火のクニの詩(一)二つの暗闇

二つの暗闇

 男は謝罪を拒んだ。
 振り向けば、己が引きずり落とされてしまうことがわかっていたからだ。
 暗いトンネルの中を、男と後ろに続く「それ」は黙々と歩む。
 男は一切口をきかなかった。「それ」が押し黙っているのと同じだけの、そして同質の闇を抱え続けるためには、そうせざるを得なかった。「それ」が内に秘めている闇に負けてしまえば、両者とも、またあの深淵な地の底に逆戻りしてしまう。
 太古より罪を犯したものが吹き溜まるその場所から、男は「それ」を連れ出した。世にもおぞましき腐れや爛れの中を這いずり回り、半ば己の身体をさえ腐らせて、男はやっと「それ」を見つけ出した。
 血の湧く泉、骸の溶けたどぶ、荒野と、照りつける黒い日差し。その果てにいた「それ」は、もはや男が知っていた彼の妻ではなかったが、妻は一目で男を認めた。
 そして一言だけ、呟いた。
「約束よ」
 蛆の這うその手を取り、男は混沌の沼から「それ」を引き上げた。
 男は謝罪を拒んだ。
 男は、かつて彼女と交わした約束の代償を、つまりは目の前の「それ」を、彼女に告げるべきだったのだ。
 だが、男にはそのための言葉も勇気もなかった。自分の内と背後に迫る闇の狭間で、天上で培った良心や  覚悟は、あまりにも無力だった。
 謝罪し、すべてを受け入れ、空でも地でもないところで暮らそうと思っていた。男は自分にはそれができると思っていたし、後悔などするはずがないと、変わり果てた妻の姿を見るまでは、己を信じ切っていた。
 だが、男は負けた。
 そうして、やがて天の光が見えてきた頃に、男は耐えきれず後ろを振り向いた。
「すまない」
 掠れた男の、小さな声が深い洞穴に響く。
 それは謝罪ではなかった。男は、もう、「それ」を見てはいなかった。
 猥雑で、卑小で膿んだ「それ」は息も絶え絶えに喘ぎながら、泣いた。その泣き声すらも、禍々しく、汚らわしい吐息を伴っていた。
「すまない」
 男はもう一度言って、「それ」を殺した。そして同時に己も、深く冷たい闇の中へと落ちて行った。
 こうして二度と交わることのない二つの暗闇が、この世に産まれた。

火のクニの詩(一)二つの暗闇

火のクニの詩(一)二つの暗闇

混沌とうねる思念はやがて詩となり、編まれた詩はいずれクニを造る。世のどこかに浮かぶ「火のクニ」で伝わる、神話めいたいくつかの物語。 ……そのクニには暗闇がふたつ、ある。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-04-05

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