慶太の夏休み

慶太は毎年夏休みが訪れると、母親の生まれ故郷である北陸の漁村で一週間程滞在をしていた。その北陸の地までは母親と妹と三人での電車での長旅であった。母親は帰省。そして都会育ちの慶太は海で泳ぐことを何よりの楽しみにしていた。小学校4年生になった慶太は今年の夏は長期の滞在を希望していた。
夏休みが始まるひと月ほど前に母親に思い切って言った。
「お母さん、今年の夏休みはもっとたくさん田舎にいたいんだけど」
「もっとたくさんてどの位なの?」
「3週間ぐらい」
「だめ、だめ。お父さんをそんな長い間、一人にしておけないじゃないの」
母親は即座に否定した。慶太は一週間の滞在では物足りない訳を母親に説明した。ここ数年間の帰省で慶太は土地の小学生達と顔なじみとなり仲良しになったのだ。去年、帰る時に土地の子供たちから来年はもっともっといればいいと言われたのだ。当然慶太もまだまだ帰りたくはなかった。
結局、駄々のような慶太の願いが両親に通じだ。しかしその条件として慶太は一人で行くことになってしまった。そして今年は父親の故郷で法事があるので母親も今年は帰省をせず父親の故郷へ同行することになった。

梅雨が明け間もなくすると夏休みがやってきた。内心、慶太はひとりで行くことに不安を感じていた。7月下旬、出発の前日の夕飯後、母親と慶太は衣類を旅行鞄に入れ旅の支度を整えていた。4才違いの妹は母親の傍らで興味深く眺めている。下着やシャツは母親が新しいものを買ってきた。
慶太は真新しい真っ白な下着やシャツを見てなんとなく切なくなった。親の優しさをあらためて感じていた。
「慶太、田舎に着いたらおじいちゃん、おばあちゃん、それにおじさんの言うこと良く聞くのよ」
「うん」
慶太は小さな声で頷いた。窓からは軽い夜風が吹き込んで来た。レースのカーテンが踊るように揺れている。奥の部屋では、父親が野球中継に真剣である。
「慶太、明日は早いからもう寝なさい!」
促すように母が言った。明日の電車は上野発7時50分の特急列車である。慶太は生返事をし寝床にもぐった。布団には入ったものの、これから始まろうとしている親元を離れての時間を思い描くと胸が高鳴ったり、痛んだりでなかなか寝付けなかった。

「慶太、慶太 ・・・」
遠くからの声の様だった。朝日が目に射し込んで来た。傍らで母親が慶太の身体を揺すっている。寝ぼけまなこで母親の表情が怒っているようにもほほ笑んでいるようにも見えた。とその時、『あっ、そうだ。今日行くんだ!』と慶太の意識も目を覚ました。ミーンミーンと朝早い蝉の声が一層現実を帯びて慶太の耳の奥まで突き刺して来た。
早い朝食を家族四人で向かえた。妹はまだまだ眠そうであった。父親はインスタントコーヒーを啜りながら
「慶太、田舎に行ったら海で泳げていいなぁ。でも急に深くなるから気を付けろよ」
「うん。大丈夫だよ」
慶太は小学校1年生の時から夏の日本海につかり始めたので泳ぎも大分覚えてきた。同学年の土地の子と比べてもそれ程の遜色はなかった。
上野駅までは家族全員で見送りに来た。発車ホームにはまだ電車は到着していなかった。柱時計は7時20分を少しすぎたところであった。自由席の車両前は沢山の人たちの列であった。夏休みなので家族連れの姿が目立つ。行列の中では団扇や扇子が鳥の羽根の様にパタパタと動いている。慶太は幸いにも指定席が取れたので羽根の行列を通り越し指定席の号車に向かって歩いて行った。発車15分前になると構内放送が流れた。
『7時50分発金沢行き特急〇〇号は△△線ホームにまもなく到着します。。。。』
暫らくすると、ゴットンゴットンと轟音が耳に伝わって来た。リズミカルに線路を刻む音である。特急電車の一段高い運転席はホームを見下ろしながら慶太の身体を通り過ぎて行った。慶太は堂々としたクリーム色の車体の入線に胸が高鳴った。電車は止まりドアが空気音をシューと鳴らしながら開いた。
「慶太、さぁ乗るよ」
父親が言った。家族全員で電車に乗り始めた。父親は切符の座席番号と車内の座席番号を見比べながらゆっくり歩き始めた。
慶太、妹、母親の順番で父親の後をついて行く。
「この席だな」
慶太の席は二人掛けの窓側であった。父親は座席の真上の棚に旅行鞄を上げながら言った。
「慶太、棚の上の鞄自分で取れるよねぇ?」
慶太は実際に試してみた。背伸びをしたら鞄に手が届いた。母親はそれを見て心配そうに言った。
「慶太、駅には1分も停まっていないから駅に着く前に降ろすのよ」
「うん。毎年、電車乗ってるから、わかってるよ」
慶太は母親の心配を吹き払おうとした。慶太は座席に腰を下ろした。クッションは柔らかく沈んだ。座席を取り囲むようにして妹と両親が立っている。
去年までは母と妹で向き合って座ったが、今年の座席は一人きりである。暫らくすると、母親だけが電車から降りて行った。
父親は思い出したように財布を取り出し
「はい。こづかい」
と言って1000円札を1枚慶太に手渡した。慶太は大切そうにお札を小さく折りたたんで小銭入れにしまいこんだ。
『ところで、お母さんはどうしたんだろう?』 慶太は車窓からホームを見渡した。すると、駅の売店で買い物をしている母の後ろ姿があった。
間もなくして駅弁、お茶、冷凍みかんを手に提げた母親が戻って来た。
「はい、慶太。電車の中で。。」
そう言いながら慶太に手渡した。妹が羨ましそうに見つめている。発車時刻が迫ってきて席も埋まり始めた。不意に一人の青年がやってきた。青年は自分の座席番号を確かめ、
「すいません」
と会釈をした。慶太を取り囲む様にしていた家族の輪は自転車のチェーンが切れたように1本の線となった。青年は棚の上にバックを上げ慶太の横に座った。沈黙が家族と青年を包み込んだ。シーンとした空気を打ち消すように母親が青年に声を掛けた。
「どちらまでですか?」
「Tです」
「そうですか、それはよかった。この子は独りでIまで行きますのでよろしくお願いします」
母親に安堵の表情が浮かび上がった。青年は笑顔で頷いた。TはIから更に先の駅である。まもなく発車するとの車内放送が流れた。車内放送の男性の声は威厳を感じさせる。促されるように家族は車内から歩き出した。ホームに降りた家族は大きな窓を通して慶太の座席のほうに顔を向けていた。発車のベルがけたたましく鳴り続ける。ドアが音を立てて勢いよく閉まると、ガタンと力強い振動とともに車輪はゆっくりと動き始めた。慶太もホームの家族に目を置いた。みんな笑顔で手を振っている。妹は手を振りながらはにかんでいた。ホームの家族はゆっくりと流れていく。慶太も手を振った。家族の姿が消え、電車は加速し白いホームだけが流れて行く。ホームを通過した車窓からは送電柱が無意味に次々と流れて行った。独りになってしまった実感が座席の上から湧いてきた。
青年は気遣っているのかしばらくは無言であっが、
「何年生?」
「4年生です」
「たいしたもんだねぇ。独りで」
慶太ははずかしそうに笑って頷いた。青年は文庫本を取り出し読み始めた。慶太は所在無く窓の風景を見入った。2時間くらいが経過すると平野の向こうに高い山々が迫って来た。朱色の陸橋の下を横切る川の水は澄んでいる。太陽光線が川面をキラキラ反射させ目に飛び込んで来る。トンネルの数も次第に増してくる。明から暗、暗から明の繰り返しはマジシャンがトランプカードを二つの手のひらでパチパチと交差させて切っているようだ。電車は高地を走っている。車窓の正面は緑に覆われた高い山々の中腹と同じ位置に来ている。耳がキーンとしてくる。車内の時計は11:00前であった。I駅到着時刻は13:20分、あと2時間半で着く。
Y駅に着くと峠を越えるための動力車が連結された。ホームでは駅弁売りの釜飯が飛ぶように売れている。慶太も駅弁の包みを解いて口に入れた。
母親の姿を想い出した。
「おいしそうだね」と青年が声を掛けた。慶太は顔を赤くし頷いた。

避暑地として名のある高原を通過した電車は緑の山峡を走り続け、母親が生まれた県へと入り込んだ。

N駅に到着した。次が降車するI駅である。N駅からは電車は進行方向を変え発車した。所謂、スイッチバックである。             電車は東京方面へ引き返すかの様に感じる。
だが、10分もしない内に突然と車窓に大きな真っ青の海が飛び込んで来る。車窓は絵画のキャンパスのようだ。次々と通過する民家の屋根の上にどっしりと日本海がその姿を広げる。屋根の上の海、海の上に拡がる空と水平線は都会では目にすることがない風景である。夏の太陽に輝く空の青とキラキラと光を跳ね返す海の蒼、真っ白に流れる雲の風景は慶太の心を独占した。車窓間近を通過する小さい海水浴場も賑わっている。海で遊ぶ子供たちの『キャッキャ』と叫ぶ声が車窓まで伝わって来るようだ。

車内放送が間もなくIに到着すると言う案内を流す。
啓太は網棚から旅行鞄を降ろす。鞄を降ろすと青年と目が合った。青年はニコッと頷き啓太は軽く会釈をし座席を離れてドアへ向かった。
電車は速度をゆっくりと落としてホームに進入する。ガッンと言う音の響きとともに電車は止まる。ドアが空気音を立てて開く。

改札へ向かって電車の進行方向と反対にホームを歩く。慶太の身体をすり抜けた電車は啓太の見知らぬ土地へ悠然と進み始めた。
改札を抜け駅を出ると伯父さんが待っていた。一年ぶりに会う伯父さんは優しくほほ笑んでいる。

慶太の夏休みが始まる。。。
一年ぶりの村の子供たちとの再会である。
青空に拡がる太陽が透き通った光線となり浜辺に降り注ぐ。漁師の浜は磯の香が暑さでで発酵したような匂いが砂から立ち昇る。
海に足を踏み入れる。3,4歩進めば急に深くなる。次の1歩で背が立たなくなるだろう。
手を押し出して足を伸ばし海面と水平に同化する。なんとも言えない瞬間である。
築港と呼ばれるコンクリートの防波堤まで泳ぐ。コンクリの岩へ上がる。浜から築港までは80mほどであろうか。
コンクリの下は小さな魚たちが戯れている。魚は透き通った海の中で斑の紋様となる。紋様は太陽の落とし物のように揺れる。
水中メガネを付けて海へ再び飛び込む。小魚と一緒に海の中を泳ぐ。小魚は海の藻の中を駆け回る。

2,3日が経ち従弟が東京からやって来た。従弟は年上の6年生である。従弟の秀ちゃんも親元を離れて独りでやって来た。
秀ちゃんが来れば自然と海で遊ぶ時間は長くなる。
「海の中で石を叩くと音が伝わるんだよ。僕、石叩くからね」と秀ちゃん。
二人は水中メガネを付け海の下へと潜る。5、6m離れた先から秀ちゃんは頬を膨らまし左右の掌に石を掴み、広げた腕を胸の中心に戻し小石どうしをぶつける姿が水中メガネの中から見えて来る。二つの石がぶつかった途端に海の中をカチーンと柔らかな金属音が不思議なくらいに軽やかに伝わる。
再び秀ちゃんは大きく左右に広げて石を叩く。今度はさっきより大きくなってキーンと海水を揺らすように一直線に響いてくる。
息が続かなくなり海面へ二人して顔を出す。秀ちゃんが得意げに向こうで笑っている。
時の経つのも忘れて海に漬かっていればいつのまにやら大きな太陽が鮮やかなオレンジ色となり水平線に落ちようとしている。
海面は穏やかにゆらりゆらりと揺れながらオレンジ色の紋様同の光をキラキラと放つ。
その時、岸辺から大きな声が届く。
「わいら、いつまでそうしてらーだ。もう御膳だじぇ」お婆さんの方言である。
心配して様子を見に来た。方言の内容は『お前たち、いつまでそうしているんだい。もう夕飯の時間だよ』

ある時である。海へ行く途中の田んぼのあぜ道にアオガエルが一匹いた。
秀ちゃんが悪戯目つきで捕まえる。
「泳がそう」
「えっ、何処に」
「海さ」
浜にたどり着き秀ちゃんはアオガエルをえいっとばかりに海に放りこむ。カエルは岸に向かってひとかき、ふたかきの平泳ぎをするが敢え無く白い腹を向けて絶命する。慶太はびっくりしながらも不思議な快感を感じた。
「なーんだ、あっけない。やっぱり塩水はだめなんだね」と秀ちゃんがつまんなそうに言う。
「もう一匹、捕まえて来るよ」慶太である。
慶太はあぜ道に戻りカエルを捕らえて戻って来る。
「さっきのより大きいよ。でもすぐに死んじゃうのは面白くない」
慶太は浜の流木に目を付ける。
「これに乗せて海へ流そうよ。カエルのお船だ」
慶太は胸の辺りの深さのところでカエルの船を放つ。浜に上がり船の動向を二人して見つめる。カエルは本能的に察知しているのであろうか流木の上でじっとしている。カエル船は波に静かに揺れている。慶太にはカエルの目が不安そうに見えてくる。
慶太は楽しそうに言う。
「よし、船を小石で攻撃しよう」
「やってみよう」と秀ちゃん。
「いきなり、船に中てちゃだめだよ。周りに石を落とそう」と慶太が主導権を握る。
小石を船に中らぬように投げる。石が落ちれば波紋で船が大きく揺れる。カエルは前足の吸盤で踏ん張っているように見える。
4,5発の小石の弾は狙い通りに船を揺らす。
「よーし、とどめだ」
慶太は大きい石をめがけて投げる。
「当たった」
船は裏返り、つかの間、海中に姿を消す。浮かび上がった船にはカエルの姿がなかった。

虫取りも楽しい遊びであった。狙いはカブトムシ、クワガタである。
早朝の4時頃に小学校の山に行くのである。まだ日が明けぬ暗闇の山道は何とも言えない恐怖感がある。
懐中電灯で夜道を照らせば前方に小さな人影がぽーっと浮かぶ。背中には桶を背負って腰を屈めながら慶太たちと同じように山へと上っている。
子供心にその姿に一瞬、ぞーっとする。よくよく見れば山の畑へ仕事に往く土地のお婆さんである。
学校の山の校庭には桜の樹と並ぶように7mほどの水銀灯が日本海を見下ろすように立っている。水銀灯の光に虫が集まるのである。
水銀灯のサル梯子を上る。てっぺんには子供が3人ほど座れる囲い台がある。慶太は心臓が高鳴る、下を見ないようにサル梯子をゆっくりと上る。
足が震える。虫かご、懐中電灯は紐をたすき掛けにして慶太の肩に掛かっている。囲いの上になんとかたどり着く。光に寄せられたカブトムシ、クワガタを見つけ出しては虫かごに放りこむ。慶太と秀ちゃんの虫かごは大収穫となる。暗闇の先にはイカ釣り船の電球の灯火が間隔をおきながら浮かび上がっている。

そして5時前には太陽がゆっくりと表われ水銀灯の囲いの足場からは風景が薄っすらと白色に拡がる。しばらくすれば目の先は大海原が青い絨毯が何処までも延びて拡がる。
「ちょっとお腹が痛くなってきたよ」秀ちゃんが照れくさそうに言う。
「どうしたの?」
「昨日、寝る前にスイカ食べ過ぎたみたい」
お婆ちゃんが昨日の夜、畑で取れたスイカを出してくれた。秀ちゃん美味しそうにバクバクと食べていた。
「もうだめだ」ニヤッと笑って半ズボンを下げる。囲いの手摺りを両手で掴み、日に焼けた背中とは対照的な真っ白なお尻を剥き出し、お尻だけを真下に向けてウンチを放った。ブリブリの音とともに液体状のウンチが真っ白なお尻から地上に向かって勢いよく落ちて行く。
「桜の葉っぱ取ってくれない」
「わかった」
3、4枚の青葉を渡すと左腕だけで体を支え、右手に持った桜の葉っぱでお尻の穴の付近を拭いている。
サル梯子で下に降りると水っぽい薄桃色の汚物の中にスイカの種が混じっていた。

捕まえて来た虫は村の子供たちと混じって戦い合わせる。虫の力比べである。カブトムシとクワガタの対決は見所がある。慶太は平クワガタをかごの中から取り出す。村の子は大きなカブトムシを得意そうに掴み上げる。両者を向かい合わせて戦闘態勢を作る。慶太のクワガタはのこぎりの刃を大きく広げカブトの胴を挟み込む。カブトも負けじと角を駆使し慶太のクワガタを打っちゃりの要領で投げ返す。お互いが致命傷を受ける前に引き離す。その時、慶太のかごを指さしながら村の子の一人が
「おーい、慶太のカブト、ベッチョしてる」
ベッチョとは方言で男女の交合を意味する。慶太がかごを覗くと雄は胴の後部から突起物を出し雌の上に覆いかぶさり胴の後部を揺すっている。
慶太は恥ずかしさと雌雄合体の姿に薄気味悪さを感じ、かごに手を入れ交尾中の雄を引き離して思い切り壁に叩きつけた。
雄カブトは潰れた。歪んで崩れたカブトの胴からは粘性を帯びた液が滲んで出ていた。
村の子ども達は目を丸くしていたがやがてげらげら笑い始めた。慶太は内心可愛そうなことをしたと思った。しかし初めて目にするカブトの交合の姿をどうしても許すことが出来なかった。

海に浸かったり山へ入ったりを楽しんでいればいつの間にかにお盆が来る。お盆が終わればそろそろ東京へ帰らなければいけない。
夏の太陽も徐々にその時間が短くなってゆく。寺の山に夕刻のお盆のお墓参りの時間が訪れる。                        寺の山は子供たちが手にした提灯の灯が蛍のように揺れて動く。慶太は子供心に季節が終わり始めていると感じる。

お盆が過ぎれば波はいつまでも大人しくはしていない。あれほど穏やかだった波は小石を巻き込む音が激しくなる。
その波音は慶太たちに「もうお帰り」と告げているようだ。


慶太と秀ちゃんは上野まで一緒に帰ることにした。急行はN駅が始発である。N駅まではローカル線で向う。I駅までは伯父さんが車で送ってくれる。駅で出迎えてくれた伯父さんとは今度は別れの場面となる。
「じゃ、気をつけてな。ホームまでは行かんよ」
慶太も秀ちゃんも黙って頷き改札を抜ける。
I駅からN駅へ向かう途中に車窓から遊んだ漁村が見える。懐かしい風景が一瞬に窓から流れ去って行く。青い海も流れて行く。


N駅で上野行の急行に乗り込む。指定席の番号に腰を降ろす。発車まではまだ時間がある。
兄弟が母親と一緒に電車に乗り込んで来た。兄は慶太と同い年くらいであろうか。
「あーここ」母親は座席番号を確かめて子供たちと一緒に座席に腰を下ろした。家族の座席は4つほど前の反対側である。慶太の視覚に家族たちの風景が入る。
「おかあさん、ちょっとお土産買ってくるね」
母親だけが座席から立ち上がり電車を降りる。なかなか母親は戻ってこない。あと5分で発車するとの車内放送が流れて来る。
弟が落ち着きを無くして
「お母さん戻ってこない、どうしよう、どうしよう」と泣きわめきながらホームをのぞき込み座席の背もたれを叩いている。
大袈裟な鳴き声と座席を叩く音に慶太は緊張をする。もしこのままドアが閉まったらどんな光景になるのかと期待を膨らませてしまう。
弟の鳴き声に冷静さを失った兄は
「おい、落ち着けよ」と言い、すぐさま、ピンピンと軽快な音がする。弟のほっぺをビンタしたのである。頬を叩かれた弟の喚き声は一層と激しくなる。
慶太と秀ちゃんは顔を合わせ益々の緊張と期待で心臓が膨れ上がる。

母親は戻って来た。安心したのであろうか今度は兄が鳴き声になって
「なに、やってたんだよ。電車出るところじゃん」
「色々とお土産をね。泣かない、泣かない、ちゃんとお母さんわかってるから大丈夫よ」

ベルが鳴り響きドアがガシャンと閉まり電車は動き始める。電車は緑の平野をどこまでも駆け抜ける。
左右の窓からは稲たちが午後の太陽を浴びている。大海原の波のように揺れながら稲は緑の光を跳ね返す。

吸い込まれるようにトンネルに入る。一瞬にして闇となる。
慶太の夏休みは終わろうとしている。。

慶太の夏休み

慶太の夏休み

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-04-04

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