普通
その夜、町田という男は、ひどく寂れた公園に来ていた。
半袖に短パンというラフな格好だったが、片手には大きめの包丁を持っていた。
この公園は少し広く、町から近いという理由もあって多くのホームレスが野宿していた。
町田はそのホームレスを殺しに来たのだ。
ベンチの上で大きないびきをかいているホームレスがいた。
町田はその男の元に行くとホームレスの頬を、包丁の側面でぺちんと打った。
ホームレスが驚きながら目を覚ました。何が起こったか理解していないようだった。
「な、」
ホームレスが何かを言う前に、町田は包丁を逆手に持って高く振りかぶり、そのまま一気に下ろす。
包丁はホームレスの喉と顎の間に深く刺さった。
素早く引き抜くと血液が大量に拭き出し、街灯の光でキラキラと輝いた。
ホームレスは喉をごぽごぽと鳴らしながら目を丸くし、口から血の泡を漏らす。
拭き出す血を止めようと震える手で喉を防ぐが、指の間から血液が勢いよく溢れる。
体全体がガクガクと震えている。よく見ると瞳も小刻みに揺れていた。
大量に拭き出す血になすすべなく、ホームレスの震えはだんだん収まり、やがて止まった。
手が喉元から離れベンチからだらりと落ちたが、拭き出す血はまだ止まらない。
ホームレスは何も抵抗できず、何も理解できずに死んだ。
町田はその様子を返り血を浴びるのを嫌がり、ほんの少しだけ離れて見ていた。
笑うわけでも動揺するわけでもなく、ただ無表情でホームレスを見ていた。
そのホームレスをしばらく眺めていると、後ろから声がした。
「みーちゃった。人殺しの瞬間」
それは女の声だった。
町田はかなり驚いたが、深呼吸をして逆手に持った包丁を握り直し、静かに振り向いた。
そこには白いセーラー服を着た中高生くらいの少女が街灯の真下に立っていた。
「なぜ逃げず俺に話しかけた」
町田は少女に包丁を向けた。
「あなたは何故、人を殺すの」
少女は全くひるまなかった。血に染まった包丁は街灯に照らされ、ギラギラ輝いていた。
「俺が普通じゃないからだ」
少女はそれを聞いてクスリと笑った。それを見た町田は少し怯む。何を考えているのか。
「それは理由になってない。だってあなたはどう見ても普通の人間だもの」
どうやら少女の目には、ホームレスを殺した男が普通の人間に見えるようだ。
いや、外見が普通だと言う意味だろうか。たしかに町田はそれほど痩せていないし、髪型だって服装だって普通の人間と大差はない。
「人は見かけによらないものだ。俺は理由も無く人を殺した、人殺しだ。普通じゃない」
そう、普通じゃない。それは小学生でもわかることだった。
「理由も無く人を殺すわけがない。あなたの理由を聞かせて頂戴。」
殺人を目の前で見て、ここまでふてぶてしい態度を取れるとは。
町田にはその少女がとても不気味に思えた。
そして町田はその不気味さに負け、自分でも意識せず少女に理由を話し始めた。
「しいて言うなら欲求だ。普通の人間の食欲、性欲と同じように俺は人を殺したい欲求があるだけだ」
町田は包丁を構えた。次の少女の返答が終わったら殺すつもりでいた。なんと言われようと。
「そう、案外普通の理由だね」
少女に向かって駆け出そうとした足が止まった。少女の言葉に少し混乱したのだ。
「普通、そうか。普通に見えるか。どこが普通なんだ」
町田はムキになった。自分が普通じゃないと自分でわかっていたからだった。
「普通よ。よくある人殺しの理由でしょ。誰でもよかった、ただ人を殺したかったって。ニュースや新聞でよく耳にする平々凡々な理由。小説や漫画によくある普通の決め文句」
この少女のどこにそんな余裕があるのか、何故そんなに町田を挑発するようなことを言うのか、それが町田には全く分からなかった。それは町田に動揺と恐怖を生んだ。
「普通じゃない。俺は人の命を奪って何も後悔はしないし申し訳ないとも思わない。何故ならそれが生活の一部だからだ。食事や睡眠と同じく生きていくために必要な行動だからだ。決して普通なんかではない」
町田は思わず怒鳴ってしまっていた。
「そう、あなた自分で自分が普通じゃないって思ってるんだ」
相変わらずの言い回しだった。この少女には恐怖と言う感情が欠如しているように見えた。
「そうだとも。自分でも普通じゃないと思っている。人を殺すのが普通じゃないことはわかっている。だけど人を殺さないと生きていけないから殺している。普通じゃない自分が嫌で、いつも普通に憧れ苦しんでいるのに、俺が普通だと。ふざけるのもいい加減にしろ」
町田の心は少女の不気味な恐怖によって溢れてしまった。溢れた心は町田の叫びとなって表れた。
町田を長年悩ませていた普通じゃないという考えを、小馬鹿にされたような、そんな気分だった。
「自分が普通じゃないのが嫌だった。なにそれ、すっごい普通の悩みじゃん。それも思春期中学生のような悩み。もしかしてお兄さん、中二病ってやつをこじらせちゃってるんじゃない」
少女はケラケラと笑った。明らかに馬鹿にした笑いだった。
その笑い声は、町田が足を進ませるための十分な理由になった。
「俺は普通じゃない。これからも、この先も」
包丁が少女の元に真っ直ぐ走る。しかし少女は全く逃げようとしなかった。
少女の腹に包丁が入る。皮膚を切り裂き肉を進む抵抗が包丁を通して良く伝わる。
包丁は柄の部分まで深く入った。ホームレスよりもはるかに良い感触だった。
「激昂して刺してくるなんて、普通の人間と大差ないよ」
少女は刺されているというのに淡々と喋った。白いセーラー服が赤く染まり、口元から血が垂れる。
俯いて表情は見えないが、口角が鋭く上がっていた。笑っている。
――この女は、普通じゃない。
町田は腰を抜かして、その場に尻餅をついた。
「普通だよ、あなたは普通の人間」
少女は自分の腹に刺さった包丁を力を込めて抜いた。セーラー服の下で血が噴き出してるのがわかった。
そして抜いた包丁を、腰が抜けて座りこんでいる町田に向けた。
町田の顔は恐怖に歪み、ぜぇぜぇと息を切らし、今にも気を失いそうだった。
「あなたは普通の人間だから、普通じゃない人間に恐怖している」
町田に向けられている包丁は、街灯の光で真っ赤に怪しく、鋭く輝く。
「あなたは普通の人間だから、この世の中で生きていたいと思う」
街灯が点滅した。街灯に群がる虫の影が素早く行きかう。草木が怪しく揺れて、ざわざわと音を立てる。ホームレスと少女の血の匂いが、口から鼻の奥へと這う。
「あなたは普通の人間だから、さっきのあなたが殺したホームレスと同じように」
街灯がびりびり鳴り、虫が音を立ててぶつかった。風が公園内をごうと突き抜け、誰も載っていないブランコが揺れる。町田が思わず後ろへ下がると、ホームレスの暖かい血だまりに手が触れた。
死の感覚が、町田を囲んだ。
死にたくないという感情、それは町田に自分が普通の人間だというのを実感させた。
「あなたは普通の人間だから、あっけなく、驚くほど普通に、死んでしまう」
少女は素早く包丁の刃を上に返すと、二歩踏み込み、包丁を真っ直ぐ突き出した。
包丁は町田の喉を後ろまで貫通し、間髪入れず振り上げると、豆腐を切るように頭が簡単に裂けた。
二つに裂けた頭からは、おびただしいほどの血液が噴水のように拭き出し、辺りを赤く染める。
あっという間に町田は死んだ。ピクリとも動かない。
死に方はどうであれ、普通に死んだ。誰もが経験するであろう死を普通に迎えた。
「普通に生まれ、普通に死んだなら、それはもう普通の人間だよね」
少女は包丁を地面に置き、その場を静かに去った。
後日、その公園で発見された血だまりや包丁に付いた血液がDNA鑑定されたが、ごく普通の人間のDNAが三人分検出されたという。
普通