阿蘇の風

微かな風が吹くほどに希望の風を感じてください

おばあちゃんが云っていた。
夜に考えことは、よくないよ。
「何か。」行動を起こすときは早朝だよ。
お天道さまがお応援してくださるよ。

     阿蘇の風

私は、おばあちゃんの言葉と裏腹(うらはら)に・・、
梅田発。22時10分熊本行きの夜行バスに乗っていた。
窓枠に掛かったカーテンの端(はし)から、都会の観(かん)雑(ざつ)が断面的に通り過ぎて行った。
17年間のさまざまな出来事が蘇ってきた。
正確に言えば12年間、5歳までの記憶はあまりない。
私が5歳のとき、母が亡くなり。
児童相談所の人に連れられ、祖父母の住む
大阪にやって来た。
家の中に入ると、そこには厳しい顔をした
祖父と、今にも泣きそうな祖母が座っていた。
児童相談所の人に、「由樹ちゃん、ちょっとお庭で遊んでいて、ちょうだい」
私は、長時間・・・庭に佇んでいた。
時折、祖父母の視線を感じながら、
すると、祖母が近づいてきて、「もう大丈夫だからね」
私は祖母に力いっぱい抱きしめられていた。そうっと顔を覗くと、祖母の目から涙がこぼれ落ちていた。
私は祖母に抱きしめられたまま・・祖父の方を見ていた。
祖父の厳しい顔は消えていた。
メガネを外し、精いっぱいの笑顔で、何度も頷き、真っ赤な目が鮮明に、私の記憶に残っている。
祖父は商店街の一廓で、小さな時計店を営んでいた。
決して裕福とは言えないが、そこには家庭の温もりがあり。
私は徐々に自分を表現できるようになった。
祖父は、よく笑いながら、私に話しかけてくれていた。
「むかしは商店街も賑わい、おじいちゃんの店にも、たくさんの人が来てくれていた。高価な時計もあったが、近頃では買ってくれる人もいなくなり。今では時計の修理か、電池の交換だけになったよ。安い時計が簡単に買えてしまう時代になった。しかし、欲をかいちゃいけないねぇ。おじいちゃんは時計の音が好きなんだよ。ゼンマイを巻くとカチカチと音がする。むかしはボ~ンボ~ンと鳴る時計もあったがね。時計の音で眠れないという人もいるがね」
おじいちゃんは微笑み、「由樹も好きなことを見つけるんだよ」
私は「ハイ」と返事をし、修理をするおじいちゃんの指先を見つめていた。
おばあちゃんは料理が得意で教えてくれた。
私は小4になる頃には、ほとんどの物が作れるようになっていたが・・?
今。思えば、あれは料理とはいえない気がする。
いつも何かが足りない。おばあちゃんに、
ちょっと、砂糖や醤油を足してもらい完成
する。
「これは、ばあさんの味だ」
おじいちゃんは、由樹は料理が上手だと誉めてくれていた。
二人が喜んでくれると、私は、おばあちゃんのエプロンを付け、おばあちゃんと一緒に、毎日のように台所に立っていた。
おばあちゃんは勉強も見てくれ、広告の裏を使い、漢字の書き取りや算数の問題を作ってくれていた。
「私も、がんばって小学生までは、何とか教えたいけど、中学生になったら無理だから、あとは由樹が自分でがんばって勉強しなさい」と、言っていた。
そんな中、小6のときだった。
おじいちゃんが突然。心筋梗塞で亡くなった。
初めて3人で初詣をした年。
おじいちゃんは新年の挨拶を終えると、
「初詣を兼ねて、ぜんざいを食べに京都へ
行くか?美味しい店がある」と言い出した。
私が「行きたい」と答えると、
おばあちゃんは、おじいさんどうしたんだろうねぇ?
「めずらしいねぇ?」と笑い。
「敬子と美子が小さい頃、おじいさんが、同じことを言って、出かけたことがあるよ」と話してくれた。
初詣は平安神宮、八坂神社、清水寺と廻った。おじいちゃんが3ヶ所お参りすると、
ご利益があると言う。
多くの初詣の人。その中で私は自然と家族
連れに目が留まる。
私も二人の手をしっかり握った。
迷子にならないようにと言うと、
おじいちゃんが、この年で誰かに必要とされることは、幸せなことだと笑っている。
私もこの手がいつまでも離れないよう願っていた。
初詣から二週間後のことだった。
学校から家に帰る途中。
その日は、雪がちらちらと降っていた。
私は雪を掌で受けながら、家に向かっていた。
路地を曲がる所で、一つ先の道路に目を向けていた。
そのとき病院の寝台車が通り過ぎた。
その中に、叔母の顔がはっきりと映る。
その瞬間、どう歩いて帰ったのか記憶にない。
ただ、気が付くと玄関先に立っていた。
誰かに由樹ちゃんと声をかけられ、
自分に返った。
おじいちゃんが、死んでしまったことだけは
わかっていたが、(泣いたのか?)(泣かなかったのか?)今も思い出すことが出来ない。
それから、おばあちゃんとの二人暮らしが
始まった。
時計店は閉まり。閉ざされたシャッターを、
私は眺めていた。
そんな私におばあちゃんは、「由樹、大丈夫だからね。何も心配することはないんだよ。
まあ、少しの貯えと、年金で何とか二人で暮らしていけるからね」
おじいちゃんが亡くなって、5ヵ月が過ぎた頃。おばあちゃんは仏壇の前に座り。
「商売をしょうと思うんだよ。由樹も協力してほしい・・」
突然のおばあちゃんの言葉に驚き、
「商売?」
おばあちゃんはきらきらした目で頷き、
私は少し安心した。
正直、おばあちゃんが心配でたまらなかった。おじいちゃんが亡くなってから、
おばあちゃんはあまり寝ていない様子だった。
おばあちゃんの久しぶりの元気な姿に、
「何をするの?」
「クリーニングの受け渡しと宅急便の預かりだよ。おじいさんにも相談したよ。これなら二人で出来ると思うけど・・どう思う?」
おばあちゃんはもう決めている様子だった。「すごくいいと思うよ」
私が答えると、おばあちゃんはすごく嬉しそうだった。
店を改造してオープン。
毎日忙しい日々が続いた。
おばあちゃんと話す機会も増え、
母の話しもするようになった。
おじいちゃんが生きている頃は、母の話しを訊くことは出来なかったが、母は看護師をしていた。
おばあちゃんの話しによると、母が23歳までは一緒に暮らしていたが、夜勤もあり、
病院の近くの寮に入った。
美子おばさんは、「お姉さん好きな人が出来たから、家を出たんじゃないの、お父さんうるさいからね」と言っていたそうで。

それから2年ほどして、母は東京の病院に
勤めたいと言い出した。
祖父母はすごく反対したが、それでも母は二人の反対を押し切り。東京へ行ってしまった。
母は美子おばさんとの二人姉妹で、
「おじいさんの希望は、何れ嫁ぐことはあっても、出来ることなら敬子に近くにいてほしい。敬子が東京へ行ったときは、おじいさんが、ちょっと可哀想だったよ」
おばあちゃんが辛そうな顔で言った。

それから半年ほどが過ぎて、美子おばさんが東京へ訪ねてわかったことだけど・・・、
「お姉さんのお腹を見てびっくり、子供を産むために、お姉さんは東京へ行ったんだ」
相手のことを聞いたけど、なかなか話してくれなかったそうで。
ただ、母は「結婚するつもりだったけど相手が死んでしまったから、どうしょうもないのよ。この子を産んだら、お父さん、お母さんに会いに行くから、生まれるまで、二人には何も話さないで、私の口から話したいの」
美子おばさんは、背を向けたまま話す母に、何も言えなかったそうだ。
母が私を連れて、大阪に帰った日。
私には想像も出来ないことが・・起こったのだろう。
母は新聞の一面を祖父母に差し出し、
「この記事の人が、この子の父親です」
交通事故の死亡記事だった。
「大型トラックが対向車線をはみ出し、乗用車に激突。乗用車を運転していた。山口智也さん30歳は即死」
祖父母は母の姿を見て、このまま大阪で暮らすよう望んだが、母は私を連れて東京へ帰って行った。
その後、母からの連絡は途絶えがちになった。
おじいさんも、敬子のことは口にしなかった。それぞれの思いはあったと思うが、うまく伝えることが出来なかったんだろうと、
おばあちゃんが話す。
おばあちゃんは、美子おばさんに連絡を取るように頼んだそうで。
おばあちゃんは少し躊躇(ためら)ったように、美子おばさんが、一度おかしいなことを言ったことがあり、気になっていると話した。
「ちょっと、おかしいのよね・・?お姉さんの話し。相手の人、新聞の人かしら・・?」おじいさんが納得しているから変なことは言わないのと言ったそうだが、「由樹、お父さんのことも知りたいかい?おばあちゃんは、殆んど聞いていないから、美子おばさんに一度訊ねて見るかい?」
「いいの・・お父さんのことは・・」
あのときは、お父さんは死んでしまって、
私の中に存在しない考えが、母から受け繋がれていたように思う。
ただ、おばあちゃんが消えてしまわないように願っていた。
17歳の誕生日のことだった。
夕食に、おばあちゃんの手作りのコロッケをリクエストした。市販のコロッケと一味違う、
おばあちゃんのコロッケは、大きくって・・、
外がサクサクしていて、なかのじゃがいもがコロコロ、材料は同じなのに、すごく美味しい。
コロッケを作っているときに、事件は起きてしまった。
揚げ物の巻いた紙に火が付き、油に引火し、
天井が大きく焦げてしまった。
おばあちゃんが必死に消した様子が、一目でわかった。
台所のある部屋は、まるで水害に見舞われたようだった。
部屋全体が水浸しでたくさんの物が散乱していた。
火災になることはなかったが、おばあちゃんは落ち込み。
「何てことをしてしまったんだろう・・・。
世間様に申し訳ない」と、言い続けるばかり。
「おばあちゃん・・大丈夫だよ。一人で未然に防いだんじゃないの」
そんな言葉も、おばあちゃんの耳には届かず、
見る見る内に元気がなくなっていった。
それから3週間が過ぎた頃。おばあちゃんが突然、養護老人ホームに入所すると言い出した。
私は夕食の片付けをしていた。
食器を洗う手が止まった。
慌てておばあちゃんの傍に駆け寄り、
「おばあちゃん、どうしたの・・?」
私は泣きそうになるのを堪え訊いた。
そんな私に、おばあちゃんは冷静に話しかけた。
「私の人生は終わったようなものだけど・・、由樹の人生はこれからだからね。由樹の好きに生きなさい」真剣な顔で、今まで見たことのない表情だった。
「どうして・・おばあちゃん、そんなことを言うの?」と、私は口にはしたが、
おばあちゃんの言葉は、けっして冷たいものではなかった。おばあちゃんは、そうっと、私の手に付いた泡を拭きながら・・・、
「違うんだよ。私はいつまでも由樹を見守っているからね」
おばあちゃんの決心は変わらなかった。
施設に入所する日、美子おばさんが訪ねて来た。美子おばさんは、いつもと違った様子で、おばあちゃんと荷物の整理をしていた。
「美子のせいじゃないからね。私が決めたことだから・・気にするんじゃないよ」
ヒソヒソと話し声が聞こえた。私は気づかれないように庭に出ていた。
おばあちゃんを施設に送ったあと、美子おばさんが話してくれた。
「由樹ちゃん、ごめんなさい。お母さんが入所を決めたのは、私の一言が原因なの・・」
美子おばさんは泣いていた。
美子おばさんは、火災の件を電話で聞き。
「お母さん、ボケちゃったの・・?」と、
つい怒ったそうで。
表情も見えないのに・・と嘆く、
美子おばさんを私は攻めることは出来なかった。
おばあちゃんは店を閉めても、十分生活が
出来るようにして置いてくれていた。
おばあちゃんが施設に入所してからは、私は学校が終わると、ほとんどの時間を施設で過ごすようになった。
ある日。おばあちゃんが言った。
「自分らしく精いっぱい生きることが、人生なんだよ。こうして、お世話になっているが、『生きる』と『生き長らえる』のは違うんだよ」
入所者の人たちのさびしそうな目。
あきらめた様子に、おばあちゃんの言葉の
意味が、何となく理解できた。
「おばあちゃん、諦めないで・・また一緒に暮らそう」
施設に入所して半年で、おばあちゃんは亡く
なった。
風邪を拗らせ肺炎。おばあちゃんは、まるで望んだかのように旅立って逝った。
美子おばさんは死亡診断書を見て・・・、
「ほとんどの病名は、心筋梗塞と記載されているのね」
私はまた、一人ぼっちになったけど・・、
おばあちゃんは、これで幸せだったんだろう
か?
美子おばさんに家に来るよう言われたが、
私はおばあちゃんと暮らした。この家を離れることが出来なかった。
時間が経つに連れ、さびしさが込み上げて
くる。台所には、おばあちゃんのエプロンが、掛かったままだった。
私は膝を抱え、おじいちゃんの柱時計の音を聞いた。
「由樹。大丈夫・・・大丈夫だよ・・」
そう言っている気がした。
おばあちゃんの49日の法要も過ぎ。
大学受験も間近に迫って来ていた。
大学に進むことを、おばあちゃんも応援してくれていた。学校の先生の勧めもあったが、
おばあちゃんが施設に入所してから、
私の中で、何かが・・・変わって行った。
私はもう一度おばあちゃんと店を再開し、
何か資格を取る。
そんなことを思っていたけど、叶うことは、なかった。
そんな中。美子おばさんが、大切な話しがあると訪ねて来た。
心配した様子だったが、私は素直にあまえることが出来ないでいた。
美子おばさんは、ご主人と13歳になる聡君との3人暮らしだった。
美子おばさんは仏壇に手を合わせると、
話し始めた。
「由樹ちゃん、大学進学に関しては、何も心配することはないのよ。おばあちゃんが残してくれたもので、何とかなるからね」
話しは続いた。
「由樹ちゃん、この家を買って、お店を再開したいと言ってくれる人がいるの、私の考えだけど、家を売って私たちと一緒に暮らしてほしいの?」
私はこのままではいられないことはわかっていた。私は少し考え、「高校を卒業するまで、このままじゃいけない?」
美子おばさんもしばらく考えた様子で、
「待ってもらえるよう話して見るわね」
それを聞き、台所に向かい、お茶を入れた。美子おばさんはやさしい人だと思うけど、
今まで、私から話すことなく過ぎて来た。
紅茶を持っていくと、そこにはクッキーの缶が置かれていた。美子おばさんはクッキーの缶を開けながら、「これ、お土産なの・私ね。由樹ちゃんに話すのに、どう話したらいいのか?悩んだのよ」
その言葉で私は、美子おばさんに溶け込む
ことが出来たように思う。
「ちょっと、訊いてもいいですか?」
「なぁ~に?」
美子おばさんの表情は変わり。予測していたかのように、「お父さんのこと?」私が頷くと、「私にも、はっきりした事はわからないのよ。ただ。あの頃、お姉さん熊本へ何度か出かけていたようなの。一度お土産をもらったことがあったの。お姉さん幸せそうだったから、好きな人でも出来たの・・?と訊ねると、(そんなんじゃないのよ)と言っていたけど、ちょっと、待っていて・・ちょうだい」
美子おばさんは居間から箱を取り出し、
「由樹ちゃん、お母さんの遺品よ」
その中から、新聞の切り抜きと、一枚の写真を見せた。
「お姉さん新聞の人が、由樹ちゃんの父親だって言ったけど・・・写真の日付8月15日。新聞の日付と同じでしょう」
「この写真は?」
「インターネットで調べてわかったの、熊本県の山鹿灯籠祭ですって、由樹ちゃん写真の裏を見てごらん」そこにはペンで、熊本市¦西野記念病院と書かれていた。
「ほかに写真は?」
「由樹ちゃん以外の写真はなかったの。多分お姉さんが処分したんでしょうね。この写真は、お姉さんの部屋を片付けに、東京へ行ったときに見つけたのよ。おばあちゃんは由樹ちゃんに見せるのは反対だったのに、処分しなかったのね。由樹ちゃん、人はよく『縁がある』『縁がない』と、言うでしょう。そのどちらかなのよ。一言で片づけてはいけないけどね。じゃあ、由樹ちゃん、困ったときは、すぐに連絡してね」
美子おばさんが帰った後。
私はしばらくぼんやりとした状態だった。
何気なくテレビを付けていた。
そこには、画面いっぱいに阿蘇の高原が
広がっていた。
テレビを観た後。私はパソコンで熊本市を
検索していた。
その後、もう一度写真を取り出し見ていた。
進路の見えない私には、この写真が唯一の
キーワードのような気がした。

バスは高速道路を降り、熊本市内に入っていた。車窓から阿蘇の山並を望むことが出来た。車内ではアナウンスが聞こえ、
「長時間お疲れ様でした。まもなく熊本バスターミナルに到着いたします」
私は・・何日?も、バスの中にいたような
感じを覚え、バスを降りた。
ターミナルで顔を洗い、外に出ると、
あたりは朝霧が立ち込めていた。
町並みは人も車も少なく静けさにみちていた。空は青く心も洗われるようだった。
しかし、突然・・不安になっていた。
私は数日後には18歳になるけど・・・、
美子おばさんや近隣の人に、由樹ちゃんは、
しっかりしていると言われるけど本当は違うんじゃないかなぁ?
早朝で道を尋ねる人もなく。踏み出すことが出来ないでいた。
周囲を見回し、おかしなネーミングに目が留まる。(喫茶モグモグ)私は肩まで伸びた髪を結び、気合いを入れて歩き出した。
喫茶モグモグのドアには、開店中の札が下がっていた。
ドアを開けると、「いらっしゃいませ」の声と同時に店内に入っていた。
そこには60歳代の夫婦らしき人が、
カウンターから、「好きな席にどうぞ」と、声をかけてきた。
男性の客が一人隅の方に眠ったように深く座っていた。
私は窓際の席に座り。ホットサンド&カフェ・オーレを注文した。
私は最初に、写真に書かれていた病院を尋ねることに決めていた。
父のことを知りたいと思う気持ちは確かに
あるが、母の思いが写真に秘められている
ような気がしてならなかった。
お母さんは何を隠したかったの?
そして、何を伝えたかったの・・?
そんな思いで熊本まで来てしまったが、
私は何も知ることが出来なくっても、
それはそれでいいような気持ちになっていた。私が初めて一人で考え、行動できたことに
満足しょう。そんなことを思っていた。
お店の人は気を遣った様子で、有線の音楽を
変えていた。
香ばしい匂いと共にカフェ・オーレ&ホットサンドが運ばれてきた。
私は西野記念病院の場所を尋ねてみた。
パソコンで検索し、病院が市内にあることだけはわかっていた。
「西野記念病院ねぇ・・何処だったか?ちょっと、待っとって・・」
カウンターの中から、二人の会話が聞こえてくる。
「お客さん、西野記念病院を尋ねてあるけど、知っとるねぇ」
「聞いたことはあるけどねぇ」
二人は困った様子だった。
そのとき隅の方から、「西野記念病院は熊本城のすぐ近くにある」
その声にお店の人は、「じゃあ、路面電車に乗って行けばよかよ。お客さんよかったねぇ」と、にこやかな顔に私はホッとした。
隅の方を覗いてみると、客の男性は体を動かすこともなく、目を閉じたままだった。
朝食を済ませ、お礼を言い、店を出た。
町はゆっくり動き出していた。
路面電車は街の中心部を走り。
さまざまな光景に私の緊張も解れ、
ちょっぴり旅行気分に浸っていた。
電車を降りると、目の前に熊本城が聳え立っている。駐車場も満車の看板が出ていた。
土産屋も開き観光地を思わせた。
時間は9時を指していた。
熊本城を背に10分ほど歩くと、
西野記念病院にたどり着くことができた。
自動ドアを入ると、患者さんでいっぱい
だった。受付を通り過ぎると各科が並び、
総合病院に等しい規模の病院だった。
その中央のソファーに座り。私の胸は、ドキドキしていた。
診察する訳でもなく。何をしているのか?
やはり不安でいっぱいになっていた。
慌ただしく動き看護師さんは、患者さんの
名前を呼んでいる。
時折、白衣を着たドクターらしき人が通り
過ぎる。近くに座った患者さんが、次から次と診察を終え帰って行く。
患者さんは次から次と増えるが、時間が経つに連れ、看護師さんが不思議な顔をして私を見ていた。
私は慌てて席を立ち、南側入口に向かった。
病棟への通路のようだった。
そこには広々とした庭があり。
幾つもの花壇とベンチがあった。
私は自動販売機でジュースを買い、
その一廓に座った。
秋の風が、ほてった頬を冷やしてくれた。
徐々に太陽の光が差し込み、
花壇の花を照らしていた。
お母さんも早期に治療をしていたら、助かっていたんだろうか?
点滴を片手に懸命に立ち向かう患者さんの姿に母への思いが募って(つの)いった。
母は看護師だったのに何故?と思ってしまう。
病気に気が付いていたようだが、診察を受けようとしなかった。
勤め先で具合が悪くなり。診察した結果。
子宮頸癌と診断されたが、同僚の看護師さんの話しによると、母は驚かなかったようで、
私はおばあちゃんに訊いたことがある。
「お母さんは病院に入院していたら、死ななかったのかなぁ?」
おばあちゃんは首を振り、
「由樹は自分がいたからだと、思っているかも知れないけど?それは違うよ。お母さんの寿命だったんだよ。由樹、こっちにおいで・・・」
おばあちゃんは、やさしく抱きしめ、
「由樹は、お母さんの分も長生きして、幸せにならないといけないよ」そう言ってくれた。
日差しが背中を温めてくれている。
缶ジュースも程よい冷たさになっていた。
缶ジュースを開け、一口飲んだところで、
「お嬢ちゃん、お見舞いですか?」と
車椅子に乗った。おじいさんに声をかけられ、「ハイ」と答えていた。
おじいさんは、話し相手を探しているように立ち去る様子でもなく。
私は缶ジュースを片手に、「祖母に頼まれて訪ねて来たんですけど、退院されたようで」
おじいさんは嬉しそうに、「そうでしたか、私もそろそろ退院できるみたいですけどね。
脳梗塞で倒れたら麻痺が残り、こんな姿になりましたよ。半分は死にましたが半分は生きているからね。口が達者だから、息子からは、半分以上は生きていると言われますよ」
アハッハッと笑いながら話すおじいさんに、私は笑顔で答えていた。
おじいさんは、気をよくした様子で、話しを続けた。「大きな病院は、設備はいいが先生に気を遣う」
「どうしてですか?」
「担当医がよく代わって2年も経たない間に○○先生です。この年になると、名前を覚えるのが大変だよ。主治医は一応いるがねぇ。
ほとんど担当医が診てくれて、次から次と、若い先生がやって来る。3年もいたら、いい方だね」
私はおじいさんの話しを聞き、母はドクターと付き合っていたのではないのか?そんなことを思ってしまった。
私はすっかり、おじいさんの話し相手になっていた。
そんな中。おじいさんの、後ろから一人の
男性が、にこやかに近づいて来る。
「じいちゃん、何。ナンパしているんだよ」「オ。ヒロか」
「洗濯物・・部屋に置いて来たから」
「わかった。可愛いお嬢ちゃんだろう」
おじいさんは嬉しそうに、「息子だよ」
私は軽く頭を下げた。
そして、おじいさんに声をかけた。
「早く退院してくださいね」
「ありがとうね。お嬢ちゃん」
私の頭の中で、お嬢ちゃんの言葉に?マークが飛んでいた。
自動販売機の前で残りのジュースを飲み、
外来に戻った。
時間を確認すると、私は病院に5時間ほど
いることに気づいた。
歩き出した私の肩に手が触れる。
振り返ると看護師さんだった。
看護師さんはにこやかな顔をし、
「先ほど、ずいぶん待っていたようだけど、どうかしました?」
やさしい声かけに、私は戸惑い咄嗟に「検査日を間違えたようです」と、
返してしまったが、そこには違和感があった。
これ以上、訊ねられても困る。
そんな思いでいっぱいだった。
看護師さんは少し不思議そうな顔をし、
「それは大変でしたね」
そんなとき、「帰るの?」と、親しげに声をかけられた。
その人は、先ほどのおじいさんの息子さんだった。
看護師さんは、「お大事にね」と言って去って行った。私はホッとしながら、
前に立つ人の顔を見ていた。
「先は¦ありがとう。じいちゃんすごく喜んでいたよ。可愛い子だったと何度も言っていたよ」
「いいえ。私も祖父を思い出しました」
玄関に近づくと、「何処まで帰るの?」
その人の言葉に私は考え込んでしまった。
すると、「ごめん。俺がナンパしている見たいだなぁ」
その人は笑いながら、「違う・違うからね」私はまだ考えたままだった。
私の様子にその人は、「大丈夫・・?」と声をかけ、慌てて名刺を出し、
「決して危ない人間ではありません」と付け加え名刺を渡した。
私は笑いを堪え、名刺に目を通した。
「大津農協組合・中嶋博」と記載されていた。
「中嶋ヒロシさん」と、呟くと。
「違うよ。さっき、じいちゃんが言っていただろう。ヒロって水島ヒロの(ヒロ)だよ」
一人で盛り上がっている姿が可笑しく、
この人は、関西人に近い気がした。
「君は地元の人じゃないね。何処から来たの・・?」やさしい眼差しでその人は言った。つい私は、「大阪です」と、答えていた。
「エ~ェ大阪か」 その人は笑いながら、
「家出じゃないよねぇ?大きな荷物が気になってさぁ」
私はバックを後ろに回し、ちょっと怒った顔をして見せた。
「違いますけど・・」
「そうだよねぇ。家出で病院な訳ないかぁ」その人は笑い、私は少し落ち込んだ。
それでも、その人は平気な顔をして、
「これから何処に行くの?」と訪ねてきた。
私はテレビで観た。阿蘇の高原を思い出していた。
「阿蘇山に行ってみたいんです」
すると、その人は、「う~ん」とため息をつくように。
「阿蘇山は車じゃないと不便だよ。バスもあるけどね。本数が少ないし、今からじゃあ、遅いと思うよ。阿蘇は広いし、すぐ日が沈む。今日は、何処に泊まるの?」
私はその言葉に警戒したように歩き出した。
その人は少し困った顔し「ちょっと、待って・・」と、近寄り。
「どこに行くの・・?」
まるで幼い子に言うように訊いてくる。
私は小さな声で、「高森のペンション村に・・」と答えていた。
「高森だったら大津の隣の町だよ。車で送るけど乗って行かない?これも小さな縁だと思うから・・・」
私は心の中で呟いていた。『縁』そして、
その人の顔をマジマジと見ていた。
「大丈夫だよ」その人は笑いながら言った。
私は送ってもらうことにした。
車に乗ると、その人は、「名前を教えてくれる?話すのに不便だからね」
こう言う場合。名前を名乗るのか?と、考えたが、私の手には、その人の名刺が、しっかり握られていた。
「ごめんなさい・・中澤由樹と言います」
「由樹ちゃんかぁ。僕はヒロさんでいいよ。由樹ちゃんは、阿蘇は初めて?」
頷くと、ヒロさんは阿蘇について話し始めた。

「阿蘇は五缶カルデラを中心とした。東西18㎞南西に24㎞全周128㎞。その大きさは世界最大級で、地元の自慢なんだよ。久住は大分県だけどね。城山・かぶと山・俵山それぞれに見所があってね。広い高原がたくさんあるよ。
大自然を思いっきり感じてほしいなぁ」
「ヒロさんは阿蘇が大好きなんですね」
「僕の夢は地元で就職して、この土地で暮らすことだったからなぁ。ごめん・・一人で、喋ってしまったね。由樹ちゃんは、いつまで熊本にいるの?誰かに逢いに来たんだろう?
じいちゃんに聞いたよ」
「今回は・・いいんです」
車窓の風景と共に、さまざまな想いが通り
過ぎているようだった。
ヒロさんは、また困った顔し、
「余計なことを言っちまったかなぁ」と、
後悔した様子だった。
車は線路沿いを走っていた。
田園の中に、特徴のある駅がつづく。
訊ねると、ヒロさんは嬉しそうに、
「由樹ちゃん、気づいた」
立野から高森までの駅のデザインは、一般公募によるものだと説明してくれた。
その後。オルゴール・アレンジの、となりのトトロのサウンドが聞こえてきた。
私もうすぐ18歳なのに・・?ヒロさんの方に目を向けると、ヒロさんは子供の物だと笑っていた。高森に近づくに連れ、猫バスやトトロが現れる気がして森を見ていた。
「由樹ちゃん、ペンションの予約は済んでいるの?」
「どんぐりは落ちているかしら?」
ヒロさんと同時に話しかけていた。
ヒロさんはプッと笑い、「どんぐりは沢山あるよ」
私も慌てて、「まだですけど?」すっかり警戒心は消えていた。
「この季節だと、ペンションも空いているけどね。僕にちょっと任せないか?取って置きの場所があるんだ。一組しか泊まれないけど、高森駅に行ったらわかるんだ。もし空いていなければ、ペンション村に送るよ。どうかなぁ?」
私は少し迷ったが、ヒロさんに任せることにした。ヒロさんは、さらにテンションが高くなり。私はまた少し不安になった。
「由樹ちゃん、高森駅に着いたら、ちょっと、車の中で待っていてくれないか?」
到着すると、ヒロさんは駅の中に入って行った。「モモちゃん・・モモちゃん・・」と、ヒロさんの声が小さな駅から漏れて聞こえる。誰かを探している様子だった。
「居た・・居た・・」
「ヒロさん、大きな声で何かあったのかい?これから道の駅に寄って帰るところだよ・・。
もうすぐ嫁が迎えに来るころだろう?」
「ちょっと頼みがあってさぁ。今日、しのぶさんのところ空いているかなぁ?」
「朝一番に行ったときには、今日は、予約は入っていないと言っていたけどね」
「出来れば『あの子』を紹介してほしいんだけど・・」
ヒロさんの話しが丸聞こえに、私は俯くしかなかった。
「じいちゃんの病院で出会った。大阪の子で、名前は中澤由樹ちゃん・・」
「わかったよ。しのぶさんに、連絡してみるよ」
二人の声は収まり。私は突然のヒロさんの
行動に唖然としていた。
しばらくすると、ヒロさんと小柄なおばあさんが微笑みながら近づいて来る。
私は助手席に座ったままだった。
慌てて車の窓を開ける。挨拶する間もなく、おばあさんは、「よかったね。しのぶさんの所だったら安心だよ」
さらに微笑みは増し「ラッキーだったねぇ」
私は漠然と頭を下げていた。
「モモちゃん、ありがとう」と、
ヒロさんは車を走らせる。
私の戸惑った様子にヒロさんは、「心配しなくっていいよ。すてきな宿泊先に案内するよ。由樹ちゃんも、きっと気に入ると思うよ・・。お節介だと思うだろうが、僕にも12歳の娘がいるからね。ちょっと心配になってさぁ」
ヒロさんは少し照れ笑いをしていた。
「ヒロさん、お仕事は?」と訊ねると、
「大丈夫だよ。今日は、じいちゃんの病院へ行く許可をもらっているから、ちょっと顔を出して帰るだけさぁ」
高森は山々に囲まれた小さな町だった。
車は町を抜け、さらに阿蘇の山を目指し
山坂を走る。
高森駅から10分ほどで到着した。
そこは広大な緑の草原だった。
「ここは月廻り公園と言ってね。阿蘇の絶景ポイントの場所なんだよ。視界が果てしなく広がり、根子岳を間近に感じることが出来るんだ」
私は大自然の美しさに魅了されていた。
「僕の説明は終わりにして、あの建物が・・イーゼルだよ」
公園の敷地内にイーゼルは建っていた。
秋風が吹く度に草花がカサカサと揺れている。アプローチを進むと、傍らにブナの木が
紅葉し黄金色に輝き、自然の草もそのままに紅葉し、その中にエゾリンドウ・キリンソウの花が色を添え、自然のままの庭に。
私は、感動するばかりだった。
「ヒロさん、すてきな庭ですね」
「いいだろう」
さらに進み、私は小さな花に足を止め。
「ウメバチソウ」と呟く声に、
ヒロさんは、「由樹ちゃん・・詳しいね・・。イーゼルの庭には、たくさんの高山植物が花を咲かせるんだよ」
「自生しているんですか?」
「ある程度はね。山は山の花が似合う・・。オーナーの拘りが感じられる庭なんだよ」
「ヒロさん、宿泊費聞いていないけど?」
「大丈夫だよ。タダとは言わないが、きっと安いよ」
無責任な発言に不安になった。
「ワンワン」犬の吠える声が聞こえる。
さらに、「林太郎・お客様」女性の声がする。
ヒロさんは軽く手を挙げ、「しのぶさん・・お客様をお連れしました」
「ようこそ・いらしゃい」
弾むような声に、私は少し緊張していた。
玄関先には30歳代と思われる凛とした。
美しい人の姿があった。
ヒロさんは親しげに私を紹介してくれた。
私は少し戸惑いながら、「中澤由樹です」と、
名乗った。
その人は微笑みながら、「由樹ちゃんで・・いいかしら」
その微笑みにほっとし、「ハイ」と笑顔で答えていた。
ヒロさんは、そんな私に安心した様子だった。「ヒロさん、お茶はいかが・・?」
「僕は、仕事場に戻りますよ。しのぶさん、今日は、ありがとう。じゃ~僕はこれで・・、由樹ちゃん元気で・・」短時間の出会いなのに、熱い物が込み上げるのを感じた。
「ヒロさん、ありがとう」
私は深々と頭を下げた。ヒロさんはピースをしながら帰って行った。
しのぶさんに案内され。店内に入ると、
室内は広い空間で、すべて同一の色に覆われ、天井は高く何一つ装飾品はなく。
そこにはあるのはアンティークなテーブルに椅子。何故か心地よい雰囲気を感じさせてくれた。
私は荷物を片手に立ち尽くしていた。
しのぶさんは椅子を引いてくれ、
「お茶を入れましょうね」
キッチンに向かう姿が、少し母に似ている気がした。
椅子に座ると、全身の力が抜けて行くのが
わかった。
静けさの中に、風の音だけが囁いている。
まるで夢の中に迷い込んでいる錯覚に陥っていた。
しのぶさんの声に、私の閉じかけた目が開いた。しのぶさんは微笑みながら、
「この椅子・・眠りを誘うでしょう」
私は思わず椅子を確認していた。
「この椅子はね。チャーチ・チェアと言ってね。背に聖書を入れるそうなの。由樹ちゃん、今日は疲れた様子ね。ココナッツミルクを飲んで、お部屋に案内しましょうね」
そのとき、犬の林太郎が階段を昇って行く
のが見えた。
しのぶさんは、私の視線の先を見ながら、
「林太郎は状況が把握できるのよ。お客様が見えると状況にあった行動をするの。不思議な犬でしょう?」
しのぶさんの眼差しがやさしく感じられた。
「ディナーの準備が出来たら、お呼びします
からね。ゆっくり寛いでいてね」
私は住所と名前を記載し、部屋の鍵を受け取った。鍵に付いたキーホルダーに、『私の部屋』と可愛くプリントされていた。
部屋は二階にあった。ドアを開け、
踏み出した瞬間。私は驚き周囲を見回した。
広い室内には大きなベッド、ソファーに
テーブル、バス、トイレ、ミニキッチン、
テラス、まるで高級ワンルームマンション
のようだった。私は夢への延長の階段を、
昇って来てしまった?
淡いグリーンの壁は、そのまま草原の中に、佇んでいるようだった。
ソファーに凭れると、自然に眠ってしまっていた。
「プルプル」電話の音―ぼんやり目を擦り
受話器を取ると、「由樹ちゃん、お食事にしましょう」しのぶさんの声が、まるでお母さんのようだった。
髪を整えながら、昨日から着た服を見て、
考えていた。食事をするには相応しくない?
皺(しわ)の付いた服を脱ぎ着替えをし。
降りて行った。
足が進むに連れ暗く感じられた。
照明は控えられ、テーブルの中央の席に
キャンドルが光る。
しのぶさんの演出に戸惑いながら
席に着いた。しのぶさんも着替えをし、
料理人に相応しい姿だった。
手際よく料理が運ばれてくる。
「由樹ちゃん、先ずはオードブルね。チーズには蜂蜜をかけて、トマトにはレモンを絞って召し上がって見て」
不思議な組み合わせに、恐る恐る口に運んだ。チーズは濃厚なキャラメルのような味がした。
トマトはレモンの味はなくフレッシュで、
いっそう甘く感じられた。
「とっても、美味しい・・」
その言葉に、しのぶさんは笑顔で、「17歳の目覚めって、ところかしら?」
しのぶさんの言い方に私の緊張も解れた。
イタリアンコロッケには(ピクルスとアンチョビーを混ぜ合わせたもの)初めて口にする味だった。
おばあちゃんのコロッケも美味しかったが、しのぶさんのコロッケも、新鮮で心のこもった味がした。
その後も本格的な料理が運ばれて来た。
料理を口にしながら、私は満たされた時間の中にいた。
「由樹ちゃん、料理を作るのは好き?」
しのぶさんの突然な問いかけに、涙ぐんでしまいそうになった。
「小さい頃から、おばあちゃんと一緒に料理を作っていました」
しのぶさんは、それ以上、何も訊かなかった。「デザートをお持ちしましょうね」
しのぶさんは地元の人には見えなかった。
どうして、この場所に住んでいるのか?
知りたい気持ちになっていた。
訊ねると、しのぶさんは戸惑った様子で・・。
「祖父の神話のせいかしら」
「神話ですか?」私は話しを聞く姿勢に入っていた。
私の真剣な眼差しを感じ取った様子で、
しのぶさんは少し困った表情で、「興味を誘ってしまったかしら?」
そう言うと、しのぶさんは話し始めた。
「私はね。以前、海外に住んでいたの。楽しいことも、苦しいことも、たくさん経験し過ごしていたけど、すごく迷う時期があって、そんな時、ふと祖父が話してくれた神話を思い出したの。学生の頃は学校が休みになると、祖父の住む熊本で、ほとんどを過ごしていたの。その頃は両親と東京に住んでいたのよ。神話と言っても、多分、祖父が作ったお話しだと思うけど?」
私は一瞬、しのぶさんの表情を見て、悲しいことを思い出させてしまったのか?
と後悔してしまった。
しのぶさんは私の横の椅子に掛け、
神話を聞かせてくれた。
『むかし、阿蘇の五岳に5人の神様がいて、山の発展を祝う会を開いていたの。そこに、町の方からゴウゴウと響く声が聞こえて来る。5人の神様は、何事が起ったのかと、町を覗いて見ると、人々は食べる物もなく。住む場所もなく。人は溢れ、倒れ果てている。これではいけない。何とかしょう。5人の神様は、地上に降りることは出来ない。神様が考えたのは、人々から5人を選び、優れた力を与え、山の中に村を作ることを命じられた。こうして、たくさんの村ができ人々は幸せに暮らした』
「夢や目標を持つ者が5人集まれば、きっと叶う。山の神様が力を貸してくださる」
しのぶさんは、祖父が作った話しでもいい話でしょうと笑っている。
私は話しを聞き、ますます阿蘇の山に、触れたい気持ちになっていた。
「私にも居場所が見つかるでしょうか?」
「えぇ、見つかるわよ。夢と希望を持っていれば必ずね」
私は部屋に戻り、緊張も疲れも解れそうな
ベッドに身を倒し、そのまま眠りに就いた。

翌朝。窓を叩く風の音で目を覚ました。
シャワーを済ませテラスに出ると、阿蘇の山々と高原が一望できた。
草木は朝露に濡れ、冷たい風が吹き、
紅葉した赤や黄色の葉が、ひらひらと舞っている。
朝日が徐々にテラスを照らしてくれ、
新鮮な朝を感じていた。
大きく深呼吸をしていると、杉並木の道から、大きな籠を担いで、手を振っている人影が見えて来る。
しばらく見ていると、林太郎が吠えながら、駆け寄って行く。
「リンちゃん、おはようさん」の声が響く、
林太郎がすごく喜んでいる。
おばあさんと林太郎がテラスの方へ近づいて来る。
おばあさんは足を止め。大きな声で、「よく眠れたかい?」その声に顔を覗くと、高森駅で出会ったおばあさんだった。
「ぐっすり眠れました」
「それは、よかった。いい朝だよ。降りておいで」
部屋のドアを開けると、甘い香りが漂っていた。
階段を降りていると、しのぶさんが下の方
から、「おはよう」と声をかけて来た。
「おはようございます」
しのぶさんは昨夜と違ってラフな格好をしていた。
「よく眠れた?」
「とっても」
「朝食にしましょう。モモさんも見えたことだし」
しのぶさんは、おばあさんを待っていたようだった。
おばあさんと林太郎がドアを開け入って来る。「しのぶさん、おはようさん・・リンちゃんはいつも偉いねぇ」
その言葉で林太郎を探した。
林太郎はお皿の前に座り、尾を振っている。
おばあさんはたくさんの野菜の入った籠を
キッチンに置き、テーブルを囲んだ。
テーブルには香ばしく焼いたパンケーキと、
夏みかんのママレード、ふあふあのオムレツ、具だくさんのミネストローネが並んでいた。
しのぶさんはおばあさんの顔を見ながら、
「野菜は全部、モモさんの畑で収穫した物よ。
新鮮でどれも美味しいの。お代は払ったことがないけど」
おばあさんも透かさず、「私だって、いつもしのぶさんの美味しい料理を食べているからね。しのぶさんも私も似た者同士なんだよ」
笑いながら話すおばあさんに、「あの。」と、
声をかけると、おばあさんはやさしい顔で、
「由樹ちゃんと言ったね。モモばあちゃんでいいよ。モモばあちゃんと呼んどくれ」
モモばあちゃんは、おばあちゃんと同じ匂いがした。
私はすぐに溶け込むことが出来た。
モモばあちゃんは立ち上がり。籠の中から、牛乳瓶を持ち、私に手渡してくれた。
「飲んでごらん」
私は瓶の牛乳がめずらしくって、
口にすると濃厚で止まらないほど美味しく、ひといきに半分以上も飲んでいた。
そんな私をモモばあちゃんは見て、嬉しそうに、「どうだい・・?」
「とっても・・美味しい」
「そうだろう・・牧場の搾り立ての牛乳だからねぇ」
私は食事をしながら少しだけ、お母さんや
おばあちゃんとの暮らしのことを話した。
モモばあちゃんは静かに話しを聞き。
話し終わると、モモばあちゃんは少し辛そうな顔し、「若いときに親を亡くすことは辛いことだよ。でも、大丈夫だよ」
私の話しで、楽しかったはずの雰囲気が変わるのがわかった。そのとき林太郎が、「ワンワン」と吠える。
モモばあちゃんは笑いながら、「リンちゃんも大丈夫と言っているよ」
モモばあちゃんが、そう言うと林太郎が、
また「ワンワン」と吠える。
私は驚き、しのぶさんを見ていた。
しのぶさんは林太郎の傍に行き、
「そうよ・ね」と言い笑っている。
モモばあちゃんは更に、「人間は考え方しだいで、何とでもなるからねぇ」と付け加える。
私はその言葉を聞き、(どうして)と思う
気持ちは封印しょうと心に誓った。
食事が終わると、モモばあちゃんは籠の傍で帰る仕度をしながら、「由樹ちゃん、これからどうするんだい?」と、訊ねてきた。
私はのん気に林太郎と遊んでいた。
(これから?)深く考えてはいなかった。
自然と、食事の片付けをしている、
しのぶさんの方を見ていた。
もう少しこの場所に居たい。
素直な気持ちで言えばもう少し、
しのぶさんの傍に居たいと思っていた。
「私。」と、間が空いた状態だった。
そんな私の傍にモモばあちゃんは近づき、
「由樹ちゃん、私の家にこないかい?」
突然のモモばあちゃんの言葉に驚き。
「えっ・・」と声を上げていた。
モモばあちゃんは私の気持ちを察したように、「しのぶさんの所も今日からお客さんの予約が入っているしねぇ。ペンションや宿はたくさんあるけどね。由樹ちゃんさえ良ければの話しだよ。ヒロさんも、由樹ちゃんに何かを感じたんだろうねぇ。心配するところもあってイーゼルに連れて来たと思うんだよ」
私はこのまま大阪に帰ることも考えたが、
テレビで観た阿蘇の高原とヒロさんの話しが脳裏を過(よぎ)った。
そのあと、モモばあちゃんのうちに?と、
考える反面。「ご迷惑じゃないんですか?」と答えていた。モモばあちゃんは笑いながら、
「いいや~うちは猫の桂と私だけだからね。由樹ちゃん、此処(ここ)も表向きは、ただの喫茶店なんだよ」
しのぶさんは軽く頷き、「そうなのよ。あの部屋はゲストルームなの。疲れたとき、休息に帰って来る部屋かしらね。阿蘇の大自然に癒されるって、お友達が遠くから訪ねて来てくれるのよ。由樹ちゃんもあの部屋の新しいお客様ってところかしらね。だから宿泊費はけっこうよ」
とうぜんのようにしのぶさんは言った。
「・・でも」と言葉が続かないでいた。
そんな私にしのぶさんは、「由樹ちゃん探しもの?見つかるといいわね」と微笑んでいた。
しのぶさんやモモばあちゃんのやさしい言葉に、私は人との別れと出会いが交差しているように思えてならなかった。
私は結局。モモばあちゃんの家にお世話に
なることにした。しのぶさんと林太郎に思いを残しながら、モモばあちゃんの家に向かった。
家は、らくだ山の中腹に建つ古民家だった。
周囲は田畑で覆われ、たくさんの野菜や花が育っていた。
子猫がモモばあちゃんの帰りを待っていたかのように、足元をグルグル回りながら出迎えている。
「最近、拾って来たんだよ」
モモばあちゃんが嬉しそうに話す。
玄関の戸を開け、家の中に入ると、歴史を感じさせる物がたくさんあった。
私はしのぶさんの所からタイムスリップ?
した感じだった。
土間から一段上がると黒ずんだ床が光って
見えた。柱には竹で作られた花瓶があり、
その中にリンドウの花が飾れていた。
モモばあちゃんは籠を背負ったまま、私の前にいた。
私は思わず、しのぶさんもモモばあちゃんも、まるで、おとぎ話に出てくる人物のような気がしてならなかった。
そこには道案内のヒロさんもいた。
私の空想は広がる一方だった。
モモばあちゃんの背中を追い。居間に着くと、
居間には縁側があり。明るく感じられた。
「由樹ちゃん、まずは・・お座り」
モモばあちゃんが、さらに縁側に続く障子を開けると、光が燦々と差し込んでくる。
私が正座をしていると。モモばあちゃんは
クスクスと笑い。
「足を崩して楽にお座り。それじゃ~まるで、借りてきた猫のようだよ」
モモばあちゃんはそう言いながら、お弁当を籠に詰めていた。
私は、そう言われても・・と思った。
モモばあちゃんは、チラッリと私を見て・・、
「由樹ちゃん気を遣わないようにと言っても、無理な話しだけど・・私も気は遣わないよ。由樹ちゃんの自由にするといいよ。もう一人のおばあちゃんの家に来たと思えばいいさぁ。食事もうちで取れた物だけだよ。そして元気になって大阪にお帰り」
まるで私は、家出して保護されたようにも、
思えたが少し違っていた。
しのぶさんもモモばあちゃんも、ごく自然に私を受け入れてくれている。
モモばあちゃんは、作業が終わり。
お弁当を一つ手に取り、「由樹ちゃんの分だよ」とテーブルに置いた。
私はどうして、しのぶさんやモモばあちゃんが、こんなにやさしくしてくれるのか?
訊ねてみた。
モモばあちゃんは聞こえなかったのか?
「由樹ちゃん、私はもう少し経ったら高森駅に弁当を売りに行くからね。由樹ちゃんは、ゆっくりして居るといいよ」
それからモモばあちゃんは、時計を眺め、
まだ時間があるようだと言って、
「由樹ちゃんの質問に答えるかなぁ」
モモばあちゃんはちゃんと聞いていたんだと思い。改めて言われ、少し俯いてしまった。
「それは由樹ちゃんと馬が合うと思ったからさぁ。よく人は気が合う・・合わないと言うだろう。年齢も性別も見た目も関係ないんだよ。一瞬でわかるものさぁ。この人とはうまく行くってねぇ。直感だよ」
笑い顔にも、モモばあちゃんの真剣な気持ちが伝わってくる。
そうかも知れない。偶然に出会ったとしても、もう少し傍に居たいと思った。
「モモばあちゃん・・ありがとう」と返すと、
モモばあちゃんは、また籠を背負って、
「由樹ちゃんも高原に行くんだったら、早めに出かけた方がいいよ。すぐに暗くなってしまうよ」
と言い残し高森駅に向かった。
私は玄関を出るモモばあちゃんを、縁側から見送った。
一人静かな山里の風景に、大阪での暮らしが過(よぎ)った。時として数秒間に電車が行き交い。
商店街は絶えず人の声と足音が響く。
けして、不快に思ったことはないが、
ただ、この風景に心が捕らわれてしまって
時の過ぎるのも忘れていた。
縁側には干し芋が並んでいた。
縁側から居間を覗くと、物は整理され、
掃除も行き届いていた。
モモばあちゃんは短時間の間に色んなこと
を済ませていた。
改めてすごい・・そう思った瞬間。
一つの事に没頭してしまう。私の欠点に気づいてしまう。
(ああ~高原)お弁当を持ち、家を出た。
道筋にはいたる所に標識があり。
鍋の平を目指し歩いた。
迷うことなく。鍋の平に着くことができた。牛が放牧され、間近に見ることができた。
「美味しい牛乳をありがとう」
木立を抜けると、目の前に高原が広がり、
そこでお弁当を食べた。
心が穏やかに開放されていくのがわかった。
高原を散策していると時間は、あっという間に過ぎ。私は高森駅に向かった。
到着すると、モモばあちゃんは片付けをしていた。
お弁当は全部売れていた。
モモばあちゃんは私に気づくと、
「オオ。」驚いた様子だった。
「由樹ちゃん、グッド・タイミングだね」と、少し嬉しそうだった。
桂はモモばあちゃんが帰ると現れ。安心したように、モモばあちゃんの座布団に丸くなっている。
その夜。モモばあちゃんが話してくれた。

「息子夫婦とは10年前までは一緒に暮らして
いたけどね。息子が家を建てることになり。
この機会に別居しょうと思ったんだよ。孫も大きくなり。家のことは嫁が全部やってくれるし。普通、世間的には幸せ者だと言われるだろう。息子も何が不満なんだと怒っていたけどね。私は息子夫婦に言ってやったさぁ。お前たちも老いたらわかるてねぇ。

やることが少なくなれば足腰が弱る。考えることが少なくなれば脳みそも悪くなる。私は愚痴を言って生きるのはごめんだね。二人は唖然として聞いていたよ。私は二人をさらに脅かしてやった。もう役に立たない。もう~誰も必要としていない。迷惑をかけている。
そんなことを思うときがくるんだよ。

子供に世話になっていても、子供に気を遣い、あと10年経ったら、きっと、そうなるねぇ。
思い付いたことを、目いっぱい教えて上げたつもりだったんだけどね。私の決意に圧倒された様子で、息子がため息を付き、母さんの好きに生きなぁ。そう言ってくれたよ」
モモばあちゃんは、あれから10年経ったけど、ますます元気になって、私らしい人生を生きていると話した。
モモばあちゃんの話しを聞き。祖母の施設での言葉が蘇っていた。
私は結局、4日間モモばあちゃんの家で過ごした。
モモばあちゃんの日課は5時半に起きて、
野菜を収穫し洗い揃え箱に詰め。
高菜おにぎりを20箱作り。
準備が終わったら朝食をする。
月曜日と金曜日にイーゼルに野菜を届け、
朝食をご馳走になる。
10時にお嫁さんが車で迎えに来て、大津の道の駅に野菜を降ろし。高森駅で11時から15時まで、お弁当を売っている。
高森駅から家まで徒歩20分ほどだが?
「何んせ、寄り道が多くって・・」と笑う。
16時半ごろに家に帰って来る。
車の運転だけが、嫁に迷惑をかけているんだよと済まなさそうに話す。
翌日は、モモばあちゃんの仕事の手伝いを
して過ごした。
大津の道の駅に着くと、モモばあちゃんは
指さし、「あの建物が大津農協組合だよ・・。ヒロさんの勤め先だよ」
私はしばらく眺めていた。
モモばあちゃんは生き生きと仕事をしている。私もモモばあちゃんに続いた。
「オ~オ。今日は孫さんと一緒かい。よかねぇ~幸せもんたい」
「幸せもん・・幸せもん・・」と言いながら、モモばあちゃんは野菜を運んでいる。
お嫁さんもやさしい人だった。
高森駅に着くと、お嫁さんは帰って行った。
二人でお弁当を売る準備をした。
高菜おにぎりは、(高菜の茎の部分を刻み、胡麻をまぶし高菜の葉で包む)
(3個入り320円)シンプルだけど美味しい。
家に帰ると、しのぶさんから電話が掛かり、明日。時間が3時間ほど空くので、阿蘇を案内できるとのことだった。
モモばあちゃんは、山はカーブが多いから、車に酔ってしまうだよ。残念・・残念・・
と笑っていた。

翌日。しのぶさんとドライブを楽しんだ。
車窓から大自然が駆け抜けて行く。
山々の落葉樹が紅葉に染まり。
車道に沿って、ススキが風に揺れている。
しのぶさんは高原の真ん中に車を止めた。
降りると。しのぶさんは微笑み、「私のお気に入りの場所なの。夏になると此処(ここ)で寝転んでいるのよ。季節の美しい自然が、いつも私を感動させてくれるの」
高原からの展望は、後方に山肌が手に取る
ように見え。山の頂からやさしい光が差し込み。前方には牧草地が果てしなく広がっていた。高原に吹く風は開放的で、つい私は涙ぐんでいた。涙を拭いていると、しのぶさんは車からショールを取り出し。そうと、私の肩に掛けてくれた。
「由樹ちゃん、私・ね。阿蘇の風に吹かれると元気が出るの。最初の頃は迷うことがあると、阿蘇の山に登っていたけど段々迷うことがなくなったの。この大自然のお陰かしら、さわやかな風に吹かれると希望を感じるの。私はね、この風を『希望の風』と呼んでいるのよ」しのぶさんが照れたように言う。
私は『希望の風』と呟いていた。
顔を上げ全身で風を感じた。
風はどこからともなく伝えてくれている。
私は言葉では表現できなく。口にすることはなかった。風は山の木岐に移り、靡(なび)くたびに光って見えた。
「希望の風は山の神様が運んでくるのでは?」
「由樹ちゃん、ありがとう」
しのぶさんの笑顔が印象的で素敵だった。
私はしのぶさんに、ありがとう・さよなら・も言わず別れた。
その夜。私は、明日、大阪に帰ることを、
モモばあちゃん伝えた。
テレビを消し遅くまで話しをした。
「由樹ちゃん、無理して大人になるんじゃないよ。勿体ないよ。年は否応(いやおう)なしに取って行くものさぁ。由樹ちゃんは17歳でいいんだよ。由樹ちゃんは、ちょっと若年寄りの所があるからねぇ」
「うん~やっぱり」しょげながら友達に言われたことがあると話すと、モモばあちゃんは笑っていたが、神妙な様子で言った。
「私は最近、思うんだけどねぇ。自分から命を絶つ人が増えているだろう。その人たちは、自分だけが辛いと思っているけど、辛いのは自分だけではないと思うことだねぇ。人間は、どんなに辛いことでも、乗り越えられる力を持っている。そのことに気づくことが大切だと思うよ。そして、金銭的な豊かさだけを求めてはいけない。豊かな気持ちでがんばることが大切で、人を思いやり自分を持つことが大切だと思うんだよ」
モモばあちゃんは思ったことを口にする。
しかし、冷静で心のこもった言葉だった。
しのぶさんやモモばあちゃんと出会い。
自分を見つめ直すことができた。
翌日。モモばあちゃんと高森駅に向かった。
桂も途中まで送ってくれた。
「由樹ちゃん、元気で・・がんばるんだよ」
「モモばあちゃん・・ありがとう」
涙がこぼれそうになったが少し強くなった
私がいた。
モモばあちゃんはホームは苦手だから、
ここから送ると言って、いつもお弁当を
売っている場所から手を振った。
改札を抜け。ホームに入ると、電車はすでに着いていた。
「ありがとう」を残し、電車に乗った。
立野で熊本行きに乗り換え、熊本から新幹線で大阪に帰ることにした。
乗り換えを考えると、ドキドキしてくる。
そんなに簡単には性格は変わらない?
そう思うと可笑しく顔を隠していると、
「由樹ちゃん・・」と、モモばあちゃんの声がする。目の前でニッコリ笑い。
「弁当を忘れていたよ」
私の膝に紙袋を置き、電車から降て行った。
窓越しに、「籠に入れていて渡すのを忘れていたよ。今日は特上だよ・・あとは竹の子の干したのと干し芋だよ。それと・・?荷物が重たくなるけどねぇ」
荷物は重たくなったが心は軽くなったと、
私は伝えた。モモばあちゃんは結局、ホームでいつまでも、手を振り見送ってくれていた。
大阪に着くと。7日間の出来事が、現実とは
思えないほどのギャップを感じてしまう。
手に持ったお土産にホッとしていた。
「由樹ちゃん、どこに行ってたん。ほんまに心配したんで、夜になっても電気つかへんしなぁ」
隣のおばさんに声を掛けられてしまった。
「心配かけてしもうてすいません」
「おばさんの所やったん」
「おばあちゃんの所」
「えぇ。ほんまぁ?」
不思議そうな顔で見つめられていた。
「これ・・お土産」
新聞紙に包まれた干し柿と干し芋を渡すと、ちょっと確認し。
「いや・・こんな珍しいもん。ほんまに・・おおきにっ」
私は家の中に入った。閉ざした雨戸を開け。「おばあちゃん。ただいま・・」
仏壇に手を合わせ、干し柿をお供えした。
ああ、渡す前にお供えが先だろうと思ってしまった。熊本での報告はできないでいた。

翌日から学校に通い受験に備えた。
勉強の合間にモモばあちゃん、ヒロさんに、お礼のハガキを送り。
しのぶさんにはメールを送った。
しのぶさんから返信が届いていた。
モモばあちゃんが、今時、律儀だと喜んでいたとのことだった。
私は次第に二つの事を考えるようになっていた。答えがでないまま受験が終わり。
この家が人でに渡るさびしさだけが残っていた。本当の居場所がわからないでいた。
そんな中。志望校の合格が決まった。
それと同時に新たな道に心が動いていた。
大学に進めば、4年間、美子おばさんの家に、お世話になることになる。
仏壇の前に座り。熊本に行き経験した
ことを、おばあちゃんに話しをした。
そして、出来れば熊本に行きたいと報告した。

高校を卒業し、今は美子おばさんの家で暮らしている。
美子おばさんにお願いをして、運転免許を
取った。
結局、大学には進学しなかった。
美子おばさんとも十分話しをした。
美子おばさんは一通の手紙を見せてくれた。
母が美子おばさんに宛てた手紙だった。
その中の一部分を読ませてくれた。
『由樹が迷っていたら力を貸してあげて下さい。由樹が自分で決めたことであれば応援してあげて下さい』と、書かれてあった。
「由樹ちゃん宛てもあるのよ。由樹ちゃんに、好きな人が出来たら渡してほしいと書かれてあるの」
私は少し気にはなったが、受け取ることはしなかった。
部屋に戻ると、しのぶさんから写メールが
届いていた。
阿蘇の山の風景だった。
その下に文章が綴られていた。
「阿蘇の山は桜が咲き始めきれいです・・。林太郎が楽しみに待っていますよ」
私は、しのぶさんに進路のことで、メールを送っていた。
「大学に進むことも考えましたが、今は自立を一番に考えています。漠然とですが、働きながら福祉医療を目指して行こうと考えています」
それから10日ほどして、しのぶさんから返信が届いた。
「モモさんの所で一年間お世話になって見ては如何でしょう。きっと、いい勉強になると思います。モモさんは、由樹ちゃんの為になることならば力になりたいそうです」

私は4月の中旬。モモばあちゃんの家に向かった。高森に着くと、阿蘇の山は満開の桜で、いっそう輝いて観えた。
モモばあちゃんは家で待っていてくれた。
野菜畑の中から「由樹ちゃん、お帰り・・」
「モモばあちゃん、来ちゃった」
私の足元に桂が寄って来た。
桂は倍の大きさになっていた。
「モモばあちゃん、桂、これから、お世話になります」
「そんなの・・いいよ・・いいよ」
モモばあちゃんは笑いながら、「それより、さあ~由樹ちゃん、こっち・・こっち・・」
モモばあちゃんが急ぎ足で、「見せたい物があるんだよ」
私は荷物を縁側に置き、モモばあちゃんの、あとを追った。
裏手に回ると、そこには自動車があった。
「自動車・・どうしたの?」
「由樹ちゃんが免許を取ったと聞いたから、息子に頼んで中古の車を用意してもらったんだよ」
「エ~エ。すごいね」
「だろう~。じゃ~荷物を置いたら・・」
モモばあちゃんは、そのあと何か?
言いたそうだったが、縁側に荷物を置いた
ことを話すと、
「縁側じゃ~だめだぁ。とにかく家の中に入ろう」
家の中に入ると、私は懐かしさを覚えた。
大阪にいたときは身近に感じていたのに、
不思議だった。
黒い床に足を滑らせ、ゆっくり歩いた。
柱の竹の花瓶には、こぶしの花が飾られて
いた。
居間から縁側に続く障子は外され、縁続きになっていた。
「縁側から、花見が出来るよ」
モモばあちゃんの声に縁側に行き、
「すごい・・ね」と大きな声を上げていた。
「だろう・・」とモモばあちゃんの高い声。
山々は新緑と咲きそろった桜の花で調和し、鮮やかな色を見せていた。
田畑には、菜の花が春の暖かさを演出して
いる。
「モモばあちゃん・・山は・・もも色だね」
モモばあちゃんは私に近づき、「ちょっと、前までは雪色だったけどねぇ」と返す。
モモばあちゃんに受話器の代わりにバナナを渡したら、きっと、「もし・・もし」と、
言ってくれそうな気がして、さらに笑いが
止まらなくなっていた。
こうして、私の新たな生活が始まった。
荷物を居間に移すと、モモばあちゃんは待っていたかのように、「由樹ちゃん、これから・・イーゼルに車で行って見ようよ」
「車で。」私は思わず桂を掴んでいた。
「運転して」
「もちろん」
桂を抱き、「モモばあちゃん、怖くない?」
「怖いと思ったら車は用意しないねぇ」
「そうだね」と笑って見せたが、胸の鼓動が止まらなかった。
モモばあちゃんは私の気持ちをよそに、
「由樹ちゃん、髪が長くなったねぇ」
と、マイペースに言っている。
モモばあちゃんに、しのぶさんは独身なの?と訊ねると、モモばあちゃんは首を傾げ、
「世間の人は、金持ちのお嬢さんでまだ若いのに、嫁にいかず勿体ないと言っているよ。人と付き合う上で、大切なのは親しき仲にも礼儀あり。忘れてはいけないことなんだよ」
私はモモばあちゃんの教えに頷いた。
モモばあちゃんは車のキーを持ち、
「さあ。出発だよ」
モモばあちゃんの元気な声に、私はさらに
緊張した。
運転は教習所以来だった。
すっかり美子おばさんから買ってもらったお土産を忘れていた。
「お土産を渡すのを忘れていた」と
差し出すと、モモばあちゃんは「ほら・ねぇ。やっぱり、似た者同士だろう」と笑う。
私は、その言葉が嬉しかった。
しのぶさんへのお土産を持ち、イーゼルに
向かった。
車に乗り。(アクセル・ブレーキ)と確認し
「大丈夫・・大丈夫」と、
呪い(まじない)のように言う私に、モモばあちゃんは私の肩を叩き、「由樹ちゃん、大丈夫だから落ち着いて」
キーを差し込み、エンジンを掛けた。
「プルーン・プルン・プルプル」と音が鳴り、
「ド~ン」と止まった。
「こりゃ~命が・・あと一つ必要だぁ」
「ああ。」と私は落ち込んだ。
エンジンが掛かり動き出した。
「この時間は殆んど人も車もないよ。安心して運転できるよ」
車道に出ると、ハンドルを握る手が軽やかになった。整備された道路が続く。
緑一色の高原が視界を広げ。窓を開けると、山の木立から鳥の鳴く声が聞こえ、
やさしい空気に包まれた。
私の将来の計画はゼロに等しいけど、
しのぶさんが言っていた。
『希望の風』が私にも吹いている。
そんな気がした。
車は月廻り公園の中に止めることにした。
イーゼルにも駐車場はあるが、公園の方が車を出しやすいと、モモばあちゃんが教えてくれた。
草原の公園は花見をする人で賑わっていた。
私はイーゼルの庭を見るのが楽しみだった。
庭は私の想像以上のものだった。
アプローチの傍にあったブナの木も芽吹き、緑色に変わり、若草の中にヒメイチゲ、
ミヤマスミレ、多種類の小さな花が咲き、
ひそやかに春風に揺れていた。
「いつ来ても、いい庭だよ」二人で足を止めていると、ドアの開く音がした。
ドアから出る林太郎の姿が見えた。
「林太郎」と、私が声をかけると、
林太郎は一瞬足を止め。思い出したように、駆けて来た。林太郎を受け止めると、
「林太郎、覚えている?」
「ワンワン」
頭をなでると、林太郎は私の手をなめている。林太郎は、けして、顔をなめたりはしない。
顔をなめるのを嫌う人もいるからと言って、
しのぶさんが、躾(しつ)けをしたそうで。
「また、会えたね」林太郎に夢中になって
いると、しのぶさんがドアの前に立っていた。
「由樹ちゃん、いらしゃい・・桜満開でしょう」と、微笑む姿が眩しく見えていた。

ドアの前には定休日のカンバンがあった。
しのぶさんはドアを引くと、「今日はお泊りのお客様がいるのよ」
予測していない気持ちに私の足は止まっていた。モモばあちゃんの顔を見ると、何故か嬉しそうに「さあ~さあ」と腰を押してくる。
後ろを振り返りながら中に入ると、其処には二人の男性の姿があった。
二人は椅子から離れ、しのぶさんのサイドに立った。
「紹介しますね。こちらが中村先生にやぶき先生、お二人とも整体の先生なの」
二人は互いに、「中村です」「やぶきです」と、名乗り「よろしく」と挨拶し。
モモばあちゃんと親しそうに話し始めた。
「明日は金曜日。みんな喜ぶよ」
「モモさん、腰の調子はどうですか?」
「あれから、いいよ」
モモばあちゃんは私の手を取り、揺らしながら、「私のルームメイトだよ」
私は、モモばあちゃんの言い方に笑えたが、その通りだと思った。
「中澤由樹です」と名乗ると、
先生たちは、にこやかに笑い。
「モモさん、また若返りますね」
「そうだろう・・楽しみ・・楽しみ」
先生たちは20代後半に見えた。
「僕たちはこれから林太郎と散歩に出かけますよ」
それを聞き林太郎は尻尾を大きく振っていた。私は高原を林太郎と散歩できたら、どんなに楽しいだろう。
そんな事を心の中で思っていた。
林太郎・・今度は私と散歩してね。
私の気持ちが伝わったのか、林太郎は何度も振り返り、「林太郎・・」と呼ぶ声に駆けて行った。
しのぶさんがお茶を出してくれ、たくさんの種類のケーキが運ばれて来た。
(チーズケーキ・タルト・ムース)
「好きなのを選んで、明日の試食品なの」
私はこの状況を把握することが出来なかった。ケーキを頂きながら訊いてみた。
「明日。何があるんですか?」
「さくらホーム(福祉施設)の人が来るんだよ。施設の岡さんに頼まれて、此処(ここ)でお茶の会を開いているんだよ。月に一回(金曜日)にねぇ」モモばあちゃんが教えてくれた。
「ボランティアですか?」
しのぶさんが、にこやかに「お代は、いただいているわよ」
「200円だけどねぇ」モモばあちゃんが透かさず答える。
「由樹ちゃんも、明日、いらっしゃい」
しのぶさんの声かけに、私はモモばあちゃんの顔を見ていた。
「そうするといいよ。きっと、歓迎されるよ」
「じゃ・・伺います」
しのぶさんは窓越しに庭のテラスを眺めながら、「もう少し経ったら、テラスでお茶が楽しめるわ。今の時期さくらはきれいだけど、まだ肌寒いでしょう。来月にはテラスが使えるわ。自然をいっぱい感じられて最高よ」
私が想像に耽(ふけ)っていると、モモばあちゃんが立ち上がり。
「由樹ちゃん、日が暮れる前に帰ろうか?」
ああ。私が運転して帰るんだ。
すっかり車のことを忘れていた。
モモばあちゃんは籠を持ち、
「ああ~由樹ちゃん」片手にしのぶさんへのお土産をかかげている。
二人で笑う姿に、しのぶさんも笑っていた。こうして、しのぶさんにお土産を渡すことが出来た。
モモばあちゃんは、いつも愛用の籠を持っている。私は車に乗るときは必要ないと思う
けど言えない。
「じゃ。明日・・待っているわね」
しのぶさんの笑顔に送られ、駐車場に向かった。
車に近づくほどに私の胸はドキドキし始める。そんな私に気づき、モモばあちゃんが、
「ドンマイ・ドンマイ」と、声をかける。
どうにか、家に辿り着くことができた。
モモばあちゃんは、居間を通り過ぎ、手招きしながら、「ここが由樹ちゃんの部屋だよ」
モモばあちゃんは新たに私の部屋を用意してくれていた。
襖を開けると6畳の部屋がきれいに整理され、窓際には卓袱台があった。
「この部屋は東向きで明るいよ。夏は日が当たるが、山の中だから涼しいよ」
私はすごく、この部屋が気に入った。
「卓袱台も机になると思いだして置いたよ」
私は荷物を移すと、体の力が抜けた。
大きく息をしていると、其処には、モモばあちゃんの姿はなかった。
居間に戻ると、夕食の支度が出来ていて、
たくさんの野菜の料理が並んでいた。
モモばあちゃんは桂を抱き待っていた。
「あり合わせだよ。朝に作って置いたんだよ」
食事をしながら、これからの事を話した。
「由樹ちゃん、疲れただろう。初日は緊張する物さぁ。3日間はゆっくりするといいよ。月曜日から働いてもらうよ。時給500円だねぇ。家賃も食事代もいらないからね。一年間の契約だぁ。いいねぇ」
私は、モモばあちゃんに素直に甘える事ができた。
「モモばあちゃん、ありがとう・・もちろん・・いいよ」
その夜は不安を感じる事なく眠りに就いた。
翌朝。私は寝過ごしてしまった。
一瞬慌てて寝巻きのまま。居間へ駈け出した。居間にはモモばあちゃんの姿はなく。
モモばあちゃんの部屋の前に行くと、襖(ふすま)が少し開いていた。
声をかけて見たが、返事はなく。
そうと覗くと、モモばあちゃんは居ない。
玄関に向かうと、土間に掛かった籠もなかった。
ああ。どうしょう・・と思った瞬間。
「いい時間に起きて来たねぇ」と、
モモばあちゃんが玄関先から声をかける。
一瞬。私は何も言えない状態だった。
「由樹ちゃん、食事が済んだら車で送ってくれるかい?」
さっそうと動くモモばあちゃんの姿に、
私の口はぽっかり開いたままだった。
そんな私を気遣ってか?「さあ。食事の支度を手伝っておくれ」
結局、お茶碗と箸を出すだけだった。
「由樹ちゃん、先に顔を洗っておいで・・」
私は苦笑いしながら洗面所に向かった。
洗面所の鏡に映る姿に唖然とした。
髪はみだれ、すごい顔をしていた。
冷たい水が私を覚ましてくれた。
髪を梳き(と)結んだ。そのあと部屋に行き、
急いで着替えをした。
居間に戻ると、モモばあちゃんは、「美人の、いっちょう上がり」
私は少し照れていたが、モモばあちゃんに、
余裕の差を感じていた。
食事をしながら時計の針を気にしていた。「時間・・大丈夫かなぁ」
「慌てる必要はないよ・・自営業だからねぇ」
モモばあちゃんの言葉に、寧ろ私のテンションは上がり、遅れる訳にはいかないと思った。
「大津の道の駅に高森駅でしょう。大丈夫・道はわかっているわ」と、自信たっぷりに言ってしまった。
「そりゃ~頼もしいねぇ」
完全に私の心が読まれているのを感じた。
車には、すでに野菜が積まれていた。
10時には道の駅に着いていた。
息を付き「間に合ったね」と声をかけると、
モモばあちゃんは、「ちょうど、いい時間にに起きて来たねぇ・・と、言っただろう・・
どんな時にも、自覚を持ってやれば出来るんだよ。ほかにもあるよ。(案ずるより生むが易(やす)し)だねぇ」
あとで考えると、家から大津の道の駅まで
10分も掛かっていなかった。
野菜を運ぶと、「ここに・・置くんだよ」
場所が決められているようだった。
「いつも・・いいねぇ」
モモばあちゃんは声を掛けられ、
「おはようございます」と、私は多くの人に挨拶をした。
高森駅に着くと、「由樹ちゃん、ありがとう。あとは・・いいよ」
もう少し、手伝うと言ったが・・、
モモばあちゃんはお弁当の入った籠を担ぎ、駅の中に入っていった。
私は家に戻り、掃除を始めた。
今日は、イーゼルに午後から行く予定にしている。
「ごめんください・・」人の声がする。
縁側から覗くと、「宅急便です・・中澤由樹さん宛です」
美子おばさんから必要な物が届いた。
中を開けると、手紙が添えられていた。
そのまま縁側に座り手紙を読んだ。
『高森はどうですか?きっと楽しく過ごしていると思います。由樹ちゃんが熱く語る様子を見て私も訪れて見たいと思いました。由樹ちゃんはお姉さんと同じで、強い意志を持っていると思います。だから、私も心配はしていません。おばあちゃんも、由樹ちゃんが18歳になったことで、安心していると思います。
応援していますよ頑張りなさい。由樹ちゃんの部屋にあった。おじいちゃんの柱時計も入れて置きました。叔母様に宜しくお伝え下さい』
縁側にいると、すぐに行動は鈍くなる。
気持ちを切り替え、掃除を再開した。
私の部屋に新たに加わった。
おじいちゃんの柱時計が卓袱台とマッチしている。きっと、18歳の部屋には見えないだろう。卓袱台に菜の花を飾り、イーゼルに向かった。
イーゼルに近づくと、華やいだ声が外まで漏れていた。
店内に入ると、20人ほどの人が楽しそうに語らいながら、ケーキを美味しそうに食べていた。
車椅子で来店している人もいた。
しのぶさんが私に気が付き、「由樹ちゃん、いらっしゃい」
ずいぶんと忙しそうだった。
中村先生・やぶき先生も、そこにはいた。
「まあ。別嬪さんが見えたよ」
「いらっしゃい・・いらっしゃい」と、
歓迎を受け、私の少し赤らんだ顔に・・、
「ほっぺが、さくら色でかわいいねぇ」
私は一瞬、俯いてしまいそうになった。
そんな中。笑顔で一人の男性が近づいて来た。
「さくらホームの、岡健介と言います。よろしく、中澤由樹さんですね。先ほど、しのぶさんからお聞きしました。みなさんに、自己紹介していただいてもいいですか?」
私は中央に立ち、「中澤由樹と言います」
「お嬢ちゃん、幾つ?」
18歳と答えると、おばあさんたちは、
「お嬢ちゃんじゃなくて、お嬢さんだよ」と、
笑っている。
「モモばあちゃんじゃなくて・・」慌てて
言い直そうとすると、
「モモばあちゃんでいいと思うよ。今日は、モモちゃん来てないねぇ。ときどき来てくれるけどねぇ」
それぞれの言葉が飛び交う。
「モモばあちゃんの家にお世話になることになりました。よろしくお願いします」
挨拶を終えると、岡さんが近づき、
「みんな此処(ここ)に来ると元気でね」
岡さんの言葉に、おばあさんたちが反応して、
「此処に来るのが唯一の楽しみでね。しのぶさんのお陰だよ」
楽しい雰囲気の中、中村先生とやぶき先生は奮闘中だった。
「先生、ちょっと腰を診てほしい・・先生、膝が・・先生、最近目が霞む?」
先生たちは笑いながらやさしく対応している。
しばらくすると、「そろそろ迎えの車が到着します」岡さんの大きめの声に、おばあさんたちは、「もう帰る時間かい・・?仕方がないねぇ」と、手際よく帰る準備をしていた。
「しのぶさん・・また来るよ」
「先生、また帰っておいでよ。私たちを忘れちゃいけないよ」
「由樹ちゃん、モモちゃんに来るように伝えておくれ」
それぞれに、おばあさんたちは手を取りながら言っていた。
手慣れた様子で駐車場へ向かう。
「来月はテラスが使えます。お待ちしております」
しのぶさんさんの声と共に車が走り出した。
私は車が見えなくなるまで見送っていた。

店内に入ると。しのぶさんは片付けをしていた。「お手伝いします」と声をかけると、
「いいのよ・・これが私の仕事なの・・由樹ちゃん、車の運転少しは慣れた?」
「まだまだですが・・明日、阿蘇山に出かけようと思っているんです。モモばあちゃんも、仕事は月曜日からで、いいと言ってくれるので・・」
「それはよかったわねぇ」
「じゃ、もう会えないね。僕たちは日曜日の朝に出発するんだ。秋には帰って来るよ」
(帰って来る)やぶき先生の言葉が、私にもわかる気がした。
「また、頑張るよ」中村先生はそう言い。
少し後ろ向きでこっそり、しのぶさんの事を教えてくれた。
「私ね・・頑張ろうとする人が好きなの・・疲れたら帰っていらしゃい。僕たちだけじゃないよ。色んな人が此処にやって来る」
しのぶさんが片付けを終え近づく様子に、
中村先生は慌てて話しを変えた。
「しのぶさん帰ります。モモばあちゃんも、帰って来ると思いますので・・」
林太郎は、おばあさんたちにクチャクチャにされ、疲れ切った様子だった。
私は林太郎の傍に行き、「お疲れ様」と、
声をかけた。林太郎は「クン」と返した。
帰る際。中村先生たちは「じゃ~由樹ちゃん、元気で、また会おうね」
私は手を振り、イーゼルを出た。

私はイーゼルを後方に感じた。
しのぶさんの意図(いと)がわかったようだった。
私は福祉医療を目指したいと、しのぶさんに伝えた。しのぶさんは「此処(ここ)にいらっしゃい」と言った。
私は此処に来て短い間に変わったように思う。
たくさんの人と出会い。これからも変わっていくだろう。そんな事を思いながら、高森駅に向かった。
モモばあちゃんは高森駅に居なかった。
家に帰るとモモばあちゃんの姿はなく。
寄り道でもしているのかなぁ?
そんな事を考えているうちに時間が過ぎ、
ちょっと心配になっていた。
しばらくすると、大きな声で「由樹ちゃん、帰っているかい」その声に、ほっとした。「モモばあちゃん、お帰り」
モモばあちゃんは、籠を抱え居間に入って来た。
「今日は早く弁当が売れたので、山に登って来たんだよ。由樹ちゃんに、めずらしい物を食べさせて上げようと思ってねぇ」
籠の中を覗くと、「山菜だよ」
モモばあちゃんはテーブルに新聞紙を敷き、山菜を並べ「さあ、これから下処理だよ・・。由樹ちゃんも、手伝っておくれ、今日の夕食は山菜尽くしだよ」
モモばあちゃんは山菜を手に取り、
名前を教えてくれた。
(たらの芽・蕗(ふき)・薇(ぜんまい)・行者にんにく)
そして、たくさんの料理が出来上がった。
(煮物・てんぷら・白和え・酢の物・)
山の香りと季節の味がした。
「都会にもたくさん美味しい物はあると思うけど、こんな料理はなかなか食べられないからね。今の若い人は食べられることも知らないと思うよ。由樹ちゃんには教えておこうと思ったんだよ。ばあちゃんの知恵袋ってところだねぇ。春になると山菜を取るのがちょっとした楽しみなんだよ」
モモばあちゃんが嬉しそうに話す。
私は山がますます好きになった。
今度、私も山菜を取りに行きたいと話すと、モモばあちゃんは嬉しそうだった。
そして、「じゃ~籠を買って上げるよ」と
言った。
私は「籠は・・要らない」と言った。
私は一つすごく気になることを見つけた。
「モモばあちゃん、表札が松梅子となっているけど・・?」
モモばあちゃんは笑いながら、「気が付いたかい・・じゃ~話すことにしょうかねぇ」
モモばあちゃんは、少しため息を付いたように見えた。
私は、モモばあちゃんがまた「何。」を言い出すのか?と思うと、私の胸はドキドキではなくワクワクし始める。
「松梅子は私の本名なんだよ」
「松桃子じゃなくって?」
私は、最初は驚いたが、名前を変える場合もあることに気づき、モモばあちゃんの話しを聴いた。
「嫁に来る前は高木梅子と言ってねぇ。物心付いたときに名前が気に入らず、父親になんで梅子なんだと文句を言ったよ。父親は姉が5月で藤子。お前は2月だろう。だから梅子だ。父親は言い切ったが、私は納得いかなかった。明治・大正じゃあるまいし。昭和に生まれて、梅子は古い気がした」
モモばあちゃんは、昔を思い出すかのように話し。私は学校の旅行で信州に行って聞いた。
(語り部)を思い出していた。
モモばあちゃんの話しはさらに続いた。
「結婚しょうと思ったときが、大変だった。相手が松忠義と言って、私は結婚をしたら、松梅子。さらに最悪だと思ったねぇ。しかし、義姉になる人が梅子と言ってねぇ。同じ名前だったんだよ。そのときは義姉も嫁に行ってなく。それでは困ると言われ、芸名。桃子にしたんだよ」
私はモモばあちゃんの話しが面白く、
「芸能人見たいだね」
「むかしはよくあった話しだよ。もう60年近くも、モモちゃんと呼ばれているから、一部の人しか松梅子を知らないんだよ」
私も今を考えるなら、ウメばあちゃんよりも、モモばあちゃんがいいと思った。
土・日曜日は阿蘇を満喫した。
モモばあちゃんがこの辺は温泉が多いから、
若い人も日帰り入浴を楽しんでいる。
気軽に入れると言って、温泉セットを作ってくれた。
私は早速、黒川温泉で入湯手形を買った。
パンフレットが付いていた。
野趣に富んだ温泉がたくさんで迷ってしまうほどだった。
その中から河畔に沿う露天風呂を選んだ。
新緑に囲まれた露天風呂には清流のせせらぎが響き渡っていた。
それから高原の風が吹き抜けるテラスで、
お茶を楽しんだ。
この自然に、いつでも触れることが出来ると
思うと、心は晴れやかになった。

月曜日の朝が慌ただしく始まる。
モモばあちゃんはまったく変わりなし。
しかし私は慌てていた。ことわざ通りには
いかないと思っていた。
「由樹ちゃん、今日は先に行く所があるんだよ」
その場所はヒロさんの職場の近くで、そこも古民家だった。
「此処(ここ)は・・?」と、訊ねるとモモばあちゃんは、第二の職場と答える。
私は「えぇ。」それ以上は訊けなかった。
近づくに連れ湯気が上がり、
ほのかにほっこりとした匂いがする。
モモばあちゃんは玄関の前から・・・、
「おはよう・・おはようさん」と言いながら中に入って行く。
中からこだまのように「おはよう・・おはようさん」と返ってくる。
私は、モモばあちゃんの背中に「説明は・・?」と問いかけながら後に続いた。
中に入ると、たくさんのお弁当が並び、
傍らにはお饅頭が蒸されていた。
そこには、モモばあちゃんと同じ年齢層の人
が四人いた。
それぞれが忙しそうに作業しながら・・・、
私の姿を見ると、「由樹ちゃん、よう来たね。待とったよ」と、声を掛けてきた。
この状況では、笑顔で返すしかないと思った。
「おはようございます」にっこり挨拶すると、
「まあ。座とって、もう少し経ったら落ち着くけんねぇ」
私はまるで面接に来たようだった。
内定は決まっているようだが・・・?
モモばあちゃんと椅子に掛け、作業を眺めていた。
「由樹ちゃん、驚いただろうねぇ。まえもって話そうと思ったが、色んなことを話していたら、時間がなくなってしまったよ。それに由樹ちゃんが遊ぶときに仕事のことを考えちゃ。もったいないと思って、話さなかったんだよ」
私はまた、モモばあちゃんに読まれていた。
「じゃあ。紹介するとするか・・右からスミさんにミヨさん。それからヨシさんにトキさんだよ」
おばあさんたちは、モモばあちゃんが名前を
呼ぶたびに作業越しに微笑んでくれる。
「みんな「子」が付くけどねぇ。呼びにくいしねぇ」
モモばあちゃんが話し終わると、トキさんが、「モモちゃんに梅ちゃんと呼んでも返事しないからねぇ」
モモばあちゃんはそれを聞き苦笑いしていた。
作業が一段落すると、玄関先に長椅子を二つ前後に置き、お茶と出来立てのお饅頭を出してくれた。
「さあ。由樹ちゃんお座り、本当によく来たねぇ」と、おばあさんたちはくり返す。
モモばあちゃんがニヤニヤしながら長椅子を叩き、「ここ」と合図する。
私がモモばあちゃんの横に座ると、
「出来立てだよ・・熱いからやけどしないようにお食べ」と、お饅頭を渡してくれた。
その時、家の裏の道から電動カーに乗った
おじいさんが近づいて来る。
「政さん、グット・タイミングだよ」
私は「クスッ」と笑い、
おばあさんたちはグット・タイミングが好きなんだと思ってしまった。
「お嬢ちゃん、また会ったね」
私はおじいさんの声と言葉に反応し、
もう一度、おじいさんの顔を見ていた。
「ああ。」と声には出さなかったが、
その人は、ヒロさんのお父さんだった。
「退院おめでとうございます」
「あぁ。ありがとう。お嬢ちゃん」
「お嬢ちゃんはやめてください。中澤由樹と言います」
「私は政一だから・・」
トキさんが横から、「政さんだよねぇ」
政さんは「あ。」と、言いながら笑っている。
「政さん、お茶・・」
みんなで輪を囲むようにしてお茶を飲んだ。
この家は政さんの家で、今は新たに建てた家に、ヒロさん夫婦と暮らしている。
空き家になっていたが、モモばあちゃんの
提案でこの形になったと、私の隣でトキさんが話してくれる。
「由樹ちゃん、ここで色んな物を作っているんだよ。弁当の他にも(味噌、漬物、饅頭)日に寄って饅頭も色んな種類を作っている」
スミさんが説明してくれていると、ミヨさんが、「私はいきなり団子が一番好きだねぇ」みんなが、「知っているよ」と笑い出す。
私が、「いきなり団子は有名ですよね」と
話すと、「本当かい・・うれしいねぇ」
みんなの喜ぶ顔を見て、ちょっと反省した。
私はいきなり団子を食べたことはなかった。
パソコンで熊本を検索したときに、
名物。「いきなり団子」が写真付きで紹介
されていた。
「由樹ちゃんが手伝ってくれるとわかったら、こりゃ~株式会社○○を作らないといけないねぇ」
おばあさんたちはお茶をグイグイ飲み、
お饅頭を頬張りながら笑った。
私もその中にいた。私は若年寄りでも構わないと思った。
おばあさんたちの姿は、若い人たちがスナック菓子を頬張りながら会話するのと、
何ら変わりがないと思った。
さらに話しは盛り上がり、
スミさんがお茶を注ぎながら、「この年で収入があってこんな幸せなことはないよ。息子夫婦に気を遣わずに済むからねぇ」
しみじみ話す。
トキさんは少し怒り、「ちっぽけな年金を、もらって家の留守番をさせられちゃ認知症になりかねないからねぇ」
「外で体を動かし、みんなとワイワイ話しをして、むかしの年寄りはみんなそうだったけどねぇ」
ミヨさんの言葉に政さんは頷き、
「ヒロが福祉から車椅子を借りてきた・・。あの馬鹿・・親の気持ちもわからず、車椅子じゃ一人で遠くに行けないだろうが、電動カーを買ってこいと怒鳴ってやったよ」
みんなは神妙な顔で聞いていた。
「まあ、こうして政さんが帰って来てくれて、また此処で、みんなで働ける何よりだよ・・。私は施設の人にも出来ることなら、畑仕事をさせてあげたいんだよ」
モモばあちゃんの気持ちが私に伝わってくる。
しんみりとした中、ヨシさんが明るく、
「施設を阿蘇の道の駅に作ったらいいんだよ。販売したり、畑仕事もしようと思えば出来るしねぇ。たくさん道の駅はあるんだからさあ。一つぐらいはそう言う物があってもいいんじゃないかい?」
「そりゃ~いいねぇ」と、みんなは感心し。
ヨシさんは「昨晩、さくら茶を飲んだからねぇ」と言って笑い出す。
「これで・・めでたし・めでたし」と言い、モモばあちゃんも一緒に笑っていた。
私はおばあさんたちに圧倒され、
どうしていいのか・・?わからなかったが、
おばあさんたちは、けして自分のことだけを、考えてはいなかった。
多分。若い人たちは世代の違う人たちと
接するのは、「気を遣う」「考え方が違う」
「疲れる」そんな事を言いながら、遠ざかるだろう。
私はおばあさんたちの経験と生きる知恵が、もっと、ほかの人たちにも伝わればいいのにと思っていた。
「ああ。時間、時間」とおばあさんたちが
動き出す。モモばあちゃんも、「由樹ちゃん、配達に行くよ」と慌てる。
政さんは一人余裕の表情で、「気を付けて行くんだよ」と私に声をかけてくれた。
それからモモばあちゃんと配達に向かった。
「由樹ちゃん、パソコン出来るかい?帳簿を作ってほしいんだよ」
パソコンは送ってもらっているが接続していないと話すと、「パソコンは政さんのがあるよ」
「え。政さん、パソコン出来るの?」
「体が不自由になって、片手でヒロさんの、パソコンで練習したそうだよ」
「すごいね」
「政さんは、がんばりやだからねぇ」
私の一日は、モモばあちゃんと庭の畑の手入れ、道の駅への配達、帳簿の整理、
ほぼ16時半に終わる。
朝は少し早いが充実した生活を送っている。
阿蘇の山々にある道の駅にも配達するようになり。阿蘇の大自然に常に触れることが、
出来るようになった。
夏間近になると、配達を一気に済ませ、
緑いっぱいの高原で草の香りを感じながら
休憩する。
青空が広がりおいしい空気に包まれ、
つい時間の経つのを忘れてしまう。
そんな行動も、モモばあちゃんにはバレているようで、「由樹ちゃん、山はカーブが多いから慌てて運転するじゃないよ」
モモばあちゃんの言葉に肩をすくめ、
つい舌が出てしまう。
最近では政さんの畑の手伝いもしている。
政さんも、モモばあちゃんと同じ考えで、
施設の人にも野菜や果物を育て収穫して
食べてほしい。
そんな願いもあって、政さんの指導で畑作りをしている。
ヒロさんも仕事の休みの日には機械を借りて土を耕してくれている。
畑の準備が出来た頃。政さんは、さくらホームの岡さんに、連絡を入れたとのことだった。
数日後、岡さんから連絡が入り、
野菜の植え付ける日が決まった。
政さんと私は準備に取り掛かった。
ナス、キュウリ、トマト、いんげん、南京と、さまざまな野菜を植え付けることになった。
政さんは車椅子から片手で土を取り、
「有機物も充分なフカフカの土だ」と、
満足そうだった。
植え付けの当日。施設からの参加者は10名
だった。
事前に岡さんから連絡を受けたと、政さんが話していると、施設の車が到着した。
岡さんが車を降り畑の畦道を駆け寄ってくる。
「政さん・・由樹ちゃん・・今日はお世話になります。よろしくおねがいします」
岡さんは少し緊張した様子だった。

「以前から畑の計画を聞き、実現できて僕も嬉しかったです。早急に検討し入所者のみなさんに報告しました。施設の中でリハビリするよりも効果的だと言われましたよ」
しかし、簡単なことではない様子だった。

施設の基準、規則、安全面、入所者の人たちが希望しても、いろんな問題があり、
本人よりも家族、施設の許可が必要となってくる。それぞれの思いがあっても、簡単な事ではない事を知ったようだった。
岡さんのほかに、介護職員3名が同伴で作業はスムーズに行われた。
「由樹ちゃん、車椅子の茂田さんは99歳なんだよ。今日の参加を一番楽しみにしていたんじゃないかなぁ」
岡さんに言われ、車椅子の前に腰を下ろし話しかけた。
「たくさんの野菜の苗を準備しました」 
茂田さんの目線は山々を捕えていた。その後顔を大きく上げ、大空を眺め、「むかしを思い出したよ」と、小さな声が聞こえた。
「私は農業をしていた。たくさんの米と野菜を作り、山仕事もしていた。なんでも自分で作り、買うこともなかった」
そう話すと、茂田さんは車椅子を少し動かし、作業をする人たちを静かに見つめていた。
私は茂田さんの車椅子に手を添え、
「これから野菜の育て方を教えてくださいね」
「あぁ~いいよ」
茂田さんの声は、段々と大きくなり。表情も明るく変わっていた。
作業は一時間ほどで終了した。
会話は弾み、笑い声が絶えることはなかった。畑の畦道にシートを敷き。施設から準備された。お茶とお菓子を全員でいただいた。
「自然の中で食べると美味しいねぇ。政さん、由樹ちゃんありがとうねぇ。これから一緒に働けるねぇ」
その言葉に政さんは、「働けるうちが花だと、言ったものだが、その通りだよ」と笑っている。
岡さんの提案で、『ふるさと』の歌を唄った。
誰もが満足そうだった。
こうして、楽しい時間は過ぎ、ホームの送迎車が到着した。
岡さんは帰る際。私に声をかけてきた。
「由樹ちゃん、ちょっと先の話しになるけど、8月15日に山鹿灯籠まつりがあるんだけど、一緒に行かないかぁ?」
私は山鹿灯籠と聞いて驚いていた。
「えっ、山鹿灯籠まつり」と、くり返していた。
そんな私に岡さんは困った顔して、慌てたように、「ごめん・・僕の友達だけど紹介したいんだ」考えていてほしいと言って、帰って行った。
私は灯籠まつりの写真をもって悩んだ時期が、
何だか・・?すごく遠くに感じられた。
片付けをしていると、政さんが声をかけて
きた。
「由樹ちゃん、地元に溶け込んだね」
「みなさんの、お陰です」
「山はカーブが多い。二人とも若葉マークだから気を付けないと・・」
「モモばあちゃんにも常に言われます。安全運転だよ。慌てちゃいけないよと、もちろん私も気を付けますけど、政さんも無茶をしてはいけませんよ。ヒロさんが、政さんは雨が降っていても電動カーで出かけると、困っていましたよ。車で送ると言っても、自分で出来ることは自分ですると言って、聞かないって」
「ヒロは男のくせにおしゃべりだぁ」
「心配かけてはいけませんよ。ヒロさんは、お父さん思いなんですよ」
「由樹ちゃん、わかったよ」
政さんの照れた顔に、私のお父さんは・・?どんな人なんだろう。そう思う気持ちがあった。
「そろそろ帰るとするかぁ」
政さんは少し疲れた様子だった。
私は車で送ることにした。
政さんは素直に乗ってくれた。
「ヒロには、内緒だよ」
「もちろん」
家の近くで車を止め、電動カーを降ろした。
政さんは気を遣ってくれて、「ありがとう」と微笑む。
私は植え付けた野菜が、無事に育つようにと、願いながら帰って行った。
あれから一ヶ月が過ぎ。政さんの畑の野菜も、
すくすくと育っている。
山里は田畑の稲が実り、緑一色に輝いている。夏の陽射しを感じながら、私は配達に車を走らせていた。
多くの人に声をかけられるようになった。
「おぉ。由樹ちゃん、配達かい」と、
言っては飴やお菓子をいただく。
その飴とお菓子を、一人のおじさんにお裾分けして帰る。
そのおじさんは、毎日同じ時間に、牛を放牧に牧場にやって来る。
「こんにちは」と挨拶するうちに親しくなり。
私はこのおじさんを、(モウモウおじさん)と、呼んでいる。
直接に呼んだことはないが、時々、物々交換になってしまう。
私が「いいよ」と言うと、「じゃ~わしも、いいよ」と言って来る。
「もらった物だから」と言うと、「わしも、もらった物さあ」
こうして、配達して帰るのが遅くなっている。
帰ると、おばあさんたちは、「由樹ちゃんは、人気者だからねぇ」と、笑っている。

8月に入り、灯籠まつりが近づいた頃。
私はモモばあちゃんに、岡さんから山鹿灯籠まつりに誘われたことを話し、写真を見せた。「ああ、これは山鹿灯籠だよ。由樹ちゃん、行ったことがあるのかい?」
モモばあちゃんは目をクリクリさせながら、私を見た。
「私じゃなくって・・お母さん」
私はそれから、『お母さんの秘密?』を
話した。
お母さんが何度か熊本に訪れていたこと、
写真の裏に書かれている病院を、私が訪ねたことを話すと、モモばあちゃんは、ちょっと首を横に倒し、
「由樹ちゃん、人には知らない方が幸せだと言うこともあるからね。お母さんの人生を、理解してあげるんだね。人はそれぞれに考え方も違うと思うんだよ。それぞれがお互いを理解することが大切で、うまく行く方法なんだよ」
私はモモばあちゃんの言っていることは、
すごく理解できたが、すっきりしないものが、あった。
それはお父さんの事を知りたいと思う気持ちがあったからだと思う。
灯籠まつりの日の夕方に、岡さんが迎えに
来ることになっていた。
「何を着て行くんだい?」とモモばあちゃんが心配そうに訊いて来る。
私はあまり考えていなかった。
「まつりの日は、浴衣を着ている人が多いだろう。私の浴衣もあるけど由樹ちゃんには短いし。短いのは何とかなるけど、柄が地味だしねぇ」
モモばあちゃんが独り言のように言っている。
「ジーンズじゃだめかなぁ?」
モモばあちゃんはちょっと笑い。
「いちようデートなんだろう・?それじゃ~仕事のときの服装と一緒だよ。プライベートは変えなくちゃねぇ」
そう言われ、服を探した。
数少ない服の中から、白とグレーのワンピースに決めた。
お気に入りだったのに着て見ると、
ちっとも、似合っていなかった。
私はすっかり日焼けして、淡い色の服に
黒く焼けた肌が、いっそう目立っていた。
モモばあちゃんにデートと言われ、
私は少し救われた気分だった。
モモばあちゃんに、これはデートじゃないよと言いそうだった。

灯籠まつりは、お盆の15日に行われる。
当日の朝、モモばあちゃんとお団子を作った。モモばあちゃんの話しによると、亡くなったご先祖様が家に帰って来るから、ご先祖様を迎えるために、(迎え団子)を作るんだと教えてくれた。
「由樹ちゃんの所にも、きっと、おばあちゃんやお母さんが帰って来るよ。明日には帰るけどね。明日は(送り団子)を作らないといけないねぇ」
あとで、モモばあちゃんが笑いながら話す。「本当は(迎え団子)は、13日に作るんだけどね。何せ、忙しかったからねぇ。きっと、ご先祖様が帰ってこれないじゃあないかぁと、怒っているよ」
その後、キュウリとナスで、ご先祖様の乗り物を作り、玄関先に置いた。
夕方。約束通り、岡さんが迎えに来てくれた。モモばあちゃんは岡さんが知っているだけに、気を遣うだろうと言って、納屋で仕事があるから、「訊かれたら、居ないと言っとくれ」と、言い納屋に行ってしまった。
モモばあちゃんは誰にでも、やさしく気を遣う人だと、改めて思ってしまった。
私はワンピースに着替え、鏡の前に立ち髪をいつもより下に結び直していた。
玄関先で岡さんの声が聞こえた。
「ハイ」と、返事をしながら玄関に向かった。
岡さんは緊張した様子で、「モモさんは?」と、訊ねられたが、モモばあちゃんの言う通りにした。
岡さんは、「居ないの?」と、首を傾げていた。
私は玄関先で振り返り。そっと、「行ってきます」と、言って家を出た。
車を走らせ大津大橋に着くと、国道57号線は、阿蘇から帰る人と、山鹿灯籠まつりに行く人で、車はすごく渋滞していた。
「由樹ちゃん、ちょっと細い山道通って行くけどね。道も悪いし、かなり揺れると思うけど・・」岡さんはそう言い。阿蘇の山を目がけ走り出した。
日は陰り初めていたが、色んな物が私の目に留まった。
山道を登り。さらに下りると、山間の小さな集落に入った。山沿いには茶畑が広がり。
若葉が実り、真夏の風景を織りなしていた。
私は通り過ぎる車窓を追っていた。
岡さんはそんな私のナレーションとなってくれていた。
「もうすぐ着くよ」
岡さんの言葉で、車に乗って初めて、岡さんの顔を見た気がした。
私はモモばあちゃんの気配りを、すっかり忘れていた。
温泉街に近づき、想像以上の町の大きさに、驚いてしまった。
「大きな温泉街ですね」
「そうなんだぁ」
岡さんは、駐車場が見つかったらしく車を止めるのに必死だった。
タイミングの悪さに落ち込んでしまう。
岡さんは車から降りると、運転で汗ばんだ手を拭き、「さあ。由樹ちゃん、行こう」と、
手を出して来た。
私の手は自然に岡さんの手を握っていた。

まつりには多くの人が訪れ、浴衣を着た女性の姿が多く見られた。
私たちは人混みの中を、流されるかのように歩いた。
橋の突端には巨大な金灯籠が飾られ。
街路の入口には「ようこそ・山鹿温泉へ」の垂れ幕が掛かっていた。
岡さんは、私を気にかけながら話してくれた。

「山鹿温泉は、この辺では一番古い温泉地だと思うんだ。周囲にも、たくさんの温泉地があるんだよ。一応ここは山鹿市になるからね。この辺じゃ。黒川、湯布院は全国的に有名だけどね。ここも地元じゃかなり有名だよ」
話しに聞き入っていると、人混みの中から「オイ・・オイ」と、ひときわ大きな声が聞こえ、二人の男性が飛び跳ね両手を振っている。
多くの人が振り返りながら、声のする方向を笑いながら見ていた。
岡さんは、「えっ。」と声を出し、
「何で・・だよ?由樹ちゃん、ごめん」
その言葉で岡さんの友達だとわかった。
岡さんは二人の前に行くと、「待ち合わせ場所は・・?祭り広場だろう。お前たち何やっているんだよ」
「祭り広場は混んでいて、わかりにくいと思って、二人で降りて来たんだ」
「それだけか?25歳の男がすることか?」
「まあ。」と岡さんは肩を叩かれ、
「岡がこんな可愛い子と登場するとは思わなかったよ」
冷やかす二人に、私の目的はあくまでも灯籠まつりだと、言いたい気分だった。
二人は慌てて自己紹介しょうとしたが、
「お前たち、余計なことを話しそうだから、後で一緒に紹介するよ。美保と直が祭り広場で待っているだろう」
岡さんはそう言い。また私の手を取り歩き出した。
祭り広場に着くと、そこには浴衣姿の女性が、二人待っていた。
華やかに浴衣をまとい化粧を施し、女性として自信に満ちていると感じさせた。
「いつまで待たせるのよ」
岡さんは慌てて、「ごめん」と、言っている。
「岡が悪いんじゃないわ。どうせね。この人たちでしょう」
私はかなり四人に圧倒されていた。
「じゃあ。俺が紹介するから、しばらく黙っていてくれよ。(淳こと、桂木淳一)(田代こと、田代雅之)(美保こと、西村美保)(直こと、国崎直)学生時代の同級生なんだよ」
岡さんはみんなの紹介が終わると、少し間を置き考えたように「こちらは中澤由樹ちゃん、仕事で知り合ったんだ。俺の大切な妹ってところかなぁ」
岡さんが言い終わると、それぞれが「よろしく」と言ってくれた。
何故か?美保さんの視線が気になった。
私はみんなが、すごく大人に見え緊張して
いた。
「よろしくおねがいします」と、
やっとの思いで言った気がする。
「さあ、始まるぞう」の声に曲がながれ、
揃いの浴衣姿の女性が流れるように頭に、
金・銀細工の灯籠をのせて踊る。
薄暗闇に灯籠の灯りが浮かび揺らめいていた。
私は幻想的な光景に、ただ茫然と見入るだけだった。
「由樹ちゃん、綺麗だろう」
岡さんの声は聞こえないが、口の動きで
「美しい金灯籠ですね」と反応していた。
曲が鳴り終わり。岡さんの声が私の耳に届いた。
「由樹ちゃん金灯籠は木や金具は一切使わず、和紙と少量の糊だけで作られているんだよ」
私は灯籠の灯りだけを追っていた。
そして、母が残した灯籠まつりの写真が、
物悲しい光景に思えていたが、この光景に
魅了され、写真の印象が大きく変わっていた。
美保さんと直さんは、「私も金灯籠を付けて見たいわ」と、はしゃいでいた。
岡さんは誰かを探している様子だった。
「ちょっと、ここで待っていてくれないかぁ。知り合いの先生がいるんだ。ちょっと挨拶したいんだ。すぐに済むから・・由樹ちゃん、ごめん」と、言って駆けて行った。
岡さんは遥かに年上と思われる人と、親しげに話しをしていた。
その人はみんなの視線を感じたようで近づいて来た。
「今晩は、若い人がたくさん集まると、伝統も続いて行くよ」
「先生はお医者さんだけど、灯籠師でもあるんだ」
岡さんの熱のこもった言い方に、私の心は、何故か揺れていた。
「灯籠師なんて言っちゃ困るよ。本物の灯籠師さんに悪いからね」
「先生。ずいぶん金灯籠や神殿作りをされていますよね。職場の情報ですけどね」
みんなは、二人の話しに合わせるかのように、聞いていた。
「参ったなぁ」
先生は、みんなの顔を見回しながら、笑顔で答えていた。
先生の視線が私に戻り、下を向くしかなかった。
そんな私の様子に先生は、「ああ~申し訳ない。私の知り合いに、似ていた気がしたもので・・」
その後、先生は慌てて、その場をつくろっていたが、「先生、古いなぁ~今時。その手は通用しないよ」と、淳さんが笑って言っている。
先生は恥じるように、「この年になっても、美人には弱いんだよ。若い人には叶わないね。じゃ僕は、ここで失礼するよ」
先生が立ち去った後も私の鼓動は続いていた。そこには不思議な感情があり、
自分を立て直すことが出来ないでいた。
「さあ。杉の屋に行きましょうよ」
直さんの言葉に、岡さんは私の手を取り。
「由樹ちゃん、これから田代の家でちょっと、ご馳走になって帰るけど・・いいかなぁ?」
この状況の速さに大人でも対処はむずかしいのでは・・?、そんな事を思い。苦笑いする
私を岡さんは勘違いし。
「田代の家は旅館をしているんだ。ときどき、お邪魔させてもらうんだよ」と、にこやかに話す。
考える暇もなく。手を引かれ、杉の屋へ向かった。
杉の屋は大きくって、立派な旅館だった。
右手に大きな杉の木があり、
旅館の名前の由来だと一目でわかった。
みんなは手慣れた様子で、「お邪魔します」と声をかけ。フロントを通り過ぎ、かどの
部屋に入って行った。
私と岡さんは少し遅れ、「由樹ちゃん、無理に誘って・・ごめんね」と、
岡さんはまた気を遣っていた。
岡さんに促されて部屋に入ると、すでに料理が運ばれていた。
「美味しそうだわ。由樹ちゃんも座って」
直さんが、やさしく声をかけてくれた。
私は直さんと岡さんの間(あいだ)に座り。
改めて、直さんの浴衣姿に、大人の鮮麗(せんれい)された美しさを感じていた。
「まずは・・乾杯だなぁ」と、
田代さんが立ち上がり、声をかける。
「さすがに・・旅館の若主人は堂々としているねぇ」と淳さんが冷かしている。
田代さんは照れながら、「直の結婚と、由樹ちゃんとの出会いに乾杯・・」
岡さんが透かさず、ジュースを注いでくれた。
しばらくするとドアの音がし。女将さんらしき人が、「いらっしゃい・・」と入って来た。
「いつも・・すいません」みんなが揃ったように言ったあと、田代さんが慌てて、手を差し伸べ「由樹ちゃん」と、私を紹介した。
「まあ。いらっしゃい、ごゆっくりね。今日は、灯籠まつりでしょう。お客様も多くってね。忙しいのよ」女将さんはそう言うと、
笑顔で戻って行った。

「田代、いいのかよ?忙しそうだぜぇ」
「俺は夕方まで働いたよ。もうする事はないしね」
「田代は一人息子で、旅館の後継ぎなんだよ。それにコイツは、熊本市内にマンションを買ってもらって、そこから通っているんだよ。
いい身分だよなぁ。そう言いながら、田代によく世話になるけど、いい友達を持って・・、俺たちは幸せだよなぁ」
淳さんが私に話しかけるように言った。
みんなは箸を置き、頷いていた。
「じゃ~感謝して・・料理をいただきましょうよ」
「直、結婚式は何時(いつ)だ?」
「10月10日(体育の日)よ。忘れないでしょう」
私は、直さんは結婚するんだと改めて直さんの顔を見てしまった。幸せそうな顔が、
いっそう美しく見えた。
「100点の日かぁ~。直、結婚する日に、満点だったら、あとがないんじゃないか?」
「田代、うまいこと言うなぁ~」
直さんは手を掲げ、「ちょっと、酷いこと思い付くわよね。今に始まったことじゃないけど」と、嬉しそうに笑い、
「みんな結婚式には来てくれるでしょう」
「もちろん行くに決まっているさあ」
「ありがとう」
「美保はもらい手がないのかよう?」
「私だって・・・無いことは無いよ」
「お前、ちょっと気が強いから、そこを何とか直せば俺だって考えて上げてもいいけどね」
「冗談言わないでよ。淳、なんかと結婚したら最悪だわ」
「じゃ、田代の嫁になったら、旅館の若女将だぜぇ」
「私は無理だよ。女将さんは美人じゃないと、由樹ちゃん見たいな人が、いいんじゃないの?」
「俺も、そう思う」
「田代も言うねぇ」
何で・・?私が入るの・・わからない・・?私は自然に直さんの方へ肩を寄せていた。
「由樹ちゃんに振って、可哀想でしょう」と言い、直さんは化粧室に向かった。
岡さんも、「由樹ちゃん・・ごめん」と、
手を合わせて云った。
「もう結婚の話しはやめようぜ、友達同士で、くっついてどうするんだよ」
岡さんの言葉に美保さんの顔が変わった。
美保さんは軽く後ろ見て激しい顔で・・、
「岡、直の結婚が決まったとき、どう思ったの・・?学生の頃はお互い好きだったんじゃないの?」
私は突然の美保さんの発言に、衝撃を受けていた。そして、岡さんの顔も変わっていた。
「3年前の話しだろう」
「美保。」と、淳さんが止めていた。
そのとき、直さんは戻り部屋の中にいた。
話しの内容を把握したようで、歩く足が一瞬すくんだように見えた。
直さんは立ったまま、「恋愛しても必ずしも、結婚するとは限らないでしょう。私たちは、お互いわかったのよ。最終的に求めている相
手は違うんじゃないかと。そして、友達でいようって・・」
「そんなに簡単に友達でいられるの?」
「いられるわ。そんな簡単な友達じゃないでしょう」
直さんは毅然とした態度で言った。
「直の気持ちはわかったわ。私は、岡が直の当て付けに、由樹ちゃんを連れて来たと思っていたのよ」
「そんなんじゃないよ。由樹ちゃんに悪いだろう」
「美保、どうしたんだよ。いい加減にしろよなぁ」と淳さんに言われ、美保さんは横を向いていた。
岡さんは田代さんの顔を見て、軽く頭を下げ立ち上がり。
「由樹ちゃん、帰ろうか」と声をかけてきた。
田代さんも立ち上がり、「由樹ちゃんは未成年だもんなあ。これ以上、遅くなる訳にはいかないよなあ」
田代さんもこの状況に戸惑った様子だった。
私の横で直さんは、私の膝に軽く手を添え、
「由樹ちゃん、驚いたでしょう。いつもこうなの、思ったことを言ちゃうのよね。だから、こうして友達でいられるのよ」
直さんは、美保さんを気にした様子で言った。
その後、直さんはさりげなく、「由樹ちゃん、帰りに車が混んでいると思うからね」と、
私の手を取り化粧室に誘った。

直さんは歩きながら、「由樹ちゃん、せっかく来てくれたのに本当にごめんなさい。美保は、悪気はないの。いつも思ったことを直球で言ってしまうけど、女性は男性と違って、ある程度の年齢で一度は真剣に結婚を考えると思うの。男性は無神経なところがあるから、美保はそんなところに怒ったと思うのよ」
私は正直、会話にはついて行くことは出来
なかったけど・・・けして、居心地の悪い
ものではなかったことを直さんに伝えた。
「ありがとう」と、直さんは少し安心した
様子だった。
そうして、直さんと田代さんが玄関先まで送ってくれ、私たちは車へと向かった。
私は車の中から窓を開け、二人に手を振り、
「さようなら」と、告げた。
岡さんは軽くクラクションを鳴らし、
前方を確認し車を走らせた。
岡さんが直さんと目を合わすことはなかった。
私は一瞬。岡さんは今でも直さんのことが、
好きなんだろうか?と、考えてしまったが、
私には、もう一つ気になっていることが
あったが、岡さんのハンドルを握る手が固く感じられ、言い出すことが出来ないでいた。
しばらく、お互い黙ったままだった。

「思ったより道は混んでないね。
いつもより元気のない声がした。
車は国道を走り、来た道とは違っていた。
車窓からは、目を凝ら(こ)しても何も見ることは
出来なかった。
時折、対向車が通り、ヘットライトが二人を照らしていた。
「誘ってよかったのかなあ?」
岡さんの後悔したような言い方に、
私は、つい写真のことを話していた。
「山鹿灯籠まつりの写真を持っているのよ。お母さんの物だけど・・」
岡さんは驚いたように、「そうなんだぁ・・由樹ちゃん、灯籠まつりに誘ったとき驚いた顔をしていた気がするよ」
「是非、観たいと思っていたのよ」
岡さんは少し安心した顔になり、
「ああ。モモさんに、遅くなることを連絡しょうと思っていたのに・・・もう、着いてしまうよ」
私は灯籠まつりで出会った先生のことを、
訊ねようと思っていたので・・思わず
「えっ」と声を出していた。
「早く着いてよかったね」と、
やさしく微笑む岡さんに訊ねることは出来なかった。
到着すると、岡さんも車から降り。
「由樹ちゃん、これからも・・よろしく」と、
改まったように言った。
「ええ。岡さん、今日はありがとう」
私は家を前にし、モモばあちゃんが心配しているのではないか、そんな思いでふり返ることなく家に入った。

居間の電気が付いていた。時間を確認すると23時58分を指していた。
居間に行くと、モモばあちゃんは、すでに寝ていた。
岡さんの車の音が聞こえた。
「ニャ~ン」と、桂が、モモばあちゃんの座布団から近づいて来た。
桂はすっかり私にも懐い(なつ)ていた。
桂を抱き、居間の電気を消し、私の部屋に向かった。
東の窓の網戸から涼しい風が入って来た。
おじいちゃんの時計は、2分遅れて0時を指していた。
おばあちゃんやお母さんが帰って来ている?そんな気がした。
卓袱台には16日まで盆休みと、モモばあちゃんのメモが置かれていた。

その夜は、なかなか寝付くことが出来なかった。浅眠状態のまま早朝を迎えていた。
太陽の光りが窓ガラスに反射して、
目を開けることが出来ないでいた。
「お天道様が応援しているよ」
おばあちゃんの声がした。
私はハッとし起き上がっていた。
ここには、見えないおばあちゃんがいるんだと思い微笑んでいた。
顔を洗うとすっきりし、台所へそっと向かった。モモばあちゃんは、まだ寝ている様子だった。今日は、私が朝食の支度が出来ると思うとつい力が入る。
お味噌汁を作っていると、味噌の香りに思わず。「お腹が・・空いた」
モモばあちゃんが居間から聞いたようで。
「由樹ちゃん、やっぱり、デートの時は食べられないものかねぇ?」と、笑っている。
「はっきり言いますけど、昨日はデートではありません。灯籠まつりに行っただけです」私が剝(む)きになるほど、モモばあちゃんが笑う。
「さあ、私は送り団子を作るよ」
二人で台所に立っていた。
きっと、おばあちゃんは、この光景を見てくれているに違いないと思った。

「由樹ちゃん、頭の上の鍋が取れるかい?」
手を差し伸べ背伸びする姿に、「大丈夫かい。そこに私専用の踏み台があるよ」
モモばあちゃんは離れた所から言っていた。鍋が取れると、近寄り。
「由樹ちゃん、デカくって・・いいねぇ」と、感心したように言う。
「デカい?」私は鍋を落としそうになる。
「こんな時は、デカくって、じゃなくって、身長が高くっていいねぇ・・と、言うのよ」
「そうとも言うねぇ」
一歩も引かないモモばあちゃん。
「しかし、由樹ちゃんが居てくれて助かるよ」と、言いながら送り団子を作っている。
「由樹ちゃん、朝食を済ませたら、送り団子と、ご先祖様の乗り物を持って、川に流しに行くよ」
送り団子はご先祖様の天国へのお土産になると、話してくれる。
ここに来て知らないことが次々と起こる。
一日があっと言う間に過ぎてしまう。
楽しい生活が、急速に過ぎるのを感じていた。
モモばあちゃんは、お団子と乗り物を、昨晩。作ったという竹で編んだ舟に乗せ仕度をした。
「由樹ちゃん、川に行くよ」
モモばあちゃんの急ぎ足に私は慌てて後を追った。
家の裏手に大きな洞窟があり。そこを下ると、山から続く小さな川が流れている。
「由樹ちゃん、ここにしゃがみ・・」
舟を受け取り、腰を下ろした。
「手を合わせて、来年もお待ちしていますと言って流すんだよ」
川の水がきらきらと光っていた。
「今では、こう言う事もしなくなったが、私は心が安まるんだよ」
私にも、わかるような気がした。
モモばあちゃんは空を見上げ、「雲合いが悪くなって来たよ。こりゃ~今日は雨模様になるよ」私はしばらく空を見上げていた。

9月になると野菜の収穫も増え、毎日忙しい日々が続いた。
私はますます日焼けをしていた。
モモばあちゃんは、そんな私を見ては、
「こりゃ~大変だ」と、大笑いをしている。
「色白は七難隠すと言うが、参った・参った」また大笑いする。
夜になるとモモばあちゃんと一緒に、アロエやキュウリのパックをした。
二人の異様な顔に桂も驚き、逃げて行く様子を見て、今度は二人で大笑いする。
厳しい夏も過ぎ、秋も深まった頃。トキさん、
スミさん、ミヨさん、モモばあちゃんとで、久住高原にある温泉(天空の湯)に出かけた。私は運転にも慣れ、ハンドルを握ってもドキドキすることはなかった。
そんな私に、「しかしなぁ~天空の湯に着く前に、天国に近くなるんじゃないか?」と、大笑いされた。
「もう、由樹ちゃんの運転は大丈夫だよ・・。桂もときには乗り込むことがあるからねぇ」
「車に猫がねぇ・・そりゃ~めずらしいねぇ?」
私は話しがどこまで飛んで行くんだろうと、思いながら聞いていた。みんなの口は閉じることはなかった。
「ちょっと、ちょっと、ススキがきれいだよ」
「どれ・・どれ」
私はススキを見るより、バックミラーで
みんなの顔を確認していた。
モモばあちゃんは助手席に乗っていた。
みんなが話すたびに体を乗り出し見ている
ので、車酔いしないかと心配をしていた。
突然、ミヨさんが唄い出す。

『ススキの子・・ススキの子・・どこ行くの・・?わたしゃ・・ふもとまで・・おつかいに・・風に吹かれて行き帰り』

それを聞き、みんなが楽しそうに唄い出す。
私は聞き入ってしまった。
「かわいい唄だね」と、モモばあちゃんに話し掛けると、モモばあちゃんは、にっこりと笑い、かわいく頭を左右に動かし、リズム取り。
『わたしも・・一緒に・・つれしゃんせぇ』と唄う。
「なんて言う唄なの・・?曲名は?」
訊ねると、「知らないよ?親から教わった」
私は唄が気に入り、帰りには一緒に唄っていた。
「ああ。楽しかったねぇ」
「本当だねぇ。この年になって子供に返れたよ。楽しい時間は、あっと言う間に過ぎるねぇ」
「由樹ちゃん、来年の春には卒業だねぇ」
その言葉に「?マーク」はなかった。
「そうだね・・」
「進路は見つかったかい?」
私は深く頷き、「おばあさん学校でたくさん学んだからね」
「エエ。そう言ってくれるのかい嬉しいねぇ」
みんなの言葉に、「由樹ちゃん、運転中は泣いちゃいけないよ」と、モモばあちゃんは涙を拭き言った。
日は暮れ、山の木々が乾いた色に見えていた。
「由樹ちゃん、今日が山への配達は最後だからねぇ」
「・・・さみしいなぁ~」
「また、春になったら行けるさぁ」
「春・・」
冬間近になると、阿蘇山の道の駅は、ほとんどが閉まり。高原はひとときの休息を迎える。
「じゃあ、行ってきます」
「由樹ちゃん、山は霧が掛かるから気を付けて行くんだよ」
いつものように車を走らせ山へと向かった。
「ああ、由樹ちゃんお疲れさん。冬になると、いつ店を閉めようかと悩むよ」
配達はしているが、ほとんど売れていない。
「はい・・これ」と、
お菓子を渡され困ってしまうが、
「残り物だから」と笑って言われ。
結局、いただいて帰る。高原を通り遠回りをしながら帰る。
山の木々も葉を落し冬じたくを始めている。
牧草地の牛も牛舎に帰り。モウモウおじさんにお菓子を渡すことは出来ない。
新年は大阪に帰り。美子おばさんの家で過ごすことにしている。
私の日焼けした顔も、もとに戻り、
モモばあちゃんが安心していた。
「あんなに日焼けすることは、二度とないよ」と笑っている。
私は、すごくさみしい思いでいた。
しかし、この生活が私の宝になり、
励みになることを確信していた。
美子おばさんの所に行く前に、荷物を送ることにした。箱の中には、冬野菜に、干し柿を入れることにした。
モモばあちゃんは、干し柿と野菜を新聞紙で包んで手伝ってくれている。
「いい・・おみやげになるよ」
「そうだね・・」
私は祖父母と母のお墓参りをして7日ほど
して高森に帰って来た。
冬の間は職場も休業になり。
モモばあちゃんもお弁当を作る事はなかった。
それでもモモばあちゃんは5時半に起き、
畑と納屋を動き廻っている。私も自然にモモばあちゃんに合わせた生活をしている。
凍りついた野菜を取り、手の感覚がなくなる。
さらに水洗い、体が完全に冷え切ってしまう。
「さあ。温まる朝食を作ろうかねぇ」
「うれしい・・」手に息を掛けながら言っていた。
「冷えたら温まったらいいんだよ」
モモばあちゃんの白い息に納得してしまう。
午後からは殆んど仕事はなく。モモばあちゃんは車のクッションを編んでいる。
私も介護福祉士の資格の勉強を始めた。
桂はこたつの中で丸くなっている。
こうして、穏やかに過ぎ。モモばあちゃんの家を出る日が近づいていた。
就職先だけは自分の力で決めようと考えていたが見つからず。結局。岡さんを通じ、
森下先生の紹介で、熊本市内にある介護老人保健施設を面接する事になった。
岡さんの施設はどうか?と勧められたが、
敢えて、岡さんとの距離を置くことで、今の関係が長く続くと考えていた。
私はこの機会に訊ねて見た。
「岡さん、森下先生は西野記念病院に勤めていたことがある?」
岡さんは突然の言葉に驚いた様子だった。
「無いと思うよ。先生は、施設系列の病院の院長なんだ。それに理事長とも親戚にあたるしね」
「そう。」私は携帯電話を耳から少し離して
しまっていた。
「由樹ちゃん・・」と呼ぶ声に慌てて携帯を耳に寄せた。
「どうして?」
「私の勘違い・・・」
岡さんの表情はわからないが、きっと疑問を感じているだろうと思ってしまった。
少しのきっかけを大きく捉えていることに、気づかされたようだった。
数日後、面接の結果―就職が決まった。
モモばあちゃんは、寮の設備もあり賛成してくれた。
モモばあちゃんの手伝いは、お嫁さんが本腰を入れて手伝いたいと言ってくれたそうで、嬉しそうだった。

寮に入る前日に、イーゼルで私を送る会を開いてくれる事になった。
当日。トキさんやミヨさんたちが手料理を携え集まってくれていた。
しばらくすると、ドアが開き。ヒロさんの声が聞こえた。
「おやじを送って来たぁ・・電動カーに乗って向かっているのを、捕まえて無理やり。車に乗せて来たよ」
みんなは嬉しそうに「政さん」と、声を掛け。「ヒロさん・・ご苦労さん・・」と、
モモばあちゃんが言っていた。
政さんは怒った顔し、立っていた。
政さんは、室内を杖歩行が出来るようになっていた。
私が近づき、「捕まったの?」と、訊ねると、「ああ。」とにこやかな顔に、政さんの、お芝居だとすぐに分かった。
ヒロさんは参ったよ・・山坂を電動カーで登れる訳ないだろうと、まだ呆れたように言っている。
「帰りは私が送るから・・」
「あぁ・・頼むよ」と、大きく頷き、
職場へと向かうヒロさんを林太郎だけが見送っていた。
政さんが椅子に掛けると、私は隣で「こんなに幸せでいいの・・?」と言っていた。
「普通だよ。これぐらいの幸せは誰だってある物さぁ。素直に感じるかの違いだよ。幸せを感じる事に遠慮してはいけないよ。人生は苦しい事も多いからねぇ」
二人の会話が聞こえていたようで、誰もが目を潤ませ笑っていた。
こうして、みんなに励まされ。
翌日。施設の寮へ引っ越して行った。

介護の仕事は、考えていた以上に大変だった。
モモばあちゃんの家を離れてから一年半が過ぎ、私は20歳になっていた。
モモばあちゃんは変わりなく。元気で働いている。
私は就職してから、阿蘇の山に登ることはなかった。夏を迎え、高原の光景を思い出していた。
思わずモモばあちゃんに電話を入れていた。
高原での話しを懐かしそうにすると、
「由樹ちゃん、外国にでも居るんかい・・?
阿蘇の山は目の前にあるよ」
その通りだった。熊本市内に居ても、阿蘇山は目の前に見えていたが、現在の心境では、近くって遠い山になっていた。
その後、モモばあちゃんは、驚くようなことを話した。
「しのぶさんには、ご主人らしき人がいて、
それも外国の人で、最近イーゼルに帰って来ているよ。何らかの事情で別れが、何らかの事情で・?また、一緒に暮らすことになったそうだよ」モモばあちゃんの話しに、
私は「え。」「あ。」と聞いていた。
「その人が面白い人で、イーゼルに客が増えたって噂だよ」
「モモばあちゃん、その人に会ったの?」
「会ったよ」
「どんな人だったの?」
「ケンタッキーのような人だったよ」
「ケンタッキー?」
「白い髭のおじさん、あんなに年は取っていないと思うけどねぇ」
私は笑いを堪え、「カーネル・サンダース?」
「由樹ちゃん、今度帰って来るときの楽しみが一つ増えたねぇ」
私はまだ、モモばあちゃんに元気をもらっている。
そんな中。岡さんからメールが届いた。
長い文面が気になりながら目を通した。
森下先生が二人で自宅に訪ねてほしいと言う内容だった。
岡さんが私に気を遣っている文面が、長々と綴(つづ)られていた。その中に岡さんが疑問を投げかけるところも感じ取れた。
私も先生のお宅を訪ねることに、少し抵抗はあったが、就職の際お世話になり。直接お礼を言っていないこともあり。
「伺います」とメールを送った。
すぐに返信が届いた。
訪問する日を決める内容だった。
何度かメールのやり取りを繰り返し、
先生の自宅を伺う日が決まった。
約束の日は雨が降っていた。
岡さんは車の中で、先生に関することを少し話してくれた。
「自宅は熊本市内にあり。現在は一人暮らしをされているだ。奥様はずいぶん前に亡くなり。日中は通いのお手伝いさんがいるけどね。
僕は一度だけ伺ったことがあるんだけどね。
自宅の庭に大きな柿の木があって、塀からはみ出し目印になっている。その柿が美味しいんだよ。この季節になると先生がたくさんの柿を職場に持って来てくれるんだよ」

住宅街に入ると、色付いた柿が異彩を放していた。
「この季節になると、夜も迷うことがないよ」
車を降りると雨は小降りになっていた。
岡さんは少し笑いながら、「由樹ちゃん、柿の枝を見てごらんよ」
岡さんの指差す方向を見て一目でわかった。
「てるてる坊主・・」
柿で作ったてるてる坊主が揺れていた。
私の緊張も解れ、二人で無邪気に笑っていた。その声が届いたのか、森下先生が待ち兼ねたように出迎えてくれた。
先生もてるてる坊主に気づき、「これは・・いいねぇ。きっと、多美さんの仕業だよ」
しばらく三人で眺めていると、雨雲が流れ、空が変わろうとしていた。
「さあ。中に入って・・」

客間に案内されると、そこには金灯籠が飾られていた。
奥の方から女性の声がした。
「先生、お客様がいらっしゃいましたか?」
慌てた様子で、客間を覗き、「すいません。料理に夢中になっていたもので・・」
先生は笑いながら、「いいんだよ。紹介をするよ。僕が長年お世話になっている永原多美さんだよ」
「いらっしゃいませ・・ただのお手伝いですよ。すぐにお茶をお持ちしますからね」
私はまた緊張をしていた。
そんな私に気づいたように、「先生のご自宅に招待していただき少し緊張していますよ」岡さんの言葉に、先生はにこやかに、
「僕もだよ。自宅で若い人と過ごすことは殆んどないからね」
岡さんの機転で雰囲気は和み、私は就職の際にお世話になり。ご挨拶が遅れたことをお詫びした。
「大したことをした訳でもないのに、今日は君たちを呼びつけるかたちになってしまい。申し訳なく思っているよ」

ドアがノックされ、お茶が運ばれて来た。
「ケーキを召し上がって見てくださいなぁ。
パソコンで検索したら、熊本市内でNO1のケーキだそうですよ。私も、この頃、やっと、娘のパソコンが少し使えるようになりました」
「じゃ、さっそくいただくことにしょう」
「先生、夕食もみなさんで召し上がっていただこうと思い、準備をしていますからね・・。ご用の際はお呼びください」
温かい紅茶に甘いケーキで先生も私たちも、ほっとした様子で庭を眺めながらいただいていた。
「先生、今年もたくさん柿がなりましたね」
「この柿の木も20年になるよ」
「由樹ちゃんと、一緒だね・・」
私はぼんやりと柿の木を見ていた。

「突然。君たちに、こんな事を言うのは迷惑な話しだろうが。実は、私にはもう一度逢いたい人がいてね。灯籠まつりの日に逢える気がして、待ち続けていた日々があった」
先生の言葉は、私が消し去る事のできない思いと同じたった。
先生はお茶を飲み終わると、私の顔を見つめ話し始めた。
「もう一年以上なるかなぁ。由樹さんの就職の際に、岡君に君の事を聞き、大阪から来たという事だった。君に灯籠まつりの日に会った事も重なり。容姿が、その人に似ていた」
先生は言葉が詰まったように「いや。」と手を組んだままだった。

私は思わず。「その人の名前は・・?」
内心、母の名前がでるのが怖いはずなのに訊ねていた。
「・・中澤敬子」
頭の中に渦を巻いたように入ってくる。
震えそうな体を両手で支えていた。
岡さんは私の異変に気が付いたようで、心配そうな表情で見つめていた。
「・・母の名前です」やっとの思いで言っていた。
先生は眉を寄せ軽く目を伏せ、「健在ですか?」と訊ねる。
私の唇は堅くなるばかりだった。
息苦しくなる中で息を吐くように、
「私が5歳のときに亡くなりました」
唇は震え、私の手は軽く握られていた。
何度か握った手に安心感を覚えた。
先生は目を伏せたまま、青ざめた表情へと
変わっていった。
先生は静かに立ち上がり。飾り棚の一点を見つめていた。
そこには灯籠まつりの写真が飾られていた。

「母も同じ写真を持っていました」
私は確信を得るかのように口にしていた。
さらに唇は震えていた。
すると、先生は庭に近づきガラス戸を開けた。
冷たい風が部屋の中に舞った。
寒くはないかと訊ねられたが、張り詰めた空気の中で、ただ首を振るだけたった。
先生はソファーに座り直し。
「もう25年前のことになるが時効として聞いてほしい・・」
岡さんは私の手を強く握り、軽く俯いていた。
その行為に強い意志が働き。
「聞かせてください・・」と、答えていた。
唇が震えることはなかった。

「あの頃。私は病んでいたんだよ。精神的な病みというか。妻も長いこと入院しており。状態も悪化の一途を辿っていた。精神状態も悪く、当然のことだと思いできる限り、妻を支えようと思っていた。しかし仕事も忙しく、私自身が肉体的にも精神的も疲れ果ててしまった。
診察中。ペンを持つ手が震え、机の下の足もガタガタ震える始末。診察が終わり。中澤君に、僕も安定剤が必要だと漏らしていた。彼女は、(先生も同じ人間ですよ)と、言ってくれた。毎日のように診察の介助にあたっていたので、私の状態に気づき、ほっとく事が出来なかったんだろう。
(先生、美味しい物でも食べに行きましょうか?)彼女の気軽な誘いに、私は内心少し救われたような気持ちだった。
私は彼女と食事をしながら、自分の事ばかり話していたように思う。小さい頃の話し、両親のこと。医者を目指したきっかけ、妻との出会い、趣味の話しまで。彼女は、私の心を汲み取ったように聞いてくれ。時には厳しく、時にはやさしく、それが、いつも自然体だった。10歳ほど年下の彼女に完全に甘えていた。彼女は、職場の人たちの信頼も厚く。患者さんの対応も一見違っていた。人の心を包み込むようなやさしさを感じられる人だった。私もある意味患者になっていた。

彼女と食事するに連れ。私は元気を取り戻した。しかし、あとで思ったよ。私は彼女に対し、私自身の都合のいい取り方をしているんじゃないか?そんな中。妻から、(死を迎えるのであれば熊本に帰りたいんです。最後の願いを聞いてくれますか?)私は茫然と思った。(二兎(にと)を追う者は一(いつ)兎(と)を得ず)=そんな諺(ことわざ)が過ったよ。
もちろん、中澤君に妻が言ったことを話した。彼女は、(今、先生が一番に考えることは、奥様のことだと思います。大切な人を守ってあげて下さい。愛は幻のごとく消えて行く場合もあるでしょう)彼女は微笑みながら言ったよ。それから妻を熊本の病院に転院させた。私も、現在の病院の理事長が遠縁にあたり、理事長の計らいで働くことになった」

真相が明らかになるに連れて、私の胸は痛み、重たい十字架が迫っているのを感じていた。
それでも先生の言葉を聞き逃さないように努める意志が強く働いていた。
先生は話し終わると、安堵(あんど)の表情に変わっていた。
私は戸惑いながら話しかけていた。
「母は熊本に尋ねて来たんですね」
先生もまた戸惑った様子で、「二度ほど来てくれたよ。引っ越しの日と、灯籠まつりの日に・・」
「灯籠まつりの日の、母の様子を聞かせて下さい」
すると、先生は、「温かいお茶でも入れてもらおう」と言って、離れて行ってしまった。
私は思わず岡さんに、「ごめんなさい・・」と言っていた。
「いいや・・」と彼は首を振っていた。
先生を待つ間。時間が止まったように思われた。
すると、先生はドアの前でお茶を受け取っていた。
岡さんが慌てて先生の傍に近づく様子に、
多美さんは困った様子だった。
先生は灯籠まつりの写真を手に取り、話し始めた。
「彼女は金灯籠を見て、(幻想的で、ときとして悲しいですね。私も金灯籠をのせて踊って見たい)そんなことを言ったよ。今のように祭りも、艶やかなものではなかった・・。
そして、ぽっりと「先生、納得のいく後悔ってあるのでしょうか?」彼女はそう言うと、人混みの中にはぐれてしまった。その夜。遅くにホテルから連絡があり。心配かけたことを詫びていたよ。そして、別れを告げられた」
私は、先生の鮮明な記憶の中に引き込まれて行った。
先生は一瞬、表情を変え、「中澤君は・・・結婚して・・」後の言葉がないまま・・熱い視線が注がれる。
私はこの状況に耐えられなくなっていた。
父親が森下先生であれば、二人の関係を許すことができないでいた。
抵抗するかのように淡々と喋っていた。
「母は結婚し、父の仕事の都合で東京に行き。私が生まれたそうです。父も交通事故で亡くなっていましたので、母が亡くなった後・・
中澤の籍に入り。祖父母のいる大阪で育ちました」
素直な気持ちを見つけられないまま・・父親へのあこがれは消えていた。
岡さんも、また関心の糸に引き寄せられたように、「先生、立ち入ったことを訊きますが、奥様が亡くなられた後。由樹ちゃんのお母さんに、連絡は取らなかったんですか?」
「由樹さんのお父さんには悪いが、妻が亡くなって、二年が過ぎた頃。以前、勤めた病院に電話をかけることがあり。その時に、対応してくれたのが、知り合いの看護師だった。彼女のことを訊いて見たよ。しかし既に病院を辞めていた。彼女が亡くなったと聞いて・・、ここまで話してしまった」

先生は20年間の糸が切れたようだった。
それぞれが複雑な思いで庭を眺めていた。
私たちは夕食をご馳走になったが、箸が進まず多美さんが気にしていた。
帰る直前に岡さんが、多美さんと何かを話していた。そのあと私が挨拶すると、
「年頃の女性が口をパクパクさせて、男性の前でそんなに食べられるものじゃないから、そんなに気にしないで下さいね」と、
多美さんが言ってくれた。
先生は奥の方から箱を抱え足元に置いた。
「不思議な出会いだと思っているよ。私に出来ることがあれば相談してほしい。今日は、訪ねて来てくれてありがとう。仕事も大変だと思うが頑張りなさい」
私は黙ったまま、先生の顔を見ることができなかった。
「岡君、柿を箱に詰めて置いたよ」
「先生、ありがとうございます。是非。由樹ちゃんにも食べてもらいますよ」
先生は箱の中から柿を一つ取り出し、
「柿は実を付けるまで8年かかる」
そう言い私の掌に載せてくれた。
外に出ると雨はあがり、街灯に照らされた柿が黄金色に輝き、あの日の金灯籠の灯りを感じさせた。古い記憶が甦った。
私は母と一緒に灯籠まつりに来ていた。
車を走らせ路地を曲がると、門の前に立つ
先生の姿が見えた。
岡さんと私は交わす言葉もなく別れた。
 
(知らない方が幸せな事もある)
モモばあちゃんの言葉が過っていた。
それと同時に、母が私に宛てた手紙の事を、思いだしていたが、確認する勇気は残ってはいなかった。
勤務が終わると、落ち込む毎日が続いた。
出生の真実があったとしても、けして口にすることは出来ない。モモばあちゃんにも言えない秘密を抱えてしまった。
そう思うと、不思議とモモばあちゃんに会いたくなる。
電話を入れると、声は嗄れ(か)風邪を引いた様子だった。桂がくしゃみをしていて風邪がうつったと、相変わらずふざけていたが、猫が風邪をうつすのかと本気で考えてしまった。

休日にモモばあちゃんの様子を見に帰った。
途中でフルーツタルトを買った。
以前。こんな豪勢で美味しい物はないよと
言っていた。
私は出来るだけ明るく振る舞った。
モモばあちゃんは風邪も治り元気そうだった。
「お見舞い・・」ケーキの箱を渡すと、
「手ぶらで、帰っておいでと、言っているのに」
箱から出しお皿に移すと、
「食べるが勿体ないねぇ」と言い。
嬉しそうに食べていた。
「由樹ちゃん、イーゼルに行って見ようよ。まだ、カーネルさんに会っていないだろう」
「しのぶさんのご主人?」
しのぶさんとは久しぶりだった。
正直、どんな顔をすればいいのか・・?
わからなかった。
「由樹ちゃん、運転上手になったねぇ」と、感心している。
「車が・・いいからだよ」
「そうかい・・」
私が、配達に使っていた車を、プレゼントと
してもらい。今も乗っている。

イーゼルに着くと庭でしのぶさんとカーネルさんが何か・・?を作っていた。
「しのぶさん、こんにちは・・」
「まあ。由樹ちゃん、いらっしゃい・・ピザ窯を作っているのよ」
しのぶさんはすごく楽しそうだった。
顔は生き生きとし、さらに美しく見えていた。
「由樹ちゃん、紹介するわね」
しのぶさんは微笑み。
「カーネルで・・いいでしょう」
その人は流暢(りゅうちょう)な日本語で、「カーネル・サンダースと言います」
「名付け親は、地元の人なの。彼もそれでいいって」
私は、いつもと違う雰囲気に気づき、あたりを見回していた。
そんな中。「ワンワン」と、林太郎が駆けてくる。
「林太郎、久しぶりだね。どこに居たの?」
「ワンワン」
顔を何度も触り、抱きしめていた。
林太郎は犬小屋をカーネルさんに作ってもらったそうで、林太郎のお気に入りの場所になっていると、しのぶさんが話してくれた。
「寒くなると、お客様も少ないのよ。さあ、中に入りましょう」
カーネルさんは、まだ作業を続けていた。
モモばあちゃんと中に入ると、しのぶさんがミルクココアを入れてくれた。
モモばあちゃんと私はイーゼルにお客として来たことがない。
しのぶさんは、いつも身内を迎えるように接してくれる。
窓からカーネルさんの姿が見える。
林太郎はカーネルさんの傍らで動きを追っている。
しのぶさんは窓から様子を見ながら・・・
カーネルさんとの出会いを話してくれた。

「トーマスは私の初恋の人なのよ。高校生のときに、カナダにホームスティ―したことがあって、スキー場でインストラクターとして、アルバイトをしていた彼に出会ったの・・。でも、二ヶ月ほどで日本に帰って来てしまったので、楽しい思い出として残しておこうと思っていたの。大学を卒場して、英語が話せれば何とかなると思い海外に渡ったの、目標を持っていた訳でもなかった。そんな私に両親はすごく反対したけど、私は若さで不安もなかったのね。

現実は厳しく、海外を放浪している状態だった。結局、仕事は日本人旅行者の通訳だけだった。貧困よりも孤独感に潰れそうになっていたの、そんなときにトーマスと再会したの、奇跡を神様に感謝するほどのものだった」

しのぶさんは窓越しに映るトーマスさんの姿を熱い視線で追い話しを続けた。
私とモモばあちゃんは温かいココアを飲みながら秋の午後に相応しい物語でも聞くような感じで聞き入っていた。

「トーマスの経営するオフィスで働くことになって、生活も安定したの。トーマスの温かい心に触れ、私は自信を取り戻すことができた。トーマスと出会う前のことだけど・・・、ある日。私は、あるレストランに出かけたの、美味しい物を食べたら、元気が出るような気がして、単純な考えね。
レストランのドアを開け、中に入ろうとすると、『It is not match for you』貴女には相応しくないと追い返されたの。それから5年が過ぎ、トーマスに誘われ、偶然。あのレストランで食事をすることになったの、店内に入ると、シンプルで高級感溢れる空間。料理も繊細でやさしい味だった。私はトーマスに、このレストランで、食事が叶い感激していると伝え、あの日の出来事を話したの。

彼はオードブルを食べ終わるとボーイを呼び、この料理は『It is not match for us 』私たちには相応しくないと告げたの。慌ててボーイは直ぐに、シェフに伝えたんでしょうね。料理長が現れ、トーマスは店内も料理も最高だと思うがね。トーマスは微笑みながら、以前、私が言われたことを返したと話した。

料理長は、この店で働く者は殆んどが他国人にすぎないのに、何を血迷ったか?彼も微笑みながら、あの日は食材が腐りかけていたのでしょう。今日は最高の食材で最高の料理を提供致しますので、ごゆっくりと、ご賞味ください。私はその時に、人への思いやりがなければ、生まれない信頼関係を教えられたような気がしたの」
しのぶさんは少し沈んだ表情になった。

「私に深い事情が出来てしまい、やむを得ず、日本に帰って来たの・・トーマスと過ごした10年間、あれから10年近く経ってトーマスと3度目の出会いをしたの」
私は、しのぶさんが話してくれたことが嬉しかった。
ここに三人の絆があるように思えた。
モモばあちゃんを見ると、気持ちよさそうに頭が揺れていた。
しのぶさんは静かに立ち、窓に近づき、
「トーマス、お茶にしましょう」
トーマスさんと林太郎が中に入って来た。
白い髭はやさしく、やはりカーネル・サンダーを思わせた。
カーネルさんは嬉しそうに。
「由樹ちゃん、モモさん、もうすぐピザ窯が完成するよ。得意なピザをご馳走できる」
林太郎はカーネルさんの顔を見て、お道化ていた。
「トーマス無理をしないで、ゆっくり作ればいいのよ」
「しのぶは・・僕の主治医だからね」
私が不思議そうな顔をすると、小さな声で
「4度目はないから」しのぶさんの声が切なく聞こえた。
帰り道。モモばあちゃんが、ぽっりと・・、
「せっないねぇ。しかし、しのぶさんは・・幸せなんだよ。由樹ちゃんは、彼氏見つかりそうかい?」
私に振る・・?本当は恋人なんて考えられないと、口にしたい気持ちだったが・・、
「まだ・・だよ」
「それは可哀想にねぇ。桂も彼氏見つけたよ」
「そうなんだ。桂もやるね」と笑って見せた。
「こりゃ~まだまだ時間がかかりそうだよ。
由樹ちゃんは素直すぎて傷つきやすいところがあるからねぇ。それにいい人が現れても気が付かないところもあるしねぇ」
「そうかなぁ?」
「さあ。元気の付く物作るろうかねぇ」
「エェ。」どうして、わかるんだろう・・?
「身近にいる子ほど可愛いんだよ」
冷えた心も笑ってしまう。
その夜は、モモばあちゃんの横に布団を敷き、桂と一緒に布団に入った。
胸のあたりで、桂の心音が心地よく伝わってくる。
モモばあちゃんも眠気がさしたようで、
話しがとぎれとぎれになっていた。
翌朝。モモばあちゃんが布団からでる気配を感じ。薄ら目を開け寝返りすると、
「まだ・・まだ・・寝ていていいよ」
モモばあちゃんが布団から出ると、私と寝ていたはずの桂が後から出てきた。
冷んやりした空気の中。布団の温かさが体にまとわりつく。
「昨晩。あずきを水に浸けて置いたから・・、今から赤飯を炊くよ。出来たら起こすよ」
そう言い、モモばあちゃんは襖を閉めた。
目を閉じると、そのまま眠っていた。
「由樹ちゃん・・出来たよ」
頬に手をあてられ起こされていた。
また夢を見ていた。それが夢なのか、空想の世界なのか分からないでいた。
居間に入ると、朝なのに・・?ご馳走が並んでいた。
「どうせ・・正月は仕事なんだろう」
「お正月・・見たいだね」
お煮しめ、鶏の唐揚げまである。
「昨日からたくさん食べているよね」
お赤飯の上に唐揚げをのせていた。
「可笑しな夢を見ていたの?」
「へぇ。夢は叶えるものさぁ~」と、
すんなり投げ飛ばされる。
お腹の張りを確認し笑っていたが、帰る時間が近づくと、胸の奥がジーンとしてくる。
モモばあちゃんは、タッパにお赤飯とお煮しめを詰めて、白い袋に入れている。
いつも帰る際には何かを持たせてくれる。
膝を庇(かば)う仕草が気になっていた。
「膝・・痛いの?」
「時々ねぇ。冬になると余り動かないしねぇ。こたつに入っている事が多いから運動不足だよ。心配しなくっても、もうすぐ治るよ」
「じゃ~帰るね・・」
以前は車の傍まで送ってくれていた。
辛くなるから家の中でいいと話すと、
それからモモばあちゃんは送らなくなった。
外に出ると木枯らしが吹いていた。
曇り空で辺りが白く霞んで見える。
車に乗る前に玄関先を見てしまう。
モモばあちゃんが立っていないとホッとする。車を走らせながら、それでも家の中が気になってしまう。
介護福祉士として働き4年目を迎え。
入所の人たちの介護にも慣れ、また新たな目標を抱いていた。
以前、おばあちゃんが施設で残してくれた
言葉の意味を肌で感じるようになっていた。
そんな中。夜遅く携帯の着信音が鳴り、着歴を見て驚いていた。
ヒロさん?慌てて耳に寄せた。
「もしもし。ヒロさん」
「遅くに、ごめん・・実は、父さんが亡くなったよ」
「・・・・」
「連絡するのは迷ったけど、父さん・・由樹ちゃんの事が大好きだったから・・・きっと、見送って欲しいだろうと思ってさぁ」
ヒロさんの声が震えていた。
突然の知らせに私は動揺していた。
「どうして・・そんなに早く逝っちゃうの」
「あ。本当だよ」
辛いのはヒロさんなのに、困らせる言い方をしてしまった。
電話が切れると、政さんの顔が浮かんでいた。
お嬢ちゃんと声を掛けられてから、ずうっと、私は政さんに見守られていた気がする。

翌朝、新聞を開くと小さな記事になっていた。
『不自由な体で電動カーに乗り。崖下に転落死亡』
文章の軽さに、さらに涙が溢れた。
私は勤務の交代をお願いし、モモばあちゃんの所へ向かった。
途中で電話を入れると、「家で待っているからね・・」
モモばあちゃんは縁側で待っていた。
体をすくめ、目にはいっぱいの涙を溜めて、
縁側に掛けている姿が、より一層小さく見えた。
「由樹ちゃん、口惜(くや)しいよ」
「モモばあちゃん、中に入ろう」
居間で、モモばあちゃんは、ヒロさんから聞いた話しを聴かせてくれた。
「政さんは8時半頃に、いつものように電動カーに乗って畑に向かったそうだよ。じいちゃん車道は気をつけるんだよ。ヒロさんが声をかけると、政さんは、人様には迷惑をかけないように走る。そう言って出かけて行ったそうだよ。いつもは、もう少し遅くに畑に行くのに?と、ヒロさんは、思ったそうだが、ちょっと、気になったんだと言っていたよ。

政さんが車道を走っている途中に、クレーン車が後ろから近づいて来たので、ギリギリまで路肩に寄ったんだろう。クレーン車は追い越す際に、何度もクラクションを鳴らし通り過ぎたそうだよ。政さんは驚いたんだろうね。
片麻痺で調整が利かなかったんだろう・・。そのまま崖下に転落してしまった」

モモばあちゃんはひたすら告げたい一心で、涙を堪え話した。
私は手を絡め訊いていた。
「クレーン車はどうしたの?」
「何もわからず走り去ったそうだよ」
「そんなことってあるの?酷いわ・・」
「そのあと走っていた車の人が救急車を呼んでくれたそうだよ。救急車が到着したときは、政さん微かに息はあったようだけどね。すぐに死亡が確認されたようだよ」

「ヒロさんは、間に合わなかったのね」
薄暗くなった部屋で涙が乾くのを待った。
その後、モモばあちゃんと一緒にお通夜に
出向いた。
門の前には送り火が用意されていた。
自宅に近づくと、「あの人がヒロさんの奥さんだよ」と、モモばあちゃんが教えてくれた。
玄関を入ると、葬儀社の人に奥さんは対応し慌ただしく動いていた。
ヒロさんは警察の最後の現場検証ということで対応していた。
政さんの傍にはお孫さんとトキさん、スミさん、ヨシさん、ミヨさんが政さんを囲むように座っていた。
私たちを見ると、「モモちゃん、ああ。由樹ちゃんも来てくれたのかい。どうして・・、こんな事になるんだろうねぇ」
みんなは子供たちを支えながら泣いていた。
モモばあちゃんと私は、政さんのすぐ傍に
座り手を合わせた。
私は〈何故〉こんなに早く悲しいことが起こるんだろう。そんなことを思っていた。
モモばあちゃんは、政さんの顔を確認し、
「さあ、由樹ちゃん」
政さんは安らかな顔し、少し微笑んでいるようにも見えた。
トキさんが、傍らで涙ながらに、「私たちができることは、線香を絶やさないようにすることだけだよ」

政さんは、ホームページを作り。日頃の生活を発信していた。
アクセスされた文面から、(古い記憶が甦った。何もない時代でも、あの頃はよかった。年を取って諦めたら終わりだと感じさせられた)
高森に夫婦で移り住んだという人もいた。
モモばあちゃんは、ヒロさんの気丈な姿を見て話し始めた。

「母親が、ヒロさんが中学生のときに亡くなって、政さんとの絆が深くなったんだろうねぇ。ヒロさんは、俺はこの土地でいつまでも、父親と一緒に暮らすと言っていたよ。言いたいことを言い合っていたけどねぇ。最近では、政さんは、ヒロも家族を持ったことだし、

俺は自分のことが出来なくなる前に、あの世に行きたいねぇ。そんな事を言っていたよ。ヒロさんは、どんな体になっても長生きしてほしい。果たして、それがいいとは思わないが、親を想う気持ちには変わりないからね。もう~ちょっと、生きていてほしいと思われるぐらいに、あの世に行きたいねぇ」
「モモばあちゃん、そんな悲しいこと言わないで・・・」
「由樹ちゃん、ごめんよう・・年を取ると、みんな弱気になるんだよ」

告別式は自宅で行われた。
普通は集会場を使うが、ヒロさんは政さんに、出来ることはこれが最後だからと言っていた。
告別式にはたくさんの人が参列していた。
その中に、施設の人を気遣う岡さんの姿が
あった。
モモばあちゃんと近づくと、ヒロさんが挨拶をしていた。
「みんなで作った畑を、このまま施設の方々で続けてもらえれば、父も喜ぶと思います」
「いいんですか?みんなも畑仕事が何より、楽しいと言ってくれています」
「僕も休日には畑仕事もやって見ようと思っているんです」
岡さんは、ヒロさんの言葉に安心した様子だった。
岡さんはモモばあちゃんに挨拶すると、
「由樹ちゃん、元気を出して・・」と、
慌ただしく去って行った。
「父さんは、これで・いいんだよなぁ。(俺は精いっぱい生きた)と言っている気がする俺としては、まだまだ生きていてほしかったけどね・・仕方ないさぁ」
「いい親子だよ。元気をお出し・・」
モモばあちゃんはそう言いながら、ヒロさんの背中を押している。
しのぶさんは台所で手伝いをしていた。
「私も手伝ってくるから由樹ちゃんはお帰り、明日は、仕事だろう」
モモばあちゃんに促され、私は帰っていった。
車を走らせ事故現場に向かった。
そこには花束と野菜の籠が供えてあった。
私はもう一度、政さんに別れを告げた。
それから山沿いの道を通り。
途中で車を降り。阿蘇の風に吹かれ、
気分も少し和らいだ。
そして、私が熊本に向かう前に、美子おばさんが言っていた。
「偶然じゃなく寧ろ必然かしら」
医師を目指したい気持ちも、また必然なのか?つい考えてしまうが、阿蘇の山には勇気があった。
「政さん・・ありがとう。私、医師を目指します」
大きな声が山の神様に届いたのか・・?
一瞬、強い風が音を立てて吹き抜けた。

初夏を迎えていた。目標を持ったことで、
プレッシャーが掛かっていたのか・・?
モモばあちゃんは、私の痩せた体に気づき
心配をしていた。
「由樹ちゃん、ちゃんと食べているのかい?体力のいる仕事だからね。帰っておいで元気の出る物作って待っているよ」
また心配をかけてしまった。
今日は、モモばあちゃんの家に帰る予定に
していた。
私は仕事中に足を痛めてしまった。
車椅子が私の足背を通り過ぎた。
ちょっとした悲劇だった。
仕事を終え、病院に向かった。
レントゲンを撮り、左足の小指にひびが少し見られたが、仕事に差し障ることもないようだった。
モモばあちゃんに連絡を入れ、少し帰りが
遅くなることを告げた。
私は処置を済ませ、会計を待っていた。
受付に慌てた様子で岡さんが飛び込んで来た。私は少し離れた所から、施設の人の付き添いで来ているのだろうと思い。岡さんを眺めていた。岡さんは少し興奮した状態だった。
「中澤由樹さんが交通事故で運ばれて来たと思うですけど・・」
岡さんの声が耳に届いた。
えっ、どうして・・何で・・?
私の方が仰天してしまった。
私は少し足を引き摺りながら、岡さんに近づいて行った。
「どうしたの・・?」
岡さんは青い顔で私の声に振り向き、
「ああ~由樹ちゃん、モモさんが・・?」
受付の人に頭を下げ、待合室の椅子に二人で掛けた。
岡さんの話しによると、モモばあちゃんから連絡が入り。「由樹ちゃんが車に引かれたよ。今、施設の近くの病院にいる」
そう言って、電話は切れたそうで。
「近くの病院って、此処(ここ)しかないと思って来たんだ。ああ~よかったよ。死にそうだったよ」
また、モモばあちゃん、やってくれると、
心の中で思っていた。
「岡さん、ごめんなさい。モモばあちゃんには車椅子に引かれてって言ったのに・・?」
話している内に可笑しくなって、二人で笑っていた。
結局。岡さんの車でモモばあちゃんの家に帰って行った。
「モモばあちゃん、ただいま・・」
「お帰り。由樹ちゃん、元気の出る物たくさん作ったよ」
そう言いながら、何食わん顔で駆け寄って来た。
「岡さん、ご苦労さん。さあ、お上がり」
私は正直二人に恥ずかしい思いでいた。
車椅子に引かれたことがショックだった。
岡さんの手を借りている姿をモモばあちゃんは見てニヤリと笑った。
岡さんは帰る様子だったが、モモばあちゃんの強引な説得に負けたようだった。

テーブルには時間をかけた料理が並んでいた。
「若いもんが・・遠慮するんじゃないよ」
岡さんは座布団を取り、「足を延ばし少し上げて置くといいよ」と言って、足の下に敷いてくれた。
また、モモばあちゃんがニヤリと笑った。
私は食事をしながら二人に、「医師を目指したい・・・」と告げた。
私はきっと二人は驚くだろうと思っていた。
岡さんは真剣な表情で、「由樹ちゃん、応援するよ」の一言だけだった。
モモばあちゃんは嬉しそうに、「じゃあ。」と言って立ち上がり。風呂敷に包まれた大きな瓶のような物を持って来て、私の前に置いた。
「これを飲んだら元気になるよ。パワー100倍だよ」
モモばあちゃんの怪しい笑いに、岡さんに瓶を進めた。
岡さんが風呂敷を開いた瞬間。
私は足の事も忘れ、腕の中にいた桂を抱え
逃げていた。
岡さんも「オゥ~」と、悲鳴を上げ、後退り
していた。
モモばあちゃんは「ハハハッ」と笑い。
「まむし酒だよ・・」
私はモモばあちゃんに呆れ(あき)ていた。
「いいよ・・怖いし・・気持ち悪いし・・」
「そうかい・・?桂が由樹ちゃんのために、捕まえて来たんだよ」
「エェ~。」私は桂に瓶を見せて、「桂・・私・・要らないよ」
桂は瓶のまむしを見ると一瞬に逃げて行った。
岡さんは瓶に風呂敷を掛け。
丁重に、「僕も・・けっこうです」と断っている。
モモばあちゃんはまむしの瓶を抱え、
「残念だねぇ」と言い仕舞いに行った。
「モモさんは・・本当に由樹ちゃんを大切に思っているよね」
岡さんの言葉に頷いた。
食事が済むと岡さんは「明日・・迎えに来るよ」と言って帰って行った。
モモばあちゃんは岡さんが帰った後。
「いい人だよ・・由樹ちゃん・・岡さんは、どうだい?」と、訊いてきた。
「どうって・・?」
「・・恋人にだよ?」
「えっ」と返し、
岡さんは、今でも直さんのことが好きなのでは・・?そんなことを考えてしまった。
「岡さんには、今でも好きな人がいる見たいだよ。それに私はまだ恋人は要らないの。
今は医師を目指したいの。簡単ではない事はわかっているわ。モモばあちゃん、駄目かも知れないけど」
「最初から弱気でどうするんだよ。努力して無駄なことは一つもないからねぇ。じゃ~。もっと、食べて体力を付けるんだよ。体が資本だからね」
食事の片付けをし、縁側に二人で腰掛け、
いちごを食べた。
日はすっかり落ち、裏山から流れる水の音が微かに聞こえていた。
「もうすぐ・・由樹ちゃん、お盆だねぇ」
「政さんがヒロさんの家に帰って来るね」
政さんが亡くなって、5ヶ月が過ぎようと
していた。まだ、誰もが悲しみの中にいた。

灯籠まつりの日が近づくと、金灯籠の光景が蘇ってしまう。
祭りで最初に森下先生と出会い・・あれから5年が過ぎ。祭りに出向くことはなかった。岡さんは毎年灯籠まつりの日は杉の屋で仲間と会っている様子だった。
私の気持ちを察しているようで、祭りに誘うことはなかった。
私は半年前から医学部の受験に備えて勉強を始めていた。あと一年半。2年をかけて、
挑むつもりでいる。
夜勤の負担はあるが、仕事上仕方がないことだと思っている。
今日はその夜勤の日だった。
携帯を手にすると、岡さんからメールが届いていた。
「悪いけど・・時間が空いたら連絡ください。メールでは伝えるのが難しいです。僕は休みですのでよろしく・・」
どうしたの?かと、連絡を入れてみた。
私が夜勤入りだと話すと、岡さんは気にしていた。「ごめん・・由樹ちゃん」
その後の声が聞こえない・・?
「・・・どうしたの?」
「ああ、ごめん・・」
夜勤入りで少しイラ付いていた。
「イラ付くよなぁ。実は・・明日、大事な話しがあるんだ。それに田代と美保が君に会いたいと言ってきた」
「灯籠まつりの日に・・?」
「突然で悪いと思ったが、僕も相談したい事があるんだ。話すんだったら、灯籠まつりの場所がいいと思ってさぁ」
気が進まない気持ちはあったが、断ることが出来なかった。
「じゃ~明日・・それまでゆっくり眠って、夕方に迎えに行くよ」と、電話は切れた。
夜勤明けだと言うのに、眠ることが出来ない
でいた。
夕方に薄くお化粧をし、モモばあちゃんが拵(こしら)えてくれた浴衣に着替えた。
岡さんからメールが届き寮を出た。
待ち合わせの場所に行くと、岡さんは既に来ていた。
車に近づくと、岡さんは少し驚いた様子で、「あっ。綺麗だね・・」
私はすぐ助手席に座り透かさず。
「浴衣が・・?」
「いや、少しは眠れた?」
岡さんは少し照れたようだったが・・?
内心私が照れていた。
5年前と同じコースで山鹿に向かった。
山鹿に近づくと、街の中心部に帯状に輝く、金灯籠が見えて来た。
踊りは始まり、多くの人の歓声の中にあった。
金灯籠の灯りが由来通りの『道しるべ』に
映る。私の心の変化がそこにあった。
「先生も金灯籠を作っているのねぇ」
自然に言葉にしていた。
岡さんは一瞬私を見て、「よかった・・」と言った。
車を止め、祭り広場に着くと、踊りは街の路地へと移っていた。
「ここで、ちょっと座って話すよ。実は森下先生、金灯籠を作るのをやめた見たいなんだ。先生はこの3年間で、ずいぶんと老けられた気がするよ」
先生が、あの日。悲しみに暮れていた様子が思い出された。
「お母さんの事と関係がある?」
「多分・・ね」
私は母の事とは別に、あの日。先生が私の掌に柿を載せてくれた手が、やさしく感じられ
3年経っても、何故か思い出してしまう。
そして、金灯籠の繊細な作りに、魅了されていた。
「もう一度、先生に金灯籠を作ってもらいましょうよ」
「そう言ってくれると嬉しいよ。先生は医師として専念されているが、楽しいと思える事があってこそ、毎日が充実すると思うんだよ。方法は二人でゆっくり考えよう」
岡さんはほっとした様子すだったが?
「それが・・田代が・・?」
岡さんは左右に首を振り、大きなため息を付いていた。
私は金灯籠の踊りが観られなく。
残念で仕方がなかった。
自然と立ち上がり路地に目を向けていた。
そんな私に、岡さんは顔を上げ。
「田代が真剣に君のことが好きだって言うんだ。君が大変な時期に言いたくはなかったが、親友としてアイツの真剣さもわかった」
思わず「えっ」慌てて座り直した。
「どうして・・?」
想像も出来ないことだった。
「田代が、何度か?君の勤め先に訪ねて来た事があっただろう。僕はあとで聞いた話しだけど・・」
「えぇ。旅館で出す和菓子を近くまで取りに来たんだぁ。たまたま由樹ちゃんの勤務先が見えたので、一つ差し入れをしょうと思って寄ってみた。そう言われて二度ほどいただいた事があるの。申し訳なさそうにすると、気にしないでいいよ。また岡と遊びにおいでよと、帰って行ったのよ」
「それは田代の口実なんだよ。田代は初めて君に会った時に一目惚れしたと話した」
「・・そうなの?」と、私は冷たい言い方をしていた。
「両親にも話したそうだよ。女将さんは付き合ってもいないのに・・まあ、よく言うよ。あの子はしっかりとした目をしているから、いいんじゃないの。上手くいけばの話しだけどねぇ~と、笑いながら言ったそうだよ」
話しを聞き、ここで返事はできるが、岡さんに言うことではないと思っていた。

「美保は、私が小さい頃から岡のことが、好きだったこと知っていた・・?と訊ねてきた。いいやと返すと、やっぱりねぇ。そうだろうと思っていたよ。私じゃ~だめかなぁ・・?うんと頷くと、わかったよ。美保は元気のなさそうな声で、由樹ちゃんに、もう一度会いたいと言った。
けして、無茶は言わないから、一つぐらいは
叶えてよね。美保とは、家が隣で幼い頃から一緒だった。それこそ妹と思えても恋愛感情を持ったことはなかったよ。二人のことばかり言ってもいけないね。僕は、君が目標を持ってがんばっているから、今は応援するのがベストかなぁと思っているよ。君が結婚を、意識したときに、その中にいたいと思っている」
私も、もうすぐ24歳を迎えようとしていた。恋愛や結婚を考えない訳でもない。多少鈍感なところもあるが、岡さんの真剣な気持ちを聞き。私もまた恋愛の一歩を踏み出したように思えた。
夕闇の中に金灯籠の灯りはないが、明るい心の光りが胸を熱くした。

杉の屋の前で田代さんが待っていた。
「由樹ちゃん、いらっしゃい・・」
にこやかな顔に少し動揺していた。
部屋の前に行くと、美保さんのはしゃぐ声がしていた。
「ちょっと、すごいだろう。一人であれだからなぁ。俺ちょっと、逃げたよ」
ドアを開けると、美保さんはビールを持ち、顔を確認すると、「遅いよ・・じゃなくって、時間通りだねぇ」
美保さんは少し酔っていた。
「美保、酒癖わるいなぁ」
「酔っていませんよ・・ああ。由樹ちゃん、来てくれて、ありがとう・・・元気だった?会えて嬉しいよ」
美保さんはすぐさま立ち上がり、抱きついて来た。
「おまえさぁ。何やっているんだよ」
「ごめんなさい。先にご馳走になっていたら、いい気持ちになって」
「それを酔っているって言うんだよ」
「美保。一時間前から来てさあ」
「・・だって、呼び出しておいて待たせちゃ悪いと思ったのよ」
「これだもんなぁ・・わかったよ」
「さあ。由樹ちゃん、座って・・綺麗になったねぇ・・いくつになったの?」
「23歳です」
「私たち30歳よ。男はいいよねぇ。これからだから・・女性は・・厳しいよ」
「美保。愚痴を言うために、由樹ちゃんを呼んだのか?」
「失礼ねぇ・・愚痴じゃないわよ。本音よ
由樹ちゃん、ビール飲める?」
「少しなら飲めます」
「それじゃ飲もうよう。由樹ちゃん、私・・
結婚しょうと思うの」
「えっ。美保、冗談だろう?先まで、そんなこと言ってなかったじゃないかぁ」
「大事なことを一人に伝えてどうするのよ。会社の人でね。2歳年下なの・・いつまでも、過去の思いにとらわれていても仕方がないと気づいたのよね。惚れられて結婚した方がいいって言うしね。30歳を迎えて考えたのよ。
男たちはこれからだと思うでしょうが・・?
女性は30歳を超えると、それなりに努力が必要になって来るしね」
「美保、おまえ・・いったい由樹ちゃんに、何を話したいんだよ?」
「由樹ちゃんと一度だけでも、女同士の付き合いをして見たかったのよ。由樹ちゃんには迷惑だろうと思うけど?」
私は、美保さんの率直な話しに聞き入っていた。美保さんに告げると、美保さんは話しを続けた。
「由樹ちゃんは可愛いし、これからだと思うの、近場で妥協しちゃだめよ」
「ああ、美保・・ひどいこと言うなぁ」
「私は女性の先輩としてアドバイスをしただけだよ」と、
ビールを飲みながら美保さんは笑っていた。
田代さんはあたりを見回し、水を手にし、
ひといきに飲み。
「由樹ちゃん、実は。僕は君が好きなんだ。結婚も考えている。両親にも話した。まだ君は、結婚は考えていないだろうけど、それでもいいんだ。付き合ってほしいんだ。考えてくれないか?」
真剣な顔をして見つめてくる田代さんから、目を逸らすことが出来ないでいた。
そのとき私の心は岡さんを求めていた。
ひと息ついて、「結婚はまだ考えていないんです。ただ、好きな人はいます。その人は、岡さんです・・」
ビールを飲んだせいなのか?口にした言葉に、さらに体は熱り(ほて)戸惑うばかりだった。

田代さんは私から目を逸らし、岡さんの方を向き、「仕方ないなぁ。岡・・よかったなぁ。俺、あきらめるよ・・すっきりしたよ・・。
本当はショックだけど、言えてよかったよ」
田代さんは言い終わるとビールを口にした。
美保さんはまだ勢いよくビールを飲んでいた。
「まだ、わからないわよ。突然。由樹ちゃん、ほかの人に持って行かれるかも・・?知れないしねぇ」
「わかっているよ。お互いが必要だと思ったときに一緒にいられたらいいと思っている」
「のん気なこと言ってさぁ。由樹ちゃんの事。本当に大切に思っているんだねぇ。ぜんぜん態度が違うんだよね。立派だよ・・理解し合える友達がいてよかったね」
それから半年で美保さんは結婚した。
田代さんは、ご両親がお見合いを進めているようで、冗談じゃない・・と逃げてばかりいるそうで・・?。
私は医学部の試験を半年に控え、岡さんには殆んど会えない状態だった。
しかし、気持ちが離れることはなかった。
仕事をしながらの勉強は時間が限られていたが、岡さんの精神的な支えが私の励みになっていた。
時折、無邪気な冗談や謎なぞがメールで送られてくる。(石焼芋のおじさんが芋を焼けないと困っています・・?)
それでも受験日が近づくと、私の精神的不安はピークに達していた。
そんな中。モモばあちゃんがお嫁さんの車で訪ねて来た。
「モモばあちゃん、どうしたの?」
久しぶりに見るモモばあちゃんだった。
私の顔を覗き、「こりゃ~いいところに来たもんだぁ」
部屋に上がるように勧めると。
「私はすぐに帰るよ。今日は、プレゼントを届けに来たんだよ。大宰府天満宮のお守りと、梅ヶ枝餅だよ。仕事と勉強じゃあ~。それに夜勤だろう。これじゃ~合格はほど遠いと思ってねぇ・・。神様にお願いするしか道はないと思い。嫁に頼んで出かけて来たよ。努力すれば叶えると、藤原道真候の声が聞こえたよ。こうも言っておられた。無理して体をこわすなよ」
私は思いっきり笑った。
モモばあちゃんは、そんな私を見ると、
安心したように帰って行った。
私は医師になれなければ介護職を全(まっと)うしょう。これも私の望む道だと確信していた。
医学部の試験は無事に終わり。
結果を待つだけになっていた。
私は落ち着かない気持ちの中。
阿蘇の山へ車を走らせた。
『希望の風』を求めて・・・。
冬の冷え切った高原の大地に立ち、
風に吹かれていた。
風の冷たさは感じられなかった。
『希望の風』は、どんな風と訊かれたら、
(明日を贈る風)
私なりの答えが出たようだった。

お守りの効果はバッグンで、私は医学部に
合格した。
モモばあちゃんに知らせると、泣きながら
喜んでくれた。
入学するときには、私は25歳になっている。
熊本を尋ねて8年目を迎えようとしていた。
私は入学と同時に、岡さんとの結婚を決めた。
「由樹ちゃん・・結婚しょう。君には学業に専念して欲しいんだ。二人で夢を叶えよう」
私も彼が傍にいてくれることを望んでいた。
私は美子おばさんに、医学部合格と結婚を
決めたことを伝えた。
その後、美子おばさんから手紙が届いた。
そこには、母からの手紙が添えられていた。
「由樹ちゃん、おめでとう。由樹ちゃんの努力と前向きな姿勢が実を結んだのね。きっと、たくさんのすてきな方々に出会ったお陰でしょう」
美子おばさんからの手紙を読み終わり。
母からの手紙の封を開けることが、なかなか出来なかったが、意を決し読み始めていた。

「私の傍には、由樹ちゃんが安心したように眠っています。明日から抗がん剤の治療が開始されます。多分、辛い治療になると思います。すごく不安になっています。治療に対してではなく。由樹ちゃんに辛く接してしまわないか心配でたまりません・・5歳になったばかりのあなたが、この状況をわかる訳でもなく。ただ、あなたの寝顔を見たとき、私の耳を片手で触りながら眠る癖。もう5歳になったのでやめましょうね。(ハイ)と、言いながらも微笑み、(お母さん・・ちょっと、だけねぇ)この癖も治るのねぇ。どうか幸せになって下さい」
二枚目の便箋には森下先生の名が記載されていた。
母は先生に対しての思いは一言もなかった。
ただ、女性として奥様と私を疵付けてしまった事に対して詫びた文面だった。
手紙を読み終わり。母の思いは伝わったが、母と森下先生の関係をやはり理解する事はできない。
しかし母が灯籠まつりの写真の裏に、先生の病院ではなく。
奥様の病院の名前を残したのは、私のことは先生に明かさない母の決意が、そこにあったように思えた。

私たちは新居を探しに出かけた。
その帰りに、彼の実家にご挨拶に行くことになっていた。私は彼に訊ねて見た。
「私たちの結婚に、ご両親は反対されなかったの・・?」
彼は驚いた様子で、「何故?両親はすごく喜んでいたよ。結婚の報告をしたとき、父親が嬉しそうに、そうか・・そうか・・と、くり返すのを母親が聞いて、以前父親に僕の結婚について話したときは結婚したかったらするさぁ。仕事さえ真面目にして暮らしていければ、それでいいんじゃないか?自分は、仕事以外は何にもしないのにねぇ。お茶・新聞・風呂そんな事を言っているくせに、熊本の男は遅れているのよ。母親は叶わない恋でもしているんじゃないかと、心配をしていたと話したよ。好きな人と結婚できるんだから大切にしなさいと言われたよ」
ご両親はお兄さん夫婦と暮らしている。
「実家に行く前に、僕が先に挨拶しなければいけない人がいる」
二人で顔を見合わせ「モモばあちゃん・・」
電話を入れると、「何を・・気を遣っているんだねぇ。本当にばかだよ。泣かせるんじゃないよ。挨拶なんておこがましいよ。お断りだよ。早く実家に、ご挨拶に行っておいで、二人が落ち着いたらイーゼルで、しのぶさんやヒロさんに報告すればいいからねぇ。そのときは、私から連絡して置くよ。それでいいねぇ」
モモばあちゃんに促され、実家へと向かった。
彼のご家族に温かく迎え入れられた。
彼は事前に、私の両親が亡くなっていることを伝えてくれていた。
私は彼に森下先生が父だとはどうしても言えなかった。
ご両親はやさしく。お父さんは特に気遣い
されている様子に彼は笑っていた。
「子供が大人になったいま、親はただ見守るだけだよ。由樹さんのご両親も見守っていらしゃるだろう。二人で力を合わせ安心できる家庭を築くことだよ」
その日から慌ただしく過ぎて行った。
新居がやっと決まり。モモばあちゃんに報告を入れた。
しのぶさんの住むイーゼルとモモばあちゃんの家の中間の森の中に、古い民家築100年近い物件に、モモばあちゃんは笑い転げた。
「モモばあちゃん、土地が500坪で二万円だよ。考えられないわ?」
「私も考えられないよ・・?由樹ちゃん何処に寝るんだい?こりゃ~家の中にテントでも、入れるしかぁないと思うけどねぇ」
外観からは、そんなに悪いとは思わなかった。
契約をして、雨の日に彼と家を見に出かけた。
雨漏りで大変な状況だった。
「どうしょう?」
「大丈夫だよ・・何とかなるさぁ」
私はこの場所が気に入っていた。
雨上がり家の修復をした。
モモばあちゃんが職人さんを探してくれ、
私たちも手伝い雨漏りは解決した。
モモばあちゃんが、また笑い転げていた。
話しによると、「これから、色んな虫たちが発生し活発になる。きっと、キャ~キャ~言いながら暮らすことになるよ」
「何故?早く言ってくれないの・・」
「何故って?虫さんも、何十年も穏やかに暮らしていたのに・・突然。由樹ちゃんたちが現れ虫たちもビックリだよ。自然を虫たちと共有できるのも楽しい経験だと思ってねぇ。
そのうち虫たちも、人間が住んでいることに気が付くだろうし、しばらくの辛抱さぁ」
笑いながら話すモモばあちゃんに、
「フッ。」とため息を付き納得してしまう。
翌日。彼とイーゼルに出向いた。
モモばあちゃんから連絡を受け、
ヒロさんが訪ねてくれた。
政さんの葬儀以来だった。
一年半が過ぎ。ヒロさんも幾分元気を取り戻した様子だった。
私たちは感謝でいっぱいだった。
「よくここまで頑張って来たわね。とても嬉しいわ」
しのぶさんの言葉に・・ヒロさんとモモばあちゃんは、ただ頷いているだけだった。
私たちは、いまの状況を考え入籍だけをすることを伝えた。
モモばあちゃんがポッリと、「別嬪(べっぴん)さんの花嫁姿は見れないのかい・・?」
モモばあちゃんの悲しそうな顔に彼と顔を合わせていた。
しのぶさんはしばらく考えた様子で・・・、
「一週間、待ってほしいの・・私にいい考えがあるわ」
その言葉にモモばあちゃんは笑顔で・・・、
「しのぶさんに・・乗った」
私は思わず、モモばあちゃんに、「わかっているの?」と声をかけると。
「わからないよ?しのぶさんにお任し、大丈夫・・きっと・・いいことが起きるよ」
それから、一週間後にしのぶさんから連絡が入り。イーゼルに向かった。
しのぶさんは嬉しそうに、「高原で結婚式を挙げましょう。県庁に行って許可をいただいて来たわ。あとで面倒なことになってもいけないでしょう」
私たちはしのぶさんの行動に唖然としていた。
「・・・さすが」と、ヒロさんは感心し。
モモばあちゃんの「いいね」の一言で、
彼と一緒に頷いていた。
彼とヒロさん、カーネルさんとで高原に、
チャペルを作り。
料理担当は、私、しのぶさん、モモばあちゃん、まるで三世代のようだった。
結婚式は二週間後に挙げることになった。
話しが決まると、モモばあちゃんは、これで万々歳と言ってヒロさんと帰って行った。

私たちは、緑の草原の中を歩いた。
「モモさん・・喜んでいたね」
「ここで結婚式を挙げるのね」
「招待状を書かないといけないね」
「えぇ。」
私は沈んだ声になっていた。
彼は先に歩き根子岳を眺めながら、
「多分・・同じ人の事を考えていると思よ」
「そうね。」と呟きながら考えていた。
私は肉親の縁も薄く、孤独に思っていた時も、
あったが、モモばあちゃんや、しのぶさんに出会い。けして、人との繋がりは、血縁関係
だけではない事に気づかされた。
森下先生が実父だと判明しても名乗らず、
先生との絆を深めて行こうと考えていたが、
希望を失い孤独な先生の姿を描いてしまっていた。
そして、先生は深い愛情で母を慕い続けているように思えた。
このきれいな景色を眺めながら、私は固い決断をしていた。
「招待状を準備しましょう」
「じゃ。帰ろうか?」
やさしい手を取り、駐車場に向かった。
西の空に向かう雀の群れが見えていた。
「心のこもった招待状を書くぞう」
「先生への招待状は書いてあるのよ」
彼は少し驚いていたけど、「そう。」と、
嬉しそうな顔をしていた。
「ちょっと・・待っていて」
箱から手紙を取り出し、「母が残してくれた手紙なの・・読んで森下先生に渡して欲しいの・・」
彼は神妙な顔で、「僕は多分・・分かっていると思うんだよ。先生に直接・・渡すよ」

結婚式の当日は、大阪から美子おばさん夫婦も駆けつけてくれ、彼のご両親に挨拶をして
くれていた。
私たちはお世話になった方々や友人に囲まれ、幸せを感じていた。
「由樹ちゃんの花嫁姿は世界一きれいだよ」
「そうだろう」
「モモちゃん・・よかったねぇ」
トキさんの言葉に、「私は息子の結婚式より感激しているよ」
モモばあちゃんの嬉しそうな声が響く。
さらに、感動を呼んだのがカーネルさんの
牧師姿だった。
高原の中を静かに歩き。チャペルの中央に
立つと、一斉に「オオ。」と歓声が上がり。
その後、静粛な状態になった。
私たちは、神父様に歩み寄り愛を誓った。
待ち兼ねたように歓声が上がり。
振り向くと、そこには近隣の人たち、偶然に立ち寄った人。私たちは多くの人に祝福を受けていた。
私たちはそんな中。森下先生の姿を探していた。先生は大勢の中に立ち尽くしていたが、
私は気づくことなく挨拶を交わしていた。
彼は森下先生の背中に手を添え、私の近くに来ると声をかけた。
「由樹、先生が来てくれたよ」
先生の自宅に招かれてから5年が過ぎよう
としていた。
先生の変わられた姿に涙が溢れていた。
「花嫁がそんなに涙しちゃいけないよ」
先生の声は張りがなく体も細くなり。
以前お会いした時とは、ずいぶん違っていた。
「私は君たちの幸せそうな姿を見て、それで十分だと思っていたよ。よくがんばったね」

年を重ねるほどに希望が必要だと改めて感じさせられた。
私は心の中で、お父さん大丈夫よ。私が見守っているわ・・。
涙を拭き、「先生・・私、今度は金灯籠をつけて祭りに参加して見たいんです。先生の作った金灯籠で・・」
先生は黙ったまま空を見上げていた。
「叶えていただけますか・・・?」
しばらくすると、先生は、「風は吹き去った後。また新しい風を運んでくれる」と呟き。
大きく息を吐き、「時間が掛かるだろう」
私の潤んだ目に視線を移し。
「いい物を作りたいからねぇ・・」
彼は、ほっとしたように「由樹、よかったね。さあ、先生行きましょう。手作りのケーキと料理が待っていますよ」
先生の両サイドに並び、イーゼルに向かった。
「実は、昨夜から緊張で朝食も食べられない状態でした。式の最中に腹の虫が鳴かないかと心配でしたよ」
彼は先生に気を遣っている様子だった。
先生も笑顔で答えていた。

イーゼルに到着すると、しのぶさんの演出にまた驚かされた。
ギターの演奏に迎え入れられ、会場は盛り上がりを見せた。
しのぶさんにあとで訊ねると、「高原でギターの練習をしていたんですって、結婚式があるのでいらっしゃいと声を掛けたら、たくさんの人が集まったの」
イーゼルの庭はまるでコンサート会場のようだった。
カーネルさんは着替えを済ませ、お手製の
ピザを焼いていた。
しのぶさんもピザを焼くカーネルさんの傍に寄り添うように手伝っていた。
私はその姿に魅せられ、ベールをはずし、
しのぶさんの結んだ髪にそうっと付けた。
一斉に拍手が鳴り。
「しのぶさん、まだまだいけるねぇ」
モモばあちゃんの声かけに、しのぶさんは恥じらい。
「・・・由樹ちゃん」
「しのぶさん、素敵な結婚式をありがとう」
こうして、私たちの結婚式は終わった。
それから私の奮闘生活が始まった。
勉学に励むことは勿論のこと・・・、
それ以外のことは、彼やモモばあちゃんに、手間を掛けないよう臨んだが呆気なく崩れた。
森の中の家は想像以上のものだった。
木々がカサカサと揺れることに、さまざまな生き物が顔を出し私を驚かせた。
勝手口に回ると、窓枠に蛞蝓(なめくじ)やかたつむりが列をなしていた。
私は日に何度も、「キャ~キャ~」と悲鳴をあげていた。彼が傍にいるときは、彼に抱きつく始末。
「こんなに由樹を抱くとは思わなかったよ」と、笑っていた。
その言葉に7年間、彼に我慢をさせて来た?
彼は結婚するまでキスも抱き寄せることもしなかった。
正直、私は触れ合うことが怖かった。
結婚して彼に抱かれた。
心と体が一つになれば、ごく自然に求め合うものだと知った。
そして、愛する人が傍にいる幸せを実感している。
我が家の庭・・?にも、自生した山ゆりが、
咲き始めようとしていた。
「夏が来る前に、家の周りの雑草を取り除かないと、エライことになるよ」と、
モモばあちゃんに教えられた。
早速。取り掛かったが、雑草を抜き取るごとにミミズは出て来るし、「キャ~」「あぁ」と、声を発してしまう。
「由樹ちゃん、忙しいねぇ・・」と言い。
モモばあちゃんは、テキパキと草刈りを手伝ってくれている。
「由樹ちゃん、早く済ませないと、蚊の大群が押し寄せて来るかも知れないよ?」
私は幾つになっても、モモばあちゃんに読まれてしまう。
「どうしょう?」と、心細い声を上げると、「・・大丈夫だよ。まだ手はある」
モモばあちゃんが楽しそうに返してくる。

彼も休日は雑草を刈り。そこに柿の木を植えた。8年後の思いを込めて・・・。
モモばあちゃんは近くに住みながらも、
夕食に誘っても訪れることはなかった。
顔を見せても、すぐに帰って行った。
玄関先には毎日のように野菜が置かれていた。
モモばあちゃんに訊ねると、「私はねぇ・・由樹ちゃんたちが、近くに居てくれるだけで、どれほど心強いかぁ。それで十分だよ」
私たちは、モモばあちゃんや先生を誘う
イベントを考えた。
誕生日、母の日、父の日、敬老の日はやめた。
モモばあちゃんに叱られそうと二人で笑った。
先生も、元気で金灯籠や神殿作りをされているで安心している。
「由樹の昆虫奮闘記を話すと、それは嬉しそうに聞かれるよ」
一ヶ月に一度は食卓を囲むことを望み。
仕舞いには桂の誕生日も決めていた。
思いが伝わったのか?モモばあちゃんが訪ねてくれるようになった。
「今日は、桂の誕生日なんだろう?桂はどこ吹く風と居なかったよ。由樹ちゃんの気持ちは、桂には届かないねぇ」と、笑っている。
ちなみに桂の誕生日は(海の日)に決めた。夏本番を迎えようとしていた。
モモばあちゃんは、たくさんの野菜と蚊取り線香を携えて来てくれた。
カバー付もあり。
「蚊が多い日は木にさげて見てもいいんじゃないか?」
早速、玄関先にさげて見た。
モモばあちゃんは私の料理に感激していた。
「こんな料理も作れるようになったのかい」
野菜たっぷりの混ぜご飯に、そら豆のかき揚げ、なすの田楽、トマトのマリネ、モモばあちゃんの野菜で考えたメニューだった。
「おぉ~岡さんが帰って来たねぇ」
「どうして、わかるの・・?」
「車だよ」
彼は私の車に乗り。私は大学まで電車通学をしている。
「由樹ちゃん、車がないと不便だろう?」
「車2台の維持費を考えると電車になちゃうの・・でも新鮮で楽しいよ」
「ただいま・・モモさん来ている」
「・・来てますよう」
この。フットワークのよさに安心してしまう。
「さあ。食事にしましょう」
「ビール・ビール」
「由樹・・美味しいよ」と、
連発する彼に、モモばあちゃんはニヤニヤしていた。
モモばあちゃんも一口食べるごとに・・・、
「うまかぁ~由樹ちゃん、しのぶさんの料理に負けてないよ」
「それは・・ちょっと?」
しのぶさんの料理には叶わないが嬉しかった。
私は祖父母を思い出していた。

「ここに来ると、むかしを思い出すよう・・。人間は不便なぐらいが、丁度いいような気がするよ。工夫したり・・補ったり・・お金はちょっとあれば、あとは考える力が備われば何とでもなるさあ」
モモばあちゃんは其れとなく何でも教えてくれる。私の持つ辞書の中で開かずに見られる
辞書はモモばあちゃんだと改めて思う。
「由樹ちゃん、お医者さんになるには何年かかるんだい?」
彼が庭に柿の木を植えたことを話すと、
「8年かい・・きっと、美味しい実をつけるよ」

私は相変わらず悲鳴をあげている。
勉強をしていると、本の上に天井からムカゼは落ちて来るし、窓枠からトカゲは顔を覗くし、まるで昆虫館(やかた)のようだった。
結局、私の部屋に蚊帳を吊りさげた。
モモばあちゃん以外は、見せられない気がした。
私はまだ彼のことを、岡さんと呼んでしまうことがある。それで健介さんと呼ぶことになったが、なかなか呼ぶことが出来ないで、
「ね~ぇ」で通してしまっている。
夏になると、阿蘇山は草原でピクニックを
楽しむ人が多く見られ。
キャンプ場も家族連れや若者でいっぱいになっていた。
牧場やテーマパークではイベントが開催され、笑顔で思いっきり遊ぶ子供たちの声が、
いっそう賑わいを増していた。
深い緑に包まれる夏は特に美しく、私たちも休日に手作りのお弁当を持ち出かけた。

その後。仕切りに雨が降る日が続いた。
台風に見舞われることも多く。木々が倒れ、
築100年の我が家を直撃した。
私たちはモモばあちゃんの家に避難をした。
ヒロさんの計らいで、空き家になった瓦や
材木をいただき家の補修をした。
ヒロさんと彼が割れた瓦を降ろしていた。
私も梯子(はしご)を遣い屋根に登って行った。
「たくましくなったものだぁ」と、
モモばあちゃんが、下から声を掛ける。
しかし。「あぶないじゃないかぁ・・」と、
二人に降ろされてしまった。
「私・・助けられてばかりだね」
「そんなことはないと思うけどねぇ」
家の修復も無事に終わり。
虫たちとの共有生活も、取り敢えず終息となり。穏やかな暮らしになっていた。
そんな中、森下先生が柿を携えて訪ねて来た。
「突然に申し訳ないと思ったが、今年は柿が随分大きくなって、味見をしたら美味しく、嬉しくなり持参したよ」
私が出迎えると先生は、彼を探しているようだった。
「今日は、岡君は・・?」
彼が仕事だと伝えると、先生は私に気を遣っていた。
「日曜日で二人に会えると思い。出かけて来たが、それは悪い事をしてしまったようだ」
先生は柿を置いて帰る様子だったが、
上がるように勧めると、先生は部屋の奥を
見つめ。
「縁側があるんだね・・・」
ここから縁側に行けそうだと指さし、
「縁側にお邪魔するよ」と、
ゆっくり周囲を見回し縁側に向かった。
私はお茶の準備をした。かぼすをたくさん
いただいていたので蜂蜜に漬けていた。
かぼす茶を持って行くと、先生は立ったまま庭を眺めていた。
森の家はこの季節になると、いっそう肌寒く感じられた。
「先生、寒くはありませんか?」
「ちょうど・・いい感じだよ」
先生は縁側にかけると、「授業はどうだね」と訊ねて来た。
「一つ一つ理解するのに、時間は掛かっていますが楽しくやっています」
「いい環境で臨むのが一番だよ」
それから、先生は彼から聞いた。私の(昆虫奮闘記)の話しを始めた。
「虫には・・慣れましたか?」
「慣れないけど・・がんばっています」
先生は笑いながら、「私も虫は苦手だよ」
その後、先生は本当に嫌な顔を見せた。

「私は小さい頃から蜘蛛(くも)が大の苦手でねぇ・・。机に向かっていると、天井から蜘蛛が下りてきて悲鳴をあげていた。母親に男でしょうと、叱られていたよ。トイレに蜘蛛が居たら・・、トイレにも行けなく我慢したこともあるよ。
母親に、(蜘蛛は大切にしなさい。いいことがあるからね)いいこと?それどころじゃないと思ったよ。今も苦手で、逃げる私を見て、多美さんは、(どこが怖いんだろうねぇ)と蜘蛛を手掴みでポイッと投げて笑っているよ」
先生はにこやかな顔で話していた。
時折、かぼす茶を飲みながら・・・
私は黙ったまま聞いている。話しが進むに連れ、先生の顔を見ながら笑顔で頷いていた。
先生が語る様子に、私が幼い頃。描いていた光景がここにある気がした。
先生は柿の木を植えていることに気づいた
ようだった。
私たちも先生にあやかって、柿の木を植えたことを話すと、先生は嬉しそうに帰って行った。
結婚して3年が過ぎ、私は28歳になっていた。学業に専念できる反面。妻としての一面を
考えていた。
家事はマズマズ・家計のやり繰りはソコソコ、
それは、彼が我慢をしてくれているお陰だと思っている。
一つ大きな我慢をさせているのではないかと、私は悩んでいた。
勇気を出して彼に訊いて見た。
「子供がほしいんじゃないの?」
「訊いてくれてよかったよ。田代に、子供が生まれて、アイツが、あまりにも嬉しそうに話すので、由樹にそのまま伝えたから、多分。気にしているんじゃないかと思っていたよ。悪かったね・・。正直、子供は好きだけど、二人の間に必ずしも子供が必要だとは思っていないよ。今は望んでいないし。子供が出来たら、その時に喜べばいいさあ」
「・・・ありがとう」
こうして私の悩みは解消された。

冬になると阿蘇の山にも雪が降り。
木岐が雪の結晶で覆われていた。
しのぶさんを訪ねると、カーネルさんの体の状態が悪いと聞かされた。
カーネルさんの焼くピザが評判になり。
遠方からお客様が訪れ、
無理をさせてしまったようだと話す。
しのぶさんも力のない声だった。
カーネルさんは窓側のチァーチ・チェアに
深く座り眠っていた。
椅子の傍には林太郎が腹這いなり、
目をパチクリさせて私を見ていた。
いつもは真っ先に飛んで出迎えてくれる
林太郎は、顔を一度上げ床に静かに伏せている。林太郎は優秀なセラピー犬だと感じた。
しのぶさんは冬の間。イーゼルを閉めることにしたと話した。
「施設からの、お客様もないことだし・・、窓辺に映る豊かな自然を観て・・過ごすのも素敵でしょう」
私は、しのぶさんの幸せが少しでも、長く続くよう願い帰って行った。

春が訪れると共にカーネルさんは、静かに旅立って逝ってしまった。
しのぶさんは穏やかな顔をしていた。
最後に寄り添うことが出来て幸せだったと
話す。
しのぶさんは、カーネルさんの葬儀を一人で
終えると、遺骨を届けにアメリカに向かった。
その間。林太郎は私たちの家で過ごした。
林太郎も10歳を超えていた。
しのぶさんが帰国するのを確かめるかのように林太郎も死んでしまった。
しのぶさんは敷地内に、アメリカ式のお墓を
本格的に建てた。
そこにはトーマス&林太郎と刻まれていた。
「林太郎は私の家族なの。私が生きている間。見守ってほしいの」
しのぶさんの思いが伝わってくる。
モモばあちゃんはイーゼルに出向く際は、
必ず林太郎に挨拶を欠かせない。
桜が散り。阿蘇の山はミヤマキリシマが赤い花を咲かせていた。
私の学生生活も残り一年余りになっていた。
ふと私は、母が最後に為しえなかったことを実行しょうと思い。先生に連絡を入れてみた。私は灯籠踊りに参加させていただくことを、
先生にお願いした。
先生も金灯籠の準備に取り掛かると言って
くれた。
二ヶ月が過ぎた頃。先生から金灯籠が完成したと連絡が入った。
先生の計らいで、私は大宮神社内で灯籠踊り保存会による奉納灯籠踊りに参加することになった。
踊りは一度保存会に出向き、ビデオを借り
練習を重ねた。
彼は、最近先生が生き生きとされていると
喜び、私を励ました。
山鹿灯籠まつりの日は晴天で澄み切った
青空が広がっていた。
私は緊張しながら先生と約束した会場に
向かった。
先生は既に祭りの関係者として業務にあたっていた。
モモばあちゃんと、しのぶさんには踊ることを内緒にしていた。
モモばあちゃんを灯籠まつりに誘うと、
めずらしく・・すんなり承諾した。
しのぶさんは、中村先生がゲストルームに帰って来ているので、一緒に観に行くと言ってくれた。
私は浴衣に着替え。先生の作った金灯籠を
頭上に飾り付けていた。
空が夕焼けに染まり、夕闇に変わろうとしていた。
先生は、この姿に母を見ているのだろうか?それは私の思いだったことに気づいた。
先生の傍らに小さな女の子と若い女性が・・、
立っていた。
私が見つめると、女の子はあどけない表情で手を振り、夕闇に消えた。
私は幻想に陥っていた。
よへほ節の曲が流れ、金灯籠の灯りで、
周囲が浮かび上がった。
ひときわ大きなモモばあちゃんの声が聞こえた。
「たまげた・・由樹ちゃんが踊っているよ」
しのぶさんと中村先生は唖然としながらも
手を振ってくれていた。
彼はモモばあちゃんに内緒にしていたことを釈明しているようだった。
無事に踊り終え。モモばあちゃんたちの所へ駆け寄って行った。
「きれいだよ・・似合っているよ。たまげて腰が抜けそうだよ」
モモばあちゃんが嬉しそうに、「今日は腰が抜けても、中村先生がいるから大丈夫・・」と、笑っている。
「由樹ちゃん、すてきだわ」
しのぶさんも今日は浴衣姿だった。
ヒロさん家族も来ていて、みんなで記念写真を撮ることになった。
森下先生も参加し写真を撮った。
私に取って大切な思い出の写真となった。
私たちは、日頃の感謝を込めて杉の屋に、
予約を入れていた。

田代さんも祭りの際は・・是非。立ち寄ってほしいと言ってくれたそうで、彼はある程度の人数は言っているが確認を取って見ると、
場所を離れ電話を入れていた。
OKのサインをしながら戻って来た。
「さあ。これから全員で宴会場へ行きましょう。旅館の若主人が待っています。今日は、大サービスだそうですよ」
「それは・・洒落たことをなさる」
モモばあちゃんの一言でいっそう和み、
杉の屋に向かった。
私と先生は、祭りの関係者の方々に挨拶をして向かうことになった。
私は着替えをし、先生と挨拶を済ませ、
杉の屋に向かった。
祭りの余韻が冷めることはなく。人混みの中を歩いていた。
細い路地は帰る人で混雑していた。
一瞬、先生とはぐれそうになった。
先生は透かさず私の手を取り、
「大丈夫・・」と、声をかけてきた。
「大丈夫です・・」と答えると、
先生は私の手を離し、「・・彼処(あそこ)だね」
旅館を指差していた。
離した手は私に父親の手だと感じさせて
くれた。

杉の屋の前に来ると、若女将らしき人が
立っていた。由樹さんと声をかけられ、
「お待ちしていました。さあ。こちらへ・・みなさんが・・お待ちです」
部屋に近づくと、彼の先生と呼ぶ声がした。
先生は彼と宴会場へ入って行った。
若女将、つまり田代さんの奥さんは、「是非。一度お会いしたかったんですよ。遅れましたが、明日香と言います」
私たちは少しの間、立ち話しをした。
「実は結婚する前に主人が、俺には好きな人がいたけど、親友の岡に負けたんだと、愚痴を言ったことがありました。あなたは、そのお陰で、こんなにいい女と結婚できるのよと返してやりました」
明日香さんのハキハキした口調に私は微笑むしかなかった。
「私は酒蔵の娘で何度か配達で、この旅館に来たことがあって、「毎度・・」と、大きな声で挨拶していたら、女将さんに、元気な娘さんねぇ。と声をかけられたんです。いつもTシャツとジーンズ姿の私に、女将さんは、あなたはなで肩だから、きっと着物が似合うわよ。そんなことを言われて、今じゃ、この姿に大変身です。縁って不思議ですね」
明日香さんは気さくで明るい人だった。
「由樹さん・・これからも、よろしくお願いしますね」
「私こそ・・」
「じゃ、あまりお喋りしていると、大女将の雷が落ちそうなので・・また、ゆっくり付き合ってくださいね」
明日香さんは慌てた様子で戻って行った。

私は部屋に入り。改めて感謝と出会いに思いを馳せ(は)ていた。
政さんと出会い、ヒロさんにモモばあちゃん、しのぶさんと彼そして森下先生、そこには深い絆があり。私はこの場所にいる。
そんな思いでいると、「由樹ちゃんの迷走は治らないねぇ」モモばあちゃんの笑う声に、慌ててモモばあちゃんの横に座った。
「ひさしぶりに、こんなに楽しいことはないよ。冥土の土産が増えて持ちきれないよ」
「また、そんなことを言って・・・」
叱る私に、苦笑いするモモばあちゃん。
先生を含め、男性全員がほろ酔い気分になっていた。
結局、女性たちで車の運転をして帰ることになった。先生は祭りの日は打ち上げに参加していると言うことで、タクシーで来たと話し、旅館の車で帰って行った。

それから、立て続けに台風が発生し、
裏山の地盤が緩み(ゆる)土砂が流れ、私たちの家は半壊した。
やむ得ず、熊本市内の小さなマンションに
引っ越しすることになった。
モモばあちゃんは野菜を届けられないことを残念がっていた。
「いつでも野菜は取りに来るんだよ。無駄なお金は使ちゃダメだよ」
モモばあちゃんの野菜は、何よりのご馳走だった。
ジメジメとして風の通らない部屋で、気分は滅入ってしまう。
私たちはもう一度。あの森の家に帰ることを目的の一つに入れた。

きびしい夏も過ぎ、10月を迎えようとして
いた。
そんな矢先、予測もできない台風が、
異常気象により発生し熊本を直撃した。
市内では一部の道路は信号機が折れ、
通行止めになっていた。
私はモモばあちゃんが気になり、
連絡を入れた。
モモばあちゃんは笑いながら・・、
「家がぶっ飛んだら裏山の防空壕に逃げるよ。これ以上、安全な場所はないからねぇ」
モモばあちゃんが本気で言っているのか?
冗談なのか・・?わからないでいた。
確かに裏山に洞窟はあり。
あれは私が18歳の頃。モモばあちゃんと住み始めて、あの洞窟は貯蔵庫と訊いたことが
あった。
モモばあちゃんは戦争の辛い話しを聞かせてくれた。
とにかく戸締りをして絶対に外に出ないようにと告げた。
モモばあちゃんは、「ありがとう・・」と、何度も言い電話を切った。

翌日。私は頭痛で目が覚めた。
風邪でも引いてしまったのかと思っていた。
その瞬間、電話が鳴り響いた。
私はすごく不安な気持ちで受話器を取った。
電話はモモばあちゃんのお嫁さんからの
ものだった。
内容を把握することが出来ない状態だった。
彼は仕事に出かける準備をしていた。
ただならぬ様子に、「何か・・あった?」
「モモばあちゃんが・・」その一言で
悟ったようで、「じゃ、送るよ」
「私なら・・大丈夫よ」
気丈な振る舞いをしていた。
顔色が悪いと気遣う彼を無理やり送り出し、
強気な発言をしたことを後悔していた。
そんな思いを消し、車を走らせた。
台風は去り、灰色の空が広がり、
ほんの少しだけ雨が降っていた。
モモばあちゃんの家の前に着くと、
自然に庭の畑に目が留まった。
所々は風で荒れていたが、青い大きな
ビニールシートで畑は覆われていた。
シートの周りに大きな石が置かれていた。
呆然と見つめていると、玄関からお嫁さんが、
頭を抱えた様子で近づいて来る。
私はただ立ち尽くして、家に近づくことが
出来ないでいた。
お嫁さんは私の前に来ると、「私たちも突然のことで驚いているんです」
その言葉で、モモばあちゃんの死を再確認したようだった。
「昨夜、心配になり。連絡を入れたんです。
うちに来るように言ったんですけど、お母さん大丈夫だと言いましてね。由樹さんも心配して電話を掛けてくれたと、お母さん嬉しそうでした」
それこそお嫁さんの気丈な姿に、私は泣き
崩れることなく聞いていた。

「何か手伝うことはないかと訊ねると、野菜もシートで被せたし、安心だと言いましてね。
朝方。電話をしても取らないものだから・・、主人と来て見たら、お母さんが畑で倒れていまして、すぐに家の中に移し、着替えを済ませて、近くの野間医院の先生に診ていただいたんですけどね」
モモばあちゃんは、きっと野菜が気になり。
何度もシートを確認しに行ったのに違いないと思うと、涙が溢れてきた。
「主人は母を抱きかかえたときに、私は着替えをさせたときに、母は既に亡くなっていると気づきました。先生も事件性もないので、すぐ死亡診断書を書くと言われました・・。
さあ。由樹さん・・お母さんに会って上げてください」
中に入ると、柱の竹の花瓶にはススキが飾られていた。
モモばあちゃんの傍に行くと、めずらしく
寝坊して眠っているようだった。
お気に入りのタオル地の浴衣を着て・・、
顔には白い布はなかった。
ご夫婦は手続きや連絡などで母親の傍に居られないので、由樹さんが居てくれて本当に助かると言ってくれた。
私は、モモばあちゃんの顔を見つめながら、突然の別れに恩返しも出来なかったことを、詫びていた。
髪を触り、冷たくなった頬に顔を寄せていた。
襖を開けると、穏やかな風が吹き、庭の畑の青いシートが剥がされていた。
何事もなかったかのように、野菜は地に根付き水滴が落ち、いっそう鮮やかに見えた。
(モモばあちゃん、すごいね・・)
(由樹ちゃん、帰りに・・・たくさん持ってお帰り)
そんな声が聞こえたようだった。

モモばあちゃんは仏壇の引き出しに、
簡単な手紙と葬祭の加入の書類を残していた。
私が死んだら見てほしいと言っていた。
「(納骨だけで葬儀は要らないけどね。)息子はそうはいかないだろうし。人間は生きているときが大事だからね。葬儀はみんなを悲しくさせる」
モモばあちゃんの遺言だった。
お嫁さんがお茶を出してくれた。
「お母さんと一緒に暮らしていたときは・・、お互い遠慮もあったんでしょうねぇ。離れてこうして、仕事を手伝い。気さくで楽しい、お母さんと接して、もう少し早くに気づけば、よかったと思っています。主人も、あんな死に方をしてと、言っていましたが、わかっているんですよ。けして、悪い死に方ではないことを、言葉が見つからないのでしょう」

お嫁さんは涙ながらに、「今なら・・私は。お母さんと一緒に暮らしたいですよ」
私はその言葉で桂を探した。
「桂が居ないようですけど・・?」
「それが・・?お母さんを発見したときには傍に居たんですけど、とにかくお母さんを家の中に移そうと思いましてね。桂はフラフラと歩いて、何処に行ったのか分からないんですよ」
私は縁側に行き、桂と呼んでみた。
桂は現れることはなかった。
お通夜は自宅で行われた。
葬儀は檀家のお寺で家族だけで、ひっそりと行ってほしい、モモばあちゃんの希望だった。
彼とヒロさんは仕事が終わると駆け付け、
ヒロさんは、政さんの葬儀と違い大泣きしていた。
しばらくすると、落ち着いた様子で・・、
「俺は母ちゃんが早く死んで・・・それで、ときどきモモちゃんが母ちゃんに見えたときがあってさぁ。高校の頃ちょっと不良ぽっくしていたら怒られて、母ちゃん見たいなことを言うなようと言ったら、モモちゃん笑って、(ばあちゃんで・・いいよ)と言っていた。
学校に通っているときは、(ヒロ、ヒロ)と呼んで、ときどきうるさいと反発していた。
それでも腹が空くと、自然に高森駅に向かい、弁当をもらって食べていた。モモばあちゃんと呼んでいいと言われたが、ただ。あのとき、長生きしてほしいと心から思った。モモちゃんでいいさぁと言うと、そうかと照れたように笑っていたよ」

トキさんたちは深夜遅くに訪ねて来た。
「仕事場で、四人で十分に泣いてきたよ」と、話した。目は真っ赤に腫れていた。
「モモちゃんと政さんには、私たちが逝く前に、畑の準備をして、待っていてもらうことにしたよ。モモちゃん、それで・・いいね」
しのぶさんはヒロさんが連絡すると、
一人でお別れをしたいとのことだった。
葬儀はしめやかに行われた。

阿蘇の山はススキで覆われ秋風に揺れ、
ススキの穂が舞い上がり、
私はこの季節が待ち遠しくなる。
「ススキの影に隠れて、泣くのも悪くはないわね」
しのぶさんの声に振り向いた。
「由樹ちゃんの車が見えたので、追って来たのよ」
しばらく二人で風に吹かれていた。
「人は死んでからも生き続けるのよ」
しのぶさんがポッリと言った。
「私たちが忘れないかぎり・・」
「そうですね・・」
私は桂のことを話した。
「猫にも意志があるのよ」
私はしのぶさんの一言で桂を探すのをやめた。

それから私は・・精神的に不安定なときを過ごした。
翌年には、医学部の卒業と国家試験が控えている。
そんなこともあってか?私の浮かない顔に
彼は、「由樹。柿の木を見に行こうか?」
倒れた柿の木を想像し、さらに落ち込んだ。
「倒れているんじゃないかしら・・?」
「さあ、どうかなあ?」
翌日の夕方に出かけることにした。
彼は仕事から帰ると、「日が暮れるのは早いなあ。夕食の前に・・・さあ。出発だ」
仕事の疲れも見せず、張り切る様子が・・、
たくましくも思えたが、私は浮かない気持ちのままだった。
外は陰り肌寒く冬の気配を感じさせた。
モモばあちゃんの家を通り過ぎる。
日が経つに連れ、モモばあちゃんとの出来事やモモばあちゃんの言葉が思い出される。
「もう、モモばあちゃんはいないのね・・」
堪える涙は熱く、すぐに頬で消えていた。
森の家に到着すると、家は取り壊されて木々は倒れたままだった。
薄暗い中。手を引かれ柿の木の傍に立っていた。
そこには大きく育った柿の木があった。
「大変だったよ。雨の日に何度も添え木をして守ったんだ。由樹の卒業の日にプレゼントしょうと思ってさあ。はやいけど・・まあ。いいさぁ」
徐々に嬉しさが込み上げてきた。
私も彼に熱いキスをプレゼントした。
年齢を重ねても少女のような思いは消えない。
「がんばって・・ここに家を建てよう」
彼の言葉に私は幸せを感じていた。
帰りにワインを買い。手早く食事の支度をした。
私はワインに酔い。「私を一人にしないでね・・」何度も呟き、彼の腕の中にいた。
「わかった・・わかったよ」と、
ささやく声の中でやさしく彼に抱かれていた。
私は直感的なものを感じていた。
「ススキの子が飛んで来たように思うの?」
彼はわからず「どう言う意味なんだい?」
私は少し笑い、「おとぎ話よ・・」
「俺は由樹がススキの子でも守るからなあ」
笑う私を強く抱きしめてくれている。
何かが変わる予感がしていた。
新年を迎え、私たちは大宰府天満宮に参拝することにした。
私は6年前にモモばあちゃんからもらった、
お守りを今も大切に持っている。
「願いが叶えばお返しするのよね。でも、手放すことが出来ないの。そのこともお願いするわね」
赤い桟橋を渡り、本殿に向かった。
「ああ。ちょっと待てよ。ここに来て思い出したことがあるんだ」
「えっ。何を・・?」
「赤い桟橋は・・帰りには渡ちゃいけないんだよ」
「えっ。どうして?」
「よくは分からないが?あの橋を帰りに男女で渡ると、別れると言う伝説があるんだよ。
学生の頃に聞いて真面目に信じたよ。笑うような話しだけど、色んな言い伝えが地方であるからね」
結婚して6年目を迎えていた。
私が31歳で彼が38歳になっていた。
無邪気に話す姿に笑っていたが、きっと素晴らしいプレゼントを贈るから待っていてね。
そう思いながら彼の顔を見つめていた。
参拝を終え、実家にご挨拶に向かった。
その後。小さな異変に気づきながら、
学業に専念した。
それから数日後、私は少し色褪せたお守りを持って、試験会場に向かった。
数日を掛けて試験は終わった。

私は発表と同時に病院を予約した。
不安と希望で胸は張り詰めた状態だった。
病院の診察の結果と試験の結果を持って、
ある場所に出かけた。
そのとき、私には伝えたい人がたくさんいることに気づいた。
モモばあちゃんの言葉が過(よぎ)った。
(一人になったとしても・・けして一人ではないよ)
人との関わりの大切さを、この子にも教えて行こう・・。
お寺の山門をくぐると、東風が吹き花の香りがした。
本堂でお参りをし、モモばあちゃんのお墓に向かった。
ここには政さんも眠っている。
大阪の祖父母に報告できないかわりに、二人に試験の合格と母親になることを報告した。
2年間の臨床研修と重なったが、不思議と
不安を感じることはなかった。
春の恵みの山菜を摘み。モモばあちゃんから教わった料理を作り。彼の帰りを待っていた。
時間は午後8時を過ぎていた。
「今日は仕事も定時に終わると思うよ。すぐに帰って来るから・・・」
彼の言葉を思い出していた。
電話が鳴り、受話器を取ると彼の声だった。
「ごめん・・5分ほどで着くから」
私は、ほっとしていた。
それと同時に母のことを思った。
母は支えてくれる人もいない中で私を産んでくれた。不安を感じたでしょうね・・。
チャイムが鳴りドアを開けると、
両手はふさがり満面の微笑みを浮かべた
彼が立っていた。
荷物を置くと、私の肩を抱き・・、
「由樹・・がんばったなあ」
「がんばったのは・・あなたよ」
「お祝いをもらっていたら、こんな時間になってしまった。森下先生はワインで乾杯しなさいと買って来るし。お袋は高級馬刺しを買ってあげるから、家に寄ってくれと言うし。由樹。電話は掛けなくっていいって、お袋が言っていたよ」
「そうはいかないでしょう。お母さんに伝えたいこともあるし」
電話を入れると、お母さんはすごく喜んでくれた。
「お母さん・・今日、産婦人科に行き、妊娠していることがわかったんですよ」
「本当・・そうなの・・よかったわね」
お母さんの喜ぶ声が受話器から漏れていた。
食卓に座っていた彼は立ち上がり。
「由樹・・今なんて言った・・?」
私は受話器を持ったまま。「赤ちゃんが・・出来ました」
電話は切れていた。
彼の喜びは想像以上のものだった。
小さな部屋が揺れていた。

その後、指定された病院に研修医として勤務することになった。
研修期間を一年以上残し、桃香が生まれた。
私たちは柿の木の待つ、森の中に小さなログの家を建てた。
台所にはおばあさんのエプロンがあり。
リビングにはおじいさんの柱時計が掛かり。私の部屋には・・モモばあちゃんの卓袱台を置いた。
私は一年間の育児休暇を取ることが出来た。
モモばあちゃんの、庭の畑には秋野菜が実っていた。息子さんが定年退職をして、夫婦で野菜を育てている。
「ばあさんのお陰で趣味を持てたよ。野菜は勝手に取りに来てほしい、遠慮は要らなよ」
私は感謝すると共に、庭の畑が守られたことが嬉しかった。
しのぶさんは二代目林太郎と暮らしている。イーゼルは多くの人が訪れ、時折コンサート会場に様変わりをしている。
しのぶさんらしく・・私らしく・・・そんな言葉が過(よぎ)った。
桃香も自分らしく生きて行ってね。
一年が経ち私は研修医として職場に戻った。
数日後。私は研修で京都へ行くことになった。
祖父母が喜ぶと彼が言ってくれた。
祖父母と母は、祖父の希望で西本願寺に眠っている。
庭では桃香と彼のはしゃぐ声がしている。
「今日は・・お父さんは仕事が休みだぁ~。「パッ~パッ~」これから、桃香と一緒に、ジイジイ先生の所に出かけるぞう」
先生もまた、桃香の誕生を心から喜んでいた。
いつの日か・・お父さんと呼べる時が必ず
訪れる事を私は信じている。
二人の笑い声が私を癒してくれる。
「由樹。知っているかい・・?桃香の変な癖・・」
私には見せない桃香の癖に微笑んでいた。
「俺が抱っこすると、すぐ耳を触るんだぁ。ほら。「パッ~パッ~」桃香、くすぐったいだろう。もう少し大きくなったら、あの木にブランコを吊り、テラスを作り。何れは、桃香の勉強部屋を建てるぞう・・由樹にはハンモックを吊るしてあげよう」
「とても楽しそうね。桃香はお父さんが大好きなのよね・・・」
「じゃ~出かけるよ。桃香・・お母さんに、バイバイは・・・」
「行ってらっしゃい・・」
桃香は彼に抱かれて大きく手を振っていた。

            おわり。

阿蘇の風

阿蘇の風

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 成人向け
更新日
登録日
2015-03-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted