やっちん

 例年にない長い梅雨がようやく明けようとする頃、僕たち一家は東京から京都へと引っ越しすることになった。
 パーリ語の翻訳というあまりお金にならない仕事をしていた父は、母が妊娠して家族が増えるのを機に安定した収入のある仕事に就こうと決めた。翻訳の仕事はいつもあるとは限らない、わが家の収入は専ら看護婦をしている母に頼っていた。
 のんびりした性格の父にしては、珍しく精力的に知人の間を動き回ったのだろう、程なく京都の大学に講師の空きを見つけてきた。
 その話を父が切り出した時、母は反対した。
「好きな仕事をコツコツやるのがあなたらしいですよ。子どもが生まれても生活を切り詰めればなんとかなります。それに手がかかるのも小さいうちだけだから、また看護婦の仕事に戻れます」
 母はきっと父が生活のために不本意な仕事に就くと思ったのだろう。机に向かい仕事をしている父の背中を見つめる母の眼差しはいつも優しく、どこか誇らしげでもあった。母は父を支えることに幸せを感じていたのだろう。
 僕がもっと小さかった頃、うちの父はなぜ他所の父親のように働きに出ないで、いつも家に居るのかと尋ねたことがある。
 その時母は、お父さんは大切なものを残す立派なお仕事をしているのよ、今はまだあなたにはわからないけれど、いつか誇りに思うときが来ると僕を諭した。
 ひょっとすると、父はそのときの僕らの会話を耳にしていたのかもしれない。
「古い考えと思うかもしれないけど、僕はやっぱり母親は家にいて子供の世話をし、父親が働きに出るのが自然なことなんじゃないかって思うんだ。それにね、僕は人に教えることにちょっと興味もあるんだよ」
 母が納得したのかどうかはわからないけれど、父は講師を仕事を受けることにした。
 一学期も終わりに近づいた小学校三年のことだった。

やっちん

やっちん

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-04-05

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