あなたを忘れるための条件

あなたを忘れるための条件

2008年に書いた作品です。文章は修正していません。小説というものを書き始めた頃の作品で、今でも文章は下手ですが、こちらも文章の下手さがよくわかる小説です。だけど、あえて修正はせず、掲載しています。なので読みづらい箇所も多いと思います。修正をしたことでニュアンスが変わるのも嫌なのです。そんな、文章の下手さもひっくるめて、とても大事な小説。そして大切な主人公、北川琴子。ぜひ読んでいただければと思います。

■あなたを忘れるための条件

 今からちょうど一年前。私がまだ二十歳で、蓮が二十三歳の頃だった。内定が決まっていた企業の新人教育プログラムに参加したのは三月中頃のこと。短大の卒業式からほぼ一ヵ月後、学生と社会人の中間でブラブラしていた頃だった。新人教育プラグラムへの参加は全部で十五人。そのうち男性が十三人、女性が二人。たった二人の女性新入社員、あたしと樹夜ちゃん。樹夜ちゃんとはこのプラグラムで知り合って以来の親友だ。背が高くてリクルートスーツをかっこよく着こなしてた。何をやっても不器用な私に比べて、樹夜ちゃんは何をやっても棘なくこなしてしまう。
 プログラム期間の一週間は、いつも三時の休憩時間に私と樹夜ちゃんとでコーヒーを全員分用意していた。女性だけ、礼儀指導の一環だった。最初の一日目はふたりで、後の四日は樹夜ちゃんと交代で準備をした。その日は最終日で、私の担当だった。プログラム実習を行なっている会議室と同じ階ににある給湯室へコーヒーを入れに行く。給湯室は会議室から廊下を真っ直ぐ行った突き当たりを曲がった所にあった。六畳ほどの広さのある給湯室の隅には小さな机と椅子が三脚用意されている。入ろうとした時に誰かが座っているのが見えた。会社に出入りするようになって今日で一週間、とはいえまだ正式に入社したわけでもなく、配属されているわけでもなく。まだ知らない社内の人が居ることにちょっと緊張した。入る前に一度立ち止まり、そっと・・・覗いてみた。
 中に居たのは女性だった。椅子に座って背を向けていた。そしてその向こうにも人が一人。その女性は、向かいに座る人とキスをしていた。その相手の男性はキスをしながらこっちをじっと見ている。目が合ってしまったのだ。
「え・・・」
 思わず声を出してしまった。反応して女性はキスを止めた。こちらを向くことはなく、ただ、男性だけがこちらをじっと見ていた。まだ若い人だった。それが、蓮だった。
そのまま私は一礼をして給湯室の向かいにあるトイレに逃げ込んだ。ドキドキしていた。初めて見た大人の世界だった。キスをしたことが無いわけではないけれど、会社のビルの中で、こんな時間にキスなんかするんだ・・・。ドキドキを隠せないまま、とにかくコーヒーを入れるためにもう一度給湯室へ行かなくてはならないと何故だか思った。少ししてからトイレのドアをそっと開けて見る、そこから見える給湯室にはもう誰も居なかった。廊下を見ても誰も居なかった。ほっとしながら給湯室へ入り、目に入ったのはさっきふたりが座っていた机と椅子だった。見たことを忘れるかのように首を振り、お盆と紙コップを用意して私はコーヒーを入れ始めた。
「ドキドキした?」
 声がしたほうを見るとさっきの男性だった。ドアの所に立ってこちらを見ていた。
「あの、すみません」
 何故だか私は謝っていた。というより、それ以外の言葉が何も思い浮かばなかった。
「なんで謝るの?もうあんなことしないから、今度から遠慮なくここ、利用して」
「あ・・・はい」
 ただ、返事をすることだけが精一杯で、俯き加減にそう返事をした。コーヒーを入れる手は完全に止まっていた。するとその人はコーヒーサーバーの前まで来て、私の持っていた紙コップをそっと手に取った。
「貸して、早く入れないとプログラム始まっちゃうよ」
「あ、ほんとだ」
 その人はコーヒーを入れながら言った。
「あんた今年の新入社員だろ?俺も去年プログラムを受けたの、さっきキスしてたのはその時に講習で授業をした人事の高田さん。来月結婚するんだってさ」
「え?結婚する・・・んですか?あなたと?」
「まさか。違うよ、人事の係長と」
「あ、でも・・・」
「キスのこと?あれはお別れのキスだから」
「お別れのキス?」
「そ、向こうにとっては俺は遊び。二十三歳の子供より結婚するなら金持ってる係長とってこと」
「そんな・・・」
「何?同情でもしてくれてんの?捨てられて可哀相な人が居る~って?」
「違いますけど・・・」
 こんな人が同じ会社に居るなんて、ちょっとショックだった。結婚すると解っている女性と開き直って付き合ってるなんて!とにかく早くここから逃げ出したくて、急いでコーヒーを入れた。
「手伝っていただいて、ありがとうございました」
 お礼を言って、慌ててコーヒーを持って部屋を出た。とにかく蓮との出会いは最悪だった。あんな男にだけは捕まりたくないと思った。だけど、気になってしょうがなかった。
 蓮と次に合ったのは四月に入って二日目の出勤の時だった。配属先が決まり、上司になるかたに連れ添われて部屋へ向かった。そこに・・・蓮が居たのだ。[企画促進部]、一年目の私と二年目の蓮。目が合った蓮はとても優しい笑顔だった。知らない職場に、"最悪な出会い"だったけど知っている人が一人。緊張する私に、そっと優しく微笑んでくれる。そんな蓮に惹かれないわけが無かった。
 [企画促進部]は蓮と初めて会った給湯室のある階にあった。新人の私が毎日利用することになるあの給湯室。だけどその後、とても居心地のいい大切な場所になる。蓮とは給湯室でよく上司の愚痴を言い合いっこした。すぐに怒られる私を励ましてくれたりした。ふと一息付きに給湯室へ足を運ぶと、必ずと言っていいほど蓮が現れる。他愛の無い話をしてまた職場へ戻る。そんな他愛の無い話が、私にはとても大きな元気の素だった。私は蓮と、あの給湯室でキスをしたことは無い。蓮が、あの場所でキスをしないことに拘っていたのは私を思ってなのか、結婚退職された高田さんへの想いからなのかは知らない。だけど、そんなことはどっちでもいい。
 私があなたを忘れるためには、この給湯室での思い出をなるべく早く過去へと終ってしまわなければならない。出来るかどうかはわからないけれど。


 蓮はシルバーアクセサリーが好きだった。仕事ではもちろんいつもスーツを着てる。白いシャツにネクタイをして。だけど普段の蓮はとてもおしゃれな人だった。ファッションにもアクセサリーにもヘアースタイルにも、何にでも気を使ってる。派手すぎず強調しすぎず、だけどいつも目を惹いた。それほど背が高いわけでも無いのに、いつもバランスよく小物も使いこなしてた。その隣を私が歩くなんてとても恥ずかしかったけど、照れくさいくらいに嬉しかった。
 何度か渋谷にある小さなショップに連れて行ってもらったことがある。明治通りから、二筋離れた所にある小さな個人で経営するショップ。メンズもののTシャツやスカーフ、サングラスなどが入ってすぐのところにディスプレイされている。だけど、メインは奥のショーケースに入っているシルバーアクセサリー。全てショップを経営するRYO-JIさんがデザインしたものだった。
「こんちは、RYO-JIさん」
 蓮は入るとすぐに、中に居る店員に声をかけた。その店員がRYO-JIさんだった。初めてそのショップに連れて行ってもらった日のことは今でも覚えてる。私が入社して一ヶ月くらい経ったある土曜日だった。そしてその日は蓮との初めてのデートの日だった。原宿駅で待ち合わせて、一番最初に向かったのがこのショップだった。ショップの名前は[Luce]。イタリア語で[光]という意味。シルバーが放つ光とのコントラストが好きだというRYO-JIさんが[光]という意味を持つこのイタリア語をショップ名にしたんだそうだ。
「蓮、久しぶりだな」
 RYO-JIさんはそう言いながら、蓮の後ろに居る私をそっと覗くように見た。
「何?蓮の彼女?」
 蓮は振り向いて私を見た。その頃はまだ、付き合っているというには微妙な距離で、蓮と私はまだ同じ職場の同僚・・・くらいの付き合いだった。そう、私が蓮のことをまだ「小湊さん」と苗字で呼んでいた頃だ。
「彼女は北川琴子さん。彼女にしたいんだけど全然まだ心を開いてくんないの」
 蓮は、そうRYO-JIさんに私を紹介した。
「初めまして、RYO-JIです」
 そう言ってRYO-JIさんはニッコリ笑った。私は笑顔でちょこんとお辞儀をするのが精一杯だった。
「蓮はすっごい愛想悪いけど良いヤツだからさ、宜しく頼むね」
 RYO-JIさんは私にそう言うと、新しいアクセサリーが出来たと言ってショーケースからいくつかのアクセサリーを取り出して蓮に見せ始めた。蓮は私の方を見ることなく、そのままRYO-JIさんと話を始める。ただ私は、さっきの蓮の言葉が気になって気になって、お店の中を見回しながら頭の中ではいろんなことを考えていた。
 いつも、蓮は私を「北川~」と呼ぶ。ちょっと偉そうに、ちょっとダルそうに。でもその声が甘えてるようにも聞こえる。そんな呼び声が好きだった。とにかく無愛想、だけど口調はいつも優しい。兄が妹の面倒でも見るように周囲には見えるようで、「小湊と北川はほんっといいコンビだな」が部長の口癖になりつつあった。ある日の給湯室で、いつものようにみんなのコーヒーを入れてる時だった。そっと給湯室を覗いて蓮が言った。
「北川さ、明日の土曜日暇だったら遊びに行かない?」
「えー?何処にですか?」
 返事をする私から紙コップを取ると、初めて会った時みたいに私に変わって蓮がコーヒーを入れ始めた。
「渋谷。ちょっと買い物に行きたいんだけど、一緒に行かない?」
「別に・・・いいですけど」
「待ち合わせ、昼前でもいい?十一時に原宿駅ね」
 そう言うと、蓮は自分のコーヒーだけを取って先に職場へ戻っていった。会社以外の場所で蓮に会えるのがとても嬉しくてにやけそうになったけど、考えれば考えるほど緊張してきて前の日は眠れなかった。原宿駅へも早めに着いて、ドキドキしながら蓮を待った。現れた蓮はいつものスーツ姿とは全く違って、ファッション誌から出てきた人みたいだった。それに引き換え、何を着ていこうって一生懸命選んだ自分の格好があまりにも普通で恥ずかしくなって、蓮の顔が見れなかった。
「どした?北川」
「いえ、何でも無いです」
 お気に入りの大好きなピンクのワンピースを着てサンダルを履いて、おしゃれをしてきたつもりだったけど、サングラスをかけて黒いシャツにジーンズを履いて大人っぽい蓮の隣には、こんな子供っぽい私は似つかわしくないと思えて仕方が無かった。
「そ?なんか会社だと真面目な服装してるからさ、ピンクとか着るんだな。髪も下ろしてるほうが可愛いじゃん」
 いつも会社では髪を首の後ろで一つに束ねてる。背中の真ん中くらいまである長い髪を、今日は下ろしてきた。その私の髪を指でクルクルといじると、蓮は「行こうか」と私の手を取った。そしてそのまま歩いて、RYO-JIさんの店まで来た。
 蓮が私の名前を呼んでることに気づいたのは、ぼぉーっとRYO-JIさんのショップの中を見回してる時だった。
「ちょっと、琴子!」
 蓮とRYO-JIさんが二人でこっちを見ていた。
「なぁー、琴子って指のサイズいくつ?」
「え?あ・・・いくつだろう」
「琴子ちゃん、ちょっとこれはめてみて」
 RYO-JIさんがサイズを測るリングを出してきてくれた。言われるままに指にそのリングをはめてみる。
「これだな。七号」
 そう言ってRYO-JIさんがショーケースから七号サイズのリングを取り出した。
「えー?マジで?細ぇー!絶対こんなの入んねぇ」
 そう言いながら蓮は七号のリングを手に取って自分の指にはめたりしていた。
「じゃぁ蓮はさっきのでいいのな?それとこのリングと」
「うん、RYO-JIさんちゃんと可愛く包装してね」
 そのリングをプレゼントされたのは、RYO-JIさんのショップを出てすぐのイタリアンレストランでだった。中庭が見渡せる窓際の席で、蓮がいくつか料理を注文した。何が食べたい?って聞かれたけれど、お任せしますって答えた。今日は蓮に会ってからドキドキすることづくしで、いきなり手を繋いだり、「琴子」って呼ばれたり、指輪のサイズ聞かれたり。何が食べたいかなんてメニューを見る余裕も無かった。
「今日はごめんね、急に誘って」
「いえ、全然大丈夫です、暇だったし」
「なんだよ、暇つぶしかよ」
「別に、あの、そういうわけじゃ」
 慌てて弁解してみるけれど、なんだか嘘くさく感じて私は少し視線を落とした。
「なあ、北川ってさ、俺の前の彼女とか知ってるわけじゃん?」
 高田さんのことだ。そっと私は頷いた。
「もちろんもう終わってるし、あぁいうとこ見られちゃってるわけだし、俺のこと遊んでるみたいに見てるかも知れないけど」
 そう言うと蓮は水をコップの半分くらいまで飲んだ。
「俺・・・と、付き合ってくれませんか?」
 え?思わず蓮の顔をじっと見てしまった。初めて見た、緊張した表情の蓮だった。期待してなかったわけでは無い。なんだかこういう展開になる予想は、今日の流れで想像してた。してたけどやっぱり、正直ビックリした。何も言えずにただ蓮の顔を見ていた気がする。
「もしOKだったら、この指輪受け取って」
 そう言って蓮が差し出したのがさっきRYO-JIさんのショップで買ったリングだった。白い小さな箱にリボンがかけてあった。私はどうするともなく、少しの間その箱を見ていた。そして、私は蓮のことが好きなんだって思った。
「ありがとう・・・ございます」
 そう言ってその小さな箱を、私はそっと手に取った。顔を上げた時に見た蓮の顔は今でも忘れない。ニッコリと笑ってた。
 蓮はシルバーアクセサリーが本当に好きだった。特にRYO-JIさんのデザインしたものは、気に入るといつもお金がなくても一つ取り置きを頼んでた。お給料が出たら支払いをして自分のものにする。そしてずっと、大事に使う。お手入れもちゃんとしていた。私にくれたリングも、時々一緒に磨いてくれた。蓮はそのリングと同じデザインのペンダントを買って、仕事の時もいつもシャツの下に付けてくれていた。付き合うようになって少しした頃に、蓮に聞いてみたことがある。あの時私が指輪を絶対に受け取るだろうって自信があったんじゃないの?って。じゃないと、そんなに安いものでも無いのに簡単に買っちゃうはずがない。そしたら蓮はこう言ったの。琴子が俺を振るはずがないでしょって。きっと、最初から蓮のことが気になってるってこと、気づかれてたんだ。悔しいくらいに、いつも私の心は見透かされてるんだ。
 私があなたを忘れるためには、このリングを手放さなければならない。だけど、外せないことは自分でもわかってる。あなたがシルバーアクセサリーをとても大事にしていたように、私もこのリングがとても大事だから。


 蓮の学生時代の友人が六月に結婚した。何度か私も会ったことがあって、結婚式には私も呼んでくれて出席した。以前従姉の結婚式に出席したことがある。その時は成人式用に買ったばかりだった振袖を着た。フォーマルドレスと言うものを持っていなかったんだ。社会人になって初めて出席する結婚式で、そう言えば何を着て行けばいいかなぁって蓮に相談したなぁ。フォーマルドレスを買うことになって、初めて自分が働いたお金で買うちょっと高価なものだからこそ、蓮に選んで欲しいと思った。
 蓮が連れて行ってくれたのはおしゃれなセレクトショップだった。
「ねぇ、蓮。私・・・三万円しか用意してきてないんだけど、ここのお店は高くないの?」
 店員に聞こえないようにこっそりと蓮にそう聞いた。それを聞いて蓮が笑うのは想像が付いた。口に手を当てて、大きな声が出ないように我慢しながら笑ってる。それがちょっと鼻に付いて私は拗ねた。
「気に入ったもの買えばいいよ、足りない分は俺が出すから。俺もあんまり持ってはないけど、もうすぐボーナス出るし」
 蓮と付き合っていて贅沢をしたことはないし、したいと思ったこともない。ペットボトルのお茶とおにぎりだけ持って公園に行くのだって大好きだし、一日中蓮の部屋でビデオを見たりテレビゲームをしながら話をするのも大好きだし。だけど蓮がこんなことを言うから、ちょっと蓮に甘えて贅沢してみようと思った。
「二次会も行くだろ?俺の友達いっぱい来るからさ、飛び切り可愛い琴子を自慢したい」
 私にはいつもこうやってドキっとするようなことを平気で言う。時々、私のドキドキする顔を見て楽しんでるんじゃないかと思う時もある。だけど、蓮は人ととても距離を置く人で、本当に信頼できる友人にしか自分を出さない。職場でも、私以外の人とは仕事の話以外はほとんどしない。今思うと、そんな蓮が私に心を開いたのはとても早くて、そんなことを考えるとなんだか嬉しくなる。そんな蓮だけど、本当に友達はたくさん居た。いつもその輪の中で、蓮はみんなの話を聞いてるだけ。だけどそれが楽しそうだった。そんな蓮を見ているのが、私は好きだった。
 セレクトショップで選んだドレスは、シフォンを使ったフワフワしたピンクのドレスだった。肩が出るのが照れくさいので、薄手のファーのボレロを合わせて買った。やっぱり予算オーバーで蓮に思い切り甘えることになってしまった。何度もお礼を言ってると蓮はこう言った。
「その代わりってわけじゃないんだけど、髪は下ろしてきてよ。クルクルって巻いてさ」
 言ってることは可愛いのに、目を逸らしながらこそっと耳元で無表情に言う。私よりはしゃいでるみたいに見えるのに、クールを装おうとしている蓮がとても可笑しかった。
 その後、蓮が寄りたい所があると言うので、言われるまま着いて行った。連れて行かれたのはCDショップだった。だけどCDのコーナーでは無く、通り越して蓮は楽器や楽譜を置いてあるコーナーへ行った。
「楽譜?」
「そ、結婚式で頼まれた」
「え?蓮が?何かやるの?」
 ギターのコーナーのある段をじーっと見ながら指ですぅーっと辿る。蓮は探しているスコアを一冊取り出した。目次で見たい楽曲を探すとページを捲り出した。
「ミスチル?」
 蓮が開いて見ているページを覗きこんで見た。[Sign]という曲だった。
「怜奈が、あ、奥さんになる子なんだけど、この曲を好きなんだって。自分で歌えばいいのに俺に歌ってくれって。ギター練習しなきゃなんないの面倒くせぇけど。でもこれマジでいい曲なんだよ、琴子知ってる?ってか、ミスチルとか聞く?」
 頷きながら、それよりギターを弾いて歌を歌う蓮を想像するので精一杯だった。結婚式でってことは、私も聞けるんだ。なんだか嬉しくなって、その日蓮と別れた後レンタルショップに寄ってミスチルの[Sign]のCDを借りて帰った。何度も繰り返し聞いては蓮の写真をじーっと見ていた。蓮はどんな風にこの曲を歌うんだろう。歌ってるとこなんて見たことないし、歌声だって聞いたことない。職場の歓迎会でも、二次会のカラオケで蓮は一曲も歌わなかった。だから歌を歌うことが嫌いだと思ってた。その後何度か蓮の部屋に遊びに行ったけれど、頼んでもギターを弾いてくれることも歌ってくれることも無かった。早く結婚式の日が来ないかなあと、待ち遠しく日々が過ぎて行った。
 当日は蓮とは結婚式場で待ち合わせだった。最寄の駅に着いて携帯に連絡すると、蓮は早く着いていたようで迎えに来てくれた。ちゃんと美容院を予約して髪をクルクルに巻いて来たので、早く見せたかったけど言われた通りしてきてしまった自分がちょっと照れくさかったりもした。そんな私を見て、蓮は何も言わずに私の髪をクルクルって弄った。そして小さな声で「さんきゅ」と言った。
 式場に着くと、蓮の友人が数人集まってきた。
「みんなこいつに手ぇ出すなよ」
 そう言って蓮はみんなを押しのけて、ロビーの奥のほうの席に私を座らせた。耳元で「ここに居て」と言うと別の友人のところに行ってしまった。照明の落ち着いたおしゃれなロビーで、座った席の傍にウェルカムドリンクを準備しているバーがあった。そのせいでたくさんの人が私の前を行き来する。知らない人が多くて、どうしていいかわからずに落ち着かないで居ると声をかけてくれた人が居た。RYO-JIさんだった。
「RYO-JIさん、こんにちわ。良かったぁー知ってる人が居て」
「蓮に置いてかれちゃった?」
「はい・・・」
「さっきあんなにみんなに自慢してたくせに。ほんとに根性無いね、あいつは。昔からそうでさ、彼女とか自慢したいくせに恥ずかしがって実際には全然自慢できないの」
「ずっとそんな感じなんですか?」
「そうだよ、俺あいつの大学の先輩になるんだけどさ、いつも口ばっかで根性無いんだよな。そこがあいつの良いとこのようでもあるんだけど」
 RYO-JIさんとの関係はちゃんと知らなかった。同じ大学だったんだ。RYO-JIさんは私の知らない蓮をたくさん知ってる人。蓮が心を開いてる数少ない人の一人。RYO-JIさんはそのまま私の隣にずっと座っていてくれた。
 結婚式が始まってからも蓮は隣に座っているのにほとんど会話もしてくれなかった。披露宴会場でも、RYO-JIさんだけが時々声をかけてくれる。そんな感じで時間が過ぎた。そんな時だった、蓮が司会者に紹介された。
「琴子」
 小さい声で蓮が私を呼んだ。
「琴子の為に歌うから」
 そう言うと、ギターを持ってマイクのほうへ歩いて行った。蓮がどうだったのかは知らないけれど、私はとても緊張していた。私が歌うわけじゃないのに、見たこともない蓮がそこに居たような気がする。
「えと、ご両家のみなさま、慶太、怜奈さん、ご結婚おめでとうございます。メッセージとか苦手なんで、早速ですが歌います」
 蓮の挨拶はそれだけだった。だけどそれだけで充分だってこと、わかってる友人たちばかりが集まっていた。口下手なのはみんなが知ってる。そんな空間で蓮は用意された椅子に腰掛けてマイクの位置を慣れた手つきで合わせた。会場の中が静かになって、蓮のギターの音が響き渡った。初めて聞く蓮のギターの音はとても優しかった。そして蓮の歌う[Sign]は、とてもとても優しかった。知らない間に涙が流れてしまったくらい、とてもとても優しかった。みんなの拍手をあびながらちょっと照れくさそうに、でもかっこつけながら、ギターを持ったまま蓮は私の隣に戻ってきて座った。そして私の頭をポンッと軽く叩いた。
 私があなたを忘れるためには、あの思い出の曲も忘れなくちゃいけない。あの時のギターの音も、あの時の歌声も、全て忘れなくちゃいけない。とてもとても優しすぎるから。


 蓮は電話が好きじゃない。同じ職場に居るからといって、仕事が終わると毎日一緒に帰るというわけではない。会社ではいつも隣の席で仕事をして顔を合わしているけれど、終業すると別々の時だってもちろんある。一週間のうち、半分ずつくらい。それはどちらかが決めたってわけでもなく、お互いが自分の時間や別の友人との時間も作ることをしているうちに自然と出来たリズム。蓮にはバイク仲間やお酒を飲む友達や、いくつか付き合いがあった。私にも、学生の頃からの友人や子供の頃から続けているバレエのレッスン仲間が居た。そんなそれぞれの場所で有った出来事をお互い時々話しあいっこする。だけど決まってそれは、逢ってだった。電話もたまにはするけれど、蓮は電話で話をするのを嫌った。別に電話自体の存在を嫌いはしないけれど、相手が見えない会話というものが嫌いな人だった。
「俺さー、昔付き合ってた子に、キレられたことがあってさ」
 ふいに蓮が話し始めた昔の話。私の知らない頃の蓮の話。蓮はあまり多くを話さないし、語らない。別に隠しているわけではないのだろうけれど、言葉にして伝えるのがちょっと苦手なんだ。蓮がそんな話を始めたのは仕事が休みの土曜日、一緒にお昼を食べた店でそのままお茶している時だった。夏前のオープンカフェで、時々頬を撫でる風が心地よかったのを覚えてる。
「電話で話してた時なんだけど、俺あんま気の効いたこととか言えないからさ、なんかその子すっごい落ち込んでた時で、聞いてくれてる?から始まって、そのうち蓮に話してもイライラするだけだとか言われて、マジむかついた」
「あ、でもなんかその彼女の言ってること解る気がする」
「そお?琴子も同じように感じてるってこと?」
「違うよ、私は電話で話すよりこうやって逢うほうが多いから、私が何か話して蓮が何も言ってくれない時とか黙りこくってる時とかでも、あぁ今なんて言えばいいか蓮は悩んでるなとか、解るんだよ。でもきっと電話だったら、聞いてくれてんのかな?って確かに思うかも知れないって思ったから」
 私がそう言うと蓮は何度も頷いていた。蓮は誤解されやすいことが多い。それは自分の想いを伝えるのが苦手だからだと思う。目の前に何かを失敗した人が居るとして、蓮は優しく「大丈夫だよ」とは言わない。言わないというよりは、言えない。反対に「ば~か」と口にする。そこまでしか見ていない人はきっと、蓮を嫌うだろう。だけど、そう言いながら蓮はちゃんとその人の肩を抱いてあげられる人。ちゃんと次のアドバイスもフォローもできる人。それは傍に居て、見ているから解ることで、やっぱり少し離れていると解らない。社会人として、きっとそれは良くないことなんだろう、けど、蓮はそこを変えてまで生きようとする人ではなかった。
「そっか、あいつとは電話ばっかりだったから別れたのか・・・」
「何それ、蓮はその彼女と別れたくなかったんだ?」
 ちょっと嫌味っぽく私は言った。また蓮は黙りこくる。だけど見ていて解る。違うよって、違うんだけど素直にそうは言えなくて、どう言ったらいいかなぁ~って悩んでる。遠まわしに何か言おうとしてるんだけど言葉が見つからない。それでちょっと目が泳ぐ、唇に力が入る。いつからだろう、こういう蓮の仕草を見ているのを好きになったのは。
 それを見てクスッと笑うと蓮はこう言った。
「琴子にはかなわない」

 いつだったかな、夕立に急に降られたことがあった。バレエのレッスンの帰り、ちょっと泣きそうになってる日だった。レッスン中に足を捻挫して、次のバレエの発表会に出られないかも知れないと言われて落ち込んでいた。大好きなバレエだけは社会人になっても続けていて、一年に二回ある発表会に出ることが一つの目標としてレッスンを受けていた。なのに出られないかも知れない。そんな時に急に振り出した雨。公園通りを駅に向かって走ろうとした時に痛みが足を走り抜けてそのまま転んでしまった。やまない大粒の雨に、持っていたレッスンバッグもずぶ濡れだった。中学の頃から使っている、トゥシューズを入れた母が作ってくれた手作りのバッグを抱きしめて涙が止まらないくらい流れ落ちた。通り過ぎる人は雨に追われて誰も声をかけずに通り過ぎる。蓮に逢いたかった。声が聞きたかった。私は迷わず携帯で蓮の番号を押していた。
「もしもし・・・」
 電話越しの蓮の声は低いトーンで、ちょっと面倒くさそうで、だけどとても優しかった。いつもなら私が一方的に話をする電話、だけど何も言えずに私は泣いていた。そんな状況に、戸惑っている蓮が想像できた。
「どした?琴子」
 そこから先、何も言わない蓮と、ただ泣いているだけの私。
「どこに・・・居んの?」
 少しして蓮がそう言った。通り過ぎる車と雨の音。携帯の向こうからは蓮の鼻をすする音。たぶんなんとなく返事を返していたんだろう、自分の話した内容は覚えてない。待っててと言った蓮のほうから電話が切られて我に帰った自分が居た。、とにかく立ち上がらなきゃ、そう思ってバッグを拾って立ち上がった。やっぱり足はとても痛く、歩けないことは無いけれど気持ちが負けていたせいか力が入らなかった。公園と歩道を仕切る小さな柵にもたれてそのまま雨に濡れていた。蓮が車で現れたのは十分ちょっとした頃だった。車から降りると蓮はびしょ濡れの私を下から覗きこんでタオルを差し出した。
「車、乗って」
「蓮、車持ってないじゃん、誰の?」
「おやじの」
「乗ったらびしょびしょになっちゃうよ」
 蓮は後部座席のドアを開けて私の荷物を乗せた。そして助手席のドアを開けて私にこう言った。
「俺ももう濡れてるし」
 蓮の言葉は時々冷たく聞こえる時がある。だけど表情を見れば解る、冷たいんじゃなくて照れを隠してるだけ。優しい顔をしてる。だから離れられないの、好きになってしまうの。もっともっと知りたいと思うの。電話じゃなくて、逢いたいって思うんだよ。私も相手の見えない会話というものが嫌いになった。たぶん、蓮の影響だ。だってあなたはいつも私を言葉ではなく、触れることで支えてくれる。何も言わなくてもあなたの体温だけで安心できるんだから
 私があなたを忘れるためには、あなたが触れてくれることに慣れてしまった自分を変えなくてはいけない。もっともっともっと、もっと強くなって差しのべられる手が無くても大丈夫なようにならなくちゃいけない。


 [企画促進部]は仕事に波がある。残業しても全然終わらないほど忙しい時と、一日中のんびりできるくらい落ち着いている時と。新しい企画が立ち上がると、その補佐をする。あくまで補佐なので、メインで動くことは無いので華はない。だけど、一番力を発揮できるやりがいのある仕事だと蓮はよく言っていた。男性だったらあんまり好まない部署らしい。やっぱり、企画を立ててメインで仕事をしたいというのが正直なところ、だけど蓮は表舞台が好きじゃない人だった。こっそり努力して、こっそり誰かの役に立つのが好きな人だった。
 そんな蓮は入社二年目にして社内では評判が良かった。一緒に仕事をしたいと申し出る企画課が多かった。とにかく愛想笑いは一切しない。どんなに先輩でも意見は言う。対等に仕事をするので偉そうに見えるけれど気が良く付くので、言われた仕事はきちんとする、それ以上に成果を出す、そんなところを見てくれている人が本当に沢山居た。各部署の上司には本当に可愛がられてた。そんなところが私の憧れであり、自慢でもあった。
 ある時急に蓮の海外出張が決まった。ニューヨークだった。新しい企画はニューヨークにある雑貨を扱う会社との取引が必要で、その補佐に蓮が呼ばれたのだった。蓮は九歳から十五歳までの七年間をニューヨークで暮らしていた。それを知ったのは蓮のニューヨーク出張を聞かされた時だった。
「俺、英語話せるの知らなかった?」
「知ってるわけないよ、話してるの聞いたことないもん」
「おやじの赴任に家族で着いて行ってたから」
 蓮の出張は月曜日に出発して、五日間。帰国するのは土曜日の朝の予定だった。その間に蓮と連絡を取ったのは一通のメールだけだった。ニューヨークの街で友人と撮った写真が添えられていた。ニューヨークに居た頃以来八年ぶりに逢ったというその友人はもちろん外国人で、そこに居る蓮はその街に自然に溶け込んでいて知らない人みたいだった。いつもの笑顔なのに知らない笑顔に見えた。
 蓮が居ない間に考えたことがあった。送られてきた写真を見て思ったこと。私は蓮とつり合わない。普通過ぎる自分が嫌いになりそうだった。どうしたら蓮とつり合える自分になれるんだろう。それよりも、どうして蓮は私と付き合いたいと思ったんだろう。周りから見て、蓮と私が歩いている姿はどう見られているんだろうか。以前から気になっていたことが一気に大きく不安として膨らんでしまった。何をしてもドジでとろくって、子供みたいに頼りない私・・・。だんだん落ち込んでいって、だんだん自信が無くなっていって、だんだんと蓮から逃げたくなってしまった。見れなくなってしまったニューヨークでの蓮の写真。金曜日にはもう、パソコンを開くことはしなかった。
 蓮が帰って来た土曜日も、次の日の日曜日も、用があるからと言って蓮からの誘いを断った。何をしたって逢う日が伸びただけで月曜日には顔を合わせることになるのに。案の定月曜日の朝、蓮はいつものように「おはよう、北川」と私に声をかけた。もちろん私もちゃんと挨拶をした、だけど、蓮はよそよそしい私を見逃してはいなかった。
「どしたの?」
 給湯室で蓮に声をかけられた。だいたいいつも二人きり。逃げられるはずも無く、部長に頼まれたコーヒーを入れに行ってる時に蓮が後から着いて来たのだった。
「はい、お土産。みんなに分けて。ちょー美味いの、これ」
 何か聞かれるかと思ったけれど蓮は紙袋を差し出してそう言った。中に入っていたのはお菓子だった。白い箱に入っていて、お店の名前が印刷された赤いリボンがかけられていた。何も言わずに頷いて箱を袋から出すと、もう一つ何か紙袋が入っていた。
「そっちは琴子に。開けてみて」
 私はまだ黙ったまま、言われたとおり開けてみた。平べったい形の箱が入っていた。箱を開けると楕円形の白い手鏡が入っていた。鏡の裏面の大きな楕円部分に、バレエを踊る女性の姿が彫られているデザインの手鏡だった。
「交渉に行った会社で扱っている雑貨の中にそれを見つけてさ、あ、琴子だ!って思ったんだ」
「・・・ありがとう」
「それで自分の顔見て、笑え」
 少し微笑んで蓮はそう言った。たまたま買ってきたおみやげが鏡だったからあの時そう言ったと、蓮は後に教えてくれたっけ。あなたのことで落ち込んでるのに、あなたから笑えって言われるなんて・・・。なんて皮肉だって思いそうになった私に、もう一度あなたと一緒に居る自信をくれたのはやっぱり、蓮だった。
「琴子のバレエが自慢なんだ。この前の発表会は出られなくて残念だったけど、次は見に行くから。まだ写真しか見せてもらったことないだろ?すげえ格好良かった。だからそれ、バレエしてる人のデザインってだけで買った」
 そう言うと蓮は先に部屋へ戻った。蓮は何があったのかは聞かない。だけどいつもよりたくさん私に言葉をかけていった。蓮の精一杯だって解った。手鏡で自分の顔を映してみた。最悪な顔をしているのが自分でも解った。
「笑え」
 そう自分でもう一度言って笑ってみた。
 この日以来、あの手鏡で自分の笑顔を見てから家を出るのが毎日の習慣になった。笑顔は大事だ。どれだけ辛くても、落ち込んでいても、暗い顔をしているより無理にでも笑顔を作ってみたほうが元気が出せる。もちろん泣くようなことも時々あったけど、最後にはこの手鏡を見て笑顔を作ってみるんだ。蓮が自慢だと言ってくれたバレエは今でも続けてる。あの後、半年後の発表会には重要なポジションをもらって踊れることになった。だけど、その発表会は蓮には見てもらえずに終わったんだ。だけど精一杯踊ったよ。ちゃんと自信を持って。
 私があなたを忘れるためには、あの手鏡が無くても笑顔を作れるようにならなきゃいけないね。どれだけ泣いても、また笑えるようにならなきゃいけないね。少し時間はかかるかも知れないけれど、あなたが教えてくれた大切なことだから。


 いつも何かを始めると、集中すると、周りが見えなくなる。だから蓮は時々自分の世界を作ってしまう。みんなと居る時も、何か気になることがあって考え出すと一人違う世界に行ってしまう。気の知れた友達はそんなこと日常茶飯事に知っていて特に気にはしない。そうでない人たちはそんな蓮の行動を批判したりするのだけれど。
 そんな時に見せる蓮の横顔が私は好きだった。男の人にこんなことを言うのはおかしいかも知れないけれど、綺麗だなぁといつも思った。そしてそんな蓮みたいになれたらなって、鼻ぺちゃな自分の横顔を嫌った。
 夏の暑い日、二人でブラブラとウインドウショッピングをしている途中で蓮は太陽が眩しいからとサングラスを買った。蓮はサングラスが好きで、沢山持っていた。時と場合によってサングラスをかけて出かける。この日は持って来ていなかったのだけれど、思いがけない好天気にその場しのぎということで、ブランドにも拘らずに選んでサングラスを買った。だけどそれでもやっぱりセンスがいいって思った。
「私もサングラスしてみようかな」
 レジにサングラスを持って行こうとする蓮にそう言うと、蓮は振り返ってこう言った。
「なんで?要らないじゃん」
「要らないことないよ、私も眩しい時あるもん」
 そう言いながらたくさんディスプレイしてある中から一つ手に取ってかけてみた。
「琴子はいいよ、似合わないから」
「ひどい、そんなはっきり言わなくてもいいじゃん、せっかく蓮とお揃いで買おうかなって思ったのに」
 蓮に悪気がないのはわかっていたけれど、その日の私はちょっと突っかかってしまった。そのまま、試しにかけたサングラスを私は買った。別に蓮はその行動に文句も言わなかったし怒りもしなかった。反対に、怒らせてしまった・・・どうしようって顔に書いてあった。買ったサングラスは、変だとは思わないけれど、かといって自分でも似合うとは全く思わないものだった。だけど買ってしまった手前、蓮と二人、サングラスをかけて街を歩いた。
「なぁ、さっきごめん」
 先に謝ったのは蓮で、いつまでも子供みたいに拗ねていたのは私だった。いつも並んで手を繋いで歩くのに、今日は一人で急ぐように私は歩いた。
「ねぇ、なんでサングラス欲しかったの?」
「私だって眩しい時あるから」
 私も蓮に謝りたかったのに、返事をしながらムキになってどんどん歩いた。蓮はその隣を、歩くスピードを保持しながらまた聞いた。
「ちなみになんでそのサングラスにしたの?」
「え?」
 なんでって言われても・・・悩みながらどんどん歩いた。蓮も後を着いてきていた。
「別にどれが欲しいってわけでもないし、たまたま勢いでこれを取ってしまったからそのまま勢いでこれを買ってしまったっていうか・・・」
 そしたら蓮は笑った。
「やっぱり」
「やっぱり?」
 振り向いたら蓮はサングラスを取って優しく笑ってた。
「なんで笑うの?」
「そんなことだろうと思った。別にそれ変じゃないけど、ちゃんと琴子に似合うやつ探せばよかったね」
 そう言うと、かけている私のサングラスを蓮は両手でそっと外した。
「琴子はこのまんまが一番いいのに。でも一つくらいサングラス持っててもいいかなって思うから探しに行こう。これは俺が貰うから、琴子に似合うやつちゃんと探しに行こう」
 蓮はそう言うと私の手を取って、歩いてきたほうへ戻るようにまた歩きはじめた。
「ねぇ、どこに行くの?」
 もう蓮は周りが見えなくなってる。目的の店まで嬉しそうに歩いて、サングラスがたくさん置いてある場所へ進んでいく。時々振り向いて、私を見てはサングラスを手に取ってあーだこーだ言ってる。そんな時の蓮の横顔が好きだった。あんまり広くない店内で、カップルが一組と男の子の二人連れがアクセサリーやバッグなんかを見ていた。そんな誰もが気づいてない、蓮の横顔。今は私だけのものだって思うその瞬間がとても好きだった。
 馬鹿だって思うかもしれないけれど、私は蓮が私の為に必死になってくれている時、そんな時に周りが見えなくなる瞬間の横顔が本当に好きだった。子供みたいに一生懸命で、面白いくらいにブツブツと独り言を言ってる。そんな蓮がとても大好きだった。この日も、蓮なりに一生懸命気を使って、サングラスが好きな蓮だからこそ、ちゃんと選んでくれようと思ったんだなって蓮の横顔を見ながら思った。
「これ、は?」
 蓮が選んだサングラスは眼鏡に近いようなデザインで、レンズの色も薄いピンクで可愛かった。
「ほら、琴子は顔が小さいからあんまり大きいのとか色の濃いのは似合わないと思うんだよね」
 自信満々に選んだサングラスを私にかけさせてそう言った。
「じゃぁこれにする。蓮が似合うって言ってくれるもののほうがいいから」
 淡々と答えたからだろう、蓮は私の顔を覗き込んで行った。
「さっきの、まだ怒ってるだろ?根に持ってるだろ?ごめんって言ったじゃん」
「怒ってないよ、でも似合ってるもの買うほうがいいじゃん、だからこれにする」
 選んでくれたサングラスをかけたまま鏡を覗いてみたら、蓮も鏡越しに見ていた。
「さっきはごめんね、蓮」
 鏡越しにそう言うと、蓮は照れて笑ってた。
 

 ある日私は仕事で大きなミスをした。入社して半年ほど経った頃だった。とにかく謝るしかできなくて給湯室に逃げるようにして泣いてしまった。ミスに関しては入社してまだ半年の社員ということで営業担当の方が上手く先方に話を付けてくれた。初めて取引する会社ではなく、古くからのお得意様ということで、さほど大きな問題にもならずにすんだ。上司も大丈夫だと言ってくれたけれど、初めての大きなミスに私の心はショックが勝ってしまった。
「琴子ごめん、今回はちょっとフォローしきれなかった」
 自分は悪くないのに、蓮は何度も隣の席で声をかけてくれた。職場全体の雰囲気が悪くなるのは解っているのだけれど、空元気にもなれずにその日の私はずっと下を向いていた。早く気持ちを整理して前へ進まなくてはいけないのに、仕事をするのが少し恐くなってしまっていた。
「大丈夫?琴子」
 それからも毎日声をかけてくれる蓮には頷くしかできなかった。こんな時蓮なら、ちゃんと自分で次に進む方法を知ってる。だけど今の私は何日かかっても無理な、そんな状況だった。
「蓮・・・私、仕事辞めたい」
 ふと、言ってしまった本音だった。また何かやってしまうかも知れない、周囲に迷惑をかけるかも知れない、そんな恐怖心が自然と生まれてきてしまっていた。社会人らしからぬことだとはわかっていたけれど。
「辞めて、どうするの?もう一生仕事はしないの?」
「当分は・・・バイトか何か、探す」
 蓮がそんな私を怒ったのは、その給湯室で、蓮と二人きりの時だった。
「琴子は甘いよ」
「え?」
「辞めるのは琴子の勝手だし、別にいいけどさ、それでバイト探したところでまたそこでミスして、そしたらバイトもすぐ辞めるんだろ?無理だったら辞める、自分に自信が無いから辞める、そんなこと繰り返すようじゃ一生仕事なんて出来ないよ」
「ひどい、蓮に私の気持ちなんてわからないよ。二年目でも周りから信頼されて仕事バリバリやってる蓮と私とは全然違うんだから」
 そう言って給湯室から飛び出そうとした私の手を掴むと、蓮はそこから私を逃がしてはくれなかった。
「俺は琴子のことが好きだからさ。はっきりと言うけど。自分の弱い部分ばかり大事に大事にしてさ、強くなろうって頑張る気持ちを面倒くさがって全然前面に出さない。そういうとこちゃんと自分で理解して大人にならなきゃ駄目だろ?基本さ、俺と琴子が全然違うってことなんて無いと思うよ?」
「なんで?」
「俺だって最初から何でも出来たわけでもない。人と話すのだって好きじゃないしむしろ嫌いだ。苦手だし。こんなスーツ着て、だせーおやじたちと肩並べて頭ぺこぺこ下げまくって仕事すんのなんてうぜーって思ってたし。だけどそれを切り替えないと世の中自分のワガママだけで生きていけるわけじゃないだろ?ミスをしたにしても今回は大きな問題にもならずに済んだんだ、感謝して、その後そのミスを挽回するくらいの気持ちでそのままその会社で仕事を続けることが、自分の仕事に責任を持つってことなんじゃねーの?辞めるってことは、責任を持って仕事が出来ませんでした、私は途中で投げ出しました、ってことになるでしょ?」
 蓮の言うことは痛いほどよく解り、痛いほど胸に突き刺さった。やっぱり泣くしかできなかった。泣くしかできない私が、このまま責任を持って仕事を続けることなんてできない。自信なんて全くない。
「ねぇ、琴子。今度の休みにうちに遊びに来ない?」

 ダラダラと気力のないまま仕事はとりあえず休まずに一週間を終えた。土曜日に、蓮に言われた通り部屋へ遊びに行った。蓮は実家のすぐ傍に部屋を借りて一人暮らしをしている。てっきり一人だと思っていたらその日は実家から弟が遊びに来ていた。
「はじめまして、悠です」
「あ、はじめまして」
 弟が居ると話には聞いていたけれど、会ったのは初めてだった。たしか中学三年生だったと思う。まだ笑顔が可愛い。胸に犬を抱いていた。
「こいつはリク、ポメラニアンの雄です」
 リクはとても人懐っこい犬で、初めて会う私にもシッポを振って寄って来てくれました。毛がふさふさしていて小さなライオンみたいで、毛並みは薄い茶色をしていた。親が煩くて動物は飼ったことがなかったので初めて胸に抱く犬にすっかり悩んでいたことを忘れてしまっていた。
「よかった、やっと琴子の笑顔が見れた」
「え?」
 リクの背中を撫でながら蓮もその場に座り込んだ。
「兄貴がさ、琴子さんの元気が無いからリクを連れて遊びに来てくれってうるさかったんです」
「言うなよ、悠!」
 そう言うと蓮は悠くんの頭をぐりぐりといじって軽く首を絞める動作をした。それを見てリクが蓮に向かって吠えだした。
「リクはさ、悠にめちゃくちゃ懐いててすぐ悠の味方すんの」
「あはは、リクも犬なりに、誰がいい人で誰が悪い人かよくわかってるんだよ、きっと」
「うっせーよ、琴子には言われたくないね、イジイジしてたくせに」
 蓮と悠くんとリク、その場に一緒に居させてもらったそれだけで、温かい感じがした。まだ十分くらいしか経ってないのに、何にクヨクヨして何に縛られて悩んでたんだろうって自分が情けなくなってきた。無邪気に笑う悠くんの笑顔と、可愛く走り回るリクと、それを見て優しい表情をする連を見て、今の自分がとても恥ずかしいと思えてきた。
「あ・・・琴子、さん?」
 悠くんが声をかけてくれるまで気づかなかった。知らずに涙が出ていた。
「ごめんなさい、なんか、私変だね」
 リクがそっと指先を舐めてくれる。
「ありがとう」

「リクはさ、俺と悠の間にもう一人居た弟が死んだ後で飼いはじめたんだ」
「え?」
 夕方、悠くんとリクを家に送った後、ぶらぶらと蓮と散歩していた。少し見晴らしのいい公園で、ぼぉーっと出来る時間を二人で過ごしていた時に、ふと、蓮がもう一人居た弟の話をしてくれた。
 蓮がちょうど今の悠くんぐらいの十五歳の頃、まだニューヨークに住んでいた頃のこと。奏くんはまだ六歳で、蓮と悠くんの間に陸くんという九歳の男の子が居ました。蓮は三人兄弟だった。高校生だった蓮と違い、まだ小学生で三つ違いだった陸くんと悠くんはいつも一緒に居て、とても仲が良かったって。
「そうそう、悠に関してはニューヨーク生まれなんだよ、なんだかかっこよくね?」
「へぇ~、そうなんだ」
 坂を上りきったところにある街を見下ろせるそのベンチにはよく二人で行った。あの時蓮と座ったのもそのベンチで、綺麗な夕焼けに照らされて、何処か遠くを見つめながら話す蓮を、隣で見ながら話を聞いていた。
「家族で日本に戻ることになったのは、陸が死んだからなんだ。事故だったんだけど、親父が凄く落ち込んで、会社側の配慮で日本に戻ることになった」
「そう・・・」
「とにかく悠が泣いて泣いて困ってさ、一日でも早く悠が陸のこと忘れるようにって親父が買ったのがリクだよ」
「名前が弟の陸くんと同じだけど?」
「それがね、悠がこの犬はきっと陸の生まれ変わりなんだって言い張ってさ、名前は絶対リクにするって煩くて。正直親戚とかから亡くなった陸の名前を犬に付けるなんて何考えてんだとか言われまくって大変だったんだよ。だけどリクのおかげで悠も俺たちも助かった部分が多いかな」
「私も今日、随分気持ちの部分で助けてもらったよ、悠くんとリクに」
「最近思うんだけどさ、悠はリクを飼うことになった時からきっと、リクは陸の生まれ変わりだなんて思ったことは一度も無いと思うんだ」
「どういう意味?」
「口ではそう言ってたけど、実際にはリクはリクでしかない。ただ、いつまでも陸を思って泣いて親を困らせてはいけないって、悠は気づいてたんだろ。だけど悠にとって陸の存在は大きかったからね、一日でも早く笑顔になれるようにってリクに気持ちを切り替えようとして陸の生まれ変わりだなんて言ったんだと思うんだよね。実際、陸の死から立ち直ったのは俺らより悠のほうが早かったし」
 蓮が、今この時に私に悠くんとリクを会わせたこと、そして陸くんの話をしたこと、とても大きな意味があるってひしひしと伝わってきた。自分の生き方を駄目なほうに持っていくのは簡単だけど、良いほうに導くのってとても難しい。気持ちのコントロールが出来なくなっている私に蓮はいち早く気づいて包んでくれていた。
 ねぇ、あの時のあなたは、私があなたを忘れなくてはいけない日が近づいていることに、気づいていたのかな?あの時は、ミスをして落ち込んでいる私を思ってしてくれたことだと思っていたけれど、今考えるとね、あなたを忘れなくてはいけない日がすぐそこまで来ていることに気づいて、悠くんとリクを私に会わせたのかなって、そう思えて仕方がないんだ。


 ある日のことだった、お昼前に急にビル内が騒がしくなった。何があったんだろうと思っていたら主任からお菓子の箱を手渡された。
「北川さんは知らないと思うんだけど、結婚退職した人事の高田さん・・・あ、今は大宮さんだな。彼女からの差し入れだ。みんなに配っておいて」
 高田さん、知ってるよ。以前蓮とキスをしていた人・・・。各部署に手土産を持って結婚祝いのお礼を言いに来たところ、人事部で新人教育を主に担当していた高田さんは特に社内に顔が広く、急に来たにも関わらず異様なまでの大騒動になった、ということだった。手土産のお菓子はとても高そうなタルトだった。
「え?来てんの?」
 高田さんからお菓子をいただいた話をすると、蓮はそう言っただけだった。いつもの給湯室で、大好きな場所だけどちょっと今日は居心地が悪かった。高田さんが来てるってだけで、私の居る場所ではないような、そんな気持ちになってしまう。そんな私の気持ちをよそに、蓮はいつもと変わりない。
「うまそうなタルト~、俺先にもらうね」
 そう言って蓮は、タルトを一つ摘んで口に入れた。
 お昼休みが終わる少し前、みんなにお茶を入れようと給湯室に行った。少し嫌な予感がして、ゆっくりそーっと覗いてみる。思い過ごしだ、誰も居なかった。初めて蓮を見た、あの日を思い返す。もしかしてまた二人でこっそり逢ってるんじゃないかと思っている自分が居た。
「私って嫌なやつ」
 お茶を入れながら気づくと鼻歌なんか歌ってた。
「ご機嫌・・・だね。なんか怖いんだけど?」
 ドアのところに蓮が立っていた。その後ろから覗いたのは、高田さんだった。
「あ・・・」
 蓮は高田さんに私を彼女だと紹介した。そして私に、普通に高田さんを紹介した。私があの日、二人のキスの現場を見てしまったことを高田さんが知っているのかどうかは知らないけれど、高田さんはとても素敵な笑顔で私に挨拶をした。
「蓮に彼女が出来るなんてね~。全然人に心を開かないあなたに彼女なんて、彼女がとても心の温かい素敵な女性ってことね」
 そう言うとニッコリ微笑んで高田さんはコーヒーを入れて部屋を出て行った。高田さんのちょっとした一言が、嫉妬させる。
「高田さんは、蓮のこととてもよく知ってるんだね」
 私は、蓮にそう言うと、コーヒーの続きを入れた。
「どういう意味?」
「別に」
「なんだよ?それ」
 嫌味っぽい言い方しか出来ない私に、蓮は少し怒ってるようだった。けど、優しく私を覗き込んで微笑んだ。私は、そんな蓮に目を合わせることもなく、先ほどの問いには答えずに、ただコーヒーを黙々と入れ、その部屋を後にした。子どもなんだ、私は。
 昼からの数時間は、私の一方的な無視を蓮は怒りもせずに、なんとなく気にしながら仕事をしている。それは見てすぐにわかった。時々チラッとこちらを見る、けど様子伺いというよりは心配している感じだった。私が勝手に怒ってるだけだと自分では理解しているけれど、謝る気にもなれず話をする気にもなれず、そのまま定時に会社を出た。蓮から携帯に何度か電話があったのは知ってる、けど出なかった。留守録には「逢いたい」ってメッセージだけが入っていた。
 どうして蓮を突っぱねてしまうんだろう。格好悪いなぁ・・・、そう思うと涙が出た。謝りたいけれど、電話をする勇気はない、ましてや逢う勇気なんてもっとない。でもそのまま今日を終わるのは嫌だった。
 
 [昼間はごめんね]

 それだけ書いてメールを送った。十分くらいして届いた返事には、こう書かれていた。

 [明日、いつもより三十分早く家を出てくれる?家の前で待ってるから]

 次の朝、緊張していつもより一時間以上早くに目が覚めた。遅れちゃいけないと思って、考えれば考えるほど眠れなくて、たぶん二時間くらいしか寝てない気がする。逢うのは仕事終わってからにすればよかった、逢いたかったから、つい朝からの約束にOKを出してしまった。嬉しかったんだ。何度も部屋の窓から玄関を見たりした。まだ来てないかなぁって。
 いつもより三十分とちょっと前に家を出て、玄関のドアを閉めた時に蓮の声がした。
「おはよう」
「・・・おはよう」
「朝の散歩してから会社行こう、眠いけど」
 二人で顔を見合わせて笑った。
「眠いよ、ほんとに。なんか緊張して眠れなかった」
 そう言うと、蓮は私の頭を撫でた。うちと家と蓮の家とはそんなに近いわけではないのに、ちゃんと来てくれてることが嬉しかった。朝は苦手なくせに。
「昨日メールくれたの嬉しかった。高田さんのことで・・・やっぱりちょっと気悪くしてたでしょ?」
 まだ人気の少ない住宅街をふたりでゆっくりゆっくり歩きながら、蓮がそう私に言った。
「私が勝手にちょっとヤキモチ焼いちゃったの、ごめんなさい」
「高田さんとは本当に久々に逢って、コーヒー飲むっていうから一緒に給湯室に行っただけだから」
「わかってるよ。私が勝手にヤキモチ焼いただけだって言ってるじゃん」
「んはは、ヤキモチ、か。可愛い」
 蓮の顔がなんだか見れなくなって、通り過ぎたサラリーマンの自転車を目で追った。蓮はちゃんと私の方を向いてくれているのに、どうして私は蓮の方を向けないんだろう。
「まだ彼女と続いてるとか思ってる?」
 急にそう聞いてきた蓮の方へ振り向き私は立ち止まってしまった。蓮の顔を見ると、その真っ直ぐな視線に何も答えられなかった。
「やっぱり結婚相手の居る女と付き合ってたような男は信用できない?」
 蓮の質問はあまりにストレートで、違うと心で思ってはいるけれどはっきりそう答えることもできなくて、必死で首を横に振った。
「別にいいよ、琴子と付き合うまではだいたいそういう付き合いかたしかしてなかったし」
 そう言うと蓮はまたゆっくりと歩きはじめた。何か、何か聞きたいことがある。蓮に確かめたいことがある。普段別になんとも思っていなかったこと、だけど今それをとても聞きたいと思った。
「どうして蓮は私のことを好きなの?」
 立ち止まり、振り向いて蓮は私をじっと見た。
「琴子なら・・・、俺のことをすぐに解ってくれるような気がした」
「え?」
「見た目とか勝手な印象や想像とかじゃなくて、素直に俺を見て受け止めてくれるような気がした」
「私が?」
「そんな琴子を心から欲しいと思った。大切にしたいって思った。自分から、こんなに自分のものにしたいって思ったのは琴子が初めてなんだ」
 蓮は人と付き合うのが苦手だ。それは恋人としてでも友人としてでも、仕事やあらゆる面に言えること。そりゃあそんな蓮だって彼女だって今までにも居たし友人だってたくさん居る。だけど自分から付き合って欲しいと言ったのは私が初めてなんだとその時初めて蓮から聞いた。そう言えば凄く緊張してたなぁ・・・。付き合って欲しいと私に言った時の蓮の顔を思い出した、初めて見た蓮のとても緊張した顔を。蓮をとても困らせているのは私のただの勝手なヤキモチだ。何も言葉にできなくて、私はただ蓮の手を取った。握り返してくれた蓮の手はとても温かかった。

「そうだねー、たしかに蓮から告白って聞いたことないな」
 その日の帰りにこっそり[Luce]に遊びに行ってRYO-JIさんに話を聞いた。
「蓮はさ、来るもの拒まずな付き合いかたをするやつでさ」
「来るもの拒まず?」
「そう、付き合って欲しいって言われたら付き合うの。その時彼女が居ようが居まいが」
「それって二股じゃないですか!」
「世間ではね、でも蓮に言わせると自分を好きになってくれる人を大切にしたいんだとか何とか」
「それっていい気になってるだけじゃないですか。蓮のこと見損なった」
「まぁそう言わずに」
 店内にはお客さんが一組。RYO-JIさんはそのお客さんにニッコリと笑顔で挨拶をするとレジの横にあるソファに私を座らせた。
「蓮はね、自分より相手を尊重するんだよ。好きだと言われたら付き合うし、別れたいと言われたら別れる」
「自分が好きな相手でも?」
「そう、別れる」
「どうしてですか?」
「そんなこと蓮にしか解らないけど、自分の気持ちを凄く閉じ込める傾向はあるよね。我儘もあんまり言わないし、平和主義だからちゃんと何でも解決しようとするし。照れ隠しで口悪いことはよくあるけど、本心で人の嫌がることはしないしね」
 RYO-JIさんの言うことは手に取るようによく解る。
「俺から見て思うことだけど、蓮がこんなに自分の気持ちを相手に出してるのは初めてだよ。それだけ琴子ちゃんに心を開いてるってことなんじゃないの?そんなに不安にならないで、甘えてやったらいいんだよ。あいつ根は優しいから」

 蓮が私を好きで居てくれていることは、毎日、何気ない言葉やしぐさで解りすぎるくらいに伝わってくる。そんなに思われるほどの私でもないのに、大切にしてくれる。他の人とは違う私への接し方に少し戸惑い、不思議に感じ、どこかで何かを疑い、不安になっていた。どうして不安になるのか。それは私が蓮を好きだからだ。誰にも渡したくはない、離れたくない。結局は、蓮が私の前から居なくなるのが恐いからだ。蓮が私を思うより、私の蓮への気持ちのほうがいつの間にか大きくなっていた。蓮を必要なのは私のほうだった。そんなことに、もっと早く気づいていたかった。


 年末はほとんど蓮に逢えなかった。十一月も十二月も、蓮は仕事でほとんど日本に居なかった。電話は時々しかできなかったけれど、メールは毎日蓮から届いた。メールは決まってとても短いものばかりだったけれど、それでも時間を見つけて文字を打ってくれているのを想像すると嬉しかった。以前の蓮では考えられない。メールなんて、苦手以上の苦手だし。毎日なんて、珍しすぎる。
 とにかく文句や愚痴ばっかりメールに書いてあって、何よこれ!って思ったりしたんだけど、結局、はけ口にできるのはあたししか居ないのかなと思うとそれはそれで嬉しいメールだった。いつも蓮に返す返事の最後には"頑張ってる蓮が好きだよ"って書いた。
 
 [今ちょうど昼メシ食ってる、隣の席で子供が騒いでて全然旨くないけど]
 [取引先のおっさんと喧嘩した、結局向こうが謝ってきたので許してやった]
 [こっちのミネラル・ウォーターは値段が高いばっかで美味しくない]
 [気晴らしにクラブ行ったんだけど日本人ってバカにされてムカついた]

 最初はこんな強気なメールが多かったのに、長く海外に滞在する出張になればなるほど、蓮のメールは優しい弱気なメールになっていった。

 [ワシントンの夜は案外クールでいいよ、今度一緒に来よう]
 [今日は眠れない、そっちは今仕事中かな]
 [公園で琴子みたいな髪がふわふわの女の子に逢ったよ]
 [クリスマスのイルミネーションがさ、最高にキレイなんだ、琴子に見せたい]

 そんなメールのやりとりが二ヶ月ほど続いた。蓮の海外出張は二ヶ月の間に四回。帰国しても二日もせずまた飛行機で飛ぶ、そんな感じだった。
 そんな蓮から電話が入った。十二月の終わりのことだった。
「もしもし?蓮?」
「あ、琴子。元気?」
「うん、元気だよ、蓮こそ大丈夫?体壊したりしてない?」
「大丈夫、生きてる。元気だよ、ちょっと眠いだけ」
 少し小さめの声で話す蓮の声は大丈夫だと言えるようには感じ取れなかった。想像しただけでも過密なスケジュールなのはわかっていたし、疲れが溜まっているだろうと思ってはいた。
「明日やっと帰るんだけど、空港まで来てって我儘言ってもいい?」
「うん、もちろんいいよ。迎えに行くから気をつけて帰って来てね」
「さんきゅ」
 蓮はホッとした声でそう言った。少し話して、寝るからと蓮は電話を切った。
 次の日、仕事は昼から早退して空港まで蓮を迎えに行った。二時過ぎに着く飛行機で蓮は日本に帰って来た。年末の忙しい時期、旅行客らしき人は少なくサラリーマン風の男性が非常に多い便だった。そんなスーツ姿の乗客の中にゲートから出てくる蓮を見つけた。手を振ると、気づいた蓮はふと笑った。
「おかえり、蓮。お疲れさま」
「ただいま」
 それだけ言うと、ニッコリ笑って蓮は手荷物の中から小さな紙袋を取り出して私に渡した。
「何?これ」
「遅れたけど、メリークリスマス」
 実はクリスマスの日、「仕事とはいえ、クリスマスぐらい逢いたかった」とメールに書いてしまった。そのメールに蓮から返事はなく、怒ったかなぁと心配していたのだけれど、次の日のメールはまたいつもと同じ普通のメールに戻っていて、私もそのまま何も気にせず普通にメールを返していた。怒ることさえもできないくらい蓮は弱くなっていたのかも知れないとか、それとも本当は怒っていたのに何もなかったように接してくれたのかも知れないとか、今だからそう思う。離れていたからこそ、優しく居てくれた蓮に全く気づいていなかった。
 プレゼントは小さなハートのピアスだった。やっぱり蓮の好きなシルバーのものだったのが可笑しかった。
「私もプレゼントはちゃんと準備してあるんだよ、でも今日は持って来てなくて・・・」
「いいよ、プレゼント欲しいから来てって言ったわけじゃない。琴子に逢いたかったから」
 空港からタクシーで少し移動して、蓮の希望で後は電車で帰った。昼間の電車は朝のラッシュとは大違いに空いていて、二人で並んで座った。
「向こうは地下鉄ばっかでつまんなかった」
 蓮はそう言うと体を半分後ろにひねって窓の外の景色を見ていた。ただ民家が続くだけの景色だったけど、満足そうに蓮は外を見ていた。
「あ、電車降りたら駅前の薬局に寄っていい?」
「うん、いいよ。何か買うの?」
「向こうでずっと頭痛くて、なんか薬買う」
 最寄駅の前にある全国チェーンの薬局で、よくCMしてるメジャーな頭痛薬とミネラルウォーターと缶コーヒーを数缶、蓮は買った。家に着くまで十分くらい、大きなスーツケースを蓮が押して、バッグを私が持って歩いた。あんまり言葉は交わさなかったけど、そんなに嫌じゃなかった。すれ違うのは小学生とか自転車に乗った主婦とか、平日の昼間を感じさせてくれる。口数の少ない蓮を特に不思議にも思わず、平和な午後の時間を感じている私と同じように蓮も感じているだけだと思っていた。
 部屋に着くとすぐ、その足で私だけスーパーへ買い物に出た。夕食の材料を買うためだ。蓮が食べたいと行ったものを作ることにしたけれど、冷蔵庫には何も無いので蓮をゆっくり休ませたくて一人で買い物に出た。三十分ほどで帰宅したけれど、帰って見たものに私は驚いた。
「ねぇ、蓮。帰ってから今の間にコーヒー二缶も飲んだの?」
「うん」
 ブラックの缶コーヒー。見るとタバコもすでに五本吸った後があった。さっき買った頭痛薬は三錠飲んだ形跡、ミネラル・ウォーターも蓋が開いていた。
「駄目だよ、薬飲んだ後にコーヒーとタバコって」
「あぁ・・・ゴメン」
「蓮、タバコの数増えた?」
「・・・かもしんない。いらいらするんだ。コーヒーとタバコは向こうで酷かったかも」
「そんなだから頭痛くなるんだよ、それにちょっと太ったでしょ?」
「そう?」
 蓮はそう言うとゴロンとベッドに横になった。
「凄い不規則食生活だったんじゃないの?これから戻さないとやばいよ、おじさん体型になっちゃうよ」
 そう言うと蓮はベッドの上でこっちを見て笑っていた。そのまま目を瞑って天井を見ると、深呼吸をしていた。私は台所に買ってきたものを運んで、夕食を作りはじめた。二ヶ月前と何も変わってないと思っていたのに、この二ヵ月の間に蓮には大きな変化が起こっていた。そんなことに気づかないまま二ヶ月前と変わらずに私は蓮と過ごした。三日後には年末年始の休みが始まり、一緒に初詣にも行った。

 [これからも蓮と一緒に楽しく過ごせますように]

 私のそんな願いは神様には届かなかった。


 蓮との初めてのお正月も過ぎたある日、仕事始めからまだ数日のことだった。仕事が終わる少し前に珍しく蓮が仕事中に私へ声をかけた。小さい声でそっと「今日一緒に居たい」って。仕事中だったし、「何言ってんの、忙しいのに」とだけ返事をして何もなかったように私は仕事を続けた。その日はバレエのレッスンの日で、次の発表会の配役発表予定の日だった。それは蓮にも伝えてあったし、そんな日に私を困らせて蓮は楽しんでるんだろうとぐらいにしか蓮の言葉を受け取っていなかった。
 バレエの発表会の配役の発表は予定通り行なわれ、発表の少し前に実は先生に呼ばれていた。以前捻挫した足の状態の確認だった。大丈夫だと返事をすると先生はニッコリ笑った。なんとなくだけど、気持ちが高ぶっていた。きっと何か役が貰える!その確信はあった。案の定、主役ではなかったけれど大事な役を貰えた。ソロパートのある重要な役だった。発表会は二月の末なので練習期間はほぼ一ヶ月半ぐらいしかない。これから練習に明け暮れる日々が始まる。そう思ったら蓮のことを思い出した。
「今日一緒に居たい」
 そう言ってた蓮の顔を思い出した。
「時間遅いけど、ちょっと逢いに行っちゃおうかなぁ
 十時過ぎ。バレエの教室の最寄駅から蓮の部屋の最寄駅まで五駅。それほど遠くないし、まだまだ起きてるだろうし。ちょっと顔を見てから家に帰ろうと決めた。
 こっそり行って驚かしてやろうと連絡はせずに行った。三階にある蓮の部屋には灯りが付いていた。オートロックの番号は知っているので自分で開けられる、自分でマンションの中に入って部屋のチャイムを鳴らしてみると、少しして、ドアが開いた。
「え!?琴子?」
 案の定、蓮は驚いていた。それを見てちょっと気分が良かったので得意げに笑顔を作ってみたりした。
「びっくりした?レッスンの帰りに寄ってみたの。昼間ごめんね、何言ってんのとか言っちゃって。あがっていい?」
「あ・・・いいけど、ちょっと散らかってるよ」
 入ると、部屋の中にCDが散乱していた。
「どしたの?これ」
「CDラックの後ろに書類が落ち込んじゃって、取ろうとラックを動かしたら急に腕に力入んなくてぶっ倒れてきた、最悪」
 ラックはすでに立ててあったが、その時に散らかったCDが部屋の一部を埋めていた。一緒にCDを拾ってラックにしまっていく。その時に一つ目に止まったCDがあった。
「これ、前に慶太さんの結婚式で蓮が歌ったやつだよね」
「あぁ、・・・うん」
「借りてってもいい?」
「いいよ」
 二人でCDを全てラックに戻し、ホッとして座りこんだ。
「ごめんね、あ、なんか飲む?」
「うん。あ!そうだ、私ね、今度のバレエの発表会でソロのある役を貰ったの!頑張るから絶対見に来てね」
「マジで?すげーじゃん。行く行く」
 冷蔵庫からグレープフルーツのジュースを取り出してブルーのグラスに注いで手渡してくれた。
「前回悔しい思いをしたから、今度は絶対蓮に見て貰いたいの」
「何?それ言いたくて来たの?昼間断ったくせに調子いいよな、琴子は」

 それから三日続けてバレエのレッスンで蓮とは仕事が終わると会社で別れた。その間蓮は遊びにも行けずに三日間とも残業していたようだった。年末に行った出張時の取引が大詰めだったせいもあって、年始から蓮は忙しい毎日だった。一緒には居られないし丁度いいからレッスン頑張りなよと蓮が言うので、ひたすらレッスンに集中した。
 三日目のレッスンの日、レッスンの後で樹夜ちゃんとお茶する約束を昼休みにしていたので、自宅に遅くなるからと連絡を入れるため携帯を鞄から取り出した。レッスン中はマナーモードにしてあるので気づかなかったけれど、何度も着信が入っていた。蓮からだった。
「どうしたんだろう」
 蓮の携帯にかけてみると、電話に出たのは蓮ではなかった。
「琴子・・・さんですか?悠です」
「え?あ、うん、琴子です。悠くん?なんで?」
「琴・・・子さん、兄貴が大変なんです」
 泣きそうな声だった。必死で泣くのを我慢して電話に出てくれた・・・そんな感じだった。
「どうしたの?蓮に、何かあったの?」
 私は言われるまま、告げられた場所へ向かった。会社から近い場所にある病院だった。

 そこは救急患者も受け付ける大きな総合病院で、言われた階に行くと悠くんと蓮のご両親が居た。その日蓮は一人残って残業していた。たまたま給湯室へ行こうと通りかかった社員が部屋に誰も居ないのに電気が付いているのを気にして部屋に入ったところ、蓮が倒れていたとのことだった。救急車で運ばれて診断された病名は[アテローム血栓性脳梗塞]。私が病院に行った時には蓮は意識不明だった。
「あなたが、北川さん?いつも蓮がお世話になってるそうで。悠から聞きました」
 話しかけてきたのは初めて逢う蓮のお母さんだった。少し顔色が悪く見えた。蓮のお父さんは病院の先生と話をしていた。私は何も言えずに頭を下げた。何がなんだかわからない。[アテローム血栓性脳梗塞]だと急に言われ、そんなの聞いたことない。ただ、その聞いたことのない病名が、良くないものなんだってことはなんとなくわかった。眠っているようにしか見えない蓮は意識不明だと言われ、どうしていいのかわからないまま樹夜ちゃんに電話をして急いで来てもらった。
「去年の暮れから仕事が忙しかったでしょう?全然あの子と逢う機会がなかったので、あなたなら何か知ってるかもしれないと思って」
「何・・・か?」
「体調がおかしかったとか、具合が悪いと言っていたとかいうことが無かったか知らないかしら?」
「本人からは海外出張中にずっと頭が痛かったっていうのは聞きました。で他は特に」
「そう、頭痛・・・」
「あ、でも気になったことなら」
 そう言うと蓮のお母さんは俯気味だった顔を上げて、表情で話してくれと言った。
「タバコの本数が増えたことと、コーヒーの量が増えたこと。あと、ちょっと太ったかなぁって思いました。仕事忙しかったし疲れてたみたいだったし、ストレスも溜まってたと思うんですけど」
「そう、ありがとう。先生に話してみるわ」
「それが原因なんでしょうか?私がもっとちゃんと気にしてればよかったんですよね、本人から聞いてたのに」
 駆けつけてくれた樹夜ちゃんに手を握られて、泣かないように我慢するのが精一杯だった。悠くんはずっと椅子に座ったまま下を向いて居た。先生と話をし終わったお父さんが戻ってきて、頭をすっと下げた。私も樹夜ちゃんと頭を下げた。ガラス越しに眠る蓮のほうにふと目をやると、やっぱり眠ってるようにしか見えない。
「樹夜ちゃん、蓮・・・大丈夫かな」
「うん、きっと大丈夫だよ」
 蓮が目を開けたのはそれから一週間ほどしてからだった。ホッとしたのもつかの間。蓮は目を開けただけで、それ以上動くことは無かった。
 いつもそうだ。私は蓮のサインにいつも気づいてあげられない。後になって、こうだったのかも知れないとか、こういう意味だったのだと気づかされる。そんな時自分を責めてみるけれど、それで蓮がどうなることでもなく、ただ苦しくなるだけだった。


 仕事が終わると毎日病院へ行った。目を開けてはいるけれど、見えているのかもわからない。一点をじっと見つめたまま目を開けているだけの蓮に話しかける。ちゃんと瞬きはするし眠くなるとちゃんと眠る。ただ・・・話してくれない。話しかけても返してくれない、それだけ。それだけがとても辛かったけれど、毎日病院に行った。笑顔で今日あったことを連に話す。そんなことが出来るようになるのに、あまり時間はかからなかった。それは弟の悠くんの言葉のおかげだった。
「兄貴は幸せだよね、毎日こうやって琴子さんが来てくれて。僕も家族も助かってるんです」
「どうして?」
「自分たちだけだと、兄貴の前で泣いてしまいそうで。でも琴子さんが来てくれると、家族の僕たちが泣いちゃいけないって思えてくる。ほら、兄貴が生きようとしてるのに僕たちが泣いてちゃ、兄貴もやってらんないよね」
 私はその言葉に教えられた気がした。私は実は毎日蓮の顔を見た後泣いていた。病室では堪えていたけれど、部屋を出るなり我慢できなくなっていつもそのまま病室から一番近いトイレに駆け込む。そして泣いていた。だけど、私たちが泣いていることは蓮にとって一番辛いことかもしれないって、その時に思った。それからは少しずつ泣かなくなった。笑顔でその日にあったことを連に話しかけられるようになった。冗談も言えるようになった。少しずつだけど、バレエのレッスンにもちゃんと行くようにした。私がいつも通りの、蓮が元気だった頃と同じような生活をちゃんとしていれば、蓮もいつも通りの、元気だった頃の生活がまたできるような、そんな気がしたから。

 蓮が入院してから一ヶ月ほどが経ったある日、病室を訪ねるといつも居る悠くんもまだ来ていないようで、私一人だった。蓮はちょうど眠っていた。小さな個室。蓮に繋がれた機械の音だけが小さく音をたてていた。西日の差し込む窓のカーテンを半分閉じた。さすがに眠っている蓮に今日あったことを話すわけにもいかず、椅子に座って蓮の顔を見ていた。ただ眠っているだけ、そんな感じだった。そっと触れてみた頬は温かくて柔らかかった。
「蓮、大好きだよ」
 言った後で少し照れくさくなって思わず後ろを振り返り、そのあと部屋を見回した。誰も居ないのに。蓮だって眠っているのに、馬鹿みたいに照れくさかった。そういえば声に出して初めて言ったかもしれない、好きだって。蓮に貰った指輪がふと目に入った。
「蓮にもっと好きだって言っておけばよかったよね、ごめんね。これからはいっぱい言うから」
 その日は蓮が目を開ける前に病室を出た。病院を出ようとした時に誰かが名前を読んだ。
「琴子さん」
 振り向くと、蓮のお母さんだった。
「少し・・・時間あるかしら」
 お母さんに連れられて病院の中庭へ行き、ベンチに二人で座った。もうすっかり日は落ちて、街灯に照らされていた。
「ごめんなさい、こんなところで。寒いわよね、手短に話するから」
「大丈夫です、なんですか?」
 蓮のお母さんは俯き気味だった顔をすっと上げ、はっきりとこう言った。
「蓮のこと、忘れてくれないかしら」
「え?」
「蓮が倒れて病院に運ばれてもう一ヶ月、だけど変わらずに寝ているだけ。脳に障害が出ていることはあなたにもお話したわよね」
「はい」
「自分の意思で動くことも話すことも何も出来ないまま、あの状態のままである可能性が高いって、お話したわよね」
「はい、聞きました。でも、少しずつ戻る可能性もあるって」
「可能性はあるけれど非常に低いでしょう」
 お母さんは、優しく笑った。
「でも、だからってどうして私が蓮のことを忘れなくちゃいけないんですか?」
 私は立ち上がって蓮のお母さんに問いかけていた。
「毎日蓮に逢いに来てくれて本当に感謝してるのよ。蓮にはこんな素敵なかたが居たんだなって主人とも話して。だけどね、これからどうなるかわからない蓮にあなたを縛り付けておくわけにいかないでしょう?」
「私は縛られてなんてないです、ただ傍に居たいから来てるんです」
「それがね、見ていて辛いのよ。蓮だって、動けない自分をあなたにずっと見られて、毎日あった出来事を話されて、だけど何も返せずに何も出来ない。あなたにそんな姿を見られているのって辛いんじゃないかって。あなたにだって人生はあるんだし・・・」
「それで私に蓮を忘れろって言うんですか?」
「あなたは蓮の傍に居られて満足かも知れないけれど、蓮は毎日動けない自分をあなたに見られてどう思ってるのかしら」
 そんなこと考えたことなかった。蓮は私を待っていてくれていると思ってた。だけど、わからなくなってしまった。私はそのまま何も言い返せずに病院の中庭を後にした。ただひたすら泣きながら走って帰った。どうしたらいいとか考えられるはずもなく、ただ悔しいのか哀しいかなんだかわからないまま泣きながら走った。私が走り去ったあと、蓮のお母さんが泣いていたことも知らないまま。

「どうして小湊さんのことを忘れなくちゃいけないの?ちょっとムカつく」
 うちには心配して樹夜ちゃんが来てくれていた。蓮のお母さんに言われたことを話すと私は少し気持ちが落ち着いた。
「母心とかそういうのは私にはわからないけど、でも毎日来てくれてる琴子に対していきなり忘れろっていうのは酷いよ」
「なんで樹夜ちゃんがそんなに怒るのよ」
「だってムカつくじゃん!」
 樹夜ちゃんはその日は泊まって行くつもりで来てくれていた。母が気を利かせて買ってきてくれた缶ビールを樹夜ちゃんは飲みながら怒ってた。ムカツクって何度も言いながら。本当は私がそう叫びたかったんだ。だけど樹夜ちゃんが代わりに何度も叫んでくれた。
「だけどね、樹夜ちゃん」
「ん?なに?」
「蓮は毎日逢いに行く私のことどう思ってるんだろうって・・・。そこはちょっと考えちゃうんだよね」
「なにがよ、小湊さんが琴子のこと凄く好きだったのを私知ってるんだから。小湊さんの支えになってるよ、琴子は」
「そうかなぁ・・・」
 ふと顔を上げると借りたままのミスチルのCDが目に入った。一緒に選んで買ったサングラスも、蓮から貰った手鏡も。一緒に撮った写真も、選んでもらった服も、可愛いって言ってくれたアクセサリーも、一緒に見たDVDも、選んでくれたクッションカバーも、いつもいじってくれる私のこの髪も、真似してこっそり買ったゲームのカセットも、あなたが好きな香水も、携帯のメールも、この指の指輪も。
「全部捨てなきゃ」
「え?」
 気づくと目に入るものを何でもゴミ箱に入れていた。
「琴子!何やってんの?」
 部屋にあるものには全部蓮が残ってるから、全部捨てなくちゃいけないって思った。あなたを忘れるためには全部失くさなくちゃいけない。目に見えるもの全部、物も、香りも、音も、記憶も、全部捨てなくちゃいけない。私も、私自身も捨てなくちゃいけない。
「全部捨てなきゃ蓮を忘れられないじゃない!」
 覚えているのは私を見て泣いている樹夜ちゃんと、部屋に入ってきたお父さんとお母さん。後は何も覚えてない。気づいたら部屋はぐちゃぐちゃだった。散らばった髪とハサミ。ふと鏡を見ると、左側だけ肩から下の髪が無かった。

 蓮ごめんね、あなたが好きだと言った髪を切ってしまった。こんな私のこと、もう嫌いになったよね。嫌いになるよね?あなたが私を嫌いになってくれたら、私はあなたのことが忘れられるかな。


 不思議だった。あんなに、おかしくなるほど自分を見失いかけた自分が、ちゃんとバレエの発表会で舞台に立ってる。二月に行なわれたバレエの発表会で、私は予定通りの役を最後まで演じ、踊りきった。バレエの発表会でソロのある役を貰ったと蓮に報告したあの日、蓮が言った言葉は今でも耳に残ってる。
「マジで?すげーじゃん。行く行く」
 嘘つき。見に来てなんかくれなかったくせに。だけど悔しいからちゃんと最後まで演じて、踊った。
「琴子さん!」
 終演後、樹夜ちゃんと一緒に待っていてくれたのは、悠くんだった。
「え、来てくれてたんだ」
「凄かったです!バレエって初めて見たけど、琴子さんが一番きれいだった」
 蓮のお母さんに蓮を忘れて欲しいと言われてから、病院には一度も行っていない。行きたいけれど、行きかけては止めてしまう。どうしたらいいのかなんて答えも出ていない。悠くんと逢ったのも久々のことだった。
「琴子さんが来ないとやっぱり寂しいよ。おふくろが変なこと言ったからなんですよね、本当にごめんなさい」
 そう言って悠くんは頭を下げた。
「どうして?悠くんは悪くないよ。お母さんだって・・・」
 きっと悪くない。誰も悪くない。私だって、悪いこと一つもしてないと思う。ただ、それぞれに想いがあって、自分がどうしたらいいのかを見つけられず悩んでいるだけ。
 その日は樹夜ちゃんと悠くんと三人でご飯を食べて帰った。

 蓮の状況は変わらないまま。相変わらず動く気配もなく、見えているのかわからない目を開いては、眠くなると眠る。蓮のご両親は三月いっぱいで職場に蓮の退職願を出した。蓮が会社に在籍したという証を残しておきたかったとのことで、ちょうど入社して二年が終了する三月いっぱいでの退職になった。当然のことながら、私の隣の席は空席になる。それでも世間は何も変わらない。蓮の分も、私は毎日仕事を頑張った。その後、ちょうど一年前の私のように、三月中頃から新人教育プログラムに参加していたうちの一人の男性が企画促進部に配属された。席は私の隣、蓮の居た席だ。蓮とは全然違う真面目そうな身体の大きな人だった。

 その日は悠くんと逢う約束をしていた。悠くんとは自然と連絡を取り合っていた。お互い蓮の話をするわけでもなく、ただその日にあった話をするだけ。でも時々悠くんがメールに書いてくれる"無理してないですか?いつでも兄貴に逢いに来てやってください"という言葉には泣きそうになった。辛いのではなくて、嬉しかった。それでも病院には行けない日々が続いてた。
 待ち合わせたのはRYO-JIさんのお店で、店内に入ってみると悠くんはまだ来ていなかった。
「やぁ琴子ちゃん、ちゃんと準備しておいたよ」
「どうもありがとう、RYO-JIさん」
 四月から高校生になった悠くんへの入学祝いにと、RYO-JIさんに携帯ストラップを頼んであったのだ。黒い編んだ皮ひもの先にシルバーのチャームが付いているデザインのもの。それは蓮が使っているものと同じだった。少ししてからやってきた悠くんに手渡した。
「ありがとう!琴子さん、RYO-JIさん。なんか兄貴になったみたいな気分だ」
 そう言って早速自分の携帯にストラップを付けた。
「琴子さん、今日こそは兄貴に逢いに来てやってよ、見て欲しいものがあるんだ」
「見て欲しい・・・もの?」
 悠くんに言われるがまま、RYO-JIさんのお店を後にして病院へ向かった。
 ほぼ二ヶ月ぶりになる病院はすっかり桜に囲まれて柔らかい印象になっていた。蓮の病室は変わらないまま同じ病室だった。先に入る悠くんを見送って、なかなか病室に入れなかった。ベッドだけが見える位置でドキドキしながら中をそーっと覗いてみる。蓮の顔はまだ見えないけれど、ベッドのテーブルに何か置いてあるのが見えた。
「ほら、早く、琴子さん。兄貴、琴子さんが来たよ」
 手を引っ張られて中に入ると、目を開けた蓮が居た。こっちを向こうとはしないけれど、ベッドを少し斜めに起こしてあるせいでまるで座っているように見える。病院で用意された衣類を着て、だけどその中にいつもつけているペンダントが見えた。私のリングと同じデザインで作ったペンダント。髪は以前より少し伸びていた。そして少し、痩せていた。
「これ、この写真を飾るようになってから兄貴の起きている時間が長くなるようになったんだ」
ベッドに取り付けられたテーブルに置かれているのは、悠くんが撮った私のバレエ発表会の写真だった。
「悠くん、これ」
「うん、兄貴に見せたくていっぱい琴子さんの写真を撮ったんだ。見えるようにこうやってベッドを少し起こしてテーブルに写真立てを置いたらさ、それから毎日ちょっとずつ起きてる時間が増えたの」
 テーブルには写真立てが三つ。二つはバレエを踊っている私の写真。一つは蓮と私と二人で映っている写真だった。
「蓮・・・ごめんね。逢いに来なくて」

「蓮に凄く逢いたかったよ。・・・毎日元気な顔を見せてれば蓮も元気になれるって信じてた、私。毎日いろんな話をしに来てたけど、蓮の傍に居られても全然満足なんかじゃなかったの。本当は今にも泣き崩れそうで、今すぐ大丈夫だよって言って欲しくて、それでも頑張って来てればいつか蓮がある日急に元気になって大丈夫だよって言ってくれる気がして、ただそれだけを希望にして頑張ってたの。だけどそれは私が勝手に蓮に求めているもので、蓮自身はどうして欲しいんだろうって考えた時、私の思いが蓮の重荷になるんだったら逢わないほうがいいのかなって思った」
「琴子さん、琴子さんが来てくれることが兄貴の重荷のわけないよ。だって、こうやって琴子さんの写真を飾るようになってから、兄貴本当に起きてる時間が増えたんだから。琴子さんに逢いたかったんだよ、きっと」
 蓮を見ても、そうだとも違うとも言ってくれない。ただ目を開けて、目の前にある写真立てを真っ直ぐ見ている。
「ねぇほら、兄貴。これ琴子さんから入学祝に貰ったんだ。お揃いの携帯ストラップ。いつか兄貴を抜いてやるからね」
 そう言って悠くんは携帯ストラップを蓮の目の前の位置に来るように見せた。笑ってないけれど笑ってるように見える蓮の頬にそっと手を触れてみた。前に触れたときと同じ、柔らかくて、温かかった。
「これからは、嫌がられても毎日来るからね」
 すごく気持ちが楽になって、やっと心から笑えたと思った瞬間、目を疑った。蓮から目が離せなかった。蓮の目から、ゆっくりと涙がこぼれた。
「琴子さん!」
 悠くんと顔を見合わせて蓮を見る。両目からまた一筋、すぅーっと涙が落ちた。瞬きをするとまたこぼれる。こちらを向きもしないし動きもしないけれど、蓮に私たちの声はきっと届いてる。そう思った。止まらない蓮の涙を見て、涙が溢れてきた。
「兄貴も琴子さんも、ほんっと泣き虫だよね」
 そう言ってる悠くんも泣いていた。

 それからは毎日病室へ蓮に逢いに行った。蓮が亡くなるまでのほぼ三週間ほど。本当に毎日が楽しかった。蓮のお母さんは私に悪いことをしたと何度も頭を下げた。そんなお母さんを嫌いになんてなるはずがなかった。蓮が居なくても時々自宅に遊びに行った。まるで本当の娘のように歓迎してくれる。引き払った蓮の部屋から持ってきた遺品は全て実家で使っていた部屋に戻され、その部屋で時々独り、蓮のことを思い出したりした。そんな時、蓮の家族は誰一人私に声をかけずにその部屋に居させてくれた。

 私との思い出のものがたくさんある。もちろん私の部屋にも思い出のものがたくさんある。目に見えるカタチとして残るものたちと、目に見ない心に残るもの。たった一年で蓮が私に残してくれたもの、与えてくれたもの。忘れられるはずがない。忘れない。
あなたと居た日々も、あなたのことも忘れない。

■恋をした

 恋をした。二十三歳になって、俺は初めてちゃんと恋をした。格好悪いけど、それまで人に恋をしたことがなかったんだ。好きになった人なら沢山居る。だけど、心から大切にしたいと思える人に出会ったのが二十三歳の春だった。
 彼女の名前は北川琴子。背はあまり高くなく、長い髪をいつも後ろに一つにまとめてリクルートスーツに身を包んでいる。出会ったのは会社でだった。とにかく真面目で、一生懸命で。だけど何をやっても不器用な女の子だった。初めて会話した時にそれはすぐに見抜けた。世間を全然知らない純粋な印象だった。

 それまで俺は恋をしたことがない。人と付き合ったことはある。女性に興味が無いわけでもない。ただ、心を開くことができなかっただけかも知れない。恋愛の始まりはいつも女の子のほうからで、終わるのも女の子のほうからだった。告白されて断ったことがない。好きな人がいないんだから断る理由も特にない。ただ、始まりはいつも「友達からでよければ」、そう一言添えて返事をしていた。その返事に相手はいつも喜び付き合いが始まる。だけどそのうちその相手は気づくんだ、いつまでたっても俺が興味を示してくれないことに。嫌いなわけじゃない、付き合った相手のことはいつも好きだと思っていた。ただ、好きの意味が相手とはズレていた。俺の好きは、ただの好き・・・それだけ。そして相手はいつも去っていく。そんな相手を特に俺は追うこともなくその付き合いは終わる。いつもその繰り返し。

 琴子に恋をする前、一番最後に付き合った女性は結婚予定の彼氏が居る人だった。それを知っていて付き合った。最初は相手の愚痴を聞いていただけだったけれど、好きだと言われて付き合いが始まった。彼氏が居るんだからと断る理由はあったのだけれど、この頃の俺は寂しさが紛れればただそれでよかった。
 そんな俺の前に現れた彼女は今まで知る人たちと随分違っていた。からかうと本気で怒るし、そうかと思うと子供みたいに本気で喜ぶ。いつの間にか愚痴を言い合ったり相談に乗ってやるのが日課になった。俺の前では何ひとつ隠しもせず泣いたり笑ったりする琴子を好きになるのに時間はかからなかった。自分だけのものにしたいと思った。守りたいって思った。そしてこれが恋なのかと初めて知った。

 そして初めて俺は人に付き合って欲しいと自分から言った。

 琴子と付き合って初めての夏に二人で花火を見に行った。そんなに大きな規模のものではないけれど、二人の予定が上手く合う日が少ない中から選んだ花火大会だった。土曜日で、バレエのレッスンがあった琴子とは最寄駅で待ち合わせをしていた。
「蓮、ごめんなさい、遅くなって」
 琴子が待ち合わせ場所に来たのは約束した時間より三十分ほど遅れてだった。バレエのレッスンが予定時刻に終わりそうにないとちゃんと連絡を受けていたのでたいして問題は無かった。だけど琴子はそれを気にしているようで、電車を降りてから走ってきたことも見てわかった。
「まだ花火始まったところだから大丈夫だよ」
「でもいい場所で見れないかも知れないよね、ごめん」
 また琴子は謝る。だけどそんなことはどうでもいいんだ。時間が無いって言いながらもちゃんと浴衣を着て髪を結ってる琴子が可愛かった。
「バレエのレッスンが時間押しても浴衣着てくる余裕はあるんだな」
 ちょっと意地悪を言ってみた。
「だって、蓮が浴衣じゃないと嫌だって言ったんじゃん!」
 ほら、やっぱりムキになった。だけど手を繋いだら笑顔に戻る。
 そんな琴子がかなり無理をして笑顔を作っていたことを知ったのは帰る少し前だった。花火を見終わってから出店をブラブラと見ながら歩いていた。
「蓮、ちょっとおなかすいた」
 そう言う琴子と二人で焼きそばを買って食べることにした。川原の空いてる場所を探して腰掛けた、その時に見えた琴子の足を見て驚いたんだ。
「琴子、どしたの?その足」
 素足で履いた下駄から見える指先に血が滲んでいた。
「あぁ、いつもより痛いと思った」
 いたって冷静に琴子はそう答えた。
「バレエやってると足の指は正直見せたくないくらいいつも傷だらけなんだよね、恥ずかしい」
「でも痛いならそう言ってよ」
「ごめん・・・なさい」
 また琴子は謝る。
「謝らなくていいよ、怒ってるんじゃないし」
 なんだか気まずくなった雰囲気に追い討ちをかけてしまったのは俺の言葉だった。
「そんなだったら浴衣断ればよかったのに。そしたら下駄なんか履いてこなくて済んだのに」
「だって、蓮が見たいっていうから。浴衣じゃなきゃ嫌だって言ったじゃん」
「でも俺は琴子の足がそんなになってるって知らないし」
 二人、顔も見合わせることなく横に並んで座って話した。
「ごめんね、今度からちゃんと言うね」
 結局琴子に気を使わせてしまった。俺の顔を下から大きく覗き込んで一生懸命琴子は笑顔を作っていた。

 もともと誰かと付き合うことになっても、自分の思ってることの半分も言わずに過ごしてきた。相手がパスタが食べたいと言ったらパスタを食べに行き、お揃いの指輪が欲しいと言われたらお揃いの指輪を買った。いつも相手の言うことに頷いていた。それがとても楽だった。だけど琴子にだけは我儘を言ってしまう。俺が行きたいところに行くし、食べたいものを食べに行く。もちろん琴子の意見だって聞くけれど、結局は琴子が我儘を聞いてくれる。
 人と付き合うってことがそんなのでいいのか正直悩んでいた。居心地の良さに甘えている自分に気づいていた。こんなにも守りたいと思っている琴子を守るどころか苦しめているようにも感じ始めていた。そして最終的にはまた、琴子も俺から去っていくのではないかと思うと恐かった。
「琴子、俺と居て幸せ?」
「え?」
 一生懸命作ってくれていた琴子の笑顔が消えた。こんなに琴子を見ているだけで困らせているってことが痛いくらいに解るのに、どんな返事が返ってくるのかは解らない。とても恐かった。
「なんで、そんなこと聞くの?」
「俺、琴子のこと苦しめたりしてない?」
「なにが?苦しくないよ」
 少し笑顔を作って琴子はそう答えた。
「でも、無理して・・・ない?」
「そんなこと、ない。私幸せだよ」
 そう言うと琴子は、泣きそうな顔になった。
「どしたの?急に。蓮、私・・・何か蓮の気の障ることをしたんなら謝るから。足のことも今度からちゃんと言うから、そんなこと言わないで」
そして最終的に琴子は泣いた。
 こうやって気を使わせてしまうのが辛いんだ。やっぱり絶対に琴子を苦しませてる。そんな琴子に優しい言葉をかけてあげたり、上手く安心させてやれない自分にイライラしていた。そしてその日は結局そのままそれぞれ家に帰った。
 後悔ばかりが頭をよぎってその日の夜は眠れなかった。だけどやっぱり何て言えばいいのかわからなくて電話もメールも出来なかった。タイミングとか全然解らない。今までならこうなったらもう別れたいと言われるのがいつものパターンだった。

 次の日の夕方、携帯が急に鳴った。琴子からだった。出るのがとても恐かった。何の用だろう。別れたいと言われるんだろうか。それともまた気を使わせてしまってるんだろうか。しかし予想とは違う展開だった。勇気を出して出た電話の向こうで、琴子はただ泣いているだけだった。
「どした?琴子だろ?」
 聞いてみたけれど何も返事が無い。だけど泣いていることだけは聞き取れた。だけどどうしていいのか解らなかった。
「どこに・・・居んの?」
 頭の中では何があったんだろうって心配でしようが無いのに、それが俺のかけてやれる言葉の精一杯だった。そのまま場所を聞いて、おやじの車を借りて琴子を迎えに行った。車の中では全く話さなかった。ただ琴子は雨でずぶ濡れになったまま泣いていた。そんな琴子を俺の部屋に取りあえず連れて行った。
 濡れた髪をタオルで拭きながら琴子は涙も拭き取っていた。
「どしたの?」
 そう聞く俺に、少しずつ琴子が話し始める。
「レッスン中に足を捻挫してしまって、・・・もう次の発表会は出られないかも知れないって」
 視線は下を向いたまま、小さな声でゆっくりとそう言った。
「転んだ?」
 そう聞くと小さく頷いた。
「足が・・・痛くって、痛みをかばったとたんに転んじゃった」
 スカートの裾から出た膝から下の辺りにかけてしっかりと包帯が巻かれていた。
「足の痛みは昨日の、花火の時の?」
 俺がそう聞いてから少しして、琴子が泣きながらこう言った。
「私がね、発表会前でレッスンがキツくなってることとか足を痛めてることとか言わなかったからいけなかったの。蓮も怒らせてしまったし、バレエも踊れなくなってしまったし、ちゃんと言わなかったから」
「琴子・・・?」
「ただね、蓮を喜ばせたかったの。浴衣じゃないと嫌だって言われたのも凄く嬉しかったの。だから浴衣着て、一緒に花火見に行きたかった。ただそれだけだったのに・・・ごめんなさい」
「琴子」
 そのまま泣きながら、だけど顔を上げて琴子はこう言った。
「蓮、私のこと・・・嫌いにならないで」

 そんな言葉を琴子に言わせた自分が情けなかった。俺は絶対に琴子を悲しませてはいけない。泣いてる琴子を抱きしめながらそう思った。上手く言葉に出来ない時はいっぱい琴子を抱きしめようって思った。琴子ならきっとこんな俺のことも解ってくれる。だって、初めて逢った時にそう思ったんだから。そんな琴子に恋をしたんだから。



 そんな琴子との日々の中で、少しずつ自分が変わっていくのがわかる。初めてのことがいっぱいで、一緒に笑うのも、泣くのも、経験したことのない想いがいっぱいだった。喧嘩だってした。それでも怒ってる琴子を知れるのが嬉しかった。いっぱい抱きしめたし、いっぱいキスもした。上手く言葉に出来ない分、心から琴子を大切にしようと思った。

 もう琴子を悲しませないと心に誓ってから四ヶ月ほどで、俺は琴子を悲しませることになる。仕事中に目の前が真っ暗になった。そのまま気を失った。次に気づいた時には病院で寝ていた。目は開くのに、話せないし体も動かなかった。何ひとつ動かせない体で、ただ俺を覗き込む琴子を見るしかできなかった。頭では状況を全て理解している。伝えたいことも思うこともたくさんある。だけど人形のように何も出来ない自分が居た。耳も聞こえない。目の前で何を言っているのかもさっぱりわからない。だけど、琴子の顔だけは見えた。ただそれだけで充分だった。
 目の前に居る、この人が俺の恋した琴子だ。

■涙が止まるまでの涙。

 2012年五月、私は東京ドームにいた。Mr.Childrenのコンサートチケットが取れたから行かないかと悠くんに誘われて、初めて私はMr.Childrenのコンサートに足を運んだ。それどころか、思い返せばコンサートってあまり行ったことがない気がする。学生の頃友人がバンドを組んでいて、小さなライブハウスに遊びに行ったくらいだ。学生の頃の思い出なんて、なんだか遠い気がする。懐かしい。

 二十一歳の頃。とても悲しい別れをした。最愛の人を亡くした。それ以来、楽しいことってあったかな。海外旅行にも行ったし、バレエの公演で主役も何度かやった。職場には自分より年下の新入社員がどんどん入ってくるようになって、教える立場になって。けっこう上司にも可愛がってもらってるし、両親も健全で仲がいいし。あ、そうだ、楽しいことがあったかって思い返してたんだ。たぶん、いっぱいあるからひとつに絞れなくて選べない。うん、きっとそう。
 気が付くと私は、二十七歳になっていた。
 悠くんとの待ち合わせに急いでいた東京ドームの傍の路地で、人だかりに紛れて足早に歩いていた。その時、ふと頬に冷たい雫が落ちてきた。
「雨だ」
 誰かの声に思わず歩く速度を落として空を見上げる。確かにちょっと、暗い空だったんだ。気にはなっていたけど持ち合わせていない傘を開けることもなく、私はそのまままた足早に歩き出した。というより少し小走りに。仕事帰りのヒールではあまり早くも走れなくて、周囲の人に少し遅れ気味でドームへ向かう。
 人が多すぎて進めないのがグッズ売り場の列のせいだと気付いた時には雨はひどい大粒に変わっていて。長い髪がどんどん湿っていくのが自分でもわかる。失敗した。手に持ったチケットを確認すると、自分の座席に繋がる一番近いゲートはまだまだ先だった。反対周りで来ちゃったんだ、きっと。丸いドームの壁をちらりと見つつため息をつきながら、雨に濡れたチケットをバッグにしまう。その時だった。ふと、雨がやんだのは。いや、やんだわけではなくて、誰かが傘を私の上に差し出してくれたのだ。
 思わず立ち止まって、ゆっくりと右手に振り向くと一人の男性が笑顔で傘を差してくれていた。
「大丈夫?髪、すごく濡れてる」
 そう言われて、指でそれを確かめるかのように私は髪を触った。
「使いなよ、せっかく買ったんだけどきみが使うほうがきっとタオルも喜ぶ気がする」
 それはMr.Childrenのコンサートグッズのタオルだった。
「そんな、だって、せっかくのグッズなのに」
「いいよ、ほら、濡れてるし。ちょっと傘持って」
 そう言うと男性は傘を私に手渡すと、買ったばかりのそのタオルを包装されているビニールの袋から出して素早く広げる。私は手渡された傘を、男性が濡れないように少し高めに持った。背の高い人だった。その男性は、ただ見ているだけの私の頭を包む様に、タオルを広げて優しく乗せた。
「それじゃ、お互いコンサート楽しもうよ」
 私の顔を覗き込むように笑顔でそう言うと、そのままするりと傘から出ていく。
「え?」
 まだ大粒の雨の中、私に傘を持たせたまま、その男性は人の波に走り消えていく。
「あの!傘!」
 雨の音と、人の声と、たくさんの騒音にかき消された私の声はあの人に届くことなく。急くように動く周囲の中、私だけ時間が止まってるみたいに傘を持って立っていた。

「琴子さん、よかった、間に合って」
 開演の少し前、私はチケットに書かれた座席にやっとたどり着いた。
「あれ?雨降ってんの?」
 ずぶ濡れの私と、手に持った傘とタオルをじっと悠くんは見てそう言った。
「あ、うん。駅を出てから急に降り出して」
「そうなんだ?傘持ってるのにすごく濡れてるね。あ、でもちゃっかりグッズタオル買ってる」
 手にしたグッズタオルを指さして悠くんは笑った。
「これは、そうじゃなくて」
「そうじゃなくて?」
「あ、うん。雨、降ってきたから」
 なんて言っていいかわからなくて。気付いたらそんなこと言っていて。席に着くと私は、借りた傘をきちんと折りたたんだ。紺色の、しっかりした素材の折りたたみ傘だった。そしたらふとあの人の笑顔を思い出した。口角の上がった口元はなんだかこちらまでつられて笑顔になれるみたいな、そんな人だった。
「あ」
「どしたの?琴子さん」
「ううん。なんでもない。もうすぐ始まるね」
 そんなことを言いながら。名前も連絡先も聞けずじまいだったことを思った。傘、どうやって返せばいいんだろう。どうしよう。この会場の中に居るんだろうってことはわかるんだけど。だけど探せるはずもないよね。
 大きくため息をついたときに、会場がゆっくりと暗くなっていった。歓声が起きる。拍手も聞こえる。静かに、音楽が始まって。私はそのままステージに目をやった。

 コンサートが終わって会場を出た時には雨はすっかり上がっていた。悠くんと並んでゆっくりと歩きながら、駅まで向かう。
「琴子さんはミスチル初めてなんだっけ?」
「うん」
「俺は初めてミスチル行ったのは兄貴となんだ」
「え?そうだったの?」
「うん。兄貴が琴子さんと付き合う前だよ。もしかしたらそのころはまだ一緒に行きたいと思う相手がいなかったんじゃない?よく知らないけど」
 クスクス笑いながら悠くんが話す。

 そう、何気に会話に出てくる。ときどーき。普通に。いつでも何処かにいるように。悠くんのお兄さん、蓮はかつて私の恋人だった。そう、最初に言った、悲しい別れをした。その人だ。いっぱい泣いて。いっぱい悔やむこともあって。だけど今はこうして笑ってる。楽しいこといっぱいあったもん。どれが一番か選べないくらい。毎日何かしら出来事があって、少しずつ大人になって。何も変わらないようで何かが変わっていってる。だってもう二十七歳だもん。六年も経ったもん。生きていたら、蓮は三十歳だ。そっか、そんなに経ってるんだ。中学生だった悠くんがもう大学生だもん。私にだって楽しいことも増えてるはずだよ、そりゃあね。大きく手を振りながら悠くんとふざけて歩く。ほら、それだって楽しい。
 そうやって大きく手を振りながら、自分の手の中にある傘にふと目がいった。なんだろう、また思い出す。あの人の笑顔。心からの優しい笑顔。
「どうしたの?琴子さん」
 私の顔を覗き込む悠くんも笑顔だった。心からの優しい笑顔、っか。
「ううん。なんにもないよ。明日も仕事だから早く帰ろう」
 悠くんを追い越すようにしてまたつかつかと歩き出してみたものの、心は止まったままだった。私、きっとあの人や悠くんみたいに心から笑えてないんだよ、まだ。楽しいこといっぱいあるのに。楽しい思い出いっぱい増えていってるのに。そんな自分が悔しくて、折りたたみ傘を持つ手にギュッと力を込めた。

「手掛かりは、この傘だけかあ」
 次の日、仕事終わりで樹夜ちゃんの家に立ち寄っていた。樹夜ちゃんは、唯一女子の職場同期入社者で、今ではすっかり大の親友だ。過去に彼を亡くした時にもたくさん助けてもらった。今では結婚して一児の女の子のママ、去年退社して専業主婦なのだ。まだ生まれて半年の赤ちゃん、ママのおっぱいを飲んでおなかいっぱいになったのか眠ったところだ。
「うん、やっぱり返すあてなんてないよね?名前もわからないし探しようがないから」
「まあねえ」
「どうしようかと思って、捨てるのもなんだか申し訳なくて、この傘」
 逢えるはずもないのに、もしか何処かでと思って今朝家を出る時に鞄に入れて出てきた。空は雨など降るはずもない晴天だったのに。
「ねえ、どんな感じの人?」
 樹夜ちゃんは興味津々な顔をして私に聞いた。
「どんな、って。あんまり覚えてないんだけど」
 そう言いながら、実はちょっと、あの笑顔を思い出していた。
「いくつぐらい?」
「同じぐらい、か、少し上くらい?」
「へえ。でもコンサート会場って山のように人がいるのにさ、なんでコトに貸してくれたんだろね?傘。それにタオルもでしょ?」
「うん・・・」
 樹夜ちゃんはにやにやと笑う。
「何よ」
「いや、なんか、向こうは気にかけてコトを選んだんだったらいいのになあと思って」<b「選んだ、って?」
「だって雨に濡れてた人は他にもいたでしょ?昨日のは急な夕立だったもん」
「うん」
「その中でコトに傘を貸してくれたってことは、コトのことイイナって思ったのかもよ?」
「まさか、やめてよ」
 私はなんだか照れくさくなってきて、それを誤魔化すように樹夜ちゃんが入れてくれた紅茶を一口飲んだ。
「ねえ、探してみない?」
「探すって、どうやって?」
「コトってTwitterやってたよね?」
「うん」
「ミスチルのツアーってまだ来月まであるじゃん?きっと誰かが作った専用のタグとかあると思うんだよね。それで、傘を貸してくれたかた返事くださーい!って呟いてみるとか」
「ええ?そんなので見つかる?っていうかその人Twitterやってるかわからないし、タグ使ってるかもわからないじゃん」
「そうだけど、もしそれで見つかったら運命みたいって思わない?」
 運命かあ。
 思い返すのはどうしても蓮だ。すごく最悪な出会いかたをした人だった。ぜったいこんな人好きにならないって思った人だった。なのに、結果、好きになった。昨日の人は・・・。あれがもし出会いならば素敵な出会いだった。ドラマみたいだった。そっと傘を差しだしてくれて。笑顔で話しかけてくれた。でも、違うよ。私はただ、ありがとうってお礼を言いたいだけ。傘をちゃんと返したいだけ。
 そう心で言い訳するように考えながら、その日の夜、Twitterで呟いた。

[昨日、東京ドームで傘を貸してくださったかた、ありがとうございました。心当たりがありましたら返信もらえますか?]

 こんなんで届くんだろうか。見つけてもらえるんだろうか。数分で返信はいくつかあったけれど、期待はあっさりと裏切られた。どう見ても悪戯みたいな返信や、ナンパに近いような返信が届いた。Twitterネームはcoto。アイコンに顔は出してはないけれど蓮に貰った思い出のリングのフォトを使ってる。少し載せてるプロフィールと、それまでに呟いている内容を見れば簡単に女性だとわかるんだろう。
「ごめん、なんかいらないこと言っちゃったね、私」
 寝る前に樹夜ちゃんとLINEで会話していた。
「ううん、そんな簡単に見つかるはずないんだし」
「でもあんまり悪戯とか多いんだったら、さっきの呟き消しちゃったほうがいいよ」
「うん、そうする」
 アロマキャンドルの灯りが揺れるだけの薄暗い部屋で、ベッドに横たわりながらLINEで樹夜ちゃんに返信を打つ。枕元の小さなスピーカーからはミスチルの[Sign]が流れていた。蓮の好きだった曲。Twitterのアプリを開くと、また返信は増えていた。さっきと似たようなものばかり。傘を貸してくれたあの人になりすましたようなものばかり。ため息が出た。さっきの呟きは消してしまおうと思って操作しようとした時、一つだけ、気になるものを見つけた。

[びっくり。傘を貸したものです。風邪ひきませんでしたか?タオルでしっかり髪拭きましたか?あの後コンサート楽しめたんなら良かったんだけど、僕は楽しかったです。]

 タオルのことは、私ぜんぜん呟いてない。髪が濡れてたことも、一言も書いてないもの。それを知ってるってことはもしかして、本当にあの人かもしれない。寝そべっていたベッドから体を起こすと、通勤バッグの中から折りたたみ傘を取り出す。ベッドに座ってTwitterをもう一度覗いた。タップしてプロフィールを見てみる。
「あ・・・」
 そこには、あの笑顔の男性のフォトが載っていた。慌てて樹夜ちゃんにLINEする。
「どうしよう、昨日の人から返事がきた」
「うそ?まじ?」
「うん、アイコンの写真があの人だもん」
「間違いない?」
「うん、覚えてる」
 間違いない、この笑顔。
「名前とか載ってんの?」
「えっとね。[トキ]って書いてる。名字かな、名前かな?ただのハンドルネームかも」
「ふーん、で、どうするの?傘を返したいので会いたいです!って返信するの?」
「え?どうしよう。返さなきゃと思うけど、でも会うってなるとどうしようって感じ」
「じゃあ、傘は返さないの?」
「そういうわけにはいかないよね?本人かも知れない人見つかったのに」
「とりあえず返すだけってことで会う約束してみたら?意外と運命の人かもしれないよ?」
「またそんなこと言うー」

 運命って、なんだろう。蓮との出会いは、かつてそうなんじゃないかって思ったことがある。たまたま入社できた会社で、たまたま配属された部署に蓮がいて、たまたま席が隣で指導してもらって。たまたま、お互いが好きになった。それは全部たまたまだったのではなくて、運命として決まってたんじゃないかって。
 それ以来、誰ともそう思えるようなこともなく時間だけが経っていた。あの人とは会う約束をするべきかもしれない。傘を返さなきゃ。きちんとお礼も言わなきゃ。それで終わり。たぶん、終わり。だけどもし、その後何か続くものがあるのだとしたら、運命ってあるのかもしれないって思う。そもそも、運命ってそんなにいくつもあるんだろうかって、ふと思った。
 デスクに飾ってある蓮の写真と目があった。
「無いよ。蓮以上に運命の出会いの相手なんて」
だけど手元には貸してもらった折りたたみ傘があって。不思議な感覚だった。とにかくそのあと、一番最初に書いた[傘を貸してくれた人への問いかけ]の呟きは削除した。そのおかげかどうだか、悪戯の返信はなくなり、[トキ]さんとはお互いとりあえずフォローしあって、私はTwitterに鍵をかけた。トキさんとは次の日曜日、東京ドームで待ち合わせ。寝る前に約束だけはやりとりしあった。トキさんって、どんな人だろう。

[傘のことは別によかったのに。でもせっかく僕のこと探してくれたので返してもらいますね。でも、下心あると思われたら嫌なので(笑)、やりとりはTwitterでだけにしましょう。]

 トキさんの文章は丁寧で、そしてとても、私に気を使ってくれていた。連絡先も本名も教えあわずにやりとりはTwitterだけにした。その後またフォローを外してくれていいからと、言葉を添えてくれていた。会話の中では傘しか話さなかったけど、タオルもきちんと洗濯しておいた。いただくわけにいかないよ、最初から私に渡すために買ったもののはずないんだから。記念に、とか。ファンだから、とか。何か思いがあるはずなんだから。
 傘とタオルをラッピング用の紙袋につめて準備を済ませる。なんだかね、緊張するけど楽しみだったの。またあの笑顔に逢えるかな、って。


 日曜日は心地のいい晴天だった。午後の待ち合わせなのに早く目が覚めてしまって、落ち着かない。春先に着ようと買ってあったワンピースを着て行こう。クローゼットから取り出すと、それに合わせてジャケットを探す。
 なんだか、デートにでも行くみたい。
 そんなことを考えているとふと、蓮との初めてのデートを思い出した。渋谷だったなあ。あの時もワンピース着てったんだっけ。まだ二十歳だった私はピンクのワンピースを着て行った。今日は、落ち着いた深いブルーの色のワンピース。着るものは変わってしまったけど、これだけは変わらない。ベッドに腰掛けると、膝の上の自分の指に目をやる。初めてのデートで蓮に買ってもらったシルバーリング。緊張しながら「付き合ってくれませんか?」と言った蓮を思い出してクスッと笑った。もうこれを指にはめて七年。お守りみたいな感覚になっている。これをつけていると、蓮が守ってくれているんだ、って思えるの。

 東京ドームに向かう電車を降りたところでアプリを立ち上げると、Twitterでメッセージが届いていた。

[ドームに着きました。待ってますね。]

 五分ほど前の書き込みだった。緊張しつつ、私は待ち合わせた場所へ向かった。あの日、傘を借りた場所。駅からの同じ道のりを歩いて行く。やっぱり、緊張してる。二度目とは行っても初めて会うに近いんだもん。今日も何かイベントがあるのかどうだか、そこそこ人がいた。そんな人の波に紛れながら足をすすめる。
 待ち合わせた場所の傍まで行って、ふと、足を止めた。あの人がいた。深いグリーンのパンツにデニムのシャツ、上に淡いベージュのカーディガンを羽織っていた。ドームの壁にもたれるようにして立って、何か本を読んでいた。まるで邪魔をしてはいけないような空気があるものの、本を読む表情はなんだか優しい。
 ゆっくりと様子を伺いながら近づいて行く。だけど、一向に気付いてもらえる様子もなく思い切って声をかけた。
「あの・・・」
 するとその人は、すっと顔を上げた。
「あ。cotoさん?この間の、傘の」
 そこにはこの間と変わらない笑顔があった。
「はい。先日はありがとうございました」
 大きく頭を下げると、その人は持たれていた壁から体を起こして私にすっと近づいた。
「やめてやめて、そんな頭下げてもらうほどのこと、してないから」
 目が合うと、またその人は笑顔で笑った。そして手に持っていた小説の読みかけの部分にしおりを挟むと、茶色い皮のトートバッグにそっとそれをしまった。
「これ、ありがとうございました」
 傘とタオルをラッピングしたものを入れた紙袋を手渡した。
「わざわざありがとう、連絡くれて。嬉しかった。でもほんとに、どうにかしてくれてよかったのに、傘」
「そういうわけにいきません、タオルも、せっかくのグッズだし」
「え?タオルも?」
 その人は渡したばかりの紙袋からラッピングしたものを取り出すと、止めてあったテープを剥がした。
「ホントだ!これはプレゼントしたのに」
「え?プレゼントって、でも」
「それともグッズ買うほどファンでもなかった?ミスチル。あ、もう持ってた?」
「そんなことはないんですけど」
 そう言うと、その人はクスッと笑った。
「ごめん、困らせてるね」
「いえ・・・」
「もし。ほんとに迷惑じゃなかったら、貰ってくれませんか?このタオル」
「え?」
「傘はさすがに男物だし使い道ないだろうけど、タオルは記念にでもなるから」
 そう言って返したばかりのタオルをまたその人は手に取った。
「要らないんですか?」
「なんかきみって、泣きそうな印象受けるから」
「え・・・」
 聞き返すと、その人は慌ててそれを否定するように大きな声で返事をした。
「ごめん、悪い意味じゃないんだ。この間も今日も、なんか哀しそうに見えるから。って、それも失礼だよね、ごめん」
「哀しそう?」
 あまり、言われたことに違和感はなかった。実はよく樹夜ちゃんにも言われる。笑ってるけど、心から笑ってないって。そういうことなんだろうか、哀しそうに見えるっていうのは。この人が見せる心からの優しい笑顔と、きっと対照的なんだ、私。
「ほんとのほんとにごめん。失礼だね、ほんとに僕」
 何度も謝るその人に私は笑顔で返事をした。
「じゃあ、タオルいただきます」
 そうしてタオルを受け取るように手を出すと、その人はにっこりと笑った。
「喜んで」

 その後、少し話しませんか?と声をかけたのは、不思議にも私からだった。驚いた顔をして、でも笑顔で「いいですよ」とその人は言った。近くにあるカフェを探して入ると、向かい合わせに座った。最初に話を始めたのは向こうからだった。
「まさかお茶できると思ってませんでした」
「ごめんなさい誘ったりして。時間大丈夫でしたか?」
「それは全然。何も予定なかったし。それよりも傘を返してもらって終わりになるんだろうなって思ってたから」
「それは、私もです」
「え?」
「自分でも、不思議なんですけど、なんか少しお話して帰りたいなって思ったから」
 私の話をゆっくりと聞きながらまた笑顔になる。その人は、あ。っと気付いたようにテーブルにあるメニューを私に見せるようにして言った。
「何を頼みます?」
 すごく気を使う人なんだっていうのはTwitterで話した時から思っていたけど、会ってもやっぱりそのままだった。そういう優しさがくすぐったくて、それを隠すように私はメニューを覗き込んだ。それぞれ飲み物を注文して、ホッとしたところでまたその人から会話が始まる。
「Twitterは、まだフォローしていて大丈夫ですか?」
「あ、もちろん。仲よくしてください」
「そんな、こちらこそ。どうしますか?cotoさんって呼んでていいですか?僕もトキでもいいですけど。ちゃんと自己紹介します?」
「あ、じゃあ。北川琴子です。それで、Twitterはニックネームのcotoにしてます」
「北川さん。僕は杉村斗紀です。同じく名前のトキで登録してます。だから呼んでもらうのもトキでいいですよ?よろしく」
「よろしくお願いします」
「それにしても、ほんとにあの呟き見つけた時心臓が止まるかと思ったんですよ、僕」
 運ばれてきたコーヒーを一口飲むと、その人は続けて言った。
「傘はもう返してもらうつもりなんてなかったし。Twitterはね、毎日開いてるけど、あのミスチルのコンサート用タグを覗いたのはたまたまで。そしたらなんか傘を貸してくれたかたがどうの、って呟きを見つけて。もしかして、もしかしてー!って」
 笑顔で嬉しそうに話すそれにつられて私も笑顔になる。なんだかテンションが上がってくる。
「それは私もです。正直うんざりするような返信ばっかりだったんです。ナンパっぽいのとかあなたになりすましたみたいな感じのものとか。でもあなたはタオルのことまで書いてあったから、もしかしてと思ってIDをクリックしたら、ほら、写真載せてたからわかりました」
「恥ずかしい。自分の写真載せてるってバカですよね?やっぱり。でもそれで見つけてもらえたんなら載せててよかった」
 言い終わるかぐらいで、その人はコーヒーカップに添えた私の手に視線を落とした。
「cotoさんのアイコンの指輪は、それ?」
 言われて自分も視線を指輪に向ける。
「あ、・・・はい」
「へえ。可愛い指輪ですよね。彼氏のプレゼント?」
「あ。これは」
 そこで、止まってしまった。なんて答えればいいんだろう。はい、そうです。でも今私には彼氏は居なくって。質問への答えに悩みながら、私は指輪をはめていないほうの手でそっと指輪に触れた。
「ごめん、また僕余計なこと言っちゃったよね。いいよ、答えなくて」
 少し、変な空気になった。私のせいだ。
「僕ってさ、気が利かなくて。よくみんなに怒られるんだよね。もうちょっと女心考えろって」
「女心?」
「あ、あのね。これでも僕小学校の先生をしていて。六年生を受け持ってるんだけど。もう女子がさ、完璧な大人なわけ。男はいつまでもガキって感じなんだけど、言うことがさ、女子のみなさんはいちいち大人なんだよね。子供扱いしないでください、ちゃんと女性扱いしてください、とか言われて」
「へえ、先生なんですか」
 今時の、ちょっとおしゃまな女の子たちに言葉で負けてるトキさんが想像でき過ぎて私はクスッと笑ってしまった。
「ごめんなさい、きっとトキさんが優しいから甘えてるんですよ、生徒さんたち。好きなんですね、先生のこと」
「えぇ?そうかなあ、ほんとに馬鹿にされてばっかりなんですよ?先生なのに」
 なんとなく、この人の気の使い方とか話し方とか、優しく見せる笑顔の理由がわかった。いつもそんな心遣いで生徒と接してるからだ。学校の先生っていろんなタイプがいるけれど、私もこんな先生がよかったなあと思ったりした。
「どうしました?ごめんなさい、つまんないですよね、僕の学校の話なんてね」
「ううん。これからも聞かせてください、学校の話。Twitterは私も毎日開くから」
 その日はそのままトキさんの学校での面白いエピソードをたくさん聞かせてもらって、それでカフェで直接別れて帰った。心が温かくなる気がした。その話の内容のせいなのか、トキさんの人柄なのかはわからなかったけど。傘を渡してあのまま終わりにして帰るのではなくて、もう少し話してみたいと思ったのは、そんな雰囲気が笑顔に表れているからだったのかもしれない。


 その後トキさんと会うことはなかったけれど、お互いTwitterの時間が合う時は話をしたりした。相変わらず小学校での面白い話が多くて。私はそれを聞いてる感じで。そしたらトキさんが謝る。ごめんなさい、また僕ばっかり話してーって。謝られるどころか聞いてるのが楽しかった。フォロワーのひとりでしかないまま月日は流れて行った。

 東京が梅雨入りしたとテレビのニュースでやっていた日のこと。小学生の頃から通っているバレエ教室のレッスンの日だった。通いなれたスタジオ、代々木公園からすぐにあるビルの二階にある。その日はレッスンが始まる前に先生に呼ばれて、ある相談を受けた。
「北川さん、お仕事のほうはどう?忙しい?」
「そうですね、受ける内容で変わる職場なのでいつも同じとは限らないんですけど。でも七年も勤めてるとさすがに慣れないと困りますよね」
 苦笑いしながらそう返事をした。
「そう。忙しい日もあるんだろうけど、ちょっと相談いいかしら?」
「相談、ですか?」
「バレエは、プロになる気はないって高校生の頃に返事もらってるし。今も趣味として続けてくれてるのはすごく知ってるんだけど」
「はい。才能ないですし。でも好きだから。もちろん運動不足解消にもストレス解消にもいろいろ役立ってて、バレエは外せないです」
「そう?それは嬉しいんだけど。趣味、ではなくて、教える立場に立ってみる気はない?」
「教える?」
「そう。今まで通りあなたのレッスンの日は同様にレッスンを続けてもらっていいわ。それ以外のね、曜日で、中学生のクラスを見てもらうことはできないかしら?」
「教えるのも初めてなのにいきなり中学生ですか?いや、無理ですよ」
「無理じゃないわよ、北川さん自分の才能ほんとに無駄にしてるんだから。年下の世代に伝えていくのもやりがいがあるわよ?」
「でも、仕事終わってからですよね?残業の日もあるし、なんとも。先生が遅れて来るわけにいかないじゃないですか」
「そうよね。それもわかってるつもりなんだけど。転職、というのも無理よね?せっかく大きな商社に勤められてるんだしねえ」
「いや、それほどでもないですけど、でも無理ですよ、先生。私は教えるなんて」
 考えたこともなかった。バレエを自分がするのではなくて、教える、ということ。いつもなら、真っ先に樹夜ちゃんにLINE入れるのに、そんな相談を先生から受けた時に一番に思い出したのは、トキさんだった。

[バレエやってるんですか?すごい!]

 トキさんの第一声はそれだった。

[しかも教えられるくらいって、よっぽど踊れるんですね。]
[それほどでもないです。他にもっと上手な人たくさんいるから。]
[そんなことない、すごいですよ。]

 珍しく、トキさんの学校の話ではなく、この日は私のバレエの話で盛り上がった。バレエは見たことのないというトキさんにいろいろ説明をして、会話は長く続いた。

[見てみたいなあ、cotoさんの踊ってるとこ。今度見れる機会があったら教えてよ、行くから。]

 一瞬デジャヴかと思った。前にも、行くと言われたことがあった。バレエ踊ってるとこ見たいって。言ってた、蓮が。だけど結局見てもらうことができないまま居なくなった。

[いやだ。]
[そうだよね?いきなり踊ってるとこ見たいって言われても困るよね。ごめん。]

トキさんの、そんな返信を見て我に返った。

[ごめんなさい、そういう意味じゃなくて、ちょっとあって。ごめんなさい。]

 今日はそれで会話を終わらせた。失礼なこと言ってしまった。でも、怖かったんだ。約束をしてしまったら、そのまままたトキさんも約束を果たせないまま居なくなってしまうんじゃないかと思って。何を考えてるんだろう、トキさんは蓮とは違うのに。見た目も違う。性格も違う。職業も、話し方も、笑い方も、気の使い方も、歩き方も、服装も、ヘアスタイルだって、何もかも違う。違うから、大丈夫だよ。言い聞かせるようにしながら、なんでそんなこと必死になって考えてるんだろうって切なくなった。

 寝る前に癖のようにTwitterのアプリを立ち上げた。あれ・・・。ダイレクトメールが届いていた。トキさんから。

[さっきは、怒らせてしまってごめんなさい。バレエの先生の話なんだけど、よかったら少し話しませんか?LINEはされてますか?ID載せておくので。深夜でもいつでも、授業中でなければ付き合うから。]

 また、気を遣わせてしまった。申し訳なかった。けど、嬉しい自分もいた。LINEのIDを検索していいものなのか。悩みながら、自然と指は動いていた。杉村斗紀、本名で登録されたそれは、Twitterで見慣れたトキさんのフォトと一緒に検索で表示された。平日の夜、十一時半を回ってる。とりあえず、斗紀さんのIDを登録した。それは間違いなく、あちらのアプリにも連絡がいくはずで。少ししてLINEで文章が届いた。

[登録ありがとう。斗紀です。]
[琴子です。さっきはごめんなさい。そしてID教えてくれてありがとう。]
[どうする?話す?文字でもいいし、電話でもいいよ。]
[じゃあ、電話で。]

 間もなくして、LINEで斗紀さんから電話が鳴った。
「もしもし?斗紀です。こんばんわ」
「こんばんわ」
「先生の件、気になって」
「さっきは本当にごめんなさい。その話してたのに突然変な返信を打ってしまって」
「そんなの気にしてないからいいよ。それより、先生の件だけど」
「うん」
「僕は、反対」
「え?」
 思いがけない返事だった。
「反対?ですか?」
 聞き返すと、改めて強く言われた。
「うん。さっきバレエの教室での話してるの聞いてて思った。バレエは好きなんだろうけど、教えるとなるとまた違う。俺も先生やってて思うけど、ただ教えればいいわけじゃないから」
「教えればいいわけじゃないっていうのは、どういう?」
「人を相手にしてるってこと」
「人?」
「相手が子供であれ、それぞれの生活があって悩みがあって、性格も違えばどう教えていけばいいかもそれぞれ違う。当たり前の話なんだけど、それを今のきみに負担させるのは僕は反対」
 斗紀さんの言っていることは、なんとなくわかることだった。だけど、それがどうして私に反対するのか。
「頼りない、ですか?私だとそういうのやっぱりできないですよね?私も、無理だって先生にお断りはしたんですけど」
「いや、無理ってわけじゃないんだ。頼りないとか先生としての素質がないとかそういう意味じゃないよ?」
「だったらどういう?」

 少し、間があいた。斗紀さんはすぐには答えてくれなかった。
「あの、もしもし?」

「うん、ごめん。思ってること、言っていい?」
「はい。お願いします」
 また少し、間があく。なんだろう。言いにくいことなのかな。ただ私は、斗紀さんの言葉を待った。
「cotoさんって、昔何かあった?」
「え?昔?」
「子供の頃でもなんでもいいんだけど」
「何か、って?」
「話してていつも思うんだ。どこか遠くを見てる感じっていうか」
「え。どういう、意味ですか?」
「ごめん、よくわからないんだけど、何かを引きずってる感じがして。辛いこととか、例えば子供の頃いじめられたとか、何か知らないけど」
「いいえ、いじめられたりはないけど」
「そっか。でももしね、教える立場になったとして」
「うん」
「いろんな人の感情や気持ちを受け止めながらやらなきゃいけないんだよね、先生って。一緒に悩みを分け合ったり、もちろん喜びも分かち合える。そうじゃない先生もいるかもしれないよ?でも、僕はそう思ってるんだ」
「うん。すてきです、それ」
「ただ技術やノウハウを教えればいいわけじゃなくて」
「うん、わかります」
「それをね、今のcotoさんには抱えてほしくない」
「どうしてですか?」
「心配なんだ。今以上に何かを抱え込んでしまうんじゃないかって、きみが。壊れてしまうんじゃないかって。苦しんでるところ見たくないなって」
 そう言われて、何も言い返せなかった。
「また、余計なこと言ってるよね、僕。ごめん。でも、ほんとに心配なんだ」
 電話越しに聞こえてくる声は、温かくて。どうしてだろう、知らない間に涙が溢れていた。
「それは・・・、もっと私が哀しそうに見えるようになってしまうってことですか?」
 少し小さな声で、そう返事をした。途切れ途切れになってるその声は、泣いてるって斗紀さんに言ってるみたいなもんだった。
「cotoさん、ごめん。泣いてる、よね。泣かしちゃった。どうしよう。ごめん」
「ううん。斗紀さんのせいじゃなくて」
 涙が止まらなかった。
「僕の考えを押し付けようとしたみたいになってしまって、本当にごめんなさい。泣かないで、cotoさん」
「少し、心当たりはあります。ありがとう」
「え?」
「なんでそんなに優しいんですか?斗紀さんは」
「え。僕、は、優しくはないよ。現に泣かせてしまったし。女心わかってないって言われるはずだよね、これじゃ」
 そう言って苦笑いしているのが微かに聞こえてくる。
「優しいですよ」
「そんなことないよ。だとしたら、相手がcotoさんだからだよ」
「どうしてですか?」
「ほおっておけないんだ、なんか。もっと心の底から笑ってほしいって、思うんだ。きみには」
 その日は、電話を切ってからも涙が止まらなかった。言われたことが辛いとかではなくて。逆に、嬉しかったんだ。


 斗紀さんとの会話はその後、LINEが増えた。学校の先生って忙しいんだろうと思うのに、気にかけて時々連絡をくれる。声を聞くと安心するので、つい甘えてしまう。
 そんな或る日、急に悠くんから連絡が入った。
「もしもし?琴子さん?」
「悠くん、どしたの?」
 仕事から帰ってすぐのことで、まだ着替えもしないまま、スーツでベッドにごろんと寝そべった。
「どしたの?じゃないよ、こっちのセリフだよ。最近来ないからさ、うち。どうしたんだろうと思って。おふくろも心配してるよ?何かあったんじゃないかって」
「あぁ、ごめん。そんなに行ってないっけ?」
「ミスチル行ってからだもん、二か月ちょっと?」
「そんなになる?」

 蓮が亡くなってから、ひとり暮らしをしていた蓮の荷物を引き取った実家の元あった蓮の部屋に私は時々遊びに行っていた。亡くなってからもう何年も、ご両親も弟の悠くんもみんな家族みたいに迎えてくれる。いつもそれに甘えて、たまに訪れては蓮の部屋でぼーっと過ごすことが多かった。誰も邪魔しない。時々、いただいたお菓子なんだけど、って、お茶やお菓子をお母さんが運んできてくれて。思い出話をしたりして。亡くなってすぐは毎日のようにお邪魔していた。迷惑だっただろうに、笑顔でいつもご家族は迎えてくれた。最近は二週間に一回くらいの頻度で遊びに行っていた。それが、そんなに行ってなかったなんて。自分でも気づいていなかった。
「ごめん、心配かけて。仕事忙しかったの。ほらあそこ、ひどい時残業だらけでしょ?」
「そうだったの?だったらいいんだけど。もう来るの面倒くさくなったんじゃないかって思っちゃったよ」
「そういうんじゃないよ。ごめん」
 そう言いながら、言い訳してるみたいな気分だった。何か、嘘ついてるみたいな、イヤな感じだった。なんだろう、この後ろめたさ。
「琴子さん?」
「あ、ごめん。帰ってきたとこで、なんか疲れてんのかな、ぼーっとしちゃった」
「そうだったんだ?忙しいのにごめん。また来てね、待ってるから」
「うん」
 電話を切って、ぼーっとしていた。ぼーっとしながら思っていた。蓮の部屋に行く必要性を。
 これからもずっと、私はあそこに通うんだろうか。何のために?どうして?蓮のご家族はみんな好き。好きだけど・・・。そんなことを考えながら、指のリングに触れた。これ、外した方がいいのかな。部屋の中に溢れる、いつまでもずっと抱えたままの思い出の品物を見回す。あれも、これも、あれもだ。蓮と一緒に買ったもの、蓮に貰ったもの、蓮の思い出が残るものばかりが目につく。これ、捨てちゃいけない。だけど、見えない何処かにやってしまわなきゃ。私、蓮の思い出を長く持ち過ぎたのかな。捨てちゃいけないって思うのがダメなのかな。捨てなきゃいけないのかな。
「ねえ、蓮」
 部屋に飾った蓮の写真は別に何も返事をくれない。もう、居ないんだよね。私、どうしたらいいの?
 答えなんて出るはずはなかった。だけど私はまず、指輪を外した。蓮の写真の入ったフォトフレームを手に取った。順番に、他にも思い出のものを手に取る。ベッドの上に一つ一つ集めていく。それを私は、大き目の紙袋に詰め始めた。
「捨てるんじゃない。捨てるんじゃないもん」
 片づけながら、壁にかけた鏡に映った自分を見た。
「これもだ」
 過去にも一度、衝動的に切ったことがあった。腰のあたりまである髪。これ、切ろう。短く、うんと短く。
時間を気にしながらいつも行く美容院に電話をかけた。時間ぎりぎり、なんとか対応してもらえそうだった。私の悪い癖、思い立ったらすぐ行動。今日切ってしまわなきゃいやだと思った。仕事帰りのスーツのまま、また出かけることにした。
「せっかくきれいな黒髪なのに。どれくらい切るの?」
「うんと短く」
「うんとって、どれくらい?」
 担当の男性スタッフが雑誌をめくりながらページずつ見せてくれる。
「こんな感じ?」
 それは今流行りの感じの可愛いボブヘアだった。
「ううん、もっともっと短く」
「もっと?」
「うん。男の子みたいに」
「えーーーーーっ、勿体ない」
 スタッフはそう言いながらも少しずつハサミを入れる。鏡越しに切られた髪が落ちていくのがわかる。
「耳が見えるくらいでいいの?」
「うん。それぐらい短く」
「後ろは?長め?」
「ううん。うんと短く」
「前髪くらいは置いとかない?ワンレンボブみたいなさ?」
「ううん、とにかく短く」
「じゃあ、ちょっと柔らかくシルエットぐらい残させてよ、少年みたいになっちゃうよ」
 冗談ぽく言いながらスタッフが少しずつまたハサミを入れる。数分で、あっという間にベリーショートになった。
「これ、びっくりされるんじゃない?誰が見ても」
 最終のヘアセットをしながらスタッフはちょっと楽しそうだった。
「私って気付いてくれるかな」
「それは大丈夫でしょう。琴子ちゃんは琴子ちゃん。似合ってるよ」

 雨上がりの吉祥寺で、帰る前に斗紀さんに電話をかけた。少し呼び出し音がしてから斗紀さんは出た。
「もしもし?」
「あ、cotoです。今、平気ですか?」
「まあ、帰る準備ってとこかな」
「この後、会えませんか?髪、切ったんです」
「え?髪?どんな風に」
「ベリーショート」
「え?ほんとに?ベリーショート?なんでまた」
「なんか思い立って」
「えぇ~、でもあの長さを切っちゃうって勇気いるんじゃないの?」
「うん、それで、斗紀さんに会いたくなっちゃった」
「え?」
「見てもらえる?変かもしれないけど、私のショートヘア」
「別にいいけど、今から?」
「無理ですか?」
「いいよ。見たい。ショートヘアも」
 ちょっと楽しそうな声が電話越しに聞こえてくる。よかった、迷惑ではなさそうな感じ。 実は会うのはまだ三回目。話すのはもっぱらLINEばかりだったから。待ち合わせはやっぱり東京ドームで、この日は人が少なかった。すっかり半袖になっている斗紀さんが、今日も本を読みながらあの場所で壁にもたれて待っていた。
「斗紀さん!」
 声をかけながら走り寄ると、斗紀さんは手に持っていた本を落としそうになりながら驚いた。
「え!?cotoさんだよね?ショートヘアって、ほんとにそんなに切っちゃったの?」
 少し涼しくさえ感じる首元に手を当てながら、斗紀さんに聞いてみる。
「変、かな?」
「ううん。ぜんぜん。可愛いよ、似合うもん。長いのもよかったけど、こっちも好きかな」
 斗紀さんは私の後ろ側にも回り込んで私を見ていた。
「俺の方が長いくらいだよ?ほんとに短くしちゃったんだね。何かあったの??」
「え?」
 何か・・・って言われても。ただ、切らなきゃなって思っただけだったから。なんて言ったらいいんだろう。
「ごめん、また困らせてるね、僕の質問」
 ぼーっとしたままじっと斗紀さんの顔を見つめていたみたいだった。なんだか照れてきて、私は思わず俯いた。
「晩ご飯もう食べた?まだだったら一緒に何処か行かない?」
 斗紀さんに誘われて、一気におなかがすいてきた感じだった。
「うん。行く」


「え?うそぉー!ほんとに琴子ちゃん?」
 数日の間はそんな第一声を何度も聞いた。私自身、ここまで髪を短くしたのは本当に初めてだもの、そりゃあ言われても仕方のないこと。自分でも鏡を見る度に不思議に思う。これが、今の私。切って帰った日も両親には驚かれた。何があったんだ!と。でも何もない。よく聞く、失恋でもした?なんて言葉も耳にした。けど違う。失恋なんてしてないもん。蓮とは別れたんじゃないもん。心の中にずっといるんだもん。だったらどうして切ったんだろう。
 もっと、強くなりたかったんだ。
「ほんとに、琴子ちゃんよね?」
 驚き半分に、ため息をついたのはバレエの先生だった。それ以上何も言わないけど、わかる。言いたいこと。それじゃ、髪を束ねられない。
「あの、先生」
「何?」
「前にお話もらってた先生の件、お断りしようと思って」
「そう、やっぱり無理?忙しい?」
「いえ、それもありますけど」
「うん」
 先生は私の髪をまじまじと見ながら肩を落とし気味で返事をする。レッスンのスタジオではちょうど、中学生の女の子たちが準備をしているところだった。もし私がOKを出していれば、教えることになっていた予定の女の子たちだ。みんな、可愛い。それぞれお気に入りのレッスン着を着て、もうすでにトゥシューズを履いているクラス。私もかつていたクラスだ。
「あの、先生」
「うん、何?」
「私、ここ辞めようと思って」
「え?」
「バレエを、辞めようと思ってるんです」
「どうして?私が要らないことを頼んでしまったせいなら、断ったことを気にしなくてもいいのよ?今まで通り、好きな時に踊りに来てくれていいんだから」
 先生は優しい表情でそう言った。ありがたい言葉だった。だけどこれだって、いつまでも続けられるものでもないとは思っていたし。いつか、辞め時が来るんだろうな、って。
「趣味で続けられるものであるのはわかってるんですけど、でも、少しゆっくりしたいなって」
 私はそう、返事をした。先生としてバレエを教えることを断ろうと思ったのは、斗紀さんの言葉が大きかった。ただ、それにプラスして、どうしてもそのままバレエを続けるのはイヤだった。大好きだけど、だからこそ、もうずるずると踊るのは止めるのも大事なんじゃないかって。さすがに仕事は辞められないけど、それ以外のものなら、新しく新調することはできる。私の中で、ちょっとしたリセットのつもりだった。ほんとにこれでいいのかはわからなかったけど。

[そっか、バレエ辞めちゃったんだ?]

 LINEで辞めたことを伝えると、斗紀さんはそう返信してきた。

[余計なこと言ったね、僕。ごめん。]
[斗紀さんのせいじゃないです、自分で決めたので。]
[そう?それで何か他に始めるの?]
[他に?]
[うん、新しい趣味探し、とか?]

 趣味探しかあ。困った、他に特に趣味ってないかもしれない。

[斗紀さんは、何が一番の趣味ですか?]
[僕?そうだなあ、読書かな。]

 そう言えば過去に待ち合わせた二回とも、斗紀さんは本を読んでいた。

[私あんまり読書ってしたことないかも。今は何を読んでるんですか?]
[今はね、東野圭吾わかる?]
[うん、名前だけ。]
[「ナミヤ雑貨店の奇蹟」っていう小説を読んでる。]
[面白いですか?]
[そうだなあ、東野圭吾ってサスペンスとかそういうのが多いんだけど、これは珍しくファンタジーで。不思議な感じだけど面白いよ。]
[私でも読めるかな。]
[読めるよもちろん。ストーリーにそれぞれ好みはあるかもしれないけど、読みやすいんじゃないかな、「ナミヤ雑貨店の奇蹟」は。]
[私も趣味、読書になるようにがんばろうかな。]
[え?無理に読むようじゃ趣味にならないよ(笑)、でも気になるなら今度貸してあげるよ。]
[ほんとですか?]
[いいよ。今晩には読み終える予定だから。]

[あのさ、今度は、東京ドームじゃなくて何処か違うところ行かない?]

 少し間があいてから、斗紀さんはそう伝えてきた。何処か違うところ?うーん、何処がいいかなって考えてたら、続けて斗紀さんからメッセージが届く。

[今度の日曜日、もしお天気だったらちょっと遠出しませんか?一緒に。]
[何処にですか?]
[それは内緒。あ、でも変な所じゃないよ、のんびりくつろげるところ。自然に触れられるような。]

 自然かあ。最近そういうとこ行かないな。

[わかりました。楽しみにしてます。]

 何処に行くんだろう。でもとても楽しみだった。電車で出かけるよ、っていうのはその後のやり取りで聞いていて。だから歩きやすい靴でね、って言葉が添えられていた。履きなれたペタンコのシューズを履いていくことにして、洋服を決めることにした。自然と想像するのは斗紀さんの服装。今まであった三回、どれも落ち着いたシンプルなデザインだけど何処かオシャレな感じ。私もちょっと大人カジュアルを目指そうとクローゼットから服を出しては合わせてみる。まだ、約束の日まで数日あるのに、うきうきしてたんだ。雨でもとりあえず一緒に何処かに行く予定はしていて、なので寒かった時のために羽織るものも考える。斗紀さん、ベージュのカーディガン似合ってたなあ。そう言えば私もよく似た色のを持ってる。タンスにしまってあったものを出してベッドに広げてみる。これこれ、よく似た色のだ。
「何やってんだろ、私。合わせる必要なんてないのに」
 だけど、そのベージュのカーディガンを持って行こうって決めた。
 それから数日後、日曜日は気持ちのいいくらいの晴天だった。


 待ち合わせは池袋だった。初めて違う場所での待ち合わせ。西武線の改札が約束の場所だった。時間より少し早く着いたのに、斗紀さんはもうそこにいた。
「おはようございます」
 いつものように本を読んでいた斗紀さんに声をかけると、しおりをそっと挟んで本をトートバッグにしまう。
「それにしてもあらためて、ほんとに切っちゃったんだ。腰くらいまであったよね?髪」
「あ、はい。ほんとにばっさり」
「うん、でも似合ってる。いいよ、やっぱりそれ、可愛い」
 そんなことをあっさりと斗紀さんは言うもんだから、照れくさくなって顔が見れなくなった。
「じゃあ、行きましょうか。もう乗れるみたいです、特急」
「特急?」
「うん、秩父まで行きます。行ったことあります?」
「いえ、初めてです」
「良かった。僕もずいぶん前に一度行ったきりなんだけど、行きたいなと思っていて」
 そう言うと、パンツのポケットからお財布を取り出した。すでにチケットは買われていて、お財布にしまってあったみたいだった。
「はい」
「あ、お金」
「いいよ、行こうって言ったの僕の方だから。さ、行こう」
 背中をそっと押されて改札に向かう。

 特急の電車、久しぶりに乗った。いつも都内をせせこましく移動するだけの日々だから。こういう電車もいいな、って。そう思って顔を上げると、向かい合わせの座席の向かいに座った斗紀さんが笑ってた。
「なんか、いつもと違う」
「え?」
「いつもほら、元気だけど元気ない感じするんだけど、今日はそれを感じないから」
 そう言われて、なんだか照れた。少し俯いたら、斗紀さんがバッグをごそごそしだした。
「これ、東野圭吾」
 取り出したのは借りる約束をしていた本だった。差し出されたそれをそっと受け取る。
「過去の人間と手紙でやりとりするっていう、東野圭吾には珍しいタイプのストーリーなんだ」
 そう言われて、少しだけパラパラとめくってみる。
「けっこう、厚みあるんですね。読み切れるかな、私」
「ははは、いいよ、時間かかっても。読みたいときに読めばいいよ。返してくれるのは一年後でも五年後でも。いつでもいいから」
 そう言って、斗紀さんは手を差し出す。
「今渡すと重いだろうから、帰る時に渡すよ。僕があずかっとく」
 私の手にあったその本を、そっと斗紀さんは手に取ってまたバッグにしまった。
「過去の人間に手紙が出せるっていいですね」
「え?」
「あ、どんなお話かは知らないけど。もう居ない人と手紙でもいいから話ができるっていいなと思って」
「誰か、話したい人がいるの?おじいちゃんとかおばあちゃんとか?」
「うちはまだ祖父母は父方母方どちらも健在です」
「え。ごめん。ほんとに」
「冗談、怒ってないですよ」
「じゃあ。誰だろう。偉人とか?」
「いえ」
 斗紀さんは、それ以上問いかけることはしなかったけれど、首をかしげて私を見る。別に問いただそうって表情ではないのだけれど、私から自然と話をしていた。
「亡くなった、彼です」
「彼?亡くなったの?」
「はい。もう六年も前ですけど」
「ごめんね。なんかまた話したくないこと話させてしまったみたいで」
「ううん。話したいから話したの」
「そう、なの?」
 ふと窓の外に目をやる。住宅街を電車が走りすぎていく。何気に目で追えるくらいの速さで見える建物は、見ているようで私の目の中には入っていなかった。その向こうにいる、蓮を見ていた。
「もう、六年も経つのに、いまだに何かあると蓮に伝えたいとか、蓮にもこれを見せてあげたいとか、一緒に食べたいとか、思ってしまうんです」
「蓮、っていうの?彼」
「はい。でも、もう忘れなきゃって最近やっと思い始めるようになってきて。斗紀さんと会ってからですよ」
「僕と?」
「それまでも他に好きな人ができたり誰かと付き合かけたりもしたけど、いつも蓮と比べてしまったりばかりで。友達ともいっぱい遊んだし楽しいことあったけど、なんかイマイチ楽しみ切れてない感じがあってたんです」
「そう」
「でもね、斗紀さんと話してると、焦らずにゆっくり進めればいいんだなって思えるようになってきて。いい機会だからいろんなことをリセットできればなって」
「リセット。もしかして髪を切ったのもそれ?」
「はい。自分を変えたくて」
「そっか。そうだったんだ」
「早く過去のことは忘れていかなきゃだめですよね。やっぱり」
 そう言って斗紀さんに視線を戻すと、じっと見つめられていた。
「忘れるっていうのは、彼のこと?」
「え?はい」
「忘れちゃだめだよ」
「え。だめって・・・」
「そういうのは忘れるものじゃなくて。大事にしまっておくだけでいいんだよ」
「しまう?」
「僕だったら、琴子ちゃんの話してくれるそんな過去の話も一緒に大事にしたいと思う。ひとりで忘れなきゃって辛くなるのは違うよ」
「斗紀さん?」
「普通にただ別れた彼ならただの過去の人でいいと思うよ。でも、亡くなったっていうのはもう、辛いこと言うけど、永遠の別れをしてしまってるってことでしょ?」
「永遠の別れ、そうですね」
「忘れなきゃ次に進めない、ってわけではないと思うんだ。ちゃんと一緒に、その人と過ごした琴子ちゃんの思い出も大事にしたいって、僕だったら思う。琴子ちゃんは忘れる必要なんてないんだよ」
 必死な顔をしてそう話す斗紀さんに、思わず笑いが込み上げた。
「ありがとう」
 ちょうど、一つ目の駅で電車が停車する。一つ後ろの座席だった人が電車を降りて行った。
「ごめん、熱くなっちゃった。でも、それくらい僕はちゃんと琴子ちゃんとこれからも居たいんだ」
「え?」
「ごめん。着いてから話そうと思ってたんだけど」
 斗紀さんがそう言うと、ドアが閉まるアナウンスが流れた。電車が走り出すのを待つように、窓の外にちらっと斗紀さんが目をやった。ゆっくりと動き出す電車の音を聞きながら、斗紀さんはまた私の方を見た。
「僕と、付き合ってくれませんか?」


 正直どうしようかと思った。この後、一日一緒に過ごすのに。どんな顔して斗紀さんと居ればいいのかって。
「ごめん、返事なんていつでもいいよ。この本と一緒、一年後でも五年後でも、ずっと待ってるから。それに、無理に良い顔しなくてもいいよ。断られたって別に大丈夫だから、僕は」
 斗紀さんは、告白した後の私の沈黙を見かねてなのだか、そう続けて言った。
「わかりました。少しだけ、返事待ってください」
 斗紀さんは、笑顔で頷いた。

 秩父の街をゆっくりと歩く。緑が多くて気持ちがよかった。斗紀さんはカメラを持参していて、時々「ちょっと待ってね」と言っては街の風景を切り取っていた。その間、ぶらっと景色を眺めては考える。

 忘れなくて、いいんだ。蓮のこと。

 斗紀さんの言葉はいつも何かヒントを私にくれる。この言葉もそうだった。しまっておくだけでいいって、でもこれからも、誰かと蓮を比べてしまったりするかもしれない。そしたら自分をまた責めて、辛くなる。
 のんびりと、斗紀さんと少し話しては写真を撮る間待っての繰り返し。
「ごめん、僕の趣味に付き合わせただけみたいになっちゃってるよね」
 斗紀さんは申し訳なさそうに言う。
「ううん。なんでも被写体になるもんなんだなあって感心してたとこ」
 お世辞でもなく本心だった。何もない田舎町みたいな風景。だけどどんなものでも斗紀さんはカメラにおさめていく。
「いつか琴子ちゃんも撮らせてね」
「え?」
「あの、変な意味じゃなくて」
「でも私なんて」
「すごく絵になると思うんだ。琴子ちゃんって」
「そう、ですか?」
「うん。背筋がピンってしていて。風景に溶け込むようで、実はしっかり存在感があるから」
「でも私チビだし。モデルさんみたいにかっこよかったらいいのに」
「なんで?琴子ちゃんはそのままがいいよ。そのまま」
 クスッと笑って斗紀さんは先に歩き出す。
「なんで今笑ったんですか?やっぱり変なんじゃない!」
「変なんじゃないよ。ごめん、照れ隠し。可愛かったの、今」
 振り向くこともなく、足早に斗紀さんは先に歩いて行く。私はその後を、ついて行くように歩いた。

 帰りも同じ特急に乗った。時間帯のせいか車内はほぼ満席で、行きは座席を向かい合わせにゆったり座れたけれど、帰りはそういうわけにもいかず席は全て同じ方向にセットされていた。隣同士で、しかも二人きりのようなその空間が、照れくさいけれど何故だか落ち着けた。今日撮ったばかりの写真を、カメラの画面越しに見せてくれる斗紀さんは楽しそうで、やっぱり今日すぐに返事をしようって決めたんだ。
「あの、斗紀さん」
「ん?なに?」
「今朝の、あの」
「今朝?」
「返事、なんですけど」
「あ」
 斗紀さんも笑顔がすっと緊張に変わった。
「私、斗紀さんの彼女になれます、かね?」
 返事というより、変な疑問形になってしまった。隣にいる斗紀さんの顔が見れなくて、膝の上のバッグに視線を落とした。
「なんで?」
「なんで、って・・・」
「いろいろ、不安?」
「正直」
 そっと顔を上げてみると、斗紀さんが私の顔を覗き込んでいた。
「今ちょっと、手、繋いでいい?」
「え?」
 返事をするまでもなく、斗紀さんは私の手をそっと握りしめた。
「彼女とか、そういうのこだわらなくていいよ。一緒に美味しいもの食べたり、今日みたいに何処かに出かけたり。何か話したい時に連絡取って楽しいことも辛いことも分けあって。それでやっぱり無理だなって思ったら、その時また断ってくれていいから」
 斗紀さんの手にギュッと力が入った。
「なんか、断ってくれていいとかって、いつか私が斗紀さんのこと嫌になるみたいじゃないですか」
「でもだって、僕は自信がないから」
「それは、私も同じです」
「え?」
「自信なんていつもないです。最終的にはやっぱり自分には無理だって斗紀さんに言われるかもしれない」
「言わないよ、僕は。ちゃんと、琴子ちゃんのこと好き、だからさ」
「それは、私もです」

 なんだか泣きそうで。哀しいんじゃないけど、心がゆったりして、泣きそうで。そんな私を察知してか、斗紀さんの手の力が柔らかくなって私の手から離れたと思ったら、その手は私の頭を撫でていた。
「こんな時にさ、一緒にいてあげたいんだ。僕は」
 するりするりと、子供をあやすように優しい斗紀さんの手の温もりが、心をほぐしてくれるみたいだった。

「ほんとにここでいいの?」
 その日は、待ち合わせた池袋で、別れることにした。斗紀さんは家の近くまで送ると言ってくれたけど、ぜんぜんお願いするような遅い時間帯でもないし。
「また、帰ったらLINEします」
「わかった。あ、これ」
 斗紀さんが、慌ててバッグから本を取り出した。
「がんばって読みますね。一年後どころかすぐ返せるように」
「いいよ、十年経っても返してくれないぐらいでも怒らないから」
 本を受け取ってバッグにしまう。その後何も言えずにお互い見つめ合ってるみたいな時に、誰かに声をかけられた。
「琴子さん!?」
 何処からだかわからずにキョロキョロしていると、人混みの中から見慣れた人が走ってきた。
「悠くん?」
「琴子さん、何!?髪がすごく短くなってる!!どしたの!?この間も電話したけど、ほんと最近来てくれないからさ、心配してたんだよ。俺もおふくろも」
「ごめん、なんか忙しくって」
「だって何度も言うけど、ミスチル以来だよ?」
 そう言って、悠くんは私の隣にいる斗紀さんにそっと視線を移した。
「誰?」
「あ、あの」
 なんて紹介していいのか困っていると斗紀さんが自分から挨拶をした。
「杉村です」
「杉村、さん。はあ」
 あまりいい顔をしない悠くんを、私は斗紀さんに紹介した。
「あの、蓮の弟さんなの」
「ああ、そうなんだ」
「何、この人。行こう、琴子さん」
 そう言うと悠くんは私の手を取って歩き出そうとした。
「ちょっと!悠くん!」
 振り返って斗紀さんを見ると、無表情のままこちらを見ていた。
「また、連絡しますね。今日はありがとう」
 斗紀さんに向かってそう言うと、斗紀さんは少し微笑んだ。悠くんはというと、私の方を見ることもなく、手を掴んだまま人の波の中に逃げるように歩いて行く。私はそれに引っ張られて歩くのに精一杯だった。
「ちょ、ちょっと悠くん!早いよ」
 かろうじて力を入れて自分の手を引っ張った。行き交う人の波は規則正しくない。無理に立ち止まろうとした私に誰かがぶつかって、よろめきそうになった所を悠くんに抱きしめられるみたいに支えられた。
「大丈夫?琴子さん」
「どうしたの?悠くん。急にあんな」
 悠くんは返事しないまま、私の手を、今度は優しく引っ張って通路の端に連れて行く。
「誰?さっきのあの、杉村って人。付き合ってんの?」
「え?いやあの」
「最近うちに来なくなったのはあいつのせい?」
「そういうわけじゃないけど、時間がうまく合わなかっただけだよ」
「ほんとに?兄貴の事もうどうでもよくなったのかと思った」
「え?」
「兄貴を捨てるの?」
「何言ってんの?悠くん。」
「じゃあ、何?他に好きな人ができたの?」
「悠くん?」
「やめてよ。兄貴の代わりなら俺がするから」
「え?」
「兄貴が居なくて寂しいなら、俺がずっと琴子さんの傍にいるから。何処にもいかないでよ。またうちに来てよ」
「ねえ、悠くん。蓮の代わりとか、そういうことじゃないの」
「じゃあ、なんなの?俺は、ずっと琴子さんのことが好きだったんだ」
「え?」
 池袋西口出口の傍、壁に私を押し当てて、私の両肩を悠くんがしっかりと掴んでいた。その表情は蓮にそっくりで。びっくりするほどそっくりで。思わずそこに蓮がいるんじゃないかと思うくらいだ。
「もう、好きじゃない?兄貴のこと」
 そう言って顔をぐっと近づけてくる。そんなふたりのことを見向きもせずに周りの人たちは足早に通り過ぎていく。
「俺は、琴子さんのこと好きだよ。ずっと、好きだったよ。兄貴がいなくなって、今度は俺の番だ。兄貴の身代わりでもなんでもいい。好きになってよ、俺のこと」
「悠くん?何を言って・・・」
「冗談じゃないよ?本気だよ」
 怖いくらい伝わってくる。ほんとのほんとに、本気だ。だけど、答えられるわけはなかった。だって、さっき気付いたばかりなんだもん。

 私は、斗紀さんのことが好きなんだよ。

「悠くん。やめて。私はあなたの気持ちに答えられない」
 肩を掴む悠くんの両手を無理に外すようにして、私は少し横に逃げた。
「琴子さん?」
「蓮のことは好きよ。今でも。忘れてもないし、これからもきっと、忘れられない。だけど、悠くんのことはまた別の話。身代わりとか、そういう問題でもない。私の中で悠くんはずっと、蓮の弟でしかないから」
 少し何も言わずに悠くんが私を見つめていた。さっきのような怖い感じはなかった。そしてそのまま私から視線を外して、人の波に紛れるように歩き出した。
「悠くん!」
 振り向くことはなく、そのままずっと歩いて行く悠くんの背中を、私は暫くそこでずっと見ていた。

「琴子、ちゃん?」
 見えなくなった悠くんの後ろ姿を追っていると、逆方向から声がした。斗紀さんだった。
「あ・・・」
「大丈夫?彼、なんか怒ってたみたい?なんかやっぱ気になって」
「あ、大丈夫です」
「弟さんって?」
「はい、蓮の。蓮が亡くなってからもよく会ってたし弟みたいに思ってたんですけど」
「何かあったの?」
「好きだ、って。言われて」
「彼に?」
 私は小さく頷いた。
「ねえ、琴子ちゃん。もう少しだけ、一緒にいない?」
「え?」
「少しだけ。コーヒー一杯だけ。それで落ち着いてから帰りなよ。僕付き合うから」
「でも・・・」
「はい、気にしない」
 そう言って、いつもの笑顔で斗紀さんは私の背中に手をまわした。
「彼のことは、琴子ちゃんがどう決めるかってことだから。僕にはどうにもできない。ただ、ひとりで悩んでばかりはしないで。そのために傍に居たいんだから」
 斗紀さんは歩きながら、そっと抱きしめるように私の頭に手をまわして耳元でそう言った。そんな斗紀さんの背中にそっと手をまわして、私は斗紀さんのカーディガンの裾をギュッと掴んだ。
 それからコーヒー一杯分、近くのカフェで斗紀さんがひたすら楽しい話をしてくれた。それはもう笑顔になれるような話ばかり。
「琴子ちゃん笑い過ぎ」
「だって」
 我慢しきれずにまだクスクス笑ってしまう。
「でも帰ったらまた、さっきの彼のこと考えて笑顔消えるんでしょ」
「え?」
「考えるのは大事なことだから。琴子ちゃんがどう決めるのか、で、僕の立ち位置だって変わるかもしれないしね」
「え?どういうことですか?」
「もしかして。琴子ちゃんはさっきの彼の方を選んで、僕はフラれてしまうかもしれない」
「それは!」
「それは?」
「ないです」
「ほんとに?」
「ほんとに。悠くんは、弟みたいな存在だから」
「そっか」
「でも、傷つけたくないとも思う」
「うん。だったらなおさら、ちゃんと琴子ちゃんの考えたことを伝えてあげなきゃいけないね」
 優しい笑顔で斗紀さんがそう言った。すごく不安だったのに、その笑顔を見ていると勇気が湧いてくる気がした。
「琴子ちゃんのためでもあるし。彼のためでもあるからね」
「そうですよね」
「大丈夫?これから帰れる?送って行こうか?」
「大丈夫です。元気もらいましたから。ちゃんと、前に進みたいんです、私」
 斗紀さんは頷くようにして笑顔で言った。
「琴子ちゃんのそういうとこも、好きだな」

 数か月ぶりに蓮の実家に足を運んだ。少し懐かしい。立派な和建築の二階建ての家。玄関で蓮のお母さんが迎えてくれるのと同時に、ポメラニアンのリクが尻尾を振りながら駆け寄ってくる。私は玄関でしゃがみこんでリクの背中を撫でた。
「ほんとに久しぶり。髪切ったのね、可愛いわ。さ、どうぞ上がって。蓮の部屋にお茶運ぶわね」
 いつもと同じ、お母さんは気さくにそう話しかけてくれる。
「いえ、今日はここで」
「え?急いでるの?」
「いえ。もうここにお邪魔するのは最後にしようと思って」
 その言葉に、一瞬お母さんは表情を失ったように驚いた顔をして、奥の部屋に行こうとした体をきちんとこちらに向けて姿勢を正して立った。そうだよね、だって、六年も通ったんだもん。
「もしかして、琴子ちゃん、ご結婚されるとか?」
 お母さんがそう問いかけた時に、二階の部屋でガタンと音がした。たぶん、悠くんだ。
「いえ、そうじゃないんですけど」
 言葉が詰まる。なんて言えばいいんだろう。リクの頭を軽く撫でて、しゃがんでいた私は何も言えずにただ立ち上がった。
「そう・・・。そうよね」
 何も話さないのに、納得するようにお母さんがそう言った。
「蓮はね、ほんとに幸せだったと思うわ」
「え?」
「あなたと出逢えたこと」
 そう言われて、思わず我慢していた涙がこぼれそうになる。
「私たちもどれだけ救われたか」
「お母さん・・・」
「もう縛りつけるのは終わりにしなきゃいけないわね」
「縛りつけるなんてそんな」
「ううん。あなたには蓮以上にもっと幸せになってほしいと思うわ」
 足元をうろちょろしているリクをそっと抱き上げて、お母さんはリクの頭を撫でる。
「ね、リク。あなたもそう思うわよね」
 話を理解してかどうだかわからないけれど、リクが小さくクーンと鳴いた。
「蓮のことを今までこんなに愛してくれてありがとう」
 お母さんの言葉が胸を突く。すごく悪いことをしているみたいな気持ちになってきて、私は下を向いたまま顔を上げられなかった。次から次へと涙が溢れだして、雫が足元へと落ちていく。震える私の肩にそっと添えられたお母さんの手の温もりが後押しして、私はただひたすら「ごめんなさい」を連呼していた。
「琴子さん、謝らないで。謝るのは私たちなのよ、ずっと縛り付けてしまって」
 そう言われても、ただ私は顔を左右に振りながら、「ごめんなさい」って何度も言った。それは蓮へなのか、ご両親へなのか、それとも悠くんへなのか。自分でもわからないくらい、たくさん「ごめんなさい」って連呼していた。
 その時二階から階段を悠くんが駆け降りてきた。
「ほんとにもうここへは来ないの?」
 そう聞かれて、頷くようにしながら止まらない涙をこらえられずにいた。
「兄貴を裏切るんだ?」
 そう言ったと同時にお母さんが悠くんの頬をひっぱたいた。驚いたリクは慌ててお母さんの腕の中から飛び降りるようにして悠くんの足元に走りよる。なんとか顔を上げてふたりを見た時には、お母さんは悠くんを抱きしめていた。
「そんな風に言っちゃいけない。琴子ちゃんはこんなに蓮を愛してくれてるんだから」
「だったらなんでもう来ないんだよ!?」
 お母さんの腕の中から、私をじっと睨むように悠くんの視線があった。
「琴子ちゃんには琴子ちゃんの人生があるの。蓮はもう、居ないんだから。私たちもちゃんとそれと向き合わなきゃ」

「ほんとに、・・・ごめんなさい」

 悠くんを抱きしめていたお母さんは、今度は私をそっと抱き寄せてギュッとその腕に力を込めた。
「あなたは私たちの家族みたいだった。ほんとにほんとに今までありがとう。ぜったいに幸せになってね。蓮の分も」
 そう言うお母さんも、泣いていた。やっぱり涙が止まらなくて。視界がぶれて、悠くんの表情も怒ってるのかどうなのかわからないぐらいだった。それから少しして、そっと体を離したお母さんに向かって一礼すると、私は精一杯笑顔を作った。
「今まで本当にありがとうございました」
 お母さんも、泣きながら笑っていた。
「年賀状ぐらいはこれからも出させてね。それぐらいはさせて。娘みたいに心配だもの。時々近状、聞かせてね。蓮にもあなたの幸せは報告してやりたいわ」
「はい」
 ただただ、涙が止まらなかった。


 その日はどうしても斗紀さんに逢いたくて。連絡を取りたいのになかなか電話には出てくれなかった。メッセージを送っても返事が来なくて、やっと繋がったのは夜の十一時過ぎだった。
「ごめん、どうしても外せない会議だったんだ」
「ううん、そんなときにごめんなさい」
「どした?何かあった?」
 電話の向こうの声が優しくて、また涙が溢れてくる。
「琴子ちゃん?どしたの?」
「うん。あのね」
 話そうとするけど、言葉に詰まる。涙が止まらなくて声が出ないのだ。
 正直こんなに辛いとは思っていなかった。蓮のことを思い出にするだけ、なんて簡単に思っていた。蓮を取り囲む全てのものとお別れをしたみたいな感覚だ。お母さんだって大好きだった。リクにもいっぱい元気もらってたし。悠くんは最後まできっと、怒っていた。すごく勝手なことをしてしまったみたいな後悔も押し寄せてくる。
「琴子ちゃん、そんなに泣かれたら逢いたくなっちゃうでしょ?僕が」
 そう言われて、もっと涙が止まらなかった。
「逢いたいよ」
「え?」
「斗紀さんに今すぐ逢いたい」

 こんな時間だ、さすがに今から出かけるなんて言いづらくて、コンビニに行くと母にそれだけ伝えて家を出た。車で十五分くらいかかるかも、って斗紀さんに言われたのに、コンビニなんて嘘きっとすぐバレるよね。とにかく早く逢いたかった。家の近くまで来てくれると言われていたけど、待ちきれなくて約束した場所でそわそわしていた。涙はまた溢れて来るし。通る人に怪しまれないようにするので精一杯。外灯の灯りも携帯で話しながら通り過ぎる女の子も、すべてが冷たく感じる。普通の、いつもの風景なのに。
 言われた通り十五分ほどして黒い車が私の前にすっと止まった。斗紀さんだった。
「ごめんね、待った?」
 ドアを開けて車を降りると、すぐに私のところに駆け寄ってくれる。そんな斗紀さんに抱きつくように顔をうずめた。
「琴子ちゃん、大丈夫だよ。落ち着いて」
 そろそろと背中をさすってくれる。少しずつ落ち着くような気がしてくる。
「斗紀さん」
「ん?なに?」
「蓮の家に行ってきた」
 斗紀さんの表情は見えない、私は顔をうずめたままだったから。だけど背中をさすってくれていた手が止まったことで、何かを感じた。顔を上げると、無表情で斗紀さんは私を見ていた。
「さよならしてきた。蓮にも、家族のみんなにも」
「さよなら?」
「うん、もう来れないから、って」
 また涙が溢れてくる。だけどそれを、斗紀さんが指で拭ってくれる。
「大好きだったの。みんな。蓮もだけど、家族もみんな」
「うん。なんか、伝わってくる」
「お母さんが抱きしめてくれた」
「そっか。優しい人なんだね」
 私は小さく頷いた。
「これからも年賀状は出してくれるって。すごく失礼なことしたのに」
「失礼なこと?」
「だって、急にもう来ないなんて」
「それは、失礼なことじゃないよ。仕方のないことなんだよ」
「仕方がないで済むかな?」
「だって、琴子ちゃんが決めたんでしょ?」
「そうだけど。我儘だよね、勝手だよね」
「そう思うんなら、彼同様、ご家族のことも忘れちゃだめだよ」
「うん、わかってる」
「琴子ちゃんも年賀状、毎年出さなきゃ」
「うん」
「じゃあ大丈夫だよ、これからもずっと、繋がってる」
「うん」
「偉いね、琴子ちゃんは」
「なんで?」
「ちゃんと前に進めてるじゃん。すごいよ」
「そうかな。でも全然涙止まらない」
 斗紀さんを見上げる私の泣き顔を見ながら斗紀さんはクスっと笑った。
「じゃあもっと泣きなさい」
 先生みたいに、斗紀さんがしっかりとした声でそう言った。
「涙を止めるためには、もっと涙を流せばいいんだよ。付き合うよ、とことん。止まるまで」
 そう言って優しく抱きしめてくれる。
「斗紀さんのシャツ、濡れちゃうよ」
「いいよ、今の時期だとすぐに乾くよ。よかった、冬じゃなくて。ね」
 斗紀さんは自分の胸に顔をうずめる私の頭をそっと撫でた。
 私が少し落ち着いてから、斗紀さんの車で少し走った。それほどスピードを出さずにゆっくり走ってくれる。
「ほんとにいいの?時間。もう零時回っちゃうよ?」
「うん。一緒に居たいの」
「嬉しいこと言ってくれる。でも、零時過ぎたら家に戻ろう」
「なんで?」
「僕と居られるのは今日だけじゃないんだから。必要だったら明日も明後日も、毎日でも逢えるようにするから。帰らないとさすがに、親に心配かけるよ?」
 間違ったことは一つもない。っていうかすべて納得できることばかりだ。
「・・・みたい」
「え?なに?聞こえなかった」
「先生みたい!」
 少し大きな声で言うと、斗紀さんは楽しそうに笑った。
「仕方ないよ、職業病だもん。先生だもん。ていうか、本当はさ」
「うん」
「いつまでも一緒に居ると帰したくなくなるから」
 そう言って、少しすると「照れる、言わなきゃよかった」って言いながら斗紀さんは笑った。きっと楽しそうに笑ってくれてるのも気を使ってくれてるんだ。気を使わせちゃった。でもその分、私も斗紀さんにこれ以上心配かけないようにしなきゃ。
「じゃあ、そろそろ家に向かって戻るね」
「うん」
 窓の外の景色に目をやると、まだ開いているお店の看板のネオンがきれいだった。すごく心がすっきりした感覚が余計にそのネオンライトをキラキラさせていた。
「ねえ、琴子ちゃん」
 ふいに声をかけられて、窓の外から運転席のほうに目を移した。斗紀さんは前を向いたまま、ハンドルを握っていた。
「次に信号が赤になって止まったら、キスしてもいい?」
「え?」
 前を向くと、次の信号はまだ青だった。その次も、青だった。斗紀さんはそれ以上何も言わなくて。私も特に返事もしなくて。ドキドキしながら、信号が見える度にその色を確認していた。先に見える信号が、ふと、青から黄色に変わる。心臓の音が半端なくうるさくて、聞こえたらどうしようって思うくらいだった。

 次の信号、赤だ・・・。

 そう思って斗紀さんのほうを見た瞬間に、斗紀さんの唇が私の唇に重なった。優しくそっと。


 あれ以来、斗紀さんとは毎日のように逢った。別に何をするわけでもなくても、一緒に居たかった。いつも笑顔でいろんな話をしてくれる。今日も学校での話を聞かせてくれた。最近は私も自分の話をするようになった。樹夜ちゃんにも斗紀さんのことは紹介した。あのときのTwitterの彼!なんて、樹夜ちゃんは二人の出会いをいつも運命だって大騒ぎしながら楽しそうに話す。うん、私も思うんだ。たぶん斗紀さんとの出会いは、運命だ。
 最近、日差しが強くなってきた。もう七月の後半。昼時にはすっかり眩しいくらいの太陽だ。しっかりと帽子をかぶって、夏場だけど長袖のカーディガンを羽織って待ち合わせ場所に急いだ。こんなに暑くても、日曜の昼間は人が多い。
 待ち合わせ場所にはやっぱり先に斗紀さんがいた。いつも早いんだもんなあ。改札を出たところの柱にもたれて今日も本を読んでいた。
「今日は何を読んでるの?」
 声をかけると、びっくりしたように斗紀さんは顔をあげた。
「あぁ、コトちゃん。東野圭吾の新作」
「へえ。あ、やっと読み終えたよ、ナミヤ雑貨店の奇跡」
 そう言って、バッグから借りていた小説を取り出した。
「一年後でも五年後でもいいって言ったのに」
 斗紀さんの冗談にもずいぶん慣れた。笑って返せるようになった。
「斗紀さんの読むスピードに追い付くぐらいにまでなってみせるんだから。まだちょっと時間かかってるけど」
 あの日に借りた本、気持ちの整理がつくまでなかなか開くことができなくて、つい最近やっと読んだのだ。
「すごく良かった。感動した、これ」
「でしょ?こういうのが好み?」
「うーん、心が温かくなるようなのがいい、かな」
「じゃあ今度はそういうのセレクトしとくよ」
「どれくらいあるの?小説」
「えー、部屋一つ分くらい」
「部屋一つ?」
「うん、うち2DKなんだけど、そのうちの一つの部屋は全部本棚」
「ほんとに?すごい。やっぱり先生なんだね」
「なんだよ、それっ!」
 クスクス笑うと斗紀さんも優しい笑顔になった。
「何?私なんか変?」
「ううん、前よりずいぶん明るく笑うようになったなと思って」
「ほんと?」
「うん」

「あ、ねえ、一つ提案なんだけど」
 斗紀さんがふいに口を開いた。
「提案?」
「手紙、書かない?」
「手紙?」
「うん、蓮さん、に」
「蓮、に?」
「うん。返事はもちろんもらえないと思うけど。今わたしはこうです!みたいな。こんなことして、毎日こんな風に過ごしてます!みたいな」
「でも、なんで?」
「コトちゃんがやっと彼のこと落ち着いて考えられるようになってきた気がするから。今度は彼に対して、心配しなくても大丈夫だよって伝えてあげられるような手紙、書いてあげたらいいんじゃないかな、って思って」

 少し考えて。ふと思ったことを斗紀さんに聞いてみた。
「どうして斗紀さんは、そんなに私と蓮のこと、気にかけてくれるの?今私は斗紀さんと付き合ってるのに」
そしたら斗紀さんは、にっこり笑った。
「前に言わなかったっけ?僕は彼と過ごしたコトちゃんの過去も思い出も、全部一緒に大切にしたいんだ。彼とのことがなかったら、今僕の前にいるコトちゃんはたぶんもっと違う人になっていたかもしれなくて。そしたら僕はコトちゃんのこと好きになったかどうかもわからないでしょ?まあ、たぶん、それでも好きになってると思うけど」
 照れくさそうに斗紀さんは笑う。そして着ていたTシャツのおなかのあたりをつまんで、パタパタと扇いだ。
「暑いね、ほんとに今日。早くどっか涼しいとこ入ろうか。ごめん、こんなとこで立ち話」
 行こうって歩き出す斗紀さんの腕にふいにしがみついた。
「手紙、書いてみる」
「そう?」
「うん。でも、書いてどうしよう。蓮のうちに送ったりしたら、迷惑かな」
「いいんじゃない?家族の人が読んでも大丈夫な内容にちゃんとしておけば」
「うん。いつもありがとう、いろいろアドバイスくれて」
「なんのなんの」


 小湊蓮 様

 お元気ですか?
 私は、元気です。
 体だけは、子供の頃から丈夫だから。知ってるでしょ?
 あなたが居なくなって、どうしたらいいのかいっぱい迷いました。
 それでも何かに負けたくなくて、ひたすら毎日をいつも通りがんばりました。
 仕事もすごく充実してる。後輩もたくさん入ってきたよ。
 あれから旅行にも行ったの。蓮の思い出のあるニューヨークにも行きました。
 とても素敵なところだった。
 バレエは、先生にならないかと言われたりもしたけれど、断りました。
 バレエ自体も、もう辞めました。
 蓮には、見せたかったな。でももう終わりにしました。
 新しい何かを見つけたくて、髪も切りました。
 見たらきっと、びっくりするよ。似合わないって言われるかもしれないね。
 蓮が好きだった長い髪は、あなたを思い出してしまうので、もう伸ばしません。
 いっぱい泣きました。泣いても足りないくらい、泣きました。
 涙って、いくらでも出てくるんだね。
 だけど、そろそろ涙も止めなきゃいけない時期なのかなと思います。
 これからはもっといっぱい笑おうと思います。
 あなたが天国から見てくれている私が、泣いてる顔ばっかりじゃ失礼だよね。
 悔しがられるくらい、笑顔で過ごせるようにしたいと思います。
 もし私のことを忘れずにいてくれるのであれば、これからも私の笑顔を見ていてください。
 私はけっして、あなたのことは忘れません。
 笑顔でいられる限り。

 今までありがとう。これからもよろしくね。
 蓮、大好きだよ。

 北川琴子


 蓮の家に送る前に、手紙は斗紀さんに読んでもらった。斗紀さんには、読んでもらうべきだと思った。どう思われるかわからないけれど。授業終わりで急いで待ち合わせに来てくれた斗紀さんは、いつも以上に書類をたくさん持っていて大変そうだった。
「うち私立だからね、小学生と言っても試験の数半端なくて。帰って全部採点して表にして、今夜は徹夜だな」
 そう言って笑った。
「そんな日にごめんなさい」
「謝らないでよ。ほんとに無理だったらその時はちゃんと今日は無理だって言うんだから。これぐらいでへこたれないよ、僕は」
 笑顔でそう言う。そんなたくさんの書類の詰まったバッグを足元に置いて、斗紀さんは手を差し出した。
「拝見させていただきます」
 小学校の傍の公園で、ベンチにふたり隣り合わせに座った。もう子供たちは家に帰った時刻だ。時々ウォーキングをしている夫婦や、犬を散歩させる人が通り過ぎたりする。緊張しながら、蓮宛ての手紙を斗紀さんに渡した。
 夕焼けから夜の藍へと変わる寸前の空はとてもきれいだった。薄っすらと流れる雲と共に風が微かに吹いている。ゆっくりと手紙に目を通す斗紀さんを確認してから、私はベンチから立ち上がった。少し離れたところにあるブランコに移動した。読んでいるときの斗紀さんの呼吸の音さえも怖かったんだ。蓮のことを思うとラブレターのようになってしまう。だけど斗紀さんのことを考えるとそんな手紙を書いていいものか迷う。すごく悩んで最終的に書いた内容だった。なんて思うんだろう、あれを読んだ斗紀さんは。

 斗紀さんの座るベンチとブランコとは対角線に離れていて五メートルほど。手紙を読み終えた斗紀さんがふと顔を上げたのが見えた。無表情だ。笑顔ではなかった。でも怒ってる感じでもなかった。どうだったんだろう、読んでみて。
手にしていた手紙にもう一度視線を落とすと、元の通りに折りたたんで封筒にしまう。斗紀さんは足元に置いたバッグを持ち上げると、手紙を手にしたままこちらに歩いてきた。ブランコに座る私の前までくると、手紙をそっと差し出した。それを私は何も言わずに手に取った。
 ブランコから少し離れたところにバッグを置くと、斗紀さんは私の後ろ側に回った。そっと斗紀さんの手がブランコの鎖に触れる。少しブランコが揺れたかと思うと、今度は斗紀さんに後ろから抱きしめられた。
「ごめん」
「え?」
「彼に。あの手紙読んで、彼にちょっと嫉妬した」
「え?」
 振り向こうとしたけれど、斗紀さんの抱きしめる力が強すぎて振り向けなかった。
「少しだけ、こうさせて」
 斗紀さんは少し震えていた。後ろから私の髪に顔をうずめる斗紀さんの呼吸が早いのが分かった。
「あれ、最高のラブレターだよ。彼は幸せな人だね」
「斗紀さん?」
「僕にも、いつか書いてくれる?あれに負けないくらいのラブレター」
 振り向けないまま、私は大きく頷いた。
「斗紀さんがいたから書けたんだよ、あの手紙は。今度はきっと斗紀さんに書く。もっと照れて、斗紀さんが真っ赤になっちゃうくらいのやつ」
 たぶん、はっきりとはわからないけれど。斗紀さんは私を抱きしめながら泣いていた。
「今度は僕が、コトちゃんを幸せにするから。そう、彼に伝えといて。心の何処かで、小さくでもいいから」
「うん」
 斗紀さんは、温かい人だ。大丈夫、私これからもっともっと笑顔になれるよ、蓮。


 あれから一年ぐらい経つ頃に、私は斗紀さんからプロポーズを受けた。迷わずに返事をした。
「これからもよろしくお願いします」
 私の返事に、斗紀さんはすごい笑顔を返してくれた。それがまた、嬉しかった。斗紀さんは、私を笑顔にしてくれて、そして自分もすごく笑顔になる。私の一番の幸せだ。
結婚式は海外で、お互いの家族だけを呼んだ小さなものしか挙げなかった。国内では友人たちが開いてくれたパーティだけだった。そこに、思ってもいなかった人が現れた。悠くんだった。
「結婚おめでとう」
 たしか、大学を卒業してもう社会人になっているはずだ。まだ初々しいはずなのにスーツをしっかり着こなしていた。まるで蓮みたいだった。
「悠くん!来てくれたんだ、ありがとう」
「うん、しかたないでしょ、琴子さんは姉貴みたいなもんだから」
 そう言って照れた顔をした。
「ねーちゃんをよろしく」
 そう言って悠くんは、隣にいた斗紀さんに手を差し出した。
「もちろん。大切にする」
 斗紀さんはそう言って悠くんと固い握手をした。

 小さいパーティーだけど、結婚を機に会社を退社した私の同僚や上司たちがたくさん出席してくれていた。もちろん樹夜ちゃんもだ。悠くんはそこで人気だった。蓮の弟に会うのはお葬式以来、そんな人たちが多かったからだ。
「よかった、悠くん来てくれて」
「そうだね」
 そう言ってふたりでパーティーの雰囲気を楽しんでいた時、悠くんが会場の中を小走りに駆け寄ってきた。
「これ、忘れてた。兄貴から」
「え?」
 淡いブルーの封筒を悠くんが差し出した。封筒には何も書かれていない。
「読んで、今でなくてもいつでもいいよ。兄貴から」
 そう言われてゆっくりとその封筒を受け取ると、私は斗紀さんを見た。斗紀さんは小さく頷く。今、読めば?そう言われてるみたいだった。封筒の中には便せんが二枚。一枚は無地のまま。字を見て思った、もちろん蓮のはずはない。たぶんこれは、お母さんからだ。


 北川琴子 様

 このたびは、ご結婚おめでとうございます。
 報告を受けた時、驚いたのと同時に、とても嬉しかったです。
 幸せなんですね。
 ということはきっと、今とても笑顔なのでしょうね。
 安心しました。
 あなたがそうやって、幸せな笑顔でいられること。
 これからも、遠くからおふたりのことを見守っています。
 大丈夫、何があっても、おふたりで乗り越えられるように見守っています。
 いつまでもお幸せに。

 小湊蓮


 涙が止まるはずがなかった。一部の気付いた友人たちがざわついていた。こんなにも泣いている花嫁を、斗紀さんは優しく抱きしめた。
「大丈夫。いいよ、泣いていても」
 小さく私の耳元で斗紀さんがそう言った。
「でも、みんないるし」
「いいの。その涙は幸せの証拠でしょ?」
 そう言われてますます涙が止まらなくなった。斗紀さんが差し出してくれたハンカチはもうほぼずぶ濡れだった。
「ただね、あんまり泣くと、お化粧崩れちゃうよ?」
 悪戯っぽく、また耳元で斗紀さんがそう言う。
「もう!」
 冗談っぽく斗紀さんの肩を叩くと、私はそのまま斗紀さんの唇にキスをした。「おぉ~!」と友人たちから歓声があがる。少しずつ涙を拭きながら落ち着き始めて、みんなのほうをふたりで見ると、拍手されていた。幸せだった。うん、幸せだよ。

 蓮とは、一年しか一緒に居られなかった。時々ふと怖くなる。斗紀さんもある日突然いなくなるんじゃないかって。でも、最高の笑顔で斗紀さんは答える。
「大丈夫、僕はいなくならない、コトちゃんが僕の傍にいる限り」
 それでもやっぱり心配になって、過保護なくらい斗紀さんの食生活や生活バランスが気になる。そんな私を、よくできた奥さんだねって言ってくれる。蓮のことがあるから、不安になるから、過剰にそうしてしまうだけなのに。そう言うといつも、じゃあ蓮さんのおかげだね、彼に感謝しなきゃ。僕はきっと長生きできるよ。って。
 斗紀さんとの生活の中には、蓮を忘れなきゃいけない決まりはなくて。むしろ、斗紀さんが忘れさせてくれない。不思議な人だと時々思う。すべてを包み込んでくれる。そしてまた泣きそうになると、涙が止まるまで泣いていいよ、って言う。私をすべて肯定してくれる。そんななのに、小学校では、女心のわからない先生って未だに女生徒たちに叱られるらしい。初めて逢ったときから、ずっと変わらない。そんな斗紀さんのことが今は心から好き。

 とにかく、楽しいよ、毎日。幸せだよ、毎日。これからも、ずっと。

あなたを忘れるための条件

重複掲載 : 魔法のiらんど

あなたを忘れるための条件

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-03-30

Copyrighted
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Copyrighted
  1. ■あなたを忘れるための条件
  2. ■恋をした
  3. ■涙が止まるまでの涙。