シューティング・ハート 白銀の皇帝

 明かりを落とした薄暗い部屋で、屈強の男たちが、左右に連なる席を埋めている。
 長ラン、短ランの違いこそあれ、皆、一様に襟を正していた。
 上座に位置する壁面には、銀糸で縫い上げられた旗が飾ってあった。それはまるで、その部屋の象徴ででもあるかのように掲げられている。薄暗い部屋の中で、そこだけが皓々と照らされていた。
 描かれているのは、玄武であった。
 玄武とは、中国四神の一つ。北方に位置する水の神であり、亀と蛇の合体した双神として描かれる。
 それを背にして、豪奢な机の中央にゆったりと構える男の姿があった。
 銀に映える玄武を背に座っている男こそ、咲久耶市の北に隣接する伊和長市を拠点とする玄幽会総帥、玄武帝こと善知鳥(うとう)景甫(かげすけ)である。
 シルエットからはそれほどの巨体とは思われないが、しかし、どこか不気味な力が感じられ、威厳のようなものが備わっているようだ。
 おもむろに、その傍に控えている長身の男が、ファイルを片手に議事進行に務めていた。薄暗がりの中浮かぶその横顔は、絶世の美青年と称しても過言ではない容姿である。
「ご報告の通り、我が玄幽会の統合計画は、着々と進んでおります」
 玄幽会宰相・佐久間涼は、その場に不似合いな流暢な口調で言った。
 居並ぶ猛者たちに挟まれるように、部屋のほぼ三分の二を占める幅広の長机が置かれ、その上にはこの地方一帯の地図が広げられていた。
 地図には、伊和長市の北端、山に囲まれた湖の端を基点に等間隔の円が引かれており、一目で距離がつかめるようになっている。そして数色のチェスの駒が、何かを示すように幾つも置かれている。
 中心には銀製のキング。それを取り巻くように、銀色の小さな駒が、伊和長市のほぼ全域に置かれている。それよりも南というと、伊和長市と隣接する咲久耶市北区に銀色のルーク。そして咲久耶市東部の須勢里区に置かれた銀色のビショップが、その南に位置する保照里区を臨む。
「この玄武館高校を拠点とし、一帯の高校はほぼすべて傘下に治めました。その他の区域に関しましては、皆さんの働きによって伊和長市全域の二割から五割の高校を制圧しております。若干一般生徒などに関し、問題が出ているようですが、すべては玄武帝の志に沿うよう対応してください。くれぐれも一般生徒に危害を加えないように」
 佐久間は視線で地図の上に乗る駒を指し示しながら、説明を続けた。
「前線の中央司令として任にあたっておられる渋谷さんには、引き続き統括をお願いしたい」
 佐久間は銀色のルークを示しながら、目前に座る大柄な男に微笑を向けた。渋谷が微笑で礼を返した。
「また、順調に進んでいるとは言え、我らに敵対する者がまったくいないわけではありません。特に、咲久耶市東南部に位置する須勢里区と保照里区」
 佐久間の視線は、銀のビショップが置かれた咲久耶市東南部、海洋に張り出した形に細長い地を指している。そこには明らかに他の駒とは違う黒のナイトが、まるで馬頭を北方に向け中央の銀製のキングを睨むように置かれていた。
「確かこの地域には、香取なる者が率いる番長連合があるということですね。篠塚」
 咲久耶東南進攻を任されている篠塚が、身体を上座に向けて一礼した。これが、発言する時の礼儀である。
「ただ今、宰相のお話にありました香取なる者は、数日前に、私共のほうで捕らえましてございます。その者に加担する番長連合の幹部も、ほぼ全員を捕らえております。しかし、奴らは皆、玄武帝に従うことを拒み続け、その上香取を慕う残党の抵抗にあい、統括までには至りません。私の配下の者にも、若干負傷者が出ている始末」
 言っている間にも、額に汗が滲んでいる。
 並み居る屈強の男たちの中でも、決して見劣りしない篠塚ほどの者が、これほどに緊張して話さねばならない相手だと言うのだろうか。
 篠塚の言葉が切れたのを受けて、宰相佐久間はにこやかに笑った。美しい微笑には、カケラの現実味もない。
「犠牲を出しているのは、何も貴方の部隊だけではないのですよ、篠塚」
 謳うような声が、その場に居る者たちすべての士気を高めた。と同時に、周囲から一斉に、侮蔑の視線が篠塚に注がれる。
 篠塚は蒼ざめて平伏し、濁った声で捲くし立てた。
「失言のほど、お許しを。一週間後には、咲久耶東南部を玄武帝に献上いたします」
 それ以外に、答える言葉はない。
 また全員の視線が、上座に向けられた。その表情には、我こそ侵攻隊長をと勢い込む思いが感じられた。
 中央に広がる地図でも、須勢里区に置かれた駒は、統合計画の重要な拠点となることは必須である。その支局の隊長となれば、この席上で宰相と、前線の要所となる咲久耶市北区を担う中央司令に並び、最も玄武帝に近い位置に座することができるだろう。
 誰しもが野心を抱いて、当然であった。
 しかし、闇に沈む玄武帝から隊長交代という言葉はなく、また佐久間が場を鎮めるように微笑した。
「篠塚。玄武帝は、あなたに大変期待しておいでです。他の方々も、各々の役割を充分心得、計画を遂行してください」
 微動だにしない影の代わりに佐久間がそう答えると、篠塚の正面に座っている畑中が、身体を上座に向けて一礼をした。
「恐れながら、玄武帝に申し上げます」
 野太い声が、影にかかる。
 佐久間が微かに傍に座っている影を窺った。玄武帝は闇の中で、畑中の次の言葉を待っている。
 畑中が続けた。
「これまでのお話では、我らの計画から咲久耶市の中央より以南が抜けております。確かに咲久耶市南区の聖蘭学園『貴妃様』、その隣、八島市の不破第一高校には『不破公』常磐井様と、玄武帝には馴染みのある方々がおられます。ですが、その二校の為に、南部すべてを捨て置くのも、如何かと思いますが」
 咲久耶市の東側に隣接する八島市の中心都市西都には『不破公』を示す深紅のキング。その傍、咲久耶市南区の外れに『貴妃』を示す深紅のクイーンが置かれている。
 畑中の視線は、禍々しく光る赤いキングに注がれている。
 それこそが、怪物と噂される男、『不破公』常磐井鼎の拠点である。しかしこの常磐井は、玄幽会に反目しているわけでなく、また、味方しているわけでもない。
 玄幽会の勢力が南下する代わりのものを差し出せば、それで事の足りる者だ。元より、玄幽会と『不破公』では、目指すものに差がありすぎた。言うなればお互い、目の上のタンコブのようなものだ。
 もう一人の『貴妃』に関しては、玄幽会にとっては、『不破公』同様の者。我が身の周囲にのみ覇を唱え、それ以外の何がどうなっても関心のない女である。
「私も、同じ意見にございます。玄武帝。『貴妃』様並びに、『不破公』におかれては、我ら玄幽会の統合計画には賛成のはず。要は、聖蘭学園と不破第一の二校に、差し支えがなければよいでしょう。ならば、このまま黙っていることもございますまい。今すぐ、咲久耶中央区、南区の攻略の指示をお与えください」
 畑中からいくつか下座にいる柳井が、後を続けた。もちろん、侵攻隊の隊長を望んでのことだ。
 咲久耶市南区といえば、机上の地図ではこの玄武館から一番遠い区域となる。勿論現時点で、玄幽会の力は遠く及ばない。配下に治めるのは、他の区域よりも難しいのだ。
 しかし、逆にこの区域を任されるとなれば、その地位は東南部ともども宰相の次に置かれて当然だ。
 皆がこの意見に同調し、玄武帝の考えを待った。侵攻の合図が出ると、誰しもが思った。
 しかし、当の玄武帝は一向に答える様子はない。それを代弁するように、宰相佐久間が言った。
「確かに、南部進攻に関しては、『貴妃』様も『不破公』常磐井様もご異存はないということです。しかし」
 佐久間はそこで、言葉を切った。
 玄武帝の指が、微かに動いたのを認めたからだ。
 一瞬の静寂が、重く部屋にのしかかる。
 誰もが息をのんで見守る中で、玄武帝は呟くように、言った。
「『魔女』」
 その声は軽く発せられたものだが、しかし、居並ぶ男たちの背筋を凍らせるには充分のものであった。
「まさか、玄武帝におかれましては、あの噂の『魔女』を気になさっておいでなのですか」
 一人の問いで、部屋は騒然となった。
 その場にいる者すべてが、一度は耳にしたことのある伝説。
 咲久耶市を拠点に県下にその名を轟かせた暴走族『赤い梟』を、ただ一人で壊滅させた女。黄金の瞳と黄金の髪。それが夜の闇に浮かび、陽炎のようだったという。
「しかし、実際にその女を覚えている者は一人もいないとか。ただ、おぼろげに記憶の隅に浮かぶようなものだと言うではありませんか」
「そんな、本当に存在するのかどうかも分からない者の為に、我ら悲願の統合計画を中途半端に終わらせるとおっしゃるのですか」
 次々に出てくる不満とも取れる言葉を、玄武帝は黙って聞いていた。その傍で佐久間が表情を硬くしている。玄武帝に一番近い席に座る中央司令の渋谷宜和もまた、左前方の気配が澱んでいくのを無言で見守っていた。
 それぞれが趣くままに言葉を重ねるうちに、一番下座に控えていた野村が、思い出したように玄武帝を見た。
「そう言えば、咲久耶市南区の鷹千穂学園には、『マドンナ』と呼ばれる女がいると聞き及んでおります。その女が『魔女』なのではありませんか」
 玄武帝の視線が、闇からその野村に注がれた。
 一瞬にして、座が静まり返る。だが闇は無言のまま、また宰相が穏やかな微笑を浮かべて、問う。
「それはいったい、どういう女なのですか」
 それが玄武帝の声にならない問いででもあるかのようだ。
 野村は、続けた。
「名は確か、真行寺万里子。県下のほぼ全域に影響力を持つと言われる、真行寺一家の一人娘ということです。大変美しいとかで、表立って行動している節はございませんが、信奉者も多く、彼女あってこそ南部に位置する『貴妃』様や西都の常磐井様の力の均衡が保たれていると言っても過言ではないとの噂」
 野村は知り得る限りの情報を、精一杯の力で玄武帝に述べた。この定例会において、末席に控えておらねばならない惨めさがあっても良さそうだが、野村には野心よりも忠誠心の方が勝るようだ。こうして玄武帝に進言できることだけで、満足している。
 すると、真行寺万里子の名が出てから、しばらく浮かぬ顔で控えていた渋谷が、恐れながらと上座を仰ぐ。
「顔色が優れぬようですが、何か」
 佐久間が野村を制して渋谷に問いかけると、渋谷は傍の闇にもう一度礼をして、言った。
「その問題の女、いつかの折に『不破公』が、ご自分の女にすると言っておられたように記憶しております。『不破公』がアメリカ留学なさる以前のお話でした故、かれこれ一年前のことでしょうか」
 静寂の中、朗々たる渋谷の声ばかりが響く部屋に、玄武帝のため息が重なった。
 何とも物憂げなため息だ。
「常磐井が目をつけた女、か」
 感情のまったく見当たらない口調だ。
 渋谷の言葉にか、はたまた玄武帝のため息に動じたのか、座は一瞬にしてざわめいた。
「常磐井様は、この七月にご帰国なさいますが、如何なされますか」
 佐久間は、闇の中に沈む玄武帝の顔を窺った。答えは視線で返って来た。
 佐久間は姿勢を正し、一同を見つめた。
 玄武帝からの指示が下されるのだ。
 佐久間は一同に介した猛者たちを見渡し、毅然と見据えた。
「現時点では、咲久耶南部侵攻は無意味です。『貴妃』様並びに『不破公』がいる区域などは、他すべてを押さえてからでも遅くないはずです。よって、皆様には引き続き、ご自分の持ち場をより一層強固に固められるよう。特に、東南部の方。先の一週間という約束、必ず守るように願います」
 佐久間は片手に広げていたファイルを閉じると、脇に下げた。
「ではこれにて、定例会を終了いたします。解散」
 一同が一斉に立ち上がり、玄武帝に向かって最敬礼をし、出て行った。
 早々に廊下へ出ると、顔見知りを呼び止めて情報交換を始める。そんな者たちを尻目に篠塚一人、足早に先を急いだ。
「奴も長くはないな。所詮、前玄武帝の側近だった男だ。東南部侵攻隊長も、単に須勢里区にヤツの私邸の一つがあるからだ。景甫様にとっては、捨石に過ぎぬ」
 その背を見送りながら、柳井と同格の藤岡が小さく呟いた。その言葉に同意したのは、一人や二人ではない。
「武道の誉れ高い我が玄武館高校の帝王と言われながら、私利私欲にのみ動いた前玄武帝の側近だ。小物には違いない」
 数々の罵詈雑言が飛び交う中で、定例会で柳井の正面に座っていた槙原が、苦笑で継ぎ足した。
「だが、あの香取を捕らえた腕前は、たいしたものではないか」
 天光寺高校の香取省吾と言えば、遠く玄武館にまで聞こえる猛者である。それを捕らえるとなれば、並大抵の腕では無理だろう。多勢に無勢であったとしても、勝機は少ない。
「篠塚の武道の腕は、我らあの席に連なるものの中でも下のランクと記憶している。おそらくは精進して・・・」
 言葉を重ねる槙原に、嘲笑が返る。
「お前は本当にそう思っているのか。ならばメデタイと褒めてやるが、もう少し情報を正確に捉えるべきだな」
「どういうことだ」
 話を折られて顔を歪めると、また嘲笑が起こる。
「篠塚が香取を捕らえたのは、決して真っ向から戦ってのことではない。奴は巧みに香取を誘い出し、姑息な仕掛けを用いて地下牢に閉じ込めたにすぎん。玄幽会幹部には、不似合いな手段だとは思わぬか」
「それは、本当か」
 自分の無知に腹を立てるように、槙原は唸った。
「景甫様が玄武帝になられて、まだ数ヶ月しか経たない。篠塚のように、前玄武帝の元で私腹を肥やし、玄武館を追われた者が、不穏な動きを示しているとの情報もある。常磐井のいる不破第一校に流れているとも、貴妃のいる聖蘭に集まっているとも言われているのだ」
「まさか。常磐井様は、景甫様の意向に同意しておられる。貴妃様も然りだ。それで何故、そのようなことになるのだ」
「だから甘いというのだ、貴様は。あの『不破公』と『貴妃』が、自分たちよりも巨大な存在を許すはずがない。今に牙を抜くぞ」
 親しさの中にも、決して厳しさを忘れぬ同胞の声が、その場に集まっている幹部の心に忠誠を促す。
 ふいに、藤岡が口を挟んだ。
「だが、玄武帝は何故あって、『魔女』などとおっしゃられたのか。噂にすぎぬ女のことを口に出されるほど、気にかけていらっしゃるのであろうか」
「何、たいしたことではあるまい」
 柳井があっさり言い放つと、それまで控えていた野村が激しく否定した。
「否。あれは、尋常ではありませんぞ。もしや玄武帝は、伝説の魔女に懸想なさっておられるのでは」
 これには廊下に割れるような哄笑が鳴り響き、誰もが野村を小突いた。
「そのようなことがあるものか。玄武帝ほどの方が、どこの者とも判然としない女のことを想うなど、ありえんよ」
「そうだ、そうだ。おそらくは、南部侵攻をお考えの折に、ふと気に留められただけのことだろう」
 端から笑い飛ばす連中を、槙原は腕組みで見つめた。
「しかし、真行寺万里子とやらのことは、調べてみなければなるまい。もし、その女が『魔女』であれば、常磐井のものになると厄介だ」
 柳井も真顔に戻って頷く。
「では、何名かを鷹千穂学園にやろう。勿論、景甫様には悟られぬようにな」
 長い情報交換も終わり、それぞれが部下を連れて各々の持ち場に戻った。
 構内を出ると、嫌な雲行きだ。一雨くるのだろうか。
 それをさも鬱陶しいという顔で見上げながら、側近が運転する車に向かう篠塚に、背後から声がかかる。
 中央司令を務める、渋谷宜和である。
 宰相佐久間涼と並んで玄武帝の忠臣と目される男は、威風堂々と立っていた。
 車に乗り込もうとする篠塚を止めて、渋谷は問う。
「貴公、近頃、留学中の常磐井様と連絡を取っているとか。それは事実か」
 穏やかではあるが、しかし、一縷の隙も見えない。篠塚は気圧されるように咳払いをし、視線を背けて答える。
「これは。何を言われるかと思えば、そのような戯言。常磐井様に対するは、最低の礼儀。渋谷殿にはこの私が、玄武帝以外の方に忠誠を誓っているとでもおっしゃるのか」
「そうでなければ良いと思っているだけのことだ。どちらにしろ、景甫様の心中を考えて、行動なされるが良かろう」
 渋谷は苦笑で身を翻す。
「忠告、痛み入る。心に留めておくことにしよう」
 ひたすらに顔を歪め、さっさと後部座席に収まった篠塚には見向きもせず、渋谷は一つ小さく笑った。
「天光寺の香取を取り押さえても、まだ『夜叉』が残っていよう。アレは手ごわいよ」
 それは明らかに、篠塚を揶揄する口調だ。
 車を見送る気はないと背を向けて屋内に戻る渋谷の肩が、小刻みに震えている。武将に似合いの堂々たる風貌が、湿気を含んだ風さえも爽やかに変える。
 渋谷は二度と、篠塚を振り返ることはなかった。
 篠塚には継ぐ言葉もなく、ただ一言、運転手に向かって車を出すよう唸るだけだ。

 幹部すべてが立ち去った部屋に、静けさが戻っていた。
 最後に出た者が扉を閉めたのを機に、玄武帝は大きく息をついて、背もたれに沈んでいる。
「お疲れのようでございますね、景甫様。昨夜も、お眠りにはなられなかったのですか」
 佐久間は声を落として、労う様に言った。
 椅子に沈む影が、もう一度大きくため息をついた。
「僕も、眠りたいのは山々だよ。だが、あの夢を見たら最後、いかに目を閉じようとも眠ることはできない」
 まだ、些かの幼さが残る口調の景甫は、足を軽く動かすと椅子を反転させた。玄武の旗を照らしているライトが、景甫の顔をも照らす。
 佐久間の美しい瞳が、一層輝いて見えた。
 『玄武帝』善知鳥景甫は、歌舞伎役者を思わせるノッペリとした日本人的な顔だ。派手さはなく、一見人目を引くこともない容姿をしていた。色が白いという訳ではないが、かといって浅黒い方でもなく、体型も男子の平均をそのまま形にしたようなものだった。
 しかし、細身の学ラン姿であるにも関わらず、この男がこの大きな中央の椅子に座り、銀の玄武を見上げていることには、まったく違和感というものはない。そこに座って然るべき男なのだ。
 佐久間は、景甫に全霊を捧げるように、その傍に立っている。
 景甫が長い足を組んで首を傾げると、佐久間の視線に合わせて呟くように言った。
「お前も、皆と同じように、僕を笑うか」
「・・・『魔女』のことでございますか」
「そうだ」
 景甫の声は、今にも夢に惑うようであった。
「あの夢の女が、果たして噂の『魔女』なのかどうかは僕にも分からない。だが、気になるのだ。あまりにも似すぎている」
 景甫は、天井を仰いで目を閉じた。男にしては長く細い首筋が、ライトに映えて霞む。
 このところ眠ったと思うと、夢に起こされていた。
 闇に浮かぶ黄金の女。
 全身を光輝く黄金色に包んで彼の女は、まっすぐ景甫を見据えていた。その相貌は判然とせず、もちろん記憶にもない。夢に女が登場するほど、飢えているわけでもない。
 それなのにこのところ、毎夜その女が現れて、視線で景甫を縛ってしまう。
「それで、どう思っていらっしゃるのですか。その女のことを」
 軽い口調で、佐久間は笑って問うた。
 景甫の苦笑が返ってくる。どうやら笑うしかない結論のようだ。
 ゆったりと肘掛にもたれ、景甫は遠い視線を玄武に投げかけた。
「夢の中の女に恋をしたと言ったら、お前は笑うだろう」
 一縷の澱みもない声が、二人だけの部屋に響く。
「景甫様のお心のままに」
 佐久間は礼をすると、変わらぬ忠誠を誓った。

「帰ったぞ」
篠塚は、大きな日本建築の門をくぐると、大きな声でそう怒鳴った。
 この屋敷は篠塚の私邸である。江戸時代よりこの地の家老職であり、数ある私邸の中でも手ごろな大きさのものを篠塚自身が譲り受けた。玄幽会が咲久耶東南部に侵攻するにあたり、自らすすんでこの私邸を拠点とすることを玄武帝に進言した。
 中から出て来た大勢の男たちが、袴姿で礼をする。
「おつかれさまです。玄武帝は、お変わりありませんでしたか」
 篠塚の側近、島原が、待ちかねた様に言葉をかけたが、それを尻目に、篠塚は怒気を発する。
「香取はどうしている。まさか、逃げられてはいまいな」
 不機嫌極まりない声が、周りの者を不愉快にする。
「もちろんでございます。あの座敷牢にしてあの手枷では、どのような剛の者でも逃げられはいたしません」
 冷や汗をかきながらも懸命に言葉を繋ぐ島原に、篠塚は気配り一つするでなし、どんどんと屋敷の奥へ向かった。
 納戸の前で立っている実政が主の帰りを迎えたが、それにも目もくれず中へ入ると、自らの手で中央の長持を開ける。反物でも入れておくような大きな木箱の中に、地下へ続く階段があった。
 ただ一心に進んで行く後ろ姿は、お世辞にも尋常とは言えなかった。
 しかし、それを咎める者はなく、篠塚もまた、周囲の反応を気にする風もなく、階段を下りて言った。
 そこは湿気が強いのか、木の柱も板壁も年代を感じさせる朽ち方をしている。
 カビの臭いがする。
 篠塚は木製の格子の前に立ち、薄暗い牢の中を凝視した。
 明り取りの小さな窓から入る陽光は、まったく用をなさない。
「起きろ」
 起きる気力を失わせる声が、そのカビ臭い地下牢に響いた。格子の向こうでうずくまる大きな塊が微かに動いたが、起き上がる様子は見せない。
「起きろと言ったのだ」
 怒号がもう一度響き、篠塚は手元にあった木製のレバーを一気に引き下ろした。
 不気味な金属音が、皆を押し潰さんばかりの大きさで響いた。
 格子の向こうで唸り声が上がる。
 うずくまっていたはずの塊は、その金属音と共に壁に引き込まれ、四肢を十字に引きつらせて止まった。
「初めから言う通りにしていれば、そのような無様な格好をせずとも良いというのに。つくづくお前という男は頭の巡りが悪いと見えるな、香取」
 獣のような目を光らせて、篠塚は嘲った。
 その背後に控える者たちも、同様に嘲笑を浮かべている。
 両手首に枷を嵌められ、壁に張り付けにされている大男が、それにも負けぬ豪胆な微笑を浮かべた。
「この俺を、こうして捕らえてなお、咲久耶東南部を手中に治められぬお前が、大きな事を言うじゃないか。お前ごときが玄幽会幹部なら、所詮玄武帝の力など知れている」
 香取は、決して屈してはいなかった。
 よく見れば、その顔面には多くのアザがあり、所々に血が固まっている。大きな学生服は切り刻まれ、ボタンを剥いだ胸にも拷問の痕があった。
 どれほどの時間を、この地下牢で過ごしたのか。厳つい頬は、げっそりと削ぎ落とされていた。それでもなお、香取は屈してはいないのである。
「早々に、咲久耶から手を引くのだな。でなければ、お前も玄幽会も大きな痛手を受けるぞ」
 自信に満ちた声が、篠塚の狂気に火を点けた。
 篠塚は、傍にあるレバーに足をかけ、また思い切り踏み付けた。香取の両腕が左右に引っ張られ、身体は軋み、苦鳴が上がる。
「玄幽会など、所詮は三日天下。西都の常磐井様が帰国すれば、その下に侍る一つのグループに過ぎぬわ。それまでに咲久耶東南部を我が手に治め、玄幽会をも手中に収めておけばよい。景甫(かげすけ)ごとき小物の下で、終わるような俺ではないわ」
 紛れもない反逆の言葉が、狭い地下牢に反響する。
 香取が唸った。
「お笑い種だな。てめぇのような野郎が幹部なら、三日天下も嘘ではあるまい。だが、蝙蝠野郎には、相応の終わりがある。楽しみにしてるぜ」
「何を――」
 絶句は、残虐さを増長させた。
 香取を捕らえる手枷の鎖は、ギリギリと壁に吸い込まれていく。香取の腕は、その胴体から切り離されんばかりに軋み、枷が食い込む手首からは鮮血が滴り落ちる。岩の床に血だまりができた。
「黙っておれば良いものを」
 忌々しげに顔を歪めた篠塚が、いきなりレバーにかけていた足を外すと、まるで糸が切れたように香取の身体は壁を離れ、一気に床に倒れ伏した。
 その頭に、篠塚の吐き掛けた唾が飛ぶ。
「貴様はそうやって這いつくばって、お前の部下どもが俺にひれ伏すのを待っておればよい」
 溜飲を下げたのか少し威厳を取り戻すように、控えている側近たちに向かった。
「残党狩りを強行しろ。ヤツの側近だった者だけでなく、番長連合を口にする者すべてだ。捕らえて痛めつけ、二度と我らに逆らわぬよう、矯正しろ」
 大きく指示を出しながら、篠塚は朽ち掛けた階段を上って消えた。
 側近の者たちも一人残らずいなくなると、地下牢はまた、死と隣り合わせの静寂が落ちる。
 床に顔面から倒れた香取は、指先一つ動かせなかった。
 この地下牢に入れられて何日経つのか、香取には分からなかった。差し込む光は弱く、目を凝らしたところで、見えるのは太い木の格子と、上るには遠い階段だけだ。
 食事は運ばれてくるが、時間は定まらずわずかな量でしかない。牢に入れられる前の喧嘩と拷問で、身体の至る所が軋んでいる。
 冷たい岩肌を感じながら、香取は低く呟いた。
「急げ、二浦。急いで万里子に知らせるんだ。万里子なら咲久耶を、あいつを動かせる」

「何か言ったか、柱谷」
 物陰に隠れて辺りを窺っている二浦が、傍にいる男に小さく問うた。
「いや、俺は何も言わない」
 柱谷もまた、小さく答えた。
 通りを行き交う人々の中に、学生服がちらほら見える。どれも襟元に『玄』のバッジが付いていた。
「この分じゃ、強行突破しかないな。早く鷹千穂まで行かねば」
「しかし、本当にマドンナに総長を助けられるのか。俺たちがここに留まり、番長連合をもう一度召集して、一気に巻き返した方が」
 柱谷は二浦に捲くし立てた。このまま敵に後ろを見せて立ち去るのが、屈辱とでも言うようだ。
 二浦が厳しい目で、強く首を振った。
「今動けば、玄幽会の思う壺だ。とにかく、香取総長を助けるのが先だ。総長さえ戻れば、皆の士気も上がる。その為には我ら二人ではどうにもならない。ならば総長が言われたように、マドンナに助力を願うしかないじゃないか」
 二浦は、記憶の中にある美しい女人を鮮やかに思い出していた。
「マドンナならば、必ず、総長を救い出せる。もしかすると『夜叉』を呼び戻すことさえ出来るかもしれない。総長の目を、俺は信じる」
 ゆるぎない声が、柱谷に届いた。
「わかったよ。もう、何も考えない」
 柱谷は降参の構えで、両手を挙げた。
 突然。
「そうだ。何も考えず、我らに従うんだな」
 背後で野太い声がする。
 しまった、と思った時は遅かった。
 いつのまにか、数人の学生に取り囲まれている。襟元のバッジが鈍く光っていた。
「お前たちは、香取の側近だったな。確か、二浦と柱谷」
「ほう。知っててもらえて光栄だね。ついでにそこをどいてくれると、有難いんだが」
 柱谷が二浦を庇うように立って、周囲を威嚇した。
 それに対する答えはない。否、答えは態度で表された。
 玄幽会の学生は道をあけるどころか、じわじわと迫っていき、飛び掛らんばかりの形相だ。
 その陣形が狭まった時、柱谷はくるりと二浦の方を向いて膝を折った。
「行け、二浦」
 叫んだ声が、二浦を動かした。
 柱谷の差し出す手を踏み台に二浦は素早く跳躍して、取り巻く男たちのはるか後方に着地し、そのまま脱兎の如く人混みに紛れた。
「ちっ、追え」
 男の一人が叫ぶが、それは柱谷の正拳突きで悶絶した。二浦を追いかけようとした数人の足が止まる。周囲の視線が自分に向けられるのをさも楽しそうに、柱谷は指を鳴らした。
「てめぇらには、俺の相手をしてもらうぞ」
 これだけの人数を相手にするのだ。勝ち目はない。しかし負けるからと言って、屈するわけにはいかない。
「番長連合幹部の意地を、見せてやるよ」

 屋外にあるバスケットコートの端で、四人の男子生徒が群れている。
 百九十センチの長身をいささか持て余している速水介三郎は、いつもの間の抜けた顔を膨らませ、悪友の攻撃を黙って受けていた。
「前から無いとは思ってたけど、本当に介ってデリカシーってのがなかったんだね。普通女の子に向かって『胸がデカい』なんて、思ってても言わないよ」
 身長百七十八センチの巽卓馬が、満面笑顔で百九十センチを見上げた。
 介三郎とは同じバスケット部の一年生である。色白で目がクリリッとしている卓馬は、太鼓持ちのような明るさでその場を盛り上げていた。
「ちったぁ、自制心とやらを鍛えとけよな。野郎がスケベなのはわかりきってることだが、介のはスケベが丸出しだんだよ」
 身長百八十八センチの梶原常史が、もてあそんでいたバスケットボールを反対側のコートのゴールへ向かって投げた。大きな音をたてて、ロングシュートが決まる。さすが一年生にして、バスケット部の点取り屋である。日焼けした肌に切れ長の目、白い歯が印象的な女受けのいい顔だが、乱暴な言葉遣いと無愛想な表情で帳消しになる。
「だいたい、何だってそんなに女の胸ばっかり気になるんだよ。スケベ本の見過ぎじゃねぇのか」
 介三郎に食ってかからんばかりに詰め寄る梶原の横で、美少年が笑っている。
 この三人の中にいると格段に低く感じてしまう百六十五センチの今泉藤也が、口論の発端を持ち込んだのだ。
「何でこんな事バラすんだよ、藤也。だいたいお前、どこで聞いてたんだ」
 大きな図体を屈めて、介三郎は矛先を藤也に向ける。
 だいたい、春から恋焦がれている片想いの相手に『キミの胸って、デカいね』と言ったのは、先日の水無月祭の後夜祭で行われたフォークダンスの最中であった。喧騒の中で、しかも藤也は傍にいなかったはずだ。
「まさか、俺に盗聴器でもつけてたんじゃないだろうな」
 怒れば怒るほど情けない顔になる介三郎が、小柄な美少年に言う。
 藤也が肩をすくめて、流し目をくれる。そうして厳しい顔をすればするほど色っぽくなるのは、もはや特技と言ってもいい。
「誰がマイクなんて使うんだ。介は、本当に甘いね。俺にだって、読唇術くらいできるよ」
「読唇術って、・・・まさか」
 介三郎の顔が蒼白になる。藤也の大きな肯定。
「そうだよ。綾もマドンナもできるよ。だから、成瀬愛美がお前に冷たくても、何も言わないだろ。当然、成瀬は怒りまくってるからな。一応、気を遣ってるわけだ」
 憎らしいくらいの真顔で言う藤也に、卓馬の笑顔が重なる。
「でもさ、いいじゃん。成瀬に嫌われても。介ちゃんは、モテてモテて困ってるんだからさ。だいたいこの鷹千穂学園で、マドンナに惚れられて、その上あの綾の相棒に選ばれてんだからさ」
 卓馬の言葉に、介三郎は一層頭を抱えた。
 それに追い討ちをかけるように、梶原が介三郎の後頭部にバスケットボールをぶつけた。
「何であいつは、お前ばっかなんだよ」
 些か意味不明だが、察しのついている藤也と卓馬は、黙っていることにした。指摘すると命がない。
 介三郎はすでに死人と化していた。
 学園の華である美女、マドンナこと真行寺万里子は、どういう訳か自分を過剰に優遇してくれる。それが単なる好意か、あるいはそれ以上のものかは、介三郎の抜けた頭では想像を超える難問であった。
 そして、もう一人。
 鷹千穂学園理事長の娘で、一年生にして生徒会長を務める鷹沢綾とは、中等部以来の付き合いだが、いつも何かしら介三郎に役職をくれる。おかげで一年生にして介三郎は生徒会副会長だ。
 こちらもまた、好意かはたまた戯言かは、介三郎には分からなかった。
 ただ分かっていることは、片想いの相手である成瀬愛美が、この二人の美女の自分に対する気持ちについて、多大な誤解をしているということだ。
 何とか自分の本心を聞いて貰おうとして、面と向かったのはいいが、『好きだ』は『胸がデカいね』に変わっていた。
 日頃の行いの悪さだろうか。
「スケベ本の数、減らそうかな」
 情けない声。
「おう、そうしろ」
 梶原が喚いた。
「いや、そこまでしなくても良いけどさ」
 毎月介三郎が購入するスケベ本を借りて見ている卓馬が、都合よく宥める。
「どっちでもいいさ。グラマラスな成瀬が好きだってのは、変わらないんだろ。ま、早いとこ、成瀬に謝るんだな。あいつ、ネに持つタイプだから」
 藤也は気の無い声で締めくくったが、突然顔色を変えて、コートの向こうの雑木林の中を見た。
「カジ、タク。分かるか」
 梶原と卓馬が、顔を見合わせて頷く。どちらも余裕の微笑だ。
 暗がりでよく分からないが、確かに誰かが潜んでいる。しかも、鷹千穂学園の生徒ではない。
「とっ捕まえればいいのか、藤也」
 あらぬ方向を向いて、梶原が指を鳴らす。
「どうしたんだ。藤也」
 今一つ事態を把握していない介三郎が、惚けた問いをした。
「まったく。何だって、てめぇのようなヤツを、あいつは選ぶんだ」
 介三郎に恨みはないとは言え、つい殴ってしまう梶原が、鈍い音を合図にダッシュで雑木林に向かった。
 卓馬もそれに続く。
「何だよ、まったく」
 殴られた頭を撫でながら、藤也の傍で茫としている介三郎にも、梶原たち以外の数名が雑木林を駆け抜けて行くのが、やっと分かった。
「誰かいたのか」
 一応藤也に確かめると、美少年に睨まれた。
「分かったら、介も手伝えば。あれは、紛れも無く余所者だよ」
 梶原と卓馬は、自慢の俊足で逃げて行く影を追った。鷹千穂学園の制服は、濃い茶色の生地だ。同じ学ランの形をしていても、逃げて行く背中はすべて白みがかった灰色。明らかに他校生である。
「てめぇら、待ちやがれ」
 梶原の怒声が響く中で、他校生の一人が木の根っこにつまずいた。
「ラッキー」
 失速して地面に膝をついた男に、卓馬が笑顔で走り寄る。
「一匹、捕まえた」
 背を丸めてうずくまる男の肩をとって卓馬が言った瞬間、男が反転して卓馬の顔面に手刀を繰り出した。
 持ち前の瞬発力か、はたまた昔取った杵柄か。卓馬は余裕の表情でそれをかわしたが、次の蹴りは避け切れなかった。咄嗟に肩を庇うように両腕でガードしたが、そのまま吹き飛んで木に激しく打ちつけられた。
「サイッテー! 鈍ってるよ」
 卓馬がうずくまって、頭をかいた。この状況で悠長に反省しているのが彼らしい。
「タク。大丈夫か」
 追いついた介三郎が、卓馬を気遣って駆け寄る。その頭上に、男の手刀が振り下ろされた。
 瞬間。
 男の眼前で、木の葉が嵐の様に舞った。
「何だ!」
 両腕で木の葉を遮る男の唸り声が、介三郎の傍から離れる。
 まったく風のない林の中で、青い木の葉は天に向かって吹き上げているのだ。
 男はその現象を理解できず、介三郎を放って、脱兎の如く逃げて行った。
「待てって言ってんのが、分からねぇのか」
 散り散りに逃げて行く他の男たちを追う梶原がそう叫んだ途端、同様に目前で木の葉が舞う。
 それらは、あたかも男たちの逃走に加担しているようだ。
「何だってんだ、こいつは」
 長い両腕で木の葉を掻き分けた梶原が、次の瞬間目にしたのは、何事もなかったように静かな雑木林である。
「何だったんだよ」
 木の葉の舞もすでにおさまり、梶原は呆然と立ち尽くした。
「どういうことだ、藤也。何故、邪魔が入るんだ。一人は完全に捕まえられたのに」
 介三郎は、卓馬の頭を撫でながら、後ろから来た藤也に問うと、肩をすくめられた。
「奴ら、堅気じゃないようだ。下手に捕まえようとすれば、こっちが怪我するってことさ。だから、美人が止めてくれたんだろうな」
 不愉快そうに答える藤也の頭上で、その言葉を肯定するように枝が一本鳴った。

 その頃。
 鷹千穂学園高等部の敷地中央に立つ中央館より西の校舎四棟のうち、一番正門よりも遠い所に建つ棟の一教室で、明るい小鳥たちがさえずっていた。
 その棟は、専門科目の為に使う教室ばかりを集めたもので、他の三棟よりも少し離れて建っていた。大きな窓にかかるレースのカーテンが、時折そよぐ初夏の風に揺れている。モーツァルトが、流れる風に調和している。
 一年生で生徒会書記である成瀬愛美は、顔を真っ赤にして、ベーゼンドルファーの前に座っている真行寺万里子を睨んだ。
「だって、失礼だと思いませんか、マドンナ。確かに私は太ってますけどね、ストレートに『胸がデカイ』だなんて言われる筋合いはないわ」
 怒っているようだが、今一つ迫力に欠けた。
 肩にかかる巻き毛を振り乱している愛美を笑いながら、万里子は軽やかにモーツァルトを奏でる。美人と称して憚らない相貌の万里子は三年生。この教室をサロンとして使用する許可を受けている主である。マドンナという愛称で呼ばれている彼女を慕い、この教室に集まる一般生徒も多い。
「よいではないか、成瀬。なにも介三郎は、お前が太っているという意味でそのようなことを言った訳ではないだろう」
 ゆったりとしたソファに寛いでいる、髪を真っすぐ腰の辺りまで伸ばした女子生徒が、苦笑で遠くから声をかけた。
 鷹沢綾。愛美と同じ一年生で、生徒会長を務めている。メガネをかけているので、かなり厳つい様子だが、その素顔はまったく別の印象となることを、この場にいる愛美も万里子も、そして綾の隣に座っている鳥井雛子も知っている。
 雛鳥の愛称で呼ばれている鳥井雛子は、京人形のような面差しと、今にも折れてしまいそうな四肢が目立つ、なんとも儚げな様子の少女である。やはり一年生で、校内では『マドンナの秘蔵っ子』とされている。
「介三郎様らしい、愛の告白でしたのね」
 そう言って、雛鳥は小さくクスリと笑った。
「そうですわ、成瀬さん。正直で良いではありませんか」
 万里子は一層軽快に、モーツァルトを奏でる。二人の視線の中点で、愛美は腕を組み、顔を膨らませる。
 問題の速水介三郎が、こともあろうに楽しいフォークダンスの最中に、愛美に向かって『キミの胸ってデカイ』と言ったのだ。どう考えたって『キミって、太ってるね』としか聞こえない。
 おかげで、死ぬほど頑張って盛り上げた水無月祭は、嫌な思い出になりそうだ。
 終わり悪ければ、すべて悪い。
 それをマトモに聞いたのは愛美だけのはずであったが、なぜか万里子と綾が知っていた。やはり、常軌を逸した能力を持っているのか・・・。
 愛美としては、どう考えても失礼としか言いようのない言葉を、そうですかと飲み込む気にもなれず、以来出来るだけ介三郎を避けているのだ。
 よって、怒りの矛先が別の方角に向かう。
「そりゃ、痩せてる美人はそんなこと言われたって何ともないでしょうけどね。生憎、私は心が狭いのよ」
 万里子が無駄と見るや、愛美は綾に向かって皮肉たっぷりに言った。
 雛鳥同様、愛美も背丈こそ低いが、健全な男子高校生が目を奪われても仕方ない中々健康的な体型をしていた。
 鷹千穂の男子は学ラン、女子はブレザーにフレアースカートだが、そのブレザーの前が弾けるのではないかと嬉しくなるような丸さだ。それでいて、ウエストは標準の細さなのだから、余計胸が強調される。
 細身の雛鳥などは、遠くから羨ましそうな眼差しで、愛美が怒っているのを見つめていた。一言で細身とは言え、雛鳥の場合は、今にも消えてしまうのではと心配してしまうくらいに細いのだ。
 愛美はそんなことなど贅沢な悩みくらいにしか思っていないようで、ひたすら怒っている。
「だいたい、介三郎くんは、マドンナと綾のお気に入りでしょ。私に回してくることないと思うわ」
 介三郎の気持ちを知っていながら、やはり、この二人のことを忘れるわけにはいかない。
 綾の苦笑が返ってくる。
「それだけ喚けば、喉も渇いただろう。雛鳥が入れた紅茶でも飲んだらどうだ。今日のおやつは、タルトだぞ」
 まだ湯気ののぼるティーポットの脇に、四客の紅茶が置かれ、それを取り巻くように輝くようなタルトが置いてある。雛鳥お手製のものだ。
 雛鳥は、銀盆に紅茶とタルトをセットして、万里子の所まで運んだ。
「そうやって、甘いものでツルんだから」
 ブツブツと呟きながら、愛美は雛鳥のいた場所に座って、一気に紅茶を飲んだ。正直、喉は渇いていた。
「しかし、怒っている割には、以前以上に話しているではないか。今更、胸の一つや二つ、関係ないだろう」
 綾が問う。中等部以来介三郎と組んでいる綾だ。からかっている口調でも、メガネの奥は気を遣っている。
 愛美はカップを口元に持ったまま、目だけ上げて綾を見た。
「同じ生徒会役員でなければ、絶交してるわよ。スケベな男の子って、私、大嫌いだもの。私はね、気の利いたおしゃべりと気配りを重視する一般的女子高生なの」
「そこまで言うなら、介三郎を教育して、自分好みに仕立てればよいではないか」
 あっさり答える。愛美の目が据わった。
「どうしてそこまで面倒みなくちゃならないのよ」
 言い切った愛美が、心のどこかで考える。
 それも、いいかもしれない。
 万里子の傍に立つ雛鳥が、小さな声で笑った。触れれば折れてしまいそうな細い身体は、決して健康的とは言えない。まるで抜けるような白い肌も、光の加減で青白く見えた。
 誰もが守ってやりたいと思うような少女であるが、しかしそれだけでは、この場にいる理由にはならない。
 その黒目がちな瞳が、窺うように扉を見た。
「どなたか、いらしたようですね」
 雛鳥の言葉に、万里子が軽く頷いた。
 間もなく三回ノックの音がして、女子生徒が一人入って来た。手に綺麗な銀色の包装紙と深紅のリボンをあしらった箱を抱いている。
「マドンナ宛に、これが届いておりました」
 事務的に述べて差し出す箱を雛鳥が近づいて受け取り、女子生徒に礼を言って見送ると、リボンに挟んである手紙の差出人を確かめる。
「万里子様、差出人は書かれておりませんわ」
 上質の紙だろう。手紙は、不思議な光沢を放っている。表には、雅な男文字で万里子の名が書かれているが、差出人らしい名はない。
「まぁ、失礼な方ですこと」
 万里子は、それだけで憤慨した様子だ。
「構いませんわ、雛鳥。開けてみてください」
 ピアノの手を休めず、万里子は続けた。
 雛鳥は苦笑で手紙をピアノの上に置き、綾の前のテーブルで箱を開けた。綾のため息と愛美の感嘆符が漏れる。
「ほう、これは」
「すっごーい。真っ赤な薔薇がいっぱい」
 箱の蓋を開けた途端、むせるような薔薇の香りが部屋に広がる。まだ咲ききっていない薔薇が箱一杯に詰められていた。
「クリムソン・グローリー。赤花の王と呼ばれる薔薇だ。差出人は、よほどお前にご執心のようだな。万里子」
 綾がからかうように言った。
「綾って、薔薇に詳しいの?」
 さも意外そうに言った愛美に、雛鳥が笑って付け足す。
「綾様は、ご自分で薔薇を栽培なさってらっしゃるのですよ」
「へぇ、意外。花を見て喜ぶような人だとは思わなかった」
 皮肉混じりの言葉に、綾が笑う。
「とは言え、私が育てるのは白やピンクなど淡い色の薔薇だけだ。特に赤は嫌いでね」
「どうして」
 炎のような緋色の薔薇は、万里子ではなく綾にこそ似合いのような気がした。
 綾が苦笑で薔薇から視線をそむける。
「血を吸っているようで気味が悪いと、同居人に泣かれるのでな」
 今一つ納得できない愛美に、万里子の当惑した横顔が見える。
 いつしか万里子のピアノを奏でる手は止まり、その手にある手紙を遠目に見つめていた。気の無い素振りを装ってはいるが、どうやらこの薔薇の君を、彼女なりに吟味しているようだ。
 雛鳥からペーパーナイフを受け取った万里子は、その手紙に使われた紙の質を確かめながら封を開けた。
 表書きの男文字と箱の中の深紅の薔薇を考えれば、自然内容は読めるというものだ。中もやはり男文字で、短くしたためられていた。
『明後日午後三時、東都ホテル最上階にて、お待ち申し上げる』
 淡々と読み上げた万里子が、ふと、文面の端に押された印を見て顔色を変えた。
「それって、やっぱデートの誘いでしょ? すっごいな。きっと、センスのいい美男子よ。だって、普通の男の子が、手紙に薔薇を添えるなんてことしないもんね」
 心の中で、介三郎の無礼な一言を思い返しながら、愛美は羨ましさをそのまま口に出した。
「そうですわね。普通、いたしませんわ」
 辛うじて答えた万里子は、ゆっくりと傍の雛鳥に視線を移す。何を言うでなく、また何を指示するでもない視線は、詫びていた。
 雛鳥はニコリと笑うと、手に持っていた箱の蓋を元に戻し、軽く目礼して愛美に笑いかけた。
「愛美様、今日はもう遅いですわ。私たちは、失礼致しましょう。もうすぐ迎えの車が来ることになってますの。愛美様のお宅まで、お送り致します」
「え、帰るの? 私まだ、帰りたくないな」
 突然誘われて面食らっている愛美の手を取って、雛鳥は先を急いだ。
「そうだな。そうすればいい。話は明日にでも出来るだろう。雛鳥、成瀬を頼んだぞ」
 綾が言う。こう言われれば、帰らないわけにはいかない。
 愛美は渋々立ち上がった。万里子を誘った薔薇の男に多大な興味があるのだが、諦めなければならないようだ。
「成瀬さん、明日も遊びにいらしてくださいね。雛鳥も、気を付けて帰るのですよ」
 立ち上がって見送る万里子に、雛鳥が笑顔で頷いた。
「ごきげんよう」
 そんな可愛い挨拶が扉の向こうに消え、しばらくしてまた真理子は顔を曇らせた。
「そんなに嫌な相手からのものなのか、万里子」
 綾は、無表情にそう問うた。
 目前の薔薇の箱は、静かに何かを待っている。それを無視するように、万里子は綾に近づいて手紙を差し出した。
「これを見てくださいな」
 軽く眉を動かせて、綾が見る。
 短い文面の端にある銀の印章が、午後の光に映えて七色に発色している。
「玄武、か」
 綾は、一言呟いた。
 確かに中国神話に登場する四神の一つのうち、亀と蛇が合体したものである。
 万里子が頷いて、続ける。
「実は、良からぬ噂を耳に致しましたのよ。保照里区の天光寺高校に、咲久耶東南部を統べる番長連合の総長をしている香取という者がいることは、貴女もご存知でしょう」
「あぁ、噂は聞いている。咲久耶市東南部に位置する須勢里区と保照里区。そのほぼ全域を配下に持つとは言われるが、実際はその香取自身が統括しているというよりも、香取を慕って多くの学校が傘下に入っているという、文字通り連合体の組織だと思ったが。香取自身は武勇に秀でた明るい剛の者とか」
「その香取の言うところによると、北方に巨大な学生組織ができ、県下を統合せんとしているとのこと」
「それで」
 慎重に問い返す綾に、万里子は視線で玄武の印章を示す。
「その組織の名は、玄幽会。元々は単なる一高校の番長グループだったのですが、この頃代替わりをして、見る見るうちに巨大化したとか。詳しいことは分からないのですが、その総長とも言うべき男の呼称は、正体不明の割には有名なのですよ。玄武の旗の下に君臨する男。名は、玄武帝」
「玄武、か」
 手元の銀の印章を見つめ、綾は繰り返した。
「もしその手紙の主が玄武帝ならば、この鷹千穂に何らかの要求があって、わたくしを呼び出すのだと思いますわ」
 鷹千穂学園も万里子から綾に代替わりしていたが、それは実質的なことだ。表向きにはなおも『マドンナ』の名が取沙汰されている。
「面倒だが、放っておくわけにもいかないな」
 綾が言い捨てて、手紙をテーブルの上に投げた。
「この際、玄武とやらの正体を突き止めて、その侵攻に歯止めを打ってやろう。咲久耶市に深く入り込まれては目障りだ」
 あっさりと流れるような口調で言い切る綾に、不安はない。
「そうですわね。ひとまず香取に連絡を取り、玄武のことを問うてみましょう。情報は多い方がよろしいでしょ」
 やっと、万里子が笑った。その耳に騒がしい足音が聞こえる。
 綾が頭を抱えるのと、万里子が勇んで立ち上がるのは同時だった。
「まぁ、介三郎さんがここへいらっしゃるわ」
 言い終わらぬうちに、ノックもいい加減うっちゃって、介三郎は駆け込んで来た。
 間抜けな顔を強張らせて何か言おうとしたが、次の瞬間絶句していた。
「介三郎さん。今日お会いするのは初めてですわね。先程まで成瀬さんがいらしたのですよ」
 万里子の暑苦しいまでに熱っぽい歓迎が、介三郎の勢いを三歩後退させた。
「あ、あの。すみません、挨拶もなく。ただ、あの、綾が、来てるかなと、思いまして」
 もつれる足と口を辛うじて動かしながら、いつもの万里子の熱い視線を受け止めている様子は、滑稽としか言いようがない。
 これだから介三郎は、万里子が大の苦手なのである。せめて視線だけでも外そうと努力はしてみるものの、それさえもさせてはもらえない。
「そ、それで、さっき校庭で不審な他校生が数人いたもので、あ、綾に」
 極力、自分の腕にかけられている万里子の細い指に触れないようにしながら、介三郎は何とか逃れようと懸命だ。
 耳まで真っ赤にして狼狽える丈高い少年は、煩悩一直線の割に純情である。
 遠くから冷めた目で見ている綾が、見かねて声をかけようとすると、介三郎の背後から小柄な少年が顔を出した。
「マドンナ、介をからかうのはそれくらいにして、話を聞いてくれませんか」
 藤也は憮然として、万里子の熱い視線の邪魔をする。
「まぁ、藤也さん。珍しいではありませんか。貴方がここに来てくださるなんて」
 また、万里子の歓声が上がった。
 藤也は別段感動もせず、一層顔を歪めて言い返した。
「本当は、来たくなかったんですけどね」
 端整な顔を歪めて、藤也は万里子を見つめた。本当に来たくないという顔だ。
 万里子が苦笑で、口元を押さえた。この美少年のこういう顔が、万里子には楽しい以外の何ものでもない。
 万里子は、やっと介三郎から指を離し、藤也を招き入れた。
 自由の身になった介三郎は、椅子に沈んで物憂げに状況を見つめている綾に駆け寄った。
「また、何か祭りでもやるのか」
 『また』に、チカラがこもっている。
 身を乗り出して問う長い顔の少年に、綾は一瞥をくれた後、激しく肩を落として見せた。
「水無月祭が終わったばかりだろう。私はそれほどまでに祭り好きではないぞ」
「でも、あいつら普通じゃなかったぞ。また、成瀬に何かあったら」
 その言葉に、綾は一層冷めた目を向けた。
「どうして普通じゃなければ、成瀬が危ないんだ」
「だってさ・・・」
 返す言葉はなく、介三郎は項垂れる。元より、根拠はない。
「介三郎さんは本当に、成瀬さんのことが心配なのですね」
 万里子は、綾とテーブルを挟んで正面の椅子にゆったりと座った。
 何と答えていいものか考えて、介三郎は黙った。
 藤也は、万里子の座っている椅子の肘掛に腰を下ろし、神妙に腕を組む。
「とにかく、尋常じゃなかったぞ。どこかから睨まれる覚えでもあるのか」
 身に覚えがあるだろうと言わんばかりの視線を受けて、綾はゆったりと構えた。
「放っておけ。単なる偵察だろう。下手に手を出して、敵意を持たれても面倒だ。睨まれる覚えもないしな」
「そういう奴が、一番怪しいんだよ」
 藤也は厳しく言い返した。
「本当に、成瀬は関係ないんだな」
 あくまでも念を押す介三郎に、綾は流し目をくれる。
「それほど心配なら、家まで送ってやるくらいの甲斐性でも持てばどうだ。今も、お前には気配りが足らぬと怒っていたぞ」
「げっ、マジで」
「本当だ。放っておくと、ますます嫌われるぞ。私はそこまで面倒みないからな」
 身も蓋も無い言い方に、ただひたすら項垂れる介三郎だ。
「やっぱ、減らそうかな」
 万里子の手前、心の中で『スケベ本を』と付け足した。そんな介三郎の胸のうちを知ってか知らずか、綾は一瞥をくれて立ち上がった。
「とにかく、万里子。明後日は私も付き合おう」
 万里子が神妙に頷く。
「そうしてくださいな。それまでに、わたくしなりに調べておきますから」
 ワケの分からない介三郎は、しばし瞬きを繰り返し、万里子と綾を交互に見た。
 黙って見ていた藤也の鋭い目が光る。
 テーブルの上の箱から匂う薔薇と、万里子の手にある手紙。二人の話の切れ端を繋ぎ合わせて状況を見つめる。
 いつもと変わらぬ間抜けな会話の中に、確かに、肩口をのぞかれる嫌悪にも似た重苦しい予感があった。

 雛鳥の迎えというのは、校門の前に止まるのではなく、近くの大きな公園を抜けて、広い大通りに出た辺りで待っているとのことだった。
「このくらいの運動はしたほうが良いと、母が申しますの」
 そう言って笑う雛鳥は、やはり、儚げであった。
 元気が移動していると言った歩き方の愛美に比べると、雛鳥の歩き方はまるで、綿毛が風に乗って流れているという感じだ。
 ゆっくりとしたペースを保ちながら、雛鳥は暮れかかる公園の歩道を歩いて行く。
「そっか。雛鳥さんて、体育は見学だもんね」
 思わず雛鳥の頭の先からつま先まで見つめて、愛美は大きくため息をついた。
 とにかく、雛鳥は細かった。
 骨組み自体細いようだが、腕にも足にも脂肪のカケラも見当たらず、細い肩から腰にかけては、明らかに必要なお肉までもついていない。
 凸凹の激しい愛美から見れば、羨ましいくらいスッキリした体型だ。鷹千穂のブレザーも、良く似合う。
 愛美は大きくため息をついた。
 この雛鳥もだが、介三郎の周りには、やたら美人が多い。まして、あの綾と万里子を傍にしながら、どうして介三郎が自分を好きだと言うのかが、まったくもって分からないし信じられない。
 もしかして、介三郎はゲテモノ食いなのかと考えると、あまりにも自分が可哀想だ。
 またしても、愛美は大きなため息をついた。
 雛鳥が困った表情を浮かべる。
「それほどまでに、あの万里子様宛ての手紙が気になるのですね。無理やり誘った雛鳥のこと、怒ってくださってもよろしいのよ」
 か細い声が、一層細くなった。慌てて愛美は、激しく首を振る。
「そんなこと、まったく思ってないわ。だって、私に話を聞かせたくなかったのは、綾かマドンナでしょ。雛鳥さんは、それに気付いて私を誘ったんだもの」
「まぁ、ご存知だったのですか」
 抜けるように白い頬に、パッと赤みがさす。
 愛美は故意に豊かな胸をはって、得意顔を作った。
「そりゃ、あの二人と三日付き合えば、それくらいの察しはつくわよ」
 察しのついた自分を褒めてくれと言わんばかりの態度に、雛鳥は笑った。
「さすがですわ」
 そう一言言った後、なお一層鮮やかな笑顔になり、雛鳥は愛美に笑いかけた。
 そのまま美しい着物を着せて、ガラスケースにしまって飾ったら、どんな人でも立ち止まって見入るだろう。実際、綾と万里子の雛鳥に対する扱い方は、高価なガラス細工でも傍に置くときのそれだ。努めて穏やかで、優しい。
 また一つ、愛美は大きくため息をついてしまった。
「本当に、雛鳥さんって綺麗よね。羨ましいな。せめて私も、雛鳥さんくらい細ければいいのに」
 項垂れると、一層憂鬱になる。
 他の人なら自分の足元が難無く見られるだろうに、愛美の場合は、いささか胸が邪魔だ。スッキリとしたデザインのはずの濃い茶色のブレザーは、胸の部分だけはち切れそうだ。介三郎のみならず、この体型を見れば、誰でも『胸が大きい』の一言くらい言うだろう。
「あぁ、痩せたいよう」
 仕方なく天を仰いで、愛美は嘆いた。
 その時の雛鳥の表情に、拭い切れない哀しさがあったのを、愛美は気付かなかった。
 ふと、雛鳥は立ち止まり、歩道の脇に茂みを見つめた。
「血のにおいがいたします」
 小さい声は、何気なく聞こえた。
 愛美は、一瞬何を言っているのか分からず、ポカンと雛鳥を見ていた。
 急に日の落ちた公園は、鬱蒼として不気味であった。
 雛鳥は決して急ぐことなく茂みに分け入ると、趣くままに進んで行った。
「どこ行くの。雛鳥さん」
 一抹の不安を抱え、愛美はその後を追った。
 しばらく進むと、大きな木が立っていた。雛鳥は、どうやらその木に向かっているようだ。木の葉がそよ風に揺れている。いつもなら何も感じないが、今日はどうも気味が悪い。
「ねぇ、雛鳥さん。もう帰ろうよ。お迎えが待ってるよ」
 言って、愛美は絶句した。
「やはり・・・」
 小さく呟く声が、木々のざわめきに重なる。
 確かに、幹に寄り掛かり息を潜めている者がいた。
 学生服の所々が裂け、頬に血の筋が出来ている。左腕を庇うように押さえている右手も、血と泥とにまみれていた。
 大木の根元に近づいた雛鳥は、カバンを置いて膝をつき、両手を合わせて敵意のないことを示した。
「大丈夫ですか。立ち上がることが出来ないくらい酷い怪我なのですか」
 暗がりにかけられた問いは、すぐには返って来なかった。
「わたくしたちは、鷹千穂学園の者です。もしお嫌でなければ、手当てをさせてください。そのままでは、傷が化膿してしまいます」
 雛鳥は、うずくまる影に震える指を伸ばした。すると男は、右手で雛鳥の手首を掴み、ぐいっと自分に引き寄せた。
「今、鷹千穂と言ったな」
 脅しをかけるような声が、かすれている。
「ちょっと、何するのよ」
 と叫んだのは、愛美のほうだ。当の雛鳥は、間近に見る血だらけの男の顔を、まじまじと見入っている。
「もしや、二浦様ではございませぬか」
「そういう貴女は、確か・・・」
 男も霞んだ目で、必死に目前の少女を見つめた。
「もしかして、マドンナの傍にいた、雛鳥とか・・・」
「ええ、そうです。天光寺の香取様と万里子様がお会いした折、傍に控えておりました。いったいどうなさったのですか。そのようなお姿で。鷹千穂までいらしたのですか?」
 自分の手首を握っていた血に染まった右手を握り返して、雛鳥は言った。力ない苦笑が、二浦の口から漏れる。
「このようなていたらくで、マドンナにお会いするのは忍びないが、緊急なのです。今、千葉は玄幽会の攻撃に合い、香取総長が捕らわれの身となっています。総長は、自分に何かあった場合、マドンナの所へ行けと言っておられました。それで数名の者とこちらへ向かったのですが、ここまで辿り着けたのは、俺一人なのです」
 時折途切れる言葉に、雛鳥は一心に耳を傾けた。
 愛美も、雛鳥と顔見知りということで、一応の警戒を解いたようだ。となれば、話は早く進めたい。
「とにかく、ここじゃなんだから、ひとまず鷹千穂に戻って手当てをしましょ」
 雛鳥とは反対側へ回り、愛美は二浦の腕を肩に担いだ。
「追っ手がまだ、この辺りをうろうろしてるかもしれないわ」
「それならば、迎えの車の方が近うございます。そちらにお運びして、雛鳥の家へ参りましょう。万里子様には、そこで連絡すれば良いと思いますわ」
 雛鳥も習って、細い肩に二浦の腕を担いだ。が、ほとんど役には立っていない。
「それで、その総長さんって、どこに捕まってるのか分かってるの? それに、お仲間さんたちはどうなったのかしら」
 車までの道を急ぎながら、愛美は思いつくまま問いただす。
 軽く足を引き摺りながら、二浦は愛美に寄り掛かり、歩を進める。
「総長がどこに捕らわれてるのかは、まったく分からない。俺以外の幹部も、配下の者も、どうなってるか分からないんだ。それでもまだ、総長を信じて待ってる奴らがいる。そいつらの為にも、俺は、マドンナに会わねばならない」
「ここまでいらしたのですもの、万里子様は必ずお力になってくださいます。決して手ぶらでお返しするようなことはなさいませんわ」
 雛鳥は静かに答えると、前方に見えるロールスロイスに手を振った。中から運転手が降りてくる。
「もう少しの辛抱です。あの者を呼んで参りますから」
 あくまでも歩調を変えず、穏やかに歩く雛鳥が離れると、二浦は傍に残った小さな女子生徒を覗き込んだ。
「キミは、初対面だよな。名前を訊いていいかな」
 血で汚れていなければ、結構目を引くであろう顔立ちが、笑顔で一層崩れる。
 思わず愛美は喜んでしまう。面食いのミーハーは、こういうシチュエーションが大好きだ。この際、介三郎の間抜け顔は、追い払っておくことにした。
「成瀬愛美よ。雛鳥さんと同じ一年生なの。二浦さんって、ケンカ強そうだけど、それでもその玄幽会っていうのに勝てないの?」
「玄幽会は、優れた武術集団だ。付け焼刃のケンカ拳法じゃ太刀打ちできない」
 二浦の言葉に諦めはない。ただ、太刀打ちできない自分を責めているだけだ。愛美の肩に置いている腕が、震えている。
「総長さんが、早く戻ってくればいいのよね。私も何かできるかな」
 真剣に手段を模索している愛美の頭を、二浦は思わず撫でてしまった。
「何、何か変かな」
 キョトンとして見上げる顔を間近に、二浦はどぎまぎと狼狽えて、巻き毛に絡んだ指を外す。
「いやさ、愛美みたいな根っから堅気の女の子が、マドンナの取り巻きなんて、変かもなと思ってさ」
「そうかな。結構いるよ、マドンナの取り巻きの中に堅気の子って。雛鳥さんだって、そうでしょ?」
 しかし、二浦はそれを肯定しなかった。
 雛鳥が、運転手と共に近づいて来た。
「もうすぐですわ。頑張ってください」
 愛美の肩から運転手に移り、二浦は雛鳥に頷いた。
「これで、総長が助かる」
 一瞬の安堵は、隙を作った。
 ロールスロイスの後部座席を雛鳥が開けて、愛美が先に乗ったまでは良かった。
 自由の利かない二浦に手を差し伸べた時、運転手の呻き声が聞こえ、二浦の胸倉を掴んで崩れた。
「どうしたの!」
 叫んだ愛美に、今度は雛鳥が運転席に倒れこむのが見えた。その後から視界に入ったのは、学ラン姿の厳つい大男である。大男は運転席に乗り込むと、雛鳥の身体を軽々と助手席に横たえて、エンジンをかける。
「ちょっと、何するのよ」
 食って掛かる愛美の腕を、二浦が掴んだ。
「逃げろ」
 いつの間にか、座席に押し込められている二浦は、短く唸った。運転手が二浦に寄り掛かり、悶絶している。愛美の側のドアを示されて、やっと事態を把握したが、既に遅かった。
 ドアの外に男が立っていた。反対側のドアの外にも一人立っている。
 すぐ傍で、二浦が身体を二つに折り、愛美の膝に落ちた。
 運転席に座る大男が、振り向いて笑った。まるでホラー映画のワンシーンのように。
 震え上がった愛美の鳩尾に衝撃が加わり、意識は途絶えた。
 ロールスロイスを囲む学ランの男たちは、軽く周囲を見渡した。
 何も変わらない夕暮れ時である。
 ロールスロイスが静かに走り去った。

 落ち着いた色調の広い洋間の中央で、綾はソファにゆったりと座っていた。
 そこには、リビングセットとグランドピアノが置かれている。テラスへ出るガラスの扉は天井まで達し、誰が置いたのか、まるでそのガラスを通して入る日の光で遊ぶように、柔らかな絨毯の上に幾つものクッションが散らかっている。
 空間に咲き誇るピンクの薔薇が、爽やかな芳香を放っている。
 それでもなお、余裕のスペースを残す洋間の中央で、綾は静かに自分の膝の上を見つめていた。
 小さな女の子が眠っている。
 整った顔立ちに、長い睫毛と紅い唇が目を引いた。おそらくその瞳は、綾ほどに伸ばした豊かな髪と同じ漆黒であろう。時折綾が頭を撫でてやると、一層甘えるように擦り寄る。
 綾は目を細めて、流れる黒髪を見つめていた。何かを口ずさんでいるのか、微かに歌のような音が聞こえるが、何を歌っているのかは分からない。
「本当に、いつまでたっても甘えん坊で、困りますわね。姫様はお嬢様がいらっしゃらないとお眠りにならないのですから」
 お茶を運んで来たメイドの近江が、楽しげに言った。その口調は、甘えん坊の少女が愛しくてたまらないというものだ。
 綾が顔を上げた。
「眠ってくれるだけでも進歩だ。この家に引き取った当初は、私ですら怖がる始末で、まったく眠ろうとはしてくれなかった」
「そうですわね。本当にお可哀想に」
 近江はその頃のことでも思い出しているのか、少し顔を曇らせた。綾も、無言で少女の寝顔を見つめる。あどけない寝顔には、一点の影もない。それがせめてもの救いだと、綾は無言で可愛い頭を撫でた。
 開け放たれた大きな観音開きの扉を抜けて、執事の伊集院が銀盆に子機を乗せて入って来た。
「お嬢様、真行寺万里子様から、お電話にございます」
「万里子から?」
 珍しげに銀盆から受話器を受け取り、軽く耳に押し当てる。
「私だ。何かあったのか」
 緩やかに問いただすと、受話器の向こう側で、聞いたことのない悲痛な叫び声が上がる。
 思わず綾は、耳から受話器を遠ざけて睨んだ。
「落ち着かねば、何を言っているのか分からないぞ、万里子」
 送話口に向かって言うと、受話器はしばし鳴りを潜めた。
 もう一度、綾は受話器を耳に当てる。
「それで、どうしたと言うのだ。何をそんなに慌てている」
『落ち着いている場合ではないのですよ、綾。そちらに雛鳥は、行ってませんわね』
 あくまでも形ばかりの質問に、綾は踏ん反り返って答えた。
「来ていないぞ。どうした。帰っていないのか」
『先ほど、鳥井家から電話があって、雛鳥がまだ帰らないと言うのです。もしかしたらわたくしの所ではないかと連絡を戴いたのですが、来てはいないのですよ』
「何だと」
 今度は、綾が唸った。
 膝の上の少女が、目を擦りながら起き上がった。驚いた様子はないが、まだ夢見心地にしている。
 綾は少女を近江に任せ、立ち上がってテラスへ続くガラス戸に寄り掛かる。どうやら、座って悠長に聞く話ではないようだ。
「確か、雛鳥付きの運転手がいたな。どうしているのだ。今日は、迎えには来なかったのか」
『それが、雛鳥を送り迎えしている車ごといなくなっているのです。今、ウチの若い者に車を探させています。これで見つからないならば、警察に連絡するつもりですけど』
 もしかしたら、取り越し苦労に終わるかもしれない。否。そうあって欲しいという感情が、万里子の言葉にあった。
 綾も、それは同じだ。
「分かった。こちらも探しに行かせよう。十分後に、真行寺へ行く。そのまま待っていてくれ」
 受話器の向こうの答えを待たず、綾は電話を切ると、執事の持っている銀盆に置き、キョトンとソファに座っている少女に近づいた。
「出掛けて来る。先に休んでいなさい。伊集院や近江を困らせるのではないぞ」
 軽く頬にキスしてやると、少女は納得した様子でニッコリと笑った。
「近江、いつものようにその子が眠るまで傍にいてやってくれ。伊集院は、今屋敷にいる者たちを集めて、至急鳥井家のロールスロイスを探すよう指示してくれ」
 厳しい表情で部屋を出、玄関へと続く長い廊下を歩きながら、綾は付き従う伊集院に命じた。
 伊集院は、顔色一つ変えず、軽く礼をする。
「かしこまりました。それで、お嬢様はいかがなされるのですか」
「私は、ひとまず真行寺へ行く。連絡は携帯の方へ頼む」
 見送りに出たメイドたちの一人から上着を受け取っていると、玄関先が急に騒がしくなった。
 見上げる高さの観音扉が大きな音を立てて開き、見覚えのある丈高い少年が、自転車ごと突っ込んで来たのだ。
 綾はそれに、一瞥をくれた。
「介三郎。愛車は、車寄せに置いて来い」
 息を切らせ声も出ない介三郎は、三度唾を飲み込んだ。しかし、それでも声は出ない。
「誰か、水を」
 言うか言わずで、メイドの一人が差し出し水を飲み干して、介三郎はやっと一言叫んだ。
「成瀬がいない」
「は」
 綾の動作が止まった。
 介三郎は流れる汗を物ともせず、掴みかからんばかりに綾に迫る。
「惚けてる場合じゃない。成瀬の家から電話があって、まだ戻らないけど生徒会で忙しいのかって言うんだ。俺が、今日は生徒会はなかったって答えると、成瀬のお母さんが焦って、成瀬がどこにいるか分からないって、どこに電話しても誰も知らないって」
 途切れる息を繋ぎながら捲くし立てると、大きく肩で息をした。
 驚いて焦ってくれると思っていた綾は、不気味なほど静かだ。
「その方も、鳥井様とご一緒だったのでございますか」
 伊集院は、いつもの声で綾に問う。
「おそらくな。とにかく、急げ」
 介三郎の横をすり抜けて行く女主人を、伊集院は丁重に見送って、奥へ下がった。
「お前、心配じゃないのか」
 無視された形の介三郎が思わず綾の肩を掴み、メガネを外した氷のような容貌を覗き込み問うと、睨まれた。
「無駄口は、車の中で聞いてやる。自転車はここへ置いておけ」
 言うだけ言うと、綾はさっさと玄関を出て行く。慌てて愛車をメイドに預け、介三郎は綾の後を追った。
「どうしたんだよ。成瀬を探さないのか」
「今、探している」
「もう。じゃ、成瀬がいないの、知ってたのか」
 さすがと言わんばかりの声を、鬱陶しげに払いのけて、綾は停まっているベンツに向かった。
「私はバケモノではないぞ。探していたのは、雛鳥だ」
「雛鳥って。雛鳥もいなくなったのか」
「そうだ。おそらく成瀬と一緒だろう。今日は、二人一緒に学校を出た。それからすぐ何かがあったのだろうが、今は詮索している暇はない。ともかく、真行寺と鷹沢でできる限りの事はする。それでも見つからねば、警察に届けるしかないだろうな」
 運転手の開けた後部座席に乗り込み、綾は首を突っ込んでいる介三郎を見た。
「どうしてすぐ、警察に言わないんだ」
 当然の問いだと思ったら、あからさまに睨まれた。
「もしこれが本当に誘拐事件であれば、警察に動かれるのは危険だ。ところで、乗るのか乗らないのか。乗らないなら、下がっていろ。私は先を急いでいる」
 介三郎の長身にもお構いなく、綾はドアに手を伸ばして、閉める仕草をした。
 慌てて介三郎は、その隣に収まった。運転手がドアを閉め、窓の向こうでメイドたちがずらりと並んで車を見送る様子は、この家ではいつもと変わらない平凡な光景だ。
 少なからず、気が殺がれる。
「そっか。雛鳥の家って、でっかかったよな。お金持ちだよな」
 走り始めたベンツの隅で、大きなため息が漏れた。
 雛鳥は元より、万里子の家も大きいが、鷹沢邸はその倍以上の広さと規模だ。未だにどのくらいの敷地があり、どのくらい部屋数があるのか分からない。
 無理も無い。
 鷹沢グループといえば、飛ぶ鳥落とす勢いの一大企業である。鷹千穂学園や総合病院などは、その経営の一角でしかない。そしてそのグループ全体に、会長の一人娘であるこの少女の影響があることを、介三郎は知っていた。
 夜道を疾走するベンツの後部座席で、介三郎はぼんやりと隣の少女を見ていた。
 真っすぐ腰の辺りまで伸びた栗色の長い髪。彫りの深い顔立ちと、時折光る栗色の瞳。細く硬い腕も、しなやかな指先も、長く伸びた足さえも、すべてが現実を超越している。
 その肩にどれほどのものを背負っているのか、介三郎には想像もできない。
 また大きくため息をつくと、微かに自分を呼ぶ声がする。
「え、何か言ったか。綾」
 現実に視線を戻して問うと、厳しい答えが返って来る。
「成瀬が、この件に巻き込まれている可能性が高い。心しておくのだな」
 決して前方から目を逸らせない綾の声が、暗示となって介三郎の胸に刻まれる。
 返す言葉はない。介三郎はただ、小さく頷いた。

 真行寺邸は騒々しく、誰もが右往左往していた。
 いつもなら真行寺の若頭である五十嵐飛水が案内役に立つのだが、その彼も今は邸内にいないようだ。綾は構わず、介三郎を連れて広間へ急いだ。
「綾、大変なのですよ。落ち着いて聞いてくださいな」
 まったく落ち着きを無くしている万里子が、上座から走り寄って来て、綾の腕を掴んだ。
 眉をひそめた険しい表情が、美しい顔立ちに一層凄みを加えていた。
「先ほど、飛水たちが鳥井家の車を見つけたと、連絡がありましたわ」
「それで」
 焦燥を押え付けるように、綾は敢えて言葉を挟んだ。
 万里子はそれにも関わらず、一層取り乱して続けた。
「その中にいたのは、気絶した運転手が一人。雛鳥はいなかったのです。運転手に事情を聞くと、傷だらけの学生を車に乗せた矢先に後頭部を打たれたと言うことで、雛鳥がどうなったのかは、まったく分からないと言うのです」
「その運転手は、どこにいるのだ」
 万里子を促し上座に向かいながら、綾は静かに訊ねた。
 介三郎が、愛美の名が出るのを待ちながら、その後に続く。
 上座に設えた脇息に身体をもたせ掛け、万里子は座ってやっと落ち着いた。
「飛水が病院へ運びました。命に別状はないとのことですが、念の為に精密検査を受けるとのことです。他の者は引き続き雛鳥の足取りを追っていますわ。躊躇ってはいられないのです。早急に見つけ出さなければ、雛鳥の命に関わります」
「雛鳥の命、って」
 介三郎が言葉を挟んだ。しかし、即座に答えはない。
 綾が険しい表情で、万里子を見つめた。
「まさか雛鳥は、薬を持っていないのか」
 メガネ越しに厳しく唸ると、小さな答えが返って来る。
「丁度、切れていたのですよ。もちろん、環境のよい場所に監禁してくださるのなら、それほどの心配はありませんわ。でも・・・」
「まさか無頼の輩が、雛鳥と成瀬をご丁寧に扱うとは思えないな」
 綾が続けた。今度は万里子が顔色を変える。
「成瀬って。成瀬さんも、雛鳥と一緒に消えたのですか」
 万里子は茫然と、脇の介三郎を見つめた。
「どうやらな。まだ家には帰ってないようなのだ」
 綾が先に答え、介三郎が続けた。
「俺のところに連絡があったんです。でも、雛鳥ってそんなに弱かったんですか」
 確かに病弱そうには見えたが、どこが悪いとは知らない。
 万里子が慎重に頷き、綾が答える。
「呼吸器官が極度に弱いのだ。少し走っただけで、動悸を起こす。空気の悪い所では、上手く呼吸できない」
「喘息なのか」
「少々違うが、似た症状が出ると思えばいい」
 そうしているうちに、五十嵐飛水が広間に入って来て膝をつく。左頬にある十文字の傷さえもファッションに思える美丈夫が、綾と介三郎に挨拶した。
「何か分かりましたか、飛水」
 万里子が問うと、飛水は右手に乗るハンカチの上の小さなボタンを差し出した。
「運転手を手当てしたところ、このような物を握っておりましたので、持って参りました。どうやら学生服のボタンのようですね。運転手の話では、雛鳥さんが助けられた学生の物ではないかということです」
 それを、綾が一旦受け取って眺め、上座の万里子に渡した。
「これは」
 見つめた万里子が絶句する。
「知っているのか」
 綾には覚えのない物だ。ちらりと見た介三郎も、見たことのない金ボタンである。
「これは、天光寺高校の物ですわ」
「天光寺。確か香取がいるという学校だろう。咲久耶東南部を統べる番長連合の中枢といっていい学校だ」
 今日学園で話題に上がったことだ。しかし綾に何の返答もできず、万里子はそのボタンを握り締めた。
「マドンナ、大丈夫ですか」
 気を遣って介三郎が問うと、万里子の瞳が意を決したように介三郎を見つめた。
「介三郎さんも、噂には聞いたことがございますでしょ。玄幽会という組織のことを」
「はい。確か藤也が言ってました。徐徐に勢力を伸ばしている、北方の学生組織だって」
 何故ここで玄幽会がでるのか、今一つ分からない介三郎を置いてけぼりに、万里子は綾に視線を移した。
「帰宅してからわたくし、番長連合の香取に連絡をしてみたのです。ですが、どうしてもその消息がつかめないのです。もし雛鳥たちの失踪と、香取のことが関わりあるとすれば」
「では、玄幽会が、成瀬と雛鳥を連れ去ったと?」
 呟く綾に、同意の頷きが返る。
「想像以上に恐ろしい組織ですわ。香取の統べる番長連合といえば、咲久耶屈指の学生組織。その総長たる香取を押さえ込むなど、並みの組織では到底できるものではありません」
「な、成瀬たちがどうしてそんな組織に関わるんですか」
 話が大きくなりそうな雰囲気について行けず、介三郎は情けない声で喚いた。
「運転手の手に、天光寺のものが残っていたとなれば、話は簡単だろう。おそらく雛鳥と成瀬は、どこかで天光寺の者と会い、車まで一緒に行く。が、そこで天光寺を追う者に捕らえられる。ご丁寧にそいつらは、捨て置けばよいあの二人までも、連れ去る破目になった・・・というところか」
「その考え方が、一番妥当だと思いますわ。香取の部下に、わたくしを覚えている者がいたのでしょう。それで、わたくしに何かを告げる為に、鷹千穂まで来たに違いありません」
 綾の解釈に、万里子が頷く。
 愛美だけならば、好奇心で行動することもあるだろうが、傍に雛鳥がいたとなると、それは考えられないだろう。
「では、探す場所も限られてくる。玄幽会本部ということも考えられるが、まずは、東南部の番長連合からだな」
「天光寺のある保照里区には、わたくしが参ります」
 万里子は即座に、綾の腕を掴んで言った。
「駄目だ。お前はここで待っていろ」
 綾は、いつものように止めた。
 しかし、万里子はいつものように苦笑しなかった。一層厳しく光る瞳で、綾を睨む。
「今度ばかりは、引き下がりませんわよ。綾。香取の部下が鷹千穂に来たということは、わたくしに会いにいらしたのです。答えるのは、わたくしのはずですわ。それに、雛鳥の命に関わることです。闇雲に走り回っていては、手遅れになります。番長連合を動かして、そこに雛鳥がいないと分かれば、即座に綾が動いてくださるでしょう。一刻の猶予もないのです。どうかわたくしに囮の役をやらせてください」
「しかし、危険に変わりない」
 なおも止めようと言葉を重ねる綾を、視線で制し、万里子は一転鮮やかに笑った。
「わたくしがすることは、もしかすると徒労に終わるかもしれない。けれど、香取を見捨てることはできないのです。だから、保照里区にはわたくしが参ります」
 美しい微笑を湛える万里子の向こうに、頭を下げてまで頼む万里子がいた。
 今回限りは、綾も彼女を止めることはできそうもない。
「分かった。そちらは万里子に任せる」
「ありがとう。感謝するわ、綾」
 感謝を全身で表すように、万里子は胸に手を当てて、軽く礼をした。
 綾は微かに首を横に振って、笑って立ち上がる。番長連合を任せたとはいえ、自分自身が安穏としている訳にはいかない。
「では、万里子。何かあれば、即座に連絡をしてくれ。介三郎、帰るぞ」
 ただぼんやりと万里子を見つめていた介三郎の頭を小突くと、突然、間抜けな目が爛々と光輝いた。
「俺も一緒に連れて行ってください。マドンナ」
 万里子に覆いかぶさるように迫ると、まんじりともせず言い切った。
 万里子も綾も、そして傍で話を聞いていた飛水も、しばし唖然と少年の横顔を見つめる。
「介三郎、冗談は背丈だけにしろ」
 決して笑えない申し出を、綾は咎める様に見返した。
 メガネ越しの鋭い眼光から目を背けることなく、介三郎もまた睨み返して言った。
 これは甚だ珍しいことだ。
「俺は冗談なんか言わない。半分以上ワケ分かんないけど、とにかく成瀬を助けに行くんだろ。人手は多いほうがいい」
 あまりに間抜けな言い方に、思わず目を剥いてしまう。
「介三郎。引越しの手伝いに行く訳じゃないんだぞ。ふざけるな」
 厳しく諫めると、不満げな顔で踏ん反り返る。
「だから、俺は真剣だって」
 成瀬愛美が絡んでいることに、傍観している気はない。連れて行かないと言うならば、一人で探しに行くまでのことだ。
 いつになく綾に食って掛かる介三郎を間近に、万里子の判断も早かった。
「分かりました。介三郎さん、一緒にいらっしゃい」
 笑顔を見せて言った万里子を、今度は綾がむんずと掴んで引き寄せた。
「万里子、冗談はやめろ」
「ここまでお話しして、連れて行かないなんて言えませんわ」
 あっさり言い返して、万里子は立ち上がった。しばらくその美しい顔を見つめたが、すでに、何を言っても聞き入れることはないだろう。
 綾は大きく息をつき、踵を返した。
「仕方がないな。ここは引き下がろう」
 降参とばかりに両手を挙げて、さっさと退散して行く。
「綾、お待ちなさい」
 何かを思い出したように、万里子は振袖の袂から、一通の手紙を取り出す。
「出来る限り明後日までには戻ります。もしそれが出来なければ、代わりにこの手紙を、差出人に返してください」
 立ち止まった綾の手に手紙を重ね、万里子は不安な表情を浮かべた。
 深紅の薔薇と一緒に送られて来た、玄武印のある手紙。それが何を意味しているのか分からない以上、無視することはできない。
 その思いを察してか、綾は確かめるように万里子の手から手紙を受け取る。
「後のことは私がやろう。思うがままに、暴れて来ればいい」
 美しい黒い瞳を見つめる栗色の瞳が、絶対の信頼を称えて微かに光る。
 綾の視線が、介三郎に移った。
 以前にも見たことがある、煌煌たる暁の光りにも似た鮮やかな瞳だ。
 あの日。
 県下最大の暴走族と謳われた『赤い梟』を潰すと言った時の瞳と同じものだ。あの時は、どんなに頼んでも連れて行ってはもらえなかった。
 だがその瞳が今、自分を見送っている。
「大丈夫だよ。何とかなるって」
 安心して欲しくて陽気に笑うと、肩をすくめられた。
「お前の『大丈夫』が、一番不安だ」
 捨て台詞も決まり、綾は飛水の礼に軽く答え、二度と振り返ることなく帰って行った。
「では、わたくしたちも参りましょう。飛水は、介三郎さんにヘルメットと着替えを用意してくださいな。保照里区へは、わたくしのバイクで参りますから」
「え、マドンナの後ろに乗るんですか」
 無免許の介三郎は、狼狽えながらも少々鼻の下を伸ばした。万里子はいつも250ccに乗っている。二人乗りができるのはいいが、いささか恥ずかしいような。
「バイク・・・ですか」
 飛水は苦笑で、介三郎を見た。
「介三郎さん、どうかお嬢さんに振り落とされないように、気を付けてくださいよ」
 心配していると言うより、諦めているような口調だ。
 途端に、介三郎の頬に汗が一つ流れた。
「マドンナって、運転が乱暴なんですか」
「そんなことはございませんわ。わたくしはいたって、安全運転ですわよ」
 飛水を遮って答えた万里子が、さっさと支度に消えて行く。
 介三郎の頬を、もう一つ汗が流れる。
 安全運転。こう言う者に限って全開バリバリだったりすることを、介三郎は、大人しいと思っていた次兄総二郎の助手席で、嫌というほど味わっていた。
「不安だなぁ」
 そう呟くのがやっとである。

 綾は、真行寺邸の正面で待っているベンツの前で立ち止まった。
 運転手が開けるドアには気にとめず、あらぬ方を見つめて微かな声で言った。
「蛍、桜。そこにいるな」
 答えは二つ、即座に聞こえた。もちろん通りがかりの者が、この光景を見たとしても、ご令嬢がぼんやりと突っ立っているくらいにしか思わないだろう。
 それほど小さな声でのやり取りだ。
「万里子が動く。蛍は万里子の護衛を、桜は東南部を中心に動く玄幽会のことを調べてくれ。頼む」
 また短く返事が二つあった。
 綾はまるで何事もなかったかのように、車に乗り込んだ。
 手に掴んでいるのは、薔薇の匂いを焚き染めた玄武印の手紙だけだ。それがなぜか腕を痺れさせ、肩口に重いものでも乗せた圧迫感を醸し出す。
 理由は、分からない。
 ただ、予感があった。

 どこかで、水滴が落ちる音がする。
 それは哀しいまでに響いて、空気を一層冷たくさせた。
 愛美は瞬き一つで目を開いたが、果たして自分の目が開いているのかどうか、疑ってしまう。
 周囲は闇に満ちている。微かに明かりを感じるが、視覚を刺激するほどではない。ゴツゴツとした岩肌を頬に、しばらくはそのままうつ伏せになっていた。
「起きたのか」
 突然、地の底から届く亡霊の声が響いた。
「なっ、何なの、一体」
 ガバッと飛び起きると、暗闇に目を凝らした。やっと慣れた視界に、雛鳥が映る。
「雛鳥さん、しっかりして」
 無我夢中で飛びついて細い身体を揺り動かすと、うっすらと目を開けて雛鳥が微かに笑っていた。
「愛美様、お怪我はありませんか」
 起き上がれないのか、そのまま仰向けに横たわり、雛鳥は努めて明るくそう問うた。
「大丈夫よ。雛鳥さんはどこか悪いところがあるの?」
「いえ、ただ、もう少し、こうして休ませてください」
 途切れる息を隠して笑うと。闇の中でジャラリと言う金属音が響いた。
 愛美の悲鳴が鳴り渡った。
「そんなに怖がるこたぁあるまい。ちゃんと長い二本足のある男前に向かってよ」
 また同じ、地の底から響くような声が笑った。少なくとも理性と現実味のある獣のようだ。とにかく目を凝らしてその闇を見つめると、明かり取りの小さな窓の下に、確かに誰かがいる。
「一体誰なの。そこで、何をしているの」
 雛鳥を庇うように両手を広げ、精一杯の強気で言った。
 また、闇が笑う。
「万里子のところに、そんな威勢のいい娘がいるたぁ思わなかったよ」
「万里子って、マドンナのことなの?」
 知った名前を聞いて、雛鳥がゆっくりと起き上がる。
「よ、雛鳥。忘れたか。俺だ、香取だ」
「香取様、ですか?」
 愛美の腕に掴まって闇を凝視していると、それは大きな人間の形に固まっていった。学ランのボロを纏い、両手を左右に捕らえられ、手首には太い金属が巻かれている。先ほど聞こえたのは、その金属につながる鎖の擦れる音だ。
「香取って、二浦さんの言ってた番長連合総長さんのこと?」
 愛美が雛鳥に問うと、香取が鎖に捕らわれているのも忘れて、身を乗り出した。引きつった手首から血が流れるが、そんなことはどうでも良かった。
「二浦が、万里子に会ったのか。雛鳥」
 低い声が、希望に満ちていた。しかし返って来たのは、希望でも雛鳥の声でもなかった。
 突然電灯に明かりが点り、多くの足音が下りてくる。
 愛美は眩しさに顔を覆ったが、その視界に頭目と思われる男が霞んで映る。
「残念だな、香取。お前の希望は潰えた。お前の最後の側近は、別の場所で大人しくしているよ。お前はそこで、その女たちと共に、お前の組織が玄幽会のものになるのを見ておればいい」
 格子の前に立ち、篠塚は大いに笑った。狭い地下に咆哮が鳴る。
「二浦様の手当ては、ちゃんとなさったのですか。あれほどの怪我を放っておいては、お命に関わります」
 唇を噛み締める香取に代わって、雛鳥が問い質す。
「まさか、あのままどこかに監禁してるんじゃないでしょうね」
 愛美も負けずに、そう睨む。
 篠塚が、口の端を歪めて笑った。
「手当てなんぞ、してると思うか」
 当然の笑いは、どこか尋常を逸していた。
「鬼! ここから出しなさいよ。傷だらけの人に手錠をかけて、女を牢に閉じ込めて、何が『玄幽会のものになる』のよ。真っ向から遣り合う気がないなら、最初からケンカなんて吹っかけなければいいのよ」
 愛美が叫んだ。
 一転、忿怒形の篠塚が、手に持っていた木刀で、愛美のへばり付いている格子を激しく叩いた。
「下手に出れば付け上がりおって。このまま引き摺り出して、二目と見れぬようにしてやってもよいのだぞ」
 ドスの効いたダミ声が、地下牢に響く。
「分かったら、大人しく質問に答えるのだな」
「な、何よ。私たちは、平凡な女子高校生なんですからね。難しいことを訊いても分からないわよ」
 愛美は、震える声で言い返した。
「さして、難しいことではない。その制服は、どこの高校のものだ」
 どうやら篠塚は、愛美たちがどこの学校の者か知らずして、ここへ連れて来たようだ。
 愛美は問題が難しくないことに、ホッと胸を撫で下ろし、
「鷹千穂学園高等部のものだけど」
 と答えた。
 その途端に、篠塚の顔から血の気が引く。
「鷹千穂、とは」
 電撃でも受けたような顔で愛美を見返すと、上の空で部下をすべて引き払わせた。
 そうしてまた、問う。
「お前は、マドンナと呼ばれる女を知っているのか」
「マドンナって」
 眉間にシワを寄せて、愛美は繰り返した。
「まさか、縁の者か」
 愛美の表情を読み取って、篠塚は一層驚愕し、微かに顔を歪めた。
 愛美が何か答えようとした時、後ろから雛鳥が腕を押さえて止めた。
「その方が、どうなさったと言うのですか」
 その声には、一縷の淀みも恐怖もない。細い音が、しかし、何よりも力強く聞こえた。
 愛美はそれを、瞬き三つで見つめてしまう。そうして、納得するのだ。
 この何よりも儚く見える少女が、『マドンナの秘蔵っ子』と呼ばれるに相応しい、気品と強さを持っていることを。
「ご質問の方は、争いごとには無関係の方です。それを何故、お知りになりたいのですか」
「その女、噂の『魔女』ではないのか」
 値踏みするように、青白い雛鳥の顔を見つめる篠塚の表情が、否定の答えを期待している。
「魔女たぁ、あの『魔女』のことか?」
 香取が呟いた。
 香取は香取で、篠塚の質問の意味を考えている。
「魔女、って。もしかして・・・」
 愛美は雛鳥の横顔を見つめて、同じように問うた。愛美は以前、その『魔女』と思しき黄金の女を見たことがあった。しかし信じ難いことだが、その女は、愛美のよく知る女子生徒であった。
「まさか、あ・・・」
 言いかけて、止めた。
 雛鳥が、遮るように口を開いたからだ。
 あくまでも屹然と、雛鳥は答えた。
「あの方は、そのような不吉な異名を持つ方ではありませんわ。見当違いでございます。そのご質問のためだけに、わたくしたちをこのような所に置かれたのであれば、即刻解き放ちなさいませ。あなたがどこのどなたか存じませぬが、このような所業、許されるものではありませぬ」
 確かに、そうだ。
 知らずに連れて来たとは言え、マドンナの知人であれば、あらぬ方面からの咎めもあるだろう。だがここで解き放てば、香取が監禁されている場所を、番長連合の残党に突き止められるきっかけになるかもしれない。
 香取をこうして手枷に繋ぎ、尚牢に押し込めているからこそ、玄幽会が東南部において優位に立っているのだ。
 太い格子の向こうのか細い少女を暫し見つめた後、篠塚は踵を返した。
「まぁ、良い。暫くはそうしてそこで大人しくしているがいい。東南部が我が手中に収まりし時に、解き放ってくれるわ」
 完全に気分を害した様子で、篠塚はまた、地上へ出る階段を上がって行った。
「ちょっと、待ちなさいよ」
 愛美の叫び声も、空しく響くだけだ。
 香取が苦笑で、愛美の巻き毛を見た。
「威勢がいいのもいいが、喚いても状況は悪化するだけだぜ。やめときな」
「これが黙っておけるもんですか。理不尽だわ」
「まぁ、そう言うな。奴は、俺や万里子と同じ鷹千穂のお前たちが怖くて、ここに隠してるんだ。俺はともかく、お前たちを人質に取ったのは、奴のミスだな。黙って機を見るんだ、お嬢ちゃん」
 香取が張り付けのまま、小気味よく笑った。
 篠塚が電灯を点けていったので、今では香取の顔もちゃんと見える。その厳つい顔には、所々にアザや切り傷があったが、その目のせいだろうか、まったく恐れる必要などない柔和な表情である。
 愛美はしかし、不安であることに変わりはない。
「お嬢ちゃん、じゃないわ。イツミよ。成瀬愛美」
 尖らせて言った口が、への字に結ばれている。香取が一層相好を崩した。
「分かった。愛美。これも何かの縁だ。仲良くしようぜ」
 握手といきたいが、手は枷に捕らわれて身動きできない。代わりに、愛美が満面笑顔を浮かべる。
「しかし、気になります。あの方が何故『魔女』などに興味を持つのでしょう。しかも、万里子様と混同していらっしゃる」
 雛鳥が一層小さくなって、格子に寄り掛かった。愛美が気を遣って、肩を並べて座る。
「見つけて、どうにかするつもりなのかな」
 愛美は香取を見上げて、問う。
「さぁな。俺にも分からない。だが、咲久耶南部まで手中に収める場合、万里子を無視しちゃおけねぇだろう。それと同様に、その『魔女』も噂のまま放っておくわけにいかないのは当然だ。それにしちゃ、問い方が妙ではあったがな」
 香取の心中でも、二つの事柄が右往左往している。
 今まで考えたこともなかった。
伝説の女が、果たして存在するのかどうか。そして、存在するとして、その女はどちらの側の人間なのか。
 玄幽会か、はたまた、真行寺万里子の側か。
「お前たちは、『魔女』を知っているのか」
 重い問いに、愛美は雛鳥の横顔を見つめて黙った。
 雛鳥が、微かに首を横に振る。
「香取様。『魔女』は幻のものでございます。現実のものではございません。会えるとすれば、夢の中だけにございます」
 どこか朦朧としている視線を、香取は笑って受け止めた。
「それならば、それでいい。いつか、夢の中で会えることを祈っておこう。それで、二浦のことだが」
 香取は戯言の続きのように、問うた。二浦には番長連合の命運が掛かっているが、その重荷は、目前の小さな少女二人のものではないからだ。
 愛美は何も言えず、黙って首を横に振る。それが精一杯だ。
 雛鳥は、大きな熊かトラの剥製の如く壁に下がっている香取の顔を見上げて、二浦を見つけた時のことを細かく話した。
「結局、万里子には会えず、お前たちも一緒に、ここまで連れてこられたって訳か」
 香取の顔が曇る。最後の頼みの綱が切れた感じだ。
「あの時、すぐさま鷹千穂に戻っていれば、このような足手纏いにはならなかったのかもしれませぬ」
 掠れる声が、一層、心細く聞こえた。俯き脱力している雛鳥の膝に、涙が落ちる。
「愛美様にも、申し訳がありませぬ。ご一緒しようなどとお誘いしなければ・・・」
 尚も続ける雛鳥の頬にハンカチを当てて、愛美は笑って見せた。
「そんなこと、考えてもどうしようもないよ。前向きにいこうよ。香取さんが言うように、私たちはババヌキのジョーカーかもしれないわ。こんな酷いことして、無事に済む訳が無いもの。どこかの誰かが、きっとあいつ等を懲らしめてくれるわよ」
 湿気と岩肌に囲まれた地下牢は、すこぶる不快である。頼もしいはずの香取は、標本のように手首を鎖に捕られ、身動き出来ない状態だ。傍の雛鳥も、表面上は落ち着いているが、頼りにするにはか弱過ぎる。先程の毅然とした態度がいったいどこへ行ったのか、疑いたくなるほど、小さくなっていた。
 これで、愛美自身が落ち込めば、この地下牢にあるのは、絶望だけだ。
 敢えて愛美は大きく笑った。元気だ。
「必ず助かるわ。必ず、ね。だから取り敢えず、香取さんの手当てをして、脱出方法でも考えようよ。黙って助けを待ってるのって、性に合わないもの」
 幸い、自分のカバンも一緒に牢屋送りである。さすがに携帯電話は抜き取られているが、中から絆創膏とウェットティッシュを取り出して、香取の傷を一つずつ丁寧に処置していく。
 必ず、来る。
 愛美は心の中で繰り返した。
 気休めではない。まして自惚れなどでは決してない。
 だが、一つだけ確信があった。
 こんなこと、『魔女』が許すはずがないのだ。

 介三郎は、一心不乱に無の境地を体得しようと試みていた。
 万里子と二人、バイクウェアに着替えて、ぶっ飛ばしてきた。慣れないバイクの後ろの席で、しかも万里子の意外に荒っぽい運転に身体が揺れて、接触回数が異常に高い。後方のグラブバーだけで身体を支えるのは至難の業だ。
 風が耳元で鳴っている。
 甘い香水の香りが、息を詰まらせる。
 一掴みの理性が。辛うじてバイクの走りに体重を合わせていた。
「着きましたわよ、介三郎さん」
 万里子はヘルメットを脱いで、振り返った。柔らかな長い髪が、微かに介三郎の胸に触れて、やっと目が覚める。
「あれ。何か言いましたか、マドンナ」
 とぼけた問いに、気を悪くした風もなく、万里子は一層穏やかに微笑んだ。
「えぇ。着いたと申し上げたのよ。だから、とても残念ですけれど、わたくしの腰にあるお手を、離してくださいませんか」
 言われて、介三郎は自分の手の位置を確かめ、悲鳴を上げて飛び退いた。
 両手ともにグラブバーにあったと思ったが。片手はいつのまにか万里子の腰に回っている。それがやけにイヤラシイ。
「すみません。今、どけます」
 手を離し。慌ててバイクから降りたのはいいが、長い足が引っ掛かり、尻餅をついてしまう。
 惨めだ。
「少し落ち着いてくださいな。これから先、介三郎さんだけが、頼りなのですから」
 万里子は笑って、座り込んでいる長身の少年に手を差し伸べた。
「す、すみません。やっぱ、俺は来ない方が良かったんじゃないですか」
 赤く茹で上がった顔を掻きながら自力で立ち上がり、ボソボソと呟く介三郎は、確かに頼りないことこの上ない。
 百九十センチの長身を小さく見せるその仕草が、黒のバイクジャケットには似合わなかった。
 万里子は笑ってそれには答えず、どこからかサングラスを取り出し、介三郎に手渡した。
「それをお着けなさい。介三郎さんの目は優しすぎます。これからお会いする方々にお見せするのは、もったいのうございますもの」
「はぁ」
 サングラスを手に、思わず考え込んでしまう。こんなに細くて目が隠れるのだろうかと訝しむくらいの真っ黒なサングラスは、持っているだけでナンパである。
 着けようかどうしようか迷っていると、万里子の穏やかな微笑にかち合ってしまう。
「介三郎さんは、いつも綾の傍にいらっしゃるように、わたくしの傍にいてくださればよろしいのです。それ以上は、何も考えず、また何もおっしゃらないでください」
「しかし、マドンナ。一体ここには、誰がいるんですか。寄り道をしてると、雛鳥がヤバイんじゃ」
 たどたどしい自分自身の口調に耐えられず、急いでサングラスをかけた。すっかりナンパになってしまった介三郎の声が、緊迫感を損なっていた。
 万里子はその姿と声のギャップに笑っている。
「会えば分かりますわ。介三郎さんも、きっと一目で気に入ってよ」
 まるで親しい友人でも紹介する気安さで言う万里子を傍に。介三郎は廃墟と化すビルを見上げた。
 理由はどうでも、親しみを覚えるような奴がネグラにしているとは思えない。
「不安だなぁ」
 呟きは、美しい瞳の発する視線で、途切れた。熱い瞳だ。
 万里子は介三郎を見上げ、まるで暗示のように囁いた。
「綾を信じる半分で結構よ。わたくしを信じて、傍にいてください」
「はぁ」
「今は、介三郎さんだけが頼りなのです。よろしいわね。雛鳥の為、また成瀬さんの為に、毅然としていてください」
 甘く誘う言葉が、介三郎のどこかで眠る闘争心を駆り立てる。
 美しい瞳が閉じ、再び開いた瞳は、先程の瞳とは全く別のものだ。
 介三郎の目前で、聖母が軍神に変わる。長い睫毛が影を落とす瞳に、計り知れない自信と気品を宿し、紅い唇に神々しいばかりの微笑を湛えた美女は、介三郎に背を向け、廃屋と化したビルの入り口へと向かった。美しいシルエットを、闇に同化させていく。
 介三郎はただ一度、辺りを見渡した。
 かつては、夜の街として賑わっていたのであろうネオンの残骸や取れかかった看板が、通りを埋めていた。ちらほらと見える明かりは。傾きかけた居酒屋の類である。
 万里子が入って行ったビルも、元々はスナックやキャバレーが幾つか入っていたものだったのだろうが、今は見る影もなく錆び付いている。
 万里子が立ち止まり、闇の中から介三郎を振り返る。
 言葉のない視線が、急を告げる。
 ぐずぐずしてはいられないのだ。一刻も早く、愛美と雛鳥を探し出さなければならない。手にしたサングラスが、微かな明かりに光っていた。
 介三郎は、深呼吸一回でそれを着け、背をピンと伸ばし、いつもより大股に歩を進めた。
 やるしかない。
 万里子の後から暗く狭い階段を一段ずつ降りて行く。小さなライトが、かなりの間隔で点けられていたが、あまり頼りにならず、不気味さを強調させているだけである。
 濃いサングラス越しに万里子の背中を見ていると、いつも傍にいる髪の長い相棒を思い出す。
 厳ついメガネの奥で光る瞳が、言っている。
 守れ、と。
 そうだ。やるしかない。奥歯を噛み締めて、口を引き締める。なけなしの意地を持って、愛美を助け出し、そして。
 そして、『胸』の話はおいといて、もう一度カッコ良く最初からやり直すんだ。

 地下二階。壊れた扉から、明かりが漏れている。二つの靴音が響く階段の先に、煙が立ち込めていた。
 長身の男が開ける扉を抜け、極上のプロポーションを備えた女が、数歩入って来て、止まった。
 店の中には、十数人の男女がいた。
 男たちはかつては学ランだったものを、詰めたり裂いたりしたいでたちで、髪型も剃り込み入りやツンツン頭だ。女たちは皆、セーラー服ではあるが、胸元がはだけていたり、スカートにスリットが入っていたりと、これまた尋常ではない。
 アクセサリーが、ナイフやチェーンやヌンチャク、カミソリでは、あまり色気もないであろう。
 道を外した高校生は、タバコの煙と酒の匂いが立ち込めている中で物憂げに、綿の飛び出したスツールや朽ち掛けたテーブルに腰を掛けて、招いた覚えのない二人を見据えた。
 元はスナックだったのだろうか。カウンターには埃を被ったボトルが並び、棚に並んだグラスは半分が原型を留めず、無残な破片は仄暗い明かりの下で鈍く光っていた。
 物音一つしない張り詰めた空気が、重くのしかかった。
 一人が面倒そうに顎を出し、濁った声で問う。
「何だ、お前ら。ここはラブホテルじゃねぇよ。お楽しみは他でやりな」
 下品な言葉が、虚ろな笑いに混じる。
 周りの者も忍び笑いを漏らすが、当の煙に霞む二人からは、何の返答もない。
 痺れを切らした男が一人、美人に近づいた。淀んだ目とくわえ煙草が、削れた頬をなおも深く殺いでいる。
 微動だにしない美人の前に、サングラスの男が立ち塞がった。
 見上げて余りある長身に、黒のバイクウェア。これにナンパなサングラスをかけて仁王立ちすれば、誰もが一度はたじろぐだろう。
 案の定、男も歩を止めて見上げている。
「何だよ、際限も無くニョキニョキ伸びやがって。てめえみてぇな奴がいるから、俺が平均身長を下回るんだ」
 煙草を拭き捨てて毒づくと、男は間髪入れずナックルダスターを嵌めた右手で目線の上の男の胸を狙った。
 ウドの大木と思ったサングラス男が、軽くサイドステップでかわした。
 見ていた全員が、浮き足立つ。
「てめぇ」
 的を外して凄んだ男が振り返ると。正面に美人が立っている。
 視界の悪い店内において、尚、神々しいばかりに輝く女に見つめられ、男は振り上げた右手を下ろした。一瞬ざわめいて、襲い掛かろうとした全員も、屹然と立つ美人の瞳に射竦められ、手に持つ武器を下げた。
「分かってくださったようですね。わたくしたちは、ケンカをする為にここまで来たのではありませんわ。『夜叉』にお会いしたいの」
 万里子の澄んだ声が店内に響くと、また武器を構える音が重なる。
「てめぇ、夜叉に何の用がある」
 ナックルダスターの男がすぐ傍で身構えた。
「ご用は直接『夜叉』に申し上げます。ここに来れば会えると、知人に聞いて参りましたのよ。どなたでも結構です。取り次いでくださいな」
 微かに語気を強め、万里子は傍の男を見つめた。
 ただそうして立っているだけの美女に、なぜ拳一つ振るえないのか。誰もが訝しむ中で、惚けた拍手が起こった。
「たいしたもんだね。ガン一つ飛ばしただけで、こいつらを押さえ込むなんて」
 声は、戸口で聞こえた。
 目の覚めるような、純白のセーラー服に身を包んだ女子高生が立っている。とは言え、とても堅気とは思えない眼光の鋭さと、すっきりとした肢体。左腕の手首から肘まで覆うブレスレットが、まるで防具のように光っている。
 群がっている男女から歓声が上がり、同時に狂気が沸く。武器を持つ手に、チカラが籠もる。
「ネネ、気をつけろ。この女、只者じゃない」
 一人が叫んで、援護とばかりに万里子に襲い掛かった。
 空を裂くチェーンをものともせず、万里子は介三郎を壁際に押し退け、紙一重でチェーンを避けると、軽く何かを投げた。
 一瞬のことだ。
 男は苦鳴を漏らして、うずくまった。ざわめいた者たちの目に、男の両肩に突き刺さる細い針金が映った。
「もう少し落ち着いて、人の話をお聞きなさい。今に命を落としますわよ」
 優雅な指先に二本の針金を構えて、万里子は睨んだ。男が絶句で退いたのは、決して恐怖からくる感情ではない。
「ホント、只者じゃないね。武器はそのお綺麗な顔だけかと思ったが、噂通りの好い女だ。あいつが女神と崇めてるだけのことはあるじゃないか」
 白いセーラー服が、余裕の微笑で近づいた。
「貴女が、『夜叉』ね」
 正面に見つめて万里子が問うと、女は不機嫌なため息を漏らした。
「その名は、天光寺を離れる時に捨てたよ。ま、あいつにとってはいつまでも『夜叉』なんだろうけどね」
「そのようですわね。誰にも優しくまた厳しい、炎のような方。袂を分かってもあの方は、いつも貴女の身を案じておいでです」
 相対する二人の女は、一人の男を思い起こし。一方は微笑を、一方は苦しげな表情を浮かべた。
「ネネ、この女、知ってるのか」
 茫然と成り行きを見守っている男が、遠慮がちに問う。
 今では介三郎も傍観者の一員になっている。遠目に見る万里子には、一縷の危なげもないからだ。
 夜叉は嘲笑を漏らした。
「番長連合総長が、女神と称する女。真行寺万里子。通称、マドンナ」
「マドンナァ」
 素っ頓狂な声が響き、全員が身を引いてしまった。
「その有名なマドンナが、いったい何の用だい」
「貴女の腕を貸していただきたいのよ。あの方にして『夜叉』と言わしめた貴女のその腕を」
 万里子の静かな言葉に答えるように、夜叉は拳を固めて身構えた。左腕のブレスレットが、激しく鳴る。
「そう簡単に貸し借りできるものかどうか、試してみるんだね」
 ボクシングに関しては、あまり知識のない介三郎が見ても、夜叉の構えはかなりレベルの高い選手のそれだ。それを前に、端然と立っている万里子の指から針金が消えた。
 この非常時に、唯一の武器を収めたのだ。
「ちょ、ま、待ってくださいよ。話し合いでどうにかなりませんか」
 万里子を庇うように立ちはだかった介三郎に、夜叉は厳しく一瞥をくれた。
「何だい、このボーヤは」
「いや、ボーヤって柄じゃありませんが」
 惚けた声で頭を掻くと、鋭く睨まれた。
「介三郎さんは、下がっていらっしゃい」
 遥か高みにある長い顔に向かって、万里子が叱るように強く言い放つ。万里子に睨まれるのはあまり慣れていないが、他約一名に鍛えられている為、引き下がることはない。
「ダメですよ、マドンナ。怪我でもしたらどうするんですか」
 無防備に夜叉に背を向け、万里子を見下ろして喚くと、肩口に殺気を感じる。
「鬱陶しいな」
 炎も凍る低音だ。
 夜叉はそう呟くと、一瞬沈んで左拳から連打を繰り出した。腕に嵌めたブレスレットの金属音が鳴り響く。
「ち、ちょっと、待った――」
 慌てて万里子を背に、打ち込まれる夜叉の手を止めるのが精一杯の介三郎を、傍観者たちが驚愕の眼差しで見守った。
「面白いじゃないか、ボーヤ」
 夜叉は笑って拳を繰り出す速度を速め、フィニッシュが介三郎の顔面を狙った。
 駄目だ。
 咄嗟に心の中で叫び、目を閉じてしまった介三郎の耳に、鈍い音が聞こえる。
 薄目を開けると、目前で白い手が拳を受けていた。金属音の余韻が、止まる。
 何の衝撃も受けない顔を不審に歪めて、介三郎が目を開けると、眼前に白い指がぼやけて見えた。
「さすがだね、マドンナ。私の拳を止めたのは、あんたが初めてだ」
 右ストレートを打った姿勢で、夜叉は笑っていた。
 介三郎の鼻先で広げられた手に、夜叉の拳がすっぽり収まっている。
「貴女が手を抜いてくださったからよ。そうでなければ今の拳、介三郎さんの顔面に入ってましたわ」
 万里子がその拳に触れたまま手を下ろすと、夜叉も腕を引き介三郎を見上げた。
「でくの坊かと思ったら、意外にやるじゃないか。ボーヤ。あれくらいのスピードが見切れるなら、運動神経は悪くないね」
 視界が開けた向こうに、微笑を浮かべる夜叉がいた。褒められているのが、気が引けた。
「でも、最後は見えませんでしたから」
 心底恐縮して言うと、肩を震わせて笑われた。
「そりゃそうだ。素人にあれを止められちゃ、あたしが困る」
 笑う夜叉は、第一印象とは打って変わって爽やかだ。
 万里子も穏やかな微笑を浮かべていた。
「日頃の鍛錬の成果ですわね、介三郎さん。ところで夜叉、貴女にお話があってここまで来たのです」
「その名で呼ぶのはやめとくれ。虫酸が走る。寧々でいい」
「では、寧々。貴女の腕を、わたくしに貸してくださるわね」
 寧々はクルリと背を向けると、
「はい、そうですか、とは言えないね。話を聞いてからだ。着いて来な。お話し合いとやらをしようじゃないか」
 また元の厳しい目付きに変わる寧々を、あくまで万里子は微笑で受け止めた。
 白いプリーツスカートが、風に誘われるように戸口へ向かう。万里子は引き寄せられるように、その後に続いた。
 介三郎は、暫し唖然として立ち尽くしていたが、おもむろに立ち止まって、振り返る寧々に睨まれて、直立不動してしまった。
「何やってんだい、ボーヤも来るんだよ。トロトロしてると、今度は真剣に風穴開けるよ」
 キツイ言葉を残し、寧々は足早に出て行った。万里子は遅れず優雅に従い、放心していた介三郎は、二人が消えてやっと我に返って、慌ててサングラスを外し追いかけて行った。

 ビルの屋上は、夏の初めの微風が心地よく吹いていた。
「ふーん。じゃ、手掛かりは『天』のボタンだけか」
 寧々は、給水管に腰を下ろし、膝に頬杖ついて、運転手が握っていたという天光寺高校の金ボタンを、片手でもてあそんでいた。
 その傍で、万里子は、星一つ見えない夜空を見上げた。
「そのボタンは、明らかに天光寺高校のものですが、雛鳥たちを連れ去ったのは別の者でしょう。残った運転手の話では、怪我を負っていた学生を助けた後、襲われたということ。おそらく今、東南部を脅かしている組織の仕業ではないかと思うのですが」
「玄幽会、か」
 万里子の説明を物憂げに聞きながら、寧々は呟いた。金ボタンを握り締め、視線を変えて隣を見ると、黒いバイクウェアの美人が座っている。
 先程の迫力は微塵もなく、ただ一輪の黒い薔薇のように静かに咲き誇っている。
「それでその女の子、薬なしでどのくらいもつのさ」
 寧々は気の無い声で問うた。万里子の横顔が曇る。
「近頃はかなり元気になりましたから、今日明日ということはないでしょうけど、それも監禁場所によりますわ。ですから、一刻も早く助けたいのです。そしてこれは、あなたの兄上である香取にも関わる問題でもあるのです」
 聞いた途端、少し離れて立っていた介三郎は、マジマジと純白のセーラー服を見つめた。
「香取って、天光寺高校の。んじゃ、番長連合総長の妹・・・」
 どうりで強いはずだ。
 兄と言われて、寧々は大袈裟にため息をついた。
「おそらく、そんなとこじゃないかと思ってたよ」
「嫌ですか?」
「嫌も何も、あたしには関係ないことだよ」
 口調の冷たさよりも、その瞳の厳しさの方が気になった。
 寧々は指先で金ボタンを放り投げた。
 それを受け取って、万里子が続ける。
「それでもこの件は、あなたに治めていただきたいのです」
「何故、そこまで真剣になる。あたしなんかがいなくても、あんたの力を使えば、咲久耶全体を制することすら、容易いんじゃないのかい」
 意固地になっているのか、寧々は顔を歪めて突き放した。
 兄香取省吾が、女神と仰ぐ女である。それ相応の力があると考えるのが当然だ。しかし、万里子は視線を背けることもせず、言葉を重ねた。
「香取はわたくしに会う度に、貴女のお話をなさいます。訳あって、袂を分かってしまった貴女を、あの方は今でも信じて待っていらっしゃる」
 熱い言葉を、冷めた視線が受け止めた。
「待ってる、か。あんたは、あたしが兄貴の元から去った訳ってヤツを、知ってるのかい」
 暫く、沈黙が続いた。
 二人を交互に見ながら冷や汗をかいている介三郎に、万里子の声が静かに届く。
「香取は、貴女が嫌がることをなさる方ではありませんわ。そうでなくて」
 同意を求めるように寧々の横顔を見て、万里子は美しい瞳を半分閉じた。
「さぁ。人って変わるだろ。いつまでも、何も知らないままでいられる訳ないんだ。そうだろ」
 さして気に留める風もなく、寧々はぼんやり言い返す。遠く夜空に輝く星を抜け、遥か彼方を見つめたまま、寧々は動かなかった。
 先程の気圧される雰囲気は、微塵もない。それどころか、寧々のどこかが今にも崩れるように儚かった。
「それは、そうですわね」
 万里子が穏やかに答えた。慰めている訳ではなく、また、諭している訳でもない。ただ穏やかに、白い炎の揺らめきを残す横顔を見つめて言った。
「いつまでも、赤子のままではいられません。それは誰もが同じです。しかし、変わらない心もあるでしょう。だから人は、強くなれるのではないでしょうか」
「・・・・・・」
「ただ今は、香取が信じるように、わたくしも信じたいのです。あなたは、番長連合の学生や何の関わりもない小鳥が踏みにじられるのを、黙って見ている方ではありません」
 番長連合が現在どういう状況なのか、また兄省吾がどうなっているのか、寧々にはよく分かっていた。敢えて黙ってみているのは、凍った心のせいばかりではない。
 だが。
 寧々は眉を軽く動かして、肩を落とした。
「保照里区の北、須勢里区との境界線辺りに、閉鎖された遊園地がある。おそらくそこに、番長連合の奴らが捕らわれてるだろう。他にもこの咲久耶に、玄幽会の拠点はあるが、東南部を襲ってる奴らの拠点は、はっきりとした場所は分からない。あたしが教えられるのは、それだけだ」
 立ち上がり背を向ける寧々からは、激しい拒絶が感じられた。万里子はそれを察し、微かに首を横に振って、呟く。
「では、どうしても一緒に行ってはくださらないのですね」
「天光寺を離れる時、『夜叉』という名と同時にすべてを捨てた。今更信じるも裏切るもないんだ。あたしの心に残っているのは、このビルと同じ廃墟だけ。何も見たくないんだよ」
 自嘲する横顔が、空しく響いた。
 それを打ち消すように、万里子は寧々の背を見つめて、優しく微笑む。
「情報をありがとう、寧々。今度会った時は、楽しいお話をしましょう」
 それに答える言葉はなく、寧々は介三郎の横を通り過ぎる一瞬、立ち止まった。
「ボーヤ、あんたが守るんだよ」
 小さな呟きが、介三郎の胸を貫いた。無言で頷くと、微かな笑顔が返ってきた。
「いい子だ。ボーヤ」
 そんな言葉が介三郎の耳に届くが、それもまた、闇に溶けて消えてしまう。風に紛れて聞こえるブレスレットの音も、やがて消えてなくなった。
 万里子もまた、立ち上がって介三郎に近づいた。
「では、参りましょう。介三郎さん」
 寧々とのやり取りなど無かったかのように、軽い足取りで歩き出す万里子が不思議に思えた。
「マドンナ。これから、どうするんですか」
 責任という重圧が、夜の闇のように介三郎を取り囲む。助けは無い。時間もすでになくなろうとしている。
 その事をどう考えているのか、万里子の表情には焦りも不安も見当たらない。否。それどころか、闇を照らす一点の灯火のように、神々しいばかりの微笑を浮かべている。
「もちろん、雛鳥たちを助けます」
 万里子は動じた風もなく、軽く視線を上げて、あらぬ方を見た。
「そこにいるのは、蛍ですか」
 謳う様な声に誘われて、影は一つ空を切って、万里子と介三郎の前に現れた。
 俯き加減に控える蛍は、すべての感情を無くした時の綾に似て、美しいが存在感というものはなかった。
 彼女そっくりの同級生を、介三郎はよく知っているが、それは今関係ないことだ。彼女の名前も、昼間の学内でしか言ってはいけないことだ。
「綾に言われて、ここまでいらしたのね」
 親しげに言葉をかける万里子に頷いて、蛍は瞳を上げた。
「何なりと、ご命じくださいませ」
「では、お願いしましょう。綾の元へ帰りなさい。香取の件はわたくしに任せると、綾は仰ったはずです。貴女には、わたくしの護衛ではなく、雛鳥を救出する役をやっていただきたいわ」
 表情はいつもよりにこやかで、華やいで見えるが、その実かなり憤慨しているのが、介三郎にも分かる。
 蛍は微かに震えて、また瞳を伏せた。しかし、退くことはなかった。主君である綾の命でここまで来た以上、いかな万里子でも、その言葉に従って引き下がる訳にはいかない。
傍で聞いている介三郎には、万里子の憤慨も蛍の苦悩も手に取るように分かった。
「マドンナ。俺は、蛍がいてくれたほうが・・・」
 「いい」という言葉は、万里子の視線で遮られた。
 鬼も後ずさるような厳しいとも険しいとも言える目だった。かつてこれ程の眼光で、万里子に睨まれたことはない。
「介三郎さんは、どうしてもわたくしを信じてくださらないのですね」
 介三郎は絶句した。耳を覆いたくなるほどの低く重い声が、介三郎の広い胸を焼き串で刺し貫くような激しさで射抜く。
 しばらくの間、押し潰されるような沈黙が、三人を覆っていた。
 やがて万里子は深い悲しみを激しい怒りに変えて、介三郎と蛍に背を向ける。
「マドンナ」
 驚いて、手に持っていたサングラスを放り出し、万里子の前に回り込んで、介三郎は身を屈めた。
「マドンナ。そんな、マドンナが信じられないって意味で、言ったんじゃないんです。ただ俺は、自分に自信なんて持てないから。俺、成瀬が心配でここまで来たけど、本当は、マドンナの足手まといにしかならないようで、申し訳なくて」
 途切れる言葉を精一杯繋いで、介三郎は言った。
 万里子がゆっくりと視線を上げる。吸い込まれそうな黒曜石の瞳が、真っすぐ介三郎を見つめた。
「わたくしが貴方をここまでお連れしたのは、いい加減な気持ちからではございません。まして、貴方が足手まといになるだなんて、思ってもいませんわ。先程も、わたくしを守ってくださったではありませんか。それでも貴方がそのように、ご自分を卑下して蛍に依存するならば、今すぐ鷹千穂にお帰りなさい」
「マドンナ・・・」
「気弱なことばかりおっしゃる介三郎さんなんて、見たくはありません。鬱陶しい。それこそ、足手まといですわ。ここからは、わたくし一人で参ります」
 これ程までに諫められたことのない介三郎は、ただ茫然と目前の美しく厳しい瞳を見つめていた。
 万里子は介三郎から視線を外し、蛍を見る。
「蛍も分かってください。雛鳥たちを助けるには、単に玄幽会を探しただけでは無理なのです。八方から突き崩し、大きな穴を穿たない限り、人質を奪回できるほどの隙は生まれないでしょう。その仕事をすべて、綾に任せておくのは嫌です」
 蛍は、哀しく潤んだ瞳を見つめて、顔を曇らせた。
 小さな頃から、血の滲む様な修練と危険との背中合わせで生きていた主君を、静かに見つめてきた万里子のそれが本音であろう。
 綾にだけ、危険なことをさせたくはない。
 それは蛍たち影の気持ちでもあった。
 蛍は深く礼をすると、さっと表情を引き締め、顔を上げて言った。
「万里子様のお心、確かに受け取りました。蛍はここでお別れいたします」
 そして、遥か高みの少年を見た。
「万里子様をお守りする役目、介三郎さんにお任せいたします。くれぐれもお気を付けて、行っていらっしゃいませ」
 その言葉を受けて、万里子はまた介三郎に視線を戻す。
 激しい言葉に打ちのめられた少年も、蛍の声で決心する。ここまで来た以上、不安も気後れも必要ない。いつもの惚けた顔が、微かに笑って頷いている。
 万里子はゆっくりと向きを変えて、階下へ降りる階段の入り口に向かい、頷いた。
 まるでその陰に、誰かが立っていたかのように。

 玄幽会本部の一室で、柳井と槙原、藤岡と野村の四名は、ただひたすらに平伏していた。
 玄武帝の許可無く部下たちを鷹千穂の偵察に行かせたことが、バレてしまったのだ。
 どれ程の時間、そうしてひれ伏していたのか分からない。このまま永劫に床のキズを見つめ、冷や汗を垂らしながら、震えていなければならないのかと思った。
 正面の大きな机を前に座っている玄武帝は元より、隣に立っている宰相も、般若に近い表情であった。
「何故、鷹千穂などに部下を行かせたのですか。頼んだ覚えはありませんが」
 些か皮肉げに、宰相佐久間は四名を一瞥して言い捨てた。
 その声は、静寂を一層重くさせる。それが玄武帝善知鳥(うとう)景甫(かげすけ)の言葉でもあるように、柳井たちは一層頭を下げ、床に付けんばかりにしている。
「お、恐れながら申し上げます。鷹千穂を調べましたのは、玄武帝の御為。お気に止めておられる真行寺万里子なる者が、果たして『魔女』であるかどうか、確かめたかっただけなのでございます」
 四名の中では一番格が上である柳井が、震える膝を押さえながら言った。
 返ってくる言葉はない。
 佐久間の瞳がゆっくりと閉じていき、景甫はゆっくりと立ち上がる。
 四名が息を呑み、はっと顔を上げたと同時に、景甫の右手が前方に伸び、大きく開かれた。
 他に何があった訳ではない。だが、景甫の手が開かれた瞬間、空気が裂け、四名の足元の床に亀裂が走る。
「僕が命ずるまで、鷹千穂には手を触れるな。触れれば、幹部から外されるだけでは済まないと、肝に銘じておきたまえ」
 低く響き渡る声が、険しい表情に重なり、峻厳たる姿が仄暗い部屋に浮かび上がる。
 それに答える言葉はなく、四人は二、三歩退いて平伏するだけだ。
 景甫は、その態度にさしたる感慨もなく、どこかやり切れぬ表情で部屋を後にした。
 残った佐久間は、ゆっくりと瞳を開けて、柳井たちを見た。
「景甫様は、本心からお怒りです。この度の所業、あの方のお心に土足で踏み入るのと同じです。気を付けてください」
「ですが、宰相。景甫様は、何故あれほどに『魔女』を追われるのか。まさか、本当に懸想していらっしゃるのではないのか」
 相手が宰相一人になり、幾らか圧迫感も失せたのか、柳井は身を乗り出すようにして佐久間を見た。
 佐久間は美しい顔を歪めて、柳井を睨んだ。
「そのようなことは、私たちの知る所ではない。下世話な話で景甫様を煩わせるならば、反逆と見做しますよ」
 紫がかった長い黒髪が天を突くのではないかと思うほどに、佐久間は不似合いな程声を荒げた。
 柳井は二度と、その話はしなっかった。
 その端で平伏していた野村が、短い沈黙を破って佐久間を見る。
「どうか、お怒りにならずに聞いてください。鷹千穂の偵察に出た者の申すには、鷹千穂周辺で、篠塚の部下を見かけたと言うのですが」
「篠塚の部下を、ですか」
 佐久間は野村に問い返す。
「まさか、篠塚も鷹千穂を――」
「いえ、そうではないようで。ただ、番長連合の者を追いかけているうちに、行き着いたまでのことだと、推測されますが」
 佐久間は考え込むように半分瞳を閉じ、大きく息をついた。
「篠塚、か。人の心が分からない男。景甫様のお心を逆撫でせねば良いが」
 篠塚の心配をしているのではない。元より、篠塚がどうなろうと構わないのだ。ただ、景甫の心が騒ぐことだけは、避けて通りたい佐久間であった。

 佐久間は一つの扉をノックする。中から返事はなかった。
 それを気付かぬフリで、佐久間は静かに扉を開けて、薄暗い部屋に滑り込む。
 部屋の中央で大きな椅子に沈み込み、微動だにしない景甫がいた。
 その肩を見つめ、佐久間はいつもよりも慎重にその傍まで進むと、上体を傾けて敬意を表す。長い黒髪が一房胸元に流れ、独特の甘い体臭が、現実とも非現実ともつかない雰囲気を醸し出す。
「お気は、静まりましたか」
 労わり以上の甘い囁きで、景甫の耳元を掠めると、佐久間はそのままの姿勢で止まった。
 どのくらい経ったのか。
 景甫は長いため息をついて、肘掛に身を預けた。
「笑ってもいいぞ。佐久間」
「いいえ」
「僕だって、自分で自分が可笑しいのだ。何故・・・何故これ程まで感情的になるのか、分からないのだ」
 そこには、『魔女』に対する感情を、軽く『恋』と表現した涼しげな青年はいない。燦然と輝く玄武旗を背に、超然と立つ姿が、まるで嘘のように、今はただ、半身を凍て付かせ思うように動かない自分を呪っているかのようだ。
 佐久間は一切の感情を消し、一歩下がって控えた。
 彼にしても、景甫の心中がこれほど切羽詰まっているとは、思ってもみなかった。
 二人とも、武道の誉れ高い玄武館高校の二年生だが、佐久間はともかく景甫は、女を知らない訳ではない。その時だけの女が、実は数名いる。だがどの女も、景甫にとっては人の心を持たない人形のようなものだ。その女たちの名を呼ぶ訳でなく、また知ろうともしない。
 そんな景甫が、何故これ程までに『魔女』を追うのか、佐久間も疑問であった。
 景甫は頭を押さえるように肘をつき、ガクリと肩を落とした。長い足が組まれ、物憂げに投げ出されている。
 佐久間が息を呑んで、見守った。
 景甫は、発作のように身体を震わせた。
 この感覚は何なのだ。日毎に激しくなっていく。焼かれるような胸の疼きと、喉の渇き。何も手につかず、目には黄金の炎しか見えない。
 そうして時折、頭の中で何かが叫ぶのだ。
 決して、快い言葉ではない。だが、耳を覆ったところでどうなるものでもないのだ。
「自分の中に、何か・・・いる」
「景甫様。鷹千穂の真行寺万里子には、確かに景甫様よりのメッセージが届いております。明日、彼の女性に会えば、お気持ちの何たるかがお分かりになるでしょう。それまで何も、お考えにならず、心をおやすめください」
 絶世の美青年は、哀しい目をしている。彼にもまた、どうしていいのか分からないのだ。

 一日が終わり、鷹千穂学園高等部中央館は、静かに眠りにつこうとしていた。
 綾は、誰もいなくなった生徒会室の窓辺に立ち、ただ茫として外を眺めていた。
 いつも傍にいる影の気配もなく、忙しく立ち働く副会長の間抜け面もなく、遠く聞こえるピアノの音もまたなかった。
 薄暮に沈むシルエットが大きくため息をついた時、戸口で苦笑が漏れた。
「心配なのは、雛鳥と成瀬か。それとも介なのか」
 小柄な美少年が腕を組み、戸口にもたれ掛かり、冷めた美声で言った。陽の光の元で見れば単に見目形が麗しいで済むが、黄昏時の薄暮に紛れると、まるで闇が魅了した魔性のものででもあるかのようだ。
 綾が視線を向けて、呟く。
「呼んだ覚えはないぞ、今泉。死神に魅せられぬうちに、帰るのだな」
 窓に寄り添う半身を浮かび上がらせている静かな声が、藤也に届く。
「相変わらず、可愛くないヤツだな」
 今泉藤也は無表情のまま、綾に近づいた。
「鬱陶しいと思う時には、否応なく呼び出す。お前のような無神経でも心配の一つはしてるだろうと、親切に様子を伺いにくれば、気の利かない一言で気分を害する。本当に、身勝手なヤツだ」
 いつもいいように利用されている情報屋としては、ここぞとばかりに不満を言っておきたいようだ。
 綾は藤也の悪態にはさして気に止めず、また、窓の外を眺めた。
「本当、嫌な女だ」
 心の底からそう言うと、藤也は手近にあるパイプ椅子を引き寄せて、そこに踏ん反り返った。
「言っておくが、こんな辛気臭い所へは、来たくて来たんじゃないんだからな」
「それでは何故だ。呼ばれていない時くらい、羽の一つも伸ばせばよいのに」
 いつになく絡んでくる藤也に、綾は思わず苦笑で言い返す。それを、男にしては子造りの腕を杖に頬を机に預けている藤也が、流し目で睨み返した。
「その台詞、介にもちゃんと言っておけよ。自分が関わってるからって、堅気の一般生徒に、情報収集なんてやらすんじゃないってな」
「介三郎が、お前に依頼したのか」
「そうだよ。俺は、鷹千穂に侵入して来た男たちの顔を見てるんだ。そいつらがもし、雛鳥と成瀬を連れて行ったとすれば、そいつらの特徴を尋ねるのは、俺が最適だろ」
 その言葉は、藤也の洞察力と記憶力を理解できる者にしか通用しないものだ。
 綾はたいして反応を示さず、続きを待った。藤也の言葉に異論はないようだ。
 ガランとした生徒会室もまた、静かに藤也の美声に耳を傾けているようだ。
「雛鳥の迎えの車が停まっていた場所付近を歩いてみた。何人かその時のことを覚えてる人がいて、話を聞いてみると、どうも俺が見た奴らとは別口らしい。ただ、同じ学生服だったがね」
「それで、お前が見た方は、万里子の顔でも拝みに来たとでもいうのか」
 混ぜっ返すように笑う綾に、藤也は一瞥をくれる。
「当たらずとも遠からず、だな」
 綾の表情が変わった。
「玄幽会は、万里子を狙っていると言うのか」
 感情の籠もった声を聞き、藤也の相好が崩れた。
「いつもそのくらい狼狽えてくれると、嬉しいんだがな」
「期待に添うつもりはない。それで、万里子が狙われているのか」
 鋭い視線が、闇すら射抜く。それをあっさりと流して、藤也は続けた。
「確かに、玄幽会は女を狙っている。幸か不幸か、マドンナじゃないがな」
「・・・」
「それは、県下最大の暴走族をたった一人で壊滅させた、黄金に輝く女」
 綾の視線が、藤也のものと出会う。綾の表情はまた、無表情に戻っている。
「それで」
「伝説の『魔女』が、美人で有名なマドンナではないかと思われているようだ。それでわざわざこの鷹千穂まで忍んで来たんだろう。目の利かない奴には、女神と魔物の区別なんてつかないからな」
「雛鳥たちがさらわれたのも、それに関係しているのか」
「さぁな。言っただろ、別のグループだってさ。雛鳥たちに用があったのか、はたまた行き掛けの駄賃かは分からないね。早いとこ二人を見つけて、事情説明でもしてもらうんだな」
 しばしの沈黙が、二人の間により一層距離を作る。
「・・・何の為に、その『女』を探しているんだ」
 威圧的な問いが、藤也のこめかみを掠めた。美少年は軽く手でそれを払いのけると、気分を害した様子で、悩ましく肘鉄をついた。
「知らないね。それも、探してる本人に訊いたらどうだ」
 藤也は、長めの前髪をかきあげて、流し目をくれると、椅子から立ち上がり背を向けた。用が済めば、さっさと引き上げたいと態度で表現している。
「介三郎に感謝するんだな。あいつが関わってるんでもなきゃ、わざわざ報告なんぞに来るもんか」
 捨て台詞を微笑で受け止めると、綾は謳う様に言った。
「情報提供のお返しに、私もいいことを教えてやろう。明日午後三時、東都ホテルに行けば、噂の玄武帝に会えるぞ。呼ばれているのは万里子だが、玄武帝の意に万里子がないならば、この際誰でもよいだろう」
 藤也が暫し立ち止まり、流し目で窓辺を見つめる。絶句に近い様子だ。が、またいつもの色っぽい微笑を浮かべると、男にしては細い肩をすくませた。
「本当に、可愛げのない女だぜ」
 その背を見送ると、窓の外で風が鳴る。
「桜か」
 小さな綾の問いに、風は笑って答えた。
「蛍からのツナギを持って参りました。万里子様は、番長連合幹部の捕らわれている場所を、夜叉なる者から聞き出し、そちらに向かわれております」
「夜叉? かなり以前に天光寺を出奔したという、総長香取の妹か」
「御意。しかしながら、夜叉は万里子様の申し出を断ったとのこと。万里子様も無理強いはなさらず、そのまま介三郎さんと二人で行動されています。桜も玄幽会について少々調べて参りましたが、どうも東南部に関する限り、あまりパッとしないのですが」
「パッとしない、とはどういうことだ」
「それが、総長や幹部を捕らえているにも関わらず、何故か掌握しきれないでいる。とにかく、人望がないのですよ。番長連合に属する兵隊たちを納得させられないんです。確かに、武道はかなりの腕の者ばかりなんですけれど」
 桜自身、納得できないという口調が、間延びしている。
「あんなことで大丈夫なんでしょうか」
「何もお前が心配することではないだろう。こちらにとっては、願ってもないことだ」
 綾が苦笑で指摘した。
「それはそうですね。烏合の衆とでも思えばよろしいでしょう」
「分かった。お前に頼みがある」
 先刻の憂いを帯びた横顔ではない。どこか遠くを見据える威厳と自信に満ちた瞳を、微笑で飾っていた。
 桜は既に何かを承知しているように、笑っている。
「なんなりと」
「明日、東都ホテルへ行ってくれ」
 綾は取り出した手紙を、差し出した。それはいつのまにか消えている。
「相手は玄武帝と思われますが、それでもよろしいのですか」
 万里子を呼び出したのが玄武帝らしいことは、藤也の情報でも察しがつく。
 だが。
「玄武帝の真意は、万里子にはない。『魔女』だ。ならば適当にあしらって、捨て置けばよい」
「あら、そうなんですか。それは尚更、お嬢様が行かれては」
 途端に気安い口調になり、桜はおどけた。
「桜、そういうお前の軽口、好きだぞ」
 口の端を微かに引きつらせて、綾が言い返す。
「では、そのように。それから、万里子様のことですが」
 桜はそう切り出して、蛍から聞いたあらましを綾に告げた。
「とうとう怒ったのか。あの介三郎を」
 苦笑で呟き、心の中で、万里子の自分に対する言葉を繰り返す。
 危険なことを、任せておきたくはない。
「万里子様もお辛いのでしょう。お嬢様のことをご心配なのは元より、雛鳥様が捕らわれの身となっておられるのです。ご自分の手で突破口を切り開きたいと仰るのは、無理からぬこと。ですから今回は、出来るだけ万里子様のお気の済むようになされては如何でしょう」
 いつになく真剣みのある低い声で言った後、
「それに、せっかく介三郎さんと二人きりなのを邪魔しては、お可哀想ですよ」
 と惚けた明るい声で付け加えた。
 綾は思わず肩をすくめた。
 同じ影であるにも関わらず、蛍と桜の雰囲気がまったく違う理由は、その生い立ちにある訳だが、それにしてもこの桜は、影に不似合いな底の抜けた明るさがあった。
 もちろんその明るさに救われているのは、綾だけではないのだが。
「だが、このままここで見ている気にはならない」
 綾は腕を組んで、軽く言った。桜の惚けた同意が聞こえる。
「ご無理ごもっともです。お嬢様を止めようなど、無駄なことは、桜は致しません。ですが、万里子様の仰る通り、一つ所を攻めても、玄幽会はビクとも致しません」
「分かっている。番長連合幹部を解放すれば、自然人材は確保できる。万里子の気に障らない程度に、ちょっかいを出して来よう」
 微笑で答える綾に、桜が不穏な気配を投げかける。おそらく、眉間にシワでも作ったのだろう。
「本当に、分かってらっしゃるんですか」
 まったく疑わしいという声だ。
 綾は真顔で、もう一度言った。
「雛鳥と成瀬が、助けを待ち侘びている。極力、寄り道はしない。だからお前は安心して、玄武帝をからかって来い」
「玄幽会を見極めるには、絶好の機会ですから。せいぜい楽しんで来ます」
「それから奴に、くれぐれも『魔女』の夢など見ないように、指導しておいてくれ」
 綾の言葉に短く答え、桜は風一陣残して消えた。
 惚けた空気をただすように、綾は目を伏せ、そして開いた。
 その瞳は、闇の中にあって妖しい光を発し、腰にまで真っすぐ伸びた髪の先が、空気の流れを無視してゆらゆらとざわめく。
 それはあたかも悪夢の中で輝く、伝説の女のようであった。

「なぜだ。なぜ、ほとんどの幹部を捕らえてなお、東南部がとれない」
大きな机を凹むほどに殴りつけ、篠塚は目前に控える部下たちを諫めつけた。
 玄武帝善知鳥(うとう)景甫(かげすけ)との約束は、一週間。それを一刻でも過ぎれば、たちまち篠塚は幹部の地位を追われ、二度と一学園の番格にさえなれはしないのだ。それが、敗北者に対する玄幽会のやり方だ。
 悪名高い前玄武帝の折は、ヤマブキ色の菓子ならぬ、福沢諭吉の束一箱でどうにでもなった。それが今は、武勲のある者のみが、幹部に連なることができるのだ。
 その中で、篠塚が辛うじて高幹部の地位を保っていられるのは、その知略の為だけである。
 篠塚と言えど、武道で有名な玄武館高校の生徒である。丸っきり腕に覚えがない訳ではないが、取り立てて言うほどのものではない。
 しかし、その腕前よりは理念も美学も持たない、ダーティとしか言えない策略が、景甫ではなく、西都の怪物常磐井鼎の目に留まった訳である。
「何としても、常磐井様がご帰国されるまでは、咲久耶を我が物にし、景甫に並ばねばならない」
 震える拳を高々と振り上げて、篠塚は怒鳴った。
 常磐井に忠誠を誓っている訳ではない。また常磐井も、篠塚を部下と認めている訳ではない。ただ、篠塚は自身の確固たる地位を、常磐井は玄幽会に蟻の一穴を、欲しているに過ぎなかった。

「やっぱりダメだわ。私じゃ、この鍵を開けられない」
 丸みを帯びた針金を手に、香取を捕らえる手枷に向かっていた愛美が、一つ嘆いて座り込んだ。
「こんなことなら、今泉くんに、錠前破りの極意でも教わっておくんだったわ」
 いつか鍵を無くしたといって困っていた男子生徒の宝箱の錠前を難無くドライバー一本で念入りに壊していた藤也の綺麗な顔がちらついた。
 せっかく針金があるのに、香取を救うことも、牢の鍵を開けることもできない。
「役に立たなくて、ごめんなさい。香取さん」
 しょぼくれて謝る愛美を、香取は身体を十字に捕らわれながら、肩を震わせて笑った。
「何。何が可笑しいのよ」
 いささか気分を害して問うと、香取は声を出して笑い始めた。
「いや、何。たいしたもんだと思ってよ」
「だから、何が」
 丸顔を膨らませて大きな目を吊り上げる愛美の手の中で、針金が所在無げに動いている。
 香取は俯いて、言った。
「普通は思いつかないぞ。ブラのワイヤーで錠前破りをやろうなんて」
 丸顔から、火が出る。
「だ、だって、仕方ないじゃない。他に目ぼしい物が見つからなかったんだから」
 愛美は真っ赤になって、いじけた。
 香取の豪傑笑いが、止まらなくなった。先程、後ろを向いて何をゴソゴソやっているのかと思えば、どこからともなく針金を取り出して、意気揚々と手枷に取り組んだ。
 そんな愛美が頼もしくもあり、可愛くもあった。
「万里子もさぞかし、退屈しないだろうな」
 野太い声が爽やかだ。厳つい顔でウィンクなどすると、無く子も黙るだろうが、愛美の手当てした絆創膏がカワイイキャラクター商品の為か、愛らしいと言えば愛らしい。
 緊迫感が、失せた。
 愛美は大きく脱力して、雛鳥の寄り掛かる格子に背をもたせ掛けた。
「早く迎えが来るといいね。思いっきりシャワーが浴びたいな」
 隣の雛鳥を気遣いながら、他愛のない話ではぐらかす。
 雛鳥は、いつもと変わらない笑顔を作っているが、その額には薄っすらと汗が滲み、呼吸に引きつるような音が微かに混じっている。
 地価牢の空気はかび臭く、湿気ばかりが気になって、喉の調子も悪くなる。どこかで水が落ちる音がしているが、一定の間隔で落ちるその音も、長時間聞いていると気が滅入る。
 愛美でこれなら、雛鳥のダメージも大きいだろうと視線で大丈夫かと問うと、一層笑顔を作って小さく頷く。それがいじらしくて、儚くて、愛美は支えるように寄り添った。
「皆、探してくれてるのかな」
 呟いて、真っ先に浮かんだのはやはり、惚けた長い顔の丈高い少年だ。時々とても頼りになるが、普段が普段だけに、疾風のように現れて助け出してくれるとは思えない。
 その間抜け顔が鮮明になればなるほど、不安が込み上げてくるので、ひとまず振り払うように三度首の体操をして、香取を見上げた。
「香取さんの手首は大丈夫なの? ばい菌が入って、腐るとか」
 考えたくはないが、ずっと気になっていた。
 頬や身体の傷は手当できたが、手首は手枷が嵌っている為、肝心の傷に触れない。
「大丈夫だ。かすり傷だからな」
 言って香取は、手をブラブラと動かして見せるが、しかし、その顔の端には苦痛が読み取れる。手枷に捕られた両腕は、徐徐に指先の感覚を殺いでいた。だが、目前で心細げに小さくなっている少女二人を見ていると、苦痛など気には掛からない。
 そんな香取の気持ちが分かるから、雛鳥もそして愛美も、泣き言は言いたくなかった。
「香取さんって、ケンカが強くって、番長連合の総長さんになったんでしょ? なのに、あんなゲジゲジにあっさり捕まったワケ?」
 ゲジゲジとは、勿論篠塚のことだ。
 香取は笑って、それを褒めた。
「ゲジゲジとは、ピッタリだな。確かに、マトモにやり合えば、俺が負けるわけはなかったんだがな。俺も甘かったと言うべきだろうな」
 その時のことでも思い出しているのか、香取は俯いて笑っている。
「そんなに楽しいことがあったの?」
 先を催促する愛美の笑顔に答えるように、今度は天井を見上げた。
 牢の天井は、格子を嵌めた形になっており、どうもその中央は開くようになっているのか、格子も二重になっている。
「この真上は道場でな。篠塚に呼び出された俺は、道場で四十人ばかり病院送りにしたわけだが、さて、篠塚をやろうとした時、奴は、俺が丁度仕掛けの場所にいるのを見定めて、俺を落としやがったのさ。気がついた時には、手枷が嵌っていて、この有様だ」
 自嘲の笑みも爽やかに、香取はウィンクで締めくくる。
 反して愛美はおかんむりだ。
「卑怯だわ、それって。あのゲジゲジってば、本当に武士の風上にもおけない奴なのね」
 古風な表現で踏ん反り返る愛美の頬が、お多福よりも膨れていた。
「おいおい、愛美。何もお前が怒ることはないだろう。可愛い顔が台無しだ。ふて腐れるのはやめとけ」
 香取は、そう言って笑う。
 言われて一層、愛美は膨れた。
「どうせね。私はブスだから、どういう顔でもいいんです」
 眉間にシワを三つほど寄せて言い切る愛美に、また、香取は笑った。
「愛美は見かけによらず、心が狭いな。そのデカい胸は、飾りか」
 胸の話が出て、雛鳥は一人隣で笑っていた。当の愛美は見えもしない胸を隠して、香取を睨む。
 豪傑笑いが、地下牢に響く。
「またそういう顔をする。可愛いのが台無しだから、やめろって」
 言葉は素っ気ないが、口調は厳つい顔に反して優しい。
「自分で自分の上限に、線を引くもんじゃねえぞ。愛美。たとえ顔一つでも、卑屈になったらおしまいだ」
「そりゃ、マドンナのような美人になら、何を言っても笑って聞き流すと思うけど、私はそうはいかないわ」
「何故」
 まるで理由が分からないという顔で、惚ける香取は、瞬き一つせず愛美を見つめる。
「何故って」
 愛美は絶句してしまった。言葉にするだけで、心のどこかが疼く。容姿の良し悪しは、いつでも愛美に付き纏うのだ。
 憎からず想う介三郎の横に立つ、二人。
 いつもはメガネで隠している綾の瞳が、万里子の神々しいまでに輝く容姿が、脳裏に焼きついて離れない。あの二人を差し置いて、自分を好きになる馬鹿野郎なんていやしないのだ。
「介三郎様のことを、お考えですの」
 長い沈黙を気にして、雛鳥が小さく呟いた。
 微かな呼吸さえ苦しげに、肩を丸めて耐えているというのに、その表情は決して微笑を絶やすことはない。
「介三郎様は、嘘で人を傷つける方ではありません。そのことは、雛鳥よりも愛美様の方がご存知のこと。それなのに何故、そんなに介三郎様のお心を、怖がられるのですか」
 何もかも見通してしまうような瞳が、真っすぐ愛美の瞳を射抜いている。
「本当に愛美様が、介三郎様を疎んじているならば、綾様も万里子様も、何もおっしゃらないはずです。でも、そうではないでしょう。ならばほんの少し、ご自分に正直になってくださいませ」
「そ、そんなこと言っても」
 愛美はただひたすら、言いよどんだ。返す言葉はない。胸の奥に沈む恐怖が、仄かな想いの裏返しだと、自分自身気付いている。
 だが、夢は長く続かない。
 いつかは、介三郎の夢も終わる。終わって捨て去られるのは、きっと自分だ。
「ダメよ、やっぱり」
「何を――」
 隠れるように顔を腕に埋めた愛美を、大きく叱咤しようとした雛鳥が、突然身を二つに折り、激しく咳き込んだ。
「雛鳥っ」
 香取が身を乗り出して、叫んだ。驚いて、愛美も顔を上げた。
 雛鳥が細い身体を支えられない様子で、床に半分横たわっている。
「雛鳥さん。どうしたの」
 倒れこむ雛鳥を支えて問いただすと、口元を押さえ、苦しい息で笑って見せる。
「だ・・・大丈夫です。すぐに、治まりますから・・・」
 途切れる言葉は、咳に掠れてよく聞こえない。大丈夫だとは言うが、見ているうちに悪くなっていくようだ。
 愛美は意を決したように、格子の向こうの階段に向かい、大きく喚いた。
「ちょっと、そこに誰かいるんでしょ。ボサッとしてないで、医者を呼んで。ここから出してよ。雛鳥さんが大変なんだから」
 ありったけの声で、地下牢の入り口に立っているが学生を呼びつけた。学生は意外に早く駆けつけたが、雛鳥の状態を見て医者を呼んで来るだろうと思ったら、篠塚を連れて戻って来た。
「医者を呼んでって言ったのよ。見て分からないの。彼女は元々病弱なのよ。ここからすぐに出して、手当てをしなさいよ」
 辛うじて咳は止まったが、掠れた音が呼吸に重なっている。喘息の呼吸に似ていた。放っておくと、取り返しがつかないことになりかねない。
 愛美は精一杯怒気を抑えて、懇願した。
「お願いだから、雛鳥さんだけでもここから出して、病院へ連れて行って。お願い」
 悲痛な叫びが、地下牢に木霊した。
 しかし、耳に届いたのは非情の呟きだ。
「捨て置け」
 絶句で見つめた愛美の瞳に映ったのは、魔物も退く異形の獣だった。
 苦しい呼吸を耐えるように、小さく身を縮めて横たわる雛鳥の身体を、厭らしい目で嘗め回し、その光景を楽しんでいる獣がそこにいた。
「鬼、ね」
 愛美は小さく呟いた。
「人の皮を被った鬼だわ。貴方のような人が、大勢の部下を持って大将やってるなんて信じられない」
「何を」
 火に油の一言を、黙って聞いている篠塚ではない。鬼のような憤怒の形相で、格子際にいる愛美の首に手を伸ばした。しかし、その手が届く前に、雛鳥が愛美の腕を引き寄せて、格子から離す。
 空を掴んだ篠塚を、呼吸の整わぬ状態で、雛鳥は屹然と見返している。
 篠塚が唸りを上げた。
「小癪な女だ。起きているのがやっとのその身体でなお、この俺に牙を剥くのか。その曇りの無い目を見ていると、虫唾が走る。いっそ見せしめに、引き裂いて・・・・」
 澱む声を震わせて、傍にいる部下の手にある木刀を取ろうとするが、握り締めるまではいかない。
 真行寺万里子の名が、脳裏を掠める。
 常磐井が狙う女。玄武帝が『魔女』の面影を重ねる女。
 その女の縁の者であろう二人を傷つければどうなるかなど、自分自身にも分かってはいない。果たして言葉を尽くして、逃れられるものなのかどうかも、分からないのである。
 それでもこうして二人を連れて来たのは、部下たちの行き掛けの駄賃に過ぎなかった。早急に帰せば良かったのかもしれないが、それもこうなっては、後戻りはできない。
 篠塚のジレンマを読み取るように、香取は真顔で言った。
「お前にも、すでに分かっているはずだ。この二人は単に、鷹千穂の人間という訳ではない。即刻、万里子の元へ帰せ。万里子を怒らせるな。お前の職務を全うしたければ、言う通りにするんだ」
 篠塚の気を逸らせるように、香取が口を挟むと、篠塚の不機嫌が香取に向かって爆発する。
「俺に指図をするな。その女たちに関わらず、咲久耶東南部は俺が取る」
 傍にあるレバーを踏み下ろし、咆哮する篠塚を止める者はいない。
 香取の手枷を繋ぐ鎖が、レバーが軋んで下げられる毎に、壁の中へと吸い込まれ、香取の手首はまた血で染まっていった。
 目を剥き、歯を食いしばる香取の苦鳴が、牢の中で呪詛に変わり、雛鳥の掠れていく呼吸と重なる。
「もう、やめて。香取さんの腕がちぎれてしまうわ」
 愛美は叫んだ。叫んだ声が、一層篠塚の狂気に火を点けた。
 それでも愛美は叫んだ。叫ばずにはいられない。巻き毛を振り乱して、狂ったように止めてと繰り返す愛美を制したのは、香取の笑顔だ。
「大丈夫だ、愛美。雛鳥の苦しさに比べれば、何と言うことはない。だから・・・泣くな」
 その言葉に打たれるように雛鳥を見ると、額に汗を滲ませて小さく咳き込んでいる。
 どうすることもできない自分を、嘆くしかなかった。
 篠塚は反っくり返って、高らかに吠えた。
「お前はその様だ。噂の夜叉なる女も、依然どこぞで燻っている。これで捕らえているお前の部下どもを半殺しで野ざらしすれば、番長連合の残党も、恐れをなして玄幽会に忠誠を誓うだろう。よしんば奴らを助け出そうとする者がいれば、こちらの思う壺。根絶やしにするまでのことだ」
 篠塚は踵を返した。
「俺は勝つ。まもなくな。そうすれば、その女たちを捕らえている理由もなくなる。せいぜい祈っているのだ。俺がすべてを手中に収めることを。それが、そこから出られる唯一の条件なのだから」
 肩を揺らせて笑う篠塚が、嘲笑を残してまた地上への階段の向こうへと消えた。
 愛美は雛鳥の身体を支えながら、涙の溜まった瞳で消え行く影を見据えた。
 両側に引きちぎられる力が失せ、香取は脱力して息をつく。牢の格子の向こうに見える仕掛けのレバーが、せめて跳ね上げられていれば、壁に吸い込まれている鎖が伸び、たとえ手枷があろうとも、小さな二人に手を差し伸べることができるというのに。留め金でもかかっているのか、どんなに鎖を引き摺り出そうとしても、ビクともしない。
 香取もまた、何も出来ぬ辛さを噛み締めていた。
「香取様。寧々様はまだ、香取様の元にお戻りにならないのですか」
 愛美の肩にもたれて、雛鳥は虚ろな瞳を香取に向けた。
 寧々のことは、何度か聞いたことがあった。
 香取が万里子に向かって寧々の話をする時、どれほど相好を崩すかも覚えている。
 香取は苦笑で、首を横に振った。
「俺には、どうすることもできない」
「何故ですか。仲の良いご兄妹だと、真理子様からもお聞きしました。その寧々様が何故、香取様の窮地を見過ごしていらっしゃるのですか」
「その寧々さんって、強いの?」
 愛美が口を挟んだ。
 香取の目が、どこか遠くを見つめるように細く霞んだ。
「俺が格闘技を教えた。番長連合の中でも、寧々に勝てる者はいないだろう」
「その強い人が、どうして戦わないの? 仲間なんでしょ?」
「そもそもどのような訳で、寧々様は、香取様からお離れなのですか」
 四つの瞳に見つめられ、香取が苦笑で肩を震わせた。
「何故寧々が、それほどまでに思い悩むのかは、俺には分からない。だが、俺とは血の繋がりがなく、別に同じ血を分けた兄がいることを知った寧々は、どちらの兄にもつけず、すべてを放り出してしまったのだ」
「香取様と寧々様が、本当のご兄妹ではないとおっしゃるのですか」
 万里子にまで隠していた真実を聞かされ、ただ呆然と厳つい顔の優しい男を見上げた。
 香取はひたすら苦笑で紛らわした。
 真実は、突然襲ってきた。
 香取の両親は、それぞれが別の形で夭逝し、香取と寧々は共に親類縁者を転々として育った。やがて、見かねた父親の旧友が二人を引き取ったが、二人ぼっちという思いは消えなかった。
 不当ないじめを跳ね飛ばす為に習った格闘技で、いつしか二人はその名を馳せた。
わけても寧々は、女ながらにして勇猛果敢な闘いぶりは、地獄の業火を背負う鬼神のようで、誰からともなく『夜叉』と呼ぶようになった。そうして、咲久耶市保照里区を拠点に番長連合が結成された頃、見知らぬ夫婦が香取を尋ねて来た。
「話は簡単だ。十数年前の産婦人科で、赤ん坊の取り違えがあった。だから本当の娘を返してくれというんだ」
 血液型だけでは、判然としない。その夫婦の死んだ娘も寧々も、同じB型であった。しかし、死んだ娘は癌の治療を受ける際、遺伝子検査をしたという。それでその夫婦の子供ではないことが明らかとなり、産婦人科を調べた結果、寧々ことが実の娘であることが判明したのだ。
 死んだ娘は何も知らされず、その夫婦の娘として他界した。
「そうすると、実の娘が欲しくなる。俺の所へ来て、そんな話をする両親を見て、俺は自分がどうすればいいのか分からなかった。寧々は俺の妹だ。たとえ血の繋がりがなかろうと、あいつは俺の妹だ」
「寧々さんは、どうしたの」
 愛美の小さな問いに、香取はまた首を横に振る。
「答えは出ていない。自分の好きな所へ行けと言った俺の言葉を、どう受け止めたのか。そして、血の繋がりが空白の時間を埋めると言った実の兄の言葉を、どんな思いで聞いたのか。俺には分からない。今となってはどちらを選ぶにしろ、寧々にとっては辛いことだ」
 番長連合を襲う玄幽会の力の中に、あの男がいる。
 あの男に対する憧憬が断ち切れない限り、寧々は香取とあの男の間で、その拳を打ち砕かねばならない。
「だから、万里子しかいないのだ。寧々を動かせるのは、俺の部下でもなくまた玄幽会でもない、まったく別の力を持つ者だけだ」

 雲が走る。時を知らせているのだ。
 それを感じながらも、寧々はただ、屋上に座ってぼんやりと遠くを見ていた。
 香取省吾の本当の妹ではないと知らされてから、寧々の視界は閉ざされた。
 決して幸せではなかった時間の中で、香取はひたすら寧々を庇って生きていた。父と母は、その死の間際まで優しかったが、反して親類縁者は冷たく、生き残った二人を厄介者呼ばわりしかしなかった。閉ざされた世界の中で、寧々を守ったのは他の誰でもない、香取だ。
 不当な仕打ちも振り上げられた拳も、寧々の分まで受けた香取は、しかし決して泣き言一つ言わなかった。いつでも笑って、大丈夫だと繰り返す、そんな優しい兄だった。
 そんな兄の重荷になるまいと、覚えた格闘技も板につき、兄の片腕となって、学生同士のいざこざを治め、気付くと番長連合などという大きな組織の中心にいた。
 そして、突然、真実を突きつけられた。
 泣き濡れた夫婦が差し出す手を、取る気にはならなかった。だが、香取を思って振り返ると、香取は両手を後ろに組み、見送るように笑っていた。
 お前の好きにすればいい。
 いつものぶっきら棒で優しい声が、冷たく聞こえた。
 実の兄だという男が、言った。
 血が繋がっているのだ、十数年の空白を埋めるのは容易いことだ、と。
 確かにその男は、初対面だというのに、どこか懐かしかった。そのままその男が誘うままに、実の父母の元へ行けばいいのかもしれない。しかし、何かを忘れているような気がした。
 何か、とても大切なものだ。血よりも大切なものだ。
 しかし、口に出せば香取の重荷が増える。だから、どこへも行けないままに、すべてを投げ出した。
「このまま、消えちまえばいいのかもしれないね」
 自嘲して俯くと、足元にサングラスが落ちていた。拾い上げて陽にかざすと、笑いが出る。
「昨日のボーヤのか」
 殺気一つない長身の少年が、虚勢を張っているのが楽しくて、ついからかってしまった。すると、根っからの堅気だと思ったボーヤは、意外に修羅場を知っていた。
「誰が仕込んだのかは知らないが、上手くやったじゃないか。アレなら、たとえウドの大木でも安心して傍に置ける」
 間抜けな顔が浮かぶその横に、真っすぐ心を突き刺す視線があった。
 番長連合総長が、女神と称して憚らない女。
 真行寺万里子。
 寧々の表情が、能面のように強張って、何も映さなくなる。噂のマドンナは、想像以上の美と威厳で圧倒した。
「兄貴が惚れるの、分かる気が・・・」
 苦笑した寧々の言葉が、突然途切れる。廃ビルの屋上には、寧々の座っている太いパイプが集合している貯水タンクがあるだけだ。階下に降りる階段の入り口を、使用した者はいないはずである。
 だが。
「そこにいるのは、誰だ」
 鋭い視線を後方に向けて立ち上がった寧々の左腕で、ブレスレットが激しく鳴った。ファイティングポーズをとっているわけではないが、すでに戦闘態勢はできている。
「もう一度言う。そこに隠れてる奴、出ておいで」
 鋭い語気をさらりと流すように、影は貯水タンクから高く跳躍し、寧々の前方に舞い降りて膝をついた。
 蛍である。
「主君より、真行寺万里子様をお守り致すよう、申し遣った者と思し召しくださいませ」
 張り詰めた雰囲気の中で、蛍は研ぎ澄まされた刃物のような口調でそう言った。
 寧々が冷たく見つめ返す。
「そのお前が、何故あいつから離れてこんな所にいる」
 咎める声が、冷たかった。
 蛍は眉一つ動かさず、続ける。
「万里子様がお望みなのは、貴女様のお力添えだけにございます。我が主君のお止めになる声を振りほどいてのこの度の出陣も、すべては貴女様に事を収めていただくお気持ちから。それが分かった以上、貴女様を万里子様の元までお連れするのが、わたくしの役目と存じます」
 万里子の護衛を命じた綾が、彼女の真の主君である。いかに万里子と言えど、その命を覆せるものではないようだ。
 寧々はしかし、凍りついた瞳を遠くに、ひたすら蛍の視線を避けていた。
 その脳裏に、背を向けあう二人の男がいる。
 一人は兄と慕ってきた男。もう一人は実の兄だと言う男。振りほどきたい気持ちを萎えさせる静かな双眸と大きな手が、寧々の心の一寸先まで近づいている。
「もう、あたしに構うな」
 小さく呟く。
「マドンナが動いたとなれば、番長連合ももう心配ない。所詮、東南部に侵攻している玄幽会に、それほどの力はない。マドンナならば、難無くこれを御すだろう。あたしが出る幕などないんだ」
「ですが、今の万里子様は、玄武帝に魅入られておられます。もしこのまま万里子様が敵陣に入られ、四面楚歌の中で玄武帝に出会われては、たとえ万里子様と言えど、無事では済みませぬ」
 玄武帝の名が出て、一転寧々は顔色を変えた。
「まさか、あいつが動くのか」
 信じられないという表情が、空を睨んで震えていた。
 これまでこんな所で燻っていたのは、私情とは別に理由があった。香取の統べていた番長連合は、どんな苦境に立とうとも、玄幽会に屈するような組織ではない。香取が捕らわれ、幹部が捕らわれても、必ず立ち上がる者がいると思っていた。
 だが、玄武帝が出る・・・。
 この一言が、寧々の心の奥に隠していた思いを浮かび上がらせ、目の前に突き付けた。
「どうか、万里子様をお助けください。最悪の場合、捕らわれているであろう方の命に関わるのです」
 一心に訴える蛍の視線を正面に、寧々は暫く微動だにしなかった。
 蛍の瞳は、何の澱みもない美しいものだ。その瞳を見ていると、彼女の主君がどれほどまでに、あの美しい聖女を大切にしているかが分かる。そして、寧々の目には、介三郎もまた、蛍と同じ主君を持っているのが読み取れた。
 寧々は手にしたサングラスを見つめ、胸に握り締める。
 寧々には、捕らわれている兄省吾の声と同様に、苦痛に耐える番長連合の者や、万里子の探す二人の少女の声が聞こえている。
 万里子は言った。
 信じる、と。
「大切なものが何かは、分かっている。ただ、あの男のあたしを見る目を、振りほどけないだけだ」
 寧々は小さく呟いて、次に顔を上げた時は、別人のような凛然たる表情で、蛍を見つめていた。
「お前の言うことは分かった。先に行き、マドンナを守れ。玄武帝・・・あれは闇だ。あたしも後から追う。いいな」
 鋭く指示する寧々に、万里子と同じ敬意を払い、
「では」
 と言葉少なく頷いて、蛍は消えた。
 雲が、早い。
 寧々はサングラスをかけた。白いセーラー服とのコントラストで、一層黒く光るそれに、陽光が映える。

 バイクが丘の上で止まった。
 介三郎はバイクが止まると、即座に万里子の後部席から降りて少し離れる。やはり何度乗っても、甘い香りに意識が持っていかれる。
 万里子は丘の突端まで行き、眼下に広がる廃墟と化した遊園地を指差した。潰れてかなり経つのか、遠目にも傷みが激しい。周りは小高い丘が連なり、緑に覆われた森のようだ。町は万里子たちが立つ丘を挟んで、丁度反対側にある。
 ゲートは四方にそれぞれ一つあり、メインゲートは向かって右端、南になる。そこから入ってすぐ、左にみやげ物やや飲食店の入った西洋風建物。右にはお化け屋敷、それに挟まれるように広場があった。丘の真下に見える西ゲートを入ってすぐ、古びた協会が建ち、その向こう、東ゲート寄りに数種の乗り物が巨大な偶像のように佇んでいた。
 そして、北ゲートを背に建つ野外音楽堂に、豆粒大の人間が集まっていた。
 寧々が言っていたように、番長連合の領域に入ってからは、物々しい雰囲気の学生が目についた。それがすべて、音楽堂に集まって来ているようだ。
「ここからが正念場ですわよ。介三郎さん」
 高みから廃墟を見下ろしながら、万里子は静かに呟いた。
「俺は、どうすればいいんですか」
 ケンカにおいては素人の介三郎は、広大な廃墟を眼下に、些か気後れしていた。
 万里子がすべてを承知するように頷くと、真っすぐ廃墟を見据えた。
「何か策を練らねばなりませんわね。どちらにしろ攻撃は、夕刻か夜襲になるでしょう。介三郎さんはそれまでに、身を守る心の準備を終えてください」
「はい」
「心配なさることはありませんわ。相手の攻撃をかわすことは、わたくしよりも上手いのですもの。何とかなりますわ。それでも自信が持てないとおっしゃるならば、ここへ置いていきますけど」
 意地悪っぽい微笑は、しかし、決して怒りや非難を帯びてはいない。
「いや、俺もマドンナと一緒に行きますよ」
 介三郎は、笑った。いつもの間の抜けた顔で、明るく笑って言った。気分の切り替えに関しては、唖然としてしまうほどの早さである。
「マドンナ一人にやらせて、高みの見物してたって綾にバレたら、何を言われるか。俺は、玄幽会より綾の方が怖いから」
 いつもなら、万里子の視線から逸らしてしまう瞳が、真っすぐ見開いて笑いかけている。それには安堵のため息が漏れるほどの自信さえ窺えた。
 決して実力の伴うものではないが、しかし、脳裏に浮かぶ無敵の少女ともう一人、純白のセーラー服を纏った女性の言葉が、大きく耳元で鳴る。
 守れ。
 後退している暇はない。何を一番考えなければならないのか、分からないほど自分は間抜けじゃないぞ。
 自分は何とかなる。
 守らなければならないのは、万里子。助け出さなければならないのは、雛鳥と成瀬愛美。
 だから、ここまで来たのである。
「大丈夫ですよ、マドンナ。綾がいつも言っています。まだ両手両足が残っている。胸には命がある。だから大丈夫。何とかなる」
 試合はまだ終わっていない。ゲームセットのホイッスルが鳴るまでは、決して諦めはしない。
 細身の長身を見上げ、万里子は眩しげに目を細めた。
「そうですわね。仰る通りですわ。躊躇いも不安も無用です。わたくしたちに出来ることをするまでですわね」
 いつもの神々しいまでの微笑みで、万里子は笑った。その瞳が、微かに何かに気づいた。
「では、介三郎さん、わたくしはここにおりますから、町で何か買ってきていただけますか。喉が渇いてしまったわ」
 介三郎は頷いて、踵を返した。
「それじゃ、ちょっと行って来ます。綾への連絡はどうしますか」
 携帯電話は持っているが、いざという時の為に電源を切っている。
 万里子は少し考えて、首を横に振った。
「綾は今頃、東都ホテルで玄幽会縁の者とティータイムですわ」
 深紅の薔薇と共に送られてきた手紙の、約束の日が今日である。
「玄幽会ゆかりのもの・・・って」
 玄幽会と聞いて目を寄せると、笑われた。
「おそらくは玄武帝自らいらっしゃるのでしょう。わたくし宛の手紙でしたが、綾に代わっていただきましたのよ」
 努めて平静に説明する万里子を見ていると、心配も焦りも馬鹿げて見える。
 元より、綾である。
「心配いりませんよね。綾のことだから」
 あの天下無敵を相手にする玄武帝の方が可哀想だ。
 介三郎はいつもの天然系の顔に戻って、手を挙げた。
「じゃ、行って来ます。早めにここに戻りますから、待っててください」
「道中、気を付けてくださいね、介三郎さん。くれぐれも、玄幽会の者に捕まらないように」
 優しい声は、いつもと変わらない。
「大丈夫ですよ、マドンナ。あそこにあれだけ集まっていれば、町の方には玄幽会はいないでしょうから」
 では、と一礼して、介三郎は遠ざかる。大きなストライドが黒のバイクウェアに似合いだが、その広い背中は修羅場とは縁のない、普通の高校生のものだ。
 それを見送った万里子が、あらぬ方を睨んだ。美しいだけに凄みのある視線を受け取ったのは、灰色の学ランで襟に『玄』のバッジをつけた学生数人だ。
「玄幽会の方々のようですね」
 感情を抑えた静かな声は、その身に纏う気品を一層引き立たせる。
「そうおっしゃる貴女様は、どうやら噂に高いマドンナのようで」
 言い返したのは、篠塚の片腕、島原だ。
「見晴台からこちらを見れば、世に美しい女人がいるという。来て見れば貴女様だったわけだが、傍で見ると想像を絶する美しさだ」
 辛うじて言葉には知性があるが、その表情は決して理知的とは言い難い品性を問われるものだった。
「称賛の言葉は結構です。それで、わたくしをどうすると仰るのですか」
「我らの祝宴に、ご招待いたしましょう。もちろん腕ずくでも、お連れするつもりですが」
 島原の上げた右手を合図に、部下が数人、万里子に近寄る。しかし、その周りを取り囲んだものの、誰一人、万里子に手を伸ばそうとする者はいない。否。触れることができないのだ。
 万里子はそんな者たちに一瞥をくれ、島原を見据えた。
「介添えは無用です。どこへなりと参りましょう」
 女王のような威厳が、取り巻いている者たちを圧倒する。この状況でこれほどの毅然たる態度を取られるとは、島原以下思ってもいなかったようだ。
「では、案内いたします」
 唾を飲み込み、思わず一礼した島原が、自分の動作を恥じるようにふいと踵を返して先に立つ。
 万里子は先導の島原に続き、その脇と後方を他の者が取り囲むように進んだ。まるでテレビで見る、護衛に囲まれた要人の一行だ。それを不審に思う者はいないだろう。その扱いを納得させられるだけの品格が、万里子にあるのだから。

 介三郎は軽くジョギングするように丘を駆け下り、街中に入った。
 どこと変わりない町並みだが、あまり人はいない。廃墟の遊園地同様の寂しい雰囲気が街中にあった。学生の姿も所々見られるが、どれも玄幽会の者ではなく、一般生徒のようだ。
「そうだ。母ちゃんに電話しないと。この分じゃ、今日も帰れないかもしれないもんな」
 ポケットから携帯電話を取り出し、電源を入れる。取り込み中に着信があっては困るからと、万里子に言われて切っていたのだ。万里子も同様に電源を切っていた。
 自宅の電話番号を表示しかけると、コール二回で威勢のいい声が電話口に出た。
「あ、母ちゃん。俺、介三郎だよ」
 懐かしい母の声に、嬉々として言うと、
『無断外泊の上、学校にも行かないで、どこをほっつき歩いてるんだい。この不良息子』
 と怒鳴られた。
 思わず小さくなって、その場でペコペコと頭を下げる。
「ごめんよ、母ちゃん。悪いことしてる訳じゃないからさ」
『当たり前だよ。無断で学校休んだ上に、悪さでもしようものなら、二度とご飯作ってやらないからね。肝に銘じておいで。とにかく梶原くんとタクくんが心配して、家まで来てくれてるんだよ。用事は二人に謝ってからにしとくれ』
 一方的に言って、速水夫人は電話口から離れた。
 それほど怒られなかったので、ホッとしていると、またしても破れ鐘を叩くような音が耳を襲う。
『携帯切って、どこで何をしてやがる。両手に花で楽しんでるんじゃねぇだろうな』
 声の主は、梶原常史だ。
「両手に花って、何のことだよ」
 あまりの声の大きさに呆れて、携帯を耳から離すと、今度はとてつもなく明るい声が聞こえる。
『介ちゃーん、お元気?』
 いかな介三郎でも、どっと項垂れてしまう程の脳天気な声だ。梶原では埒が明かないと思ったのか、巽卓馬が横から受話器を取り上げたようだ。
「タクか。相変わらずだな。その明るさ、カジに分けてやれよ」
『そりゃ無理だよ。カジが怒りんぼなのは、今に始まったことじゃないだろ。それよりさ、本当に両手に花なわけ?』
「花って、誰のことだよ」
 頭の中には、成瀬愛美しか浮かばないが、それは介三郎だけのことだ。
『花って言えば、決まってるでしょ。綾と藤也だよ』
 卓馬は笑って言った。
「藤也??」
 思わず介三郎は絶句する。そうか、あれだけ美形だと、男でも花になれるんだ。ふむふむ。
「どうして、藤也が出てくるんだよ」
『だってさ、介が学校休むなんてことないからさ、藤也に介のこと訊きに行ったんだ。そしたら藤也もお休みだろ。で、意を決して綾のとこまで行くと、これまた綾も欠席でさ。で、ここまで来たわけ』
 幼い口調が抜けない卓馬の説明に、介三郎はいちいち頷きながら、考え込む。
「何だ。藤也もいないのか。綾に付き合ってるのかな。いや、まさかな」
 憶測が交互に脳裏を掠めていた。
 藤也が綾と行動を共にすることは、まず考えられないが、しかし、藤也が玄武帝に関する情報を無視しているとも思えない。
 果てしなく唸っていると、卓馬が受話器の向こうで惚けている。
『ってことは、綾の行き先は分かるの?』
 決して急がない口調が、彼らしい。
 介三郎はつい笑って、口を滑らせてしまう。
「綾は今、東都ホテルでデートだよ」
『げっ。綾がデート』
 これには卓馬も蛙を潰したような声で繰り返すと、またしても横から怒鳴り声が聞こえた。
『おい、介。デートって何だよ。やっぱ、両手に花か』
 一瞬鼓膜が破れるかと思うほどの大声が、受話器を離してなおも耳に届く。
「カジ、ボリューム下げてくれ」
『うっるせぇ。さっさと訊いたことに答えやがれ。このスットコドッコイ』
 いかな介三郎でも、眉間にシワが寄る。いつものこととは言え、梶原常史の言葉は電光石火の上に、汚い。
「あのな、綾は玄幽会絡みのデートだよ。藤也は知らないけど、俺は成瀬と雛鳥追って、今須勢里区まで来てるの。花は花でも、マドンナと一緒だよ」
『追ってって、何だよ』
「どうも玄幽会絡みの抗争に巻き込まれているようなんだ。とにかく、カジは献血でもして頭を冷やせよ。じゃ」
 尚も食い下がられそうになり、さっさと切って、ついでに電源まで切った。際限なく怒鳴られては、たまったものではない。
「あいつって確かA型だっけ。A型の奴って、皆あんな全開バリバリなのかな。それとも血圧が高いのかな。一リットルくらい献血すれば、人並みになるだろうな」
 本来の用事を忘れて呟く介三郎の背に、幾つもの視線が注がれていることに、介三郎はまだ気付いていない。
 そして、速水家の受話器を叩き付けた梶原は、卓馬が止める手を払いのけ、烈火の如く血をたぎらせて行動に移った。

 咲久耶北区に位置する玄幽会司令部には、咲久耶東南部侵攻の行動が、逐一報告されていた。その内容はあまり芳しいものではなく、どう言葉を飾ったところで、篠塚の詰めの甘さを指摘せざるを得ないものであった。
「どうやら、これまでのようだな」
 整然とした部屋で、部下がもたらす情報を聞いていた渋谷宜和が、ふと、視線を在らぬ方へ向ける。
「どうかなさいましたか」
 報告書を読み上げていた学生が、顔を上げて渋谷を見る。それまで泰然自若で聞いていた渋谷の異変が、あまりにも大きかったからだ。
 異変の理由はすぐに分かった。
 何者かが、廊下をこちらに向かってくるのだ。多くの声が交錯する所をみると、侵入者であることは間違いがない。
「何者でしょうか。ひとまず様子を・・・」
 報告書を閉じて扉まで走った学生は、次の瞬間勢いよく開いた扉に吹き飛ばされて、渋谷の足元近くまで飛んでいた。
「まったく、女だということを忘れているのではないか」
 優しい声で笑う渋谷の視線が、扉の横に立つ白いセーラー服の女に注がれた。
「まとわりついて鬱陶しいから、払い除けたまでだ。訪問者に対する態度が悪いぞ。監督不行き届きだ」
 そう答えたのは、紛れも無く寧々であった。開け放たれたドアの向こうに伸びる廊下には、学生が点々と倒れ伏している。
 異変に気付いて駆けつけた学生は、続々と寧々の周りを取り囲んで威嚇している。それらに臆した様子もなく、端然と立っている寧々から視線を外さず、渋谷は足元で転がる部下に手を貸した。
「部下たちの非礼は、俺が詫びよう」
 言って、渋谷は皆に下がるよう指示した。渋谷の命令は絶対なのか、部下たちはこの白い侵入者を訝しみながらも、黙して下がって行った。
 壁に掛かる玄武旗を背に立つ渋谷と、それを正面に見据える寧々がいるだけだ。
「どうして、俺の妹だと言わなかったんだ。そうすれば、すんなりとここまで来れたものを」
 渋谷は静寂を壊さぬよう、静かにそう言った。
 寧々は、まっすぐ渋谷を見つめていた。
 香取省吾と同じ大柄な体型を、鍛え上げた筋肉で縁取った目前の男は、しかし、香取とは違う静かな物腰と瞳をしていた。玄幽会幹部の中でも、宰相佐久間と並ぶ忠臣であることは、一目で看破できる。そしてそれが、決して武道の優劣だけでないことも、寧々には分かっていた。
 渋谷が玄武帝に忠義を尽くすと同様に、おそらく渋谷の部下たちも、渋谷に対して絶対の忠義を尽くすだろう。それほどの男だ。
 そんな渋谷が、実の兄だと言って現れた時、戸惑いよりも、尊敬する兄省吾と同格の男に会えたことの方が嬉しかった。
 だが、
「あたしも、よっぽどそう言おうと思ったよ。だけど、言えなかった」
 実の兄だと名乗られて以来、頭から離れなかった姿を前に、寧々はそう言って苦笑するしかなかった。
「あんたは、血の繋がりが十数年の空白を埋めると言った。だが、この十数年間、あたしは死んでた訳じゃない。兄貴と二人で、それなりに生きていたんだ。それを消すことはできないんだよ。だからあたしの兄貴は、香取省吾だけだ。どう逆立ちしても、あんたを兄貴とは呼べない」
 言い終えた時の寧々は、迷い一つない目をしていた。
 渋谷が微笑して、一歩一歩寧々に近づく。
「やっと、答えをだしたのか」
「いや、答えはずっと前に出ていた。ただ、心のどこかで、都合のいいことを考えていたんだ。もしかしたら、ホームドラマのような家族ってヤツが、あたしにもできるのかなってさ。でも、それと引き換えにするには、兄貴は大きすぎた」
「香取には、勝てないということか」
「そうだ」
「では、これを持って行け」
 渋谷は言って、懐から細長いケースを取り出して中を開けた。
「母から、もしお前が別れを告げに現れるようなことがあれば渡して欲しいと頼まれていた物だ」
 大きな手の平に乗っているのは、小さなエメラルドのついたネックレスであった。
「これは母が、祖母からもらったという年代物だ。舞子・・・死んだ妹だが、舞子が受け取ることになっていたものだが、お前に譲りたいと言っていた。お守りだと思って、持って行け」
「でも」
「お前が香取の元から飛び出し、あても無く暮らしているのを、母は心配していた。お前が香取を振り切れないならば、それでもいい。せめて息災でいて欲しいと、母は毎日泣き暮れるばかりだった。だが、それも今日限りだ。母も安心する」
 寧々の左手を取り、ネックレスを握らせて、渋谷は穏やかに笑った。
「さぁ、行け。香取や番長連合の者が、お前を待っているだろう。篠塚は小心者だが、その分ダーティだ。香取は無傷ではあるまい。行って救い出すのだ」
「咲久耶に侵攻している玄幽会が、壊滅してもいいのか」
 信じられないという眼差しで渋谷を見上げると、玄幽会屈指の剛の者は、爽やかに笑って言った。
「いずれ、咲久耶は玄幽会が取る。だが、その立役者が篠塚であってはならないのだ。ひとまずは、香取に花を持たせよう。香取にもそう告げてくれ」
 世間話の一端のような宣戦布告は、まるで激励の言葉のようだ。
 寧々は込み上げる想いを、厳しく結んだ唇で止めた。その表情を見ないように、渋谷が背を向ける。
 寧々も顔を伏せて扉に向かうと、無言でネックレスを首にかけた。数えるほどしか会わなかった母の温もりが、優しく胸に染み込む。
「いつか、あんたと戦う時が来るのかな」
 寧々の声は、小さく掠れていた。
 咲久耶の一端を制す香取の元にいれば、玄幽会との抗争は免れないであろう。取り分け玄幽会における渋谷の地位を思えば、直接やり合わねばならない時が本当に来るかもしれない。だがそれも、渋谷にとっては小事に過ぎないようだ。
 渋谷は寧々の背を振り返り、爽やかに笑って腕組みをすると、優しく叱るように言った。
「その時、お前が手加減をするようであれば、今度こそ我が家に連れ戻す。いいな」
 おどけた口調で吹っ切れた。
 寧々は幼子が浮かべる様な晴れやかな笑顔で振り返り、左手を差し出して親指を立てる。ブレスレットの音色が、心地よく響いた。
「了解」

 介三郎が、梶原の怒鳴り声から逃れるように携帯をしまうと、突然薄暗い路地に引き摺り込まれてしまった。
 しまった、と思った時にはすでに遅く、周りを険しい顔つきの学ラン姿に囲まれていた。明らかに彼らは、介三郎に敵意を抱いている。
「あの、どちらの方ですか?」
 あくまでも間の抜けた様子を装い、介三郎はリーダー格の男を見た。黒い学ランは、所々暗がりでも分かるほどに綻びている。顔を見つめてみても、無傷の者は唯の一人もいない。
「もしかして・・・」
 言いかけた介三郎を制し、男は鋭く問う。
「お前、玄幽会か」
「は?」
「見かけない顔だ。堅気のようにも見えるが、如何せんその出で立ちが気になる。玄幽会か、はたまた別の組織の者か」
 畳み掛けるような口調に閉口し、介三郎は頭を掻いた。
「あのぉ、怒られるかもしれませんが、もしかしなくても、番長連合の方々ですか」
 間抜けな問いに、皆が気色ばんだ。
「やはり、玄幽会か」
 介三郎は、この状況に笑顔を絶やさず、大きく両手を振って否定する。
「ちっ、違いますよ。落ち着いてください。俺は、南区にある鷹千穂学園の者で、速水介三郎といいます。マドンナと一緒に、玄幽会に捕らわれている人達を助ける為に、ここまで来たんですけど」
 見るからに堅気の少年は、しかし、その見かけに反した度胸と緊張感の無さで、忽ち殺気を吹き飛ばしてしまう。
「マドンナと知り合いなのか、お前」
 絶句に近い呟きが、誰ともなく漏れる。
「そうですよ。これから、敵のアジトを叩くのですが、俺はちょっと用で歩いてただけです」
 端折って話す介三郎に、また、男たちが詰め寄る。
「信じられねえな。お前のような素人まがいが、マドンナの知り合いだなんてさ」
「もしかして、罠とか」
 違う男が、付け足す。
「そんなこと言っても、本当なんですから」
 仏頂面でそう言うと、介三郎は踏ん反り返った。
「ふざけるな」
 かなり気が立っているのか、一人がいきなり殴りかかった。
 寧々の時と同様に、難無く避けるつもりでいたが、一人に触発されたように数人同時に掛かってくる。
「嘘だろぉ」
 諦めにも似た呟きを漏らし、介三郎はせめて防御の真似とばかりに、両腕を立てて身体を縮めた。
 だが、来るぞと思った炸裂音はなく、薄っすらと目を開けて前を見ると、見覚えのある長い髪の女が立っている。
「あ、綾?」
 自分の目を疑って別の方を見ると、何かに気圧された様子で、学生たちが驚愕の眼差しを向けている。
「どっから降って湧いたんだ」
 目を剥いて喚く介三郎に、綾は惚けた顔で上を指す。振り仰ぐと、確かに建物のどこかから飛び降りて来たんだろうと想像できるが、それでも並大抵のことではない。
「ま、お前のことだから、ちょっとやそっとじゃ驚かないけどさ」
 介三郎は口の中でモゴモゴと言った後、
「でもどうして、お前がここにいるんだよ。確かマドンナが、綾は玄武帝とデートって言ってたぞ」
 と問う。
「あれは他に任せた。玄武帝には少々他事に気を遣っていてもらいたいからな。横槍を入れられては困る」
 あっさりと言って、綾は睨み返した。
「ところで、介三郎。この非常時に何を遊んでいるんだ。万里子はどうした」
「マドンナは、丘の上で待ってるよ。俺、何か飲みたいってマドンナに言われて、町まで買いに来たんだけど」
 状況を把握できないでいる学生たちを無視して、二人は会話を続けた。
「嫌な予感がするな」
「マドンナに何かあったとか?」
 考え込む綾に、覆いかぶさるように問いながら、介三郎も顔を曇らせた。
「とにかく、行こう」
 言ってる先から行動に移っている綾に送れないように、介三郎も続いた。
 それに、弾かれたように学生の一人が、二人の前に回り込み、神妙に問い質す。
「本当に、マドンナの知り合いだったのか」
「だから、さっきから言ってる通りです。信じてもらえましたか」
 綾の半歩後ろに立つ介三郎が、いとも爽やかに答える。
 学生は、綾に視線を向けたまま、暫くそのままで立ち尽くしていた。そうすると、他の学生たちも先程の敵意も他所に、綾と介三郎に駆け寄る。
「脅して悪かった。俺は風間。番長連合の者だが、所詮は下っ端。総長や幹部を助けることもできず、ただ細々と抵抗しているだけだった。だが、マドンナが来てくれたのなら、案ずることはない。どうか俺たちにも、何か手伝わせてくれ」
 非礼を詫びるように、頭を下げて訴える風間を、綾は無言で見ているだけだ。
 介三郎がそれをフォローするように進み出て、答える。
「そうしてくれると助かります。多い方が早くカタがつく」
「だから、引越しではないと言っているのに」
 思わず頭を抱えている黒ずくめにメガネの女を見ていると、この非常時に笑顔がこぼれる。
 だが、意気盛んに丘に登った皆の前に、万里子はいなかった。
 確かに万里子のバイクは別れた時と同じ場所にあった。だが、周囲を皿の目にして見回しても、万里子の姿はない。
「でも、ここで待ってるって、約束したんだぞ」
 介三郎は置いてけぼりにされた子供のように、あたふたと狼狽している。
「介三郎、お前が万里子と離れて、どれくらいになる」
 厳しい問いに、介三郎は思わず指を折って時間を数えるが、答えることはできなかった。
 綾はおもむろに丘の突端まで進み、眼下に広がる廃墟に目を凝らす。気を集中させる綾の身体が、陽光の下で微かに光って見えた。
「いた」
 小さな呟きを、介三郎が聞き付けて駆け寄る。
「どこに」
「あそこだ」
 短い答えの向こう。廃墟の端にある野外音楽堂のステージに、人だかりのようなものが出来ている。
「本当に、あそこなのか」
 半信半疑の介三郎とは違い、綾の瞳は淡い色に変化して、自信に満ちた笑いを浮かべている。
「さすがだな。誰も、万里子に近寄ることができないでいる。あの様子では、拘束されることはないだろう。後はキッカケか」
 そんな声を耳に、介三郎は目を凝らしたが、ただ人だかりが分かるくらいで、どこに万里子がいるのか、ましてどういう状態なのかということは、まるっきり分からない。
 ついてきた風間たちも、競うように廃墟を凝視していたが、こちらもそれほど目はよくなさそうだ。綾の言葉を確かめようと、目を皿のようにしているが分からない。
 万里子のバイクの後部に括り付けてある荷物を解き、中の物を取り出して介三郎を呼ぶ。
 振り返った介三郎の胸元に投げられたのは、何の変哲もない短い棒。握り締めると、しっくりと手に馴染む太さと硬さだ。
「お前はこれを使え」
「俺が? どう使うんだ、これ」
 問うと、「このボタンを押すと伸びる。このスイッチは痺れる」と簡単な説明をされた後、
「どうせ素手のケンカでは、足手まといになるだけだ。せめて自分の身ぐらい、自分で守るのだな。使い方は、適当に考えろ」
 あっさり言い切って、綾は視線を移す。
「俺たちは、どうすればいい」
 既に綾を認めているのか、教えを請うように詰め寄る風間たちに、綾は軽く頷いて、
「総長香取やお前たちの幹部、それからうちの女子生徒がどこに捕らわれてるか、分かるか」
 と問うた。風間たちが少し考えて、示す。
「総長と女子生徒はわからない。ここではないことは確かだ。ただ、幹部の方々が捕らわれているのは、分かる。お化け屋敷だと思う。正面ゲートを入って右だ」
「そうか。皆はどこかに身を隠していてくれ。合図があったらすぐに、突入できる場所でな」
「綾はどうするんだ」
 万里子のヘルメットに手をかけて、長い髪を素早くまとめている綾に、介三郎は問う。
「私が、人質を動けるようにしておく。雛鳥が捕らわれて二日。これ以上迎えが遅れては、命が危うい。あの子がここにいないなら、ここばかりに関わりあってはいられないのだ。だから、皆の力で何とか切り抜けろ」
 バイクに跨り、ヘルメットを被った綾が、勢いよくエンジンをかける。
「お前、免許、持ってたっけ」
 思わず叫ぶと、
「心配するな」
 の一言。その一言で、つい納得してしまうのが、我ながら笑えた。
「大丈夫だ、介三郎。万里子がいる。お前は、自分の身を守ることだけを考えろ」
 爆音の中に響く澄んだ声に、介三郎は相好を崩した。
「どうした?」
 あんまりほのぼのとしているので、訝しげに綾が問うと、一層ほのぼのとして、
「お前に、『大丈夫』って言われるのが、一番嬉しいな」
 と惚けた答えが返ってくる。
 ヘルメットの向こうで、笑っているのが分かった。
「成瀬が待っているぞ」
 そんな声が聞こえたが、それも一瞬で、綾を乗せたバイクは、爆音を残して去って行った。
「あれはいったい、どういう女なんだ」
 風間が遠く消えて行く影を追いながら、介三郎に問いかけた。
「まるで風のようだ。だが、それだけじゃない。威圧で俺たちを跳ね飛ばした女など、未だお目に掛かったことはない」
 介三郎に向かって殴りかかった時、それを跳ね返したのは拳の力ではない。強いて言えば、巨大な気の壁のようなものだ。どれほどの剛の者かと思って見ると、果たして立っていたのは、細身の女だ。自分の目を疑わずにはいられなかった。
「まぁ、あいつのような女が、そうそう転がってたら怖いですよ」
「で、誰なんだ」
 風間だけでなく他の者たちも、耳をそばだてて介三郎の答えを待っている。
 介三郎は、手に持つ棒を内ポケットに入れて、肩をすくめた。
「マドンナの友人。それでいいでしょう」
 これ以上の説明は不要だ。
「さ、言われた通り、どこかで合図を待ちましょう」
 風間たちもそれ以上は訊かず、介三郎に従った。
 仲間が待っている。

 雛鳥の容体は、悪くなっている。
 既にその表情には笑顔はまったく見られず、声を出すこともない。引きつった呼吸が地下牢に響き、時折激しく咳き込む。
 石床なので、身体が芯から冷えていく。
 愛美は自分のブレザーを脱いで雛鳥の肩にかけ、それでは足りないと香取のボロと化した学ランを剥ぎ取って足元にかけてやった。
 膝枕をしてやろうとすると、その方が息苦しいと言って、傍に投げてあった学生カバンから教科書を抜き枕代わりにしていた。
「しっかりしてね、雛鳥さん。もうすぐマドンナも綾も来るわ。それまで、しっかりね」
 そんな言葉を掠れた声で繰り返しながら、愛美は祈るように時を待った。
「せめて、この腕が自由なら」
 雛鳥の小さな身体を遠くに、何もできない自分を香取は呪った。むなしく握り締めた指の隙間から、血が滴り落ちる。
「何とか、せめて外と連絡が取れる手段があればいいのに・・・」
 答えを乞うように香取を見上げ、愛美は目を見張った。
「あの、明り取りの窓」
 香取の頭上を指差して、愛美は呟いた。香取の頭の先から2メートルもないだろう。細い鉄の格子が嵌った極小さな窓がある。
「あそこから、外が見れるのかしら」
「ものは試しだ。愛美、俺を踏み台にして覗いてみろ」
 香取はそう言うと、片足を補助台にするように膝を立てた。
 愛美は百五十センチ弱。かたや香取は百九十センチを超える長身の上、横幅がガッチリとしていてぬりかべのようだ。よじ登ると表現するのが、一番妥当だろう。
 まず香取の膝に足をかけ、それから肩によじ登る。
「お願いだから、下から覗かないでね」
 それだけははっきりと言い渡して、愛美は香取の肩に乗った。
 窓は愛美の視線より少し上だ。気を利かせて香取が背伸びをすると、やっと向こうが見える。格子の向こうは庭だ。その向こうに、白壁が見えた。人の通りはないが、だからといって、白壁の向こうに助けを求められる距離でもない。
 愛美は自分の髪に結んでいたリボンをほどき、その格子に結びつけた。
 その時。
 俄に地下牢に下りる階段が騒がしくなった。愛美は急いで香取の肩から降りた。
 篠塚が部下を連れて現れる。
「お前たちの待つマドンナが、先程我らの手に落ちた」
「何ですって」
「真行寺万里子を使って、番長連合を根絶やしにする。楽しみに待っていろ。香取」
 青ざめる愛美と香取を嘲笑うように、篠塚は脇の部下に合図した。その者が鍵を取り出し、牢を開ける。
「女は、真行寺を意のままに操る盾だ。出て来い」
 仁王立ちで笑う篠塚の言葉を受けて、部下は牢の中に入り愛美に近づいた。
 咄嗟に雛鳥に駆け寄り、庇うように抱きしめて、愛美は叫んだ。
「嫌よ。雛鳥さんも一緒にここから出るんでなきゃ、絶対嫌よ」
 置いて行ける訳が無い。
 白く抜けるような肌が、今では青白く沈んで、指先一つ動かせない状態だ。呼吸も時折途切れている。放っておけば、命の危険もあるだろう。
「篠塚。愛美を連れて行くなら、雛鳥も一緒に連れて行け。雛鳥こそ、万里子が一番可愛がっている側近だ。雛鳥をこのまま放っておけば、たとえ咲久耶を取ったとしても、万里子の逆鱗からは逃れられないぞ。破滅だ」
 ギラギラと凄みを増した香取の目を、牢に入ってきた部下のみならず、格子の外で待つ部下たちも後ずさって視線を背けた。
 だが、篠塚は違う。一層固く決心するように、眉間にシワを寄せ、
「ならば、その女を今の状態で真行寺に引き合わせれば、本懐を遂げるどころではない。所詮、番長連合が落ちるのも時間の問題だ。それまでならば、その女ももつだろう」
 そう言って、愛美の傍に立つ部下に目配せした。
 雛鳥にしがみ付いていた愛美は、難無く引き離されて、まるで荷物のように小脇に抱えられる。
「嫌よ、離してったら。雛鳥さん、香取さん、行きたくない」
 手足をバタつかせ、必死に抵抗する愛美の叫びを、唇を噛み締めて見送るしかないのか。香取もそして雛鳥も、格子戸が閉められるのを見つめるだけだ。
 篠塚の前に下ろされた愛美は、泣き濡れた顔で、その胸倉に食ってかかった。
「鬼、鬼、鬼、人の皮を被った鬼だわ。人の苦しみが分からないなんて、人の命が分からないなんて、人間じゃないわ。番長連合が何よ、玄幽会が何だって言うのよ。人一人に比べれば、クズ同然だわ。ましてあんたはカスじゃない」
 自分たちの半分しかない少女が、喉を潰さんばかりに叫んでいる。その叫びが、周りに控えている者たちの心の奥を締め上げた。数歩下がって、責められている自分の上司を見直す者もいる。
 だが、篠塚は目を吊り上げて、左手を振り上げた。
「止めろ! 篠塚」
 格子の中から香取が叫ぶが、届かない。
 小さな身体を薙ぎ倒すように振り下ろされた手は、愛美の顔をほぼ半分赤く染めた。
 弾き飛ばされた愛美の身体は、壁に激しく打ちつけ、香取の手枷を捕らえる鎖のレバーを引き締めておく為の留め金を外して、崩れるように倒れた。
 意識が混濁し、立ち上がることなど出来はしない。
 篠塚はゆっくりと近づき、柔らかな巻き毛を鷲摑みにすると、忌々しげに引き起こす。
「言葉に気を付けろ。死ぬより辛い目にあうぞ」
 こう脅せば、思い通りになると思ったのだろう。だが愛美は、辛うじて動く唇で、呟くように言った。
「怖く、ない、わ。だって・・・あなたが、正しいなんて、私、思わない・・もの」
 目がはっきりと開けられないのか、愛美はぼんやりと篠塚を見返している。
 篠塚が威嚇とばかりに振り上げた手さえ、愛美にはどうでもいいことのようだ。じっと見つめて動かない。
「篠塚様。お時間が・・・」
 一人が見かねて、口を挟む。
 篠塚は、呆れた表情で愛美の髪を放し、部下に愛美を連れて来るよう命じると、無言のまま階段を上って行った。部下たちは重い足取りで、それに従う。
 愛美に近づいた一人は、先程とは打って変わって、愛美の身体を大事そうに抱え上げると、誰ともなく言った。
「鎖の留め金が外れている。手枷は取れなくとも、牢の中は自由に動けるぞ」
 愛美はそのまま連れて行かれ、地下牢には、香取と雛鳥だけが残された。
 香取はおもむろに、両腕を引き寄せてみた。鎖の仕掛けが壁の向こうで動いている音なのか、大きな金属音が地下牢に響く。腕は、難無く引き寄せられた。
 壁に穿たれた穴から、引き出せるだけの鎖を出した香取は、苦しい息で横たわる雛鳥の傍に座り、彼女の細い体を膝の上に抱き上げた。
「しっかりするんだぞ、雛鳥」
 厳つい顔を苦痛に歪めて、香取は小さく声をかける。雛鳥は微かに頷いた。
「すまない。俺が不甲斐無いばかりに、お前たちをこんな目にあわせてしまった」
 自責の念がこみ上げてくる。
 もしも・・・。
 もしも万里子に助勢を求めなければ、少なくとも雛鳥と愛美は、このような捕らわれの身になどならずに済んだだろう。
「本当にすまない」
 香取はただ、繰り返すしかなかった。手首に科せられた鎖は、いかな怪力の香取でも、引き千切ることはできなかった。手枷自体、生半可なことで外れるものではない。
 こうして鎖が延び、雛鳥の傍にいてやるくらいのことしか、今の香取にはできないのだ。

 太陽が真横から照り付ける高速を、ロールスロイスが疾走する。
 運転手が無表情のまま前方を見据える後方で、二人の女性が端然と座っている。
 一人は細身の長身で、髪を綺麗にムースでまとめ、パンツスーツに濃いサングラスで顔を隠している。さしずめ男装の麗人だ。両手を白い手袋で覆っているのが目についた。
 鷹沢綾の影の一人。桜である。
 そして、彼女を従えるように、隣に美人が座っている。
 薄っすらと色の入ったサングラスをかけ、ツバの広い帽子を被り、丁寧に化粧が施されている。スーツもアクセサリーも香水も、ブランド物だ。
 しかしてその麗しい唇から漏れる声は、
「何を考えてるんだ、お前は」
 男のものだ。
 今泉藤也は、なんとも倒錯的な出で立ちで、横に座る桜を睨んだ。
「玄武帝に会わせてやると言うから来てみれば、こんなモノ着せやがって」
「気にしなくても大丈夫よ。とてもよく似合ってるから」
 爽やかに笑って、桜はあっさりと流した。
 綾に代わって、万里子がいないことを有り体に告げれば、何事もないだろう。しかし、それでは面白くない。いっそ自分が万里子の名で、彼の赤薔薇の君に会い、果たしてその者が玄幽会総帥の玄武帝ならば、ことのあらましを問い質してもいいと思っていた。そこへ幸運にも、藤也が目前を通り過ぎた。
「染井が綾の影なのはいいけどさ。だからって、どうして俺がお前に協力しなきゃならないんだよ」
「あら、玄武帝の顔が見てみたいと言ったのは、今泉くんの方でしょ。私はただ、社交辞令として誘っただけよ」
 そうだ。飽くなき好奇心が、桜の口車に乗ってしまった結果の女装である。
「まったく、クラブメイトは選びたいもんだね」
 自分の浅はかさを悔いながら、藤也が大きくため息をつく。
「固いこと言わないで、状況を楽しみなさいな」
「染井佳乃。お前って、本当に軽いな」
「桜です。軽さが自慢ですから」
 いつにもまして口の悪い藤也をあっさりとかわして、桜は澄ました。
 ロールスロイスが停まる。
「東都ホテルでございます」
 運転手は短く告げると、ドアマンが恭しく後部座席のドアを開けた。
 咲久耶市中央区の最も人口が集中する場所に建つ屈指のホテルの車寄せには、いつの間にか数名のドアマンが並び、支配人らしい男が走り寄って来て、これまた恭しく礼をする。
「行きましょう」
 小さく呟いて、桜はサングラスを軽くあげる。藤也もまた、その出で立ちに似合いの微笑で装い、伏し目がちに口元を拭う。
 これからが本番だ。
 桜が素早く車を降り、上体を傾けて手を差し出した。その手に、大きな金の指輪を嵌めた長い指を乗せ、ハイヒールの足元を気遣いながら藤也が車を降りた。
 ホテルの従業員から一斉に歓待の言葉がかかる。
 ロビーにいる者が、固唾を呑んでその光景を見守っている。
「それでは、ごゆっくりと」
 運転手の言葉に、藤也が軽く流し目で頷く。その仕草は、丁重に扱われてきた女性独特のそれだ。

 広々とした店内は人気もなく、大きなガラス張りの窓の向こうに沈む太陽が、逢う魔が時に相応しい赤に染まり、ビルの荒野に食われていく。
 それを見つめている二人の男がいた。
 一人は長身で、かなりの長髪だ。軽くウェーブがかかった多めの髪は、紅い太陽光を受けてなお、紫の光沢を帯びている。整った面差しの奥で、黒瞳が穏やかに笑っている。
 玄幽会宰相、佐久間涼は端然と、窓の傍に立つ細身の青年を見ていた。
 スッキリとした短髪で、さしたる特徴も見当たらない平凡な高校生は、しかし、その広いラウンジを覆い尽すような独特の雰囲気を醸し出している。それは、ある者にとっては取り込まれるような快感として、またある者には食い潰されるような悪寒として感じるようなものだった。
「約束の刻限にございます。景甫(かげすけ)様」
 佐久間は軽く腕時計を見て、細い背中に声をかけた。
 薄暮に沈み街から視線を逸らせず、玄武帝善知鳥(うとう)景甫は軽く頷いた。
「まさか、来ないのでは」
「いや、佐久間。来たよ。たった、今」
 佐久間は弾かれたように、入り口を振り返る。
 目に留まった大柄な女は、おそらく付き人か何かだろう。
 黒のパンツスーツをすっきりと着こなし、首にかかる髪をムースで固め、サングラスで顔を隠している。道端で見かける男装の麗人というところだが、この女が確かにマドンナの付き人であろうことは、持っている雰囲気で分かる。
 女・・・桜は、気後れした風もなく、スタスタと進み出ると、威儀を正して礼をした。
「真行寺万里子様を、ご案内いたしました」
 こういう役は慣れているのか、桜は相応の品格と威厳でそう告げた後、懐から一通の手紙を取り出し、景甫に向かって差し出した。
 綾から渡された、万里子宛の手紙だ。
「これは貴方様から、万里子様へ宛てられたものに、相違ございませぬか」
「そうだ。それで、マドンナは」
 景甫は瞬き一つせず、桜の表情を見つめて答えた。
 妖しい眼光をものともせず、桜はにこやかに続ける。
「あちらでお待ちにございます。ですがその前に、お尋ねしたいことがございます」
「何を」
「貴方様は噂に高い、玄幽会総帥・玄武帝でいらっしゃるようですが、その本当の名前と所属校、ご年齢をお教え頂きたい」
「何故、そのようなものが必要なのですか」
 問い返したのは、佐久間だ。
 桜はさも奇妙だと言わんばかりに、嘲笑を漏らす。
「人を呼び出しておいて名も告げられぬとは、些か無礼にございましょう。万里子様は心の細やかなお方。名も入らぬ手紙と品を受け取った時より、ご立腹にございます。ですから、すぐそこまでお出でになっていらっしゃるにも関わらず、ここへは来られないのです」
 そう言って、桜は景甫を真っすぐ見据えた。その目は、答えなければこのまま帰るぞと言っている。
 景甫は、しばらく無言で桜の視線を受け止めていたが、おもむろに苦笑して、
「君のような素敵な女性が、マドンナの傍にいようとはね。分かった、答えよう」
 と、佐久間が視線で制するのも気に留めず言った。
「善知鳥景甫。伊和長市の北部にある玄武館高校の二年生だ。何なら、身長、体重、果ては生年月日まで教えるが」
「いえ、結構。貴方様が、男子の標準を遥かに超えていることは、見れば分かります。その善知鳥景甫様が何故、万里子様をお呼び出しになったのか、それを聞かせていただき等ございます」
 この質問には景甫も少し沈黙して、何か考えているようだ。視線がたゆたうように虚空を流れ、佐久間の顔で止まった。
「美しいものに魅かれるのは、当然のことだと僕は思うよ。マドンナの美しさは、玄武館までも聞こえてくるほどのものだ。その美女を一目会いたいと思うのは、これまた当然のことだと思うのだが」
「玄幽会が、咲久耶全域にまで進出するということとは、まったく別なのですか」
「勿論だ。僕はまだ、常磐井や貴妃と遣り合う気はない」
 桜は無言で聞きながら、その言葉に嘘を見つけられず、改めて礼をした。
「承知いたしました。では、案内いたしましょう」
 桜はすっと踵を返し、入り口に向かった。
 それに景甫が続き、佐久間がその後ろに従う。
 桜が二人を案内したのは、同じフロアの展望ロビーである。望遠鏡が一つ備えつけられた傍に長椅子が3個、等間隔で置いてある。その一つに、目を引く洋装の女性が、背を見せて座っていた。
 桜が傍に近づいて、手を差し伸べる。
「玄幽会総帥、善知鳥景甫様にございます。伊和長市の北方、玄武館高校より、万里子様のお姿を拝見したいとのことで、このような呼び出しをなさったようです」
 その説明を聞きながら、女性はゆっくりと立ち上がり、景甫たちの方に向いた。
「これは」
 小さく呟く声がロビーに響き、驚いた佐久間は景甫の顔を窺った。
 それは何とも複雑な表情である。
 桜に手を取られ振り向いたのは、勿論、藤也である。
 とびきりの美人だ。
 確かに何の手を加えなくても、藤也は見栄えのする顔立ちではあるが、女装してこれほど映えると、性別を疑ってしまう。
 藤也はゆっくりと景甫を観察すると、おもむろに目を伏せて、軽く膝を折って一礼する。
「はじめまして。真行寺万里子です」
 低く澄んだ声で、藤也は言った。
 しばらくは物音一つしなかった。無視された形の藤也は、些か不機嫌に眉をひそめて景甫を睨んだ。
 景甫の視線が現実味を帯びて、相好を崩して笑い始めた。
「何が、おかしいのですか」
 本当に気分を害した藤也が、女のような声で厳しく問い質すと、景甫は口元を拳で隠して、本格的に笑い始める。
 暫くそのままの状態で、時間だけが過ぎた。
 薄闇に映える吟詠のように、景甫の唇から音が漏れる。
「何が可笑しいかって。それは君、君のその格好に決まっているではないか。あんまり似合うので、笑ってしまうよ。どうやら性別を間違えて生まれて来たようだね」
 流麗たる口調が止まっても、含み笑いはおさまらない。
 藤也は軽く口を拭い、桜はサングラスを外して胸ポケットへしまった。
 二人とも、真っ向から遣り合う気だ。
 藤也はワザとらしいため息をつき、ダラリと両腕を投げ出した。
「バレてるならそれに越したことはない。生憎俺も、早いところ着替えたいのでね。さっさと用件済ませよう。二日前、玄幽会の者がさらって行った鷹千穂の女生徒二人を、即刻返してもらおう」
 景甫が眉を寄せる。
「・・・さらうとは、どういうことだ」
「惚けるのも大概にして欲しいな、玄武帝。そちらの下っ端が、マドンナの宝物を連れ去ったんだ。マドンナを呼び出して、この場で連れ去った二人を解放するというのなら話は別だが、そうではないだろう。マドンナは二人を追って保照里区へ行った。今、お前らが制圧しようとしている番長連合が統べる地区だ。あんたの道楽に付き合ってる暇はないんだよ」
「玄幽会の者が、鷹千穂の生徒を捕ったと言うのですか」
 顔色を変えて問うたのは、佐久間だ。
 これには藤也が妖しい目で睨み、まるで呪いの文句でも唱えるように唸る。
「てめぇら、部下が何をしているのか知らないのか。それでよく、玄幽会なんて大層なもんの上に胡坐をかいていられるな」
 明らかに、侮蔑の念が込められている。
「それから番長連合のことだが、あそこの総長はマドンナの友人だ。そいつらを攻めるのは、マドンナにケンカを売ってるのと同じだってことを認識するんだな。本当にマドンナの顔が拝みたいなら、即刻手を引け」
 絶句で立ち尽くしている二人には、既に聞こえてないようだ。
「篠塚が、そんなことを・・・」
 玄幽会幹部ともあろう者が、女生徒を人質に捕り、その上そのことを自分自身が知らなかったというのが耐えられないという呟きだ。
 景甫は呆然と見開いた瞳の中に、少しずつ憎悪に近い炎を燃やし始めていた。
 くるりと背を向けると、無言でエレベーターの方へ歩いて行く。
 佐久間もそれに従ったが、桜は許さなかった。
 傍の藤也を引かせると、巨大な殺気を景甫の背中に浴びせた。
「黙って行かせると思いますか」
 低く呟いて、構えを取っている。そこには、軽さが自慢と笑っていた桜はいない。
 殺気を感じて立ち止まり、ゆっくりと振り返る景甫もまた、それまでの平凡な高校生という印象を覆す、阿修羅のような顔である。
「僕は、君がマドンナの側近だと思ったから、本当のことを教えたのだ。それを君は偽者を突き付け、あまつさえこの僕の邪魔をしようと言う。覚悟はできているだろうね」
 佐久間を押しやり、景甫は数歩、桜に近づいた。無風のはずのロビーに疾風が巻く。
 ロビーの隅で腕を組み見つめている藤也にも、その尋常ならざる様子は理解できた。景甫の肩口に何か、光が揺らめいて見えるのも、なまじ目の錯覚とは言えないだろう。
 景甫の手がゆっくりと肩口まで挙がり、桜に向かって大きく開かれた。
 目に見えぬ衝撃波が、両腕で顔面をガードした桜の正面で炸裂した。
 そのまま桜は、数メートル飛ばされた。立っているのがやっとという感じだ。スーツの腕の部分は切り裂かれ、下に着けていた銀の篭手が露わになる
 だが両腕の隙間から見える双眸は、さも愉快と言いたげに微笑していた。
「桜!」
 藤也の一声を合図に、桜は反撃に移った。
 景甫の放つ二発目を軽くかわし、足を使って景甫の側面に回り込むと、その胸元に三発の拳を繰り出した。しかし、すべて手の平で止められてしまう。
 チッと舌打ちをして、回し蹴りを繰り出すが、これを受け止めたのは景甫ではなく、佐久間だ。
 鋭い瞳で桜を射抜き、佐久間は端然と立っていた。
「お下がりください。景甫様」
 冷めた声が、ロビーに響く。
 現実を超越した要望が、ガラス窓から差し込む夕陽に映える。豊かに伸びた黒髪が紫色に光っていた。絶世と称して憚らぬその容貌はしかし、一縷の女々しさもない。
 桜は半歩下がって、目前の美丈夫を見つめた。銀の篭手が鈍い色を発する。
 どのくらい経ったのか。
 二人は身動き一つせず、じっと相手を見つめている。時折、何かが炸裂するような音がして、桜のスーツを刻んでいるばかりだ。
 藤也は、頬に流れた一筋の汗を、手の甲で拭った。
 拳のすべては見えなくとも、その緊迫した状況を感じることはできる。ただ立っているだけのように見える二人だが、目に見えぬ拳を繰り出し、激しく打ち合っているのだ。しかも情勢は、桜の方が押されている。
 藤也は一心に、その光景を見つめていた。だからいつ、景甫が目前にまで近寄っていたのか分からなかったのだ。
 全身に悪寒が走り、藤也は絶句のまま、景甫を見つめるほかなかった。
 目前の、自分より少々背が高い程度の男が、どれ程のものだというのか。取り立ててどうということのない、ノッペリとした古風な容貌と細身の身体。
 それなのに、こうして目前にまで迫られると、思わず気圧されたように後退してしまわずにはいられない。まるで闇を見つめるような恐怖と戦慄が襲ってくるのだ。
 明らかに景甫は、その瞳に殺気を漲らせていた。
 分からぬでもない。
 待ち焦がれた女の代わりに現れた女装の少年が、挨拶とばかりに自分を無能呼ばわりしたのだ。
 藤也は、慣れないハイヒールで、一歩また一歩と後退した。
「今泉くん!」
 桜が気付いて叫んだが、それが隙になった。
 佐久間は容赦なく、桜の脇腹に右拳を打ち込んだ。桜の身体は吹き飛ばされ、長椅子に激突して止まる。
「桜!」
 藤也も思わず叫んだが、動くことはできなかった。
 再びロビーは静寂を取り戻し、景甫の唇がゆっくりと開く。
「一つ、君に尋ねたい」
 その時、景甫に浮かんだ微かな狂おしさを、藤也は見逃さなかった。それはまるで、闇の中に灯る一点の人間らしさである。
 あぁ、というように息をつくと、藤也はいつもの調子を取り戻して肩の力を抜き、腕を組んで威嚇の視線を投げた。
「マドンナのことか。思い違いだよ。あの女性は女神だ。決して魔物じゃない」
「まさか、君はそんなことまで知っているのか・・・」
 景甫の声が驚愕に掠れている。信じられないという顔だ。
 藤也はまるで対等に、言葉を続けた。
「生憎、耳だけは早いんでね。天下の玄武帝が、選りにもよって『魔女』に懸想してるとか。くだらない話だ。あれは夢の中の女。現実に存在してはいけない魔物だ」
 長椅子で身体を打ちつけた桜も、耳を澄まして聞いている。
 藤也は続けた。
「紛らわしい噂は消して歩け。咲久耶は、てめぇが荒らし回り、『貴妃』がとぐろを巻き、常磐井が舌なめずりをしているだけで充分厄介だ。それに『魔女』まで繰り出された日には、お祭り騒ぎでは済まない。仮にも玄幽会総帥ならば、立場をわきまえろ。戯言は夢の中だけにして、決して部下には言わないことだ」
 言葉を重ねていくうちに、景甫の瞳から殺気が消えていく。闇のような感覚も、薄らいでいた。
「諫言、耳が痛いな」
 そう言って、景甫は苦笑を漏らした。それは決して皮肉ではない。
 景甫が何かを言い足そうとしたが、それはエレベーターの止まる音で途切れた。
 エレベーターの扉がゆっくりと開くのを待ち切れず、中から学生二人とボーイが三人飛び出して来る。
 藤也は思わず頭を抱えた。
「カジ・・・。タクまで」
 梶原はボーイの制止も聞かず、ひたすら暴れている。それを涼しい顔で眺めている卓馬が、ロビーを一見して目を丸くした。
「あれ、綾がいない」
 その一言でやっと、梶原の抵抗が止まった。
「確か、介のヤツが・・・」
 呟きながら見回すが、そこにいるのは、見たことのない学ランの男が二人と、急いでサングラスをはめた女が一人。その向こうには、これまた見たことのない美人が一人いるだけだ。
 一人ひとりを確かめていく梶原の視線が、景甫のものと合った。
 まるで、宿命のライバルが火花を散らすが如く、二人は暫く睨み合ったまま、微動だにしなかった。
 桜はサングラスの下から藤也に目配せをした。ここで綾や介三郎の名が出て、景甫たちの記憶に残れば、後々困った事態に成り兼ねない。
 それは藤也も思ったのだろうか。無言で頷くと大袈裟にため息をつき、景甫の横を擦り抜けながら言った。
「どうやらお時間のようですわね。貴方の一声で、大切な者たちが戻って来る事を祈ってますわ」
 立ち上がった桜を従え、唖然としている梶原と卓馬の腕を取ると、藤也はエレベーターに乗った。
 景甫も佐久間も、それを止めはしない。
 ボーイは何事もないと分かり、乱れている長椅子を整えると、さっさと何処かへ消えてしまった。すでに姿はない。
 佐久間は、厳しい顔付きの長身の少年を見送った。女装の美少年もそうであるが、あれほどに景甫を睨み据えたまま、気後れ一つしない男は初めてだ。
 いつの間にか、傍に景甫が立っていた。
 今の出来事を楽しむように、自嘲気味に笑っている。
「あれほどの言葉を、僕に向かって言った男は初めてだ」
「やはり、篠塚の元へ向かわれるのですか」
 小さく問うと、景甫は頷いた。
「当然だ。もしも篠塚が女子供を人質に取ったとなれば、捨て置く訳にはいくまい。奴を幹部にしておいたのは、常磐井の動向を探るため。だが、こうなっては使い道もないだろう」
 篠塚が、常磐井をどのような男だと認識しているのかなど、景甫にはどうでもいいことだ。だが常磐井は、感情のみで動く男。真行寺万里子に手を出した篠塚が、今まで通りに常磐井と通じていられるとは思えない。
 しかし、景甫の脳裏に鮮やかに焼き付いたのは、篠塚のことでも人質のことでもない。
 佐久間とほぼ互角に闘える女と、この自分に真っ向から意見した美少年。何故か二人は、夢の中の黄金の女に似ているように思えた。
 そして、後から来た見栄えのいい男の真っすぐな視線が、何故か可笑しくもあり、心地悪くもあった。
「あのような者たちを従えている女だ。それがマドンナにしろ、そうでないにしろ、常磐井や貴妃に渡すことだけは、避けねばならない。決して」
 渋い微笑を作り、景甫は低く呟くと、後は無言でエレベーターが開くのを待った。

 地下駐車場まで一気に降りる間、梶原と卓馬は、傍の美人を無言で見下ろしていた。
 壁にもたれて腕を組み、知らぬ顔で俯いている銀の篭手の女は、まったくどこの誰と思い出せないが、傍の着飾った美人は何故か誰かに似ているように思えた。
 ただ、誰なのかはっきりと言えないだけだ。
 美人は大きくため息をついて、二人のノッポを見上げた。
「お前らが来たおかげで助かったわけだけど。礼を言うのは今回だけだぞ。以後、ヤバイ話に首を突っ込むな」
 その声で、初めてこの美人に思い当たった。
「ゲッ、お前、藤也か」
 あからさまに気味悪がって飛び退いたのは梶原だ。まるで物の怪でも見るように、上から下まで丹念に吟味している。
 そう言えば、背格好も面立ちも藤也のものだ。
「お前に、そんな趣味があったとは・・・」
 天地がひっくり返ったような驚き方だ。
 かたや卓馬はと言えば、宝物でも見つけたように小躍りして、
「本当に藤也なの? すっげー綺麗じゃん。そこらの女なんてぶっ飛ぶよ。本職にする気はないか?」
 と、とびきり明るい声で手を叩いている。
 藤也はこめかみを押さえて、唸った。
「お前ら、自分たちが何をやったか分かってるのか」
「何って?」
 人懐っこい顔を一層緩めて、卓馬が問い返す。
 藤也が眉間にシワを寄せて何かを言おうとしたが、エレベーターが止まってドアが開き、話は途切れた。
 桜は無言で先に出ると、どこへともなく歩いて行く。
「お前ら、ちょっと待ってろ」
 短く言うと、藤也はその背を追った。
「おい、これからどうするんだ」
 梶原たちに聞こえないように小さな声で問うと、サングラスの向こうの目が笑う。
「お嬢様をお迎えに参ります。もうそろそろ、雛鳥様をお助けする頃でしょうから」
「綾はどうやって向かったんだ。まさか、電車じゃないよな」
 桜は笑って一蹴した。
「車でしょう。帰りは雛鳥様たちもいらっしゃるのですから。それよりもあの二人、ちゃんと口止めしておいてくださいな。この件がお嬢様の耳に入れば、またお嬢様は、梶原くんが暴れるような態度に出られますもの。本当に、鬱陶しい男」
 以前それで困ったことでもあったのか、桜は憮然として言い切ると、今度は振り返りもせず、スタスタと歩いて行ってしまった。
 後には途方に暮れる藤也と、ワケも分からず立ち尽くす梶原と卓馬がいた。
「何だ、あの女。いけ好かない奴」
 会話を聞いていた訳ではないだろうが、何故か勘の良い梶原である。
「で、藤也。何がどうなってるの。介の話じゃ、綾はこの最上階で、玄幽会ユカリちゃんとデートだって言うし、おまけに成瀬と雛鳥ちゃんが玄幽会に捕らわれてるとかいないとか。大袈裟な話だけど、本当なんだろ? で、どうして綾がいないの」
 卓馬は、身体を揺らせながらのんびりと問いかける。これだけでも短気な者は会話を投げ出しかねないというのに、ちゃんと聞いて答えてやろうと思わずにはいられないのは、卓馬の持つ天性の人受けの良さだろう。
 藤也はそれでも顔をしかめて、卓馬を見上げた。
「あのね、タク。綾がどうしようと関係ないんだよ。いくら介が言ったからって、わざわざこんな所まで来るのは、今回限りにしようね」
 卓馬に合わせてのんびりと答えると、傍で梶原が唸る。
「おい、藤也。それじゃ、答えになってない。本当に介の言った通りなら、俺にも何か手伝わせろ。綾が動いているんだろ」
 その表情を見れば、梶原が綾に対してどのような想いを抱いているか、手に取るように分かった。そしてそれは、藤也も卓馬もすでに承知のことだった。
 だが藤也は敢えて、その想いを絶ちたかった。それは桜の為でも、まして綾の為でもない。他ならぬ梶原の為だ。
 藤也の瞳が何も映さなくなる。
「カジ。友達として忠告する。悪いことは言わない。あいつの夢は見るな」
 低い声が重くのしかかる。
「藤也。何もそんなこと、今言わなくても」
 素っ頓狂な声で口を挟んだのは卓馬だ。梶原と藤也の顔を交互に見比べ、いつもの脳天気な顔が曇り、冷や汗を流している。
 梶原は絶句のまま、目を大きく見開き、藤也を凝視している。その表情は、今にも藤也に飛び掛らんばかりだ。
 だが、藤也はやめなかった。
 何にも屈することのない強靭な精神力と、恵まれた体格の目前の男が、中等部以来持ち続けている想いは、決して届くことはないのだ。
「あいつは、お前が考えているような女じゃない。女と称するのもおこがましい魔物だ。お前は食われるんだよ」
 容赦のない口調が、梶原の胸に突き刺さる。
「じゃあ、何故、介をあいつの傍に置いておくんだ。介はお前の親友だろ」
 辛うじて出た言葉は、苦しいほどに潰れていた。
 卓馬の視線が、藤也の答えを遮ろうとするが、それもすでに遅い。
 藤也はゆっくりと視線を逸らせ、桜が消えた方へ歩を進めた。
「お前は介じゃない。あいつもそう答えるだろう。だから、夢を見るな」
 ハイヒールの音を響かせて、香水に縁取られたドレスの背中を、梶原は無言で見送った。
 取り残された卓馬は、情けない顔で大きく肩を落とす。
「そんな格好で言っても、説得力ないよ。藤也」
 ひたすら狼狽する卓馬の横で、梶原は拳を固めて唸った。
「この気持ちを、どうやって止めればいいと言うんだ」
「カジ・・・」
「どうすればいいと言うんだ。タク。俺は・・・、俺はあいつの為なら死んだって」
「カジ! それ以上言うな!」
 卓馬は激しく首を振ると、梶原の腕を掴んで揺すった。大きく見開かれた目が不安に曇り、言葉は堰を切って流れ出す。
「カジ。それだけは言うなよ。綾の前では、絶対言うな。綾がそれを聞けば、間違いなく綾はお前の目の前から消える。あいつはそういう奴なんだ。だからカジでなく、介を傍に置いているんだよ。お願いだから、カジ。命のことだけは言うな。な。な」
 卓馬は力一杯捲くし立てた。そうでもしなければ本当に、親友を失いそうだった。

 赤や青の裸電球が、ポツリポツリとぶら下がったお化け屋敷の中は、営業中よりも一層鬱蒼として、おどろおどろしていた。
 竹が林立して如何にも何かが出て来そうな場所に、古びたお堂や紅い鳥居のお稲荷さんや朽ちかけた井戸があり、獄門さらし首やロクロ首、お岩さんや骸骨などの人形が、無造作に投げ出され埃を被っているのが、一層不気味に見えた。
 それを横目に憮然としている学生は、襟に『玄』のバッジをつけた玄幽会の者だ。今にも倒れてしまいそうなお堂の前に二人、手持ち無沙汰で座っている。
 表面上お堂の警戒をしているようだが、その実、張り詰めたような緊張感はなかった。
 監視しているのは、皆負傷者である。満足に動ける者はいない。おまけに警備はお化け屋敷の外にもいるのだ。
「どうだ、中の様子は」
 お堂から出て来た下っ端その一に、下っ端その二が問う。
 形ばかりの監視役は、雑談に花を咲かせるしか他に暇つぶしはない。
「別に、変わったことはない。野郎の顔なんぞ、見たくないもんだな」
 その一は、うんざり顔でそう答える。
「それはそうだ。せめて一人でも女がいれば、楽しめるのにな」
 軽口で手元の缶コーヒーを開けると、その二が続ける。
「まあ、奴らの監視も今日までだ。篠塚様は、先程捕らえたマドンナとやらを使って、残党をおびき出す用意をしておられる。咲久耶東南部が篠塚様の管轄に納まれば、何をしようと咎められることはない。無礼講だ」
「無礼講、ね」
 大きく息を吸って一口コーヒーをすするその一が、言葉の裏側を想像して悦に入る。その笑いは、お堂の中まで聞こえた。
 お堂の中央の大黒柱に背を向けて、後ろ手に縛られている男が数人いた。玄幽会に捕らわれた、番長連合幹部たちである。柱谷も、また愛美と雛鳥に会いながらも捕まってしまった二浦もいた。
 二人に限らず捕らわれた者たちは、一様に上半身が裸で、学ランは手首に仕込んでいた武器ごと剥ぎ取られていた。その上、示し合わせて縄抜け出来ないように、男たちの手を縛る縄は、複雑に結ばれている。
「ざまぁねえな。幹部全員が一同に介して、お化け屋敷でネンゴロとは」
 大袈裟に項垂れて呟いたのは、柱谷だ。二浦を庇って玄幽会の追っ手と闘ったが、やはり多勢に無勢。こうして捕らわれの身となってしまった。
「面子もへったくれもねえよな。こんなことが、夜叉にまで聞こえたら、恥ずかしいじゃすまねえ」
「夜叉が天光寺を出て行く時、あんなに張り切って総長を守るって言ったのによ」
 柱谷とはまったく正反対の位置にいる市原が、ぼやく。
 寧々が何故天光寺を出て行ったのかは、幹部の者も知らない。ただ、何も言わず見送った総長香取の態度からも、立ち入ってはいけない深い事情があるのは察しがついた。
 そして、止めてはいけないことも分かっていた。
 だから、この非常時において尚、寧々の元へは行かず、万里子を目指したのだ。その万里子とも会えなかったとなると、
「ここらが年貢の納め時、かな」
 ため息混じりに言った柱谷の隣で、二浦は項垂れたまま、辛うじて自由な足を揺らせて呟いた。
「愛美のやつ、大丈夫かな・・・」
 手負いの自分を必死に支えていた小さな女の子の顔が、目の前をちらついている。だが、感傷に浸っていられたのも一瞬のことだ。
「誰だよ、二浦。オンナか?」
 一転明るくなった柱谷が喚くと、ここぞとばかりに他の者たちも、ヤンヤヤンヤの大騒ぎで、二浦を問い質し始めた。
「違う。雛鳥と一緒に捕まってるはずの、女の子のことだよ」
 苦笑で答えたが、誰も聞いてない。
「二浦が名を言うくらいだ。生半可じゃねえな」
 市原が大きく付け足した。
「そうだそうだ。総長が聞いたら喜ぶぞ。総長、心配してたからな。二浦はオンナがダメなんじゃないかってさ」
 年貢の納め時と、意気消沈していたはずの柱谷とは思えないはしゃぎようだ。
 外にいる見張りが、「うるさい」と「黙れ」を連発したが、話が折れるはずもなく、皆は縛られているのも忘れて、顔を付き合わせるように続けた。
「まともに話をしてたのは、夜叉くらいだもんな、お前」
「だから、そんなんじゃないって。状況を考えて冗談言えよ、柱谷」
 この中では、一番回復が遅い二浦としては、ここから抜け出す算段でも立てて欲しいのだが、どうも柱谷以下数名は、すでに出来上がってしまっている。
「いいじゃねえか、減るもんじゃなし。男同士肌寄せ合ってても、気が滅入るだけだ。閑話休題として、二浦の初恋物語でも作ろうぜ」
「作らなくていい」
「いや、こうなったら絶対作るぞ。その何て言ったかな、オンナの名前」
「イツミだよ、イツミ。可愛い名前じゃないか」
 市原の隣で、鹿島が答えると、盛大な歓声が上がる。
「そのイツミだが、雛鳥と一緒だったってことは、マドンナの取り巻きの一人だろ? それなら結構美人だな」
 顔が命の柱谷は、大概最初に『美人か?』とくる。
 二浦は苦笑で、肩を竦めた。
「美人っていうんじゃないよ。可愛いタイプだね。背が小さくて、大きな目をしてて、柔らかい巻き毛がクルクルしてて。根っから堅気の女の子って感じだったけど・・・」
 言葉は途切れた。
 二浦に肩を貸しながら、自分も何かできるだろうかと、見ず知らずの香取を憂える横顔は、確かに二浦の心に何かを芽生えさせたようだ。
 二浦の沈黙で、皆の表情から、からかうような笑いが消えた。
「結構本気だな、二浦」
 けしかけた柱谷の方が、唖然としてしまっている。二浦との付き合いは長いが、その間、浮いた話も沈んだ話もしたことのない男であった。二浦の口から出るのは、尊敬して止まない香取と寧々のことくらいである。
 その二浦を、物思いにふけさせるような女など初めてだ。
「こうなったら、何としてもここから出なければならないな。その美人でない彼女の顔を拝まねえと、三途の川は渡れねえ」
 柱谷はじっと前方を見据えて、そう呟いた。
「そうだな。こんな所でグズグズしてられないな」
 鹿島が軽く相槌を打つ。
「もう一度、悪あがきってのをやらねぇと、気がおさまらねぇ」
 感情剥きだしで呟く市原が、腹いせに朽ちた床を踏み抜いてしまう。
 ベキッ。
「あ、ヤベ」
 焦って床に埋まった足を引き抜くと、真っ白な手が足首にかかって付いてくる。
「ギャァァァァァァァァ」
 あられもない絶叫が、お堂にこだました。
「何やってんだ。市原」
 まったく見えていない柱谷が、大きく背後に声を掛けたが、即答はなかった。
 市原の左右にいる鹿島や清水も、目の前で起こったことに気が動転してしまっていた。
「てめえら、うるせえぞ」
 どかどかと入って来た下っ端その一とその二が、大上段に構えて市原を見下ろした。
 足元にポッカリ穴があるが、別に何事がある訳でもない。
「ちったあ、静かにしろい」
 市原の腹に蹴りを一つ入れて、さも面白くもなさそうに二人はまた出て行った。
「な、何だよ。今の」
 強張ったままの鹿島が、穴を凝視するが、何もない。
「何言ってるんだよ。この床の下に、幽霊でもいるって言うのか」
 呆れた口調で柱谷も両足を振り上げて、床を踏み抜いた。
 ババキッッ。
 あんまり気前良く大きな穴が開いたので、柱谷もその隣の二浦も、冷や汗一つ流してその大穴を見た。
「このお堂、今に崩れるんじゃないのか」
 そう呟いて両足を穴から出すと、またしても白い手が足首に絡まって付いてくる。
 今度は誰もが絶句で、その手を凝視した。
「出来ればそのまま、静かにしていてくれ」
 強く抑え付ける女の声が、穴の中から聞こえた。
「誰だ」
 二浦が小さな声で誰何すると、白い手はもう一本現れて、穴の広さを測るように広げられた後、大きく空気が揺れていつの間にか目の前に女が一人控えていた。
 背を覆う長い栗色の髪にサングラス。しなやかな肢体を漆黒の軽装で包み、腰にポーチを下げている。
 言うまでもなく、鷹沢綾である。綾は軽く外を窺って、見張りが来ないのを確かめ柱谷に近づくと、手首から取り出したナイフで柱谷の縄を切り、柱谷の手にナイフを渡した。
 まったく感じたことのない、冷ややかな戦慄と静かな安堵が、柱谷のみならず番長連合幹部の全身を走った。
「お前は、誰だ」
 訝しげに傍の女を見上げると、さして表情を変えた風もなく、綾は小首を傾げた。
「そうだな。鷹千穂のマドンナを守る者と思っていればいい」
 あくまで言葉遣いは横柄だが、彼女の持つ雰囲気を考えると、それもまた厭味には聞こえない。
「まさか、マドンナは動かれたのか」
 そう問うたのは二浦だ。鷹千穂学園の近くまで行きながら力尽き、あまつさえ愛美と雛鳥まで、騒動に巻き込んでしまった本人としては、万里子が動いたことは嬉しい以外の何ものでもない。
 その感慨に気付いて、綾はサングラス越しに視線を向けた。
「鷹千穂まで来たのは、その方なのか」
「そうだ。だが、その為に女が二人・・・」
 綾は皆まで聞かなかった。二浦の言葉を制し、いい含めるように頷いた。
「お前が鷹千穂まで来たことは、決して無駄にはしない」
 二浦だけでなく、皆、無言で頷いた。
「このまま、何事もなかったように澄まして、時を待つのだ。玄幽会がここに終結しつつある。それをまとめて叩くには、役に立つ駒とタイミングが必要なのだ」
 もちろん、役に立つ駒とは、ここにいる幹部全員のことである。
 それが分かって、皆が活気づく。
「分かった。だが、香取総長はここじゃない。篠塚って奴の私邸だ。部下どもがそう話していた」
「その私邸、どこにある」
「ここよりもう少し北。須勢里区の北端。伊和長市との境界線付近」
 次々と仲間の縄をナイフで切りながら、柱谷は具体的な地名を挙げた。
「分かった。では、時を待つように」
 現れた時と同様、また女は忽然と消えた。すでに人の気配はない。
 柱谷と二浦は、暫く無言で大きな穴を凝視していたが、気が抜けたように息をつき、背中を沈める。
「不思議な女だな」
 ボソリと呟いた柱谷の横で、自由になった手を撫でている二浦が、安堵の笑顔を浮かべる。
「これで、総長が助かる」
「それから、お前のいうカワイコちゃんもな。玄幽会を追い出せば、いつ夜叉が帰って来ても、笑って迎えられる」
 決して忘れないその名前を、まるで活力源のように繰り返し、番長連合幹部は全員精悍な目で頷きあった。

 見張りの目を盗んで廃墟の外に出ると、万里子のバイクの横に大きな車が停まっており、傍に蛍が控えていた。
「遅くなりまして申し訳ございません。万里子様を玄幽会に捕られましたのは、蛍の責任でございます」
 深々と平伏する蛍を、綾はサングラスを外した素顔で優しく見つめた。
 何故万里子から離れて行動したのかは、すでに桜から聞いている。
「気にするな。あれで万里子は結構楽しんでいる。これより先、お前は介三郎たちとここを落とせ。私が雛鳥を助け出すまで、玄幽会の目をこちらに向けておくのだ。頼むぞ」
 小さなリモコンとバイクの鍵を投げて、綾は車の助手席に乗り込んだ。
「それが合図だ。介三郎たちが配置についたら、押してやってくれ」
 それ以上は言わず、運転手に出すよう合図すると、篠塚の私邸を目指した。

 野外音楽堂は、ずいぶんと傷んでいた。
 無数に並ぶ木製のベンチは虫に食われ、中には折れて潰れているものもあった。ステージの背後にそびえる壁も、コンクリートにヒビが入り、所々欠けている。
 玄幽会の者たちは、刻一刻とその数を増やし、この音楽堂に集結している。
「じきに、篠塚様がここへ来られる。それまで準備を整えておけ」
 島原はステージ上から、大声で指示を出している。
 その後方、ちょうどステージの中央に当たる場所に、万里子は端然と立っている。まるで万里子の命令の元、島原以下玄幽会の者が動いているように見える。
 『マドンナ奪取』の朗報は、今や咲久耶東南部全域に広がろうとしている。
 それによって、玄幽会の者たちの集結に拍車がかかり、闇に潜んでいた番長連合の残党も動き始めているという。
 万里子は、島原にここまで案内されたが、別段何をされる訳でもなかった。と言うより、何かしようにも、誰一人万里子に近づかない。否、近づけないのだ。
 そんな者たちを、万里子は妖しい微笑を浮かべて見つけていた。
 目の前に広がる観客席を、厳つい顔の者たちが埋めていく。いずれも音楽堂に入りきれなくなるだろう。
 それほどの人数と、ただ一人で遣り合う気にはならなかった。自分の力がどれほどかは、よく分かっていることだ。もちろん捕らわれた時も、勝算があった訳ではない。ただ、相手の懐深く入り込み、その組織力を見極めておきたかったのだ。
 だがそれも、無用のことのようだ。
 こうして捕らえた自分に近寄ることさえ出来ない部下と、視線すら受け止められないリーダー。これがいったいどれ程のものだと言うのだろう。
 そして万里子は見逃さなかった。
 遠く望む丘の上。長身の少年の傍に立った長い髪の少女を。
「本当に、困った人だこと」
 万里子の美声を聞こうと、聞き耳をたてる部下たちに、そんな笑いを含む言葉が届いた。おそらくあのお節介少女は、何やら細工をしたことだろう。となれば、後は時を待つだけだ。
「島原、とかおっしゃいましたわね」
 ステージの際で客席に向かって指示を出している島原に呼びかけて、万里子は艶然たる微笑を浮かべた。
 声を掛けられただけで、どぎまぎしている島原が、視線の定まらない様子で形だけ万里子の方を向いた。
「何か」
 忙しなく動く視線は、決して万里子のものと一致しない。
 万里子はそんなことなど気付かない様子で、続けた。
「玄幽会が、咲久耶に侵攻してくる理由を教えて戴きたいのよ。何か、大義名分があってのことですか」
「そんなことは、我々下層の者には関係ないことだ」
 実際、島原には分からなかった。
 島原たちのような幹部以下の者は、未だ玄武帝の姿を見たこともなく、それが誰なのか分かっていない。ましてその皇帝の意志が、どのようなものであるのかなど、分かろうはずはなかった。
「島原様、ただ今、篠塚様が到着されました」
 一人が駆け寄り報告して、会話は止まった。
「よし。ここへお迎えしろ。全員整列」
 声を限りに叫んだ島原の背後で、万里子が笑う。
「その必要はなくてよ」
 言葉の意味が飲み込めず、振り返ると、同時に爆発音が轟いた。
「どうした。何事だ」
 愛美を担いでいる部下を従え、東ゲート近くの古びた教会あたりまで来ていた篠塚が、 西ゲートの方を見た。
 錆び付いた観覧車を背景に、黒煙が立ち昇っている。
「合図だ」
 お化け屋敷のお堂の中で、柱谷以下番長連合幹部が立ち上った。
 西ゲート付近に隠れていた介三郎や風間たちは、目前で立ち上る黒煙を、あんぐり口を開けて見上げてしまった。
 おそらく、発煙筒の類だろう。
「ま、とにかく突っ込みましょうか」
 気を取り直して介三郎が言ったのは、数秒後であった。
「何だ、あれは」
 島原もステージの上で背を伸ばし、高々と上がる黒煙を見ている。
「本当に、派手なのだから」
 その言葉で、周りを囲んでいた者たちが、初めて万里子に敵意を向けた。
「まさか、お前の仕業か」
 構えを取った島原が、鋭く問う。
「まあ、素敵ですわ。先程のウドの大木が嘘のよう」
 コロコロ笑って、万里子は両手を眼前で交差させ、仕込んでいた針金を取り出し構えた。
「女狐め」
 吐き捨てて襲いかかってくる島原の両手に針金を打ち込み、万里子は難無く巨体をかわした。
「女狐呼ばわりなど、心外ですわ」
 一転鬼面に変わった万里子は、また針金を取り出し周囲を見回した。
 ステージの上の異変に気付き、客席側にいた大勢の部下たちも、一斉に構えを取った。さすがに武道の誉れ高い玄武館高校の猛者たちだ。一点集中する殺気は、衝撃波のように万里子を襲った。
 だが、気後れする万里子ではない。
 一層状況を楽しむように、鬼面を妖しい微笑で飾った。
「たった一人で、これだけの男の相手を出来るのか」
 激痛に顔を歪めて立ち上がった島原が、低く唸った。
 それに艶然たる微笑で答え、万里子はゆっくりと音楽堂の入り口を指差す。
「本当は、わたくし一人でお相手したいのだけど、残念なことに皆が許してくれませんの。だからあなた方も、そのおつもりで」
 俄かにざわめいてきた入り口に視線が集中した。
「可愛いとは言い難い殿方たちですけど、手応えはわたくし以上ですわよ」
 解説と同時に突っ込んで来たのは、風間率いる番長連合の残党と、介三郎である。
 途端に客席は混乱し、これに捕らえていたはずの番長連合幹部が加わって、蜂の巣つついたような騒ぎになった。
 篠塚の側近クラスの男たちは、ただステージの上で呆然としている。
 万里子はそれに叱咤激励した。
「さぁ、高みの見物はこれまでです。こちらも始めましょうか」
 何かのお稽古でも始める気安さであった。
「お前一人に、我ら十数名か」
 鼻で笑った男の目前を、何かが掠めた。
 いつの間にか、まるで天から降って来た天使のような女が万里子を背に立っている。
「ご心配には及びません。万里子様には影がついております由」
「誰だ。てめえ」
「ま、蛍。どうしてここにいるのですか」
 状況も忘れて困った顔をして見せる万里子に、蛍は小さく告げた。
「お嬢様からの伝言にございます。『こちらは任せた。好きなだけ暴れて、時間を稼いでくれ』とのことです」
 その言葉で、万里子はすべてを飲み込んだ。
「わたくしに任せるのですね」
「御意」
「では、そのように」
 短く答えると、蛍を背に構えを取る。
 蛍の両手がだらりと下げられた状態で、天を向けて開かれる。そこから発する無数の光が蛍を包み、陽光を浴びて黄金に光った。
「まさか、魔女・・・」
 誰もが一瞬ひるんだ。
 肩の下まで伸ばした髪が、ゆらゆらとざわめき、黄金の光の中で静かにこちらを見つめる美しい女は、確かに伝え聞く魔女に似て、それだけで驚愕させた。
 だがよく見れば、蛍の指先が微かに動き、彼女の身体を取り巻く数本の細い糸を操っているのを見切ることができるだろう。蛍はその糸によって、敵を裂き、また自分を魔女に似せて見せるのだ。
「掛かっていらっしゃらないのなら、こちらから参ります」
 小さな呟きを合図に、万里子の手と蛍の指がしなやかに流れた。
 多くの怒声を遠くに、篠塚は教会の前で立ち尽くしている。
「どうしたと言うんだ。あれはいったい、何なんだ」
 まるで足元から崩れてしまいような恐怖が、篠塚を襲っている。
 見かねて、愛美を担いでいた部下が言った。
「自分が様子を見て参りましょう」
 急いで立ち去ろうとする部下に、篠塚は掠れた声で呼び止めた。
「待て。その女は置いて行け」
「は?」
「その肩の女だ。ここへ置いて、お前だけ行くんだ」
 部下は一瞬怯んだ。何故篠塚がそんなことを言うか、手に取るように理解できるからだ。
 この男は、自分の部下たちを見捨てる気だ。
 だが幹部に逆らうことは、玄幽会において許されてはいない。部下は無言で気絶している愛美の身体を下ろすと、二度と後ろを振り返らず、騒ぎの大きな音楽堂へ向かった。
 篠塚の表情には、もはや余裕などというものはない。
 愛美を抱え、古びた教会へと入っていく。
 かつては結婚式などで賑わっただろう教会も、今は蜘蛛の巣と埃にまみれ、いつ崩れてもおかしくない。バージンロードの向こうに待つ聖母の石膏像もヒビが入り、法衣の裾は欠け、優しく広げた腕は片方もがれていた。
 その横を擦り抜けて、篠塚は聖堂の裏にある小さな階段を上って行く。行き着いたのは教会の最上階。ちょうど鐘が釣り下がる場所だ。その鐘はすでに錆び付き、音を立てることはない。
 篠塚は愛美の身体を脇に放り出し、胸壁から身を乗り出して音楽堂の方を食い入るように見つめた。
 状況は一目で分かった。
 事前に配下の者全てを召集しておいたおかげで、辛うじて玄幽会の方が優勢だ。しかし、劣勢にならないという保証はない。
「こうなったら、香取を使ってあ奴等を黙らせるしかない」
 追い詰められた者の狂気が、篠塚の全身を包んでいる。
 投げ出された衝撃で目覚めた愛美の見たものは、紛れもなく鬼である。
 篠塚は愛美に近づくと、ポケットから取り出したナイフを突きつけ、濁った眼で見据えた。
「お前には、もうひと働きしてもらおう」
「・・・何を」
「あそこから飛び降りろ」
 篠塚の指したのは、胸壁の向こう。
 愛美の顔から血の気が引いていく。
「なっ、どうして、そんなことしなきゃならないのよ」
 辛うじて言い返したが、有無を言わさぬ握力で胸倉を掴まれ、胸壁まで引き摺られた。
 愛美の視界に、煙に巻かれた音楽堂を中心とした廃墟と森が広がる。高所のせいか、風が強く感じられた。眼下には教会の屋根が半分朽ちた状態で、二十メートル程延びていた。
「さあ、行け」
 後ろからナイフを突き付けられ、愛美は激しく首を振り、震えた。
屋根がある為、そのまま真っ逆さまという訳ではないが、たとえ屋根の上でも長くはもたないだろう。高所は苦手の上、体力は普段の半分もない。篠塚に殴られた時の衝撃が抜けていないのか、平衡感覚が取れなくて、立っているのもやっとの状態だ。
 だが篠塚は、そんな愛美の胸を切り裂くようにナイフを振るい、ブラウスに一線を刻むと、怒鳴った。
「行け!」
 愛美はパックリ開いた胸元をかき寄せて、胸壁をよじ登ると、屋根側に降りた。
「向こうへ行け。早く、行くんだ」
 ナイフを振り回して叫ぶ篠塚から逃げるように、愛美は屋根の先を目指した。
 そこから下を覗くと、眩暈を起こすほど高い。支えている手の下で、朽ちた木材が音を立てている。
 篠塚は愛美が先端まで行ったのを見届けると、急いで地上へ降りて行った。
 取り残された愛美に、力は残っていない。風が巻き毛を乱し、今にも足元をすくいそうだ。
 愛美はただ、小さくなって屋根にしがみつき、一心に叫んだ。
 ただ一人浮かんだ男の名を。

 形勢は、どちらとも言えなかった。
 万里子たちも不利という訳ではなかったが、決定的なダメージを与えるまでにはいかない。
 柱谷や二浦たち幹部の者は、さすがに戦い慣れている。風間たちも二人組みになれば、力以上ものもを発揮できているのだ。しかし、数では圧倒的に玄幽会の方が勝っていた。
「このままでは、押し切られますよ」
 万里子の傍で、辛うじて防戦している介三郎が、情けない声を出す。
 片や、島原も同じことを感じていた。たとえ番長連合の者たちを抑えても、ステージ上で闘う二人の女だけは、誰にも手が出せないだろう。それほどに万里子と蛍は出色していた。
 そこへ、部下が一人駆け寄った。
 まるで、目前で繰り広げられているお祭り騒ぎなど見えていないという様子で、島原に取り付くと、小さな声で叫んだ。
「皆を撤退させろ。篠塚様はここを捨てられた」
「なっ!」
「このまま続けても無意味・・・」
 焦燥に震える声で続けたが、それは柱谷の回し蹴りで途切れた。呻いて崩れ落ちた男の傍で、柱谷は島原を睨む。
「くだらねえ話で、休んでんじゃねえよ。これで決着をつけるんだ。真っ向からな。無傷で帰してやるには、お前たちのやり方は汚すぎたんだよ」
 二浦もまたソツのない身のこなしで、二人の玄幽会を相手にしていた。その耳に、何かが届く。
「愛美か?」
 攻撃を上手くかわしながら、二浦は眼を凝らして声を追った。
「あっ。成瀬!」
 微かに聞こえる自分の名に気付き、回りを見渡した介三郎が、教会に集中する。
「マドンナ、成瀬だ」
「どこにいるのですか」
 問い返す万里子に構わず、介三郎は走り出した。その隙を見逃す者はいない。
「介三郎さん、危ない!」
 蛍が叫んで妖糸を繰り出そうとするが、間に合わない。万里子も助けようとするが、両腕は塞がっていた。
「その首、もらったぁ」
 嬉々として大上段に振りかぶった男の攻撃を、綾から渡された武器で受けようとして、介三郎は足を滑らせてしまう。
 駄目だと思った瞬間。
 涼しげな金属音が鳴り響き、介三郎に襲い掛かっていた男の顔面に金色の礫が直撃した。
「まさか」
 そこにいた者たちすべての動きが止まる。
「まさか、寧々なのですか」
 万里子はステージの奥を見つめて、呟いた。ステージの裏側に続く階段に、一人の女が立っている。純白のセーラー服と左腕に幾重にもブレスレット。
「夜叉だ」
「夜叉が帰ってきた」
 番長連合の者たちの口から、何度も繰り返し叫ばれるその名に、寧々は微笑で大きく左腕を振った。響きの良い金属音がステージの壁に跳ね返って不思議な音色になる。
「あたしが来たからには、負けは許さないよ。玄幽会を一気に叩き出すんだ」
 歯切れの良い声が、音楽堂に響く。
 柱谷が鼓舞するように腕を振り上げ、叫んだ。
「今日は夜叉の帰還パーティだ。盛大に演出しようぜ」
 活気に満ちた呼応が轟いた。
 再び始まった祭りの形勢は、見る見るうちに番長連合側有利となる。
「寧々。来てくださったのですね」
 戦いの手を休めず、万里子は笑顔で言った。寧々はブレスレットで防御しながら、確実に一人また一人と倒して行く。
「まったく、見ちゃいられないよ。あんたはこんな埃臭い場所よりも、ヒノキの床の間に飾られてる方が似合う」
 皮肉げに言った寧々の言葉を、真理子は微笑で受け止めた。
「貴女にそう言われると、留守番も悪くないと思えるわ」
「そうだ、あのボーヤにもそう言っておくんだね」
 寧々は苦笑混じりに視線を変えたが、そこにそのボーヤはいなかった。
 介三郎は鍛えた足で音楽堂を突き抜け、教会へ走った。並ぶように二浦が走る。
 介三郎を呼ぶ声が次第に大きくなり、二人は教会の正面で止まると、屋根の上を見上げた。
「成瀬!」
「愛美!」
 打たれたような衝撃が、駆け抜ける。愛美は辛うじて屋根の先端にしがみつき、ただ一心に泣き叫んでいる。
 介三郎は迷わず教会の中へ入って行った。
 二浦も続こうとしたが、それは微かな物音で止まる。
「篠塚ッ」
 教会の陰に隠れ、息を潜めていた篠塚が、ナイフを手に後ずさりしている。
「お前、それでも玄幽会の幹部なのか」
 激しい侮蔑が二浦を動かしたが、襲い掛かることは出来なかった。すでに篠塚は、狂気に包まれた手負いの獣に成り下がっている。
 二浦が視線を背け、小さく呟いた。
「行けよ」
「!」
「誰もお前を追わない。だから、さっさと行ってしまえ」
 それは慈悲ではない。ただ、敗北者に対する哀れみだ。
 篠塚は半信半疑ながらそのまま東ゲートをくぐり、消えた。

 介三郎は、細い階段をもどかしげに駆け上った。鐘が吊るされている場所まで一気に来ると、胸壁から身を乗り出して大声で叫んだ。
「成瀬、無事か」
 だが、愛美は小さくうずくまったまま、ひたすら介三郎の名を呟くだけだ。
 一縷のためらいも無く、介三郎は胸壁の向こうに下りた。
「俺も行こう」
 駆けつけた二浦も胸壁に足をかけたが、介三郎はそれを鋭く制止した。
「二人は無理です。俺が乗っただけで屋根が軋んでる。ここで待っててください」
 そう言うと、介三郎は低い体勢で屋根を伝って行った。まるで巨大な蜘蛛のようだ。
屋根の先端近くまで行くと、介三郎は窺うように止まった。それより先は、最も傷みが激しい。
「なるせ、成瀬。もう大丈夫だから、泣くなよ」
 驚かない程度に小さく何度か声をかけたが、聞こえていないようだ。肌が透けて見えるブラウスに触れるのは、自称スケベにも躊躇われたのか、震える巻き毛に手を伸ばす。
「お―い。成瀬。介三郎だよ」
 卓馬の口調を真似ておどけて言うと、やっと愛美はゆっくりと顔を上げた。
「介三郎くんなの?」
 泣き濡れた顔は幼子の頼りなさに似て、思わず抱き寄せてしまいそうな衝動に駆られる。赤く腫れた左頬が痛々しい。
 が、ひとまずおいといて。
「成瀬、そこは危ないから、こっちへおいで。ほら」
 と手を差し伸べた。
「本当に介三郎くんよね?」
 そう念を押す愛美の大きな瞳から、また涙が零れた。涙で霞む間抜け顔は、紛れもなく介三郎のものだ。
「そうだよ、介だからさ。お母さんが心配しているよ。ほら、早く帰ろう」
 片手では不安なのかと両腕を広げると、愛美は勢いよく介三郎の胸に飛び込んで行った。
「介三郎くん、介三郎くん、介三郎くん」
「えっ、あの、成瀬。どうしたんだよ」
 嬉し恥ずかし狼狽えていると、愛美が先程までいた部分の屋根が、反っくり返って崩れ落ちた。
「あっぶね・・・」
 思わず腕の中の少女を抱き締めて、介三郎は冷や汗一つ流した。間一髪だ。
 愛美はそんなことなど気付かぬようで、介三郎の首にしがみついたままだ。激しく泣きじゃくっている愛美の巻き毛や頬が、介三郎の首筋を掠めてくすぐったい。次に崩れるのは自分たちがいる場所だが、ついついその状況を堪能してしまっている。
 だが、スケベ心が沸点に達する前に、愛美はガバッと顔を上げて叫んだ。
「どうしよう、介三郎くん。雛鳥さんと香取さんが、まだ篠塚の所に捕らわれてるの。雛鳥さんの容態が悪くて、早く治療しないと死んじゃう」
 泣き濡れた顔で捲くし立てる愛美を、暫く瞬きで見つめた後、介三郎は笑って答えた。
「大丈夫だよ、成瀬。雛鳥の迎えには綾が行ったから、じき戻って来るさ」
「本当に?」
「うん、大丈夫だよ。あいつは天下無敵だから、さ。今頃雛鳥も病院じゃないかな」
 少々大袈裟だが、それでも愛美が安心してくれればそれでいい。
 愛美は暫く放心していたが、小さく、
「良かった」
 と呟くと、介三郎の腕に寄り掛かった。そうしている間にも、屋根は軋む音を絶やさない。ぐずぐずしてはいられないのだ。
「とにかく成瀬。早くここから降りよう。ほら、見えるだろ。あそこまで歩くんだ。素早く慎重に、ね」
 ピッタリくっ付いている愛美を支えて、介三郎は二浦のいる胸壁を指差した。
「愛美ぃ。大丈夫かぁ」
 二浦が大きく手を振っている。
「二浦さん、無事だったの」
 愛美は笑顔を浮かべ、明るく叫んだ。涙声ながら、二浦の無事を心から喜んでいるのが分かった。それが何故か、二浦の胸のどこかを締め付ける。
「さ、行こう」
 いきなり明るくなった愛美に拍子抜けしながらも、介三郎は迅速に行動した。
 出来るだけ屋根に負担がかからないように、重心を移動させながら、フラフラと心もとない愛美を支え、二浦の所まで来た。二浦が愛美を抱き上げて、胸壁の内へ下ろす。
「さ、君も」
 そう言って、二浦が介三郎に手を差し伸べた時、介三郎の足元が大きく軋み、崩れ落ちた。
 介三郎の身体が、屋根の中に吸い込まれる。
「介三郎くんっ」
「ゲッ。冗談キツイよ」
 辛うじて二浦の手を取った介三郎は、宙づりになった状態で、一言ぼやいた。
 屋根だった部分は丸く大きな穴に変わり、遥か下にバージンロードが見えた。
 介三郎は冷や汗一つ流して、二浦の手を借りると、軽々と胸壁の内へ降りた。やはり運動神経だけは抜群だ。
「間一髪。あなたがいなかったら、真っ逆さまだったな。ありがとう」
 屈託なく礼を言って、右手を差し出す介三郎に、二浦は苦笑で首を振り、軽く右手を取る。
「成瀬も無事で良かった。マドンナも心配して、すぐ近くまで来てるんだよ。一緒に帰ろう」
 愛美は暫く呆然と、遥か高みの顔を見上げていた。いつも傍にいる柔らかな表情が、一層崩れている。
 ずっと見つめていると、ナイフに裂かれた胸元が苦しくなり、段々視界がぼやけていく。
「ど、どうしたの、成瀬」
 焦って屈みこむと、小さな身体が広い胸に縋り付く。
「な、成瀬。どうしたの」
 両腕を痙攣させて狼狽える介三郎の腕の中で、愛美は両手で顔を覆い泣いた。指の間から零れる涙は、まるで止まることを知らない滝のようだ。
「どうしたんだよ。もう、泣かなくていいんだってば。大丈夫なんだから。雛鳥も香取さんも、皆大丈夫なんだからさ」
 介三郎はしきりに語りかけ、二浦はただ、何かに縛られたように立ち尽くしていた。
「成瀬ってば、ほれ、泣かないでさ」
「だって、涙が止まらないんだもの」
 愛美はそう言って、何度か涙を拭うが、それでも涙は止めどもなく溢れてくる。
「本当は、私、怖くって。だけど、私が泣くと、雛鳥さんや香取さんが困ると思って、泣けなくって・・・」
「成瀬」
「本当に、怖かったんだから」
 言うだけ言うと、甘えるように寄り添って、本格的に泣きじゃくり始めた。
「成瀬ってば、もう大丈夫だから。本当だよ、大丈夫だからさ」
 小さな身体が一層小さく見える。今にも崩れてしまいそうなほど震えているのが、服を通しても分かった。
 余程怖い目に合ったのだろうと、思わずにいられない。
 介三郎はそんな愛美を引き剥がすことが出来ず、長い腕で軽く抱き寄せると、小さな巻き毛を撫でながら、
「大丈夫だよ。頑張ったんだな。偉い、偉い。もう大丈夫だから。本当に、大丈夫だから」
 と繰り返し呟いた。
 二浦は暫くそんな二人を静かに見つめていたが、やがてゆっくりと重い足取りで降りて行った。まるで子守唄のように聞こえる言葉は、やがて二浦の心に淡く染み込んでいく。
「大丈夫、か。俺にもそんな言葉を言える日が来るのだろうか」
 苦笑で肩をすくめた二浦は、聖母像の傍に立ち見上げた。
 大きく崩れた屋根から風が入り、聖母像の裾を掠めていく。いずれこの像も朽ち果てるだろう。
 だが、二浦の想いは始まったばかりである。

 香取は、微かな葉ずれの音も聞き逃さなかった。
「そこに、誰かいるのか」
 まるで独り言のような声が、明り取りの窓から聞こえる。
「そういうお前は、誰だ」
 口の中で小さく呟き、窓を見上げた香取の腕の中で、雛鳥が激しく咳き込んだ。
 何か言おうとしたためだ。
「喋るな」
 厳しく宥めるが、雛鳥は何かしきりに言っている。耳を寄せて聞き取ると、香取はまた窓を見上げた。
「『雛鳥はここだ』」
 それが雛鳥が呟いた言葉だった。
 香取の声が、明り取りの窓の向こうまで届く。
 綾は、窓の格子に結ばれた愛美のリボンを解くと、素早く腕に結び、屋敷の方を見た。お誂えに、男が一人通りかかる。
 綾は軽く跳躍すると、その男の目前に躍り出て、侵入者に驚く男に一言も発する隙を与えず口を塞ぎ、その男の目を見据えた。
 瞳が淡い光を発し、髪がゆらゆらとなびく。
 綾の手が男から離れた時、男は先程とは打って変わってぼんやりとして虚ろだ。
「人質の所まで、案内しなさい」
 ゆっくりと教え込むような口調に従う男は、まるで夢遊病者のような足取りで、納戸へ向かった。
 納戸の前には、見張りが一人立っていた。
「俺が、代わろう」
 男は手を差し出し、見張りに言う。
 見張りはいい加減退屈していたのか、あっさりとその手に鍵を渡し、ここぞとばかりに飛んで行った。
「甘いな。これが玄幽会なのか。部下の統率がなってない」
 とは侵入者の言葉だ。
 綾は、どこからともなく現れて、男から鍵を受け取り、そのまま見張りを命じる。
 納戸の中に入り、中央のカラビツを開けると、階段があった。地下からかび臭さと湿気が、ムッとする勢いで上がってくる。綾は素早く降りていき、牢の錠前を開けた。
「お前は、万里子のところの者か」
 訝しげに問う香取の腕の中で、雛鳥は、よく見えていない目を綾に向け、安堵の微笑を浮かべる。
「もう、大丈夫だ。雛鳥」
 ポーチから小さなケースを取り出して、入れてあった吸入器を使う。すると雛鳥の呼吸が急速に整っていくのが分かった。
「成瀬愛美は一緒ではないのか」
 香取の手枷を外してやりながら、綾は短く問うた。
「連れて行かれた。万里子を意のままにする楯に使うとか」
 自由になった手首を回しながら、香取は答えた。
 綾は微かに顔色を変えたが、すぐ微笑に戻り、香取の腕から雛鳥を抱き取る。
「番長連合総長の腕、見せてもらおうか」
「・・・・・・」
「番長連合が玄幽会に落ちるのは、少々具合が悪い。だが、鷹千穂のマドンナの友人というだけでこれを治めているのであれば、また同じ事が起こる」
 腕に抱いた雛鳥の細い身体が、弱々しく震えている。だがこの場に及んでなお、泣き言を言うどころか笑って見せる。
 口元には微笑を湛えながら、しかし綾のその瞳は金色に光り始め、雛鳥までも包み込むように流れる髪も淡く光ってざわめく。
 それは、紛れもなく、伝説の魔女のものだ。
「実力で勝ち取れ、か」
 すべてを承知したように、香取は呟いて一笑にふした。その目に生気が満ちる。
「それでお前が満足ならば、そうしよう」
 そう言うと、香取は先に牢を出て階段を上る。
 納戸を出て戸口を見ると、見張りがぼんやり立っていた。まずは手始めにと、そいつのこめかみを弾くと、いきなり目覚めたように驚き牙を剥く。
「香取。何故、お前が・・・」
 皆まで言わせず倒したものの、その一声でどこからともなくワラワラと男たちが湧き、見る見るうちに取り囲まれた。だが、香取は一層楽しげに笑い、太い指をバキバキ鳴らしている。
「さて、長い間世話になったお返しは、腕力でさせていただくぜ。勿論、暑苦しい程の熱意を込めてな」
 その言葉が終わらないうちに、一人が襲い掛かって来た。香取はそいつの鳩尾に一発左を放つと、暑苦しいほどの熱意で、顔面に一発右を放った。吹っ飛んだ身体は、数名に激突して、木の葉のように飛んで行き、二度と起き上がれない。
 篠塚の部下たちは、そのパンチ力に慄きながらも、後退する者はいない。香取に向かって一斉に攻撃に移り、瞬く間に大騒動になってしまった。
 それを横目に綾は雛鳥を抱いたまま、悠然と正面玄関へと向かった。瞳の黄金色はかなり薄らいでいるが、全身から発する淡い光は、風になびく長い髪に絡まり、現実味がなくなっていた。
 並み居る部下たちも、まるで綾が見えていないかのように、香取に集中していた。
 香取の肩が揺れて、低い呟きが漏れた。
「夢の中の女、か。確かにその名に相応しい」

 篠塚は肩で息をしながら、私邸に駆け込んだ。鬼面を土色に塗り、生気を失ったような濁った目を虚空に向けて、足を引き摺りながら、屋敷の奥へ急いだ。
「誰か、いないのか」
 掠れて上手く言えないが、それでも懸命に叫びながら道場まできた。だがそこで見たものは、篠塚にとっては悪夢とした言いようのないものだ。
 部下たちは皆、重なるように床に伏していた。その向こう、いつも自分が座っている席に、巨体がどっかりと胡坐をかいている。
「かっ、香取。なぜ、お前が・・・」
「別に、驚くことはない。お前には、とびきり上等の礼をしなきゃならないからな。こうやってお前が帰ってくるのを、待っていたんだ」
 胡坐の上に肘をつき、面倒そうに香取は答える。
「まさかこの有様は、お前がやったのか」
「他に誰がやるんだよ」
 ドッコイショ、と立ち上がり、鬱陶しいと言わんばかりに足元に転がる身体を蹴り飛ばしながら道を作ると、ゆっくりと篠塚に近づいて行く。
「心配するな。どいつもこいつも、ちょっとやそっとじゃ起きゃしない。サシで勝負が出来るぜ。勿論、落とし穴のカラクリも、二度は通用しないからな」
 揉み手の間から、バキバキと指の鳴る音がしている。
 篠塚はへっぴり腰の状態で後退しながら、両手を振って喚いた。
「待て、待ってくれ。あんたの部下は全員解放する。玄武帝に、咲久耶から手を引くように進言してやってもいい。だから、待て」
「いや、待てねえな」
 香取がゆっくりと首を振ると、
「そうですわ。待つ必要などございません」
 と美しい声が重なった。
 真行寺万里子である。
 篠塚の後ろから現れて、艶然たる微笑を篠塚に向ける。
「貴方がするまでもなく、番長連合の方々は、わたくしたちが解放いたしましたわ。代わりに、廃墟に集まっていた貴方の部下たちは、一人残らず捕らえてあります」
「あとは、そいつらの送り先を教えてくれりゃいいだけだよ」
 そう付け加えたのは、寧々だ。
「寧々。お前まで・・・」
 香取の表情から険しさが抜け、穏やかな微笑に変わる。
「答えを、見つけたのか」
 優しさの溢れる一言を、近づいてくる妹にかけると、ふてぶてしい顔が返ってくる。
「仕方ないだろ。まったく、見てられないよ。こんな奴らに世話になってる兄貴をほったらかして、いったいどこへ行けるって言うんだい」
 差し出された手をパンと弾き、寧々は踏ん反り返る。
 それを見つめている万里子の表情は、聖母の微笑に似て神々しい。
 その光景を隠れて窺っていた蛍は、用なしとばかりに帰ろうと道場に背を向けたが、しかし、そこで二人の男子学生がこの道場に向かって歩いてくるのに気付いた。
 誰かと訝しんですぐ、蛍は思いついた。
 ただこちらに向かって歩いて来るだけだというのに、その男たちから受ける気配は、闇に取り込まれる時に悪寒に似て、蛍でさえ、額にネットリとした冷や汗を浮かべずにはいられなかった。
 それは紛れもなく、玄武帝と宰相である。
「このままでは、万里子様に鉢合わせしてしまう」
 とにかく、玄武帝を止めなければならない。
 蛍は軽く跳躍して、両手一杯に糸を持った。
 景甫(かげすけ)は佐久間を従えて、迷うことなく道場へ向かう。ここに着くまでに、真行寺万里子を捕らえ囮に使い、番長連合を叩くという噂を聞いた。そのことが一層、景甫を怒らせていることになったのだ。
 すでに佐久間も、景甫を止める気はないようだ。景甫の背後を守るように、無言でそれに付き従う。
 風が、二人を掠めた。
「ネズミ、か」
 風の正体を見破ってか、景甫は軽く上体を傾けて鋭い風を避け、天井に向かって拳を開いた。天井に大きな穴が開く。
 蛍はそれをかわして、静かに降り立ち、両手を開いた。無数の糸が蛍の身体を取り巻くように流れ、薄暗がりで透き通った炎のような光を発した。
「まさか、『魔女』ですか」
 佐久間が見つめて呟くが、景甫は冷然とそれを眺め、
「まがい物の多いことよ」
 と低く唸ると、今までの衝撃波とはまったく比べ物にならない力で、蛍を廊下の遥か先、道場の入り口まで吹き飛ばした。
「蛍! どうしたのですか」
 いきなり目前に飛んで来た蛍に驚き、万里子が駆け寄ろうとすると、男がそれに立ち塞がった。
「何ですか、貴方がたは」
 諫めるように言い放った言葉を、さして気に留めた様子もなく、男は万里子を見、続いて香取と寧々に視線を移し、最後に自分の脇に膝をつき震えている篠塚を見た。
「げ、玄武帝、さま」
 篠塚は文字通り震え上がり、膝を折ったまま後ずさりすると、頭を抱えるようにしてひれ伏した。
「貴方が、玄武帝なのですか」
 万里子が静かに問い返す。
 景甫の視線がまた、万里子に戻った。
「そういう君は、誰だい」
 輝くような美貌の女性は、気品に満ちた微笑で言った。
「先日は薔薇をありがとう。わたくしが、鷹千穂の真行寺万里子です」
「・・・君が、真行寺だと・・・」
 呟いた景甫は、万里子を食い入るように見つめた。肩の下までしなやかに伸びた髪と、目鼻立ちのくっきりとした細面。黒曜石の瞳と艶やかな唇。すっきりと伸びた手足は均整がとれていて、それを黒のバイクウェアで装っているのが甚だ残念だ。
 だが、景甫は失望していた。
 それら完璧すぎる女には、夢の中の黄金の影など、微塵もないからである。
「女神と魔物の区別がつかぬとは、僕もたいしたことはない」
 やっと目が覚めたというように、自嘲気味に笑うと、香取と寧々に視線を向けた。
「君たちは、女神の何だね」
「咲久耶市東南部を統べる番長連合総長、香取省吾だ。お前が玄幽会の頭か」
 香取はそう答えると、自分の半分ほどしかない男を見下ろした。男子の平均をそのまま形に表したような男だ。巨体と表しておかしくない香取から見れば、たいして恐れることはないだろう。
 しかし、それにも関わらず目前の男は、こちらに踏み込むことを許さない。とてつもなく大きな気と、威厳と品格を備えているのだ。篠塚が魔神にでも請うようにひれ伏したまま顔を上げない理由が、手に取るように分かった。
 そして寧々も、実兄渋谷ほどの男が、幹部クラスに甘んじている理由が理解できた。
「どうやらこの度は、君たちに敗退したようだね。遺憾ではあるが、そこの男に指揮を取らせたこと自体が間違っていたのだ。今回は、僕が引くことにしよう」
 そう言って、篠塚に視線を移すと、燃えるような目で睨み付けた。
「篠塚。お前には、ほとほと愛想が尽きたというものだ。以後、僕の前に現れないでくれ。ついでだが、常磐井の元へ行っても同じことだよ。あれは、敗北者に用のない者だ。どんな目に合うかは、想像しなくても分かるはずだよ」
「か、景甫さま」
 弾かれたように顔を上げ、何かを訴えようとしたが、それは宰相佐久間の厳しい視線で止められた。
 景甫は、万里子のほうを向くと、ノッペリとした穏やかな表情で、言った。
「この者が、そちらの大事な女性を人質に取ったことは、僕がお詫びする。二度とそのようなことがないよう、部下を諫めよう。だが」
 香取と寧々に視線を変えて、
「だが、咲久耶から手を引くのは、今回だけだ。次はそっくり玄幽会が貰い受ける。それまで楽しんでいたまえ」
 万里子が一歩進み出た。
「その時は、わたくしが加勢いたしますわ。香取はわたくしの大切な友人。その友人に手を出される時は、ご自分の足元が崩れる時と、心に留めておいてください」
「マドンナ。もし僕が常磐井に手を出せば、やはり貴女は出て来られるのか」
 この質問にはあからさまに眉をひそめ、万里子は低く答えた。
「どうしてわたくしが、あのようなバケモノの助けなどせねばならないのです。玄幽会が、アレを崩すなら、大手を振って喜んで差し上げるわ」
 はっきりと言い切られ、景甫は思わず笑っている。
「それならばいい」
 滑稽なほど笑って、景甫は佐久間に目配せすると、万里子や香取たちに背を向けた。
「お待ちなさいな、玄武帝。先日の薔薇の意味を、まだ聞いてはおりませぬ」
 気分を害した様子で問いかける万里子に、何とも悩ましい流し目をくれて、景甫は笑った。
「あれか、あれは忘れてくれて結構。単なる人違いだ」
「まさか、貴様。万里子と噂の魔女を間違えたのか」
 香取の言葉に、悠然と歩き去ろうとした景甫が止まる。振り返った時の顔を笑い飛ばせるほど、万里子も香取も安くは出来ていない。万里子は少し俯いて、静かに語りかけた。脳裏には、黄金に輝く少女が浮かぶ。
「玄武帝。魔女は夢の中の人。決して現実には存在しない幻の人。追うのはおやめなさい」
それはまるで、景甫を労わるような響きを伴っていた。
 景甫は、小さく首を振り、また歩を進める。
「くだらない憶測はそれぐらいにして、自分たちの身を考えたまえ。この次は、決して容赦しない」
 言い捨てて立ち去る景甫に従いながら、佐久間は篠塚を振り返った。
「早く気付くべきでしたね。篠塚。貴方が女性を人質に取った時から、すべては破滅に向かっていたのです。残されたご自分の始末は、せめて玄幽会幹部らしく綺麗になさってください」
 牢に繋いでいた香取に何度となく言われた言葉が、玄幽会から受ける最後の言葉であった。篠塚はフラフラと立ち上がり、足を引き摺るようにして道場を出た。もう何も、彼を止める者はいない。
 万里子も香取も、そして寧々も、静まりかえった道場で、ただ見送るだけであった。

 景甫は無言のまま、篠塚の私邸を出ると、ゆっくりと北を目指して歩いた。
 理由はどうあれ初めての敗北は、景甫の上に重く圧し掛かっている。しかも、統合計画の最大のポイントである咲久耶に、一つの輝く星を見つけたのだ。
 それが、自分とは相反する星であることは、真行寺万里子を見れば分かる。
「景甫様、お車をお呼びいたします。こちらでお待ちください」
 交差点で信号に引っかかり、ようやく立ち止まった景甫に、佐久間は気遣いながら言った。答えはないが、微動だにしないところを見ると、車を呼ぶのは構わない様子だ。
 佐久間は軽く一礼して、離れた。
 車道を行き交うライトを見つめていた景甫が、突然顔色を変えて、大きく目を見開いたのは、車道の流れが変わった直後だ。
 その流れが止まり、歩行者の為の信号が青に変わるまでの短い時間が、まるで永劫のようであった。
 景甫の背に、背をむけて女が一人立っている。
 景甫には当然見えないが、女は髪を腰の辺りまで真っすぐ伸ばし、濃いサングラスで顔を隠していた。
「集中力が足りないな、玄武帝。こうも易々と背後を取れるとは思わなかったぞ。この程度で万里子の相手をしようなどとは、身の程知らずも甚だしい」
 皮肉げに笑っている声が、景甫の耳に届く。
 低く澄んだその音が、景甫の脳裏に残る黄金の影を引き摺り出した。
「まさか」
「以後、咲久耶には現れるな。もし、また真行寺万里子とそれに関わるすべての者たちに害を為すならば、今度こそ私が玄幽会をぶっ潰す。それからもう一つ。勝手に夢を見られては、迷惑だ」
「やはり、君が『魔女』か」
 短い呟きは、綾の言葉を汲み取ってのことではない。
 景甫は目を閉じて、自分の背後を感じていた。
 この感覚だ。
 右半身がまるで電気を通すように痺れている。それはあたかも自らの半身に吸い寄せられるように、低く鳴動しているようだ。先日までの焼かれるような胸の疼きは、何故か心地よい痛みに変わっている。
 それきり黙った景甫に、まるで愛想を尽かした顔で綾はその場を去った。
 遠ざかる背中を振り返ろうとした景甫の視界に、横断歩道の向こう側で殺気をみなぎらせた桜が映る。わずかにでも振り向こうとすれば、攻撃をしかけてくるだろう。
 信号が変わり、歩行者の為に音楽が流れる。
 いつの間にか、大勢に取り囲まれている景甫を避けるように、人の波は流れた。すでに右半身の痺れはなくなっている。桜も雑踏の中に紛れてしまって姿はない。
 景甫は笑った。
「どうやら、単なる戯言では済まなくなったようだ。本当に『君』がいるならば、どのような手を尽くしても、僕のものにしなければならないよ」
 その表情は、確かに、威厳と雄雄しさと品格に縁取られ、玄武の旗を背に輝く皇帝のものに他ならなかった。

 それから数日後。
 鷹千穂の中央館の中庭で、丸テーブルを挟み、万里子と香取は向かい合った。
 香取の右には寧々が座り、左には二浦が立っている。
「本当に、一時はどうなるかと思いましたわ。香取。やはりわたくしは、留守番の方が似合ってますわ」
 コロコロと笑って、万里子は寧々を見た。
 いつもは傍にいるはずの雛鳥は、まだ養生の為、学校を休んでいる。
「だがああいう限り、玄武帝はまた来るだろう。其の為にも、番長連合の建て直しを急がなくては」
 香取は神妙な面持ちで唸った。
 寧々と万里子の笑いが混じる。
「兄貴が考え込むなんて、全然似合わないからやめとくれよ」
「そうですわ。香取。寧々もこうしていらっしゃるのですから。悩むと禿げましてよ」
「たまに悩むとこれだ。まったくお前たちには敵わないよ。そうだろう、二浦」
 仕方なく笑い飛ばして、香取は二浦を見た。二浦も困って笑っている。
「そうですね、総長」
 答えた視線が、香取から離れた。
 愛美が香取のことを聞きつけて、駆けてくるところだ。
「おう、愛美。元気になったのか」
 満面笑顔で立ち上がった香取は、加速のついた愛美の身体を軽々と放り投げ、幼い子にヒコーキだと言って遊ばせるように振り回した。
「か、香取さんてば、怖いから止めてよ。ほら、危ないってば」
 狼狽えて捲くし立てたが、眼下の厳つい顔は、満面笑顔で止めようとしない。
 愛美の後ろから来た介三郎が、万里子の傍で蒼くなっている。その顔を見て、寧々が笑った。
「大丈夫だよ、ボーヤ。何もあの世まで放り投げることはないから」
「はぁ、しかし」
 介三郎は寧々の視線にオドオドと頭を掻く。寧々は意地悪っぽい笑顔で、万里子に視線を移した。
「これが、あんたと一緒にあたしを迎えに来た奴かと思うと、頭痛がするよ。何がどうして、こう情けなくなるんだい」
「きっと、恋のせいですわ。捕らわれたのがわたくしなら、きっと介三郎さんは留守番の役に回ってましたわね。そうでしょ、介三郎さん」
 寧々に合わせて、意地悪く流し目をくれた万里子に、大袈裟に違うとジェスチャーするが、既に二人とも聞いていない。
 寧々はふと、険しい顔になり、万里子を見た。
「恋で思い出したけど、玄武帝は本気で夢の中の女に恋していると思うかい」
 潜めるように問う寧々に、万里子も難しい顔をして見せた。
「分かりませんわ。ただ、そうでなければいいと思っているだけです」
「ふむ。恋する男は危険ということか。君子危うきに近寄らず。からかうのは、ボーヤだけにしておこう」
 さっさと切り上げた寧々は、中庭に向かい三階の廊下に知った顔を見つけて手を振った。蛍が微かな目礼を返す。
「もう、香取さんってば、目が回ったじゃないの」
 やっと下ろしてもらった愛美は、頬を膨らませて抗議した。それに笑って、巻き毛を撫でてやると、一転笑顔が返ってくる。
「よく頑張ったな。愛美。見上げたもんだ」
「香取さんも、手首の怪我とかよくなったのね。本当に、一時は手首が腐ってしまうかと心配したのよ。二浦さんもすっかり傷が治ってよかったわ」
 そういって二浦を振り返ると、眩しそうに目を細めるハンサムがいた。思わず極上の笑顔で答えてしまう。
 香取の目尻が、いたずらっぽく下がる。
「そうだ、愛美。お前、天光寺に来い。俺が可愛がってやろう。二浦も喜ぶ」
「総長!」
 突然笑い飛ばしながら言った香取に驚いて、二浦は不似合いな程狼狽えた。
 その意味がよく分かってないのか、はたまた介三郎に対する想いが決まったせいなのか、愛美は笑って舌を出す。
「残念でした。私は鷹千穂の生徒会書記の座を捨てる気はありません。それにここにいれば香取さんにも会えるもの。私はマドンナの傍にいることにするわ」
 介三郎が胸を撫で下ろしたのは言うまでもないが、その傍で、万里子も満足した様子で息をついている。
 愛美は忘れないだろう。介三郎に連れられて教会を出た自分を見て、万里子がどれほど喜び迎えてくれたか。
 だから雛鳥の言葉を信じよう。
 介三郎が、そして万里子が、本気で自分を心配していることを。それが決して嘘ではないことを。
 そして、もう一人。
「綾」
 彼女もまた、嘘で人を傷つけるような者ではないだろう。たとえそれが何者であっても。
 中央館二階の理事長室辺りを歩いていた綾に、愛美は大きく手を振りながら、声をかけた。厳ついメガネで隠した瞳が、微かに笑っているのが分かる。
 それを見上げた香取と二浦の脳裏に、黄金に輝く女が浮かんだ。
「夢の中の女、か。実際、悪くないな」
 香取の肩が微かに震え、満足したような微笑の端で呟かれた言葉は、離れた場所から見下ろす綾にも、届いた。

シューティング・ハート 白銀の皇帝

シューティング・ハート 白銀の皇帝

全14回

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-04-04

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