自販機
自販機
「行ってきます。」
今家には誰も居ないが、ふとそう言いたくなった。
玄関の鍵を閉めポストに入れると、勢いよく団地の階段を下り、駐輪場へ出る。
あそこに駐められた、銀色に輝くママチャリが僕の相棒だ。
ポケットから小さな鍵を取り出して、後輪の横の鍵穴に差して回すとカチャンッと軽快な音が響く。
前輪の前で片膝を付くと、ホイールとボディを掴んで離さない門番のチェーンに、彼の歯車で「5268」と秘密の暗号をこっそり教える。
すると僕を主人と認め、たちまちその力を失う。
ストッパーを靴底で蹴り上げて、サドルに飛び乗る。
足に力を入れていく。さぁ、出発だ。
学校への登下校や、スーパーへの買い出し、いつでも僕を連れて行ってくれる頼もしいマシン。
今日は特に予定も無いけれど、なんだか、急にコイツと走りたくなった。
駐輪場を出ると、膝をピンと伸ばしてペダルの上に立ったまま坂を下り、見慣れた光景を通過していく。
いつも通る、一軒家が立ち並んだこの旧道は、熟知しきった安心出来るコースであり、同時に単調でつまらなくもある。
…お菓子が切れてたし、いつもの様にスーパーにでも行こうかな。
でも、もっと違う場所に行きたい気がする。
そんなことを考えていると、十字路が眼前に近付いてきた。
一旦停止し、歩行者が居ないか確認する。右に目をやると開けた田んぼに挟まれた、細い道路の向こうにアパートやコンビニ、その上には防音壁に囲まれた高速道路が遠くに見える。あちらの方へは今まで行ったことがない。
…よし、進路変更。今日はあっちへ行ってみよう-
冒険心が胸の中ををくすぐった。
今の僕なら、何だって出来そうな気がする。
夏の生温い風を切りながら、糸の様な迷路を攻略していく。
ちらほらと家が視界に入る中、左手にある小さな古びた商店が目に止まる。
横に自販機が置かれていた。
少し、休憩しよう。
僕は相棒を店の横で休ませると、財布をポケットから出し、自販機の前に立つ…と
一瞬、目を疑った。
100円、80円…70円?
いかにも手書きであろうその料金のプレートには、衝撃の値段が付いていた。
今のご時世に、なんて大盤振る舞いなんだろう。ここの人が入れているのだろうか。
並んでいるペットボトルや、缶のラベルも、見たことないものばかりだった。
…これは、飲んで大丈夫な物なのだろうか?
一抹の不安を取り払うと、僕は100円玉を入れ、「マイルド・コーヒー」とカタカナで書かれた缶のボタンを押した。ボタンの上には70円とある。
100円玉でお釣りが来るなんて…!
僕は感動した。お釣りを財布に入れ、取出口から缶を手に取る。
中に入っているものの重みを手に感じた。感動の気持ちは薄れ、段々と緊張感が強くなっていく。
-まあ、飲んでも死ぬことはないだろう。
思い切って缶を開けると、喉が乾いていたこともあって、僕は一気に飲み干した。
…あれ、普通に甘くて美味しいや。
少しホッとした気持ちと、妙な達成感が込み上げてくる。
こんなに安く、美味しい缶コーヒーを買える自販機があるなんて!
向こうを車で走って行く人達は、きっとこの隠れた穴場の存在に気付きもしない。
-僕だけが知ってる、特別な場所。誰も知らない、僕だけの-
そんな言葉が脳裏をよぎった。無意識に心が躍っているのが自分でも解った。
空は少し、水色に染まり始めている。
さぁ、急ごう。暗くなる前に、この旅を終えなくてはいけない。
次はどんな、僕の知らない「何か」があるのだろう-
缶を空きカン入れに放り込む。
休ませていた相棒に跨き、僕は再びペダルを漕ぎ始めた。
冒険は、まだまだ続く。
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