あの年のノギク

Gu Bin

あの年のノギク

これは僕自身の体験をドキュメンタリーエッセイ化したものです。
めちゃくちゃレベルの低い日本語ですみません。お読みいただきありがとうございます。

  1994年の夏はしょっちゅう停電したが、あの夏の台風は往年より多かった。
  ある日の夜、また停電しちゃった。めちゃ熱くて、たいくつでたまらない、幸いなことに外の風が大きいから、僕は一人で外へぶらぶらして涼みに行った。最初のコースはよく覚えていないが、町の東へ歩くのが間違いなかったはずだ。どのようにして新塍中学校の運動場の北にある学生寮の近くに歩いたのも覚えていないが、あの時学校はもう夏休みになったので、人が誰もいなくなった寮舎だった。一階の折り戸は錠をおろしていないのを見かけたかも知らないから、僕は4階のベランダならさぞ風が大きくてここより涼しいだろうと思いながら、一人で4階に上がったところ、やっぱり思ったとおりここが涼しかった。
  完全に閉まっていないままになる学生寮の扉と窓たちの蝶番が風に吹かれて音を出してた。ここのベランダでは欄干にもたれて立つしかできないから、僕は寮の中に入って腰掛けとか探してみた。
  夜ですが、月光が窓から斜めに差し入ってくるので、室内はぜんぜん何も見えないのではなかったんだ。中ではものすごくごたごたして教科書、宿題本などあっちこっちに捨てられていた。でも非常に静かで落ち着いた場所だった。
  その後の停電または暑い夜に僕は用事さえなければ、そこに涼みに行った。一人でのつまらない時間をつぶすためかもしれないか、僕は手当たり次第に部屋の中で本を拾って窓の側で読むともなく読んてみたところ、ごっちゃになってる面白味のない教科書や参考書の中に1冊の手書きノートがあった。中に書かれていた席幕容の言葉は今になっても覚えている:「謎を言い当ててはじめて気づいた。すべて過ぎ去り、歳月の話題はとうに変わった」。中には他に数多くの素晴らしい名言が書かれてたこのノートはどうせ捨てられたものだから、僕に家に持ち帰られた。処理した覚えがないけど、最終紛失物になちゃった。
  時には僕はある場所に対して、ある言葉で表すことができない感情を生むことがある。この誰もいない、静かで人に邪魔されない、裏窓の外の木の上からセミの鳴き声が聞こえる学生寮棟は僕の夜の気分転換所になった。あの時の僕はなんとなくその人がいなくなった空き部屋ならではの淡く微かな寂しさが好きだった。
  ある夜、僕は4階の西にある部屋の中で一枚の小さい紙袋を拾った。中には白黒の証明写真と名前と住所を書かれていた紙を一枚ずつ入れておる。
  張敏芳 嘉興市郊区歩雲郷群聯村7組。
  見た目で善良そうな顔をしている女の子だった。
  写真をその本人に郵送してあげることはその場の思い付きかそれともその後の考えかすでにはっきり覚えていないが、最終、僕は写真を紙に記載された住所に郵送してあげた。手紙の中で事のあらましを説明し、自分が同校でしかも一つ年上だから、相手のことを師妹「(シバイ)学年が下の女学生」と呼んだ。
  意外なことに、2、3日経つだけで返信が届いた。あの時僕は両手油汚れまみれで自宅の裏庭で機械を組み立ているところだった。「手紙が届きましたよ」と知らせられ、前庭にある住まいの家屋に見に行くと、テーブルの上にセロハンテープで封をされた封筒が置かれていた。
  手紙のやり取りは数ヶ月続いた。最初敏芳さんは僕を不良青年と疑い、わざと僕のことを知てる学友がいると言って探りを入れてみたこともあるが、これに感づいて怒る僕にすぐごめんなさいと謝った。本当に穏健で善良な女の子ですね。時間の経つにつれだんだん互いに親しくなってきた。一日も早く僕の手紙を受け取ることができるよう、敏芳さんは代理受取という方法を考え出し、当時歩雲中学校に在学する弟の宛先にお出しくださいと僕に頼んだ。
  あの年の夏、僕は自転車で歩雲に行った。初めての歩雲だった。あらかじめ手紙で彼女に知らせなかったが、町で数回ぶらつき回った僕はやっぱり偶然彼女に出会いたかったんだ。歩雲に到着後、群聯村のおおよその方位を尋ねておいたが、歩雲の東にある聯合橋のさらに東の交差点を過ぎてから、僕は道を間違ってちゃった。北へ曲がってその比較的に広い道路に入りそれから東へ行ってしまった。結局、そこから十数キロも乗ったのに、見つけなかった。
  帰ってから手紙で彼女にこのことを教えたところ、 敏芳さんはとても驚喜した。歩雲はどうですか?新塍とは同列に比べる町じゃないだろうと手紙の中で僕に聞いた。敏芳さんに教えられて分った。彼女の家はその歩雲の東の交差点で南へ曲がって道路に沿ってしばらく行けば着く。そしてまた機会があればこの次おいでなさることを歓迎と僕を誘った。
  たぶんこの言葉が起こりで、1994年11月7日の夜、僕は自転車で往復6時間で歩雲に行った。でもこんども事前に手紙で彼女に知らせなかった。その日のふとひらめく決定だからかも知れない、夜の突然訪問は彼女の邪魔になると思うだからかもしれない。
  時まさに稲刈りの農繁期に当たって途中の農家はみんな自宅の稲場で稲刈り後の脱穀作業をしていた。出あう可能性がある野良犬の襲撃から自分を守るために、歩雲に着いた後、僕は棍棒を用意してから村の方向へ行く。だいたいこの辺だと思うところで道端の小さい塗料工場の当番さんに聞いたところ、ここからもう少し東に行ってそれから北の村道へ曲がると群聯村だと言われた。
  敏芳さんの家の所在する村についに到着した。途中の農家と同じように、ここの家々もちょうど稲場で電灯をかきたてて脱穀作業をしている最中だった。僕は村に近付いていないで自転車を村道の西側の刈取済田んぼの藁ぐまに斜めに立て掛けせて、自分は藁ぐまにもたれて腰を下ろして、わざと身につけて持って来たロシア製のオペラ・グラスでこの労働場面を見て画面の中で敏芳さんの姿を見つける。しかしそれは敏芳の家だというような明確な目標が欠けているので、レンズの中で想像の中の彼女らしい姿は一人も見えなかった。それにしても帰り道に向かう僕はやはり大満足だった。ただ空間上の接近だけだからであっても。
  それ以降の手紙の中で僕はこの歩雲夜歩きには言及しなかった。敏芳さんはこの年の秋から当地のある化学製品会社の財務課に勤めた。この期間に約束した時間に電話を掛けたことがある。ドキドキする二人で、電話の中で僕は彼女に暇の時手紙を書いてくれてと頼んだと覚えている。実は就職後、彼女からの手紙は少なくなるんだ。でも僕からは依然として時々手紙でその時の自分の見聞や感想を記録して彼女に送った。幼稚な内容もあったはずだけど、とにかく僕の手紙数は彼女のよりはるかに多かった。1994年以降、彼女の手紙は殆ど無くなった。彼氏ができて異性間の文通には反対されるという状態の下で僕の手紙は友達からの偶然連絡として半年、一年おきにして2000年前後まで続けた。
  期間、僕はバスで数回歩雲に行ったことがあるが、なじみのある土地を見るだけで彼女を訪れる気持ちなんてぜんぜんなかったんだ。
  2005年の夏に一身上の都合で数週間意気消沈状態に陥った結果、懐旧の情が心に湧き出てた。僕は敏芳さんに1通の長い内容の手紙(他の連絡方法は知らないから)を書いた。後日、友人の栄祥さんの家で茶話する時に知らぬ間に話がこの往事に触れて僕は歩雲に行って見てみたいという気持ちを言い表したところ、その場で僕のお相伴をして一緒に行こうと祥さんに提案された。今回、僕達は歩雲に到着後、直接に敏芳さんの勤務先のその化学製品会社に行ったが、すでに転勤したと言われた。財務課のスタッフは親切に彼女の今の会社に連絡してくれた。会社を出て間もなく僕は彼女からの電話を受け取った。ご無沙汰しておりますとか挨拶してこの数年来の大体の経過を語り合った。手紙は元のように村に送りましたと彼女に知らせてあげた。
  その後、僕と栄祥さんは群聯村に行った。いまは小圩里と地名変更された元の7組のところで数枚の記念写真を撮った。
  実は、巡り来る夏ごとに僕は彼女のことを思い出す。敏芳さんは僕にとっていったい何の存在ですか?僕はその答えを探してみたことがある。彼女は僕の初恋ではない、僕の愛している人、愛したことがある人でもない。でも僕は確かにかつての彼女に対してお恋々たる情がある。善良な彼女は思春期の僕の初めてのあこがれた人、初めての心の底までさらけ出したことがある女性だ。その夜に自転車で往復6時間の単純な情熱は僕にとってそれきりだ。その後の誰に対しても二度とないんだ。
  だから、たまに歩雲に行くのは彼女に出会うためか?そうじゃないようだ。この願いを自分は実感していないからだ。僕の探したいものはそのかつての自分かもしれない、そのすでに消えた一本気な自分、その短くて麗しい時期だ。
  今なお、僕は依然としてあの夏の蝉声を思い出すことがある、あの[ノギク]という歌も。
  その理解と憧れは淡淡だけど、空間と時間を越えていままで消えたことがないんだ。

  僕のライフに現れて一段の心の歩みを同行してくれてありがとうございました。

                             
        (完)

あの年のノギク

あの年のノギク

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
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