恩返し
(作者註:虫が苦手な方は読まないでください)
相川が娘の智子の挙動不審に気付いたのは、夏休みが始まって間もない土曜日だった。
今年中学に入った智子は、夏休みになっても部屋でゲームばかりしていたのだが、その日は庭に出て何かコソコソやっていた。しかも、庭から玄関に入るや否や、真っ直ぐ二階の自分の部屋に戻ってしまったのだ。
相川はすぐにピンときた。
智子は幼い頃から虫などの小動物が好きで、自分の部屋で密かにダンゴムシやカタツムリを飼育していたことがある。それくらいはまだいいのだが、カマキリの卵を孵化させたときは、さすがに家中パニックになった。
まあ、本人もそれ以来多少は懲りたはずだが、はて、今度は何だろう。智子の部屋には勝手に入れないし、虫嫌いの妻に相談するわけにもいかない。相川は明日になったら、庭を調べてみようと思った。
翌日、相川が庭に出てみると、いるわいるわ、庭中小さなバッタだらけである。環境問題にうるさい妻が殺虫剤を使わないので、近所中のバッタが大集合しているのだ。だが、まあ、バッタなら大したことはあるまい。相川はそっとしておくことにした。
夏休みの後半、一週間の予定で妻が智子を連れて里帰りすることになった。
その前の日、仕事から帰って来た相川は智子に呼ばれた。
「パパにお願いがあるんだけど」
相川は、そら来たぞ、と笑ってしまった。
「わかってるよ。バッタだろう」
智子は目を丸くした。
「そうなの。捕まえるのが大変なのよ」
何かだか少し雲行きが怪しい。
「ちょっと待ってくれよ。もうそんなに捕まえなくても、充分だろう」
「だめよ。おなかを空かせちゃうわ」
ますます怪しくなってきた。
「あのさ、エサは葉っぱか何かだろう」
「そんなの食べないわ。食べるのは生餌だけよ」
相川はやっとわかった。智子が飼っているのはバッタではなく、バッタを食う何かだ。
「聞くのが恐いんだけど、おまえが飼ってる生き物は何だい?」
智子は黙って部屋の奥を指差した。
そこには透明なプラスチックの飼育箱が二つ並んでいた。ひとつは1センチに満たない小さなバッタが数匹入っている。もうひとつはミニサイズの植木鉢を縦半分に切ったものが伏せてある。
智子は植木鉢の入っている方をコンコンと叩いた。
「ヤーさん、出ておいで」
エサをもらえると思ったのか、そいつが植木鉢のシェルターから顔を出した。ヤモリであった。
「なるほどなあ。それにしても、『ヤーさん』というネーミングは、どうかな」
「あら、どうして。カワイイじゃない」
「まあ、名前はいいか。だけど、ちょっと、あれだな」
「あれって、残酷ってこと?」
「うーん。何かヤモリフード的なものってないのかな」
「だめよ。さっきも言ったけど、ヤーさんは生きたエサしか食べないの。見てて」
智子はバッタの方の飼育箱から器用に一匹捕まえると、ヤモリの方の箱に入れて素早くフタを閉めた。
バッタはしばらく激しく跳びハネていたが、疲れたのか、一瞬動きが止まった。じっと様子を伺っていたヤモリは、その瞬間を逃さなかった。普段の動きからは想像もできないような素早さで、アッという間にバッタを捕獲していた。
これは残酷などという事とは別次元のものだと、相川も認識を改めた。
「ね、カッコイイでしょ」
「うん、まあな」
「毎日じゃなくていいわ。ニ三日に一回、バッタをあげてね。足りないときは、庭にいっぱいいるから」
「わかったよ」
智子の留守中、死なせたり逃がしたりしないよう、相川は頑張った。多少愛着も湧いたので、智子が旅行から戻っても、エサの確保に協力した。
だが、季節の移り変わりとともにバッタが大きくなってきて、手頃な小さいものは滅多にいなくなってしまった。いずれにしろ、室内で冬眠させることは難しいので、智子と相談し、放してやることにした。
秋風が吹く日曜日、相川は智子と一緒に庭に出て、飼育箱からヤモリを出した。すぐに逃げると思っていたが、立ち止まり、しきりに智子の方を見ている。飼い主を認識するような知能はないはずだが、環境の変化に戸惑っているのだろうと、相川は思った。
智子はしゃがんで、ヤモリに声をかけた。
「いいのよ、行きなさい。無事に冬を越すのよ」
その言葉がわかったのか、ヤモリは裏山に続く草むらに向かってまっすぐ走って行き、すぐに見えなくなった。
さすがに智子は淋しそうな顔をしている。
「智子、あいつが恩返しに来るといいな。だけど、持ってくる宝物は、きっとバッタだよ」
元気づけようと相川が冗談を言うと、智子も笑った。
「そうね。でも、ヤーさん、人間に変身してくるかもよ」
「うーん、それはちょっと、困るなあ」
(おわり)
恩返し