君たちが壊れるときに
1章 私の中の貴方と僕の中の君
白く清潔感のある待合室はどんよりとした空気に包まれている。ときせつ上がる嗚咽も、ここでは日常だ。受付を済ませた人々が長椅子に腰をかけて順番をまっている。その顔は一様に暗かった。
言動でアンドロイドと人間区別をすることはほぼ不可能といってよい。感情を持つようになってから、境界線は更に曖昧になり、境界線をつくる意味すらも薄れている。しかしそれも、全てはバグを抜きにしての話だ。
「咲さん交代です。休憩行ってきてください」
「んーさとちゃんーおつかれー」伸びをしながら鈴木咲が椅子ごと振り向いた。
水野悟が務める研究室で、悟のことをさとちゃんと呼ぶのは上司であるこの人だけだ。そもそも、自分のことを咲さんと下の名前で呼ばせるのも、この人のこだわりだ。
「鈴木なんて地味な名前私には似合わないの」などとのたまい、鈴木さんと呼ぶ悟の声をことごとく無視し、咲さんと呼ぶまで返事をしようとはしなかった。悟にとっては懐かしくも苦い思い出である。
「じゃあ休憩いくから、後よろしくさとちゃん」
「はい、お疲れ様です」
悟は席につくと順番待ちの名簿が表示された画面に目をやる。名前、バグが起きたアンドロイドの名前、現在のアンドロイドの状態が表示されている。薄い壁の個室で次の依頼者を待つ。入ってきたのは若い女性だった。
「お待たせいたしました浅井様。本日は高橋優介様のバグ修正のご依頼で間違いないですか?」
依頼者である浅井美季は、ぎこちなくうなずいた。
「高橋さまは停止状態ということですが」
バグを起こした最愛の人の姿が蘇り、美季の息が詰まる。悟もそれを感じ取るが、言葉を続けた。
「浅井様、どの様にバグを修正するか決定する為にも、その時の状況をお教えください」
バグが起きた瞬間、その人にとって辛い瞬間を思い出させることに、胸が痛まないわけではない。しかしなぜバグが発生するか詳しいことが分からない現在では、ひとつひとつバグ発生時の状況を聞いてゆくしかない。
感情移入をし過ぎてはいけない。それは咲さんに教わったことでもある。全員の人生に介入できるほど、僕たちは強くない。
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3年前の春に借りた部屋はお世辞にも綺麗とは言えない古ぼけたアパートだった。鉄製の重い扉は、気をつけていないと、部屋が揺れる程大きな音を立てて閉まったし、窓から見えるのは、何も植わっていない割れた鉢と隣家の物置と化した路地。そんな完璧ではない部屋を優介は秘密基地みたいだと言った。
女が家事、男が仕事などという前時代的な考え方を持っているわけではないが、なんとなく優介を台所に立たせるのは好きではなかった。美季より少しおぼつかない包丁使いや、容量の悪さを見てヒヤヒヤすることになる。それに、リビングに面したキッチンからはいつも優介の後ろ姿が見えた。その姿を見ながら料理をするのが好きだった。一人掛けに毛が生えたような、狭い二人掛けのソファで優介はいつも寛いでいる。
「今日は随分早かったね。あと1時間は掛かるよ」
「んーまってるよー」
きっと優介は今日が何の日か憶えていない。まだ付き合って間もない頃、そんな彼の性質に呆れ、寂しく思ったりもしたものだ。
ケーキを出したら、あれ?という顔をして「あーそうだった!」とでも言うのだろう。今日で付き合って8年になるというのにそういうところは変わらない。それに一々腹を立てなくなった自分の変わりようが、今まで過ごした月日を想わせた。
「いただきます」
「はいどうぞ」
一口目は必ず優介からだ。
「ん、おいしい」
その一言を聞いてから、美季も自分の料理に手をつけ始める。
「いただきます」
いつもよりおかずが多いことに気づいているだろうか。優介が好きなメニューばかりなのに気づいているだろうか。気付かれなくとも注ぐ愛情の暖かさが、美季は好きだった。優介は食卓の彩りを見て、幸せを感じ、好物を食べて、にこやかになる。それだけで幸せだった。
「ふー食べ過ぎた」
優介が苦しそうに息を吐く。食器をキッチンに運ぶのは優介の役割だ。一仕事終え、優介は定位置に戻る。安いソファは優介が腰掛ける方だけ、やけに凹みが目立ってきていた。さて、本番はここからだ。ケーキを運んで優介の不思議そうな顔を見る。その後はケーキを食べながら、8年間の二人について話をする。そんな楽しげな光景が浮かび、美季の口角は密かに上がっていた。
帰ってきてから大急ぎで作ったケーキをそっと運ぶ。優介は相変わらず、背中を向けたままだ。
「優介!」
ケーキをテーブルに置いてから声をかける。優介は振り返り、笑顔を向けるだろう。しかし、優介は振り返らなかった。
回り込んで優介の顔を覗き込む。人が全く動かなくなることが、こんなにも不気味なことだと初めて知った。浮かべている表情は、照れたような、にやけた笑み。一目見るだけで幸せそうな、優しく細められた瞳。短い髪から覗く耳は上気している。
付き合って日の浅い頃、照れると赤く染まる耳をよくからかった。色々な思い出が浮かんでは消える。自分が今何をすればいいのか、美季には分からない。ただ、優介の幸せそうな顔をぼーっと見つめていた。
ふと、視線を落とすと、優介の大きな手が不自然な形に握られている。そっと包み込むような掌の中には、華奢な石の付いた指輪があった。
あんなに無頓着だった優介が、2人の記念日に用意した美季の薬指にぴったりの指輪。8年間一緒にすごしてきて、なにも言わない優介をみてきて、それでも一緒に過ごせるならいいと思っていた。それでも幸せだった。
優介が指輪と共に伝えようとした言葉を聞くことは、きっとこの先永遠に叶わない。そんなおぞましい予感が、美季の胸を支配していた。
バグを修正する方法は、現在2つある。
一つは初期化をする方法だ。初期化することでバグを修正することが出来るが、アンドロイドは全ての記憶を失う。
もう一つは 新たに開発されたメモリを使う方法である。メモリ使うことでアンドロイドのもつ情報を圧縮し、負担を減らすことでバグを修正する。初期化と違い、記憶を残すことができるため、開発当初バクが世界から消えると期待された。しかし研究が進む中で圧縮をすることで情報が劣化するということが分かってきた。
「感情は確かにあるが、それが自分のものでないように感じる。自分と感情がぴったり一致せず、誰かの感情が間違えて自分に入り込んでしまったようだ」と初めにメモリを使ったアンドロイドは語り、それがバグの特効薬ではないことが判明したのだ。
アンドロイドにとって感情は非常に大きな情報量を占める。それを圧縮するのだから、もちろん劣化の度合いも大きくなってしまう。
それが意味することはとても残酷であり、メモリを使う事は初期化に劣らないほど辛い選択肢となった。
「優介さんがメモリを使った場合、劣化が激しいのは貴方への愛情と思われます。それを知った上で、初期化かメモリかを選んでいただきたいんです」
悟は美季に告げた。
自身が持つ一番大きな感情が劣化する。だとすれば優介が失うものは明らかで、その事実はあまりにも鋭かった。
誰のものかも分からない愛情に巣食われ、優介の本当の感情はどこへ行くのだろう。美季との8年間がただの重荷になってしまう。そんな苦悩に満ちた世界へ優介を連れていきたくはなかった。
美季は優介との8年間をもう一度繰り返そうと心に決めた。優介が優介で居られるように。
「初期化して下さい」
いつか貴方が帰ってくることを信じて。
悟は静かに頷いた。
「明日バグ修正を行います」
美季はただうなずくことしかできなかった。
美季は研究室を出た後、小走りで家へ向かった。気持ちが急いてたまらなかった。その場でじっとしていることなど到底出来ない。
家に着いて、まずは掃除をはじめた。お互いの仕事が休みの日には、2人で部屋の掃除をした。長年の生活でついた細かな傷を消すことは出来ないが、それでも掃除をした後の部屋はシャキッと姿勢をただしたように見えた。窓を綺麗に拭く。外には放置されたものがパズルのように積み重なっている。それをじっと見ていると、この部屋もその連なりで完成したみたいに思えた。
あぁほんとだ。秘密基地みたいだね。
しばらくろくに料理もしていない。優介の好きなものをたくさん作ろう。優介の後ろ姿はいつものソファにある。いつもの風景が台所からは見える。料理をしている間は無心でいられる気がした。
優介の好物ばかり作っていたら、気づかぬうちに優介が停止した日と同じメニューが完成した。
「優介、ご飯だよ」
今までなら嬉しそうに振り向いていたが、今の優介はただソファに腰かけたままだった。美季は優介の側へ行き、彼を食卓へ運ぼうとしたが、美季の力では優介の身体は動かない。しばらく考えて、美季はテーブルを優介の前へ引きずっていった。嫌な音が静かな部屋に響く。
優介の向かいに座って、美季は料理を食べ始めた。その姿は側から見れば、随分滑稽だっただろう。ソファの高さはテーブルに対してずいぶん低い。それでも美季は優介の顔を見ながら、優介の好きな料理を食べたかった。
「まさか優介がプロポーズしてくれるなんて思わなかったなー」
「いつからかんがえてたのー?」
「全然気付かなかったよ」
「新しいソファ買おうね」
「優介」
料理の味など、もう分からなかった。優介が美味しいと言ってくれるから美味しかった。喉がひくついて、この塊を上手く飲み下せない。自分の心の一部を切り取られた痛みが、美季をかけ巡っていた。
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優介を初期化する日は呆気なくやって来た。悟は美季の家へ向かい、路地を歩いていく。パズルのように積み重なった家々が、窮屈そうだった。
美季の部屋の前で、悟は立ち止まる。自分がまるで二人の幸せな思い出を消し去る悪魔のように思えて仕方がなかった。鉄製の冷たい扉を叩く。中から出てきた美季は思ったよりずっと穏やかそうだった。部屋は綺麗に整頓されている。奥のソファに座っている優介の顔は、彼らに無関係な悟をも苦しくさせる程に幸せそうだった。
「初期化を行ってよろしいですか?」
それが最終確認だ。そうすれば、優介は初期状態に戻る。
「おねがいします」
美季はなにかに祈るようにそう言った。
初期化はとても簡単に済む。一部の研究員に配られた端末で初期化のプログラムを個体に送信すれば、それは完了する。
悟が優介へ初期化プログラムを送信した。
優介の表情から感情が消える。それは、優介の中の美季とそれに伴った記憶全てがすっぽりと抜け落ちた合図だった。
悟は報告書を手に研究室へ急ぐ。
「咲さん、報告書です」
「報告書です。って、これ先月の提出分じゃないのー!!!」
「すみません」
「もーまとめて出すんだからね!非番の日にわざわざだしに来るくらいだったら、ちゃっちゃとやってちゃっちゃとだす!」
まるで宿題忘れを咎める教師の様だと思ったが、口には出さなかった。口は災いの元だ。特にこの人の前では。
ついでだから仕事して行きなよー!と呼び止める声を軽く受け流し、悟は研究室を後にした。
賑やかな広場を歩いていると、今さっき報告書を書いたばかりの優介が、ベンチに腰かけていた。悟が声を掛けようか迷った一瞬の間に優介がこちらへ気がついた。
「お久しぶりです。今日はお休みですか?」
優介は人のよさそうな笑顔を浮かべた。
「ええ、優介さんはどなたかと待ち合わせですか?」
「恋人を待っているんです」
幸せそうに、おそらくその人を思い浮かべながら答えた。
「美季さんはお元気ですか?」
優介は申し訳なさそうに
「彼女とはもう一緒にいないんです」
と、答えた。
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優介は初期化からしばらくは美季と生活した。仕事にもはやく復帰しなくてはならない。記憶を失った優介は元の生活に戻る為に奔走した。もちろん美季はそれに協力を惜しまなかった。
やっと一段落出来たとき、優介は感謝の気持ちを込めて、美季にケーキを買っていった。初めての給料で買ったケーキを抱え、いつもより急ぎ足で家路につく。心なしか浮かれているような気がした。美季は自分をほめてくれるだろうか。
「ほらケーキを買ってきたんだ いろいろ手伝ってくれてありがとう」
ケーキを見ると、美季は嬉しそうに優介の手を取った。なにか違和感が優介の心をかすめる。
「ありがとう 本当にうれしい 前のあなたもここのケーキが好きだったの」
嬉しそうにケーキを皿に取り分ける美季を眺める。この気持ちはなんなのか。何かが違うように感じる。だが優介はなにがどう違うのか答え合わせをすることが出来ない。
ケーキを食べ終え、二人でテーブルで紅茶を飲んでいた。美季に見つめられているのを感じて視線を向けると、美季の手がそっと優介の頬に触れた。そのまま唇が近づき、美季が目をとじた。優介は目を閉じることもせず、拒むこともせずただ前を見据えた。その瞳に、美季は映らない。
「違うんだ。僕は…」
近づいていた顔が離れる。優介が美季の肩を押し戻し、二人の間に距離が出来る。
「僕は君に感謝している。でも、それだけなんだ」
優介は美季の顔を見る事が出来なかった。見てしまったが最後、この部屋から抜け出せない気がした。
「ごめんなさい 私あなたの気持ちを・・・前に戻ったみたいで・・・」
美季は泣きながら謝った。優介はこの部屋を出ると決めた。
「新しい部屋の近くの店で働いていて、一目惚れだったんです。美季さんと住んでいたときも親愛の情は感じていたつもりでした。でもそれとは全然違う感情が湧いた。これが恋だと、初めて本当の恋に巡り会えたのだと思ったんです」
それは優介にとって初恋と呼べるのだろうか。
「美季さんには悪いと思っています。けど、僕は彼女を愛することが出来なかった。彼女の愛情を本当の意味で受け取ることは出来なかった。僕が彼女に感じていたのはいうなれば母親に感じるもので」
それは優介のせいではない。感情を操ることは誰にだってできない。それでもあれほど優介を愛した美季の気持ちを思わずにはいられない。
悟が言葉に詰まっていると、向こうから女性が小走りでやってきた。
「ごめーん!仕事が長引いちゃって!彼は?お知り合い?」
「僕のバグを修正してくれた人だよ」
「あなたが!若いのに辛い仕事ねーでも、あなたのおかげで彼に出会えたの!ありがとう!」
「いえ、こちらこそありがとうございます。あの、僕はこれで。」
幸せそうに寄り添う二人に別れを告げ、悟は帰り道を歩く。
もし優介を初期化せず、メモリを使ったのなら、美季に対する愛情は劣化していただろう。劣化した感情は消えてしまうのと同じだ。いや本当はそれよりも悪いのかも知れない。愛すべき時を過ごした記憶を抱いたまま、気持だけ霞んでしまうのだから。
小さなあの部屋で二人過ごした時間。握りしめた婚約指輪は彼の思いの塊だったはずだ。それなのに突然その時はやってくる。
初期化をし、美季を愛せなくなった優介、新しいメモリを使い美季への愛情が劣化した優介、どちらかがより良いなんてことはない。どちらも同じように美季にとっては痛い。美季にとっては、動かなくなった彼をそばに置いておくのが一番良かったのかもしれない。そうして二人の思い出の時間と空間と記憶に浸りながら生きる。それが幸せと呼べるのか本当のところは分からない。それでもこんな結末よりは、幾分ましじゃないか。
屈託なく微笑む優介はこれから美季のことを忘れていくだろう。ただ一時を助けてくれただけの他人だ。
一つの愛を失っても、失ったことさえ憶えていないのなら、無かったことになるのだろうか。初期化が出来ない美季は、ずっと一人で記憶を抱えていく。優介が渡そうとした指輪は、そのときの優介の想いを表し続ける。二人が一緒にしあわせになることはできなかったのか。一体どの選択肢を選んだら、幸せだったのか。あるいはどの選択肢なら、不幸では無かったのか。
答えの出ないまま、悟は自らのメモリが埋め込まれた額に手を当てた。
1章完
2章へ続きます
近日更新
2章 僕だけの香り
暗い表情が行き交う研究所に、不釣り合いな声が響き渡る。
「うっわー初めてきたー!広いっ!広いよ!達也!」
「春香一人だけ浮いてるよ。みんな静かに順番守ってるからね。ちょっと静かにしようね」
諭すような呆れたような達也の声に、春香は辺りをキョロキョロと見回した。
「うっわほんとだっ!すごい浮いてるね私!」
その声はついさっきまでの大きさと変わらない。
悟の元へやって来た2人は、年齢はそう変わらないようなのに、なぜか親子のように見えた。達也の大人びた雰囲気とは対称的な、春香の好奇心旺盛な瞳。二人を取り巻く空気は研究所と不釣り合いに、温かいものだった。
「本日はどのような?」
「こいつが周りを見えなくなったんです」
「見えてるよっ!」
春香が達也の肩を軽く叩く。
「んーなんて説明したら分かりやすいかな。俺以外のものが見えたり見えなかったりするんです」
達也は自分の説明が要領を得ないことに苛立ちながらも、それ以外で今の春香の症状を言い表す言葉を見つけることが出来なかった。
君たちが壊れるときに