スカイブルーの森

柔らかな桃色のハムのようなブランケットから飛び出している爪先が冷えて、目が覚めた。
あたりはカーテンの隙間から漏れる光に浮かび上がるようだ。
私はベッドの中で爪先、ふくらはぎ、腕、そして指と確かめるよう力を込めてからゆっくり伸びをする。
夜の間に眠りに落ちていた呼吸が、段々と覚醒していくのが分かる。
私が物心ついた時から安眠を約束してくれ、夜を共にしている木製のベッドはそこかしこが傷だらけだったが、上等の樫で出来ていてとても頑丈だ。
長く使える物は気に入りになる。使い込むほどに愛おしく感じるのは私だけの性なのかどうなのかは分からなかったが。
ベッドの上で体を起こすと床に足をのばして靴を履き、立ち上がってカーテンを開いた。
太陽の光が、朝のミルク色の細かな霧の中を行き来して、キラキラと眩く輝いている。
窓辺の小さな鉢植えたちに霧吹きで二、三度シャワーを浴びせてから、私は寝室を出て階下へ降りた。
階段の壁には数枚の古ぼけた家族写真が飾られているが、もう二度と揃うことはない家族だ。ブルネットの、ゆるいウェーブがかかった豊かな髪の母。プラチナブロンドを生真面目に横分けにした父。そして幼い姉と私が無邪気な笑顔と薔薇色の頬で写っている。
――姉はカリスタだった。
それがどういうものなのか、どういう存在なのか私は知らない。
五つを数えるかという頃に黒いスーツの慇懃無礼が家の中を歩き回り、自室にこもる姉を連れて行くために両親を滔々と説得し、やがて姉は涙を流しながら家を出て行った。
その日から、母は悲しみの余り床に臥せった。
カリスタの姉を連れて行くことを承諾したのは父だった。
その後の顛末は有り触れたものだが、思い出す度に私の心は千々に乱れそうになるのだ。
カリスタとは何なのか、どんな人間を取ってそうだというのか、今でも時折考えることがある。
それでも答えが天からぽつんと落ちてくるわけもなく、私は広々した家で今日も朝の支度を始めるのだった。
洗面台へ行き、汲んである水で顔を洗い、歯を磨いてからブラシで髪を梳かし、寝癖が消えたら寝間着から白いAラインのワンピースへ。
このあたりは朝晩と冷えることが多いから、肌寒い日中はこの上にカーディガンを羽織っている。
「女の子が体を冷やしたらいけません、って、ね」
母が生前口が酸っぱくなるほど言っていたことを真似してみる。応える声はない。
やがて小さいキッチンへ移動すると、黒焦げのフライパンを出して卵を割り入れ、ベーコンとニンジンの切れ端を入れてから適当に切ったチーズを降らせてオーブンへ突っ込んだ。
パンはいくつか昨日焼いたのがバスケットに入っているはずだから、あとはホットミルクとジャムだけ用意すればいい。
その間に私は家へ隣接しているガラスのドームに足を運ぶことにした。
このドームは花を育てるのが好きだった母へ、いくつかの結婚記念日を数えた折に父がプレゼントしたものだという。
母は、色とりどりの花をドームの中で育てていた。私は幼心に、陽光が降り注ぎ、花たちが甘い香りを競って放つそのドームを楽園のようだと思っていた。
今私が育てているものと言えば、品種の違ういくつかの白バラだけ。
バラたちは蔦を巻いて棘を生やし、純白の花弁を開いて渦になっていく。白い迷路か要塞のようでそれはそれは美しいのだ。
ドームを形作る丸いガラスは一面一面空の色を吸い、バラの香りが満ちるここは私の小さな森だ。
「私のお嬢さんたちご機嫌いかが?」
大きな霧吹きを手に持ち、鈍く光る銀色の取っ手を掴みドアを開ける。
中へ入った瞬間思わず絶句した。
「……あなた、……誰?」
驚きのあまり霧吹きを取り落としそうになり、慌てて空中で掴んでから床に置き、眼前の相手を見つめる。
彼は蔓バラの一枝を掴み、手を傷だらけにしながら花の花弁一つ一つに見入っているようだった。
傷だらけの指から血は一滴も出ていない。すぐにオートクチュールだと気がついた。
「これは全てあなたが育てたのですか」
抑揚のあまりない声で彼は静かに私に問う。戸惑いが顎のあたりで短く揃えた私の髪を揺らした。
わずかな間を挟んで私は答える。
「ええ、そうよ。……蔓バラは見た目ほど野性的ではないわ、繊細なの。手を離してくれない?」
牽制するように淡々と言う声へ彼は素直に従った。こんな偏狭な片田舎に若いオートクチュールが居るのはおかしい、そう思うものの考えてもやはり答えは天から降ってくることはないのだった。
「あなた、名前は?……どこから来たの?」
バラの花弁や枝を傷つけまいとしているのか、ゆっくり指を外している彼へ問いかける。
自らの指が傷つくことを厭わず動く指。バラへの気遣いが勝ってなのか、オートクチュールゆえに自身の体に感心がないのか、判別はつかなかった。
「オートクチュールは管理番号以外の名前を持ちません。ですが、私は例外的に、主に「アトラス」と呼ばれておりました」
そう言って手首を曲げ、手のひらを私に見せてくる。
『AT-65-LU77-SS89』と刻印してるのが見えた。
「なるほど、それで『ATLUSS』なのね。どこから来たのかは取りあえずいいわ。この子たちへの水やりを手伝ってくれる?」
そう放った後に自分の無礼に気がつき、にこやかに笑いかける。
「ごめんなさい、私はセラ。このあたりで、一人で暮らしているの」
言い終えてドームの床に置いた霧吹きを持ち上げ、アトラスの前で揺らして見せる。
水やりをやるともやらないとも言わなかった彼は、私が優しく丁寧に育ててきた「お嬢さんたち」に興味を持ったようだった。明確な返事のないまま私の手から霧吹きを受け取り、そおっと白い花弁や棘の生えた枝を濡らしていく。
「水は与えすぎても与えなさすぎてもいけないの。どちらかに傾くとたちまち機嫌が悪くなって綺麗に咲かなくなってしまう」
慎重に水やりを続けるアトラスは、聞いているのか聞いていないのか分からない静かな横顔のままだ。
腕と指先だけが震えるように小さく動いてシュッシュッと細かな霧のシャワーを降らせている。
その様子を眺めながら、ひとまず本来の持ち主が現れる間だけでも置いてやろうかと考えた。
「オーブンをほったらかしにしてきてしまったの。終わったら家へ入って。朝ご飯、食べるでしょう?」
オートクチュールが食事をするかどうかは知らなかったが、一昔も二昔も前のロボットのように油で動いているとは思えなかった。
「セラ。私は水を適量摂取することでエネルギーへ変えることが出来ます」
こちらを向かないままアトラスは答える。
バラの水やりに夢中になるオートクチュールがいるなんて知らなかった。
「そう、じゃあ温かい紅茶を用意するわ。味がついていても構わないでしょう?」
返事がないことを見ると問題ないようだ。
霧吹きの小さな音が手馴れてきたのを耳にしながら、私はアトラスをドームへ残して一旦家へと戻った。
分厚いトーストのようなミトンを手にはめてオーブンを開ける。
ドームに行く前に突っ込んでおいたフライパンの取っ手を掴み、太いアイアンワイヤーで出来た鍋敷きの上へ置いた。
チーズのほどよく焦げたいい香りとベーコンの匂いが、鼻先を漂い空腹をくすぐる。
玄関のドアを開けると、外に出てすぐの所にある小川の水を直接薬缶へ汲んで紅茶の準備をした。
再び家へ戻ろうかという時にドームのドアが静かに開いたのが見える。
水やりが終わったんだろう。
出てきたアトラスに、私は首を傾いで笑いかける。
「水の玉を載せてキラキラ輝くバラは美しいと思わない?」
表情のない相手へ尋ねるものの、答えは返ってこず、何らかの感情の色を表すこともない。
まあそれでも気にはならなかった。誰が何と言おうと私のバラは一等綺麗なのに変わりはない。
汲んだ水を入れた薬缶を火にかけて紅茶の用意をする間、大きめのフライパンにパンを幾つか敷き詰めた。
オーブンの中に残っている余熱でパンを温めるためだ。
充電式の小さな冷蔵庫から白い陶器の器に入っているバターを取り出す。
アトラスは部屋をうろうろしては編みかけのブランケットをバスケットから出してみたり、ソファをじっと見つめたり、古いガラスケースに入ったままの香水瓶を手に取り揺らしてみたりしていた。
まるで落ち着きのない犬のようで、その一部始終を見ていた私は思わずクスリと笑った。
やがて朝食の準備が整うとアトラスを手招きして席に着かせる。
幼い頃家族と唱えていたお祈りの言葉は忘れてしまったが、少しの間目を閉じて今日もこうして一日が始まったことに感謝した。
白い面に青一色で細かな模様が描かれたマグカップに熱い紅茶をたっぷり注いでアトラスへ出してやる。
注意深くしげしげとカップの図柄を眺めていた彼は、私がパンにバターを塗ったのを合図に、マグカップの取っ手に指を絡めてこくりと一口紅茶を飲んだ。
喉が動く様はまるで人間そのものだ。
温まり柔らかくなったパンをちぎって、溶けたバターの香りと共に口の中へ放り込みながら、静かに紅茶を飲むアトラスを見つめる。
艶のある黒髪は前髪を左で分けて額の半分を出している、後ろは綺麗に刈り上げられていた。
深い海の底のような瞳は光を吸って輝き、時折光の加減によって霧がかかった湖面ほどに明るく色を変えた。目は一重瞼で眦の吊り上った狐のような目つきだ。
受け口気味の薄い唇は時折笑っているような印象を与えるが、実際口角は上がりも下がりもしない。なだらかな弧を描く眉が目つきの鋭さを和らげている。
摩耗して鈍い色を放つフォークを握り、私はオーブンで焼いた目玉焼きやベーコンを食べ始めた。ベーコンの塩味が移って目玉焼きにも十分味があったが、いささかの物足りなさに負け、途中ミルでガリガリと黒胡椒を引いた。
「アトラス、あなたがどこから来て何故うちにいるのかは私には関わりのないことだけど、行く当てがないなら暫くうちで自由にするといいわ。――ただし、私のお嬢さんの水やりを代わりにお願いしようと思うの。どう?」
アトラスは私の提案に静かに頷いた。そして紅茶を含む。
この日を境に、アトラスはうちの庭師へとなったのだった。



自発的な代謝のないアトラスの服が汚れることはなかったが、ドームの手入れから小さな庭、そして時折私に付き合い近くの森へ野イチゴや木の実を摘む手伝いをする際、葉っぱや土埃で多少なりとも汚れることがあった。
父が生前着ていたものが少し家に置いてあったので着れそうなものは出してみたものの、汚れや虫食いに加えて所々ほつれたりと、あまり状態がよくなかったので、市場へ出て新しく揃えることにした。
「私もたまにはご馳走食べようかしら」
私が生活費の元手にしているのは、カリスタである姉が国に取られたことにより、その国から定期的に振り込まれる金銭だ。
どんな名目だったか忘れてしまったが、国の特殊な施設に入りその後生死も分からなくなってしまうカリスタの家族には慰謝料か口止め料か(と言っても姉がどうなってどこへ行くのかは全く聞かされなかったのだが)かなりの額の金銭が振り込まれる。
定期的に振り込まれている金額とは別に、つい数か月前新たに振り込まれたことを考えると、もしかせずとも姉の身に何かあったと思うのが自然なのかもしれない。
ただ、小さな頃に別れたのを最後に、姉の声も顔も見聞きすることがなかったせいか、虚しくはあったのだが悲しみが込み上げることはなかった。
自分でも薄情だと思う。
「セラ、出かけるのですか」
膝をついて土いじりでもしたのか、現れたアトラスのズボンは砂埃と土に汚れ、白くて長い指先は真っ黒に汚れていた。
「食材とあなたの服を買いに街へ出るわ。手を洗って着替えてくれる?あなたも行くのよ」
子供のように夢中になって土をいじるアトラスの様子が想像できた私は、眼前の無表情な彼との差にくすくすと笑いながら告げた。
やはり表情はぴくりとも動かなかったが、外の小川へ手を洗いに向かったのを見ると、こちらの言うことは問題なく分かったようだった。
相変わらずアトラスがどんな持ち主の元で暮らしていたのかは知りようがなかったが、彼は本当に静かに淡々と日々を過ごしていく。
そしてこちらの望むことを拒むことは決してない。不平不満の一つさえ言わず、どんなことでも聞いてくれる様子のアトラスに、私はある晩「今夜は一緒のベッドでやすみましょう」と冗談と好奇心で持ちかけた。すると、アトラスが私のベッドで本を読んでいたのだ。
私が彼の死を望めばたちまちに死んでしまうのかもしれない。
アトラスは人間のために作られて、人間のために存在するのだ。
彼が私の言葉を本気にしてベッドで待っていたことには、自分で言ったことながらひどく驚いた。そして、私の放った軽率な言葉を冗談と受け取らずに待っていた彼が何だかひどく可哀想で愛おしく、そのまま一緒にブランケットにくるまって眠った。
体温の低いアトラスにくっついて眠った夜は、私にとって初めて他の誰かと休んだ夜で、きっと彼だったからこそ穏やかに静かに閉じていったのだと、そう思う。


アトラスは笑わない。
アトラスは感情の一切を表現することがない。
そう思っていた。
しかしそれは私の感受性とも言おうか、読み取る力が足りなかったのだと気付いたのは、暮らし始めて数か月が経とうという頃だった。
アトラスは本当にバラのドームが気に入ったようで、美しく咲いた日はわずかに目を細めている。
またある時には、初めて見たのか、窓の外で空を割る紫の稲妻に目をぱちくりぱちくりとさせて驚いていた。
あるバラの株が虫にやられてしまった時には眉を下げがちにして悲しんでいるのが分かったし、起き抜けはいつもに増して無口だ。
「ねぇ、アトラスも夢を見るの?」
家の近くで摘んだハーブや花を束にして花瓶へ生けながら、気になっていたことを尋ねてみる。アトラスは緩やかに頭を振った。
「人間は記憶、感情を整理するために睡眠が必要ですし、脳の活動で夢を見ることもあるようですがオートクチュールはこの限りではありません。私の情報はデータベース化され、指定のデータサーバへ移されます。……夜間はこの作業に徹しているため、朝は太陽が眩しく感じます」
まるで徹夜した人間のような口ぶりだ。
バラを好むという所があるのならば、オートクチュールには心があるんだろうか。
彼と過ごして分かったことと言えば、お互いの距離が狭まったと思えばそうではなく、単に砂描いた絵が波にさらわれただけと知ることもあり、関係を結んでいくことはこんなに難しかっただろうかと自問自答の日々を繋いでいる。
しかし穏やかな彼との生活は、静かに降り積もっていく雪のような美しさで彩られていき、長く一人でいた私の心を慰めるには十分だと言えた。
窓辺で本を読んだそのままに寝入った私の肩にかかるブランケットや、剪定で切ったバラを束ねて花瓶へ生けるその指や、水仕事で冷えた手をさすっていると出てくる淡い色のミルクティー。
これは今まで私が持たなかったものだ。
今まで作りようがなかった小さな日々の欠片、――「思い出」だ。
「セラ、私の持ち主は「エヴァン」と呼ばれていました。本当の名前はアンネリーと言うそうです」
ソファでミルクティーの入ったカップを見つめていた時だった。
バラへの水やりを終えたアトラスが近付いてきて私に告げたのは。
私は暫し言葉を失った。失ったまま、彼を凝視した。
「――――……何ですって?」
「あなたはアンネリーによく似ている」
隣に座り、私の髪を一束掴むその細い指は、頬を軽く撫でてパタンを落ちた。
「彼女はひどく孤独でした。私を選び、この機体へ「アトラス」と名前をつけた後、私は彼女をエヴァンと呼ぶのを禁じられました。それはカリスタとしての名前だからと」
「……どうして、ここへ来たの?」
「……アンネリーは、この家に帰りたがっていました。聡明な彼女はここへ留まることが出来ないのも、自分が離れてから家族というコミュニティが崩れてしまうのも分かっていた。……自分の話は決してしてくれるなと言われましたが、セラはあまりにもアンネリーを生活から排除しています」
少し目が吊り上ったのが分かった。
感情表現の少ないアトラスが私に対して初めてハッキリと見せた感情だった。
「お姉ちゃんが居なくなったのは、私が五つになった頃よ。十も上のお姉ちゃんは昔から何でも一人で出来たと父母には聞かされた。あなたが使っている寝室の向かいは、彼女が物心ついた時から使っていたという書斎よ。鍵をかけてあるからあなたは入ったことがなかったわね。――来て」
二階へと続くニスの剥げた階段を見ながら、そろそろ蜜蝋のワックスで磨いてやる頃合いかもしれないと足元を見つめた。
階段を登り終えたところにある姉の書斎は、天窓から降り注ぐ光が当たらないような突き当りにある。
丁度アトラスの寝室の真向かいの部屋であったが、アトラスの部屋にはたっぷりと光が降り注ぐのに対して、姉の書斎は光源が少なく暗かった。
オリーブ色に近い光沢のドアノブを見つめながら、私はワンピースの胸元からペンダントを取り出した。
鎖の先では、丸い輪っかに棒をくっつけただけのようなシンプルな鍵が揺れていた。この書斎の鍵だ。
ペンダントを外して鍵を鍵穴に差し込む。
開錠してからドアを開けると、ギッという重く鈍い音の後で光が何条も部屋へと入り込み、ばらけた光を受けて、埃が雪のようにキラキラと舞った。
入ってすぐ、中央にある小さなデスクの上から古いマッチの箱を掴むと、しけっているマッチの先を擦って何とか火を点け、部屋中にあるアルコールランプやキャンドルに灯していく。
アトラスは稲妻を見た時のように目をぱちくりぱちくりとさせていた。
「これは全てアンネリーの物ですか」
ランプやキャンドルの淡い光に浮かび上がるのは、壁一面の本棚だ。それも四方八方をぐるりと囲んで天井まで這う書架。
床には、幼い私が遊んでいた名残のように、花の絵がクレヨンで描かれたまま放置してある。
デスクには一冊だけ読みかけの本が栞を挟まれたまま置いてあり、長い間主の帰りを待ちわびていた。
「アトラス、私ね、お姉ちゃんと過ごした記憶がほとんど無いの。思い出と言えば、お姉ちゃんが雪の中黒づくめの人々に連れて行かれたことと、ブランコ遊びに付き合ってくれたこと、そしてクレヨンを与えて自由に絵を描かせてくれたこと」
時折この部屋に入って掃除をするものの、使わない部屋が傷む速度は目を見張るものがある。主を失い、時間は止まったままにも関わらず、進み続ける瞬きに耐え切れずにじわじわと朽ちてゆく。
うっすらと埃が積もった床にしゃがんで、私は、幼い頃の私が描いた下手くそな花々を指でなぞった。大分色あせている。
そこに残るのは幸せだった頃の残滓。
「アトラスはお姉ちゃんとどれぐらい過ごしたの?」
「十年です」
「そう……」
クレヨンの花に触れていた指先をそっと離す。
私は丁度、記憶の中の姉と同じ歳になっていた。
おもむろに立ち上がった私は、デスクの上に残っていた模造紙で紙飛行機を折り始める。
姉が教えてくれた「よく飛ぶ紙飛行機」だ、体で覚えたことは、忘れない。
「きっとアトラスの方がお姉ちゃんのこと、知ってるわね」
光の入らない部屋の中で飛ばした紙飛行機は、聳える棚にぶつかって墜落した。
その様を見ながらアトラスはじわりと唇を引いて何かに耐えているような表情を浮かべる。
――姉はもう、この世には居ないのだろう。何となく、分かっていた。気付かない振りをしていただけで、直視しようとしなかっただけで、本当はもう分かっていた。
それでも私の胸の中で凍った悲しみは、凍てついたそのままで溶けることはない。
「久しぶりに私のお嬢さんたちに会いたいわ」
そう言って笑うと、アトラスは静かに頷いた。
部屋に灯した灯の一つ一つを消しながら、本棚に刺さった紙飛行機をすいと抜き取る。
アトラスはじっとこちらを見て確認するように紙飛行機を見つめてから、ゆっくりと部屋から出て行った。
私もその後を追い、部屋の灯が間違いなく全て消えたのを確認してドアに鍵をかける。
そこにある少ない思い出ごと閉じ込めるように。



――ドームの森の中は、空の色を映して青く青く透き通っていた。
その下で瑞々しく香るバラたちの、肉厚で繊細な花弁が空の青に映えて美しい。
アトラスはバラたちの前で心なしか少し表情が柔和になっているような気がした。
……いや、気のせいではなく実際そうなんだろう。アトラスは心からバラを愛するオートクチュールなのだ。
「アトラス、私ね……国からお金を受け取ってずっと暮らしていたの」
バラの香りを嗅ぎながら私は静かに話し始める。
両親は、美しく有能で、カリスタでもあった姉を心から愛していた。
私はいつもどこか置き去りで一人ぼっちだった。
アトラスの静かすぎる性格も生活の大半で私を一人にさせたが、両親と暮らしていたかつての歳月ほど孤独ではなかった。
アトラスと暮らして初めて、私は誰かと過ごすことの心地よさを知った。
「長い間私はお姉ちゃんが羨ましかった。だからこうしてずっと一人でいても淋しくはなかった……そう思っていたの。欲しいと思わなければ淋しくはなかったから。でも違った」
心を凍らせるだけの日々は私を無口にしただけで、痛みすらないその日々は死に等しかった。
「私、ここで花屋をしようと思うの」
今の生活が本当に「幸せ」で、失いたくないと心から強く願った。
私は初めて今、自分で何かを選択しようとしている。
オートクチュールに心はあるか?
自問した言葉が頭の中に蘇る。私は手にした紙飛行機をドームの中から外へと飛ばした。
すい、と青空に向かって流れていく白い紙飛行機。
「セラ」
紙飛行機を追っていた視線をアトラスへ戻すと、彼は目を細めて私を見つめていた。
「あなたは綺麗だ。――人間は美しい。」
悲しみはいつか溶けだして私の小さな胸を痛めるかもしれない。
刺さった棘は、もう抜けないかもしれない。
それでもこうして生きていく限り、変えてゆくことが出来る。選ぶことだって出来る。
ありふれた小さな幸せに包まれる日々を過ごすことが出来るかどうかは、これからの私の努力次第だろう。
放った紙飛行機は既に空へと溶け、雲一つない鮮やかなスカイブルーが私の小さなガラスの森をひっそりと染め抜いていた。

<了>

スカイブルーの森

スカイブルーの森

孤独に暮らす少女セラの前に現れたのは、一人のアンドロイド。 彼はそのまま彼女の元に居座ると、ある日姉のことを話し始めた。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-04-07

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著作権法内での利用のみを許可します。

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