薄氷の上で踊るように

 男がアルバイトから帰ると時刻は午後の十時を回っていた。玄関の扉を開けた彼を待っていたのは、窓からの街灯の光によってわずかにものが判別できる程度の暗い部屋だった。まるで冷蔵庫の扉でも開いたように冷たい空気が外と変わりなく男の頬をなでた。
 男は外套をソファに脱ぎ捨てると、その上にどっかりと座り、ストーブを点けて手をかざした。チロチロと揺らめく青い炎を見つめていると先ほど受けた仕事先での嫌な気分が和らいだ気がした。それでも男の頭の中では追い出そうとしても何度でも湧き上がり再生される像が流れていた。それは彼の上司の振舞い、態度、口調、台詞などであった。
「馬鹿にして」
 男は怒りに満ちた呪詛を暗い闇の中に吐き出した。ストーブの炎に照らされて目の前に浮かび上がる自分の両手を凝視しながら、男は自分がだんだんと年を取り、疲れ始めているのを感じた。手はざらつき、白く乾いた皺が刻まれ始めていた。
 紙パックの一升千円程度の焼酎をグラスになみなみと注ぎ、薬でも飲むように顔をしかめて干した。今日は酒がまずい気がした。そもそもここ一週間くらいはどうも酒がまずいのであった。それが今日は格段にまずく感じる。それでも酒が胃に収まって熱を放ち始めるとじんわりと暖かくなってきて、脳もぼんやりと滲んできた。
 テーブルの上に残っていたスルメを齧りながら、男は想像の中で上司を幾度となく殺害した。彼は記憶が薄い性質ゆえか、過去への未練や後悔は少ないが、代わりに現在の意識にひどく囚われるところがあった。それゆえ男は憎い上司を殺さなければならなかった。そして満足するとほっとしてまたグラスに酒を注いだ。男にとって日常はあまりに暗いことばかりなので、酒によって輪郭をぼやけさせ、少し明度を上げる必要があったのだ。世界には光が足りない気がした。
 アルコールが男の詩想を加速させ、ハローワークの職員、転職活動先の面接官を殺させた。空想の中で彼は社会の不正を糾す革命家であり、悲劇の主人公であった。彼はソファの片隅にある本を取り上げて適当な頁を開いた。登場人物は叫びを上げて、人間が駱駝と獅子のさらなる先へと至るべきことを説いていた。男は数頁も読むと満足して本を閉じた。その著者はまさに自分と同じ精神を持っている人物に思えた。彼はまさに一人の獅子だった。
 だが、最後に読んでいた頁の比喩が彼の頭の中で不吉な言葉をささやいているように思われた。そこでは人間は崖と崖を渡すロープの上で揺れている生き物だった。戻るにも行くにも彼には不可能が多すぎたのだ。だが男に不安を覚えさせたのは比喩の意味ではなく、そこから連想される風景だった。問題はロープ。それは線分であり、限界がある長さだった。少なくとも彼の想像の中では。それは突飛なことに男に人生を連想させた。始まりと中間と終わりを持つその形はまさに人生そのものだった。男の思考はさらに羽ばたいて、自分が老人になった姿を想わせた。
 老人はもうそれ以上生きるには年を重ねすぎていた。子や孫がいるかは定かではなかったが、彼は安楽椅子に座って庭を眺めていた。季節はすっかり秋で、庭に植えられた楓の葉が紅く色づいている。老人は自分の手をふと見た。そこには生物としての限界、重すぎる年月、深く刻まれた無数の溝があった。老人はふと胸騒ぎがした。心臓がひどく凍えるように痛んだ。霞ゆく視界の中で老人は自分が死ぬことを悟る。そしてすべては暗黒に満たされる。あるいは暗黒ですらなく、視点も対象もない透明さだけが広がる。その透明な地平が足元に広がっていることを男は思い出した。
 彼はすべての支えを失って身も心も暗い透明さに放り出された。むろんこのことはなにも珍しいことではない。いつのころからか男は、自分が薄氷の上を歩んでいるということをひどく自覚するようになっていた。それは年を追うごとに深みにはまりますます色濃くなる恐怖であった。道行く途上に不条理にも突如出現する扉のない分厚く巨大な壁であり、すべてを引きずり込む砂漠の流砂の中心にある黒い穴であった。
 それは陳腐なことに死であった。男は自分が存在の膜によって辛うじて無の底へ引き寄せられないという事実の脆弱さと不条理に支配されていた。それは現に今ここにいる自分がいずれある時刻にはこの世界から無くなってしまう、生まれる前の状態に還ってしまうことへの恐れだった。しかし同時に男の惨めな生活を終わらせて救い出すことができるのも死だけであることは確かだった。だがそれでも自分が死んで無くなってしまうということを考えると、足元の薄い層が割れて奈落に落ちるような、言いようのない恐怖と不安に男は陥るのであった。その感覚に囚われると目の前の世界は急によそよそしくなり、まるで自分だけが暗闇の中に、一本のわらの寄る辺さえなく、落ちていくような不気味な浮遊感に包まれるのであった。
 男は酒をさらに食らいながら、中空に放り出されたような不安感と虚無感にたゆたっていた。そのゆらめきのなかで男が乗ったグラスの小舟は静かに河を下っていった。男はグラスの酒に身を浸しながら、河の中に時折現れる鱗のきらめきに嬉声を上げた。ふと見ると川の両岸にはひどく対照的な風景が広がっていた。片や枯れ草がやっと生えているような荒野であり、片やコスモスやパンジー、マリーゴールド、その他多くの花々が雑多なまでに季節もなにもなく咲き乱れる花園だった。
 気づくと男の手にはロープが握られており、それは花園の方に繋がっていた。ロープを手繰り寄せるにつれてグラスの小舟は岸に近づき、やがて着岸した。男は地に降り立つとそのまま寝転がって深く息を吸った。久しく忘れていた安らかな感情が男の体から溢れ出して花々の間に流れ出て行った。どこからともなく鳥が舞い降りてさえずり、顔の横を蛙が跳ねて通り過ぎて行った。男はこの場所に常しえの春を、夏の激しさも秋の豊かさも冬の厳しさも兼ね備えた永遠の季節を感じた。
 やがてあちらこちらから老若男女が集まってきて、緩やかに茶会が始まった。それぞれがサンドイッチやクッキー、紅茶などを持ち寄ってきた。男にもカップが手渡され紅茶が注がれた。紅茶はずいぶん甘いミルクティーだったがそれがとても好ましく感じられた。男は人々の性別や年齢、服装などが多岐に渡っていることは分かったが、誰もがさっき老人だったかと思うと若者になり、ジーンズをはいているかと思えばロングスカートを、スカーフがネクタイに変わり、女性が男性になり、変幻自在に移り変わっていった。それでも男にはこの人たちが子供のころ近所に住んでいたなじみの人たちのように懐かしく温かく感じられた。
 男が一杯の紅茶を飲み干すころには花々は木々に変わり、楢や樫の木が天を覆い、幾筋もの木漏れ日が降り注いでいた。男はバスケットの中にあるサンドイッチに手を伸ばしてハムサンドを取って口に運び、素朴だがとてもおいしいと目の前の人に感想を述べた。そしてふと自分の手が老人の手になっていることに気がついた。男はいささか驚いたが、誰か親切な人が安楽椅子に座らせてくれたので安心した。
 男がサンドイッチに胡椒を振りかけていると、隣に座っている老婆あるいは少年が、昔自分が死をひどく恐れていたこと、けれども同時に死の意識が自分を超越の視点に導き、死の虚無が恐れであるとともに一切の安らぎでもあることを確信させ、一種の生の享受をもたらしたことを語った。 
「私もまさにそうなのです」
 男は深い共感とともに相手の若者に同意した。相手はやさしく微笑むと静かに自分の手を男の手に重ねた。男はこの人が本当にすべてを分かっていることを悟った。ひとつの流れである運命にすべてを委ね受け入れるだけでいいのだということが、血潮の温もりとともに男の手に流れ込んできたのだ。それは以前から知っていたことではあったが、今やっと男は分かることができたのであった。それはまさに到来であり、目の前の相手はまさに自分自身であるかのようにすべてを認識し、理解させてくれたのであった。
 まるで渡れるにもかかわらず赤信号のために立ち止まっていたかのような滑稽さを男は覚えた。彼は渡れることは知っていたはずなのに、ただ渡らなかっただけなのだ。
 男は数年来長らく感じていなかったような安らかさに憩いながらおしゃべりを楽しんでいたが、ふと自分が大変な忘れ物をしてきてしまったことに気が付いた。それはいささか急がなければ手遅れになってしまうような気がした。
「すみません皆さん。少し急いで帰らなければならない用事を思い出しました。今日はこれでお暇させていただこうと思います」
 人々は皆やさしく微笑むと、思い思いの別れの挨拶を述べ、またいつでもここに来るとよいと言って手を振った。
 男は安楽椅子から立ち上がると、いつのまにやら少年となって走り出し、森の中を駆け抜けていた。羊歯の下草を踏みしめて森を出ると、そこには男の家があった。それは子供時代に男が住み親しんだ家であった。白い壁と赤い屋根の生家に懐かしさを覚えて男はまっしぐらに駆け寄った。
 そうだ、今日は学校で工作があってロープを持っていかなければならないのに、すっかり忘れていた。学校に着く前に気が付けてよかったと男は安堵した。そして土汚れを玄関扉の前ではたき落とすと、瞼を開けた。目の前にはストーブの青い炎がちらつき、彼はばたばたとやかましい音を立てる自身の両足を見つけた。両足は彼の目の前でグラスを蹴散らし本の山を突き崩した。自分の意志とは関係なくもがく両足に生への意志を見出しながら、男はひどい息苦しさの原因をやっと思い出して、立ち上がるように両足に命じた。ドアノブに結び付けられたロープが緩み息苦しさがなくなったので、ロープを首から外した。
「危ない。死ぬところだった」
 男はロープをゴミ箱に捨てると、グラスをテーブルの上に置き、崩れた本の山を組みなおした。それからキッチンに行って薬缶を火にかけた。冷たい水道水が湯に変わるまでの間、男は煙草を吸ってぼんやりと記憶をさかのぼった。なにかさっきまで幸福な夢を見ていた気がしたが、それが幸福な像だった以上のことを思い出せはしなかった。短くなってきた紙巻きをぎりぎりまで吸いながら、一筋の煙がだんだんと乱れて霧散するのを男は見送った。
 コーヒー豆を挽いてドリッパーに入れると、沸いた湯を薬缶から細く注ぎ入れていった。短いようで、それでいて妙に長い時間を感じながら、男は最後の一滴がドリッパーに落ちるまで薬缶を傾け続けた。
 熱く苦いコーヒーを飲みながら、ふと灰皿の煙草が燃え尽きて灰になっているのに彼は気が付いた。この煙草は湯が沸いた瞬間、灰皿に置いたときにはまだ火種が残っていたのだった。
「別に死んでも生きても同じようなものかもしれない」
 コーヒーに口をつけると微笑みがもれた。男の足元には相変わらず薄氷を挟んで深淵が広がっていたが、それはもはや虚ろな物の怪の相貌ではなく、ただ朗らかな笑いだけを渦巻かせていた。

薄氷の上で踊るように

薄氷の上で踊るように

仕事から帰宅したフリーターの男は疲れ切っていた。彼は酒を飲みつつ空想をし、やがて幻想的な世界に誘われ死の恐怖を克服する。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-03-31

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted