April fool has come

この話はフィクションです。

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 そのメールを受け取ったのは最後の仕事での訪問地、ゴウ、と都会特有の音が鳴り響く爽やかで深い青の空を、エッフェル塔の真下から見上げていた時だった。幾何学模様で、まるで万華鏡を覗き込んだ時のような美しさの向こうに覗く、青を。
 メールの差出人は、高校時代の同級生。題名は『急募!』
「………なんだこりゃ」
 送られてきたメールの日時は四月一日、十七時。
 そこには、奴らしいウィットに富んだ文章が並んでいた。
『急募!求人募集

 事業内容:俺の嫁(主婦業)
 雇用形態:妻
 就業形態:フルタイム
 雇用期間:一生
 年齢:平成X年生まれの三十二歳限定
 就業時間:二十四時間
 仕事内容:愛情たっぷりの食事作り、掃除、洗濯、買い物などその他嫁としてやらなければならないこと、全般。
 賃金:俺の愛情と全財産
 就業場所:東京都新宿区
 通勤手当:なし
 住宅手当:なし
 加入保険:厚生年金、健康保険、生命保険
 定年:なし
 育児:めっちゃ一緒に頑張って育てる
 福利厚生:年一回の海外旅行、毎日の昼寝保証、記念日にはプレゼント有り
 採用人数:一人
 学歴:大卒
 必要な経験等:海外渡航経験豊富で英語が堪能なこと

 履歴書は婚姻届でお願いします』

「バカだ、あいつ本当にバカだ」
 つい思わず吹き出しながら、独り言が出た。どれだけ愛情溢れた嫁が欲しいんだ、そして中々の好待遇だけれど、ここまでしなくても奴ならどんな女性も選り取り見取りだろう。だからこそエイプリルフールにこんな面白い自虐ネタを送ってくるなんて、三谷はなかなかやる。今年のエイプリルフールも凝っている。
 感傷的になりそうだったのに、そんな馬鹿馬鹿しいメールで救われた気がした。だから、寝る前に簡素なホテルの部屋から、絶賛の言葉と共に送った。『もうすぐ無職だから、応募してみようかな( ^ω^ )』と。

 私なりの、エイプリルフールの返事の筈、だった。


 それは仕事を始めてから何年目のエイプリルフールだったのか、定かではない。ただ、仕事で初めてイタリアのピサの斜塔に行った時、記念に面白い写真を撮りたいとお客様にカメラを渡されて、お互いにノリノリで抱きついているバージョンや、支えているバージョン、沢山楽しんでシャッターを切った。添乗員さんも、撮りなよと言われて、斜塔を引っこ抜こうとしているバージョンをお客様に撮って頂き、その年のエイプリルフールに洒落で何人かの友人へメールに添付して見せた。
 三谷は下らねぇ、俺ならもっと面白いエイプリルフールにするね、と負けず嫌いなメールを送って来て、じゃあ、来年楽しみにしている、と言ったら、すっかり忘れていた翌年、成層圏まで届く超、超高層マンションのチラシを自宅に郵送して来た。大手の不動産会社の跡継ぎらしい着眼点を、父と一緒に感心した。窓を開けることは出来ません、の注意書きは素晴らしかった。
 その凝った出来栄えに絶賛の言葉を送ると、毎年趣向を凝らしたエイプリルフールを披露してくれるようになっていた。噂によると奴の仕事は多忙を極め、そんなことをしている余裕などなさそうだった。でも仕事が忙しいからこそ下らないことに頭の中を割り振りして、通年楽しんでいるのかも知れない。年に一度、奴の独壇場を季節の風物詩としていつの間にか待ち侘びているように、なった。

「奈々、今年も来ていたよ、ホラ」
 真昼間からパジャマ姿の父に、玄関で出迎えられた。築四十年過ぎの古びた洋風の家は、ずっと締め切られていたのだろう、ほんの少し湿ってこもった匂いがした。玄関の扉を開けてストッパーで止めると、父が日曜大工で付けた網戸を閉める。雰囲気に全くそぐわないけれど、実用性はバッチリなのだ。
「ああ、アレ、今年のエイプリルフールなら、もうメールが来て見たよ」
 奴の不動産会社の上質な紙で作られたであろうA4判の封筒を、父から受け取った。こういう所にコストを掛けられるのは儲かっている証拠だ。跡継ぎとしては万々歳だろう。
「そうなのかい、でも今年も四月一日にきっちり届いたよ」
 穏やかで気が弱く、優しい父はそう言って笑った。その笑顔が好きだ。
「最後の仕事を終えて帰国したのに、何も無しなの」
「ああ、お帰り、奈々」
 その一言を聞く為に、私は旅に出てそして、ここへ帰ってくる。これが最後だけれど。

「ほうじ茶でいいか」
「いいよ父さん、私やる。見てみたら、今年のエイプリルフール」
 台所に立った父の手元からひったくるように茶筒を取り上げた。代わりに封筒を手渡して、薬缶をシンクの下の収納から出すと、勢いよく水道の栓を捻った。そして火にかける。
「いや、これは奈々宛だろう、開ける訳には」
「いいから、受取人が良いっていったんだから、いいんだって」
 楽しみにしているからこそ、玄関までわざわざ封筒を持って来たのだと思う。じろ、と睨むとじゃあ、と言いながら台所のカウンターに置かれた古い紅茶の缶に入っていたハサミを持って、父は一つ咳をして居間へ行った。
「空気入れ替えたら、良かったのに」
 オレンジ色に染まったレースのカーテンを開け、固い窓の鍵を解錠して建て付けの悪いガラス窓を開けた。狭くてそれでも立体的な、花々が咲き始めた緑の庭を束の間眺める。
「ああ、そうだな」
 自分には頓着せずお人好しで、なのに気持ちの強い父の手が入った庭は、とろりと濃い夕陽に照らされて美しい。日中、雨が降った後の庭は空気ごとしずかだ。
 しゅう、しゅうと薬缶から湯気が出ている気配がして、台所へ戻った。二つしか家にないマグカップへほうじ茶を淹れてソファーに腰掛けていた父の前に、片方を置いた。
「じゃ、開けてみようか」
「えっ、まだ開けていなかったの、父さーん、良いっていったじゃん」
 キツめに言うと、はは、と力なく父は笑った。しゃきしゃきとハサミの音を鳴らして、封は開けられた。
 隣に座って出てきたカラフルな広告に目を通す。でも、それは普通の、これから新宿区に建設されてマンションを販売する、という広告だった。都心にしては広々としたワンフロアに一邸の豪華なマンションは、奴の不動産会社が販売主らしい。
「………どういうこと、なんだろう。三谷、間違ったのかな」
「資料請求して、忘れていたんじゃないのかい」
「まさか。こんな億ション欲しくないよ。買える訳ないじゃない。これ、どう見てもファミリー向けだし」
「じゃあ、間違えたんだね。忙しいんだろう、三谷くんは」
 そうなんだろうか、どうも間違えたというそのことがしっくり来ない。こんな単純なミスをするタイプではないからだ。でも人間なのだから、そういうこともあるのかも知れないけれど。
「もしかしたら、それであのメールなのかも。送り間違えたことに気がついて、なのかも」
 立ち上がり、玄関に置きっ放しにしていた小さなトラベルバックから、スマホを取り出した。
「パリで受信したんだ。このメール」
『急募!』という題のメールを出して父へ差し出すと、コーヒーテーブルの上にある曇りがちな老眼鏡をゆっくりと掛けた。慣れない手つきで画面をスクロールさせながら、文面を読んでいく。
 口元は緩んで行くとばかり思っていたのに、父の表情はどんどんと引き締まっていった。
「三谷、自虐的過ぎるしどんだけ嫁、欲しいんだろうね。めっちゃ受けた」
「奈々」
「何?」
「この求人、応募しなさい」
「はぁ、何言ってんの。エイプリルフールだよ、コレ」
「好条件を提示してくれているんだ。応募したらいい」
「父さーん。三谷は確かに好条件な奴だけれど、ネチネチとねちっこいし、口うるさいし、意地悪だし、長年犬猿の仲なんだよ。応募なんてしたら上から目線で本気にしたのか馬鹿女、って言われるに決まってる」
 そう言うと、父は老眼鏡のまま顔を上げた。
「本当に犬猿の仲なのかい」
「本当って、どういうこと」
「お互い本気で嫌いなら、こんなに長く関係は続かないと父さん、思うぞ」
「茉莉、知っているよね。三谷は茉莉の幼なじみなの。茉莉んちに遊びに行くと三谷が顔を出したりして、会う機会があるだけ。それだけだよ」
 高校時代からの仲の良い友人の茉莉は八年前に随分年上の旦那様と結婚をして、トントントンと年子で三人の子どもの母親になった。男の子と、双子の女の子兄妹はいつも元気で可愛らしい。一番上の陵太は区民センターで今、三谷から剣道を習っているらしく、未だに関係は深い。基本的に茉莉を通しての付き合いだけを、三谷とは今迄してきた。直接やり取りしているのは年賀状と、エイプリルフールの二つのみだ。
「応募して、みなさい」
「父さん」
「父さん、奈々の子どもを抱っこしたいよ。……子ども、出来なくたっていい。普通の幸せを手に入れて欲しい」
 それは出来ない。なのにそれが父の望みなのか。言葉は出せず、黙って立ち上がり居間を出た。玄関に置いていたトラベルバックを掴むと、ギシギシときしむ階段を登り、建て付けの悪い自分の部屋の扉を開けた。約半月振りに入る自室は、やっぱり空気が淀んでいた。


 就職してから殆ど使ったことのない年休を消化して、天職だと思っていた仕事を辞めた。最後の日、挨拶をして回り、同僚から花束を受け取って、またいつかこの業界で関わる仕事がしたいことを決意として述べて、笑顔で退社した。涙は出なかった。
 父は忘れたかのように応募を勧めた次の日からは、何時も通りに話掛けてきた。私も何時も通りに返す。次の日にまで揉め事を引き摺らないのが、小さな頃から二人きりで生きてきた私達親子の知恵だった。それで今迄の喧嘩や揉め事は、いつの間にか自然にお互いが譲りあい、妥協しあって何と無く丸く収まった。そもそもそんなに揉める事は無かった。性格は全くの正反対だから、というのもあった。
 でも、今回に限っては妥協は難しい。父が振り絞るようにして吐いた望みは、私のこころを抉った。普通の幸せ、そんなキラキラと輝いていて触れることの出来ないものを、私に掴めと言うのか。なんてその言葉は、優しくて残酷なんだろう。でも望みを叶えてあげられるのがベストなのだとも、そう思っていた。

「マルエツ行くけれど何か、欲しいものある?」
「ああ、ゴミ袋と辛子だな、頼む」
 分かった、と返事をすると久しぶりにジャージによれたTシャツ姿になっていた父は、また庭いじりを始めた。今日は顔色がいい。気分も上向きなようだ。
 仕事を辞めて手持ち無沙汰になった途端日中ぶらぶらしている罪悪感は湧いてきて、ネットで週に何度かアルバイトが出来ないかと検索をしているけれど、興味を惹かれるような仕事は無かった。
 休む、と決めたのに動きたくて仕方がない。この際、一人で生きて行くことになった時のために、料理でも極めてみようかと思い立ち、最近はレシピ本と格闘している。父も私も一品で済ませられる大皿料理ばかり作ってきたので、料理の基礎と書かれたその本の中に書かれていることは新鮮、かつ反省することばかりだった。もっときちんとした食生活が、必要だったのに。
 バレエシューズを履いて、蝶番が鳴る玄関の扉を開けたら、そこには久しぶりに見る嫌味な奴がチャイムを押そうとして立っていた。
「……アレ、三谷どうした」
「どうした、ぢゃねぇよ。何なんだよ、お前」
 仕事中らしく奴は見るからに布地が上質な、引き締まった身体にぴったりと誂えたスーツを着ている。私は何とも思わないが、世間一般から見るとこいつは整った顔立ちをしているらしい、が、性格はすこぶる嫌味だ。それは顔面に滲み出ていると思う。一度だけ会ったことのあるこいつのお母様も、同じだった。そんな奴に玄関先にて絡まれている、よく分からないインネンを付けられながら。
「何なんだと言われても、その何の中身が分からないのですが、三谷さん」
 我ながら良い返しだったと自画自賛する。が、目の前の奴は眉間の皺を深く、目力を一層強めた。
「思わせ振りなメール送って来やがって、それからそのまま放置プレイしてんじゃねーよ。まさか忘れてないよな。あぁ?」
 ナニヲイッテイルノダコイツハ。思わせ振りなメールとは何か、最後にメールをしたのは何時だったか、筑前煮のレシピで頭の中は占められていたのに、脳みその回路をそちら側へ回す羽目になる。
「………そんなの送ったっけ」
「これだ、良く見ろ」
 イラつきながら三谷はスマホをポケットから取り出して、まるで黄門様の印籠のように目の前へかざしてきた。
『三谷、センス良いね!凄いよ見直した。しかしどんだけ愛に溢れる嫁を求めているの。もうすぐ無職だから、応募してみようかな( ^ω^ )』
 ………良く、分からない。これがどうかしたのか。惚けた顔をして三谷を見つめると、奴はイラついて叫んだ。とっても鋭い声で。
「お前、俺を馬鹿にしてんのか、あぁ?」
「どうかしたのかい、買い物にいくんじゃ」
 家の脇から、父は話しながら出てきて固まった。三谷はそれまで凄い形相をしていたと言うのに、父を認めるといきなり爽やかな笑顔を浮かべた。跡取りは恐ろしい、そんな技を隠し持っているだなんて、侮れない。
「三谷くんかい。もしかして」
「はい、ご無沙汰しております。お久し振りです」
 奴は父と面識があったのだろうか、思い出せない。しかし、高校時代、茉莉や遥や三谷、横山、南田、といったよく一緒にいた奴らは、家に来てグループ毎に出された課題をいつもやっていた気がする。
 父は大手電機メーカーの技術者だったのだが、この頃それまでを取り戻すかのように、仕事へ没頭していた時期だった。私が大分手を離れたからだ。
「十五年も経つと、雰囲気は変わるもんだねぇ。立派な青年になったもんだ」
「いえ、未だ若輩者です。あ、これ少しですが召し上がって下さい」
 そう言って三谷は父へ白い紙袋から長方形の箱を取り出すと、にっこり笑って差し出した。ビジネスマナーも完璧じゃないか。嫌味だ、とても。
「すまないね、気を使って頂いて。では遠慮なく」
「……どういうこと?」
 違和感を先に感じて詰るような声が出た。三谷は何故か手土産を持ってきて、父は違和感なくそれを受け取った。申し訳なさそうに、長方形の箱を拝むようにして。
「三谷くんは父さんが呼んだんだ。奈々はマルエツに行くんだろう。気にせず行っておいで」
「はぁ、どういうこと、呼んだ、って」
「小泉、ゆっくり行ってこいよ。走ったら転ぶからさ。修学旅行の時みたいに、ゴロゴロ転がって雪だるまみたいになったら困るだろ」
「三谷っ、五月蝿いよっ。大体今、雪なんて降ってないから。一々突っかかってくるの止めて」
「突っかかってない。事実を言ったまでだ」
 北海道へ修学旅行に行った時、スキー学習があってその時、私はこれでもかというくらい転んだ。三谷は小さい頃から家族でスキーに行っていたらしくとってもお上手だったが、転びまくっている私を馬鹿にし、茉莉には懇切丁寧に滑り方を教えていた。いつの間にかはぐれて、雪まみれになりながら途中で出会えたインストラクターに安心して、下まで大号泣しながら降りたのだった。結構思い出したくない、恥ずかしい思い出だ。
「そんな昔のこと一々覚えていて言ってこなくたっていいでしょ。なんなの、何しに来たの」
「無職になった馬鹿女の顔を見に来た」
「帰れ、今すぐ」
 段々腹が立ってきた。そうだ、そうだった。三谷はこういう奴だった。すぐに口から出るのは可愛げのない言葉ばかり。これで世間一般からは好条件男子とか言われているんだから、世の中おかしい。南田の結婚式の時も、新婦の御友人方にモテまくっていたけれど、中身はコレだから上手く行くはずない。性格が悪くてもお面が良ければモテたのは、若い時だけだぞ三谷。そろそろ性格矯正したらどうだ。
「まあ、三谷くん上がってくれ。奈々はマルエツにゆっくり行っておいで」
「はい、お邪魔します」
「はああ、何いってんの。ちょっと!」
 私のことは見事に無視して、そそくさと二人は家の中へ入っていった。一緒に行きかけたら古めかしい鉄の扉は目の前で閉まり、なおかつ鍵を掛けられた。何なんだ、もう。腹立たしい事この上ないし、それでいて置いてけぼりをくらった子どものような、甘じょっぱい気持ちが湧いた。
 父は何故、三谷をここへ呼んだのだろう。朽ち果てていくだろうこの家に。


 折角覚えていた筑前煮のレシピは記憶の彼方へ行ってしまい、行きつけのスーパーの休憩スペースのベンチでスマホを取り出した。もう一度見ていたページを出して、スクロールしながらも気はそぞろだった。
 父はもしかしたら、あの家を手放す算段をしているのかもしれない。将来、その時が来た時の為に。
 それは私にとっては、好都合な想像だった。残されない家を見送り、鞄ひとつでまた何処かを彷徨う生活を始めたらいい。
 大学時代、アルバイトをしてお金を貯めては色々な所へ歩いて行った。二十歳を超えてからは、この国ではない世界にも。お金をスられたり、騙されそうになったり、変なヤツに付き纏われて襲われそうになったり、まあ、色々あった。
 でもその度に、生きていると思った。窒息しそうなあの家の中にいるよりは、生きている実感が湧いた。
 父は大学生のうちはそれでもいい、でも、きちんと就職しなさい、そう言った。逆らえない私は、無計画に、出鱈目に就職活動をした。この就職難の時代に、そんなふざけた態度の学生は採用されないだろうと、破天荒な自分を出して面接官を苦笑させていた。
 なのに何故か一社だけ、大手と言われている旅行会社から採用通知は届いた。そこの面接官は意地悪で、嫌味ったらしく、無理難題を吹っかけて数多いる受験生を振り落としにかかっているのは直ぐに見て取れた。
 何と言ったのかは、今でははっきりと覚えてはいない。でも、人と人が良い関係で働き合えるのが理想なのに、そういう態度は腹立たしい、そんなことを静かに怒りながら言ったのだけは確かだ。
 最終面接の帰り道、あんな会社にだけは絶対行かない、そして採用にもならないだろう、そう思っていたのに、後日採用通知は届いた。
 渋々入った会社は、意外にも面白かった。これっぽっちも期待していなかったのに、期待していなかったからこそ、徐々にのめり込んだ。
 自分で営業を掛けて予算を組んで、プレゼンをして、そしてたまにその旅行へ添乗をする。パッケージツアーの商品を企画もした。中でも習い事に夢中なマダムの趣味に特化したツアーを作って、フラダンスのコアな世界へ学びに行ける商品を販売したら売れすぎて、会社の電話回線を問い合わせで混雑させたこともあった。働くって、こんなに楽しいことなんだ、悔しくて泣いた事も沢山あったけど、それでも私の気性に合っていたのだ。


「……ただいま」
 鍵を開けて玄関の三和土を見ると、そこにはぴかっぴかの男物の革靴がきちんと揃えて端に置かれていた。まだいるのか。歩き皺がある手入れのされた革靴を、ぐりっぐりと踏みつけてやりたい衝動に駆られる。
「おかえり、奈々、話があるんだ」
 居間に入ると一人掛けのソファーへ座っていた父は、私を手招きした。三人掛けにいる三谷はテーブルに広げていた書類らしき紙類を纏めて揃えると、ファイルへ丁寧に入れていた。
「……これ、冷蔵庫に入れてからでも、いい?」
「ああ」
 思っていたよりも早く、父は今後の整理を始めていることを改めて感じた。寂しさも湧くけれど、それで良かった。台所の古びたガスコンロの上には父がお湯を沸かしたであろう、小鍋が置かれていてその脇には大きな急須が置かれていた。どうやら薬缶を見つけられなかったようだ。
 冷蔵庫に買ってきた食材を入れると、居間へ戻りコーヒーテーブルの前に座った。父と三谷はそんな様子をずっと目で追っている。何なんだ、一体。
「で、何。話って」
「ああ、父さん、三谷くんの嫁さん募集に奈々を推薦してみた」
「さっぱり言っている意味が、分からない」
 照れ臭そうに父が話した内容は、考えてみても分からない、というか理解不能だ。お嫁さん募集、エイプリルフールのあれか。推薦、何故父がするのか。
「条件は良いし、三谷くんは人柄もいい。応募したくなったんだ」
「父さん騙されているよ。三谷は確かに高仕様だけれど嫌味だし意地悪だし口うるさいし、条件外のところで色々貶められるんだってば。絶対ないけど絶対にないけど虫唾が走るけど、万が一嫁になんて行ったら、毎日、毎日泣かされるのがオチだから」
「へえぇ、小泉は、俺のことそう思っていたんか」
 その場が凍るような冷たーい声に三谷を見ると、口の端を歪ませるように持ち上げて睨み付けてくる目線と合った。背筋に寒いものが流れてちょっとこころが折れそうになるけれど、なんとか踏ん張った。
「今迄の三谷の態度と言動から導き出した、確実で確定な答えですから」
「わっかんないだろー、人を一部分で判断するなよ。視野が狭いな、小泉は」
「そういう一々突っかかって来る所が、確定をより確定にしてるんでしょ」
「わっけわかんねーこと言うな、本当にイラつくな、お前」
「父さん、見ての通り相性は最悪だから。絶対、無理」
「物事に絶対なんてないんだよ」
 ほら、これだからという目線を父へ向けると、意外にも笑顔を向けられていてたじろぐ。
「父さんは、そうやって言いたいこと言い合える関係は、微笑ましく思えるよ。自分を隠さなくたっていいんだ。そうだろう?」
「だからって、三谷と仲良くなんて出来る気がしない」
「仲良くしていても、壊れてしまう関係だって、あるんだ」
 父のその言葉に私達は黙った。
「とにかく、後は若い二人で話し合って、な」

「あのさあ、三谷、これは一体どういうことなの」
「小泉、明日暇?」
 玄関先で三谷の背中へ向けて嫌味ったらしく言うと、振り返った奴はすました顔をしてそんなことを聞いてきた。
「質問に答えなよ」
「俺さ、これから二、三件回らなけりゃならないんだ。話すと長くなるから、明日、また迎えに来る」
「仕事は?」
「俺、基本水曜休みだから。土日はモデルルームに張り付いてたり、営業に出てるからさ」
「ふぅん。だからあの求人、専業主婦希望なんだ」
「へぇ、多少は興味あったんだ」
「本当ああ言えばこう言うね。明日何時?」
「じゃあ、十時」
「それじゃ、駅に着いたらメールして」
「すげー物分かり良いんだ」
 もう嫌だ、こいつ。ふふん、と鼻を鳴らしてから三谷はじゃあな、と言って、去って行った。

 次の日、九時五十分にスマホが鳴った。この家は駅から八分程度で着くので、時間はぴったりだ。『着いた』とだけ書かれたメールを確認すると、バックに入れた。
「ちょっと出てくるから。帰れるのか分からないから、お昼は先に食べていて」
「何処か行くのかい」
「ま、近所、多分」
 そう言うと父はにっこり笑った。久し振りに見る笑顔に戸惑うけれど、それでも父が笑っていることが嬉しい。行ってきます、と言うとそのままの笑顔で行ってらっしゃい、と返された。
 何時までこんな顔を見れるのだろう。バレエシューズを履きながらそんなことを思う。
「何で、車」
 玄関を開けると、そこには深緑色のミニが横付けされていた。運転席ですましている奴は、パワーウィンドウを開けると、乗れよと言った。
「あのさ、電車じゃなかったの」
「小泉さ、そのいただけない格好、どうなのよ」
 どうなのよ、と言われても普通に部屋着だ。アシンメトリーなストライプのチュニックに、ダメージジーンズの何が気に食わないというのか。ちなみにほぼ、すっぴんで髪は一本に束ねただけだ。何が悪い。
「茉莉と会っている時はもっといい服、着てるだろー、俺だからって気、抜いてんじゃねーよ」
「ばーか。三谷にはこれで充分だっつうの」
「まあ、いいや。乗れよ」
 そう言いながらも奴は妙に上機嫌だった。嫌だな、と思いながらも後部座席のドアを開けるとわざわざシートベルトを外した奴は、助手席のドアを開けてこっちだ、と促してきた。睨みながら助手席に乗り込むと三谷はエンジンを掛けた。
「三谷はどこかこれから行くの、わざわざ車なんて乗ってきて」
「小泉はどこ行きたい」
「どこ行きたいってどこも行きたくない。話するんでしょ、ここで」
「じゃ、シートベルトしろよ。行きたいとこ無きゃ、お台場でもいいか」
「はああ、お台場って」
 そう大きな声を出したのに三谷は構わず車を発進させた。ありとあらゆる罵倒をしたけれど、奴は一言シートベルトしろよ、しか言わず、すました顔をしていた。
 罵倒に疲れ果ててむっつりと黙り込んだ頃、車は首都高の浜崎橋ジャンクションを過ぎた。何でこいつとお台場に行くんだ。行く先の道に大きなレインボーブリッジと、初夏を思わせる陽気に輝く東京湾がちらりと顔を覗かせてげんなりとした気持ちで見つめた。
「腹減ったなー、何食いたい?」
「何でもいいわ、っていうか昨日の話」
「飯食いながらすっか。フレンチか、イタリアンか、懐石、もしくは鉄板焼き、どれよ」
「ラーメンでいい」
「じゃ、中華料理な。分かった」
「なら、ハンバーガー」
「あー、ハンバーガー、ね」
 三谷はファストフードなど食べないんだろう。ラーメンで中華などという発想に平民がなるものか。さっさと話をして帰りたいという意向を示していたことに、奴はやっと気がついたようだ。遅いよ。
 車はビルの隙間を縫うようにして走っていたが、徐々に青空が視界に広がり、大きな吊り橋を渡っていく。背の高い、まるで塔のようなマンション群と球体の社屋を持つテレビ局を目にして、暗い気持ちで窓に何度か頭を軽く打ち付けた。
「小泉、止めろ。買ったばっかなんだから壊すな」
「知らないよ、っていうか、何でミニ?後継ぎならもっと高級外車に乗ってるんじゃないの」
「うちの近所は細い道が多いし、小回り効いて馬力あんのがいいんだよ。自分で稼いだ金で買うんなら、分相応だろ」
「ふーん、あ、そう」
「可愛くねーな。素直じゃないし、投げやりだし、どうにかなんねーの、それ」
「じゃ、何でお台場なんて来たのよ」
「いい天気で、小泉とどっか行きたかったから」
「三谷の頭のネジ、何個か外れてんじゃないの。話するだけでお台場とか有り得ない」
 助手席の窓に斜めになりながら頭を付けてそう呟いたら、三谷は黙った。車は高速を降りていく。緩やかなカーブを曲がり何もない景色に、空虚を感じながら。

「どうしてテラスなんだ……」
 三谷が車を入れたのは大きな複合型商業施設だった。ファストフードで手早く食べてさっさと話をして、帰ってしまおう、そう思っていたのに三谷が連れて来たのは、大手ハンバーガーチェーンの高級ラインだった。注文と支払いを終えたところで焼き時間が掛かりますので、席でお待ちください、と言われて溜息をついた。
「天気も良いし、気持ちいいからに決まってるだろー早く座れよ」
 席に四つあるビーチチェアの一つにさっさと座った三谷から促され、対面するように渋々座った。奴は短い舌打ちをすると、左隣に空いていた席へわざわざ移って来た。
「で?」
「で、ぢゃねぇよ。物事には順序ってもんがあんだろ。まず飯を待て」
「父に何て呼び出されたの」
 お構いなしに続けたら、三谷は明らかに嫌な顔をした。お互い様でしょ、と目線で訴えかけると口籠って奴は話し出した。
「お前さ、なんつうか、アレ、親父さんに、見せんなよ。あれ、見たって聞いて、本気で頭抱えたわ。まあ、全然伝わってねーって、分かったけど」
「あれって?」
「求人出しただろ。四月二日に」
 それを聞いて、慌ててスマホのメール画面をスクロールした。四月一日、十七時。パリとの時差はこの日、サマータイムに入ったばかりなので、七時間。スマホはその国に入ると自動的に現地時間へ変わる。すっかりと当たり前になってしまっていて、添乗に出る時に日本が日付けが変わる瞬間のことなんて、意識したことは、無かった。ただ本社に連絡が必要な時、今、日本は何時なのかを計算する位だ。
「エイプリルフールに送られたと、思ってた………」
「何処に居たんだよ」
「パリ」
「まあ、それなら仕方ないのか。三月三十一日付で退職するって聞いてたから、日本にいるんだとばかり」
「最後の仕事だけ、どうしても引き継げなくて退職を一ヶ月伸ばしたんだよね。お得意様だから断れなかったし、最後に一緒にどうしても行きたい、って言われて」
「その客、男だろ」
 強い目線でそう言われて、肯定も否定もしなかった。数年前からパッケージ型旅行の形態は、新しい流れが入って来ている。SNSを使った、一個人が旅行の日程や内容を立ち上げて、それに参加してくれるひと達を募り、魅力を感じた人々が集まって旅を一緒にする、それを実現するのが旅行会社だ。
 集まったお客様は、自分たちが希望する体験を叶えることが出来て、かつ団体割引が効くので格安で安心な海外旅行ができる。旅行会社は、企画を考える手間が省け、斬新で面白いツアーを組んで人気が出て、それが定番になったりしている。
「答えろよ、男だろ」
「男性も女性もいるの。団体の添乗だったの。それだけ。三谷に関係ある?」
 最後の仕事は、そのSNSサイトを運営している会社のメンバーと、新しい旅の可能性を探ることだった。それは有意義だった。旅の形はこれから更に変わって行くかもしれない。その確かな糸口を見つけて、仕事を終えた。
「そうやって小泉は、目にしたくないものからすり抜けるのが上手になった子だから、って親父さんは言ってた」
 ぎり、と心臓が痛んだ気がした。上手なんじゃない、そうしないと生きては行けないだけだ。必死に、何時だって必死にすり抜けている。ギリギリのラインを、薄皮を掠めるようにかわしているだけ。
「俺は、嫉妬してる。その意味は分かるだろ」
「お待たせしましたーこちら、ベーコンわさびバーガーと牛蒡フライのセットと、エビアボカドのサンドとグリーンレタスサラダのセットですー」
 少しなのか、長かったのかは計れない時間を正しく動かし始めたのは、ハンバーガーを運んで来てくれた店員さんだった。テーブルにセッティングされてから、立ち上がる。
「三谷、先、食べていて」
「どこ行くんだよ」
「ちょっと」
 日本語は便利だ。濁して余計なことを言わなくてもいい。振り返らずに店を出て、一直線に台場駅へ向けて早足で歩いた。信号を渡って連絡デッキを駆け上り、ちくりと刺すような痛みを胸に感じながらも改札へ向かう。
 堪え切れないほどの苦しい気持ちになった時や、悲しみを抱えた時、自分の身が危険に晒された時、その場から逃げ出していいという自分のルールを決めたのは、世界を彷徨い出した時からだ。そう決めて、身体も心も楽になった。壊れた人間関係もあるけれど、私の場合、大抵は恋愛沙汰が占めていた。
 改札をすり抜けてホームへと上がると、丁度汐留行きが停車していた。慌てて滑り込むように乗り込むと三谷へ『帰ります。ごめんね』とメールを送信した。直ぐに電源を切る。発車したゆりかもめは程なく、さっき渡って来た吊り橋を進んで行く。ほっ、とした気持ちで窓の外の青い空を見つめた。


「ただいまー」
「奈々っ?」
 玄関の扉を開けると、素っ頓狂な叫び声が居間から聞こえた。訝しんでいるとがたがたん、と大きな音がして、その直後、嵐のようにドアチャイムが鳴らされた。連打に次ぐ、連打。
「ちょっ、誰っ!」
 近所の悪戯っ子がピンポンダッシュでもしたのかと頭に血を登らせて、扉をがっ、と大きく開いた瞬間、大きな身体が玄関に滑り込んできた。さっきゆりかもめにギリギリ乗車した時のように。
「こいずみーてんめー、いいどきょうしてんじゃねぇか。おれをおいてけぼりにするなんてよぅ」
 重低音で、一つ一つの文字を唸るように話す三谷の恐ろしい笑顔に、背筋が凍った。それでもへら、と笑って、みた。
「二人とも、一体どうしたんだ。こんな玄関先で」
「小泉さんの言う通りでした。駄目でした。こいつに好意を伝えた途端、あっという間に逃げ出しました。いや、匂わせた途端です」
 玄関に出てきた父へ、三谷は喚くように話した。父はそれを聞いて溜息をついた。
「三谷くん、じゃあ、決心してくれたかい」
「はい、これから荷物取って来ます。よろしくお願いします」
「なになになになに、なんなの、なんなの!」
 パニックになっている私へ、三谷はハンバーガーショップの紙袋を目の前に差し出して来た。良く分からずとにかく受け取る。
「取りあえず、飯食おうぜ」
「食べて、なかったの」
「ああ、お前となぁ、レインボーブリッジでも見ながらのんびり食おうかと思ってなぁ、律儀に待ってたらなぁ、誰かさんに置いてけぼり食らってなぁ、しかもメール一通で、おざなりなごめんねが腹立ってなぁ、何度も電話しても、出ねぇしなぁ、包んで貰って追っかけて来たら、当の本人は罪悪感もぜーんぜん感じてねぇ顔してるしなぁ、なあ?」
 三谷お得意のチクチクが突き刺さって、痛い。痛すぎる。
「ごめんなさい、怒らせて。これは三谷が帰ってからでもいい、食べて」
 ハンバーガーショップの紙袋を三谷へ差し出した。そこまで怒っているのなら顔も見たくないだろう。なのに奴は度肝を抜かれるようなことを口にした。
「俺、今日から婿候補として、小泉んちに住むから」
「……まったまた。冗談デショ」
「お義父さん、よろしくお願いします」
「はあぁ?ちょっと父さんっ」
「そういうことだ。部屋は二階の奈々の部屋の向かいを使って貰う。いいね」
 助けが来ると思ったのに非情な決定が下されて、空気を求める金魚のように口をパクパクさせた。この家の唯一無二な決定者は父だ。それは逆らえないこと。
「よろしくな。小泉」にたあ、と笑った三谷に、眩暈を感じた。

 古いデザインの、所々塗装の剥がれた二人掛けのダイニングテーブルに向かい合わせて座り、冷めきったエビアボカドのサンドをもそもそと食べた。
「出来立ては格別美味いんだけどなぁ、なあ、小泉」
 ちくちく、ちくちくと嫌味を言われ続け、赤ペンを虚ろな目線で探した。久し振りに腕首の盛り上がった傷の上に引きたくなってきた。血を流す真似事でも、ストレス回避になる。
「三谷くん、それ位にしてやってくれないかな。奈々の目線が、ほら」
「……すいません、つい」
 見るからに濃すぎるほうじ茶を淹れてきた父は、娘の異変にいち早く気がついたようだ。三谷が引いてくれて、気持ちは落ち着いた。父がほうじ茶をテーブルに出して、補助椅子に座った所で話を切り出した。
「うちに住まわせてどうする気?」
「奈々にはパートナーが必要だと、父さん思ってる。一緒に生きていく相手が」
「要らない、必要ない、そもそも結婚に向いてない」
「奈々は子ども、好きだろう。欲しいと思った事はないのかい」
「茉莉んとこの陵太と結月と葉月はめちゃくちゃ可愛いよ。でもそれは他人の子だから。こんな傷だらけの腕を持ってる母親から産まれてくる子は、可哀想でしょ。無理」
「父さんの弱さを隠した結果、お前の腕に傷を負わせたんだ。辛かったことを子どもに本心から話したら、その子は受け止めて強くなった。奈々にだって出来る」
「無理」
「最後の望みだとしても?」
 その言葉は一番言われたくなかったことだ。それが父の望むこと。目を閉じて逃げ道を探した。自分が楽になって、父の望みを叶えられること。
「分かった。考えてみる」
 酷い嘘を吐いた。受け止めたように見せかけて、その実結婚するつもりはない。期待を持たせておいて裏切るのに、それを躊躇う気持ちは無かった。
「それなら、俺も精一杯小泉を口説いてみるかな」
 話を聞きながら無言で口を動かしていた三谷は、綺麗にベーコンわさびバーガーを食べ終え、そんなことをいけしゃあしゃあと宣言した。
「ちょっと、そんなことを言って恥ずかしくないの」
「今更だろー別に隠してもいないしさ。飯とか誘っても忙しい、ごめんの一言で断られ続けていた頃のこと考えりゃ、よっぽどチャンスがある」
 三谷、何時から、と言いかけて止めた。知ってどうするんだ。この嫌味な男が、どうやら少なからずも嫁にしたいと思う程の好意をこちらに抱いているらしい。しかしそんな好意は感じたことは無くて、何だか嘘くさい。
 その後は、なし崩しに役割分担と、最低限のルール作りをする羽目になった。やっぱり一緒に住むのか。三谷は実家暮らしをしているが、本気で結婚したいひとがいるから口説くために相手の家に居候すると両親に電話して度肝を抜いていた。三谷のご両親は、父と電話を代わり話しているうちに落ち着いたようで事を見守る、と仰ったそうだ。
 居候代は駐車場代込みで月、七万円。夕食はほぼ遅くなるので職場で、その代わり朝食だけは供する。自室の掃除と洗濯は自分ですると言い張ったが、どうせ毎日洗濯機を回しているんだ、一緒に洗ってやることになった。ワイシャツとスーツだけは御用達のクリーニング屋さんがわざわざ回収して、配達してくれるように手配するらしい。本当にどうしてこうなった。

✴︎✴︎

 その日の夜、一度実家に戻って更に区民センターで剣道を教えた後、三谷は沢山のスーツと靴と、ダンボールの箱を車に乗せてやって来た。ほぼ空いていた向かいの部屋は、掃除機を掛けてお客様用の簡易ベットを父と運び、何とか寝床を整えた。
 三谷は意外にも、一緒に居ても邪魔にはならなかった。多分、気を使っているのだろう、洗面ボウルがいつの間にか綺麗になっていたり、チカチカと瞬いていた、階段下の物入れの電球を新しいものにとしてくれた。生命感溢れる若い男の人の気配が、家の中にあるのを感じた。それは私の心に重いものを落とした。
 暗いことを考え始めたら、泥沼に嵌って行きそうだった。父と二人きりで暮らして来た、電球切れの淀んだ家の中に慣れきってしまっていたのに、今更やって来た変化に気持ちは付いていかなかった。
「なんかさ、男ってどうしてこう思いついたら勝手に事を運びたがるんだろうね。逃げ道があまりないのがマジできっついんだけど、どうしたらいいんだろ」
「奈々は、逃げたいの」
 金曜日、休みだという茉莉を新宿三丁目の映画館の下にあるデリカフェへ呼び出した。水曜の夜に、旭から『今日から小泉んちに住む』って聞いたけど、本当なの?とメールが来て、いっぱいいっぱいになっていた私は、無性に茉莉に会いたくなったのだ。三谷の求人を見せて、事の経緯を説明して、ムカムカした気持ちを茉莉に聞いて貰っていた。
「逃げられるなら逃げたい。だって三谷だよ。散々ひとのこと馬鹿にしておきながら、嫁にしたいとかブラックジョークなのかな」
「旭は昔からあんな感じなの。構いたいのに裏腹な言葉で相手を傷つけて、それでいつも心の中で後悔してる。不器用なんだよね」
「不器用だからってさ、言っていいことと悪いことがあるよ。三谷はちくちく嫌味も酷いし、ねちっこいし、マジ無理」
「根っこの部分は優しい性格だと思うよ。分かりにくいけれどね」
「茉莉、面白がってるデショ」
 軽ーく睨みつけると三児の母はバレたか、と小さく舌を出した。結婚して出産を経験しても保育士の仕事を続けている茉莉は、いつも時間に追われてくるくると動き回っているけれど、今日はゆったりのんびりした雰囲気で笑っている。それはそれは心の底から嬉しそうに。
「そしてさりげなーく三谷のこと、持ち上げてるよね」
「そう?本当のことしか言ってないけれどね。旭は誤解されやすいから」
「やっぱ持ち上げてるじゃん。なんなの、皆、なんなの」
「まあまあ、それで何日か旭と暮らしてみて、どんな感じ?」
 話題を逸らしてきた茉莉は、楽しそうに聞いてきた。クールな性格であまり他人の色恋沙汰に興味なさげな感じだと思っていたのに、幼馴染が友人を口説こうとしているのはどうやら面白いらしい。
「まだ二日しか経ってないから、分からない」
「部屋は、分かれているの」
「あったりまえでしょ。別だよ、別。私の部屋は絶対入室禁止にしたから」
「そうなんだ。あ、このごぼうハンバーグ美味しい。少し食べて」
 昼食は、沢山のおかずの中から暖かいデリと冷たいデリを組み合わせてワンプレートにしたセットを、お互い頼んだ。茉莉は箸で割ると、大きめの一口大を私のプレートへ載せた。昔から美味しいと思った食べ物は、必ずと言っていいほど分けてくれる。その仕草が私は好きだ。いつもほっとする。
「ありがとう、じゃ、お返しに」
 とり唐揚げのチリマヨネーズを一つ、プレートへ返す。それをじっと見ていた茉莉は、柔らかい口調で聞いて来た。
「旭のこと、好き?」
「別に何とも思っていなかったけど、今は嫌い」
「そう、いいんじゃない。今は嫌いで」
「なんなの、その余裕ある微笑み。言いたいことがあればはっきり言って」
 はっきりと八つ当たりだった。イライラして、三谷が最低だと同調して欲しくて、それに乗ってこない茉莉にモヤモヤした気持ち。
「わたし、たけちゃんと結婚してもうすぐ十年になるけれど、一度だけ本気で嫌いだった時があるよ。結月と葉月を産む時に自然分娩でいけるだろう、って言われていたのに、蓋を開けたら難産で大変だったでしょ。もう苦しくて切って貰った方がいいんじゃと思って、たけちゃんに言ったらこっちは苦しんでるっていうのに、「馬鹿野郎、軽々しく切る、なんて言うな」って凄い勢いで怒鳴られてね。結局自然分娩で産めたんだけれど、その言葉がショックで、陵太の時には感じなかった産後うつになっちゃって。それでも子ども三人いるんだからしっかりしなくちゃって思って、頑張ってたんだけれど妙にたけちゃんが腹立つの。それでこそ、結月と葉月を抱っこさせたくない位にね」
 茉莉の随分年上の旦那さんは、自宅の下に古くから医院を構えているお医者さんだ。大らかで、それでいてお節介焼きだという話を茉莉からよく聞いていた。茉莉はずっと物心ついた時からお隣の旦那さんのことを好きで、恋い焦がれて結婚した。それでも嫌いになった時期は、あるんだ。
「結局、たけちゃんの前で大泣きして、苦しかったのに怒鳴られて悲しかったって言ったら、悪かった、ごめん、って謝られて、それでもたけちゃんは仕事でわたしと同じ目に遭って、結局リスク回避で切られた何人ものお母さんの話を聞いていてね。その後長い間体調が悪くて結局、次の子を持つことを諦める選択を選ぶ位切る、っていうのは苦しむこともあるんだって、教えられた。長い間、茉莉が苦しむのは嫌だったんだ、って言われた時、現金だけれど前よりもっと好きになった」
「いいね、惚気?」
 そう聞くと茉莉は照れ臭そうに笑って、もう一切れごぼうハンバーグをわたしのプレートに乗せた。
「たけちゃんはちゃんと考えて、主治医の先生と沢山話をして、信頼して、そうして出産に臨んでくれていたんだけれどね、当の本人から弱音がでてつい怒鳴っちゃったって。それはごめんって謝られたら、自分をたけちゃんなりに大切に想って貰っているって思えたら、夫婦ってやっていけるものだよ」
「なりたくない場合はどうすりゃいいの」
「アレ、騙されなかったね。奈々って、賢い」
 軽く睨みつけると、茉莉はくすくすと笑った。むかつくけれど、とり唐揚げのチリマヨネーズを一つ茉莉のプレートに放り込む。
「どうして旭がそんなことしたのか、奈々は聞くのが嫌かもしれない。でも聞いてみたら、旭はちゃんと答えをくれるよ」
「やだ、やりたくない」
「子どもか」
 そう言われて天井のワイングラスを逆さに吊るしてあるシャンデリアを、溜息と共に見上げた。多分、三谷にその訳を聞いたら、後戻りは出来なくなるような気がした。
「私はやっぱり幸せとか、そういうの、なっちゃいけない気がするよ。茉莉の話を聞いても、茉莉が幸せで良かったとしか思えないし。大事な話を教えてくれたのに、ごめんね」
「そういう諸々も、受け止めてくれる器だよ、旭は」
「何処までも三谷を推すね。何で?」
「旭が奈々のこと、本気で好きになったから、だね」
「いい、もう、相談しない」
 むう、とむくれてみると茉莉はおや、といった顔をした。そして穏やかに続けた。
「奈々に足りないものを旭は持っていて、旭が欲しがっているものを奈々は持っていると思う。夫婦って、細かく凹凸がある欠片と欠片が綺麗に合って初めて丸い円になれるし、それじゃなかったら長続きしないもの。奈々が素直になれば、旭と綺麗な円になれるんじゃないかな、って思って」
「そういうことじゃないよー」
「その内、分かるよ」
 そう言うと、茉莉はとり唐揚げのチリマヨネーズを口に入れて美味しい、と笑った。


 老舗高級百貨店を二人で少しだけ冷やかして、子どもたちが小学校から帰ってくるから、と茉莉は丸ノ内線の反対方向に乗って行った。ほどなくして手を振って見送った方角からやってきた地下鉄に乗り込む。
 平日の昼下がりの車両はポツポツと、空いている席があって溜息と共に座った。
 結婚。
 普通に皆、同級生や同僚たちは誰かと出会い、関係を育んで、家庭を築いて行った。でも私には出来ない。久し振りにじん、と身体の底が寒くなる感覚がした。駄目だな。切りたい。
 長袖のシャツから覗く古い、無数の腕首に付けられた切り傷を見つめた。切りたい、切りたい。
 古ぼけた箱の中に入れられていた、とうの昔に閉じ込めた感情が蓋を開けて出てきそうだ。早く父に会いたい、お父さんに。
『出口は、左側です』
 車内放送の声にハッとして、ドアの上にある電光掲示板を見上げた。最寄り駅の名前が左から右へ流れていく。大きな音を立てて電車は止まり、可愛らしい電子音を鳴らしてドアは開いた。急いで階段を駆け上がり、改札を抜けるとそこには、薬局で処方された薬袋を腕からぶら下げた父が立っていた。
「とうさん」
「お帰り、奈々」
 そうやって父はいつも笑う。お帰りといいながら。帰ろう、そう言って父は本当に十数年振りで私の手を取った。分厚くて働き者の手は、暖かい。家へ向けて引かれて歩きながら、涙は止まらなかった。

 目を覚ましてぼんやりしていると、躊躇いがちに部屋の扉がノックされた。家に帰り着いて、父はあの頃のようにホットミルクを作り、ゆったりとした部屋着へ着替えるよう言い、自室のベットに入るよう促し、飲ませ終えると小さな子どもにするように頭を撫でた。
 どうして分かったの、と聞くと、茉莉ちゃんは三谷くんの幼なじみだろう。今でも関係が続いている人の悪口は、たとえ親友でも言わないよ。と心配そうに父は答えた。奈々は良い子だなあ、と頭も撫でながら。それで気持ちはすっかりと落ち着いた。中学生の時以来の優しい落ち着かせ方に懐かしさと、三十二歳にもなって、父に迷惑を掛けている罪悪感が湧いた。
「はい、なに?」
「俺」扉越しに三谷は、短く答えた。
「何か用」
「どら焼き買ってきた。食う?」
「ありがと、明日にする」
 声は弱々しく出て、答えは返ってこない。
「うさぎやの午前中に焼いたやつ、今が一番皮もふかふかして、餡もしっとりして、旨いから。小泉、どら焼き好きだろ、出てこいよ」
「んー、ありがと、明日頂くね」
 大分間が空いてどもるようにそう言われた。同じような答えを返したらややしばらくしてそっか、と一言だけ言い、扉の前から三谷が去っていく気配がした。

 十一歳のあの日まで、私たち親子三人はとっても仲の良い、何処にでもある普通の家族だった。穏やかな父と、大人しくて優しい母、そしてごく普通の子どもの私。資産家の母の実家が持っていた中古の洋館を祖父から借りて、住んでいた。父は私をとても可愛がってくれた。庭仕事を手伝ったり、一緒に宿題をしたり、「奈々、ちょっとこーい」と呼ばれると、それは何か楽しいことの始まりの合図だった。それを母はいつも笑ってみていた。いつから感じていたのかは、覚えていない。ただ、母の優しい微笑みの笑っていない目や、ほんのちょっとした冷たい仕草に軽く落ち込み、嘘の匂いを覚えた。
 私は家族の誰とも似ていなかった。父とも、母とも。色々なひとに先祖返りなのかもね、と言われる程だった。
 あの日。
 下校していた私の前に母と共に現れた、瓜二つの顔を持つ若い男性が嗤いながら言った言葉が、今でも消えてくれない。

 僕が君の、本当のお父さんだよ。本当の家族になるために、皆で暮らすために、お母さんと行こう。


「おはよー」
「やだよ、もうそんな時間?シャケ、シャケが焼けてないっ」
「あー、別にいいって、朝、そんなに飯食えないから」
「おはよう、三谷くんのお茶、ここに置くからね」
「おはようございます。ありがとうございます、頂きます」
「って、三谷ぃ、シャケまだ焼けてないんだってば」
「うるせーな。こんだけおかずがあれば充分だろ。小泉何時に起きてんだよ。品数減らせ、減らせよ明日から」
「七万も入れて朝ごはんしょぼいとか有り得ないでしょーが!シャケも食べろ、クソッタレ」
「奈々、御飯を食べているのにそれはないだろう」
 苛立って二人が座っているダイニングテーブルを睨みつけると、父と三谷は同時に目を逸らした。焼こうと思っていたシャケは荒々しくジップロックに入れて、チルド室へと放り込んだ。
「土地の資産価値とこの辺りの賃貸の相場とその他もろもろから割り出した、正当な家賃なんだからいいんだよ。朝飯は何時も食べてる感じで充分だからさ。夕飯の残り物と飯と汁物がありゃ、上出来だろ」
「三谷んちは、朝ごはんは残り物なの」
「どこんちも、そんなもんだろ。夕飯少し多めに作って、朝出せばいいだろ、俺は喰わないんだから」
 上着を脱いだネクタイ姿の三谷は、味噌汁を飲むと顔をしかめた。確かに、薄い。毎日三人で朝食を摂るのも、いきなり始まった生活の中で、まあ慣れてきた。父と二人きりの朝食は、なんとなくお互いが好きな物を好きな時に食べていたけれど、今は大抵、三谷と私がぎゃあぎゃあと喧嘩をしながら食卓を囲んでいる。喧嘩の原因は品数が多いことで、三谷は味に関しては表情が歪んで分かりやすいものの、文句は言わない。
「じゃあ、夕ご飯も食べりゃあいいじゃないのさ。早く帰ってきてコンビニ弁当広げるのは嫌味なの、ねぇ」
「うるせーな、夕飯は残業次第でどうなるか分かんねーんだよ。残業無いなら早く帰りたいだろ、馬鹿なのか」
「馬鹿馬鹿うるっさいよ、ほうれん草の胡麻和え、残すなやああ」
「奈々、五月蝿い。女の子なんだからもう少し言葉遣い、何とかしなさい。それから三谷くんは、夕食食べられそうなら、一緒に食べようじゃないか。ね。奈々の言う通り夕食も付けていい位だからね。そうすれば奈々も、朝ご飯は緩やかな物を出すだろう」
 ビシッと怒られた後、父は三谷に穏やかに言った。いや、でも、と口籠っていたけれど、結局三谷は父の提案を受け入れた。夕ご飯を食べない時だけ、私へメールをする、ということになった。徐々に所帯じみてきたような気がする。
 今日からクリーニングが取りにくるから、悪いけど頼む、と言って三谷は出勤して行った。
「いやあ、うちは三谷さんの御宅にはずっと通っていましてねぇ。お坊ちゃんに何時もお世話になっているんですよ。お坊ちゃんはしっかりしていらっしゃってねぇ、本当に今時の言葉で言えばイケメンですよ、イ、ケ、メ、ン」
「はあ」
 三谷家御用達だというクリーニング店の、ヘアトニックの香る愛想の良さそうな眼鏡の御主人は、やって来るなり私を上から下へじっくりと眺め、そしてまた下から上へ視線を動かしつつそんな事を言った。
「小さな頃から何事も一番で、勉強だってそりゃあ、出来てねぇ。剣道だって高校でインターハイ行ってるんですよ。文武両道でイケメン、そりゃあお見合い話が引く手数多ですよ」
「はあ」
「いい所のお嬢さんがもう、坊ちゃんの奥さんになりたくてなりたくて、お見合い写真がわんさか、ですよ、わんさか」
「……はあ」
 何が言いたいんだ、このヘアトニック臭い親父は。訝しげに様子を伺っていると、相手は小声になって口に手を添えた。
「そんな坊ちゃんはどうですか、ねぇ」
「あー」
 そこまで言われてやっと気付いた。このヘアトニック香る御主人は、どうやらある程度事情を知っているらしい。もしや、三谷家から様子を見てきて欲しいと頼まれたのではないだろうか。
「旭さんは仰る通り素敵な方ですから、いい所のお嬢様がとてもお似合いだと思います」
 にっこり笑ってそう返すと、愛想の良い御主人はそうですか、そりゃ、と言って三谷のワイシャツを回収すると、金曜に再びやってくると告げて帰って行った。
 どうやら私は三谷家の手先が、安心して報告出来るような発言をしたようだ。それはそうだ、傷だらけの、夏でも長袖シャツしか着れない女を息子の伴侶にと望む親が、どこにいる。
 肩の辺りにどっと疲れを覚えて、お風呂掃除へ戻りかけると、居間と続きになっている和室から、湿った咳が微かに聞こえる。
 体調は、と聞いても父はきっと「大丈夫、大丈夫」としか返さないだろう。最後の手術をして三ヶ月が経ち気丈に振る舞っているけれど、内心はどんな感情が渦を巻いているのか、想像することしか出来ない。もしかしたら、見当違いなことを言ってしまうかもしれない。それなら。
 今度は私の番なんだ。苦しい時、父は仕事をセーブしてずっと側にいてくれた。もう、大丈夫だとそう思えるまで。
 きっと寄り添い続けるのは、苦しかっただろう。そう思えるようになった。今だからこそ。
 咳をし続ける音を聞き続けてはいたくなくて、今朝受け取ったばかりの回覧板の中身を急いで確認すると、判子を小泉、と書かれた欄へ押した。二年程前まではぎっちり苗字が埋まっていた欄も、今では数えるほどになってしまった。ご近所の方々も高齢化を迎え、ポツポツ空き地が目立って来ている。
 バレエシューズを履いて、ぎちぎちに三谷の車が駐車されている脇を通って、外へ出た。爽やかな空の下の路地には、もうすでに白いバンは居なくなっていた。

 朝食と同じように夕食も三谷と丁々発止を繰り広げ、それを父はにこにこしながら見守り、またぎゃんぎゃん喧嘩をしながら後片付けをして、お互い入浴して、自室に戻ってホッとため息をついた瞬間、扉はノックされた。
「はい、何か用」
「俺」
「俺は分かってるっつーの。何か用」
「ワイン貰ったんだけどさ、飲まねぇか」
「飲まねぇ」
 一刀両断すると、扉の向こう側は黙った。正直もう一人になりたかった。少しは気を使えよ、三谷。
「クリーニングのおっさん来ただろ、その時の様子が知りたくてさ。ちょっとだけ付き合ってくれ」
「明日じゃ、駄目なの」
「小泉の親父さんに聞かせたくない話なんだよ、頼む」
 なんていうか、頭が痛くなってきた。一緒に暮らすということの一番の弊害を、今、思い知らされている気がした。
「ここで立ち話で、いいでしょ」
 そう言いながら扉を開けると、そこにはオレンジ色の白熱灯の下、古びた板張りの廊下に座布団を敷いて座り、ほら、と言いながらなみなみに白ワインが入ったグラスを差し出して来ている三谷がいた。
「あのさあ、何やってんの。飲まない、って言ったよね」
「まあまあ、ほら、これ、美味いらしいからさ」
 そう言って冷やされていたと分かるワインのラベルを、三谷はボトルごと持ち上げて示した。それはフランスに行く度に買っていた、あちらのごく普通の家庭で飲まれている南仏産のテーブルワインだった。でも、軽やかでしっかりとした味わいで、私は大好きなのだ。日本には三倍位の値段で入って来ていて、なおかつ百貨店でしか見かけたことはない。退職前にパリへ行った時、買った一本は既に開けてしまっていた。
「本当に、貰ったの」
「いや、伊勢丹で買った」
 しれっ、と嘘をついたことを告白した三谷は、ん、ん、と促しながらグラスを尚も差し出してくる。呆れた目線を投げながらも、グラスを受け取った。
「部屋には入れないから、絶対」
「分かってるって。だからここにいるんだろ。ほら、これ」放り投げるように座布団を足元に置かれた。気が向かないけれど、扉の内側に座る。奇妙な飲み会はそうやって始まった。
「で、どの辺が知りたいの。品定めするように上から下まで見られたこと?それとも三谷を礼讃していったこと?お見合いの話がわんさか来る優良物件なんだって釘刺されたこと?」
「あー、やっぱあのおっさん侮れねぇな。愛想いいけどめっちゃ口硬いんだぜ、あれでも」
「そんな情報どうでもいいよ。で、何が知りたいの」
「小泉が釘刺されて、何て返したのか」
 面倒なことを三谷は問いて来た。口をつけるとグラスの白ワインは丁度飲み頃に冷やされていて、とても美味しい。何処で冷やしていたんだろう。確か冷蔵庫の中では見かけなかった。
「いい所のお嬢様が旭さんには、お似合いだと思いますわぁ、って」
「………小泉、俺を馬鹿にしてんのか」
「何でよ、いい所のお嬢様なら美人も多いし、性格だって温厚だろうし、三谷の求人に応えてくれるんじゃない。ご両親だって喜ぶだろうし、みんなハッピーだよ」
「お前は俺が見合いして、お嬢様と結婚したらハッピーになるんか」
「割とね」
 前途多難だ、と呟くと三谷はグラスの中身を一気飲みした。
「ちょっと、もっと味わって飲みなよ。一気酒するならみりんでも飲んでろ」
「俺は今、心が折れてんだからそれ位見逃せ」
「あ、そう。いい機会だから再起不能になる位折ってみるかな」
 そう言うと三谷はぎょっとした顔をした。
「何で俺、こんな奴好きになったんだろ。おかしいだろ、全く」
「本当にねぇ。止めておいたらいいじゃん。それが世界を平和にするって」
 なんだかとても愉快になってきた。私、いい事言った。是非ともそうしろ、三谷よ。
「俺は仕事に打ち込んだこと無い奴は、嫌なんだよ。結構お嬢様は家事手伝い多いぞ」
「いいじゃん、家事手伝い。世間に揉まれて擦れてるのより」
「世間に揉まれてりゃ仕事の大変さとか理解して分かるから、忙しいってときに困らせるようなことしないだろ。現に小泉だってこの間、親父さんと何話してたのか知りたがってたのに、俺がこの後仕事あるって言ったらあっさり引いたじゃねぇか」
「あ、ああ。じゃあ、仕事に打ち込んだことあるお嬢様にしたら」
「アホか、そんないい女、もう結婚してるか、バリバリキャリア積んでるって」
「三谷ならお嫁さんも選り取り見取りでしょ。いるって」
「俺は自分が好きになった奴がいいんだよ。好かれて結婚するのは有難いし、情も湧くだろうけど、こいつが好きだ、って思えなきゃ大切にしてやれねぇだろ」
 むっつりとした顔でそんなことを言った三谷を、ぼんやりと眺めた。意外に色々考えているんだな。でも。
「贅沢だね」
「何でだよ、割と普通だろ。男なら誰でもそう思うって」
 真剣な目線はこちらへ向けられた。合わせることは躊躇われて、慌てて逸らすと憮然と三谷は言い放った。
「小泉さ、何で俺がお前を好きなのか、どうして聞かないんだよ。気にならないんか」
 いつの間にか三谷に追い詰められていたことに気づき、逃げ出したい気持ちになってきた。こいつは恋愛の場数を踏んでいると、そうはっきりと知れた。しかもちゃんとした真面目なやつを。
「聞いてうっかり三谷に絆されたら、嫌だから」
 きつい口調で返したら、三谷は黙り込んだ。ちゃらんぽらんな恋愛とも呼べない代物しかしてこなかった私にしては、真面目に本心を話してしまい少しだけ後悔した。三谷のこころを折りたくて、焦っていたのもある。長い沈黙の後、三谷は気持ちを切り替えるようにふっ、と短い息を吐いた。
「ま、いいや。そういや大倉、女優の香田麻夕子と一緒にいるところを週刊誌に撮られたってさ」
「えっ、マジで。付き合ってんの」
「マジで。あいつあんな草食系な顔して、女優サーンと付き合ってんの」
「へぇー、私、香田麻夕子に似てるって言われたことある」
「あーどうだろな、ま、似てねーな」三谷のニヤニヤした顔を、むう、と睨みつけた。
 高校時代は、三年間ずっと同じメンバー、同じ担任で持ち上がりのクラスだった。そこそこ進学校だけれど、歴史があり自由な校風の中で、クラスが協力して数多い行事に協力し合って過ごしているうちに、クラスメイトとはとても仲良くなって未だに交流がある。
 小学校から一緒にだった大倉は京都の大学に進学した後、総合商社に就職した。数年前に一度だけ、この辺りを彼女らしき人と歩いているのを見かけたことはある。確か遠目から見た彼女のスタイルは、抜群に良かったから、そうなのかも知れない。
「香田麻夕子が売れない頃からずっと、らしい。大倉が四、五年前かな、同窓会で付き合ってる彼女は舞台役者やってる言ってたことあったろ、あれが香田麻夕子だったんだとさ」
「じゃあ、今、大倉の周りは大騒ぎなんだね。そっとしておいてあげよ」
「まあ、そーだな。今一番人気の女優の初スキャンダルらしいから。一流企業勤務のイケメンOさんと深夜のお泊まりデート、って書かれたってさ」
「へー大倉が、イケメン、ねぇ。香田麻夕子って去年の映画賞総ナメした実力派だって、テレビで言ってたよ。今度ドラマ見てみようかな」
「今、何かドラマ出てんの」
「なんだっけ、平凡な主婦なんだけど、昔暗殺者だった女性が不可解な事件に巻き込まれていく、ってアレの主演」
「へぇ、よく分かんねぇな。途中から見て分かるんか」
「結構視聴率取ってるからかな、今週末纏め再放送があるはずなんだよね。三谷も見る?」
「ああ、録っといてよ。一緒に見ようぜ」
 いいよーと安請け合いして、はた、と気が付いた。追求を止めた三谷が話題を変えてほっとして、ワイドショー的な話になり、ミーハー心を出してつい約束を交わしてしまった。
「なんだよ」
「いや、なんでもない」
 わかってはいたけれど、三谷は策士だ。引くときは引き、押すところは強く押す。絡め手も得意だし、やっぱり跡取りは侮れない。自然に巻き込むように約束を取り付けたその手腕に、対抗できる術を考えながら少し温くなった白ワインを口にした。左隣からの強い視線を浴びながら。

✴︎✴︎✴︎

 それからというもの、二、三日に一度は部屋の扉をノックされるようになった。寝たふりをする暇もなく、間髪いれずにノックされるので、居留守も使えない。古い浴室の、複雑なガスの種火を落とすため、どうしても三谷がいる時は最後に入浴することになって、部屋へ戻った所を必ず狙われた。
 今日は疲れているから、と断ったり、天の岩戸を開けろーと言われて言い返したり、色々抵抗をしてみても三谷はあの手この手で扉を開かせた。
 何時も飲み物を必ず持って来て、それはフルーツ酢やら、ペリエやら、時にお酒だったりして様々だったけれど、どれも必ず私の好みに合致していた。
 誰が教えたのか、聞かなくても分かる気がした。それは、無言の圧力だった。三谷の後ろに二人のひとの存在を、感じた。そして二人共、私が三谷の元へ堕ちるのを望んでいる。
 奇妙にも、応えられないことを望まれても、怒りは湧かない。少しずつ、それでもいいか、と思い始めていた。
 三谷の欲を満たして、父が望むことを叶えてあげられる。茉莉はきっと喜んでくれる。それで、いいじゃないか。

「三谷、セックスする?」
「しねぇ」
 もう抵抗するのも馬鹿馬鹿しくなって、三谷が休みの前の日に部屋の扉をノックされてすぐ尋ねると、三谷は一瞬で般若の形相に変わり、間髪入れずに返された。
「あ、そう。じゃあ、おやすみ」
「ちょ、ちょ、ちょっと待てやあ、おまえ、何でそんな事言いだしたか説明しろ」
「え、面倒臭い」
「俺のこと馬鹿にしてんのかあっ、何なんだよ、マジでおまえ、ムカつくな」
「するの、しないの、どっち」
「てんめー、俺のこと好きじゃねぇだろ、ただ面倒臭くなっただけだろ。何でそんな投げやりなんだよ、もっと自分を大事にしろ、この馬鹿女!」
「うん、まあ、馬鹿女だから」
 へらっと笑って見せると、三谷はいきなり黙った。持っていたシードルの栓を抜くと、グラスになみなみと注いで目の前に差し出して来た。
「その手には乗らねーぞ、馬鹿女」
「その手、って割と本気だったんだけど」
「まずは受け取れ、馬鹿女」
 ずい、と胸の辺りの押し付けられたグラスを、そっと受け取った。三谷は自分のグラスにもシードルを注ぐと、すっかりと定位置になった廊下へ、座布団を敷いて荒々しく座った。睨みながら座れよ、と促され、定位置になりつつある入り口へ腰を下ろした。
「で、何でいきなりそんな事言いだしたのか、説明プリーズ」
「え、そう望まれてるなら、それでもいいかな、って」
「小泉は俺のこと好きじゃないだろ、それなのにヤッたって虚しいだけだろ。どうせ、そんな恋愛しかしてこなかったんだろ、あーそういうの知りたくなかったわ。めっさイラっと来るわ」
「とか、最初は大抵男って説教するんだよね。なのに二人きりになった途端、やっぱりさっきの覚えてる、とか、ねちっこく掌返ししてくる」
「小泉さあ、男は下半身のみで考えてると思ってるだろ。それやめろ。自分の格を落として見下されるようなことすんなよ」
「格、ねぇ」
 そんなもの、持ち合わせてはいない。私の遍歴は恋愛とも呼べない代物だ。旅先でしつこくされて病気持ちじゃ無さそうな目的地が同じ男や、旅の資金を貯める為、泊まり込みのバイト先で期間限定の付き合いが主で、仕事を始めてからはそちらに打ち込んでいたので、何度か行きずりの関係をもう顔も覚えていない誰かと持ったこともあった。
 それは気楽だった。三谷が言う意味は分かったけれど、誰かと深い関係を持つことは出来なかった。そこを深く掘り下げる気は無いし、これからも持つことは出来ないだろう。もう、生き方は変わらない。
「あーそうやって、掌返ししてきた男の気持ちが、今、めっちゃ分かるわ」
「掌返し、するんかい」
「しねぇ」
 憎々しげに吐き捨てられた。なんだか愉快になってきた。そのまま諦めてしまえ、三谷よ。
「小泉の傷がこんなに深いとは思ってなかった。どうしたらいいんだか」
「それ、本人の前で言う?」
「悩んでるんだよ。馬鹿女のことを」
「本人が悩んでいないんだから、三谷が悩むことはないんだよ」
 笑いかけると、三谷はやるせなさそうに溜め息をついた。呆れただろうと思っていたら、いきなり顔を上げた途端、境界線すれすれまで身体を寄せられた。
「まあ、いい。言っとくけどな、俺、諦めの悪さは天下一品だから。知ってるだろ」
「そうだっけ、あーそうだ、初恋長かったんだっけ、正直迷惑だったなあ、アレ」
 三谷の初恋は幼なじみの茉莉だ。小さな頃から茉莉が結婚するまでだから、なんと二十年近くずっと片思いしていた。高校時代、茉莉とお昼を食べていたら邪魔にされたり、存在を無視されたり、そうだ、色々ムカつくことがあった。なのに今、好意があるとか言ってくるのはドッキリなのか。ドッキリと言われた方がよっぽど納得出来る。
「そうだ、高校時代、結構三谷には虫ケラ、もしくは邪魔者扱いされたんだよねぇ。忘れてたけれど、三谷は嫌な奴認定してたんだった」
「えっ、あ、……そうだっけか……」
 声音が弱まった三谷に追い打ちをかけるように、奴の悪行を語って聞かせると、段々顔色が悪くなっていく。とどめとばかりにゆっくりとした口調で、文句を締めくくった。
「そりゃあ、駄目だね。長年の恨みもプラスされて評価は星ゼロだもん。あー、駄目駄目、セックスとか、有り得ない」
「小泉」
 切実な声に左隣を見やると、奴は悲壮な顔をしていた。よしよし、そのままこころ折れろ。
「好きだ」
「………アンタ、ひとの話、聞いてないでしょ」
 想像もしていなかった攻撃に、ちょっとだけこころが揺らめいた。そんな自分が嫌だ。ぐっ、とシードルを煽ると、ぬるめの甘酸っぱい味はいつまでも口の中に残った。

「どうしたんだい、二人とも。喧嘩でもしたのかい」
「いえ、喧嘩はしてません」
「別に、何でもないよ」
 三谷が休日の朝、何時もの喧嘩もせずに黙々と朝食を摂っていたら、心配げな父はおずおずと尋ねて来た。最近食欲はあるようで、少しだけ食べる量は増えたのに、今朝は中々食が進まないようだった。喧嘩している三谷と娘を見て食欲が出る、というのもおかしなものだけれど、それでも食べられる内が花だ。
「それじゃあ、何が」
「………いえ、タイムマシンがあれば、高校時代へ行って、小泉を虫ケラのように見下して、邪険にしていた己をボッコボコに殴りたい気分になってるだけです」
 三谷がぼそぼそと話す隣で涼しい顔をして、濃いめの味噌汁を啜った。昨日、あの後、これでもかと三谷の悪行を語ってやった。一本思い出の紐を引くと、芋づる式に三谷がやりやがった酷い対応は出てきた。それを父へ語って聞かせると、深々とため息をつかれた。
「奈々、過去を責めても仕方ないだろう。こんなに落ち込んでいるんだよ」
「父さん騙されてるよ。こいつは策士だから」
 そうだ、策士過ぎる。悪行を語る間、奴は『今は、小泉が一番』だの、『好きなんだ』とか必死な顔で訴えかけてきやがった。反省してる奴がそんな事するか。厚顔無恥とは三谷の事を指すのだろう。
「今、これからを大切にしていけば、いいんじゃないのかい。ね」
「三谷を大切にしろ、って言いたいだけでしょ。そんなの出来る訳ないでしょ。今迄最低すぎたのに」
「奈々っ、なんてことを」
「ああ、もういいっ、父さんは三谷の味方してばっかり。もうやだ」
 子どものように残りのご飯をかきこんで、濃いめの味噌汁を飲み干した。充分に身体は大人になっているはずなのに、私の中身は全然成長していない。席を立ち、乱暴に食器をシンクの洗い桶の中に入れて、スポンジにこれでもかと洗剤をぶっ掛けて猛然と皿をこすった。
 食卓の父と三谷は小声で何か話し合っている。やがて食器を全て持って下げて来たのは、三谷だった。洗い桶に一つずつ入れた後、奴は乾いた布巾でいつも通り水切り籠の食器を黙って拭いた。
 拭き終わった食器を棚に片付けていると、三谷はあのさ、と話し掛けてきた。
「策士、って言ってたけどさ、俺、策なんてねーよ」
「へーそうですか、じゃあ、何で、うちでちゃっかり暮らしているんですかね」
「小泉さ、俺が飯誘っても、茉莉んちに居るときに会っても、一刀両断で『やらない』『しない』だっただろ。男として意識もされてなかったしさ。仕事が忙しいのは知っていたし、八方塞がりだった」
「そういうことを語って欲しいんじゃない。ちょっと油断するとすぐこれだもん」
「じゃあ、俺は何を小泉へ差し出せばいいんだよ。どれも受け取り拒否じゃねぇか」
「ほっといて欲しい、私の居場所へずかずか土足で入り込んできたのは、三谷でしょ!」
「仕事辞めるって聞いてチャンスだと思った。何度も何度も打ち直してあの求人募集書いた。今年はエイプリルフールする気なんてなかった。俺がどんだけ応募してみようかってくれたメールに浮かれたか、分かってねーだろ!」
 ああ、三谷は真っ直ぐなんだと、強い瞳を向けられてそう思った。真っ直ぐって心地よくて、居心地が悪い。
「……ああ、怒鳴るつもりは、なかった。ごめん、引っ込むわ」
 返事をしないわたしに、ばつの悪そうな三谷は背を向けた。
「三谷」
 出て行ってというつもりだった。ここでとどめを刺してしまえば、三谷はきっとここから去っていく、そんな予感がしていた。それをずっと望んでいたのに。
「マルエツ行くから、荷物持ちしてくれる。今日、特売だから」

 地下鉄駅からほど近い行きつけのスーパーは、それなりに混雑していた。三谷にカートを押して貰い、今日特売の調味料やら、小麦粉、乾麺のスパゲッティなど、容赦なくここぞとばかりに入れた。
 お互い無言で各コーナーを回った。ぶすぶすと火種が胸の中でくすぶりながら私はどうしたいのか、方向性が見えなくなって来た。
 今迄こんなにも素直な、それでいて力強い好意を向けられたことは無かった。三谷は自分の気持ちを誤魔化したりせずに、素直に示した。
「今晩、何食べたい。大したもの、作れない、けど」
「あー、ちょっと、考えさせて」
 三谷の顔を見ることは出来ずに聞くと、平坦な声で答えが返って来た。ギクシャクした雰囲気に喉に空気の玉が詰まったような苦しさを感じた。何をしているんだろう。今迄のように切り捨ててしまえばいいのに、気持ちをぶつけられて返したいと思っている。強い力で三谷の目の前へ立たされた気がした。向き合うって、怖いのに。
「鉄板って、ある?」
「あ、ある」
「じゃあ、広島焼きでも作るか。俺、作るわ」
「えっ、作れるの」
「かーちゃん、広島出身だから結構うちじゃ定番なんだよ。久々に喰いたくなった」
「セレブなのに、広島焼き」
「うち、セレブなんかじゃねーよ。まあ、資産はあるかもしれねーけど、生活は普通、ってか質素だし」
「質素」
「じゃなかったら花壇で薬味とか野菜とか育てねーよ。あ、それ、とーちゃんの趣味だけどさ」
「そうなんだ」
「………いや、もう止める。語り過ぎだよな。反省したし」
 三谷は唐突に黙った。立ち止まり顔を見上げると、その目線は合わなかった。
「うちの父さんも、庭いじり大好きだけど、あんな感じかな」
「………小泉の親父さんは、アレ、趣味超えてるだろ、プロじゃん。うちのとーちゃんは、色んな施設の屋上で農業って事業をうちの社でやってんだけどさ、それ視察するうちに自分もやってみたくなったらしい。白髪のジジイが目を輝かせて無農薬っ、って喜んで作ってるだけだし」
「いいじゃん、無農薬野菜、買うと高いから」
「そうかな」
 話は途切れて、また沈黙になる。なんとなく動きだして、なんとなく広島焼きの材料を探した。蒸し麺や、キャベツ、紅生姜。今度は三谷が籠にどんどん材料を入れて行く。
「あ」
 精肉コーナーにいたカップルに目が留まった。あれはもしや、今話題のひと、ではないのか。
「三谷、アレ」
「すげー、あんな堂々としてるけど、いいんか」
「さすがに彼女は眼鏡してるね。どうする?」
「あー難しいよな。見つめてみるか」
「どういうこと?」
 見上げると三谷は少しのあいだ逡巡して、ためらいがちに口を開いた。
「いや、気付かず行ってしまえばそれはそれでいいし、気付いても近寄るな、って雰囲気なら手ぇ振ればいいだろ。近づいてくるなら話できるだろうし、大倉の出方次第でどうとでも出来る」
「はあ、なるほどね。賢いね」
「策士、じゃないから」
「何やってんの、お前ら、いや、噂マジか」
 ふっ、と目線を戻すとニヤッニヤした大倉のすぐ後ろに、キャスケットを被って四角い黒ぶち眼鏡をした彼女が立っていた。色、白いっ、肌、綺麗っ、佇まいが普通の人間と違う。一瞬にしてそんなことを思った。
「小泉、これが一流企業にお勤めのイケメンOさんだ」
「ああ、イケメンOさん、ごきげんよう」
「うわー仲良くなってる。この二人犬猿の仲で有名だったんだ。なのにくっついてるってギャグだよ」
 後ろを振り向いてわたし達を指さした大倉に、彼女はにっこりと笑った。
「初めまして、イケメンOさんの高校時代の同級生の、三谷と申します」
「同じく小泉です。初めまして」
「初めまして、香田と申します」
 低いのに艶やかな声で挨拶を返された時点で、周りにいたお客さんの雰囲気はがらりと変わった。そわそわして、こちらを向いている人たちがちらほら。その様子を受け入れるように真顔になった大倉は、どっか場所変えないか、久しぶりに会ったんだし、と小声で提案してきたので、我が家に招待することになった。
 みっちりとエコバック三袋分になったその内の一つを、女優さんは気さくにも持ってくれようとしたのでちゃっかり大倉に押し付けた。大倉の実家へ二人で遊びに来ていて退屈になり、暇つぶしにスーパーの中を回っていたらしい。
「やっぱ似てる。小泉と真夕」
「本当に?たまーに言われるんだよね。目の辺りが似てる、って」
「小泉が?やめろよ、香田さんに失礼だろ」
失礼はお前だ三谷。折角大倉が気分良くしてくれたのに、三谷の見下げるような視線で、台なしだ。大倉は睨み合っている私達を見て慌てたように話題を変えて来た。
「つーかさ、麻夕は声が特徴的だから、喋るとすぐにバレるんだ。だから俺の知り合いに会っても、滅多に声出さないで会釈のみなんだけど、今日は驚いた」
 女優さんは古臭い我が家の居間に入るなり、父が丹精込めた庭に歓声を上げた。今は庭いじりをしていた父が何やら身振り手振りをしながら、香田さんに説明しているようだ。そんな様子を眺めながら、食卓テーブルで三人、お茶を飲んでいる。
「こっちも、写真週刊誌に同級生が載ることなんてないから、びっくりしたよ」
「ああ、あのスクープ、南田のところで書いて貰ったんだ」
「は?」
 大倉は長年付き合っている彼女と結婚を考えていた時に、あれよあれよと彼女が売れていったと言った。最近やっと落ち着いてきて、さて結婚、という時に所属事務所から待ったが掛かった。人気絶頂な香田さんと、ずっと一緒にいた大倉のスクープを大手出版社に勤めている南田の所で流して世間の反応が見たい、とのことらしい。
「だからイケメンOさんなんか」
「おっかしいと思った。大倉、イケメンじゃなくてカワイイ系じゃん。アルパカとそっくりだし」
「食いつくとこ、そこかい。結婚に食いつけよ、結婚に」
「いやー、いい歳なんだし、いいんじゃない?世間の反応はどうなの」
 そう聞くと、大倉は照れたように頭を掻いた。
「まあ、悪意は持たれていないみたいだ。ずっと付き合ってる彼氏、ってのが昔からの熱烈なファンに引っかかっているようだけど、世間一般には好評、みたいで」
「良かったね、結婚、いつするの」
「まあ、近いうちに。あ、これ、内緒にして。クラスの皆止まりでいいからさ」
「言わなくても分かってるって。結構周りにバレてんのか」
「いや、それがさ、不思議なことに大体周り、顔合わせてる人とか、職場とか、友達は皆知ってるんだけどさ、そこから先が広まらないんだ。皆、胸の中に留めておいてくれているようでさ。もっとメールとかじゃんじゃん来てどういうこと、って騒ぎになるかと思ったら、全然無いし。あっても用事で来たメールに一言仲良くやれよ、とか、羨ましいぞ、こんちくしょーとか、返事しなくてもいいようなのばっかりだ」
 それは、なんとなく分かる気がした。皆、大倉のことが好きで、大変な時に負担にならないよう配慮している。肩透かしにあったような大倉にそう伝えると、照れた表情を見せて、口を尖らせた。
「大体なー俺らのことより、お前らの方がめっちゃLINEとかで噂されてたぞ。賭けまでやってたから、あいつら」
「まーじーでー。皆どこまで知ってるの」
「三谷が小泉にめっちゃ惚れて、小泉の父さんに直談判して押し掛け婿やってるって」
「合ってる」
 間髪入れずに三谷が答えると、大倉はうそーんまーじーでー、と上ずった声を上げながら、目をキラキラさせた。
「で、で、小泉は、どうなんだよ。本物イケメンに迫られてどうよ」
「大倉、南田のようなこと言わないでよ」
「いや、これは俺らよりキャッチーな話題だって今更気付いた。何、どうなのさ、小泉はどうなのさ」
 全く虫も殺せないようなほんわか草食系男子顏が、目を爛々とさせて喰らい付いてきているのを見てドン引きした。三谷は不安そうにこちらを見ている。それだけで傷付けたくない、そう思ってしまう。
「普通」
「なんだそれ、普通って」
「あー、大倉、あんま追い詰めんな。さっきまで評価は大嫌いだったんだから、ちょっと」
「うわぁ、本物イケメンがデレた。何だお前ら、三十三歳になるのにこれって。いやー写真撮っていい?」
「駄目に決まってるでしょーが、撮ったらLINEに出すんでしょ」
 ばれたか、と大倉は言いながら嬉しそうに笑った。そっぽ向いた三谷の赤い耳元を見ながら思った。このひとは私のどこがいいんだろう。傷を誰にでも見せつけることを何時からか平気になって、隠そうともしない。必要ならばひとに刃を向けるそんな人間です、と大声で叫んで生きている、馬鹿女なのに。

 母が本当の父と名乗る男と現れた日、私は大きな声をあげて叫び、一目散に家を目指して走った。私にとって、男と、そして母は不審者だった。自分の部屋に鍵を掛けて、いつまでもクロゼットの中で震えていた私は、帰宅した父へ泣くことも声を発することもできず、ただ、黙っていた。
 やがて、母が帰ってこないことに気付いた父は、心当たりを私に尋ねた。
 父へ返事は出来なかった。ただ、ただ大きな衝撃に息をするのが精一杯で、辛いなんて感情は何処かへ行ってしまった。
 母は帰ってくることはなく、父が捜索願を出して、色々な人々が関わり、やがて長野の山中からガードレールを突き破って崖の下に落ちた車の中に、警察が二人の遺体を発見した。そこで全ては明らかになった。この家の積み重ねられた嘘が。

「父さん、香田さんとどんな事、話していたの」
 大倉と香田さんは三谷が作った広島焼きを昼食にして、仲良く手を繋ぎ、帰って行った。夕食後に三谷がお風呂に入っている間はいつも、気だるそうに横になる父の元へといた。話をする日もしない日も、お互いに微笑みあっていた。父のやわらかな表情が、大好きだから。
「そうだね、うん、知らなかったんだが、彼女は母子家庭で母一人、子一人で育って、父親という存在をどう捉えていいのか分からないと言っていた。ホームドラマを受けることが出来ないんだそうだ。狂気は知っているのに、父親との接し方は知らないとね」
「すごい、ね、父さん。そんな話、初対面でするなんて」
「庭をとても気にいってくれたようだったなぁ。そんな話から始まって、父親に憧れがあるんですっていう話から、そうなったんだよ」
「それでも、凄いよ」
「彼女は努力の人なんだね。父さんは父さん成分を彼女に吸い取られた気がする」
「なんじゃそりゃ」
 そう言いながらも、父が言いたいことは理解出来た。分かっていて父は香田さんに『父さん成分』を与えたのだと思う。身体はボロボロで、命を削っているやも知れないのに、必要なものを与えてくれた。いつだって。
「また、いつでもおいで、と言っておいたから、来るかも知れないね」
 優しい口調が好きだ。穏やかに笑うところも、強い意志も。迷って戸惑って苦しんで、そんな姿を見せないようにしていた。嘲笑うかのように身体から裏切られ、どんなに辛いだろう。ただ、傍にいることしか、出来ない。
「父さん、程々にして。お願いだから」
「大丈夫、大丈夫」
 そっと腕をさすった。元気がでるように、暖かくなるように。
「広島焼き、美味しかったね」
「そうだね、三谷くんは鍋将軍じゃなくて広島焼き奉行だったなあ」
「また、リクエストしようよ」
 嬉しそうに笑ったその顔を、ただ、見つめた。

 一緒に暮らすこと、特に奴のボクサーパンツを干すことに慣れた頃、三谷は夕食の席で次の週の三日間、北海道へ出張へ行くから、と告げて来た。
「へー、いいな、北海道かあ。ずっと行ってない」
「札幌かい」
「はい、土産買ってきます。何かリクエストありますか」
「奈々、あれがいいんじゃないかい、豚丼のタレ」
「……うーん、でも、三谷は仕事で行くんだし、スーパーに寄るのは出来ないよ」
 滅多にない添乗に出るとき、必ず少ない空き時間で立ち寄ったのは、スーパーだった。それは国内、海外を問わず、その土地だけの食べ物や飲み物を見付けるのが好きだったのだ。中でも調味料は賞味期限も長く、常温で保存が効くので、色々見つけては買って帰った。
 父は沢山のお土産の中でも高知のぶしゅかんの果汁瓶と、北海道の十勝の豚丼のタレが大のお気に入りで、私はそこへ行くたびに買って帰った。
「スーパー、寄るって。豚丼のタレだろ」
「いいよ、今度有楽町のアンテナショップに寄った時にでも買ってくるから。仕事に専念して」
「そうだね、空港で買える物をお願いすれば良かった、すまないね、気にしないで」
 そう父が笑うと、三谷は黙っている。何かを考えているような、寂しそうな表情に慌てて口を開いた。
「北海道ってね、本当何でも美味しいよ。コンビニ弁当ですらレベル高いもん。店内で調理してお弁当出しているコンビニもあるしね」
「あー焼き鳥のやつは知ってる」
「それ、函館にあるよね。ああ、修学旅行以来行ってない。修学旅行楽しかったなあ」
「奈々も一緒について行ったらどうだい」
「それは、出来ないよ。三谷は仕事で行くんだし、父さんの体調も気になるから」
 父の提案に口ごもりながら答えた。しかもこんな間近になって決めると、飛行機の運賃は高くつく。元職場へお願いすれば安いチケットは取れるけれど、それは反則だと思う。
「俺、飛行機のチケット代出すから、一緒にどうよ」
「何で三谷が出すのっ、質素に暮らしてきたんでしょ、そんなところに使っちゃダメでしょ」
「三谷くんは奈々と一緒に行きたいんだよ。父さんが出してあげるから」
「何言ってるの、それなら父さんと二人で行く」
 そう宣言すると、父は晴れやかな、明るい笑顔を見せた。何だか嫌な予感がする。そういうのって外れない。
「それじゃあ、三谷くんさえよければ三人で温泉でも行こう。箱根なら近いしね」
「はい、喜んでー」
「居酒屋か!やだ、やだっ、行かないよう」
「計画します、車出します、金も」
「お金は父さんが出すよ、三谷くんには計画と車をお願いしてもいいかい」
「じゃあ二人で行って、私は行かないっ」
 そう言うと二人とも何とも微妙な顔をした。睨み返すと、沈黙したまま二人同時に、まあまあ上手く出来た蓮根の挟み焼きへ箸を伸ばした。話題はそれっきりで、食器の音が響く中、夕食は終わった。

✴︎✴︎✴︎✴︎

 お風呂から上がって部屋へ戻った直後に、今日も扉はノックされた。ああ、来たんだと思っている自分にも呆れる。最初はあんなに嫌がっていた癖に、結局三谷をここで受け入れている。きっと迫られて押し倒されても、そのまま流されていくんだろう。その方が楽だから。
「なーにー」
「ほれ、飲め」
 扉を開けた途端、グラスに入ったロゼワインを差し出された。段々手順は省略化されて、すぐにグラスを渡される。受け取るとさっ、と座布団が差し入れられるのも当たり前になってきた。
 ワックスを塗ったばかりの古い板張りの床に、オレンジ色の灯りが落ちている。それを隠すように三谷は座布団を敷いてその上に座った。自室からエアコンの冷気が廊下へ流れ出していく。
「雨、降ってるね、今年の梅雨明け、いつかな」
「もうすぐだろ、あー今年から外回り行かなくなったから、梅雨で鬱っぽい。やっぱ、外に出なきゃ俺、駄目みたいだ」
 三谷はこの春から長ったらしく覚えきれない役職名が付いた、らしい。残業代でねぇ、とやたらとぼやいていた。着実に跡継ぎの道を歩んでいるようだけど、この家に慣れてきて廊下での時間は愚痴が増えた。
「経験も仕事も年齢も全部上の人に指示するのが俺、っておかしいだろ。もうさ、世襲制とかやめたらいいんだよ。実力でやればいいじゃんか」
「三谷は継ぎたくないの」
「んー実力制で行けばいいんじゃねーかとは思ってる。とーちゃんの仕事振り見てたら、胃潰瘍起きそうだからさ。いっつもニコニコして周りに気使って、何かあったら責任取る立場でさ。あれ、やんのかと思ったら眩暈する」
「よくあるドラマの御曹司みたいにワンマンで部下を顎で使って我儘上等、俺についてこーいに変えてみたら」
「小泉さ、そんな社長についていきたいか」
「………やだね」
「ワンマンが許されるのは、自分が全員の部下の顔を把握出来る範囲内だと思うぜ。百人位、とかさ。うちは父ちゃんの代で大きくなり過ぎたからさ、もうそういうレベルじゃないし。ほとんど全部の部署のトップは、バリバリ仕事出来るからさ、俺である必要は無いんだよ」
「じゃあ、全て部下に任せて左団扇な感じはどう」
「だーかーらー、そんな社長についていきたいかって」
「やだねぇ」
 それでも三谷の顔は少しだけ綻んだ。わざとそんなことを言ってみて思うのは、三谷は誰より真面目に跡継ぐことをちゃんと考えている、ということだ。延々と続く歳上なのに仕事の出来る部下を持つ辛さを愚痴られて、でも真面目に仕事している様子を聞くたびに頑張っているな、と思う。
「絶対この若造が、って思ってるの伝わってくるしさ、失敗するのじっと待たれているようでさ、俺の妄想なのかもしれないけどさ、毎日マジきつい」
「そっか……んー、飲み会とか開いて、三谷の思ってること正直に話してみたら、どうだろうね。三谷が戸惑っているように部下さんだって戸惑っているかもよ。なんとなく、だけど」
「正直、かあ。何だか舐められそうで怖い」
「全て上の人なんでしょ、舐められて当然じゃん。自分はこうです、ってさらけ出しちゃって、困っていたら手助けしてもらえませんか、ってしちゃうほうが、受け入れてもらえそうだけど」
 それは私が仕事から学んだ事だった。添乗員の他に団体ツアーにはガイドが付く事が多いのだが、今迄一緒に仕事をしたガイドさんはほぼ歳上のベテランばかりだった。添乗員だからと上から目線で行くと、ひとは反発する。でも、礼儀正しく助けを求めていると、快くではなくても手を差し伸べて貰える機会は多かった。そうやって乗り越えたピンチは結構あるという話をすると、三谷は優しい笑顔になった。
「小泉は、そうやってアドバイスくれて、いい奴だよな」
「何を今更」
「仕事したことない奴からはそんな話、絶対聞けねーもん。俺のこと思って、答えてくれたのが嬉しい」
「あのね、本当に悩んでるの」
 なんだか怪しい。言わされた感じがする。横目で睨むと、三谷はにっこり笑った。
「悩んでないことは、自分の中から出て来ないって。小泉に聞いて貰えて気持ち落ち着いた」
 こんな風に持ち上げられて喜ぶと思っているんだろうか、小娘じゃあるまいし。世の中手放しで褒めて貰えるなんて、そんなに甘くない。
「何が、目的?」
「……うわぁ、こじれてんなあ、小泉は」
「三谷ほどじゃないよ。三谷ほどじゃ」
「何で二回言ったんだよ」
「強調してみた」
 三谷は溜息をついた。何時もながら左隣から刺さるような目線を感じる。そっと目線を合わせると、もう一度溜息をついた三谷は、話題を変えて来た。
「小泉、札幌で美味い飯屋さん知ってる」
「和食洋食中華、それとも居酒屋、ラーメン、スイーツ、どれなの」
「あー、聞いた俺が悪かった」
「だからコンビニ弁当からして美味しいとこなんだって、北海道は」
「小泉も行かないか」
「父さんを置いては行けないよ。三谷、あの時聞いたんでしょ」
「………まあ、聞いたんだけど、さ。小泉の親父さん、元気だからさ」
「いつ倒れるか分からないのに、家を空けられないよ。今は元気そうでも、明日はどうなるのか分からないんだから」
 そう言いながら気持ちはチクチクと痛んだ。言葉にしたら、涙が流れそうになった。でも、それが、現実。
「小泉は親父さんのこと、好きなんだな」
「好きだよ。何があっても、どんなことが起きても、最後まで一緒にいたいって思ってる」
「………そっか、親父さんには敵わないか」
「敵うわけないでしょ、星ゼロなのに」
 笑いかけると、三谷は真顔になって蕩けるような目をこちらへ向けてきた。居た堪れなくなるほど、沢山の恋する複雑な感情を含んだその視線から目を逸らした。三谷が望んでいるだろう事からも。
 身体はいくらでも差し出せる。でも、心は誰にも寄り添えない。
 三谷は絶対に触れて来ない。こんなに近づいていても、私の想いを探るような軽いスキンシップすら、しない。でも、私が大切なんだと、言葉で、態度で告げて来る。それが殊の外、苦しかった。
「三谷、セックスする?」
「星ゼロの奴とはやらねぇんだろ。しねぇ」
 まるで諭すような柔らかい口調で断りを入れられて、居心地が悪い。胸の中に立つさざ波が思いの他、大きくなって来ていた。それならばいっそ、こちらから仕掛けて壊してしまえばいい。
「しねぇ、って言っただろ」
 身体を寄せた瞬間、大きな掌をこちらに向けられた。優しい口調での拒絶に、自分の目線が揺れたような気がした。
「どうして」
「分かってるだろ」
 寂しそうな笑顔に、やっぱり三谷の目の前へ強制的に立たされたような気持ちになる。怖い、怖くて、堪らない。
「小泉は、俺のこと、好きじゃない」

 それから三谷が私の部屋の扉をノックすることは無く、札幌へ出張に行ってしまった。
「何だか、三谷くんが居ないだけで静かだね」
「そう、だね」
 父も私も三谷が居ないのだから、以前のように適当に朝食を済ませればいいのに、なんとなく何時もの時間に起きて、何時もの通りに作り、久し振りに向かい合って座った。
「体調、どうなの」
「悪くはないよ、時たまにだるいことはあるけど、まだまだ動けるさ」
「暑くなってきているから、庭仕事はほどほどにして、ね」
「雨だと雑草も抜けやすいから、少しだけしたいんだがなぁ」
「父さん、お願いだから」
「大丈夫、大丈夫」
 穏やかに笑った父へ作り笑顔を返した。お互い無言で朝食を食べていて、こんなに二人きりは息苦しかっただろうか、と思い返していた。三谷の存在が無いだけで空気は淀む。それに慣れきっていたはずだったのに、奴が居ないだけでこんなに違うのか。おかしいな、こんなことになるなんて。
 朝食を終えると父は庭の隅に置かれた物置で紺色の上下のレインコートへ着替え、庭に出てしゃがみこんだ。柔らかくて音もない雨がその背中を濡らしていく。咲き誇る花々も今日は霞んでいた。
「父さん、長い時間は駄目だよ。身体に触るから」
「そうだね、でも少しだけ」
 振り向かずに父は答えた。心の中の鬱屈した、それでいてギリギリと締め付ける感情が出て行く。
「父さん、どうして三谷だったの」
 庭へ降りるための窓から、濡れそぼった背中へ震える声で尋ねた。草むしりをする動きがぴたりと止まり、やがて立ち上がった父は、こちらを振り返った。
「どうして三谷くんだったか」
「そう」
「父さんが居なくなった時に、泣けない奈々を抱き締めてくれるひとが、欲しかった。それだけだ」
 何時もと変わらない優しい目は、じっと私を捉えていた。父は少しだけ頷くと、また背中を見せてしゃがみ込み、黙々と手を動かし続けた。

 嵐のような騒ぎが過ぎて、私はずっと父からの裁きを待っていた。実の子どもでは無かった事実は、父の前に突きつけられ、それでも何も変わらずにいたからだ。
 父は努めて以前と同じように、それ以上に優しかった。子どもを残され妻が居なくなったやもめ男のやるべきことは、何でもこなした。不器用な掃除、下手くそな食事、皺くちゃな洗濯。私はおずおずと手伝った。その度に父は喜んで頭を撫でてくれた。それが苦しかった。
 父は長いこと警察へ事情を聞かれていた。母と男の死亡事故原因はカーブを曲がり切れず、ガードレールを突き破ったことによるものだったが、ブレーキ痕があったことから自殺ではないとだけ、断定された。
 どうやら警察は父を疑っているようだった。あの二人と最後に接触したのは父だったそうだ。母と男から離婚届けと、私を引き取りたいと告げられて、父は離婚には応じ、私の引き取りは拒否したと刑事さんから聞いた。男には妻子がいた。それなのに私を連れ去ろうとしたのは何故か、執拗に警察に事情を聞かれた。長い間、警察の追求は続いた。しかし、車から怪しい点は見つからず、結局は事故死として片付けられた。
 落ち着かない日々が続き夜半に眠れずにいると、時折そっと部屋のドアは開けられた。目を瞑っていると、いつも髪を撫でた後、首筋に手を当てられた。
 そのまま締められてしまっても、文句など言えなかっただろう。父にはその権利があると思った。実の子どもではない私を、母に騙されて育てたのだから。
 人差し指から順に首の曲線に沿って、指先の力が入っていき、そこで止まる。そして、離されて、父は去っていく。
 夜毎の未遂は、私の中へ降り積もり、思った。罰せられも殺されもしないこの身体は、本当に人間で、赤い血液は流れているのだろうか、と。

「いやー、参りました。初日気温下がったらしくて寒くて。もうすぐ七月なのに、こっちの晩秋位の気温で、スーツ夏物着てったから、死にそうになったんですけど、小泉のアドバイス通りユニクロ行った、ら、なんとまだヒートテックが売ってたんです。マジ奇跡、小泉に感謝」
「ユニクロにでしょ。ユニクロに感謝しなよ」
 三谷が出張に行った日の夜、『寒い!凍死する!』というメールが届き、冷静に『大きなユニクロ行ってヒートテック買え』と返したら、『ある訳ねーだろ( *`ω´)』と信じて貰えずにいた。が、一時間後『あったー!』とテンション高いメールが届き、そこからは返信も面倒になり放置していたのだ。
「良かったねえ。気温差で風邪を引いたら、元も子もないからね」
 父は三谷のお土産で作った豚丼を、喜んで食べている。見たこともない大瓶のタレを三谷は、ドヤ顔でバックの中から出してきたのだ。思わず父と二人でおおーっ、と歓声を上げると、三谷は札幌支店の担当者に売っている場所を聞いたら、家でストックしている大瓶を分けてくれた、と更にドヤ顔をテカらせた。
「ある訳ねーよって思いながら行って店員さんに聞いたら『ございます』って言われた時のあの衝撃たるや」
「北国のユニクロはね、何処でも真夏以外は置いてるよ」
「よく知ってんなー流石だわ」
「テンション高すぎる、五月蝿いよ、三谷」
「だって、小泉も親父さんもおかえりって言ってくれてさ、俺、嬉しかったんだって」
 どうやら豚丼と共に出したビールに酔っ払ったようだ。ニコニコしている顔はほんのりと赤い。
「仕事、上手くいったのかい?」
「はい、ひとまず一番最初の大きな山超えられて、ホッとしました。プレッシャー半端無かったんで」
「そうかい、それは良かったねぇ。今日は祝杯だね、さあ飲んで飲んで。折角奈々が用意していたのだからねぇ」
「はい、ありがとうございます」
 三谷がくーっと一気飲みすると、父は空いたグラスにビールを注いだ。飲ませすぎじゃないかな。そう思うけど、二人があまりにも楽しそうに語りあっているので、それは言い出せずにいた。
 後片付けをして寝る準備を整えて、二階への階段を登りきったところでぎょっ、とした。
「三谷っ、三谷、こんな所で寝ちゃ、駄目だって」
 縦に長い身体がうつ伏せで行き倒れてる。歯ブラシと歯磨き粉握り締めて。
「三谷、歯は磨いたの、ねぇ」
「……みがいたー、ちべたくて、きんもちいー」
「廊下に頬ずりしてる場合じゃないでしょ、自分の部屋で寝てよ、お願いだから」
「やーだ。ここで、ねりゅー」
「もーやっぱり父さん飲ませ過ぎなんだもん、止めればよかった」
「……親父さん、わるくない、ぞー」
 そう言うと一拍置いて三谷は軽い寝息を立て始めた。放っておこうかとも思った、でも風邪を引かれてはそれこそ面倒だと思い直した。
「三谷っ、ほら、起きて、お布団で寝なさーい」
「………めがみさま、ぼく、たてましぇん」
「誰が女神様だ、いいから、お布団に入ってよ」
 それでもグイグイ重たい腕を引っ張ると、三谷は仕方無さそうに身体を起こした。正座して、ゆらゆら揺れている。三谷の部屋の扉を開けて、物が少なく薄暗い室内のベットの上にある、整えられた掛け布団をめくった。
「きょーは、いっしょに、ねよー」
 扉が閉まる音がした途端、後ろから抱きつかれてそのままベットに雪崩れ込んだ。抵抗したけれど、奴はぐふぐふ笑いながら掛け布団を巻き込み、腕の力を強めてきた。
「三谷、三谷、離してよっ」
「いーにおい、ふわふわで気持ちいー」
「セックスしねぇとか言っときながら、なんなのよこれっ」
「きょーは、たたねーから、心配すんなー」
 そう言うと奴はがっちり後ろから抱え込んだままで、寝息を立て始めた。何なんだこれ、触れないようにしていたのは何だったんだ。ムカムカと腹が立つけれど、すっぽりと抱き込まれて心地よい後ろめたさも感じる。
 お互いが負担にならないような抱き込み方に、ふと、感じた。三谷は、そういうことに慣れている。定期的に誰かと寄り添って眠りにつくということに。イラっとして奴の腕を剥がそうとした、が、逆にむにむに言いながら更に抱き込まれてしまった。まあ、いい。完全に寝付いたらきっと離れられるだろう。そう思って軽く目を閉じた。

「申し訳ありません……いでで、うー、具合、悪い……」
「自業自得でしょ、ほら、しじみ汁」
「うわー、小泉が女神に見える。俺、目やられたのか」
 やられたんじゃないのか、と思うけれど、黙っておくことにした。ついうっかり眠ってしまって、何時もの起床時間に大の字になって眠っている三谷の腋の下で、小さくなりながら温もりを求めるようにくっ付いていたのに気がついたことも、こっそり三谷の部屋を抜け出して、なに食わぬ顔で台所へ立ったことも、だ。
「どっから記憶ないの」
「んー、寝る、ってなって、空いた缶、シンクでゆすいだ辺り………うめー、汁、うめぇ……」
「いや、すまなかったねぇ。いい飲みっぷりだからついつい勧め過ぎたね」
「そうだよ、父さん飲ませ過ぎ」
「父さん、薬で飲めないからねぇ。飲んでいる三谷くんを見て、一緒に陽気になった気分になってたよ。申し訳ない」
「いえっ、俺、……いでで、仕事が上手く行って、ホッとしたんでつい飲みすぎて、止めなかったんで、自業自得です……」
 冷凍しておいたしじみに醤油とすりおろした生姜を入れた汁物は、我ながら上手く出来た。三谷は食卓につくのも辛そうだけれど、苦い顔して啜っている。そんなしじみ汁だけの朝食を終えて、本日代休の三谷は自分の部屋へ戻らずソファーへうつ伏せになってピクリとも動かない。
「掃除機かけるのに邪魔だから、退いて」
「………小泉さあ、記憶、いつから無いのか聞いてきたけどさ、……いでで、何で知ってんの」
「昨日、二階の廊下で三谷が行き倒れてたから、自分の部屋に帰れって言ったらね、めがみさま、たてませーんって叫んでたから、こりゃ泥酔してるなーと思って」
「ゔぁ、マジでか。俺、何かやった?」
 何か、って、どれを指すのか。返事をせずにじっとり睨むと、奴は少しだけ顔を上げて横目でこちらを見た。
「すんごいいい匂いのふわふわを、ぎゅーっとした夢、見たんだけど」
「夢でしょ」
 言いかけた所を遮ってみると、横目でこちらを伺っていた奴は、眉間に皺を寄せた。そうだ、あれは、夢だ。それじゃなければ、説明はつかない。
「そっか、夢か………そうだよな、あれ、夢か、いい夢だったなぁ………」
 しみじみと反芻している奴に、安心しかけた所で三谷は真剣な声で謝ってきた。
「ごめんな。小泉」
「謝っている意味が分からない」
「酔っ払って、箍が外れて、すんません」
「だから」
「小泉、怒ってるからさ、朝からずっと」
「地顔なの、しかも怒ってない」
 言い放った瞬間、玄関のチャイムが鳴った。クリーニングだ、そう呟くと、三谷はよろよろと起き上がった。洗面所の棚に備え付けた三谷のワイシャツ専用籠をそっくりそのまま持って玄関へ向かうと、途中でよろめきながらやって来た二日酔いと鉢合わせた。
「あらあ、坊ちゃん、お久しぶりですねぇ、あれ、具合悪いんですか」
「菊池さん、お久しぶりです。こちらまで足を運んで頂いて、ありがとうございます。昨日飲みすぎて、ちょっと」
 扉を開けると、梅雨の合間の晴れ間から吹く澄み切った風が、家の中へ入り込んできた。すっかり顔馴染みになった愛想のいいクリーニング屋さんは、挨拶もせずに三谷へ食いついた。まあ、いい。上っ面の話を交わしている二人に構わず、クリーニング屋さんの持って来たワイシャツをそっと受け取り、洗濯物を差し出した。三谷におべっかを使いながら、よくもまあ帳面に書きつけたり、ワイシャツの数を数えたりできるもんだ、と感心する。
「坊ちゃんがこちらのお嬢さんを、ねぇ。驚いていたんですよ、はい」
「はは、美人でしょ」
 立ち去ろうとしたら、三谷は乾いた笑いと共によくわからないことを言った。十人並みなのはよーく分かっている。この間香田さんが来た時に人間離れした美しさを見て、軽く落ち込んだのに。
「えっ、いやあ、坊ちゃん、惚気がキツイですねぇ」
 お前も大概失礼だな、ヘアトニック親父。三谷は迷惑にもいきなりわたしがいかに素晴らしいのか、を滔々と語り始めた。ヘアトニック親父は目が点になっている。仕方なく助け舟を出すことにした。
「来週火曜ですがわたし、出掛けるので玄関先に出しておきますね」
「あ、ああ、分かりました、はい」
「すみません、お話を遮って。後はごゆっくりどうぞ」
「あ、いえいえ、今日はこれで失礼します。坊ちゃん、それでは」
 そそくさとヘアトニック親父は帰って行った。やれやれと洗面所へ戻りかけると、三谷はブスッとした顔で口を尖らせた。
「止めるなよ、小泉」
「本人目の前にしてね、『一所懸命で性格も優しくて料理も美味いです』とかさぁ、嘘つくのやめてくれる。居た堪れなくなった」
「嘘、ついてない」
 真剣な声で言われて、溜息をついた。まあ、いいや。これ以上ほじくり出しても、良い事は何も無いだろう。
「二日酔いは、治ったの」
「しじみ汁のお陰で、大分元気になった」
「そう、それはよかったねー」
「ありがとな」
 昼でも薄暗くて玄関は白熱灯を点けていた。見上げると一瞬驚いた顔をした三谷は、優しい笑顔を向けて来た。灯りは段々薄暗くなって、縮こまるように目を閉じた。ほんの近くで吐息と、二本の指が頭の上にそっと降りて、数本の髪をなぞる感覚と共に、何かを取り去る気配が、した。
「羽根」
 目を開けると、大きな掌の上に小さな白い羽根が乗っていた。
「ついてた」
 心臓は破裂しそうな位煩くて、何かを思わず期待した自分に戸惑った。三谷はそっと掌に羽根を握りしめると、そのまま行ってしまった。

✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎

 梅雨が明けた途端、何時もの蒸し暑い濃い青空の夏がやって来た。父の体調は安定していて、毎日早朝と夕方に庭に出て、汗をかきながらこまめに手入れをしていた。強い陽射しにも父の手が入った草花は負けることなく、色の濃さを増した。手伝いを申し出ると、いいから、いいからと断られる。毎日心配して、もやもやしながら見守った。
 三谷とは奴の休日に父と三人で香田さんの出演するドラマを観たり、たまに部屋の扉をノックされて廊下と部屋の中で飲み会をしたりと、相変わらず適切な距離を保っていた。それは友人以上で家族未満な微妙なもので、甘さは殆ど無かった。
「あの、聞いてもいいでしょうか」
「はい、何か」
 初めて香田さんが大倉と我が家へ来てからひと月後、大倉を経由して香田さんから『庭をまた見せて頂けないでしょうか』と連絡を貰った。父は二つ返事をして、昼下がりのはっきりと陰影が分かれた道を、香田さんはひんやりとしたデザートを携え、汗一つかかずにやって来た。
 彼女は表現を生業とするひとにしては、なのか、だからこそ、なのかは判断がつかない。しかし言葉で何かを表すのに長けているとは言い難かった。つっかえて、口籠り、それでも熱心に父の庭を心から褒めた。それは久しぶりにオアシスに辿り着いた砂漠を旅するひとが、緑を目にした時のような感動だった。その一部始終を、私は後ろから、ただ眺めていた。
「私は、不躾だと、人のこころの分からない人間だと、言われることが、多いです。答えて下さらなくて、構わないです。でも、聞きたいのです。その腕の傷は、何故ついたのですか」
 暑い日に半袖を平気な顔をして、それでも内心縮こまる思いをしながら着るようになったのは、ここ数年のことだ。上司だったひとがいきなり飲み会で半袖着てこいよ、と夏の蒸し暑いビアガーデンで酔っ払いながら説得をしてきたのだ。私を採用する、と決めたのはこの上司だったと入社してから知った。自分の袖を捲り、傷を隠そうともせず、人間味のある受け答えが面白かった、と。
 香田さんの質問は気遣いのある核心を突いたものだった。お茶を勧めて、食卓テーブルへ向かい合わせに座り、日が入らずに暗くなった居間から光溢れる庭を眺めた。
「そうですね、辛いことが続いて、でも辛いと口に出せなくて、苦しいと誰にも訴えられなくて、そんな自分を消してしまいたかったから、でしょうか」
「辛かったこと、教えてくれませんか」
 知って、どうなるんだろう、そう思ってから、この目の前にいるうつくしいひとは、それを必要としているのだと思い直した。色々な人生を飲み込んで、そして表現するのを仕事にしている彼女は、この傷すらも飲み込みたいのだと真剣な眼差しが語っていた。その何もかもを。
「私は父の実の子どもではありません。母が父と婚姻中に別の男と作った、そんな子どもです」
 言葉にすると、嘘のような話だった。初めて傷を付けた時に、滲むように一筋の赤を目にした時に、ああ、私はひとで、生きているんだ、そう思った。真夏だったから、二の腕の内側に付けた傷は段々と増えて、季節が変わる頃腕首に移っていった。
 深く傷付ければ、沢山の赤を見た。父には気付かれないよう細心の注意を払った。汚れたパジャマやシーツは何時も自分で洗い、それでも茶色の染みは残った。
 隠していた傷に気付いたのは、学校の保健の先生だった。故意に身体測定の日に休み、その後日呼び出されたのだ。春にも測定しておらず、一年間記録がとれなくなってしまうから、と言われ、服を脱ぐことを拒んだ私に何かを察した先生は、時間を掛けて関わってきた。
「説得されて父に連絡することになった時、ついに捨てられると思いました。いい子じゃない、実の子どもでもない、傷だらけの私は捨てられるだろうなって。でも、そう思ったとき物凄くほっとしたんです。良かった、偽らなくてもういいんだ、って」
「でも、そうは、ならなかった」
「打たれました、一発大きいのを。担任と学年主任とスクールカウンセラーと保健の先生の前で」
 父は泣いていた。どんな時も、妻を無くした時でさえ泣かなかった父が、大人なのに大きな身体を震わせて、大粒の涙を流した。誰もがその姿に、黙った。
「そこで私は知ったんです。父が実の子どもではないと知っていたのは、私が産まれる前からだったと。父は、子どもを作ることが出来なかった。母はそれに耐え切れなかった。近所に住んでいた苦学生だった男と関係を持って、父はそれを知っていて見ない振りをしていたんです」
 子どもに告げられた真実は、聞かせたくない類のものだったのだ。でも、私にはそれこそが必要だった。

 奈々を初めて抱っこした時に、思ったんだ。理屈じゃない、命の美しさを感じたんだよ。この子を幸せにしたいと、この子を幸せにすると誓った。

 私が生まれた日のことを、父はそう語ってくれた。可愛くて愛しくて、まるで恋をするような気持ちだったと。父は仕事を時短勤務に変えて、そこから何年もカウンセラーと学校とを行ったり来たりして、夜は一緒に手を繋いで眠った。何度もぶつかって、何度もリストカットしようとして止められた。
 私は、父に捨てられたかった。ぐちゃぐちゃの感情が渦を巻いて、愛されたいのか怒られたいのか、突き放されたいのか、それすらも分からずついに刃を父に向けた。
「施設に入れて、捨てて欲しい、って叫んだんです。そうしたら、絶対にそんなことしない、奈々の父親は自分だから、って、そう叫んでカッターの持ってる手をがっちり掴まれて、もみ合っているうちに父の腕を傷付けました。そこで初めて後悔しました。リストカットしてたことを」
 私のしたことは、殺人未遂だった。父にに刃を向けるなんて、許されない。でもそれに気が付いたのは、落ち着いて随分経ってからだった。父を傷付けたことで、自分が何をしてきたのかを思い知った私は、そこから自分を傷つけることは止めた。

「教えて下さって、ありがとうございます」
 目の前にいるうつくしいひとは話終えると、ほんの少し目を伏せた。そして瞳を開いた時には寂しげな微笑みを浮かべていた。
「何故、教えて下さったのですか」
「さあ、分かりません。何故なのかな。きっと香田さんは聞いてくれると、そう思ったから」
「お父様は、何も語られませんでした」
 香田さんはそう言うとオレンジ色に照らされた庭で、夕方の水撒きをしている父を見やった。細められた目はとても静かだった。
「きっと、お父様は全てのことからあなたを守ったのでしょうね。とても深い愛情だと、思いました」
 声音は優しいのに、その表情はぞっとするほど美しかった。残酷なほどに。

「ああ、この道、曲がったら駅ですよね、ありがとうございます」
 駅前でタクシーを拾うから、と言った香田さんを父と共に玄関先で見送り扉を閉めようとした時、三谷の車の向こう側から焦ったように戻って来た彼女は声を掛けてきた。駅はどっちですか、と。
 夕日に照らされた路地を道案内をしがてら、そこで初めて何故このひとに傷のことを話したんだろう、と思った。とりとめのないことを話しながら、このひとはまたあの庭にやってくるような気がした。
「では、これで失礼します」
「お気をつけて」
 タクシーの後部座席の窓を開けて、香田さんは微笑みながら頭を下げた。走り去っていくタクシーを眺めながら、このまま消え去ってしまいたいと思った。このまま身体は細かく砕け散って、蒸した熱風に乗って、大きな大気に溶けて、うつくしい夕暮れを浴びて、遥か彼方へと。
「小泉!」
 振り返るとそこには三谷が立っていた。肩で息をして、腕でぐい、と汗を拭って深刻そうな顔でこちらを強く見ていた。
「ああ、おかえりなさい。今日は早いね」
 気持ちとは裏腹な、間抜けな声音が出て自分でも驚いた。靴音を響かせて近づいてきた三谷は、スーツの上着をわざわざ右に持ち替えて手を差し出して来た。
「かえろう」
 その言葉に三谷の顔を見上げた。眉間の皺も深く、口はむっ、と結ばれて一見すると機嫌が悪いのか、と思われがちな表情は、本気で心配している時のもの、だ。
「触れるの、嫌がっていたじゃない」
「今はいいんだって。今は俺が連れて帰るんだ」
「何その俺様思考。そんなんで女子が落ちると思うなよ」
「うるせー女子がどうこうよりも、小泉には今、必要なことなんだよ。ほらっ」
 むうっ、と照れたようになった三谷はすぐ目の前まで手を差し出して、動きで促している。
「三谷」
 私を助けに来たんだ、三谷は。不恰好だけれど、少年漫画のヒーローのように。
「ちょっとだけ、帰りたくない」
 涙は流れなかった、でも語尾は震えた。子どもみたいな弱音を吐いて無理に笑いかけると、三谷は顔を歪ませた。
「何処に行きたい」
「分からない」
「仕方がねぇな。今、親父さんに電話すっから待ってろ。ほら、手」
 躊躇って、それからそっと掌を合わせた。びっくりする位の湿り気に驚いて見上げると、悪いか、と一言だけ三谷は言った。
 三谷は短い電話をした後に、帰って来た道を逆戻りした。丸の内線を四谷で乗り換えて、がっちり手を繋がれたまま着いたのは、久しぶりに来た遊園地だった。
「小泉は乗り物好きだろ、ほら、これ」
 チケットカウンターでお財布を出す間もなくナイトパスポートを渡され、コインロッカーに荷物を入れて身軽になった三谷にぐいっ、と手を引かれた。うん好きだけど、そう言う暇は無かった。
 夜の帳が下りた蒸し暑い、まばゆいひかりの遊園地をこれでもかと乗り物に乗って、遊んだ。観覧車の中を通り抜けていくジェットコースターでぎゃーと叫んだり、昔ながらのバイキングでお尻が浮く感覚を楽しんだ。三谷は次から次へと手は離さずに間髪入れず、空いているアトラクションへ向かった。叫びすぎて、笑い過ぎて、いつの間にか逆に手を引いていた。
 お腹は空かなかった。簡単にフードコートで食事を済ませて、時間一杯、目一杯遊んだ。
 閉園間際、最後に観覧車に乗ろうと言われて、ベタだなあ、と言いながら笑って列に並んだ。やがて回ってきた順番に、向かい合わせで座った。
「何そのタオル、マフラー巻きしてるけど」
「いいだろ、ナウでヤングだろ」
「ふっる、今時世代のおじさんでも言わないよ、それ」
 蒸し暑い夜に屋外へいて、汗取りはハンカチじゃ追いつかなくて、グッズショップで細長いタオルを買った。どっかのコンサートへ行ったみたいにお互い首に巻いて、ペットボトル片手に馬鹿みたいにはしゃいで下らないことを喋った。
 重たかった夕方が、キラキラ輝く夜景で塗り替えられていく。
「なんだか色気のない中学生のデート、みたい」
「小泉の恋愛レベルは中学生だから丁度いいじゃんか」
「酷っ、痛いのぐさっと刺さった。駄目だ、もう立ち直れない」
「とか言いながら、笑ってんじゃねーか」
「三谷の言動は何時だって中学生男子でしょ」
「馬鹿、男なんて皆、永遠に中学生レベルだ」
「嘘、マジで」
「マジで。俺が知ってる中で一番中学生拗れてんのは、茉莉の旦那」
「ああー分かる気がする……」
 そう言いながらその人は三谷のかつての恋敵だったのでは、と思ってしまった。モヤっとして、何だか落ち着かない。
「ありがとう、連れて来てくれて」
「あー、素直な小泉が気持ち悪い」
「さっき、迎えに来てくれたんでしょ。それは、嬉しかったよ」
「……その手には引っ掛からないぞ、馬鹿女。何から目を逸らしたんだよ、言えよ」
「何からも、逸らしてない」
「目が泳いでるぞ、馬鹿女」
 睨みを効かせると、三谷は優しく笑った。耳まで熱くなっていく感覚がして、慌てて汗をタオルで拭う振りをした。本当に跡取りは侮れない。相手をよく観察して、ほんの少しの隙も見逃されていないような気持ちになって。
「あー、まあ、がっついたら駄目だな。小泉のレベルは中学生だかんな」
「中学生じゃないもん。それなりにそれなりだってば」
「……小泉さ、本気で誰かを好きになったこと、ないだろ」
 図星を突かれて、はたと思い返した。何だか三谷のペースに嵌まって、大事なことを忘れてしまっていた。
 火照っていた身体は冷えていく。重たい夕方を取り戻した。
「ないよ、これからも、無い」
 無機質な声に、三谷はにやりと笑った。自信過剰な眼の色に不安を覚えて睨みつけると、三谷は面白そうに一言だけ言った。
「まあ、ゆっくりやるから」

 傷つけるのを止めて、何かに没頭したくて高校受験の勉強をただひたすらやっていた時期があった。父も母も手放しでテストの点数がいいと褒めてくれ、悪くても次があるさと励ましてくれた記憶が、そうさせていたんじゃないか、と今では思う。
 実力より上の高校へ受かって、出席番号で並んだ順の席が近かった茉莉と何となく気が合って、仲良くなった。クールなのに母性溢れる感じの茉莉に三谷が恋しているのを、邪魔にされて迷惑とは思いながらも、何とも思っていなかった。
 良く三谷を好きな沢山の女の子に、茉莉から離れてこっちの仲間にならないか、というような誘いを受けた。別に迷惑だけれど、それは三谷が迷惑なだけだと返した時、嫉妬するでしょ、と決めつけられるように言われて、やっと気がついた。どうやら、私は異性を意識して、嬉しくなったり嫉妬したりする感情を何処かに落として来てしまったらしい、と。
 当たり前のように誰かを好きになって、一緒に過ごして、結婚?そんな想像は、これっぽっちも持てなかった。
 だから今まで沢山の人達が幸せになっていくのを、祝福しながらも他人事として過ごしてきた。私は何の幸せを望むのか。それは何があっても手を繋いでいてくれた父の、優しい笑顔をずっと見続けること、それだけだった。

 ゆっくりやるから、の意味が分からず、尋ねても応えては貰えず、手は再び繋がれることはなく、その日は遅い時間に帰宅した。とても混乱していた。三谷の言葉の意味が気になって、落ち着きがない。
 そんな自分を確かに中学生レベルだと思ったり、いや、今のままでいいじゃないかと思い直したり、気忙しいことこの上ない。
「で、どうなの、その後は」
「どうなの、どうなの。Doなの」
「たけちゃん煩い、ちょっと黙ってて。っていうか、子どもたちの所へ行ってて」
「酷いっ、茉莉ちゃん。邪険にしちゃいやっ」
 あー、拗れてるわー。何時までも仲良し夫婦の旦那さんを見て、そんなことを思った。
 日曜日の今日、近所で小学生の為の剣道の大会があって、三谷は休みを取って審判をしに行っていた。茉莉の息子の陵太も出場しており、大会の帰りに一家は我が家へ立ち寄った。陵太が目をキラキラさせながら八位入賞を果たしたと喜んで報告してくれ、その後大人数が一気に玄関から雪崩こんで来て、何時もながらびっくりする。
 茉莉が申し訳なさそうに謝っている隙に結月が何処かで転んで、泣いて、ドタバタしている内に子どもたちは庭へ出てしまい、今は父から熱心に花の種類を説明してもらって感嘆の声を上げていた。
「たけちゃん、旭が帰って来ちゃうから茶々は入れないで大人しくしていて。で、旭のことはまだ大嫌いなの」
「ふつう」
「普通、かあ。そうなの」
 茉莉は面白そうに笑った。普通は普通だ。それ以外何がある。
「旭といて、楽しい?」
「普通だってば、もう、何なのさ。っていうか茉莉、三谷に色々入れ知恵したでしょ。好きな食べ物とか教えたでしょ」
「入れ知恵はしてないよ。旭が奈々の好きな物は何、って聞いて来たから、それに答えただけだよ」
「それを入れ知恵っていうんじゃねぇか。茉莉ちゃんよぅ」
「嫌だ、もう。たけちゃん先に帰ってくれて良かったのに。話が進まないって」
「ハイヒールちゃんの気持ち無視して暗躍すっと、友達無くすぞ」
 ハイヒールちゃんとは私のことだ。よく履いて歩いているから、なのだが茉莉の旦那さんはどうも渾名を付けるのがお好きらしい。他にも別嬪さんやら、巫女ちゃんと呼ばれている人がいるのを知っている。茉莉は旦那さんに言われた言葉で、ちょっとだけ面白くない顔をした。バランスの取れた良い夫婦だな、と思う。
「分かってるけれど、奈々には、ね。幸せになって欲しいなあ、って」
「そんなの人それぞれなんじゃないか。お前が押し付けたら駄目だ」
「でも」
「お前だって生き方を誰かに指図されたら、嫌だろ」
 茉莉は明らかにしゅん、とした。茉莉を喜ばせたり悲しませるのは、唯一この旦那さんだけなんだ。
「いいね、夫婦って。茉莉の言ってた意味が、分かったような気がする」
「ん、あれ、何か言った?」
「こないだ言ってた、でこぼこが綺麗な丸になれるっていう話、してくれたじゃん」
「何だそれ」
 ああ、と思い出した茉莉が旦那さんに説明すると、その目尻の皺は深まった。
「なるほどな。茉莉ちゃん、いいこと言うな」
「あれ、たけちゃんに褒められた」
「まあ、その通りだからな。ハイヒールちゃんは旭とでこぼこ、埋めあえる関係になりたいとは思わないのかい」
 急に話を振られて、返答に困った。黙り込んだ私に、仲良しの年の差夫婦は少しだけ、同時に身を乗り出してきた。答えを辛抱強く待ってくれている、そんな仕草に少しだけ心が和んだ。
「何て言うか、私の中の穴ぼこが深過ぎて、駄目だと思います。三谷が埋めようとしてくれているのは感じるけれど、きっと埋まることは、無いですから」
「ハイヒールちゃんは自分ではその穴、埋めようと思わないのか」
 辿々しく答えた私に、旦那さんは間髪入れずにそう突っ込んで来た。そんなこと微塵も考えたことは無くて、答えに窮した。
「俺たちが一緒になって初めてじゃないか、ハイヒールちゃんが夫婦っていいな、って言ってくれたのは」
「そうかもしれない。結構、奈々は結婚とか夫婦とかに関心無さげだったし」
「だよな。いいなあ、ヲイ」
「たけちゃんね、わたしには自分の考え方押し付けるの、止めろって言っておきながら自分もそうしてるじゃない」
「やだっ、茉莉ちゃんたら、いいところに気が付いたわぁ」
「本当に、マジで止めてくれませんか。小泉は恋愛レベルが中学生なんで、横槍入れないで下さいよ」
「三谷……お帰り」
 むっつりとした声が廊下からして、すぐに三谷は姿を現した。
「おお、旭、横槍じゃないぞ、後方支援だ」
「先生の後方支援は容赦なく爆弾投げて来るから当てになんないんですよ。っていうか面白がってますよね」
「うんにゃ、楽しんでるんだ」
 うわぁ、と同時に言いながら三谷と茉莉は顔を歪め、悪びれもせず旦那さんは胸を張った。
「お願いですから、口出ししないで貰えませんか」
「とかなんとか言ってよ、お前、ハイヒールちゃんが俺たちの前でモジモジしてんのが面白くないだけだろ。いやー男の嫉妬は醜いな」
「先生っ、だから爆弾投げるの止めろってば」
「焼け野原にしてやろうか、なあ」
「たけちゃんっ、いい加減にしなさいっ。すぐ悪役になり切ろうとするんだから」
「ハイ」
 旦那さんが目を閉じて返事をした瞬間、庭から子どもたちと父が戻って来て、一気に賑やかさは増した。笑いながらも、ある一言がとても胸に、堪えていた。

「陵太、凄いね。八位入賞なんて」
「あー、小六の優勝候補に負けたんだ。負けたけど有効一つ取ったし、上出来過ぎるよ」
 今日の廊下での話題は、陵太の頑張りについてが酒の肴になった。三谷はコンビニの袋をガサガサさせながら、水色のネコの缶ビールを渡してきたのだ。相変わらず良く好みを知っている。
「そっか、それは仕方ないね」
「本人は準々決勝まで行ったから、優勝する気満々だったんだけどさ、まあ技術的にも体格的にも上の相手だからよく戦ったよ」
「優勝する気だったの、陵太」
「陵太のこと、りょうちゃん、りょうちゃんって慕ってくっ付いてる年下の美少女がいてさ。陵太と一緒に剣道習ってて、美少女はまだ試合には出られないんだけど、どうやらいいとこ見せたかったんじゃないか、と思う。その子、お父さんと二人でわざわざ応援に来てたんだ」
「ええっ、もしかして、初恋?」
「まだ淡ーいやつだけど、お互いそうなんじゃないか。その美少女のお父さんはやっぱ、面白くない顔してた」
 そう言って三谷が笑った声につられて、わたしも笑った。
「美少女、かあ。陵太、やるね」
「その子のお父さん、多分ミックスなんだ。目が大きくて色白で、上にお姉ちゃんいてその子は陵太と同い年だよ。あの辺では有名で、美人姉妹って呼ばれてるんだぜ。姉は気が強くて妹は甘え上手でさ。陵太はいっつも二人に振り回されてる」
「その子達のお母さんって、別嬪さんて呼ばれてる人でしょ」
 ああ、そうだ、と三谷は肯定した。どうやら陵太はモテるようだ。さっき結月と葉月が口々に教えてくれたことは、兄が可愛い封筒のラブレターをわんさか貰ってくるとか、バレンタインにチョコレートを八個貰ったとか、どれも華々しいものだった。へぇ、いいねぇ、と言ったら、面白くなさそうな顔をした陵太から、『奈々ちゃん、人のことより、師匠のことちゃんと好きになってあげてよ。師匠、奈々ちゃんのこと本当に好きなんだと、オレ思う』とこっそり耳打ちされて曖昧に笑ったのは、内緒だけれど。
「陵太は正統派王子様だから、モテるんだろうね。優しいし、良く気がつくし、思いやりがあるから」
「父親がアレな割に、ちゃんと真っ当に育ってるよな。先生に似なくて、本当に良かったよ」
 忌々しげに言った三谷の横顔に、ちくりと胸は痛んだ。茉莉の気持ちが三谷へ向いていたら、ずっと、ずっと好きだった人と結ばれて、幸せな顔をしていたのかもしれない。今は吹っ切れた顔をしているようだけど、そういう未来があったかも、と想像することは、あるのかな。
「何考えてんだよ、馬鹿女」
 こちらを見ると、三谷は照れたような優しい表情になった。
「別に」
「素直に言ってみろ、隠さないでさ」
「素直に、って何」
「俺の顔、そんな切なそうにじっ、と見てたら、何考えてるんか知りたくなるだろ」
「どうして三谷に言わなきゃいけないの」
「そりゃ、俺のこと想ってくれたら嬉しいからに決まってるだろ」
 かあっ、と頰から耳にかけて一気に血流が良くなった気がした。それすらも恥ずかしい。おかしいよ、どうしよう。
「うわ、マジで。ヤバい、小泉が可愛い」
「もういいっ、今日はお終い、お終いおやすみっ」
 嬉しそうに笑った三谷に構わず、部屋の扉を無理矢理閉めた。扉の向こうからは『おやすみ』と低く優しい声がした。程なくして、扉が閉まる音も。
 掛け布団を捲って、頭から潜り込んだ。まずい、本当にまずい。私は最低の、誰かに刃物を向けるような人間なのに、うっかり三谷を好きになり掛けているよう。意地悪で、出てくる言葉は嫌味ばかりで、好きになんてならないと高を括っていた。あんなに辛抱強く優しさを注がれるなんて、思っていなかった。

 一度だけ、今のように誰かを好きになり掛けたことがある。腕の傷を隠すな、と言ってくれたひと。
 仕事にはとても厳しくて容赦のない、随分年上のそのひとは、遥か前に奥様を病気で亡くされてからずっとひとりきり。厳しくされて優しくされて交際を迫られて、身体だけ差し出していいといつものように答えたら、小一時間説教された。結局、そのひとは私を抱かなかった。それから私は、仕事以外のことではそのひとを避けるようになって、徹底的に逃げた。月日が経って、そのひとは栄転で地方へ行ってしまい、その内再婚した、という風の噂を聞いた。
 一緒に住んでいると、逃げられない。逃げ場所は、ない。ぶつかり合うか、堕ちるか。自分の見通しの甘さに眩暈がした。同居することを受け入れるんじゃ、無かった。

「旅行?何処に」
「分からない、けど、日本は出るから。一週間位」
「チケットは取ったのかい」
「まだ、でも今日取る」
 朝食の席で淡々と話した言葉に、父と三谷は顔を見合わせた。少し家を離れて、自分を立て直したかった。
「奈々、家に、いなさい。今は」
「父さんの状態も、安定しているし、少しだけ行ってきたい」
「奈々、いなさい」
「お願い、少しだけ」
「いなさい!」
 そう叫んだ父の顔色は真っ青だった。三谷が箸を置き、何かを話そうとしたけれど、父の手がそれを制した。
「全て父さんが悪いんだ、だから奈々は悪くない、悪くないんだ。誰かを好きになって、心通わせて、寄り添えばいい。逃げるな」
 そう切れ切れな言葉で、訴えられた。真っ青な顔色が白く変わっていく。茶碗が床に落ちて、転がる音はした。三谷が父を、支えて。

 それをただ、黙って見ていた。


 往診に来てくれたのは、近所の内科の若先生だった。ずっと昔からの父と私のかかりつけの医院で、二年半前、体調不良を訴えた父のガンを疑ったのは、大先生だった。大きな病院を紹介され、退職したばかりの父は多くの検査を経て、入退院を繰り返し抗ガン剤治療を受け、手術を受けた。
 父が余命を宣告されたと、そして治療をこれからは拒否したと、そう告げて来たのは新年を迎えてすぐのことだった。これからは、医院の先生にお世話になる、そう言われてどうにかならないかと、父を説得出来ないかと、冷えきった夜道を走った先に待っていた若先生は、逆に私の心配をした。
 仕事と病院を往復していた私は痩せたものの、至って健康だったのだが休みを取ることを強く勧められた。
 そして、父の話はただ、微笑んで頷いているだけだった。そして言われたのだ。お父さんの望んでいることを、僕は尊重します、と。
 茉莉の旦那さんが、私たちの掛かり付けの医院のように終末医療をやっているのを聞いて訪ねて行ったり、ネットで調べたりして、最後に父へもう一度どうしたいのかを尋ねた時、返って来た答えは、奈々と穏やかな毎日を過ごしたい、それだけだった。
 仕事に打ち込み過ぎて午前様が続く生活で、それは望めそうになかった。だから、仕事は辞めた。

 父娘として過ごす時間を大切にするために、私は日々を過ごそうとしていたのに、そこから逃げ出そうとしたんだ。

「急激にストレスが掛かって、体調を崩したんでしょう。二三日、様子を見ましょう。体調は最近安定していましたからね」
「ありがとう、ございます」
 玄関先で若先生の説明に答えてくれたのは、三谷だった。狼狽える私は何も出来なかった。てきぱきと私に指示を出し、父を布団に横たわらせ、往診をお願いしてくれた。職場にも遅刻する、と連絡を入れ、午前中年休を取ってくれた。若先生と看護師さんを見送り、玄関の扉が閉まった時、崩れ落ちるようにうずくまった。
「小泉、一息入れよう、こんな時だからこそ」
「ひとりに、なりたい」
「そうやって耐えるの、悪い癖じゃねーか。お前さあ、もちょっと俺を頼っていいんだって。ぐるぐる考えるの止めろよ。もっと話せ」
「どうして、だれも、ほおっておいてくれないの。ひとりになりたい」
「放って置いても、いいことないから誰もしないんだ。放って置かれたいのか、なら、親父さん身ぐるみ剥いで捨てて、俺を騙して金巻き上げて追い出して、茉莉には多額の借金でも申し込め。一斉にお前から離れていくだろうさ。優しくなんてすんな」
「そんなことできないっ」
 ボロボロの顔を怒りで上げると、三谷はしゃがみ込んだ。少しだけ高い目線から優しく見られて、再び膝に顔を埋めた。
「頭、撫でていいか」
「………好きにすれば」
「素直じゃねーなあ。まあ、素直な小泉なんて見たことないから、いっか。よーしよし、びっくりしたな」
「……ムツゴロウさんか」
 わっしゃわしゃと大きな手で撫でられた。その暖かさが身体に染みていって、胸がぎゅう、と苦しくなる。三十二歳のいい大人が、なにやってるんだか。
「いきなり旅行行きたいって言い出したのは、何でさ。そんなに独りになりたかったんか」
「なりたかった、とても」
「俺も、行かせたくなかった」
 撫で続けていた手の動きは、ぴたりと止まった。そのまま乗せられ続けて、その重みを味わった。自分とは全く違った造りの掌は、頭を覆うようになっていた。
「行ったら、きっと、頑なさを取り戻してくるんだと、思った。折角柔らかくなってきたのに、さ」
 ずしりと掌は重みを増した。締め付けられるような、重み。
「柔らかくいろよ。親父さんが言いたかったのも、それだ。小泉は何処にだって行ける、でも、今はここに居ろ」
「どうして、どうしてそんな残酷なことが言える、三谷は私のこと馬鹿にしていたじゃない。ずっと、ずっと、ずっと!なのに何で今、そんな口出ししてくるの。何が目的なの」
 ぐちゃぐちゃの顔を晒して、叫んだ。掌は去っていき、無表情の三谷は暫く黙った後、呟いた。
「残酷なんだ、それでか」
 浅い呼吸を繰り返すわたしと、深く深く息を吐き出した三谷の音だけが、オレンジ色の灯りの下響いていた。
「事情は、俺、ある程度しか知らない。人生の何処で小泉がそう思ったのか、それが知りたい」
「三谷には、関係ない」
「じゃあ、教えて下さい、お願いします」
「嫌」
「プードルケーキ、買ってきてやっから」
「三谷さあ、物で釣るの、止めなよ」
「仕方ないな、レアチーズケーキか」
「………だから」
「ちょっとこころ動いただろ、レアチーズケーキか」
「………シュークリーム」
「ああ、分かった、ちょっと待ってろ」
 そう言うと三谷は赤坂の洋菓子店へ、取り置きの電話を掛けた。よく手土産に利用しているんだろう、礼儀正しくも親しげに話しているのを聞きながら、どうして突っぱねず、受け入れてしまったんだろう、とぼんやり思っていた。
「今晩、遅くなる。夕飯いらねぇ。でも、シュークリーム買って帰るから、待ってて」
 もう一度くしゃりと頭を撫でると、三谷は手を差し出して来た。躊躇って、促され、手を取った。引っ張り上げるように立たされると、居間のソファーに座らされ、じゃあな、と三谷は慌ただしく出勤して行った。

 父は一眠りすると少し元気になったようだった。消化に良いものを中心に夕食は作って、二人で父の布団のそばに折り畳みのちゃぶ台を置いて、そこで食べた。
 旅行、行かないから、と告げると父は心の底から嬉しそうな顔をした。食欲もその言葉で出たようだ。美味しいねぇ、と言いながらたまご粥を二杯もお代わりした。
 裏腹に私の気持ちは重かった。きっと、事実を話したら離れて行くだろう。それでいいのに、それは寂しいなんて思ってしまう。
 左腕に大きく長い傷を父は、十二針縫った。疑う医師に、間違えて傷付けたと言い張って。
 もし、胸に刺さっていたら、そう思うと今も震える。
 私には殺意があった。自分の身体を、罰して、傷付けて、苦しめて殺してやりたいと、思って刃を父に向けた。
「なんか、想像、超えたわ」
 長い長い話を終えると、いつもの廊下でスーツ姿のままあぐらをかいた三谷は、呆然と前を向いて言った。三谷が知っていたのは、母と男が駆け落ちして死んだことと、それが原因でリストカットをしていたことだった。
「だから、幸せとか、無理でしょ。無理なんだって」
「何が無理」
「だって、何かあれば誰かに刃物、向けるかも、しれない」
 三谷はその言葉に、長いこと黙り込んだ。その重たい沈黙に、何かを期待することなんて、出来なかった。きっと三谷は去っていくだろう。そんな予感を激しく覚えた。
「じゃあ、俺も犯罪者だ」
 平坦な三谷の声に、びっくりして横を向いた。変わらずに真っ直ぐ前を見ている横顔は、引き締まって力強く見えた。
「俺、父親に殺意抱いたこと、何度もあるぜ。中学の時なんて、高校進学の進路決めで揉めて揉めて、一度家ん中めちゃくちゃになるような殴り合いして、こんな奴殺してやる、って思った。でも、出来なかったわ。竹刀でめっためたに打って殺してやろうと思ったけど、出来なかった。そしたら一発でかい拳で殴られてさ。で、KO」
 そのまま三谷はその時を再現するかのように、あぐらをかいたまま後ろに倒れた。くくっ、と笑うと、自嘲気味に言葉を続けた。
「結局、父ちゃんには勝てなかったぜ。でも、それで良かったけどさ。俺、持ってたのが竹刀だったから、それで父ちゃんを打とうと思ったけど、刃物持ってたら多分向けてたと思う」
 天井を仰いだままの三谷を、あっけに取られて、見つめていた。喉が、急激に乾いていく。怖い、三谷が、次に話す言葉が、怖い。
「父ちゃん差し歯折って、怪我させて、俺はがっつり頰を打撲したけれどさ、お互いあいこだと思った。親父さんも思ったんじゃねーかな、あいこだって。親父さんが本当のことを小泉に話してりゃ、そんなに沢山の傷、付くことなかったじゃんか」
「だって、産まれてきちゃ、いけなかった。いけなかったの、だから、駄目、駄目なの、もう、もうお終いにして、この話は、お終い、お願い、だから」
 動揺して、何を言ってるのか分からない状態でまくし立てて、そして慌てて扉を閉めようとして、勢いよくドアノブを押して閉じようとした瞬間、痛ってぇ!と大きな声が上がった。指先が挟まれているのを見て、急いでドアを開けた。
「あー、痛ぇ。思いっきり閉じやがって。マジで痛え。責任取って嫁に来いや」
「ごめん。本当に、ごめん」
「うるせー、許さねーぞ。産まれてきちゃいけなかったなんて言いやがって、この馬鹿女。親父さんの愛情たっぷり貰って生きてきたんだろ、自分でも分かってんだろ、その辺。分かってねーとは言わせねぇぞ」
「う、みたに、ひどい」
 大きな右手で、ぐっ、と両頬を挟まれた。へちゃむくれで不細工だろう顔に、三谷は眉間の皺を緩めて吹き出した。むにむにと揉み続けられて、痛い。
「べそべそ泣くなら、覚悟決めて嫁に来い、分かったか馬鹿女」
「どうひて?」
 問いかけたら、三谷は頰から手を下ろした。ずっと聞きたくないと思っていたことを、もう、避けられない。知りたくて、仕方ない。
「どうして、私なの。三谷なら顔だけはいいし、年収もあるし、沢山の女の子の中から選びたい放題でしょ。私じゃなくていい。私である必要ない」
「さりげなく顔だけとか言うな。むっかつくなあ。指は痛ぇし」
「どうして」
 その問いかけに、三谷は見る見るうちに顔を赤らめて、目を逸らした。
「最初は、つーか、ずっと、小泉のことは、嫌な奴だって思ってた。正直、嫌いだと、思ってた」
「じゃあ、嫌いなままでいればよかったじゃない」
「話は最後まで聞けよっ。……でもさ、小泉、クラスの誰のか忘れたけど結婚式の時、綺麗な青のノースリーブのドレス、着て来たの覚えてるか」
 バーニーズで買った青のAラインのドレスは、後ろのクロゼットの中でクリーニングタグを付けられたまま、仕舞われている。お店であまりにも美しい青に惹かれて、腕の傷を隠さなくていいと言ってくれたそのひとの優しい微笑みに後押しされて、ちょっとだけお高いものだったけれど奮発した。
「その時、俺、二次会で小泉に酷いこと言ったんだ。そんな傷、みんなに見せつけて、同情が欲しいのか、恥ずかしくないのか、ってさ。色んな奴から腫れ物扱いされて、陰で知らない奴から蔑まれた目で見られてる小泉に、何か腹たってつい、口から出た。そしたら、何て返したか覚えてる」
「……こころについた傷が、目に見えるだけ、だから、恥ずかしくない」
「……そう、あの時はごめんな。小泉に寂しそうに笑って言われたのがさ、殴られたような気持ちになった。手術とか、考えないんか、彼氏とかに見られるだろ、って聞いたら、いい、一生このままで。結婚はしないし、って明るく返されてさ、よく分かんないのに、俺が何とかしなきゃ、って、思った」
「それだけで?」
「それだけで」
 その日のことは確かに覚えている。確か五年前のことだ。三谷に根掘り葉掘り傷の事を訊かれて、のらりくらりかわした。傷を出して歩くのに少しだけ慣れた頃の、些細な出来事だ。
「エイプリルフールに馬鹿馬鹿しいの送って、小泉が凄いって褒めてくれてるのは、本当は嬉しかったのに、なんか憎まれ口ばっか叩いてた自分が恥ずかしくなったりさ、茉莉が何かの話の流れで小泉のこと話してたら、気が付いたら食いついてる自分がいてさ。でも、戸惑ったりして、気持ち気付くのに、一年位掛かった」
「えぇえ、一年、って」
「うるせーな、俺は熱しにくく、冷めにくいんだよ。本気でひとを好きになったことのない奴に言われたかねーよ」
 三谷は拗ねたようで、いでで、と言いながらこちらに背中を向けた。様子を伺うと耳の後ろまで真っ赤になっている。乾いてきた頰を掌でこすった。
「あのね、三谷が、私の中で、居座った気がする」
「マジで、それって」
「ちょっと待ったっ。でも追い出したいんだけど」
「馬鹿女っ、追い出すな。ちゃんと面倒見ろ。そいつそこそこ生活に困らない金稼ぐし、顔だけって言われてるけど、性格もそれほど悪くないって。社長の父ちゃんと口煩い母ちゃんとぎゃーぎゃーうるせー姉と人一倍仕事出来る義理の兄がいるけど、それは実家に押し込めておきゃいいから、な」
「………いや、益々、不安が」
「あああ、あの家族か、なあ」
「いやあ、性格も悪くない、とか自分で言っちゃってるし」
「そっちか!」
 あっという間に私の一言で振り返った三谷は、ちゃかちゃかとコメディアンのようにオーバーなリアクションを取り続けて、最後に頭を抱えた。
「それに、どうしていいか、分からないし。三谷の言う通り、本気でひとを好きになったこと、ないと思う。直ぐに、は、頭がついていかない、だから」
「ゆっくりやる、分かってる、ゆっくりやるから。分かってる、分かってる」
 どうどう、とまるで暴れ馬を落ち着かせる時のような動きで、三谷は同じ事を繰り返した。だから結局駄目になる気がする、と言おうとしたのに、その動きにこころ和んでしまって、言い出せずにいた。
 流されたような状態なのに、それを喜んでいる内心に戸惑っている。三谷は嬉しそうに笑う。何も変わっていないと思うんだけど、それでもそんなに嬉しいもの、なんだろうか。

 

✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎

 何も変わっていないと思っていたのは、どうやら私だけのようだった。何かを察したらしい父はいきなり元気になり、三谷はうきうきと何処かへ出掛けようと提案してきた。怪訝な顔をし続けていたら流石に落ち着いたけれど、何か怪しい。暑いし、日に焼けるし、何処にも行きたくない、と言うと二人は勝手に箱根の温泉に行こう、と三谷の早目の夏休みに合わせて客室露天風呂付きのお宿を決めて来た。訳が分からない。
 海外担当だった私でさえ社内で、あそこ、本当にいいと良く聞いていた、歴史はあるものの建物が新しい箱根のお宿を、三谷はどうやって取ったのか。幾ら平日とはいえ予約は激戦な筈、なのだがその辺は突っ込むと違う世界の扉を開けることになりそうで、見ない振りをした。
「小泉、止めろ、頭ゴツゴツすんな。車壊れるだろ」
「……だって、なんで、温泉」
「父さん、一度行ってみたかったんだよ。冥土の土産に、ね、いいだろう」
 うきうきとした男子二人について行けず、真っ青な空を恨めしげに見上げながら、助手席でガラスに頭を打ち付けた。何が冥土の土産だ。本当に余命いくばくもないのか、父よ。
 しかし父の嬉しそうな、それでも悪い顔色を見ていると、そんな懸念も吹っ飛んでいく。楽しそうに興味深げにサービスエリアの一件一件を回って、揚げたてのポテトチップスを三人で食べ、テレビで見たメロンパンをしげしげと眺めて、おやつに三人で分けようと一つだけ買っていた。食欲はあるようだけれど、それでもほんの少ししか食べられない。医院の若先生は、箱根なら大丈夫でしょう、と言ってくれた。父のやってみたいことを叶えてあげられるなら、それが一番だから、と。
「三谷のぼっちゃま、お久しぶりですねぇ。ようこそいらっしゃいました」
 お着物が艶やかなお化粧バッチリの女将に深々と頭を下げて出迎えられて、やっぱり、と顔が引き攣りかけた。どうせ昔からの常連とかで、顔が効くってやつだ。この手のお宿は必ず常連のためのお部屋を、一般の予約が満杯でも確保しているから。
「ご無沙汰しております。今日は一緒に住んでいる方々と来ました」
「まあ、ぼっちゃま、詳しいお話は中でいたしましょう。小泉さま、ようこそいらっしゃいました。どうぞこちらに」
 女将は美しいお辞儀をすると、館内へ促してきた。和モダンなロビーを抜けると、半個室になった席に案内されて、女将と客室を担当して下さる方から挨拶を受けた。お茶を出され、チェックインの手続きもそこで済んでしまう。
「ぼっちゃまも隅に置けませんね。素敵な方とご旅行なさって」
「早く嫁に来いって言ってるんですが、でも、口説かれてくれないんですよ」
 飲んでいた喉越しが甘い煎茶をむせた。女将は目を細めて、あら、まあ、と笑った。
「三谷くんが素敵で、娘は躊躇してるんです」
「まあ、まあ、お父様とも仲良しでいらっしゃるのですか」
「お義父さんが何時も励まして下さるんで、頑張れてるんですけれど、ねぇ」
 何だか段々居た堪れ無くなってきた。この茶番を誰か止めてくれーと思いながらも、ついつい職業病が出て、あちこちチェックしてしまう。
 女将がロビーにいてお茶を出して挨拶をするのは、各部屋を回らずとも済む考えられたシステムだな、とか、一緒に出されたお菓子のランクとか、ついついあちこちに目がいく。その内に沢山の浴衣の中から一枚を選んだり、枕さえも貸し出してもらえる説明を受けているうちに、客室の準備が整ったと声が掛かった。
 何時でも使える貸し切り露天風呂の数もとても多く、館内は静かだ。
「さて、のんびりするかい。いいねぇ、緑が綺麗だ。連れて来てくれてありがとう」
 天然木の優しい匂いがする広々とした部屋へ通されて、客室係りの女性が挨拶をして出ると、父は背もたれ付きの椅子によっこらしょ、と言いながら座り、伸びをした。
「お夕飯まで暇だね。何する?」
「父さんは疲れたから、少し横になりたい。二人は散歩にでも行ってきたらどうだい」
「ええ、この暑い中……三谷、行きたい?」
「喜んでー」
 暑いからてっきり行きたくない、という返事が返ってくるとばかり思っていたのに、三谷はにこにこしている。父は早速続きの間になっているベットルームへ向かって行き、父さんこっち、とベットに腰掛けて靴下を脱ぎ始めた。
「小泉、商店街でもぶらぶらしようぜ」
「いいねぇ、湯もち、買って来てくれないかな、父さん大好きなんだよ」
「……じゃ、行こうかなー」
 温泉に入るにしても早いし、と立ち上がった。父はいい寝心地だなあ、と言いながらベットに潜りこんだ。

 宿を出ると和風の門を抜けて道なりに下った。三谷の真っ白なTシャツに重ね着してる、ストライプの七分袖シャツの背が、風に膨らんではためくのを後ろから眺めて歩いた。三谷のつむじなんて見たこと無かったな、なんてぼんやり思いながら。
 幾分広い道に出ると、三谷は歩調を緩めて隣を歩こうとする。日差しは少しだけ傾き掛けて、それでもジリジリと世界を照らす。東京のように猛烈な蒸し暑さは無くて、幾分過ごし易く感じる。
「あのさ、どうして後ろ歩くんだ」
「日傘で三谷を刺したら、怒られそうだから」
 振り返った三谷へ日傘を掲げたら、手を差し出して来た。何だコレ。
「俺が持ってやる」
「やだよ、持ってやるとか、いいから」
「執事のようにさしかけてやるって。お嬢様、私めにお任せを」
「何だかコワイ。コワイよおとーさーん」
「そこでリアルに親父さん呼ぶんじゃねぇよ」
 目を細めて睨んできた三谷は、手を差し出し続けている。お宿の玄関に用意されていた真白のレース日傘で、こんなことになるなんて。軽い気持ちで持ち出してしまったことを後悔した。
「貸せ」
 そっと日傘の柄は三谷の手にさらわれていった。それを抵抗しなかった。腕を組むように促されその顔を見上げた。
「ゆっくりやるって、言ったよね」
「あー、でも、小泉の中に居座るって決めたから、探り探りやるわ」
「それ、ヤダ」
「どれだよ。指示語止めろよ」
 言い合いは暑いし疲れるから、そっと三谷の腕に手を掛けた。驚いた顔をした奴は、ぐいん、と身体をしなうように覗き込んできた。
「何?」
「んー、嬉しい」
 高一の時から思い起こせば十七年の細々と続いた関係の中で、一番凄い笑顔を三谷は向けてきた。というかそんなことを考えていないと、身震いしてしまう。誤魔化すために眉間に皺を寄せた。
「やっぱり、ゆっくりやる」
 目を伏せた私に柔らかな声が降ってくる。日陰は作られて与えられて、歩き出した。

 やって来たオレンジ色の登山電車に乗って、車窓から瑞々しい緑を二人で眺めた。下りだからなのか、車内は空いている。逆にすれ違う登りは混雑して見えた。電車は、運転士さんがスイッチバックをしながら湯本へエンジン音を鳴らし、降りていく。
「どうして、私なんだろう」
 大きな音にかき消すように、ほんの小さな声で呟きは出た。きっと聞こえていないだろう、聞こえて欲しくないのに溢れ出た言葉に、三谷はため息をつく。
「どうして、どうして、か。どうしてだろうな」
「三谷はモテるでしょ。寄って来てくれた沢山の中から、一人を選ぶことが出来るんだから、そうすればいいのに」
「俺は、誰かに選ばれてから選ぶんじゃなくて、自分で見つけたい」
「そんな狭い範囲で見つけていいんかーい。もっと広く世界を見たらいいのに」
「狭いかな」
「茉莉の友達なのに」
 隣から返事は無くて、顔を上げると三谷は目をまん丸にして私を見ていた。凄く何かをぐるぐると考えているのだけは分かった。居た堪れない気持ちがして目を逸らす。
 包み込まれるような視線を感じた。逃げ出したい、ここから。でも、逃げたく、ない。

 箱根湯本の駅は登りの電車を待つひとたちの行列が出来、構内も混雑していた。
「帰りはホテルのバスに乗せてもらうかー、最近、箱根は人気らしいけど、本当なんだなー」
「うん」
「まずちもとでいいか?一度奥まで行って、駅に戻ってくる感じで」
「うん」
「昔より綺麗になったなーこの駅舎。小泉、湯本に来たことある?」
「うん」
「まあ、東京から近いしな。親父さんと一緒にか?」
「うん」
「……何時頃」
「うん」
「いつ、来たことあるのさ。いつ」
「うん」
「……奈々って、呼んでいい?」
「うん」
「………奈々、キスしていい?」
「うん……って、ええっ、だ、駄目っ」
 三谷の顔が近づいて来て我に返った。上機嫌な三谷を見て、さっき失敗したことを自分の中から追い出そうとする。無かったことにしよう。隙を見せると攻め込まれてしまいそう。
 素直に三谷がこころに居座ったことを言ってしまった。そのことを甘く後悔した。
「奈々、行こう」
 日傘を持った三谷はとても自然に手を握った。声は余裕たっぷりなのに、掌は驚くほど湿り気を帯びていて、抗議の声をあげようとしたのに、それは出来なかった。
 クリーム色の高い天井に、沢山の音が響きあう。その中を三谷にリードされて行く。満足そうな横顔と自分とは全てが違う、首から肩にかけての硬い身体のラインを、瞬間欲して眩暈がした。
 五分袖のカットソーから出た無数の傷を見た。もっと綺麗ならよかった。もっと素直なら。もっと勇気があれば。もっと冷静で、もっと向き合えば。もっと、もっと。
「んっ、」
 抱き込まれた瞬間、いいんだよな、と耳元で囁やかれた。何が、と動揺した声を出すと、三谷は腕の力を強めた。蒸し暑い空気を、上手く吸い込めない。
「抱き締めて、ここでキスするからって言ったら、うん、って返事、した」
「してない、してないっ」
 気がついたらあまり人気のない、エレベーター乗り場の前にいた。どうして、私、貞操の危機。
「ちゃんと聞いた。小泉は肯定した。まあ、こころここにあらずなのは、分かったけれどさ」
「分かってるんじゃないっ、三谷、ひ、ひとが」
「困れ。俺の話を全然聞いてないから、こうなるんだ。困ってしまえ」
 酷い、大きな声を出して抵抗しようと思ったのに、凄い力で抱き締められた。息が吸えなくて掠れた声で三谷、と呼びかけた。
 エレベーターが動く気配がして、身体は離される。激しく咳が出て、三谷を睨み上げた。意地悪そうな目をした三谷は薄く笑っている。軽やかな音を鳴らしてエレベーターは開く。ベビーカーを押した若いご夫婦が楽しそうに笑いながら去って行った。
「行こうか、奈々」
「どうして、酷い」
「どうして、どうしてだな」
 ため息と共に言われた言葉は、三谷のこころからの声に聞こえた。
「俺、そんなに我慢強くないんだわ。何、考え込んでたかは分からねぇけど、出来るだけ話し掛けたら応えて欲しい」
「………ごめん」
「仕方がねーな、何考えてたんだよ。赤くなったり青くなったり忙しいし、話は聞いてないしさ」
 見られていた、そう思うと頰に熱が集まって来る。三谷の顔を見られない。
「俺の事?」
「ふきょっ」
 思わず変な声が漏れて、三谷は吹き出した。くくく、と笑い声が聞こえて腹が立ち、奴の傍をすり抜けてエレベーター横の階段を降りようと歩き出した。
「奈々、そっちじゃなくて、こっち」
「なっ、何、名前呼びっ。勝手に」
「俺、ちゃんと聞いたぜ、奈々」
 三谷の前でぼんやりしてはいけない。ううん、いけなくなった、らしい。やっぱり強制的に目の前に立たされた。
「なあ、怒ってるんか」
「ついてこないでっ」
「ちもとに行くんだ。奈々は?」
 アーケードの商店街を無視して早足で歩いた。振り返ると悠々と歩いて一定の距離を開けて付いてくる三谷が、にやりと笑った。ハイヒールは止めにしてスニーカーにしたのに、出来る限りの早歩きなのに、ぴったりと後ろにいる。観光客や、呼び込みのひとを避けながら進んだ。
「おーい、店、通り過ぎてるぜ」
 声を掛けられて振り返ると、三谷は歴史を感じる店構えの前でニヤニヤしていた。
「三谷、買ってきて」
「なんだよ、絶対居なくなる気だろ。駄目だ」
「絶対なんてないって言ったの誰」
「て、ことは、だ。俺は奈々を信頼していればいいんだよな。ここで待っていてくれる、ってさ。信頼するよ?」
 三谷の真剣な目の色に、言葉は詰まった。でも、頷く。すっ、と目を細めた三谷は、大きな白い暖簾を潜り、店に入って行った。
 逃げなきゃ、この隙に、逃げて逃げて、宿まで帰って、父の後ろへ隠れたらいい。素知らぬ顔して温泉に入ってしまってもいい。今すぐ、今すぐ、なのに身体は、動かない。
 日差しはジリジリと照りつけるのに、吹く風は湿気が少なくて涼しい。背中越しに何台も車が通り過ぎていく気配。目の前を仲の良さそうな女性二人組が通り過ぎて行く。年配のグループ客が白い暖簾をくぐって入って行き、程なくして白髪のご婦人が暖簾の先から現れて優雅に日傘を差し、去って行った。
「………お待たせ」
 白い暖簾をくぐって出て来た三谷は優しい笑顔になると、目の前まできてくしゃりと頭を撫でた。
「奈々は、いい子だなー、よしよし、えらいえらい。よく出来た」
「子ども扱い、しないで」
「俺はちゃんと頑張って乗り越えたことは、めっちゃ褒めるけど」
 その手法が子どもを褒めるときのものじゃないか、と言いかけて、止めた。わしわし撫でられて、褒められて、それを心地いいと、そう思ってしまったから。

 また手を繋がれて商店街のお土産屋さんをぶらぶら回り、ホテルのバスに乗せて貰い、宿へ帰って客室の露天風呂を満喫したらしい父に出迎えられて、三人でメロンパンと湯もちを分け合った。
 父はとても上機嫌で、三谷と私の会話を絶えず見逃さないように首を動かし、会話をずっと見守っていた。夕食前に温泉に入ろう、ということになり、三谷は大浴場へ行き、私は幾つかある貸し切り露天風呂の空いている部屋へ『入浴中』の札を立てて入った。
 一人になって、体勢を立て直したかった。なのに優しい笑顔が目の奥に焼き付いて、離れてくれない。もう既に堕ちている、そう思ったら身体中が熱くなる気がした。触れられて、怒られて、褒められて、嬉しい。
 軽く身体を洗って、小さな露天の岩風呂に入りながら、腕の傷を見た。三谷は受け止めてくれた、父は勿論、でも、三谷が望むことを叶えようとすると、難しいような気がした。社長のお父様と口煩いお母様、きっとわたしは受け入れて貰えない。
 三谷のお母様はフラダンスが趣味で、私が企画、添乗したツアーに参加して下さったことがある。旅行申し込み書を事前に見た時から気づいていたが、あえて息子さんと同窓生だとは伝えなかった。
 仲良しの五人組で参加されていて、腕の傷をヒソヒソされていたのには気がついていたけれど、意外に一日目からお客様のトラブルが多くてそれどころではなかった。初海外の人が多かったのもあった。
 二日目の朝、バスの車内で緩いジョークを交えながら、貴重品の管理はしっかりと、体調管理もしっかりとと強めに伝えると、三谷のお母様に傷のことを揶揄された。
 うわー親子そっくり、と思ったことを覚えている。軽く自分の過去に笑顔で触れ、今はこの傷と仲良しなのだと、見苦しいでしょうが、ハワイが暑くて半袖着るの我慢出来ませんでした、エヘ、と素直に告白した。
 そこから仕事はやり易くなって、でも三谷のお母様とはその後、親しい話はしなかった。
 私の姿を見ると眉間に皺が寄っていたので、不愉快なのだろうと思っていた。ツアー後、クレームなどの音沙汰は無くてほっ、とした。
 お母様は私のことを覚えているだろうし、正直キツい。嫁に、なんてなったらきっとお母様は、不愉快極まりないだろう。特に資産家の家は細やかなことを気遣いして、古くからのお付き合いを大事にして、という役割を妻が担う。茉莉の姿を見ていれば、それが良く分かる。仕事して、子育てして、旦那さんの医院を助けて、ご近所付き合い、くるくる一日中動き回っている。
 竹垣から覗く、暮れゆく空を眺めながら溜め息をついて、はた、と気がついた。私、何で結婚する前提で、色々考えているの。
 大体、三谷のご両親がスパイは送り込むものの、静観しているのが今となっては不気味だった。もっと早い段階で息子を引き戻しに来ると思っていたのに、音沙汰はない。
 柔らかな透明のお湯を掌で音を立てるように叩いた。激しい波紋を、考え込みながら幾度も作り出していった。

 夕食は個室のお食事処で、豪華だけれど胃に負担の少ない料理が並んだ。よくあるお刺身や小鍋などは見当たらず、先付からして今迄食べた事のない程濃厚なお豆腐に父は悶絶した。ノンアルコールビールを飲みながら、生きていて良かった、を連発した。
 素材を活かし、一手間じゃなく二手間掛けただろう懐石料理は、するすると胃に収まった。料理長が挨拶に見えて、とても美味しかったと伝えると父を気遣ったメニューだったことが伺い知れた。いつもメニュー変更に応じて貰えるのですか、と尋ねると出来うる限りのことはとにっこりされた。良い板場を持っている宿なのだとそれだけで知れる。
 部屋へ戻ってからは、父が何時もの私が小さかった頃の話を三谷へ話していた。売店で買った燻製卵やお菓子をつまみ、親バカとしか思えないエピソードを語る父に三谷は笑顔で、私は居た堪れない。
 何度も物陰に隠れてわっ、と脅してくるけれど、バレバレで可愛いかった、とか、きゅうりばかり好んで食べて、庭に植えたら喜んでいっぺんに三本も食べて、お腹を冷やしたとか、本当にたわいもない。
 でも、何時も思う。語られる全ての話は、とても父の中で輝いていて優しさを放っていた。
「ここに来れて、良かったなあ」
 消灯した後に、隣のベットから嬉しそうな年老いた声がした。襖の向こうから、三谷が吹き出した気配がする。良かったね、おやすみ、と声を掛けて真っ暗な闇に目を凝らした。
 不思議だ。
 この部屋にいるのは、それぞれ血の繋がりがない、赤の他人。
 なのに、紛れもなく家族だ。
 父は三谷を受け入れ、私のことは娘だと信じ思っている。三谷は父を大切にしてくれて、私へ向き合ってくれて。私は父が大好きで、そして。
 真昼に起きた出来事は、目を閉じるとすぐに浮かび上がってきた。同じ闇なのに。
 もう軽々しく、セックスする、なんて聞けなくなって、しまった。

 真っ暗な中、目覚めた。枕元に置いてあったスマホで時刻を確認すると、何時もの起きる時間より三十分遅かった。それでも早朝だけれど。段々暗闇に目が慣れて、父のベットを見やるとそこはもぬけの殻だった。そっと起き上がり、三谷が眠っているだろう続きの和室をそっと覗いた。
「あれ、いない」
 布団はきちんと折り畳まれて、カーテンは開いていた。何処へいったのか、待ってみたけれど帰ってくる気配は無くて、着替えを手に浴衣のまま部屋を出た。この時間なら、大浴場も空いているだろう。
 エレベーターで階下まで降りて、まだ開いてないショップの傍を通り過ぎ、大浴場へ向かう暖簾をくぐった。爽やかな朝日が差す渡り廊下を歩き、やがて開けた視界の先に、胡麻塩頭と並んで、昨日見つめ続けたつむじを低い衝立の向こう側に見つけた。
 なんだ、朝湯に来てたんだ。ほっとして、ちょっとだけ悪戯心が沸いた。背後から脅かしてやろう、そう思って姿勢を低く、衝立の後ろへ近づいた。
「賭けは、三谷くんの勝ちだ。あの子のあんなに柔らかい顔を見たことはないよ」
「正直、振り向いてもらえるとは思っていませんでした」
 賭け。聞きなれない、そして聞き捨てならない言葉に、身を固くした。
「自信はあったんだろう?君は上等な男だからね。靡かない筈がないだろう」
「あなたの娘さんはとても強敵でした」
 棘のある父の言葉に、三谷は渋った声を返す。賭け、その対象は私なのだとそれだけで知れた。どういうことなのか、格子の衝立から漏れ出てくる声を痛い位に鳴る、心臓の音が邪魔で拾えない。
「何であれ、君は勝者だ。建設許可の立て札をたてられるようになって、良かったね」
「……小泉さん」
「いつ頃までに引っ越しを済ませればいいだろうか。まさかこんなことになるとは思わなかったからね。何も聞いていなかったのが悔やまれる」
 父の声は穏やかだった。建築許可と、引っ越し。ご近所が軒並み空き地になったり、空き家が増えてきているのが、思い浮かんだ。
「……春頃には、出来れば。あとは一軒の御宅なので」
「新垣さんの所はお堀に城があった頃からいるらしいからね。マンションには難色を示しているんだろう」
 ひゅ、と喉の奥が鳴った。どうして、どうして。目の前がぐるぐると回った。ここから離れなきゃ、這うようにして、その場を離れた。来たばかりの廊下を戻り、外へ出ると昨日入った貸し切り露天風呂の一室へ駆け込むように入り、入浴中の札を立てて、鍵を掛けた。
 そういうこと、だったんだ。涙は一筋、流れ落ちた。

 十二分に時間を掛けて、気持ちを整理して部屋へ戻った。誤魔化して隠すことは慣れきっていて、上機嫌な二人へ朝食を食べながら笑い掛けた。
 切りたいな、そんなことを思いながら。

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 蒸し暑い中、家の周りを歩いてみた。一軒置いて空き地、そしてその先は小道を挟んで日当たりのいい街区公園だ。意識してみると少し大きめな通りから街区公園、そしてすぐそばにある小学校の辺りまでが用地買収されているようだった。
 父は何故、私のことを賭けの対象にしたのか。それだけが分からないことで、他は全て納得がいった。
 三谷がした、私へのアプローチは全て嘘だったのだろう。悲しくは無かった。ただ、受け入れなければならないことだ。
 私が三谷を好きになることが、土地を譲渡する条件なのだ。思えば仕事中に、わざわざ父へ呼ばれたから、と言って三谷が来るはずは無かった。あの、初めて来た日、奴は書類を纏めていたじゃないか。
 三谷のご両親が様子を見に来ないのは、用地取得に関して息子を信頼しているから。そうだ、父が去って行くとき、ここを残されない方がいい、そう思っていた。
 優しい眼差しも、私を思いやるぶっきらぼうな言葉すらも、優秀な営業マンで総合不動産会社の跡継ぎは出せるのだ。それを、私が気付けなかっただけで。
 ジーンズのポケットから赤ペンを出して、汗ばむ腕に赤い線を引いた。これが本当の赤なら良かった。
 箱根への旅行の次の日から、三谷はいきなりしばらく用事があるから、と実家へ戻って行った。父は何も変わらないし、引っ越しのことも言いださない。勝者は三谷。敗者は、私だ。
「奈々、さん?どうされました」
 低く美しい声は目の前で鳴り響くように感じられた。ああ、と醜い声は漏れた。
「こんにちは、香田さん。父なら家に居ますよ」
 誰もいない公園の木陰に、隠れるようにして座っていたのに香田さんは私を見つけたようだ。目ざといな。
「辛そうな顔をされて、腕だって」
 そう言うと女優さんは、躊躇わず砂が混じった芝生の上に腰を下ろした。いいんですか、と尋ねると何が、と返ってくる。
「ご婚約、おめでとうございます」
「ありがとうございます。ずっと一緒に居たので何も変わらないんですけど、やっぱり嬉しいです」
「何だか芸能記者になった気分。大倉のどこが好きなの?アルパカでしょ」
「アルパカ!……確かに」
 女優さんは明るく笑った。このひとって、こんなに人懐っこかったっけ。大倉との婚約は、先週世間に向けて発表されたばかりだ。幸せ、だからなのか、私が弱っているのを見て、なのか。
「何があっても一緒に居てくれたひとは、彼だけなんです。私は我が儘なんですけれど、余裕で受け止めてくれる」
「のろけ、ですか」
「事実です」
 力強く言った言葉に顔を見合わせると、声を出して二人で笑った。
「私、結婚出来るなんて思っていなかったんです。結婚する資格なんて、ないってそう思っていました。でも彼が全部それをひっくり返してくれた」
 日向の明るい日差しを日陰から目を細めているその横顔を見つめた。
「のろけ?」
「奈々さんも、そう思ってるでしょ」
 少しだけ厚ぼったい二重の大きな瞳が、私を見ていた。何処かで見たことのある瞳の形に、違和感を覚えた。今日の香田さんは眼鏡をしていない。多分、素っぴんだ。
「どう、して」
「そう思っていた頃の私の表情と、そっくりだからです」
 確実に香田さんは何かを言いたがっている、それだけは分かった。
「大倉とは、何処で知り合ったの」
 話を逸らしたくて、そんなことを聞いた。話題は何でも良かった。本当に、何でも良かったんだ。
「奈々さんの、家の前で、です」
「は?」
「ですから、奈々さんの家の前で立っていたら、そこ、同級生の家なんだけど、どうした、って声を掛けられました」
 照れ臭そうに微笑んだ香田さんをまじまじと眺めた。
「どゆこと」
 動揺で片言になる。女優さんが我が家の前に立っていた、それを大倉から声を掛けた。
「長い長い話になるんですけれど、場所、変えませんか。汗だくになっちゃう」
 そう言いながらも、香田さんは顔に汗ひとつかいていなかった。
 何処で誰が聞いているか分からないから、と二人でタクシーに乗った先は、同じ区内の豪華なマンションだった。
「で、どういうことなの、うちの前に立っていた、って」
「十七の年に修学旅行で東京に来て、その時に母が探偵に調べさせた、父の不倫相手の住所が載った報告書をコピーして、家から持ち出したんです。私はその時、鞄の中からナイフを取り出そうとしていた。そうしたら声を掛けられたんです。のんびりした声で、そこ、同級生のうちなんだけどさ、どうした、って」
 バツの悪い、まるで叱られた子どものような微笑みを浮かべた香田さんは、柔らかい革張りのソファーに座りながら、ピッチャーに入ってる冷えたアイスコーヒーをグラスに注いだ。
「どうぞ、一真が朝、作ってくれたものですから、美味しいです」
 そっと差し出されたアイスコーヒーと、香田さんを見比べた。何事もないように語られた言葉は、衝撃しか生み出さない。ぐるぐると考えて、ただ一つの結論へ行き当たった。
「あなたは、誰」
「私の生まれた時の姓は西園でした。お聞きになったこと、ありますよね」
 それは繰り返しテレビや新聞で母と共に報道された、男の苗字だった。
「あなたは」
「鑑定をすればはっきりとしますけど、必要はないですよね。奈々さんは父に瓜二つです」

 香田さんは淡々といきなりやってきたという『その日』について語った。彼女の父はある日突然、家族へ向けて離婚してこの家を出て行くと告げた。納得がいかない母親とまだ五歳だった香田さんは途方に暮れたそうだ。しかし、その男は何も言わず、家を出て行った。
 離婚の協議は家裁に掛けられ、話し合いが持たれている最中、あの事故は起こった。
「その事故の一報を聞いた時の母の顔は、今でも忘れられません。そこにあるのは、考えるのを止めた抜け殻でした。一気に絶望を感じると人間はこうなるんだ、と思いました」
 そこからの母は強かった、香田さんは寂しげに微笑んだ。アイスコーヒーのグラスから、氷が溶けて涼しげな音が響く。
 親子二人で生きることになった香田さんは、看護師に復職した母親とずっと仲良く暮らしてきたそうだ。どちらも居なくなった父の話はしなかった。ある程度の年齢までは病院内の保育所で母親が夜勤の時は眠り、そこから学校へ通ったという。
「ずっと、何故父は居なくなったのか疑問に感じて生きて来ました。そんなことを言い出すまでは、優しい父親だったように思うのですが、私と母を捨てると言い放った時の父はまるで機械のようでした。年齢が上がるにつれ、疑問は膨れ上がって中学生の時、母が夜勤で居なくなった時を見計らって父の名残をずっと探したんです。そうしたら通し番号の付いた探偵の報告書が出てきたんです」
 香田さんは音も無く立ち上がると、サイドボードから古い大きな封筒を出してきた。中身は古ぼけた調査報告書だった。男と母に関する調査報告書には、確かに通し番号がふってあった。
「この調査報告書は本物で更に三冊作られた内の、二冊目になるようです。これは父の死後、母の元へ郵送されて来たものだと、私は最近になって知りました」
「えっ」
「残りの二冊が何処にあるのかは、私には分かりません。ただ、この報告書を見つけて読んだ中学生の私は、父が何をしたのかを知りました。そしてこちらが母が独自に調査した、報告書です」
 古ぼけた封筒の中からは、先ほどよりも厚い調査報告書が出てきた。
「ここにはより詳しく小泉さん親子についての調査が成されています。私はここからご住所を知り、訪ねて行ったんです。そこで一真と出会いました」
 確かに大倉の家は近所だ。我が家からそう遠くないマンションに住んでいる。
「大倉は、知っているの?このこと」
「はい。話してあります」
「あのスーパーで会った時には」
「ええ、声を掛けること躊躇っていたんですが、一真がいい機会だから、って」
 あの草食系アルパカは随分と香田さんのことを大切にしているようだ。そんな長い間、何度も顔を合わせる機会はあったというのに、大倉は私へ何も言わなかった。匂わせることすらしなかった。
「何が、目的?」
 頭の中は冴え渡っていて、冷静な言葉がついて出た。女優の地位を確立してきた彼女が、週刊誌へリークされてしまえば大きなスキャンダルになるのを押してでも、私へ伝えた意味を図りかねていた。香田さんは少しだけ寂しげになると、私をじっと見据えて言った。
「調査書の出処と、父の死の真相が知りたいんです」
「……読んでもいいでしょうか」
 どうぞ、と促されて通し番号のついた報告書から読み始めた。それは母と男の出会いから過ち、そして男がどのように結婚して香田さんが産まれたか、どのような暮らし振りなのかが書かれていた。そこには何処にでもある、平凡な、親子三人の姿があった。
 続けて香田さんのお母さんが独自に調査したという報告書に目を通す。私の父と母の出会い、私が産まれた頃、親子三人の暮らしぶり、そして、事故後私が学校で虐めに遭っていることまででその調査は終わっていた。どちらにも私の母と男の事故原因は載っていない。
「お見合い、って言ってたけれど、祖父主導の縁談だったのは、初耳」
 パラパラと黄ばんだ用紙を捲りながら、独り言のように呟いた。父と母は母方の祖父が引き合わせた、という事実は、今迄聞いたことは無かった。祖父は厳格なひとで、口数は少なく余り私は馴染むことは無く、七年程前に亡くなった。父とはよく酒を飲み交わしていたのだが。しかし、いつでも私は蚊帳の外だった。祖父は私に余り目を向けず、父とばかり話していた。目を細めながら。
「それを読んで、奈々さんの存在を知ったのです。一人っ子だと思っていたら、その時はお姉さんがいたなんてとにかくショックでした。今は、そうじゃないですけど」
 照れたように笑った香田さんへ、笑い返すことは出来なかった。顔も雰囲気も身体つきも全てが女優そのものの彼女が、妹だと言われてもドッキリか何かとしか思えない。
「妹」
「はい、私です」
「似てないよね」
「私はどちらにも似ていなくて、どちらにも似ているとよく言われました。顔だけはいいとこ取りしたようですね」
「どうしてナイフ持ってきたの、うちに」
「うーん、良くわかりません。ただ子ども扱いされて真実を話してくれない時に、あなた方を脅してでも真実が知りたいとは思っていました。今思えば犯罪行為だと分かるんですが、その時は思い詰めていたから」
 吐きたくない、でも溜息は長々と出て行った。頭が痛い。
「どうしてこう、次から次へと色々起こるんだろ。三十二歳って本厄だっけ」
「数え年だと前厄です」
「よく知ってるねー」
「仕事相手は弦担ぐ方が多いので、覚えてるんです」
「あ、そ」
 頭痛は更に増した気がする。不毛な会話でも拾ってくれるなんて、女優さんは凄いな。
「私、母親の事故原因は詳しくは分からないんだよね。その時期、長いこと警察に事情を聞かれたけれど、結局結論は事故としか聞かされてないし。事故じゃあ納得出来ない何かがあるの?」
「おかしいとは思いませんか。お互い離婚をして新しい生活を始めようとしている身勝手な二人が、都合良く事故で亡くなるなんて、出来過ぎだとは」
「でも、事故だった、それで終わった、それで納得出来ない。それは何故」
 初めて彼女は黙った。私が知ることに積極的ではないと気付いたようだった。母に沢山の裏切りをされたと思っていることを、彼女へ感じさせたくなかった。
「知りたいんです。どうして事故は起きたのか。何があったのか」
「警察の事故調書を調べてみたら、どう」
「弁護士を通じてそれは調べて貰ってあります」
「じゃあ、それが事実なんでしょう。何が言いたいのか分からない。私は事故しか知らない。知りたいと思わない。知ったって何になる?あなたのお父さんは帰ってこないんだよ」
「では、質問を変えます。この通し番号が入った調査書を、お宅で見掛けたことはありませんか」
 その質問は、香田さんが父を疑っていることに他ならないことを、長い沈黙の後に気付いた。頭がクラクラする。考え過ぎて、糖分が足りないような。テーブルに出されていたガムシロップを続けて三つ、アイスコーヒーに入れて一気に飲み干した。
「見たことはないよ。父が権利書やそのほかの大切な書面を仕舞ってある場所は知っている、でも見たことない」
「覗き見も」
「ない」
「興味がないからですか」
「知ってるんでしょ。父とは親子だけど親子じゃない。私が覗き見ていい場所じゃない」
 目の前に座っている美貌のひとは、初めて眉根を寄せた。この会話が終わったら、確実に何日か寝込むような予感がした。
「お父様には、先日同じ質問をしましたが結局最後まで沈黙を貫かれました。奈々さんも知らない、となるともう一度お父様に当たって」
「それはやめて!」
 思わず大きな声が出た。あの日、父は夜、ぐったりとなって夜半にはうなされていた。父の心の負担になって、この先寝込む原因になったら、私は絶対に後悔する。
「何故今なの。どうしてそんなに知りたいの。何のため、そこが納得できない。香田さんの要求は私にとって煩わしいよ。父さんと二人きりで静かに暮らしたいのに、どうして邪魔するの」
 初めて強く彼女の目を見た。そこで出逢ったのは、深い悲しみを抱えた一人の女性だった。合わせ鏡のように、その瞳の中に自分の姿を見つけた。
「私の母は、未だに父を好きなんです。私にとっては最低で最悪な人間でも、母にとってはずっと恋する、素敵な人で、すぐに後悔を口にする。あの時、ああしていれば、こうしていれば、って。私はそれが堪らなく嫌だった。憎んでくれたらいいのに、ってずっと思ってた。私は自分の気持ちの落とし処が、分からなくて、だから全てを知りたいの」
 大粒の涙はバタバタと音を立てて、机の上へ落ちた。演じることに慣れていると、分かっていてもその涙は本物に感じられた。溢れ出続ける、流れ落ちる、それを香田さんは隠さない。
「警察の調書には、何て書いてあったの」
「事故は、直前に車内で揉みあいになったのが、原因、だと。あなたの、お母さんの爪から、私の父の皮膚片が出てきて、身体の傷とかから、判断すると、揉み合った形跡が、あるそうです」
「揉み合い、そう」
「車内からは、他にも沢山の破られた紙片が見つかったそうです。繋ぎ合せてみると、通し番号が振ってあるこの調査報告書と、同様のものでした」
 通し番号の振られた報告書へ香田さんはそっと触れた。低く美しい声は潤んで掠れて、それを消し去ろうとするかのように白い指先は涙を掬った。
「その調査報告書の出処は、書かれていなかったの」
「……ええ、不明の、ままでした」
「香田さんは十中八九、私の父だと思っている」
「おそらくは」
「知ってどうするの。父を詰る?訴える?命を狙われたり、傷つけられるのは勘弁なんだけど」
 冷たい声しか内側から出ていかない。血縁だと、妹だというひとに対して、余りにも冷たすぎる対応をしているのはわかっている。
「……受け止めるだけ、です。事実として」
「知らなければ、前に進めないの」
「はい」
 真っ赤な眼は曲げない意思を力強く現していた。
「それなら、父が亡くなった時に、教えてあげる。私は父を守りたい。だから」
「奈々さん」
「傷つけるのなら、私だけにして。お願いします」

 就職して仕事が少しだけ分かりかけて来た頃、母方の祖父は亡くなり、父は祖父から古びた洋風の家を相続した。手続きなどが落ち着いた辺りで、父は私に母の死について知りたいか、と尋ねて来た。一言だけ知ってるよ、だからいいのと返すと、そうかと苦しそうに父は笑った。
 新しい彼氏が欲しくて、私が邪魔なら出て行くし、と穏やかに告げると、もう、そういう相手はこの世には居ないから、と辛そうに返された。
 祖父から始まった狂った関係は、誰もの心に傷を付け、被害者と加害者どちらも背負った。誰もが悪で誰もが自分自身を守ろうとした連鎖を、私は自分で終わらせたい。そう思った。
 きっと母は相手の男に妻子がいることを知らなかった。狂った関係から抜け出して幸せになろうとして、あの報告書を読んだ。警察の鑑識は破り捨てたのは男だと断定した。そして。
 どのような気持ちで手渡したのか、それは父がいつまでも、死ぬまで抱えていくものになった。三冊作られたうちの一冊目は風のないその日、庭の一斗缶の中で父と二人で燃やした。

 マンションのエントランスを出ると香田さんはもう私達の前には現れない、そういった。真っ赤な泣き腫らした目で。
「あの庭、気に入ってくれたのは本当、それとも嘘?」
「本当です」
「なら、また見に来て。多分もうすぐ無くなってしまうから」
「どうして」
「また来た時に教えてあげる」
 泣き腫らした顔を晒して頷いた彼女を、強いひとだと思った。こんな強さを私は持ち合わせていない。大倉はきっとこの可愛いひとを受け止めてくれるだろう。それが良かった。
 夕焼けが滲む世界で彼女が頭を下げて、私はその場を離れた。振り返っても振り返っても香田さんはそこに佇んでいた。駅へ向かう曲がり角を折れるとスーツ姿の大倉が、そこにいた。
「なにやってんの、こんなとこで隠れて。早く帰ってあげなよ」
「……麻夕、なんか言った?」
「もう、うちに来ないって言ったから、またおいでって声掛けた」
「小泉、メンタル強すぎ」
「強かったらこんな傷だらけにならんわ」
 自虐ネタを繰り出すと、大倉は遣る瀬なさそうな顔をした。
「姉妹にはなれないけど、友達になら、なれるかもね」
「………そんなもん?」
「そんなもんだよ」
 じゃあ、と大倉に手を振って別れた。すぐに振り返ると、その角に大倉の姿はなかった。

✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎

 急いで夕食の準備をしている時に、三谷からメールが来た。『今日は帰ります。夕飯食べる』帰ります、その言葉の意味を考えようとして、止めた。
 色々なことが折り重なって頭の中はぐちゃぐちゃだった。その全てに振り回されているような気になった。濃い出来事が次々に起こり、対処するのに精一杯。だけど、重なり過ぎて逆に頭は冴えてきた。
「ただいま、留守にしてて、ごめん」
 気がついたら、後ろから三谷の声がした。振り返って、照れ臭そうに笑ったその顔へ少しだけ微笑んだ。
「ご飯、出来てるよ」
「……怒ってんのか」
「何を?」
「何を、って、様子変だからさ」
「うん、ちょっと今日は出掛けていて疲れただけ」
 そうだ、疲れただけだ。戸棚から三人分の茶碗とお椀を出した。三谷が今使っているのは亡き祖父のもの。お皿を出したところで、眉間にしわを寄せたままの三谷と目が合った。
「着替えてきたら」
「ああ、三谷くんお帰り。上手くいったかい」
 庭から戻ってきた父の声が聞こえる。上手く、それはきっと土地のことなんだろう。疲れたな。とっても疲れた。庭の手入れをする時に使うハサミや鎌を研ぐ要領で、父がいつも切れ味よく仕上げてくれる包丁に目が吸い寄せられた。あれで切ったら、この疲れも終わるかな。
「奈々、駄目だよ」
「あ、ああ、ご飯、食べよ」
 鋭い父の声に我に返った。頭を何度か振って、おかしな方向に行きかけた思考を引き戻した。危なっかしいと我ながら思う。
「三谷、着替えてきたら」
「今日、何?」
「鯵の南蛮漬けと、なんか色々」
「着替えてくる」
 盛り付けをしている間に三谷の気配は消えた。それだけで長いため息が漏れ出ていった。
「奈々、料理の腕上げたねえ。美味しいよ」
「ありがと」
 言い出しにくいことを抱えている時の父は、必ずその前に褒める。どうでもいいことを。そわそわして、落ち着かない。逆に三谷は澄まして黙々とご飯を食べていた。
「この家、三谷に売るんでしょ」
 ばたっ、と音を立てて南蛮漬けは皿へ落ちた。強い二方向からの視線に目を伏せる。
「知ってたのか」
 父の言葉で確定になった。三谷が席を立って、何処かへ消えた。
「温泉に泊まった時、朝起きたら二人とも居なくて、朝湯でもと思って行ったら、そんな話してるの聞いた」
「奈々、これには訳が」
「何処に引っ越すの?私達」
「私達」
「父さんと、私」
 父は動揺を隠さなかった。それは父の望んだことを叶えないという宣言だった。もう私のこころに三谷はいない。結局はここに、父へ戻っていく、何時だって。
 三谷が戻って来て荒々しく椅子に座ると、済ませた食器を脇に置き、分厚いファイルを開いた。
「賭けを、したんだ。親父さんと」
「うん、すっかり騙された。良く良く考えたら三谷が私を好きな筈、ないもんね」
 薄く笑ったら、三谷は固まった。ファイルの中身はここいら一帯のマンション建設計画だった。仮名称がついているけど、ほぼ本決まりなんだろう。
「奈々、三谷くんは」
「仕事出来るよね、凄いよ三谷は。で、何処に引っ越すの。都内?もしかして暖かい沖縄とか」
「………小泉、俺は」
「嘘つき」
 私も、嘘つき。
 そうして席を立った。何事もないふりをして、台所で茶碗を洗った。いつかのように父と三谷がヒソヒソと話す声が聞こえる。やがてまた全ての皿を下げてきたのは三谷だった。
「話したいことがあるんだ、聞いてくれないか」
「言い訳とかなら、要らない」
「言い訳、いや、そう聞こえるかもしんねーけど、そうじゃない」
「もういいよ、分かってる。分かってるから大丈夫。全て納得出来た」
「いや、絶対誤解してる。頼むから話を聞いてくれ」
「聞いたら、この家は残るの?残らないんでしょ。それなら聞かない」
「元々、親父さんはこの家を売る予定だった。遠くに小泉を連れて行こうとしてた、でも俺が引き止めた。ここに居て欲しいって頼んだんだ」
「嘘は止めて!」
 スポンジをシンクに投げつけた。急いで蛇口を開けて、手を洗って、台所を出ようとしたら、阻まれ囚われた。
「嘘って、決めつけないでくれ。頼む」
 酷い、三谷は酷い奴だと思った。でも私もひとのことはいえない。決壊した涙腺から、大粒の雨が三谷のポロシャツを濡らしていく。良かった、泣いてくれて。そんな呟きが髪筋を伝って耳元に入ってきた。


 寝る用意を全て整えて自室へ戻ると、控え目に扉はノックされた。ひとしきり三谷へ抱き締められて泣いた後、奴は茶碗洗いを手伝ってくれた。その間に父は遠慮がちに台所へ顔を出し、三谷くんに詳細は聞いてくれ、と落ち着かない様子で告げると、寝室へ引っ込んで行った。
「どうぞ」
 扉を開けて、大きなマグカップとファイル、そして座布団を持った三谷を部屋の中へ促した。
「いいのか」
 戸惑った目線に頷いた。古いベットに先に腰掛けて三谷を見ると、まだ入り口で何か思い巡らせているようだった。
「説明、してくれるんでしょ」
「……おっ邪魔、しまーす」
 ギクシャクした動きで三谷は部屋入って来た。隣、どうぞと促すと、狼狽えたような奴は浅くベットに腰掛けた。
「これ、飲め」
「……ありがと」
 渡されたのはじんわりと暖かいホットミルクだった。乳白色の中身は薄く膜が表面に張られていて、甘ったるい匂いがする。
「親父さんが、作り方教えてくれた。奈々が心落ち着く、大好きな飲み物だから、ってさ」
「心は落ち着くけれど、別に大好きでもないんだよ」
「……マジで?」
「父さん、誤解してるの、ずっと。でも、それでいいんだ」
 口元は緩んで、マグカップに口づけた。蜂蜜と牛乳の組み合わせは、舌の上から中々消えないで何時までも残っている。絡みつくように、余韻を残す。
「これ、ここいらにうちの会社が建築するマンションの、エントランス案」
「エントランス?」
 三谷が差し出して来たのは、数枚のカラフルな紙だった。壁一面の大きな窓から木立と、その奥に何処かで見たことのある庭の草花のラフ画が描かれていた。手前の植木にその草花はとても馴染んで見える。次の紙にはマンションの共用スペースの見取り図があり、エントランスの隣に『小泉邸専用庭』と書かれたスペースがあった。
「手前のこの辺りはうちの造園業者が管理して、ここからは親父さんの専用庭だ。借景をさせて貰おうと思って、こういうエントランスにさせてもらった。親父さんが元気なうちはこのスペースで、ここのベランダから外に出て、庭作りしてもらいたいと思ってる。で、それが難しくなったら、造園業者が引き継ぐ。まあ、俺が可能なら親父さんに仕込んで貰って、庭づくりしたいけどさ」
 余りの話に空いた口は塞がらず、三谷の言葉を一つずつ飲み込むように理解しようとして、フリーズした。三谷はお構いなしに話を続ける。
「エントランスからは出入り出来ないけれど、庭に出入り口は作って、ご近所と会話出来るようにはするつもりだ。親父さん、ご近所さんに庭を見せて褒められるのが、嬉しいって言ってたからさ」
「えっと、ごめん、ちょっと意味が分からない。最初の出来事から説明プリーズ」
 そう言うと三谷は、ふ、と笑って始まりから語り始めた。
 ここいらにマンション計画が持ち上がって、三谷は自ら志願して担当になった。父はご近所も居なくなり、自分も病を得たこと、私が仕事に打ち込み過ぎて痩せ細り、このままでは倒れてしまうと心配していた矢先に土地の売却を持ち掛けられて、田舎へ私を連れて引っ越すことを決め掛けた、という。
 そこに待ったをかけたのは三谷で、どうにか私達がここに残ることは出来ないか、と食い下がった。緑化を進めているエントランスに庭を作ってはどうか、と父へ提案しても色よい返事は貰えなかったそうだ。
「それで、奈々の気持ちを少しでもこっちに向けさせたくて、あの求人を送ったんだ。正直、焦ってた。小泉は親父さんに付いて行くだろう、そうなったら今まで少ない機会でも何とか会えていたのに、年に一回も危うくなるって思った。俺、避けられてるの分かってたから、きっともう会えないんだろうって、気持ち、届いて欲しいと願ってたら、親父さんから呼び出されたんだ」
 それが、あの、三谷が一人で我が家を訪ねて来た日だった。その日、父は私が毎日スーパーへ行く時間帯を狙って、三谷を呼び出し求人のメールを見たことと私への想いを確認すると、賭けを持ち掛けた。

 三谷は婿候補としてこの家に住み、私が三谷を受け入れたらここに残る。期限は半年以内。もし出来なければ、土地は売却し田舎へ引っ越す。

「なんて………馬鹿げているんだろ」
「俺は賭けに乗ったんだ。奈々を手に入れたくて」
「公私混同も良いところじゃない」
「う、まあ、そうだ、けどさ。まあ、めっちゃ上司にもかーちゃんにも怒られたけどさ、モニタリング調査じゃ、評判良いんだぜ。アーティスティックなエントランスよりも、日々生活する場として落ち着く、家に帰って来たっていう安心感があるって結果が出てた」
「お母様と上司に怒られてる時点で、気づきなよ」
「ちゃんといい仕事に繋げてっからいいんだって。かーちゃんは奈々を振り回して騙し討ちみたいな事して、って怒ってたけどさ、お陰で奈々に同情してっから、まあ、いいんだ」
 気が遠くなりそうだった。あの気難しそうなお母様が私の事を同情しているって、ある意味奇跡だ。凄いよ三谷さん。
「土地が欲しくて、ここに暮らしているのだとばかり」
「違うわ!そんな事したら俺も会社も唯の鬼畜じゃねーか。そういう評判ってこのご時世、全世界に発信されちまうだろが。これからマンションに暮らす人達がここいらの古くからいる御宅に恨み買うような真似、出来るかよ。それでなくたって、用地の取得にはすげぇ気使うのにさ」
 ため息まじりに今までもやもやしていたことを聞くと、遮られてとてもひととして当たり前のことを返された。そこの所はどうやらまとも、というかちゃんと気遣っているんだ。
 三谷の今迄の仕事に対する姿勢は、あの廊下での飲み会で知っていた筈なのに。
「ごめんなさい、誤解しました」
「………いや、どの人にもそれ、誤解されるぞ、って言われてたから、想定の範囲内だし。奈々が俺に振り向いてくれたら言おうと思ってた。一応、一所懸命口説いてたんだけど、どうよ」
「どうよ、って、言われても」
「婿に、どうよ」
「……お付き合いとかすっ飛ばしたけれど」
「俺も奈々も、もう三十越えだぜ。お互いの良い所も悪い所も知ってるだろー」
「どうしてそんなに必死なのかが、分からない」
「ここ何ヶ月か暮らして来たのと、そんなに変わらないって。一緒に飯食って、テレビ見て、愚痴聞いて貰って、めっちゃ優しくして貰った。親父さんにも、奈々にも。穏やかでのんびりしてて、俺はそういうのがいい」
 こんなに静かな目をするひとだったんだ、そして三谷は気づいていたのだと、悟った。それでも家族になりたいと願ってくれている。残ったホットミルクを一気に飲み干して、サイドテーブルにマグカップを置いた。壊して、しまいたくなる。
「三谷、セックスする?」
 一瞬傷ついた顔をして、三谷は目を伏せた。謎かけのような言葉を吐いて、三谷がどうするかを待った。私は卑怯者になった。自分の深い穴を埋めようともせず、三谷に判断を委ねた。
「じゃあ、俺も愛して。親父さんと同じ位に」
 全てを飲み込んだ、圧倒的な微笑を三谷は私へ向けた。私は初めて、三谷旭を、見つめた。
「そして、俺の子、産んで、育てて、笑って暮らして、人生の最後に俺を愛していると思ってくれるなら」
 見事に自分の一番の豪速球を打ち返されて、場外ホームランを浴びたピッチャーはこんな気持ちになるんじゃないかとつい、思ってしまった。ああ、負けちゃった、この人には敵わない、って。
 三谷はふ、と笑って両腕を広げた。私も笑った。肩に腕を回して自ら抱きついて、どくどくと早いスピードで脈打つ硬い身体を感じた。
「キザだし、クサイし、ねちっこい」
「うるせーな。色気ねぇし、馬鹿だし、奈々だって相当だぜ。で、返事しろよ。待ってんだけど」
 ぎゅう、と目を閉じて抱き付く力を強めた。健康的なさらさらの髪に触れて、思いっ切り匂いを吸い込んだ。
「夫婦って、でこぼこしているお互いがぴったりと合わされて、綺麗なまるになるって、茉莉が言ってた」
「へー、あいつ良いこと言うな」
「私達、いびつだよね」
「いいじゃねぇか。いびつでも」
「いつか、綺麗なまるになりたい」
 部屋の灯りは、いきなり三谷が紐を素早く引いて落とされた。うなじをかき分けるように暴かれていきなり甘噛みされ、暗がりに目が慣れていないのに、チカチカと星が瞬いた。
「いたっ、痛い!何、凶暴過ぎる」
「………嬉し過ぎて、ごめん。もうしねぇ」
「いや、考え直す、ってコラ!押し倒すなっ、舐めるなあっ」
 心臓はあり得ない速さで鳴り続けて、ぎゅうぎゅうに抱き込まれて、感度を高めるような舌の動きを首筋に感じた。
「俺だけが、触れられる」
 ぞくりとするような歓喜の声が、甘く身体を痺れさせて吐息が漏れた。
 三谷は全ての衣服をゆっくりと脱がせていった。身動き一つしようとすると素早く制するように、素肌を外気に晒していく。
 何もかもが取り払われ、大きく腕をベットに広げた胸の呼吸は、深い。せっかちに服を脱ぎ去る三谷を、目の端に捉えて更に呼吸を深くした。
 綺麗だよ、と囁かれて目を閉じた。それは偽りなのに、三谷が本気で思っているように声音を落とした事が、堪えきれなかった。ゆっくりと柔らかな唇が乾いた肌の上を、無数に付けた線の上を、吐息と共に這い回る。腕のミミズ腫れになっている皮膚を、丹念に、まるでそうすることで傷が癒えて、消え去ってしまうだろうと信じているかのように、硬い舌先で舐められた。強弱をつけて、何度も。
 徐々に湿り気を帯びた肌は、冷やされていく。やわらかく。
「三谷、やめ」
 制止の言葉は舌を絡め合わせた口付けに、塞がれた。覆い被さるように、肌と肌が隙間無く合うように強く抱きしめられて、その身体の熱さと、三谷が欲情していることに軽い驚きと羞恥を覚えた。それは、自分の付けた傷を卑下してはいないとそう言い聞かせていたのに、こころの何処かではこんなに欲される事などないと、思っていたから。
「消えない、から」
 再び切りつけた腕の無数の傷を熱心に舐めとる三谷へ、小さい声を上げた。なのにより一層丁寧な熱心さを発揮され、疼くように居た堪れない心地がしてきて、身をよじると耳元で嬉しそうな低い声が吹き込んできた。
「消えるよ」
 そんな優しい嘘を落とされて、先に身体が震えた。簡単な一言で、三谷は私を捉えた。

 泣きながらこわい、を繰り返したことと、押し潰されるように抱きしめられたこと、そして。
 命の灯火を小さくしている者の上で、命の種火を灯す行為をしている不思議さと。

 全てが終わって、涙を唇で掬われて、満足そうに幸せそうに腕の中に入れられて、眠った。夢も見ないほど。


「おはよー」
「おはよう、三谷、ご飯盛って」
「あー、お義父さん、おはようございます、ご飯どの位食べますか」
「おはよう、普通でいいよ、普通で」
「三谷、邪魔。しゃもじはそこだって」
「わっかんないだろ、こんなところに入れんなよ。ちゃんとしゃもじ立てに入れとけ」
「うるさいなぁ、一言多いんだよ三谷は」
「お前も三谷だろ。旭様かご主人様と呼べ」
「父さん、三谷が嫌なこと強要する」
「呼んであげなさい。それで夫婦円満になるのなら、いいじゃないか」
「お義父さん、すみませんでした。ちょっと調子に乗りました」
 最近少しだけふっくらとした父は、嬉しそうに笑った。三人で食卓に付くと、頂きます、と手をあわせる。
「味噌汁、美味い」
「本当?やっぱ煮干し前の日から漬けると出汁でるんだ。やった褒められた」
「どこ情報よ」
「昨日お義母様に『貴方、こんなこともご存知ないの、覚えなさいな!』ってスパルタ指導された」
「かーちゃんまた来たのかよ。追い帰せ、そして昨日教えろよ、そういうことは」
「別に、いいよ。ちゃんと食べているの、って何度も聞かれたから心配してくれているんだって。出汁の事も知らないでーすってヘラヘラしてたら、見て覚えなさいな!って」
「あのババア、出しゃばりやがって」
「お義母様も言ってた。あの馬鹿息子、全然遊びに来ないって。もっと二人でいらっしゃい、って」
 わたしはどうやら三谷と暮らしているうちに、鋭い口調よりも言葉の中身を精査して読み取ることに慣れていたらしい。狭いベットで毎日抱き合って眠る内に、すぐにコウノトリは小さな命を授けて行った。分かっていたけれど、嬉しさと戸惑いを感じていたら、三谷と父は諸手を上げて大喜びした。それですっかりと気持ちは落ち着いた。順番はあべこべだけれど、最初からそうだったからまあ、いいやと思えた。
 三谷のお母様の口撃は最初激しいものだったけれど、ある時不甲斐ない人間でごめんなさい、と頭を下げたら、卑屈な気持ちはお腹の子どもに移るからおやめなさい、と本気で怒られた。三谷は事ある毎に私の話を家族にしていたらしい。温泉から帰ってきて実家に戻ったのは、結婚したいと最後の説得をしに行くのと同時に荷造りと、そしてお祖母様から受け継いだ大粒の宝石の指輪を、取りに行く事だったと後々知れた。
 嫁姑問題は根が深いとよく言うけれど、わたしはどうやら最初から何も出来ない子だと思われていたようで、素直に教えを請うたらそれなりに上手くいくようにはなってきた、と思う。あなたね、仕事は出来るのに家事はからきし駄目ね、学びなさい、と何時も来る度に言われている。母代わりをしてくれているんだと、感謝しつつも一緒に住む勇気はない。けれど、この位の距離が今は丁度いい、そうは思える。
 名字は三谷に変わって、安定期に身内だけで小さな結婚式を神社で挙げて、わたしは何処へも行けなくなった。なのに、じんわりと幸せなんだ。
「父さん、お茶にしよう」
「あ、ああ。そうだなあ」
 庭いじりをしていた父へ、居間から呼びかけてそのままサンダルを履いて下へ降りた。エプロンのポケットには、さっき届いたばかりの大倉と香田さんの結婚披露宴への招待状が入っている。二人は先週、まだ産まれてもいないのに可愛いベビー服を沢山持って来てくれた。我が家が仮住居に引っ越しすることを会話の流れで知って、二人とも慌てていたけれど父と三谷とで、喜んで次々と包みを開けた。
「お腹、気をつけてな」
 軍手を脱いでお盆を受け取ると、父はキャンプ用の三人掛けにわたしを促した。よいこらしょ、と座ると昨日三谷が買って来てくれた、うさぎやのどら焼きを父へ勧めた。
「旭くんは小遣い足りないんじゃないのかい。こんなに毎日何かしら買って来て」
「父さん、三谷を止めて。わたしじゃ止まらないんだもん」
「まあ、男は狩人だからねぇ。奈々が喜ぶ顔が毎日見たいんだよ」
「止めてくれないのっ。お土産は野菜とか調味料がいいなあ。今、高いんだもん」
 ははは、と父は笑った。それはそれは心の底から嬉しそうに。
「ねえ、聞いてもいい?父さん、本当はガン、転移してないんでしょう」
「どうしてそう思うんだい」
「だって、少し太ったし、寝込む様子もないし、何だか元気になった」
「何時から気が付いていたんだい」
「何だかずっと違和感があったんだけど、三谷がマンションのエントランスに父さんの庭を作りたい、って言った時に気づいた」
「そうか、バレてたか」
「どうしてそんな嘘、ついたの」
 そう聞くと父は柔らかい表情で黙った。爽やかな風が、狭いのに立体的な緑溢れる庭を揺らす。日の光に輝いて、鮮やかな色彩を見せてくれる草花を、束の間、眺めて待った。
「奈々が仕事で命を削るようになって行ったのを見ていて、このままじゃいつか壊れるだろうと思っていたんだ。何かから逃げるように仕事、仕事だったし、幽霊のように表情が虚ろになっていて、なのに言うことは『大丈夫、大丈夫』だけだったから、止めてあげたくてね。父さん、奈々が幸せになってはいけないと思い込んでいたことは、薄々気づいていた。でも、奈々に幸せになって欲しかったんだ」
「……で、まんまと成功した、って訳」
「成功したのは、旭くんのお陰だなあ。愛情深い彼が奈々を抱き締めてくれて良かった。もう、父さんは奈々を小さな頃のように、抱き締めてはやれないから」
「愛情深い、かな」
「分かるだろう」
 穏やかに笑う父の横顔を見つめた。抱き締めてはやれないと言われたけれど、ずっと抱き締めて貰っていた。父を抱き締めてくれるひとは、誰もいない。私へ大切なものを、与えるだけの人生だった。
「大きくなったなあ、産まれてくるのが楽しみだな」
 優しい目線は膨らんだ下腹部に向けられた。いつもそうして嬉しそうにしている。その笑顔がわたしは大好きで、三谷がうちに来てからはより一層増えた。そっと目線を上げた父は、わたしを見てにっこりした。
 ああ、そうか、そうなんだ。
 父を抱き締めてくれるひとは、これからこの世に、やって来る。

 奈々を初めて抱っこした時に、思ったんだ。理屈じゃない、命の美しさを感じたんだよ。この子を幸せにしたいと、この子を幸せにすると誓った。

 父が細やかに手を入れた狭い庭の草花は、生き生きとしている。濃密な緑の香りは、ひだまりの中で揺れてただ、そこにあった。

番外・リコピンからカロテンまで

・悪阻の頃の話。奈々がホルモンのバランスにより大変口が悪いです。食事中の方はご注意を。



 幸せ、そうだ幸せな筈なのにどうしてこうなった。

「奈々、調子はどうだい」
「今、話し掛けないで………ゔっ」
 駄目だ、やっぱりこの御飯を炊飯する匂いに耐えられなくて、慌ててトイレへ駆け込む。食事中の方、すみませんな状態を一日中続けて、便器と仲良しになった私を見て、父は心配そうに後ろで狼狽えている。
「空腹は良くないんだろう、何か食べられそうな物はないのかい?」
「……とっ」
「トマト以外でだよ。トマトしか口にしていないだろう」
「………だって、トマトしか、食べたく、ない」
 しかも湯剥きした酸味も甘みも少ない品種じゃなければ駄目なのだ。三谷は毎朝せっせと湯剥きして一口大にカットしたトマトをタッパーにこれでもか、と作って置いていくのだが、一日でそれがペロリと無くなる。旭ジュニアは今の所、トマト以外はノーサンキューなのだ。
 ここ二週間はそんな調子で、ほぼトマトのみの食生活を続けた私は急激に痩せた。先週の検診で今週も続くようで体重が減り続けるようならば、入院も考えましょうとお医者さまから告げられた。私の元の体重が軽過ぎるせいもあるらしい。
 三谷、三谷め、強引過ぎる、奴は!

 セックスの時に連続して絶頂を迎え続けると、女子は動けない、喋れない、意識を保てないの三拍子になるのだとクソッタレからあの時、嫌というほど教わった。
 避妊して、とコンドームの置き場所を切れ切れに訴えたのに、嬉しそうに俺の子ども産んで、と囁いて続行しやがったクソッタレは、まんまと命中させて今、私は絶賛悪阻中。
 理不尽だ、理不尽過ぎて泣けてくる。何故奴は元気で、私はこんな目にあっているのだ。三谷と一緒に生きて行きたいと言った瞬間に戻りたい。そしてちゃんとお付き合いをして、結婚して、それから子どもの順番がいいと訴えたい。今思い出してもあの甘噛み一撃でいっぱいいっぱいになった私に、果たして訴えられたかは微妙だけれど。
 子どもは大好きだし、奴となら育てていけるとは思ったものだから、知ったときには超ハイになって三谷へ柄にもなくモジモジしてしまい、奴がソワソワするというよく分からない状況になった。
 諸悪の根源である奴は幸せそうな笑顔で、ピンク色で可愛い柄が入った婚姻届を妊娠発覚翌日に記入するように持って帰って来て、超ハイが続いていた私はそのピンク色に何かをやられてしまい、奴の口車に乗ってほいほいと記入し、その次の日の大安には区役所へ提出してしまった。
 そしてそのまま三谷家へ私を連れてまっしぐらした奴は、結婚した報告に続きしれっと強制的に妊娠させたとご両親の前で言い放った。
 くうぉんのおおお、ばっかむすこおおおっ、と怒鳴ったお義母様に、涼しい顔してそういう訳で、小泉奈々さんです、と紹介を続行したあいつはまさに傍若無人だった。
 腹を抱えてひとしきり笑ったお義父様が明かしてくれた話によると、ご家族の皆さんは私の存在を四年ほど前からご存知だったらしい。食卓の話題になっていたと知り旭は君のことべた惚れでねぇ、君の外堀埋めるのに必死だった、と言われ、穴があったら入りたい位の羞恥を覚えた。だが、三谷に外堀も内堀も埋められた私には、穴を掘ることが出来ないのだ。油断禁物、火気厳禁。己の判断ミスが身に染みる。
 あなたもね、この馬鹿息子の言いなりになっていては駄目じゃないの!と叱られ、こんな傍若無人の手綱など握れる訳なし、と心の中で思いつつ頑張りますと返事をした。しかし、今現在手綱など握れてはいない。悪阻が直後からズンドコ節のように押し寄せて来たからだ。きよしの方ではない。

 それでも何とかトマトを口にして、洗濯物を父と干した所で玄関のチャイムが鳴った。来た。週に二日のアレが。
「あらあ、まだ風邪治らないんですかぁ、長いですね」
「はあ、まあ、ちょっと」
 愛想のいいクリーニング店のヘアトニック香るご主人へ、さっさと三谷のワイシャツを押し付けた。マスクしていてもやっぱり苦しい。ヘアトニックが目に染みる。
 あとは香りの強い柔軟剤も最近は駄目になった。庭の金木犀も駄目、あれも駄目これも駄目で、お腹の中の旭ジュニアは自己主張が激しい。
「早く治るといいですねぇ。坊ちゃんも心配なさっているでしょう」
「まあ、そうですね、はい」
「季節の変わり目ですからねぇ、暖かくして、ねっ」
 この人どこまで知ってるんだろう、と思いながらも余計な事は言わない。結婚したことは、まだ茉莉にしか言ってない。悪阻で死にそうと言ったらすっ飛んで来た茉莉は、あれこれ食べられそうな物を作りながらレシピを教えてくれて、少しずつでいいから空腹にならないように食べるんだよ、と私へ言い含めた。
 三谷は茉莉と目を合わさないようにしていたから、まだ心の中では特別なのかな、と思っていたら、いきなり肝っ玉母さんは奴の耳を思いっきり抓り上げた。そして世にも恐ろしい笑顔と低すぎる声で「ゆっくりやりなさいって言ったでしょーどうして奈々は妊娠してるのかな?精神的に早漏なの、ねぇ」と明らかにお怒りだった。
 ひいっ、と情けない声を出して真っ青になった傍若無人は、そ、早漏じゃないぞ!とよく分からない言い訳を私にした。それは知ってる、奴はどちらかというと遅漏だ。
「精神的に、って言ってるでしょーちゃんと段階踏みなさいって言ったでしょー」
「すみません」
「謝るのは奈々にでしょ」
「ごめんなさい」
「一生奈々を大切にするんだよ、分かってるの?」
「……それは、勿論。俺みたいな我儘な奴と一緒に居てくれるんだから、さ」
「分かっていればよし!」
 唖然としたが、どうやら三谷は茉莉に怒られるのが怖かったらしい。あの母ちゃん、年々おっかなくなって来た、世界最強の哺乳類じゃねーか、と青い顔してブルブル震えた奴は、その晩妙にベットの中ですり寄って来た。奈々が居てくれて良かったーとか抱きついてほざいていたが、そもそも自分が悪いのだと自覚しろ、三谷よ。

 下味を付けたお肉を冷蔵庫の中へ入れて、自室のベットへ潜り込む。夕食は三谷が帰って来たタイミングで、父がその肉を焼くだけでいいようにしてある。付け合わせに作ったサラダを食べてみたけれど駄目だったので、塩を振ったトマトだけ口にして、私の夕食は終えた。
 旭ジュニアは私の身体の中でまだ点みたいな存在なのに、影響をバッチリ与え過ぎじゃないのだろうか。トマト祭りを開催し、私は一日中眠たいか具合が悪いのどちらか。それでも全く動けない訳ではない。むしろ家事をしている時は少しは気が紛れている。
 そして堪らない位三谷が恋しい。その温もりと匂いが離れていくと悲しくなって、一昨日の朝は柄にもなく行かないで、と玄関先で号泣した。べそべそ泣く私に三谷は家の中へ一度戻って、洗濯カゴの中から自分の着ていたパジャマを私の首へ巻くと、それを俺だと思えとか何とか言って、頭を撫でると出勤して行った。妊婦になってからの自分は、はっきり言って有り得ない。
 布団の中から今朝、三谷が着ていたパジャマの上を引っ張り出すと前身頃を頬に、袖を肩へ巻きつけて顔を埋めた。側から見ていると怪しいし、どれだけ三谷のこと好きなんだとツッコミが入るだろう。でも今の私には精神安定剤みたいなもの。痛い、痛すぎる。
 こんな日が来るなんて思っていなかった。私も動物なんだなと身を縮こませて、安心出来る三谷の匂いを感じながら瞼を閉じた。

 いい匂いが増して、温もりがやって来て、嬉しくて抱きついた。
「奈々、ただいま」
 甘い三谷の声に喜びは大きくなる。帰って来た、待ち焦がれていたひとが。
「腹は減ってない?トマトは」
「三谷、もっとぎゅー、して」
 小さな声で頼むと、三谷は優しく抱きしめてくれた。包み込むような丁寧さを感じる。
「奈々、俺がいないと駄目なのか」
 嬉しそうに、とても嬉しそうに三谷は呟く。違う、そうじゃない。居てくれないと落ち着かないだけだ。と、トマト祭りを開催中の旭ジュニアが言っている。
「離さないで」
「いや、風呂入りたい」
「やだあ、いやなの」
 しょうがないな、と言いながら三谷は傍にいてくれる。分かっている、そんな柄じゃない。なのに止まらない。一日の中で、三谷の事ばかり憎くなったり、恋しくなったり忙しい。
「奈々が素直なのって、いいもんだなー俺、生きてて良かった」
 しみじみと呟く言葉に、気持ちは落ち着いていく。ひんやりと、そしてさらりとした夏物のスーツの上着に、顔を埋めた。外を吹く風の匂いがする。暑さは夕方には大分和らいだらしい。そして、三谷の匂い。
 奴が喜んでくれているのが感じられて、お腹の底、旭ジュニアがいる場所が歓喜する。甘さより、嬉しさ。
「本当は、三谷ともう少しでっ、デートしたり、お付き合いとか、してみたかったんだ。なのに、あっという間に旭ジュニアが来て、ほんのちょっと残念だった」
 ジュニアがお腹の中にいるのは嬉しい、でも少しだけそう思ってしまった。その罪悪感がチクチク身体へ刺さって痛い。いくらぐったりしていたから、と言っても最後の力を振り絞れば奴の急所位、蹴り飛ばせた。それをしなかったのは、三谷が堪らなく欲しかったから。なのに、身勝手に、そんなことを思う。
「………奈々さ、東京タワー登ったこと、あるか?」
 頭を否定の意味を込めて振ると、背中を撫でられた。
「俺もない。東京で生まれてからずっとここにいるけど、ないんだ。スカイツリーも、浅草も、ディズニーも、隅田川の川下りだってしたことねぇ。東京の観光名所でガイドマップに載ってて行ったことあるとこなんて、数える位だ」
 三谷が行ったことのある名所として上げたのは、地味な何箇所かだけ、だった。でも私もそう変わらない。北海道や沖縄、九州、東北や、ヨーロッパ、アメリカ、アジアなどの他の地域の方がよっぽど知っていると答えた。
「ちびすけが産まれるまで、体調見て散歩気分で東京観光したりさ、意識してしてみよう。そやって思い出作ってみようぜ。近いし何時でも行けると思ってて行かなかったんだから、それなら制約がある今だからこそ近いんだし観光してもいいじゃねぇか。俺の休みが平日の利点生かして、なっ」
「………父さんは」
「体調伺って、調子が良さそうなら数時間位行けるって。ここ、都心からそう離れていないし、車で行けばすぐだって。な?」
 ぶっちゃけて言えば、ここの近所ぐるぐる回るだけでもいいし、奈々と親父さんの体調を最優先して色々やろう、そう三谷は言った。それだけで身体を刺す痛みは消えた。そんなことだけで。

「で、今はポテト祭りなのかい」
「うん、蒸かし芋限定だけど」
 旭ジュニアは翌日からあれほど食べたがったトマトには飽きたのか、ジャガイモを蒸してほんの少しバターをつけて醤油を掛けたジャガバターをご所望になった。入院寸前だった私はせっせとレンジで皮ごとジャガイモを蒸して食べている内に、少しだけ体重も体調も戻って来た。
 そしてあれほど三谷の匂いに固執していたのに、ポテト祭りが開催されてからは全く奴を受け付けなくなってしまったのだ。まるで思春期の娘のようになってしまい、それでも三谷に触れられたくないとは言い出せず、擦り寄って来るどころか後ずさりし始めた私の様子を見て、奴は悲壮な顔で「天国から地獄だ……」と呟いていた。
 オロオロした父はインターネットでお腹の子の父親を妊娠中嫌うのは、父親と子どもの遺伝子が近いせいだということを調べて来て、三谷へ「大丈夫、君の子だっていう証拠だよ!」と励ましていたが、それはちょっと洒落にならない。まあ、いいんだけれど。
「戻さなくなったから一安心だね。しかしおちびさんは一丁食いなんだなあ」
「指定も細かくて困るよ。ほんの少しバターが多いだけで押し戻そうとするんだもん」
 ほっこりホクホク、黄金色の蒸かしたてジャガイモにバターを落とす。湯気を上げているジャガイモに黄色いバターがとろけていく様子を、父と話しながらもガン見した。は、早く食べたい。
 二人掛けのテーブルの上には、皮を割かれて、バターと絡まり合う多めのジャガイモが私を誘っている。バターが溶けきった所で減塩醤油を垂らした。完璧な、仕上り!
「いや、まあ、幸せそうだねぇ。トマトの時はどうなることかとね」
 スプーンで混ぜ気味にしてジャガバターを頬張った。美味しい、美味しいよう。
「………俺は、トマトでも良かったですけど」
 じとーっ、と三谷はソファーからこちらを見ている。ごめんよ、そう思いながらも奴が近くにいるとちょっと駄目なんだ。でも今日はこれから手始めに新宿へ二人で行く。ちゃんと手を繋いで。
「旨い?」
「も、最高、と旭ジュニアが申しております」
「仕方ねーな。ちびすけがそういってるんじゃあ、な」
 笑顔を向けると笑顔が返ってくる。父も笑う。きっとジュニアも笑っているんだろう。お腹の底がくすぐったいような錯覚を覚えた。それはそれは、幸せな。

April fool has come

April fool has come

そのメールが届いたのは、四月一日、十七時。パリのエッフェル塔の真下から幾何学模様越しに見える青い空を見上げていた時だった。 天職だと思っていた仕事を辞めた奈々と、美しい庭作りを日々続けている奈々の父の元に、その『嘘』はやって来る。 高校時代の同級生、三谷が出した求人から始まった、嘘つきたちのお話。完結しています。 軽くて重い内容です。お疲れの方はブラウザバックされることをお勧めします。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-04-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  9. 番外・リコピンからカロテンまで