僕らのワールド・アイライン 3話
※他作品・創作キャラクターとのクロスオーバー表現有。
※クロスオーバーしているキャラクターの出演は事前に許可を得ています。
僕らのワールドアイライン 3話
○
靴墨で磨かれたような夜の闇を、命短い街灯が照らす。
点滅する光の下で、痩せこけた男が一人、道を歩く。アスファルトの冷気があたりを冷やす。
公園のフェンスが落とす影が、男に菱模様を落とした。
男のほかに人の気配はない。遠くでサイレンが聞こえている。急がなくては、と男は足を急がせた。
この男は盗人だ。空き巣の専門であったが、つい先ほど仕事の瞬間を通行人に見られ、逃げ出したところだ。
顔を見られていないか不安だが、さほど心配することでもないだろう。人間は他人の顔を覚えることが存外苦手な生き物である。
ましてや男はサングラスをかけ、ニット帽をかぶっていた。どちらも処分した今、素知らぬ顔で寂れたアパートに帰り、だらりと眠ってしまえばいい。
しばらく泥棒稼業を休業しなければならないが、懐がさびしくなるまでの話だ。世間が忘れる頃、また男は盗みに手を出す。
「次でうまくやればいい」
それが、しくじった時の男の合言葉であった。
ふいに、男は足をとめる。サイレンの音に交じって、何か聞こえる。人の類が出す音ではない。
風もないのに、何か擦れる音がする。耳の中でかさこそとこそばゆいようで、肌が粟立つ。
発泡スチロールが摩擦する時のような耳障りな音を思い出し、男は薄ら気味悪くなって、首筋を撫でた。
三寒四温の寒のさなかか、ここのところよく冷える日々が続く。とっとと家に帰ってビールでもあおろう。
男は足をはやめる。かさこそと気味の悪い音のうねりは、ひそやかに、しかし男の足跡を追うように迫る。
耳が詰まったか、さもなくば羽虫でも入ったか、と小指をねじ込む。しかし栓をされた耳はより鮮明に、うねる乾きの響きをとらえた。
男は何気なく、丁字路のカーブミラーに映る己を見た。景気の悪い顔をした自分が立っている。向かって右手には閑静な住宅街に続く道があり、左手にはさびれた公園が見える。
その時、男は気づいた。黒いアスファルトの上、剥げかかった白い標識が、徐々に黒で覆われゆく様を。
足元を見る。何かが蠢いている。得体の知れない何かに怯んで一歩退くと、街灯がひときわ強く点滅した。刹那、目に飛び込んできた光景に、男は悲鳴を上げた。
有象無象の虫たちが群れをなし、男の足を避けるように行軍を作る。蟻、蜘蛛、ヤスデ、百足、ダンゴムシ、名前も知らない芋虫が続々と、小さな津波となって押し寄せる。
彼らは来る災害から我先へと逃げ出すかのごとく、時折男のシューズを乗り越え、丁字路の向こうへと消えていく。
男は半狂乱に陥り、女々しい声を漏らしながら虫を叩き落とした。
何度も。何度も。
電灯が点滅する。虫達の光沢を照らす。男が動く度、靴底に、気泡が潰れるような感触が伝わった。
慌てふためく男の様は、学芸会で踊りでも披露するかのように滑稽。
ぶんぶんと辺りを飛び回る虫も増え、男は恐怖のあまり頭を抱えてその場に蹲る。
濁流に飲まれゆく恐怖。瞼を開けることすら許されず、男は喉からヒーッという哀れな声をあげ、許して、許してくれと何度も繰り返す。
……。
波は、突然終わりを迎えた。
嵐はあっさりと去り、当たり前の夜の静けさが戻った。サイレンは聞こえない。
それまで取り乱していた男は呆然として、その場に立ち尽くしていた。耳に纏わりついていた不協和音が過ぎ去り、静寂をより濃く感じた。
今のは夢か、現か。心臓は未だ蚤のように跳ねている。再び丁字路のカーブミラーを見上げると、茫然自失の己と目が合う。
少し落ち着いた後、男はよろよろと立ち上がった。今はただ、帰ることだけを考えた。靴の裏を見る勇気はない。
踵を返した時、男は奇妙な音を聞いて、立ち止まる。はて、何の音だろう。
男は首を捻っていた。真正面に向いたままの体を置き去りにして、真後ろのミラーを見ていた。
鏡には、ありえない角度にねじまがった男しか映っていない。
それが男の、最期に見た景色であった。
○
凄惨な光景を目の前にして、ミラーに映っている複数の警察官は、ただ絶句するしかなかった。
道路には、しわくちゃに潰れた、人間大のバルーンのなれの果て、と表現するに相応しい物体が転がっている。
否、これは人間だったものだ。収縮しきった筋肉と骨が、辛うじて人間の形を形成し、ぺらぺらの皮膚がそれらを覆っているに過ぎない。
しかし、数滴ほど地面に残された黒い斑点を除けば、血は殆ど残されていなかった。
先に集っていた刑事達は、点滅する灯りの下で、一様に真っ青な顔を晒している。
誰もが、この空間に、言い表せない異常を五感で感じていた。
「あのよ、オッサン。こんなこと聞くのも野暮かもしれないけど……これは殺人か?もしそうだとして、果たして……人間が成せる業なのか?」
背の低い刑事、掬川が、金ぴかの目を瞬かせ、手袋をはめた手で、人間だったものの皮膚を捲る。
「さあな、俺もこんなコロシは見たことがねえ。ガイシャの直接の死因は首を骨折して即死だそうだが……」
奥垣内は熊のような体格を縮ませてしゃがみこむ。部下におっさん呼ばわりされても眉一つ動かさず、首に当たる部分を調べ始めた。
首の骨折にしたって、並の腕力で出来る芸当ではない。
何かしらの凶器が使われた形跡もなく、強いて挙げるとするならば、針で刺したような小さい穴が二つ、隣並んで空いているのみ。
その、直径わずか一ミリ程度の小さな空洞であるにも関わらず、ぽっかりと口を開けた深淵が、内側から被害者の血という血を奪っていったのではないか、と思わせた。
周囲では鑑識課が慌ただしく現場の保存につとめている。その間を、黄色のバリケードテープを超えて、一人の男が現場へと近づいてくる。
掬川は野次馬かと振り返り、ぎょっとした。その男は、黒ぶちの眼鏡をかけ、胸部や腹を多分に露出したコスプレ紛いの奇妙な出で立ちで、かつ血まみれであった。
手には巨大な杖をもち、神妙な面持ちで歩み寄る。
その傍らには、白衣を着こなした女が一人、薄気味悪い笑みを伴っている。
「しくじった。僕の責任だ」
開口一番、男はそう言った。訝る掬川に向かって、奥垣内は「俺の知り合いだ」とだけ言った。
「酷い格好だな大山、それに臭いぞ」
「すまないね、奇襲を受けてこの様さ。すぐに逃げられたもんだから、このまま追いかけてきたんだ」
掬川は大山、と唇だけを動かし、奥垣内へ説明を求める視線をぶつける。
男は口から溢れる血を腕で拭った。顔色が悪い。奇襲を受けたという物言いと何か関係はあるのだろうか。
頭からバケツ一杯の血を浴びせられたような様相に、その場にいた二、三人の刑事は、掬川と同じく、あからさまに疑わしいこの男達に疑惑の視線を向けていた。
しかし二人組は意に介さず、輪に混じり、妙齢の女は慣れた所作で死体の検分を始める。
「それで、犯人の目星はついているのか」
「この町から出ていないことは確かだ。たとえ何者であろうと、この町から出ることはかなわない」
女は持っていた鞄から、小型の機械類を幾つも出し、死体の肌にパットのような物を押し当て、測定や記録を行っている。
ふいに、掬川は身を震わせた。やけに今宵の町は、静かすぎる気がする。
口をきくものも言葉を持たぬ者も、皆が息をひそめ、口裏を合わせたように黙り込んで、目に見えざる者の横暴を許すかのような、そんな静けさだ。
測定を終えた女が、立ち上がる。
「良い知らせと悪い知らせがある」
「どっちでもいい、早くしろ」
奥垣内が急かす。女はこの奇妙な殺人現場で唯一、愉悦を混じらせた笑みを浮かべていた。
「お巡りさんがた、君たちのお仕事ができたってことさア。この事件の下手人は、ほぼ二人人に断定された。ただ、捕まえるには骨が折れるだろうね」
「二人?七条博士、この男は二人がかりで殺されたのか」
じれったいな、と掬川は七条を睨む。すると、その尖った視線を察してか否か、愉快そうに女、七条は三日月の唇をゆがめた。
「いや、語弊があるね。殺したのは一人だ。首をごらん」
七条が被害者の骨折した首を持ち上げ、首の皮をびろんと広げた。すると、たるんで隠れていた部分が露出し、濃い青に変色した、歯型のようなものが浮かんでいる。
「噛みついた痕さ。つまり一人がガブリとね、こんな風にかぶりついて……」
「ヒッ……」
七条は傍にいた掬川をひっつかみ、引き倒すや、歯型と同じ個所を狙って噛みつくふりを実演してみせる。掬川は小さな体を完全に委縮させ、七条のされるがままだ。
「この時、男は首を骨折して即死。けどね、そばにもう一人いたのさ」
「もう一人?なんで分かるんだ」
「この歯型と、別の穴から、二種類の唾液が検出されたのさ。二つ並んだ痕は、吸血の痕だよ。そいつが血を吸った犯人さ」
その言葉を耳にした周囲は怪訝そうに、吸血というワードに対して、冷ややかな脱力感を露わにした。
ひとり、男だけは顔を強張らせ、周りに頭を下げて、女を連れて夜の闇に消える。
ひとまず撤収だ、奥垣内のひと声で全員は現場を後にする。掬川は一度、公園を振り返り、奥垣内の後に続いてパトカーに乗り込んだ。
三月に差し掛かり、風もなく穏やかな夜半。その静穏に混じり、音のない不協和音が、耳に爪を立てていた。
○
音もなく、子供部屋のドアが開いた。
ぬらりと、なめらかに床を滑るように動く、異形の塊の頬に僅かな光が差し、一瞬だが、前髪の簾が揺れる様を、老いの皺が刻まれた男の感情を失った顔を、照らす。
暗がりの中、安らかな寝息が規則正しく、ベッドの中で繰り返される。尖った爪が、傷つけることをおそれるように、枕に預けられた小さな頭をそっと、撫でる。
幾度となく、その肌を傷つけぬようにと、ぎこちなく触れていた手は、やがて名残惜しそうに離れ、巨体を屈めて、子供の耳元に唇を寄せる。
起きろ。太陽が近い。
○
はっ、と正太郎は布団から跳ね起きた。一瞬、朝か夜か分からずにいた。
電気は消えたままだ。家具の位置も、床に転がった玩具も、そのままだ。
雀の囀りが聞こえる。柔らかな曙光が、東の空から射し込んでくる。
「随分早いな、正太郎」
逆さになったシンが、寝惚け眼で頭を掻いている。相変わらず大層な寝相だ。寝巻からいつものパーカーとズボンに着替え、銀色のライターを手にとった。
少し傷がついた小さな立方体を掌で弄び、転がす。
「父さんが、ここに来たんだ」
「馬鹿な。お前の父親は追われているんだろう。それにもし、ここに来ていたら、俺が気づくはずだ」
正太郎はかぶりを振って、己の頭に手を添える。
「ううん、確かにいた。僕の頭を撫でて……朝が来るって教えてくれた」
ベッドに腰を下ろし、ぶらつく足に視線を落とす。琥珀色の瞳がとろんと揺らいで、まだ微睡んでいるようにも見える。
シンは宙で足を組み、フムと考え込んだ。
「正太郎よ、お前は力に目覚めて日も浅い。もしかしたら、それは点火器に籠められた、父君の念やもしれぬ」
「念?父さんの?」
左様、とシンは頷いた。彼が指をさっと振ると、ライターは宙に浮かび、ひとりでに炎を灯す。まだ薄暗い部屋で、淡い青碧の輝きが無数に飛び散る。
「炎は型に囚われず、故に無限なり。この火炎が燃やすは物だけに非ず……その点火器は元々、物質世界に限らず、怪異、神羅万象に通用する炎だ」
ここから、シンの長い説明が始まる。あまりに難しい言葉を多用した説明のため、正太郎は紙に逐一メモをしてまとめ、ひとつ単語が飛び出すごとに質問しなければならなかった。
そしてどうにか要約すると、こういうことである。
この不思議な銀のライターは元々、正太郎の父親が若い頃に設計し、改良を重ねながら製造したものだ。
火は最も生命に類似した現象の一つだ。生物は他の生物を捕食し糧として、余分なものは排出する。
火も同じく、物質を燃やすことで熱や光、化学物質などを生成し、燃焼する対象を変えながら存在し続け、残りは炭や燃えカスとなる。
加えて、火は対象を燃焼し、滅却することで「浄化」の作用が発生する。正太郎の父親は光と熱エネルギーがもたらす浄化作用に着目し、このライターを完成させた。
生命に最も近い火は、不定形であるが故に人間の脳と波長も合いやすく、その特性から生と死、つまり物質世界と精神世界……つまり正太郎の右目に映された怪異達……その両方に干渉しやすい。またイメージも無限だ。
「つまり、ライターの中の炎に、父さんの感情が移ったってことでいいんだよね?」
「察しが良いな、正太郎。炎は様々な特性を持つ。お前が感じ取った父親も、その影響やもしれん」
空中で弄ばれたライターは、逃げるように正太郎の掌に収まった。
床に転がった玩具をどかし、正太郎は姿見の前に立った。鏡は痩せ細った仏頂面の少年を映している。
シンが後を追うようにして姿見を覗き込み、瞬きする。
カチンッと乾いた音が点火の合図を告げる。正太郎は変身しない。青い炎が儚げに揺らぐのみ。
父は何故、このようなものを作ったのだろう。
そもそも、あれだけ黒いスーツを着こなし、快活に笑っていた父親が、サイエンティフィックな暗い実験室めいた場所で、気難しい顔で物を作るイメージが結びつかない。
分からないことだらけだ。このライターを作った経緯も、正太郎を置いて去った理由も、猟奇的殺人に手を染める事情も。
「父さんを探さなきゃ。なにも分からないまま、何も出来ないまま流されるなんて、そんなの嫌だ」
ライターを強く握りしめた正太郎の口から、その一言が飛び出した。
正太郎はこの怒涛のひと月あまりを、何も知らないままに過ごしてきた。それを不安に思っていた。果たしてこのままで良いのか。否だ。
「シン、僕は父さんを絶対に見つける。そのためには君の力が要るんだ。教えて、このライターのこと。君の事も」
シンは優しく微笑んで、「もちろんだとも、相棒」と答えた。
「しかし、俺自身の事はあまり教えられん。なにせ記憶が曖昧でな」
半透明の表情に渋みが加わり、炎の瞳が黒い眼窩の中で萎む。
幽霊に果たして記憶というものがあるのか、ぴんと来ないが、嘘をついているようには見えない。
答えられないならば無理に詮索する必要もない。軽い相槌を返して、口を噤む。
「だが、その点火器の使い方や戦う術ならば、いくらでも教授しよう。元よりそのつもりだ」
「……ありがとう、シン」
目標ができたおかげか、今まで不明瞭だった心の靄が少し晴れた。
丁度その時、ベーコンの焼ける香りが階下から立ち昇り、やにわに正太郎の腹がぐうう、と大きな音を立てる。
まずは朝飯だな、とシンがウインクを飛ばした。
正太郎は頷くや、階段をやや急ぎ足で駆け下りる。食事はいつも、叔母の飛鳥が用意することになっているが、実のところ、正太郎はまだ飛鳥と対面したことがない。
叔母に抱く印象としては、霞のようなイメージに近い。陽も昇らぬうちから食事を作り、洗濯と掃除を済ませ、正太郎が起きる頃にはもう居なくなっている。
公太郎が言うには、飛鳥はとても多忙らしく、どうにもタイミングが合わないらしい。
今日がもしかしたら、飛鳥と対面できるチャンスかもしれない。ちょっとした期待に胸を膨らませ、興奮気味に飛び込むようにダイニングのドアを開けた。
「おはようございます……あれっ」
ダイニングキッチンの流し台にあたる場所に、若い女が一人いる。真っ赤なポニーテールが小鳥の尾のようにぴょこぴょこ動き、少女の足並みにワンテンポずれて揺れる。
隣接しているリビングのソファには、もう一人、くたびれた妙齢の女性が寝転がっている。
よれよれで点々とした染みが目立つ白衣をブランケット代わりに被り、だらしなく口を開けて、どうやら熟睡しているようだ。斑の髪で顔は隠れているが、体のラインは女性的である。
声をかけようかと迷っていると、まるで気配を察したかのように、白衣の女は機械仕掛けの人形のように起き上がった。
年老いた鼠が人間になったら、こんな外見だろうか。「おしいれのぼうけん」という絵本に登場する、ねずみ婆さんの姿が脳裏に浮かんだ。
髪はぼさぼさ、ぎょろりとした目、血色の悪い顔色、丸まった猫背に纏わりつく薄気味悪さ、それらが押し入れの奥で鼠を従え子供を狙うねずみばあさんと重なった。
女は目覚めたばかりの血走った目で、正太郎を見据える。
「ああ、君か。大山クンのところの、せがれとやらは」
女の言葉で、赤髪の少女が振り返る。ブルーの瞳がキラリと輝いて、中年女をキッと見た。
「七条博士、朝食の用意ができています」
「ああ、有難いネ。大山少年、君も食べなさい」
七条と呼ばれた女は我が物顔で席につく。少女はというと、てきぱきと全員分の食事と食器を並べ、正太郎と向き合う。
齢は十代の半ばを過ぎた頃か。スレンダーでしなやかな体型は、雪野の丹頂を想起させる。
「はじめまして、正太郎さん。飛鳥と申します。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
他人行儀な挨拶と共に深いお辞儀。つられて頭を下げる。
七条博士はさっさとベーコンエッグに手を付け始めていた。山盛りのベーコンがつるりつるりと消えてなくなっていく。
「正太郎さんも早く召し上がってください。冷めてしまっては美味しくありませんから」
はあ、と正太郎は生返事する。この奇妙な女二人達に、正太郎はどう応じるべきか判断しかねていた。そもそも七条に至っては何者なのかすら図れない。
正太郎は大人しく、七条の向かい側に座り、フォークを手にとった。飛鳥は再びキッチンに入り、後片付けを始める。
一方で七条は、狐色に焼けたトーストにバターを塗りたくり、半分に切断した後、片方に半熟の目玉焼きとベーコンを一切れにキャベツを乗せ、更にはケチャップをかけてもう片方のパンを乗せ、サンドイッチにして豪快に口に詰める。
その食べ方には思わず面食らったが、正太郎もゆっくりした動作でバターをトーストの表面に塗り、ぎこちない動作で二つに分け、キャベツやベーコン、目玉焼きを落とさないよう乗せていき、ケチャップをかける。そうして、少し赤色がはみでた不細工なサンドイッチを手で掴み、口いっぱいに開けて頬張った。
熱い!正太郎は咄嗟に食いちぎり、慌てて口元を抑えて飲み込んだ。味わう暇もなかったが、ベーコンの香ばしさと肉汁、黄身の味がケチャップの甘辛さと一緒に舌に絡んで、噎せ込みつつも喉に下した。
七条は女らしからぬしわがれた笑い声をあげ、水をあおる正太郎を眺める。
「良い食べっぷりだね、正太郎クン」
「あ、ありがとうございます」
馬鹿にされたようで少し悔しかったが、生意気な態度をとったせいでいじめられてはかなわない。
しばし無言の時間が続いた。七条はマイペースに新聞を眺めながら食事をつづけ、特に話すこともなく正太郎は朝ごはんをつつく。
新聞の一面記事に、殺人の文字が並んでいた。また父の仕業なのではないかと邪推して、きゅっと心臓の辺りが締め付けられる。
なぜ父は人を殺すのだろう。シンならばあるいは、答えを教えてくれるだろうか。
公太郎が来る様子はないままに、七条と正太郎の皿は綺麗に片づけられた。飛鳥は眉一つ動かさず二人分の皿を下げ、代わりに珈琲とジュースを差し出す。
「兄を起こしてきます」
飛鳥が口を開いた。手元のトレイに一人分の食事を乗せ、音もなく部屋から出ていく。
「さて、自己紹介がまだだったね」七条は指を組んだ。
「私は七条冬雪。気軽にフユキセンセーとでも呼んでくれ」
傷んだ長い髪が影をつくり、フユキの白斑が浮かぶ肌がより一層、土気色を帯びる。
フユキは自身を科学者と名乗った。彼女はこの町から電車で三駅離れた郊外にラボを構えている。家庭教師をしながら、様々な研究に携わっているとのことだった。
「研究分野は主にバイオニクスおよびバイオサイエンス、遺伝子工学等々……ま、いわゆる人間や生物の体を対象とした研究さ」
小さな瞳は、体のことならば何でもお見通しとばかりにぎょろぎょろと正太郎を観察する。
彼女に見透かされると、皮膚をすり抜けて内臓や頭で考えていることも見抜かれてしまいそうだと、内心慄いていた。
「こう言ってはなんだけどね、私は君の父君とはちょっとした因縁があるんだ」
正太郎の体が前に傾く。父親の手がかりが早速現れた。
科学者というからには、正太郎のポケットに収まっているライターの事も何か知っているのではないか。
フユキの唇がぐんにゃりと歪む。
「父君の事は残念だよ。私は彼と一時的だが共同研究したこともあった。しかし志を違えてしまい、今の彼はお尋ね者だ」
その口調は昔を懐かしむというより、むしろ何や旨い企みでも思案しているかのような面持ちで、鼻をひくつかせ、片方の口角を吊り上げる。
「私にも立場というものがあるし、公太郎氏にも口止めされているもんで、残念だけどここであまりべらべら喋ることは出来ない」
フユキの口ぶりは、まるで初めから正太郎の意図を汲んでいるかのようだった。骨のように細長い手が無造作に白衣のポケットをまさぐり、一枚の紙切れを差し出す。
正太郎はそれをおそるおそる受け取った。小さな名刺だ。名前と住所、電話番号、それに十二桁の番号が並んでいる。
「知りたいことがあるなら、ここに来るといい。ただし、このことは誰にも内緒だ」
顔の前で人差し指を突き立て、フユキは目を細めた。正太郎は名刺とフユキを交互に見て、急いでしまう。
公太郎がダイニングのドアを開けたのは、まさに名刺をポケットにねじ込んだ直後だった。
やや険しい顔でフユキを睨んでいる。一方で、フユキは快活そうな(本人はそのつもりだろうが、底知れない笑顔だ)表情で出迎えた。
「やあ、よく眠れたみたいだけど、私の睡眠剤はよく効いたかい」
「お陰様で。それより正太郎君、僕は出かけてくる。出かけるなら飛鳥にひと声かけておいてくれ」
なにやら事情があるのか、公太郎はスーツ姿に革のブリーフケースを携えて、何の説明もなしに背を向けた。
新聞で報じられた殺人と関係があるのだろうか、と思い至った。公太郎ももしかしたら、殺人事件に思うところがあって、調査しているのかもしれない。
普段の温厚な彼とは結びつかない、刺すような気配を漂わせ、正反対にフユキはゆるりと立ち上がって公太郎の後に続く。
「それじゃ正太郎君、またネ」
正太郎は渋い顔で、二人を見送った。また自分の知らない所で、不穏な事が起きようとしている。そんな気がしてならなかった。
飛鳥は瞬きひとつせず、能面のような表情のなさで家事を再開する。
平穏な午前。ひっそりと静まり返り、生活音以外は聞こえない。正太郎はすることもなく、リビングで本を読んでいた。
先日の、ショッピングモールでの戦いから幾日か経った。モールの事務員さんにはこってり絞られ、屋外遊技場の荒れ果て具合には気味悪がられたが、しばらくして再び立ち寄ったところ、激しい戦いなぞ初めから無かったように綺麗に元通りになっていた。
叔父とその周りの采配のおかげだろうが、お蔭で実感がわかない。騒動の原因になった少年の魂は、無事に戻っただろうか。
知る術はない。ただ願うばかりだ。これといって周りで何か大きな事件が起こる気配もなく、父の存在はより遠くに感じる。
そんなとき、平穏の終わりを告げるチャイムは、あまりに唐突に、そして軽快に鳴り響いた。
正太郎は叔父が忘れ物でもしたのかと、扉を開ける。
「こんにちは、正太郎くん」
黒い瞳を細めて、芙美が小首をかしげて立っていた。
○
「またか」
奥垣内はふかした煙草を噛み潰しかねないほど歯軋りする。
場所は某市某町のとある広場。まるで空き缶を投げ捨てたかのように、干からびた死体は茂みの影に無造作に打ち捨てられていた。
第一発見者は清掃ボランティアの一人だ。危険物と思い通報したが、後に死体と判明し回り回って奥垣内らが呼ばれた次第だ。
奥垣内の眉間の皺が深い理由はそれだけではない。発見された死体は一人だけではない。二人だ。どちらも年齢は二十代から三十代、男の方には胸に刺し傷らしきものが残され、死体の付近から血の付いたナイフも見つかった。
「どういうことなんだろうな、これ」
掬川は凶器と思わしきナイフが映った現場写真をしげしげと眺める。
どこにでもある普通の果物ナイフだ。鑑識の結果はまだ出ていないが、おそらくナイフに付着した血は被害者男性のものだろう。
「状況が異常すぎる。なのに判断材料は圧倒的に少ない。長期戦にならないといいが……」
進展が全くない訳ではない。なにせ、昨日の今日で同じ方法で殺害された死体があがっている。殺害現場と前回の死体発見現場の距離は約三キロほど。この近隣に犯人が潜伏している可能性は無きにしも非ず。
とはいえ、聞きこみに関してはあまり良い結果を得られそうにない。よしんば今回の事件に目撃者がいたとして、この異常な殺され方を見た者が現実と思うだろうか。
死体検分を終えた後、奥垣内はテープの外側にいる男が手招きしていることに気づいた。
知った顔だ。もう何が起きたかは承知済みのようだ。
「奥垣内くん、ちょっといいかな」
三十分後、二人は喫茶店の一角に腰を落ち着かせていた。
平日の昼前、客の数はまばらだ。奥垣内がシガレットケースを出すや、公太郎は見もせずに「ここは禁煙だよ」と諭す。奥垣内は半分口を開けたまま数瞬ほど呆け、「咥えるだけだ」とにべもなく言い返した。
あれほどの凄惨な事件が起きたにも関わらず、相変わらず道行く人は平和そうだ。
それもそのはずで、今回起きている連続殺人についてはその実情を殆ど伏せており、同じ警察内ですら詳しい内容を知る者も少ない。事件性が特殊と判断された案件はすべて、奥垣内らが担当することになっている。
「今回の事件、やっぱりコレと考える方が妥当かね」
奥垣内は歯を剥き、両手をワキワキと動かして襲いかかる仕草をする。彼のジェスチャーが示唆するものは一つ、ヒトならざる者達の存在だ。
奥垣内らもまた、扱ってきた事件の特殊性の高さや彼ら自身の生い立ち上、目に視えないものや怪物の類らの存在を認知している。また、それらを始末する術にも長け、非科学的な領域の専門家とのパイプも存在する。公太郎もそのうちの一人。
「そうだね。まあ、これを見てもらったほうが早いか」
ブリーフケースから茶色の封筒が差し出される。中は夥しい量の書類で溢れている。
「良いのかよ。俺とアンタの親はそんなに仲良しこよしってわけでもないだろうに」
奥垣内は意外とばかりに眉を吊り上げる。
内心、これは公太郎の罠ではないかと勘ぐった。奥垣内は警察に属しているが、目の前の男は、表向きでは社会に認められていない組織に属している。一応は協力関係にあるが、奥垣内はおろか、上層部ですら公太郎らのバックにある組織の全容を全て把握しきっているわけではない。
「あまり大きい声では言えないけど……これは僕個人で動いていることだ。責任は僕一人で負う」
「ガラじゃないな、大山」
珈琲の湯気がうねる。二人の周りだけは、魑魅魍魎達ですらまるで近づくのを畏れるように距離を置き、あてもなく渦巻いていた。
「今回の事件、心当たりが無いわけでもなくてね」
公太郎のカップを持つ手に青筋が立っている。ふうん、と半ば納得いかない相槌をうち、奥垣内は書類を見る。
紙束は随分と年季の入ったもので、中にはマーカーで潰されたり頁が抜けているものもある。誰かがその証拠の痕跡を消そうとでもしたかのように。
「僕はその情報を、二十年も厳重に保管してきたんだ。何時、彼女が復活してもいいように」
奥垣内は紙を捲る。徐々に、顔に刻まれた皺が深まっていき、信じられないものを見る目で、公太郎に視線を投げた。
「正気か?これが事実なら、俺たちが犯人を逮捕するなんてどだい無理な話だぞ」
「あくまで可能性の一つだよ。少しでも参考になれば、と思って」
だがなあ、と奥垣内は困りきったように頭をぼりぼりと掻いた。
紙面には、ある一人の怪物に関するデータが記載されていた。その名前の隣には、二十年前の日付と、死亡確認済みの文字が連なっている。
「とっくに死んで死体すら見つかっていない奴を、どう捕まえろってんだ」
忌々しそうに呟いて、珈琲の湯気は怒気に逃げるように描き消えた。
○
「あの、飛鳥さん」
正太郎は控えめがちに飛鳥へと声をかけた。
中庭の物干し竿に干された洗濯物が、暖かな春風にはためいている。
飛鳥は髪を耳にかきあげつつ振り返った。夕陽色の髪が正午の日差しで輝く。
「僕、友達と遊んできます。その、そんなに遠くに行くつもりはないんですけど」
飛鳥は瞬き一つすると、「分かりました」と落ち着いた声で返事する。
「日没までには戻ってください」
「分かりました」
「知らない人にはついていかないこと。物を貰ってもいけません。帰る時は、なるべく明るい道を選んで、出来れば友達と途中まで一緒に行動するようにしてくださいね」
飛鳥は指をぴんと立てた。
「ちなみに、夕食は六時半ですから」
この人はもしかして、意外と自分を心配してくれているのだろうか、と面食らった。相変わらず表情どころか瞳の揺らぎもない。けれどその言葉の端々に、気遣いが見て取れた。
「……うん。行ってきます」
正太郎はくるりと回れ右をして駆け出した。
向かう先は、坂道を下り、住宅街を抜けた先にある、新みらい中央児童公園だ。
この新みらいが丘には付近に多数の学校が存在し、つまり住宅街の住民は学生が多い。そのため、大きなグラウンドやバッティングセンター、公園が数多く配置され、子供たちの格好の遊び場で溢れている。
正太郎は胸を高鳴らせていた。走っている以上に、新しい友達が出来るかもしれない、高揚感と不安で既に胸がいっぱいだった。
「ごめん、待った?」
「遅いっ」
公園に入るや、少女が不満げに第一声をぶつけた。桃色の頬をリスのように膨らませて、仁王立ちしている。
「芙美ちゃん、その子だれ?」
周囲でばらけて遊んでいた子供たちが、初めて見る余所者に早速興味を示して集まってくる。
委縮しかける正太郎の手を握って、芙美は皆へと引き合わせた。
「この間、越してきたばかりの正太郎くんよ。私の友達なの」
へーっと皆が目をキラキラと輝かせ、わっと質問の雨を浴びせはじめた。
どこから来たの、どこに住んでるの、何が好きなの、芙美ちゃんとはどういう仲なの、それはもうスコールだ。
目を白黒させる正太郎の横顔を、芙美は面白がっているように見ている。引っ込みじあんな正太郎の性格を知ってかしらずか、町の探索中に偶然にも再会した芙美は、友達を作るべきだと正太郎を公園へと呼びよせた。
一番の親友だった真矢を失った今、自分でも変わるべきだと正太郎は薄々思っていたものの、久しぶりに人の輪に入る感覚は戻ってこず、おろおろとするばかり。
「人気者だな、正太郎」
シンも他人事と笑っている。畜生、と張り倒してやりたいが、生憎シンの頬を人前で引っ叩くわけにもいかない。
「はいはい皆、その辺にしないと正太郎くんが可哀想だわ。聖徳太子の耳じゃないですもの」
その時、ジャングルジムの方から子供らの喚き声が響いた。
皆が振り返ると、ジャングルジムの天辺で、大人とまったく体格の変わらない大柄な少年が、まさに小学生の男児を蹴落としてげらげらと笑っている所であった。
「おい、不良だぜ、不良」
「ジャングルジムは皆のものよ、独り占めはよくないわ」
「いい年してるくせに、恥ずかしくないの?」
小学生達の関心はあっという間にジャングルジムの占領者に移った。
正太郎は遠巻きから、その少年を見つめる。
黒い芝生頭はツンツンと四方へ跳ねて、少年の性格をそのまま反映させたかのようだ。
年は判別し難い。なにせ顔や筋肉質な体つきはほぼ大人だが、目つきや表情が小学生とまるで変わらない、と感じた。
おはじきのような輝く琥珀の瞳、小学生達に向ける小馬鹿にしたような微笑。
子供らの罵声を受けても、お山の大将の余裕からか、胡坐をかいて陣取っている。
「ジャングルジムは皆のもの?そんなルール、どこに書いてあるんだよ」
「公園のものは公共のものだぞ。ジョーシキだろ」
少年はハン、と鼻で笑った。
「公共ってことは、皆が譲り合うってことだな。なら、今ここで俺がお前ら全員とっちめて俺に譲らせりゃ、俺が独り占めしても良いってこった」
言っていることが無茶苦茶だ。だが彼は本気だ。現に少年の腕力にかなう小学生はいないし、平日の昼間に大の大人はそう居ない。
子供らは目配せし、困惑している。殴られたくないのは皆同じだ。
「お前らは親切だなあ。俺一人で使ってもいいんだろ?」
不意に、少年が正太郎を注視した。
あっ、と喉から飛び出そうになった声を、咄嗟に右手で抑えつける。
なにしろ少年の、目尻に縦の傷がついた特徴的な左目は、眼窩がぽっかりとくり抜かれたように黒く、瞳は燃え盛る炎のように、金色に揺らいでいる。
正太郎は同じ物を、二度見たことがある。一度目はシンの目。二度目は、鏡越しに見た自分の右目。これを驚かずしてどうしよう。
子供たちは普通の目に見えるのか、誰も目のことを指摘しない。
「シン……あの人の目、変だ。もしかして僕らと同じ……」
同じく少年に注目していたシンは、みるみる顔を強張らせ、サッと正太郎を庇うように前へ躍り出た。
大柄な少年はジャングルジムを飛び下り、のしのしと正太郎へ近づいてくる。子供たちは脇へと避け、少年と正太郎を取り囲むような形となった。
「よお」
少年の金色の左目は、明らかにシンの姿を捉えていた。幽霊男は毛を逆立てて掌を突きだすや、青い炎が噴き出し、間髪入れず少年の顔に浴びせられた。
しかし少年は悲鳴をあげるどころか、シンの腕をむんずと掴み、不敵な笑みと共にぽーんっと放り投げてしまった。
「気が変わった。俺と勝負しろ、大山正太郎」
この一言には誰もが、何より正太郎がぎょっとするほか無かった。
「どうして僕の名前を?」
次の瞬間、正太郎らを囲む視線が変わった。
「お前、こいつの知り合いなの?」
純粋な好奇と親愛は、疑惑と軽蔑の色に変わる。先程まで手を握っていた芙美も、そっと手をふりほどいた。
見知らぬ隣人が敵の知り合いかもしれない、それだけで正太郎は見事に孤立した。
体の芯が冷えていく感覚が止まらない。以前にも嫌と言うほど感じた疎外感を、肌で、骨で感じる。
真矢の顔がよぎる。親友だった頃と、いじめっ子になった親友の、二つの横顔。
「ビビんなよ、チビ」
ハッと面を上げると、炎が瞳の奥に焼きついた。少年の左目で燃え盛る、ギラギラと輝く目玉が、まるで正太郎の胸に飛び火したかのような熱を肺に感じた。
少年は質問には答えず、尻ポケットに突っ込んでいた缶を取り出した。
「なーに、何もボコボコにしようってんじゃねえ。ちょっと変わった缶蹴りみたいなもんだ」
トン、と空き缶を地面に置き、鋭く口笛を鳴らした。
「ルールは簡単。この公園にもうすぐ犬が来る。そいつを先に捕まえて、缶を踏んだ奴が勝ちだ。お前が勝ったらジャングルジムは諦めてやるよ」
犬と聞いて、子供らは顔を見合わせた。
この公園はペット禁止だ。そもそも、皆が知っている缶蹴りのルールと全く違う。
普通は子役が缶を遠くまで蹴飛ばし、鬼が缶を探す間に子が隠れ、鬼が子を見つけて缶を踏み相手の名前を呼んだらアウト、というのが通常のルールだ。
「ま、否が応でも、お前ら隠れることになるさ。あいつはちょっと凶暴だからな」
刹那、金切り声が上がった。子連れの母親や子供らが蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
その原因を見て、一同は竦みあがった。
四足で歩く真っ黒い生き物がいた。針山のような鋭い毛並、鰐のような顎、だがそれはもはや犬というより、怪物。鼻は大きく風船のように膨れ、二本の細長い牙と、二又に裂けたような舌が、ぬらぬらと赤黒い泡にまみれて口からはみ出している。
何よりその獣は、あまりに巨大だった。子供一人くらいなら丸呑みだって容易いだろう。
誰からともなく絶叫し、一斉に逃げ出した。
残ったのは、正太郎と少年のみだ。
「まずは、お手並み拝見といくぜ」
少年はジャングルジムに再びよじ登り、正太郎らを見下ろしている。
怪物の足並みは鈍く、しかし一歩ずつ近づくごとに形容し難い悪臭に満ちる。
どう立ち向かうべきか、正太郎は考えあぐねた。
逃げる手もあるが、ジャングルジムから見下ろしてくる少年がそれを許さないだろうし、正太郎も彼に聞きたい事が山のようにある。
「なんてことだ、あの坊主め。俺を投げ捨てるどころか、あちら側の怪物を無理矢理呼び出しやがったか」
ぽんっとコルク栓を抜くような音がした直後、シンが再び姿を現す。かなり遠くまで投げ飛ばされたらしく、かなりご立腹だ。
「シン、とにかくあの犬を捕まえよう」
「なんだって、倒すのではなく?」
正太郎はあくまでも捕まえるつもりだった。怪物を倒してしまえば、おそらく反則負けだ。
彼が持ち出したルールは、あくまで犬を捕まえて缶を踏むこと。
正太郎の気持ちは今、ジャングルジムの少年の鼻を明かしたい一心だった。
金色の炎と視線がかち合った瞬間から、正太郎の中で燻り始めた新たな感情が今、メラメラと燃え上がっている。
勝ちたい、この男にだけは、どんなことでも負けたくない。例え妙ちくりんな缶蹴りだろうが、絶対にあっと言わせてやる。
右手は軽やかな動作でライターを掴み、目の前に掲げた。
「いくよ、シン。変身だ!」
青白い火柱が螺旋を描き、天を衝く。正太郎は迷わず、燃え盛る輝きの中へ飛び込んだ。
その光景を、もう二人ほど見ている者がいる。一人は、逃げたはずの芙美。
そしてもう一人は、公園の側を偶然にも通りかかった、紫の瞳が輝く、長髪の少女。
立ち尽くす少女の目は太陽の日差しを受けて輝き、白いケーキの箱を掴む小さな手に、力が入った。
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四話へ続く
僕らのワールド・アイライン 3話
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