放物線上チョコレート
放物線上チョコレート
もしかしたら今年は大丈夫かもしれない。
自宅の最寄り駅の改札を出てから、すぐに走って、よく知った緩やかな長い下り坂を駆け下りて、突き当たりを左折する。
そこには知り合いの家があるはずなのだけれど、結局私は、やっぱり今年もかと項垂れることになった。走って上がった息も落ちつかないうちに、くるりと回れ右をした。
今日は2月の例の日。
やっぱり、宮野くんの家の前にはたくさんの可愛い紙袋や花があった。
みんな宮野くんのことが好きなんだ。色とりどりのラッピングにはどれも女の子たちの気持ちが表れていた。ちゃんと受け取ってもらえるかな、美味しいと言ってもらえるかな。そこにいるプレゼントたちがそうやってそわそわしている。
かわいいなあ。
大丈夫、宮野くんはちゃんと受け取る人だよ。一人一人にちゃんと喜んで感謝してくれる人だよ、昔から。
そう分かっているのに、私は今までで一度だって彼にチョコレートを渡すことができないでいた。
受け取ってくれる、大丈夫。そう分かっていたって、あの数多くの気持ちたちの中に埋もれるのが嫌だった。
普段は、授業中の発言はしないからっておとなしく思われる私だけれど、本当は強欲だ。
宮野くんのことは小学生の頃から好きだった。
どうせこの気持ちが宮野くんのもとへ届くことになるんだったら、そのときだけでも私のことだけ考えていて欲しい。
他のチョコレートのことなんて考えないで欲しい。
でも宮野くんは優しい人なので。みんなのチョコレート、ちゃんと全部食べるんで。
そういう人なので、まずあの子の手紙を読んだら「ありがとう」と言ってカップケーキを食べる。
そしたら次はその子の手紙を読んで「ありがとう」と言ってクッキーを食べる。
その流れに乗っかるのは嫌だった。前も後ろもいらない。
じゃあ直接渡せば良いのだけれど、その勇気さえ出せない。
強欲なのに傲慢だから、こんなにズルズルと高校生になるまで来てしまったのだ。
いつも彼の後ろをこっそりついて行くだけで、同じ中学に行って、同じ高校に行って、スポットライトなんか当たらないところで、勝手に好きだと思っているだけの時間が一体どれほど過ぎたと思っているのだろうか。
それでも私は今年も、小さな紙袋を握りしめて、彼の家を背景に帰路についた。
「あれ、斉藤さんだ」
当の本人と遭遇したのは、坂道を上り切ったところ。
つまり、チョコを渡すのを諦めて引き返してすぐ、私は宮野くんに見つかってしまった。
どうしたのー、久しぶりだねえとほんわかにこにこして近づいてくる宮野くんに対して、なんて答えようなんて答えようなんて答えようと、私の頭の中は爆発寸前だった。
「さっ、笹川くんっていたじゃないですか。」
苦し紛れに絞り出したのは、中学生時代の二人の唯一の共通した知人であり、宮野くんの家のすぐ近くに住んでいる子の名前だった。
なんとか笹川くんの名前を出したけれど、一瞬、本当に一瞬だけ、宮野くんは眉間にしわを寄せた。
やっぱり怪しさが拭えてないんだ。
「ああ、笹川の家ね。そっち行ってたんだ。何か用事で?」
「わ、渡したい物があって。」
無事渡せましたか、と首を傾げて宮野くんが尋ねてきたとき、喉がきゅうっと締め付けられたみたいになった。声にならない想いは心臓に溜まって行く。
「渡せなかったんです、勇気が出なくて。私、臆病で。」
他の女の子の気持ちの中に埋もれたくないなんて託つけて、本当は渡す勇気がなかっただけなんです。直接渡す勇気もなく、間接的に渡す勇気さえない。臆病すぎるんです。
直接渡して直接ふられるのが怖い。間接的に渡して、知らないところでふられるのが怖い。
だから渡せない。
「斉藤さん、すっごい女の子だねえ」
宮野くんは、自分の両手を胸の前で合わせた。その姿はさながら、そっち系の人のようだった。
「そして、すっごい好きなんだね」
目線を横に逸らして、宮野くんは少し遠くを見た。
「自慢するわけじゃなく、本当に、いつもよく女の子がバレンタインにお菓子をくれるんだよ」
ぽつりぽつりと宮野くんは話し始めた。
よく知ってることから、よく知らないことまで。
毎年家に帰ったらいろいろ贈られてるんだ。その中には知ってる子の名前もあるんだけど、知らない子の方が多くて、中学のときの知り合いか高校の知り合いかさえ分からない。
それが本当に罪悪に感じられて、せめてものって感じで全部食べるんだ。名前も一人ずつ見るし、手紙も読むんだ。でも毎年毎年、望んでいる名前がない。本当に欲しいって子はいつもくれないんだ。
「だから、その子も斉藤さんみたいに考えてるんだったら良いなあって今思っちゃったよ」
宮野くんには好きな人がいたんだ。いつでも、その子のことを待っている。
誰なのか、それはもう気になってしまった。
そうやって言った宮野くんの眉毛は八の字になって、まるでその子をそこに写しているかのように瞳は優しくて、唇も笑っていた。目線はまだ、横に。
「宮野くんも、すっごい好きなんだね」
さっきの彼の真似をした。本当にそう思ったのだ。宮野くんにこんな表情をさせるほどに、その子のことが好きなんだね。
私の声に応えるように戻ってきた目に、一瞬さっきまでの面影を見た。
『まるでその子をそこに写しているかのよう』な瞳が一瞬だけこちらに向けられて、また喉が締まった。
まだ見ぬその子の姿を勝手にそこに思い描いて、羨望の眼差しをぶつけた。
宮野くんがこっちを向いてくれるのはとても嬉しかった。
でも、そのときはちゃんと切り替えて欲しい。
私を見るときの目に変えて欲しい。さっきまで好きな人を見ていたままの目で見ないで欲しい。
「だからさあ、渡してあげなよ。笹川も待ってるかも。」
ああ、宮野くんは勘違いしている。いや、私が勘違いさせたのだけれど、なんだかもう気にならなくなってしまった。
渡したくなったのだ、宮野くんに。
宮野くんが待っているのは私ではないかもしれないけれど、渡してあげなよと言ったのが宮野くんだったから。
「じゃあね、斉藤さん」と手を振った宮野くんはどんどん坂を下って行く。
今私が登ってきた坂を降りて行く。
待って、待って、「待って、宮野くん!」
宮野くんは坂の途中にいて、私が呼び止めると立ち止まって振り返ってくれた。
あ、まただ。宮野くんはまた、好きな子のことを考えていた。また、そんな目を一瞬した。
ええい、怯えるな、私。
好きな人がいるからなんだ。宮野くんは私のこと好きじゃなくても、私は宮野くんが好きなんだ。
「これ、受け取ってください!」
「え?なーにー?」
思い切って紙袋を投げた。
冷静に考えればとても女性らしくない大胆な方法だけれど。
テープで口を留めていたわけではない紙袋からは中身が空中で飛び出した。
その小さな箱は放物線を描いて、やがて宮野くんの手に収まった。
よく見ると宮野くんの手は高く空へ伸びていて、まるでその箱を絶対に落とさないようにしていたみたいだった。ゆっくり肘を曲げて手を引いて、優しい手つきで箱を抱きしめた。
「危ないなあ!これ、笹川に渡しておけば良いの?」
二人の中間地点まで小走りにやってきて、紙袋を拾って言った。
「もう、女の子なんだからさあ」
「ご、ごめんなさい」
なんだか、宮野くんは本当に勘違いしていて、未だに私は笹川くんのことが好きだと思っている。
でも良い。その袋に貼った付箋を見たら気づくよ。
それは宮野くんのチョコだって。
放物線上チョコレート