上を向いて探そう


 学園前の駅で降り、改札をくぐると、彼が待っていた。
 いつもは彼女が先に来て、彼が来るのをひたすら待つというのに、珍しく彼のほうが待っていてくれたと思って笑顔で近づくと、彼は憂鬱な顔で、
「今日から俺、他のヤツと学校行くから」
 の一言。
 彼女がキョトンとしているうちに、ラッシュの波に紛れて消えた彼の背中。
 頭の中では、彼の捨てゼリフがクルクルと廻る。
 ふざけてる。
 そう叫びたくて、でも声が出なくて、ただ呆然と冷たい背中を見送った。
 学校へ着くと、彼の傍で可愛い女の子が笑っている。
 本当にふざけてる。
 繰り返す心に、まるで追い討ちをかけるように無粋な一言。
「別れたんだってね」
 雨のように降ってくるそんな言葉に、
「ほっといてよ」
 と返すたび、心のどこかが凍っていった。

 重苦しい一日が終わり、駅のホームに降りると、急行はつい先ほど発車したばかりだ。どうせしばらくは各駅停車しかない。
 彼女の降りる駅は、各駅停車だと二度乗り継ぎせねばならない。途中で乗り換えるくらいなら、いっそ急行を待っているほうがいいのだ。
 駅のホームに立っていると何だか気が抜けたようで、辛くて、ホームの端にあるベンチに座り込んでしまった。
 目の前にあるのは指の短い不恰好な自分の手だけなのに、頭の中は彼との思い出が巡っている。
 彼女にとって、彼は初恋であった。
 彼女にとって、彼は初めて付き合った男性であった。
 毎朝一緒に学校へ行くのが楽しみで、約束の時間前に待ち合わせ場所へ行って、人混みの中に彼の姿を探した。
 彼の横顔が大好きで見つめていると、つい階段につまずいたり、他人にぶつかったりした。その度に、笑って庇ってくれた彼のどこがウソだったのだろう。
 どうして。
 何度も自分に問いかけていると、ふいに頭の上で声がした。
「これ、使いませんか」
 優しいテノールが何かを差し出している。それが何なのかはっきり見えなくて、瞬きすると、冷たいモノが頬を流れて手に落ちた。
 彼女は自分が泣いていることに気付いた。
「下ろしたてのハンカチだから、汚くないよ。使いなさい」
 優しい声が少し強引に彼女の手の中にハンカチを握らせた。
 見上げると、穏やかに微笑む青年がいた。
 あまり老けてないとは言え、彼女から見れば5歳は年上というところだ。
 すぐには声が出なくて、手の平を振って遠慮すると、
「まぁまぁ、いいから」
 と、しつこく言われ、あげくに彼女の隣へドッカと座り込む。
 新手のナンパか、変質者か、と警戒し、とにもかくにもホームへ入ってきた各駅停車に乗ろうと立ち上がると、
「まぁまぁ、この電車じゃキミは帰れないでしょう。次の急行まで待ちなさい」
 と言いながら、彼女をベンチに引き戻す。
 いよいよこれは危ないぞ、と思っているうちに電車は発車してしまい、次の電車を待つほかなくなってしまった。
 人の減ったホームは、やけにガランとしていて、何だか心細くなる。
 しばらくは知らぬ顔でソッポを向いていたが、時間が経つにつれ、なんとなく気になって横目でチラチラ見ていると、彼のほうはニコニコ顔で、ホームで電車を待つ乗客を眺めている。
 まるで瞳に映る人間はすべてが友達という顔だ。
 彼女の手の中で、真新しい男物のハンカチまでもが笑っているように思えた。
 そのまま無言で二人座っていると、各駅停車到着のアナウンスがはいる。
 自然ホームには人の列ができたが、その人混みの中に何かを見つけたように、彼はベンチを離れた。
 電車が入ってくる。
 人の波が流れる中、彼女は身を伸ばしてその光景に見入った。
 人混みの中で、彼が駅員と一緒に、車椅子に乗る老人に手を貸していた。
 皆が遠巻きに眺めながら通り過ぎてしまうのを気に留めないで、曇り一つない笑顔を浮かべ、老人に何か話しかけながら車椅子を電車に乗せている彼。
 その笑顔が瞳の奥に焼きついて、また彼が貸してくれたハンカチは水の中に沈んだようにぼやけた。
「あの人、いつもこの時間この電車に乗るんだ」
 軽く笑いながら戻ってきた彼が、また彼女の横に座る。その目前を各駅停車が発車した。
 ホームはまた少し寂しくなった。
 変わらず隣にいる彼に、何か話しかけたくなったが、自分が何を話したいのかわからず黙っていると、彼は彼女の意など解さない様子で、遠くホームを監視する駅員に手を振っている。
 彼女は隣を気にしながらも、ゆっくりとホームを見渡した。
 人がいる。
 話したことなどない、名前など知らない人がいる。そんな人達のことなど、考えてみたことなどない。
 隣の彼は、先ほど車椅子の老人がいつもこの時間、あの電車に乗ると言ったが、彼女はあの老人を見た覚えはなかった。彼女もまた、この時間の電車を利用することが多いというのに。
「いろんな人がいるんだ」
 彼女は呟いた。
 当たり前のことなのに、何故かたった今気付いたような気がした。
 隣で彼が微笑する。
 穏やかな瞳を彼女の横顔に向けて、彼は独り言を言い始めた。
「面白いよな。毎日すれ違うヤツでも、やっぱ毎日どこかが違ってる。毎日同じ風景なのに、やっぱ違うんだよな。そんでもって、人間はゴマンといるのに、こうしてすれ違う人間ってそのうちのほんの一握りで、言葉を交わすのは本当に極わずかだ。友達って呼べるヤツになると、手足の指でことが足りる。そんな風に考えたら、長い一生の中のほんの一瞬でも友達になれたヤツってラッキーだと思うよな」
 優しいテノールが響く。
 彼女の顔が曇った。
「それって、本当にラッキーかしら。会わなければ良かったと思う人だっていると思う」
 彼女の頬を冷たい雫が流れ、彼の笑顔を曇らせた。
「そんな風に言うと、キミが傷つくよ。後悔はキミ自身の存在を否定するものだ。終わりはどうであれ、少なくとも彼氏と付き合ったことはウソではなかったと思うけどな」
 彼女は思わず険しくなる。
「見てきたように言うのね。分かりもしないくせに不愉快だわ」
「キミが気付いてないだけだよ。俺はちゃんと知ってる。毎朝改札口の傍らで、ひたすら彼氏が来るのを待っている瞳のきれいな女の子のことはね」
 何の抑揚もない声。彼は続ける。
「キミはいつも彼氏の方ばかり見ていた。たとえキミの隣にいるのが俺でなくても、俺はキミを見つけることができた俺自身がラッキーだったと思ってるよ」
 気障な台詞。
 一瞬惚けた彼女を見つめ、彼がニッコリ微笑んだ。
 その笑顔が、彼女を縛り付けていた冷たい鎖から解き放つ。
 彼女は声を殺し、両手で小さな肩を抱き締めるように泣いた。
 ホームに、急行が到着するアナウンスが入るが、彼女には聞こえていないだろう。
 彼は、また彼女から視線を逸らせて無言のまま座っていた。
 彼女の待っていた急行が、ほどなく発車する。
 すぐその後を追うように到着した各駅停車を見送ると、ホームには彼女と彼しか残っていなかった。
 ほどなく、彼女は顔を上げて彼に渡された男物のハンカチで頬を拭った。
「落ち着いたかい」
 一息ついた顔で、彼が言った。
 彼女が笑ってうなずく。
「泣いたらサッパリしちゃった。きっと私、朝からずっと泣きたかったのね」
「そっか。サッパリしたところで急行が来るよ。今度は乗っていきなさい。その後の急行は一時間後までないから」
 腕時計をのぞきながら、彼が言う。
「あなたも急行に乗るんでしょ?」
 そう彼女が問うのは自然なことだ。
 しかし、彼は屈託ない笑顔で、
「俺はこの次の駅だから、各駅停車でないと停まりません」
 と、惚けた声。
 ではなぜ今までぼうっとベンチに座っていたのだろう。各駅停車はいくつもあったのだ。
 彼女が彼を見つめていると、アナウンスが入り、急行がホームに着いた。
「気をつけてお帰り。明日は元気でね」
 立ち上がる彼女を、彼は笑顔で送る。
 どこから溢れてきたのか、ホームには幾つもの人の列ができていた。
「本当に、この電車じゃないんですか」
 彼女は問う。
 彼は笑顔のまま立ち上がり、彼女に近づいた。
 思った以上に背が高く、彼女は見上げてしまった。
「キミはいつもうつむいて歩いてるよね。地面ばかり見ていても、何も落ちてやしないよ。明日はほんの少し顔を上げて歩いてみたらどうかな。きっと何か見つけるよ」
 優しいテノールが、彼女の中に染みる。
 大きな手が、人波から彼女を守るように広げられている。
「あの」
 彼女の声は、発車のベルにかき消された。
 彼女と彼の間で、電車の扉は閉まり、何を叫んでも彼には聞こえないだろう。
 彼が軽く手を振っている。
 彼女は彼のハンカチを握る手で、振り替えした。
 発車。
 彼の姿が窓の外から消えた。

 彼女はいつもより二本早い電車で、学園前に着いた。気分は晴れやかとまではいかないまでも、悪くはなかった。
 昨日、涙と一緒に胸のつかえも流れ出たのだろう。
 いつもの改札へ向かいながら、カバンから定期券を出していると、聞き覚えのある声が頭の上からした。
「おはようございます。いってらっしゃいませ」
 咄嗟に見上げると、駅員が明るい笑顔で彼女を見ていた。
「やっと顔を上げたね」
 小さな声でそういう駅員は、昨日と同じ真っすぐな瞳で彼女を見た。
「駅員さん、だったんですか」
 唖然として問い返すと、無言で笑って業務を続ける。多くの人が行き交う改札口で、滞らないように目配せをしながら、『おはようございます』と『いってらっしゃいませ』が繰り返される。
 時折会釈が返ってくる乗客に、会釈で返して笑顔で見送る。
 彼女は、次々出てくる乗客に押し出される形で改札を出た。昨日と同じ、ここから一人で学校まで歩いて行く。
 ふいに、もう一度改札口を振り返ると、あの駅員が顔を上げてこっちを見た。
「大丈夫。行ってごらん」
 そう言われているような気がした。その笑顔が、彼女の背中を押す。
 彼女の口元に笑顔が浮かんだ。
 そう、大丈夫。また最初からやり直し。まだ何もしていない。上を向いて、周りを見て、いろんなものを感じて。
 いつかきっと、何かを見つけられるように。

                             完

上を向いて探そう

上を向いて探そう

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-04-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted