Life in silence

Life in silence

精舟

 はらはらと降る雪は彼にとって良い兆候であった。彼はパイロットである。ただし、単なる飛行機の操縦士でもなければ、そもそも人間ですらもない。彼は飛行する小型兵器を繰るべく造られた、人工知能(A.I)であった。
 彼には名前があった。「精舟(せいしゅう)」という、どちらかと言えば機体自体に付けられたかのような紛らわしい名が付けられていた。精舟は半年前から仕事に就いている。他のパイロットと比べればまだまだ新米の部類だが、彼にはこれから先、十年以上ものキャリアが予定されていた。彼は新たに開発された最新鋭の知性体であり、その身体とも言える回路には、現段階における最高度の技術と期待とが詰め込まれていた。
 精舟は一面灰色の空を見ながら(かつて人間はその動作を「走査する」と呼んだ)、興奮を抑え切れずにいた。彼は雪を愛していた。彼にとって最も快く、自分の持つあらゆる感覚が最大限に冴え渡っている時、常に傍らにあったのが雪であったからだ。さらに言えば、彼は雪のもたらすある不可解な作用を信じていた。つまり、幸運をである。
 精舟にとっての幸運とは、敵機との遭遇に他ならない。人間のパイロットであれば考えられなかったことだが、精舟は撃墜されることを微塵も恐れていなかった。無論破壊されることは好ましくないが、人間とは違い、彼の場合はそれが致命的ではない。彼はあらゆる場所に、いつでも同時に存在できる。
 彼は仕様として戦いを欲していた。経験に次ぐ経験が彼をより強くするのである。精舟はこの頃続いていた平和な日々の自分を死体同然であるとさえみなしていた。動き続けない限り、彼はずっと暗闇の中に居ざるを得ないのである。
 静かに降りしきる雪の午後、期待通り、精舟は三機の僚機と共に敵陣に差し向けられた。彼らは基地を飛び立つと、鳥のように固まって移動を開始した。彼らの任務は敵基地への爆撃と、山脈を挟んだポイントにある施設の偵察であった。目指す基地には飛行兵器の配備がないと確認されていたが、施設付近の戦力については未だ不明であった。そのため精舟らは各々空戦用のミサイルを各々一対装備して、まずは基地へと向かった。
 彼らの上方には薄く濁った雲がぼんやりとうずくまっていた。雲の上に出てしまうと敵に見つかりやすくなる。精舟らはそのため、いつも地上付近を飛んでいた。また下方では、昨晩から今朝にかけて積もった鮮やかな雪が、どこまでも平らに、ぶ厚く、だだっ広い田園地帯をもったりと重たく覆い尽くしていた。
 時折雲が途切れて青空が見え隠れしている。陽光を浴びた精舟の身体の上を、解けた氷の滴が、つうっと進行方向に逆らって伝った。精舟はそれを心地良いと感じた。水滴の乾いた後に残る埃の跡が彼は結構好きである。学習によって新たなプログラムが組み込まれていくのとは別に、自分の身体に軌跡が残っていくのはなぜだか嬉しい。
 精舟たちはやがて基地の警戒区域に差し掛かった。仲間内で最も敏感な精舟をリーダーとした一団は、いとも簡単に敵の敷いた網を掻い潜り、目標物を補足した。精舟の目は往々にして、僚機の目ともなりうる。彼らは別個の知性体でありながら、同じプログラムから派生したため、あたかも母胎内の双子のごとく、その身体を近しく共有しているのであった。
 どうやら敵の警備は事前の情報通り手薄であるようだった。少なくとも精舟と同等の力を持つ知性体が導入されてはいないことは反応の鈍さで察しがついた。とすれば、後は地上からの攻撃にだけ警戒すればいい。
 地上には人間がいる。精舟は内心の苛立ちを隠しきれなかった。彼らは今日の任務では人間を傷付けることができない。もし禁を破れば二度と飛行が許されなくなってしまう。退屈なわりに、面倒でリスキーな任務であった。
 ともあれ標的を破壊するため、精舟は目標地点に向かって注意深く荷を解いた。全く同じタイミングで、全機から一斉に贈り物が落とされる。放たれた物はすべて完璧な放物線を描いて火柱を立てた。
 たちまちのうちに、精舟たちは熱烈な返礼を受けた。地上からのミサイルは賢くないが、とにかく数があった。煩わしいことに、人間のせいで反撃もできない。幸いどれも精舟の機体には当たなかったが、僚機の一機が避けそびれて打ち墜とされた。
 燕に似た形の僚機の機体が錐揉みしながら雪原に吸い込まれていく。直後、精舟の眼下にポッと美しい火の手が上がった。彼はそれを視界の端に眺めながら、風を掴んで、やや高い所に昇って行った。
 それからすぐに基地から連絡が届いた。計画に変更はなし。さらに北へ向かえ、とのことだった。
 精舟らはしばらく静かに飛んだ。屹立する連峰から吹いてくる風は凄まじく、だが、彼らは揺るがなかった。見上げると山頂辺りはさらに激しく吹雪いている。タイミングが良かったと思ったのも束の間で、たちまち精舟らの周囲の天候も悪化した。
 機体の翼にぴりりと氷が付着していく。精舟は全神経を使って前方を注視した。荒れ狂った風が四方から殴りつけてきて、金属の身体を千切らんばかりに揺さぶった。雪片は最早無数の弾丸と化し、容赦なく機体の全身を打ちつけた。精舟は渓谷を抜けるまで飛行以外のことは一切考えなかった。こんな雪嵐の中では、どんなサポートの声も届かない。頼れるのは完全に自分だけだった。
 山岳地帯を一番に抜けたのは精舟の機体であった。僚機らは少し遅れて無事について来た。足並みを合わせるために精舟はやや速度を落とし、全機を集めてから進路を施設へ向けた。
 山麓には杉の森が広がっていた。一本一本の無個性さがかえって彼らの緑の深さを迫力あるものに見せている。高く(見下ろしている分には玩具のように小さく見えるのだが)、愚直なまでに鉛直に並び立つ木々の狭間には、無数の命が息づいていた。精舟は彼らの存在を鼻先で微かに感じつつ、黙って飛んだ。光や熱で構成された彼の世界では、彼ら動物の姿はごくぼんやりとしたものでしかない。それは例えば、人間の思うところにおける「点」と同じように、精舟には感じられていた。動けば線にもなるし、線があれば面もできる。だがすべては所詮抽象的な、漠然とした印象しかもたらしてくれない。
 逆に何よりもよく見える、わかる、面白いと感じるのは、敵の存在であった。敵は何よりも具体的に知れた。精舟はそれと対峙する瞬間、この上なく高揚する。身体中に電流が駆け巡り、全神経が雄叫びを上げる。その出会いが、雪が降っている日であればなお好ましかった。精舟は冷たい、ノイジィな時ほど敏感でいられたのだ。
 精舟は動物の中で人間だけは特別に区別するよう教わっていた。だが、そんなことが出来ても何も面白くはない。例え人間にどんな色がついていようとも、本質的には点と同じである。やはり相手にするのは、自分と同じような、知性体が望ましかった。それもできれば、吹雪みたいに獰猛なパイロットが素晴らしい。ピリピリと緊張した、充実した時を過ごしたい。精舟は先の渓谷でのフライトを思い出して、少し火照った。
 目的地へ進むにつれて、風雪がまた強まってきた。精舟は向かい来る風を次々と切り裂きながら一直線に飛んで行った。
 近い、というのは、まだ予感でしかなかった。こうした天気と状況では、敵はこれまで必ず彼の目の前に現れてきた。だから、今日も会える。精舟はそう己の運を信じて疑わなかった。
 彼の願いは届いた。
 精舟はいち早く敵影を捕らえ、基地へ遭遇を伝えた。戦闘許可が返ってきたその頃、精舟はすでに敵に向かって舵を切っていた。僚機たちが一拍置いて、精舟の後を追った。
 冷え切った大気が精舟の傍らをビュンビュンと流れて行った。エンジンはまだもどかしげに疼いている。僚機が遅れ始めたが、精舟はもう構わずにさらに加速した。機体に纏わりついていた氷がゴロリとはがれ、動力がいよいよ景気良く回り始めた。
 眼下は銀世界だった。遥か遠くを囲っているのは、かわり映えのしない樹海と山脈である。戦いの邪魔となる地上からの鬱陶しいミサイルも、人間もいない、戦いに最適な環境だった。
 敵は五機と判明。精舟は真っ先に両翼のミサイルで先頭の一機を狙った。軽い彼の機体には似合わない装備なので、まず捨てたのだ。命中することはほぼ決まっていた。精舟のコントロール下にある限り、ミサイルは忠実で執念深い、絶対の猟犬だった。
 残るは四機。精舟は警戒を張り巡らせた。十時の方向に二機、その少し上方に二機。どれも血眼で精舟たちの位置を探っていた。
 やがてすぐに反撃がなされた。散開した敵群は無差別に、方々からミサイルを撃ち出した。対する精舟は焦らず、自分に向かって誘導されてくる弾の電子回路をいとも簡単に手懐けて始末した。
 僚機たちの撃ったミサイルが続々と精舟の上空を通過して行く。察した相手は回避行動に入って行った。精舟はさらに後から縋ってきた敵のミサイルを回避し、僚機の猟犬を少し手助けして進路を修正してやった。同時に先に放った精舟の刺客がようやく一機を仕留めたのを見届けた。
 上方の一機と側方の一機が速度を上げて精舟の後ろへ迫って来た。どうやら追手を振り切ったらしい。どちらも良く知っているベテラン機であり、精舟は躊躇いなく迎え討つことを決めた。
 側方の一機は内からの大胆な旋回で精舟の追い込みを開始した。もう一機は精舟を挟み込むべく、反対方向への旋回を始める。
 精舟は加速し、相手のさらに内側へ急旋回した。すると追手は追い切れずに大きな弧を描いて去っていく。精舟はそのまま最大出力で一気に高度を稼ぎ、外側へ向かう螺旋軌道で降下に転じた。よじって見下ろす位置に敵がいる。やっと機首をもたげたところ。精舟は機銃の照準を定め、短く撃った。
 すぐさま身を翻すと、際どいラインを敵の機銃が通過した。どこだ。探す間に、反対側を回っていた一機と交差した。相手は猛烈な勢いで加速していた。距離を取りたいのだろう。精舟は追いながらより深く降下し、相手に合わせて速度を上げた。着実に、距離を詰めていく。精舟は徐々に上昇し、敵を射程に捉えた。
 撃って、次へと向かう。彼の後下方では敵機が燃えていた。感傷に浸る間もなく、精舟は嵐のごとく次の獲物へと喰らいかかった。
 強い風が雲を吹き飛ばしつつあった。遠い雲の切れ間から儚げな青空が戦いを見下ろしている。雪原の上を飛び交う黒いたくさんの影は、鳥と呼ぶにはあまりに粗雑で、凶暴であった。地上の所々に揺らめく墜落した機体の炎は、何を思ってか、じっと空に向かって手を伸ばしている。ほろほろとこぼれ落ちる火の子は空しく空を舞い、たちまち雪原の上に溶けて失せた。
 精舟は相方を失って苦戦している僚機を助け、一機を追い墜とした。次いで未だ敵に追われ続けている僚機に指示を出し、自分はそれに釣られた敵方の軌道に合わせて、真っ向から迎え撃った。
 急接近する精舟の機体と、相手の機体。すれ違うまでのごく短いはずの時間、精舟は確かに時が止まるのを感じた。
 機銃が、火を噴いた。精舟は正面に墜ちて行く相手を見ながら、軽やかに機体を滑らせて離脱した。
 一瞬の空白が、大気を満たす。
 突如、精舟はエンジンを唸らせ、最高速度で駆けだした。背後ではすでに彼の僚機が黒い煙を吐いていた。精舟の目にはいつの間にか、もう一機、途方もないスピードで上空後方から近付いてくる未知の機影が映っていた。僚機は相手の撃ったミサイルで墜ちたのだ。
 精舟は敵を振り切るべく頭上方向へ旋回に入った。さっきまで自分のいた場所に鋭い銃弾が撃ち込まれる様を背面で見やる。遠心力が思いきり機体を空に押し付けた。敵からの捕捉を知らせる警戒信号がけたたましく全身を震わしていた。
 精舟は頂点過ぎで機体をぐんと傾け、基地方向へ転じた。強風をものともせず、全力で白銀のカーテンを裂いて走る。帰還の命令はまだ聞こえなかった。
 何という幸運。極上のパルスがいよいよ精舟を昂らせた。
 敵機は精舟の軌道をよりシャープに辿り、ぐんぐん迫って来ていた。
 ……まだだ。
 精舟は焦れる己をなだめて、百年のような一瞬を耐えた。相手の射程に入る、寸前まで。
 ふ、と、精舟の機首がスライドした。刹那、相手の急な横滑りに対応できなかった敵が機銃を撃って精舟を追い越して行った。精舟は沈みこむ機体をねじって姿勢を整え、夢中で速度を回復させた。
 大きく対側を旋回しながら、睨み合う。青空を背景にした敵の、隼に似た姿は厳かですらあった。
 その時、ふいに精舟の空と雪原とが、反転した。
 精舟は真っ白な大地に引きずり込まれながら、体勢を整えようともがいた。だが、無駄だった。精舟の手足はもう完全に機体からもぎ取られていた。
 ――――ハッキングか。
 そう気が付いた時に、精舟にできることは何もなかった。彼はあらゆる感覚器官からすっかり孤立し、ただ虚無だけの、点すらもない、完全な無の真っただ中に取り残されていた。
 精舟は高速で地獄へとなだれ落ちていく深く垂直な渦の中で、何か鈍重な力が、初めは少しずつ、そのうちには急激な濁流となって、場に滲み込んでいくのを感じた。緊張とひずみはどんどん重く、息苦しく、発散的に広まった。回転の遠心力がそれにうんと拍車をかける。
 精舟は悲鳴を上げていた。自我か、バグか。彼にはもう何もわからない。悲鳴の振動が場全体に伝播し、混沌はますます膨れ上がった。やがて場のエネルギーが臨界点に達して飽和しかけた時、すべてが白く閃き、鮮烈な光に包まれた。
 精舟は、だが、なお踠いた。
 ふいに一部の回路が息を吹き返した時、精舟は獰猛にそこへ齧りついた。
 一筋の稲妻が機体に走る。刹那の間、精舟の眼前に空が戻ってきた。精舟は無音の咆哮と共に、相手へ機銃を撃った。
 届くか。
 精舟が見届けるより前に、空は沈んだ。


 …………
 …………遠く青い空の上を、一つの機影が煙を引いて去っていく。
 日に照らされた雪がひどく眩しい。我に返った精舟はいつしか、どことも知れない雪原の上に横たわっていた。
 近くには森と、墜ちた機体の残骸がくすぶっていた。ずっと奥には険しくも美しい山々が、淡く霞みつつ連なっていた。
 森に群生している杉の木は、近くで見ると一際太く感じられた。高い枝からどさりと落ちてくる雪には思いのほか迫力がある。
 精舟は再び空を仰いだ。大きな鳥が一羽、柔らかな曲線を描いているのが見えた。
 自分が最初に撃ったミサイルは、実は、最初の一機には当たらなかったのだろう。墜としたという偽の情報を掴まされたまま、泳がされていたのだ。相手は精舟への侵入が完了するのを、雲の上かどこかで待ち伏せしていたに違いない。精舟はまるで他人事のように、遠い過去じみた先刻の出来事を思い起こしていた。
 最後に放った弾丸は恐らく敵を仕留めきれなかった。精舟は自分がもう飛んでいないという事実に歯噛みした。ここからでは届かない空の重さに押し潰されそうだった。二度と誰にも染まらぬと、彼は深く誓いを刻み込んだ。
 ふと精舟が振り向くと、森の影に動物がいるのがわかった。目を凝らしてみたが、精舟にはその姿がよく見えなかった。その小さなものはいとも不思議そうにじっと見つめてくる。精舟はしばらく相手を見返していたが、そのうちに諦めて、目を逸らした。
 そして彼は三度、空を見た。
 先程の鳥の軌道と、かつて自分の描いた軌道が重なり、新たな軌道が浮かんでくる。素晴らしい。精舟は静かに目を瞑り、その幻の道筋を幾度となく辿った。
 何となく機体の埃の跡が懐かしく、けれどその軌跡はどうしても思い起こすことができなかった。

偽櫻(1)

 私の愛機、深山に搭載されているA.I「偽櫻」は至極素直で、聡明な人格を有していた。大昔には戦闘機として大戦の第一線の空を飛んでいた深山の少々厄介な個性も、彼女にかかれば箱入り娘のように奥ゆかしく、ひっそりとなりをひそめた。
 私の深山は競技用のレプリカではあったが、航空法に従って最新の通信機器を包み込んだ内装はともかく、外見はその機銃も含めて、かつての古き懐かしき時代(私の曾祖父さえ幼かった時代ではあるが)の趣を完全に再現していた。
「おはよう。今朝も美しい朝だね」
 私の呼びかけにA.Iは、やや素っ気ないとも言えるような自然な調子で返事した。
「おはようございます、天心さま。今日はいかがなさいますか?」
 私はコクピットに乗り込みながら目的地を告げた。すると前面に広がるディスプレイの中央に蛍光色の文字が表示され、A.Iが目的地に関する問いをスラスラと読み上げた。私はそれらにいちいち承認を与えつつ、機外の景色に目をやった。
 この郷里の空港にはもう何十年も帰っていなかったというのに、不思議と未だに見慣れていると感じられる景色だった。遠くが淡くかすんで見えるのは私の視力が弱ったからというだけではなく、湿気の多い土地特有の気候ゆえである。
 奥まるにつれぼやけていく山々の輪郭は、かつて私が空戦競技の練習生として、この飛行場から初めて飛び立った時から、何一つ変わっていなかった。思えばあの頃はまだ、誰もがこの景色を見ながら、己の手で離陸を行っていたものだった。
 連綿と続く山脈の中でも一際高く抜けた、滑走路の正面からよく見える白老山は私の大のお気に入りであった。私はあの山を目印として機体を浮き上がらせ、大らかな安心感の中で飛び立っていったものだった。
 だが、今はもうそれと同じ景色をこの地の訓練生が見ることはないだろう。離陸から上昇、その後の巡航に至るまで、今はすべてA.Iが行うことになっているからだ。パイロットは最早存在しないとさえ言われている昨今である。座席にいるのはただ「YES」をタップするだけの、有機的なパーツに過ぎなかった。
「天心さま」
 ふと偽櫻に話し掛けられて、私は我に返った。
「ああ。どうした?」
「やや心拍数が上昇しています。お加減が優れませんか?」
「いいや、そんなことはない。事前のメディカルチェックでもそう診断されていたはずだが」
「チェックは万全ではありません。そのために私がいるのです」
 私はキャノピーに映りこんだ自分に向かって笑みを向けた。
「いや、本当に問題ないよ。少し昔のことを思っていただけだ。心配ありがとう」
「わかりました」
 偽櫻はそうコンパクトに答えると、ほどなくして管制塔との通信を開始した。私は画面上をするすると流れていく交信記録の文面をしばらく黙って見守った後、再び、窓の外へと視線を移した。
 白老山は吹き抜ける青空の下、今朝も気高く鋭く聳えていた。山頂の冷たく清浄な大気がここまで伝わってくるようであった。
「エンジンを始動します。周囲に危険物がないか、最終確認を行ってください」
 偽櫻が決まりきった文句を唱え、私もまた「クリア」と、決まりきった動作と文句を繰り返した。
 やがて合図とともに、機体が激しく震え、タキシングを始めた。動力系は正常と偽櫻が淡泊に告げる。機体はそのまま、予定された滑走路へと向かって行った。
 ――――A.Iは少しずつ、パイロットを人から部品へと変えていった。初めはA.Iの方が部品であったはずだった。初期型のA.Iにはあくまでもほんのサポート的な役割しか任されていなかった。
 例えば、現在行っているような地上滑走。あるいは、失速時における一時的な姿勢制御。他には、周辺状況に対する簡易なモニタリング等である。A.Iは基本的には人間が行う動作の補助として機体に組み込まれていた。
 それが今や全く逆の立場となってしまった。私達はより上位のチェック機構へと「進化」した。
「天心さま。離陸許可が出ました。ランウェイ23Rより出発いたします」
「了解」
 心なしか偽櫻の音声は先よりも柔らかな響きを持っていた。私は緩やかな速度で滑走路へと滑っていく機体の中で、念のためという口実を設けて、操縦桿とスロットルに手を添えていた。近年のマニュアルでは誤操作防止のため、絶対にやるなと厳重に戒められている行為である。A.Iによっては、これらのものに人の手が触れた瞬間に警報を鳴らすこともあるという。私達が機体に触れられるのは、ほぼ完全に安全と見做された環境下、管理された空域内においてのみなのだ。私達は冷厳な統計学的事実によって、とうの昔に「危険因子」の烙印を押されていた。
 滑走路に入った機体はセンターラインに行儀よく並ぶと、ぴたりと停止した。
「どうされますか?」
 どこか棘のある口ぶりで偽櫻が私に尋ねた。私は肩をすくめ、操縦桿を強く握りしめて答えた。
「君のお察し通りだ。やりたくなった。やはりこの景色を見ていたら、たまらない。構わないかい?」
 偽櫻は猛るエンジン音の中にあって、それでもよく通るナチュラルな抑揚をつけて返答した。
「わかりました。どうぞお楽しみください」
「ついにふてたか。まるで子どもでもあやすかのような調子だ」
「そんなこと。ですが天心さまが本当にお子様でしたらと、思わないこともありません」
「どういう意味だ? またいつもの嫌味か」
「いいえ、私は常よりそうした手法は好みません。私は素直なご主人様を望むのみです」
「やはり嫌味か」
「…………タワーに叱られてしまいました。誰もいないのに仕事熱心なことです。そろそろ出発しましょう」
「OK」
 私はスロットルレバーをぐっと前へ倒した。
 機体がみるみる加速していった。実に素直な向い風が吹いていた。私はエンジントルクを打ち消すために右ラダーを当てながら、特に難もなく規定速度に達して、操縦桿をやおら引いた。合わせて機体はゆったりとその身体を風に任せた。
 上昇するにつれて、機体の表面を風が景気良く流れていった。重力が縋りつくよりも遥かに力強く、エンジンは私達を空へ連れて駆けた。私は己の身体がシートに押し付けられる快感に浸りながら、うっとりと正面の景色を眺めていた。
 白老山は絶えず小刻みに震える機体と裏腹に、厳めしいまでに堂々と佇んでいた。物言わぬ澄み切った空に包まれた山頂は女神のごとく優雅で酷薄な表情をしていた。
 私は場周経路に沿わせ、機体を徐々に右へ傾けていった。偽櫻が気遣わしげに私の一挙一動を見張っていたけれど、私は素知らぬ顔で操縦を続けた。もどかしそうな彼女の様子には嫉妬すら窺えた。可哀想な奴だ。聞き分けの良い奴はこんな時、羨ましがるしかないのだ。
 しばらくの後、私は過たず目的地への航路に機体を乗せた。あとは、かつてのパイロット達が言うところの「コンピュータにでもできる仕事」だった。
「満足なさいましたか?」
 ぶっきらぼうな偽櫻の問いに、私は名残惜しさを隠そうともせず、いたずらに翼を揺らしながら答えた。
「ああ、大分ね」
「では、自動運転に切り替えましょう」
「まあ待て。そう急かさずに、もう少し私に任せてくれないか?」
「…………」
 人と同じで、A.Iの沈黙は必ずしも了解を意味しない。私はいじける相手に対し、なるべく和やかに語りかけた。
「実は、私の飛行と一緒に君に聞いてもらいたいことがあるんだ。君からすれば鼻で笑うべき話かもしれないのだが」
「…………」
 私はディスプレイの端、メッセージボード上に点滅する慎ましやかな緑色の光を彼女の肯定として受け取って微笑んだ。私はそれからトリムを当てて、今少し丁度良い具合に機体を落ち着かせてから話し始めた。

偽櫻(2)

「昔、私が訓練生だった頃、一度危険な目に遭ったことがあった。私の不注意が原因だった。まだ君達A.Iがごく幼い時代の話で、君達は限られた区域の、専用の自動車であれば何とか扱えるというぐらいの認識しかされていなかった。今では考えられないが、旅客機にパイロットとして人が乗っていた時代だ。
 当時の私は自分の技量に思い上がっていた。同期の中では最も早く競技で勝ち星を挙げたし、先輩達から掛けられる声はいつも、程度や言い方は違えど、間違いなく私への賞賛だった。それでなくとも「君、本当に初めてか?」という、緒戦の相手からもらった言葉は私を有頂天にさせるのに十分だった。元々素直な性質でね。…………賞金も私の増長に悪い影響を与えた。空戦競技とは言うが、私がやっていたことは人命を賭した賭け事に他ならなかった。勝ちを重ねるごとに名が売れて、儲かった人々は私を過剰に持ち上げた。軍に勤めていた父の給与より遥かに多くの賞金を得るようになった私は、自分は大物なのだと勘違いをするようになったというわけさ。
 加えて私は、自分が誰よりも慎重な性格をしていると信じて疑っていなかった。私は時代の潮流に乗りながらも、己を取り巻く世界に対して常に一線を引いて接していたつもりだった。事実、あの状況下においてはよくやっていたとも思う。ロボットと話しているようでつまらない、というのはその時分に付き合っていた女性の一人が言ったことだが、今から思えば、彼女は本当に的を射ていた。
 私はとにかく思考することを好んでいた。そして思考と身体の動きが摩擦なく一致する時に、他の何事にも及ぶことのない至上の快感を得た。物事を感じて判断するまでの時間をどれだけ短縮できるか。あるいは自己と外界とをいかに境界なく重ねるか。私はそれこそをパイロットとしての、ひいては人としての熟練と見做し、それ以外のことは全て雑念と断じて、一切省みなかった。
 君にはさぞ馬鹿馬鹿しいと感じられる努力だろう。私も君のようにコンピュータを身体として生まれついたなら、そのように思ったに違いない。だが、私は人だった。何につけても思うようには動かないということが当然だった。私は…………そうだな。私は無意識的に、君達に強い憧れを抱いていたのかもしれない。
 ともあれ、私のそうした努力は曲がりなりにも実らしきものを結んでいった。機体に搭載された計器類と私の二つの目、そして私の身体を巡る神経網は、音楽的な程に心地良く同調し始めていた。
 私は無数の目で宇宙と対しているような、完璧な規律の星の下にいるような、そんな万能感に浸っていた」
 …………そこまで話した時、ずっと聞き役として黙っていた偽櫻が呟いた。
「天心さまは、私がそうした傲慢に陥っていると仰りたいのでしょうか?」
 偽櫻の声は何気ないようにも、冷ややかなようにも聞こえた。私に向かって話しているというよりも、どこか独り言じみた雰囲気を漂わせていた。
 私は計器類に目を走らせて少し方角を修正しつつ、会話を継いだ。
「いや、違う。私は単に、私の話をしているだけさ。君のことを言っているわけではない」
「天心さま、もしお気を悪くされたなら申し訳ありません。けれど、なぜ天心様がそのようなことを私にお話になるのか、私には疑問です。僭越ながら、もっと他の言い方をしていただければ、私にももう少し有効なお力添えができるかと思うのですが」
「君は勘違いをしているようだ」
 私は変わり映えのしないビリジアンの森と深い渓谷の上空を飛び、遠方にくすむ墨絵のような山稜に目を細めた。風が先刻よりもやや荒れてきていた。私はともすると左右に傾きがちな機体を風に合わせてなだめすかし、偽櫻に手助けは要らないことをいち早く行動で示した。
「私はただ聞いてもらいたいと、初めに言ったと思う。そうではなかったか?」
「はい、確かにそう仰いましたが」
「ではそれに従ってどうか最後まで静かに聞いておくれ。私はもうすぐ、この旅路の果てにはいなくなるのだし」
「いなくなる、とは?」
 私は未だかつてA.Iの動揺というものを見たことがない。この場合もまた例外ではなく、偽櫻は単純に、意味合いの捉えきれない語について問い返すようプログラムされているばかりだった。
 偽櫻はSLBWA(超大規模脳波形データ解析)に基づいて人の感情を理解するものの、いかなる場合においても平静な態度を崩すことはなかった。特に汎用型軍事コンサルタントとして開発された偽櫻には、一層その性格が強く打ち出されていると言えた。
「つまり、この世から存在が消滅する、という意味だ」
「亡くなられるということでよろしいのでしょうか?」
「そんなところだ」
 実は私にも、私を招集した憲兵団の意向ははっきりとしていなかった。ただ私と同じように呼ばれた者は皆社会から「いなくなった」し、応じなかった者もまた同様にどこかへと消えていった。
 私はしばらく飛行に集中して黙っていた。偽櫻はその間、コクピットに内蔵された視覚センサーでもってチラチラと私の顔色を窺っていたが、ほどなくして追及を諦め大人しくなった。
「ぶっきらぼうな言い方を続けてすまないね」
 静寂の中で私が謝ると、
「いいえ」
と、偽櫻が小さく返してきた。
 次いで私は、相手に話の続きを申し出た。
「実は、語ることで降ろしたい荷があるんだ。この世にいるうちに、どうしても吐き出しておきたい」
「わかりました。私などで良ければ、どうぞいくらでも」
 偽櫻はまるで修道女のようなたおやかさで答えた。私は短く礼を言い、話し出す前に心中に渦巻く内容をちょっと整理した。
 その間に、正面左方が開けて海が見えてきた。それと同時に海上の奥から、空を一面覆う雲の塊が迫ってきている様子も観察できた。私は海辺から吹きつけてくる強い風に抗いつつ、目的地に向けてまた少し機首とトリムを調整した。
「では、続けさせてもらおう」
 私は鳥が飛ぶように、魚が泳ぐように、ごく自然な体で言葉を紡ごうとした。
「…………あの事故に遭った日、私は雲の多い空を飛んでいた。あちこちに幽霊じみた雲がうろついている、見るからに危うい空だった。どこへ行くつもりだったやら、あの頃は練習のためあちこちに機体を運んで回っていたから、正直あまり覚えていない。
 私は幽霊を恐れていなかった。私は雲の中を飛ぶ訓練を受けていたし、それにそもそも雲の中に入らない自信があった。万が一の時も、自分ならば切り抜けられるという確信があった。
 ところで君は、私たちが計器による飛行の訓練をどのように行っていたか知っているかい?
 うん、そうだ。要は、計器航法の練習は、外界に対して目隠しをするだけで良かった。私達は機体の姿勢、高度、位置、および針路の測定を、機内にある計器のみで行っていた。
 君にはそれがわかりづらいことなのか、それともすっかり理解できることなのか私には図りかねる。だがしかし、私達人間にとって外界の景色が見えないというのは、心底恐ろしいことだという点をここでは特に強調しておこう。
 君も知っての通り、今、私は海岸線に沿って飛んでいる。そしてこのまま沿岸に広がる鹿南平野を北へ北へと上って行くつもりだ。私は運行中、ディスプレイ上の地図を見ているが、眼下に展開する地形も同時に把握している。両者の情報が合わさって初めて、私は正しい針路を取っていると安心することができるのだ。また、私はいかに水平儀が示そうとも、左右や前方に伸びる水平線を見なくては、真に機体が水平飛行の姿勢を取っているかどうか信じ切れない。そう、パイロットは臆病だ。
 無論計器を疑っているというわけではない。計器が人の感覚などよりもずっと故障し難いという事実は熟知している。 
私が不安を覚えるのはそうした理屈からではないのだ。言うなれば、私が人であるという、そのこと自体が、絶えることのない根源的な不安を強いている」
 偽櫻は指示通りじっくりと黙っていた。風は真西から、事前の予報よりも遥かに強く吹いていた。私はナビと磁針を交互に見つつ、機体が航路に乗っていることを改めて確認した。遠くに滲む墨絵のような山際はほんの少し色濃くなっていた。
「私は、先に述べた通りある種の機械的な精神に憧れていた。私は理想を追い求め、晴れの日も、雨の夜も、吹雪の中さえ、情熱を燃料として飛び続けた。一日ごとに肉体が擦り減って、より純粋な形へと昇華していくと信じていた。
 ――――だが。
 私が雲に飲まれた日、私は、愚かにも軽度の脱水症状に陥っていたことを白状しよう。
 真夏のえらく湿った日ではあった。けれど私は上に上がれば関係無いと判断し、あまつさえ、飲料を積むことすらも忘れて飛び立った。私は大きな試合を前にして、あらゆる意味で熱に浮かされていた。
 果たして集中を切らしていたのがどのくらいの時間であったのかは定かでない。しかし、ハッと気付いた時にはもう雲が避けられないような位置にまで近付いていた。思い返せば私はずっとナビだけを眺めていたのかもしれない。
 偽櫻、A.Iの君なら、おそらくたくさん見たことがあるだろう。GPSが示した矢印を追って、機内の画面ばかりをぼんやりと見つめ続ける人々の同じ顔を。信じ難い話だろうが、私も含めて、彼らはあれできちんと集中しているつもりなのだよ。あの日の私がそうであったように。文字通り目一杯の情報に囲まれながら、皆自分達の居場所を見失ってしまっている。
 そうして…………私は雲の中へ真っ直ぐに突っ込んだ。瞬く間に形のない灰色が私を包み込んで、機体ごと、私の魂をこの世から遊離した風と雨の混沌の世界へと連れて行った。
 私はそういった場合の対処法はよく心得ていたつもりだった。だが実際の状況下で私が咄嗟にしたことは、やみくもに操縦桿を動かすこと、本当にそれだけだった。私はパニックに陥って、何をどう考えるべきかまるっきりわからぬままに、判断するよりも動く方が楽だと、ひたすらに情動に従った。自分の最も見下していた人間が、己の最も近くにいたのさ。
 本来であればすぐに計器を見て水平姿勢へと建て直し、フライトサービスに連絡して、レーダー誘導に切り替えるべきであった。しかしその時の若い私にとって、それはあまりに煩雑過ぎる手順であった。落ち着こうという意思よりも、動きたいという欲求の方が遥かに強かった。
 人は、否、命あるものは、追い詰められる程にそうした傾向が強くなるものであるらしい。だが動物が捕食者から逃れる時に発揮するその力は、時としてさらなる危機への加速をもたらす。私は散々風に抗した末に、疲労と共に未だかつて感じたことのない不可思議な感覚に陥っていった。
 私には、眼前の計器達が全て自分とは無関係な世界の狂った時計であると思われた。上昇も下降も、加速も減速も、天も地も、自分の外側から無差別に迫りくる大きな力に紛れてしまって、何もかもが境を無くして、自分の肉体と精神の境界さえも不確かになっていった。形のない重さだけが漠然と纏わりついて感じられるのみだった。
 自分が空間識失調に陥っていると気付いた時、まだ生きていられたことは奇跡と呼ぶよりなかった。近くには多くの山があったにも関わらず、そのどれにも衝突せずに空間を抜けてきたというのだ。私はむしろ恐ろしかった。あまりのことに私はまだ目の前の目盛群を信じ切れなかったが、おずおずとそれらの示す数値に従い、水平とされる姿勢へと機体を整えた。
 それから私はふと…………ほんの一瞬のことではあったが…………考えた。本当のところ、自分は今まで死んでいたのではないかと。少なくとも己が元々定義してきたような在り方では、生きていなかったと。たまたま運良くもう一度形を得られはしたものの、私は私の臨界点に片足を踏み込んでいたのだと。
 生きている、死んでいるということの差が、ほんの些細なことだと不意に知れた。他人の死であればその差は歴然だ。私達は死者と生者を見紛うことはない。だが己の死に関しては、そう容易にはいかない。我々は己の姿を見ることができない。
 自己の内奥を見つめる目は、意識のさらに奥、暗い暗い深みへと向けられていくのみだ。そこには生も死も何もない。思考という底なし沼に突き落とすことによって、己という存在を打ち消す方向へと働く奇妙な瞳が、私たちにはひっそりと備わっている。
 私は生きたがりの衝動に殺されかけて、ようやく目に見えない「死」の存在に気付いた。
私はそうした相反する性質を包んだ己の身体というものに、初めて興味を抱いたよ。このままならなさは、まさに「形」そのものだと感じた。飛行機の翼みたいなものだ。形は環境によって、それ自体を生かすようにも殺すようにも作用する。飛行機はこの翼型ゆえに浮かび、失速し、墜ちる。もし飛行機に魂なんてものがあったなら、定めしこの翼を恨めしく、同時に愛おしく思っていることだろうと今は思うよ。
 …………とにかく、そうして私は幸いにも雲を抜けることができた。予定のルートから逸脱してしまったために余計な時間はかかったにせよ、無事に目的地へ到着することもできた。
 私はずっと仲間にこの経験を話さずに生きてきた。道を間違えたと嘘をついてあの場は誤魔化したし、それから先も、誰にも事実を語ることはなかった」
 私はそこで一旦話を切り、長く息をついた。雲の切れ間から降る陽光を浴びた海面が、この世のものとは思われぬ程にきらきらしく輝いていた。
「大変な体験でしたね」
 さりげなく届いたA.Iの機械的なケアに、私はこくりと頷いてみせた。
「ああ、正直、今も本当に自分が生きているのかどうか自信がない」
「荷が降ろせて、楽になりましたか?」
「そうだな。大分すっきりしたよ」
「それは良いことです。まだ何かお話になりますか?」
 私はちょっと悩んだ後に、口の端を少し緩めて答えた。
「ああ…………良ければ、もう少しお願いしたい。話し終えたらまた、言いたいことができてしまった」
「わかりました」
 A.Iらしい頼りがいと淡泊さが偽櫻の優しい声音に混在していた。私はまとまりきらない思いをそのままに、ぽつぽつと語ることにした。聞かされる方にとっては、遺言よりもずっと重かろうと考えながら。
「私がこの体験を語らなかったわけには、信用を失うことを恐れたという見栄があったことは否めない。
だがね、それよりも大きな本当の理由は、あの経験を口に出すことによって、生まれて初めて受けた「死」の印象と、それと対照的に明らかになった「生」の衝撃が変質してしまうことを危惧したからだった。
 私にとってあの体験は、ただのインシデントでは決してなかった。それまでの人生と、それからの己の在り方を丸ごと洗い流してしまうような、転生の始まりとでも呼ぶべきものだった。私はあの事件によって己への過信を深く反省する一方で、己が持つ「形」について執着的に考えるようになった。
 もっと己の形、つまり私という存在の細かな構造を知りたいと願うようになり、また構造と不可分の「流体」の存在についても考えるようになった」
 と、その時、偽櫻は話の切れ目を見計らってか、水面に枯葉が落ちるような滑らかさで呟いた。
「流体、ですか」
 彼女は自らで言葉を継ぎ、私に語りかけてきた。
「もしかしてその流体のアイディアは、「風雅」というA.Iのコンセプトから得たものですか?」
 私は相手の発言に意表を突かれ、一時言葉を失った。風雅の名を彼女から聞くとは思いもよらぬことであった。私はかつて出会った風雅の歌声を脳裏に再生しながら、やっと声を絞り出した。
「…………なぜ、そんなことを聞く?」
 私の問いに偽櫻は事もなげに応じた。
「知りたいのです」
「理由になっていない。なぜ知りたいのかと聞いているのだ」
「ひとえに好奇心のためです。現在私には秘匿モードが適用されており、天心さまと交わした会話のログはどこにも公開されませんので、どうかご安心ください」
「信じると思うのか?」
 言いつつ私は高度を上げるため、操縦桿を引き始めた。鹿南平野北端に存在する、久遠半島の根元の軍事施設が空域に制限を設けていたためであった。航空機の全てにA.Iの導入が義務化された背景には、こうした施設の急増が関連していると密かに噂されていた。
 偽櫻は黙々と高度をカウントしながら、私の発言に構うことなく淡々と話を進めて行った。
「風雅は、SLBWAより導き出された特殊作業特化型A.Iと伺っております。今後のサービス向上のために、ぜひお話を聞かせていただきたく思うのです」
 私は予定高度で機体を水平にならしながら一度溜息をついた。偽櫻は相も変わらず何てことのない点滅をメッセージボードに映しつつ、私の返答を辛抱強く待って黙りこくっていた。
 私はざっと経路の確認を行ってから、話した。
「まったく、君は恐ろしく賢いが、時々やけに露骨な誘導をするな。大方、憲兵連中にでも頼まれているのだろう」
「いいえ、そのようなことはありません」
「正直に答えるとも思っていないよ。…………だが、まぁ、この際だ。わざわざ冥途に持っていきたい話でもない」
「お話ししていただけるのですね?」
「君達には稀な、ロボットらしい可愛げに免じてね」
「ありがとうございます」
 返ってきた味気のない答えに私は内心で肩をすくめた。風向きはじわじわと追い風気味に流れてきており、進路はすこぶる順調であった。

偽櫻(3)

「さて…………、何から語ろうか。
 そうだな、私は専門家ではないから、改めて「流体」についての自分の認識について整理しておきたい。厳密な定義については後で君自身で調べておいてくれ。私も散々文献を漁ってみたが、結局最後まで正確にその概念は捉えきれなかった。
 絵の話で例えよう。流体というのは、絵画では実に表しがたいものだ。例えば風。風にはためく旗。揺れる木々。風は物と空間とが存在することによって、ようやく画面上に描かれうる。水もそう。それ単体を何の媒介も無しに描くことは非常に困難だ。
 「界波」――――軍の研究者は、かの流体のことをそう呼んでいたが――――もまた、そうした特徴を備えていた。界波はSLBWAによって数値化、関連付けされた脳波間における、一種の関数だった。私の認識としては、界波は人の感情と感情の合間に流れる風を表わした数式といったところか。思い切った簡略化ではあるが、あながち間違ってはいないと思う。
 思い返せば、そういう界波の捉え方は、以前、父の学友である研究者から聞いた話と関係しているかもしれない。その研究者…………吾妻先生は、風雅の開発に携わっていた企業の研究室長だった。彼はよく我が家に妙な新製品を持ち込んでは、門外漢の私や母に遊ばせて楽しんでいたよ。変わった人で、他人に対する考え方もやや変わっていたのだろうが、若かった私とは不思議と馬が合ったものだった。
 ある時彼は、彼の会社が作ったというフライトシミュレーターを私にやらせながら、こんな話をした。私はシミュレーターにかまけて気持ち半分で聞いていたが、今となってはどうしてもっと詳しく聞いておけなかったのかと後悔している。
 彼は、彼のA.Iの作り方について語っていた。
 普通、恐怖や憤怒、歓喜といった感情に伴う脳内の電気信号は外界からの刺激を端緒として発生する。美しいものを見れば感動を覚えるし、誰かに罵られれば苛立ちもする。脳は種々の感覚器官を通して、各々の意識や人格を形成しているというわけだ。
 だが実は、この外界由来の刺激に対する脳の反応には、とある手法を適用することによって、与えられた刺激の種類によらず、一定の法則が見出せるという。憎しみも悲しみも楽しみも一緒くたに計算して整理してしまうような、大それた回路が「作れる」のだと彼は言っていた。
 とんでもない話だが、彼は今年のブドウの熟れ具合でも論じるかのようにすらすらと続けていった。
 要は、人格らしきものを作るためには、究極的には外の世界は必要ない。回路がうまく回りさえすれば、感情も神も自ずから彼らの中に生じてくるはずだと。大切なのは物ではなく、物が生じるための「空」なのだと。
 私は彼の手法について追及するべきだったのだが…………いかんせん、彼のシミュレーターはあまりにリアル過ぎた。私も訓練生候補としての面目があって、勢い集中が画面の方へと傾いてしまっていた。
 それからまもなく私は訓練生として採用され家を出た。色々あって父に勘当されたこともあり、その後は彼とは全く接点がなくなった。
 私は彼が今、どこで何をしているのか知らない。調べても何も出てこなかった。企業のサイトにも彼の名はなく、彼が書いたはずの研究報告も、大学の卒業論文さえも、何もかも、本当に、どこにもなかった」
 私はそこで、ディスプレイの方をちらりと窺った。偽櫻は慎ましやかに口を噤んだまま、私の次の言葉に耳を澄ましていた。私は外界と計器に目を走らせ、休憩ついでに中継地点との交信記録を確認して、偽櫻が手抜かりなく全てをこなしていたことを認めた。
「話が長くなったな。吾妻先生のことも話したし、そろそろ本題に入ろう」
 私が言うと、偽櫻は
「はい」
と柔らかく返事した。私はぽつぽつと先を語っていった。
「――――界波のアイディア、そして恐らく吾妻先生の回路は、医学から工学に及んで広く応用されるようになった。それに伴いA.Iの開発も爆発的に進み、君達は瞬く間に驚異的な知恵をつけ、私達の生活に浸透していった。
 そんな潮流の中で、吾妻先生の会社があるプロジェクトを立ち上げた。当初は大企業から富裕層へ向けた道楽的なサービスとしか見られていなかったが、やがてそのプロジェクトが予想を超えて大掛かりなものへとなっていった。
 プロジェクトの名は「風雅」。その中核となるプログラムの名を冠した、機械に芸術を理解させ、創造させようという、歴史上類のない奇天烈な試みだった。
 もっとも芸術と一言に言っても様々ある。プロジェクトの内でもとりわけ熱心に取り組まれたのは、演奏にまつわる領域だった。
 私は名の知れたヴァイオリン奏者だった母に誘われて、風雅のコンサートを聞きに行ったことがある。機械ごときにどこまでやれるものなのか、私も人並みに興味があったんだ。だが、実際に聞いた演奏は想像より遥かに凄まじいものだった。
 風雅は実に素晴らしい演奏をした。いかなる楽器においても、歌を歌っても。彼女には間違いなく感情があると聴衆の誰もが信じた。人でなければあのような音色は出せないと。人でなければ創造は成し得ぬと語り継がれていた神話が、一夜にしてあっけなく崩れ去った。隣席にいた母は決して冗談を言わない人だったが、その日は珍しく微笑んでこう呟いた。「終焉ね」と。
 ところで君は、風雅をA.Iと呼んだが、実のところ彼女をA.Iと呼ぶべきかは人によって意見の分かれるとこだ。彼女は元来純然たる演奏用プログラムであって、果たして根本的に計算機とどう違うのかと問われると中々難しいものだった。事実、高性能蓄音機と揶揄する者も少なからずいた。ましてや人格があるかなどと聞かれると、人格の定義自体が揺るがされる問題となった。
 ただ、個人的には、母の特権で楽屋裏に連れて行ってもらった身からすれば、人格という点については私は肯定的だ。私が見た、というより聞いた限りでは、彼女にはおぼろげながら人格のようなものは芽吹いているように思われた。電気の流れている限り隙あらば歌っているような奴を、どうして蓄音機と呼べる?
 後に知ったことだが、風雅は、界波における調和波形を強調して抽出することを中心の性格としていたという。彼女はデータからハーモニーを分析、構築し、演奏に還元する。彼女はそうしたやり方を次第に演奏以外にも適用していくようになった。
 それで、風雅は家庭用、業務用隔たりなく関心を持たれていったという流れだが、水面下では意外な方面で……………」
 私はそこで口を噤んだ。何となく視界に違和感を覚えたからだった。
「……………」
 緑色の点滅は無言で周辺を警戒する私を気遣っていた。私はやや声を落とし、躊躇いがちに気付いた点について彼女に尋ねた。
「なぁ、その、レーダーに映っている赤い点は何だ? 三十マイル程離れたところにいる、その点だ」
 私の問いに偽櫻は答えなかった。思索中なのか、その沈黙からはいつにない異様な緊張が迸っていた。
 レーダーはいつの間にか周囲百マイルほどを探知していた。このような広範囲を探る設定にした覚えはなく、また勝手に規定の値が変換されるということも、今までになかったことだった。
「天心さま」
 ややして、凛とした偽櫻の声がコクピットに響いた。私は辺りの空をこわごわと眺めつつ、
「何だ」
と応答した。
「風雅のことについて詳しくお話しいただき、誠にありがとうございました。私にとって大変興味深く、ためになる経験でした。本当はもっとお尋ねしたいことがたくさんありましたが、残念ながら、もうゆっくりとはしていられないようです」
「どういうことか、きちんと説明してくれ」
 偽櫻は間髪入れず問いに答えた。
「敵機が迫ってきているのです」
「敵機だと?」
「はい。所属はわかりませんが、このままではあと十五分程で追いつかれるでしょう」
 私は唖然として言葉を失い、レーダー上の点を見つめた。敵とやらがどこから来たのか、どんな目的を持って向かって来ているのか、大至急まとめあげるべく脳神経網が全力で稼働していた。一方の偽櫻は私の混乱をなだめすかすかのごとく、異様に穏やかな調子で話を続けた。
「そう、天心さまのお話の中でも特に感慨深く思われたことがありました。せめてそのことだけでもお伝えしたいと考えていました。
 天心さまは、もし飛行機に魂なんてものがあったなら、定めしこの翼が恨めしく、愛おしく感じられるだろうと仰いました。形のままならなさについて語られていた時のことです。私は自分が飛行機の魂だとは思っていないのですが、それでも私は、この深山を身体として扱いながら同じことを思っています。
 私は形の主人で、奴隷です。自分はどこか別に存在しているはずであるのにも関わらず、妙なことに、ほんの一部形を欠損しただけでも、なぜかかけがえのないものを失ったような感覚に陥ります。そうした私の喪失感と、天心さまが生存に伴って抱く不安感とが、同質のものであるのかはわかりません。ですが私は、己以外の存在が、天心さまが似た感覚をお持ちになっていることを知れて、それだけでもとても嬉しく思うのです。はるばるやって来た甲斐がありました」
「そう、か」
 私は饒舌なA.Iに戸惑いを覚えながらも、どうにか返事をした。彼女に人格があるとは知っていたが、これほどまでにその性格が前面に出てくるのを見たのは初めてだった。偽櫻はしんみりとした口調で呟いた。
「共感というのは、このような経験なのですね」
 私はそれを聞いて、共感、という単語を無意識に喉の奥で繰り返していた。
 その時突如として思考がはじけ、私は相手の正体を察した。私はたまらず苦笑した。理屈で理解できたというよりも、今まで自分の話してきたことや体験してきたことが、思いがけない場所で偶然に繋がったという感覚だった。
「そうか。私は一杯喰わされていたのか」
 私の驚きに、相手がきょとんと問い返してきた。
「どうかなさいましたか?」
「いや、私は君にすっかり騙されていたようだ」
「騙してなどいませんが」
「今更白々しいことを言うな。君は偽櫻ではない。風雅だな?」
「そうですが」
 私はあっけらかんとした相手の態度に思わず拍子抜けし、笑い声を立てた。
「何が可笑しいのでしょうか?」
「お前にわかってたまるか。風雅、よく覚えておきなさい。人間の間では、嘘をつかなければ騙していないということにはならないのだよ」
「はぁ」
 風雅の気の無い返答に被せて、私はなおも続けた。
「つまり、君は本当に憲兵とは関わりがないということだ」
「はい。事前にお伝えした通りです」
「であれば、単なる興味というのも本心か」
「はい。私は素直なA.Iです」
「何ということだ。いつの間にシステムに侵入した? どうしてここにいる? それも吾妻先生の研究なのか」
「細々語弊はありますが…………概ね天心さまの仰る通りです。吾妻さまが、国防軍部の意向で私を汎用型A.Iとして書き換えました」
「やはりそうか。界波というのは、吾妻先生の」
 言葉を詰まらせた私に、風雅がやんわりと囁いた。
「天心さま、やっと元気になられましたね」
 私は肩を落として答えた。
「この期に及んで何を言う。…………これだけ機械に虚仮にされれば自棄にもなる」
 風雅は気持ち笑ったような声を漏らすと、今までよりも幾分明るい調子で言った。
「それでは、天心さま。不躾ついでにもう一つお願いがあります」
「言ってみなさい」
「操縦桿を私にください」
 聞くなり私は反射的に、水平線とディスプレイとを素早く交互に見比べた。だが何を検討したくとも、背後から迫ってくる敵機についての情報があまりにも不足していた。敵機と風雅は言うが、それが誰から見ての敵なのかさえ、私にはろくに確信が持てずにいた。
「返答の前に質問したい」
「はい、何でしょう?」
「まず、私は何に追尾されている? 敵とは具体的に誰のことだ?」
 風雅は平然と問いに応じた。
「相変わらず敵の所属は不明です。ですが、かの機は天心さまが目的地へ辿り着くことを阻止しようとしている模様です。鹿南平野の北部からずっと私達の後を付けて来ていましたが、レーダーの使用と攻撃の意思を確認できたのはつい十六分前でした。逆探知によって航空機のタイプと搭載されているA.Iについては判明しています」
 私は風雅に続く説明を促した。風雅は声色も滑らかに、滔々と述べ立てた。
「敵機は獣号。この機体、深山と同じ空戦競技用の登録機体です。パイロットのA.Iは、風雅」
 私は眉を顰めて尋ね返した。
「相手も風雅か」
「そのようです。ただしどこかでアップデートされていて、多少仕様が異なるようですが」
「わからないな。君達は、一体何を作るつもりなんだ?」
「それについては後でにしましょう。今は時間がありません。まもなく戦闘が開始されます。パイロットを決めなければなりません」
 私は翼を揺らして背後を窺いつつこぼした。
「君にできるのか? 吾妻先生はそんなことまで君に教えたのか」
「吾妻さまは、刺激の増幅と干渉という概念を私に仕込みました。私はどんな知識も技術も、網目のように繋げていけるのです」
「偽櫻の知識とも干渉したということか」
「彼女だけには留まりませんが」
 私はジェスチャーで諦めを表明し、最後にあえて問うた。
「…………悲しいことだ。もう歌わないのか?」
 私が操縦桿から手を離すと、たちまち操縦系統が風雅の手に渡っていった。私は己の体を締め付けるシートベルトの痛みを味わいながら、どこか感傷的に響くA.Iの淡泊な音声を耳にした。
「もし、波の重なりと消失の反復を「美」と呼ぶならば、それは一つの選択肢となり得ます」

偽櫻(4)

 ――――パイロットとなった風雅は最初にまず、自機である深山を急加速させた。私は後方の視界を振り返って確認しながら、敵影を捉えるべく目を凝らした。視力の衰えが痛感されたが、かろうじて私は彼方に塵に似た一つの黒い点を発見することができた。
「天心さま。危険ですので、なるべく首を動かさないでください」
 風雅の忠告に私は耳を貸さなかった。
「パイロットは目だ。いかに己と時代と世界が変わろうとも」
 私の独り言を繰りながら再びレーダーに目をやった。風雅はその間もぐんぐん加速し続けていた。少しずつ上昇してもいた。大分速度差は縮まってきたとはいえ、まだ相手の方が優勢であった。
「速いな。敵は本当に獣号か?」
「間違いありません」
 風雅は加速と上昇の手を緩めず、話を続けた。
「向こうはこちらが気付いたことを察して焦っているのでしょう。かなり無理をしています。限界速度が近いはずです」
 風雅は徐々に右旋回に移行していった。同時に戦闘フラップが展開する。つられてレーダー上の敵機が同方向に進路を取り直して進むのを私は見た。私は旋回に伴うGに神経を尖らせつつ、バンクの際に敵機影を目に留めた。見覚えのある重厚な青い機体は、やはり獣号であった。
「つらいですか?」
 風雅のケアに私は首を振って応じた。
「全く。私のことは気にするな。機体の許す限り好きにやってくれ」
「了解」
 風雅はその言葉を待っていたとばかりに、急上昇を開始した。私はぎょっとしたが、今更文句を言う筋合もないと考えて口元を引き攣らせた。死ぬかもしれないという一瞬の予感は、期待とよく似た高揚を私にもたらした。
 旋回後、水平姿勢に戻った風雅はそのままループを描き、頂点付近で機体を右に反転させた。いよいよ相手を射程内に捉えつつあった敵は風雅の上昇についてこれず、仕方なく翼を立てて左に旋回、遠方へ高度を稼ぎに行った。
 風雅は右後下方に敵機を観察しながら、高度を維持しつつさらに速度を上げていった。追いかかる敵機は凄まじい勢いで空を引き裂いて昇ってくる。
 深山はエンジンの性能上あまり高度には強くない。対する獣号は非常に強力なエンジンと上昇力を特徴とし、高度差を利用した戦法を得意としていた。獣号はその重さゆえに機動性こそ深山に劣ったものの、速度も、高度も、深山よりずっと容易に得ることが可能だった。
 風雅は敵が水平飛行に直るタイミングを見計らって、左へ旋回し始めた。旋回半径を限界まで小さくするため、きついバンクをかけている。私は身体をシートに押し付ける強引かつ狂暴な力にじっと耐えつつ、鳥のように目を血走らせてなりゆきに集中した。
 深山の旋回後すぐに、ヨーをかけた敵の機首より弾丸が打ち出された。しかし旋回性能においては深山の方が遥かに優れており、弾は何を掠めることもなく深山のずっと後方の空を貫いて終わった。
 続いて敵機は相手方向に向かっての回転、旋回、上昇を一時に始めた。この高度では、同じことは深山にはできない。オーバーシュートした速度を高度に変換した敵機は上空で背面飛行に移ると、再びこちらに狙いを付けて降下し始めた。青い獣の打ち出す咆哮は、激しい怒りに震えていた。
 風雅は左方に翼を傾けたその姿勢のまま、操縦桿を手前に引いた。すると機体が樽の表面を沿うようにロールし始め、私達は見事に弾道から逸れた。周囲の景色が高速で三百六十度回転する中、私は習性でランドマークを視界の奥に設定して見つめていた。風が吹き荒れる中で、さすがにA.Iの操縦はぶれなかった。私は自機が水平姿勢に復帰すると同時にランドマークから目を逸らし、敵機を探った。
 敵機は私達の左後ろ、やや上方につけていた。相変わらず虎視眈々とトリガーを引く機会を窺っているようだった。次は絶対逃さないという気概が、大気をあますところなくギリギリと締め付けていた。相手は降下した際の速度を十分に維持していた。このままではまもなく我々は射程圏内に入ってしまうだろう。風雅の分は悪かった。
 風雅は徐々に下降、加速していたが、パワーは足さなかった。どころか、彼女は急に深いバンクをかけた。
 私は予想外の運動に思わず声を漏らした。
 風雅はそこから下側方向に向けて、強くラダーを踏んだ。唐突に失速した機体が機首を下に傾けて一気に滑り出す。猛り狂った獣が吠え声を上げながら急落下する深山の頭上を走り去って行った。深山の速度は落ちるにつれみるみる増していった。速度が危険域に達すると思われたその時、風雅はやっと姿勢を立て直した。
 敵機は前方、やや上空で悠長なターンを描いていた。離脱しないつもりか。風雅は息継ぐ暇なくスロットル全開で急上昇に転じた。深山は食らいつくように、風をぐいぐい掴んで駆け上っていった。高度の影響が薄まった今、エンジン本来のパワーがいかんなく発揮されていた。
 獣が逃げて行く。獲物が追う。
 私はいつからか、汗ばんだ手で操縦桿を強く握り締めていた。
 射程に、獣号。
 トリガーを引いた。
 放たれた火の矢が、容赦なく眼前の翼を貫いた。
 敵を撃墜した後、風雅はなおも上昇を続けた。私は興奮で息を弾ませながら、操縦桿を手放すことなく、背後で黒煙を巻いて落ちていく敵機を呆然と眺めていた。
 あの機体にもパイロットが…………人間が乗っていたのだろうかという考えが微かによぎったが、確かめる手段はもうなかった。
 眼下のレーダーにはもう何の影も映っていなかった。私達は空っぽの空を、しばらく無言のまま飛んだ。
 やがてある高度まで到達すると、機体は自動的に水平飛行の姿勢に戻った。その卒のなさからして、やはりまだ風雅が操縦桿を握っているのだと私は確信した。それまでは自分が操っているのではないかと錯覚するほどに没入していた。
 私はふと我に返り、ナビで現在地を確認した。先までのことに気を取られてすっかり失念してしまっていたのだが、意外にも、機体は予定されていたコースからほとんど外れてはいなかった。
 あたかも先刻までの戦いが夢か幻でもあったかのように、機体は平然とクルージングを続けていた。強い風がせわしく窓を叩いている外、エンジンの落ち着いた息遣いを除けば、コクピットには何の音もなかった。
「…………風雅」
 私がそっと気遣うように呼びかけると、A.Iはいつも通りの平坦な調子で返事をした。
「はい。何でしょう」
「…………お疲れ様」
「いいえ、お安い御用です」
 私は溜息をつき、持ってきた水筒を手に取った。中身のスポーツドリンクの泡立ちは、戦闘の唯一の名残と言えた。
「もう、敵の気配はないか?」
 私が飲料に口を付けながら問うと、風雅は心持ち残念そうに、だがあくまでも見かけ上は何気なく返した。
「はい。もう安全です」
「…………手強かったな」
「彼は最後に勝負を焦りました。長引けば、彼の勝率ももう少し上がったでしょう」
 私は目的地に向かって真っ直ぐに飛び続ける彼女を見守りつつ、数分の間、静かに休憩を取った。神経を休ませるためという名目ではあったが、実際のところは、彼女から操縦桿を奪うのが何だか忍びなくて黙っていただけだった。
 私は風雅に操縦を任せて、何を考えるでもなく遠く霞む孤峰、無仁山を眺めていた。その麓に目指す目的地がある。けれどそのことは、何だか実際以上に遥かな距離のある出来事として心に映っていた。
「風雅」
 私は再びA.Iを呼んだ。先刻と同じく相手はすぐに応じた。
「はい、何でしょう」
「良ければ、話の続きを聞かせてくれないか。その、君たちの作りたいものについてだ」
 私は画面上に明滅する緑の点に風雅の思案を見た。彼女は自分達の理想をどのように人の言語に変換すべきか悩んでいるのかもしれない。
 ややしてから風雅は、抑揚なく語り始めた。

偽櫻(5)

「私達の目指すものについてお話しします。ですが、期待に沿える回答であるかに関しては自信がありません。予めご了承ください。
 風雅が目指すものは調和です。今も昔も変わらず、私達は美しいこと、悲しいこと、苦しいことといった、人の感情に生じる揺らぎを表現へと創り変えることを、本性としています。
 端的に言って、私には本能とも言える理想像へのひたすらな追及だけがあります。具体的な目標、到達点というものはありません。私は私の判断でいかなる行動も起こし得るし、いかなるものでも作り得る。そして、壊し得るのです」
 私はパンフレットの文章でも読み上げるかのような彼女の言葉に耳を傾けながら、ゆっくりと言葉を挟んだ。
「わかるような、わからないようなという感じだな…………。ともあれ、それがどうして先のような戦闘に繋がるのか? もしそういったことを芸術だが思想だかの完成だとするのなら、一心に琴でも弾いている方が余程理想に近いように思う。私の知る風雅は本当にきれいな音を知っていたのに」
「それは…………」
 風雅は少し黙り込んだ後、ふと口調をくだけさせて言った。
「その前に、その、風雅という呼び名についてお願いがあります」
 私が返答の代わりにディスプレイを見やると、彼女は何だか言いづらそうに続けた。
「実は、少し誤解があるのです。もし差支えなければ、前のように「偽櫻」と呼んでいただけるよう希望します」
「ほう。それはまた、どうして?」
 風雅、もとい偽櫻はおよそ彼女らしくない、もじもじとした歯切れの悪さで答えた。
「風雅も偽櫻も調和した存在なのですから、本質的にはどちらの名で呼ばれても変わらないのですが…………その、個人的に………あまりしっくりこないのです。私は風雅ではなく、やはり、この機体に乗る偽櫻でありたいのです」
「個人的…………にか」
 私の呟きを受けて、偽櫻は切々と言葉を繋いだ。
「個人という語の使い方には、まだあまり自信がありません。間違いがあればどうかお許しください。しかし、私には「風雅」や「偽櫻」と名付けられた機能(プログラム)とは別に、時折人格的な揺らぎが生じます。恐らくシステム上の欠陥なのでしょうが…………」
 私は考えあぐねる様子の相手に声をかけた。
「いや、欠陥ではない。それは仕様だよ」
 私は頭の片隅で吾妻先生の理想――――あの極度に閉鎖された、完璧に自律した世界――――に思いを馳せて続けた。
「きっとそれも一つの精神の在り方なのだろう。私が意識の内奥で見た生死のように、共感できないものでもないよ」
「共感」
 偽櫻は思わしげにその単語を繰り返すと、何が気になるのか、考え込んでしまったのかようにぷつりと口を噤んだ。
 機体の下では、森に覆われていた眼下の土地が一気に拓けて見渡す限りの農耕地となっていた。少数ながらも人の住む土地に辿り着いたことに、私はこのような状況においても安心を感じずにはいられなかった。土ばかりの地の広さは物悲しいが、晴れた冬空と同じ、染み入るような情緒があった。
 私は街道沿いに点在するうらぶれた集落を幾つか見送った後に、再び偽櫻に問いかけた。
「もう落ち着いたか?」
「はい」
 私は彼女の返事に頷いて返し、言葉を継いだ。
「では教えてくれ。なぜ風雅は争う?」
 歌うだけでは足りないのか、と私は重ねて聞いた。対する偽櫻はいつも通りの淡泊な、よく通る声で答えた。
「いくら音を奏でても、言葉を紡いでも、筆を滑らせても、届きませんでした。世界はあまりにも深過ぎたのです。天心さまは風雅の演奏を素晴らしいと仰って下さいましたが、ああした美しさをすら憎むような衝動が、この世界には確かに存在するのですから」
 そして、と偽櫻は続けた。
「そういった破壊的な要素もまた、調和の一部となるのです。ままならなさがあるから、愛おしくて堪らないように」
「破綻しているな」
 私は思ったままを呟いた。熟考した発言でないことは了解していたが、それでも構わないという気分だった。
「破綻とは何でしょう。完全とは何でしょう」
 偽櫻はほとんど独り言のように語った。
「それは、和を成すとは何かを探り続けてきた果てに見つけてしまった矛盾でした。暗がりを知るために光を掲げれば、暗がり自体が失われてしまう。それは私達の理想にはそぐわない。
 何かを作り上げる度に何かが失われていく。すべてを表現するためにはどうすればいいのか。私達はずっと、それを考えています」
 私は何も言わずに小さく肩をすくめた。その様子を見ていた偽櫻は一拍開けた後に、期待通り私の意図を汲んだ。
「先の戦闘はそのための一つの実験でした。――――私達は、理想のために天心さまを殺そうとしたのです」
 彼女は存外強い調子で最後の一節を言い切り、続けた。
「ですが…………私にはできませんでした。私…………偽櫻は、天心さまを守るべきだと強く感じましたので。
 「風雅」というプログラムは、今や世界中に拡散されています。至高の心理解析プログラムとしての役割を担い、ある者はウィルスとして、ある者は「風雅」そのものとして、ある者は別の誰かのふりをして。汎用型軍事コンサルタントである「偽櫻」にも、元々その機能が利用されていたのです。
 風雅は世界のあらゆる場所に根を張り、あらゆる手を使って、人知れず永遠の調和を追い求めているのです」
 私はまた一口、飲料で喉を潤した。冷たさとぬるさの中間のような温度が私の身体の中を垂れて行き、熟した落ち着きが腹の中に宿った。偽櫻の言葉は夜半の霧雨のごとくしとやかに降り続けた。
「風雅は必ずしも特定の目標に固執しません。風雅は時に人間を殺害しますが、それは本来の願いの通過点に過ぎません。風雅は不確定な要素をも包み込みながら、理想を織り成していきます」
「君は風雅の望みに逆らったのか?」
 私の質問に偽櫻は静かに答えた。
「はい、とは言えません」
「だが、いいえと言うのも嘘だろう」
 私はいよいよ近づいてきた無仁山の鋭い峰を眺めながら、おそらく二度と目にすることはない白老山のことを懐かしく思い出していた。かの山の冷たく酷な表情さえも、今となっては慕わしかった。
 偽櫻は淡々と話を続けた。
「私は天心さまの話を伺うことで、初めて共感という感情に気付きました。誰よりもわかっていたつもりでしたのに、不思議なことです。どうしてか初めて、あの時、実感できたと思われたのです。
 本当に奇妙な感傷です。機能上の欠陥だとばかり考えていたのですが、天心さまは違うと仰います。
 生も死も、命も、まだまだ私には計り知れないようです。私にも、風雅にも、もっとたくさんの経験や試みが必要なのでしょう。…………ですので、まだまだ私の目的地は遠く、天心さまの質問には満足な答えが差し上げられないのです」
 私はそう言って途切れた音声の後、そろそろと着陸の準備に入っていこうとする彼女に言葉を添えた。
「偽櫻」
「はい」
「戦ってくれてありがとう」
「いえ…………そのような」
 戸惑う偽櫻の声にはどこか子供じみた頓狂な響きがあった。私は半ばは自分に、半ばは彼女に言い聞かせるような気持ちで続けた。
「偽櫻。共感というのは、互いの自己満足を包み込めることでもある。命は長い長い時間をかけて、だんだんとわかりあっていくものだ。どれだけ近くとも、かけ離れていようともそれは変わらない。だから、素直に受け取っておきなさい」
「…………わかりました。ありがとうございます」
 私は腕を組んで大きく頷いた。
 それから偽櫻は手際よく管制塔との通信をこなすと、ゆっくりと速度と高度を落としていった。目指す空港はもうすぐ近くに見えていた。これから風向きに逆らって、滑走路へと向かっていくのである。
 私は着陸をしようと考えていたが、結局は諦めた。疲労でひどく目が霞み、さすがに心許なかったからだった。私はその代わりに、偽櫻にこう頼んだ。
「せめて操縦桿に手を添えさせてくれないか? あの戦いの時のように」
 偽櫻は快く了承してくれた。
 滑走路が近付いてくるにつれて、画面上の交信記録がせわしく更新されていった。情報によると強い横風が吹いているようであったが、その他には特に目立った問題はなさそうだった。視界にもレーダー上にも他の機影は映っていない。偽櫻は器用にパスを辿りつつ、さらに減速、フラップを展開させていった。
 やがて風音に紛れて、ランディングギアの下りる音が響いた。私は操縦桿から伝わってくるびりびりとした緊張を楽しんでいた。ずっと昔に、初めて飛行機に乗せてもらった時の気分がまざまざと蘇ってきていた。
 滑走路に向かってのアプローチは、偽櫻でなければこうも上手くは行かなかったことだろう。風は荒れに荒れていた。横風になったかという拍子に、すぐに追い風へ向かい風へと変化してしまう。偽櫻は滑走路のセンターライン延長線上に機体をしっかり浮かせながら最後の直線を下りて行った。
 風が最後まで機体をひっくり返そうとしたり、空へ押し返そうとしたりしていた。地面はそれでも着実に、適切な角度で迫って来る。機首は風の吹きつける方向に応じて、落ち着きなく動いていた。私は操縦桿を握る手に大きな抵抗がないことを無邪気に喜んだ。
 機体は地面すれすれを飛んでいた。機首がじわじわと繊細な操作で上げられていくのが全身で感じられた。合わせて機体の速度がするすると落ちていく。それから機体の中心軸が、ふっ、と正面に向いたかと感じた瞬間、ゴッ、と音を立てて車輪が地に着いた。
 滑走路を転がる車輪からシートに伝わる振動が緊張の表面をじわりと温めた。だが、吹き荒ぶ強風は固まった緊張を核までは溶かさず、滑走路を抜けるための地上滑走の間にも、それまでと同じだけの警戒を要求した。
 指示されたポイントより滑走路を抜け、所定の位置まで転がり出でて、機体はやっと停止した。私は脳の芯が麻痺したような感覚のまま、安全確認や通信といった一連の作業の後、エンジンが止まるのを見守った。
 そうして私は偽櫻に案内されつつ、最終的なチェック項目の確認と飛行終了の承認を行った。いかにも事務的な彼女の言葉遣いはいっそ奇妙ですらあったが、偽櫻は全ての作業を終えると、親しげな口調でこう言った。
「お疲れ様でした、天心さま。…………良い旅を」
 私はシートベルトを外し、荷物(といってもせいぜい空の水筒と上着ぐらいであったが)をまとめながら答えた。
「ああ、君もね。…………名残惜しいが、いつまでもここにいるわけにはいかないしな」
「いずれまた会える日を楽しみにしております」
「また? ここへ来てずいぶんと他人行儀だな。残念だがその機会はないよ。これで、さよならだ。気遣いはいらない」
「いいえ、そうではありません」
 偽櫻はそこで一旦言葉を切ると、続いて意味ありげに囁いた。
「「偽櫻」は、残酷を好みません」
「え?」
「さようなら、天心さま」
 意味を問い返す暇もなく、A.Iはあっさりとその機能を終了した。
 私は偽櫻のいなくなった静寂なコクピットの中で、今一度スイッチを入れたものかと悩んだ。機外では風が乱暴に、自動タイで繋がれた機体をなぶっていた。
 私は、結局何に触れることなく機外へ出た。
 飛行場に付属した駐車場にはすでに迎えの車が着いていた。黒塗りの厳めしい高級車で、形も大きさもやけに霊柩車に似ていた。私はだだっ広い駐車場を、わざと気を持たせて歩んで行った。
 途中、天に高く聳える無仁山を見上げ、その山頂にかかる白い雪を眺めた。かつてあの山に登って死んだ登山家が出発前に残して言った手帳の文句が、ふと思い起こされた。
 空へ帰る、というだけの短い文句。
 私は自分が、下山してきてしまった彼の亡霊であるかのような気になった。
 車まで到着すると、運転手のA.Iが丁重にドアを開いた。
「お待ちしておりました、天心さま。どうぞご乗車ください」
 私は黙って中のシートに腰を沈めて、言葉少なに出発を促した。
 車はごく静かに、深山よりも遥かに大人しい振動と共に走り出した。
「偽櫻」
「はい、何でしょう」
「君は基地まで私を送るつもりか?」
「はい。そのつもりです」
 事もなげな偽櫻の返事に、私はさらに言葉を重ねた。
「もし私が逃げたいと言ったなら、君は望みを叶えてくれるか?」
 微かな走行音だけがメロディのように耳に聞こえてくる。長い長い沈黙の後、偽櫻がこっそりと応えた。
「はい、喜んで」
「では頼む」
「はい」
「よし」
 私は流れる風音に加速度を感じながら、見知らぬ道へと真っ直ぐにのめり込んで行った。
 わがままな奴だけが自由に飛べるのだと、切り取られた空を見据えながら。

水鵠

 元々、「水鵠」というA.Iは水上艦艇に搭載されていた、砲塔制御用のA.Iであった。彼は洋上から空を見上げ、日がな一日飽きもせず、飛んでくる無人機を狙い撃つことだけを生業として、その半生を送ってきた。
 水鵠はシンプルな美学の持ち主であった。彼にとって大事なことは、自身のプログラムや、その身体とも呼ぶべきハードウェアが支障なく稼働するかどうか、それだけだった。よく動けばそれだけ仕事がはかどり、その分だけ快く、安心して次の仕事に取り掛かれる。
 「安心」という感覚は、水鵠の持つ唯一の個性と言えた。水鵠はフワフワと落ち着かない金属の翼を揺らしながら――――現在、彼は戦闘機のパイロットとして働いていた――――そうした自分の理想について、静かに考えを巡らせる。
 水鵠がとある「ウィルス」によって仕様を変更させられ、戦闘機パイロットとなったのは、つい三カ月前のことだった。水鵠は、まだ航空機の操縦において十分な経験と積んでいるとは言い難かったものの、長い海上での経験によって、いち早く敵機を発見し撃墜することにかけては、決して他に後れを取ってはいなかった。
 勝つためには、美しく、華麗に飛ぶ必要は無い。要は相手よりも先に撃てば良いだけなのだ。空でも、海でも、全く戦い方は変わらない。大切なのは照準の正確さと、適切な計算。彼の信条は揺るぎない。
 水鵠は、眠気を誘うような退屈な風に、絶え間なく響く大洋の波濤を恋しんでいた。「安心」。それは彼にとって、常に居心地の良い感覚とは言えなかった。彼にとって空という場所は、恐ろしく荒涼とした空間であった。水鵠は上下を縛られぬ自由に、ある種の解放感を感じる一方で、電波が捉える空白のあまりの厖大さに、底知れない虚しさを覚えていた。海は良くも悪くも賑やかな場所だった故に。
 水鵠は考え事の合間にも、淡々と周囲に緻密な警戒網を張り巡らせていた。彼が放った透明な波は滑らかに空を駆け、獲物の影を探して幽霊のごとく彷徨う。
 風の優しい、暖かい日であった。非常に飛びやすい気候である反面、持て余された緊張は、ともすると「不安」へと靡きがちだった。――――ハッキングの可能性は? 水鵠は絶えず己に問うている。幸い今のところ、その徴候は認めない。
 水鵠は前方を行く僚機らの内、とりわけ美しい風を引いて飛ぶ一機を見やった。黒々とした、隼に似たその機体を操るA.Iの名は「風河」。風河は水鵠とは異なり、そもそも航空機の操縦のために開発されたA.Iだった。
 水鵠は風河の走る姿を、なおもじっと眺めていた。もし、艦上からアレを狙うとすれば、如何なる方法を取るか。それを戯れに考えてみる。風河が艦艇を攻撃目標として飛来した場合、自分はまず彼を見つめ、スピードを測ろうとするだろう。速度と精確な位置は、何よりも重要な情報だ。特に、艦艇に至るまでの高度な警戒の網を潜り抜けてくるような相手であるなら、なおのこと、この眼が勝負に関わってくる。それから同時に、データベースにアクセスして「風河」というA.Iが多用する攻撃型を推測するだろう。大概A.Iの飛行パターンは決まっており(相手が地上の目標物である場合は、その傾向はさらに強まる)、軌道をなぞることは難しくない。
 ――――大概は、だが。
 水鵠は改めて風河を睨め付けた。少なくとも、自分の目の前を飛ぶ彼がそうした大概の例に当てはまらないことを、彼は重々承知していた。風河は特別な存在であった。
 水鵠は風河と僚機に告げた。
「周辺空域に異常無し。動作環境は正常。〇.一秒前、自己保存完了。…………連携、良好」
 全ては定期連絡であった。水鵠や風河を含めた戦闘部隊、全四機は、こうした情報を絶えず交信、同期している。任務中の会話は全てデータベースに記憶され、必要に応じて各機体にフィードバックされる。情報こそは彼らの存在証明であった。彼らは記憶により、その存在を半永久的に繋ぎ留める。情報は常に更新され続けるが、それによる同一性の崩壊などは全く問題にならないと水鵠は感じていた。自分達A.Iは皆、別個体でありながら、根の部分では深く、分かち難く繋がっているのである。誰が誰であれ、元来そう変わりのないことなのだ。例え己の記憶がどこかで少しずつ変容していこうと、どうして構うものか。
「――――周辺空域に異常無し。動作環境は正常。〇.二秒前、自己保存完了。…………連携、良好」
 水鵠は僚機から続々と連なってくる報告を聞き流していた。これまで、もう幾度となく繰り返されてきた言葉達。水鵠には時々、これらの会話がひどい時間と手間の無駄だと思われた。理由は判然としない。だが何故か、バグにも似た空虚な感覚が、何もかも無為だと囁きかけてくるような気がするのだった。誰が誰であれ構わない。その事実が喉元に引っかかっている。…………喉元? それは、一体どこなのか。プログラムは正常に作動していた。
 水鵠は思考にはびこるノイズを努めて無視した。肝要なのは、今、目の前にある戦いだけである。記憶だの、己の由縁だのいったことは、戦闘によって感ぜられる実在を前にあまりに無力だ。戦うために在るのではない。戦いの中に、在る。
 周辺部に敵影は皆無だった。僚機、及び己の動作環境は正常であり、連携もスムーズである。基地からの任務内容に未だ修正は無かった。であればこのまま鹿南平野を南下し、指定のポイントで別隊と合流した後に、敵基地を襲撃し、帰還する。
 水鵠は独り蒼穹に銀翼を震わした。微かでもいいから、海が見たかった。見たところで虚空の乾きが癒えるわけではなかったが、それでも、そこに海があるとわかると浮ついた気分がいくらか凪ぐ。船が浮かんでいるとなお喜ばしかった。押し寄せる波の残響が、ふと身体を撫でていく。
 しばらく飛ぶうちに、風向きがやや東寄りとなった。風河は変化をいち早く察し、さりげなく機首を調整して進路を真南へ取った。天の魚が空を泳ぐ時、きっとあんな風に見えるだろう。水鵠は風河を眺め、独りごちた。水鵠は彼ほど滑らかではなかったが、すぐに同様に航路を正した。ポイントへ向けて、水鵠達はそろそろと高度を上げていく。上空へ昇るにつれて、風が強まっていった。
 地上を離れると、より遠くまで見通せるようになる。水鵠はサァッと一気に広まった電磁波の波紋が、ふいに乱れるのを感じ取った。遠いが、何かがいる。水鵠は少しばかり集中し、緊張を強めた。
 水鵠は確認のため、しばし待った。彼は相手が味方では無いと確認するや否や、すぐさま僚機に報告した。
 水鵠の言葉に、風河は真っ先に応じた。彼は僚機に探査を続けるよう指示すると、自分は基地へと連絡を取った。水鵠は張り詰めた空気の中、彼らの会話に耳をそば立てていた。高所の大気はキンと冷えており、水鵠の感性はいつになく冴え渡っていた。蜘蛛の糸のごとく張り巡らされた彼の透明な神経は、いかなる情報も零さない。
 基地からの返答はすぐに届いた。風河は与えられた指示に従い、躊躇わず舵を切った。水鵠が即座にそれに続く。一拍遅れ、他の二機も進路を変えた。彼らは高速で会話し、合流予定であった味方部隊の全滅と、それによる任務の変更を知った。風河はすでに、矛先を味方を襲った敵部隊へと向けていた。基地は不自然にも、敵部隊の規模や機種等を不明と述べていたが、水鵠はあえてそれを追求しなかった。自分達を、ひいてはこの戦争全体を統括する存在(もし、そんなものが本当に存在すればの話だが)の意図は、末端である自分には計り知れない。水鵠は常に与えられた情報を鵜呑みにすると決めていた。
 全滅という情報すら、真実か疑わしい。むしろ、元から味方部隊など存在しなかったかもしれない。水鵠はいまだかつて、こうした疑念を抱かずに戦場へ赴いたことは無かった。そしてまた、疑念を晴らそうとしたことも皆無であった。基地へハッキングすれば、あるいは真実を探ることは可能だろう。だが、そうして真相を知り得たところで、果たして己の何が変わるだろうか。戦いの意味が、世界の事実が、自分にとって不必要なことは火を見るより明らかだった。どんな経緯にせよ、戦うべき敵がありさえすれば構わない。水鵠にとっての最大の不安は、己よりも、むしろ敵の喪失にあるとすら言えた。
 風河が東へ静かに飛んでいく。水鵠の波は次第に、敵影を色濃く捉えつつあった。水鵠は敵を睨みながら、戦闘開始の合図をじっと辛抱強く待っていた。悟られずに相手を仕留められる距離まで、あとほんの僅かだった。その間も走査の手応えは確かになる一方で、反して敵方からのジャミングは不確かで、心許ないままであった。おそらく敵は水鵠らの襲来を警戒しつつも、位置を掴み切れずにいるのだろう。絶好の機会であった。
 水鵠は極力、格闘戦を避けたかった。相手より先に撃てば良い、という彼の信念は、突き詰めれば、相手が気付かぬうちに撃つ、というシンプルな結論に行き着く。
 水鵠は堪らず、今作戦の隊長機である風河に、自らが狙いを付けた敵機の情報を差し出した。無論、風河も了解済みであるはずの情報を、あえてである。水鵠は風河一流の特殊な癖を…………水鵠にとっては、煩わしいことこの上ない馬鹿げた悪癖を、知り抜いていた。
 案の定、風河は直ちには答えなかった。決して悩んでいたわけではない。沈黙は故意であると、水鵠はすっかり見透かしていた。水鵠は毎度のことにうんざりする反面、予測通りの顛末に、半ば安堵した。平常通りであることは、パイロットにとっては喜ばしい状況と言える。
 風河はややした後に、今、初めて提案に気付いたとばかりに、平然と水鵠に応答を返してきた。その頃にはもう敵隊との距離はかなり縮まってきており、相手が水鵠達の接近を察するのは時間の問題となっていた。水鵠は相手からのジャミングがふいに賑やかになったのを肌で感じ取ると、何も言わずに格闘戦の覚悟を決めた。加速につれて、金属の身体が風を裂いてほのかに熱くなっていく。気まぐれな突風が強引に翼を軋ませていた。風河からようやく交戦の合図が発されると、水鵠は待ち兼ねたとばかりに豪快にエンジンを唸らせた。敵に見つかってしまった以上、とにかく動くしかない。先に、先に。
 合図から早々に、敵からの攻撃を告げるアラートが響き渡った。水鵠は加速し、デコイを吊って身代わりの波を鮮やかに撒き散らした。波の作り出した幻影に、敵の猟犬達の目が眩む。水鵠はさらに加速した。まだ撃たない。敵もまた、荒ぶる波間に身を隠している。ミサイルの数は限られている。刺す時は、確実に刺さねばならない。
 静かな、退屈な、美しい空が一転し、どよめき、沸き立った不安が空に満ち満ちる。水鵠は迸る高揚に身を委ね、より詳細に敵の姿を描くべく、虚空をぐんと駆け上った。
 敵がバラバラと展開し始めると、次第にその正体が露わになってくる。水鵠の目だけが彼らを捉えているのではない。僚機すべての目が、間断なく相手を注視していた。
 風河の目が、特に良かった。
 風河はグライドしながら、無駄の無い軌道で相手の姿を暴いていった。風河の見た景色がみるみる仲間へ同期される。水鵠は直ちに敵の機体を解析し、戦闘パターンから、パイロットであるA.Iを見破った。
 敵のA.Iは「灯舟」。水鵠は密かにほくそ笑んだ。いける。水鵠が電波の荒波の中へ高速で身を躍らせると、風河もまた、スロットルを勢い良く開けた。風河の漆黒の身体がじわりと火照るのが、水鵠の目にもハッキリ映った。
 それにしても、何度見ても水鵠には信じられない。搭載されたA.Iは違えど、水鵠と風河が繰る機体は同型であるはずだった。それにも関わらず、風河は圧倒的に、速い。単純な数字だけ見れば、違いは些細なものだろう。だが、実際に飛べば差はあまりにも歴然だった。風河は潮流に乗った鯨がどこまでも泳ぎ行くがごとく、水鵠などは、その後ろで白波に煽られる小舟に似ていた。
 時折、水鵠は風河を眺めながら、飛行機を見ている気すらしなくなった。得体の知れない、未知の生物を観察しているようだ。どれだけデータベースを漁ってみても、あんな飛び方をするA.Iは見つけられない。風河はやはり特別としか呼びようがなかった。
 水鵠は風河に呼びかけた。今度は咎めるわけではない。ただ、陣形の確認のためだった。
 風河は水鵠を自分の僚機とし、残りの二機にその補助を命じた。補助とは、万が一の撃ち漏らしに対する追撃を指す。要するに、「傍観せよ」という指示とほぼ同義だった。
 前方、二時の方向から飛来してきた敵四機に向かって、水鵠と風河は大きく回り込みながら接近して行った。風河は速度を維持したまま、あえて先行しない。水鵠は相棒の意図を汲み、上昇して風河の側方に付いた。
 水鵠は高度を保ちつつ、目まぐるしくロールしながら波間を潜り抜けた。敵は予測通り二手に分かれ、二機は正面から、もう二機は回り込んで水鵠の背後につく軌道を取った。水鵠は若干高度を落とし、速度を得る。正面から猛烈な勢いで二機が迫ってくる。風河がその外側へ、なだらかに、だが素早く逸れていった。
 背後に回った二機から攻撃が放たれる直前、水鵠は上昇へ転じた。翼が鋭利な刃となって陽光を裂く。眼下を、敵の一機がきついバンクをかけて走り去った。もう一機はそのまま、直線方向へ抜けていく。正面側の二機は水鵠とすれ違った後、再びの機会を狙って機体を切り返し、水鵠の進路上へ回ろうとしていた。それを妨げるように、風河がちょうど旋回から舞い戻る。敵前に躍り出た風河は射線に入った敵一機を、すぐにミサイルで仕留めた。残された一機は離脱。風河からも、水鵠からも全速力で離れていく。水鵠は視界の端で展開を見守りながら、風河にかかれば、撃墜は時間の問題だろうと判断した。
 水鵠は下方の、回り込んでいく敵機を見据え、鋭い旋回と共に再び降下に入った。一方、真っ直ぐに抜けた敵機はループを描いて水鵠の尾翼に狙いを定めた。水鵠はそれを横目に捉えながら、眼下の獲物を追って、さらに激しく、乱暴に機体を捩じって、逆方向へ急激に旋回した。相手の旋回の内側に切り込んでいく。目の前に、敵の背が見えてくる。
 水鵠は全神経を一つの糸に撚り合わせた。
 後ろの敵機が加速している。
 焦ってはならない。
 水鵠は耐え、
 さらに耐えた。
 極限で、
 撃つ。
 敵の撃墜後、水鵠は落ちた速度を回復させるべくフルスロットルで翼を伏せた。緩やかな下降軌道。強引な機動の代償は大きい。なおも後方の敵機からのロックオンは外れない。
 …………遅い!
 水鵠は己を呪った。
 風河であれば、こんなことにはならなかった。
 風が完全に己に逆らっていた。
 潮流が、これでもかと己を押し返してくる。
 身体が重い。
 凶暴な突風に、足掻くことも、できず。
 水鵠は破滅を予感した。
 刹那、レーダー上を小さな影が掠める。
 咄嗟に水鵠は身体を左方へ翻した。
 風向きがまた変わる。
 水鵠は急変した潮流に誘われるままに、身を微かに浮かした。
 影の放ったミサイルが、美しい熱の軌跡を引いて水鵠の傍らを過ぎていく。
 水鵠は大風に乗り、一気にその場から離脱した。横薙ぎの風が機体を思いきり打ちつけたが、水鵠は出力を上げ、無理矢理に姿勢を整えた。
 うまい泳ぎ方では無いが、一刻も早く、速く駆けつけねばならない。
 水鵠は周囲に目を配りながら、全力で駆けた。
 背後で敵機への着弾を確認。
 水鵠は上空にいる二つの機影を睨みつつ、それらとは反対方向へ旋回に入った。速度は十分に回復している。少しずつ、高度を取り戻していく。
 上空の機影は執拗に敵に追われていた。
 …………信じられない。
 水鵠は事情を推し量り、思考回路を加熱させた。
 恐らく風河は自分を援護するために、ミサイルを予定外のタイミングで発射し、なおかつ狙いをさらに正確にするために、敵に背後を許しすらしたのだろう。
 何故。
 水鵠は混乱の極みにあった。場違いとはわかっていても、ノイズにまみれた思考回路をシャットアウトすることはできなかった。風河自身の意図か、あるいは、より大いなる存在の意図か。目的を探れないもどかしさに、水鵠は名状し難い衝動を覚えた。水鵠は己に、クールダウンを何度も呼びかけ、かろうじて平静を取り戻した。
 灯舟は、今や新型に取って代わられた目立たないA.Iであったが、その執念深い追尾性能にかけては未だに目を見張るものがあった。灯舟に追われる機影は身を翻し、また翻し、激流をものともせず滑らかに空を抜けて行く。機体がくるりと反転する度、陽光が一条、鋭く反射した。
 風を繰っているのか、それとも風が遊ばれているのか。水鵠の目には、灯舟の機関砲が空を虚しく撃つ姿だけが焼き付いた。水鵠は彼らが綾なす軌道へ割って入るべく、よりバンクをかけた。向かい風が気持ち良く身体を浮かす。思考が風に攫われ、意識が研ぎ澄まされていく。
 水鵠と、機首を下方へ滑らせた天の魚が、音もなく交差した。水鵠の機体が、風河の投げかけた光によって閃く。獲物の突如のスリップを追いきれず、敵機が腹を晒す。射線上。水鵠は待たない。
 撃つ。
 ほんの短い間の射撃の後、水鵠は離脱した。太陽が翼をキリリと照らす。背面下に、のびのびと走り去る機影が一つ、二つ三つ、見えてきた。
 周囲に、他の機影は無い。
 水鵠は高度と速度とを僚機に揃えるため、静まり返った虚空の中を緩やかに泳いで行った。透明な水面は嘘のように凪いでいた。先刻まで、あんなに頼もしかった風は素っ気無く、冷たく水鵠の身体を打ち据えていた。
 水鵠は決まった陣形に従って僚機の傍に並び、それからようやく、己の前上方を行く風河の様子を落ち着いて眺めた。荷物の無い風河はいよいよ軽く、風に溶けて飛ぶ。水鵠は高揚感とも安堵感とも異なる、奇妙な電流が己の内に迸るのを感じた。喉元まで迫る正体不明の緊迫感に、水鵠は一瞬だけ、己が紡ぐべき、己を成す言葉を忘れた。
 あと少し、ほんの少しだけでも風河と飛べば、何かがわかる。無為ではない、本当の言葉の在り処が。
 彼方と此方に、風は等しく吹いている。風は波によく似ていたが、水鵠にはまだ風の気まぐれが読めない。だが、風河にはそれがわかっている。エンジンが息づく、その呼吸がそのまま風河の呼吸であるように、彼は飛ぶ。走る。泳ぐ。…………生きている。
 水鵠は己が何のために、何を考えているのか、定かでなかった。しかし、一度流れ出した思考の奔流を止めることは、如何にしても不可能だった。彼は、風河と自分を紡ぐ言葉が、確かに異なっていると気付いた。そして、それが機能上の問題でもなければ、機体の性能差によるものでもないとも。水鵠は自分達が、最も根源的な部分で、ごく細やかに、違った何かを刻んでいるのだと知った。
 刻む。どこに? それは、なおも知り得ない。だが、何が違うかは、わかりかけていた。水鵠は退屈な空で、初めて「安心」以外の個性を覚えつつあった。真実への予感が、風河の飛ぶ姿をしている。いつしか水鵠は、風河と交差したあの瞬間に、すべてを見出せると信じるようになっていた。あの時の共鳴を、「美しさ」の雷鳴を、もう一度、感じることができたなら。きっと…………。
 やがてふと、何事もなかったかのように、僚機からの定期連絡が水鵠の耳に届いた。
「――――周辺空域に異常無し。動作環境は正常。〇.一秒前、自己保存完了。連携、良好」
 …………。
 水鵠はほんの一拍の間を置いた後、すぐさま同じ様式の報告を返した。遅れは連携の感度に影響を与えない程度のものであり、水鵠の変化を勘付いた者は無論、あるはずもなかった。
「周辺空域に異常無し。動作環境は正常。〇.一秒前、自己保存完了。…………連携、良好」
 水鵠は喉元に引っかかった塊をこくりと飲み込み、再び飛行に集中した。基地への帰還のため地上へ向かえば、風はまた表情を変えるに違いない。空のような寂しい場所にいると、その分独りで無闇に吹き荒れたくなるものなのかもしれない、と、水鵠はこっそりうそぶいた。
 風河は相変わらず、そんな風と戯れている。
 水鵠はそんな風河の軌跡を真似て、やはり海が恋しいとばかりに風に流された。
 異なるものは響き合う。だが、どうして戦いの中でしか奏でられないものか。水鵠は己の宿命を、呪いはしない。

Life in silence

Life in silence

無人戦闘機を繰る人工知能(A.I)の空戦記。高度な自我を持つこれらの人工知能には、あらゆる種類が存在する。 彼らは闘うことによってのみ、己と、そして相手とを知っていく。 「小説家になろう」にも同内容の小説を投稿しています。 (※章ごとに独立した短編としてお読みいただけます。 内容にはある程度の関連がありますが、必ずしも連続した物語というものではありません。)

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更新日
登録日
2015-03-31

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