やさしさの中に彼はいた ~三太の青春小節集~

君看双眼色   君見よや双眼の色
  不語似無憂   語らざるは憂いなきに似たり  
       秀一書            二郎書

 良寛禅師愛誦の句だそうです。大学一年の時、良寛詩集譯の講義の中で、初めて習いました。深い意味は分かりませんが、私にとっても、心に残っている言葉です。
 今まで、私の生い立ちについて、語る機会はあまり無かったように思います。
 古希を迎えた今、種々の感慨とともに、人生七十年の半生を語ってみたくなりました。

 父来(らい)祐(ゆう)は、私が生まれて、十六日目に召集され、戦地に赴いた。
 私は、父の生の顔を知らない。軍服を着た凛々しい姿と、結婚式で母と一緒の写真が数枚、アルバムに残っているだけである。小さい頃、それを何度も見ながら、父のことを想像していた。
 母は、私が六歳の時、肺結核で亡くなった。結核の特効薬であるストレプトマイシンが、もう少し早く開発されていれば母の命も助かっていただろうと、何度も聞かされた。
 早くから父や母はいなかったが、育ててくれた祖父母のお陰で、楽しい子どもの頃を思い出すことができる。
 そんな幼い頃の体験を、時々、妻や子どもたちに話して聞かせていた。あるとき、「お父さん、それ、本にまとめたら」という妻の強い勧めと、「早く読ませて!」という厚子義姉さん(次兄の妻)の有難い後押しのお陰で、思いのほか早く、この本を上梓することができたのである。
 思うに、私が、今こうしてあるのは、二人の兄はもちろんのこと、厳しさと優しさを兼ね備えていた金太郎じいちゃんとヨネばあちゃのお陰である。また、孤児となって路頭に迷いそうになった三兄弟を、敢然として救ってくれた河内弥衛さん、物心両面で支えてくれた福岡のクスヱ伯母ちゃん、藤井の仁太郎伯父さん、暖かい囲炉裏のそばで、生意気な小坊主のわがままを聞いてくれたナミさんやクボのおばちゃん等々、こうした多くの優しい人たちのお陰でもある。まさに、私は、常に「優しさの中にいた」のである。
 さらに、私の幼い頃の思い出のなかには、幾人かの忘れられない人がいる。その一人が、マツ子叔母ちゃんである。マツ子叔母ちゃんを思い出す時、私はきまって落涙する。
 無念にも、満州の荒野で散って逝ったマツ子叔母ちゃんのことを、少しでも多くの人に知って欲しいという思いが、この小誌の出版にたどり着いたもう一つの力であることは間違いない。

美しい山里の禅寺に生まれたわんぱく三男坊は、温かいまなざしに守られて育った

      一  追 憶   ~マツ子叔母ちゃんのこと~

      
 マツ子叔母ちゃんは、三太の叔父の来(らい)延(えん)と結婚し、満州に渡ることとなる。三太はその結婚式のことはあまり記憶にないが、寺総代さんや組内の人たちが夜遅くまで、飲み明かしていた。
 マツ子叔母ちゃんは、結婚式後、数日して、愛媛満蒙開拓団の国民学校の教師として赴任していた来延叔父さんとともに出発することとなる。
 マツ子叔母ちゃんのことは、出発の朝、腰をかがめて三太の頭を包み込むようにして撫で、「元気で大きくなるのよ」の言葉をかすかに覚えているが、その他何を言ったは三太の記憶にない。
 国防色のリュックサックを背負った来延叔父さんの後ろを、モンペ姿のマツ子叔母ちゃんは、大きな風呂敷包みを背負い、大きなボストンバックを右手で下げていた。三太の母や祖父や近所の人たちの見送りを受け、柿の木坂を下り、五百メートル程離れたバス停へと向かった。途中、電信柱の曲がり角や貫太郎川の橋の上では、振り返って、何度も何度も大きく手を振りながら、バス停のある松本橋の先の柿畑に消えた。
 しばらく待っていると、朝霧の柿畑の向こうにボンネットバスが姿を現した。このバスに二人は乗り込んでいるはずである。ゆっくりと加速する木炭車のバスは、途中の家並や曲がり角に見え隠れしながら、三太たちの眼下の小田川の対岸の道路に差し掛かった。だれともなく「げんきでなー」「がんばれよー」と大声で叫んだ。
 その声が聞こえたかのように、バスの昇降口の扉が開き、来延叔父さんが身を乗り出して、こちらを見上げながら手を振った。マツ子叔母ちゃんは、すぐ後ろの座席の窓から顔を出して、手を振り続けていた。
 清家のナミおばちゃん、来成じいちゃん、ヨネばあちゃんたちも、口々に「がんばれよー」「体に気いつけてなー」とバスが遠くに消えるまで叫んでいた。もちろん長男の秀一も二男の二郎も大きな声で叫んでいた。三太は白い土塀のかわらの上に乗せられて、何か物悲しく、砂埃とともに走り去る国鉄バスを見送った。石垣の上にある土塀から、落ちないように両手で三太をしっかりと支えてくれていたのは、もちろん母のヤスヱであった。
 こうして、マツ子叔母ちゃんは、結婚して一週間もせずして満州へと旅立った。このマツ子叔母ちゃんの行く手には壮絶な人生が待ち受けていることを、この時は誰一人として知る由もない。
 太平洋戦争の終焉を迎えようとしていた、昭和二十年三月、三太四歳、桜のつぼみが膨らみ始めた春の朝のことである。
 マツ子叔母ちゃんと来延叔父さんのその後の消息は、後日、意外なところから、三太の知るところとなる。

 


 二  落 涙 篇

     はったい粉
 三太は、五城村の常楽寺という田舎の寺に生まれた。
 その頃の常楽寺は、三太の父、来(らい)祐(ゆう)の伯父である来(らい)成(じょう)が住職をしていた。来祐には、弟の来(らい)延(えん)がいたが、子どものいない来成は、女手一つで四人の子どもを育てていた妹の百済ヨネから、来祐と来延の二人を養子に迎えていたのである。
 三太が育った寺から見える情景は、実に美しかった。
 東には、小田の深山を望み、北には陣が森が威容を誇っていた。山懐には、鎮守の森、その社(やしろ)に上る長い石段の下には小学校が見える。
 寺の境内から見下ろすと、四季を折々の、錦織りなす田畑の向こうに、小田川が流れ、その向こう岸には、乗合バスの通う小田新道が走っている。この美しい光景は、まるで箱庭のように、いつまでも三太の脳裏に焼き付いている。
 三太は,三人兄弟の末っ子である。長男の秀一は三歳年上、次男の二郎は二歳上である。
 母のヤスヱは、三太に優しかった。もちろん、兄たちにも優しい母であるが、三太には特に優しいように思える。
 父来(らい)祐(ゆう)は、住職の資格を得た後、藤井金太郎、ササヱの次女ヤスヱと結婚していた。来成じいちゃんがまだまだ元気であったので、大阪府に出て警察官をしていた。だから、兄二人は、大阪で生まれ育っていた。
 昭和十六年夏、父は、三太が生まれて、十六日目に召集令状がきて、あわただしく陸軍に入隊していった。だから、兄弟三人は、母の細腕で育てられている。父に可愛がられた覚えもない三太だが、母の愛情だけで十分であったといえるかもしれない。母は、父の分まで三太を可愛がっていたのだろう。
 三太の育った幼児期は、太平洋戦争の戦中戦後の食糧不足の真っただ中であ
る。三太の家には、毎日、おやつを貰うという習慣はあったが、おやつとして出てくるものといったら、今から考えるとお粗末なものだった。いも、柿、ゆでぐり、芋の粉だんご、炒り豆など、いろんなおやつを食べていた。三太は、出されるおやつを喜んで食べた。空腹だから、あれこれ贅沢は言えないのである。
 中には、三太が苦手なおやつもあった。それははったい粉である。はったい粉というのは、とうもろこしの実を炒って、石臼で挽いて粉にしたものである。この地方では「こん粉」と呼んでいたが、せきなどをすると、粉が鼻に入ってむせたりする、幼児にとっては、厄介な代物である。
 この粉をさじですくって、口の中に放り込み、唾液と混ぜて食するのである。もちろん香ばしい香りはするが、美味(おい)しいというほどの味ではない。少し砂糖を混ぜて食べると、味は甘さに助けられて美味しくなる。よく出てくるふかし芋、炒りそら豆などと同じく、定番のおやつであった。
 このはったい粉を食べるのは、三太にとってなかなかの苦労がいった。さじですくって口に入れるのであるが、その後がなかなか大変である。粉であるから、噛(か)む必要がないと言ったら嘘になる。何度も噛みながら唾液と混ぜて、湿らせて飲み込むのであるが、それにはなかなか時間がかかる。あごがだるいのである。だから,三太は母に甘えて、うまい手を思いついた。
「かあちゃん、お団子にして」
 このはったい粉がおやつに出ると、まず母の口にはったい粉を入れて、母の唾液でこねてもらい、湿り気が程よくなって団子状態になったものを、母の口から出してもらって、三太の口に入れるという方法である。
 三太は、はったい粉のおやつの時には、いつも母の口練り団子をねだった。母も三太の甘えたおねだりをなぜか拒まなかった。母がしてくれるはったい粉の口練りは、母の三太に対する愛情の深さの証明でもあり、幼い末っ子の三太が,母の愛情を独り占めできるひと時であり、三太は兄たちに対しても得意満面であった。


    〇 炒りそら豆

 今日のおやつは、炒りそら豆であった。いつものように三等分されたそら豆がちゃぶ台の上に並んでいる。三人は、これまたいつものようにジャンケンによって、三等分された、一盛りずつのそら豆を選ぶのである。
 このおやつの分け方が、いつ頃から始まったのか、三太の記憶にはない。三太がまだまだ幼い頃は、母が三人それぞれに合った量を分け与えていたのであるが、三太が量の多少に敏感になり始めた頃から、母はこの方法を取り始めていたのである。
 今日のジャンケンは,三太の一番勝ちであった。三太は上機嫌である。三太は、母によってほぼ等分に分けられた、三つの炒りそら豆の山を見比べながら、丸くて膨らみのある豆が多そうな真ん中の山を選んだ。続いて二郎が右の山を選んだ。秀一は当然ながら最後である。最後に残った山を取る時、秀一は
「残り物には福がある」
と、機嫌よく言った。長男の秀一は、総領らしく、何事にも鷹揚(おうよう)であった。
 今日は,三太が一番になったからすんなりといった。しかし、三太がジャンケンで負けて最後になるときには、ひと悶着(もんちゃく)起きることがある。三太がジャンケンのやり直しを要求するのである。兄たちも心得たもので、時には三太の要求を聞いてやるが、ほとんどの場合は、三太のわがままは徒労に終わった。
 三人は、思い思いの食べ方でそら豆を食べている。そら豆は、軟らかい豆もあれば硬い豆もある。三太のおやつの食べ方は、いつも同じである。一番美味しそうなものを最後に回すのである。今日のそら豆もそうである。小さいくずのような豆から食べ始める。あれこれ選びながら、一番粒の大きなそら豆を残した。
ここまで
 三太は、とうとう一粒になった最後のそら豆を噛(か)もうとしたが、噛めない。右の奥歯で噛んでも、左の奥歯で噛んでも噛めない。まるで石ころのように硬くて、噛み砕けない。三太は、この豆を飴玉のように口の中で転がしていたが、業を煮やしたのか、口から出して、鼻の穴の中に押し込んだ。最後の大きなそら豆である。そら豆を押し込まれた三太の右の鼻孔は、異様に盛り上がっていた。
 兄たちは、三太の片方の異様な鼻を見て、囃(はや)し立て笑い転げた。三太は、まんざらでもなかった。三太には、いつも人から注目してもらいたいという、道化師的な一面がある。
 ひとしきり遊んだあと、三太は、鼻孔に詰め込んだそら豆を取り出して食べようとした。しかし取り出せない。鼻孔に詰め込まれていたそら豆は、三太がエツにいって遊んでいる間に、鼻腔からの鼻汁によって、水気を吸い、膨張していた。そら豆は、ますます鼻孔を膨らませ、小鼻を盛り上げている。
ここまで
 三太は、親指と人差し指で、鼻孔を広げてそら豆をつかみ、引き出そうするが、豆に触ることはできても、つかむことができず、引き出せないのである。少しふやけて、軟らかくなりつつあるそら豆に、小指の爪を立ててみたり、いろいろ試みたが、出てこない。出るどころか、いろいろ試みるほど、皮肉にもそら豆は、鼻孔の奥へ奥へと入っていく。もうどうにも、三太の手に負えそうにない。こうなったら、三太はいつもの手を使うしかない。
 三太は急に大声を上げて泣き始めた。泣き声を聞きつけた兄たちと共に、母も駆けつけた。三太は泣きながら、膨らんだ炒りそら豆の入った鼻を突き出した。
 異様に膨らんだ三太の小鼻を見た母は、一瞬蜂に刺されたと思った。が、炒りそら豆が詰まっていることがわかると、吹き出しそうになるのをぐっとこらえて、秀一に薬箱持って来させた。母は、三太をひざに仰向けに寝させて、鼻を覗き込んだ。薬箱を開いてピンセットを取り出し、鼻孔の内側と豆の間にピンセットを差し込もうとしたが、膨張した豆がしっかりと詰まっているため、ピンセットの先がはまらない。その上、三太が痛さを堪えきれず大声で泣くので、その方法をあきらめた。
 今度は、二郎に裁縫箱を取りにいかせて、箱の中から大きな縫い針を取り出した。その縫い針の先を鼻の穴の中に詰まっている、そら豆に突き刺して引き出そうというのである。あいかわらず泣きじゃくっている三太をなだめ、鎮(しず)まらせて、慎重に豆に針の先を刺した。硬いはずの炒りそら豆も、時間と共に三太の鼻汁によってふやけて、軟らかくなっていたので、うまく刺さった。その針を小鼻の肉を支点にして、てこの原理を使いながら、そっとかき出した。スポッと大きくふやけしたそら豆が、針先に刺さったまま出てきた。
 母はすぐさまそのそら豆を自分の口の中に放り込んだ。それを見ていた三太は今までの半べそを一旦やめて

「その豆はぼくのじゃあ~」
と、母に抗議した。母も心得たもので、口に入れたそら豆を一、二度噛み砕き舌の先に集めて、人差し指と親指でつまんで、三太の口に移した。
 三太は、こうして最後まで取っておいた炒りそら豆を、母の唾液と共に、満足しながら食したのである。

   


 〇 ノミ取り

 昭和二十年の七月のある日、三太たちは、同じ地区の上級生と、上空の青空の中での日米の飛行機による、空中戦を見ることとなった。それまでも時々空中戦を目撃したが、その頃はまだ日本の飛行機が優勢のように思えた。
 しかし、今日の空中戦は、今までのそれとは明らかに違っていた。飛行機の横腹に光る星のように見える飛行機数機が、日の丸をつけたゼロ戦と思える飛行機一機に対して、攻撃を加えていた。やがてゼロ戦は、白い煙を吐いて南の山の端に消えていった。先輩たちが「どうも日本が負け始めた」というようなことを、小声で話し始めていた。
 それから何日かたったある日のことである。夕方楠の葉っぱで「蚊すべ」(注1)をして、夕食の雑炊を腹いっぱい食べた三太たち兄弟三人は、中の間の十畳広間でいつものように相撲に熱中した。
 相撲の強さは、二郎、秀一、三太の順である。三太は、負けても負けても、兄たちにかかっていった。裸の上半身は、汗でぬるぬるになる。何度も挑戦していると、時たま勝てるようになった。こうして兄たちに揉まれたおかげで、三太の相撲の実力は、着実に向上していった。事実、このことが、後の奉納子供相撲大会などで、思いがけない戦績を収めることとなる。
 相撲遊びを小一時間つづけてから、やがて三人のうちの誰かが、力が入らなくなってくると、
「やーめた」
と、行水に行く。相撲は、二人いれば取れるのであるが、なぜか一人抜けると面白くなくなり、あとの二人も行水にいく。行水といっ
  注1 楠の葉っぱの煙で、蚊を追い出す。
ても、台所から風呂場にあるたらいにお湯を運び、水でぬるめたお湯を掛けるだけだ。もちろん、カラスの行水で、すぐに出て、一本の日本手ぬぐいを順番に使い、濡れた体を拭いて、パンツ一丁で蚊帳の中に潜り込む。
 いつものことながら、三太はすぐには眠れなかった。うす暗い裸電球の下で、蚊帳の網目を通して天井の板目の模様を見ていると、さまざまな形に見えてくる。三太が一番恐ろしい形は、刀を持った泥棒のように見える板目である。その板目から盗賊が見えてくるとなかなか眠れない。今夜もそうである。だから、三太は、電気を消すことを要求する。夜なべをしていたヨネばあちゃんが、茶の間から来て、電気を消してくれる。
 暗くなると、今度は三太の腰のあたりを、もぞもぞ動くものを感じる。ノミだ。ノミはシラミよりもすばしっこく、なかなか捕まえることができない。が、三太は、電気をつけずに、このノミをとるコツを持っている。三太は、横になったまま、まず手のひらと親指と人差し指に神経を集中させ、腰のあたりをもぞもぞするノミの上に、手のひらをもっていき、その上から押さえる。もぞもぞを感じるようなノミは、大抵がまるまるに肥えた雌のノミである。
 手のひらで押さえた後は、手のひらで揉むようにしてまずノミの動きを止める。そして、親指と人差し指の二本でそれを捕まえる。そのノミを、口の中に運び、舌の上に乗せ、右前歯の下に運んで噛みつぶすのである。すると、パチンと音がしてノミの腹の中身が舌の上に散り広がる。大抵のノミは、その膨らんでいた腹の中に、どす黒い血の塊と、0、三ミリくらいの白い卵を、十個以上も持っている。さすがに三太も、これを飲み込むことはできず、舌の上のざらざらした卵を、つばと一しょに掻(か)き出して、かたわらの夜具になすりつける。こんなことに神経を使っていると、先ほどまで怖がっていた天井の板目も気にならなくなり、いつしか眠りにつくのである。
 ちょうどその頃、ヨネばあちゃんは、風呂からあがり、肌着とお腰姿で、火の元を確認し、玄関と裏口の引き戸にしんがり棒をかましてからお祈りをする。
「御須天皇様、御須天皇様、この家のうちは火難、盗難、剣の難を逃がらしたもう。アブランケンソワカ~。アブランケンソワカ~」
祖母は、床に入る前に、毎晩毎晩、何度も何度も繰り返す。三太は、このお祈りを、ほとんどは夢心地の中で聞いて、深い眠りに陥るのである。

 


   〇 母の涙

 母の愛情をいっぱい受けての三太の幼年期のくらしは、長くは続かなかった。母の実家の弟はすでに肺結核で他界していたが、母のヤスヱも同じ病に冒されていた。
 やがて母は、床(とこ)に伏せりがちになった。それを機に父の母、三太にとっては祖母がやってきて、母の身の回りの世話をするようになった。ヨネばあちゃんである。ヨネばあちゃんは、母に代わってやんちゃ盛りの三人の孫をかいがいしく世話してくれた。
 そんなある日、三太の家には親戚が大勢駆けつけた。母の姉や兄、母の父、そしてヨネばあちゃんたちが、茶の間に集まって、なにやらこそこそ話し合っていた。三太の父の戦死の公報が入ったらしい。父の来祐が、ニューギニアで戦死したという知らせだ。
 その事実を病床のヤスヱには、知らせないでおこうという相談であった。もちろん、父の戦死は母に内緒にされた。しかし、どうしても、家中の雰囲気が打ち沈んで、母に接する態度だけが、何となく空元気に思えるような対応が続いた。
 母は、そんな雰囲気から父の消息に何かあったのではないかと、感じていたようである。その頃から、母は寝間に寝たきりになり、便所へも行けなくなっていた。もちろん食事のおかゆも、ヨネばあちゃんが運ぶようになっていた。母の病気が伝染病であることもあって、兄弟三人はあまり寝屋に入らないように言いつけられていた。
 三太はおとなしくその言いつけに従うふりをしながら、時々一人でこっそり寝屋に忍び込んだ。母はうつるといけないからと、三太の行為をとがめるような態度をとりながらも、嬉しそうに弱々しく笑っていた。三太は、母は喜んでいると確信して、兄たちやヨネばあちゃんの目を盗みながら、たびたび母の寝屋に入っては、何をするでもなく母を見ていた。母はたいていは眠っていたが、三太に気付くとニコッと笑って三太の顔を眺めていた。しかし、肺結核という自分の病気のことを気にして、三太を敢えてそばに近付けようとはしなかった。
 やがて茹(うだ)だるような暑さの八月十五日、戦争が負け戦で終わったことを、ラジオを通して知らされた。家のみんなは、ため息をついて茶の間に寝そべっていた。
 戦争は終わっても、父は帰って来なかった。
 それから一年が過ぎた頃、母の容態は次第に重くなっていった。まだ結核の特効薬ストレプトマイシンのない時代である。
 やがて、遠くの親戚も集まり始めたある日、三太たち三人が寝屋に呼ばれた。親戚の人たちも大勢、神妙な顔をして座っている。隣村の医者も呼ばれ、母の枕元に白衣を着て座っている。部屋には重苦しい空気が漂っていた。三兄弟は、母のすぐそばに並んで座った。金太郎じいちゃんや伯母ちゃんや伯父さんが母に向かって、「後のことは心配するなよ」、「兄弟は皆で立派に育てるからな」、「安心してお行きよ」とか、涙ながらに呼びかけていた。
 母は、秀一、二郎、三太の兄弟三人を代わる代わる見つめ、何か言いたげに唇を動かしたが、すでに肺が侵されていたためか声にはならなかった。やがて大きな涙を数滴流し、眠るように眼を閉じ静かになった。枕元の医師が青白くか細い母の手くびの脈を確かめ、「ご臨終です」と静かに告げた。

 その時三太は、母の死の意味が分からなかった。だから、本当の悲しみが込み上げて来なかった。やがて、部屋中からすすり泣く声が響いた。隣のナミおばちゃんが、いきなり三太を引きよせ抱きしめた。三太は大きな力で頭を抱えられ、顔を両乳の下に押しつけられた。三太は息苦しかった。その上、三日に一度くらいしか風呂に入らない、ナミおばちゃんの汗臭いにおいが鼻をついた。
 三太は、おばちゃんが、なぜこんなに抱きしめるのか理解できなかった。
 どれ位の時間がたっていただろうか。ナミおばちゃんの力が少し弱まった時、三太は、もがくようにして、ナミおばちゃんからようやく離れた。そしてそっと母の顔を見た。その時にはもう、母の顔には白い布がかぶせられていた。
 昭和二十二年の十二月、小春日和のお昼前であった。

 三太に本当の悲しみが込み上げてきたのは、三太が小学校に上がり、一年生の受持ちの女先生が、この歌を歌ってくれた時である。

     ♪わたしがおねむになったとき
      優しくねんねん子守唄
      歌って寝かせてくださった
      ほんとに優しいお母さま
      夏は寝冷えをせぬように
      冬はお風邪をひかぬよう
      お布団直してくださった
      ほんとにやさしいお母さま♪
            (作詞 稲穂雅巳  作曲 海沼 実)

 あの時の母の涙を思い浮かべ、三太は、隠れるようにして涙を流した。
     
    


 〇 クボのおばちゃん

 母を亡くしてから、誰もかれもが三太たち兄弟に親切になった。早くに父母を亡くした三人兄弟の末っ子ということで三太には特別だった。クボのおばちゃんもそうだった。
 おばちゃんは、早くに夫と死別し、二男は、戦争から帰って来なかった。戦死はしていなかったが、シベリアに抑留されていたのだ。おばちゃんの家は、三太の家から、竹藪の中の道を五十メートルほど上ったところにあった。農家には珍しく二階建ての大きな家だった。広い土間を上がると、直ぐそこに囲炉裏があった。 
 三太の家には囲炉裏がない。冬の暖房は、茶の間の長火鉢一つであった。三太は、囲炉裏に魅かれてクボのおばちゃんの家によく通った。一人暮らしのおばちゃんは、いやな顔一つせず、いつも三太を囲炉裏の火で歓迎してくれた。おばちゃんは、囲炉裏のそばで縫い物をしたり、豆のゴミをより分けたりしながら、三太の他愛もない話し相手になってくれた。時には、土間で筵(むしろ)やかますを作りながら、三太に昔話を聞かせてくれた。
 お正月も三が日を過ぎれば、早くも三太は姿を見せていた。おばちゃんは待っていたかのように、十時頃になると囲炉裏の火でもちを焼いてくれた。このもちが、とうきびもちやこきびもちで三太は大好きだった。もちがなくなると、ミカンやいもの時もあった。
 特に旧正月の元日には、お餅・ミカン・甘ぼし・お菓子などを包み込んだ大きな袋を用意して、宝探しを演出してくれた。
 三太が囲炉裏に当たっている間に、その宝物の袋を持って外に出たおばちゃんは、雪の積もった畑の中に埋めて帰ってくる。おばちゃんは、「三太ちゃん、もうええけん、探しておいでや」と言って、三太が宝物を探すのを楽しんでいた。
 三太も、この宝探しは難しかった。雪の上の足跡をたどれば、直ぐに探し当てられるのだが、あまり早く見つけてしまうと、おばちゃんに悪いような気がする。三太が、頃合いを見て探し当てると、おばちゃんは、目を細めて喜んでくれた。
 その宝物は、おばちゃんの家に預けておいて、なくなるまで何日もかけて囲炉裏のそばで食べた。その宝物がなくなると、また、いつものようにお餅やミカンやいもを出してくれた。時に、筵作りに夢中になり、十時過ぎても何も出ないことがある。そんな時は三太が遠まわしに催促した。三太は、
「来延叔父さんに、ミカンをむいでもろうたら、むぎ賃を取られよった」
と、おばちゃんに聞えるように言うのである。すると、気が付いたおばちゃんは、
「ごめんごめん、今日はミカンはないのよ」
と言って、ミカンに代わるいもや、いり豆を出しながら、
「三太ちゃんは、一休さんみたいじゃなあ」
と、遠まわしに請求する三太のおねだりを、いつも快く受け入れてくれていた。
 やがて、おばちゃんの家に二男の貞夫さんがシベリヤ抑留から帰還してきた。そして、長浜の沖浦というところからお嫁さんをもらった。おばちゃんの家も、にわかにに賑やかになり、三太も小学校に入学したりで、いつの間にか三太の足は、遠のいていった。
 そのうちに、クボのおばちゃんは、一家で上和田のバス停のそばの鍛冶屋の後ろに引っ越していったころ、お嫁さんに内孫のミドリちゃんが生まれていた。
 三太が小学校からの帰り道、孫のミドリちゃんを背負った、クボのおばちゃんを見かけることがあった。おばちゃんは、いつも優しい眼差しで、三太に声を掛けてくれた。
 三太が中学校に通うようになってからは、通学路から外れたので、滅多に顔を合わせることがなくなっていた。
 数年して、三太が高校からの帰り道で、たまたま遭遇した葬列がクボのおばちゃんの葬儀だった。三太は、優しかったおばちゃんの笑顔と、暖かい囲炉裏の火を涙の中に思い浮かべながら、「おばちゃん、優しさをありがとう」と心の中で手を合わせていた。
 
  


  〇 弥衛さんの真情
 
 今日は、いよいよ三太の、というより三太たち三人兄弟の運命を決することとなる寺の総代会の日である。 
 各地区の寺総代が次々と足を運んできた。皆、山越えの道を徒歩での出席である。三太が顔見知りの顔もあれば、新しく寺総代になった、三太の知らない人もいた。専務総代の二人を含めて、十五人ほどが座敷に集まっている。
 三太は、そわそわしながらある人を待っていた。ある人とは、総代さんの中で、三太が一番好きで専務総代の河内弥衛さんであった。弥衛さんは、珍しくダブルの背広がよく似合う、親分肌の人だった。
 この頃は、大瀬村の村長を務めていたが、後に、合併した内子町の町長に無投票で当選する人であり、さらには、愛媛県議会議員にまでなった人である。
 その弥衛さんが公務多忙のためか、まだ出席していなかったが、十時半過ぎには総代会が始まった。座敷のふすまが閉められ、ぼそぼそと話し合いの声が聞こえるが、玄関の上がり框で弥衛さんを待っていた三太には、話の内容は聞き取れなかった。
 正午をまわった頃、役場の車で弥衛さんが駆けつけてきた。玄関に入るなり三太を見つけた弥衛さんは、いつものように大きな手で三太の頭を叩くように撫でまわし、
「坊よ、元気じゃったか」
と、大きなしゃがれ声で優しく言った。
 その大きな声に、座敷の総代さんたちが気付き、矢野専務総代さんと平井専務総代さんが、玄関まで出迎えた。弥衛さんは、革靴のひもを解きながら、二人の顔を見上げ、
「どがいな話になりよるぞえ」
と、尋ねた。二人は、
「まあまあ、席に着いてから」
と、弥衛さんを座敷上座、中央の席に案内した。座敷のふすまは開いたままになっていたので、広間から中の様子がうかがえた。ふすまの近くの総代さんが、ふすまを閉めようとした。すると、弥衛さんは、
「そのままでええ。坊らもそこに座らしておけ」
と、三太たち三人を広間に座らせたまま、
「それで、どがいな話になりよるんぞえ」
と、話を促した。
 矢野専務総代が、今までの話し合いの経過を弥衛さんに話し始めた。
 話の内容はこうだ。常楽寺の来(らい)成(じょう)住職がなくなった今、このままでは寺としては成り立たない。十歳の秀一が住職になるには少なくとも、八年以上はかかる。それまでは到底待てない。やむを得ないので、常楽寺は廃寺とし、檀家は三区域に分けて、上区を大瀬の明応寺に、中区を上和田の徳林寺に、下区を天神村の極楽寺に引き受けてもらう。子どもたち三兄弟の身の振り方については、秀一は、母方の遠縁に当たる愛媛一区の衆議院議員で神奈川大学の創始者である米田吉盛氏の書生として、二郎は、五十崎の伯父の藤井家に、三太は大洲の伯母の福岡家にそれぞれ引き取ってもらうという内容である。
 そこまでの話を目を閉じたまま黙って聞いていた弥衛さんが、目を見開いてみんなを睨みつけながら、静かに話し始めた。
 「お前ら、それでええのかえ~。それで来成和尚に顔向けができるかえ~。来成和尚には、村前村の村長時代からそれぞれいろいろ世話になっとろがえ。来祐さんは、和尚になるために、合格しておった帝大への入学も諦めたんぞ。立派に和尚としての資格を得て、来成和尚の後を継いで、常楽寺の住職としてやっていく決心をしていてくれたんぞ。そじゃけんど、お国のために召集され、ニューギニアの激戦の中、三人の子どもや妻のことを思いながら、無念にも戦死してしもうたんぞ。どれほど、子どもら三人の将来を心配していたことか。その無念さが分からんのかえ。ヤスヱさんも不治の病には勝てず、三人を残して逝ってしもうとるんぞ。それを、なんぞえ。三人をバラバラに引き裂いて、常楽寺を廃寺にするとは、何たることぞ。哀れとは思わんのか。申し訳ないと思わんのかえ~。このコズンベ(注1)があ~」
 このあたりから、弥衛さんは冷静さを失い、顔は紅潮し、声は次第に激しくなっていった。
「しかも、二人の専務総代がおりながら、何たるざまぞ~。このコズンベが~。おお、分かった。この坊らと常楽寺は、わし一人になっても立派に守っていって見せる」
と、大声を発しながら、座敷全体を見渡し、総代さんたちを睨みつけていた。しばらく沈黙が続いた。
 ようやくして、一番下座のふすまのそばに座っていた三太の知らない新しい地区総代さんが小さな声で、しかし、はっきりと、
「わしらが間違うとりました。わたしも村長さんと一緒に、秀一さんが一人前の和尚さんになるまで、常楽寺をお守りしていきます」と言った。  注1「器量小さい」という、弥衛さん独特の言い方
 すると、弥衛さんが静かに再び話し始めた。


 「すまんかった。わしもさっきは、興奮し過ぎとった。ちいと言い過ぎたこともあったかも知れん。この寺は、わし一人では守れんのじゃけん。みんなも頼む。わしと一緒に、この坊ら三人が一人前になるまで、育ててやってくれや。常楽寺を守ってやってくれや~。」
弥衛さんは、深々と頭を下げた。さっきまでとは打って変わって、穏やかな弥衛さんの言葉に、総代会は、温かい雰囲気の中で再度の話し合いがなされ、三太たちにとって有難い結論が導き出された。
 秀一が一人前の住職になるまでは、上区の檀家の務めは大瀬の明応寺さんが、中区と下区の檀家の務めは、上和田の徳林寺さんが、それぞれ代理住職として、秀一を連れてお勤めを果たしていくよう、弥衛さんの方から依頼をするという結論を得た。そうして、三太たち兄弟は、寺を追われることなく、三人で寺に住み続けることができることになったのである。
 三太たちの運命を分けた、弥衛さんの真情の声が響いたのは、桜のつぼみもふくらんだ三月半ばの午後であった。

やさしさの中に彼はいた ~三太の青春小節集~

やさしさの中に彼はいた ~三太の青春小節集~

一 追憶 ~マツ子叔母ちゃんのこと~ 二 落涙篇 はったい粉 炒りそら豆 ノミ取り 母の涙 クボのおばち 弥衛さんの真情 三 反抗篇 入学式 小田川での水泳 贔屓 通信簿 行方不明? つぐみの雛

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-04-01

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