いなくならないで
いなくならないで。俺に熱を教えてくれた人。
真っ白な満月の下で桜の花は満開に咲いていた。風がゆらりと吹く。枝先についた花びらはひらひらと空を舞い落ちていく。
樹いつきは日本酒を嗜みながら、桜を見ていた。俺はその横でぼんやりとしていた。
「締め切りが近いと催促の電話が鶏のように鳴いている。もう少し余裕を持てないのかね、編集部は」
樹は悠然としたまま、杯を重ねた。
俺はそれを見て、多少ではあるが申し訳なくなる。今日は俺の背中の憑き物を祓うために、一日中樹は付き合ってくれたのだ。
俺は何にも気にしていないという風を装って言った。
「締め切りを重視しない作家なんて先が短いに決まっている。俺のことなんかより自分の食い扶持を稼ぐことの方が大事だろ」
樹は声を出して笑った。
「嘘つきは閻魔様に舌を抜かれてしまうぞ。裕人」
何もかもをお見通しだと言わんばかりに樹は目を細める。その猫のような瞳から逃れるように俺は視線をそらす。桜が視界の隅ではらはらと舞っていた。
「お前は優しいな。私を労ってくれるのだから」
「労ってなんかない」
「今日の夕どきに作ってくれたイカと里芋の煮物は実に美味しかった。お前はどんどん料理の腕を上げていくな」
「違う。料理の腕は上がったけど、別にあんたのためじゃ」
所在なさげに視線を彷徨わせていたが、樹に頭を触られると、動けなくなった。樹の長い指が髪を弄る。
白くて、そのくせ男らしいごつごつとした樹の手は俺の明るい茶の髪で遊ぶ。
「綺麗だな……」
樹の形のいい唇から溢れた言葉に俺は首をすくめた。
「何言っているんだ。俺は汚いだろ」
樹は何度も俺の背中を見ている。俺の背中の醜い痣を。以前の事故で命が助かったものの、その代償に大量の想いに取り憑かれてしまった。
こんな人間は綺麗どころか、汚いに決まっている。
少なくとも俺はこの痣を持って以来、樹以外とうまくしゃべることができない。
「いや、綺麗だな、桜の花びらが舞い散るこの場所で、ふてくされるお前ほど美しいものはない」
「何だよ、それ。いつまで髪をいじっているんだよ」
俺は樹の手を髪から外そうとした。しかし逆に腕を掴まれる。強いが痛くはない、けれど外せない力。
息が詰まりそうなほどに真摯な視線は俺を射抜く。
「早く、憑き物を落とそう」
唇が触れるか触れないかの距離で紡がれる言葉。俺が目を見開くと、樹は真っ白な満月を背に微笑んでいた。
「そうしたらお前は人間が怖くなくなる」
重なり合う唇が心を軋ませる。憑き物が取れて俺がこのコンプレックスから解放されたら、俺はあんたとの接触を失うんだ。声にならない叫びが頭に響く。
唇の熱が気持ちよくてゆっくりと目を閉じる。
俺に人の熱を教えてくれたのはあんたなのに。あんたはきっと綺麗になった俺になんて興味を持たないのだろう。そうして俺を幸せにして、どこかに消えてしまうのだろう。
一際風が強く吹いた。桜の花がばらばらと散っていった。
いなくならないで