蝶々愚人

廣木由加里

昔話の「わらしべ長者」がかすかに感じられる作品です。ニートの「ぼく」は偶然にいいことに出会います。いいことはつながっていく。でも、足をすくわれないように、網をはる? 題名は蝶々夫人をもじりましたが、まったく類似点はないです。

 人生が偶然の連続の結果、成功へと到達するなんて、小説の中だけのこと、ぼくはずっとそう考えていた。そんな劇的で幸運な人生を歩けるのは、世界のなかでも、0コンマ01パーセントにも満たないのではないだろうか? 
 この得体のしれない虫の幼虫も、僕の境遇と大して違いはないだろう。つまり平凡な六等星の生き方だ。
 そう、ぼくが、海釣りの餌に、庭木にたかっていた幼虫を使ったのは、むしろ必然のことだった。金が底をついていたのだ。最後の給料、といってもあの会社は、賃金形態も支給日も、きちんとあったものではなかったが、それでも
「今日でやめさせてください」
といったとき、上司兼経理兼人事係りは
「はい。これ、今月分と退職金」
と、十万円を封筒にいれ、手渡してくれたのだ。その最後の給料が、残高三桁になり、仕方なく徒歩四十三分の海へ、食糧を仕入れにいくことにしたのだった。
 竿は物置にたくさんあった。亡き父のものだ。
 ぼくは、庭にある、低木の木の葉に、うじゃうじゃとついていた、茶色っぽい幼虫をつまんでタッパーにいれた。
 一石二鳥ではないか? 虫退治にもなるわけだし。どの木も葉が穴だらけだった。これでは光合成もままならない。
 そうだ、そうだ、とひとりで賛成をする。
 ぼくは海へ出ると、防波堤の先端ちかくに持参した折りたたみ椅子をこしらえ、早速糸を垂らした。海は凪いでいた。
 先客はひとりいた。帽子の下から白いものがのぞくのは、いわゆる、リタイア世代だろうか。椅子のそばには缶コーヒーの空き缶や、栄養ドリンクのビンも飲み干されて倒れている。
 糸の動きをぼんやり追いながら、ぼくはこれからのことを考えていた。この先どうしようか? もちろん、ハローワークへ行って失業手当をもらう、というのは一番賢明な選択だろう。
 しかし、どうにもおっくうである。だいいち、就業しようと努力しているところを、たえず提示する必要があるという条件は難関である。自分にできるのだろうか? 気力がゼロのぼくに?
 辞めた会社では浄水器のセールスが仕事だった。
「こんなに水が綺麗になります、奥様」
 ぼくは毎日、訪問した家で、浄水器の水を飲んだ。相手が不安になるほど飲んだ。そして一件も契約できないと、会社でその水を頭からかけられ、
「頭をひやして、もう一度いけ」と罵声も浴びせられ、また出かける、その繰り返しだった。
 十分にダークだ。いやブラック企業である。浄水器の水で、病気も軽くなるというふれこみを売りにしている会社である。従業員も水さえ豊富にあればやっていけると考えたのだろう。
 それでも、ぼくは一年七ヶ月間働いたが、とうとう心身ともに病んで辞めたのだ。円形脱毛症プラス抑うつ症状、そして睡眠障害のニート、それがいまのぼくの肩書きである。
 ともあれ、歩いていける範囲に海があり、釣りができるのはありがたかった。時間は限りなくあったから。
 波の動きをながめていると、眠気が漂ってくる。夜間はまったく眠れないぼくは、ここちよい潮風にうとうとして、糸を垂らしていたが
「兄ちゃん、ひいているよ」という声で、はっと条件反射でリールをまいて、竿をあげる。
 魚は小さいがアジがかかっていた。
「あ、どうも、助かりました」クーラーボックスにほうりこみながら、いちおうお礼をいい、また幼虫を針につけた。
「それ、食いつきがいいけど、なんの虫?」
 オレンジのキャップをかぶった男は近寄り、たずねてきた。
「さあ? よかったら、どうぞ」
 タッパーをさしだすと、「おお」という顔をした。グロテスクだからだろう。三センチほどの、いわゆるベージュがかった色の芋虫である。もそもそしていた。
「じゃあ、さっそくこれで試してみようか」
 と、自分の椅子をひきよせ、並んで糸を垂らす。
「まったく、釣りっていうのは、リラックスできるスポーツだね」
 と、ぼくに話しかけてくる。たぶん、話し相手がほしかったのだろう。ぼくも、ええ、まあ、とか適当に答えながら、再び糸をたらしていたが、その、見るからにリッチそうな、つまり、服のブランドや竿の仕様で判断した、その男は、虫の餌に嬉々としていた。
「いいよ、これ。いいねえ」
 彼はその後たてつづけに七匹釣った。ぼくは、その後は小魚一匹である。男は悪いと思うのか、決まり悪そうにタッパーに手をのばすので、
「いいですよ、全部つかってください」
 タッパーを丸ごと渡した。虫と一緒に葉もたっぷりいれていたので、やつらはまだ生き生きしている。魚にとってはジューシーなのだろうな。
「本当? いいの?」
 と、彼はやけに嬉しそうであったが、やにわに携帯が鳴った。着信音は『威風堂々』だった。男はああ、とか、なに、とか応対をしているが、ぼくが始めから睨んだとおり、電話の話ぶりや威厳をもった態度からして、相応の地位のある人らしい。
「残念だ。行かなくてはならない」
 名残惜しそうなので、ぼくはその虫をあげることにした。
「うちには、うじゃうじゃいるんで」
「そうか、感謝するよ、君。ところで、その代わりといってはなんだが、この釣れた魚もらってくれ。これから行くところが急にできて、なに? そっちのクーラーボックスに入りきれない? そうか、じゃあ、こうしよう。名詞をあげるから、空のボックスと竿、あとでうちに届けてくれないか? そう、お礼もしたいしね」
 男はぼくに一枚の名刺をおしつけ、クーラーボックスのみならず、竿や椅子、弁当がら等のごみも残して去っていった。
 しかし、なぜか虫のタッパーだけは大事に小脇にかかえている。
 ぼくが成り行きに対処できずに、呆然としているあいだに、浜から上がった道に、お迎えの黒い車がすーっと横付けされ 彼はさっそうとのりこんでしまったのだ。まるでテレビのようだった。
 あとに残された二人分の釣り道具を前に、ぼくは少し気落ちしたが、まあ、魚が考えていたより多く手に入ったわけだし、とポジテブに考え、家にもどることにした。リッチな男のボックスには、アイナメやサヨリ、アジが入っていた。
 両肩に大小のクーラーボックス、手には2本の竿、背中に折りたたみレジャー椅子をせおい、歩く姿は浦島太郎に見えるだろう、となんとか気力をふるいおこし、他人の目は気にせずに歩いた。
 
 ぼくの家は台地にあった。母によれば由緒ある旧家ということで、樹木の生い茂った敷地はかなり広い。ぼくは、鍵のかかっていない勝手口から入る。クーラーボックスを台所におくと、エプロンをして、さっそく魚をさばきにかかる。
 新鮮なうちに下ごしらえをすれば、いたみもなく、いろいろな料理にできる。ぼくのたったひとつのとりえは、料理が好きで、幾分器用なところだろう。手際よくさばき、最後の魚の腹に包丁を入れた時にカチッと刃が何かにあたった。
「ん?」
 ぼくは出刃で、そろそろと白い腹を探りながら、開いていく。
 刃にあたったのは指輪だった。おおっ! つまんでみると、裏にはアルファベットが刻んである、本物っぽいではないか。マリッジリングだ!
 ぼくは歓喜した。金属である。もし本物のプラチナであれば、換金できる。なんとラッキーな! これはリッチ紳士が釣った魚である。あの幼虫が、こんな指輪に変身するとは! すばらしい。
 人生がバラ色になった気がした。思いがけない展開だった。
 指輪は綺麗に洗い、ジャムの空き瓶を探し入れた。ちゃりん。そして活力を得たぼくは、魚をすべて下処理して、半分は煮付けに半分はマリネにすることにした。その夜はなぜかぐっすり眠れた。
 次の日、ぼくは母のところに行くことにした。
 ぼくは母が四十を過ぎてから生んだ、一人息子なのである
 母は軽い認知症なのだが、持病の股関節の不具合も悪化して、施設で療養をしていた。ぼくの家から、市電で二駅のところに、その施設はあって、昨日作った煮つけをタッパーにいれて、持っていくことにした。母は魚の煮付けを食べたがっていたのだ。
 駅からは歩いて十五分くらいの高台が施設への道のりで、駅前の商店街を抜けていく。その中に貴金属の買取りや骨董もどきを扱う店があり、そこで指輪を鑑定してもらおうと考えていた。
 ところが、その日は近くの神社の例大祭なのか、露天商がたくさん出ていて、人ごみも普段の数倍である。ぼくは、魚の煮付けをビニール袋にいれて、右手にさげていたが、突然肩に人があたり、押されてよろめいた。思わず、ポケットにいれていた左手を出し、露天商の店の枠組みつかまり、難を逃れる。
 と、同時に指輪の入っていた瓶がポケットを脱走して、ころころころと転がってしまった。
「おい、こら、待て」
 転がった先は今川焼きの屋台の裏だった。
「お?」
 今川焼きのあるじは、それを拾った。
「あ、すいません、それ、ぼくのなんです」
「おい、こりゃあ、」
 ねじり鉢巻の今川焼き屋は、隣の烏賊焼きの露天商との隙間から出てきた。
「盗品でないのか?」
 え、盗品? いや、これはたしかに貰った魚の腹に入っていたわけだし、魚の腹のものはすべて権利を主張できる、はずだし。 ぼくは、のそのそと微小な脳細胞を回転させた。
「ちがいますよ、盗品ではないです」
「いや、よくみせてくれ」
 今川焼き屋はビンのふたを開け、指輪をとりだした。前後左右と内側をじっくりみていたが、
「やっぱり、これはおれがなくした指輪だ!」
と、断言した。
「ま、まさか」
「ほら見てみろ。ここに彫られている、蛇がくわえているのは今川焼きだろう? それに、内側のイニシャル、おれがカミさんからもらった証だ、MからSへ、となっている、これが証拠だ」
 たしかに蛇には気がついていたが、くわえているのが今川焼きとは、こじつけではないか? むしろ宝玉にみえるが、と言おうとすると、
「あんちゃん、なあ、ゆずってくれよ、おれの指輪はどこをさがしても見つからないし、カミサンは怒るし、結婚指輪だからなあ、『たったそれだけの愛なのね』とか、責められるし、な、みつかったことにしておきたいんだよ」
 と顔を寄せ、小さな声でささやくのだ。しんから困っているみたいだった。
「……」
 仕方ない、と僕は思った。だいたい、この指輪は、もとはあの紳士からもらったものなんだし、欲をつのらせるのはやめよう、と考えた。
「いいですよ、あげます」
 ぼくがそういうと、今川焼き屋は
「おお、太っ腹だね、財務大臣! ありがと、ありがたいよ、なにしろ、新しいのはおろか中古だって、その日暮らしの露天商ごときが買える値段でないからね、あんちゃん、恩にきるよ」と手で拝み
「そうだ、あんちゃん、お礼といってはなんだが、この今川焼きもっていきなよ。いますぐ、包むからな、まってくれよ」
と、いいながら、今川焼きの男は指輪を小指にはめている。
「おお。ぴったりだよ、やっぱり、あんたはおれの救世主!」
 そしてぼくはそのあと、今川焼きを三十個も持つはめとなった。

 母のいる施設に着いたときは、ちょうど三時のおやつの少し前であった。スタッフに今川焼きを渡し、みんなのおやつにしてくれ、と告げると、心なしか、施設のなかがほんわりムードになった。
 今川焼きの香ばしい、甘いにおいがみんなの気持ちに灯をともしたのかもしれない。あるいは、高齢者にはノスタルジーを感じる食べ物なのだろう。
 母は十数人のメンバーとともに、テーブルが6台しつらえてあるホールに集い、それぞれが、大型テレビをぼんやり見たり、隣の人とおしゃべりをしていた。
 母は歩くと股関節が痛むのか、車椅子に座っていたが、傍らにいる女性と楽しそうに話している。
 ぼくが近づくと、彼女は母と同じ目線でしゃがんでいたが、ぱっと立ち上がった。
「あ、息子さんですね、いま、お母さまと息子さんの話をしていたのです」
「あなたは?」
 ぼくがそう尋ねたのは、施設のユニホームでなく、紺色のブランドもののジャージを着ていたからである。
「実習生です」
「そうですか、母がお世話になっています」
 施設には介護関係の職業につきたい学生が、たびたび実習にきていた。お年寄りの話し相手は、多忙なスタッフにはなかなかできないので、若い実習生は歓迎され、施設にも学生も双方にメリットがあるのだろう。
 そこに母と実習生の分の今川焼きが、お皿に盛られて運ばれてきた。
「あら、うれしい」
 母は愛好をくずした。
「好物がたべられてよかったね、母さん」
 ぼくは魚の煮付けも夕飯に食べるように話す。
 二ヶ月前に施設に入居したものの、まだ自宅に心残りがあるのか、母は食欲が落ちていた。
 施設の栄養管理のスタッフが、時々は慣れ親しんだ、家の味をお持ちください、というので、持参したのだった。
「息子さん、魚を料理するのですか?」
 実習生がおどろいたようにたずねる。
「この子の煮る魚は、なつかしい味がするのよ。味付けもちょうどよい薄味でね。でも、仕事なんかは、優しいとかえってだめよね。今の世の中は、正直なだけでは通用しない、こすかしいのだけが生き残れる」
 母はふがいないぼくに対する愚痴を言いながら、今川焼きを口に運んだ。
 その後、夕食の介助を申し訳程度して、残った魚は部屋にある冷蔵庫にいれると、ぼくは母に帰ることを伝えた。
「戸締りをきちんとするように、大切な家だから」
 母はぼくにいったが、泥棒がなにを盗むというのだろう? 現金は一銭もなかったのだ。
 施設をでたところで、先ほどの実習生が立っていた。
「あの、すこし聞きたいことがあるのですが、駅までご一緒してよろしいでしょうか」
 どうやら待っていてくれたらしい。ぼくは心のなかで歓喜した。
 駅までの道のりで聞いたところによると、彼女は大学で、人の味覚と記憶の相関を研究しているらしい。大学でなく、それとも、大学院なのか? ここでの実習は教員職になるための一課程らしく、
「単位をとるためだけ、なんです」
 という。施設での実習着のジャージを脱いで、薄手のカットソーとジーンズに着替えた彼女は、普通以上にかわいらしかった。
「実は、今の学校も、一度職についてから、さらに学びたくなって入学したので、年ばかりくってます」とはにかみ
「慣れ親しんだ味が、埋もれていた記憶を引き出すという説があります」と続けた。
 ぼくはうんとか、へえ、とかいいながら、彼女の睫毛がばさばさするのを見ていた。まるで蛾の触角のようであった。
 そんな想像を見透かすように、
「よかったら、ここに一緒に行きませんか?」
と、チケットを差し出した。そこには『魅惑の蝶たち』というタイトルがついていた。市のカルチャーホールで開催されているらしい。
「喜んで、といいたいところなんだけど、あまり金なくて」
「あら、正直なんですね」
「それだけが、とりえかも」
 二人で笑って、結局土曜日に一緒にいくことになった。
 ぼくはここではたと気がついた。あの芋虫が、魚に、さらに指輪となり、そのあと、今川焼きになった。そして彼女に行き着いた! これは昔話のわらしべ長者みたいじゃないか!
 たしか、あの昔話では、一本のわらが、みかんになり、みかんが絹の反物になり、そして反物は馬になる。さらに馬をゆずった長者の家で、主となるわけである。その家の娘と結婚して、幸せに暮らすというストーリーだったと思う。そのまんまだ! 話しをなぞっている!
 僕と彼女はめぐりあう運命だったのだろうか? 彼女が化け物に変身するという類のどんでん返しだけは、まっぴらであるが……。

 次の日、小雨がふっていたが、例のリッチな紳士の家にクーラーボックスを届けることにした。ぼくは、そのかさばるボックスを水道できれいに洗い、椅子や竿もまとめ、自転車に積んでいった。
 お礼、という誘惑があった。たしか紳士はそういっていた。
 名刺の住所は高級住宅地で、ぼくの家からは、5キロほどのところであった。K市は東京には快速で一時間以内にいけるという利便さよりも、閑静な丘陵地のシックな落ち着いた住宅街ということで、古今とわず人気のある土地であった
 ぼくが紳士の家をスマホのナビで探し、呼び鈴を押すと、お手伝いらしき女性がでてきた。
「だんな様よりうかがっています」
といって、釣り道具をあずかるという。彼は予測していたとおり、不在らしい。まあ、ウイークデイにふらふらしているのは、ぼくみたいな、ニートだけだろうな。
 多分捨ててしまっただろう、と思ったが、虫の入っていたタッパーはないか、念のため聞くと、お手伝いさんは、首をかしげながらいったん中に引っ込み、長いあいだかかり、もう、忘れられたんじゃないか、と思うころやっと出てきた。
「さなぎになっているので、このまま預からせてくださいとのことです」
 どうやら、紳士に電話で聞いたらしい。それにしてもあいつがさなぎになったとはね、ぼくはちょっぴり感心した。ガッツがあるな、と見直した。魚に食われるまえに、変化するとは……。
 一寸の虫にも五分の魂だな。
「到来物で失礼とは存じますが、これをお持ちください、だんな様の言伝でございます」
 といってワインをさしだした。
 ぼくはのけぞった。お金持ちは違うなあ、本当に。ラベルは判読不可能だが、わずかに読める文字で推察するに、フランスのなんちゃらブルゴーとかだった。ぼくはありがたく頂戴することにした。
 所得の再分配だ! 貧しきものに光を、と心で唱えながら、自転車で家にもどった。マリネをさかなに乾杯しよう。
「芋虫くんに、乾杯!」
 いや待てよ。ぼくはワインの栓を抜くのをやめた。とりあえず、土曜日まで温存しよう。土曜日はあの娘と会える予定だし……ぼくは本当にわらしべ長者になった気分であった。芋虫がワインに、だしな。

 土曜日、待ち合わせの時刻に行くと、彼女はもう来ていた。会場はマニアらしい人でごったがえし、予想していたよりも混雑している。圧倒的に男性が多いことに気づく。
「叔父がそのマニアなんです」
 彼女は券の出所を説明する。
「本職は公務員なんですが、蝶々のこととなると、寝食をわすれ、山でもジャングルでも南極でも行ってしまうんです。あら、南極には蝶はいないかしら? つまり、どのマニアも新種を見つけたいし、あいにく新種はめったにみつからないみたいですよ」
 展示してある蝶々は美しかった 。白いパネルに剥製となって、静止している蝶の、燐粉の美しさはどんな絵の具でも表現できないだろう。一見地味な色あいでも、紋というのであろうか、模様の神秘に、息をのんでしまう。捕獲する鳥を驚かせる目的の、目のような模様も、ため息をついてしまう美しさであった。小魔女に見せられた彼らのように、とりこになり、地の果てでも追っていきたくなる、
男の習性をかい間見た気がした。
 展示施設の中ほどにショーケースのような四方をアクリル板で囲った、スペースがあり、その中に生きている蝶が乱舞していた。
 ケースには特殊な加工がしてあり、こちらからは蝶がみられるが、蝶からは外が見えず、まるで森のなかにいるように、ありのままの姿で舞う姿が観察されます、という説明書きがあった。この展示会の一番の目玉なのだろう。
「きれい!」
 彼女が小走りで近寄った。
 腕の部分だけ透ける水色のブラウスを着た彼女は、軽やかに舞う蝶にも見える。ぼくは思わず見とれてしまった。
 ああ、それにしてもさえない自分をさらに感じてしまう。こっちは五百円玉大のはげもあるし、さえないニートだ。彼女はどうしてぼくを誘ったのだろう? ぼんやりしながら、彼女を目で追っていた。
 水槽のような五メートル四方ぐらいの、角柱形の外側は、美しい光景を観察している人が十数人いたが、ぼくは、ふと気になるものを見つけ、人のあいだを縫って近寄った。蝶が輪舞するショウギャラリーには本物の木の枝を配置してあるが、そこに幼虫であろう芋虫がいた。
 大きさも色も、ぼくの家の庭の芋虫に酷似している。
「え?」
 あの芋虫は、これと同じモノなのか? この珍しい品種の蝶が自分の家の庭にいるのだろうか? 彼女が近寄ってきた。
「ねえ、これと同じようなのが、わんさか、ぼくの家にいるんだけど?」
「ま、まさか、これって、すごく希少な蝶みたいよ?」
 彼女は説明の書かれたプレートを指差す。
「そうだよね、でも、たくさんいて、この幼虫はよく見るし、この蝶もさ、あたりまえのように、敷地を飛んでいるし」
「そうだったら、なんかそれって凄いことみたいに思うの。これから、行ってみたい、いいかしら?」
「そりゃ、全然かまわないけど」
 かまわないけど、金がない、とはいえず、言葉を飲み込んだ。ぼくはここまで自転車で一時間ちょいかけてきたのだ。
 電車賃がないなんて、どうして言える? 彼女をあの市電に案内すれば、自分の運賃ぐらいはなんとかなるだろうが。
「話が決まったたら、行きましょう」
 彼女はぼくの手を握って、蝶々の展示場から飛び出す。そしてエレベーターを使い、地下の駐車場に導いた。
「あたし、勘だけはいいのよね、どうぞ、乗って。君のお宅までこの車で行きましょう」
「はあ、」
 ぼくは指し示された助手席に乗った。車は赤いワーゲン・ゴルフだった。
「勘って、どういう意味?」
 ぼくは車がパーキングから的確にかつ迅速に飛び出したあとたずねた。
「勘、ていうか、今日はなんとなく車のほうが、いいかな……っていう考えが頭にわくと、素直に従うっていうことよ」
「はあ、で、ゴルフですか」
「ああ、これ?」彼女は笑った。
「父が心配性でね。車体が頑丈であればあるほど、事故にあわないと考えているの。お金を出してもらうわけだから、わたしは文句いえないわよね」
 彼女はぼくの家の住所を聞いた。そしてそれを音声でナビに伝える。車はさすがに堅実な走りを見せた。
「君の家のことは、お母さまからいろいろ聞いているの。お母さまは婿取りをした、といっていたわ、なんでも江戸時代から、その家の当主はその家にしか生息しない蝶を、守る家系だとか、そういっていたわ」
「……母はそう見えないけど、認知症だから」
 話の信憑性の問題だ。
「そうかもしれないけど、過去の記憶ほど鮮明である、ということを考えると、まんざら妄想とは思えなくてね」
「そうですか」
 ぼくは、なんで彼女がぼくを誘ったか、納得した。蝶のことか。そうだったのか、叔父さんとやらのためか。
「むしろ、わたしなんかより叔父が来られればいいな、と思うの。でも今は、南米のほうへいっているはずなのよね」
ほらな。
「ああ、なるほど」
「でも、電話すればふっとんでくるかも」
「え?」
 ぼくは思いがけない展開にびびって萎縮していた。これではさらに漫画かドラマみたいではないか? 車のなかで、彼女はぼくの家の敷地内のことについて尋ねる。
「そうなのね、きっと君の家って、四方を谷にかこまれているし、あの幼虫が蝶になって限られたエリアにとどまっているのかもしれないわ」
「……」
 土曜日ということで、渋滞があり、市電よりはかなり時間がかかって、ぼくの家についた。彼女は驚いたように、
「やだ、うちからそんなに遠くないところだわ」
 と言った。やだ、といいながらも、うれしそうだったので意外だった。周りを背の高い防風林でかこまれたぼくの家は、こう見ると、ひとつの城のようでもあった。
 蝶はこの高さを乗り越えられないのかもしれない。
 車から降りた彼女はぼくがさししめす木を、目を皿にして見ていた。しかし、幼虫はまったく、これでもかというほど、一匹もいなかった。
 さなぎになってしまったのか、成虫になり飛んでいったのか、あんなにうじゃうじゃいたのに、ぼくはまるで自分のいったことが大嘘だと、思われるようで、必死で弁解した。
「変だなあ、あんなにわんさかいたのに」
「……」
 彼女は怒ったのだろうか? ひとりで、あちこち見ながら写真をとったり、上を見上げたりしている。
 ぼくは自分の人生が突然に終わったと感じた。あのリッチ紳士に幼虫をあげなければよかった。そうだ、あのときに返してもらえば……
 やにわに彼女が電話をする。ハローとかいっているので国際電話なのか、やがて「はい、そうします」といっているのが聞こえる、
「ねえ、さなぎないかしら?」
「さなぎですね、お嬢様。」ぼくは、条件反射で、浄水器のセールスの口調になってしまった。
「さなぎさえあれば、飼育箱で保存しながら、羽化がみられるでしょう。叔父はこれからすぐコスタリカを発って、戻るというの。さなぎがひとつでもあればいいんだけど」
「ひとつ、人より力もち……」などと、ぼくは相当混乱していた。
 さなぎ様! どこにいらっしゃいますか!
 ここでさなぎがなければ、ぼくの人生はおしまいである。おしまい、彼女は怒って帰り、ぼくはまたひとりで釣り。魚のくいつきのいい幼虫くんもいないし!
「あ!」ぼくは叫んだ。
「さなぎ、あります。さなぎあるんです。このまえのリッチ紳士の家に」
「……リッチ紳士?」
「そう、あの、ここから自転車で少しいったところの高級住宅地に、
お金のある人の家に、あるんです」
 そうだった。なんてぼくはラッキーなんだ。
 だが、自転車! あのカルチャーセンターにおいてきてしまった。自転車がないのだ。なんて不幸なんだ。天国と地獄だ。
 泣く泣く、そのおおまかな場所と苗字をしどろもどろにいうと、彼女はおなかをかかえて笑いだした、
「そこ、私の家よ! そのリッチ紳士って父のことなのね! なんて不思議! 偶然ってあるのね」
 というと、ぼくが口を開く前に車に飛び乗り、あっという間に出て行った。土煙だけもうもうと上がる。

 行ってしまった。まあ、しかたない。これで終わりか。
 ぼくはため息をついた。なんてことない。振り出しにもどっちゃった。この家に一人の生活に。気が向けば、海に向かい……魚をとり、それを料理して、食べて、生きる、もう、釣りに幼虫は使えないけど。
 そうだ、いままでがわらしべ長者みたいだったけど、最後は違う、どんでん返し、貧乏と孤独になっておしまい、だ。ぼくはどれくらいそこに立ちん坊していたのだろう?
 気がつくと日が傾いてきた。すると、ひらひらと緑色の蝶がどこからともなく飛び始めた。蝶だ! これが……あの蝶か?
 まるで、一日の終わりを祝福するように飛んでいる。よくみると、羽の裏側は黄金に輝いている。また、見る方向によっては玉虫色にも輝く。
 きれいだな、ぼくは思わずみとれてしまう。こんなに美しい蝶がいることを、なんで母は教えてくれなかったのだろう。
 この年まで、なんで気がつかなかったのか。
 教えると、秘密は漏れる。でも今回は漏れてしまった。
 ぼくは急に空腹を覚えた。そうだ、乾杯をしよう。ちょうどマリネがあるし、あの紳士の家のお手伝いさんがくれたワインもあるし、
 自棄酒だ! ぼくが家の勝手口に向かうと、車が門に至る坂を登ってくる音がした。まさか?
 彼女だった。
「持ってきたわよ、ほら」
 とプラスチックの飼育箱をトランクからだす。例のさなぎ様たちだ。
「それから、これも」とフランスパンを出した。
 フランスパンの香ばしい香りがぼくの歓喜に拍車をかける。
「キッチンから、くすねてきたの。これがやっとだったのよ、お手伝いの目は厳しいの」
 とパンをバキッと太ももで割った。太ももにも感謝だ。
「叔父はきっと喜ぶわよ」
 ぼくたちは、縁側の戸を開け放ち、座布団を敷いて、夜になると今度は蛍を見ながら、ワインとマリネで食事をした。そしてフランスパンもたっぷり食べた。ぼくは庭にあったルッコラを摘んでサラダをこさえた。
「蝶に乾杯!」
 いままでの人生のなかで一番の食事だった。
 彼女の夢はこういうものだった。人がものをたべるのは、ただエネルギーの元を摂取するということだけではなくて、そこに一緒にいる人や、そのシーンや、それから気持ちとか、想いとか全部かかわりあっていること、自分はそういう記憶と味について研究していること、そして認知症などで、記憶を失っても、また懐かしい味に遭遇すれば、きっと失われたものが、復活するということを研究で明らかにしたいこと。
「きのうの今川焼きね、あれで、とても貴重なことを思いだしたの」
「貴重なこと?」
「そうなの。昔、幼稚園か小学に入学したてのころ、初めて神社の縁日にいったのよね。そこに、今川焼きが売っていた。そのときは、お手伝いのねえやにつれていってもらったのよね、母は病弱で、とてもそんな人ごみはだめだった。で、なにかお土産を買おうと、お祭りらしいなにかを、イカとかわたあめとか、でもねえやは不衛生だから、だめだって、店の前を素通りで。一番はずれの屋台が今川焼きだった。わたしは駄々をこねて、道に大の字に寝て、買わないと動かないと言い張り、やっと許してもらった」
「うん」
「でも、残りが一個だけしかなくて。おじさんが袋にいれてくれたのを大事に持って帰り、母にわたすと、半分にして『はんぶんこね』って、わたしにくれた。思わず胸に飛び込むと、母がにっこりとして」
 あの味が、その記憶が、昨日の施設のあのときでよみがえったのだ、という彼女を、涙をうっすら浮かべる彼女をぼくは本当にいとおしいと思った。

 そして、彼女の叔父さんがぼくの家にやってきた。飼育箱のさなぎの羽化も撮影できたし、叔父さんは
「これはすごい発見だ」
 と、小躍りして興奮しまくっていた。ぼくの家は叔父さんや助手やたくさんの人が出入りするようになり、ぼくは食費をもらって、彼らの食事を作り、雑用、時には手伝いもした。
 さらに、叔父さんはここをシーズン中は自然のままの展示場にしたいといいだした。蝶の季節は一時的だし、ぼくは母と相談して、一番よい方法かと、了承した。
 屋敷と蝶の維持管理のことが、母のストレスだったのだ。
 蝶の季節になると母は施設にロングステイにいき、ぼくは彼女のお父さんであるリッチ紳士のクルーザーに寝泊りをしたりすることもあった。
 ぼくはあいかわらず定職につかず、クルーザーで海釣りをたのしんだり、魚料理をしたり、気ままにくらしている。
 彼女は研究のために、記憶をよみがえらすヒントになる食べ物をぼくに作らせたりする。彼女は研究が三度の飯より好きらしい。
 ぼくはそんなアシストもまあ、そこそこ楽しく、蝶みたに、甘い水を求めて、ふらふらしているってことである。
 そうだな、あの幼虫が、ぼくの人生の分かれ道だったんだな。
「ねー与太郎、『しもつかれ』を作ってくれる?」
 彼女がちょっとだけ甘えた口調で聞いてくる。
 偶然の連続による、ささやかな幸せ、ここにもあった。

 人生が偶然の連続の結果、成功へと到達するなんて、小説の中だけのこと、ぼくはずっとそう考えていた。そんな劇的で幸運な人生を歩けるのは、世界のなかでも、0コンマ01パーセントにも満たないのではないだろうか? 
 この得体のしれない虫の幼虫も、僕の境遇と大して違いはないだろう。つまり平凡な六等星の生き方だ。
 そう、ぼくが、海釣りの餌に、庭木にたかっていた幼虫を使ったのは、むしろ必然のことだった。金が底をついていたのだ。最後の給料、といってもあの会社は、賃金形態も支給日も、きちんとあったものではなかったが、それでも
「今日でやめさせてください」
といったとき、上司兼経理兼人事係りは
「はい。これ、今月分と退職金」
と、十万円を封筒にいれ、手渡してくれたのだ。その最後の給料が、残高三桁になり、仕方なく徒歩四十三分の海へ、食糧を仕入れにいくことにしたのだった。
 竿は物置にたくさんあった。亡き父のものだ。
 ぼくは、庭にある、低木の木の葉に、うじゃうじゃとついていた、茶色っぽい幼虫をつまんでタッパーにいれた。
 一石二鳥ではないか? 虫退治にもなるわけだし。どの木も葉が穴だらけだった。これでは光合成もままならない。
 そうだ、そうだ、とひとりで賛成をする。
 ぼくは海へ出ると、防波堤の先端ちかくに持参した折りたたみ椅子をこしらえ、早速糸を垂らした。海は凪いでいた。
 先客はひとりいた。帽子の下から白いものがのぞくのは、いわゆる、リタイア世代だろうか。椅子のそばには缶コーヒーの空き缶や、栄養ドリンクのビンも飲み干されて倒れている。
 糸の動きをぼんやり追いながら、ぼくはこれからのことを考えていた。この先どうしようか? もちろん、ハローワークへ行って失業手当をもらう、というのは一番賢明な選択だろう。
 しかし、どうにもおっくうである。だいいち、就業しようと努力しているところを、たえず提示する必要があるという条件は難関である。自分にできるのだろうか? 気力がゼロのぼくに?
 辞めた会社では浄水器のセールスが仕事だった。
「こんなに水が綺麗になります、奥様」
 ぼくは毎日、訪問した家で、浄水器の水を飲んだ。相手が不安になるほど飲んだ。そして一件も契約できないと、会社でその水を頭からかけられ、
「頭をひやして、もう一度いけ」と罵声も浴びせられ、また出かける、その繰り返しだった。
 十分にダークだ。いやブラック企業である。浄水器の水で、病気も軽くなるというふれこみを売りにしている会社である。従業員も水さえ豊富にあればやっていけると考えたのだろう。
 それでも、ぼくは一年七ヶ月間働いたが、とうとう心身ともに病んで辞めたのだ。円形脱毛症プラス抑うつ症状、そして睡眠障害のニート、それがいまのぼくの肩書きである。
 ともあれ、歩いていける範囲に海があり、釣りができるのはありがたかった。時間は限りなくあったから。
 波の動きをながめていると、眠気が漂ってくる。夜間はまったく眠れないぼくは、ここちよい潮風にうとうとして、糸を垂らしていたが
「兄ちゃん、ひいているよ」という声で、はっと条件反射でリールをまいて、竿をあげる。
 魚は小さいがアジがかかっていた。
「あ、どうも、助かりました」クーラーボックスにほうりこみながら、いちおうお礼をいい、また幼虫を針につけた。
「それ、食いつきがいいけど、なんの虫?」
 オレンジのキャップをかぶった男は近寄り、たずねてきた。
「さあ? よかったら、どうぞ」
 タッパーをさしだすと、「おお」という顔をした。グロテスクだからだろう。三センチほどの、いわゆるベージュがかった色の芋虫である。もそもそしていた。
「じゃあ、さっそくこれで試してみようか」
 と、自分の椅子をひきよせ、並んで糸を垂らす。
「まったく、釣りっていうのは、リラックスできるスポーツだね」
 と、ぼくに話しかけてくる。たぶん、話し相手がほしかったのだろう。ぼくも、ええ、まあ、とか適当に答えながら、再び糸をたらしていたが、その、見るからにリッチそうな、つまり、服のブランドや竿の仕様で判断した、その男は、虫の餌に嬉々としていた。
「いいよ、これ。いいねえ」
 彼はその後たてつづけに七匹釣った。ぼくは、その後は小魚一匹である。男は悪いと思うのか、決まり悪そうにタッパーに手をのばすので、
「いいですよ、全部つかってください」
 タッパーを丸ごと渡した。虫と一緒に葉もたっぷりいれていたので、やつらはまだ生き生きしている。魚にとってはジューシーなのだろうな。
「本当? いいの?」
 と、彼はやけに嬉しそうであったが、やにわに携帯が鳴った。着信音は『威風堂々』だった。男はああ、とか、なに、とか応対をしているが、ぼくが始めから睨んだとおり、電話の話ぶりや威厳をもった態度からして、相応の地位のある人らしい。
「残念だ。行かなくてはならない」
 名残惜しそうなので、ぼくはその虫をあげることにした。
「うちには、うじゃうじゃいるんで」
「そうか、感謝するよ、君。ところで、その代わりといってはなんだが、この釣れた魚もらってくれ。これから行くところが急にできて、なに? そっちのクーラーボックスに入りきれない? そうか、じゃあ、こうしよう。名詞をあげるから、空のボックスと竿、あとでうちに届けてくれないか? そう、お礼もしたいしね」
 男はぼくに一枚の名刺をおしつけ、クーラーボックスのみならず、竿や椅子、弁当がら等のごみも残して去っていった。
 しかし、なぜか虫のタッパーだけは大事に小脇にかかえている。
 ぼくが成り行きに対処できずに、呆然としているあいだに、浜から上がった道に、お迎えの黒い車がすーっと横付けされ 彼はさっそうとのりこんでしまったのだ。まるでテレビのようだった。
 あとに残された二人分の釣り道具を前に、ぼくは少し気落ちしたが、まあ、魚が考えていたより多く手に入ったわけだし、とポジテブに考え、家にもどることにした。リッチな男のボックスには、アイナメやサヨリ、アジが入っていた。
 両肩に大小のクーラーボックス、手には2本の竿、背中に折りたたみレジャー椅子をせおい、歩く姿は浦島太郎に見えるだろう、となんとか気力をふるいおこし、他人の目は気にせずに歩いた。
 
 ぼくの家は台地にあった。母によれば由緒ある旧家ということで、樹木の生い茂った敷地はかなり広い。ぼくは、鍵のかかっていない勝手口から入る。クーラーボックスを台所におくと、エプロンをして、さっそく魚をさばきにかかる。
 新鮮なうちに下ごしらえをすれば、いたみもなく、いろいろな料理にできる。ぼくのたったひとつのとりえは、料理が好きで、幾分器用なところだろう。手際よくさばき、最後の魚の腹に包丁を入れた時にカチッと刃が何かにあたった。
「ん?」
 ぼくは出刃で、そろそろと白い腹を探りながら、開いていく。
 刃にあたったのは指輪だった。おおっ! つまんでみると、裏にはアルファベットが刻んである、本物っぽいではないか。マリッジリングだ!
 ぼくは歓喜した。金属である。もし本物のプラチナであれば、換金できる。なんとラッキーな! これはリッチ紳士が釣った魚である。あの幼虫が、こんな指輪に変身するとは! すばらしい。
 人生がバラ色になった気がした。思いがけない展開だった。
 指輪は綺麗に洗い、ジャムの空き瓶を探し入れた。ちゃりん。そして活力を得たぼくは、魚をすべて下処理して、半分は煮付けに半分はマリネにすることにした。その夜はなぜかぐっすり眠れた。
 次の日、ぼくは母のところに行くことにした。
 ぼくは母が四十を過ぎてから生んだ、一人息子なのである
 母は軽い認知症なのだが、持病の股関節の不具合も悪化して、施設で療養をしていた。ぼくの家から、市電で二駅のところに、その施設はあって、昨日作った煮つけをタッパーにいれて、持っていくことにした。母は魚の煮付けを食べたがっていたのだ。
 駅からは歩いて十五分くらいの高台が施設への道のりで、駅前の商店街を抜けていく。その中に貴金属の買取りや骨董もどきを扱う店があり、そこで指輪を鑑定してもらおうと考えていた。
 ところが、その日は近くの神社の例大祭なのか、露天商がたくさん出ていて、人ごみも普段の数倍である。ぼくは、魚の煮付けをビニール袋にいれて、右手にさげていたが、突然肩に人があたり、押されてよろめいた。思わず、ポケットにいれていた左手を出し、露天商の店の枠組みつかまり、難を逃れる。
 と、同時に指輪の入っていた瓶がポケットを脱走して、ころころころと転がってしまった。
「おい、こら、待て」
 転がった先は今川焼きの屋台の裏だった。
「お?」
 今川焼きのあるじは、それを拾った。
「あ、すいません、それ、ぼくのなんです」
「おい、こりゃあ、」
 ねじり鉢巻の今川焼き屋は、隣の烏賊焼きの露天商との隙間から出てきた。
「盗品でないのか?」
 え、盗品? いや、これはたしかに貰った魚の腹に入っていたわけだし、魚の腹のものはすべて権利を主張できる、はずだし。 ぼくは、のそのそと微小な脳細胞を回転させた。
「ちがいますよ、盗品ではないです」
「いや、よくみせてくれ」
 今川焼き屋はビンのふたを開け、指輪をとりだした。前後左右と内側をじっくりみていたが、
「やっぱり、これはおれがなくした指輪だ!」
と、断言した。
「ま、まさか」
「ほら見てみろ。ここに彫られている、蛇がくわえているのは今川焼きだろう? それに、内側のイニシャル、おれがカミさんからもらった証だ、MからSへ、となっている、これが証拠だ」
 たしかに蛇には気がついていたが、くわえているのが今川焼きとは、こじつけではないか? むしろ宝玉にみえるが、と言おうとすると、
「あんちゃん、なあ、ゆずってくれよ、おれの指輪はどこをさがしても見つからないし、カミサンは怒るし、結婚指輪だからなあ、『たったそれだけの愛なのね』とか、責められるし、な、みつかったことにしておきたいんだよ」
 と顔を寄せ、小さな声でささやくのだ。しんから困っているみたいだった。
「……」
 仕方ない、と僕は思った。だいたい、この指輪は、もとはあの紳士からもらったものなんだし、欲をつのらせるのはやめよう、と考えた。
「いいですよ、あげます」
 ぼくがそういうと、今川焼き屋は
「おお、太っ腹だね、財務大臣! ありがと、ありがたいよ、なにしろ、新しいのはおろか中古だって、その日暮らしの露天商ごときが買える値段でないからね、あんちゃん、恩にきるよ」と手で拝み
「そうだ、あんちゃん、お礼といってはなんだが、この今川焼きもっていきなよ。いますぐ、包むからな、まってくれよ」
と、いいながら、今川焼きの男は指輪を小指にはめている。
「おお。ぴったりだよ、やっぱり、あんたはおれの救世主!」
 そしてぼくはそのあと、今川焼きを三十個も持つはめとなった。

 母のいる施設に着いたときは、ちょうど三時のおやつの少し前であった。スタッフに今川焼きを渡し、みんなのおやつにしてくれ、と告げると、心なしか、施設のなかがほんわりムードになった。
 今川焼きの香ばしい、甘いにおいがみんなの気持ちに灯をともしたのかもしれない。あるいは、高齢者にはノスタルジーを感じる食べ物なのだろう。
 母は十数人のメンバーとともに、テーブルが6台しつらえてあるホールに集い、それぞれが、大型テレビをぼんやり見たり、隣の人とおしゃべりをしていた。
 母は歩くと股関節が痛むのか、車椅子に座っていたが、傍らにいる女性と楽しそうに話している。
 ぼくが近づくと、彼女は母と同じ目線でしゃがんでいたが、ぱっと立ち上がった。
「あ、息子さんですね、いま、お母さまと息子さんの話をしていたのです」
「あなたは?」
 ぼくがそう尋ねたのは、施設のユニホームでなく、紺色のブランドもののジャージを着ていたからである。
「実習生です」
「そうですか、母がお世話になっています」
 施設には介護関係の職業につきたい学生が、たびたび実習にきていた。お年寄りの話し相手は、多忙なスタッフにはなかなかできないので、若い実習生は歓迎され、施設にも学生も双方にメリットがあるのだろう。
 そこに母と実習生の分の今川焼きが、お皿に盛られて運ばれてきた。
「あら、うれしい」
 母は愛好をくずした。
「好物がたべられてよかったね、母さん」
 ぼくは魚の煮付けも夕飯に食べるように話す。
 二ヶ月前に施設に入居したものの、まだ自宅に心残りがあるのか、母は食欲が落ちていた。
 施設の栄養管理のスタッフが、時々は慣れ親しんだ、家の味をお持ちください、というので、持参したのだった。
「息子さん、魚を料理するのですか?」
 実習生がおどろいたようにたずねる。
「この子の煮る魚は、なつかしい味がするのよ。味付けもちょうどよい薄味でね。でも、仕事なんかは、優しいとかえってだめよね。今の世の中は、正直なだけでは通用しない、こすかしいのだけが生き残れる」
 母はふがいないぼくに対する愚痴を言いながら、今川焼きを口に運んだ。
 その後、夕食の介助を申し訳程度して、残った魚は部屋にある冷蔵庫にいれると、ぼくは母に帰ることを伝えた。
「戸締りをきちんとするように、大切な家だから」
 母はぼくにいったが、泥棒がなにを盗むというのだろう? 現金は一銭もなかったのだ。
 施設をでたところで、先ほどの実習生が立っていた。
「あの、すこし聞きたいことがあるのですが、駅までご一緒してよろしいでしょうか」
 どうやら待っていてくれたらしい。ぼくは心のなかで歓喜した。
 駅までの道のりで聞いたところによると、彼女は大学で、人の味覚と記憶の相関を研究しているらしい。大学でなく、それとも、大学院なのか? ここでの実習は教員職になるための一課程らしく、
「単位をとるためだけ、なんです」
 という。施設での実習着のジャージを脱いで、薄手のカットソーとジーンズに着替えた彼女は、普通以上にかわいらしかった。
「実は、今の学校も、一度職についてから、さらに学びたくなって入学したので、年ばかりくってます」とはにかみ
「慣れ親しんだ味が、埋もれていた記憶を引き出すという説があります」と続けた。
 ぼくはうんとか、へえ、とかいいながら、彼女の睫毛がばさばさするのを見ていた。まるで蛾の触角のようであった。
 そんな想像を見透かすように、
「よかったら、ここに一緒に行きませんか?」
と、チケットを差し出した。そこには『魅惑の蝶たち』というタイトルがついていた。市のカルチャーホールで開催されているらしい。
「喜んで、といいたいところなんだけど、あまり金なくて」
「あら、正直なんですね」
「それだけが、とりえかも」
 二人で笑って、結局土曜日に一緒にいくことになった。
 ぼくはここではたと気がついた。あの芋虫が、魚に、さらに指輪となり、そのあと、今川焼きになった。そして彼女に行き着いた! これは昔話のわらしべ長者みたいじゃないか!
 たしか、あの昔話では、一本のわらが、みかんになり、みかんが絹の反物になり、そして反物は馬になる。さらに馬をゆずった長者の家で、主となるわけである。その家の娘と結婚して、幸せに暮らすというストーリーだったと思う。そのまんまだ! 話しをなぞっている!
 僕と彼女はめぐりあう運命だったのだろうか? 彼女が化け物に変身するという類のどんでん返しだけは、まっぴらであるが……。

 次の日、小雨がふっていたが、例のリッチな紳士の家にクーラーボックスを届けることにした。ぼくは、そのかさばるボックスを水道できれいに洗い、椅子や竿もまとめ、自転車に積んでいった。
 お礼、という誘惑があった。たしか紳士はそういっていた。
 名刺の住所は高級住宅地で、ぼくの家からは、5キロほどのところであった。K市は東京には快速で一時間以内にいけるという利便さよりも、閑静な丘陵地のシックな落ち着いた住宅街ということで、古今とわず人気のある土地であった
 ぼくが紳士の家をスマホのナビで探し、呼び鈴を押すと、お手伝いらしき女性がでてきた。
「だんな様よりうかがっています」
といって、釣り道具をあずかるという。彼は予測していたとおり、不在らしい。まあ、ウイークデイにふらふらしているのは、ぼくみたいな、ニートだけだろうな。
 多分捨ててしまっただろう、と思ったが、虫の入っていたタッパーはないか、念のため聞くと、お手伝いさんは、首をかしげながらいったん中に引っ込み、長いあいだかかり、もう、忘れられたんじゃないか、と思うころやっと出てきた。
「さなぎになっているので、このまま預からせてくださいとのことです」
 どうやら、紳士に電話で聞いたらしい。それにしてもあいつがさなぎになったとはね、ぼくはちょっぴり感心した。ガッツがあるな、と見直した。魚に食われるまえに、変化するとは……。
 一寸の虫にも五分の魂だな。
「到来物で失礼とは存じますが、これをお持ちください、だんな様の言伝でございます」
 といってワインをさしだした。
 ぼくはのけぞった。お金持ちは違うなあ、本当に。ラベルは判読不可能だが、わずかに読める文字で推察するに、フランスのなんちゃらブルゴーとかだった。ぼくはありがたく頂戴することにした。
 所得の再分配だ! 貧しきものに光を、と心で唱えながら、自転車で家にもどった。マリネをさかなに乾杯しよう。
「芋虫くんに、乾杯!」
 いや待てよ。ぼくはワインの栓を抜くのをやめた。とりあえず、土曜日まで温存しよう。土曜日はあの娘と会える予定だし……ぼくは本当にわらしべ長者になった気分であった。芋虫がワインに、だしな。

 土曜日、待ち合わせの時刻に行くと、彼女はもう来ていた。会場はマニアらしい人でごったがえし、予想していたよりも混雑している。圧倒的に男性が多いことに気づく。
「叔父がそのマニアなんです」
 彼女は券の出所を説明する。
「本職は公務員なんですが、蝶々のこととなると、寝食をわすれ、山でもジャングルでも南極でも行ってしまうんです。あら、南極には蝶はいないかしら? つまり、どのマニアも新種を見つけたいし、あいにく新種はめったにみつからないみたいですよ」
 展示してある蝶々は美しかった 。白いパネルに剥製となって、静止している蝶の、燐粉の美しさはどんな絵の具でも表現できないだろう。一見地味な色あいでも、紋というのであろうか、模様の神秘に、息をのんでしまう。捕獲する鳥を驚かせる目的の、目のような模様も、ため息をついてしまう美しさであった。小魔女に見せられた彼らのように、とりこになり、地の果てでも追っていきたくなる、
男の習性をかい間見た気がした。
 展示施設の中ほどにショーケースのような四方をアクリル板で囲った、スペースがあり、その中に生きている蝶が乱舞していた。
 ケースには特殊な加工がしてあり、こちらからは蝶がみられるが、蝶からは外が見えず、まるで森のなかにいるように、ありのままの姿で舞う姿が観察されます、という説明書きがあった。この展示会の一番の目玉なのだろう。
「きれい!」
 彼女が小走りで近寄った。
 腕の部分だけ透ける水色のブラウスを着た彼女は、軽やかに舞う蝶にも見える。ぼくは思わず見とれてしまった。
 ああ、それにしてもさえない自分をさらに感じてしまう。こっちは五百円玉大のはげもあるし、さえないニートだ。彼女はどうしてぼくを誘ったのだろう? ぼんやりしながら、彼女を目で追っていた。
 水槽のような五メートル四方ぐらいの、角柱形の外側は、美しい光景を観察している人が十数人いたが、ぼくは、ふと気になるものを見つけ、人のあいだを縫って近寄った。蝶が輪舞するショウギャラリーには本物の木の枝を配置してあるが、そこに幼虫であろう芋虫がいた。
 大きさも色も、ぼくの家の庭の芋虫に酷似している。
「え?」
 あの芋虫は、これと同じモノなのか? この珍しい品種の蝶が自分の家の庭にいるのだろうか? 彼女が近寄ってきた。
「ねえ、これと同じようなのが、わんさか、ぼくの家にいるんだけど?」
「ま、まさか、これって、すごく希少な蝶みたいよ?」
 彼女は説明の書かれたプレートを指差す。
「そうだよね、でも、たくさんいて、この幼虫はよく見るし、この蝶もさ、あたりまえのように、敷地を飛んでいるし」
「そうだったら、なんかそれって凄いことみたいに思うの。これから、行ってみたい、いいかしら?」
「そりゃ、全然かまわないけど」
 かまわないけど、金がない、とはいえず、言葉を飲み込んだ。ぼくはここまで自転車で一時間ちょいかけてきたのだ。
 電車賃がないなんて、どうして言える? 彼女をあの市電に案内すれば、自分の運賃ぐらいはなんとかなるだろうが。
「話が決まったたら、行きましょう」
 彼女はぼくの手を握って、蝶々の展示場から飛び出す。そしてエレベーターを使い、地下の駐車場に導いた。
「あたし、勘だけはいいのよね、どうぞ、乗って。君のお宅までこの車で行きましょう」
「はあ、」
 ぼくは指し示された助手席に乗った。車は赤いワーゲン・ゴルフだった。
「勘って、どういう意味?」
 ぼくは車がパーキングから的確にかつ迅速に飛び出したあとたずねた。
「勘、ていうか、今日はなんとなく車のほうが、いいかな……っていう考えが頭にわくと、素直に従うっていうことよ」
「はあ、で、ゴルフですか」
「ああ、これ?」彼女は笑った。
「父が心配性でね。車体が頑丈であればあるほど、事故にあわないと考えているの。お金を出してもらうわけだから、わたしは文句いえないわよね」
 彼女はぼくの家の住所を聞いた。そしてそれを音声でナビに伝える。車はさすがに堅実な走りを見せた。
「君の家のことは、お母さまからいろいろ聞いているの。お母さまは婿取りをした、といっていたわ、なんでも江戸時代から、その家の当主はその家にしか生息しない蝶を、守る家系だとか、そういっていたわ」
「……母はそう見えないけど、認知症だから」
 話の信憑性の問題だ。
「そうかもしれないけど、過去の記憶ほど鮮明である、ということを考えると、まんざら妄想とは思えなくてね」
「そうですか」
 ぼくは、なんで彼女がぼくを誘ったか、納得した。蝶のことか。そうだったのか、叔父さんとやらのためか。
「むしろ、わたしなんかより叔父が来られればいいな、と思うの。でも今は、南米のほうへいっているはずなのよね」
ほらな。
「ああ、なるほど」
「でも、電話すればふっとんでくるかも」
「え?」
 ぼくは思いがけない展開にびびって萎縮していた。これではさらに漫画かドラマみたいではないか? 車のなかで、彼女はぼくの家の敷地内のことについて尋ねる。
「そうなのね、きっと君の家って、四方を谷にかこまれているし、あの幼虫が蝶になって限られたエリアにとどまっているのかもしれないわ」
「……」
 土曜日ということで、渋滞があり、市電よりはかなり時間がかかって、ぼくの家についた。彼女は驚いたように、
「やだ、うちからそんなに遠くないところだわ」
 と言った。やだ、といいながらも、うれしそうだったので意外だった。周りを背の高い防風林でかこまれたぼくの家は、こう見ると、ひとつの城のようでもあった。
 蝶はこの高さを乗り越えられないのかもしれない。
 車から降りた彼女はぼくがさししめす木を、目を皿にして見ていた。しかし、幼虫はまったく、これでもかというほど、一匹もいなかった。
 さなぎになってしまったのか、成虫になり飛んでいったのか、あんなにうじゃうじゃいたのに、ぼくはまるで自分のいったことが大嘘だと、思われるようで、必死で弁解した。
「変だなあ、あんなにわんさかいたのに」
「……」
 彼女は怒ったのだろうか? ひとりで、あちこち見ながら写真をとったり、上を見上げたりしている。
 ぼくは自分の人生が突然に終わったと感じた。あのリッチ紳士に幼虫をあげなければよかった。そうだ、あのときに返してもらえば……
 やにわに彼女が電話をする。ハローとかいっているので国際電話なのか、やがて「はい、そうします」といっているのが聞こえる、
「ねえ、さなぎないかしら?」
「さなぎですね、お嬢様。」ぼくは、条件反射で、浄水器のセールスの口調になってしまった。
「さなぎさえあれば、飼育箱で保存しながら、羽化がみられるでしょう。叔父はこれからすぐコスタリカを発って、戻るというの。さなぎがひとつでもあればいいんだけど」
「ひとつ、人より力もち……」などと、ぼくは相当混乱していた。
 さなぎ様! どこにいらっしゃいますか!
 ここでさなぎがなければ、ぼくの人生はおしまいである。おしまい、彼女は怒って帰り、ぼくはまたひとりで釣り。魚のくいつきのいい幼虫くんもいないし!
「あ!」ぼくは叫んだ。
「さなぎ、あります。さなぎあるんです。このまえのリッチ紳士の家に」
「……リッチ紳士?」
「そう、あの、ここから自転車で少しいったところの高級住宅地に、
お金のある人の家に、あるんです」
 そうだった。なんてぼくはラッキーなんだ。
 だが、自転車! あのカルチャーセンターにおいてきてしまった。自転車がないのだ。なんて不幸なんだ。天国と地獄だ。
 泣く泣く、そのおおまかな場所と苗字をしどろもどろにいうと、彼女はおなかをかかえて笑いだした、
「そこ、私の家よ! そのリッチ紳士って父のことなのね! なんて不思議! 偶然ってあるのね」
 というと、ぼくが口を開く前に車に飛び乗り、あっという間に出て行った。土煙だけもうもうと上がる。

 行ってしまった。まあ、しかたない。これで終わりか。
 ぼくはため息をついた。なんてことない。振り出しにもどっちゃった。この家に一人の生活に。気が向けば、海に向かい……魚をとり、それを料理して、食べて、生きる、もう、釣りに幼虫は使えないけど。
 そうだ、いままでがわらしべ長者みたいだったけど、最後は違う、どんでん返し、貧乏と孤独になっておしまい、だ。ぼくはどれくらいそこに立ちん坊していたのだろう?
 気がつくと日が傾いてきた。すると、ひらひらと緑色の蝶がどこからともなく飛び始めた。蝶だ! これが……あの蝶か?
 まるで、一日の終わりを祝福するように飛んでいる。よくみると、羽の裏側は黄金に輝いている。また、見る方向によっては玉虫色にも輝く。
 きれいだな、ぼくは思わずみとれてしまう。こんなに美しい蝶がいることを、なんで母は教えてくれなかったのだろう。
 この年まで、なんで気がつかなかったのか。
 教えると、秘密は漏れる。でも今回は漏れてしまった。
 ぼくは急に空腹を覚えた。そうだ、乾杯をしよう。ちょうどマリネがあるし、あの紳士の家のお手伝いさんがくれたワインもあるし、
 自棄酒だ! ぼくが家の勝手口に向かうと、車が門に至る坂を登ってくる音がした。まさか?
 彼女だった。
「持ってきたわよ、ほら」
 とプラスチックの飼育箱をトランクからだす。例のさなぎ様たちだ。
「それから、これも」とフランスパンを出した。
 フランスパンの香ばしい香りがぼくの歓喜に拍車をかける。
「キッチンから、くすねてきたの。これがやっとだったのよ、お手伝いの目は厳しいの」
 とパンをバキッと太ももで割った。太ももにも感謝だ。
「叔父はきっと喜ぶわよ」
 ぼくたちは、縁側の戸を開け放ち、座布団を敷いて、夜になると今度は蛍を見ながら、ワインとマリネで食事をした。そしてフランスパンもたっぷり食べた。ぼくは庭にあったルッコラを摘んでサラダをこさえた。
「蝶に乾杯!」
 いままでの人生のなかで一番の食事だった。
 彼女の夢はこういうものだった。人がものをたべるのは、ただエネルギーの元を摂取するということだけではなくて、そこに一緒にいる人や、そのシーンや、それから気持ちとか、想いとか全部かかわりあっていること、自分はそういう記憶と味について研究していること、そして認知症などで、記憶を失っても、また懐かしい味に遭遇すれば、きっと失われたものが、復活するということを研究で明らかにしたいこと。
「きのうの今川焼きね、あれで、とても貴重なことを思いだしたの」
「貴重なこと?」
「そうなの。昔、幼稚園か小学に入学したてのころ、初めて神社の縁日にいったのよね。そこに、今川焼きが売っていた。そのときは、お手伝いのねえやにつれていってもらったのよね、母は病弱で、とてもそんな人ごみはだめだった。で、なにかお土産を買おうと、お祭りらしいなにかを、イカとかわたあめとか、でもねえやは不衛生だから、だめだって、店の前を素通りで。一番はずれの屋台が今川焼きだった。わたしは駄々をこねて、道に大の字に寝て、買わないと動かないと言い張り、やっと許してもらった」
「うん」
「でも、残りが一個だけしかなくて。おじさんが袋にいれてくれたのを大事に持って帰り、母にわたすと、半分にして『はんぶんこね』って、わたしにくれた。思わず胸に飛び込むと、母がにっこりとして」
 あの味が、その記憶が、昨日の施設のあのときでよみがえったのだ、という彼女を、涙をうっすら浮かべる彼女をぼくは本当にいとおしいと思った。

 そして、彼女の叔父さんがぼくの家にやってきた。飼育箱のさなぎの羽化も撮影できたし、叔父さんは
「これはすごい発見だ」
 と、小躍りして興奮しまくっていた。ぼくの家は叔父さんや助手やたくさんの人が出入りするようになり、ぼくは食費をもらって、彼らの食事を作り、雑用、時には手伝いもした。
 さらに、叔父さんはここをシーズン中は自然のままの展示場にしたいといいだした。蝶の季節は一時的だし、ぼくは母と相談して、一番よい方法かと、了承した。
 屋敷と蝶の維持管理のことが、母のストレスだったのだ。
 蝶の季節になると母は施設にロングステイにいき、ぼくは彼女のお父さんであるリッチ紳士のクルーザーに寝泊りをしたりすることもあった。
 ぼくはあいかわらず定職につかず、クルーザーで海釣りをたのしんだり、魚料理をしたり、気ままにくらしている。
 彼女は研究のために、記憶をよみがえらすヒントになる食べ物をぼくに作らせたりする。彼女は研究が三度の飯より好きらしい。
 ぼくはそんなアシストもまあ、そこそこ楽しく、蝶みたに、甘い水を求めて、ふらふらしているってことである。
 そうだな、あの幼虫が、ぼくの人生の分かれ道だったんだな。
「ねー与太郎、『しもつかれ』を作ってくれる?」
 彼女がちょっとだけ甘えた口調で聞いてくる。
 偶然の連続による、ささやかな幸せ、ここにもあった。

 人生が偶然の連続の結果、成功へと到達するなんて、小説の中だけのこと、ぼくはずっとそう考えていた。そんな劇的で幸運な人生を歩けるのは、世界のなかでも、0コンマ01パーセントにも満たないのではないだろうか? 
 この得体のしれない虫の幼虫も、僕の境遇と大して違いはないだろう。つまり平凡な六等星の生き方だ。
 そう、ぼくが、海釣りの餌に、庭木にたかっていた幼虫を使ったのは、むしろ必然のことだった。金が底をついていたのだ。最後の給料、といってもあの会社は、賃金形態も支給日も、きちんとあったものではなかったが、それでも
「今日でやめさせてください」
といったとき、上司兼経理兼人事係りは
「はい。これ、今月分と退職金」
と、十万円を封筒にいれ、手渡してくれたのだ。その最後の給料が、残高三桁になり、仕方なく徒歩四十三分の海へ、食糧を仕入れにいくことにしたのだった。
 竿は物置にたくさんあった。亡き父のものだ。
 ぼくは、庭にある、低木の木の葉に、うじゃうじゃとついていた、茶色っぽい幼虫をつまんでタッパーにいれた。
 一石二鳥ではないか? 虫退治にもなるわけだし。どの木も葉が穴だらけだった。これでは光合成もままならない。
 そうだ、そうだ、とひとりで賛成をする。
 ぼくは海へ出ると、防波堤の先端ちかくに持参した折りたたみ椅子をこしらえ、早速糸を垂らした。海は凪いでいた。
 先客はひとりいた。帽子の下から白いものがのぞくのは、いわゆる、リタイア世代だろうか。椅子のそばには缶コーヒーの空き缶や、栄養ドリンクのビンも飲み干されて倒れている。
 糸の動きをぼんやり追いながら、ぼくはこれからのことを考えていた。この先どうしようか? もちろん、ハローワークへ行って失業手当をもらう、というのは一番賢明な選択だろう。
 しかし、どうにもおっくうである。だいいち、就業しようと努力しているところを、たえず提示する必要があるという条件は難関である。自分にできるのだろうか? 気力がゼロのぼくに?
 辞めた会社では浄水器のセールスが仕事だった。
「こんなに水が綺麗になります、奥様」
 ぼくは毎日、訪問した家で、浄水器の水を飲んだ。相手が不安になるほど飲んだ。そして一件も契約できないと、会社でその水を頭からかけられ、
「頭をひやして、もう一度いけ」と罵声も浴びせられ、また出かける、その繰り返しだった。
 十分にダークだ。いやブラック企業である。浄水器の水で、病気も軽くなるというふれこみを売りにしている会社である。従業員も水さえ豊富にあればやっていけると考えたのだろう。
 それでも、ぼくは一年七ヶ月間働いたが、とうとう心身ともに病んで辞めたのだ。円形脱毛症プラス抑うつ症状、そして睡眠障害のニート、それがいまのぼくの肩書きである。
 ともあれ、歩いていける範囲に海があり、釣りができるのはありがたかった。時間は限りなくあったから。
 波の動きをながめていると、眠気が漂ってくる。夜間はまったく眠れないぼくは、ここちよい潮風にうとうとして、糸を垂らしていたが
「兄ちゃん、ひいているよ」という声で、はっと条件反射でリールをまいて、竿をあげる。
 魚は小さいがアジがかかっていた。
「あ、どうも、助かりました」クーラーボックスにほうりこみながら、いちおうお礼をいい、また幼虫を針につけた。
「それ、食いつきがいいけど、なんの虫?」
 オレンジのキャップをかぶった男は近寄り、たずねてきた。
「さあ? よかったら、どうぞ」
 タッパーをさしだすと、「おお」という顔をした。グロテスクだからだろう。三センチほどの、いわゆるベージュがかった色の芋虫である。もそもそしていた。
「じゃあ、さっそくこれで試してみようか」
 と、自分の椅子をひきよせ、並んで糸を垂らす。
「まったく、釣りっていうのは、リラックスできるスポーツだね」
 と、ぼくに話しかけてくる。たぶん、話し相手がほしかったのだろう。ぼくも、ええ、まあ、とか適当に答えながら、再び糸をたらしていたが、その、見るからにリッチそうな、つまり、服のブランドや竿の仕様で判断した、その男は、虫の餌に嬉々としていた。
「いいよ、これ。いいねえ」
 彼はその後たてつづけに七匹釣った。ぼくは、その後は小魚一匹である。男は悪いと思うのか、決まり悪そうにタッパーに手をのばすので、
「いいですよ、全部つかってください」
 タッパーを丸ごと渡した。虫と一緒に葉もたっぷりいれていたので、やつらはまだ生き生きしている。魚にとってはジューシーなのだろうな。
「本当? いいの?」
 と、彼はやけに嬉しそうであったが、やにわに携帯が鳴った。着信音は『威風堂々』だった。男はああ、とか、なに、とか応対をしているが、ぼくが始めから睨んだとおり、電話の話ぶりや威厳をもった態度からして、相応の地位のある人らしい。
「残念だ。行かなくてはならない」
 名残惜しそうなので、ぼくはその虫をあげることにした。
「うちには、うじゃうじゃいるんで」
「そうか、感謝するよ、君。ところで、その代わりといってはなんだが、この釣れた魚もらってくれ。これから行くところが急にできて、なに? そっちのクーラーボックスに入りきれない? そうか、じゃあ、こうしよう。名詞をあげるから、空のボックスと竿、あとでうちに届けてくれないか? そう、お礼もしたいしね」
 男はぼくに一枚の名刺をおしつけ、クーラーボックスのみならず、竿や椅子、弁当がら等のごみも残して去っていった。
 しかし、なぜか虫のタッパーだけは大事に小脇にかかえている。
 ぼくが成り行きに対処できずに、呆然としているあいだに、浜から上がった道に、お迎えの黒い車がすーっと横付けされ 彼はさっそうとのりこんでしまったのだ。まるでテレビのようだった。
 あとに残された二人分の釣り道具を前に、ぼくは少し気落ちしたが、まあ、魚が考えていたより多く手に入ったわけだし、とポジテブに考え、家にもどることにした。リッチな男のボックスには、アイナメやサヨリ、アジが入っていた。
 両肩に大小のクーラーボックス、手には2本の竿、背中に折りたたみレジャー椅子をせおい、歩く姿は浦島太郎に見えるだろう、となんとか気力をふるいおこし、他人の目は気にせずに歩いた。
 
 ぼくの家は台地にあった。母によれば由緒ある旧家ということで、樹木の生い茂った敷地はかなり広い。ぼくは、鍵のかかっていない勝手口から入る。クーラーボックスを台所におくと、エプロンをして、さっそく魚をさばきにかかる。
 新鮮なうちに下ごしらえをすれば、いたみもなく、いろいろな料理にできる。ぼくのたったひとつのとりえは、料理が好きで、幾分器用なところだろう。手際よくさばき、最後の魚の腹に包丁を入れた時にカチッと刃が何かにあたった。
「ん?」
 ぼくは出刃で、そろそろと白い腹を探りながら、開いていく。
 刃にあたったのは指輪だった。おおっ! つまんでみると、裏にはアルファベットが刻んである、本物っぽいではないか。マリッジリングだ!
 ぼくは歓喜した。金属である。もし本物のプラチナであれば、換金できる。なんとラッキーな! これはリッチ紳士が釣った魚である。あの幼虫が、こんな指輪に変身するとは! すばらしい。
 人生がバラ色になった気がした。思いがけない展開だった。
 指輪は綺麗に洗い、ジャムの空き瓶を探し入れた。ちゃりん。そして活力を得たぼくは、魚をすべて下処理して、半分は煮付けに半分はマリネにすることにした。その夜はなぜかぐっすり眠れた。
 次の日、ぼくは母のところに行くことにした。
 ぼくは母が四十を過ぎてから生んだ、一人息子なのである
 母は軽い認知症なのだが、持病の股関節の不具合も悪化して、施設で療養をしていた。ぼくの家から、市電で二駅のところに、その施設はあって、昨日作った煮つけをタッパーにいれて、持っていくことにした。母は魚の煮付けを食べたがっていたのだ。
 駅からは歩いて十五分くらいの高台が施設への道のりで、駅前の商店街を抜けていく。その中に貴金属の買取りや骨董もどきを扱う店があり、そこで指輪を鑑定してもらおうと考えていた。
 ところが、その日は近くの神社の例大祭なのか、露天商がたくさん出ていて、人ごみも普段の数倍である。ぼくは、魚の煮付けをビニール袋にいれて、右手にさげていたが、突然肩に人があたり、押されてよろめいた。思わず、ポケットにいれていた左手を出し、露天商の店の枠組みつかまり、難を逃れる。
 と、同時に指輪の入っていた瓶がポケットを脱走して、ころころころと転がってしまった。
「おい、こら、待て」
 転がった先は今川焼きの屋台の裏だった。
「お?」
 今川焼きのあるじは、それを拾った。
「あ、すいません、それ、ぼくのなんです」
「おい、こりゃあ、」
 ねじり鉢巻の今川焼き屋は、隣の烏賊焼きの露天商との隙間から出てきた。
「盗品でないのか?」
 え、盗品? いや、これはたしかに貰った魚の腹に入っていたわけだし、魚の腹のものはすべて権利を主張できる、はずだし。 ぼくは、のそのそと微小な脳細胞を回転させた。
「ちがいますよ、盗品ではないです」
「いや、よくみせてくれ」
 今川焼き屋はビンのふたを開け、指輪をとりだした。前後左右と内側をじっくりみていたが、
「やっぱり、これはおれがなくした指輪だ!」
と、断言した。
「ま、まさか」
「ほら見てみろ。ここに彫られている、蛇がくわえているのは今川焼きだろう? それに、内側のイニシャル、おれがカミさんからもらった証だ、MからSへ、となっている、これが証拠だ」
 たしかに蛇には気がついていたが、くわえているのが今川焼きとは、こじつけではないか? むしろ宝玉にみえるが、と言おうとすると、
「あんちゃん、なあ、ゆずってくれよ、おれの指輪はどこをさがしても見つからないし、カミサンは怒るし、結婚指輪だからなあ、『たったそれだけの愛なのね』とか、責められるし、な、みつかったことにしておきたいんだよ」
 と顔を寄せ、小さな声でささやくのだ。しんから困っているみたいだった。
「……」
 仕方ない、と僕は思った。だいたい、この指輪は、もとはあの紳士からもらったものなんだし、欲をつのらせるのはやめよう、と考えた。
「いいですよ、あげます」
 ぼくがそういうと、今川焼き屋は
「おお、太っ腹だね、財務大臣! ありがと、ありがたいよ、なにしろ、新しいのはおろか中古だって、その日暮らしの露天商ごときが買える値段でないからね、あんちゃん、恩にきるよ」と手で拝み
「そうだ、あんちゃん、お礼といってはなんだが、この今川焼きもっていきなよ。いますぐ、包むからな、まってくれよ」
と、いいながら、今川焼きの男は指輪を小指にはめている。
「おお。ぴったりだよ、やっぱり、あんたはおれの救世主!」
 そしてぼくはそのあと、今川焼きを三十個も持つはめとなった。

 母のいる施設に着いたときは、ちょうど三時のおやつの少し前であった。スタッフに今川焼きを渡し、みんなのおやつにしてくれ、と告げると、心なしか、施設のなかがほんわりムードになった。
 今川焼きの香ばしい、甘いにおいがみんなの気持ちに灯をともしたのかもしれない。あるいは、高齢者にはノスタルジーを感じる食べ物なのだろう。
 母は十数人のメンバーとともに、テーブルが6台しつらえてあるホールに集い、それぞれが、大型テレビをぼんやり見たり、隣の人とおしゃべりをしていた。
 母は歩くと股関節が痛むのか、車椅子に座っていたが、傍らにいる女性と楽しそうに話している。
 ぼくが近づくと、彼女は母と同じ目線でしゃがんでいたが、ぱっと立ち上がった。
「あ、息子さんですね、いま、お母さまと息子さんの話をしていたのです」
「あなたは?」
 ぼくがそう尋ねたのは、施設のユニホームでなく、紺色のブランドもののジャージを着ていたからである。
「実習生です」
「そうですか、母がお世話になっています」
 施設には介護関係の職業につきたい学生が、たびたび実習にきていた。お年寄りの話し相手は、多忙なスタッフにはなかなかできないので、若い実習生は歓迎され、施設にも学生も双方にメリットがあるのだろう。
 そこに母と実習生の分の今川焼きが、お皿に盛られて運ばれてきた。
「あら、うれしい」
 母は愛好をくずした。
「好物がたべられてよかったね、母さん」
 ぼくは魚の煮付けも夕飯に食べるように話す。
 二ヶ月前に施設に入居したものの、まだ自宅に心残りがあるのか、母は食欲が落ちていた。
 施設の栄養管理のスタッフが、時々は慣れ親しんだ、家の味をお持ちください、というので、持参したのだった。
「息子さん、魚を料理するのですか?」
 実習生がおどろいたようにたずねる。
「この子の煮る魚は、なつかしい味がするのよ。味付けもちょうどよい薄味でね。でも、仕事なんかは、優しいとかえってだめよね。今の世の中は、正直なだけでは通用しない、こすかしいのだけが生き残れる」
 母はふがいないぼくに対する愚痴を言いながら、今川焼きを口に運んだ。
 その後、夕食の介助を申し訳程度して、残った魚は部屋にある冷蔵庫にいれると、ぼくは母に帰ることを伝えた。
「戸締りをきちんとするように、大切な家だから」
 母はぼくにいったが、泥棒がなにを盗むというのだろう? 現金は一銭もなかったのだ。
 施設をでたところで、先ほどの実習生が立っていた。
「あの、すこし聞きたいことがあるのですが、駅までご一緒してよろしいでしょうか」
 どうやら待っていてくれたらしい。ぼくは心のなかで歓喜した。
 駅までの道のりで聞いたところによると、彼女は大学で、人の味覚と記憶の相関を研究しているらしい。大学でなく、それとも、大学院なのか? ここでの実習は教員職になるための一課程らしく、
「単位をとるためだけ、なんです」
 という。施設での実習着のジャージを脱いで、薄手のカットソーとジーンズに着替えた彼女は、普通以上にかわいらしかった。
「実は、今の学校も、一度職についてから、さらに学びたくなって入学したので、年ばかりくってます」とはにかみ
「慣れ親しんだ味が、埋もれていた記憶を引き出すという説があります」と続けた。
 ぼくはうんとか、へえ、とかいいながら、彼女の睫毛がばさばさするのを見ていた。まるで蛾の触角のようであった。
 そんな想像を見透かすように、
「よかったら、ここに一緒に行きませんか?」
と、チケットを差し出した。そこには『魅惑の蝶たち』というタイトルがついていた。市のカルチャーホールで開催されているらしい。
「喜んで、といいたいところなんだけど、あまり金なくて」
「あら、正直なんですね」
「それだけが、とりえかも」
 二人で笑って、結局土曜日に一緒にいくことになった。
 ぼくはここではたと気がついた。あの芋虫が、魚に、さらに指輪となり、そのあと、今川焼きになった。そして彼女に行き着いた! これは昔話のわらしべ長者みたいじゃないか!
 たしか、あの昔話では、一本のわらが、みかんになり、みかんが絹の反物になり、そして反物は馬になる。さらに馬をゆずった長者の家で、主となるわけである。その家の娘と結婚して、幸せに暮らすというストーリーだったと思う。そのまんまだ! 話しをなぞっている!
 僕と彼女はめぐりあう運命だったのだろうか? 彼女が化け物に変身するという類のどんでん返しだけは、まっぴらであるが……。

 次の日、小雨がふっていたが、例のリッチな紳士の家にクーラーボックスを届けることにした。ぼくは、そのかさばるボックスを水道できれいに洗い、椅子や竿もまとめ、自転車に積んでいった。
 お礼、という誘惑があった。たしか紳士はそういっていた。
 名刺の住所は高級住宅地で、ぼくの家からは、5キロほどのところであった。K市は東京には快速で一時間以内にいけるという利便さよりも、閑静な丘陵地のシックな落ち着いた住宅街ということで、古今とわず人気のある土地であった
 ぼくが紳士の家をスマホのナビで探し、呼び鈴を押すと、お手伝いらしき女性がでてきた。
「だんな様よりうかがっています」
といって、釣り道具をあずかるという。彼は予測していたとおり、不在らしい。まあ、ウイークデイにふらふらしているのは、ぼくみたいな、ニートだけだろうな。
 多分捨ててしまっただろう、と思ったが、虫の入っていたタッパーはないか、念のため聞くと、お手伝いさんは、首をかしげながらいったん中に引っ込み、長いあいだかかり、もう、忘れられたんじゃないか、と思うころやっと出てきた。
「さなぎになっているので、このまま預からせてくださいとのことです」
 どうやら、紳士に電話で聞いたらしい。それにしてもあいつがさなぎになったとはね、ぼくはちょっぴり感心した。ガッツがあるな、と見直した。魚に食われるまえに、変化するとは……。
 一寸の虫にも五分の魂だな。
「到来物で失礼とは存じますが、これをお持ちください、だんな様の言伝でございます」
 といってワインをさしだした。
 ぼくはのけぞった。お金持ちは違うなあ、本当に。ラベルは判読不可能だが、わずかに読める文字で推察するに、フランスのなんちゃらブルゴーとかだった。ぼくはありがたく頂戴することにした。
 所得の再分配だ! 貧しきものに光を、と心で唱えながら、自転車で家にもどった。マリネをさかなに乾杯しよう。
「芋虫くんに、乾杯!」
 いや待てよ。ぼくはワインの栓を抜くのをやめた。とりあえず、土曜日まで温存しよう。土曜日はあの娘と会える予定だし……ぼくは本当にわらしべ長者になった気分であった。芋虫がワインに、だしな。

 土曜日、待ち合わせの時刻に行くと、彼女はもう来ていた。会場はマニアらしい人でごったがえし、予想していたよりも混雑している。圧倒的に男性が多いことに気づく。
「叔父がそのマニアなんです」
 彼女は券の出所を説明する。
「本職は公務員なんですが、蝶々のこととなると、寝食をわすれ、山でもジャングルでも南極でも行ってしまうんです。あら、南極には蝶はいないかしら? つまり、どのマニアも新種を見つけたいし、あいにく新種はめったにみつからないみたいですよ」
 展示してある蝶々は美しかった 。白いパネルに剥製となって、静止している蝶の、燐粉の美しさはどんな絵の具でも表現できないだろう。一見地味な色あいでも、紋というのであろうか、模様の神秘に、息をのんでしまう。捕獲する鳥を驚かせる目的の、目のような模様も、ため息をついてしまう美しさであった。小魔女に見せられた彼らのように、とりこになり、地の果てでも追っていきたくなる、
男の習性をかい間見た気がした。
 展示施設の中ほどにショーケースのような四方をアクリル板で囲った、スペースがあり、その中に生きている蝶が乱舞していた。
 ケースには特殊な加工がしてあり、こちらからは蝶がみられるが、蝶からは外が見えず、まるで森のなかにいるように、ありのままの姿で舞う姿が観察されます、という説明書きがあった。この展示会の一番の目玉なのだろう。
「きれい!」
 彼女が小走りで近寄った。
 腕の部分だけ透ける水色のブラウスを着た彼女は、軽やかに舞う蝶にも見える。ぼくは思わず見とれてしまった。
 ああ、それにしてもさえない自分をさらに感じてしまう。こっちは五百円玉大のはげもあるし、さえないニートだ。彼女はどうしてぼくを誘ったのだろう? ぼんやりしながら、彼女を目で追っていた。
 水槽のような五メートル四方ぐらいの、角柱形の外側は、美しい光景を観察している人が十数人いたが、ぼくは、ふと気になるものを見つけ、人のあいだを縫って近寄った。蝶が輪舞するショウギャラリーには本物の木の枝を配置してあるが、そこに幼虫であろう芋虫がいた。
 大きさも色も、ぼくの家の庭の芋虫に酷似している。
「え?」
 あの芋虫は、これと同じモノなのか? この珍しい品種の蝶が自分の家の庭にいるのだろうか? 彼女が近寄ってきた。
「ねえ、これと同じようなのが、わんさか、ぼくの家にいるんだけど?」
「ま、まさか、これって、すごく希少な蝶みたいよ?」
 彼女は説明の書かれたプレートを指差す。
「そうだよね、でも、たくさんいて、この幼虫はよく見るし、この蝶もさ、あたりまえのように、敷地を飛んでいるし」
「そうだったら、なんかそれって凄いことみたいに思うの。これから、行ってみたい、いいかしら?」
「そりゃ、全然かまわないけど」
 かまわないけど、金がない、とはいえず、言葉を飲み込んだ。ぼくはここまで自転車で一時間ちょいかけてきたのだ。
 電車賃がないなんて、どうして言える? 彼女をあの市電に案内すれば、自分の運賃ぐらいはなんとかなるだろうが。
「話が決まったたら、行きましょう」
 彼女はぼくの手を握って、蝶々の展示場から飛び出す。そしてエレベーターを使い、地下の駐車場に導いた。
「あたし、勘だけはいいのよね、どうぞ、乗って。君のお宅までこの車で行きましょう」
「はあ、」
 ぼくは指し示された助手席に乗った。車は赤いワーゲン・ゴルフだった。
「勘って、どういう意味?」
 ぼくは車がパーキングから的確にかつ迅速に飛び出したあとたずねた。
「勘、ていうか、今日はなんとなく車のほうが、いいかな……っていう考えが頭にわくと、素直に従うっていうことよ」
「はあ、で、ゴルフですか」
「ああ、これ?」彼女は笑った。
「父が心配性でね。車体が頑丈であればあるほど、事故にあわないと考えているの。お金を出してもらうわけだから、わたしは文句いえないわよね」
 彼女はぼくの家の住所を聞いた。そしてそれを音声でナビに伝える。車はさすがに堅実な走りを見せた。
「君の家のことは、お母さまからいろいろ聞いているの。お母さまは婿取りをした、といっていたわ、なんでも江戸時代から、その家の当主はその家にしか生息しない蝶を、守る家系だとか、そういっていたわ」
「……母はそう見えないけど、認知症だから」
 話の信憑性の問題だ。
「そうかもしれないけど、過去の記憶ほど鮮明である、ということを考えると、まんざら妄想とは思えなくてね」
「そうですか」
 ぼくは、なんで彼女がぼくを誘ったか、納得した。蝶のことか。そうだったのか、叔父さんとやらのためか。
「むしろ、わたしなんかより叔父が来られればいいな、と思うの。でも今は、南米のほうへいっているはずなのよね」
ほらな。
「ああ、なるほど」
「でも、電話すればふっとんでくるかも」
「え?」
 ぼくは思いがけない展開にびびって萎縮していた。これではさらに漫画かドラマみたいではないか? 車のなかで、彼女はぼくの家の敷地内のことについて尋ねる。
「そうなのね、きっと君の家って、四方を谷にかこまれているし、あの幼虫が蝶になって限られたエリアにとどまっているのかもしれないわ」
「……」
 土曜日ということで、渋滞があり、市電よりはかなり時間がかかって、ぼくの家についた。彼女は驚いたように、
「やだ、うちからそんなに遠くないところだわ」
 と言った。やだ、といいながらも、うれしそうだったので意外だった。周りを背の高い防風林でかこまれたぼくの家は、こう見ると、ひとつの城のようでもあった。
 蝶はこの高さを乗り越えられないのかもしれない。
 車から降りた彼女はぼくがさししめす木を、目を皿にして見ていた。しかし、幼虫はまったく、これでもかというほど、一匹もいなかった。
 さなぎになってしまったのか、成虫になり飛んでいったのか、あんなにうじゃうじゃいたのに、ぼくはまるで自分のいったことが大嘘だと、思われるようで、必死で弁解した。
「変だなあ、あんなにわんさかいたのに」
「……」
 彼女は怒ったのだろうか? ひとりで、あちこち見ながら写真をとったり、上を見上げたりしている。
 ぼくは自分の人生が突然に終わったと感じた。あのリッチ紳士に幼虫をあげなければよかった。そうだ、あのときに返してもらえば……
 やにわに彼女が電話をする。ハローとかいっているので国際電話なのか、やがて「はい、そうします」といっているのが聞こえる、
「ねえ、さなぎないかしら?」
「さなぎですね、お嬢様。」ぼくは、条件反射で、浄水器のセールスの口調になってしまった。
「さなぎさえあれば、飼育箱で保存しながら、羽化がみられるでしょう。叔父はこれからすぐコスタリカを発って、戻るというの。さなぎがひとつでもあればいいんだけど」
「ひとつ、人より力もち……」などと、ぼくは相当混乱していた。
 さなぎ様! どこにいらっしゃいますか!
 ここでさなぎがなければ、ぼくの人生はおしまいである。おしまい、彼女は怒って帰り、ぼくはまたひとりで釣り。魚のくいつきのいい幼虫くんもいないし!
「あ!」ぼくは叫んだ。
「さなぎ、あります。さなぎあるんです。このまえのリッチ紳士の家に」
「……リッチ紳士?」
「そう、あの、ここから自転車で少しいったところの高級住宅地に、
お金のある人の家に、あるんです」
 そうだった。なんてぼくはラッキーなんだ。
 だが、自転車! あのカルチャーセンターにおいてきてしまった。自転車がないのだ。なんて不幸なんだ。天国と地獄だ。
 泣く泣く、そのおおまかな場所と苗字をしどろもどろにいうと、彼女はおなかをかかえて笑いだした、
「そこ、私の家よ! そのリッチ紳士って父のことなのね! なんて不思議! 偶然ってあるのね」
 というと、ぼくが口を開く前に車に飛び乗り、あっという間に出て行った。土煙だけもうもうと上がる。

 行ってしまった。まあ、しかたない。これで終わりか。
 ぼくはため息をついた。なんてことない。振り出しにもどっちゃった。この家に一人の生活に。気が向けば、海に向かい……魚をとり、それを料理して、食べて、生きる、もう、釣りに幼虫は使えないけど。
 そうだ、いままでがわらしべ長者みたいだったけど、最後は違う、どんでん返し、貧乏と孤独になっておしまい、だ。ぼくはどれくらいそこに立ちん坊していたのだろう?
 気がつくと日が傾いてきた。すると、ひらひらと緑色の蝶がどこからともなく飛び始めた。蝶だ! これが……あの蝶か?
 まるで、一日の終わりを祝福するように飛んでいる。よくみると、羽の裏側は黄金に輝いている。また、見る方向によっては玉虫色にも輝く。
 きれいだな、ぼくは思わずみとれてしまう。こんなに美しい蝶がいることを、なんで母は教えてくれなかったのだろう。
 この年まで、なんで気がつかなかったのか。
 教えると、秘密は漏れる。でも今回は漏れてしまった。
 ぼくは急に空腹を覚えた。そうだ、乾杯をしよう。ちょうどマリネがあるし、あの紳士の家のお手伝いさんがくれたワインもあるし、
 自棄酒だ! ぼくが家の勝手口に向かうと、車が門に至る坂を登ってくる音がした。まさか?
 彼女だった。
「持ってきたわよ、ほら」
 とプラスチックの飼育箱をトランクからだす。例のさなぎ様たちだ。
「それから、これも」とフランスパンを出した。
 フランスパンの香ばしい香りがぼくの歓喜に拍車をかける。
「キッチンから、くすねてきたの。これがやっとだったのよ、お手伝いの目は厳しいの」
 とパンをバキッと太ももで割った。太ももにも感謝だ。
「叔父はきっと喜ぶわよ」
 ぼくたちは、縁側の戸を開け放ち、座布団を敷いて、夜になると今度は蛍を見ながら、ワインとマリネで食事をした。そしてフランスパンもたっぷり食べた。ぼくは庭にあったルッコラを摘んでサラダをこさえた。
「蝶に乾杯!」
 いままでの人生のなかで一番の食事だった。
 彼女の夢はこういうものだった。人がものをたべるのは、ただエネルギーの元を摂取するということだけではなくて、そこに一緒にいる人や、そのシーンや、それから気持ちとか、想いとか全部かかわりあっていること、自分はそういう記憶と味について研究していること、そして認知症などで、記憶を失っても、また懐かしい味に遭遇すれば、きっと失われたものが、復活するということを研究で明らかにしたいこと。
「きのうの今川焼きね、あれで、とても貴重なことを思いだしたの」
「貴重なこと?」
「そうなの。昔、幼稚園か小学に入学したてのころ、初めて神社の縁日にいったのよね。そこに、今川焼きが売っていた。そのときは、お手伝いのねえやにつれていってもらったのよね、母は病弱で、とてもそんな人ごみはだめだった。で、なにかお土産を買おうと、お祭りらしいなにかを、イカとかわたあめとか、でもねえやは不衛生だから、だめだって、店の前を素通りで。一番はずれの屋台が今川焼きだった。わたしは駄々をこねて、道に大の字に寝て、買わないと動かないと言い張り、やっと許してもらった」
「うん」
「でも、残りが一個だけしかなくて。おじさんが袋にいれてくれたのを大事に持って帰り、母にわたすと、半分にして『はんぶんこね』って、わたしにくれた。思わず胸に飛び込むと、母がにっこりとして」
 あの味が、その記憶が、昨日の施設のあのときでよみがえったのだ、という彼女を、涙をうっすら浮かべる彼女をぼくは本当にいとおしいと思った。

 そして、彼女の叔父さんがぼくの家にやってきた。飼育箱のさなぎの羽化も撮影できたし、叔父さんは
「これはすごい発見だ」
 と、小躍りして興奮しまくっていた。ぼくの家は叔父さんや助手やたくさんの人が出入りするようになり、ぼくは食費をもらって、彼らの食事を作り、雑用、時には手伝いもした。
 さらに、叔父さんはここをシーズン中は自然のままの展示場にしたいといいだした。蝶の季節は一時的だし、ぼくは母と相談して、一番よい方法かと、了承した。
 屋敷と蝶の維持管理のことが、母のストレスだったのだ。
 蝶の季節になると母は施設にロングステイにいき、ぼくは彼女のお父さんであるリッチ紳士のクルーザーに寝泊りをしたりすることもあった。
 ぼくはあいかわらず定職につかず、クルーザーで海釣りをたのしんだり、魚料理をしたり、気ままにくらしている。
 彼女は研究のために、記憶をよみがえらすヒントになる食べ物をぼくに作らせたりする。彼女は研究が三度の飯より好きらしい。
 ぼくはそんなアシストもまあ、そこそこ楽しく、蝶みたに、甘い水を求めて、ふらふらしているってことである。
 そうだな、あの幼虫が、ぼくの人生の分かれ道だったんだな。
「ねー与太郎、『しもつかれ』を作ってくれる?」
 彼女がちょっとだけ甘えた口調で聞いてくる。
 偶然の連続による、ささやかな幸せ、ここにもあった。

 人生が偶然の連続の結果、成功へと到達するなんて、小説の中だけのこと、ぼくはずっとそう考えていた。そんな劇的で幸運な人生を歩けるのは、世界のなかでも、0コンマ01パーセントにも満たないのではないだろうか? 
 この得体のしれない虫の幼虫も、僕の境遇と大して違いはないだろう。つまり平凡な六等星の生き方だ。
 そう、ぼくが、海釣りの餌に、庭木にたかっていた幼虫を使ったのは、むしろ必然のことだった。金が底をついていたのだ。最後の給料、といってもあの会社は、賃金形態も支給日も、きちんとあったものではなかったが、それでも
「今日でやめさせてください」
といったとき、上司兼経理兼人事係りは
「はい。これ、今月分と退職金」
と、十万円を封筒にいれ、手渡してくれたのだ。その最後の給料が、残高三桁になり、仕方なく徒歩四十三分の海へ、食糧を仕入れにいくことにしたのだった。
 竿は物置にたくさんあった。亡き父のものだ。
 ぼくは、庭にある、低木の木の葉に、うじゃうじゃとついていた、茶色っぽい幼虫をつまんでタッパーにいれた。
 一石二鳥ではないか? 虫退治にもなるわけだし。どの木も葉が穴だらけだった。これでは光合成もままならない。
 そうだ、そうだ、とひとりで賛成をする。
 ぼくは海へ出ると、防波堤の先端ちかくに持参した折りたたみ椅子をこしらえ、早速糸を垂らした。海は凪いでいた。
 先客はひとりいた。帽子の下から白いものがのぞくのは、いわゆる、リタイア世代だろうか。椅子のそばには缶コーヒーの空き缶や、栄養ドリンクのビンも飲み干されて倒れている。
 糸の動きをぼんやり追いながら、ぼくはこれからのことを考えていた。この先どうしようか? もちろん、ハローワークへ行って失業手当をもらう、というのは一番賢明な選択だろう。
 しかし、どうにもおっくうである。だいいち、就業しようと努力しているところを、たえず提示する必要があるという条件は難関である。自分にできるのだろうか? 気力がゼロのぼくに?
 辞めた会社では浄水器のセールスが仕事だった。
「こんなに水が綺麗になります、奥様」
 ぼくは毎日、訪問した家で、浄水器の水を飲んだ。相手が不安になるほど飲んだ。そして一件も契約できないと、会社でその水を頭からかけられ、
「頭をひやして、もう一度いけ」と罵声も浴びせられ、また出かける、その繰り返しだった。
 十分にダークだ。いやブラック企業である。浄水器の水で、病気も軽くなるというふれこみを売りにしている会社である。従業員も水さえ豊富にあればやっていけると考えたのだろう。
 それでも、ぼくは一年七ヶ月間働いたが、とうとう心身ともに病んで辞めたのだ。円形脱毛症プラス抑うつ症状、そして睡眠障害のニート、それがいまのぼくの肩書きである。
 ともあれ、歩いていける範囲に海があり、釣りができるのはありがたかった。時間は限りなくあったから。
 波の動きをながめていると、眠気が漂ってくる。夜間はまったく眠れないぼくは、ここちよい潮風にうとうとして、糸を垂らしていたが
「兄ちゃん、ひいているよ」という声で、はっと条件反射でリールをまいて、竿をあげる。
 魚は小さいがアジがかかっていた。
「あ、どうも、助かりました」クーラーボックスにほうりこみながら、いちおうお礼をいい、また幼虫を針につけた。
「それ、食いつきがいいけど、なんの虫?」
 オレンジのキャップをかぶった男は近寄り、たずねてきた。
「さあ? よかったら、どうぞ」
 タッパーをさしだすと、「おお」という顔をした。グロテスクだからだろう。三センチほどの、いわゆるベージュがかった色の芋虫である。もそもそしていた。
「じゃあ、さっそくこれで試してみようか」
 と、自分の椅子をひきよせ、並んで糸を垂らす。
「まったく、釣りっていうのは、リラックスできるスポーツだね」
 と、ぼくに話しかけてくる。たぶん、話し相手がほしかったのだろう。ぼくも、ええ、まあ、とか適当に答えながら、再び糸をたらしていたが、その、見るからにリッチそうな、つまり、服のブランドや竿の仕様で判断した、その男は、虫の餌に嬉々としていた。
「いいよ、これ。いいねえ」
 彼はその後たてつづけに七匹釣った。ぼくは、その後は小魚一匹である。男は悪いと思うのか、決まり悪そうにタッパーに手をのばすので、
「いいですよ、全部つかってください」
 タッパーを丸ごと渡した。虫と一緒に葉もたっぷりいれていたので、やつらはまだ生き生きしている。魚にとってはジューシーなのだろうな。
「本当? いいの?」
 と、彼はやけに嬉しそうであったが、やにわに携帯が鳴った。着信音は『威風堂々』だった。男はああ、とか、なに、とか応対をしているが、ぼくが始めから睨んだとおり、電話の話ぶりや威厳をもった態度からして、相応の地位のある人らしい。
「残念だ。行かなくてはならない」
 名残惜しそうなので、ぼくはその虫をあげることにした。
「うちには、うじゃうじゃいるんで」
「そうか、感謝するよ、君。ところで、その代わりといってはなんだが、この釣れた魚もらってくれ。これから行くところが急にできて、なに? そっちのクーラーボックスに入りきれない? そうか、じゃあ、こうしよう。名詞をあげるから、空のボックスと竿、あとでうちに届けてくれないか? そう、お礼もしたいしね」
 男はぼくに一枚の名刺をおしつけ、クーラーボックスのみならず、竿や椅子、弁当がら等のごみも残して去っていった。
 しかし、なぜか虫のタッパーだけは大事に小脇にかかえている。
 ぼくが成り行きに対処できずに、呆然としているあいだに、浜から上がった道に、お迎えの黒い車がすーっと横付けされ 彼はさっそうとのりこんでしまったのだ。まるでテレビのようだった。
 あとに残された二人分の釣り道具を前に、ぼくは少し気落ちしたが、まあ、魚が考えていたより多く手に入ったわけだし、とポジテブに考え、家にもどることにした。リッチな男のボックスには、アイナメやサヨリ、アジが入っていた。
 両肩に大小のクーラーボックス、手には2本の竿、背中に折りたたみレジャー椅子をせおい、歩く姿は浦島太郎に見えるだろう、となんとか気力をふるいおこし、他人の目は気にせずに歩いた。
 
 ぼくの家は台地にあった。母によれば由緒ある旧家ということで、樹木の生い茂った敷地はかなり広い。ぼくは、鍵のかかっていない勝手口から入る。クーラーボックスを台所におくと、エプロンをして、さっそく魚をさばきにかかる。
 新鮮なうちに下ごしらえをすれば、いたみもなく、いろいろな料理にできる。ぼくのたったひとつのとりえは、料理が好きで、幾分器用なところだろう。手際よくさばき、最後の魚の腹に包丁を入れた時にカチッと刃が何かにあたった。
「ん?」
 ぼくは出刃で、そろそろと白い腹を探りながら、開いていく。
 刃にあたったのは指輪だった。おおっ! つまんでみると、裏にはアルファベットが刻んである、本物っぽいではないか。マリッジリングだ!
 ぼくは歓喜した。金属である。もし本物のプラチナであれば、換金できる。なんとラッキーな! これはリッチ紳士が釣った魚である。あの幼虫が、こんな指輪に変身するとは! すばらしい。
 人生がバラ色になった気がした。思いがけない展開だった。
 指輪は綺麗に洗い、ジャムの空き瓶を探し入れた。ちゃりん。そして活力を得たぼくは、魚をすべて下処理して、半分は煮付けに半分はマリネにすることにした。その夜はなぜかぐっすり眠れた。
 次の日、ぼくは母のところに行くことにした。
 ぼくは母が四十を過ぎてから生んだ、一人息子なのである
 母は軽い認知症なのだが、持病の股関節の不具合も悪化して、施設で療養をしていた。ぼくの家から、市電で二駅のところに、その施設はあって、昨日作った煮つけをタッパーにいれて、持っていくことにした。母は魚の煮付けを食べたがっていたのだ。
 駅からは歩いて十五分くらいの高台が施設への道のりで、駅前の商店街を抜けていく。その中に貴金属の買取りや骨董もどきを扱う店があり、そこで指輪を鑑定してもらおうと考えていた。
 ところが、その日は近くの神社の例大祭なのか、露天商がたくさん出ていて、人ごみも普段の数倍である。ぼくは、魚の煮付けをビニール袋にいれて、右手にさげていたが、突然肩に人があたり、押されてよろめいた。思わず、ポケットにいれていた左手を出し、露天商の店の枠組みつかまり、難を逃れる。
 と、同時に指輪の入っていた瓶がポケットを脱走して、ころころころと転がってしまった。
「おい、こら、待て」
 転がった先は今川焼きの屋台の裏だった。
「お?」
 今川焼きのあるじは、それを拾った。
「あ、すいません、それ、ぼくのなんです」
「おい、こりゃあ、」
 ねじり鉢巻の今川焼き屋は、隣の烏賊焼きの露天商との隙間から出てきた。
「盗品でないのか?」
 え、盗品? いや、これはたしかに貰った魚の腹に入っていたわけだし、魚の腹のものはすべて権利を主張できる、はずだし。 ぼくは、のそのそと微小な脳細胞を回転させた。
「ちがいますよ、盗品ではないです」
「いや、よくみせてくれ」
 今川焼き屋はビンのふたを開け、指輪をとりだした。前後左右と内側をじっくりみていたが、
「やっぱり、これはおれがなくした指輪だ!」
と、断言した。
「ま、まさか」
「ほら見てみろ。ここに彫られている、蛇がくわえているのは今川焼きだろう? それに、内側のイニシャル、おれがカミさんからもらった証だ、MからSへ、となっている、これが証拠だ」
 たしかに蛇には気がついていたが、くわえているのが今川焼きとは、こじつけではないか? むしろ宝玉にみえるが、と言おうとすると、
「あんちゃん、なあ、ゆずってくれよ、おれの指輪はどこをさがしても見つからないし、カミサンは怒るし、結婚指輪だからなあ、『たったそれだけの愛なのね』とか、責められるし、な、みつかったことにしておきたいんだよ」
 と顔を寄せ、小さな声でささやくのだ。しんから困っているみたいだった。
「……」
 仕方ない、と僕は思った。だいたい、この指輪は、もとはあの紳士からもらったものなんだし、欲をつのらせるのはやめよう、と考えた。
「いいですよ、あげます」
 ぼくがそういうと、今川焼き屋は
「おお、太っ腹だね、財務大臣! ありがと、ありがたいよ、なにしろ、新しいのはおろか中古だって、その日暮らしの露天商ごときが買える値段でないからね、あんちゃん、恩にきるよ」と手で拝み
「そうだ、あんちゃん、お礼といってはなんだが、この今川焼きもっていきなよ。いますぐ、包むからな、まってくれよ」
と、いいながら、今川焼きの男は指輪を小指にはめている。
「おお。ぴったりだよ、やっぱり、あんたはおれの救世主!」
 そしてぼくはそのあと、今川焼きを三十個も持つはめとなった。

 母のいる施設に着いたときは、ちょうど三時のおやつの少し前であった。スタッフに今川焼きを渡し、みんなのおやつにしてくれ、と告げると、心なしか、施設のなかがほんわりムードになった。
 今川焼きの香ばしい、甘いにおいがみんなの気持ちに灯をともしたのかもしれない。あるいは、高齢者にはノスタルジーを感じる食べ物なのだろう。
 母は十数人のメンバーとともに、テーブルが6台しつらえてあるホールに集い、それぞれが、大型テレビをぼんやり見たり、隣の人とおしゃべりをしていた。
 母は歩くと股関節が痛むのか、車椅子に座っていたが、傍らにいる女性と楽しそうに話している。
 ぼくが近づくと、彼女は母と同じ目線でしゃがんでいたが、ぱっと立ち上がった。
「あ、息子さんですね、いま、お母さまと息子さんの話をしていたのです」
「あなたは?」
 ぼくがそう尋ねたのは、施設のユニホームでなく、紺色のブランドもののジャージを着ていたからである。
「実習生です」
「そうですか、母がお世話になっています」
 施設には介護関係の職業につきたい学生が、たびたび実習にきていた。お年寄りの話し相手は、多忙なスタッフにはなかなかできないので、若い実習生は歓迎され、施設にも学生も双方にメリットがあるのだろう。
 そこに母と実習生の分の今川焼きが、お皿に盛られて運ばれてきた。
「あら、うれしい」
 母は愛好をくずした。
「好物がたべられてよかったね、母さん」
 ぼくは魚の煮付けも夕飯に食べるように話す。
 二ヶ月前に施設に入居したものの、まだ自宅に心残りがあるのか、母は食欲が落ちていた。
 施設の栄養管理のスタッフが、時々は慣れ親しんだ、家の味をお持ちください、というので、持参したのだった。
「息子さん、魚を料理するのですか?」
 実習生がおどろいたようにたずねる。
「この子の煮る魚は、なつかしい味がするのよ。味付けもちょうどよい薄味でね。でも、仕事なんかは、優しいとかえってだめよね。今の世の中は、正直なだけでは通用しない、こすかしいのだけが生き残れる」
 母はふがいないぼくに対する愚痴を言いながら、今川焼きを口に運んだ。
 その後、夕食の介助を申し訳程度して、残った魚は部屋にある冷蔵庫にいれると、ぼくは母に帰ることを伝えた。
「戸締りをきちんとするように、大切な家だから」
 母はぼくにいったが、泥棒がなにを盗むというのだろう? 現金は一銭もなかったのだ。
 施設をでたところで、先ほどの実習生が立っていた。
「あの、すこし聞きたいことがあるのですが、駅までご一緒してよろしいでしょうか」
 どうやら待っていてくれたらしい。ぼくは心のなかで歓喜した。
 駅までの道のりで聞いたところによると、彼女は大学で、人の味覚と記憶の相関を研究しているらしい。大学でなく、それとも、大学院なのか? ここでの実習は教員職になるための一課程らしく、
「単位をとるためだけ、なんです」
 という。施設での実習着のジャージを脱いで、薄手のカットソーとジーンズに着替えた彼女は、普通以上にかわいらしかった。
「実は、今の学校も、一度職についてから、さらに学びたくなって入学したので、年ばかりくってます」とはにかみ
「慣れ親しんだ味が、埋もれていた記憶を引き出すという説があります」と続けた。
 ぼくはうんとか、へえ、とかいいながら、彼女の睫毛がばさばさするのを見ていた。まるで蛾の触角のようであった。
 そんな想像を見透かすように、
「よかったら、ここに一緒に行きませんか?」
と、チケットを差し出した。そこには『魅惑の蝶たち』というタイトルがついていた。市のカルチャーホールで開催されているらしい。
「喜んで、といいたいところなんだけど、あまり金なくて」
「あら、正直なんですね」
「それだけが、とりえかも」
 二人で笑って、結局土曜日に一緒にいくことになった。
 ぼくはここではたと気がついた。あの芋虫が、魚に、さらに指輪となり、そのあと、今川焼きになった。そして彼女に行き着いた! これは昔話のわらしべ長者みたいじゃないか!
 たしか、あの昔話では、一本のわらが、みかんになり、みかんが絹の反物になり、そして反物は馬になる。さらに馬をゆずった長者の家で、主となるわけである。その家の娘と結婚して、幸せに暮らすというストーリーだったと思う。そのまんまだ! 話しをなぞっている!
 僕と彼女はめぐりあう運命だったのだろうか? 彼女が化け物に変身するという類のどんでん返しだけは、まっぴらであるが……。

 次の日、小雨がふっていたが、例のリッチな紳士の家にクーラーボックスを届けることにした。ぼくは、そのかさばるボックスを水道できれいに洗い、椅子や竿もまとめ、自転車に積んでいった。
 お礼、という誘惑があった。たしか紳士はそういっていた。
 名刺の住所は高級住宅地で、ぼくの家からは、5キロほどのところであった。K市は東京には快速で一時間以内にいけるという利便さよりも、閑静な丘陵地のシックな落ち着いた住宅街ということで、古今とわず人気のある土地であった
 ぼくが紳士の家をスマホのナビで探し、呼び鈴を押すと、お手伝いらしき女性がでてきた。
「だんな様よりうかがっています」
といって、釣り道具をあずかるという。彼は予測していたとおり、不在らしい。まあ、ウイークデイにふらふらしているのは、ぼくみたいな、ニートだけだろうな。
 多分捨ててしまっただろう、と思ったが、虫の入っていたタッパーはないか、念のため聞くと、お手伝いさんは、首をかしげながらいったん中に引っ込み、長いあいだかかり、もう、忘れられたんじゃないか、と思うころやっと出てきた。
「さなぎになっているので、このまま預からせてくださいとのことです」
 どうやら、紳士に電話で聞いたらしい。それにしてもあいつがさなぎになったとはね、ぼくはちょっぴり感心した。ガッツがあるな、と見直した。魚に食われるまえに、変化するとは……。
 一寸の虫にも五分の魂だな。
「到来物で失礼とは存じますが、これをお持ちください、だんな様の言伝でございます」
 といってワインをさしだした。
 ぼくはのけぞった。お金持ちは違うなあ、本当に。ラベルは判読不可能だが、わずかに読める文字で推察するに、フランスのなんちゃらブルゴーとかだった。ぼくはありがたく頂戴することにした。
 所得の再分配だ! 貧しきものに光を、と心で唱えながら、自転車で家にもどった。マリネをさかなに乾杯しよう。
「芋虫くんに、乾杯!」
 いや待てよ。ぼくはワインの栓を抜くのをやめた。とりあえず、土曜日まで温存しよう。土曜日はあの娘と会える予定だし……ぼくは本当にわらしべ長者になった気分であった。芋虫がワインに、だしな。

 土曜日、待ち合わせの時刻に行くと、彼女はもう来ていた。会場はマニアらしい人でごったがえし、予想していたよりも混雑している。圧倒的に男性が多いことに気づく。
「叔父がそのマニアなんです」
 彼女は券の出所を説明する。
「本職は公務員なんですが、蝶々のこととなると、寝食をわすれ、山でもジャングルでも南極でも行ってしまうんです。あら、南極には蝶はいないかしら? つまり、どのマニアも新種を見つけたいし、あいにく新種はめったにみつからないみたいですよ」
 展示してある蝶々は美しかった 。白いパネルに剥製となって、静止している蝶の、燐粉の美しさはどんな絵の具でも表現できないだろう。一見地味な色あいでも、紋というのであろうか、模様の神秘に、息をのんでしまう。捕獲する鳥を驚かせる目的の、目のような模様も、ため息をついてしまう美しさであった。小魔女に見せられた彼らのように、とりこになり、地の果てでも追っていきたくなる、
男の習性をかい間見た気がした。
 展示施設の中ほどにショーケースのような四方をアクリル板で囲った、スペースがあり、その中に生きている蝶が乱舞していた。
 ケースには特殊な加工がしてあり、こちらからは蝶がみられるが、蝶からは外が見えず、まるで森のなかにいるように、ありのままの姿で舞う姿が観察されます、という説明書きがあった。この展示会の一番の目玉なのだろう。
「きれい!」
 彼女が小走りで近寄った。
 腕の部分だけ透ける水色のブラウスを着た彼女は、軽やかに舞う蝶にも見える。ぼくは思わず見とれてしまった。
 ああ、それにしてもさえない自分をさらに感じてしまう。こっちは五百円玉大のはげもあるし、さえないニートだ。彼女はどうしてぼくを誘ったのだろう? ぼんやりしながら、彼女を目で追っていた。
 水槽のような五メートル四方ぐらいの、角柱形の外側は、美しい光景を観察している人が十数人いたが、ぼくは、ふと気になるものを見つけ、人のあいだを縫って近寄った。蝶が輪舞するショウギャラリーには本物の木の枝を配置してあるが、そこに幼虫であろう芋虫がいた。
 大きさも色も、ぼくの家の庭の芋虫に酷似している。
「え?」
 あの芋虫は、これと同じモノなのか? この珍しい品種の蝶が自分の家の庭にいるのだろうか? 彼女が近寄ってきた。
「ねえ、これと同じようなのが、わんさか、ぼくの家にいるんだけど?」
「ま、まさか、これって、すごく希少な蝶みたいよ?」
 彼女は説明の書かれたプレートを指差す。
「そうだよね、でも、たくさんいて、この幼虫はよく見るし、この蝶もさ、あたりまえのように、敷地を飛んでいるし」
「そうだったら、なんかそれって凄いことみたいに思うの。これから、行ってみたい、いいかしら?」
「そりゃ、全然かまわないけど」
 かまわないけど、金がない、とはいえず、言葉を飲み込んだ。ぼくはここまで自転車で一時間ちょいかけてきたのだ。
 電車賃がないなんて、どうして言える? 彼女をあの市電に案内すれば、自分の運賃ぐらいはなんとかなるだろうが。
「話が決まったたら、行きましょう」
 彼女はぼくの手を握って、蝶々の展示場から飛び出す。そしてエレベーターを使い、地下の駐車場に導いた。
「あたし、勘だけはいいのよね、どうぞ、乗って。君のお宅までこの車で行きましょう」
「はあ、」
 ぼくは指し示された助手席に乗った。車は赤いワーゲン・ゴルフだった。
「勘って、どういう意味?」
 ぼくは車がパーキングから的確にかつ迅速に飛び出したあとたずねた。
「勘、ていうか、今日はなんとなく車のほうが、いいかな……っていう考えが頭にわくと、素直に従うっていうことよ」
「はあ、で、ゴルフですか」
「ああ、これ?」彼女は笑った。
「父が心配性でね。車体が頑丈であればあるほど、事故にあわないと考えているの。お金を出してもらうわけだから、わたしは文句いえないわよね」
 彼女はぼくの家の住所を聞いた。そしてそれを音声でナビに伝える。車はさすがに堅実な走りを見せた。
「君の家のことは、お母さまからいろいろ聞いているの。お母さまは婿取りをした、といっていたわ、なんでも江戸時代から、その家の当主はその家にしか生息しない蝶を、守る家系だとか、そういっていたわ」
「……母はそう見えないけど、認知症だから」
 話の信憑性の問題だ。
「そうかもしれないけど、過去の記憶ほど鮮明である、ということを考えると、まんざら妄想とは思えなくてね」
「そうですか」
 ぼくは、なんで彼女がぼくを誘ったか、納得した。蝶のことか。そうだったのか、叔父さんとやらのためか。
「むしろ、わたしなんかより叔父が来られればいいな、と思うの。でも今は、南米のほうへいっているはずなのよね」
ほらな。
「ああ、なるほど」
「でも、電話すればふっとんでくるかも」
「え?」
 ぼくは思いがけない展開にびびって萎縮していた。これではさらに漫画かドラマみたいではないか? 車のなかで、彼女はぼくの家の敷地内のことについて尋ねる。
「そうなのね、きっと君の家って、四方を谷にかこまれているし、あの幼虫が蝶になって限られたエリアにとどまっているのかもしれないわ」
「……」
 土曜日ということで、渋滞があり、市電よりはかなり時間がかかって、ぼくの家についた。彼女は驚いたように、
「やだ、うちからそんなに遠くないところだわ」
 と言った。やだ、といいながらも、うれしそうだったので意外だった。周りを背の高い防風林でかこまれたぼくの家は、こう見ると、ひとつの城のようでもあった。
 蝶はこの高さを乗り越えられないのかもしれない。
 車から降りた彼女はぼくがさししめす木を、目を皿にして見ていた。しかし、幼虫はまったく、これでもかというほど、一匹もいなかった。
 さなぎになってしまったのか、成虫になり飛んでいったのか、あんなにうじゃうじゃいたのに、ぼくはまるで自分のいったことが大嘘だと、思われるようで、必死で弁解した。
「変だなあ、あんなにわんさかいたのに」
「……」
 彼女は怒ったのだろうか? ひとりで、あちこち見ながら写真をとったり、上を見上げたりしている。
 ぼくは自分の人生が突然に終わったと感じた。あのリッチ紳士に幼虫をあげなければよかった。そうだ、あのときに返してもらえば……
 やにわに彼女が電話をする。ハローとかいっているので国際電話なのか、やがて「はい、そうします」といっているのが聞こえる、
「ねえ、さなぎないかしら?」
「さなぎですね、お嬢様。」ぼくは、条件反射で、浄水器のセールスの口調になってしまった。
「さなぎさえあれば、飼育箱で保存しながら、羽化がみられるでしょう。叔父はこれからすぐコスタリカを発って、戻るというの。さなぎがひとつでもあればいいんだけど」
「ひとつ、人より力もち……」などと、ぼくは相当混乱していた。
 さなぎ様! どこにいらっしゃいますか!
 ここでさなぎがなければ、ぼくの人生はおしまいである。おしまい、彼女は怒って帰り、ぼくはまたひとりで釣り。魚のくいつきのいい幼虫くんもいないし!
「あ!」ぼくは叫んだ。
「さなぎ、あります。さなぎあるんです。このまえのリッチ紳士の家に」
「……リッチ紳士?」
「そう、あの、ここから自転車で少しいったところの高級住宅地に、
お金のある人の家に、あるんです」
 そうだった。なんてぼくはラッキーなんだ。
 だが、自転車! あのカルチャーセンターにおいてきてしまった。自転車がないのだ。なんて不幸なんだ。天国と地獄だ。
 泣く泣く、そのおおまかな場所と苗字をしどろもどろにいうと、彼女はおなかをかかえて笑いだした、
「そこ、私の家よ! そのリッチ紳士って父のことなのね! なんて不思議! 偶然ってあるのね」
 というと、ぼくが口を開く前に車に飛び乗り、あっという間に出て行った。土煙だけもうもうと上がる。

 行ってしまった。まあ、しかたない。これで終わりか。
 ぼくはため息をついた。なんてことない。振り出しにもどっちゃった。この家に一人の生活に。気が向けば、海に向かい……魚をとり、それを料理して、食べて、生きる、もう、釣りに幼虫は使えないけど。
 そうだ、いままでがわらしべ長者みたいだったけど、最後は違う、どんでん返し、貧乏と孤独になっておしまい、だ。ぼくはどれくらいそこに立ちん坊していたのだろう?
 気がつくと日が傾いてきた。すると、ひらひらと緑色の蝶がどこからともなく飛び始めた。蝶だ! これが……あの蝶か?
 まるで、一日の終わりを祝福するように飛んでいる。よくみると、羽の裏側は黄金に輝いている。また、見る方向によっては玉虫色にも輝く。
 きれいだな、ぼくは思わずみとれてしまう。こんなに美しい蝶がいることを、なんで母は教えてくれなかったのだろう。
 この年まで、なんで気がつかなかったのか。
 教えると、秘密は漏れる。でも今回は漏れてしまった。
 ぼくは急に空腹を覚えた。そうだ、乾杯をしよう。ちょうどマリネがあるし、あの紳士の家のお手伝いさんがくれたワインもあるし、
 自棄酒だ! ぼくが家の勝手口に向かうと、車が門に至る坂を登ってくる音がした。まさか?
 彼女だった。
「持ってきたわよ、ほら」
 とプラスチックの飼育箱をトランクからだす。例のさなぎ様たちだ。
「それから、これも」とフランスパンを出した。
 フランスパンの香ばしい香りがぼくの歓喜に拍車をかける。
「キッチンから、くすねてきたの。これがやっとだったのよ、お手伝いの目は厳しいの」
 とパンをバキッと太ももで割った。太ももにも感謝だ。
「叔父はきっと喜ぶわよ」
 ぼくたちは、縁側の戸を開け放ち、座布団を敷いて、夜になると今度は蛍を見ながら、ワインとマリネで食事をした。そしてフランスパンもたっぷり食べた。ぼくは庭にあったルッコラを摘んでサラダをこさえた。
「蝶に乾杯!」
 いままでの人生のなかで一番の食事だった。
 彼女の夢はこういうものだった。人がものをたべるのは、ただエネルギーの元を摂取するということだけではなくて、そこに一緒にいる人や、そのシーンや、それから気持ちとか、想いとか全部かかわりあっていること、自分はそういう記憶と味について研究していること、そして認知症などで、記憶を失っても、また懐かしい味に遭遇すれば、きっと失われたものが、復活するということを研究で明らかにしたいこと。
「きのうの今川焼きね、あれで、とても貴重なことを思いだしたの」
「貴重なこと?」
「そうなの。昔、幼稚園か小学に入学したてのころ、初めて神社の縁日にいったのよね。そこに、今川焼きが売っていた。そのときは、お手伝いのねえやにつれていってもらったのよね、母は病弱で、とてもそんな人ごみはだめだった。で、なにかお土産を買おうと、お祭りらしいなにかを、イカとかわたあめとか、でもねえやは不衛生だから、だめだって、店の前を素通りで。一番はずれの屋台が今川焼きだった。わたしは駄々をこねて、道に大の字に寝て、買わないと動かないと言い張り、やっと許してもらった」
「うん」
「でも、残りが一個だけしかなくて。おじさんが袋にいれてくれたのを大事に持って帰り、母にわたすと、半分にして『はんぶんこね』って、わたしにくれた。思わず胸に飛び込むと、母がにっこりとして」
 あの味が、その記憶が、昨日の施設のあのときでよみがえったのだ、という彼女を、涙をうっすら浮かべる彼女をぼくは本当にいとおしいと思った。

 そして、彼女の叔父さんがぼくの家にやってきた。飼育箱のさなぎの羽化も撮影できたし、叔父さんは
「これはすごい発見だ」
 と、小躍りして興奮しまくっていた。ぼくの家は叔父さんや助手やたくさんの人が出入りするようになり、ぼくは食費をもらって、彼らの食事を作り、雑用、時には手伝いもした。
 さらに、叔父さんはここをシーズン中は自然のままの展示場にしたいといいだした。蝶の季節は一時的だし、ぼくは母と相談して、一番よい方法かと、了承した。
 屋敷と蝶の維持管理のことが、母のストレスだったのだ。
 蝶の季節になると母は施設にロングステイにいき、ぼくは彼女のお父さんであるリッチ紳士のクルーザーに寝泊りをしたりすることもあった。
 ぼくはあいかわらず定職につかず、クルーザーで海釣りをたのしんだり、魚料理をしたり、気ままにくらしている。
 彼女は研究のために、記憶をよみがえらすヒントになる食べ物をぼくに作らせたりする。彼女は研究が三度の飯より好きらしい。
 ぼくはそんなアシストもまあ、そこそこ楽しく、蝶みたに、甘い水を求めて、ふらふらしているってことである。
 そうだな、あの幼虫が、ぼくの人生の分かれ道だったんだな。
「ねー与太郎、『しもつかれ』を作ってくれる?」
 彼女がちょっとだけ甘えた口調で聞いてくる。
 偶然の連続による、ささやかな幸せ、ここにもあった。

 人生が偶然の連続の結果、成功へと到達するなんて、小説の中だけのこと、ぼくはずっとそう考えていた。そんな劇的で幸運な人生を歩けるのは、世界のなかでも、0コンマ01パーセントにも満たないのではないだろうか? 
 この得体のしれない虫の幼虫も、僕の境遇と大して違いはないだろう。つまり平凡な六等星の生き方だ。
 そう、ぼくが、海釣りの餌に、庭木にたかっていた幼虫を使ったのは、むしろ必然のことだった。金が底をついていたのだ。最後の給料、といってもあの会社は、賃金形態も支給日も、きちんとあったものではなかったが、それでも
「今日でやめさせてください」
といったとき、上司兼経理兼人事係りは
「はい。これ、今月分と退職金」
と、十万円を封筒にいれ、手渡してくれたのだ。その最後の給料が、残高三桁になり、仕方なく徒歩四十三分の海へ、食糧を仕入れにいくことにしたのだった。
 竿は物置にたくさんあった。亡き父のものだ。
 ぼくは、庭にある、低木の木の葉に、うじゃうじゃとついていた、茶色っぽい幼虫をつまんでタッパーにいれた。
 一石二鳥ではないか? 虫退治にもなるわけだし。どの木も葉が穴だらけだった。これでは光合成もままならない。
 そうだ、そうだ、とひとりで賛成をする。
 ぼくは海へ出ると、防波堤の先端ちかくに持参した折りたたみ椅子をこしらえ、早速糸を垂らした。海は凪いでいた。
 先客はひとりいた。帽子の下から白いものがのぞくのは、いわゆる、リタイア世代だろうか。椅子のそばには缶コーヒーの空き缶や、栄養ドリンクのビンも飲み干されて倒れている。
 糸の動きをぼんやり追いながら、ぼくはこれからのことを考えていた。この先どうしようか? もちろん、ハローワークへ行って失業手当をもらう、というのは一番賢明な選択だろう。
 しかし、どうにもおっくうである。だいいち、就業しようと努力しているところを、たえず提示する必要があるという条件は難関である。自分にできるのだろうか? 気力がゼロのぼくに?
 辞めた会社では浄水器のセールスが仕事だった。
「こんなに水が綺麗になります、奥様」
 ぼくは毎日、訪問した家で、浄水器の水を飲んだ。相手が不安になるほど飲んだ。そして一件も契約できないと、会社でその水を頭からかけられ、
「頭をひやして、もう一度いけ」と罵声も浴びせられ、また出かける、その繰り返しだった。
 十分にダークだ。いやブラック企業である。浄水器の水で、病気も軽くなるというふれこみを売りにしている会社である。従業員も水さえ豊富にあればやっていけると考えたのだろう。
 それでも、ぼくは一年七ヶ月間働いたが、とうとう心身ともに病んで辞めたのだ。円形脱毛症プラス抑うつ症状、そして睡眠障害のニート、それがいまのぼくの肩書きである。
 ともあれ、歩いていける範囲に海があり、釣りができるのはありがたかった。時間は限りなくあったから。
 波の動きをながめていると、眠気が漂ってくる。夜間はまったく眠れないぼくは、ここちよい潮風にうとうとして、糸を垂らしていたが
「兄ちゃん、ひいているよ」という声で、はっと条件反射でリールをまいて、竿をあげる。
 魚は小さいがアジがかかっていた。
「あ、どうも、助かりました」クーラーボックスにほうりこみながら、いちおうお礼をいい、また幼虫を針につけた。
「それ、食いつきがいいけど、なんの虫?」
 オレンジのキャップをかぶった男は近寄り、たずねてきた。
「さあ? よかったら、どうぞ」
 タッパーをさしだすと、「おお」という顔をした。グロテスクだからだろう。三センチほどの、いわゆるベージュがかった色の芋虫である。もそもそしていた。
「じゃあ、さっそくこれで試してみようか」
 と、自分の椅子をひきよせ、並んで糸を垂らす。
「まったく、釣りっていうのは、リラックスできるスポーツだね」
 と、ぼくに話しかけてくる。たぶん、話し相手がほしかったのだろう。ぼくも、ええ、まあ、とか適当に答えながら、再び糸をたらしていたが、その、見るからにリッチそうな、つまり、服のブランドや竿の仕様で判断した、その男は、虫の餌に嬉々としていた。
「いいよ、これ。いいねえ」
 彼はその後たてつづけに七匹釣った。ぼくは、その後は小魚一匹である。男は悪いと思うのか、決まり悪そうにタッパーに手をのばすので、
「いいですよ、全部つかってください」
 タッパーを丸ごと渡した。虫と一緒に葉もたっぷりいれていたので、やつらはまだ生き生きしている。魚にとってはジューシーなのだろうな。
「本当? いいの?」
 と、彼はやけに嬉しそうであったが、やにわに携帯が鳴った。着信音は『威風堂々』だった。男はああ、とか、なに、とか応対をしているが、ぼくが始めから睨んだとおり、電話の話ぶりや威厳をもった態度からして、相応の地位のある人らしい。
「残念だ。行かなくてはならない」
 名残惜しそうなので、ぼくはその虫をあげることにした。
「うちには、うじゃうじゃいるんで」
「そうか、感謝するよ、君。ところで、その代わりといってはなんだが、この釣れた魚もらってくれ。これから行くところが急にできて、なに? そっちのクーラーボックスに入りきれない? そうか、じゃあ、こうしよう。名詞をあげるから、空のボックスと竿、あとでうちに届けてくれないか? そう、お礼もしたいしね」
 男はぼくに一枚の名刺をおしつけ、クーラーボックスのみならず、竿や椅子、弁当がら等のごみも残して去っていった。
 しかし、なぜか虫のタッパーだけは大事に小脇にかかえている。
 ぼくが成り行きに対処できずに、呆然としているあいだに、浜から上がった道に、お迎えの黒い車がすーっと横付けされ 彼はさっそうとのりこんでしまったのだ。まるでテレビのようだった。
 あとに残された二人分の釣り道具を前に、ぼくは少し気落ちしたが、まあ、魚が考えていたより多く手に入ったわけだし、とポジテブに考え、家にもどることにした。リッチな男のボックスには、アイナメやサヨリ、アジが入っていた。
 両肩に大小のクーラーボックス、手には2本の竿、背中に折りたたみレジャー椅子をせおい、歩く姿は浦島太郎に見えるだろう、となんとか気力をふるいおこし、他人の目は気にせずに歩いた。
 
 ぼくの家は台地にあった。母によれば由緒ある旧家ということで、樹木の生い茂った敷地はかなり広い。ぼくは、鍵のかかっていない勝手口から入る。クーラーボックスを台所におくと、エプロンをして、さっそく魚をさばきにかかる。
 新鮮なうちに下ごしらえをすれば、いたみもなく、いろいろな料理にできる。ぼくのたったひとつのとりえは、料理が好きで、幾分器用なところだろう。手際よくさばき、最後の魚の腹に包丁を入れた時にカチッと刃が何かにあたった。
「ん?」
 ぼくは出刃で、そろそろと白い腹を探りながら、開いていく。
 刃にあたったのは指輪だった。おおっ! つまんでみると、裏にはアルファベットが刻んである、本物っぽいではないか。マリッジリングだ!
 ぼくは歓喜した。金属である。もし本物のプラチナであれば、換金できる。なんとラッキーな! これはリッチ紳士が釣った魚である。あの幼虫が、こんな指輪に変身するとは! すばらしい。
 人生がバラ色になった気がした。思いがけない展開だった。
 指輪は綺麗に洗い、ジャムの空き瓶を探し入れた。ちゃりん。そして活力を得たぼくは、魚をすべて下処理して、半分は煮付けに半分はマリネにすることにした。その夜はなぜかぐっすり眠れた。
 次の日、ぼくは母のところに行くことにした。
 ぼくは母が四十を過ぎてから生んだ、一人息子なのである
 母は軽い認知症なのだが、持病の股関節の不具合も悪化して、施設で療養をしていた。ぼくの家から、市電で二駅のところに、その施設はあって、昨日作った煮つけをタッパーにいれて、持っていくことにした。母は魚の煮付けを食べたがっていたのだ。
 駅からは歩いて十五分くらいの高台が施設への道のりで、駅前の商店街を抜けていく。その中に貴金属の買取りや骨董もどきを扱う店があり、そこで指輪を鑑定してもらおうと考えていた。
 ところが、その日は近くの神社の例大祭なのか、露天商がたくさん出ていて、人ごみも普段の数倍である。ぼくは、魚の煮付けをビニール袋にいれて、右手にさげていたが、突然肩に人があたり、押されてよろめいた。思わず、ポケットにいれていた左手を出し、露天商の店の枠組みつかまり、難を逃れる。
 と、同時に指輪の入っていた瓶がポケットを脱走して、ころころころと転がってしまった。
「おい、こら、待て」
 転がった先は今川焼きの屋台の裏だった。
「お?」
 今川焼きのあるじは、それを拾った。
「あ、すいません、それ、ぼくのなんです」
「おい、こりゃあ、」
 ねじり鉢巻の今川焼き屋は、隣の烏賊焼きの露天商との隙間から出てきた。
「盗品でないのか?」
 え、盗品? いや、これはたしかに貰った魚の腹に入っていたわけだし、魚の腹のものはすべて権利を主張できる、はずだし。 ぼくは、のそのそと微小な脳細胞を回転させた。
「ちがいますよ、盗品ではないです」
「いや、よくみせてくれ」
 今川焼き屋はビンのふたを開け、指輪をとりだした。前後左右と内側をじっくりみていたが、
「やっぱり、これはおれがなくした指輪だ!」
と、断言した。
「ま、まさか」
「ほら見てみろ。ここに彫られている、蛇がくわえているのは今川焼きだろう? それに、内側のイニシャル、おれがカミさんからもらった証だ、MからSへ、となっている、これが証拠だ」
 たしかに蛇には気がついていたが、くわえているのが今川焼きとは、こじつけではないか? むしろ宝玉にみえるが、と言おうとすると、
「あんちゃん、なあ、ゆずってくれよ、おれの指輪はどこをさがしても見つからないし、カミサンは怒るし、結婚指輪だからなあ、『たったそれだけの愛なのね』とか、責められるし、な、みつかったことにしておきたいんだよ」
 と顔を寄せ、小さな声でささやくのだ。しんから困っているみたいだった。
「……」
 仕方ない、と僕は思った。だいたい、この指輪は、もとはあの紳士からもらったものなんだし、欲をつのらせるのはやめよう、と考えた。
「いいですよ、あげます」
 ぼくがそういうと、今川焼き屋は
「おお、太っ腹だね、財務大臣! ありがと、ありがたいよ、なにしろ、新しいのはおろか中古だって、その日暮らしの露天商ごときが買える値段でないからね、あんちゃん、恩にきるよ」と手で拝み
「そうだ、あんちゃん、お礼といってはなんだが、この今川焼きもっていきなよ。いますぐ、包むからな、まってくれよ」
と、いいながら、今川焼きの男は指輪を小指にはめている。
「おお。ぴったりだよ、やっぱり、あんたはおれの救世主!」
 そしてぼくはそのあと、今川焼きを三十個も持つはめとなった。

 母のいる施設に着いたときは、ちょうど三時のおやつの少し前であった。スタッフに今川焼きを渡し、みんなのおやつにしてくれ、と告げると、心なしか、施設のなかがほんわりムードになった。
 今川焼きの香ばしい、甘いにおいがみんなの気持ちに灯をともしたのかもしれない。あるいは、高齢者にはノスタルジーを感じる食べ物なのだろう。
 母は十数人のメンバーとともに、テーブルが6台しつらえてあるホールに集い、それぞれが、大型テレビをぼんやり見たり、隣の人とおしゃべりをしていた。
 母は歩くと股関節が痛むのか、車椅子に座っていたが、傍らにいる女性と楽しそうに話している。
 ぼくが近づくと、彼女は母と同じ目線でしゃがんでいたが、ぱっと立ち上がった。
「あ、息子さんですね、いま、お母さまと息子さんの話をしていたのです」
「あなたは?」
 ぼくがそう尋ねたのは、施設のユニホームでなく、紺色のブランドもののジャージを着ていたからである。
「実習生です」
「そうですか、母がお世話になっています」
 施設には介護関係の職業につきたい学生が、たびたび実習にきていた。お年寄りの話し相手は、多忙なスタッフにはなかなかできないので、若い実習生は歓迎され、施設にも学生も双方にメリットがあるのだろう。
 そこに母と実習生の分の今川焼きが、お皿に盛られて運ばれてきた。
「あら、うれしい」
 母は愛好をくずした。
「好物がたべられてよかったね、母さん」
 ぼくは魚の煮付けも夕飯に食べるように話す。
 二ヶ月前に施設に入居したものの、まだ自宅に心残りがあるのか、母は食欲が落ちていた。
 施設の栄養管理のスタッフが、時々は慣れ親しんだ、家の味をお持ちください、というので、持参したのだった。
「息子さん、魚を料理するのですか?」
 実習生がおどろいたようにたずねる。
「この子の煮る魚は、なつかしい味がするのよ。味付けもちょうどよい薄味でね。でも、仕事なんかは、優しいとかえってだめよね。今の世の中は、正直なだけでは通用しない、こすかしいのだけが生き残れる」
 母はふがいないぼくに対する愚痴を言いながら、今川焼きを口に運んだ。
 その後、夕食の介助を申し訳程度して、残った魚は部屋にある冷蔵庫にいれると、ぼくは母に帰ることを伝えた。
「戸締りをきちんとするように、大切な家だから」
 母はぼくにいったが、泥棒がなにを盗むというのだろう? 現金は一銭もなかったのだ。
 施設をでたところで、先ほどの実習生が立っていた。
「あの、すこし聞きたいことがあるのですが、駅までご一緒してよろしいでしょうか」
 どうやら待っていてくれたらしい。ぼくは心のなかで歓喜した。
 駅までの道のりで聞いたところによると、彼女は大学で、人の味覚と記憶の相関を研究しているらしい。大学でなく、それとも、大学院なのか? ここでの実習は教員職になるための一課程らしく、
「単位をとるためだけ、なんです」
 という。施設での実習着のジャージを脱いで、薄手のカットソーとジーンズに着替えた彼女は、普通以上にかわいらしかった。
「実は、今の学校も、一度職についてから、さらに学びたくなって入学したので、年ばかりくってます」とはにかみ
「慣れ親しんだ味が、埋もれていた記憶を引き出すという説があります」と続けた。
 ぼくはうんとか、へえ、とかいいながら、彼女の睫毛がばさばさするのを見ていた。まるで蛾の触角のようであった。
 そんな想像を見透かすように、
「よかったら、ここに一緒に行きませんか?」
と、チケットを差し出した。そこには『魅惑の蝶たち』というタイトルがついていた。市のカルチャーホールで開催されているらしい。
「喜んで、といいたいところなんだけど、あまり金なくて」
「あら、正直なんですね」
「それだけが、とりえかも」
 二人で笑って、結局土曜日に一緒にいくことになった。
 ぼくはここではたと気がついた。あの芋虫が、魚に、さらに指輪となり、そのあと、今川焼きになった。そして彼女に行き着いた! これは昔話のわらしべ長者みたいじゃないか!
 たしか、あの昔話では、一本のわらが、みかんになり、みかんが絹の反物になり、そして反物は馬になる。さらに馬をゆずった長者の家で、主となるわけである。その家の娘と結婚して、幸せに暮らすというストーリーだったと思う。そのまんまだ! 話しをなぞっている!
 僕と彼女はめぐりあう運命だったのだろうか? 彼女が化け物に変身するという類のどんでん返しだけは、まっぴらであるが……。

 次の日、小雨がふっていたが、例のリッチな紳士の家にクーラーボックスを届けることにした。ぼくは、そのかさばるボックスを水道できれいに洗い、椅子や竿もまとめ、自転車に積んでいった。
 お礼、という誘惑があった。たしか紳士はそういっていた。
 名刺の住所は高級住宅地で、ぼくの家からは、5キロほどのところであった。K市は東京には快速で一時間以内にいけるという利便さよりも、閑静な丘陵地のシックな落ち着いた住宅街ということで、古今とわず人気のある土地であった
 ぼくが紳士の家をスマホのナビで探し、呼び鈴を押すと、お手伝いらしき女性がでてきた。
「だんな様よりうかがっています」
といって、釣り道具をあずかるという。彼は予測していたとおり、不在らしい。まあ、ウイークデイにふらふらしているのは、ぼくみたいな、ニートだけだろうな。
 多分捨ててしまっただろう、と思ったが、虫の入っていたタッパーはないか、念のため聞くと、お手伝いさんは、首をかしげながらいったん中に引っ込み、長いあいだかかり、もう、忘れられたんじゃないか、と思うころやっと出てきた。
「さなぎになっているので、このまま預からせてくださいとのことです」
 どうやら、紳士に電話で聞いたらしい。それにしてもあいつがさなぎになったとはね、ぼくはちょっぴり感心した。ガッツがあるな、と見直した。魚に食われるまえに、変化するとは……。
 一寸の虫にも五分の魂だな。
「到来物で失礼とは存じますが、これをお持ちください、だんな様の言伝でございます」
 といってワインをさしだした。
 ぼくはのけぞった。お金持ちは違うなあ、本当に。ラベルは判読不可能だが、わずかに読める文字で推察するに、フランスのなんちゃらブルゴーとかだった。ぼくはありがたく頂戴することにした。
 所得の再分配だ! 貧しきものに光を、と心で唱えながら、自転車で家にもどった。マリネをさかなに乾杯しよう。
「芋虫くんに、乾杯!」
 いや待てよ。ぼくはワインの栓を抜くのをやめた。とりあえず、土曜日まで温存しよう。土曜日はあの娘と会える予定だし……ぼくは本当にわらしべ長者になった気分であった。芋虫がワインに、だしな。

 土曜日、待ち合わせの時刻に行くと、彼女はもう来ていた。会場はマニアらしい人でごったがえし、予想していたよりも混雑している。圧倒的に男性が多いことに気づく。
「叔父がそのマニアなんです」
 彼女は券の出所を説明する。
「本職は公務員なんですが、蝶々のこととなると、寝食をわすれ、山でもジャングルでも南極でも行ってしまうんです。あら、南極には蝶はいないかしら? つまり、どのマニアも新種を見つけたいし、あいにく新種はめったにみつからないみたいですよ」
 展示してある蝶々は美しかった 。白いパネルに剥製となって、静止している蝶の、燐粉の美しさはどんな絵の具でも表現できないだろう。一見地味な色あいでも、紋というのであろうか、模様の神秘に、息をのんでしまう。捕獲する鳥を驚かせる目的の、目のような模様も、ため息をついてしまう美しさであった。小魔女に見せられた彼らのように、とりこになり、地の果てでも追っていきたくなる、
男の習性をかい間見た気がした。
 展示施設の中ほどにショーケースのような四方をアクリル板で囲った、スペースがあり、その中に生きている蝶が乱舞していた。
 ケースには特殊な加工がしてあり、こちらからは蝶がみられるが、蝶からは外が見えず、まるで森のなかにいるように、ありのままの姿で舞う姿が観察されます、という説明書きがあった。この展示会の一番の目玉なのだろう。
「きれい!」
 彼女が小走りで近寄った。
 腕の部分だけ透ける水色のブラウスを着た彼女は、軽やかに舞う蝶にも見える。ぼくは思わず見とれてしまった。
 ああ、それにしてもさえない自分をさらに感じてしまう。こっちは五百円玉大のはげもあるし、さえないニートだ。彼女はどうしてぼくを誘ったのだろう? ぼんやりしながら、彼女を目で追っていた。
 水槽のような五メートル四方ぐらいの、角柱形の外側は、美しい光景を観察している人が十数人いたが、ぼくは、ふと気になるものを見つけ、人のあいだを縫って近寄った。蝶が輪舞するショウギャラリーには本物の木の枝を配置してあるが、そこに幼虫であろう芋虫がいた。
 大きさも色も、ぼくの家の庭の芋虫に酷似している。
「え?」
 あの芋虫は、これと同じモノなのか? この珍しい品種の蝶が自分の家の庭にいるのだろうか? 彼女が近寄ってきた。
「ねえ、これと同じようなのが、わんさか、ぼくの家にいるんだけど?」
「ま、まさか、これって、すごく希少な蝶みたいよ?」
 彼女は説明の書かれたプレートを指差す。
「そうだよね、でも、たくさんいて、この幼虫はよく見るし、この蝶もさ、あたりまえのように、敷地を飛んでいるし」
「そうだったら、なんかそれって凄いことみたいに思うの。これから、行ってみたい、いいかしら?」
「そりゃ、全然かまわないけど」
 かまわないけど、金がない、とはいえず、言葉を飲み込んだ。ぼくはここまで自転車で一時間ちょいかけてきたのだ。
 電車賃がないなんて、どうして言える? 彼女をあの市電に案内すれば、自分の運賃ぐらいはなんとかなるだろうが。
「話が決まったたら、行きましょう」
 彼女はぼくの手を握って、蝶々の展示場から飛び出す。そしてエレベーターを使い、地下の駐車場に導いた。
「あたし、勘だけはいいのよね、どうぞ、乗って。君のお宅までこの車で行きましょう」
「はあ、」
 ぼくは指し示された助手席に乗った。車は赤いワーゲン・ゴルフだった。
「勘って、どういう意味?」
 ぼくは車がパーキングから的確にかつ迅速に飛び出したあとたずねた。
「勘、ていうか、今日はなんとなく車のほうが、いいかな……っていう考えが頭にわくと、素直に従うっていうことよ」
「はあ、で、ゴルフですか」
「ああ、これ?」彼女は笑った。
「父が心配性でね。車体が頑丈であればあるほど、事故にあわないと考えているの。お金を出してもらうわけだから、わたしは文句いえないわよね」
 彼女はぼくの家の住所を聞いた。そしてそれを音声でナビに伝える。車はさすがに堅実な走りを見せた。
「君の家のことは、お母さまからいろいろ聞いているの。お母さまは婿取りをした、といっていたわ、なんでも江戸時代から、その家の当主はその家にしか生息しない蝶を、守る家系だとか、そういっていたわ」
「……母はそう見えないけど、認知症だから」
 話の信憑性の問題だ。
「そうかもしれないけど、過去の記憶ほど鮮明である、ということを考えると、まんざら妄想とは思えなくてね」
「そうですか」
 ぼくは、なんで彼女がぼくを誘ったか、納得した。蝶のことか。そうだったのか、叔父さんとやらのためか。
「むしろ、わたしなんかより叔父が来られればいいな、と思うの。でも今は、南米のほうへいっているはずなのよね」
ほらな。
「ああ、なるほど」
「でも、電話すればふっとんでくるかも」
「え?」
 ぼくは思いがけない展開にびびって萎縮していた。これではさらに漫画かドラマみたいではないか? 車のなかで、彼女はぼくの家の敷地内のことについて尋ねる。
「そうなのね、きっと君の家って、四方を谷にかこまれているし、あの幼虫が蝶になって限られたエリアにとどまっているのかもしれないわ」
「……」
 土曜日ということで、渋滞があり、市電よりはかなり時間がかかって、ぼくの家についた。彼女は驚いたように、
「やだ、うちからそんなに遠くないところだわ」
 と言った。やだ、といいながらも、うれしそうだったので意外だった。周りを背の高い防風林でかこまれたぼくの家は、こう見ると、ひとつの城のようでもあった。
 蝶はこの高さを乗り越えられないのかもしれない。
 車から降りた彼女はぼくがさししめす木を、目を皿にして見ていた。しかし、幼虫はまったく、これでもかというほど、一匹もいなかった。
 さなぎになってしまったのか、成虫になり飛んでいったのか、あんなにうじゃうじゃいたのに、ぼくはまるで自分のいったことが大嘘だと、思われるようで、必死で弁解した。
「変だなあ、あんなにわんさかいたのに」
「……」
 彼女は怒ったのだろうか? ひとりで、あちこち見ながら写真をとったり、上を見上げたりしている。
 ぼくは自分の人生が突然に終わったと感じた。あのリッチ紳士に幼虫をあげなければよかった。そうだ、あのときに返してもらえば……
 やにわに彼女が電話をする。ハローとかいっているので国際電話なのか、やがて「はい、そうします」といっているのが聞こえる、
「ねえ、さなぎないかしら?」
「さなぎですね、お嬢様。」ぼくは、条件反射で、浄水器のセールスの口調になってしまった。
「さなぎさえあれば、飼育箱で保存しながら、羽化がみられるでしょう。叔父はこれからすぐコスタリカを発って、戻るというの。さなぎがひとつでもあればいいんだけど」
「ひとつ、人より力もち……」などと、ぼくは相当混乱していた。
 さなぎ様! どこにいらっしゃいますか!
 ここでさなぎがなければ、ぼくの人生はおしまいである。おしまい、彼女は怒って帰り、ぼくはまたひとりで釣り。魚のくいつきのいい幼虫くんもいないし!
「あ!」ぼくは叫んだ。
「さなぎ、あります。さなぎあるんです。このまえのリッチ紳士の家に」
「……リッチ紳士?」
「そう、あの、ここから自転車で少しいったところの高級住宅地に、
お金のある人の家に、あるんです」
 そうだった。なんてぼくはラッキーなんだ。
 だが、自転車! あのカルチャーセンターにおいてきてしまった。自転車がないのだ。なんて不幸なんだ。天国と地獄だ。
 泣く泣く、そのおおまかな場所と苗字をしどろもどろにいうと、彼女はおなかをかかえて笑いだした、
「そこ、私の家よ! そのリッチ紳士って父のことなのね! なんて不思議! 偶然ってあるのね」
 というと、ぼくが口を開く前に車に飛び乗り、あっという間に出て行った。土煙だけもうもうと上がる。

 行ってしまった。まあ、しかたない。これで終わりか。
 ぼくはため息をついた。なんてことない。振り出しにもどっちゃった。この家に一人の生活に。気が向けば、海に向かい……魚をとり、それを料理して、食べて、生きる、もう、釣りに幼虫は使えないけど。
 そうだ、いままでがわらしべ長者みたいだったけど、最後は違う、どんでん返し、貧乏と孤独になっておしまい、だ。ぼくはどれくらいそこに立ちん坊していたのだろう?
 気がつくと日が傾いてきた。すると、ひらひらと緑色の蝶がどこからともなく飛び始めた。蝶だ! これが……あの蝶か?
 まるで、一日の終わりを祝福するように飛んでいる。よくみると、羽の裏側は黄金に輝いている。また、見る方向によっては玉虫色にも輝く。
 きれいだな、ぼくは思わずみとれてしまう。こんなに美しい蝶がいることを、なんで母は教えてくれなかったのだろう。
 この年まで、なんで気がつかなかったのか。
 教えると、秘密は漏れる。でも今回は漏れてしまった。
 ぼくは急に空腹を覚えた。そうだ、乾杯をしよう。ちょうどマリネがあるし、あの紳士の家のお手伝いさんがくれたワインもあるし、
 自棄酒だ! ぼくが家の勝手口に向かうと、車が門に至る坂を登ってくる音がした。まさか?
 彼女だった。
「持ってきたわよ、ほら」
 とプラスチックの飼育箱をトランクからだす。例のさなぎ様たちだ。
「それから、これも」とフランスパンを出した。
 フランスパンの香ばしい香りがぼくの歓喜に拍車をかける。
「キッチンから、くすねてきたの。これがやっとだったのよ、お手伝いの目は厳しいの」
 とパンをバキッと太ももで割った。太ももにも感謝だ。
「叔父はきっと喜ぶわよ」
 ぼくたちは、縁側の戸を開け放ち、座布団を敷いて、夜になると今度は蛍を見ながら、ワインとマリネで食事をした。そしてフランスパンもたっぷり食べた。ぼくは庭にあったルッコラを摘んでサラダをこさえた。
「蝶に乾杯!」
 いままでの人生のなかで一番の食事だった。
 彼女の夢はこういうものだった。人がものをたべるのは、ただエネルギーの元を摂取するということだけではなくて、そこに一緒にいる人や、そのシーンや、それから気持ちとか、想いとか全部かかわりあっていること、自分はそういう記憶と味について研究していること、そして認知症などで、記憶を失っても、また懐かしい味に遭遇すれば、きっと失われたものが、復活するということを研究で明らかにしたいこと。
「きのうの今川焼きね、あれで、とても貴重なことを思いだしたの」
「貴重なこと?」
「そうなの。昔、幼稚園か小学に入学したてのころ、初めて神社の縁日にいったのよね。そこに、今川焼きが売っていた。そのときは、お手伝いのねえやにつれていってもらったのよね、母は病弱で、とてもそんな人ごみはだめだった。で、なにかお土産を買おうと、お祭りらしいなにかを、イカとかわたあめとか、でもねえやは不衛生だから、だめだって、店の前を素通りで。一番はずれの屋台が今川焼きだった。わたしは駄々をこねて、道に大の字に寝て、買わないと動かないと言い張り、やっと許してもらった」
「うん」
「でも、残りが一個だけしかなくて。おじさんが袋にいれてくれたのを大事に持って帰り、母にわたすと、半分にして『はんぶんこね』って、わたしにくれた。思わず胸に飛び込むと、母がにっこりとして」
 あの味が、その記憶が、昨日の施設のあのときでよみがえったのだ、という彼女を、涙をうっすら浮かべる彼女をぼくは本当にいとおしいと思った。

 そして、彼女の叔父さんがぼくの家にやってきた。飼育箱のさなぎの羽化も撮影できたし、叔父さんは
「これはすごい発見だ」
 と、小躍りして興奮しまくっていた。ぼくの家は叔父さんや助手やたくさんの人が出入りするようになり、ぼくは食費をもらって、彼らの食事を作り、雑用、時には手伝いもした。
 さらに、叔父さんはここをシーズン中は自然のままの展示場にしたいといいだした。蝶の季節は一時的だし、ぼくは母と相談して、一番よい方法かと、了承した。
 屋敷と蝶の維持管理のことが、母のストレスだったのだ。
 蝶の季節になると母は施設にロングステイにいき、ぼくは彼女のお父さんであるリッチ紳士のクルーザーに寝泊りをしたりすることもあった。
 ぼくはあいかわらず定職につかず、クルーザーで海釣りをたのしんだり、魚料理をしたり、気ままにくらしている。
 彼女は研究のために、記憶をよみがえらすヒントになる食べ物をぼくに作らせたりする。彼女は研究が三度の飯より好きらしい。
 ぼくはそんなアシストもまあ、そこそこ楽しく、蝶みたに、甘い水を求めて、ふらふらしているってことである。
 そうだな、あの幼虫が、ぼくの人生の分かれ道だったんだな。
「ねー与太郎、『しもつかれ』を作ってくれる?」
 彼女がちょっとだけ甘えた口調で聞いてくる。
 偶然の連続による、ささやかな幸せ、ここにもあった。

蝶々愚人

今川焼きは好物ですね。 釣りはしたことありません。渓流釣りでは、まれに幼虫も使用されるときいて、海でもオーケーかと考えました。蝶々のなまえは文中にでてきませんが、モデルはミドリシジミです。近所に生息地があり、マニア垂涎の場所です。軽く楽しめたら、幸いでございます。

蝶々愚人

ニートの「ぼく」は釣りの餌に、庭にいた幼虫を使用したことから、出会いがあります。魚から指輪がでてくるところは、アラビアンナイトにあったような雰囲気? 指輪は彼女へのプレゼントにはなりません。 そのかわりに今川焼きのエピソードと発展します。蝶々の美しさは彼女への憧憬となる?

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