感情アスリート(4)

四 お楽しみのバージョン

「あのね、わたしね、失礼かも、嫌味な言い方かもしれないけれど、左ハンドルの車しか運転したことがないの」
 次に画面に出てきたのは、少し化粧の濃い若い女性。
 十分嫌味ですよ。お嬢さん。ヤクザの次は、キャバクラ嬢か。俺だって野球の時は、グローブは左につけるぜ。ほかに、左と言えば、頭の巻き方が左巻き、考え方も左指向っていつも友達にいわれるね。ほっといてくれ。俺は変わっているんだ。人と変わっているから、俺なんだ。人と全く同じならば、単なるコピー人間になってしまう。俺みたいになりたいんならば、いつでも、あんたの鼻を押してやるよ。変わっているとは、俺への賛辞、そして、常に変わる続けることが、俺の生き方なんだ。
「それでね、空港も、成田しか知らないの。羽田って、成田と同じつくりなの?同じ田がつくから、昔は、田んぼだったのかしら。田んぼの幼虫が成虫となって、羽田から成田まで飛んでいき、虫の飛行場から、ジェット機の空港に成長したのかしら。そう言えば、飛行機も羽が生えているわね。虫と飛行機って、兄弟か、親子の関係なのかしら。血は繋がっていないけれど、大空を飛ぶシステムの知は受け継がれているはずね」
 残念だけど、羽田と成田の間に航空路はないよ。そりゃあ、突然、飛行機が事故か何かで着陸しなきゃならなくなって、成田から羽田、羽田から成田に降りることはあるかもしれないけれど。俺は、航空関係者じゃないから、詳しいことはわからない。過去にも、例があるかもしれないな。まあ、それはそれで無事、着陸できればちょっとした遊覧飛行かも知れないね。それに、虫と飛行機が、兄弟か親子だなんて、どこからくる発想なんだ。人類は、鳥のように大空を飛んでみたいという願望から、飛行機を発明したのだろうから、虫と飛行機が知でつながっているという物の見方はいいね。相手が、キャバクラ嬢だとなめてかかっちゃいけないな。自戒。
 だが、俺は、鳥に憧れたことはあっても、虫に、夏に清らかな血を吸いにくる蚊に、憧れたことはないな。折角の夢心地の最中、聞こえるか聞こえないかの羽音をたてて、忍び寄る吸血鬼。顔に止まったぞ。それ、と右手ではたく。顔には手形、指形がつき、赤く腫れあがるものの、肝心の獲物の姿はどこにも見えない。眠い目をこすりながら、ベッドから起き上がり、ぺっしゃんこになっているはずの標本材料を探すがみつからない。
 ふと、左足がかゆく感じる。赤く膨れ上がった水疱。やられた。敵の誘導作戦にまんまと引っ掛かってしまった。昨晩も同じだった。右足の親指の付けが膨れている。ひょっとしたら、仲間の蚊がいて、一匹の蚊が獲物を引きつけている間に、もう一匹の蚊が足を刺す囮作戦を実行しているのだろうか。だからと言って、憎い蚊と同じような羽を背中につけて、ブーンと部屋の中を飛び回り、ハエのように手を叩きながら、蚊を追い回したいとは思わない。
 話がずれた。彼女が成田しか空港を知らないと言うことは、海外旅行しかしたことがないと言うことか。それとも、成田空港内のコンビニで仕事をしていて、従業員専用通行券を紛失してしまい、何年間も外へ一歩も出られず、そのまま空港生活者になったのか。前者なら、十分嫌味だ。
 また、また、話は変わるが、俺は、大江戸線の地下から地上に抜けるのに、走り上がったことがある。エスカレーターに乗ったままの一日の疲れを抱えた会社員や塾帰りの子供たちを尻目に、ポン、ポン、ポンと二段飛ばしで階段を駆け上がる。人間って、不思議なことに、急に、たわいもないことに一生懸命になってしまう。周りの者が、拍手してくれるわけでもないし、憧れの君に自分のかっこいい姿を見せようっていうことでもないのにね。何なんだろう。この湧き上がってくる熱い激情は。自分で自分を抑えきれないし、いや、返って、もう一人の自分が、自分を鼓舞している。そうなりゃあ、誰だって、頑張らないわけにはいかない。自分の応援団が自分なんだから。
 でも、それが反対に、大きな落とし穴となることもある。言っておくが、階段や通路の一部が剝がれて、小さなひっかかりができ、それに躓くことではない。翌日、足がパンパンに膨れ上がることだ。ヘタをすれば、ベッドから起き上がれないくらいの筋肉痛だ。もう一人の俺が俺を応援して、もう一人の俺の体が、俺を動かなくさせている。実に、不思議な現象だ。俺が、俺に弄ばれている。まあ、俺のことはいい。成田に話を戻さないと。
 えーと、成田と羽田の田んぼの話だったな。田んぼがどうした。それじゃあ、三田は田んぼが三枚あったというのかい。うん、そうだったかも知れないな。でも、田んぼが三枚とは少ないな。それとも、数の数え方で、一、二の次が、たくさんを意味する三であれば、話がわかる。つまり、三田は、開墾された田んぼが広がっていたと言うことだ。それ、本当か?他に、田が付く名前の地名は、田園調布だ。これは・・・。
「それでね、必ず、旅行の時の送り迎えは、店のお客さんにお願いしているの。いつも、いつも頼める訳がないし、そんな客なんかいないと疑っているのね。それが、大丈夫なの。私のお客さんだけじゃないわ。海外旅行に行く友達四人のうちの誰かのお客さんを捕まえればいいの。でも、お客さんとの関係はそれだけよ。ただ、送り迎えしてもらうだけ。手だって握りはしないわ。「ありがとう」の言葉と微笑みだけで、みんな、満足してくれるの。みんな、やさしい言葉に飢えているのかしら、それとも、誰かにやさしくすることを欲しているのかしら。どちらだっていいわ。私たちは、私たちの初期の目的を達成すればそれで充分よ。お客さんが、自分に都合のいい理由を考えてくれればそれでいいのだから。
 あら、ごめんなさい。あなたは別に心配しなくてもいいのよ。あなたに、今度の旅行に送ってくれなんて頼まないわ。来週、カリブに行くのよ。いいでしょう!念のために、日程と時間を教えるわ。送迎用の車は右ハンドルでもいいわよ。あなた、サラリーマンでしょう?お給料だって安いでしょう?車を持っていなければ、無理して、この日のために、車を買わなくてもいいわよ。当日は、レンタカーでいいわ。
 でも、軽自動車はやめてね。だって、四人乗りでしょう。運転するあなたが乗れなくなっちゃうじゃないの。それに、荷物だってあまり積めないでしょう?。だからと言って、二トン車のトラックはやめてよ。これでも、あたしたちお客さんなんだから。後ろの荷台で、田舎のお祭りのように、鉦や太鼓でも叩いて、獅子舞でもしろというの。でも、踊りだったら大丈夫。これでも、プロのダンサーを目指して、アメリカに留学したことがあるんだから。たった一か月だけど。それでも、自分の経歴には、箔がついたと思うわ。
 あーあ、カリブ旅行が楽しみだわ。さっそく、荷物を積み込まないと。ディナーに出るための服だけでも、バッグが一杯になっちゃう。何回も言うけれど、できれば、できるだけ、トランクの大きな車をお願いするわ。バックだって、大きいんだから。一人二個から三個は必要なのよ。一か月の長旅よ。本当に、あなた一人で大丈夫かしら。心配だから、誰か、友だちを連れてきてもいいわよ。今回だけは許してあげる。鏡モチ運びの選手権のチャンピオンなら、最適ね。そう言う人、あなた知っている?」
 おいおい、俺だけでは、不足なのか。それに、楽しいのは、俺じゃなくて、相手の方じゃないか。とにかく、全く、話が噛み合わない。会話というより、話の一方通行だ。仕方がない。バージョン変更だ。
「ちょっと待ってよ。まだ、話が終っていないわ。それでも切っちゃうの。残念ね。また、指名してね。今度は、私が、カリブから帰ってからだから、あと一ヶ月後よ。忘れないでね。それまで、寂しいかも知れないけど、大人しく待っていてね。今日は、本当にありがとう」
「お楽しみバージョン」の画面が消える。

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四 お楽しみのバージョン

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • SF
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-04-04

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