処分する。したがって、お前も許さない。」
「さっきから覚悟は出来てると言ってるだろ。」
「甘いな。お前の罪は罪を重ねることであがなわせる。苦しみ続けることであがなってもらうんだよ。」
「是が非でも俺をお前達の世界に引きずり込むと言うのか。」
「断っても、いずれお前はミストに来る。自然にな・・・。それがミストの意志だ。」
「正気なのか。」
「すでに狂気だと気づいてるだろ、お前は。正気じゃ、この世界の闇は裁けない。ミストは生者でも死者でもなく、幽鬼のごとく狂気を秘めながら、世界の病が進むのを遅らせる存在だ。毒をもって毒を制す。俺たちの心の闇で世界の闇が広がるのを少しでも遅らせるんだ。ミストの仄かな光によって生まれる影たちの闇の心でカタストロフの可能性を一つでも多く回避していくんだ。」
「まるで、夢物語・・・、荒唐無稽な理想だよ。」俺は薄ら笑いをした。「現に俺やお前みたいな人間がいる以上、遠い将来、破滅の日が来るのは間違いない。それを知らない人間が多いと言うだけだ。でも、それでいいだろ。明るい光だけを見つめて生きていって何が悪い。刹那的でも幸せを思い描きながら生きていくのが大方の人間の行き方だ。」倉石は黙ったままだった。
「じゃあな!!」俺は部屋を出た。彼は部屋から出てこなかった。すでに監視役が俺をどこかから見つめているに違いない。だが、知ったことではない。もう、この街に戻ってくることは無いだろう。倉石の正体も女の正体もミストという組織の存在も分かったのだから。全て、俺の心の奥底に沈めて、裁きの来る日を待ちながらひっそり暮らせばいい。とにかく日本に戻る。生まれ育った古里に・・・。
北緯43度。新千歳空港のゲートを抜けるとまだ少し冷たい風がコートの中をすり抜けた。一瞬、清々しく爽やかな気分になれた。こんな気持ちになるのは十数年ぶりだった。空港周辺には防衛庁の施設が隣接する。その南側には森林が広がり、北側には市街地が拓けている。森も街も雪解けが始まっていた。俺はレンタカーに乗り、わき目も振らず札幌に向かった。風景を見る余裕が無かったわけでもないが取り立てて関心も無かったからだ。窓の隙間からすりぬけてくる風もあの一瞬以来、癒しにはならなかった。大自然を目の当たりにして心和むのが普通の人間なのだろうが俺にとって、そこは演習場所であり、敵とのゲリラ戦を展開するポイントにしか見えてこなかったからである。その点ではこの国の自衛隊員とも通ずる感覚があるのかもしれない。そんなことをぼんやりと考えながら、俺は高速をひたすら北へ向かった。札幌の街はリラ冷えで寒さの中の新緑が眼に突き刺さってきた。この街も車で少し走れば自然の懐に包まれる。都市と自然が融合した街。中央アルプスの自然とは違う風景が北海道にはある。都心より数分の地点には自衛隊の駐屯地がある。実際は基地なのだが、平時と言うことで駐屯地と言うらしい。基地は思っているより自然に街に溶け込んでいて国境に近い街と言う緊迫感はほとんど無い。俺は学生時代にも住んでいた基地周辺にアパートを借りて住むことにした。さるルートから手に入れた無線器で内外の緊急情報をある程度リアルタイムで傍受できるのも魅力だ。倉石はお前ごときにと否定するだろうが、ミストが俺を絡めとるために軍事施設に介入するのは考えられることだ。とにかく過激派やスパイなんかに間違われぬように普通に暮らすことが肝要だ。この普通というのが今の俺には難しいがニューヨークでの生活を可能な限り真似ていれば、変に力が入ることも無いだろう。とは言え、掃除人をやるわけにはいかない。それに裏の掃除が必要なほどにこの街は曇ってはいない。少なくとも、俺はそう思っていた。とりあえず廃品回収の下請け業者に雇ってもらい、電気製品等のリサイクルを始めることにした。俺1人だけ目立つことの無いよう、同じぐらいの腕をもつ仲間とチームを組んで仕事をした。たまに手に入るゲーム機からはチップを取り出す。チップは組み合わせることでかなりの能力を引き出すことができる。それらは無線機や対人センサーの能力を格段に上げてくれる。こうなると、俺がしていることはどこかの国のスパイ並みだ。だが、俺にはそれをする確固たる目的は無い。ただ、眼に見えぬミスト・・・、とりわけ倉石達の思惑通りになりたくはないというプライドがそうさせているのだ。札幌に来てから、数ヶ月。何事も無く月日は過ぎていた。そんなある日、両親のことを思い出す機会があった。正確には両親のことを思い出すというより、両親の住む地の傍でかなり強烈な状況が発生していたのをしってしまったということだ。無線が道東方面の情報を傍受したときだった。そのときの俺の無線機は警察無線はもとより、航空交通管制局の情報も受信できるようになっていた。それで、スクランブルの情報を取得できたのだ。ただ実際、スクランブルは日常茶飯事であり、一般の人達が知らないすぐそばでは影のように人知れずエキスパート達による暗闘は続いている。だが、その日のスクランブルはやや深刻であったようだった。道東の内陸深く進入した国籍不明機は大雪山系に墜落。脱出したパイロットは血痕を残し失踪。機体はロシア製のようだが、他国の技術も取り込まれているようで国を特定できない。民間の組織が勝手に飛ばして進入させた疑いもあると言うのだ。これだけ詳しい情報を多方面の情報網から収集できる俺の諜報能力もたいしたもんだと自負するが、事態は深刻そうだ。パイロットが見つかれば、相手国への文句も言えようが遺体も無ければ行方も知れず。血液から人種をほぼ特定できたようだが混血の経歴の無い有色人種らしいのである。しかも、かなり少数の民族でつい最近まで未開の部族と呼ばれていた樹上生活者達と同族らしいのである。となると、生粋のはるか南方系の人間が全く交流の無い北方系の国のハイテク戦闘機で飛んできたことになるのである。もちろん、俺の両親はこんな事実は知る由も無い。真っ当な普通の市民だからだ。二人は道東地方の帯広という街に健在だ。もちろん、消息は知らせていない。姿を見せずに会いに行くことは可能だが、今の俺にはその気は無い。無数の子の親を殺めてきた俺にとって自身の親に会うなど許されることではない。しかも、ミストとやらが影のように、霧のようにそこ深い静寂の中、俺を見つめているのだ。俺はこの街に潜伏し続けるしかない、俺にとっての余生は潜伏という形でしか許されない。法で裁ける罪は犯していないが、倉石達のように開き直ることはできない。別に開き直ると言うことではないのだろうが、ミストの任務などと言いながら、すれすれ合法的に非合法を遂行するもの達と同列になりたくは無い。そんなことも思いながら、一般人は知らない闇の事件のことが頭のどこかに引っかかったまま、数日が過ぎた。
俺は気晴らしに近くのパチンコ屋に出かけた。もともと、ギャンブルは好きではないが周囲に下手にマークされぬ為にふらりとパチンコ屋にこもるふりをするのである。今日も店番の眼帯の男がふやけたような表情をしながら幽鬼の様に席と席の隙間をゆらりゆらりと歩き回っている。ボーっとしているように見えるが、玉の出具合、ピンの傾き具合など慎重に見定めてコンピュータ管理室などに伝えているのだろう。先週は二日ほど姿を見なかったがそれ以外はほぼ毎日、見回りをしている。この店での信頼が厚いのだろう。やがて、日が暮れてあたりが薄青く染まりだした。今日もたいして儲けは無かった。もともと、その方面の才能が無いというか、意欲も低いので人並みに稼ぐことは出来ないたちなのだ。つまらない時間を過ごし、肩を落としながらアパートに向かう。街灯が途切れ、小路に入ったその瞬間、肩に鋭い痛みが走った。物盗りか・・・、ここで朽ちるのも、それはそれでいいか。心ではそう思いつつも、体は獣のように反応する。振り返りざまに相手の喉下を片手で締め上げる。それでも相手は冷静に俺の頭に得物を振り下ろす。咄嗟に左腕でそれを受けると鈍い音がした。折れてはいないが、ひびが入ったようだ。相手を突き放すと、次は腹を目掛けて低い姿勢で突いてくる。かなり敏捷な動きだ。半身で交わし、手刀を振り下ろす。首を直撃すれば、この暴漢の命は無い。同時に痕跡の残る殺しをした俺も法によって裁かれる。道理だ。ニューヨークのダウンタウンのように暴力沙汰が日常の街での捜査とは比べ物にならない。あの街での掃除はある意味、容易かった。だが、そんな危惧もつかの間、相手は得物で俺の喉元を突き上げようとしてきた。ただの物盗りや暴漢じゃない!。こいつの持っている物は暗くてよく見えないが特殊警棒だ。だから、携帯していても目立たない。万一、警察に職質を受けてもナイフ類よりは軽い処分だし、こいつの仕事場や住居の敷地内ならお咎め無しもありうる・・・。そして、この動きには覚えがある。対ゲリラ戦でのナイフによる攻撃への第一級訓練。それを体得してる奴は日本にはそうそういない。「茂津(もづ)か!!」「やはり、刑(けい)だな。お前でなけりゃ殴り殺すつもりだった。俺たちのことをかぎまわってるようだからな。」相手は顔を見せない。暗がりから声だけがする。「どういうことだ、茂津。」「傭兵仲間ならわかるだろ。あんなこと、いつまでも続けてられねーし。他の才のある連中は事業始めたり、本出したり。でも、俺みたいな戦闘バカはやめたら腑抜けるだけだ。」「それで、物盗りになったってのか。」それにしても戦闘エキスパートが何故こんなところにいる・・・・、偶然にしちゃ、出来すぎている。これもミストの仕業か。そんな思いが脳裏をよぎる。「お前、違法に無線を傍受してるだろ。電話回線にも所々介入してるな。」やはり、そうだ。こいつはミスト。それなりに組織がついてなけりゃ、ここまでは調べられない。「答えろよ。なんならお前の部屋の情報を警察に流してもいいんだぜ。」「まずは顔を見せろ。」「見る前に答えろ。俺は大分、前からお前を調べていた。」「やはり、ミストか・・・・。」俺は小声でうめいた。「今、なんて言った。俺たちのことを知ってるのか。なら、話は早い。掃除人よりは儲かる。身寄りの無い人間を拉致して送り届けるだけだ。逃げ出したのは処分する。」「ちょっと待て。何の話だ。俺のしていることは認める。先ずは顔を見せろ。」男は暗がりから顔を出した。「お、お前。」茂津は眼帯をしていた。例のパチンコ屋の男だ。「ずっと見張っていたのか。」「俺は一目でお前だと分かったよ。だが、お前は片目になった俺のことを知らないからな。手榴弾の破片だよ。それで傭兵を辞めた。」「お前の言う組織ってのは・・・。」「ロシア・コネクションだよ。知ってたんだろ。」「それだけじゃ、組織が特定できない。」「今は全組織が統合されてコネクションだけで通じるんだよ。そこまでは知らなかったか。」「・・・・、つまり、ロシアがらみだからお前が北海道にいるというわけか。」「そういうこった。それに、お前が北海道出身なのは聞いていたからな。里心がつけばいずれ戻ってくる。そしたら、組織に頼んで一緒にビジネスをしようと思ってたのさ。」「ビジネス?」「知ってるんじゃなかったのか。」「俺は無線を傍受していただけだからな。」「なんだって。じゃ、もし仲間にならねーと言うなら、殴り殺すしかない。俺たちのことをかぎつけたようだからな。」「待て。闇雲に殺される気はねーよ。」「そうだろ。まっ、聞けよ。簡単な仕事だ。」「拉致と処分・・・か。」「そうだよ。仲間になるってんなら命もとらねーし、俺の最近の仕事についても話すからさー。お前もよく知っているはずだぜ。」「まさか、あのスクランブルの・・・。」「当たりだよ。俺たちは身寄りの無い優秀な人間を集めている。そいつの頭に細工をして顧客に売る。」「顧客に売る?」「ビジネスだからな。ところがこの前、優秀なパイロットが逃げやがった。頭の細工が不十分だったのかもな。それで俺が処分しに行った。」「あの二日間にか。」「よく覚えていたな。」「毎日見かける顔が突然、見えなくなったからな。」「二日できっちりケリをつけたんだぜ。今の時期の山はけっこうしんどかったがこれで組織も安泰だ。ボーナスも期待できるしな。」「何人殺した。」「今さら何言ってんだ、刑。俺たちはそれが仕事だろ。」「・・・・・・。」俺は彼らの組織を殲滅したい衝動に駆られていた。再び、義憤の血が沸き起こってきていた。体から焔が立ち上がろうとしているのを抑え込みながら茂津に話を合わせていく。とにかく、こいつ達の組織に潜入する。破壊活動はそれからだ。そのとき、俺は彼らの組織の大きさを認識していなかった。
空き缶のふちに置かれたタバコの先が灰になって奈落の中に落ちていく。缶の底のよどみの中に薄汚れた塊が積もっていく。「お前、タバコはやめたのか。」「俺はタバコを吸ったことは無いよ。」「そうだったな。お前がやってたのは景気づけの葉っぱだったな。」「俺は少しハイになる程度しか吸わなかった。お前みたいにやたらと吸ってラリッた勢いで仕事に行けるほどクレージーじゃなかったからな。」「言ってくれるなぁ。そういや、お前、俺に借りがあるだろ。」「命の恩人だってことは忘れちゃいねーよ。一度や二度じゃねー。」「だろ。でも、俺もお前には何度か助けられてる。俺の方がほんの少し、貸しが多いだけだ。」茂津は俺同様、東洋人のエキスパートとして名の売れた傭兵だった。そして、共に死線を越えてきた戦友でもある。「それにしてもこの狭い部屋でよく暮らしていたもんだ。」「悪かったな。で、その空き缶はちゃんと持ち帰ってくれよ。狭い部屋の環境がさらに悪化しちまう。」「だからさぁ、また、俺たちの腕を使って金を稼ごうぜ。」「腕を使って?」「俺たちはああいう状況にいるときが一番やりがいがあるんだよ。平和ボケじゃ、ふぬけちまうだけだろ。」茂津は俺の顔を覗き込みながら続けた。「お前もロシアの紛争地域に度々行ってたよな。」「ん。あ、ああ。ソ連の崩壊後からは稼ぎ時だったな。」俺は茂津の言葉にぼんやりと答えていた。話の進む方向が見え見えだったからだ。茂津は倉石のときのようにいずれ自分のいる組織のことをしゃべりだす。そのときに俺はどう対応するのがベストか。俺はポーカーフェイスで必死に考えていたのだ。「そのあと、どこへ行った?」「南下してアジアへ向かったな。」「ぴったりだな。それはロシア・コネクションのルートでもある。」「どういうことだよ。」「こんな狭い部屋、早く出たほうがいいってことだよ。」「お前だって似た様なもんだろ。しがないパチンコ屋の店員じゃねーか。」「バカ・・・・。だから、言ったろ。俺には組織がついてる。あれは隠れ蓑だよ。」「にしても、人の頭の中を勝手にいじくるような連中は信用できねーし知り合いにもなりたかねーな。」「軽蔑するような言い方すんなよ。俺たちがしているのは超一流のシンク・タンクだ。闇のシンク・タンクだがな。それに闇の人材派遣。こっちは暗殺屋の斡旋と勘違いされるんだが、違う。この前のテストパイロットのような技術・技能をもった人間を派遣する。」「それなら十分、表の仕事になるじゃねーか。」「クライアントは影の右腕が欲しいんだよ。表舞台に出ない優秀な人材がな。その素材を確保するのにロシア・コネクション・ルートは有効なんだよ。」「マフィアが警備するルートだからか。」「まっ、そういうことだ。奴らが臭いものにふたをしてくれる。俺たちの取り分の一部をまわしてやるだけでな。」「一部だって。奴らは骨までしゃぶるだろ。」「俺たちのリーダーは奴らのボスとも国の元首とも対等に話をつけられる。それだけ魅力のある大きなビジネスをしているんだ。」「科学者も加わっていてるんだな。」「もちろんだ、みんな優秀な人間を生み出す理想を持っている。そのための実験に積極的な人達だ。」「人権は無視か。」「名も無い人間を国家や企業のトップの側近にしてやるんだ。文句はあるまい。」「クライアントの言いなりにさせるんだろ。」「だが、元の住処にいるよりはずっと文明的な生活が出来る。それに言いなりに動くというなら俺たち傭兵も似たもんだ。そこはギブ&テイク。大きなメリットと小さなデメリットがあるというだけだ。」「どっちが幸せかな・・・。」「なら、お前は傭兵を辞めて幸せだったのか。今のお前は幸せに生きているのか。」「・・・・・。」「決まりだな。ここを出る準備をしとけよ。お前と組めるなら俺もこの街に用は無い。代わりのものを呼んでもらう。」「代わり・・・。」「札幌は仲間や顧客との連絡をとるためのベース、または前泊地になっている。」「もう戻ってこないのか。」「代わりが来ればとどまる必要は無いな。ちょこちょこサポートに来る必要はあるがな。」
その日、俺と茂津はサーフボードを抱え夏間近の札幌を発ち、ひたすら北へ向かっていた。おんぼろのレンタカーで羽幌まで走り、フェリー客の宿泊するホテルの駐車場で組織の用意したフィアットに乗り換えた。レンタ・カーは業者が引き取りに来る。フィアットのトランクの下には通信装置と非常時の武器の類が積載されている。しかし、何の緊迫感も無いまま、俺たちは羽幌を後にした。
「ロシアの辺境地区では白人やカムチャッカの少数民族、アジアでは東洋系、さらにそこから東西にルートが分散する。」「かなり広い範囲から集めてくるんだな。」「大陸に点在する貧民街や太平洋の島々、果ては南米の高地帯などから収集してくるんだ。でも、しょっちゅう小競り合いがあるような問題を抱えている集落が中心だ。でないと、人がいなくなってかなりの騒ぎになるからな。それにアジアの貧民街では臓器提供に売られる子ども達もいる。俺たちはそういう子ども達をある意味、救っている。」俺は黙って聞いていた。・・・・救っている・・・自由な意志を奪っておいて豊かさと引き換えに飼い殺しにしているのが救っていることになるのか、まぁ、確かに生きていられる点ではそうだが・・・・、そんなことを思いながら俺は眠そうな目で茂津の話を聞いていた。稚内からはフェリーで礼文島に向かう。本気で眠くなっていた俺は船の中でメモを見せながらぼそぼそと話す茂津の声をぼんやり聞いていた。彼は今後の行程について話していたようだった。俺を無理に起さないのはカモフラージュに都合よかったからだ。観光客の少ないこの時期の乗船は人目を気にしなくてよい反面、目立つ要素も多い。早朝に出発して目的地を前に疲れが見えてきたサーファーと言う設定にぴったりだったのだ。俺は茂津の用意したショートボードのサーフィンを裏返して枕代わりにしながら横になっていた。船内に持ち込めたのはたまたまだ。サーフィンのしたことの無い俺が車庫を閉めた後にボードを持って船内に入ってしまい、客も少ないので見逃されたのだ。俺たちは道内のサーファーとして乗船しているわけだ。北海道の有名なサーフポイントはこんな北の外れの小島にあるのだ。ただし、本物のサーファーが乗船しているときはこの手は使わないらしい。とにかく顔を覚えられては困るのだ。しかし、かえって目立つ結果となったかもしれない。茂津は気にせず、話を続けている。「俺たちが本部と行き来するのはこのサハリン径由のロシアコネクションルートなんだ。島から彼らの船でサハリンに向かう。国境警備隊は賄賂を渡してあるからフリーパスだ。その後はクライアントのエージェントと会って依頼を確認する。」「クライアントはロシアの元首か。」「今の大口はな。最も見つかりにくいのがこのルートと言うだけで顧客は全世界にいる。」「拉致した人間もこのルートで運ぶのか。」「バカな。札幌に潜伏するのは目立ちすぎる。このルートはクライアントとや本部・仲間との連絡に使うルートだ。」「俺たちが働くルートはどこなんだ。」「お前のことは本部の了解もとってあるし黙って着いてくりゃ分かるよ。お前の庭みたいな場所さ。」「俺の庭?」やがて、フェリーは小さな港に着いた。
俺たちは旅館に泊まり、翌朝までぐっすり眠った。
茂津は昼間はサーフィンに興じていた。付き合わされたにわかサーファーの俺は全く立つことができない。当然、波にも乗れはしない。傍から見れば先輩サーファーが初心者の後輩を連れてこっそり練習に来ているような風景だ。「刑、もっとパドリングを速くすんだよ。」「無理だ。立つ暇もありゃしねーし。」「だろうな。ところで、島民には遠巻きに見られてもいいが、サーファーはおせっかいに向こうから近づいてくる奴もいる。。そのときは恥ずかしそうに退散するからな。まともに顔を見られ無い様にしろよ。」「それにしちゃ、お前随分楽しんでるじゃねーか。」「仕事だよ、し・ご・と。」彼はこの仕事のために独学でサーフィンを覚えたと言う。サハリン・ルートを利用するのに他人から目立たぬ方法を自分から提案するためだ。このほかにも複数のカモフラージュを考え出したと言う。おかげで組織の信頼も厚いらしい。だが、それも意味がなくなる。彼は組織と共にいずれ始末する。おれはそう決めていた。
深夜、島端の岬にダイバーが着いた。彼らからウェットスーツを受け取り、水先案内をしてもらいながら水中バイクで沖の船まで向かう。そこからは高速でサハリンに向かい、夜明けまで島の小屋で仮眠をとる。茂津は昼過ぎから通信機とさかんに交信し、小型のノートパソコンを忙しくチェックしていた。俺には伝票や在庫確認の作業のように見えていた。恐らくそんなことなんだろう。人身売買の段取りに違いない・・・。夕方、二人の男が小屋を訪ねてきた。依頼者の代理人と通訳だ。「復活はいつになるか。」目つきの鋭い男が小声で囁いたロシア語を隣の通訳が日本語に翻訳して伝えた。周囲のロシア人にこの言葉を聞かれるのは不味いようだ。通訳の声は聞き取りやすい音量だ。日本語を解せる者は今ではほとんどいないからだろう。加えて茂津が通訳の音量を下げる指示を出さないのは俺に仕事を理解させるねらいもあるのだろう。時おり俺に合い槌を求めたり目配せをしたりしてくる。「今、DNAは取り出せた。あとは脳細胞を活性化させて植えつけるだけだ。だが、被検体が不足している。めったに手に入らない先進国の東洋系の女がいたが事情があって処分した。」東洋系の女・・・・処分・・・、俺は一瞬、ジェシーのことを思い出した。茂津の組織がミストと絡んでくるのか。まさかな・・・。「大統領には我々から人材の斡旋という形でその者を紹介したい。従順で優秀な者を頼むよ。もちろん、その者の脳の中での彼の人の復活が必須条件だ。」「我々はあなたたちの理想の為にがんばっている。期限までまだ半年はあるはずだ。」「信じている。オセアニアの未開部族に短期間でステルス戦闘機の操縦技能を移植できるあなた達の仕事ぶりは信頼に足る。非公開のテスト飛行なら猶のこと、ああいった人材が貴重だ。」「論より証拠ですよ。今、別ルートでも優秀な人材を集めていますから。」二人の男はビジネスの進捗状況を聞くと近くの飛行場から小型機で夜の空に飛び立っていった。「お前もいずれこの仕事をするからな。中国語や英語よりもずっとマイナーな日本語は仕事上、重宝だぜ。」茂津は俺にしたり顔で言った。俺はそれには答えず、知りたいことを確認した。
「別ルートってのが俺の庭ってわけだな。」「そんなとこだな。転戦でお前はそのルートを熟知しているはずだ。」「中東、中央アジアだな。」「チェチェン・ウズベキスタン、紛争地帯だからな。」「そのルートが奴隷を運ぶルートってわけだ。」「奴隷じゃない。優秀な素材だ。」「わかったよ。なら、お前も頭をいじってもらえばいいんじゃないのか。」「適材適所だ・・・。」茂津の目が伏し目がちになった瞬間、喉元がひやりとした。ガーバーナイフが押し当てられていた。組織を散々持ち上げる茂津にも迷いがあるのが伺えた。自身に組織を信じるように仕向けることで仕事を冷淡にこなしてきたのだろう。傭兵の頃と少しも変わっていない。組織を掌握する為政者や上官の、すばらしい理想や命令を信じ込むことで仕事を遂行してきたのだ。俺との違いはそこにある。俺は組織を信じない。自分の判断が優先する。
その日の深夜、サハリンから高速艇でウラジオストクに抜け、ユーラシア大陸の横断に入る。ゴビ砂漠の西端あたりまでは小型機で移動する。そこからはエンジンとタンクを改造し軽武装した小型のジープを全速で走らせ、いくつかの紛争地帯を抜けて数十時間ほどでタクラマカン砂漠に入る。一昼夜走ったあたりで茂津は特製のGPSを取り出した。「この辺りに本部がある。」特製のGPSが使用する衛星は彼らが秘密裏に打ち上げたものらしい。他の組織や国家的な存在に所在を知られては不味いということだ。アメリカは打ち上げを察知しているが国家の上層部の者で彼らのビジネスを利用したものがあるらしく、特に直接的な害は無いということで見逃されているようだ。「もちろん、俺たちもアメリカを信じきっているわけじやない。隙あらば抹殺しに来るだろうさ。」「そうだな。特に今回のビジネスはロシアの天才の復活なわけだろ。まるでジュラシックパークの発想だが、アメリカも無関心ではいられないだろう。」そう言ってから俺は直感で我が身に迫る危険を感じ始めていた。ひょっとすると俺が手を出すまでも無く、アメリカがこいつの組織の壊滅作戦を展開してくるかもしれない。死に場所を求める俺にとって巻き添えになるのはかまわない。彼らの組織は磐石で巨大だ。砂漠の真ん中に地下施設を隠してあることからも想像に難くない。正直なところ、俺が抹殺できるのは、この男ぐらいだ。そのあとは蜂の巣になるのか実験台にされるのか全く分からない。最悪、俺はそれでもいい。しかし、この事実はなんとしても白日の下に晒してやりたい。いったいアメリカはいつまで沈黙しているんだ。いや、たとえアメリカが作戦を展開したとしても事実が闇に葬られてしまう可能性はある。俺はどうすれば・・・。
と、そのとき暗闇の中から俺たちのジープに向かって銃撃が始まった。人数はそう多くは無さそうだが、暗闇にしては射撃が正確だ。かなりの速さで間を詰めてくる。茂津はジープに備え付けの火器で周囲に機銃掃射する。砂漠の真ん中には隠れる場所は無い。しかし、敵は一定の速度で間を詰めてくる。俺たち同様、防弾仕様の車両に乗って近づいてきているのか。銃撃音でエンジンの音までは聞き取れない。サーチライトをつけたいが、それは自分達の位置を知らせるようなもので逆効果だ。しかし、このままでは確実に狙い撃ちにされる。俺は頭からアルミシートを羽織って赤外線スコープから見えないようにした。同時にレーザーポインターが照射されていないかを確かめる。「しょっちゅう、こんなことがあるのか!!」俺は叫んだ。「初めてだ!!」茂津も叫んだ。俺たちが叫ぶのとほぼ同時にどこから現れたのか数人の男たちが俺たちの援護に回ってきた。しかし、叫び声が俺たちの正確な位置を相手に知らせてしまったようだ。次の瞬間、茂津の頭が粉々に吹っ飛ばされた。かなり破壊力のある火器による射撃だ。俺は反射的に伏せていた。死にたい男がこの体たらくだ。ふと見ると、5メートルほど先の地面に地下扉が開いていた。彼らはそこから来たのか・・・。俺は周辺警護の者達と共に車ごとその中に収納され大型エレベータで数百メートル降下した。「お前が茂津の戦友か。」警護の男の一人が言った。「ここは大丈夫だ。そう簡単に入ってはこれない。」「あいつらは?」「多分、アメリカの雇った暗殺者たちだ。」「軍隊じゃないのか?」「暗殺旅団ゴルゴダ。裏の世界では有名な連中だ。」「ゴルゴダ?」「依頼を受ければターゲット暗殺に適した規模の部隊を編成し、様々な移動手段で暗殺地点に集結してくる。」「アメリカが自分達の秘密を知っている我々を葬ろうとしているんだろ。だが、暗殺集団ごときに倒せる我々ではない。正規の軍隊でも送り込めば、五分五分だろうが、それでは世界に彼らの秘密がばれてしまうからな。我々を利用したという秘密がな。」男の一人は小ばかにするように言った。「ゴルゴダってのはなぜ、大っぴらにあんなことができるんだ?」「組織の大きさも所属も含め、ほぼ何もかもが不明な暗殺集団だからだろう。捕まりそうになった奴は強力な火薬で自爆して跡形も残さない。アジトもリーダーも見当がつかない。目的の完遂の為にはあんな派手な手口も辞さない。」「暗殺集団ってよりは武力集団・武装集団って感じだな。所属不明の特殊部隊ってとこだな。」俺はつぶやいた。「要人はもとより、強大になりすぎたマフィアのボスの暗殺や狂信的宗教集団の抹殺など何でも引き受ける。これといった思想も何も無く暗殺・殺人のみを遂行する集団だ。成功率はほぼ100%だ。」「気にするこたない。荒っぽい単なる殺人集団さ。」一人の男が嘯いた。確かにあれだけ派手にやって暗殺ってのは無い。上官の指揮下で動く軍隊とも感じが違う。互いの意志の連携で動く薄気味悪い武装殺人集団ってのがぴったりだ。そのうちにエレベータが止まった。
「まあ、あの程度の火力で攻めてもここは落ちない。着いてきたまえ。」地下通路をしばらく歩くと巨大な空間が現れ大きな街が広がった。「これは!!」「茂津から聞いていただろ。素材の収容施設だ。施設というよりは街かな。彼らは自分たちの意志で運命を受け入れている。その代わり、以前よりはかなり豊かに暮らしている。」そこは、地下に出来たオアシス、パラダイスであった。拉致された子ども達や若者が地下街を楽しそうに行き来している。地下施設からの脱出が困難と知るや適応して暮らそうということになったのだろう。どのものの顔も笑顔にあふれ、買い物や会話を楽しんでいる。「話しかけてきてもいいか。」「どうぞ。何を聞いてもかまわんよ。」「何を聞いても・・・か。」男達は俺に行って来いと合図した。俺は通りのカフェテラスまで走り、街中を歩く若者たちにストレートに聞いた。「君らはいずれ、実験されるんだろ。平気なのか。」「平気じゃないよ。でも今を十分楽しんでるし、全ては運命だから。」「実験で必ずしも死ぬわけじゃないし、どこへ連れて行かれるのも全て運命さ。だから、今を精一杯楽しんでる。」「前の暮らしじゃ死ぬまで味わえなかった世界だよ。」
俺は判断ができなくなっていった。茂津たちのしていることは正しいのか。彼らは自分の未来を知っている。なのに、ここでの生活を喜々として楽しみ、充実しているという。聞く若者のどれもがほとんど同じ答えだった。いや、しかし何かが違う。彼らは若い。何かにだまされているんだ。その何かが見えてこない・・・。俺は釈然としないまま、ジープに戻った。「どうだった?」一人の男が言った。俺は黙っていた。「茂津も初めはそうだったよ。疑り深いというか、事実を見ないというか。」茂津も俺と同じだったのか。では、なぜあそこまで組織を信じるようになったんだ。「あいつは死んだ。君にはすぐにでも彼の後を継いで欲しい。」「我々は正しい。だからこそ、大国の悪人どもが、こぞって抹殺を目論むのさ。」「しかし、悪事がばれちゃ不味いから、うっかり派手な手出しは出来ない。それで雇った連中に任せる。」「なるほど、じゃ、あんたたちの仕事をもっと詳しく教えてくれ。」俺は本心から言った。「一言で言うのは難しいが、優秀な人間の脳細胞の一部を遺伝子レベルで別な人間に移植し、洗脳を施した後、クライアントに提供する。」「我々によって生まれ変わった彼らは政治・経済・文化の全てを掌握することも可能な人材となる。」男は希望に満ちた目で街の若者達を見ている。こいつらも組織を信じきっている。「しかも、野心・野望・欲望は無いから雇い主も安心して使える。」「・・・・。」俺は判断ができず、思考停止のまま、黙っていた。「今はレーニンの脳からエリートを作り出す計画を遂行している。かなりよい素材もいたのたが手違いで処分することになった。」「この男にそこまで話す必要はあるのか。」一人の男が制止した。「どうせ茂津が既に話しているだろ。同じ東洋人のことだからな。」「ああ、聞いたことがあるよ。でも、もう少し詳しく知りたいが・・・。」実際は茂津から直接、彼女の話を聞いたことは無い。クライアントの代理人との話を小耳に挟んだ際にジェシーかもしれないと、ふと思っただけだ。「彼だって秘密主義の相手を信じられんだろ。」「じゃ、話そう。素材は東洋系の女。彼女はよい素材だった。移植は段階的に進められる。それもうまくいっていた。彼女はちょうど3段階だった。」「全部で何段階あるんだ。」「拒否反応の有無と能力の発現を確認しながら進めていくから最短で5段階だ。」「毎回開頭するのか。」「いや、金属のカバーをつけて開けたままにしておく。最終段階で本人の骨をはめ込む。」「警護部隊がよく知っているもんだな。」「俺たちもスタッフだからな。この施設の人間はみんな医師の資格を持っている。」「夢のビジネスを支える同士だ。」「なるほど、で、どうして彼女は脱走を・・・。」俺は思わず口にしてしまった。「ん?俺たちは処分したとはいったが脱走者だということは言わなかったぞ。なぜ知ってるんだ。」しまった!!俺は心の中で舌打ちした。腕をだらりと下げて左手でこぶしを握り、右手は手刀を構え、後蹴りの準備をした。「よく知っているな。茂津から聞いたんだな。」救いの一言だった。「ああ。」とっさに相槌を打った。俺は臨戦態勢を解除した。さっきは危うくミストの情報までしゃべってしまうところだった。一つはっきりしたのはミストのジェシーをモンスターにしようとしたのはこいつらだということだ。「あの女は異例の早さで順応していった。3段階で終了だ。その分、洗脳が間に合わなかった。」「あっ、言っておくが私達の施す洗脳は本人の為のものだ。悪い意味の洗脳ではない。」「よくわからないな。」「新しい幸福を得る為に貧しい過去・くだらない過去を忘れる洗脳だ。」「世界を動かす立場になりうるのだから当然だろ。過去を忘れる程度の犠牲は。」俺は黙って聞いていた。過去を忘れる洗脳。過去を忘れられる・・・・、今の俺が欲しいものかも知れない。いや、今考えるべきはジェシーのことだ。彼女は何故、あの街の若者に同化しなかったのか。どうして脱出を考えたんだ。洗脳の失敗?。ジェシーは未来を運命を受け入れられなかった・・・。彼女が未開の部族ではなかったからか・・・。自身の信念のゆえなのか・・・。未来は運命が決める・・・・。あの街の者達はそう信じ、運命を受け入れるのみだった。運命、運命・・・・!。そうか、クライアントの意向に沿う為の彼らに対する本格的な洗脳はまだ先で、街に住む段階で初期の洗脳がなされているのかもしれない。全てを受け入れられるように。彼女はそれを受け入れられなかった。彼女は無神論者だともいっていた。加えて、洗脳期間も短かった。「人間の明るい未来について祈りたい気分になってきた。この街に教会はあるのか。」「あるよ。モスクも寺院も自然神を祭る場所も、彼らの信じる神々は全てな。」「ちょっと参拝してきても言いか。」「ああ。」そのとき、彼らは目配せをしていた。顔は笑顔のままだが俺が何かに気づいたと察知したのだろう。彼らは俺についてくることは無かった。俺はいくつかの信仰の拠点を回った。予想通りだった。ジェシー、彼女もそれに気づいたのだ。大抵の人間は信仰対象をあれこれと変えていくつも巡ることは少ない。特に、文明の要素が少なければ信仰の対象も限定されてくるだろう。そう・・・・、どの拠点でも直接的にあるいは間接的に口にされていたのは「運命を受け入れよ。」ということ。これによって彼らは信念や宗派を超えて、一つの方向に洗脳されていたのだ。だから、暴動も反逆も脱走行為もほとんど起こらない。俺はこのまま、街に逃げ込むことも考えたが洗脳された者たちの住むこの街では異端児の俺はすぐに見つけられてしまう。若者達が次々と密告してしまうだろう。戻ってきた俺には予想通り、いきなり銃が突きつけられた。一人が俺の前に透明なケースに入ったジェシーの頭を突きつけてきた。こいつらは初めから俺を試すつもりでいたんだ。茂津の話を鵜呑みにしていなかったってことだ。彼女の顔を見た瞬間、こみ上げるものを感じた。ポーカーフェイスではいられなかった。「顔色が変わったな。この女は高級娼婦だぜ。お前みたいな男の相手はしない。どういうことだ。」「しかも、街の秘密に気づいたようだな。お前は何だ。ゴルゴダでも無い。各国の諜報機関のものでもない。アメリカの手先でも無い。とすると、取り引き完了後に我々を消すのはロシア。そういうことか。」「あんたら・・・それしか調べてないのか。」「いや、正直なところ、お前はそのどれにも当てはまらんのだ。ほんとにただの男なのか。」「その通りさ。この女を愛してしまったな・・・。」答えながら、ズボンのポケットの上に手を当てて中のストロー大の鉄製の筒の先を親指と人差し指で後方に向ける。前から狙っている奴より、後の奴が気になるからだ。ポケットの内側には紙やすりが貼ってあり、下地は石綿で熱を遮断できるようになっている。そのまま、マッチをするような感じでパイプの後端をポケットの上から裏地にこすり付ける。パイプの火薬が点火されすぐにポケットが破れて後方の数人に散弾が命中する。動きを止めるには十分な威力だ。すぐさま、ひるんだ前方の男の腹に足の爪先をめりこませる。あとはどうなるかわからない。とにかく、今の窮地を脱するしかない。前方の男が倒れかけたとき、驚いて逃げていく人影があった。街の住人だろう。一瞬の出来事にさぞ、面食らっているに違いない。蹴りを喰らった男はそのまま、地面に倒れていった。瞬間、男の頭が破裂した。なんだ!俺の蹴りのせいか!!
窮地に追い込まれて俺は漫画の技でも身につけてしまったのか。後方の男たちが痛みをこらえて起き上がり、再び俺に銃を向ける。致命傷は無理だが首辺りに後回し蹴りを食らわす。瞬間に男の頭が破裂する。わからねー、何が起きてるんだ。振り向きざまにタックルを食らわした男は背中が破裂して真っ二つに裂けた。施設内には非常サイレンが鳴り響いていた。夥しい数の警護の者達がこちらに向かってくる足音がする。もう、終わりだ。
武装した研究員が大挙してジープの方に向かってくる。街を突き抜ける巨大な通路が白衣の集団でいっぱいになる。どいつも、こいつも、ここの仕事を信じきっている顔だ。他人から自由を奪ってでも理想を叶えることが人類の明るい未来を築くのだと信じきっている顔だ。分厚い一枚岩。とても勝ち目は無い。どんなに小さなトラブルでも全力で阻止する体勢がここにはある。そう気づいたときにはもう遅かった。それでも抵抗してすぐさま蜂の巣になるよりは捕獲された方がよいと咄嗟に決断した。実験体にされるかなぶり殺される可能性もあるが外へ情報を流すチャンスがほんの少しでもあるかも知れないと思ったからだ。彼らが俺を取り巻いた。一人の男が近づいてきた。「ここでは人体を大切に扱う。抵抗しなければこの場で殺しはしない。」「人体・・・、なるほど人命は一番じゃないのか。」「命・・・、そんなものは目に見えない。人体を大切にすれば命というものも守られる。それだけのことだ。」「随分、割り切った考えだな。」「無駄口はもういいでしょう。私達についてきなさい。逆らえば、人体の安全は保証しません。」「わかったよ。」俺は5人の男に連れられてエレベータに乗り、さらに地下へと降下していった。何も無い明るく広い通路を300メートルほど歩いた。「一応、名前を聞かせてもらおう。」一人の男が行った。「刑。」「苗字は。」「播津。」「君は素材として扱う。その前に過去の履歴を調べさせてもらう。」「一つ聞いてもいいか。」「どうぞ。」「あの街の連中も過去を調べられたのか。」「メンバーが集めてきた素材は出所が分かっているからそんなことはしない。洗脳でリセットするから過去はどうでもよい。」「一人一人、調べていたらきりが無いしな。」「俺は正規に集められていないから調べるわけか。」「そうだ。ゴルゴダが潜入したと言う噂もあるんでな。」「まあ、多勢に無勢だし、仮にダイナマイトを使ってもびくともしない施設だから、ゆっくり時間をかけて聞いてもいいが我々もビジネスがあって忙しいのでね。」「自白剤か。」「まさか。その頭に直接聞くから君は何も考えんでいい。」そのとき、一人の男が唐突に尋ねてきた。「倉石を知っているかい。」俺は顔色を変えてその男の顔を見た。端整な顔立ちの白人の男だった。「間違いない。播津 刑 君だね。」4人の男がしまったという顔をした瞬間、男達の体を細いワイヤーが目にも留まらぬ速さで貫いていくのが見えた。全員の心臓を縫うように串刺しにしていく。しかし、全員が一瞬で絶命するとは限らない。絶命までのショック状態のまま、懐から火器を取り出し振り回す者もいる。手榴弾でも使われたらこっちもただではすまない。駆け寄り、首を一撃する。彼らの体をすり抜けたワイヤーがするすると抜けていき、1人の男のリストバンドに収まる。「どうでした、頭を吹っ飛ばした快感は・・・。私がニトロを打ち込んどいてやったんですよ。」「あんたは。」「私はミストのエージェント。マチェク。2年前から潜入していました。倉石とのミッションで半年後に壊滅作戦を実行予定でしたが、ゴルゴダが動き出したということで計画を早めていました。彼らが動き出すと静かに仕事が出来ないですからね。でも、あなたが来たのは想定外でしたね。」「日本人でもねーのに謙遜してんじゃねーよ。ミストの天才さんなら俺が来るのは想定内だったんじゃないのか。」「確かにあなたの合流の可能性は指摘されていましたがこんなに早く来るとは・・・。」またしてもミストの手の内にあるのかと俺は舌打ちをした。「わかったよ。詳しいことは後でいいや。これからどうするんだ。」「倉石を待ちます。」「来るのは倉石だけか。」「そうです。」「おい、無理だろ。たった二人でここを壊滅させるつもりだったのか。」「そうです。二人で落とします。」「本気か。」「ミストのミッションは最少人数で臨みます。達成難度はかなり上がりますが裏切りや稼動人数の多さによる発覚の可能性は逆にかなり下がります。証拠・痕跡が最小限に出来ます。」「はぁーあ・・・、さすがだな、あんたら・・・。」俺は半ば呆れながら言った。「今のところ、しくじったことはありません。」「ところで、俺の周りにいた奴らがぶっ飛んだのもあんたの仕業か。」「奴らを爆破したのは倉石からあなたのことを聞いていたからです。先ほどまで確信はありませんでしたが、万一と思い、街の住人の振りをしてこれで仕込んだんです。」マチェクはスティレット(錐刀)のようなものを手にしていた。「何だそれは。」「今、説明している時間はありません。この亡骸を片付けないと。」「あんたほどの技術があれば消去できるんじゃないのか。」「もちろんです。でも、作戦後にミストのスペシャリストが身元を鑑定するので。」「何のためだ。」「ターゲットの側近にゴルゴダや某国の諜報員が紛れ込んでいたり、ターゲット自身が部下に成りすましてリーダー格に据えた替え玉を暗殺させようとしていたり、一筋縄ではいかない状況が増えてきているので確認が必要なのです。」「ふーん、相手を殺るまでだって一苦労だってのに、殺ってお終いってほど単純じゃないんだな。」俺は白衣を身につけた。それから4人の亡骸をガッシュと二人で脳検査室のダイヤル・ロックのついたトランク・ルームに押し込んだ。この部屋に入れるのはマチェク始め、脳科学に詳しい数人だと言う。発見まで少しは時間が稼げるらしい。俺たちはエレベータに乗って研究員の生活ブロックに向かった。マチェクは一室を提供されていてた。広いフロアーに応接セットとリビングとベッドルームが配されていた。俺は彼らの計画とは別に自分の感情をぶちまける質問をした。「なぜ、彼女をここに戻した。」「ジェシーのことですね。」「ミストのシナリオなのか。奴ら、返って警戒態勢に入っちまってるし、なにより人間のすることじゃない。」「倉石の案ですよ。素材回収時に私がこっそり受け取って街の協会に置いといたんです。ミストは各国諜報部とは違って自由裁量です。シナリオの解釈と実行はエージェントに任されているんです。」「じゃ、何のために彼女を。」「彼女の頭部はターゲットへの挑戦状です。あなたにとってはミストへの招待状だったそうです。」「死んでまで利用するのか。倉石は人でなしだ。」「違います。彼女の希望ですよ。」「なんだって。」「脱出した彼女を助けに行ったのは倉石です。」「!?」「彼女は潜入作戦の際に倉石に頼んでいたそうです。」「頼んでいた?」「潜入作戦は倉石と彼女が進めていました。潜入後に入った彼女からの通信によると、万が一のときは自分の身を作戦のために使ってくれということだったらしいです。脳への移植措置がなされた時点でこの体はもう自分の意識下のものでは無くなると彼女が判断したからだろうと倉石が言ってました。そして、あなたは信頼できる人間であり、彼女の代わりにミストのミッションで必ずコンビを組んで欲しいと倉石に伝えていたそうです。それで倉石は物言わなくなった彼女とあなたを合わせたのです。」「・・・だが、倉石はあの日、俺をそのまま日本に返した・・・。」「倉石は私と違って待てるタイプですからね。私は早く片付けたいタイプなので先ほどのように一遍に処理してしまいます。後始末は苦労しますがね。」「彼女は今どこにいるんだ。静かな場所に戻してやりたい。」「この仕事が終われば戻してやれます。今回はミストのミッションであると同時に彼女の弔い合戦でもあります。」「弔い合戦?」「倉石がそう言ってました。ターゲットを打ち倒す様を彼女に見せるのだと。私はそんなことに興味はありませんが。」「あいつ、案外、古風な男なんだな。」俺は倉石という人間を軽蔑していたことを後悔し始めていた。「あー、一応、言っときますが会話は盗聴されてますよ。」「なんだって!!」「でも、室内マイクの発信機には別音声を送信してあります。外との通信時も同様の処置をしてあります。」「脅かすなよ。」「あなたが安心しきっているので・・。」「常に疑えと言うことか。」「生き残るためです。私が敵のスパイだったらどうします。盗聴に気づいていなかったらどうします。」確かに俺は盗聴を警戒していなかった。完全に安心しきっていたからだろう。「あんたの手口にすっかり感心して疑う気が全く起こらなかった。それほどの人間が相手なら、やられちまっても本望だしな。」「うれしいですね。でも、あなたが見たのは私の開発したアイテムのほんの一部ですよ。」「一部?」「今回の仕事のための最新アイテムがあります。仕事場が私にとっての最高の実験場です。」「実験場?あんたもここの奴らと一緒か。」「否定はしません。紙一重の違いですよ。」
俺は少し背筋が寒くなった。「倉石はいつ合流するんだ。」「素材に混ざって運ばれてきますから三日後ですね。ただ、ゴルゴダが動き出したので予定通りに到着できるかは分かりません。」「ゴルゴダってのについて知りたいが・・・。」「さっき、倒した連中から聞いたとおりですよ。」「体内ニトロでふっ飛ばした連中か。」「はい。」「天才のミストさんにもわからねーのか。」「はい。分かっているのはゴルゴダが善悪の判断無く、外部の依頼で動いているようだということです。ミストは外部の依頼は一切受けません。上層部のプランの実行のみです。」「つまり、あんたとここの連中と同じようにミストもゴルゴダと紙一重ってことか。」「そうでしょうね。私見ですが否定はしません。」
「疲れた。眠らせてくれ。」
「はるばる来られたのですから無理も無いですね。どうぞ。」
マチェクはベッドを指差した。
「あんたはどうするんだ。」
「私は見習い同然のあなたとは違う正規のミスト・エージェントです。睡眠などは細切れでも十分に摂れます。」
「じゃ、遠慮しねーよ。ただ、言っとくが俺はまだミストじゃねーし、あんたの仲間でもねーからな。」
「アイム・ノット・ジャパニーズ. ワッツ・アー・ユー・セイ『遠慮』? アンド・・・キャント・アンダスタンド・ワッツ・ユー・セイ.」
マチェクの中途半端にウィットなジョークまがいの声かけを尻目に俺は寝入った振りをする。すぐにでもまどろみそうだったが、まだ状況を納得しきれていない。答えが出ぬうちに眠るのは失敗を招く迂闊な行為だ。マチェクに背を向けたまま、横になってはいるがいつでも反撃できるよう、体の一部は緊張を残している。この男をどこまで信用できるかわからない。いつ、例の武器で俺を串刺しにするとも限らない。そんなことを考えているうちに寝息が聞こえてきた。俺は寝返りを打ち、薄めでマチェクの方を見る。彼はソファに座ったままの姿勢で眠っている。倉石が来るのは三日後か。確かにこのままじゃ、体がもたねーな。でも、こいつをまだ信用できねーし。本当に倉石は来るのか。こいつがゴルゴダとやらのエージェントなんじゃねーのか。俺を捨て駒に利用してここを壊滅させる気なんじゃないのか。だいたい倉石から聞いていたミストの手口としてはこの男のやり方は荒っぽい。それにミストが狙うのはターゲットのみだと聞いている。こいつは俺に絡んできた奴らをことごとく排除しちまった。外で銃撃してきたゴルゴダの連中と同じだ。やつらは組織と無関係の俺も巻き添えにするつもりだった。自ら、やつらと紙一重だとは言っていたが・・・。納得できねー。こいつも俺の寝首を掻くために寝た振りをしている・・・。俺に研究員殺しの咎を負わせて処刑し、組織の上層部に信用させてターゲットに近づく・・・。処刑実行の邪魔になる側近の研究員をあらかじめ片付けておけば仕事は楽だからな。実際、俺は街で複数の研究員を爆死させている。目撃者も大勢いる。罪を被せるには絶好の鴨だ。よし、こっちから仕掛けてみるか。俺は横になったまま、腰のポケットからコインを取り出してベッドの下に落としてみた。彼は反応しない。狸め・・・。今度はベッドから起き上がり首筋目がけて手刀を振り下ろす。加減はしない。本当に影の組織のエージェントならこんな間抜けな最後は無いはずだ。しかし、彼の反応は無く、寸止めも間に合わないと思ったその瞬間、体に電撃が走った。同時に何かのガスを浴びせられた。俺は声も出せずにその場にへたり込んだ。体中に痺れが残っていて声が出ない。しかも、強烈な睡魔が襲ってきた。マチェクは相変わらず寝息を立てたままだった。こいつ、本当に熟睡してやがる・・・・。なんてこった・・・・。俺はその場で眠り込んでしまった。
「やはり、刑が来たか。それにしても早いお着きだな。ミストの予想のうちの最速のパターンだな。」
倉石は軍用トラックの荷台の上に横たわっていた。荷台には幌が被されていた。成人素材専用の運搬チームに捕獲された者たちはクロロフォルムで眠らされていた。一人一人が蓋付きの分厚いウレタン・ケースの中に大事に詰め込まれていた。それだけに倉石としてはマイクロレシーバでの通信が容易く出来た。少々狭いが任務遂行の過程としては実に快適な時間だった。食事は眠ったまま点滴で与えられるので便意も無い。マチェクの用意してくれたカプセルを噛み潰したお陰で麻酔は超高速で解毒され、意識もはっきりしていた。
刑がいるってことは半月の計画が二日で終わるかもしれない。刑にはヘマをしてもらう形にはなるが仕事は早いに越したことは無いな。倉石はほくそえんだ。
「お目覚めですか。」
「う、う・・・。」
「随分と寝相が悪いですね。」
俺は横になったまま、目を開けた。マチェクはテーブルでコーヒーを飲んでいる。
「今は何時だ。」
「ほう、地下なので時間の感覚がなくなりましたか。」
「ふざけるな。お前、俺に何をしたんだ。」俺はゆっくりと床から起き上がった。
「もう、二日経ちましたよ。」
「二日?!」
「おかげで私も規則的に眠ることができました。あなたも疲れがすっかりとれたことでしょう。」
「冗談じゃねー。床に転がらされて体が痛えーや。ベッドに運んでくれてもよかったろ。」
「初日は私もソファで寝たんですから、ミスト・エージェントとしてそれぐらい我慢してください。」
「じゃ、二日目はなぜ放置してたんだ。」俺は手の平の付け根で頭をたたきながらマチェクに近づいた。
「それですよ。不用意に私に近づいた罰です。私もあなたを信じ切れていません。でも、あなたと決定的に違うのは私はあなたより優位にいるということです。」
「どういうことだ。」
「絶対負けない、ということですよ。」
「気にいらねーな。」
「まっ、いいでしょう。私はこれから勤務に出ます。」
「勤務?」
「あなたが寝てた間、私はきちんと、このシェルターの仕事に励んでいました。怪しまれちゃまずいですからね。したがって、昨晩のベッドは私が使いました。働いたのだから当然です。」
「ちょっと、待て。そのことはいいとして、俺が聞きたいのは・・・・。」
「眠りこけた理由ですね。あなたは睡眠ガスの効きが甚だよい体質だということですよ。」
「睡眠ガス?」
「忙しいので、手短に言います。私はどこでも熟睡できるよう、下着に睡眠ガスの発生器具を装着しています。元々、不眠症なもので。ただ、寝首を掻かれぬよう・・・。」
「寝首を!」俺はドキッとした。
「そんな間抜けな最後は嫌ですからね。体の急所には高電圧を発生する超小型の電磁波パッドを着けてます。自分の体に対してはアースを着けているので反応はありませんが他人の体が数センチまで近づくと感電します。同時に通常の2倍の濃度の睡眠ガスを周囲に噴射します。よほど不運で無い限り、昏睡状態になることはありませんが。」
「ってことは、俺は昏睡しかけたってことか・・・。」
「私を信じなかった罰です。では、私は仕事に行きます。今晩、0時過ぎに倉石が着きます。受け取りは私達の部署で行われます。」
「そこで一気に片をつけるのか。」
「それは無理です。ターゲットが逃げてしまいます。」
「なるほど、その場に社長はいないってわけだ。」
「まずは倉石とここで打ち合わせて、連中が素材である倉石の失踪に気づく前に片付けます。あなたが来てくれたお陰で仕事はかなり早く片付くと思います。では・・・。」
マチェクは白衣をまとって足早に部屋を出て行った。俺はソファの上で再び、横になった。運び込みは深夜らしいし、とりあえず腹ごしらえと居眠りでもして倉石の到着を待つことにしよう。・・・・待てよ、またゴルゴダの連中が侵入経路に強行突入する為に襲って来やしないか・・・。う~ん、そんときゃドサクサで研究員に紛れて外へ出て行って加勢すりゃいいか。それにマチェクもいるし、何とかなるだろ。!! 。なんてこった。いつの間にかミストのメンバーの気持ちになってやがる。俺は彼女のために協力しているだけだ。まだミストの影になる気は・・・・。とにかく今は休息だ。ここは敵地の真っ只中、しかも多勢に無勢。その中でターゲットだけを処分するんだから至難の業だ。万全の調子で臨まなきゃなんねーし、今は余計なことは考えるな。おれは自分の気持ちを整理するのを止めた。とにかく進むしかない。そして生き延びるしかない。彼女の願いの為に・・・。
深夜、ゴルゴダの襲撃は無かった。部屋に戻るとマチェクから連絡が入った。倉石は明け方に来るという。素材としてわざと捕獲された彼は今、街に住むための初期の洗脳を施されている。幻覚剤を打たれて催眠をかけられているようなものだ。当然、マチェクが解毒剤を渡しているから効き目は無い。所員数人を眠らせてから、ここに来る予定だ。もちろん、眠らせるのは永遠にということではない。ミストはターゲット以外の処分は原則、認めていない。マチェクも例外規定を利用出来るとき以外は処刑レベルのアイテムは使わないそうだ。だが、例外規定がどんなものかは気になる。彼らは任務が済んだら教えてやるといっているが、定かなもんじゃない。俺はマチェクが戻ってくる前に部屋を出て、単独で施設の調査を始めた。彼らを全く信用しないわけではないが、俺自身で戦場を確かめたかったからだ。数人は眠らせることになるかもしれない。だが、マチェクの話からして状況は急を要する。倉石が所員を眠らせてから来るということはその発覚、もしくは発覚直後までにはケリをつけるということを意味するだろうからだ。俺が眠らせた奴らが見つかる頃には仕事が済んでいるということだ。つまり、勝負は一両日中になるというわけだ。一部施設内所員の不明といった異常は感知されるが、その調査の前に仕事は済むだろう。ならば、俺が動いても支障はあるまい。左右にいくつかの居住施設の扉が並ぶ真っ白な長い廊下を数百メートルほど歩いていくと観葉植物の植え込みが見えてきた。そこに壁は無くガラス張りのオフィスが見えている。ソファとテーブルも配置されていて、商談も行われているような部屋だ。中に人の気配は無い。侵入は容易だった。普通のオフィスやマンションとさして変わらない。オートロック式の鍵を使って開ける仕組みだ。シリンダー内の突起と個人の持っている鍵のくぼみの特定の配列がかみ合えば開錠できる。トップシークレットを扱う施設のセキュリティだと考えると何とも簡単な仕組みだ。ここまで入れる人間は相当のチェックがなされているからなのだろう。ほぼフリーパスに近い状態で出入りが出来るわけだ。ターゲットの使う社長室はこの奥にあるのか、それとも別室か。いつもこの施設内にいるのではないのだろうが、二人が潜伏したということはどこかにターゲットの専用ルームが用意されているはずだ。俺は明るい部屋の中を低い姿勢で移動する。奥にサンプル・ルームという表示が見えた。このオフィスの中にある別室はそこだけだ。俺はふとジェシーの顔を思い浮かべた。サンプル・ルーム・・・、彼女はここにいるんじゃないのか。・・・・いや、分析するなら研究施設のあるブロックか・・・・。しかし、ここは顧客らが出入りする部屋だろう。中を見ておく意味はある・・・。鍵はオフィスの入り口に比べ、やや厳重そうな電子錠だ。とは言え、個体を認証するタイプのものではない。俺はかつて、倉石から渡された開錠ツールを襟足のポケットから取り出した。細い棒状のツールをロックの隙間に差し込む。さて、電流を流すか、ワイヤレスの小型イヤホンで内部の音を聞きながら開錠してみるか、あるいは先端から爆薬を注入して鍵そのものを破壊するか。・・・時間が無いな。俺は爆薬を注入して鍵を破壊した。爆発音自体はオフィスの外にはほとんど聞こえないはずだ。サンプル・ルームの中に誰かがいれば通報されるだろう。俺は扉を開けると同時に内部に入った。誰もいない。その瞬間、俺は凍りついた。液体の満たされた縦型のカプセルに浮かぶ人体、臓器・・・。壁に埋め込まれた横型のカプセルには液体は無く、プラスティネーション加工されていると思しき人体が個別に複数展示されている。どういうことだ?奴らのビジネスは闇のシンクタンク。人体や臓器の保存とどんな関係が・・・。やつらは子ども達を臓器売買の闇ブローカーから救っているとも言っていた。開頭はするが命は取らないのだと・・・。そのとき、部屋にはいってくる複数の足音が聞こえた。時計を見る。午前四時。仕事が始まる時間なのか。この程度の調査に思ったより時間がかかってしまった。表の鍵は閉めておいたから怪しまれてはいないはずだ。だが、この部屋の鍵は黒こげだ。足音からすれば、人数は二人。大したことは無い。通報される前に片付けるしかない。俺は扉の裏に隠れて所員が近づいてくるのを待った。異変に気づけば、一人は踵を返し警報ボタンに向かうだろう。もう一人は警戒しながらこちらへ来るか、あるいは扉の前にとどまるか・・・。いずれにせよ、その瞬間に目の前の敵に体当たりし、もう一人には背後から仕掛ける。それだけだ。足音は扉の前で止まった。一瞬の静寂。俺は先手を打って外へ飛び出そうとした。首筋に薄く鋭いクリスタル・ガラスが触れる。瞬間に俺は体を静止した。「上出来です。」刃物が喉元を離れた。「あわてるな、播津。入るぞ。いいな。」マチェクと倉石だった。「久しぶりだな。」倉石は鍵のこげた扉を締めて、中に入ってきた。「マチェクからお前が単独行動に出たようだと聞いたんで、お前が最初に立ち寄りそうな部屋を案内してもらったんだ。」マチェクは外で見張りをしている。エリート所員として疑われていないから、うってつけだ。マチェクは手にした携帯電話の画面をスライドしながら、たぐりよせるようにクリスタルガラスのナイフをしまいこんだ。折りたたんであるアンテナはニトロ・カプセルの注入ツールになっている。もちろん、一般のケータイ電話同様の諸機能や特殊な通信機能、盗聴機能なども備えたアイテムだ。「商談は明日の深夜です。社長も来ます。」マチェクが扉越しに言う。「どうだ。ミストの仕事は。」倉石が尋ねてきた。「俺は彼女の為に来た。」「彼女もミストだ。」「俺は裏切るかも知れねーぞ。今のうちに殺っちまったらどうだ。お前はどうにかなるが、マチェクには勝てる気がしねーからな。」「それも一方法だが、ミストは自身のエージェントを社会的に抹殺することができる。リークしても単なる嘘として葬り去られる。」「うそつきな役立たずの人間にしてしまうわけか。」「命があるだけましだろ。警察や国家の諜報部が追及してもミストは決して尻尾を出さない。結局背いたものは誰からも信用されなくなる。」「選択肢は無しか。」「少なくとも、マチェクと渡り合うのは無理だろ。お前と心根が違う。あいつはためらわない。彼はパニッシャー・エリートだ。ミストが提示した本命人物を的確に処分する。手口は荒っぽいが世界トップレベルのテクノロジーを駆使する彼にかかってはターゲットは逃れようも無い。警察関係者はロボットか未来の使者による手口としか思えない。対して、俺の専門は調査とスカウトと偽装工作だ。その際に最小限の殺しが絡むことはあるがその程度だ。お前もその点はわかってるだろ。」「じゃ、お前は何のためにここへ潜入したんだ。ターゲットを仕留めるのにお前の専門は必要ないだろ。」「俺もお前と同じさ。彼女の為だ。」「本気か。マチェクから聞いちゃいたが。そんなことをミストが容認するのか。」「ある程度は自由裁量だ。それに今回は俺のスカウトしたお前の実地テストの意味もある。」「お前がいちゃ、かえって足手まといだぜ。」俺は虚勢を張った。「わかった。じゃ、仕事を確実にこなしてもらう為にいくつか話をしてもいいか。」「ここまで来たらやるしかないからな。面白い話ならいいぜ。」「長い話になる。だが、お前には知っておいてほしいことだ。それが仕事の原動力にもなる。」そのとき、扉がカチャカチャ鳴った。俺は殺気立ったが、倉石は落ち着いていた。「今、破損部をカモフラージュしました。これで扉は異常なしに見えます。私はデスクで仕事の振りをしてますから、ゆっくり話してください。」マチェクの声がした。「あっ、もちろん盗聴もされてますから、妨害はしときますよ。」マチェクはケータイを開き、部屋の中の複数の集音機器にマチェクの発信する電磁フィルターがかかっていることを再確認した。俺はマチェクと倉石のコンビネーションに少し羨望を感じた。結局、俺一人じゃ何も出来なかった。マチェクがいなけりゃ今頃、実験台だ。茂津を始末したのもゴルゴダで俺じゃない。俺はシートに包まっていただけだった。この二人はまるで戦友だ・・・、闇で闘い続ける正義だ・・・。「聞いてるのか、刑。何考えてる。ここは戦場だぞ。ボーっとすれば命取りになるぜ。」倉石の静かな声が頭に響いてきた。「すまん。」俺は我に帰った。「今回のビジネスでは冷凍保管された偉人の脳の一部を他人の脳内に移植、再生させるつもりらしいが、実際のところ、これはまだ無理なんだ。」「じゃ、はったりなのか。」「今回の件に関してはな。死後1年以上経った脳での成功例は聞かされていない。」「1年経っていなければ成功しているのか。」「脳から抽出した記憶の一部や運動能力の再生が数人で成功しているらしい。もちろん、成果は公にはされていないがな。でも、お前も知っているだろう、例のパイロットの失踪を・・・。闇のシンクタンクは最先端の科学者たちに行き過ぎたバイオテクノロジーの実験を可能にする場を提供しているんだ。」「しかし、そんな優秀な科学者が参画しているなら闇の存在にはならないだろ。」「もちろん、№1をスカウトするんじゃない。№1になれなかった無名の人物に当たりをかけるんだ。№1の所作をつぶさに観察していたようなそれでいて目立たない人物にね。本来は野望をもたない従順な医学オタクタイプの人間に揺さぶりをかける。そのうちに野心が目覚める。それに乗じて本格的にスカウトする。もちろん、拉致してきた学者も中にはいるがな。」「それじゃ、白衣の連中も犠牲者じゃねーか。」「そうも言えるが、いい大人だ。やってきたことの償いはしてもらう。」「でも、一括りにして殺るってのはひどすぎないか。」「何言ってんだ。お前は戦場で相手がなぜ兵士になったかなど考えもしないで倒してきたんだろ。家族や仲間を人質に取られて前線に出ていた俄かづくりのゲリラや政府軍兵士なんてのはザラにいるんだからな。」「その通りさ。だから、俺は闇雲な殺しはもう。」「やはり、お前はマチェクとは違うな。俺のチームに入れてよかった。お前がストッパーになる。」「まだ仲間になるとは・・・。」「頑固だな。いや、女々しいくらいだ。てめぇのしてきたことは今よくわかっただろ。だから、罪滅ぼしでミストに従えといってるんだ。寝ぼけるな。」俺は返す言葉が無く、倉石の顔を見ることができなかった。「よく聞けよ。」倉石はゆっくりと話し出した。「俺達のターゲットは彼ら科学者を炊きつける指示を出した張本人たちだけだよ。原則としてな。」「つまり、社長と・・・・、所長だけか。」「ほっとしたようだな。」倉石がしたり顔で言った。「マチェクがどうでるかはわからんがな。でも、これだけの組織が相手だ。必要なときに躊躇すればお前がやられるだけだ。そのときは俺たちがお前の体を処置する。」「処置?」「ただ死んで楽になれるとは思うなよ。ミストとのつながりをきっちりと断ってもらう。」「どうするんだ。」「ミストはゴルゴダのようなターゲット以外の処分を原則として許さない。それだけミッションは難しく、命を落とすこともあれば、第三者に見られることもある。お前は誰かに見られたらどうする。」「そいつを消すのか・・・。」「バカか。それこそ闇雲な殺しじゃねーか。」「バカ・・・。」「見られたのは、てめーのヘマだろ。見た奴を消すのが死ぬのを覚悟してきた人間の考えることか。甘すぎるぜ。」「死ねということか。」「それだけじゃ足りねーんだよ。処置を施してくれなきゃな。」「そこは私が話しましょう。」マチェクが部屋に入ってきた。「その前に確認です。ミストのエージェントになってくださいますね。ジェシーさんも、それを望んでらっしゃった。」完全に俺の負けだった。粋がっていただけの死にぞこないのナルシストだった自分に気づかされた。俺はうなづいた。しばらくあとにマチェクから聞いたのだが、倉石はあらゆるトラップを仕掛けるのが手口で、それは相手を拉致する為にすれ違いざまに催眠スプレーをふきかけるような直接的なものだったり誘き出すための巧みな話術だったり謀略戦術だったりするということだった。つまり、必要な時には饒舌にもなり、あるいは脅す口調にもなる。おれはまんまと倉石にしてやられたのかも知れない。しかし、倉石はもともとあまり多くを語る男ではない。このときの言葉は俺の心に深く刺さる真実を含んでいた。その真実に俺は打ち負かされた。あるいは目覚めさせられたのだ。倉石はマチェクに目配せをした。「あなたの思ったとおり、見られたときは自ら消えるのが暗黙のルール。ですが、たとえ爆死しても体の一部から素性がばれてしまいます。近くに溶鉱炉でもあれば、それに飛び込めます。しかし、そんな現場は滅多に無いのでこれを使います。」マチェクは放射線マークのついた2本のスティックを取り出した。「これには致死量の数倍の放射性物質が入っています。2つをドッキングすることで中身が開放され即死します。核汚染された遺体は誰も鑑定したがりませんし、、鑑定したところで遺伝子も全て破壊されています。個人を特定する情報を取り出すことはほとんど不可能です。ただ、何がしかの組織の存在は確信されることでしょう。でも、それが突き止められることはありません。ミストの方がはるかに上手ですから。」死を受け入れて生きてきたつもりの俺は倉石の言葉に続き、マチェクの言葉にも身震いを隠せなかった。「処置」とは、人としての死を認めないということ。その肉片までも最悪の物質に変える作業を意味していた。「さすがにビビるだろ。俺も同じさ。これの世話になりたかないから生き延びてこられたんだよ。」倉石が冗談っぽく笑みながら呟いた。マチェクは再び、出て行った。「ところで彼女の頭の手術痕を見ただろう。あまりに稚拙な実験だ。優秀な人間の脳から抽出した神経組織の移植と洗脳教育システム。偉人のDNAを少しでも優秀な人間の脳に移植することで偉人の復活が可能だと考えている。」「元の人間の意志など、おかまいなしだな。」「そのあたりもいじって新しい人格が侵食しやすいようにしている。」「つまり、優秀な人間の思考・意志・人格の入れ物となる、別人となるわけだな。」「うまくいけばな。」「うまくいけば・・・?。失敗例が多いのか。」「ほとんどが失敗例だよ。表ざたになってないだけだ。彼らはほぼ成功した人材のみ、クライアントに提供しているからな。」「じゃ、ここにあるのは・・・。」「そう、失敗例の別利用のサイドビジネスだ。実際はこっちが本業のようなものだ。街の人間達の健全な臓器とカリスマ達のプラスティネーション保存。もちろん、臓器は別保存するから、はったりで故人の脳細胞の移植による高能力人材の製造についても持ちかければ儲けは倍増だ。一方で、研究の失敗は子ども達始め集められた人間の人生を握りつぶし、未来ある優秀な人材を根絶やしにすることにもつながる。成功しても独裁を陰で操る存在が生まれるだけだ。どちらにしても世界全体からすればデメリットしかない。だから、ミストが動いた。」「だから?正義の組織なら動くのが当たり前だろ。」「お前、俺が以前に説明したことを忘れてるな。ミストは善でも悪でもない。未来の人類存続の為なら現代社会で善とされている存在でも抹殺する。」「やっぱりお前らの考えはよくわからねーや。」「今回の仕事の理由はかなり分かりやすい方だぞ。やつらは貧しい地域へ素材を漁りに行く。そして、遺伝的にも知能指数の高いものを拉致する。入れ物としてな。そして、施術し、洗脳教育を並行する。」「それだけの能力がある人間なら教育だけで十分な人材になるんじゃないのか。」「彼らは教育システムだけでは不十分と考えている。世界を動かし歴史を動かせるのは一期一会の存在たる偉人のみだとな。だから、その脳組織やDNAを使おうと考える。時代が変わりゃ偉人のタイプも変わるのだろうにな。そして、今回の問題は偉人再生の見込みなんてほとんど無いってことだ。」「見込みがない?」「社長連中は技術の確立していない仕事を請け負ってロシアのクライアントにせっつかれている。研究はビジネスのようにはいかない。だが、儲かるなら、はったりもかける。そして、社員には檄を飛ばす。社長の指示で拉致活動は活発化し、所長は臓器移植などのサイド・ビジネスを加速する。」「つまりは無茶な注文を受けちまったわけだ。それだけ、この部屋のサンプルも増えちまうのか。じゃ、彼女もここで加工されちまったのか。」「お前、自分で言ったろ。プラスティネーションじゃないと。」「確かに合成樹脂の注入や塗布とは違う。・・・、もっと高度な・・・、まさか・・・。」「そうだよ。彼女を加工したのはミストのスタッフだ。俺が依頼した。彼女にはまだ任務を遂行してもらう。」「挑戦状のことか。」「そうだ。ターゲット達が集まり、頭部分析をしている最中に仕掛ける。」「ターゲットは自分達の技術との差異を知って送り主を必死で探索し始めています。自分達の始末した女がより高度な技術を施されて帰ってきたわけですからね。」マチェクが口を挟んだ。「だが、足取りは掴めず、やつらは混乱する。社長も所長も駆けつける。しかも、同時にアメリカに雇われたゴルゴダがダーク・シンクタンクを利用したアメリカ側の証拠隠滅とロシア方面からの依頼の双方を一気に潰しにきている。とても落ち着いていられる状態では無いし、彼女の正体をつきとめるどころではない。クライアントたちの依頼があるから通常業務の停止はできないし、彼女の調査と対ゴルゴダ対策で昼夜を分かたず働き尽くめの社員・所員たちは簡単にパニック状態に陥れられる。その混乱に乗じて、ターゲットを処分する。混乱といっても指令系統の停滞・遅延という程度のことだ。その間にしとめる。最も静かに片をつけられるタイミングだ。」「彼女の目の前で片をつけようってんだな。」「さすがは策士の倉石ですね。」ふと、マチェクの方を見る。物音はしなかったが、研究員が一人、彼の足元に横たわっていた。「播津君と同じですよ。二日は眠ってるでしょう。」「何しに来たんだ。」「本日、その部屋を点検する予定のサンプル管理者です。なぜ、眠くなったかもわかってませんから、こうして時計の日付と時間を変えておけば、目覚めてもうたた寝程度にしか思いません。」マチェクは男を椅子に座らせデスクの上に伏せさせた。男は気持ちよく眠っていた。窓の外からは背中を丸めて仕事をしているように見えているはずだ。「今日のここへの出勤者は彼だけですね。大方の所員は対ゴルゴダ策として地上ゲートと街の警備。それとジェシーの調査に当たる首脳部メンバーが最下部の分析室周辺に集められています。これで、しばらくここへの人の出入りはありません。作戦行動の前に私も昔話に混ざりましょう。」マチェクがサンプル・ルームに入ってきた。
倉石は、静かに話を続けた。
俺はミストの指令でジェシーとアメリカで出会った。ビルの谷間にある公園のベンチの周りは落ち葉で一杯だった。吐く息も白くなりかけていた。
「私はスカウトと調査担当のジェシー。もちろん、コード・ネーム。」「ミストの交代要員か・・・。俺はこれから地下企業に潜伏している仲間をサポートしにいく。同時に別件で調査中のターゲットの前からも姿を消す。」「一般人は正体を知らないマフィア系企業にT・O・B対策のホワイト・ナイツを斡旋してたんでしょ。でも、T・O・Bを仕掛けさせたのもあなただし、ホワイト・ナイツも実は飛んだ食わせ物を斡旋するつもりだったのよね。」「俺の仕事を調べてきたんだな。ま、よくある手口だがね。」「あなたの策士としての評価はミスト・メンバーの中では有名よ。もちろん、コード・ネームだけでどこに住んでいるかは誰も知らない。顔を見たのは私も初めてよ。」「それは光栄だな。二重スパイのつもりだったんだが双方から疑われてる気配なんで、ここらで天国に行くことにしたんだ。ミストもそれが最善だということで君を呼んでくれた。」「ほんとに天国にいけるかしらね。私はあきらめてるけど。」「ほぉ・・・、未来を創るミストの一員がそんなことじゃ、だめだな。やめたいのかい。やめたところでミストは咎めないよ。重い十字架を背負わされて歩き続けてるんだからな。今からでも間に合う。代わりに誰かを呼ぶか。」「違うよ。やめられないから、やめたくないから、あきらめてるのよ。ただ、世界の病が重すぎて、とても治し切れる気がしない。これまでに何人もの患者を死なせてしまっている感じがするの。本当にこれで延命の効果があるのか疑問なの。でも、進むしかないってこともわかってる。立ち止まっているうちに病はさらに深く重くなっていくから。」「その通りさ。手の施しようがなくなる前に延命措置を講じなきゃならない。それが俺たちの仕事だ。」「ごめんなさい。噂に聞いていたあなたの顔を見たら、・・・・・会うまでは知的で冷たい感じの人を予想していたから・・・、これまで通りに正確に仕事を引き継ぐだけだと思っていた。でも、実際のあなたにはとても温かなものを感じる。」「おいおい、俺を試してるのか。まさか本気で言ってるなら、仕事には感情をはさみすぎないことだ。ほんとに天国に行っちまうぞ。赤い糸ってのがほんとにあるなら、また会えるだろ。たとえ、そうでなくても君にも俺にもいずれは女神が微笑むさ。じゃ、俺からの仕事の話に移るぞ。」「はい。」「ある男の能力調査を引き継いでもらいたい。」「慣れてるわ。」「気づかれる心配は無いと思うが、何せ能力が未知数の男だ。精神面含め可能な限り、調べてくれ。」
「なるほど彼女はお前の差し金だったってわけか。どおりで、タイミングがよかった。」俺の声が不気味な部屋の中に響いた。「日にちを空けたら、お前はどっかに行っちまうだろ。」
「でも、俺を調べていた彼女がなぜ、ここに拉致されたんだ。」
「今回の仕事はお前も分かるとおり、かなり危険だ。それで彼女がお前の能力の高さを見抜いて俺に協力させたいと伝えてきた。」
「でも、彼女は俺をミストには誘わなかった。」
「彼女はお前の迷いの深さと頑固さも見抜いていたよ。すぐにはこちらに来ないだろうと・・・・。それで、ここへ潜入した彼女がマチェクと協力して研究所内部に仕掛けを施すことにした。俺はやつらに捕獲される前に外から最後の段取りをする。つまり、ターゲット達が一堂に会するように策を弄する。たとえば、お前に送ったような偽のディスクを使う。闇のシンク・タンクを暴露するような内容のディスクをロシアやアメリカの関係者を装って送りつけるとかな。」
「ミストはその作戦を認めたのか。」
「ミストは作戦の詳細はメンバーに任せる。使う人員も同様だ。ただし、かかわるメンバーや事情を知らない第三者について、最大限の責任を負うことになっている。つまり、死なせないことだ。」
「彼女は・・・。」俺は倉石の顔を見た。
「ミストは例外的な死と判断した。つまり、自由意志で任務に協力したのだから、俺を咎める理由はないと・・・。」倉石の表情が一瞬、苦渋に満ちた。裁かれるべきときに裁かれなかった者の表情だ。俺も倉石も同じ十字架を背負っているのかも知れない。
「結果、俺はディスクじゃなく、彼女を使ってターゲットをおびき出すことになっちまったがな。」
「なるほど。」俺は冷静さを装って続けた。「彼女はどうやって潜入したんだ。」
「俺たちは統制に重きを置くゴルゴダとは違う。方法は彼女に任せた。それに、そうでなけりゃ感情が・・・、彼女への感情が必要以上に動いちまう。そんな策は命取りにもつながる。」「いつの間にか彼女に心が動いてたってことだな。」倉石はうつむいていた。陳腐な認識だが、彼らミストの日常はそんなものなのだろう。まるで戦場だ。いや、ミストに限らず、何かを成し遂げようとする者達は、誰もが感情を押し殺したり排除したりする瞬間を経験しているのだと思う。たとえば、これもありふれた命題だが、任務遂行か拒否か、理屈か感情か、現実か理想か、愛をとるか夢をとるか。かなり大げさだが、どちらを選択するかは自分の生き方、生き残り方にかかわる気がする。極限ではないにしても戦場での選択とどこか似ているような気がする。生き方を選ぶのは生き残り方を選ぶことに等しいのだ。俺はそう思った。
倉石は彼女の話を続けた。
肌寒さの増していくニューヨークの街角。夜の裏通りには様々な娼婦がいる。ジェシーは高級コール・ガールに成り済まし、ミストのバック・アップも受けながら政財界の人間達と幾度かの関係をもっていた。やがて、マリファナに溺れ、計画通りに自身の人格を破壊していく。倉石は世界有数都市に設置されたダーク・シンクタンクの裏医療機関であるニューヨークの精神病院に彼女が移送されるよう、ニューヨーク官庁街に潜伏するミスト・メンバーに手を打つ。彼女はエリート達に見捨てられ、街角でぼろきれのようになってるところを保護され、治療のためにその病院に入院することになる。病院は身寄りの無いよい素材が入ったことを闇の会社に伝える。潜入計画は順調に進んでいった。幻覚賞状は一気に消えれば怪しまれる。彼女はこれまでも使ってきたマチェクの調合・生成した軽く幻覚を起すドラッグ剤を診察の際に度々服用する。脳中枢への影響はほとんど無く、水分補給により、その成分は毛穴や尿によって数十分で体外に排出される。病院では健康な素材が欲しいので体内のマリファナ成分が薄くなっていくのは好ましい。意識がより正常に近づくのも必要条件だ。あとは、院内で洗脳し、ユーラシアの研究所に送り込む。そこでマチェクや倉石と合流して任務遂行するのがねらいだった。
「数ヵ月後、彼女は研究所に送られた。俺は社長の滞在する各国の施設やサハリン・ルートの詳細を調査中だった。同時にニューヨークでの自分の形跡を消す作業を遂行していた。そんなときだった。」
「倉石、彼女が開頭されてしまいました。」マチェクから連絡が入った。「彼女は優秀すぎました。彼らはロシアのクライアントの依頼を早期に完遂できる可能性があると彼女の施術を早めてしまいました。しかし、今、私が動けば計画は破綻します。」「なんてことだ・・・。」倉石は言葉を失った。しかし、感情の揺らぎをなんとか打ち消した。「まだ第一段階だな。その程度ならミストのスタッフが元に戻してくれる。人格抹消にはまだ間に合う。」「了解です。ただ、今後も手術のスピードはアップしていくでしょうから覚悟はしておいてください。」「・・・・。わかった。」
「でも、彼女は倉石のことが気になっていたのでしょう。私が街の巡回に行ったときに手術の中止を直接頼んできました。私は断りました。私の当初の任務は潜伏ポイントを確保すること、ターゲットに信用されることでしたから。ミストのエージェントなら当然、受け入れるべき内容です。彼女は私の態度に納得を示しました。」
「わかったわ、マチェク。私はミストだものね。手術室は扉が三重になってるわ。マチェクはまだ執刀スタッフには関われていないのね。」「最もターゲットに近づける潜伏ポイントは手術室の辺りと踏んでますが、そこまではまだ信用されていません。でも、ジェシーのお陰で施設内部の青写真は大分完成してきました。ありがたいです。」「一日でも早くエリート・スタッフになってね。手術室で待ってるわ。」「そのときは、私の隣に倉石もいることでしょう。あなたの目の前でやつらを切り刻んでやりますよ。」「あら、ターゲット以外は手を出しちゃダメよ。」「あなたが調査した播津 刑がいれば問題ないでしよう。新人が身を守るために止むを得ずターゲット以外を処分しても過剰防衛に当たらないという例外規定がありますから。実際、彼ら執刀医は全て悪魔か狂人です。脅されてやっているのではなく、実験行為として進んで参加しています。」「あなたも似たようなものよ。」「だから、わかるんですよ。好奇心を満たす行為だってことが。」「あなたと話してると寒気がするわね。じゃ、私は街の調査を続けるわ。」
「ですが、その後、彼女は第三段階で脱走を図りました。他人の脳組織を植え込まれることで別人になってしまうことが怖かったのでしょう。その前に倉石と会いたかったというのは正直、わかってました。でも、私のサポートは施設内のみでしたから・・・・。あるいは脱出後のサポートをしていれば、彼女を死なせずに済んだかもしれません。ですが、私の任務は別でしたから、怪しまれぬように、それ以上のサポートはしませんでした。それでも、さすがの私もあのときのことを思い出すと心穏やかにはおれません。」「いや、いいんだ。俺たちの任務は成功しなきゃ意味がない。今こうして、ここにいられるのはそれぞれの任務を確実にこなしてきたからだ。」「で、ジェシーはどうなったんだ。」「ターゲットは焦り、抹殺組織を雇って彼女を処分しようとした。」
「彼女は中央アジアからシベリアへ脱出した。そこまではよかったが、ほどなく、やつらの調査網に引っかかった。」「そんな距離をどうやって。」「彼女はコール・ガールとして潜入しました。基地脱出は研究員と一緒でした。」「研究員を利用したわけか。」「その研究員は私が彼女に引き合わせました。ターゲットに近づく計画に使える男だと思ったからです。その男を彼女は自分の脱出のために利用してしまったのです。」「その男も彼女に惹かれていたんだな。」「それが彼女の手口でもありましたから。」一瞬、倉石の表情が険しくなった。「そんな顔しないでください。コール・ガールにだって、本命の男はちゃんといるんですからね。」マチェクはフォローにならない一言の後で続けた。「地下走行用の車で地上に出てからは私が施設10キロ地点の岩肌にカモフラージュして隠しておいた小型機で移動しました。彼女はその程度の操縦技術はもっていましたからね。ただ、私がナビゲートすればあるいはもっとよい地点へ誘導できたかもしれません。ですが、通信行為がばれたり、研究員の気が変わったときに私からのナビゲートのことがばれてしまう可能性がありましたから。」「その研究員はどうなったんだ。」「彼女の捕獲の前に捕まってここにいます。」「ここに?」「そこのカプセルの臓器群がそうです。彼女の足取りを聞かれた後で処置されました。私も死人に口無しで安堵はしましたが、気の毒な気はしましたよ。」「命よりも体が大切・・・か。全て、商売の為だな。で、その後の彼女は?」「コール・ガールとしてギブ&テイクを重ねながらヒッチ・ハイクで移動さ。だが、やつらも必死だった。彼女を乗せた男達を探し出し締め上げて最後の男に辿り着いた。その男は彼女の風体から追って来ているのはマフィアの売春組織だと思い、全速で逃げ込んだ先がシベリアさ。男は殺され、彼女は廃屋の納屋に閉じ込められた。」「なぜ、そんなに詳しく知っているんだ。」俺は倉石に聞いた。「彼女から直接聞いたからさ。」「彼女から聞いた?」「飛行機はシベリア付近に着陸したようだとマチェクから連絡が入った。あのあたりは道も単純だ。追跡行為があれば、すぐに見つけられる。」「それで、お前は殺し屋達を追いかけたわけか。」「まあ、そんなところだ。だが、大っぴらにはできないからな。俺たちの存在が気づかれれば、計画は無に帰す。」
倉石はミストの手配したジープでジェシー達を追跡した。森林を伐採しただけの未舗装の道路はぐにゃぐにゃにぬかるんでいた。立ち往生した大型トレーラーのドライバーが大木にロープを巻きつけてウィンチを巻き上げながらぬかるみから脱出しようとしていた。極東の町に続く国道はこんな道が延々と続く。やがて、視界が広がり夏場だけ使われる物置小屋がチラホラと見えてくる。と、そのとき、ある小屋の裏手に人影が見えた。傍に止めてある車はジェシー達を追いかけていた奴らの物に違いない。「彼女を拉致した連れてきたんだな。」倉石はジープを数百メートル離れた別の小屋の影に止めて様子を窺った。小屋の中に忍び込み、板塀の隙間からテレスコープで彼女のいるであろう小屋の方を凝視した。三人の労働者風の男達が小屋の一点を見つめていた。スコープの解像度を上げる。柱にひび割れが見える。気のせいかもしれないがひび割れが少しずつ大きくなっているように感じた。中に彼女がいるとすれば・・・。倉石はジェシーの皮下組織に埋め込んだ超薄型発信チップのスイッチを入れた。反応があった。間違いなく彼女はあそこにいる。だが、モールス信号の応答が無い。彼女の親指と人差し指にも電磁波を出すセロハン状の極小チップが埋め込まれている。指を着けたり離したりすることで電磁波が出る。その信号が発信されてこない。気絶しているのか、それとも・・・遅かったのか。俺は咄嗟に小屋を出てジープに飛び乗り、男達の佇む小屋へ向かった。突然の来訪者にひるむことなく男達は落ち着いたまま、その場に立っていた。「どうしたい。お隣さん。」一人の男が暢気に声をかけてきた。「いや、私は日系のアメリカ人です。ある人を探してここまで来ました。」「ある人を探して・・・。」「わざわざ、こんなところへかい。」一人が少し身構えたように見えた。いざとなれば携帯閃光カプセルで目をくらまして逃げることは可能だが、俺はぎりぎりまで粘ることにした。「ある人ってのは実は高級娼婦で、・・・私の恋人です。いえ、正確に言うと別れたあとになって彼女への気持ちが強くなってしまったのです。」「こんなところまで追っかけてこられたってんだからあんた、結構なお金持ちの兄さんなんだね。」「いや、まあ。」小屋が幽かに軋みだしている感じがした。急がなくてはならない!「その彼女はロシア系移民のアメリカ人でね。」「通りで兄さん、ロシア語が上手い訳だ。」「どうも・・・。でね、彼女、東洋人に見えるのは先祖に極東系の少数民族の血が混ざっているからなんじゃないかとか言ってたので。」「それで、こんなところへ追って来たってわけかい。」「なるほど、あの女、アジア系じゃないんだな。」一人が聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟いた。「でも、彼女の両親は数年前から行方知れずで、もう、この国には疲れたから祖国に帰りたいと言い出して。」「祖国、今時、祖国だってよ。」一人が薄ら笑いをした。「今日日、本気で国を信じてる奴なんてなぁ・・・。」「そうでしょうね。私もそう思います。で、突然、いなくなっちゃったんです。」一人の男は、しきりにひび割れに目をやる。「そりゃ私も探しましたよ。ちゃんと聞いてやればよかったと後悔しました。でもね、帰りたいってのはわからなくもなかったけど私自身はこの国に対して興味がなかったんで。」「フヘヘ・・・・。」一人が低い声で笑った。「いや、あ、すいません。でもね、結局、私は彼女を忘れられなかった。その後、彼女は精神を病んだと聞きましたが、それきり足取りがつかめず、他人を雇って調べさせましたが、ロシアに入国したとか、ウランバートル付近に滞在しているらしいとか、信憑性のあるものは無くて。そうしたら10日ほど前、突然、彼女から連絡があって。今、揉め事に巻き込まれていて、男と二人でシベリアを東に向かって突っ走ってるって。先祖の土地に向かってるんだって。」「お前、よくそんな嘘が考えられたな。彼女が怒るぞ。」俺は倉石に毒づいた。「俺はそこを買われてミストに雇われてるんだよ。」倉石は続けた。「バカでしょう。いたずら電話かもしれないし、声の主が彼女だと言う証拠も無い。ただ、『先祖の土地』っていう言葉は僕と彼女しか知らないことだと思って、ここまで来てしまったんです。」三人は、俺に向かって、あんた惜しかったなぁという風な顔をした。少なくとも、俺にはそんな風に見えてしまった。そん時、俺は「てめーら、本当はこの俺にご明算。でも一足遅かったな。」とでも言いてーんだろが、と思ったよ。だが、もう少しの辛抱だ。そろそろ来るはずだと思って言葉を飲み込んだ。俺は彼らに彼女の写真を見せた。一人の男が、「やはり」と言う顔をした。「それで、このあたりで見かけた村人があなた達だけだったんで、いちかばちか聞いてみようと思ったんです。長距離ドライバー達は余裕が無さそうで聞きづらくて。」その時、一人の男が遠くから聞こえる車の音に気づき、二人にあごで小さく合図をした。辺境の警備隊がはるか遠くからこちらに向かってくる。「ごめん、わからねーな。」そう言って三人は車に乗り、静かに走り去った。俺はジープに乗る振りをしながら車の陰に回りこみ、すぐさま小屋の中に入った。まさに彼女はそこにいた。ようやく辿り着いたシベリアの凍土の上に建つ崩れかけた木造の廃屋の中に瀕死の状態で足を前に伸ばしたまま、座り込んでいた。腹部には太い木材を抱かせられていた。やつらは彼女の腹部を殴打して瀕死の状態のまま放置し、数分後に柱が倒れるように細工し、倒壊を待っていたんだ。倒壊の衝撃が腹部を突き抜け、事故死に見せかける為だ。だが、彼らはそれを見届けることなく、姿をくらました。何も知らないふりをした俺がポケットの中の発信装置に録音してある音声で辺境警備隊を呼んだからだ。もちろん、上官の振りをしてな。彼女はいまわの際に改めて俺に訴えてきた。刑、お前に全てを引き継いで欲しいと。俺は「約束する、必ず。」と答えた。途端に彼女は安堵の顔になり静かに逝った。俺は目覚めることの無い彼女をジープの助手席に乗せて、その場を走り去った。ミラーには直後に倒壊する小屋が映っていた。それからは昼夜を分かたず、ひたすら東に向かい、ナホトカの港で彼女を日本向けのコンテナに乗せた。彼女の入った組立式のケースは船内に潜入したミスト要員が回収してトラックで運び出した。その後、俺はミストと連絡をとり、今回の作戦と彼女の頭部の保存処置を頼んだ。ミストで調べたときは思ったとおりだった。彼女は別人の脳細胞を移植されていた。
倉石の話が終わった。
「ところで、一時の出会いだけでなぜ、そこまで彼女を・・・。」彼は即答した。「お前もそうだろ。彼女の中に救いを感じた。」その通りだった。俺は倉石の言葉にうなづいた。初めて出会った日、俺は彼女に天使か悪魔かを尋ねた。彼女は両方だと言っていた。その曖昧さ・矛盾に俺は改めて答えを見出すことができた。正義とは・・・・・、悪とは・・・・。彼女は使命遂行への迷いを感じていた。しかし、それを考える猶予が無いことも彼女はわかっていた。人の自然な心の中に既に矛盾が存在している以上、社会に矛盾が生まれるのは当然。その矛盾を出来うる限り、減らそうとはするが、それを徹底しようとすれば全ては合理性の闇に包まれてしまう。増え続ける人口が食糧問題を引き起こすならば、選ばれた人間を除いて、戦争も含めた強制的な人口調節を行うことが有効であると言うことにもなりかねない。個人のレベルでいえば、助け合うべき相手への猜疑心から自己の生命の保証を第一とした場合、己の命を守ると言うことを徹底することがより合理的判断となってしまう。互いの関係の修復を目指すより、その消滅を目指すことになってしまう。そうなれば、とにかく生きるための手段のみを講ずればいい。戦争ならば何をしてでも生き延びることだ。臓器売買に関して言えば、それを肯定することにもなってしまう。それでは機械やコンピュータと同じ。かと言って、曖昧さや矛盾を見逃し続ければ結果は同じく、ある者たちの恣意に任せた幸せの為にある者たちが喰らわれていくことになる。時間の余裕があれば人工臓器の完成を待てばいい。だが、患者はそれを待ってはいられない・・・・。自らの運命を受け入れるのは時として生き続けることへの矛盾をはらむ。合理性はその矛盾を突いてくる。彼女は考えうるだけ考えて、透明になっていったのだ。彼女の心は透き通っていた。矛盾を乗り越えつつあった・・・。
「ありがとう、倉石。ジェシーの透明さを思い出したよ。ミストの仕事を続けるなら彼女のようにならなきゃな。」「なるほど、彼女のように透明になりたい・・・・か。ま、俺はただお前の能力を最大限に引き出すために話をしただけだがな。」
「得意の話術のつもりだったのか。効き目はそれ以上にあったよ。それじゃ、ミッションの話に戻させてもらう。やつらは彼女を未だにただの素材だと思っている。例外的に施設を脱出した素材だと。だが、今、その頭部の保存技術の高さに気づいて混乱している。つまり、やるなら、今ってワケだよな。さっそく行こうぜ。」「焦るな、刑。敵のボスと側近、武装組、拉致された科学者、同意している科学者。役者が全てそろわなければ効果が無い。ただのトカゲのしっぽきりで終わる。ボスへの糸がしっかりと見えるまでは手を出さない。そこまでが彼女の仕事だ。」「分析室に役者がそろうまで待つってことだな。でも、全員を殺るわけじゃないんだろ。」「ボス達の暗殺を見届けてもらうんだよ。」「今回のターゲットはビジネス拡大を担っていた社長と施設運営を取り仕切っていた所長。ジェシーは社長の判断で抹殺が決められ、所長が抹殺の手口を考えた。実行犯は別にいるがあいつらはいずれ当局に捕まるか米ロのエージェントに消される。ミストがそう判断している。」「お前が小屋の前で見た連中のことだな。」
「二人の処刑は言ってみれば、小悪党達への見せしめになるのです。拉致された者たちには加担してしまったことへの懺悔と悪に従わぬ勇気を取り戻させます。」「ってことは、闇で殺るわけじゃないのか。」「そのとおり。二人を秘密裏に処分したところで、このビジネスに魅力を感じるもの達は少なくない。すぐに第二、第三のスポンサーが現れる。」「でも優秀な協力者がいなければ、このビジネスは立ち上げられません。ここにいる一線級の科学者たちを根絶やしにしておけばよいわけです。今回は例外規定も適用されますから、やむをえない時は全員処分可能です。久しぶりに腕が鳴ります。たくさん試せますからね。」」「根絶やし!マチェク、何考えてる。」こいつは根っからの殺人快楽者なのか・・・。俺は呆れた。それから一呼吸おいた。「また、例外規定か。今はこれ以上、聞かねーが、後でちゃんと教えろよ。」
「じゃ、俺は例の場所に行くぜ。」倉石が出て行った。「あいつはどこへ。」「トイレです、どんな施設でも必ずありますからね。そこでは皆、無防備にもなります。」「そこでターゲットをやるのか。」「いいえ、仕掛けるのはターゲットの潜伏場所です。」「分析室でやるんじゃないのか。」「私達が分析室に行くのは役者がそろうのを確かめるのとギャラリー達にターゲットの末路を晒す為です。実際に仕掛けるのは私の通信機が設置してあるターゲットの部屋です。2年がかりで私の潜伏スペースを仕込みました。」「お前が一人でやるのか。」「もともと倉石と二人でやる予定でしたからね。あなたには雑魚の相手を頼みます。私が完了の連絡をするまでは雑魚の足止めをしてください。もちろん、永遠に眠らせてもかまいません。」「冗談じゃねー。闇雲な殺しはごめんだ。お前の言うようにはなんねー。」「どうぞお好きなように。難しいとは思いますが。」「くそっ、実行はいつだ。」「0時です。」「二時間後か、その時間にターゲットがそろうと言うわけだ。」「例外規定も考えると、分析室ごと一気にふっ飛ばしてもオッケーなのですが、ターゲット本人か替え玉かを確かめてからの実行になります。」「確かめる?」「これを使います。」「髪の毛みたいだな。いや、もっと細いな。」「蚊の口みたいなものです。これをターゲットの体のどこかに刺してこの検査器でDNAを調べます。」「その場で調べられるのか。」「結果が出るまで一時間はかかりますから。つまり、その場ですぐに吹っ飛ばすことは出来ませんね。二人がいつ部屋を出て行くとも限らない。」「お前は吹っ飛ばすことしか考えていないのか。」「いえ、試したい手口はまだありますから。まあ、そんなわけで、、実行はやはり彼らのプライベート・ルームにしたのです。作戦完了は2時です。」そのとき、倉石から連絡が入った。社長は1時間ほど遅れるらしい。「完了は3時に変更です。おそらく急に大国からの依頼が入ったのでしょう。もしくは、ゴルゴダか依頼主が雇った暗殺者からの偽の連絡かもしれません。」「それじゃ、俺たちの仕事がなくなるな。」「それは無いです。彼らトップの雇っている身辺警護の輩は相当な腕です。私が潜入してから5度の暗殺未遂が起きています。」「情報が漏れるのか。」「それもあります。でも全て実行寸前に殲滅されていました。警護はぴったり貼り付いているのや遠くから周囲を監視しているのがいますから、とにかく近づかずに処分することになります。」「あんた一人でか・・。」「倉石はトイレの中に無色無臭の麻酔ガスを散布しています。もちろん昏睡するほどの量ではありませんが、ごく軽い麻痺を起します。つまり、警護の連中が利用してくれれば反応が少し鈍ります。それを期待しているわけです。」「そんなに都合よく行くかな。」「時間がありません。とにかく、あなたは異変に気づいた所員をしっかり止めて置いてくださいね。」「気づく奴なんているかな。」「いなけりゃ、ラッキーです。行きますよ。」
俺は居住区の出入り口付近で待機した。異変に気づいた連中が出てきたら対応する為だ。気づくのはトップに近い連中だけだろうから大した数じゃない。いや、侵入者アリという情報が流れれば町での騒ぎのときのように大勢が一斉に向かってくる可能性もある。そのときは例外規定・・・。適用の理由は知らねーがターゲット以外の抹殺が可能だ。気は進まねーが戦場ならば致し方ない。
マチェクはエレベータに乗り、分析室に向かった。もとより中枢部から招集のかかっていたマチェクだが、そっちの方にちょこちょこ顔を出しては抜け出して俺たちと落ち合っていたのだ。マチェクは室内のメンバーに変わりが無いかをそれとなく確かめる。いつもの8人のスタッフが社長と所長の到着を待っていた。中にジェシーの頭部をつぶさに観察している者が一人いた。マチェクはジェシーを見つめている男に言った。「何か分かりましたか。」「我々の知りうる技術ではないということで皆一致したんだが、どんな連中が何の目的で・・・。」「これは我々への脅迫状か挑戦状だ。」傍らで立ち尽くしている者が言った。「所長はまだ来られないのですか。」「社長と一緒に来る予定だ。遅れるらしい。」なるほど、情報は偽では無いらしい。しかし、マチェクは何か違和感を感じていた。こちらから仕掛けてみることにする。「ゴルゴダの仕業かもしれませんね。」「ゴルゴダか。奴らは大国に雇われて証拠隠滅を図ろうとしてるしな。我々を抹殺するのが彼らの狙いだ。」「でも、ゴルゴダならこんな回りくどいことはしないな。侵入者に先導させて重火器を持った部隊が突入してくるか、せめてこの頭部に爆薬を仕込んで全部を吹っ飛ばすかだろう。」「随分と残酷なことを言いますね。彼女を吹っ飛ばすなんて。」マチェクは、らしくない言葉を発した。「素材に対して同情するのか。確かに美しい女だが、まさかお前もこの女に・・・・。」ジェシーを見つめ続けている男が行った。「あの研究員のようにですか。馬鹿な。でも、あなたよりは彼の気持ちを分かりますよ。」「どういう意味かな。俺だって男としてこの女の美しさは分かる。だが研究者としては素材として見る。」「ちょっとおかしいですね。あなた自分で言っていたんですよ。」「ほう。何のことか忘れてしまったな。」「お前、マチェクのことをゲイに違いないと言っていただろ。俺と同類だと。」長いすに腰掛けて半分寝そべっている男が言った。「優秀すぎる男にゲイが多いのはたぶん進化の速度を調節するためです。あまりに進化のスピードが早いと滅ぶのも早いですから。ちなみに私は優秀すぎますが根っからのゲイではありません。ただ、女を欲さないだけです。いや、形ばかりの儀式はジュニアハイの頃に済ませてありますよ。もちろん、男を欲したこともありません。」「それ見ろ。俺が言ったとおりだ。マチェクは聖職者並みだと言ったろ。」長椅子の男が上体を起こして言った。「そうか。俺とは同類じゃないのか。」男は落胆したように言った。「気にしないでいいですよ。研究への志はあなたの方が高い。」「ありがとう。」「あっ、そうだ。ちょっと来てもらえますか。すぐに戻りますから。」マチェクはゲイの男に声をかけた。「ああ。」男はマチェクに言われるまま、部屋を出た。中の連中は薄ら笑いをしていた。彼らはゲイとしての二人の行状をよく見かけていたからだ。いつもはマチェクが男に誘われていた。実際はマチェクが男を利用していたのだ。潜伏スペースはその恩恵だ。マチェクは分析室から続く廊下の突き当りを曲がると男に顔を近づけた。いつもは男からマチェクを求めてきていた。が、男は一瞬ひるんだ。「いつものことですよ。」端正なマスクのマチェクの唇が男の唇に近づく。マチェクはかすかな声で言った。「この顔は偽物ですね。フェイク・フェイス・・・。」「きさま、ミストか。あの頭部はお前らが。」「ミストを知っているのはゴルゴダですね。さようなら。」マチェクは男の手を握手するように握りしめた。手の平に貼り付けていた注射針からシアンが注入された。男はあっという間に崩れ落ちた。いつものミストのミッションならこの手の手口でお終いだ。だが、今回は晒すまでのミッションがある。マチェクは男の顔のマスクを剥いで放置した。「本当のゲイならあんなに男のような目つきでジェシーを見つめませんからね。それが違和感の正体ですよ・・・。」マチェクは居住区に向かった。本物のゲイの男は社長達の移動経路ではないところに隠してあるはずだ。数時間前に入れ替わったと考えると、どこで接触したかがポイントだ。研究員が部屋から出るのはトイレか自室へ向かうとき。潜入したあのゴルゴダはわざと拉致されたか素材として潜入してきたはず。だとすれば、ゲイだった彼がジェシーのことで混乱してストレスも高まり我慢できなくなって欲求に駆られるまま街へ行った。そして街で好みの素材を確保するつもりだったのが近づいてきたゴルゴダに逆に眠らされてしまったと考えるのが自然だ。マチェクは急いだ。計画実行まで後、一時間。部屋を出てから十分が経っている。素材の街には数人の研究員が歩いていた。いつもと変わらぬ風景だ。この街のどこかにあのゲイの男は眠っている。潜入したゴルゴダが仲間の襲撃を先導するまでは見つからぬ場所。人の出入りが少ないところ、あるいは決まった時間にしか人が出入りしないところ。マチェクは勘を頼りに礼拝堂に向かった。信仰の拠点は素材洗脳の拠点であり、この街の住人は時と共に信仰心が薄れていく。彼らが拠点に出入りする時刻も限られている。マチェクは礼拝堂の奥に向かい、棺の蓋を少しずらした。。本来この棺の中は空だ。しかし、そこには首にアザのついたあの男が眠っていた。今はまだ必要以上の騒ぎは起せない。居住区の研究員には緊急放送で社長と所長の暗殺を告げる計画だ。今は何事もなく、やり過ごさねば、計画した作戦の効果はどうなるかわからない。そもそも暴動でも起きれば作戦そのものの失敗も考えられる。たしかに外の研究員に声をかければこの男を運び出すのは容易いがそうもいかないのだ。マチェクは男を棺から引っ張り出すと腕を肩に回し抱きかかえるようにして街を出た。死後硬直はまだ進んでいない。しかし、その重さは通常の二倍に感じられる。全身から汗が吹き出た。分析室のメンバーはマチェクと男を見て驚愕した。「偽者はどうしたんだ。」「彼が私を拒否したのでおかしいと思いました。そこでゴルゴダかと鎌をかけたらあっさりと認めて襲い掛かってきたので護身用のシアンを射ち込みました。角に放置してあります。」「そうか。尋問してもしゃべらんだろうし、本隊と連絡を取られても困るし、マチェクの判断は間違いじゃないな。」「街の研究員には知らせてません。社長・所長が見える日ですから無用な騒ぎは起したくなかったので。」「ふーむ、後片付けは社長達の警護の連中に頼もう。」マチェクは安堵した。死人に口無し。ミストのこともばれずに済みそうだ。計画実行まであと十五分になった。
S・O・S <Soldiers Of Shadow>