雨がやんだら(6)

   二十二

 京葉道路の〈穴川ジャンクション〉で渋滞にはまってしまったこともあって、都内に戻るのに要した時間は、〈はなかつパーク〉に行くときよりも、一時間ほど余計にかかってしまった。ファルコンを駐車場に停めた後、〈カネコ〉で食べさせられた不味い煮魚定食の口直しとして、事務所近くの立ち食い蕎麦屋で、ざる蕎麦をかき込んだ。
 事務所に戻ってからは、パーコレータに残っていた昨日のコーヒーを温め直した。デスクに座ってしまうと、尻に根が生えたように腰が重たくなってしまいそうだったので、立ったままコーヒーを飲み、煙草を喫った。
 半分ほど開けた窓から吹き込んでくる風に当たりながら、雨に濡れる街を眺めて、波打ってしまった感情が静まるのを待った。カフェインやニコチンに頼らずに、気持ちを落ち着ける森真砂子の方が、健康的ではないか――などと、取り留めもないことを考えた。
 ポケットに入れていた携帯電話が震えた。取り出してみると、メールの着信を知らせていた。メールの送り主は、誰あろう真砂子だった。彼女のことを、考えていたからだろうか。

  お世話になっております。聖林学院の森です。
  昨日は、ご迷惑をおかけしました。
  今日は、昨日いただいたアドバイスのとおり、
  仕事はお休みしました。
  一日ですが、仕事を離れることで、これまでのことを
  見つめ直すことができました。
  もう大丈夫です。ご心配をおかけしました。
  いろいろと、アドバイスをしていただいたり……
  本当にありがとうございます。
  その後、花田君の件は、いかがでしょうか?
  急かすようで、申し訳ありません
  やはり、気になりますもので……
  花田君を、一刻も早く見つけてください。
  よろしくお願いします。
  最後になりますが、天候が不順な折、
  どうぞ御自愛くださいませ。

  追伸
  今日、仕事をお休みした理由は、体調不良にしました。
  「カラ出張」は次の機会に、残しておくことにします。

 真砂子のメールは、昨今流行りの〝絵文字〟などは一切使われず、失踪した少年の無事を願う文面が綴られ、私の体調を気遣って結ばれていた。私は煙草を消して、真砂子への返信メールを打ち込んだ。花田洋子と博之の故郷での調査は、空振りに終わってしまったこと――当然、〈カネコ〉でのやり取りは、一切書かなかった――を記して、送信ボタンを押した。
 最後の一文に、不埒な期待を湧かせて、頬がゆるんしまっていることに気づいた。両頬を叩いて、新しい煙草をくわえる。時間をかけてニコチンを注入して、不埒な期待を心の隅の方へと追いやった。あらぬ期待など寄せぬことだ。
 それから、コーヒーを飲み干して、私は事務所を後にした。花田洋子が、足繁く通ったという下北沢のジャズ・バー〈ポットヘッド〉に赴くつもりだった。宮元の話は当てにならない部分も多いが、花田洋子と博之を捜す手がかりになりそうなものは、なんであろうと利用するしかない。私の心境は、蜘蛛の糸にすがるカンダタのそれだった。
 電車を乗り継いで、下北沢駅に到着した。宵の口を迎えようとする町は、新宿や渋谷といった繁華街とはある種違った賑わいを見せていた。流行りのファッションで着飾った中年の女、ギターケースを背負った初老の男、子供の手を引いて商店街へ向かうエプロン姿の若い母親、駅に向かって自作の詩を朗読する少年――雑多な人々が行き交う。かつてこの町は闇市だったそうだ。たとえ時代は変わっても、町が醸し出す雰囲気と町に集まる人々によって作られる景色は、変わらないのかもしれない。
 携帯電話に打ち込んでおいた〈カネコ〉の宮元が作成した〈ポットヘッド〉までの道順に従って、線路沿いを進んだ。ひとつ目の踏切のある角を左に曲がる。線路を背にして、飲食店やら衣料品を扱う店に混じってスタジオやライブハウスが軒を連ねる狭い道を歩いた。
 フォード・ファルコンで来なかったことは、正解だった。あの〝忌々しい〟車であれば、店先に置かれた看板やらワゴンやらをなぎ倒して進むことになっただろう。目的の〈ポットヘッド〉にたどり着くまでに、立派な器物損壊の容疑者になっている。そんなどうでもいいことを考えながら歩いたせいなのか、かなりの距離を歩いてみても〈ポットヘッド〉は見当たらなかった。表に看板を出していない店なのだろうか。それとも、私が見落としたのか。
 あるいは、宮元の話自体が――こればかりは、考えたくはなかった。
 私は〈ポットヘッド〉の場所を聞くため、目についた灯りの点いている店へと入った。私が入ったのは古着屋で、通路を塞ぐようにシャツやジャケットといった商品が並べられた店内では、ピアノに合わせて〝トム! これをやれ。トム! それもやれ……いや、トム! それじゃない〟と指図されっ放しだと、男がしゃがれた声で嘆いていた。この曲が流れているということは、閉店時間が迫っているということなのだろうか。
 店内を見渡してみたものの、誰もが似たような恰好をしているせいで、誰が店員なのか判別がつかなかった。そして、店内にいる誰もが、彼らとはまったく違うファッションをした私には、敢えて触れないようにしていた。流行の最先端にあろうが、末端にあろうが〝触らぬ神に祟りなし〟という言葉だけは通じるらしい。
 とにかく、私は一番近くにいる男に声をかけた。「ちょっと……訊いてもいいかな?」
「なん……でしょう」黒字に真っ赤なバラがいくつもプリントされた派手なシャツを着た男は、〝ババ〟を引き当ててしまった後悔を隠そうとはしなかった。
「〈ポットヘッド〉って店に行きたいんだけど、見つからなくてね……ジャズ・バーなんだ。知らないかな?」
「〈ポットヘッド〉なら……」そこまで言って彼は私の前を通り過ぎて、店の外に出ていった。後に続くと、彼は私が来た道を指し示して続けた。「あそこに、踏切がありますよね……あの踏切の向こうにあります。一階に〈リグ・ヴェーダ〉ってカレー屋があるんですけど、その二階です。それと、〈ポットヘッド〉はジャズ・バーじゃなくて、ロック・バーですよ」
「そう、ロック・バーなんだ。ありがとう」流行の最先端に迷い込んだ田舎者への嘲笑を張りつかせた彼にお礼を言って、足早に古着屋を後にした。
 ――踏切で曲がるのは右で、〈ポットへッド〉はロック・バー……宮元の野郎
 そこらにある看板やらを蹴りつけたい気持ちを抑えつつ――〈カネコ〉のときには、蹴りつけるタイル壁があったのだが――今来た道を踏切に向かって歩き始めた。
 踏切では、駅から発車する電車と駅に向かう電車が立て続けに通過したので、向こうへ渡るのを待たされる羽目になった。時間は有効に使わねばならず、ワイシャツの胸ポケットから精神安定剤を一本抜き出して、火をつけた。やがて遮断機が上がり、くわえ煙草のまま踏切を渡った。すれ違う若い男女のふたり組が、こちらを見て顔をしかめていた。どうやら、くわえ煙草に肩で風を切って歩くことが粋だった時代は、遠い彼方へと過ぎ去ってしまったらしい。
 踏切を渡ると、カレーの匂いが鼻についた。漂う香辛料の匂いを頼りに一ブロック歩いた先に、象の頭をしたヒンドゥー教の神様――確か、ガネーシャといったはずだ――が描かれた極彩色の看板があり、梵字風のロゴで〈リグ・ヴェーダ〉とあった。
 〈リグ・ヴェーダ〉の脇に階段があり、上から流木を模した看板がぶら下げられ、バーナーかなにかを使って焦がした跡で〈ポットヘッド〉と記されていた。その看板の下をくぐって、階段を昇る。急な階段の両壁には、バンドのライブや小劇団の公演を告知するポスターが貼られていた。〝チケット残りわずか!〟〝三年振りの下北公演!〟などと煽り文句が書き加えられたポスターも何枚かあった。しかし、どれも私の知らない名前ばかりだった。
 防音の狙いもあるのだろう重たい鉄製のドアを開けて、中へと入った。〈ポットヘッド〉の壁は、古今東西のロック・シンガー、ブルース・シンガー、ジャズ・シンガーたちの似顔絵で飾られていた。前衛的なのか、下手くそなのか、あるいはその両方なのか、なんにせよ判別がつくのは数人だけで、そのほとんどが同じ顔に見える。
「いらっしゃい」と言って、レゲエの神様の顔がプリントされた黄色いTシャツを着て、アフロヘアをした三十前後の店員が、カウンターの中から顔を覗かせた。「うち、キャッシュ・オン・デリバリーなんで……まずはご注文をお願いします」
 私はカウンターを挟んで、彼の正面に立った。それから、カウンターの上に置かれたメニューを眺めて、ギネスを一パイント注文した。
「七〇〇円になります」
 千円札をカウンターに滑らせてから天井を指差して、気になることを訊いた。「これは、きみの選曲かい?」
「ええ。そうですけど……なにか?」
 店内で今流れているBGMは、デュラン・デュランだった。シンセサイザーを基調にした八〇年代のロック――果たしてそう呼んでいいものなのか――は、はっきり言ってこの店の雰囲気にそぐわない。
 店員はいたずらっぽく笑みを浮かべて答えた。「あァ……こうしておけば、すぐにリクエストをしたくなるんじゃないかなと思って」
「きみは、商売上手だな」私は感心して言った。私の顔にも、思わず笑みがこぼれていることに気づく。
「そんなことないですよ……なんかリクエストしますか?」お釣りを手渡しながら店員が言った。
「そうだな……じゃァ――」少しの間考えてから、私は先刻の古着屋で聞いた曲が耳に残っていたが、口開けの店で〝仕事が終わるまで待てない〟と嘆かれては、彼も迷惑だろうと思った。そこで、私は同じ〝酔いどれ詩人〟が歌う別の曲をリクエストした。
「ありがとうございます……ちょっと、待っててください」〈ポットヘッド〉の店員は私に背を向けて、ビールサーバーの方へと向かった。
 カウンターに積み上げられたイギリスのオイル会社のロゴが刻印された灰皿をひとつ、自分の前に置いて煙草の灰を落とした。「きみは、この店は長いのかい?」
「僕はそろそろ一年ってとこですけど……」店員は背中越しに答えてから、訊いてきた。「どうしてです?」
 花田洋子が故郷から姿を消したのが二年前のことで、彼女が千葉の漁師町から通っていた思われるのは、さらに昔のことだった。
「ちょっと、昔の話がしたくて、来たんだけどさ」久しぶりに訪れたかつての常連客を装うことにした。
「そうですか……この店は十六年目だから、マスターに訊いた方がベストですね。マスターが始めた店ですし」
「そうだよなァ、この店も十六年目なんだよなァ……」思い出に浸るフリをして、店内を見回した。
「ええ。この間の十五周年記念パーティーなんか、〝やばい〟くらいに盛り上がりましたからね」
 ――ここでもまた〝やばい〟だ
「連絡、行きませんでした?」と店員。
「それがさ、ついこの間まで、海外に行ってたから……連絡してもらってたのかも、しれないけど」
 ――また、〝海外〟か。お前はパスポートを持っていないだろう
 〈荒神書房〉と同じ法螺話を口にしていることに気づいた。そろそろ、法螺のバリエーションも増やさねばなるまい。
「そうだったんですか……それじゃあ、仕方ないですね。マスターなら、もう少ししたら顔を出すと思うんで、そのときに、思い出話でもしてください」
「わかった。そうさせてもらうよ」ビールサーバの前に立つ彼の背中に答えた。
 彼はグラスに八分目まで注いだギネスの泡を落ち着かせている間に、ストリップ小屋かなにかの楽屋でやさぐれる男がジャケットになっているCDをラックから取り出して、プレイヤーにかけた。繊細なピアノが流れ出した後、〝酔いどれ詩人〟が独特のしゃがれ声で〝ピアノが酔っぱらっちまった〟と吟じ始めた。
 店員が私の前にグラスを運んできた。注がれた漆黒の液体の上に、上手に重ねられた泡の表面には、見事にシャムロックが描かれていた。
 ――思ってた以上に、いい店じゃないか。あの宮元にはもったいない
「おまちどおさま。この次の曲は、どうします?」
 パイントグラスと灰皿を手にして、私はカウンターに一番近い席に腰を降ろした。「ここから先は、きみに任せるよ」
「ありがとうございます。じゃァ、取り敢えず……しばらくはトム・ウェイツにしときますね」店員はそう言って、カウンターの奥に引っ込んだ。
 彼の背中を見送ってから、せっかくのシャムロックを壊してしまわぬよう気をつけて、そっとグラスに口をつけた。きめ細かな泡と、見た目より飲みやすい漆黒の液体が喉を通り過ぎ、口の中には心地よい苦味だけが余韻として残った。
 グラスに注がれたギネスを半分ほど飲んだ頃――〝酔いどれ詩人〟は〝『聖者の行進』が、どっから聞こえてくるぜ〟と歌っていた――〈ポットヘッド〉のドアが開いた。
 入ってきたのは私と同年輩の男で、濃い茶色のスラックスに黒のジャケットを羽織り、ジャケットの中には濃紺のボタンダウンのシャツを着ていた。この男は私が待っている〈ポットヘッド〉のマスターではない。なにより男が漂わせる雰囲気が、彼がいわゆる〝カタギ〟ではないことを物語っていた。
 そして、私はこの男を知っている。
 男はそのクセのある目つきで店内を見回して、私の姿を認めると眉間に深い皺を寄せた。おそらく私も、この男と同じ表情をしているだろう。男と睨み合う恰好になった。
 先に口を開いたのは、男だった。「なんで、お前がここにいるんだ」
「それは、こっちの科白だ」私は男に答えた。
「――いらっしゃい」〈ポットヘッド〉の店員がカウンターから顔を出した。私たちの会話が聞こえたのか、愛想良く続けた。「お待ち合わせのお友達ですか?」
「友達じゃァない」
 口惜しいことに私と男の回答はユニゾンになってしまった。男が軽く舌打ちをする。
 男は私が十年ほど前に辞めた前の稼業での同僚――古河だった。

   二十三

「あのォ、うちはキャッシュ・オン・デリバリーになってますんで……」私と古河の間に流れる不穏な空気を感じ取って、〈ポットヘッド〉の店員が割って入るように声をかけてきた。
「いらないよ」古河が私から視線を外さずに答えた。
「なんか、注文してやれよ。彼がかわいそうじゃないか」私も古河から目を逸らすことはなかった。
 古河は頬をピクリとさせて、ようやく私から視線を外した。店員に目をやり、注文をする。「ジャック・ダニエル。ストレートでくれ」
「かしこまりました」店員が仰々しい返事をして、奥に引っ込んだ。すぐにショットグラスに満たされた琥珀色の液体をカウンターに運んでくる。
「ありがとう」カウンターで金を払った古河が、店員に訊いた。「野中……マスターは?」
 私のお目当て〈ポットヘッド〉のマスターは、野中という名のようだ。
「マスターなら、もう来ると思うんですけど……」店員が私の方を見て、古河に答えた。「あちらのお客さんも、マスターに会いに来たとかで」
 ――余計なことを言いやがって
 ギネスを口に含んで、言葉を押し込んだ。
 振り向いた古河が言った。「お前、マスターになんの用だ」
「お前に答える必要はない」
「あのな、お前の稼業に守秘義務なんてのは――」
「――古河先輩、すいません! 遅くなりました!」古河の言葉を遮るように、新たに男が〈ポットヘッド〉に飛び込んできた。グレーの背広を着て、きっちりとネクタイをしている。年の頃はアフロヘアの店員とそう変わらない。短く刈り上げた髪をして、そう背は高くないのに太い骨格をしていた。ただ、背広に〝着られている〟せいもあって、古河の後輩というよりも、卒業式だけ着飾る体育教師のように見えた。
 私に小言を言うタイミングを外されてしまった古河が、あからさまに大きなため息をついた。「この店は、キャッシュ・オン・デリバリーなんだ。お前も、なんか注文しとけ」
「そうなんですか。わかりました」古河のため息の理由に気づかず、男はバタバタとカウンターへ向かった。
 古河は彼と入れ替わる形で、カウンターから離れて、隣のテーブルに腰を降ろした。
 不機嫌そうに座る古河に言った。「お前がコンビを組むんだ。珍しいこともあるもんだ」
「うるせェ」と呟いて古河がジャック・ダニエルをすすった。一気に半分ほどが無くなる。
 カウンターでは、古河の相棒が大きな声で「コーラは糖分が高いので、烏龍茶をお願いします」と注文していた。それを聞いた古河が額に手をやり、小さく首を振った。
 古河の相棒は、大ぶりのグラスに入った烏龍茶を手に古河の隣に腰を降ろした。古河の前に置かれたショットグラスの中身に気づくと、校則違反をする生徒を見つけた風紀委員よろしく、問い詰めた。「古河先輩、これお酒じゃないですか。ダメですよ。まだ、勤務中なんですから」
 古河が、ぐっと奥歯を噛み締めているのがわかった。ご機嫌斜めな彼の代わりに私が答えてやった。「大丈夫だよ。その程度じゃァ、そいつは酔っぱらいやしないよ」
「そういう問題じゃないんですよ」古河の相棒は私に目を剥いて答えた後で、眉をひそめた。それから私と古河を交互に見つめ、古河に問いかけた。「あの、こちらの方は……お知り合いというか、古河先輩のお友達……ですか?」
「友達じゃァない」
 またしても、ユニゾンになってしまった。古河の相棒が目を丸くして驚く。カウンターの向こうで、〈ポットヘッド〉の店員が必死に笑いをこらえているのが、視界の端に入った。
「とにかくだな、遠山……少し大人しくしてろ」古河が相棒――遠山を睨みつけた。
「……了解しました」まだなにか言いたげな遠山が、渋々といった風に頷いた。
「ちゃんと先輩の言うこと聞く、いい後輩じゃないか」私はぬるくなり始めたギネスを一口飲んだ。「横紙破りだったお前さんとは、えらい違いだな」
「うるせェ、お前は俺以上に、そうだったじゃねェか」面倒くさそうに古河が返してきた。
 それから古河はグラスには手をつけなかった。黙ったまま煙草を喫う古河の隣で、烏龍茶を手にした遠山に監視をされていたからだ。単独行動をしたがる古河と、遠山のような融通の利かなそうな男でコンビを組ませるとは、今の古河の上司は、なかなかの遣り手に違いない。私は目の前の〝微笑ましい〟光景を眺めてギネスを飲み、煙草を喫った。
 〝酔いどれ詩人〟の二曲目が終わり、店員の選曲によるBGM――〝酔いどれ詩人〟のままだった――が流れ始めたときに、鉄製のドアが押し開かれた。黒い長袖のTシャツに革のベスト姿の中背で太った男が腰をかがめて、そっと店内に入ってきた。年の頃は、五十を過ぎたばかりといったところだろうか。肉がついてしまう前までは、色男で通っただろう、鼻筋が通り、切れ長の目をしていた。
 男は店内に流れるBGM――〝酔いどれ詩人〟が〝三十八口径で自分の頭を撃ち抜いたヤツのことさ〟と吟じていた――を耳にして、唇を〝への字〟にして、カウンターの中から顔をのぞかせた店員に向かって毒づいた。「なんで、こんな時間からトム・ウェイツなんだよ」
「いや、でも……」
「この時間は、もっとノリのいいヤツにしろって言ってるだろ。馬鹿」
「でも、マスター、あちらのお客さんがお好きだというので……」店員が視線を、私の方にちらちらと移していた。「昔の常連の方のようで……」
 男――マスターの野中は、テーブル席へとその視線を移して、先客がいることを認めると、直立不動になった。確かに今の発言は、客商売としては軽率の誹りは免れない。
「申し訳ありませんでした」野中はばつの悪そうな顔をした後、テーブル席に向かって最敬礼をした。ゆっくりと頭を上げて続けた。「トム・ウェイツとは、いい趣味ですねェ……古河さん」
 野中と古河は顔見知りらしい。ただ、それが音楽で結ばれた麗しい友情ではないことは、野中の顔を見ればわかる。あからさまな追従の笑みだった。
「ところで、今日はどういったご用で……」
「実は……この近くでですね――」
 真っ先に答えた遠山を、古河が頭をはたいて黙らせた
 古河が野中に言った。「――お前に用があるのは、俺だけじゃない。こっちも、お前に用があるそうだ。それと、トム・ウェイツはこいつのリクエストだ」顎を使って、私を紹介する。
 突然はたかれた頭を抱える遠山と野中の視線が、私に集まった。
 私は古河に訊いた。「俺が先でいいのか?」
「お前が先客だったんだ。先に仕事を済ませろよ」
 私には聞かせたくないことが、古河にはあるのだろう。そのことが気にはなったが、私は私の仕事をしなければならない。珍しく厚意を見せる古河に甘えることにした。
「こちらへどうぞ」どう振る舞ったらいいのかわからずに、おどおどと立ちすくむ野中に声をかけた。「私は、ある少年の失踪事件を捜査してましてね。それで、お話を聞きに来たわけなんですよ」
 〝失踪事件を捜査〟という単語を聞いて、隣のテーブルで古河が苦笑を漏らしているのが見えた。古河の横では遠山が、再び目を丸くしている。古河に対する野中の態度を見る限り、古河の同業者と思わせた方が、容易に情報を引き出せるに違いないと踏んでのことだった。野中の口調と態度から察するに、彼もいわゆる〝カタギ〟ではない。
「そうなんですか……どういったことでしょう。協力しますよ。なんでも、訊いてください」野中が木製の椅子を引いて、私の前に座った。
 私は言った。「ある少年が、三週間ほど前から失踪しています。その行方を捜してるんですが……どうも彼は、今は別に暮らしている母親に会いに行ったようなんです。ところが、その母親の行方も、わからないんですよ」
「それは大変ですね……それで、その子のお母さんが、僕と関係があるんですか?」
「……まァ、あなたと、というより、この店に関係があるみたいでしてね」
「じゃァ、うちのお客さんってことですね? 誰だろう?」野中が天を仰ぎ、右手を顎の辺りにやった。「お客さんで、子供がいる人ねェ……」
「それが、よく通ってたのは、十年以上前のようなんです」
「十年以上前? 随分と昔の話ですね、それは。うちがオープンした頃かな?」
「そこまでは、古くないとは思いますが……とにかく、その頃のお客さんのことは、思い出せますか?」
「うーん……そのお母さんですね、お名前はなんていうんでしょう?」
「花田洋子さんです」
「花田……洋子」野中が目を閉じて考え込んだ。
「桜樹よう子って名前のアイドルだったそうなんですが……」
「はい、はい」野中が目を開いて、両手をバチンと打ち当てた。「桜樹よう子の洋子ね。来ました、来ました。その……洋子の息子ってのが」
「訪ねてきた洋子さんの息子というのは、彼のことじゃないですか?」先日、〈聖林学院〉の森真砂子が送信してくれた花田博之の画像を携帯電話のディスプレイに表示させてから、野中に渡した。
 野中が両手で恭しく私の携帯電話を受け取った。若作りしても老眼は進んでいるのだろう、受け取った携帯電話のディスプレイを遠ざけてから、まじまじと見つめた。「――そう、この子ですよ」
「間違いありませんか?」
「間違いありません、この子です」野中が立ち上がって、カウンターの中にいる店員に画像を見せた。「なァ、この間ウチに来たの、この子だったよな」
 画像から目を遠ざけることなくアフロヘアの店員が、私にも聞こえるよう少し声を張って答えた。「そうです。ウチの店に来ましたよ」
「それは、いつ頃の話かな?」
「ええと、二十日……ぐらい前です。ちょうど、いまくらいの時間でした」アフロヘアの店員が答えた。
 ――ビンゴ。博之が、下山文明と会った際に言った〝当て〟というのは、ここのことだ
 広大な大地の中からお目当ての鉱脈を発見した山師や茫洋とした海原で魚群を探知した漁師は、こんな気分を味わうに違いない。だからこの稼業はやめられないのだ。背筋を走った電流のような快感の余韻に浸る。
 私は興奮を悟られぬよう声を低くして訊いた。「彼が来たときのことを、詳しく話してくれないかな? 彼は十六歳なんだ」〝まだ十六歳〟なのか〝もう十六歳〟なのかは、この際不問にしておく。
「十六歳なんですか? 彼」アフロヘアの店員の手から私の携帯電話を抜き取って、野中がまじまじと見つめた。「社会人ってことはないと思ってたけど、まさか高校生とはねェ……」と言って携帯電話を私に返した。
「少し大人びて見えるからねェ」携帯電話のディスプレイに映った博之の画像から感じるままを、私は口にした。
「そうですよねェ、僕はてっきり……」と野中。
「高校生にお酒を飲ませたんですか!」隣のテーブルで遠山が声を上げた。
 つい先日まで同行していた元教師の教務課主任がリタイアしたと思えば、今度は風紀委員の登場だ。
「いや、僕らも高校生だとは、思わなかったので……」遠山の方を向いて、野中が頭を掻きながら弁明した。
「ですけど、あなたねェ――」
 古河が再び頭をはたいて、遠山の口を閉ざした。「少し黙ってろ。今はあいつの時間だ。さァ、とっとと先に進めてくれ」
 古河にこの場を仕切られるのは、なにやら悔しい気もするのだが、風紀委員を黙らせてくれたことには感謝した。念のため、古河の隣で不貞腐れる遠山に一礼して、話を続けた。「彼は、どんな様子だった?」
「ちょうど、あなたの座ってる席で話をしたんです。それで、うちはキャッシュ・オン・デリバリーでしょ? なに頼むって訊いたら、母が……洋子がよく飲んでたものと同じものをお願いしますって言われたんで、XYZを作ってやったんです」
「洋子さんは、XYZが好きだったんですか?」
「なんでも飲んだけど、一番飲んでたのが、XYZだったかな」
 XYZ――ラム・ベースのショートカクテル。〝これでお終い〟という名の酒。〈カネコ〉で見た写真に収められた洋子の目が、思い浮かんだ。どこか虚ろで、なにかを諦めたかのような目――
「息子さんは飲み方が上手だったね。若い頃ってさ、どれだけ飲めるか……で競い合って無茶な飲み方するでしょ? 洋子なんか、まさにそうだったけど。でも……息子さんは、自分のペースでゆっくり飲むんだよね。歳の割には、飲み慣れてるなって思ったね」カウンターに寄りかかった野中が、元教師の教務課主任の森真砂子と依頼人でもある理事長の林信篤が聞いたら、卒倒しそうなことを、さらりと言った。
 今の野中の証言は、私の胸の裡にしまっておくことにして、別のことを訊いた。「どうしてこの店に来たと、彼は言ってました?」
「なんでも、息子さんの伯父さんって人が会社をやってて、そこの社員の人に教えてもらったって言ってましたね。その社員って人が、ウチの常連で、お母さん……洋子と、ウチでよく遊んでたそうなんですよ」
 博之に〈ポットヘッド〉のことを教えたのは、〈花勝水産〉の宮元だ。〝常連〟とはよく言ったもので、宮元がこの店を訪れるのは、年に数回のはずだ。あの男は、子供相手に見栄を張って、どうするつもりだったのだろうか――
 野中が続けた。「それで、僕の方も洋子が今なにをしてるか訊こうと思ったら、その息子さんが洋子……いや、母に会いたいんだけど、居場所を知らないかって、逆に訊かれたんですよ」
「それで……なんと、答えたんです?」
「僕は知らないって答えましたよ。洋子がウチに通わなくなってから、そうだなァ、五年ぐらい経ちますからねェ。ほんとに知らないんですから」野中はジーパンのポケットから、私の知らない外国産の煙草を取り出した。くしゃくしゃになったパッケージから一本抜き出して、くすんだ金色のジッポーで火をつける。「ただね……」
「ただ?」少し調子に乗っているのか、もったいぶって話す野中に、私はいらだちを感じていた。
「うちに通ってた頃に、一番仲の良かったヤツなら、洋子のことを知ってるかもしれないと思ったんで、そいつのことを教えました」くわえ煙草で野中が答えた。
「それは、誰です?」
「覚えてますかね……昔、二十年くらい前に、テトラコルドってバンドがあったでしょ。そこのリーダーだったヤツで、ミヤザキってのがいるんですけど」
 テトラコルドのミヤザキ――舌を噛みそうなバンド名、そのリーダーとされる人物の名前、どちらも聞き覚えのないものだった。
「宮崎健太郎か?」古河が隣のテーブルから口を挟んできた。
「そうです、宮崎健太郎です」野中は身体を古河の方に向けた。「あのバンド、〝一発屋〟だったのに……古河さん、意外と音楽に詳しいんですね」
 先刻の古河の言いつけを守って、おとなしく烏龍茶を飲んでいた遠山が「すごいですね」と呟き、羨望の眼差しを送っていた。
「ひょっとして、ファンだったとか?」と野中。
「違う」古河が遠山と野中に、それぞれ睨みを利かせて黙らせた。「いいから、続きを話せ」
 野中が肩をすくめて話を続けた。「その……宮崎がね、洋子をうちに連れてきたんです。洋子が離婚するちょっと前だったから、あの噂はほんとなのかな……なんて、思ったりしちゃいましてね――」
「それで、洋子さんの居場所を宮崎さんなら知っている可能性が高いということを、写真の子に教えたわけですね?」野中の言葉にかぶせるようにして言った。彼の言う〝あの噂〟については、下山文明を悩まし、〈荒神書房〉で出会ったいい歳をしたアイドルマニアを喜ばせるだけで充分だ。
「はい」話の腰を折られた野中が寂しそうに頷いた。
「宮崎健太郎さんは、どこにいるんです?」
「埼玉じゃなかったかな? 今は陶芸家になってるみたいです。ただ、その子が来た頃は、銀座で個展をやってたんで……銀座の方に行けば会えるんじゃないかって言いましたけど」
「宮崎さんは、今でもこのお店に?」私は煙草にブックマッチで火をつけた。
「いいえ。個展の話は、別の常連さんに聞いたんです……そうそう」野中が指を二回鳴らした。なにかを思い出したようで、彼は話を続けた。「洋子の息子さんが来たときには、まだお客さんいなかったんですよ。ただ、息子さんが帰った後で、偶然あの頃からの常連さんも来たんで……洋子のことが、話題になったんです」
 私は煙を吐き出しながら、身振りで野中に話を先に進めるよう促した。
「まァ、昔話なんですけど、あの頃の洋子は、ベロベロになるまで飲み続けたり、はしゃぎ回ったり……もう、手がつけられないぐらい、すごくてね。それに、宮崎と来てるときは、宮崎にべったりだったけど、ひとりで来たときなんか――」一度言葉を切って、野中が煙草を灰皿で消した。
 野中の顔に浮かんだ笑みが、〈カネコ〉で見た鳥越の笑みとよく似ている。
 ――醜悪極まりない好色な笑み
 私はイギリスのオイル会社のロゴが刻印された灰皿に、煙草の灰を落とした。話が本筋からずれてしまっている。本題に戻さねば――咳払いをしてみたが、野中は気づかない。
「今風に言うなら〝逆ナン〟っていうんですか、もう、元アイドルなのに男漁りが、ひどくてねェ……」
 私は灰皿でまだ長いままの煙草を揉み消した。どうやらこの男は、わかりやすい行動に出なければ、こちらの意図を汲み取れないらしい。
 いやらしくだらしのない表情で、野中は続けた。「洋子は、男好きな女だったよな、なん――」
 電光石火――一気に間合いを詰めた勢いのまま伸ばした左拳が、野中のニヤついた顔の中心を撃ち抜いた。

   二十四

 野中が、鼻から血を吹き出して、床に倒れ込んだ。
 古河の相棒、遠山が慌てて席を離れる。
「古河先輩!」遠山が、古河を後ろから羽交い締めにしていた。
 崩れ落ちた野中が、顔を抑えて呻く。指の隙間から鼻血が滴り落ちている。
 私は「余計な話はいいから、きちんとこっちの質問に答えろ」と〝穏便に〟言い聞かせるつもりだったのだが――手段はどうあれ、下世話な話を中断させることはできたようだった。
 突然の出来事に初動が遅れたアフロヘアの店員は、カウンターの中から出て来ると、すかさず野中と古河の間に立ちふさがった。両の拳が固く握られている。
 〝君、君足らずとも、臣、臣たれ〟――時代がかった言葉が頭の中をよぎった。
 とにかく、アフロヘアの店員はこういった荒事に慣れている。それは彼の佇まいから、充分に感じられた。このままではこの場を余計に混乱させるだけだ。
「悪いことは言わない。やめといた方がいい」私は勇敢にして忠義心溢れる店員に声をかけた。「そいつは、ボクシングの元インターハイチャンピオンでね。しかも、〝ギャラクティカ・マグナム〟っちゅう右ストレートで連続KOの記録まで持ってる……それなのに、どういうわけかプロにはならなずに、今じゃこんな稼業をやってるんだよ」
 私の言葉に、店員がゆっくりと振り向いた。私は足元に倒れ込むマスターの様子を目顔で知らせた。鼻から血を吹き出している野中を見た店員が、拳をゆるめる。彼は真っ先にやらねばならぬことを思い出してくれたようで、古河を睨みつけながらカウンターの中に入っていった。ティッシュを箱ごと手にして帰ってくると、店員は勢いよく何枚か抜き出して、野中に渡してやった。
「遠山、離せ」遠山に取り抑えられていた古河が言った。
 遠山は腕を離さない。古河以上に、遠山の方がこの場に飲み込まれてしまっている。
「遠山、いい加減に離してくれ」
 古河が先刻よりも落ち着いた口調で言うと、ようやく遠山が羽交い締めを解いた。遠山は、相当に強い力で古河を抑えていたらしく、古河は首を二回ぐるりと回してから、左手で首回りをしきりと揉んでいた。
「お前、訴えてやるからな!」野中が叫んだ。鼻に当てたティッシュが真っ赤に染まっている。
 古河が眉をひそめて、一歩踏み込んだ。野中が軽く悲鳴を上げて、後ずさった。
 それを見た古河は、軽く舌打ちをして、踵を返した。鉄製のドアに向かう。「……遠山、帰るぞ」
「いや、古河先輩。あの、しかしですねェ――」遠山は動揺を隠せないでいた。この場に呑まれてしまっている。ごつい身体の割に、この手の荒事には慣れていないのだ。
 古河は遠山を無視して、〈ポットヘッド〉を出ていってしまった。
「あの……日を改めて、またお話を聞きに来ます。そのときは、よろしくお願いします」遠山はドアのところで深々と頭を下げて、慌てて古河の後を追った。
 ――こんな状況で、またお話を聞きに来ますも、なにもないだろう……
 古河の苦労が、少しだけわかるような気がした。
 遠山の姿が消えると、野中は店員に「鍵かけとけ」と命じて、真っ赤に染まったティッシュで鼻を抑えながら「あの疫病神が……」と呟いた。
 ドアに鍵をかけて戻ってきた店員が、野中に肩を貸して抱え起こそうとする。
「横にするんだ。その方が、鼻血も早く止まる」マスター思いのよくできた店員に言った。
「はい……」店員は私の忠告に素直に従い、野中を床に横たえた。
「あのね……あんたも、余計なおしゃべりが過ぎるから、そんなことになっちゃうんだよ」私は野中の近くに寄って、しゃがみ込んで忠告した。「古河が左で殴ったから、そんなもんで済んだんだよ。これがヤツの右ストレート――伝説の〝ギャラクティカ・ファントム〟だったら、あんた、もっとひどいことになってはずだぜ」
「さっきは〝マグナム〟って……」私の横にしゃがんだアフロヘアの店員が口を挟んだ。
「この際、どっちでもいい」
 私の回答に、店員は目を丸くした。なにか言いたげな彼をそのままにして、野中に訊いた。「とにかく、こんな恰好になっちゃったけど、もうちょっと話をさせてもらってもいいかな?」
 私と店員を見上げる野中が二回、大きく瞬きをした。眉間の辺りまで腫れ上がり始めている。この様子では、鼻の骨は確実に折れているだろう。
 ――あの野郎、力の加減ってもんを知らないのか
「治療費をくれ。口止め料込みで」横たわった野中が言った。
 野中は私を古河の同業者だと思っている。だからこそ、これまで情報を――殴られるだけの余計な話もあったが――提供してくれたのだ。私は束の間迷ってから、野中に一万円札を握らせた。
 野中は福沢諭吉の顔を眺めて少し考え込んでから、もったいぶって一万円札をジーンズのポケットにしまった。「で、なにが訊きたいの?」
 足りないとでも言おうものなら、頭を蹴りつけてやるつもりだった私は、早々に質問を始めた。「あんたが教えた宮崎健太郎以外に、洋子さんの行方を知ってそうな人はいないんだな?」
「ああ。さっき話した常連に訊いても知らないって言ってたし、結局いないんじゃないかなァ……」
 大枚をはたいたにもかかわらず、野中の回答は芳しくなかった。立ち上がって、先刻まで座っていた椅子に戻った。煙草をくわえて火をつける。
 野中の傍らでは、アフロヘアの店員が甲斐甲斐しく鼻のティッシュを替えてやっていた。鼻血は止まり始めたようで、ティッシュはさほど赤くにじまなかった。
「ああ、そうだ……思い出した」天井を見上げた野中が声を上げた。
「なにを?」
「常連じゃないけど、洋子の居場所を知ってそうな人を……洋子の息子に教えた」
 なけなしの福沢諭吉が手元から離れていったことが、ようやく報われた。私は咄嗟に浮かんだ名前を口に出した。「ひょっとして、大江っていうんじゃないか?」
「いや違う。そんな名前じゃない」
「じゃァ、誰なんだ?」
「洋子の兄貴と、洋子が昔アイドルだったときの事務所の社長。ふたりで一緒に来たんだ」
「花田浩二さんが、この店に来たのか?」
「名前は聞いてない。ただ……洋子の兄貴としか、言ってなかったから」野中が上半身を起こして、床に座ったまま壁に寄りかかった。
「それで、もうひとりの社長の名前は?」
「社長の名前でしょ……」野中が鼻を抑えていたティッシュを一度外して、血でにじんだティッシュを眺めたが、両方の鼻の穴から再び血が滴り落ちてきたので、慌てて元に戻した。「だけどね、ふたりが来たときさ、すごかったんだよ。洋子の息子にも話したんだけど。洋子がさ、うちで遊んでるってのを聞きつけたみたいで、ふたりで連れ戻しにきたみたいでさ。それでちょっと、他のお客さんと揉めちゃってさァ……そりゃァ、大騒ぎになっちゃって、危うく警察沙汰に――」
 どうしてなかなか止まらない鼻血を出す羽目になってしまったのかを、野中は忘れてしまったらしい。学習能力の無いヤツだ。だが、それを正すために殴りつける――そんな古河がしたような野蛮な真似はしない。あくまで〝穏便〟に事を済ませたい。
 私はテーブルに〝勢いをつけて〟拳を置いた。パイントグラスに三分の一ばかり残ったギネスが大きく波打ち、灰皿がガタガタと揺れた。野中がすくみ上がり、小さく悲鳴を上げる。
 再び立ち上がりかけたアフロヘアの店員を制して言った。「余計な話はいいんだ。事務所の社長の名前は、思い出せないのか?」
「オ、オカベ。〈オカベ・プロダクション〉のオカベさんです」
「本当だろうな?」
「はい。嘘はつきません」
「そのふたりが来たっていうのは、いつ頃の話なんだ?」
「ちょうど五年前です」野中が答えた。
 私は訊いた。「断言できるのか?」
「できます……断言できます。うちの十周年記念のパーティーやってるときだったから。そのとき、洋子が久しぶりに顔を出したんです。前の年のパーティーに来れなかったからって……あの、ちょっと待ってください」と言って、野中は傍らで床にしゃがみ込むアフロヘアの店員に店の奥にある名刺入れを持ってこいと指示をした。「そのときにもらったオカベさんの名刺、保管してありますから。僕、もらった名刺は、一年毎にまとめて全部保管してあるんです」
 やがて、アフロヘアの店員がバインダー型式の名刺入れを二冊手にして戻ってきた。表紙には五年前の西暦が記されている。私たちの会話を聞いていた店員は、気を利かせて該当する年のものだけを持ってきていた。
 鼻に押し当てていたティッシュを丸めて、鼻の穴に突っ込んだ野中が名刺入れを開いた。
 私は〈カネコ〉で使い切った〝元〟テレビ局ディレクターの名刺のように、使えそうなものだけを引き抜いて、残りは空き缶に放り込んでいた。この点だけは、野中を見習った方がいい。
「――あった。ありました。」二冊目の三ページ目を開いた野中が言った。一枚引き抜いて、私に差し出す。
 受け取った名刺には〈株式会社オカベ・プロダクション 社長 岡辺元信〉とあった。
「これ、もらっても構わないかな?」私は名刺をかざした。
「どうぞ、どうぞ。その人、あのときから来てないし。来たら来たで、またもらえばいいんだし」野中が笑顔を作った。鼻が腫れているせいで、泣いているようにしか見えない。
 この勢いで先刻の一万円も返してもらいたいところなのだが、それはこの際諦めることにした。私は岡辺の名刺を上着のポケットに入れて、次の質問をした。「その……洋子さんのことを訊きにきた少年なんだけど、この店を出た後で、次にどこに行くとかなんか、言ってなかったのか?」
「僕は聞いてないですけど……」野中が傍らの店員に発言を促した。「お前、聞いてないか? 駅まで送ってやってたろ」
 私はアフロヘアの店員に訊いた。「きみは、彼を駅まで送ってやったんだ」
「はい。ちょっと足元が怪しかったんで、駅まで送ってあげたんですけど……」
 たとえ、大人びて見えたとしても、酒に飲み慣れているとしても、酔いは誰にでも平等にやってくるのだ。私は訊いた。「そのとき、彼はどこに行くか、言ってなかったかな?」
「うーん、新宿のホテルに泊まるって言ってたかな……」
「新宿のホテルねェ。そのホテルの名前は?」
「いや……そこまでは、聞いてないです。すいません」店員が頭を下げる。
「気にすることはないさ」煙草を消して、残りのギネスを飲み干した。
 ――洋子を〈ポットヘッド〉に連れてきたという陶芸家、宮崎健太郎
 ――洋子を連れ戻しに来たという兄の花田浩二
 ――洋子の事務所〈オカベ・プロダクション〉の社長、岡辺元信
 〈ポットへッド〉を出た後、博之は誰に会いに向かったのか――千葉にいる伯母の花田恵子が博之の行方を知らないとすれば、博之が花田浩二に会いにいったとは考えにくい。そうなると、宮崎健太郎か、岡辺元信のどちらかということになる。
「お役に立てましたか?」鼻を抑えた野中が言った。
「役に立ったよ。ありがとう」立ち上がって、お礼ついでに一言添えた。「悪いことは言わない。鼻は折れてるから、早いところ病院に行った方がいい」
「お心遣い、ありがとうございます!」野中が必死に作った笑顔を見せた。その笑みは、私を古河の同業者だと思い込んで、見返りを求めていた。残念だが、私の稼業では彼の期待に沿えるようなことはできない。
 私は鉄製のドアへと向かった。早足で追い越して鍵を開けてくれたアフロヘアの店員が、私の顔を興味深げに覗き込んでくる。
「なんだ?」
「……昔の常連さんじゃ、なかったんですね」
「悪かったね。騙したみたいになって」
「いいえ。でも……あの古河って人とも違う商売でしょ?」
 私は「そうだ」と答えた。昔の同僚だとはつけ加えずに。
「だけど……博之、どこ行っちゃったんでしょうね?」とアフロヘアの店員。
「きみは、彼の名前を知ってるのか?」
「はい。駅まで送ってやったときに、聞きました。それで、好きな音楽の話なんかして」
「彼は、なんと?」
「それが、博之のヤツ、好きな音楽はストラングラーズだ、なんて言うんですよ……あいつの歳で、ストラングラーズが好きなんて、〝やばい〟通り越して〝シブい〟ですよ」
 〝やばい〟の上級は〝シブい〟になるらしい。ひとつだけ利口になったと思うことにする。
「それと、もうひとつ思い出したことがあるんです」
「なんだ、それは?」
「なんか、博之……やたらと周りを気にしてたんです。それで、ボソっと言ったんですよ。〝まいた〟から、大丈夫だよなって……」アフロヘアの店員が声をひそめた。声色のつもりだろうか。
 〝まいた〟――花田博之は、誰かに尾行されていたのだろうか。私の脳裏には最近、〝まかれた〟と発言した男の顔が浮かんでいた。
「まァ、博之が高校生だとしたら、酒飲んでビクつくのも、わからないでもないですけどね」アフロヘアの店員が、私にウインクをしてみせた。
 私は曖昧な笑みを返した。彼に確証のないただの憶測を聞かせてもしょうがない。
「――でも、博之も……博之のオフクロさんも、早く見つかるといいですね」
「気になるのか?」
「ええ。俺のオフクロ、俺が中二のときに男……作って、どこかに行っちゃったんです。オフクロを捜しに来たっていうあいつ見てたら、昔の自分を思い出しちゃって……」
「そうなのか」
「オヤジは小学校上がる前に死んじゃったし、俺はひとりっ子でしたしね。施設に連れてかれるのかなってときに、俺の面倒を見るって言ってくれたのが、マスターなんです」店員が店内を振り返った。「マスター、俺のオフクロの兄貴なんです」
 店員の視線の先で、野中は虚空を見つめたまま、ティッシュで鼻を抑えていた。彼には申し訳ないが、先刻までの様子からは、とてもそんな品行方正な男には見えないのだが――
「ああ見えて……根は優しい人なんです」店員がすかさず言葉を繋げた。「俺、去年まで別の店で働いてて、そろそろ独立を考えてたんですけど……マスターが、それならうちの店を継げって。お前は、俺の息子みたいなもんだからって言ってくれて。ちょっと、いい加減なところもあるけど、俺はマスターが……伯父貴がいてくれて、本当によかったって思ってます」
「いずれ、この店を継ぐのか」
「はい」アフロヘアの店員は、満面に笑みを作って答えた後で、つけ加えた。「博之のこと、絶対見つけてくださいね」
「それが俺の仕事だ」
「そうでしたね」アフロヘアに手をやって、彼はちょこんと頭を下げた。「もし、よかったら、またトム・ウエイツ聴きに来てください」
「近くに来るようなことがあれば、寄らせてもらうよ」と言って、私は気になっていたことを、彼にだけは伝えることにした。「あァ、そうだ。この店が代替わりして、きみがマスターになったときは、店の名前を変えた方がいい」
「どうしてです?」
 私はドアノブに手をかけた。「気になるのなら、自分で調べるんだ」
 怪訝そうな顔をする店員と、鼻を折られたマスターを残して〈ポットヘッド〉を後にした。
 階段に出ると、一番下に佇む人影があった。古河だった。一階にあるカレー屋から漏れる極彩色の明かりに照らされている。
「雨宿りか? さっきの若いのはどうした?」階段を降りながら、声をかけた。
 古河はそのクセのある目つきで、私に一瞥をくれた後、視線を雨がそぼ降る町に向けた。
 階段を降りきってから、もう一度訊いた。「さっきの若いの……遠山っていったよな。あいつは、どこに言ったんだ?」
「車を取りに行かせたんだけど……あの馬鹿、なかなか戻ってきやがらねェ」町に目をやったまま答える古河の足元には、踏みにじって消した喫い殻が二本あった。
 古河は私と同じセブンスターをくわえて、年季の入ったジッポーで火をつけた。私も古河に倣って煙草をくわえた。古河の差し出してきたオイルライターの火を無視して、自分のブックマッチを使う。古河はフンっと鼻を鳴らしてジッポーの蓋を閉めた。
「あの店に、なんの用だったんだ?」
 古河は煙草を吹かすばかりで、なにも答えなかった。
「さっき言ってた宮崎健太郎……テトラなんとかってバンドのリーダーってのは、何者なんだ?」私は質問を変えた。私が知る限り、古河は私と同等か、それ以上にあの華やかな世界には疎い男だ。その古河が知っているということは――それなりの理由があってしかるべきだった。
「宮崎健太郎か……宮崎はな、五年前に薬で二回、逮捕されてる」
 この店で、兄の浩二と岡辺元信という男が、洋子を連れ出すために〈ポットヘッド〉で、一悶着起こしたのが五年前。そして、義理の姉である恵子によれば、洋子は五年ほど前に、漁師町から一年間姿を消している。彼女が一年間、姿を消さざるを得ない理由は、そこにあったのだろうか。
「おい、まさか、花田洋子は……」
「安心しろ」古河が私の差し出した携帯用灰皿に、煙草の灰を落とした。「桜樹よう子は、逮捕されちゃいない」
「やけに詳しいじゃないか」
「ちょっと調べたんだよ。気になったんでな」
「どうして?」
 私の問いかけに古河は空を見上げたまま、なにやら呟いた。はっきりと聞き取れない。
「らしくないな。はっきり言えよ」
 古河が諦めたかのように頭を掻いた。そして、絞り出すように告白する。「――俺ァな、昔……桜樹よう子のファンだったんだ」
 古河は誰彼構わず愛嬌を振りまくような男ではないが、だからといって誰彼構わず手を上げるような男でもない。珍しく古河が激昂した理由はこれだったのだ。
 私は〈荒神書房〉で出会った黒沢の科白を借用した。「なるほどね……随分とマニアックだったんだな」
「うるせェ。悪いか?」
「悪かないさ。俺ァな、今現在、桜樹よう子のファンなんだよ」
「お前、馬鹿にしてるだろ。俺のこと」
「馬鹿になんざ、してねェよ」私の脳裏には、野暮ったいドレスを着て『リリーマルレーン』を歌う桜樹よう子の姿が浮かんでいた。およそ二十年前、古河はテレビの前で彼女の歌を聴いていたのだろうか。
「桜樹よう子を捜してるのか?」古河が訊いてきた。
「桜樹よう子……花田洋子の息子を捜してる。その息子が母親を捜してるってんで、結局のところは、彼女を捜すことになってる」
 古河に打ち明けたのは、私の稼業に守秘義務がないから、ではない。桜樹よう子のファンであるという古河には、これくらいのことを教えても問題はないと思ったからだ。
「ところで、あの野中ってのは、薬の売人なのか?」私は気になっていたことを訊いた。
 〈ポットヘッド〉とは、大麻常習者という意味の隠語だ。そして、常連客だったという宮崎健太郎は薬物使用で二回の逮捕――アフロヘアの店員は店名の意味を知らなかったとはいえ、偶然にしては出来過ぎている。
「違う。悪ぶってるだけのチンピラだ」古河が雨空に向かって煙草の煙をぷうっと吐き出した。「まァ、たまに痛い目を見させないと、調子に乗るけどな」
 痛い目を見た悪ぶってるだけのチンピラに、金を渡したことを思い出した。右の掌を上にして差し出す。
「なんだ、この手は? 俺は……手相は見んぞ」
「そうじゃねェ。一万円出せ。あいつに治療費と口止め料ってことで渡したんだ」
「知らねェよ。お前が勝手にやったことだろうが」くわえ煙草のまま古河が言った。それから「あっ」と声を上げた。古河は古河でなにかを思い出したらしい。「そういやァ、さっき俺のこと、ボクシングのインターハイチャンピオンだったとか、言ってたろ」
「そんなこと、言ったか?」
「ああ、確かに言った。俺はこの耳で聞いたんだ……言っとくがな、俺は高校の頃は水泳部だったんだ。しかも三年間、県予選で敗退だ」
「どうでもいい、そんなことは」古河が高校時代になにをしていたかなど、まったく興味がない。とにかく、この男と無駄話をするのもここまでだ。そして、一万円は諦めるしかない。携帯用灰皿に短くなった煙草を押し込んで、雨が降りそぼる町へ踏み出した。
「なァ、探偵ってのは儲かんのか?」背中越しに古河の声が聞こえてくる。
「気になるなら、自分でやってみろ」私は振り向かずに答えた。

 事務所に戻った私は、花田博之が〈ポットへッド〉の店員に告げたという〝新宿のホテル〟という言葉を頼りに、新宿駅前だけでなく新宿区一帯の宿泊施設をリストアップしてみた。予想していたとはいえ、先日作成した書店のリスト以上に膨大な数に上ったので、虱潰しにホテルを回るのは最後の手段とすることにして、母親である花田洋子の行方を捜すことを優先させることにした。
 デスクにあるメモ用紙の両端に「岡辺元信」「宮崎健太郎」と名前を書き、真ん中にペン先を下にしてボールペンを立てた。
 ――一、二、三
 支えていた右の人差し指をそっと離す。
 ボールペンは右に倒れた。

雨がやんだら(6)

雨がやんだら(6)

海を臨めるはずが、窓の向こうは五月雨に煙ってしまっていた。 ベッドに横たわる女の傍らに、その少年は腰かけていた。 私の今回の依頼は、彼を捜すことだった――

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-04-05

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著作権法内での利用のみを許可します。

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