いつかの春に

ひろこの人生を短編で綴っていきます。

舗道の上に桜の花びらが散っている。 アスファルトの深いグレーと桜色のコントラストは、はっと息をのむほ

舗道の上に桜の花びらが散っている。
アスファルトの深いグレーと桜色のコントラストは、はっと息をのむほど美しい。
ひとりで下校することの多いひろこは、この季節が大好きだった。

H電鉄が開発したこの地域は、閑静な住宅街として知られている。
東京の豪邸には叶わないが、大阪の郊外にしてはよくできた街並みで
緑の生け垣と広い敷地が高級感を漂わせていた。
車もあまり通らない大きな道を、ひろこは毎日通っている。

ひろこの家はこの先の、ちょうど住宅街が切れる端っこにあるのだった。
両親とすぐ下の妹と弟、もうすぐ二歳になる末っ子の6人家族だ。
絵に描いたような核家族であり、一人で住んでいる母方の祖母が夕食時に通ってくること以外は、普通の暮らしをしていると思っていた。

しかし、5年生になった去年から、調子がおかしい。
給食の時間が過ぎるとお腹が痛くなった。
病院で診てもらうと「牛乳による過敏性大腸炎でしょう」と言われ
牛乳をやめることになった。
母はそれだけで満足し、他に原因があるかもしれないと考えたこともないようだった。

今日は一段とお腹が痛い気がする。担任が「髪の毛を伸ばしていいのは、自分でくくれる人だけです」と言ったからだ。
ひろこの髪の毛は耳から肩のあたりで切りそろえられていてかわいくない。
いや、これでもましなほうか。
子どもたちの散髪は父の仕事と決まっていて、それはたぶん、散髪代を抑えるためだった。おかげで「切り揃えられる」ことなどなく、いかにも素人が切りましたという風情が漂うのだった。小さい子どもならかわいいかもしれないが、もう6年生だ。
本当はおしゃれな美容院に行きたいけれど、母からは「散髪屋にしなさい」と言われ、父親のよく知っている散髪屋に連れて行かれた。

母に「もう少し髪の毛を伸ばしたい」と言ったのが間違いだったのか。
母はすぐに担任に言いつけた。
去年この学校にやってきた担任は、今までの校風になじまないぐらい厳しい女性教師だった。男言葉を遣い、ちょっとやんちゃな男の子たちを上から抑えた。
宿題を忘れても、きまりを破っても、男の子たちはビンタをくらっていた。
ほっぺたをつねられる子もいた。
昭和50年代の学校ではそのようなことは当たり前で、誰も文句は言わなかったし、先生も堂々と体罰を加えていた。

しかし母は、そんな担任藤波を気に入ったようだった。
今のひろこには理由はわからなかったが、母が嬉しそうに藤波先生のことを語る姿を見ると心がざらっとした。
あんな乱暴な先生が好きなのか、それとも、教室で見せる顔と母に見せる顔は違うのか。
私が藤波先生のお気に入りになることが、母の自慢になっていた。

私が髪の毛を伸ばしたいと言ったことを、母はすぐに先生に言いつけた。
なんでもかんでも先生に聞くのだ。
「どうしましょう、いいんでしょうか?」と聞いたに違いない。
その答えが「自分でくくれる人だけ伸ばしてもいいんですよ」だった。
しかも、朝の会で、みんなに向かって。

おかげで、6年1組は似たような雰囲気の子どもたちになった。
これじゃまるで囚人じゃない?
と、思えれば少しはましだったのだろうが、幼いひろこにはそんなことすら思い浮かばない。
「もう髪の毛を伸ばせない」がっかりしながらも、あまりにもはっきり言われたことで迷いがなくなったような、あきらめが心の中に広がって、ひとりで桜色のアスファルトを歩いて帰ったのだった。

今ひろこはアラフォーと呼ばれる年齢だ。
子どもは息子が3人。まだおしゃれに目覚めている様子はない。
男の子はいいなあと、あの頃の自分を思い出してはため息をつく。

ひろこは不器用ではなかった。
高校生になるとさっそくパーマをあて、流行していた聖子ちゃんのような前髪にした。
毎朝ドライヤーと格闘しては家族に迷惑がられていた。
母親になってからは、お菓子やパンも手作りしたし、子どもたちの保育園用の布団も手縫いで作った。
なんでも買って済ます母親たちとは違っていた。

ひろこは、時間をかければ何でもできるのだった。
授業時間中にとか、きまった形に仕上げるとか、枠にはめることができないだけで
形がどうであれおいしいお菓子やパン、ゆっくりと自分のペースでできる作業はむしろひろこの得意分野になった。

子どもの頃の「不器用」という定義が「決まった時間に決まったものをつくるためのもの」だったのだなあとひろこは思う。
急かされずにゆっくり教えてもらい、楽しめば、不器用だと決めつけられて哀しい思いをすることもなかったのに。

思えば幼稚園の時「ひろこちゃんは鋏が使えないようです。おうちで指導してください。」と書かれたノートを見た時から、自分のことを「何もできない」と思い込んでいたのかもしれない。
そして、忙しいと言いながら躾も何もしてくれなかった母。

ひろこはある時、母に聞いたことがある。
「どうして、4人も子どもを産んだの?」
すると母は言った。
「若草物語に出てくる4人姉妹に憧れたの、残念ながらうちはひとり男の子だけどね」

若草物語に出てくる4姉妹は、母親の手によって美しく着飾っていた記憶があるが、ひろこの母親は子どもの髪の毛を結ったこともなかった。
憧れというのは恐ろしいものだ。
自分の目の前に「若草物語の世界」があればいいのであって、自分が手をかけて作り上げようとは思わないのだ。
まるで少女がそのまま大人になり、憧れを完成させるために「子どもだけ産んだ」ように見える。だからこそ、ひろこは、幼いころから祖母の家に預けられ、専業主婦の家庭なのに縁故で幼稚園には夕方まで保育させていたのだろう。

髪の毛の結い方だけではない。トイレの始末の仕方も教わらなかったし、お箸の持ち方も習わなかった。私だけなぜできないのだろうと散々悩んで自分ですべてを解決してきたけれど、普通の子どもたちは母親から教わっていたのだと知ったのは、自分が子育てをするようになってからだった。
ひろこが不器用だったのは、才能ではなく、単に親から教えてもらえなかっただけのことだったのだ。

家の経済状況に似合わないセレブな雰囲気のガウンを子どもたちに着せて写真を撮ったり、ピアノを習わせたり。ひろこの母親は、子どもたちを「見せかけだけでもセレブにしよう」としたし、自分もまた「子育てなどしないセレブな母親」になりたかったのだろう。
憧れの世界を頭に描くだけでは物足りず、子どもたちを使って演出しようとした。
自分は一切努力せず、子どもに期待したのだ。

今年も春が巡ってきた。
ベランダにはムスカリの花が咲いている。
明日は末っ子の高校の入学式だ。
伸ばせなかった髪の毛は、今や切ったらもったいないと言われるほどに伸び
仕事や家事の時は後ろでふんわりと結ばれている。
ひろこのトレードマークにもなっている。
子どもにはのびのび育ってほしかった。藤波という教師は校長になったらしいが、あの教育は今でもひろこの心に影を落としていて、おかげで息子たちが小学校に行かなくても全然平気だった。
監獄のような学校、子どもたちを囚人のように扱う教師、そんなところに子どもを行かせるわけにはいかなかったし、何より子どもたちの拒否反応がそれを現していた。

明日入学式のある高校はとても自由な雰囲気がして、ひろこは好きになれそうな気がした。
「とても不登校だったとは思えない」とよく言われる子どもとともに、ひろこも一緒に育ったのだ。
母親が何も教えてくれなかった日常生活をやり直すように、ひろこは生きてきた。
自分で自分が母親になって。そして、不器用を才能に変えて。

アスファルトの桜色も素敵だけれど、やっぱり桜は見上げるものだわ。
空に、桜の花びらが舞っている。

(続)

いつかの春に

いつかの春に

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-04-06

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