ロストチルドレン

ロストチルドレン

[1]

 ある日僕の身体は、考えることも動くことも放棄した。頭に詰まっていたはずの脳みそは、ただ柔らかくて温かい何かになり、その他の僕の身体はすっかり抜け殻になって、外側は、誰からも見えなくなってしまった。
 途方に暮れた僕が街を彷徨い出て、それからどのくらいの時間が経ったろう。きっと大した時間も経っていないうちに、僕の元には、ひどい霧が襲ってきた。霧のやって来る様子は山火事にも嵐にも例えようがなく、けれど、その広がりは夜のように恐ろしく早かった。
 霧は気が付けば天と辺り一面とをすっかり白く染め上げ、僕に太陽の在り処を忘れさせた。そしておぼろげな森と地面と影だけが、後に残された。
 僕はそうして、この霧の亡霊になってしまった。霧中をあてどなくさ迷い歩く、ずっと昔に聞かされた、おとぎ話の中にしかいないはずの生き物に。


 その日は土砂降りの雨が降っていた。足元は底なし沼のようにぬかるみ、空を包む霧は一層深くなっていった。僕は歩き疲れて、森の中で大きな木の洞を見つけてそこに隠れ、膝を抱えてじっと蹲っていた。
 何日ぐらいそこで過ごしたのか。僕にはそういったことが、まるで見当もつかなかった。だってここにはろくに夜も訪れないし、時折木々の合間から差す、光の正体さえ疑わしい。ここにはただ寒い、冷たい気だけが延々と漂っているのだ。
 僕の着ていた外套はぐっしょりと濡れて、もう何の役にも立たなかった。履いて来た革靴は泥まみれで、元からそんな上等なものではなかったが、今は目も当てられないぐらい無残な有様となっていた。病で爛れた皮ふに、一番似ていた。
 靴は水を吸って重たく、濡れた布は風に晒されて、ジンジンと肌に突き刺さってくる。僕の透明な身体は爪先から芯まで、あますところなく、氷のように冷え込んでいった。


 洞の仄暗い闇の中、僕の目はらんらんと輝いていた。僕はこの暗がりに暮らすうちに、今度は、そういう生き物になったらしい。まばたきのことを考えて遊んでいただけなのに、いつの間にかこうなってしまったのだから、ここは不思議だ。僕の身体はもう、寒さも痛さも、重ささえも忘れてしまったようだった。
 相変わらず霧は晴れない。しっとりと濃厚な水気を孕んで、乳白色の霧はもったりと、いつまでもそこにいる。よく見れば、うぞうぞと動いてもいる。木々はその中に立ち尽くして、墓標のように動かなかった。


 雨が降る、雨が降る。
 このところうんざりするほど雨が降る。地上の霧はそのおかげで晴れているが、鬱蒼とした森の先が見通せないのは、同じことだった。
 この洞へ来て間もなく、僕にはうっすらと黴が生えてきていた。小さな丸い、慎ましげな黴で、今、二つほど胞子が肩に乗っている。壊さないよう丁寧に触ってみると、それは動物の毛皮のような、少しごわごわとした硬い手触りがした。
 しばらくするうちに、僕の周りにはもっとたくさんの黴の胞子が飛びかうようになった。ポワポワとほの白く光る、縁のはっきりしない、ふしぎな球状の生き物。恐ろしく小さなやつだから、きっと以前は見えなかったものなんだろう。


 ふと目を覚ます。寝ていたのか? いつの間にか、全くわからない。
 霧は今日もずっしりそこにいた。胞子は神さまの流したエーテルに乗って、緩やかに浮き沈み、時に居着き、また転がる、転がる……。
 僕は抱えっぱなしの膝の上にまた一つそれがやって来たのを見て、もう一度目を瞑った。


 ある日夢の中で、僕は森の奥に小高い丘があるのを見つけた。ここへ来た時と同じように、夢の森をフラフラと彷徨い、森を抜けた先に、そこを見つけたのだ。
 丘へ登ると眼下には深い深い渓谷が刻まれているのが見えた。巨大な白い霧の塊が、その合間でじっと蹲っている。僕は遠くの山頂にまばらに並ぶ背の高い木を眺め、頭上にどんよりと垂れる曇り空へと目を移した。
 濁った灰色の空は汚れた霧のベールを纏い、どこまでもどこまでも天を覆い尽くしていた。森は渓谷の下に重たく沈み、どこかに太陽があるなんて、この景色を見たら誰も信じられないだろう。
 村も道も、何も見えはしない。僕はそんな世界が、随分と味気なく、けれど、途方もなく、広くなったと感じた。
 ふと、涙が頬を伝うのを感じた。(夢だったからか、僕はそのあったかい感じを知ることができた)僕は泣き、ふらふらとまた歩き出して、そうしてまた同じ森の中で、目を覚ました。


 僕は洞の亡霊だった。霧と黴の子で、服はおまけ。靴もおまけ。
 森は広くて古いから、どんなものだってたまにはいることがある。僕もその一つ。
 僕は自由。
 むかし僕の身体を作っていたものは、ここではいらない。
 鎖の残骸だけを胸に抱いて、僕は昨日も今日も明日も、ここで暮らしている。

[2]

 僕はあの丘に立って以来、眠ったまま歩くことを覚えた。きっと亡霊とは、元々そういうことができる生き物だったのだろう。
 僕の「思考」は「身体(と、僕が今呼んでいるもの)」と昔よりも親密で、だけどちょっとだけ、そのバランスがむかしとは異なっていた。「身体」はかつて思考がそうであったように、ただ何となく、そこにあるのみなのだ。
 「身体」は僕の漂う「思考」に寄り添うように、どこかで静かに、じっと待っている。そしてたまに、ここにいるよ、って、僕の耳元(「思考」にも耳がある)にそっと囁いてくるのだった。


 森は深く静謐で、霧は生きている。僕はいつしかそう信じるようになった。
 僕の目の前に広がる世界はいつも何の変わりも無く、永遠と思われる。だけど永遠という言葉は、ここでは無意味だと思った。なぜって、ここには壊れるものなど何一つなく、僕も含めて、何もかもが、ただあるがままに流れているだけなのだ。ヒトは何かが失われる世界でだけ、永遠という夢を見る。
 永遠というのは多分、喪失の長さと深さを表すための言葉なのだろう。


 黴は僕の身体にしんしんと積もっていく。まだまだ薄い。僕をすっかり埋め尽くすにはこれからもっと、途方もない時間をかける必要があるだろう。未だくっきりと残る僕の赤い外套の色が、まだ目で見てわかる。


 最近は何となく、霧が濁っている。雨も降らない。
 僕はそんな時期に、思い出して、ちょっとだけ腕を動かしてみた。膝を抱いていたのをほどいて、背中を支える棒のようにして、後ろへとぺたりと手をついた。
 その時に腕に付いていた胞子が、ハラハラと舞い落ちた。地に落ちた彼らはひどく困惑したろうが、何の抗議もせず、落ちた先の土に黙って落ち着いた。


 自分に顔があるということに、僕はその日久しぶりに気が付いた。そしてそのことは、僕に、むかしの自分について少しだけ思いを巡らせた。
 僕が鏡を見たのは、ずっと小さな頃。街の通りに押し寄せる人混みの中で、僕はショーウィンドゥに映った自分の姿をちらりと見た。
 アーモンド形の小さな瞳が、一瞬だけ、こちらに向けられる。
 僕は今でも、あれが自分だと納得できない。


 夢との境目では色々なことが曖昧になる。ひょっとすると僕はまだ自分があの街にいるのではないかと思ったり、そうかと思えば、そもそもあの街のことが夢で、最初からずっと夢の中にいたのだという気にもなってくる。
 最早どちらだっていいことなのかもしれないけれど、僕が安心するのは、まだこのか弱い胞子たちと一緒に、土の上にいるということがわかる時だった。


 森の夜は暗い。いつだってここは暗いが、それでも夜になると少しだけ寂しくなる。
 そう。なぜかは知れないが、ここには最近、夜がやって来るようになったのだ。
 そんな時僕はいつも溜息をついたり、意味も無く首を傾げたり。眠れない夜ほど時が長く感じるのは、生きていた時と同じだった。
 僕はこんな姿になってからもほとんどの夜を眠れずに過ごしている。だけどかえって、楽になったとは思う。もう暗闇に怯えて夜明けを待たなくていいし、やって来た夜明けの先のことも、恐れることは何もない。


 とある暮れに、降りてきた胞子の一つが僕に話しかけてきた。それは人の言葉ではなかったが、僕にはなぜか、彼の言うことがわかった。
 僕はおずおずと、彼らの言葉で答えてみた。すると胞子は何ともくつろいだ様子で、満足そうに一回、頷き返してくれた。


 霧がまた濃くなってきた。何だか前よりも重く、白く、まるで本当のミルクみたいに、見通しがきかない霧だった。
 僕は身体を横たえて、それを見上げていた。そろそろと動いていく霧の様子が最近までは見えていたのに、今は完全に白濁して、見えなくなってしまっていた。
 目を瞑って旅をしてみたが、何も見つけられなかった。どこまで行っても白いばかりで、泥水の溜まった黒い小さな沼と、そこに倒れ込んだ木だけが見つかった。
 もう帰ろうかと思った矢先に、僕はあるものを見つけた。


 それは木の根元にあった。もうずっと昔に朽ち果てて、今はわずかな骨だけになってしまった、細く脆そうな、 子供の骨だった。
 彼(女の子かもしれない……)は動かなかった。
 僕はしばらく待って、誰かががここを通り過ぎることを期待した。もとよりそんなことはありえないと知っていたけれど、だけどどうしても、僕はこの子のことを誰かに話したかった。
 結局、訪れる人もなく、僕はそこを後にした。きっともう二度とは会いに来られないが(この夢の旅では、同じ場所にやって来ることはできない。同じ思考を寸分たがわず辿ることが、不可能であるように)、僕は、彼の思考がどこかで、穏やかに暮らしていることを願った。


 森も谷も抜けた場所? それはどこだろう。僕は自分でもわからない。一度森を抜けて見晴らしの良い丘に出たことがあるが、そんな場所はどこにも見つけられなかった。あるいはあの曇天を突き抜けた、雲の上のことだろうか。
 僕は微睡みながらなおも考えた。かつて雲の上にあった、太陽のことを。もうとうの昔に忘れてしまった、あの温かな輝き。霧を吹き飛ばし、風を巻き上げる、あの日差し。

[3]

 風が吹いている、珍しい日だった。僕は目を覚まして、いつも僕の父さんがやっていたのを真似て、あぐらをかいた。膝に乗っていた胞子はきっと世界の突然の変動に驚いたことだろう。
 どうせまたすぐに同じ日が続くことはわかっていても、たまには違う日がやって来るのだ。ここの日常とはいつも同じようで、やや違う日々のこと。ごくごく小さな切れ端が、どこまでも隙間なく、繋がっていく。


 切れ端を繋いで、さらに繋いで、一つの何かになるだろうか。
 父さんはそういう難しい計算が好きだったが、僕は苦手だった。切れ端と切れ端の合間には必ず埋められない溝があって、そう丁度、この霧みたいにはっきりしない何かがそれをぼかしてしまっている。そんな気がしてすっきりしなかった。
 今、霧が僕を包んでいる。僕は誰にも見なくなってしまった。あの隙間ある切れ端の世界には、もう戻れない。
 僕はようやく積もってきた肩の胞子に頬を押し当てながら、目を閉じた。


 夢の中には父さんがいた。僕はとても驚いて、声も出せずに、それを見た。
 父さんは広くて深い川の向こう岸に立っていて、手をだらりと両側に下げたまま、ぴくりとも動かなかった。その土気色の顔にはどんな表情も浮かんでおらず、ただじっと、虚ろな目でこちら岸を眺めている。
 僕はその場に立って、その姿を見つめていた。おそらく父さんには、僕のことが見えていないのだろう。僕は、父さんが懐かしかった。


 その夜、森には激しい雨と風が吹き荒れてきた。
 僕を包む環境は天地をひっくり返したかのように一変し、森は今までにないほどおぞましく、低く凶悪な声で唸り始めた。霧は強い風で吹き飛んだかわりに、後にはひどく獰猛な暗黒が襲ってきた。木々はここぞとばかりに秘めてきた怒りを漆黒の中で暴走させ、狂犬のごとく夜を駆けめぐった。黒い溶岩の流れる空には雷が轟き、地面には猛々しく、禍々しい呪術の太鼓が響き渡った。
 僕と、黴の多くはびしょ濡れになった。
 僕はここへ来た初めのように、身体を限界まで縮こめ、頭を決して上げぬようにして、怯えて震えていた。


 嵐は長いこと続いた。僕はその間、身じろぎもしなかった。身の内から湧き上がる恐怖で眠ることもできず、ずっと目を見開いていた。
 僕にくっついていた胞子は徐々に弱り、やがて、ほとんどが息絶えてしまった。かろうじて残っている肩の胞子も、仲間を喪った悲しみのあまり、今まさに魂の灯を絶やそうとしていた。
 どうしてこんなことになったのか、僕にはわからなかった。どこか僕の知らないところで、神さまが癇癪を起して泣き喚いているのかもしれない。
 エーテルはもうぐちゃぐちゃだった。どうしようもなく濁ってしまって、混沌とした狂気の渦は、夜毎に激しさを増すばかりだった。僕が耐えきれなくなって泣き出すと、さらに世界は濁ってしまった。


 ……。
 気が付いたら、僕は随分と静かな場所にいた。
 外ではまだ嵐が鳴り響いていたけれど、そこでは、風雨は窓の外の出来事のように遠く感じられた。
 僕の目の前には、幼い女の子が立っていた。
 少女はアーモンド形の黒々とした瞳で、真っ直ぐに僕を見つめていた。小さな唇は生き生きとした桃色で、それは森では、決して見られない色だった。
 僕たちの周囲は途方もなく大きな白い壁で取り囲まれていた。壁のどこにも窓は無く、あるはずの天井も、高過ぎるせいか全く見えなかった。ただ嵐の音と気配だけが、直接的に僕の耳の奥に響いてくる。きっと僕の「身体」だけがまだあの嵐の中で、びしょ濡れのまま、洞の中で蹲っているのだと思った。
 「思考」の僕は少女を見ながら、尋ねた。
「ここは、どこ? 君は、誰?」
 少女は拙さの残る発音で、蚊の鳴くような声で、言った。
「あなたを、おとうさんがさがしている」
「お父さん?」
「あなたは、かえらなくちゃいけないの」
 少女はくすんだ赤い外套を着て、擦れ切った革靴を履いていた。煤で汚れた頬は痩せこけていて、白い額にはほつれた長い髪が、汗でべったりと張りついていた。
 桃色の唇から、欠けて黄ばんだ歯が覗く。少女は最後に、僕の名前を呟いた。


 僕の名前。
 ずっとむかしに、忘れたはずだった言葉。


 帰る。返る。還る。孵る。
 僕は一体、どこへ行けばいいのだろう……?

[4]

 嵐はとある朝に、ふと止んだ。
 その時僕はまぶたにチリチリとした痛みを感じたので、瞑っていた目を、おそるおそる開いてみた。そうしてゆっくりと顔を上げると、洞の入り口がほの白く光っていた。
 わずかに生き残った胞子が僕の肩や腕で、ほのかな、しかし確かな呼吸をしていた。その息吹は今までにない力強さを秘めていて、新たな仲間が芽吹きつつあるのだと僕にもわかった。僕は彼らの逞しさに驚きながらも、そうっと深呼吸をして、洞の外へ出た。
 外には、澄んだ晴天が広がっていた。風はまだ荒く吹いているが、空気は透き通っていた。木々の合間から見える青は深く、千切れた雲の流れ行く様子は、さながら大陸を渡る白鳥のようだった。
 僕は湿った地面の上に立って、ずっとそれを仰いでいた。全身に感じる明かりが、僕に太陽の在り処を思い出させた。


 僕は誘われるがままに歩き出した。
 青い空を辿るように、雲の流れに逆らって、足をこつこつと動かして行く。胞子は僕の肩で震えながら、時折落ち着かなげにころんと転がった。
 僕は歩き続けた。陽の下で、「思考」と「身体」と共に。
 それは夢を旅するよりも、重たくて、冷たくて、のろまな歩みだった。だけど僕は大きく息をしつつ、耳に直接ぶつかってくるかのような風のざわめきを、自分の息遣いを、土を踏むわずかな軋みを、何一つ、取りこぼさずに歩いて行った。


 こうして歩いているうちに、思い出したことがいくつもある。むかしの、まだ死んでしまう前の、そのさらに前の自分のことだ。


 その頃、僕はとてもとても小さな生き物だった。僕には「身体」だけがあって、「思考」はもっと遥かなものに委ねて、ころころと動き回っていたように思う。ゆらりくらりと揺れるエーテルと戯れて、滑るように、溶けるように過ごした時間。そんな時を過ごしていた。


 暗闇の中を飛び交っていたこともある。多分、外から見たら、蛍みたいだったろう。その頃の僕には形がなくて、あるのはぽつんとした、微かな明かりだけだった。
 透明な軌道上をするすると走って、時々途切れたレールから飛び出して、まだ沿って、飛んで。
 周りにはたくさんの仲間がいた。まるで数式みたいに几帳面に飛ぶ奴から、てんで糸の切れた凧みたいに、ふらふらと吹き晒されているばかりの奴まで。その中で、僕は蛍みたいだった。


 本当は、まだまだある。そしてこれは、僕だけの話じゃない。
 誰もが、こんな長い、長い旅をしてきたんだ。


 僕らはまた忘れてしまうだろう。迷子の旅の記憶は、こうやって道を歩いている時にだけ、思い出すことができる。自分がかつて何でもなかったことや、どんな風な形にいたかってことを。今ここにあるより、もっと大きなものの中で、流れているってことを。
 みんな忘れてしまう。
 そして、迷子になる。


 ――――僕は父さんのことが好きだった。
 だからいつも、早く家に帰りたくて、工場で泣き出しては叱られてばかりいた。
 やがて僕には鎖がつけられるようになった。一度塀を乗り越えようとして、捕まってしまってからだった。
 親切な工場のおばさんたちは、それを見て、僕の仕事を手伝ってくれるようになった。それは僕にとって、足の鎖よりももっと重たい鎖になった。
 鎖なら千切ればいい。何なら、足ごと千切ったっていい。でも、おばさんたちは千切れない。
 とても稀なことだけど、工場ではたまにお菓子を配ることがあった。お菓子がどこからやって来るのかは知らなかったが、みんな目一杯に手を伸ばして、それを受け取った。
 僕はお菓子をとっておいた。休暇で家に帰ったら、父さんと一緒に食べようと思った。工場で働いていた他の子たちは食べてしまったけれど、僕は我慢していた。
 休暇の前日のことだった。ある子が突然、僕を指差した。
 その子が大声で叫ぶと、年上の子がたくさんやって来て、僕の鞄を乱暴にひっくり返した。鞄からはバラバラと僕のお菓子が落ちてきて、床にぶつかって、砕けた。
 僕はぶたれた。何度もぶたれた。彼らの後ろで、おばさんたちは哀しそうな顔をしていたり、怒ったりしていた。
 お菓子は拾われてどこかに消えた。盗まれた品は届ける必要があるからと。
 僕は、外の小屋に出されて、次の務めまでそこにいるように告げられた。
 思えば、あの時には僕はもう亡霊だったんだろう。僕の声は誰にも届いていないようだったし、みんな、僕を見ないで話をしていた。
 僕は真っ暗な小屋の中で、父さんが、家が恋しくなった。
 僕は父さんに会いたくて、堪らなくて、逃げ出した。
 痩せていたので、足の鎖は無理矢理引っ張ったら、抜け出せた。とても痛かったが、空腹と同じで、しばらくすれば気にならなくなると思った。
 思い通りにならない鬱陶しい足を引きずりながら、僕は森へと駆けこんだ。
 家に帰りたかった。
 でも。
 家には帰れなかった。
 いつからだろう。
 僕は道を間違えた――――。


 僕は歩く。空は少し影ってきた。そのうち日が落ちて、夕暮れがやって来るだろう。
ふいに肩の黴はぽん、と柔らかく跳ねて、僕にお別れの挨拶を囁いた。
 僕は寂しくなった。だけど、それは仕方のないことだと思った。あの霧がもはやどこにもいなくなったみたいに、彼らも、もう行かなければならないのだ。本当はこんな遠くまで来ないはずの彼らが、ここまでずっと、僕が寂しくないようにと守っていてくれていたのだ。そのことがかえって、僕に寂しさを募らせたのだけれど。
 ありがとう、と僕は言った。それから、またね、と付け足した。
 気を付けて、と胞子は転がって、すぅと透明になって、溶けていった。


 地平線が燃えていた。
 僕はいつか夢で見た丘の上で、その鮮烈な茜色の景色を眺めていた。風が激しく髪を撫でていく。僕の身体には今、夕陽と同じ色の外套と、今にも腐れ落ちそうな靴だけが残っていた。
 たなびく雲には真っ赤なグラデーションがかかり、広大な森には、その影が静かにおおらかに落ちて流れていた。恐ろしく澄んだ大気の中、太陽の姿はくっきりと、僕の正面に浮かび上がっていた。
 夢では見通せなかった森の麓に、点々と村があるのが見えた。何軒かの家には、もう晩の明かりが灯っている。
 ふと振り返ると、来た道はすっかり闇に暮れていた。もはや立ち入るべき場所ではないと、濃い森の影とさざめきが深々と語りかけてくる。
 僕はその時、犬の鳴き声を聞いた。それから、複数の大人の足音も。フェイドアウトしていく意識の中で、彼らの交わす言葉が、微かに聞こえた。


「おい、子供だ!」
「はぁ? 何を言ってるんだ」
「まだ赤ん坊だぞ」
「なに、本当か」
「仕方ない、今日の狩りは終いだ。村に届けてやろう」
「まぁ、どうせ今日は不漁だしな」
「きっとアウラの旦那が喜ぶぞ。娘を亡くしたばかりで、ひどく寂しがっていたから……」

[5]

 僕はお父さんと暮らしている。
 今度の秋に街の学校に上がれることになったので、少しお別れになるのだけれど、ひどい心配性を発揮して困っている。
 僕にはむかしお姉さんがいて、街の工場で働いていたという。その頃は戦争で国が貧しかったから、男はみんな兵隊に、女の子は工場に、って具合で、誰もが必ず務めをこなさなくてはならなかったのだ。そんな中で、お父さんは身体が弱くて兵役に出られず、まだ小さかったそのお姉さんを働きに出さざるをえなかったんだって。 
 そこではどんなにひどい扱いをされても、助けてやることは出来なかったんだってお父さんは話していた。すごく、すごく後悔している、とも。
 でも、今は戦争も終わったし、労働よりも学問が必要とされている時代だ。学問の世界ではそんな扱いもないし、何より、僕はもう大きな男だ。女の子だった「お姉ちゃん」と同じように心配されても、正直、恥ずかしい。
 僕はお父さんに言ってやった。僕は医学の勉強をして、病気や薬のもとになる植物を研究するんだって。それで、立派になったらちゃんとこの村に戻ってきて、いつだって、一緒に暮らせるって。
「もし見つけることができれば、僕の嫁さんだって一緒に住める。その時には、子供だっているかもしれない」
「そう。娘ができるよ、きっと」
「そしたら、その大量に集めたお菓子も、みんなで食べきれるしさ――――」
 そんなことを捲し立てたら、お父さんは少し元気になったようだった。数学には興味がないのか、とかまだぶつぶつ言っていたけれど、それは譲れなかった。僕には、自分でもよくわからないけれど、見つけに行かずにはいられないものがある気がするのだ。
 お父さんは未だ見ぬ孫娘がすでに気に入ったようで、段々と上機嫌になっていった。
 僕は、これなら安心して旅立つことができそうだと思った。森で拾われた僕を、今まで必死に育ててきてくれたお父さんを寂しくさせるのは気がひけていたので、本当に良かった。
 まだこれから先のことは知れないけれど、きっと、全部実現してやろう。
 まずは植物を探そう。僕の勘では、それは、きっととっても小さなものだ。

ロストチルドレン

ロストチルドレン

幼い「僕」は森をさまよいつつ、淡々と日々を過ごしている。 静かで穏やかな暮らしの中で、「僕」はだんだんと森のことを知っていくが……。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-04-02

Copyrighted
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Copyrighted
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