夜の真ん中を飛んで行け
2015年 04月04日に『小説家になろう』に掲載した作品の転載です。
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どうぞ、よろしくお願いします。
始まり
訪れたこともない広間、空間。折りたためる長机に三つの木製の椅子がセットとして置かれ、その全てが広間の前方に姿勢が向かうよう設置されている。LEDの白色蛍光灯、黒板、教卓(だろうか?)、だけれどもここは私の知らない場所だ、五感では受け取れない違和感。そして私はどのようにこの広間に侵入したのか、そのことを全く覚えていない。
窓もなく両端を囲む白い壁、前方左手に見えるのは白い壁を四角く切り抜いたもの、それがこの室内から外へ繋がる出口だとすれば、振り返れば同じような切り抜きが見えるはずだと思い、
振り返れば夜の海が広がっていた。
やがて這いずる波の音が聞こえてきた。
そして満月がでかでかと輝いていた。
すると、背後から強い風に吹かれ、潮の匂いがした。
後は、先ほどまでいたはずの教室は消失していた。
だけれども、私は何一つ混乱することなく、全てを受け入れて水平線と満月に見惚れていた。黒板にでかでかと赤いチョークで「REDRUM」と書かれていた、気がするが、そんなものがあったかも覚えていない。先ほどまで私は先生の板書をノートに書き写すことで他に何も考えられなかったはずなのだが、逆から読めば「MURDER」、殺人者という意味の英単語をそんなに使うだろうか。
いいや、私は今は社会人のはずだった。学生時代は十数年も前に終えたはずなのではなかっただろうか。だけれども、見れば見るほど、私は学生服を着ており、違和感がまるでない。
あるとすれば、私は海が、特に夜の海が大嫌いなのに、だから学生時代に私は海に一度も来たことがないにも関わらず、私は見覚えのない海にいることだ。
そうして学生服のまま夜の海にいることに不快感を感じた私は、記憶の最後が自室の寝室で寝間着を着て布団に横になったことを思い出して、ようやくこの世界が夢であると分かった。
夢、と分かればなんてことのない。
幻想的な夢の始まりは、常に奇怪な情景の断片から始まる。私はそのことを夢の世界で学習していた。
どうすればいいのか、と反射的に思うそしてすぐに、私は幾度ない経験から、この夢からいち早く覚めるための手順を知っている。
方法は幾つもある。もっとも簡単なことは、現実との矛盾を探せばいい。決してありえないことに気づけばいい。そうしてこの夢の世界を否定すればいい。そうしてそれはこの夢の世界の一部となっている私が、この世界から解き放たれる小さな瞬間となる。
たった一回の小さな瞬間では、私は受け流してしまうだろう。夢の世界はどこからでも私を納得させるだけのパンチを食らわせる。脳を揺さぶるパンチで私は記憶を失うが、それでも私は言い聞かせなければいけない。間違いを探せ。
間違いを見つけろ。そして自分の脳にダメージを与えろ。この世界を作った脳みそに軽いジャブを食らわせろ。やがて間違いが重くなり世界が支えきれなくなったとき、最期の一撃を食らわせてやるのだ。
そして、私は夢から覚められるのだ。
早く始めよう。さもなくばこの世界はどんどん悪くなるだろう。間違いだらけの世界に飲み込まれると、私は全く気付けなくなるのだから。夜の海から生まれるものなど、想像もつかない。私は現実にて夜の海に来たこともないのだから、それゆえ、怪物も生まれる。より間違いに見当たらない、リアルな怪物が。
悪夢が始まる。追いかけてくるお決まりのあいつが出てくる前に、そうなったら本当の悪夢だ。
悪夢に引きずられて、朝の目覚めを悪くし一日中引きずられるのも、もうたくさんだ。
ちくしょう、もう学生服が寝間着に変わっていやがる。
あいつを想像している時点で、もうあいつは近くにいるにきまっていやがるんだ。ちくしょう、寝間着の袖口に赤い斑点状のシミがついている。
海と満月
海から振り返れば堤防があり、その先に林が見え、私が先ほどいた教室の景色はすっかり無くなっていた。左右を見渡せば林は海岸に沿って弓なりに林立して見える。この林を抜けた先にあるであろう町。その防風林としてあるものではないかと思ったが、全く確証はない。ただ理解したことは、私が初めてこの世界に来た時の入口は、もうないということ。たとえもう一度現れたところで、私は全く違う空間として感じるに違いない。と、思いたい。
砂浜の色が妙だな、と思った。黒い、月明かりを全て飲み込む黒さの中に、しかし時たま、吐き出すように点として光を放つところがあった。あちらこちら光っては消え、同じ場所は二度と光っていないようにも見えた。が、すぐさま波が届くか届かないかの波打ち際で一定に瞬く光が見え、そこへ私は近づいて行った。
砂地は固い、ゴム製のサンダルから冷たさも伝わってきた。笛を鳴らして風が海から吹き、冷たさをさらに強くした。冷たい風だが、この世界の湿り気のある生温い暑さに私は顔が少し汗ばんでいた。砂が汗に交じり、顔に引っ付き、手で払おうと触れると消え、始めから砂なんてものはなかったように思えた。やがて汗そのものが無くなっていた。未だに有り続けるのは、海と砂浜と満月と私だけのように思え、足を止めて振り返れば先ほどの防風林は無くなり、堤防が見えその先にぼつぼつと街灯の灯りが見えるだけだった。
浜辺に足跡は見えず、光る場所も見当たらない。
前を向けば目指していた場所は見える。だが、先ほどより近づいているようには思えなかった。
思い出すと、光り続ける場所への距離は短かったはずだ。十数歩で着くはずだった。いや、手を伸ばせば取れるほどの距離だったかもしれない。
それよりも、海はいつの間にか引き潮になっており、満月はどこにも見当たらなくなっていた。
私はこんなことでは狼狽えない。狼狽えれば、悪夢はさらに襲い掛かる。何もかも疑い持ち、何一つ確証が得られぬ心境になってしまえば、矛盾も見つからなくなる。
こうした経験は何度もあったのだ。つまり、この世界での時間が驚くほど早く過ぎたにすぎない。
いったい、どれくらいの時間が過ぎたことになったのだろうか。
不思議ではないし、矛盾でもなんでもないことだ。夢の世界でよくあることだから。夜から昼という分かりやすい変化であっても、昼になれば私は昼の私に順応している。そして、そこに私は全く違和感を覚えない。だって、昼なのだから。
もしかして私は先ほどまで昼の世界にいたのかも知れない。けれども、それはない。未だ、私の記憶は途切れていない。私は確かに夜の海で浜辺の一つの光に近づこうとしていたのだ。それは紛れもない真実、自分の行動事実を肯定できぬようになってはいけない。
だから、こんなことで私はうろたえたりしない。間違い探しは現在の絵と現在の絵を見比べなければゲームにならず、過去と現在の間違い探しなど、間違いにはならない。これは私が夢の世界で手に入れた二つ目のルールだった。
簡単に脳に言い聞かせる。構うな、今だけを見ろ、と。
今すぐ起きるありえない矛盾、それがあれば良いのだが、悪夢も私の脳みそに住み着いている。学習している。
では、どうすれば規則性もなく変化する夢の環境で現実へ抜け出せるほどの間違いを探すことができるか。このことを強く私は確認しなければならないのだが、まだこの夢の世界について私はほとんど何もわかっていない。次にとるべき有益な方法はいくつもあるのだが、とりあえずただ身を任せ、しかし狼狽えずに行動し、見極めなければならない。
黒い空を見上げると、満月がありありとあった。だが、初めて見た時よりも小さく見えた。むしろ、初めてこの世界で見た満月の大きさがでかすぎたのではないかと感じる。
―満月には気を付けて……―
穏やかな海から風が吹き、灯油の臭いがした。
満月はやがてさらにさらに小さくなっていき、ピンポン玉ほどの大きさからゴマ粒ほどの大きさになった。そしてあざ笑うかのように点滅し始めたかと思うと、背後から誰かが固い地面を駆ける足音がはっきりと聞こえた。
歩幅がやけに短いと、すぐに分かった。
何度も聞いたこの足音は、私は知っていた。最悪だ。
今すぐにとっ捕まえてやりたい。
ちくしょう。
そして満月だ。空を見上げれば近づいてくるように少しずつ大きくなっている気がする。
いや、近づいている。浜辺に向かって落ちてくるのではないかと思うように、最悪すぎる。
思い出したくもない、夢の終着点はもうすでに見えているではないか。灯油の臭い、ではなく、ガソリンの風。
衝突による摩擦熱。海も燃えるものがあれば燃える。夢でもなんでもない、現実だ。
だが、それよりも恐ろしいものは、まだ見えない。
想像してはダメだ。こればかりは、何度も経験した。すぐに揃ってしまう、悪夢の部隊が。
何を悲観的になっているんだ。私らしくもない。戸惑わされてはいけない。だけれども、だけれども。
早く逃げなければ。さもなくば、最悪の目覚めになってしまう。
初めて手に入れたルールは、このままエンディングを迎えれば最悪の目覚めになってしまうということ。
ちくしょう。風が冷たいのに空気は生ぬるい。
この風は、私の最悪の最期に感じるときの風に似ている。
「人間の最期は発火することをご存じ?」
あいつがそう言った気がして、私は思わず振り返った。
が、いない。
少女
様々な悪夢を経験してきたが、夜と海と満月と砂浜と、波の音と風の音と、こんなにも静かな世界に放り込まれて、なお私は最悪の最期に近づいていると感じると、全てをぶっ壊してしまいたい。
が、悪態ついても何一つ解決やしない。昔、全てをぶっ壊すことに挑戦してみたが、無駄だった。
しかし、満月の明かりしかない夜の海で間違いを探すというのも無茶な話だ。ここが何処の海なのかも分からないのに、間違いを探せというのも無理な話のような気もする。
間違いを探すにも何を探せばいいのだろう。
こういうとき、私は無理やり動いて環境を変える解決策があることを知っている。私の身体は、ここが夢の世界だと気が付いたときより、ほとんど私の意思で動かすことができる。それならば、間違いが見つかりそうな場所に避難する、という手もある。
浜辺から堤防を上るための階段へ行くと、階段の数がやたら多いことに気が付き、堤防の高さもどうやら成長したようだった。高さは私の背丈より三倍ほどはあるだろうか、細長い小山のようで、万里の長城をなんとなく思い出した。
階段を上り終えると、街灯に照らされた数本の幹線道路が見え、交差した場所を中心に住宅が広がっていた。さらにその先に山々が聳え、どういうわけか、山端の向こうが白んできていた。朝が、来るらしい。
悪夢はすぐそこまできているらしい。
そう思ったら、街灯がふっと消え、遠くの山々が消え、ついでに朝が消えた。あたり一面真っ黒になったと思うと、強いスポットライトのような光を後頭部から受けたように私の影が伸びていき、振り返れば満月が向こうの空に強く光り輝いていた。
いずれにせよ、私は闘わなければならないのだろう。
深呼吸したくも、ガソリンの臭いが脳みそを刺激する。吸い込むほどに肺が苦しくなり、胃が拒絶反応を起こす。寝間着の袖で口を覆おうとしたが、いつの間にか半袖の寝間着に私は着替えていたらしい。赤い斑点の袖口は、もうすでになくなっている。
堤防の上から私は浜辺の先の夜の海を見た。
こうなればもう力づくで起きてやろうか、そう思い私は海に駆け込もうとした。呼吸を止めれば絶命できる、そうすれば脳みそが強い衝撃を受けて現実の世界に起きれる。
堤防の階段を一気に駆け下りた私はサンダルを脱ぎ捨てて浜辺を駆ける。あっという間に私は波打ち際のところまで着き、足を止めた。
溺死すれば、確かに夢から覚められる、かもしれない。
だがこれは本当に最後の方法だ。そして、一度しか、つまり初めてやった時しか成功していない。どうしても分の悪いギャンブルになってしまう。
うまくいった時はいたって簡単に、とにかく自分に強く言い聞かして成功した。「起きろ! 起きろ! これは悪夢になる! REDRUM! が近づいてくるぞ!」
初めてうまくいったときは、もうこれで悪夢からいつでも目覚めることができると安堵していたのだが、そこで私は悪夢も学習することを知った。
つまり、考え方が甘かった。
次の機会に私は同じことを試した。その結果、私は異質な夢の世界から、私が眠りについたときの部屋にそっくりの世界で、夢から覚めるという夢の世界にたどり着いた。
布団から勢いよく起き上がった私は、早鐘を鳴らす心臓を落ち着かせるために深く息を吐いた。
どういうわけか、私は下段ベッドで寝ていた。だが、何も違和感を感じなかった。上段に何がいるのかも考えなかった。私は上段のベッドでいつも寝ていたというのに。
ベッドから降り、部屋から出ようとしたときに背中から飛びつかれ、前へ倒れたとき、私は満月を空に見えたかと思うと、つまり空と地が逆転しており、首筋に冷たい両腕で抱かれ、後ろに誰がいるのかも理解できずに、私は満月へ向かって……。
私は首を振って今まで考えていたことを振り払った。つんとしたガソリンの臭いが急に鼻を襲った。ガソリンの臭いなどしない、と考えることにした。
一度だけ強引に目覚めることがうまくいったとき、あいつは確かにこう言ったことを覚えている。
「消えていった水の音はどこへ消えていったの?」
目の前にあったはずの海が消え、背後から波の音が聞こえた。
風はもうなかった。浜部の砂は冷たく固まり、強い風が吹こうともその黒い砂を舞い上がらせることはなさそうだった。
足元を見れば、白いスニーカーを履いていた。
そして私は半袖とジャージの体操着姿に変わっていた。
それは、夏の私の仕事姿であり、この姿が大好きなあいつを私は知っている。
「消えていった水の音はどこへ消えていったの?」
か細い声がはっきりと聞こえた。
ゆっくりと振り返り海を見れは、そこにはあいつ、私が最悪の最期を迎えるときにいつも手を差し伸べている、少女がそこにいた。
少女は浅瀬におり、足首まで海の水に浸っていた。
そして、少女の前に白黒の太い縞模様があり、満月はその縞模様の上、空高くに輝いていた。
これは、横断歩道か?
少女はにこりと笑って、口を開いた。
「横断歩道を引いといた」
白と黒と水の音
横断歩道を、ひいといた?
「満月には気をつけて。常に黄色信号だから」
少女は今度はにこりともせずに言った。
そうだ。満月はそのまま黄色信号に化けるのだった。安全の青色に化けることはない。次に化けるのは赤色。
横断歩道をひいといた? そんなことは今まで一度もなかった。
だが、横断歩道で死んだ夢なら覚えている。満月の夜に長い長い横断歩道を歩いていたとき、ビー玉ほどの大きさに見えていた満月が私に向かって落ちてきたので、私は早く横断歩道を渡り切ろうと思い駆け出し、すると満月は途中で破裂し花火の火の粉のように散りながら落ちていくと(頭ん中サイレン発令中!)、呆気にとられて足を止めてしまった私の目の先に見えていた青色ランプの信号機にぶつかり、すると信号機の黄色と一体化し、青色は黄色信号に変わり、火の粉は全ての信号を黄色に変え(駆け足は一度止まると動かない)、あとは赤信号になる前に渡りきろうとしてスピードを上げたトラックに横から轢かれ、高く弾き飛ばされたが痛みもないので意識はあり、ああ、俺はまた死ぬのかと思いながら頭から地面に転落して(コンクリーーーーーート!)、グシャリ(アハハハハ!)という音とともに、夢から覚めたのだった。
だけれども、その時は少女の姿はどこにもいなかった。
横断歩道でなくとも、満月は私をどうしても最悪の方法で夢から覚めさせる。例えば、月の引力によって空高く引き寄せられ、突然無くなり墜落していったり、または満月が近づいてきて地面だけが満月に吸い寄せられ、足元が崩壊して私は落下し、全く身体が言うことをきかずやがて真っ暗闇の中突然固い地面に落ちて足からの嫌な音とともに覚めたこともあった。
そしてそこには必ず私とともに少女の姿があった。少女は空を飛べる。必ず私の手をつかもうとして空高くまで引っ張り上げようとするのだ。
けれども、いつか手を放すのだ。
やがて私が死ぬときになると少女の姿はもうどこにもない。
現実の世界に引き戻される。現実の世界で思い返しても、いつから少女に出会ったのかも覚えていない。
あれだけ何度も出会っているにも関わらず、私は少女の顔を覚えていない。小顔で色白なことは見た目で分かり、表情もはっきりと読み取れるのだが、目や鼻や口は見えているのに、どうしても覚えることができない。
そんな少女が、浜辺に描かれた横断歩道の向こう側にいる。前回と同じく少女の顔はあるのだけれど認識できない。しかし、今回は少女が現れた瞬間をいま、はっきりと覚えている。
大変な進歩だと私は思えた。なぜなら、この少女が現れることが、現実と夢の完全な矛盾になるのだから。
姿を見た瞬間、私はこれは夢だと思えるようにする。そして少女から逃げて夢から覚めるまで思い続ければいいのだ。 夢だ、覚めろ、夢だ、覚めろ、と。
だけれども、私はそんなこと今までどうして学ばなかったんだ?
いや、そんなこと前にもなかっただろうか?
何を混乱しているんだ、私は?
「今度こそ、うまく渡り切れるはずよ」
何かを知っているように、少女は言った。
「消えていった水の音はどこへ消えていった?」
何かを知っているように、少女は言った。
「満月には気をつけて。常に黄色信号だから」
そんなことは知っている、と私は思った。
少女は私を見つめていた。私は口を開こうとした。
すると、少女はゆっくりと最初の白縞を踏み、私を見ながら渡り始めた。黒縞を忌み嫌るように慎重に避けながら、白縞だけを踏んでこちらへゆっくりと近づいてくる。
近づいてきても彼女の顔がまるで分からず、だけれども、どうにも彼女は怯えながら渡っているように見えた。
怯えているなんて、どうしてだろうか、見ていると落ち着いた。
青色の光が見え、少し上を向くといつの間にか信号機が何本もの細長い糸で空から吊るされていた。
そして背後でトラックが過ぎ去っていく音が確かに聞こえた。
振り返りそうになったが、少女から目を離したら死ぬ。今までの経験から導き出された答えの一つだ。
あれ? ではどうすれば少女から逃げ切ることができるのだ?
少女と私の距離はあと四本分の白縞となっていた。ふと足元見ると、いつの間にか私も白縞の上に立っていた。そして、まるでここが横断歩道の真ん中らへんのように感じられた。
白縞が残り三本となったところで、少女は足を止めた。
表情は青ざめていた。肩で息をするのがはっきりと見えた。
私が考えていた想像とは何かが違っていた。
襲われるだろう、と考えていた。が、まるで私が少女を襲っているようではないだろうか?
そんなことはない。だって、この夢の中では初対面ではないか。
「なあ」
こうして話しかけることも、久しぶりのような気がする。
私の声に少女は驚いた様子を見せ、そして安心したかのような表所を見せた。まるで、拾われたばかりのようだ。
「大丈夫か? あまりにも顔色が悪い」
少女は首を振った。
信号がさも当然のように黄色に変わった。
横断歩道が水平線まで伸びていた。海の波の上をゆらゆらと揺られながらも、縞模様だけはきちんと乱れていなかった。
いつの間にか、縞模様の線の幅が広くなっていた。先ほどまで少女のところまであと少しだったが、今では遠い。
赤色に変わった。
糸が切れたように、満月が落ちてきた。
逃げなければ。しかし、彼女から目を離したら終わる。後ろ走りするか、と咄嗟に思い付いた。
少女はせき込み始め、息も切れ切れになり、その場で前のめりになった。喘息の発作に苦しめられているように見えた。
満月は三つに分裂するのが見え、そのうち二つは横へ逸れていく。するとクラクションの音が向こう側から聞こえた。気が付けば横断歩道と垂直に交わるように、車道の中央線が引かれていた。
何かを理解した。
勝手に体が動いた。少女のもとへ。
フロントライトの光が強くなっていく。くの字に折れた彼女の影が伸びていく。
あまりにも遠い。間に合わない。
届け。手を伸ばした。
大型のトラックが視界に入った。
こちらを見た少女は青ざめている。
届け。届かない、無理だ。
ちくしょう。ふざけるな。
その瞬間、私はこの世界が夢なんだと、思った。
絶対に届く。絶対に。
何がなんでも助けてやる。
時間が遅くなったのか、私の動きが早くなったのか。
私は彼女の手をつかむと同時に思いっきり引っ張って、少女を助けようとした。だがトラックの衝突はもはや避けられそうになかった。しっかりと、私がどうなるか想像できた。
不思議と冷静に、私は小さく薄くまる彼女を守るように抱きしめていた。身をかがめた彼女を上から覆いかぶさるように、できる限り彼女に衝撃から守れるように、と
クラクションも鳴らさず、タイヤと地面がこすれる音もさせずに。
思わず、強く抱きしめた。
「私と夜の真ん中を飛んで」
腕の中で少女はそうつぶやいた。こっちを見て、顔色を変えて。
鈍い衝撃音とともに、私は少女と共に飛ばされ、夜の空へ高く舞い上がり、やがて海のほうへ放物線を描いて上がっていく。
上がりきると、次第に落ち始めた。
それはおそろしいほどにゆっくりとなった。
夢の世界なのだから、全く不思議ではない。時間が遅く進むようになった。それだけだと思った。たった、先ほども経験したことだ。
少女は私の腕の中からするりと下へ抜けた。そして宙返りをして体勢を整えたかのように見えると、私よりさらに半身だけ高く飛び、私と対峙した。
そして私に手を差し伸べた。
「さあ」
私は知っている。少女の手を掴んだらどこまでも高く飛んで行けるということを。
だが、いつか落ちなければ私は現実に戻ることができないことも、経験から知っていた。
私は迷わずに首を振った。私は高く飛ぶことよりも、傷つかぬうちに落ちることを選んだ。幸い、下は海なのだから。
彼女は私の拒否を受けて、悲しそうな顔をした。
「そして、またあなたは落ちていってしまうのね」
私はもう落ち始めていた。
もう手を伸ばしても、少女の手に届く距離ではなかった。
「どうして? 夜の真ん中を飛んでいけば、もうこんな目にも合わないですむというのに」
ふざけるな。お前が私をこんな目に合わさなければ、それで済む話ではないか……。
「でもね、また会いましょう」
会いたくもないさ、ちくしょう。
哲学的にめいた夢の話か、解釈は人それぞれだ。だが、夢の話だ。誰も得しない、損もしないか。考えるほどバカらしいことは知っているさ。だけれども、考えるよりも身体が動くこともあるではないか。夢の世界でも身体が優先されるのか。いや、本能か。
夢の世界だとわかっているから、こうしてハッピーエンドに向かえたのかもしれない。
溺死へ。
少女の姿が現実の満月と同じほどの大きさになった。
夜の真ん中を飛んでいく少女を、私は落ちながら見ていた。
「消えていった水の音は、全て――」
海に落ちた。背中から落ちた私は、大した痛みもなくそのまま海へ沈んでいく。
口のなかに血液の味が広がっていく。
海が消えた。私は、私は!
自己完結
嫌な死に方、というのは誰にでもあるのだろう。
私の場合は、転落死だ。落ちてからすぐにくる心臓が縮こまる圧迫感、鼓動の音を掻き消す耳を切るほどの風の音、急激に近づく地面、地面すれすれの光景(冷たいコンクリートにぶつかることが多くて失笑する)、衝突してから脳内に響くプツンという音。
そして休む暇なく私は現実の世界へ引き戻される。死んだ記憶をしっかりと刻み込まれて。乱れる呼吸、ドラムを叩くような心臓の音、季節限らず汗は止まらず、脇の汗が流れて脇腹を伝る。金縛りにあっているわけでもない、しかし私は動けない。乱れた呼吸を落ち着かせるために、下唇を噛む。血が出るほど痛く噛む。そうして私はやっと、この痛みでここが現実だと理解できるのだ。
だから私の唇の内側はボロボロだ。口内炎止めが欠かせない。友人に噛み合わせが悪いのではと心配されたこともあるが、本当の原因が悪夢である。この歳になっては恥ずかしくて言えたものではない。子どもの頃は高いところが好きだったのだが、今ではすっかり高所恐怖症だ。駅のホームも怖くてたまらない。私はいつもホームの真ん中で電車を待つ。吸い込まれるような気がしてならない。
それでも私はそれと似たような場所に居合わせなければならないこともある。小学校の先生なのだから、生徒はどうしたってどっかに行くのだ。そして、例えば木登りでもして降りてこられなくなった生徒が泣き喚いて助けを求めたとき、私はどうしても助けに行かなければならないこともある。
その時私はどうするか、唇を噛むのだ。
これが夢なのか現実なのかを確かめる意味でも、だ。
痛みとともに血の味を噛みしめて、ようやく私は落ち着ける。
失敗したら、最期だと確認できる。
ある時の夢の世界で、誰かにナイフで刺されても死ななかった。痛みも感じずに鈍い衝撃があっただけ、やがて生温いものを感じ、ようやく私は背中から何かが流れ出ていることに気づいた。そして背中から流れる液体に手で触れ、眼前にしてようやくそれが赤い血液だとわかると、思わず舐めて味がせず、そして私は雄たけびをあげた。明らかな矛盾を見つけた。脳みそに強烈な一撃を食らわせることができた。
そして、初めて気持ちよく悪夢から目覚めることができたのだ。
が、そんな経験は一度しか与えてくれなかった。
しかし、私は決定打となる最大のルールを手に入れたのだった。
痛みが伴わなければ現実ではない。
夢の世界では痛みを伴わない。
そして、転落死でなければ、私はこんなにも晴れ晴れとして私は夢から覚めることができるのだ。
だが、今までその下唇を噛むという方法を夢の世界で試したことはない。夢の世界にいる私がその方法に気付けない、ということもあるが、気付いたとしたら、私は試せるだろうか。
それはまた次の機会に持ち越されるのだが、悪夢など見なければいいと思う。
朝食のロールパンを齧りながら考えた。
転落死と満月には何一つ関連性がない。
もちろん、夢の中で私に嫌な思いをさせるあの少女を助ける義理など一つもない。
それでも夢の中の私は助けている。考える暇もなく身体は動いている。それは、満月の下で少女が今にも死ぬ瞬間に、私はその瞬間に出会ったときすでに、少女の変わりに死んでいる。
現実で本当に出会ってしまったら私はどうなっているのだろうか。
そんなどうでもいいことを何度も考えさせる。現実の世界で満月を見ると、そんな考えが浮かんでくるのだ。
だから、私は満月が嫌いだ。
まだ少女の姿が脳裏に焼き付いている。顔ははっきりと覚えていない。しかし、表情は覚えている。性格も初めて現れたときから大して変わっていない。遠回しな言い方ばかりをして、私を苛立たせる性格など、ちっとも変わっていない。
だが、どうしてだろうか。何かが違った気がする、今回は。だが、うまく思い出せない。
―消えていった水の音はどこへ消えていった?―
そんなもの、すべて私の全てへだ。
自己完結で終わる夢の世界の水の音など、すべて私の血潮に還るに決まっているではないか。
昔、夢の中で少女と海に落ちたこともあった。私は抱きしめた少女を助けたいために私は岸まで泳ごうとした。だが少女は海からで空へ飛び上がり、私を見下ろしながら一人で岸まで向かっていた。
私はそこで諦めた。ああ、夢なのだ、と。
安堵感もあったが、結局は海の底へ沈んでいっただけだ。
転落死。水の中であるだけ、ゆっくりと落ちていった。
今回は、覚えていない。海に落ちたあと、どうなったのかを。
頭が重い。今日の目覚めは、最高に悪い。
だが、見捨てたいとは思わないのだ。なぜか。
やはり、夢だからだろうか。あの世界が。
そして、私は今日も夢の世界のでの安楽死を考える。
私にとっての安楽死とは、やはり誰かのために死ねる、ということに尽きるのだった。
だけれども、少女に出会いたくない。
夜の真ん中を飛んで行け