壊れた風見鶏
「だから今度さあ、お店に連れて行ってよ」
火を点けて間もないセブンスターから生まれる煙が、薄暗い天井にゆらゆらと消えていく。ベッドのすぐ上に備え付けられた排気口はヤニで黄ばんでおり、隙間に埃が溜まっているのがより一層目立った。真っ白なシーツに灰が落ちるのを気にも留めず、風見省吾はゆっくりと煙草を口元へと運ぶ。十六の時から銘柄を頻繁に替えてきた省吾にとって、同じ煙草を半年も吸い続けるのは初めてのことだった。
元来、省吾は物に愛着が湧く性分ではなかった。携帯電話や財布を初め、身の回りを取り囲む品々は全て、彼を溺愛する両親に買い与えられるがままに替わっていった。そのようなことに対して無関心だったとかズボラだったというわけではないが、省吾にとって本質が同じであれば、それらに大きな違いなどはない。セブンスターもマイルドセブンもマルボロも同じ煙であり、ルイヴィトンもグッチもコーチも同じ札入れであり、黒いランドセルも赤いランドセルも虹色のランドセルも、同じ通学鞄なのだ。
「水曜日と週末ならいつでも空いてるからさあ」
省吾が二本目の煙草に火を灯したところで、彼女が向き直って口を開いた。その反動で彼女の身体を包んでいた薄いタオルケットが捲れ、薄褐色の乳首を携えた大きめのバストが剥き出しになった。彼女、と言っても別に交際しているわけでもなく、ただ単に省吾が名前を覚えていないだけだった。省吾と同じ大学の文学部でフランス語を専攻していることは先刻彼女の口から聞いたのだが、自身の専攻するドイツ語のクラスの学生の名前さえ殆どあげることの出来ない彼が彼女の名前を知っているはずがない。先ほどまで彼女は幾度となく自身の名前を口にしていたに違いないが、いかんせん省吾は覚えていなかった。智美、智恵、智子。取り繕うために思い出そうとはしてみたものの、省吾はすぐにそれを止めた。省吾にとっては同じなのだ。智美だろうが智恵だろうが智子だろうが、彼にとって彼女は一晩限りのセックスの相手なのだ。
「そうだ、まだ連絡先も交換してないじゃん」
「ゴメン、今ちょうどケータイの充電切れててさ。俺から連絡するから番号教えて。また遊ぼうよ」
省吾はいつも通り適当な言葉を吐いて、枕元に置かれているホテルのロゴの印字されたメモ帳を彼女に手渡した。まだ携帯電話の充電は残っているし、彼女と連絡を取る気もない。ましてや再び会う機会を作るつもりもない。携帯電話の液晶画面とメモを書く手元とを交互に見る彼女を一瞥すると、省吾はベッドを降りた。身を屈めて小型冷蔵庫の中からペットボトルを引っ張り出して中身を口に含む。冷えた天然水が喉を流れる感覚に眉を顰めながら、再び彼女の方に視線を戻す。焦げ茶に染められたセミロングの頭頂部が、蛍光灯の光に照らされている。
「はいこれ、私の番号とメールアドレス。いつでも連絡くれていいから」
彼女がそう言い終わらないうちに、省吾は再び彼女をベッドに押し倒して唇を合わせた。肌を重ねて間もなく、彼女の入り口は潤いを取り戻した。
省吾が自宅マンションに帰ったのは日も昇りきった昼過ぎだった。ホテルを出てすぐに女と別れ、近くの喫茶店で熱いコーヒーを飲んだ。一昨日に駅前の古本屋で何となく買ったゲーテの格言集に読み耽っていたところで、家に山積みになっている洗濯物を思い出したのだ。自宅からさほど歩かないコインランドリーとはいえ夕方の仕事までには間に合わせなければいけないので、省吾は重い腰を上げて帰路に着いた。
ソファーの上に溜め込んだ二、三日分の衣服を大きなマチのあるナイロン地のトートバッグに詰め込んでから、省吾はテレビの電源を点けた。いくらかチャンネルを回してみたものの、特に気を惹かれるようなニュースはない。名物キャスターと若いお笑いコンビが繰り広げる安い芝居のような報道番組に耳を傾ける気にはなれず、省吾はすぐにテレビを消してリモコンをテーブルに戻した。
それからテーブルに置かれたボール紙の箱から一つ焼き菓子を手に取り封を切った。旅行帰りの常連客が先週持ってきたものだった。裏側に張り付いた乾燥剤を剥がしてから、砂糖のかかったマドレーヌを一口に頬張ると、洋酒の香りとバターの風味が口に広がる。省吾は体温で溶けた砂糖の付いた指をスポーツタオルで拭うと、照明を消して部屋を出た。
今の大学に進学したのも、省吾の希望ではなかった。自身の仕事を継がせたい父親が「せめて大学だけでも出て欲しい」ということで、都内の私立大学に推薦入学したのだ。何の興味もなかったドイツ語を専攻して、何も得ることのない講義を受けて、何の有り難みもない単位を取る。これが父親の願いだとしたら、拍子抜けするほど楽な親孝行である。もともと活字を苦としない省吾にとって、文学部は身の丈にあった進路だったのかもしれない。
玄関の鍵を閉めてイヤホンを耳に掛ける。ヴォーカルのシャウトで楽曲が始まり、ビリー・シーンのベースラインにポール・ギルヴァートのリフが乗る。ミスタービッグがこのアルバムを出した一九九一年(ちょうど省吾が生まれた年である)、まだ若かったエリック・マーティン。憧れのロックスターの勇姿を、省吾は何度も映像で見ていた。その影響もあって省吾は、中学校に上がるのと時を同じくしてギターにのめり込んだ(父親にギターを強請った翌日、純正ギブソンのレスポールが自宅に届いた)。
晩夏の日差しが初秋の木枯らしに玉座を譲った長月。猛暑の続いた夏季を少しずつ忘れさせていくような、どこか肌寒さを感じさせる町並み。半年前に青々とした葉を揺らしていた街路樹は既に何度目かの老境を受け入れており、風が吹くたびに舗道に枯葉を敷き詰めている。ほとんど中身の残っていないスプレー缶を破裂させたような薄い千切れ雲の間から差し込む陽気がコンクリートに影を落とす。
省吾が到着した時、コインランドリーには学生らしき女性が二人いるだけだった。片方は洗濯機の方を向いていて顔が分からないが、黒い髪を肩甲骨まで伸ばした小柄な女性で、カーキのコットンパンツを履いて、足元のスニーカーと同じ淡いクリーム色のパーカーを羽織っている。もう一人は入り口近くのイスに腰掛けて、気怠そうに携帯電話を弄っている。部屋気のようなスウェットにスポーツサンダルという恰好は、あまり気持ちの良いものとは思えなかった。省吾は色の抜けた明るい髪を後ろで縛った彼女に声を掛けた。
「隣の席、使ってもいい?」
彼女の目の色が変わる。
「え、ああ。全然座っちゃって下さい」
崩れた敬語で返される。まだ省吾を見ている彼女に会釈して、洗濯機に衣服を放り込み硬貨を入れた。ドラムが回り始めたのを確認すると、省吾は彼女の隣に座り込む。彼女は先ほどまでと同じように液晶画面を覗きこんでいるが、どこか落ち着きなく、ちらちらと省吾を見ては再び携帯電話に視線を落としている。
「もしかして赤学生?」
省吾が親しげに話しかける。彼女は驚いたようにこちらを向き直った。
「えっ、そうですけど」
「俺も。文学部の三年生」
手の中で家の鍵を遊ばせながら、省吾は彼女の返事を待った。彼女が指先で前髪を流して耳に掛ける。
「あたしと一緒じゃん。どこ専攻の人?あたし英語なんだけど」
「ドイツ語。単位足りなくて留年確実だけど」
「嘘でしょ、ドイツ語専攻は楽勝だってサークルの子が言ってたよ」
省吾が同級生と分かって急に彼女の言葉使いがフランクになった。ここまではいつも通りである。
「ていうか名前まだ聞いてないじゃん」
「風見省吾。中央通りのバーで働いてる」
「じゃあバーテンダーなの?超かっこいいじゃん。あたし大島麗華。レイカでいいよ」
それからしばらく他愛ない会話を続ける。彼女のサークル、バイト先の居酒屋、省吾にとっては毛ほども興味のない話に、ただ相槌を打ち続けた。
「そうだ。レイカさ、講義要項持ってないかな。後期の履修登録してないのに捨てちゃったんだよね」
省吾がレイカの手首を指先で掴み、目を見つめながら尋ねる。
「やばいじゃん。あたしの見せてあげるよ。ウチのアパートすぐそこだから」
予想通りの答えが返ってきた。急かすように立ち上がったレイカに連れられて省吾も腰を上げ、まだ熱い衣服を乾燥機からトートバッグに移す。
「こんなことしといて今更だけどさ、彼女とかいないの?」
「いたらどうするの?」
「んー、このまま服着て一緒に履修組もっか」
「レイカこそ彼氏いるんでしょ」
「え、なんで分かるの?」
当てずっぽうで言ったわけではなかった。テレビ台に置いてある男性用ヘアーワックスは埃を被っていないし、化粧鏡の脇にはピルケースが放り出されている。少し頭を使えば分かることだ。このゲームの主催者を甘く見てもらっては困る。
「あ、いたんだ。適当に言ったのに」
「えーずるい。でもこれで共犯だからね」
「じゃあ最後までやらせてよ」
省吾が起き上がってレイカを仰向けにすると、途端に目の色が変わって真っ直ぐ口を閉じた。彼女の胸を弄ぶ右の手の平に柔らかな産毛を感じると、省吾は彼女の首筋に舌を這わせた。すぐ耳元で放たれるわざとらしい息遣いを確かめ、省吾は親指と中指を使って器用にレイカの乳首を抓り上げる。レイカの荒い呼吸が弱々しい声に変わると、省吾はゆっくりと彼女の唇を啄んだ。待ち望んでいたようにレイカが目を細め、伸ばした舌で省吾の歯列をなぞる。
愛のないセックスに興じている間、省吾は色々なことを考えている。窓の外に見える看板の英単語の不規則変化を思い出せずに悶々と腰を振っていることもあれば、昨晩に常連客から受けた恋愛相談に思考を巡らせる時もある。張りぼての心で肉欲に溺れるには省吾は歳を取りすぎたし、また若すぎるのだ。
省吾が手を伸ばした時、もうレイカの下着は濡れていた。蒸れたアンダーヘアが生地に張り付いているのが透けて見えている。彼女の腰を浮かせて下着を引き剥がす。
「なんで女の子って皆、男がレース好きだと思ってるのかな」
「ん、別に思ってはいないけど、真っ白なパンツ穿いてるよりは色気あるでしょ」
焦らすような省吾の質問に、レイカは素っ気なく答えた。自分に向けられた愛欲に満ちた瞳を無視して、省吾は言葉を続けた。
「大体の男なんて中身の方に集中してるから、別にどんな色のティーバック履いてても何とも思わないよ」
「じゃあ省吾はどんなのが好きなの?」
「そりゃ何も履いてないのが一番好きだよ」
反り返った赤黒い自分の先をレイカに押し当てる。彼女の深い湖の水面は暖かかった。脈打つ血流が自分のものか彼女のものか省吾には分からない。そして時間を掛けてゆっくりとレイカの母性の中に沈み込んだ瞬間、彼女が約束事のように絞り出した吐息で省吾の前髪が揺れた。彼女の奥に進んでいきながら省吾は、先ほどまで読んでいた格言集に思いを馳せていた。
二回目の理性をレイカの内股に吐き出したところで、省吾がベッドから降りた。レイカが呼吸を整えながら、余韻を愛おしむように爪の伸びた指で省吾の精液を肌の上で泳がせる。
「喉渇いたね」
「そんなもの飲むなよ」
笑顔を見せるレイカにガラステーブルの上にあった箱ティッシュを差し出す。窓の向こうに見えるスーパーの屋根は、日差しを受けて汚れが浮き上がっていた。雨どいで身体を休めるカラスはそのまま軒下に融けていきそうなほど黒々としていて、何か言いたげな目でこちらを見ていた。羨ましいのは省吾も一緒だった。たとえ汚れていてもその羽根が自分にもあったら、どんなに楽だろうか。することが済んだら余計な気遣いや取り繕いをせずにさっさと窓から飛んで行き、マンションの黴臭いエレベーターを使わずに自室に帰れる。やたら歩行者信号の多いあの交差点にもどかしさを感じる前にコインランドリーにも辿り着ける。ポールがギターソロを弾き終える頃には、カルバンクラインのボクサーパンツは洗濯機のドラムの中を回り始めているだろう。これから始まるレイカの執拗な食事の誘いを断るのに苦笑いを浮かべるくらいなら、ゴミ捨て場を一緒に漁りに行って悪臭に顔を顰めている方が遥かに有意義に違いない。
「お昼ご飯まだだよね。どっか食べに出ようよ」
不揃いな氷の浮かんだオレンジジュースのグラスを両手に持ったレイカが、わざとらしく首を傾げながら省吾に尋ねる。午前中ホテルを出た時と同じ愛想笑いを整った顔に張り付けてから、省吾はカラスから目を離した。
「ショウくん、あたしのジントニック貰えるかしら」
「氷はどうしますか、ユカリさん」
コリンズグラスを磨いていた手を止めて、省吾がユカリの返事を待つ。
「寒くなってきたから少なくして欲しいかな。昼間あんなに暖かかったのに、『近所』に来るときはちょっと肌寒かったよ」
左手に巻いたレザーベルトのカルティエを覗き込んでから、根本紫がグラスに残っていたレッドアイを飲み干した。ユカリは翻訳事務所を自宅マンションで開いており、週に三回はこのバー『キング・ジョン』のカウンターに座っている。山のように依頼される仕事を事務と二人だけで捌いているだけあって、金回りはとても良い。長年の夢であったという児童文学の翻訳も近く始めるとのことで、最近は「結婚なんてしてる暇ないよ」という嘆き節が口癖になっている。容姿はとても若々しく、とても三十代には見えない。
ユカリを初め殆どの常連客は、このバーを『近所』と呼んでいる。この店の年配マスターが柄にもなく付けた『キング・ジョン』という洒落た名前があるにも関わらず、ここに足繁く通う客たちが言い始めたのが広がって以来、歩いて二十分掛けて来店する客までもが『近所』と呼んでいる。
「時計なんて気にして、待ち人でもいるんですか」
「心配しなくても、そんな人いないよ。ほんとショウくんの嫉妬深さには参っちゃうわ」
省吾は苦笑いしてグラスの半分ほどまで氷を入れる。ショットメジャーできっちり量ったビーフィーターのジンを垂らしてから、泡が立たないようにゆっくりトニックウォーターを注いだ。最後にライムを絞る代わりに、ステアスプーンでアマレットを落とす。柑橘類が苦手なユカリがジンを飲みたがった時に、省吾が機転を利かせて作ったのだ。アーモンドの風味で柔らかくなった飲み口をユカリがとても気に入って、今では来店するたびに必ずこれを注文する。
「そういえばショウくん、お土産どうだった?」
「マドレーヌですよね。美味しかったですよ」
「もう、意地悪。気に入って付けてるじゃん」
グラスを押さえる省吾の左手にユカリの目線が飛ぶ。大きさは違うがユカリのそれと同じカルティエの時計盤が、バーカウンターの照明を受けて揺れている。
「せっかくパリに行って買ったのに、お姉さん悲しいなあ。返してもらおうかな」
「もう食べちゃったから返せませんよ」
おどけて笑う省吾が差し出したグラスを、ユカリが引っ手繰って口を付けた。底に赤褐色の泡が残ったビールグラスをシンクに置いてから、省吾がユカリに言う。
「ユカリさんとお揃いの腕時計、ありがとうございます。戴いてから一度も外してませんよ」
「シャワー浴びる時は付けてないでしょ」
「じゃあ一緒にお風呂に入った時、確かめてみて下さい」
今度はユカリが笑った。
「もう、お姉さんをからかわないで。ショウくんも好きなもの飲んでいいから良い子にしててね」
「ご馳走様です」
ユカリが二口目を煽るのを見つめながら、氷を沈めたコークにジャックダニエルを目分量で注ぐ。そしてレモンを搾らずにユカリのグラスとぶつけて、一口飲んだ。
「やっぱりレモンは入ってた方が美味しいですよ、ユカリさん」
ユカリが省吾の言葉を無視して尋ねる。
「あれ、今日はトシさんお休みなの」
「開店準備の時はいたんですけどね、腰が痛むとか言って事務所に戻っちゃいました。多分今日は阪神との首位攻防戦だから、十時過ぎるまでは帰って来ないんじゃないかな」
トシさんと呼ばれるのは『近所』のマスターのことである。春先に古希を迎えたトシさんは省吾が働き始めた一昨年から引退を仄めかしており、省吾は「店は畳みたくないからお前が継げ」と毎年言われてきた。恐らく来年も言われるだろう。最近は営業中も店をスタッフに任せており、閉店の直前に売上の計算と酒類の発注だけ済ますと、あとはカウンターの一番隅の席でデュワーズのハイボールを黙々と飲んでいる。
「それにしても平日はお客さん少ないわね。あたしが来るまでショウくん何してたの?」
「昼間にデートした女の子とメールしてました」
「やるじゃん。同じ大学の子なの?」
表情こそ笑っていたものの、ユカリの口調はさっきとはまったく違うものだった。省吾の話題が他の女性のことになると、ユカリは必ず不機嫌になる。その度に省吾は、女という生き物が飼う表裏一体の美しさと醜さを拝むことになる。歳を重ねてもなお自身の外見の美しさを反摂理的に求め続け、歳の離れた男にさえ感じる独占欲で胸の内を焦がし続けるのだ。
「そうです。一緒にご飯食べてきました。ただメールがしつこいんですよ。同年代の女の子って、やたらメールとか電話とか好きなんですね」
省吾が初めて交わった女性がユカリである。仕事終わりに誘われて行ったユカリの自宅マンション、床に落としたビニール袋の中で温くなる缶ビール、カラカラと乾いた音のするサーキュレーター、分厚い英和辞書が山積みになった事務デスク、その上に乗って省吾の身体に手を回すユカリ。その夜、その全てが、省吾のセックスになった。
「ショウくん、仕事終わりは何時なの」
「遅番の女の子が寝坊してなければ、九時半には店を出られると思います」
「あと二十分ね。じゃあこれ飲み終わったら晩ご飯食べに行こうね」
省吾が頷くとユカリが笑顔を見せて席を立った。
「お色直しするからトイレ借りるね。あ、あたしのお会計もうチェックしていいよ」
シャネルのポーチを小脇に抱えて消えるユカリの背中を見送る。シャツの袖を捲って溜め息を吐いてから蛇口を捻った。シンクを流れる水が小刻みに揺れ始めたところで、柄の付いたスポンジに洗剤を染み込ませる。
ユカリが席を立った今、バーカウンターにゲストはおらず、メニューを照らすように灯されたキャンドルが寂しそうに蝋を垂らしている。その明かりのせいで塗装の剥げかかったテーブルの木目が浮かび上がって目立つ。結露したグラスから落ちる水滴で紙のコースターが湿って、省吾の方からは印刷されたピエロが滲んで泣いているように見えた。そのピエロが嬉しくて泣いているのか、悲しくて泣いているのか、省吾には分からなかった。
「お寿司美味しかったね。いっつも体重計乗ってから後悔するんだよね」
閉店する直前に飛び込んだ鮨屋で二人分の会計を済ませたユカリが、暖簾を潜ってすぐに省吾の腕に飛びついた。あまり酒に強くないユカリにとって、二軒目で飲む冷酒は悪酔いする原因に他ならない。すでに顔は赤く染まりきって、その足取りは設計を間違えた椅子のように不安定でおぼつかない。
「もう帰りますよ。マンションまで送りますから」
「今日は泊まっていくよね。若い子に浮気した埋め合わせしてもらうんだから」
省吾の腕を抱きしめるユカリの腕に力が入る。
「ショウくんは悪い男だよ。こんなおばちゃん誑かして楽しんでるんだもん。もっと若い女が罠に掛かったら私は捨てられちゃうんでしょ」
ユカリが部屋のキーを鞄の中で探しながら省吾の胸に頭を擡げる。薄いシャツ越しにユカリの体温が伝わってきて、省吾は向かいの公園のブランコから視線を外した。ミディアムショートの黒髪から覗く首筋を、一目で高価なものと分かるネックレスチェーンが横断している。何も考えず省吾がユカリの頭を撫でる。
「まだ鍵は見つからないんですか?」
胸の中で今にも寝息を立てそうなユカリに尋ねる。返事の代わりにユカリは首を横に振った。耐えきれず省吾がユカリの頭を撫でていた手を下ろして、そのままユカリの臀部を手のひらで揉む。
「ちょっとショウくん、部屋に入るまで待って」
省吾の胸に顔を埋めながらユカリが喘ぐ。省吾は呆れて溜め息を吐いてから、ユカリのジーンズの尻ポケットからキーホルダーを抜き取る。
「あれ、鞄に入れたと思ったのに」
目を細めるユカリの肩を抱いたまま省吾が鍵穴にキーを回す。ドアを開けて一歩入ってから、ユカリが手探りで照明を点けた。蛍光灯がピンと音を鳴らしてから玄関を明るくする。
「ショウくん来るの久しぶりだね。私がフランスから帰って来た日以来だよね」
省吾に掴まりながらトングサンダルから足を引き抜いたユカリに、いきなり省吾が乱暴に唇を合わせて舌を割り入れる。二人の舌が激しく絡み合ってから離れると、どちらかの唾液が糸を引いてすぐ消えた。
「ちょっと良い子にしてて」
余韻に浸るように息を漏らすユカリに省吾が笑いながら吐き捨てた。ユカリのドレスシャツのボタンを片手で外しながら、後ろ手でドアを閉めてロックを掛ける。ユカリに教えられたセックスを、今夜も省吾がユカリに教えるのだ。
先刻コースターの中で泣いていたピエロが、窓の向こうから省吾を笑っているような気がした。きっと嬉しくて笑っているのだろう。悲しくて笑うなんてそれこそ道化師に他ならない。自分がピエロを笑わせられるほど滑稽でユーモアのある人間だとは、省吾は到底思えなかった。
明け方前の死んだ街並が省吾は嫌いではなかった。まだ人々が目覚める前の世界は静かで優しくて、左腕の手首で針を振るう時計盤を除けば省吾を律するものは何もない(時計は腕に巻く首輪なのだ)。誰かの吐寫物が広がる舗道のタイルにも、風が吹く度にキイキイと嫌な音がする写真屋の看板にも、色彩がないのだ。眺める者のいない紫陽花のプランターに、誰が美しさを見出すのだろうか。人目に付いてこその花であり、人が立ち止まってこその歩行者信号であり、人が腰を降ろしてこそのベンチなのだ。人間の意識世界から解離した今、街は死んでいるのだ。
勤勉なカラスが留まって息を吹き返した電線が揺れる。カアと鳴いて羽を収めたのを、省吾は前髪の間から睨みつけた。玄関の鍵を開けたまま出てきた旨をユカリに伝えるメールを送ったところで、煙草屋の前の自販機に硬貨を投げ込む。叩くように赤いランプのボタンを押すと、彼女は寝ぼけた様子で缶コーヒーを乱暴に落とした。
プルタブを起こしたばかりの飲み口から湯気が立ち、省吾が色を塗り始めた世界に吸い込まれていく。未だ夏の名残を咀嚼させられる昼間とは異なり、朝方は初秋がそれらしく振る舞うので省吾の頬や耳は冷たい。
ユカリのマンションは『近所』と省吾の住処とのちょうど中間あたりにあるので、寝不足で歩いても十分ほどで帰宅できる。古き良き商店街を等間隔に切り分けるようにコンビニエンスストアが入っていて、その奇妙な呉越同舟を抜けると省吾のマンションが待っているのだ。
郵便受けには大手紳士服店のダイレクトメールが丸まって入っているだけだった。玄関に入り洗濯の済んだ衣服をリビングに運んでから、省吾は風呂場に歩を進めた。バスタブの栓をしてから蛇口を回す。冷たかった水が熱いお湯になったのを確認してから、再びリビングに戻る。
ほとんど何も入っていない冷蔵庫からペリエの瓶を取り出すと、レモンも搾らずそのまま口を付けた。カーテンを引いて雨戸を開けてから青緑色の瓶を台所のゴミ袋に投げた時、ソファーの上のボディバッグの中で携帯電話が鳴った。小さい方のポケットから取り出すと、一緒にガムの包み紙が落ちる。
ユカリからの返事は寝起きにも関わらず長々と書かれていた。無駄な絵文字などを除けば内容は簡素だが、省吾にとっては煩わしい温泉旅行の誘いだった。フッと息を吐いてからユカリに電話をする。2コール鳴らないうちに、すっかり眠気の覚めた明るい声が聞こえた。
「もしもしショウくん。鬼怒川か箱根、どっちか決まった?」
「話が急ですよ。そもそも大学の秋学期が始まってます」
「土日で一泊にすれば大丈夫だよ。そんなに遠出じゃなんだから」
「きっと仕事もありますし」
「他のスタッフの子に代わってもらえるでしょ?」
ユカリの頭の中には省吾の都合はないのだろう。これ以上何を言ってもユカリの心変わりは期待できない。
「ショウくんが行きたくないなら仕方ないけどね」
「別に嫌だなんて言ってないですよ」
「じゃあ予定合わせようね」
「分かりました。来週以降の土日で空けられたら連絡します」
観光地のパンフレットを上機嫌で眺めているユカリが容易に想像できる。好きでもない女性との行きたくもない旅行に、省吾は既に気が重かった。
電話を切ってすぐ、お湯を出し続けている蛇口を思い出して風呂場へ急ぐ。脱衣所を抜けて視界に入ったバスタブは、趣味の悪い噴水細工のようにお湯を溢れさせていた。揺れる水面には生気のない省吾の顔が映っている。
ふいに昨日の昼間にレイカと食べたポルチーニ茸のたっぷり入ったニョッキクリームソースを思い出した。歯切れの良いニョッキにチーズの甘さが溶けたソースが本当に合っていて、是非ともまた食べに行きたいと思った。もし自分がカラスだったら出会えなかったあの味のおかげで、明日からもコインランドリーまでの億劫な道のりにも耐えられそうだ。
左腕のカルティエだけ外して脱衣所に置いてから、省吾は服を着たまま湯船に浸かっていく。お湯を吸い込んだ灰色のカットソーは墨汁が広がっていくように色が変わり、日に焼けていない省吾の青白い素肌に張り付く。
水を含んで重くなった衣服を身体から引き剥がして、バスタブの縁に掛ける。少し短いレザーベルトのせいで赤くなった左手首を、右手の指の腹で撫でる。熱いお湯が腫れに染みる。やはり違うのだ。自分の欲望を満たす見返りを前提とした釣り針の疑似餌のようなユカリの愛情に、省吾が心動かされる日は来ないだろう。
洗面台の鏡の中では、またピエロがこちらを覗いていた。彼は静かに泣きながら、省吾を恨めしそうに睨んでいた。鏡に映るピエロはその涙を、手首が赤く腫れた左手で拭った。
壊れた風見鶏